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>>132809
ここに、我々が知ったことがいくつかある。
日本降伏の公式告示を受けた後の一九四五年(昭・二〇)九月二日、山下将軍とその部下達は、キアンガン地帯の要塞から出てきて、MPジャック・ケン・ウォルシィー大佐に率いられる米軍将校等に武器を渡し、マニラ郊外ニュービリバッド刑務所に入れられた。
マニラ市での岩淵幹二提督の船員と海軍による恐ろしい犯罪行為のため(山下が町を無傷のままにして離れる命令を出した後だ!)山下将軍は戦犯に問われた。
彼の裁判の間、戦時略奪の話はいっさいなかった。しかし、そこには隠された密約(agenda 協議事項、覚書)があった。
山下の弁護側弁護士に知られずに山下に肉体的な拷問をすることは不可能だったので、代わりに部下が拷問を受けた。
運転手小島香椎は特に過酷な拷問がなされた。山下が一九四四年(昭・十九)十月フィリピン防衛を引き継ぐため満州から到着して以来、小島はどこへでも一緒にでかけた。小島の拷問を担当したのはフィリピン系アメリカ人、セビリアーノ・ガルシア・ディアズ・サンタ・ロマーナ、情報局の役人で、名前も個性も多い男だ。
友人は彼を「サンティ」とよんだ。彼が小島に自白させたい事は、山下をどこへ乗せていったのか、延べ棒や財宝がどこに隠されているかだった。
サンティを指揮していたのは、のちにアメリカで氷の戦士として知られることになるエドワード・G・ランスデール長官だったとわかった。
ランスデールは三十七才のとりえのない男であり、当時は、サンフランシスコでOSSのためのプロパガンダを書いて過ごすただの広告代理店の作家だった。そこに、彼の人生においてとてつもないチャンスがめぐってきた。トルーマンがOSSの閉鎖を命じたのだ。
OSSのウィリアム・ドノバン長官は、アメリカの知的財産と個人的情報網を保護するため全職員を政府、もしくは軍の部署へ移動させた。ランスデール長官は、フィリピンの米軍G―2へ配転するチャンスを与えられた五十人の職員の一人だった。そこで彼はサンティが山下の運転手の拷問をすることを聞き、その尋問に同席し、観察者、参加者となった。
その年の十月、小島はついに屈服した。そしてランスデールとサンティーをマニラ北方山岳地帯の、簡単に開く事ができた二ヶ所を含む一ダース以上のゴールデンリリー地下貯蔵庫へ案内した。
内部にあったものには誰もが驚いた。サンティとその部隊が貯蔵庫の残りを開けている間にランスデールは東京へ行き、マッカーサー将軍に要点を伝えた。そして、それはトルーマンに知らせるためワシントンヘもたらされた。内閣での討議の後、トルーマンは回収を進める決定をした。ただしそれは国家機密として保ったままでだ。
金、プラチナ、樽に入った宝石などの財宝はヨーロッパで枢軸国の略奪品と一緒にされ、共産主義と戦うために世界中に広がる秘密政治活動資金として創設された。
この黒い金はトルーマン政権に隠れた作戦用に、事実上無制限、かつ領収証なしで基金を扱う権利を与えた。これは又、ワシントンによって連合国の国庫をうるおし、政治家の汚職のため、また外国の選挙を操作するために使う財産基盤の準備金となった。
一九四〇年代、ソビエト連邦が世界中の過激な共産主義者と社会主義者の活動を支え、資本主義世界の生存が窮地におかれていたことがこの方針を正当化させていた。
読者はこの情報により、我々がそうであったようにびっくりするだろう。
何人かは、トルーマンの下した戦略の決定を深刻に悩むだろう、そして、他の人は熱く支持してくれるだろう。この本の狙いは、その決定を調査することでも、良いか悪いかを判断することでもない。それはその時点では賢明な決定だったのだろう。(長い目でみると悲惨な結果になったのだが。)
我々はただ小手調べの記事を書いただけで、政治的には中立でありたいと思っている。
この本の唯一の目的は、秘密のヴェールをあばき、調査を進展させ、多くの、そして悩ましいしい、予期せぬ成り行きを調べることだ。
それは、トルーマン一人の決定だったわけではない。世界的な政治活動資金の基礎を、戦時略奪品でまかなうということは、実際のところルーズベルト政権の戦争大臣、ヘンリー・M・スティムソンが創設したものだ。戦争中にスティムソンは、枢軸国の略奪品と、戦後の枢軸国がどの様に扱われるべきかを詳しく考える顧問団を持っていた。
形勢が枢軸国に不利になってきて、財宝を手に入れるのは時間の問題だった。
この戦争のご褒美はナチスにより侵略された国々と、民間の犠牲者からの金の略奪だった。もともとの所有者の痕跡を消すため、ナチスはそれらを溶かし金塊に鋳造したのち、鉤十字とドイツ銀行の黒鷲の刻印を押した。
金の足跡がたどれないのには別の理由もある。
もとの所有者は死んでしまい、前の政府は消滅しているのだ。東欧はソ連の支配に屈してしまい、略奪された金の返還は不可能だった。特筆すべきスティムソンの補佐役は、補佐官ジョン・J・マッコイ、ロバート・ロベット、そして相談役としてロバート・B・アンダーソンらで、すべて役所や銀行で傑出した抜け目のない男たちだ。
マッコイは、後に世界銀行のトップに、ロバートは国防長官、アンダーソンは財務長官になった。彼らの解決法は非公式なBlack Eagle Trust (黒い鷲基金)を設立することだった。
この考え方をアメリカの同盟国が、秘密裏に議論したのは一九四四年(昭・十九)七月が最初で、四十四ヶ国がニューハンプシャーのブレトンウッズに集まり、戦後の世界経済の計画を練った。
(これは一九四五年のサンティの回収を知っているマニラを拠点としていたCIA職員や前のCIA副長官レイ・クレインを含む多くの高い地位の情報により我々が手に入れた文書の中で確かめられた。クレインは、最近になっても、シテイバンクの地下金庫にまだある日本の戦時略奪金塊を支配しようと関わり続けている。)
トルーマン大統領とワシントンのマッコイ、ロバート、スティムソンへの説明を終えると、ランスデール長官は、一九四五年(昭・二〇)十一月、ロバートB・アンダーソンと共に東京へもどった。そこでマッカーサーはアンダーソン、ランスデールに同行し、極秘にマニラへ飛び、すでにサンティが開放した地下貯蔵庫めぐりへと出発した。聞くところによるとその中で二mの高さにまで金の延べ棒が積まれているところを散策したらしい。
彼らが見たものから、日本が全アジアから数十億ドルの略奪を長年にわたって行ってきたことは明白である。
アンダーソンとマッカーサーが見たのは日本には届かなかった金だけだ。戦争のために破産していたなんてとんでもない。日本はとても豊かだった。
レイ・クラインや他の者によると一九四五年から四七年の間に、金の延べ棒はサンティとランスデールによって四二カ国の銀行の百七十六口座へ慎重に運びだされたらしい。
秘密にしておくことが重要だった。もしも盗まれた莫大な金塊の回収が公になれば、何千もの人々が、多くはうそだろうが、文句を言いに来るだろうし、政府は所有権を解明しようとして身動きがとれなくなるだろう。
トルーマンは又、そんな大量の闇金があると知れると一オンス三十五ドルの固定相場が崩壊すると聞かされた。あまりにも多くの国が、金や米国ドルとリンクしているので、金融災害のせいで世界中の貨幣価値は急落するだろう。この議論は「黒い鷲作戦」によって利益を得る立場の人間が過大に表現していたかもしれない。しかし、誰もどうなるかという確信はなかった。もし、金の秘密が保たれれば、価格は一オンス三十五ドルが維持でき、ドルは強いままで、金ペッグ制の通貨は安定するだろう。
その間に、闇の金が準備資産として配給されれば、連合国の優良銀行を支え、各国政府も強固になるだろう。用心のため、各銀行の金塊置き場は注意深く管理された。金として使用することは厳しい制限下に置かれた。(イヤーマーキングとよばれた)これで、ワシントンは事あるごとに、各政府や中央銀行そして優良銀行に圧力をかけられるようになった。
あまりにも長く国と指導者を協力させ、冷戦の中アメリカと同盟させた状態に放置していたため、眠っている金の延べ棒は、不正政治資金として利益供与の目的で使えるようになった。
公文書は一九四五年から四七年の間にとても大量の金とプラチナが世界最大級の銀行、即ち黒い鷲基金のでかい集積場となるユニオンバンク・スイスや他のスイス銀行に預けられたことを表わしている。
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>>132810
スイスは戦争中に中立を保ち、略奪もされず損害もなく、資産も減らさなかったため、重要な役割を演じていた。スイス銀行職員幹部によって書かれた文章は、この財産を基にとても大きな融資が、戦争復興のどさくさで英政府、エジプト、中華民国、又他の国々へ実行されたと明らかにした。
長い時間が経つうちに国家機密の保護が、不快な乱用する立場をつくりだしてしまった。国家の機密を保護するものは、政府の役人や協力者の個人的分野まで保護してしまう。あとの章でこれらの地下資金が莫大な賄賂として表面化したとか、イタリア、ギリシャ、日本そしてそこらじゅうで、選挙の買収に使われたたくさんの書類例をおみせする。
もうかる信託財産が、世界中の影響力のある人々のために準備された。
ゴールド証書が勧誘のために与えられた。賢い人の手の中にあれば可能性は無限である。数十年の期間が過ぎ、いくつかの世界的大手銀行は地下貯蔵庫の黒い金で遊ぶことに病みつきになった。さて、金を保持するためなら、彼らは何であろうとするであろう。たとえ口座の持ち主あるいは自分の後継者から搾取することになろうともだ。
スイス銀行のホロコーストで得た金に、それがおこった。ゴールデンリリーを地下貯蔵庫から回収し、ブラックイーグル基金を準備したのを思い返しても、それはどちらでも良いことだ。愛国的な理由であったし高潔なものだ。
しかし、冷戦中にあまりにも多くの闇金が情報操作に使われたことは、そんなにどちらでもよいことではない。そして国家機密を再検討することは無理になってしまった。
その基金で儲けているやつを別としても、その不正資金を誰が指揮したのだろう。他にも乱用はたくさんあった。財宝の存在を隠し、かつアメリカの一九四〇年代にアジア中から共産主義の流れに対抗する確固たる地位を保つため、ワシントンは外交上で大きなうそをついた。
特に日本がほとんどの金を盗んだことに関しては、うそをついた。
日本の支配者エリート達は共産主義者に非常におびえていた。
伝統的な筋金入りの保守派であったアメリカは、日本にアジアでの反共産主義の砦になってほしかった。だから、東京に隠匿された財産は決して知られてはならなかった。東京のほとんどの熱狂的反共産主義者は、戦犯で起訴されつつあった。そこでアメリカは民主的な改革と新しい憲法を導入しつつ、まったく民主的でない男達の支配下に、日本を逆行させ莫大な闇金を注入して彼らの権力をささえた。
一九四五年、戦争が終わり、ワシントン政府は、日本は決して略奪行為をしなかった、国は荒地となり、国庫は破産していると主張しはじめた。そこに多くの大きなうその出発点がありそれが恐怖の機密になったのだ。
ゴールデンリリーで集められた財宝とワシントンが回収したものが秘密にされなければならなかったので、日本とアメリカの国民はずいぶんだまされることになった。一九五一年(昭・二六)そのうそでねじまげられた平和条約が決まり、それによって数千人の捕虜と強制労働を強いられた市民はその被害に対し何の補償も受け取れなくなった。
戦争補償の要求から日本を守るため、ジョン・フォスター・ダレスは三人の日本人と条約の交渉のためにひそかに会っている。その中のひとりが宮沢喜一で、後に首相になり大蔵大臣を何回も勤めている。
条約の第十四項によると、「戦時中に負傷したり被害を被った連合列強に対して補償金を払うべきだということは認識される。しかしながら現状の日本にはその原資が不足していることもまた同様に認められる。」、第十四項の声明は、日本は破産したと主張し補足している。「連合国列強と各国家は日本の行動で発生したすべての賠償請求を放棄する。」という条約に署名したことで連合各国は日本の略奪をどこかに消し、日本人の餌食となった人は幸運を失うことに合意した。
条約を支持する見返りとして、疲弊した連合国の中央銀行を元気にするために、ワシントンがサンタ・ロマーナによって回収された闇金を秘密に船で送った証拠を提供しよう。
黒い鷲信託は政治活動資金であったから、いくらかは悪い手のものに落ちたものもあるが、聖書の精神とはかけ離れながら、次々と広がり、かつてない大きさで残ったままだ。
信頼できるアメリカ、日本の情報筋によると、一九六〇年に邪悪なニクソン大統領は大統領選へのキックバックを約束する見返りに、日本の自民党の指導者へ、最大級の基金のひとつM資金を供与した。これはこれ自体非常に気がかりなことだ。しかし、三百五十億ドルとか今では五百億ドルをこえるといわれるM資金は、それ以来自民党の実力者に支配され選挙の買収や一党独裁を保つため、色々な重要な改革を阻止するために使われた。
他にも秘密資金を使った同類の悪用は、世界中で見出された。秘密を守ることが力となり、権力は堕落する。秘密の権力が、秘密のうちに堕落する。日本専門のシャルマース・ジョンソンはうまいことを言う。
「冷戦は終わった。合衆国は冷戦を続ける必要性を信じていたんだろうが、冷戦自体をもはやそのための費用と思いもよらない結果についての無知を正当化するために使われることはできなかった。今の課題は日本が社会主義か中道主義に転換するかどうかではなく、アメリカに頼りきって堕落し、長い間、驚くほど弱体だった日本政府が、どうやって進化するのかなのだ。」
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この財宝はどこからきたのだろうか?今まで日本のアジアでの略奪は、酔っ払った兵士によって犯された偶発的な盗みと暴力のいくつかであろうと無視されてきたが、これは意図的な偽情報だ。戦線が拡大してゆく時の略奪は目新しいことではない。
一八六〇年、英仏軍は麻薬を得るため中国北方への懲戒的な遠征の途中、北京郊外の大きな夏宮殿を、荒々しく襲い略奪した。持ち出せないものは何でも粉々に壊し、燃やし、そしてひとつの宮殿と宝物殿を除いて放火して終わった。彼らが金をみつけられなかったと信じたのは本当だ。教養のない兵士達は、そのほとんどを棄てるか酒と交換した。(混合部隊の司令官はエルギン候だった。彼の父はパルテノンからアテネへ彫刻を移動させている。)。一九〇〇年、ヨーロッパ軍は北京市内へ再び行軍し、この時が「ボクサー包囲」とよばれる戦いの幕開けで、紫禁城の中を酔っ払いながら暴力的に略奪し、財宝を粉々にしてしまった。
一八九五年から一九四五年の間に何が日本軍の質を変えてしまったのだろう。これは酔っ払いの略奪や破壊行為ではない。==日本人は真面目で節度があり、落ち着いており、普通のこそ泥や歩兵達なら無視してしまうような価値の文献や手紙などですら盗まれないよう格別な注意をはらっていた。彼らはアジアの地下組織・・・三合会、宗派、暴力団からの略奪に特に注意をはらった。日本は麻薬を持参して中国へ押しかけ、金と交換にアヘンをならず者に与え各隠匿場へ財宝を運んだ。金持ちや大物、軍閥の親分、銀行家、実業家をゆすり個人財産を略奪するため暴力が使われた。日本に持ち帰った価値あるものの中には美術品や歴史的工芸品があった。
今日までに盗んだものから、国や個人へはほんの少し、また国家遺産もほんの一片ほどしか返されていないことが記録に残っている。
金の仏像などのいくつかの大きな工芸品はフィリピンの地下にある隠し場所で最近発見された。しかし美術品や工芸品のほとんどは日本の個人地下金庫や東京の皇室コレクションの中にまだあるはずだ。
どのようにして、日本は持ち続けることが許されたのか。公式には戦争は一部の軍事狂信者のせいで始まり、犠牲者がひどい目にあったため戦時中のエリート即ち皇族、財閥、やくざ、そして良識ある官僚たちが終結させたと聞かされた。
天皇裕仁を含む多くの日本のエリート達は戦争を始めたときよりも、はるかに金持ちになって戦争を終わらせた。そして占領される直前とそのあとで何人かは週十億ドルの財産を作った。我々は、終戦時にはひどく荒廃し食べるのがやっとだと聞かされた。実際には、驚くべきことに、ほとんどの工場や住宅は壊されたりひどく破壊されたということはなく、工業基盤はほとんど破壊をまぬがれた。広く宣伝された、ほとんどの被害はウサギ小屋に住む何百万人の一般市民であり、君主にとってはそれらの被害はものの数ではなかった。
日本を共産主義の防波堤にしあげる緊急事態のためワシントンは、皇族、銀行団のアジア十二カ国に対する破壊と貧困に対するあらゆる責任を免除した。
ほんの一握りの戦争指導者が、人身御供として処刑された。そのうちの幾人かは指導者で残る人のために責任をとらされ、強要され、でっちあげられた。
戦後の占領が終わったとき、日本の戦犯のすべてが解放された。一九三〇年代から四〇年代の間アジア全域に広がる世界有数の麻薬密売グループを率いたやくざや大親分も含まれていた。ワシントンは日本政府を、戦争を始めた同じ男達の手の中へ返すよう取り計らったのだった。
これは戦後のベルリンで、ナチス党を復帰させるようなものだ。日本ではほとんどそれに対する抵抗はなかった。それはアメリカにおけるマッカーシーの厳格な赤狩りよりももっときびしい弾圧で反対者を黙らせたからだ。
我々が証明する通り、復活した日本極右組織には、戦争略奪品や財閥が戦争中にアジアで搾り取った利益で資金が融通された。
アメリカの占領が始まって以来、マッカーサー、トルーマン、ジョン・フォスター・ダラス、そしてその手の者たちは、略奪品の全ての存在と、そして日本エリートたちが並外れて裕福なままだったことを知っていたという事実は、隠しようがない。
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>>132811
一九五〇年にマッカーサー本部が作成し、発表された占領に関しての公式報告書がある。そこには驚くべき事実(告白、自白、了承事項)があった。
「占領業務の中の注目すべき仕事のひとつは、集められた財産の取り扱いで、莫大な金、銀、宝石、切手、彫刻、日本では流通していない貨幣などの貯蔵品を管理下におくことだ。この膨大な財産は日本の将校によって集められ、アメリカ軍貯蔵庫に収納されたにもかかわらず、金額または量についての申告は知られないまま闇の中へ消えた。」
たとえば、後日回収されたが、東京湾に沈められていた二十億ドルの金の延べ棒のことをマッカーサーの部下達は知っていた。
その他に、一九四六年、アメリカ諜報員が発見した膨大な財産は、戦時略奪品百三十億ドルだった。これは中国や東南アジアでゴールデン・リリー業務をする日本海軍の本当の司令官として児玉誉士夫がアジア地下組織や暴力団から略奪し集めたものだ。
彼は又、アジアにおける麻薬貿易を託されていた。戦争が終わり戦犯の訴追を受けないまま巣鴨からでてきた児玉は一億ドルをCIAに提供した。これはM資金の元手に加えられた。それから児玉は今でもワシントンが強力に支持している自民党が二つの政党を合併し創設されたときの資金を融通していた。
サンティーの行った日本略奪物資の回収の強力な証拠はアメリカの公正な法廷活動によって出てきた。彼の遺言を確認する時に行われたニューヨーク州のアルバニィーにある税金記録の確認と、アメリカ、スイス、香港その他に預金されている財産の確実な証拠などの単純なもので、世界中にゴールデンリリーが生み出した不法な口座がいっぱいある事を明確に証明した。サンタロマーナが一九七四年死亡した時、私達が知っているようにいくつかの黒い金口座の名義が、三十年昔の一九四五年、サンティーと一緒に小島少佐の拷問に加わったエドワード・G・ランスディール少将の名前に書き換えられた。
ランスディールがCIAを引退して十年以上過ぎていた一九七四年までで、ランスディールや他の前任スパイ、そしてアメリカ軍人の新しい情報網と情報機関の役割を認識することでしか答えられない複雑な疑問が発生していた。
この好奇心をそそる物語につながっている他の有名な名前がある。
長い間シティバンクのCEOだったジョン・リードが、サンタ・ロマーナの黒い金の移動の中で鍵を握る人間として、この訴訟の何人かの中に名前があがっていた。
訴訟の被告団の中にはサンフランシスコの弁護士ソルビン・ベリィがいる。ザ・ラスベガス・サンの編集者が書いている中で、ベリーは言っている。「私は世界中のいくつかのとても重要な銀行にサンタロマーナの預金が預けられていると確信している。」
ベリーの公判で読まれた部分に、「被告人ジョン・リードは、シティバンクの会長であり、最高執行役員である。被告は、サンタ・ロマーナ名義の金の延べ棒を換金する作業の陣頭に立っていた・・・・略・・・リードとシティバンクは組織的に、金の延べ棒をバイヤーに売却し、また売り続けている。その売り上げを自分自身のために転用している。」、
他の訴訟ではゴールデンリリーの戦時略奪品が、確かにフィリピンに隠されていることが証明された。
フィリピンの錠前師ロゼリオ・ロクサスは、山下将軍の司令部として使われていたバグイア保養地の病院があった裏の山中に隠されていた一トンもある純金の仏像と数千の金の小さな棒を発見した。
ロクサスがそれらを発見したと聞いたマルコスは暴力団を送り、仏像を押収しようとした。
ロクサスは逮捕され、抵抗すると拷問受け、その後、毒殺された。
一九九六年ハワイ州裁判所は、ロクサスの遺族に対し、マルコス家が四百三十億ドル支払う判決を下した。歴史上で、民間人に対しての最高の金額だ。
一九六八年マラカニアン宮殿で発見された文書には、マルコス大統領が軍将校団を日本に派遣し共同発掘しないかともちかけたことを明らかにしている。
団員のメンバーによると、彼らは『裕仁の従兄弟であり、高位の将校である皇子』と会い、その皇子の話では日本軍はフィリピンに一千億ドルの財宝を隠し、全部を発掘するには百年以上はかかるだろうとのことだった。
関連する法廷闘争としては前の副司法長官ノールバート・スクレイに関してであろう。彼は米国財務省からの日本の秘密のM資金に関するあまりにも多くの質問に苦しめられた後、自分を守るため戦わねばならなかった。
スクレイは、非難された後、起訴されて破産した。M資金に基づいた金融証券を換金しようとして事業が破滅した一方、目撃者によると前国務長官アレクサンダー・ヘイグは大統領ジョージ・HW・ブッシュの親書を携えて日本に行き同様の証書で換金に成功した。
なぜ片方が破滅したのにもう一方は成功したのかはワシントンと東京の間の恐ろしい金融上の陰謀物語なのである。
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e9ccba No.132813
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>>132812
我々はゴールデン・リリーで引用されている莫大なドル価値には深い疑いをもってきた。公式には延べ棒や貨幣そして宝飾品を含め世界中で生産された金はたったの十三万トンしかないといわれている。
公式な記録では世界の人口の七五パーセント以上を占めるアジアが、世界の金の供給量のたった五%しか握っていないという、ちょっと見ただけでもばかげた統計を主張している。しかし、少なくとも西洋では重力の法則のように金の法則が我々にたたきこまれていた。
実際、誰もどれだけの金があるのか知らない。スペインが新世界からどのぐらい略奪したのかもわからない。なぜなら、一旦はヨーロッパに届いたとしても、殆どメキシコとペルーを征服するための融資をしていたヨーロッパの大銀行家、フッガー家(十五、六世紀の大富豪)とウェルザー家に回してしまったからだ。フッガー家とウェルザー家がその金で行ったことは何であろうと極端な秘密を守ってきた。我々はクルップ家、ロスチャイルド家、オッペンハイマー家、ウールバーグ家、ロックフェラー家のような富豪の実際の財産を知るすべはない。ただし彼らがとても昔から富裕であったことと、その財産が巧妙に分離されていること以外はだが・・・・。何兆ドルと言う量になるであろうが、経済評論家は我々に語ってくれた。
「現在二十三兆ドルが金持ちの持ち物だが、ほとんどがオフシェアーの秘密個人口座に眠っており、その国の法律は、彼らの資産を税務署、配偶者、そして顧客からの開示を拒めるようになっている。」
我々はアジア大陸や中近東の王族、貿易商、地下組織の金の保持者についてすら、ほとんど知らない。ヨーロッパの実力者は自分用の銀行や石油会社を所有し、政府への支配力をもっているだろうが、アジアの富裕層は政府や銀行を決して信じない。
財産は小さな金の棒か、プラチナまたは宝石として保持している。
中国では数千年前も昔から、国や銀行を全く信用していない。欧米の銀行業がご存知のとおり金市場を三世紀前にようやく存在させるようになって以来、アメリカとヨーロッパに預金されてきたよりはるかに多くがアジアで二千年にもわたって絨毯の下に隠されてきたことは間違いない。
アメリカ政府は手持ちの金の量も公表を拒んでいる、最後に会計検査院が監査し公表したのは千九百五十年代である。
それには良い理由があるのだ。
この本の要点は、どれだけ盗まれ、隠され、秘密に回収され、そしてどのぐらいが発見されずにまだ残っているかを解き明かすことではない。
ごまかしもあるだろう。本当の内訳なんてわかるはずもない。
この本の注釈と、我々の記録用のCDの中には九〇〇Mバイトの書類、写真、地図、そして画像が入っているが、それらで我々は、シティバンク、チェイス、香港、上海BK、ユニオンバンク・スイス等の保管庫の中には今日でも莫大な略奪した金が残っている強固な証拠をあきらかにした。
我々は手紙、送り状、連絡メモ、州政府の税記録、保険条件、そして黒い鷲基金を運んだブローカーとのインタビュー等を提供している。
マッカーサー元帥と、彼の昔の相談相手であった裕仁とが共謀し、いかなる方法で日本の三和銀行が秘密信託を立ち上げたのかを立証しよう(三和銀行は十三章)。
裕仁が統治した時代にちなんで昭和信託で知られるその勘定は、一九八二年まで、年間十億ドル近くが支払われるほどの大きさであった。我々はその昭和信託の三件の受託者を確認した。そしてマルコス大統領がどのようにしてこの勘定の存在を発見したのか、またそれを使ってどのようにして日本政府を恐喝したのかをはっきりとさせよう。
マルコスらが戦後の一大発掘作戦を、秘密裏に陸や海で行った証拠書類や写真も付け加えよう。
サンタ・ロマーナとランスディールが、一九四五年~四七年に回収したものは財宝のほんの一滴にすぎない。他の人間が重大な回収作業を始める以前に、単独もしくは集団の日本人がフィリピンにもどり、財宝の一部の返還要求をして十年が過ぎた。我々はアメリカの採鉱の専門家で冶金学者、ロバート・カーティスによって約六万点の記録書類と二十五年かかって作成、編集された録音または映像テープを独占的に閲覧させてもらった。
実際、彼はマルコスに渡すために、テレサ二号構から八十億ドルの金の延べ棒を回収していた。彼は危うくマルコスに暗殺されそうになり、フィリピンから逃げ出し、その後は財宝の歴史的に重要な証拠つくりに夢中になっていった。
マルコスに対しての五つの巨大なゴールデン・リリー発掘作業の過程の中で、カーティスはゴールデン・リリーで雇われていた技術者によってまたとない技法の解説を手に入れ、マニラ周辺にある多くの基地を知ることができた。
カーティスがマルコスと働いた数ヶ月間に彼は百七十五箇所の元々の財宝地図、百七十二枚を写真にとった。我々のこのCDにいくつかの地図はのせておいた。日本へ無事に財宝を運ぶため、オランダの客船を病院船に偽装し、ゴールデン・リリーに使用しているのが目撃されている。この船に関わる回収作業、日本の「ttenNoort」作戦も話をしよう(第十四章に詳しくある)。
その船は一九四五年、日本に帰ってきた後、数千トンの金やプラチナをのせたまま舞鶴の海軍基地付近で日本の海軍将校によって沈められた。回収された日本の船の名前も、回収にあたったオーストラリアの船と潜水艦の名前も、参加者によって撮影された写真ではっきりと見てもらえるようCDにのせておいた。
これらと、手紙そして図を含めてアメリカ政府高官や国防省の役人がいかにゴールデン・リリーの財宝を使いジョンバーチ協会、ムーニィー、そして極右のならず者と手を組み、その財宝を支配する新しい組織、FBIや産軍複合組織を作り上げることを望んだのかを見せよう。
これらのことは香港で一九八七年に行われた退役軍人、海軍大将ジョン・シングローブとレーガン政権下の国家安全保障理事会、ロバート・ショウワート将軍らの会合の録音テープが立証する。我々は読者に日本が金の延べ棒を隠すため、一九四二年に掘ったものと勘違いをし、マニラの近くの台所を四百フィートの深さの穴を掘ったことが普通の感覚からしてどうであったかを紹介しよう。
三百フィート以上掘るとそこは海面より下になる。将軍と理事長は回収に海軍の深海潜水夫と減圧装置を投入せねばならなかった。
数ヶ月も苦労を重ね、百万ドル以上つぎ込み、手ぶらのまま断念したのだった。
我々が同様のくだらない失敗で物語るのは、何故批判を直視し、すべてを開示することが差し迫って必要かを明らかにしたことだ。国家の安全とは官僚を守ることや汚職を隠すことではなく、おろかさを隠すことでもないはずだ。
六十年近く費やしてスイス銀行に隠されていた財産が回収され、ホロコーストの被災者へ与えられた。そしてワーゲンのような独企業で強制労働した者への補償を勝ち取り、家や会社から盗まれた工芸品は元の所有者へもどされた。日本占領の五十年記念に加え、これらの成功で他の被災者は正当な補償要求を主張するようはげまされた。被災者の間に空前の活動をもたらせた。太平洋戦争、最後の戦いはカリフォrニアの裁判所で行われた。そこで生き残った捕虜、強制労働者、慰安婦そして被災市民らが戦後不思議にも拒否された補償を勝ち取るための十億ドルの訴訟が行われた。
一九九五年、七十万人の大戦の被害者は、いまだに何の補償も受け取っていないことが推定された。その数は年齢と病気のせいで急速に減少している。
彼らの支えは、並々ならぬ活動家同士の提携と弁護団である。英政府は、彼らを黙らせるため、以前の被災者への支払いを停止することで、法的な流れを変えようとした。
ワシントンは、カリフォルニア裁判所から、連邦裁判へ移動させるというアプローチをとった。そこで彼らは、政治圧力に妨げられ、政府の代理人からの干渉で妨害された。
国務省と司法省は、一九五一年(昭・二六)の第十四項の平和条約を使い、戦争補償を他の被災者が、日本の三菱や住友のような富裕な企業に対し、大きな損害賠償を起すことを防いでいた。二〇〇〇年六月、米上院でユタ州のオリン・ハッチは国務、司法の弁護人に対して、一九五一年の平和条約が、すべての被災者の権利を剥奪したという主張が正当であると結論づけた。
「我々の連邦政府のくそたっれめ、バターン死の行軍や、虐待された人々の権利すべてを棄ててしまえというのか。条約の中にそのようにあるからって、個人の権利を政府が棄ててしまうなんてできるとおもっているのか?我々は日本政府に払ってくれと求めてるのではないんだ。日本では、今やいくつかの会社が数十億ドルの企業になっているというじゃないか。その企業に払えよといってるんだ。」
熱心な訴えにもかかわらず、二〇〇〇年九月二十一日、米地方裁判所判事バウン・ウィーカーは、アメリカ戦時捕虜とほかの捕虜労働者に対して裁定を下した。彼は却下した。
判決で、終戦以来の日米間に存在する外交条約をひっくり返すようなことは危険であるとのべた。前日本大使の三人は、ワシントンポストに手記を公表し、そんなアメリカ人からはみ出したような捕虜や弁護士はテロリストもどきである、という恐るべき意見をのべた。
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>>132813
本当に問題なのは利益のとりあいだった。
クリントン政権の間、米国の日本大使であったトーマス・フォーリィは、「平和条約は、日本に対するすべての主張を放棄するものだった。」と主張し、捕虜やほかの就労者に対する賠償をはずすことについて強固であった。
使節の長官クリストファー・J・ラフルアーは、事あるごとにそれを反復した。
フォーリィの妻は戦時中の捕虜労働に深く関わり、訴訟のまとである最大財閥企業のひとつ住友のコンサルタントになっている。彼女がもらっているたっぷりとした報酬は、被災者の補償に当てられるべきだ。フォーリィは、外交官としての役目を終えアメリカへ帰国した瞬間に、大複合企業体の顧問兼ロビー活動の契約をした。三菱・戦時捕虜労働者の最大使用者のひとつだ。
そして、おそらくとても重要なのは、ラフルアーは前首相であり、大蔵大臣経験者でもある宮沢喜一の娘と結婚したことだ。宮沢とジョン・フォスターダラスとは、かって一九五一年の条約を秘密に協議した日本人三人の中の一人である。(宮沢はまた、ロージア教授らとともに海外でのM資金融資を行ったと考えられている。)
補償論争は東京との外交的な役割の中で障害になるようにはみえなかった。今日では日本とアメリカが財政的な共謀をした十分な証拠が、国会公聴会や会計検査院の調査でわかってきている。外交上の嘘、汚職、取り繕いの半世紀の後、国家機密の一端を暴くときで、それは狡猾な圧政の体制である。議会に対し、米国民に対し、民主主義そのものに対し、ワシントンは十分に誠実な採算をする責任を負う。
マニラからバタンガス地方を少し沿岸沿いに下ると、いつの日かゴールデンリリーの記念公園として冷笑されることになる劇的な財宝の隠し場所がある。
ここは最近いくらかの日本人が発掘の努力をしていたところだ。
南シナ海を見下ろして、あまりにも多くのトンネルと銃座が備えられたので、その岬は『ナバーワンの銃座』というニックネームがつけられた。(我々は正確な場所を特定して答えることはできない。)
この複雑な秘密活動は、長期にわたるフィリピンの侵略行動の一環として一九二〇年前半、日本人によって始まった。財宝でいっぱいになったのは一九四四年(昭・十九)だ。
金の延べ棒を運ぶトラックを知っていた日本人の一団によって、その中の三つのトンネルはあけられていた。彼らはトンネルの一番外側に達しただけでも十分に満足だったので、それ以上は進まなかったため、深い坑道を発見することはなかった。
いったい、この財宝はどこからきたのだろう?
それは朝鮮から始まった
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>>132814
黄金の兵士 第一章仮面の裏側
第一章 仮面の奥に
一八九五年十月七日夜半、三十人の日本人暗殺団がソウル皇帝の宮殿に侵入した。后の個室のドアを破り、二人の女官をぶった切り Min(ビン)女王を追い詰めた。
宮内大臣は彼女をかばおうとしたが、刀をもった男が彼の両手を切り落とした。
護衛のなくなった彼女は、何度も刺され、切られた。そして泣き叫ぶ彼女は、宮殿の積み上げられた焚き木の上に放り込まれ、石油をかけられ、火をつけられた。アメリカ人の軍事顧問ウィリアム・ディ将軍は女王が生きたまま燃やされる間にも刺客たちが宮殿内で刀を抜いて壊しまくったことを目撃した幾人かの外国人の一人である。
日本は、朝鮮人が日本人を装ってやったのだと言明した。――外交の席で嘲りながら体裁よくごまかした。東京にいた英国大臣、アーネスト・サトウは、在朝鮮公使、杉村一等書記官が刺客を導いたといっている。
女王ビンの暗殺が、日本が朝鮮支配を獲得する活動の転機であった。彼女の夫、高宗(李太王)は弱虫で、中国と同盟して日本に対抗する閔(ビン)財閥に支配されていた。女王が死んだことで日本は王を支配しやすくなり、中国の干渉をなくすことができた。襲撃の計画は、日本の喧嘩大好き人間、山県一派の工作員三浦五郎によってなされた。もともとは日本鉄道の朝鮮人兵士によって内部抗争にみせかけて殺すはずであった。しかし、失敗は許されなかった三浦は玄洋社へ助けを求めた。朝鮮にいる多くのメンバーは日本の大企業、たとえば古い財閥三井などの駐在員を装っていた。玄洋社とか黒竜会と呼ばれる裏社会は東京では認められない汚れた仕事の実行部隊で、アジア大陸における日本の準軍事行動として機能していた。彼らは朝鮮や中国で売春宿、麻薬販売所、高利貸しを経営し田舎者に金、女、酒、ポルノ、ペテンを供給しながら情報網を構築する立場にいた。玄洋社が朝鮮にかかりきりになっている間に黒竜会はロシアの侵入を防ぎ中国を奪い取ることに専念していた。玄洋社は三浦の望むプロの刺客を用意し他の殺し屋は日本領事館からの護衛だった。女王を外国人たちの面前で殺すつもりだったのかは又別の問題だった。
日本の陰謀はひそかに始まっており、制御がきかなくなった。物知りで、且つ思慮深い伊藤博文の様な多くの指導者は暗殺を拒否するだろうとわかっていた。しかし、十九世紀の明治維新の後、日本は深い矛盾を内側にかかえていた。ふたつの派閥が、君主の陰にかくれた権力と明治天皇をも超える権力を求めて冷酷に争っていた。伊藤と組んだ者たちは、ウィルヘルム皇帝を導いたビスマルクであるとかビクトリア女王に対するディスラエリーの役割を見習ってもっと世界主義的であるべきと考えた。山県元帥と同盟する者たちは権力を刺客と急襲、裏切りによって中世の日本へ逆戻りさせようとしていた。山県は伝統的な武士軍団を近代的徴兵制に置換えつつ又、スパイのネットワーク、憲兵隊、やくざ、そして超愛国組織を構築した。山県が日本で作ろうとしている警察国家にとってそれは鍵となる要素であった。地下組織の大部分は日本の支配構造にかかせない部分だ。皇族のメンバーや日本を支配している金融エリート達は頂点にいる暴力団と親密な付き合いをもっていた。山県の指示で朝鮮と台湾を日本軍が侵略したとき暴力団はその先鋭となった。その後、日本地下組織は一八九五年~一九四五年の五十年以上に渡ってアジアでの略奪に大きな役割を演じた。閔女王の暗殺は半世紀にわたる過激な日本の残虐行為と工業基地政策として植民政策の始まりをきざんだ。彼女の暗殺はいかに簡単に日本の良い概念の仮面をはがし残酷な現実を示したことをあらわした。他の日本戦略も又静かに始まり手からこぼれだしていた。例えば外国人がカメラで監視する面前で無力な市民三十万人を殺してしまったような南京虐殺の舞台に立つことを最初から意図していたとは思えない。たった一度だけの虐殺が起こったのならそれは醜い事故になったであろう。しかし電撃的な東南アジアの侵略の間に南京もどきのことが何回も起こった。(訳注、シーグレイプ氏は南京開城時に虐殺が行われた事を一貫して主張している。訳者として原書のまま訳すものの数において大きな誇張があることを指摘しておきたい。)
一九四二年(昭・十七)のシンガポール陥落までに海外渡航中国人に対する虐殺の許可が中国ばかりではなく東南アジアすべてで起こっていた(the Sook Ching 華人虐殺)あまりにもこれは頻繁におこったので単に軍事行動というよりも日本の侵略のためだったといえる。外国の領土を征服することに成功したのにどうして金や財産を持つ中国人らを日本人はいじめたのだろう?理由は軍隊の裏、闇の中にあるほとんどの歴史物語は地下組織の果たした役目に注意をはらっていない。学者たちは無法者のことをめったに調べない。伊丹十三がこっそりと風刺したように、日本では地下組織が権力構造に染み渡っていることを常に考えなければならない。朝鮮の征服は日本で初めての産業基地としての外国植民地の実験でありそして又地下組織自身のためにしたこともたくさんあった。
西洋人は朝鮮でいかに多くのものが盗まれたのかをほとんど知らない。今日では北と南の朝鮮は単に過去を区別した名残だけだ。歴史家のブルース・カミング氏はこう指摘する。「日本にとっての朝鮮の重要性は、朝鮮にとっての日本のそれとは比べ物にならないさ。」昔々、日本は韓半島からの略奪者によって侵略された。そのお返しとして侵略した。しかし、鎧を着けた軍ではなくて刀や矢を持った悪の集団によってだった。その侵略は近親憎悪のようなもので、北アイルランドのカソリックとプロテスタントの似たもの同士の側面をもっていた。簡単にその憎みを説明しどのように侵略を始めたのか明らかにしよう。我々が今知っている限り、確執が始まったのは二千年も昔のことで、朝鮮も日本も存在しないころだ。韓半島のいろいろな地域では気高い宗教、文芸、芸術的文化に支えられた高度な経済地域が発展していた。その磁器の優雅な絵柄、彫、金の細工については現在でも最高にすばらしいものといえる。高官たちは数千人の奴隷を所有し大きな敷地の御殿ですごしていた。彼らは商業とか戦争には関心がなく、天文、数学、書道を発展させ、従来誰もできなかった新しい貴族を創り出した。十六世紀までの朝鮮は世界で最も進んだ文明国のひとつだった。孤立した島国日本は朝鮮と中国からの移民国家だが、神道や巫女に支配されゆるやかな同盟でつながっていた。最終的に幕府による中央軍事独占政府に統一されるまで、千年もの間内乱状態であった。慢性的な陰謀は外国との関係において、ある歴史家がいうところの『日本的な狂気』を創り出した。日本人が互いに冷酷な扱いをしていたとしたら外国人に対してはどんな接し方をするだろう?朝鮮は日本人を『粗野なチビども』とさげすんだ。中国人は洗練されていたから、朝鮮は喜んで中国に朝貢した。お返しは朝鮮を日本から守ることだった。豊臣秀吉が日本を統一した後の十六世紀、彼は十五万八千人の兵士で朝鮮侵略を開始した。彼の計画は、朝鮮をつぶし、その文化を地球から消し去ることだ。ほとんどは成功した。(文禄・慶長の役 一五九二~九三) 数年間の残酷な占領の後、朝鮮は李舜臣(イーサンシン)提督の有名な亀甲船――世界初の鉄でできた軍船で六十五フィートの長さがあり先端には砲撃を満載していた――に救われた。李提督は日本の補給路を断ち、その船を破壊した。屈辱をうけた秀吉はその後まもなく死亡した。この侵略が失敗だったにもかかわらず侵略者たちは朝鮮の略奪で大もうけした。日本の軍隊には、朝鮮の鮮やかな写本を盗むために、僧や学者らが含まれていた。武士達は『李参平(リー・サンピョン)』のような有名な陶芸家を誘拐し日本で強制的に働かせた。韓国の学者は、「日本人は物資を欲しがるばかりか野獣のように人間的な倫理観が欠如している。」と言っている。数百年の後、再び日本は朝鮮に侵入し、僧と学者を含んだ日本軍はもう一度美しい工芸品を探索し、略奪した。朝鮮は立ち直れなかった。十九世紀、東アジアでは、最弱、最貧の国が侵略される機が熟していた。崩壊の端にいた満州は朝鮮を防御する体制ではなかった。明治維新に続き日本は急激な近代化への努力を重ね、西欧と軍事的に張り合えるアジアで唯一の国となった。陸軍、海軍が成長してくると日本は大陸への軍事的征圧行動を開始し、自国の植民地を求める地位についた。最初のねらいは朝鮮だった。政治家も軍部も、日本が朝鮮、満州、台湾を侵略しなければ、ロシア、英国、あるいはフランスが乗り出してくるだろうと話し合った。山県元帥と黒竜会および頭山満たちには、朝鮮を批判し、侵略のきっかけになる出来事が必要だった。
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>>132815
山県は頭山に、「突発事件を起しましょう。そしてその火を消すのは軍部の仕事にしましょう。」と話した。朝鮮で火をつけるのは簡単だった。黒竜会のテロリストは東学(トンハク)と呼ばれている田舎の宗教集団を襲った。東学は反撃しそのため何人かの日本人が死傷した。これを言い訳に、東京政府は朝鮮内の日本市民の護衛と称して軍隊を投入した。そこで中国は千五百名の兵士を英国船SSコーシングで派遣したのだが、日本の飛行機は船を妨害し全部を沈めてしまった。この急襲攻撃は、この先数十年何度も繰り返される日本のお家芸となった。頼りない清王朝はおろかにも日本に戦争を宣言した。一八九四年九月、朝鮮の鴨緑江において、たった一日で日本軍は中国軍の半分を壊滅させた。日本は満州の『不朽の要塞』を奪い全ての中国線を沈め、山東省の威海(ウェイハイ)の港を要塞化した。中国はさらに台湾の支配を日本に譲り、台湾は日本初の植民地となった。南満と旅順が日本に引き渡されるや否やフランス、ドイツ、ロシアは元に戻せと圧力をかけてきた。これこそが閔王女が日本の弱い者いじめに対抗した要点であり暗殺された原因である。舞台はいまや二十世紀空前の残酷ショーへうつっていく。満州を蹂躙しながら日本は満州内へ鉄道を建設している帝政ロシアと敵対しつつあることに気づいた。一九〇四年二月八日、ふたつの驚くべき攻撃を始めた。ひとつはウラジオストックのロシア海軍基地で、他の一つは朝鮮の仁川港の河口にいるロシア船に対してだ。反撃のため帝政ロシアは地球を半周してバルチック艦隊を派遣した。一九〇五年、五月、艦隊は対馬海戦で日本に壊滅されただけだった。中国がしたようにロシアも平和を求め樺太の南半分を日本に与え南満の租借権を日本に返還し旅順―長春間の満州鉄道南方部分の支配権を譲渡した。いまや無敵に見えた日本は朝鮮を植民地にすると公式に宣言した。朝鮮人が何を考えているかなんて誰も聞いちゃいない。
西欧政府は抗議しなかった。大量の日本人が富を求めて半島に殺到した。彼らを伴い、財閥系複合企業体の多数代理人が、あらゆる商売のチャンス、天然資源を求めてやってきた。日本は法律と命令を支配し新しい警察と憲兵の情報網を作っていった。もはや武士道の精神はなくあらゆる場所で朝鮮の主権は無視され、すべての抵抗はつぶされた。新聞の編集長は、「ああ何と不幸なことだ。我々二千万人の国民が他国の奴隷になってしまう。」と書いて逮捕された。すべての日本人が略奪者であるわけではない。いくらかは真剣に朝鮮を助けるつもりであって、奪いにいったわけではない。伊藤博文は朝鮮の将校に「あんたの国は自分で守れないジャン・・・自滅を許すとは言ってないぜ・・私が望むのは、あんた達がもっと前面にでてがんばれば、我々と同じ立場に立てる日がくるし、一人前に取り扱うようになるさ。」初代朝鮮総督として伊藤の指令は理性ある政府になる望みを多少は与えた。山県は伊藤の部下に黒竜会の親分、内田良平を加えるようにお取り計らった。秘密のうちに資金が融通され伊藤が総督の時代、内田の暗殺団が暴れ回り、一万八千人の朝鮮人を殺した。彼らは朝鮮を全面併合する命令を口実に殺人をしていた。一九一〇年八月二十二日、朝鮮は単なる植民地から完全に日本の領土内として併合された。日本軍は本国の政治家の干渉から解放された自分の領土をアジア大陸に所有することになった。山県のもっとも過激な仲間の一人に寺内正毅がいる。彼は初めての韓国総統になった。一八七〇年、武士の反乱の時に右手を失った寺内は日露戦争の間は陸相を務めた。今や彼が朝鮮の植民地化と略奪の指揮をとることになった。いくらかの日本人は武士道を重んじ、寛容さを表し無茶な殺人を許さなかったが、寺内は格別残忍でそれが数十年に渡って占領される地域での日本の蛮行の先例となってしまった。
レジスタンスを潰す決意をし、彼は朝鮮人に言った。「手前らをサソリむちで苦しめてやりてえよ。」(聖書の中にサソリむちがでてくるが、彼がそういったのかは疑問だ)彼はサデシスティックな朝鮮やくざで警察隊を組織し、当然のごとく拷問するよう命じ、「東洋人は拷問しない限り本当の事をしゃべる奴はおらんでな。」と言った。
この警察隊は、日本のゲシュタボ、憲兵隊にしっかりと監督されていた。ほとんどの憲兵隊の情報院は文民を装ってはいたが、その実内側の襟裏にある菊の紋章だけに忠誠を誓っていた。日本は徐々にこれらのスパイや情報員、テロリストの網をアジア中に増殖させていった。第二次大戦中、最高で三万五千人の憲兵隊が日本帝国から生み出された。非公式の数はもっとはるかに多い。なぜならば黒竜会、玄洋社そして他の狂信派が統合されたからだ。彼らは互いに『唇と舌』のように連携して動いた。玄洋社のボスである内田は朝鮮に送られる憲兵隊のすべての任命を審査した。朝鮮の抵抗は激しかったものの不首尾に終わった。一九十二年には約五万人の朝鮮人が逮捕され、一九一八年までに毎年十四万人に増えていた。日本統治時代が始まって十年間の間、日本人教師ですら軍服を着用し刀を身につけていた。日本軍は憲兵隊と玄洋社の盗賊が半島を略奪することを見張っていた。日本の警察はモミから店頭までの米の生産を支配し、大部分は日本へ船積みされた。やくざは強請りの専門家だ。日本では被害者を選ぶときにだけ用心深いだけで、彼らは脅し、誘拐、強請り、殺人はお手の物だ。大陸においてはそのような束縛に対する恐れは何もない。寺内のやり方があまりにも残酷なので、日本の銀行家や会社員は哀れみを感じ恥辱を表明する公告をしたほどだ。
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>>132816
結局、寺内方式はアジア中に広がり終戦までそのままだった。確かに日本は朝鮮をある程度まで工業化した。しかし経費はかけなかった。朝鮮の労働者は同じ工場の仕事をする日本人の四分の一しかもらえない。寺内は米を日本へ送るために朝鮮人にはキビを食べさせた。この残酷な方法のせいで、半島は芸術品から基本的な野菜まですべてとられてしまった。朝鮮はもはや日本に属している以上、文化財の移転――略奪なのだが――は窃盗にはならない。自分のものをどうやって何かを盗むのだ。希望一覧表の筆頭は中国の陶磁器に勝るとも劣らない有名な青磁器だった。(朝鮮の陶器は、粘土の状態で花柄の切り込みをつけ、焼く前に色がはっきり出るその青緑の光沢が有名だ。)
西洋の専門家はそれを「かつてこれほど優雅で気取らないものはなかった。」と言っている。十六世紀に日本は朝鮮の陶匠を誘拐し、九州にすばらしい釜の産地を発見したものの日本で作られた陶器には同じ魂はなかった。日本人は朝鮮の陶器を宗教儀式や茶会などに使われる他の物より上級であると評価していた。又たとえば朝鮮のパンション石陶器とかチョーソン白磁も欲しがった。この略奪品のいくらかは、東京上野の博物館に展示されている。ほとんどのものは、一般の人には決して見ることができない日本人の私蔵品となり、その個人ですらめったに見られなくなってしまった。日本人の収集家はその財宝を地下金庫に保管し個人的な鑑賞を固く禁じた。したがって今日でも朝鮮で盗まれた骨董品は元の場所にもどってはいない。すべての朝鮮個人収集品が押収されても宮廷記録や古代文書を研究している専門家は美しい陶器が王の墓の中に埋もれいると断定した。この墓の略奪を偽装するために寺内は歴史遺産を維持する法律を導入した。維持するためといって、実は墓をあばき価値ある中身は日本に持ち帰った。そして彼は約二千の墓をあばき開城市王の墓には古代の陶器、仏像、王冠、首飾り、耳飾り、銅鏡、そして他にも装飾的な財宝でいっぱいだった。平城近くの大同江では千四百の墓があばかれ略奪された。この大規模な盗掘は寺内直々の監視のもとで遂行された。彼の最初の仕事は自分自身の邸宅を作るため景福宮宮殿で四千の部屋を破壊することだった。彼は日本へ船積みする予定の数千の中から六百点の工芸品を選び自分の宿舎に飾った。日本の個人収集家や古物商は工芸品だけでなく古文書や重要な国家公文書も持ち去った。―――すべて日本の博物館や大学の学術研究の名のもとで・・。立派な本の数%は朝鮮の国宝に指定されていて、李王朝公文書千八百巻を含みすべて日本に船積みされた。学者は特色の少ない古文書二十万巻を燃やしたと言っている。もちろん朝鮮の特色ある文化を消してしまう考えの一環としてだが。彼らは古代文書などの四万二千件の文化遺産をリストアップして、『研究』のためと称して東京へ持ち去った。そして二度と返されていない。ついでに日本人はダイナマイトを使い李成桂王の遺跡(一三九六~九八)やサンヨング(一五九二年の日本武士達の侵略に逆らった仏教僧指導者)の遺跡などを爆破した。韓国の歴史化イー・キベックは言う。「日本人の目的は朝鮮国家の国民意識や起源などの自覚を消し去り、朝鮮人の存在自体をこの地球から取り除くことだったのだよ。」一度、文化伝達や国民意識を剥ぎ取ってしまうと朝鮮人は二等国民に成り果ててしまった。朝鮮人の受け継いだ国土を剥奪するために日本人の名前に改名させ、儒教、キリスト教、仏教の信仰を神道に改宗させた。天皇だけが彼らの唯一の神であり、いかなる朝鮮人でもその神性を拒否する者は逮捕された。寺院では、銅鍾や仏像が略奪された。普通の宗教的金細工品ですら武力によって持ち去られ、精神の融合と称して溶かされ武器になった。朝鮮人は日本語だけを話し、朝鮮語の新聞社はつぶれ政党は解散させられた。朝鮮の記者は日本語でのみ出版が許され、学者も日本語で教育した。家の中でも日本語で話し合うよう求められた。一九〇七年東京政府は高宗を無理やりまだ十歳の息子へ譲位させた。彼を皇太子『イ・ウン』(李垠)と称して東京へ連れ去り明治天皇の孫達、裕仁、秩父、高松らと共に徐々に学習させると主張していた。実際のところ少年は人質であり彼が生存するには朝鮮の皇室として共に協調を続けていくことしかなかった。
何か理由があったのか、明治天皇は彼に親しみを覚え、自分の孫には決して見せなかったような愛情をもって、気配りや贈り物を与えた。少年は朝鮮君主になる権利を放棄することを説得された。次の十年間に別の朝鮮工芸品数千が力ずくで日本人により持ち去られ、約束と違い決して戻ることはなかった。人々はあまりに恐ろしくて、後に盗まれた正確な明細であるとか受領書の束をもって出頭することは不可能だった。一九六五年、韓国政府は個人を特定できる四四七九件の返還を求めた。日本はそのうちたった一四三二点を三十年かけて少しづつ返しただけだ。大変な量の朝鮮文化工芸品が今日も日本の個人収集家、博物館そして皇室の地下金庫の中に残っている。この国家的遺産のほとんどは途方もない価格だ。第二次大戦が終わった時、日本が破産状態とは程遠かった証拠だけを示そう。いつでも協力者がいるものだ。四十年以上も盗品や古代コーリア陶器の輸出で金儲けをしてきた古物商で中田という日本人がいる。彼の仲間は前の李王朝の高官で億万長者になっている。ほとんどの朝鮮の地主は日本人開発者らの買収によって土地や農地を取り上げられていた。小作人は土地を失い、都市の貧民とともに急き立てられ船に乗せられ奴隷労働、そして日本もしくは千島列島の砲兵大隊に編入させられた。六万人の朝鮮人がシベリアのサハリン半島で炭鉱や軍需工場の強制労働を強いられた。そのうち四万三千人は終戦時サハリンにいて、ソビエト管理下になった時点で帰国は困難なことになった。一九四五年以前には六百万以上の朝鮮人が強制労働隊に編入させられているとおもわれていた。その中の百万人は日本に送られた。他の者はフィリピンやオランダ領の南インドシナへ送られ、海軍、陸軍の軍需工場で生産に従事した。又、略奪品のためのトンネルや塹壕を掘っていた者たちはその場所を隠匿するために殺され、生き埋めにされている。一九四五年八月二四日、日本の青森県で略奪品のための壮大な地下施設の堀削に従事していた朝鮮労働者は、母国へ帰還するために浮島丸という軍用船にのせられた。船は最初日本西沿岸のマイサル海軍基地(舞鶴と思うのだが)へ航行した。そこで朝鮮人は貨物室に閉じ込められたまま船は沖へでて、ダイナマイトで穴をあけられ沈められた。五千人の朝鮮人のうち助かったのは八十人だけだった。日本政府は、彼らが自分たちで錠をかけて閉じこもり自分たちで爆破したと主張した。
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>>132817
それから五十七年が過ぎ、十五人の生存者とその関係者たちは、ついに日本政府に対する賠償訴訟に勝訴した。京都地裁は、二〇〇一年八月、日本政府は原告各人にそれぞれ三百万円(三万ドルにも満たない)支払うよう命じた。しかし、法廷は日本政府に事件に対する謝罪の必要性には何もふれなかった。
六〇〇万人の朝鮮人が強制労働者をして従事したことはさておき、一万人もの若い朝鮮人が徴兵され南方作戦で砲撃の餌食になるために派遣され多くはビルマやニューギニアで死んでしまった。もっと悲惨だったのは数千人の朝鮮女性たちが売春婦になってしまうとは知らず騙されて雇用され日本へ行ったことだ。憲兵隊が一九〇四年初めて公式軍事売春宿を作ったのは朝鮮だった。それらは誘拐された婦女でいっぱいにされ、後々にアジア中で従軍慰安婦になるように強制される数十万の朝鮮人たちの先駆けとなった。
(訳注、南京虐殺と同じくシーグレイプ氏は慰安婦問題を日本独自の事のように主張するが大きな間違いだと思う。アメリカ占領時に日本で何が行われたかは日本人もアメリカも沈黙しているがその時点では一般人の被害を避けるための方便であったとおもわざるを得ない。また、強制されたかどうか、または軍の関与については斡旋業者の問題であり日本軍は強制する必要はなかったものと思っている。)
朝鮮人が狙われたのは、仮に日本人が売春を強要されたら兵士たちが暴動を起すと信じられたからだ。日本軍は朝鮮の婦女子を家畜のごとくみなした。情けはまったくない。ブルース・カミング氏はこの状況を要約して、「日本人にこき使われ乱暴された数百万の人達はいったい自分たちの身に何が起こったのかを記録に残せなかったし、日本人と共に働いた朝鮮人はあたかも何も起こらなかったように記憶を消すしかなかったんだ。」朝鮮の悲劇は台湾や他の植民地のやさしい体験談と比較することでしか十分にはわかってこない。中国に無視された台湾は決して独立国家になれなかった。しかし、一六六一年、日本と中国の混血商人、鄭成功(テイ・セイコウ)はオランダの貿易商を追放し自分の領土とする企てをした。不幸なことに、鄭が本部を作った横では蚊が飛び回っており一年後に彼はマラリアで死んでしまい、王国は崩壊した。彼の魅力的な伝説をもとにした演劇が日本で評判となり、台湾が手付かずの天国のような理想を日本人がもってしまったので彼らが喜ぶようにしてあげたのだ。
本来の台湾人からも抵抗はほとんどなかった。朝鮮人とは違って、昔からの日本への嫌悪感もなく戦争の経験もなかった。何よりも重要なことは、盗むものがなかったということだ。数千年も積み重ねて築き上げたような文化遺産に乏しく、堂々とした芸術的な伝統はなく略奪するための大きな墳墓もほとんどなかった。日本人はフォルモサ(美しい国)に改名した国を過去になかったほどの良い生活のできる金のなる木にすることを望んだ。彼ら(日本人)は農業を促進し効率のいい政府を作り、厳しい一般人への法令を定めた。そしていつも軍や警察、そして殖民行政官のそばには、地方の業者のように見える渡り者や実業家の『やくざ』がくっついていた。彼らの本業はモルヒネとヘロインの製造で海峡を越え中国本土へ販売するためである。台湾もまた中国南方やアジア征服の最重要拠点となっていく。島を恒久的軍事拠点にするために莫大な投資が行われた。第一飛行大隊はkookayama山の地下施設に本部が作られ、二五〇人の男たちが従事していた。日本の爆撃隊は台湾から飛び立ちフィリピンのクラーク平原を破壊した。一九四〇年代までは台湾人が徴用されることはなかったが、その後、数千名がフィリピンへ強制労働者として送り出された。台湾への穏やかだった対応は例外である。朝鮮への恐ろしい征服欲と略奪は数百万人の中国人が思い知ることになったとおり、ごく普通のやりかただった。
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>>132818
訳者から一言
2007-06-06 09:38:09 | GOLD WARRIORS
ちょっと遅れましたが、このブログの趣旨を説明します。以前、YamatoDynastyを翻訳する時に何人かの人に一章ごと読んでもらっていました。しかし、興味がないのか、最後まで読んでくれたのはたったの三人だけでした。確かに素人が訳した文章は下手だろうし、文学的にもなっていないだろう。しかしながら、私は高い使命感に燃えて時間と金を費やしてきたし、自分のためにやっていることだから何の文句もない。しかし、本当は、たくさんの人に読んでいただき、書かれている内容を議論したかった。シーグレイプ氏は他にも、「宋王朝」「マルコス王朝」などが日本版で出版されている。確かに、ユダヤ系でかつ、反日中国系の論調は見られる。だからと言って内容が全て無視できるわけではない。「YamatoDynasty」でも、戦後の皇室とマッカーサーの駆け引きは実に読み応えがあり、従来のどの本にかかれていない内容だと思う。田中角栄の金儲け、堤家と天皇家の癒着、これらは目からうろこが落ちたものだ。今回、GoldWarriorsを一章ごとに載せるのは非常に大量のデーターですので画面で読むというよりコーピーして印刷したほうがよいだろうと思ったからです。一章ずつ印刷してもA4で10ページにはなるでしょう。毎日少しずつ画面で見るのはなかなか大変です。どうか印刷してお読みください。そして、シーグレイプ氏の言っていることの間違っている事、あるいは正しい事をたくさんの人から指摘して欲しいのです。例えば、秩父宮が肺結核で富士山麓で静養中だったはずなのに、フィリピンで略奪物資の隠匿を指示していたという多数の目撃者がいることについて、一体私たちはそれをどのように受け止めればよいのでしょう。目撃者は命に関わる事だから、名乗り出るはずもない。しょせん水掛け論だろう。しかし、シーグレイプ氏にとってその証言がこの本の根本的な前提なのです。現在、もう一人協力してくれる人が現れたので、彼には十三章以降を担当してもらいます。今日、第二章、第三章、第十三章をアップします。それ以降はたぶん、一ヶ月に二章ずつぐらいしかできないと思います。秋ぐらいまでに完了できたらいいかなと思っています。趣旨ですが、日本で出版されない本を少しでも多くの人に読んでもらいたいことです。実際に大手出版社が発売するもの、ベストセラーになるものに真実はないだろうと思うからです。
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>>132808
今日はここまで.......赤文字の箇所を読めば大体の内容が掴めるようになるかと思ったのですが、ちょっと画面がうるさくなってしまいましたね。すみません
本当に支配層のトップに都合の悪い話だったら、おそらく出版できないだろうし、暗殺されたりしていると思うので、一番触れてほしくないことから目を逸らさせるための情報や誤誘導の情報もあると思う
でもヒントになる情報も沢山ある
著者の情報を確認
スターリング・シーグレイブ
https://en.wikipedia.org/wiki/Sterling_Seagrave
スターリング・シーグレイブ(Sterling Seagrave、1937年4月15日 - 2017年5月1日)は、アメリカの歴史家。彼は、極東諸国の 20 世紀の政治史の非公式かつ秘密の側面を扱った数多くの本の著者です。
私生活
1937 年 4 月 15 日にオハイオ州コロンバスで生まれたシーグレイブは、中国とミャンマーの国境で、ほぼ 2 世紀にわたって東洋に住むアメリカ人家族の 5 世代として育ちました (彼の父親は、 『ビルマの外科医』の著者ゴードン・シーグレイブ博士でした)。 。[1]彼と家族はテキサス州コーパスクリスティに移り、1953 年から 1955 年まで WB レイ高校に通いました。
シーグレイブの協力者で35年間連れ添った妻はペギー・ソーヤー・シーグレイブで、彼女は夫の約1年前に亡くなった。[2]
シーグレイブさんは2017年5月1日、妻と30年以上暮らしていたフランスで亡くなった。シーグレイブの死は、2017 年 7 月 31 日まで公に発表されませんでした。[2]
出版物
シーグレイブはアジアで調査ジャーナリストとして働き、いくつかの主要な新聞や雑誌に寄稿しました。彼の著書には次のようなものがあります。
イエローレイン:化学戦争の恐怖を巡る旅。ニューヨーク: M. エヴァンス(1981)。 OCLC 8633707。
宋代。ロンドン:シジウィック&ジャクソン(1985)。 ISBN 978-0283992384。
マルコス王朝。ニューヨーク:ハーパー&ロウ(1988年)。 ISBN 978-0060158156。
ドラゴンレディ:中国最後の皇后の生涯と伝説。ニューヨーク:ヴィンテージ ブック(1992)。 ISBN 0679733698。
ロード・オブ・ザ・リム。ニューヨーク:パトナム(1995)。 ISBN 978-0552140522。
大和王朝: 日本の皇室の秘密の歴史。ニューヨーク:ブロードウェイ ブックス(1999)。 ISBN 978-0767904964。
ゴールド・ウォリアーズ: アメリカが秘密裏にヤマシタの金を回収、ペギー・シーグレイブと共演。ニューヨーク:ヴァーソ(2003)。 ISBN 978-1859845424。
朝のレッド・スカイ: 逃げた二人の男と逃げなかった一人の男の秘密の歴史、ペギー・シーグレイブ主演。サウスカロライナ州チャールストン: BookSurge (2008)。ISBN 978-1439240472。
レビュー
フーバー研究所に所属する中国学者ドナルド・G・ギリンは、 『中国の歴史の改ざん:スターリング・シーグレイブの宋王朝の場合』という本を書き、その中でシーグレイブの著書『宋王朝』は蒋介石に偏見を持っていると批判した。[3]
Dragon Lady は、西太后が義和団の乱で義和団を利用したという考えに異議を唱えます。Kang Youwei は、彼女の評判を汚した偽りの話の源であると言われています。この本の中で西渓は同情的に描かれている。
第二次世界大戦後、 CIAが日本軍の戦利品数十億ドル(名目上の「ヤマシタの黄金」)を横領したという疑惑を扱った『ゴールド・ウォリアーズ: アメリカによるヤマシタの黄金の秘密回収』のレビューの中で、[4] BBCヒストリー・マガジンは次のように述べた。 「多くのギャップが残っている……これは広範囲にわたる影響を伴う重要な話であり、さらなる注目に値する。」[5]
>ゴードン・シーグレイブ博士
ゴードン・シーグレイブ
https://en.wikipedia.org/wiki/Gordon_Seagrave
ゴードン・スティフラー・シーグレイブ(Gordon Stifler Seagrave、1897年3月18日 - 1965年3月28日)は、ビルマ生まれのアメリカ人の宣教師、医師、作家。
人生とキャリア
彼はアメリカのバプテスト宣教師アルバート・アーネスト・シーグレイブ牧師とアリス・ヴィントンの息子としてラングーンで生まれました。 [1]そのため、彼は曾祖父母のジャスタス・ヴィントン、カリスタ・ホルマン、ジェームズ・マディソン・ハズウェル、ジェーン・メイソンが1834年と1835年にバプテストの伝道所を設立するためにビルマのモールマンに派遣されたときに始まった伝道の伝統の第4世代を代表していた。彼の大叔母、宣教師、医師のカリスタ・ヴィントン・ルーサーを含む数人の家族によって、後の世代に引き継がれました。シーグローブの姉妹も家族の足跡を継ぎ、レイチェルはペグーで教育宣教師として働き、グレースはモールマインで医療宣教師になった。[1]シーグレイブも彼らの道をたどり、ビルマで宣教師兼医師になった。彼は著書のタイトル「ビルマの外科医」、またはゴードン外科医シーグレイブと呼ばれることもありました。少年時代の彼の第一言語はカレン語でした。
シーグレイブは1920年9月11日にマリオン・グレース・"タイニー"・モースと結婚した。彼らには4人の子供がいました:レスリー・メイ、b. 1921年、メリーランド州ボルチモア。ウェストン M.ジョン・H。スターリングV.、ジャーナリスト兼作家。
シーグレイブは1917 年にデニソン大学を卒業し、 1921 年にジョンズ・ホプキンス大学を卒業しました。彼はビルマの中国国境で 20 年近く医学と外科の診療に従事しました。彼は 1942 年にアメリカ陸軍医療隊に入隊し、ジョセフ・スティルウェル将軍と協力し、中国・ビルマ・インド戦域でのビルマ作戦を通じて中国新第 6 軍に従軍しました。彼は1942 年にスティルウェルのインドへの徒歩撤退を手伝いました。 [2]彼は 1945 年に徒歩で仕事に戻りました。 1945 年から 1946 年にかけて英国軍事政府でビルマのシャン州の主任医務官を務めました。[1]
彼は 1950 年に独立したばかりのビルマ政府によって反逆罪で逮捕され、起訴されました。 [3]彼は逃亡者とみなされるよりも裁判を受けることを選択しました。彼は、カレン族反乱軍による政府委員の逮捕を支援する手紙を書いたことと、カレン族反乱軍に医療援助を行った罪で、1951年1月に6年の重労働刑を言い渡された。その後、刑期は6か月に減刑され、1951年11月に3人構成のビルマ最高裁判所によって評決が覆され、彼は無罪となった。彼は刑務所にいたこともあり、赤熱とマラリアに苦しんだ。[4] [5]
シーグレイブは 6 冊の本を書きました。「廃棄物バスケット手術」、1930 年。廃棄物かご外科医の物語、1939/1942;ビルマ外科医、1943年。写真で語るビルマの冒険、1944年。帰還したビルマ外科医、1946年。そしてヒルズの私の病院、1955年。そして彼はチェスター・ボウルズと共著『ビルマ外科医の生涯』 (1961年)を執筆した。
ゴードン・シーグレイブは1965年3月28日にビルマのナムカムにある病院で死去した。[6]
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My REVENGE will be SUCCESS!
https://truthsocial.com/@realDonaldTrump/posts/111967462990244964
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宮内ソフトバンク会長が退任 孫氏と通信事業育成
2024年02月21日
ソフトバンクグループ(SBG)傘下の通信大手ソフトバンクは21日、宮内謙会長(74)が4月1日付で退任すると発表した。取締役特別顧問に就き、6月の定時株主総会で取締役も退任する。宮内氏は、孫正義SBG会長兼社長(66)と国内通信事業の成長に尽力した。
後任の会長には今井康之副社長(65)が就く。宮内氏は1984年、創業間もない日本ソフトバンク(現SBG)に入社し、祖業のパソコン用ソフトの流通事業を拡大させた。2015年4月にソフトバンク社長に就任し、18年には同社の株式上場を主導。21年4月、会長に就任した。
https://www.jiji.com/sp/article?k=2024022101151&g=eco
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Originally posted at >>>/qresearch/20453657 (212347ZFEB24) Notable: 核物質密輸未遂で日本人の男起訴と米地検
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核物質密輸未遂で日本人の男起訴と米地検
米ニューヨークの連邦地検は21日、ミャンマーから他国に核物質を密輸しようとしたとして、日本人の男が起訴されたと発表した。「ヤクザによる国際犯罪組織」の犯行だとしている。
2024年02月22日 07時50分
https://www.47news.jp/10558035.html
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>>132818
黄金の兵士 第二章ごろつき武者たち
第二章 ごろつき武者
一九〇五年九月、黒竜会に率いられた暴徒達が、刀を振り回しながら東京の街頭を突進し、外国の影響力の象徴である教会、路面電車、交番を燃やし、政府系新聞社を荒らしまくった。
警察治安部隊がこん棒と剣をもって追いつめ、静けさが戻ったとき、十七名が死亡し五百人が負傷していた。治安部隊はアメリカの鉄道王E・H・ハリマンを脅迫し、日本政府が、先般帝政ロシアから奪い取ったばかりの南満州鉄道を、ハリマンに売却しようとする方針を、妨害する役割を果たした。ハリマンは、皇居から近い、三井倶楽部の安全な部屋から立ち上る煙と炎をながめていた。
彼に危害は及ばなかったがおもしろいはずがない。ヨーロッパの列車乗務員、通訳、そして女性接客係を用意しているこの倶楽部は、ニューヨークやヨーロッパの一流人に、快適なもてなしを提供するのが自慢だった。
ハリマンを招待した三井公爵は、戦争活劇の実演を楽しんでもらおうとした。黒竜会の親分、内田の演出であったのだが、暴動もまた、彼がやらせたのだった。内田と三井は、ハリマンが、世界を周遊する鉄道網を完璧に独占的支配するため、南満州鉄道を買い取ろうとしていたことを、阻止したかった。
暴動は日本政府に対し、ハリマンへの売却決定をしないよう、警告していた。
黒竜会はハリマンの全てを知っていたが、ハリマンは彼らのこと、そしてその満州への野望については知らなかった。
超国家主義者にとって、満州は帝国の土台となる試金石であり、中国侵略の拠点であった。しかし、満州は予期せぬ問題を展開させていた。
朝鮮は二千年間の富で満たされた倉庫の警備は不完全だった。ひとたび抵抗が打ち破られると、全てが奪われて、日本に持ち去られることは当然だった。
これがあまりにも簡単だったので、日本は有頂天になってしまい、アジア全土もたやすい事と思ったのだろう。しかし、満州にいる敵は違っていた。
テキサス州の倍、韓半島の数倍もあり、倉庫に財宝が詰め込まれていたわけではない、たいへんな荒野だった。目立つ財産といえば南部にある遼東半島の工業都市ぐらいである。
日露戦争の結果、ポーツマス条約で大連の商業港、旅順の軍港、そしてロシアが建設した旅順から長春までの満州鉄道などのロシアの権益が日本に割譲された。(この鉄道がゆくゆくは日本が華北全体を侵略する道を開くことになる。)
ロシアの多くの財閥は、南満に投資していたので、数千人のロシア家族が、日本兵、憲兵隊、官僚、やくざらの餌食となり、あっと言う間に没落してしまった。北のシベリアから、西のモンゴルへ広がる残りの中国北東部の広大な田舎では、貧しい農民たちが自分と同じように、厳しい暑さ寒さに耐えるしかないトウモロコシや、他の穀物を育てて暮らしていた。
満州の真の財産はアラスカや英国領コロンビアと同じで、国土と森林、そして鉱物資源だった。したがってロシアも日本も、満州から芸術品、古物、金の延べ棒を手に入れるのではなく、北方中国の商業中心地への軍事行動を支配するための戦略的な位置と、良い港を望んだ。鉄道の連結は、いつの日かこの地域を財産の貯蓄場所に利用することを可能にするだろう。それまでは、国土以外盗むものは何もなかった。そんなところから搾り取るには決意と工夫が必要だろう。
その間に、夢の計画は取り消され、空想家は満州人をごろつきに変えてしまった。日本のならず者は大陸浪人とよばれ、渡り者、スパイ、憲兵隊、銀行陰謀家、熱狂的やくざ、麻薬の売人や、心の病んだ軍将校だった。彼らは空想家達ができなかったことを、皆でやることになった。
満州をアヘンの一大集積地と闇資金の製造拠点に作りかえた。その過程の中、次のねらいが中国を征服することに傾いていった。
満州国経済は日本の南満州鉄道株式会社(満鉄)で成り立っていた。満鉄の株式の半分は、最大の個人株主、裕仁天皇が所有し、次に三井、三菱などの産業と銀行の複合企業が続き、それぞれが自分の諜報網をもっていた。
三井は諜報活動に年間五十万ドルを支払っていた。海外支店は秘密軍事作戦を自分で準備した。愛国心と欲を操ることで、三井は黒竜会と共謀し、関東軍をおだてたり甘やかしたりした。三井が望む中国の権益を、軍隊が強奪できるようにする為だけにだ。
調査の名目で、満鉄は自前の大規模な情報機関を作り始めた。高度な教育を受けた満鉄調査員は、日本軍の軍需品を賄い、前線をはるか南方へのばすには満州内の中国資産乗っ取りを必要としているという内部資料を、軍に準備した。その全てを没収する日にそなえて、慎重に中国の農業、工業、文化そして個人資産の調査を開始した。満鉄調査局はまもなく上海、南京、漢口、広東、香港などに支所をもった。中国を学習する上で最高幹部達の中では、この秀才達への信頼性は確立した。そのうちに、この専門家集団は、ジャワやビルマの南方へ行く、全ての道中での略奪において、軍の助けをするために送られることになる。
満鉄が経済を担っている間に、日本軍は強力な策略をしかけた。一九一一年、中国帝政が崩壊すると混乱の中、満州全体は侵略に対する弱点を見せることになった。日本軍は軍閥から次から次へと鉱物や材木の権利をとりあげ、満鉄をあらゆる方面へ広げる事を認めさせた。三井、三菱は、より協力的な軍閥と手を組むために、莫大な無担保融資を行い、将校団は彼らを顧問として契約した。
張作霖が最も有力な軍閥で、十五人の日本人が常に彼をマークしていた。
彼らは利権の見返りに武器を供給した。秘密の武器調達組織―――皮肉にも台北会社(すばらしい平和の意味)と呼ばれた―――は一九〇七年、三井が創業し利益の五%以外は全て軍が保有した。このことにより、関東軍は財政的に独立でき、また幹部将校達はとても裕福になった。東京からの経済的、政治的な解放により満州は独立権力基地へと転換した。関東軍は、何でも望みどおりにできるようになった。政府が何らかの干渉をしようとすれば、彼らは暗殺も躊躇しないし、将軍達を使い左遷させることもできた。
関東軍と大陸浪人達は、自活可能な危険な独立軍隊になった。誰であれ張作霖を支配するものが、満州を支配するのだ。
最初、彼は日本のためというより、ロシア、中国と張り合っていた。不屈で悪賢く、それでいて大層魅力的であった。貧乏な縫製屋に生まれた張は、盗賊を撃つため馬に乗り、ライフルを手に自分の騎馬隊を組織した。日露戦争中、彼は小さな夢をみて、自分の騎馬隊を日本に貸した。愛国者にもかかわらず彼は抗日に転じ日本の満州拡大に抵抗する袁世凱の国民党(KMT)と同盟した。
一九一六年、日本はお返しに彼の馬車へ爆弾を投げつけた。しかし張作霖は救出され、その地位が保たれているうちだけは日本と協力し、さらに十二年間、満州を統治した。薄いひげ、小さな手をもち、繊細かつ男前の張が毛皮のライナーコートを着てタバコをすう姿はかっこよかった。いつも美しい十代の愛人と一緒だった。このような群雄割拠の時代にあって、処世術がたくみでなければ、軍閥の生きる道を確保するのは大変であった。華北の都市、北京では、提携相手は頻繁に変わる。一九二四年の終わりごろ、キリスト教徒の馮玉祥(ふうぎょくしょう)(火の馬というあだ名だ)に支配された溥儀、満州のラストエンペラーは、紫禁城を追放され、郊外のひっそりとした地域にひそんだ。
数週間後、日本軍を後ろ盾にした張が、新鋭の武力とともに北京入りし、馮を追放し、新しい北京の軍事長として段禖瑞元帥(だんきずい)をたてた。
北京で、段元帥を傀儡として利用した日本は一九二五年、袁世凱が死に、そのKMT党(国民党)が保守派の支持する蒋介石に乗っ取られるまで、自由きままにやることができた。
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e9ccba No.132825
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>>132824
一九二七年四月は、重要な歴史の転換点のひとつだ。蒋大元帥は敵である共産主義者を市中から追い出すために、血塗られた追放劇を計画していたのだが、その彼らと手を組み、市民戦争へと導いていった。右であれ左であれ、愛国心でも全体主義でも、中国での揉め事は日本の征服計画にとっては邪魔になってきた。
中国の学生達は奪われていた政治的、経済的権益の返還を要求してきた。満州では国粋主義者が日本商品をボイコットし、騒然とした示唆行為を行った。張作霖がボイコットの広がりを認めていることが、日本人をとても不快にさせていた。彼を長年支えてきた日本だったが、ついに彼を殺す決定がなされた。暗殺は河本太郎大佐の計画だ。彼は、日本政府が承知の上の陰謀を実行する、凶暴な危険分子の一人だった。彼等は火災や騒乱、分け前の取り合いが大好きだ。十分な支持を取り付けてあるので、彼らのすることは、すべて愛国的としてごまかされた。疑惑をそらすため、大佐は小さな橋を爆破しては過激派の仕業と叫んだ。彼は二人の中国人やくざを殺し、張作霖の会社の横へ告発文書をそえてトラックを放置し、ロシア危険分子と銘記した。張作霖が旅するときはいつも、自分の豪華な客車の前にゆきずりの若い美女をおとりとして連れていた。一九二八年六月二日夜、彼に従っていたのは元マニラやシンガポールに配属されていた日本人顧問、儀我誠也中佐だった。列車は夜行で北方へ向かっていた。二人の男がビールを飲み麻雀をしていた。奉天で中佐はトイレに立った。そして最後尾へ急ぎ、鉄の枠にしっかりとつかまった。大きな爆発が列車を吹き飛ばし脱線した。張作霖は殺され、儀我中佐以外の全員が死傷した。河本大佐は中国の報復を予測し東京にさらなる軍団を送らせ、満州の占領の言い訳にしようとした。ところが驚くことに内閣は軍団を送ることを拒否した。そうなると陰謀は失敗だ。
しかし、軍閥の殺人は無駄ではなかった。というのは、天皇側近の日記によると裕仁天皇は将校自らが満州指導者を暗殺したと聞いても、何の怒りもみせなかったというのだ。彼は個人的にもみけしを容認し、この無断の行動をとがめなかった。
この結果、軍の悪党はこの種の陰謀を続けることをより励むことになった。
天皇のねらいは明らかだ。浪人たちは、日本の領土を広げる限りにおいては、望みのまま悪いことをしても良いということだ。死んだ軍閥の息子、若き司令官、張学良は長い間この事件を忘れてはいなかった。
十年間の潜伏の後、一九三八年、彼によって送られた暗殺者が、儀我中佐を東京軍事学校でみつけ、殺した。
張作霖の暗殺はなんら望ましい結果をもたらしはしなかった。日本の高官は最高に優秀で、風変わりな情報員を送り出した。石原莞爾中佐だ。彼はベルリンに赴任し、ニーチェを読み、中世の仏僧日蓮の教義のとりこになった。これが石原を西欧との大決戦、最終戦で日本がソビエト、アメリカを完全にやっつけ、世界の列強になる事へかりたてることとなった。彼の無謀な未来図は、戦争大学の学生を興奮させ、石原を破天荒な人物であると評した。日本人が被害者で、中国を悪者にみせるような新しい事件を作り出したのは石原の仕業だ。日本人が何をしようと正当で、防衛上のものに見せてしまうのだ。(歴史家ルィーズ・ヤングは言った。「被害者と加害者がひっくり返り・・・・・日本軍のたくらみが自衛戦争の正当な権利に変質してしまった。」)
三年間、石原は時期を待っていた。大元帥、張が彼にきっかけを与えた。大元帥は、遼東半島(遼寧省)の賃借権の拡大を拒否し、日本軍に満鉄の心臓部である鉄道から手を引くよう命じた。日本政府はこれを非難し、中国政府を反日だと非難した。満州現地民が日本移民を攻撃するような空気は、日本憲兵によって厳しく弾圧された。ささいな喧嘩でも、日本の報道では大きく誇張され、大騒ぎにされた。離反していく事件の中で、賄賂のために日本人将校が調査書類や麻薬の荷物を持ち出し、中国兵に逮捕されその場で処刑された。
この瞬間こそが石原が待っていたものだった。彼は誰もいない満鉄の軌道を爆破させ、中国兵の工作であると非難した(柳条湖事件、一九三一年九月十八日奉天郊外)
自衛のためと称し、関東軍は中国の兵営、北大営を急襲し、大砲をはなち、兵舎をぶち壊し、瓦礫の中から這い出してくる中国人兵士を機関銃で撃ちまくった。
混乱の中、関東軍は石原の作戦計画に従って、電撃作戦を遂行し、満州全土、四十四万マイル四方を含む北華四省を支配下におさめた。侵略を取り繕うため、満州はいまや満州国として独立国家となるつもりだと公表した。中国は戦争の準備を整えるには多くの問題をかかえすぎていた。大元帥、張は中国兵に抵抗しないよう命じた。しかし満州の接収には活発に抗議し国際連盟へ提訴した。
裕仁の一番下の弟三笠宮によると、リットン卿を団長とする国際連盟代表団が送られ、彼らの実態調査を断念させるため、コレラ菌の練りこまれた果物がふるまわれたそうだ。(注)テリー・マッカーシー“Tokyo In 1831 Poism Plot 1994.7.7 イン ディペンデント誌
幸いなことに誰も病気にはならなかった。彼等は、満州の事件はでっちあげであり、満州国は日本の傀儡に過ぎず、日本が侵略したのだと結論をくだした。
国際連盟がリットン報告書を一九三三年の春に是認すると、日本代表団は連盟を脱退した。日本は西洋列強との分裂を犯してしまった。
戦争の熱が日本を覆った。雑誌や記録映画はこの軍事行動を十人の日本人が百人の中国人をやっつけたと誇らしげに報じた。すべての中国人は「暴力と非道をみてくれ!」とよびかけていた。中国市民を殺したことは、「満州の町を行くものはすべて平服の兵士(便衣兵)だった。」として正当化された。
もっとあきれるほどの殺人と強姦の弁明のひとつを日本兵が指導者に話している。「誰でも、男だけが便衣兵だと考えている。しかしいろいろいるんだ。女や子供などが・・・。あるとき、二十歳かそこいらの若い女がとても親しげに俺を見ているのに気がついた・・・一方で悪い予感もした。・・・『おい こら!!』と呼んで少女の身体検査をした。彼女は私のことがわからないみたいだったので身振り手振りで意思を示した。彼女は下半身に二重のパンツを身に着けていた。内側には確かにピストルを隠していたんだ。彼女を殺したくはなかったけど、私を撃とうとしたんだ。それで彼女は死んだ・・・俺を誘惑したんだ。」(Yo ung著 Japan’s Total Empiore)
賞賛と大衆の熱狂は、政府と実業家達を軍部の望むとおり満州への野望を実施させるように動かした。満州国は、北京の軍閥から救い出されたラストエンペラー溥儀が、見かけ上の指導者となり、日本軍の独裁国家となった。
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土肥原賢二大佐により北京を脱出した溥儀は、一時的に天津港の日本居留地の豪華な一角にかくまわれた。土肥原は日本の代表的な諜報員の一人だった。彼は満州のムクデン(瀋陽)の市長ということになっていたが、実際にはこの地域一帯の特務機関の指導者だった。彼はアラビアのロレンスを十分研究していたので、満州のロレンスとよばれた。ロレンスと違い彼はデブで、人を勘違いさせるやさしい顔つきだった。彼はすべてをそこ、満州に賭けていた、骨は現地へ埋めるつもりでいた。彼が最初に皇帝にしようと溥儀に持ちかけたとき、溥儀はためらった。多くの金と供応を受けなかったら、どうして面倒な儀式やしきたりに関わろうとするだろうか?
土肥原は言い張った。分からせる為に溥儀に不発弾の混じった果物かごを送った。
ある時、長春の御殿で、溥儀と王妃エリザベスは、土肥原からヘロインを与えられ、田中隆吉大佐の世話を受けた。ここに、上海で二十年間の隠密任務を果たしてきたブルドックのような中国工作員がいた。田中は「東洋の宝石」――清朝の王女――の報告でエリザベス(婉容)は淫乱だと知った。東洋の宝石、川島芳子は十代後半以降、兄弟ともども日本で養われていた。その集団を教育してきたのは、後に陸軍大臣となる板垣征四郎だ。満州国での憲兵隊の司令官仲間には後に戦時中の首相となる東条英機大佐がいた。一九三二年から三六年の間、この四重奏、土肥原、板垣、田中、東条は、満州のすべての誘拐、殺人などの作戦を遂行した。溥儀の即位は裕仁も祝福し、弟の秩父宮を戴冠式に派遣した。(上海の裏社会の親分Chang Yu-chingからも祝福された)
一九三五年六月、溥儀は東京へ飛んだ。裕仁が記念の祝宴を開いてくれたのだ。溥儀は北華の占領を後押しすることで答えた。彼は紫禁城を追い出される前に皇帝財産を持ち出していた。後日、彼は告白している。「最も貴重だった皇帝財産である絵や書籍、古美術品は弟のPu Chich(溥傑)に与えるふりをして、宮殿からもちだしました。」
これらの中には清朝の国璽や数千の古文書、巻物、絵画などが含まれている。
彼は言う、「弟は学校が終わると毎日とても大きな包みを持って帰ったよ、我々が持ち帰った品は、コレクションの中でも特にすばらしいものだった。騒動が起こったとき、宮中長官や家庭教師は丁度絵や古文書を検品していたので、私達のできることは、正に最高に品位あるものを選んで持ち出すことだったよ。絵画と書物に加えて、随分たくさんの古代文献を持って出た。千の巻物と、二百以上の掛け軸、そしてアルバムや二百近い珍しい清朝の印刷物を運び出さねばならなかったのだ。」
それらは満州国へ移され「調和と美徳」館の裏側にある宮殿の中の、小さな建物の中へ収納された。後日、溥儀は言った。「日本の敗戦が徐々に明らかになってきて・・・私は自分から関東軍へ金、銀宝石をさしだした。・・・宮殿の床からはがした絨毯から数百の衣類まで進呈した。これらの私の行いは、ひろく宣伝されたから日本の役人達にとっても略奪の仕事はやりやすかっただろうね。」
一九四五年秋、傀儡の満州国が崩壊した時、全ての財宝は占領のはるか前に日本へ輸送されて消えていた。
関東軍は満州国を一夜のうちに中央集権的資本主義国家のモデルとするため、壮大な実験を開始し始め、溥儀を王位に即位させた。その費用を正当化するために日本のもつ諸問題を解決するためのものだとして進められていった。
農業の潜在能力、鉱物資源と工業力、そして安い中国の労働者、工業、商業製品の幅広さであっという間に満州は発展していった。若手経済企業家達が、魔法を成し遂げるために満州へおしかけた。その中の一人に有名な岸信介がいた。彼は満鉄をひとつの家系の支配下に置き、経済を別の家系日産財閥の当主に渡した。岸の派閥は『二キ三スケ』とよばれた。
二つの『キ』は関東軍の首脳東条英機と、麻薬を独占している星野直樹(彼は後日天皇裕仁の内閣秘書官長になった)のことだ。『三スケ』は経済人の岸信介、満鉄の社長松岡祐介、そして日産の社主、鮎川義介だ。
彼等は満州のすべてを満州重工業とよばれる大企業群を通じて支配した。日産は頭脳を提供し、東条は武力を供給した。彼等は無鉄砲だった。一九三二年から三八年の間に四十三の満州の都市に水道、下水、水洗トイレ、電気、ガス、電話、道路、鉄道そして軍事設備が広げられた。すべてに日本政府の資金がつぎ込まれた。東京、大阪の銀行家は重大な疑いをもっていたが、軍部を支持しないと殺されると恐れていた。
銀行から借りれないなら盗むだけだ。満州中のすべての銀行から奪っていたのだから、関東軍は豊富な資金をもっていた。一九三一年九月、石原莞爾が満州のでっち上げ事件を起した日以降、関東軍は藩陽へ進出し、フロンティア銀行や三省地方の銀行の財産、行政記録を押収した。兵士が町を封鎖している間に東条の憲兵隊は吉林省地方銀行(Kirin Provincial Bank)のすべての支店、そして黒龍江地方銀行(Heilungkiang Provineicl Bank)を脅した。それらの銀行はすべて中国人が所有しており経営者でもあった。それらの財産で満州国の中央銀行を創設し、あたかも新しい国家紙幣のごとき占領軍票を発行した。誰もが中国の金を軍票と交換するように命じられた。朝鮮銀行(朝鮮にある日本の銀行)は公共品を持ち出すのを進めるため、満州内に二十の支所を設けた。そのニューヨーク支店では満州開拓の融資を借りまくり、最終的に返済されなかった。手っ取り早く金を得るのに強請りは別の手段だった。
ユダヤ人のホテル・劇場所有者サイモン・カスぺの息子が、一九三三年に誘拐された。十万ドルの身代金要求のメモが届いたが彼の父はそれを拒んだ。日本人警察官は少年の救出の努力をしていたが、ユダヤ人達の多くはこの誘拐には憲兵隊が関わっていると疑っていた。十二月三日、サイモンカスぺの身柄が発見された。彼は最終的に射殺される前。殴打され、食物も与えられず、拷問をうけ手足を切断されて地下室に放置されていた。この異様な残忍性こそ東条の憲兵隊か黒竜会または玄洋社の仕業であった証拠である。葬式で会葬者達は「憲兵隊をやっつけろ!」「日本皇軍をやっつけろ!」と叫んでいた。警察は数人の誘拐犯を逮捕した。
彼等は起訴されたが後に解放された。
腹を立て、驚いたユダヤ人集団は中国のほうが平和だろうと満州の国境を越え始めた。(ふぐ計画と呼ばれるユダヤ人追放計画があった。)
被害者達が財産を放出し尽くすのに銀行強盗、通貨偽造、強要は一度か二度しかできなかった。麻薬からあがってくる安定した現金収入が、満州の主要な産業だった。満州国建国の話の中にこの闇の金は含まれていない。実際のところ日本は満州のアヘン、ヘロイン、モルヒネの製造に深く関わっていった。
一九一一年に、地域で生産されたアヘンは少なくとも二千五百キロはあった。その十五年後、満鉄の占有領内で日本地下組織の大農園から収穫されたアヘンは三万六千キロ(年間)に上昇していた。一九三二年、日本が全満州を奪った後は、数万ヘクタールがけしの栽培に向けられ、アヘンからさまざまな品質のモルヒネやヘロインを精製するために数十棟の実験室が建てられた。
関東軍の保護の下、満州の売人の流通範囲はついに長城を越え、北方から中部中国へと下っていった。満州中央銀行は軍による麻薬の専売で生み出される利益によって莫大な蓄えを築き上げた。調剤工場からは、侵略に対する抵抗を和らげるためのヘロイン錠剤が中国に氾濫した。麻薬の専売を指揮していたのは満州の金融業務全体を管理していた前税務官僚で「二キ三スケ」の一人星野直樹だった。
このようにして日本の満州経営は麻薬中毒になっていった。
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>>132826
その後、星野が裕仁の内閣秘書官長に出世していき、天皇と日本の巨大な麻薬貿易との直接的なつながりが確立した。
このつながりを知ってしまうと、日本が麻薬で儲けていたことを天皇が知らなかったと信じることは難しいのではないだろうか。
一九三四年、ジュネーブの麻薬取締り委員会は日本が世界最大規模で不法な麻薬取引を単独で行っていると告発した。日本は満州の農家に対してケシの栽培の増収に応じて奨励金を与えた。アヘンからモルヒネやヘロインを精製していたのは日本で最も古い財閥である三井そのものだ。(今でも世界で最も裕福な複合企業のひとつだ)
アヘン専売公社はモルヒネを無制限に配給し、又ヘロイン入りで有名なゴールデンバッドを免税で流通させることで、新規の買い手を創り出し常用させるように積極的にけしかけた。この麻薬取引は即座に関東軍の大きな収入源になり、年間三億ドルもの金額と見積られた。(現在の価値でいうと三十億ドル・・三千六百億円)星野はヘロインを銀行融資の担保として使うことができた。憲兵隊と帝国情報部第八部隊はアヘン窟を経営していた。一九三七年までに世界の不法なアヘンとモルヒネの九〇%は日本製だった。(訳注)(いくらなんでもこれはおかしい。英国、オランダ等の東インド会社が取り扱うアヘンは不法でないと言いたいのだろうか。)
満州の壮大な実験は空想から(麻薬による)幻想に変わってしまった。
満州はまた単に七三一部隊とよばれる日本の生物兵器計画の主な実験場になっていった。本部はハルピン郊外の平房(ピンファン)におかれ、一九二二年京都大学を卒業した石井四郎が統率し、高い地位からの命令で!生物化学兵器を開発し満州の中国人で実験することになった。溥儀は、被験者は、これらの設備を建築するために日本人により中毒にさせられ、秘密を守るために殺害されたと言っている。
後の太平洋戦争中は、他の実験室が北京、広東、シンガポールに作られ、連合軍の捕虜や市民捕虜を実験台にした。裕仁は少なくとも一回はこの詳細の説明を石井大佐から受けていることが記録されている。天皇の兄弟も実験を監察するために平房に行っている。裕仁の一番下の弟、三笠宮は戦後、映像を観ながらもらしている。「とてもたくさんの中国人戦争捕虜が・・・毒ガスの生体実験をするために満州の平房に行列させられていた。」他にもこう言っている。「広大な大地で柱に縛りつけガスを浴びせ銃殺した。その恐ろしい光景は、虐殺としか言いようがない。」
麻薬に関しては一九三六年までの満州での大流行は高価な代償を伴った失敗だったと認知されている。その製品は粗悪だったし、消費者向けは品不足だった。
タール分が不足していたり、他の材料が民間工場の要求にこたえるために回されたりしたからだ。岸による経済支配体制は失敗し、日本本体の経済をすっかりどん底へ落としてしまった。子供が親を食ってしまったのだ。
それにしても将来的には無利息無担保で融資を斡旋する岸にとって大変大きな財産になるはずだった。この融資の見返りとしてのリベートが岸や派閥の人間、関東軍の首脳にもたらされた。国を征服するにも多くの方法がある。満州での出来事は朝鮮とは違っていた。しかし結果は同じだった。
どんな祭りでも終わりがやってくる。一九三二年の全満州の奪取から三六年に軍が失敗を認識するまでたった四年が過ぎただけだ。
関東軍は麻薬の成功に胡坐をかいていた。幾人かの役人は薬や朝鮮、満州の略奪で得た富はみせかけであり、暴力的強盗の結果であることを認識していた。しかし彼等は生活のためなのだ。盗むものがまだあるのにやめられないだろう?
立案者ははいう、もし軍が中国を支配下におき、広大な商業市場を日本の専売体制に置くと満州建国がようやく効果を発揮すると・・。
満州を理想郷にできないのに、中国をできるのだろうか?
そして中国でできなかったら、東南アジア、インド、オーストラリア・・でするのだろうか。
軍隊はもどかしかった。多くの職業軍人が危険を犯し、若い将校が栄光を求め出世しようとしている。そこに疑問など持つはずもない。誰もが南の長城を越えたところに宝の山を夢にみていた。
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Originally posted at >>>/qresearch/20459546 (230058ZFEB24) Notable: ENEOS系、またセクハラ=グループ企業の会長解任
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ENEOS系、またセクハラ=グループ企業の会長解任
2024-02-21
石油元売り最大手ENEOSホールディングス(HD)傘下の再生可能エネルギー事業会社、ジャパン・リニューアブル・エナジー(JRE、東京)は21日、懇親の場でセクハラ行為があったとして、安茂会長(67)を解任したと発表した。昨年12月下旬に内部通報を受け調査した結果、不適切行為があったと判断した。
ENEOSHDでは、2022年に杉森務会長(当時)が性加害問題で辞任。昨年には斉藤猛社長(同)がセクハラ行為で解任されたばかり。相次ぐ不祥事で、グループの人権尊重意識が問われる。
安氏のセクハラ行為について、JREは「懇親の場で同席した女性に体の接触を伴う行為があった」(広報CSR部)と説明している。安氏は「酒の場でよく覚えていないが、処分は受け入れる」と話しているという。
安氏は15年から会長を務め、昨年12月には業界団体「日本風力発電協会」の代表理事に就任した。
今回の問題についてENEOSグループは記者会見を開かなかった。JREは「被害を受けた方に深くおわび申し上げる」、JREの親会社に当たるENEOSは「不適切行為の発生を重く受け止め、人権尊重・法令順守に関する取り組みの強化にグループ一丸となって取り組んでいく」とのコメントを発表した。
https://sp.m.jiji.com/article/show/3170638
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Originally posted at >>>/qresearch/20459548 (230059ZFEB24) Notable: オイシックス会長が辞任 「放射能汚染水」投稿で
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オイシックス会長が辞任 「放射能汚染水」投稿で
食品宅配のオイシックス・ラ・大地は22日、藤田和芳会長が同日付で辞任したと発表した。X(旧ツイッター)の個人アカウントで、東京電力は福島第1原発の「放射能汚染水」を流し始めたという趣旨の投稿をしていた。会社側が不適切だとして3月末までの停職処分を決めたところ、藤田氏が辞任を申し出たという。
高島宏平社長は藤田氏への監督責任を明確にするとして、3月末までの役員報酬の10%を自主返納する。
オイシックスは、藤田氏の投稿が不必要な風評被害を引き起こす可能性があったとして、懲罰委員会を開催した。
2024年02月22日
https://www.47news.jp/10562369.html
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LIVE: Trump to Address Christian Broadcasters at NRB Convention - 2/22/24
https://rumble.com/v4d5w5f-live-trump-to-address-christian-broadcasters-at-nrb-convention-22224.html
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>>132827
黄金の兵士 第三章中国への侵略
第三章 中国への侵略
日本の暴力的な満州侵略は、静かな大国に怒りと懸念を引き起こした。大多数の人は、今後何年にも渡り、国土を合併するまで中国を切り刻むだろうと信じた。満鉄の調査員は言う。「我々は、我々の意図を、中国の人民に説明する理由がないことを思い起こす必要がある。」
上海では、裕仁の心臓を紙の刃で突き刺してデモ行進が行われた。中国の新聞には、朝鮮人愛国者の銃弾が裕仁を狙ったものの、別の車にそれ、暗殺の企てが失敗したと報じられた。それから十日後の一九三二年(昭・七)一月十八日、僧侶の服装をした五人の若い日本人が、上海大通りの大衆の中を、日本の軍歌を歌いながら練り歩いた。怒った現地の中国人が、その中の一人を襲った。僧侶は特務工作隊長、田中隆吉が送った使い捨ての工作員である。
挑発行為は、日本に介入や日本人を守る護衛活動の言い訳を与えることになる。帝国海軍は商業利権を守るため、上海の黄浦江の拠点へ入港し、日本の海兵が大量に上陸してきた。
数百人のヤクザと、黒龍会の者たちはモーゼル銃、ライフル、銃剣、こん棒を手に、けんか腰で集まっていた。
戦闘は市郊外に駐屯していた中国第十九路軍と始められた。裕仁の是認をうけ、九万の追加支援部隊が投入されることになり、市街のいたるところが砲兵隊と海軍の大砲で破壊された。日本の戦闘機は、密集地帯に機銃掃射と空爆をして、約一万八千人が殺され、二十四万人の中国人が家を失った。驚いた西欧人は、共同租界地区やフランス租界地の安全地帯の屋上からじっとみていた。
日本が朝鮮、満州に進出する際に、西欧人として目撃していたのはほんの一握りの人々であり、そのほとんどは外交官だった。上海では、数千人の外国人が、日本の過剰な殺傷の目撃者となった。報道陣の集中砲火のひとつ、
アーネスト・ハウザーは次のように報じた。「犬とねずみが平和を楽しんでいたが、腹ペコで倒れているのか死骸なのかも区別がつかないような場所もあるんだ。」
ロンドンにいた日本大使吉田茂は、上海での非難について、「重大な誤解がある。」と述べている。
モルガン家のトーマス・ラモントは、日本政府の行動をみて、「投資家や融資団連中からは、もうあまり信用供与をひきだせなくなるな。」と嘆いた。
戦闘から三十四日がすぎた三月二日、第十九路軍は全軍退却を始めた。
次の日、日本は一方的に公式な停戦協定を発表した。
その五年後の一九三七年(昭・十二)の夏、日本軍は仕事を完結しに戻ってくることになる。
当時の中国のイメージとは、崩壊の淵での病める国であり、汚職と悪習のはびこる国であった。中国は堕落したため、その富は、とうの昔に流出してしまっていると、西洋人は考えていた。しかし、真実は全く違っていた。
軍閥から別の軍閥へと持ち主を変えていった、消える事がなかった富は、深く隠匿されたが、残された富に比べればささいなものだ。確かに何回にもわたる北京の略奪によって、清朝の財宝はほとんど流出してしまった。
しかし、貴族、商売人、やくざ、ギャングの持ち物である金塊、絵画、世襲財産は、手付かづのままだ。なぜならば中国人は、自分たちの流動資産を決して銀行には預けないからだ。
家族や派閥でないものは誰も信用しない理由があるのだ。
彼等は、ビスケットとよばれる金の棒や宝石を、大量にかつ巧妙にかくしていた。
千年に渡り、中国人は古物研究と絵画評論家や収集家の共同体となってきた。彼らの望むものは、古代の銅像、陶器、巻物、絵画や装飾品だった。これらの収集品は目録化され、その目録自体が、古物のコレクターと仲介人に大切な記録として配られた。この目録(カタログ)の写しを日本人の収集家が手に入れた。
これで中国国内に何が所有されているか、という大きな秘密はなくなった。二十世紀初めの時点で、中国皇帝だけでも価格のつけようもない翡翠が十万点以上、数百年もかかって、職人が彫った数インチから数フィートに及ぶいろいろな彫刻、百二十万の本や原稿、そして数百万点の陶器を収集していた。
日本人にとって、裕福な中国人が秘密にしている金や銀、プラチナ、翡翠、宝石などの個人的蓄えとどのようにして探し出すかだけが課題だった。Lords of the Rimで、我々は古代中国商人が、三兆円の資産で世界を支配するのではないかと言われるような存在になった、大富豪、華僑の発展をたどってきた。
中国において、皇帝は、常に年貢の代わりにごまかし交易を独占していたので、大部分の商業は死に値する非合法なものだった。
商人達は抑圧の対象となり、投獄されるか、家族ともども夢の国から国外へ追放された。その結果、商売というものが非合法的な地下活動となり、伝統的に行政官を買収し隠れて行うものとなった。
必然的に、中国人の巨大な富は、見えない所に集められ、注意深く隠されていった。十九世紀の末、満州政権が崩壊に向かったときにだけ、商売が合法的なものとなった。西洋の影響にいやいや従ったというよりは、税収が欲しかったというのが真実であろう。
租界の外国銀行に中国人は入れなかった。しかし、地元銀行の支店網は特定の商人閥のために存在しており、質屋は農民へ融資を提供していた。
歴史的にいって、日本には相容れない二つの立場が存在した。支配者も武士達も、商人を人間のくずのようにみていたのだ。だから、日本人は、中国の財宝が押収されるばかりに置いてあるとは思ってもいなかった。財閥は、中国の潤沢な天然資源、工業基盤、巨大な商業市場を支配したいために、軍の侵攻を後押ししたのだが、それらの企業の首脳達は、自分自身の収集品を増やしていた。
西洋での略奪というと、銀行、博物館、宮殿、大聖堂、邸宅が考えられ、闇金の源というのを見落としてしまう。中国では、全ての金が闇金なのだ。こういうものは強請りと強奪を使わずには盗めやしない。日本のごろつき武者達は、朝鮮と満州で強請りと強奪の効果的な訓練をしてきている。彼等は、明白な目的である銀行、博物館、大邸宅は、憲兵隊のために手をつけず、自分達の興味は個人的財産の発見にむけた。麻薬、酒、売春、賭博、密輸、強請りなどで築き上げられた強大な資産にである。日本軍が、同国人をいけにえにすることに何の躊躇も感じない、無情な中国暴力団と、一時的に友好関係を結ぶことはたやすいことだった。これが、一九三〇年代から四〇年代にかけて、かつてなかった財宝の大流失となる暴力団と、ごろつきの邪悪な同盟だ。日本と中国の地下組織同士のでたらめな共演は、数世紀も続いていた。たとえば、福建省沿岸に拠点を置く中国交易組織は、くず鉄運搬のために、アフリカやアラブまで外洋航海をしていた。
どの組織も自前の軍を所有しており、沿岸の要塞や、沖にある島の要塞に金塊を隠していた。彼らの通常の敵は、中国帝国政府だったから、海賊組織としては当然のように、日本と同盟していたわけである。
福建省の商人達は、九州南方にある五島列島を隠れ家として頻繁に使い、藩の領主も彼らをかくまっていた。藩の武士達は、一緒になって、富裕な金持ちが多い揚子江南部の銀行強盗などをしていた。だから、二十世紀になって日本、中国の暴力団が、互いに利益をもたらす組み合わせで、再出発するのは自然な流れだった。この地下組織同盟の背後に、一人の天才を捜すのなら土肥原大将だ。
満州麻薬取引の親玉で、その個人的組織網には、日本最大の暴力団をも含んでいた。彼は上海を拠点とする中国青幇の指導者と、ファーストネームで呼び合う仲だった。上海は、三国の政府によって管理されていた。最大は、蒋介石将軍が指揮する国民党が運営する中国当局だ。あとの二つは、十九世紀に満州の君主から居留地を分割してもらった外国人集団達である。少ないほうが、フランス租界で約五十万の人口だった。二千四百人のフランス人市民と、三百人の警官しかいなかったと言っているのは嘘である。もう一方は、白系ロシヤ人や中国の圧政よりフランス支配の方がましだと思う中国人を含む雑多な民族のヨーロッパ人、一万四千人だった。フランス租界地は最大の権力をもつ青幇(ちんぱん)の大親分、杜月笙(とげつしょう)の本拠地だった。彼は、薬の密売や売春、賭博からあがる収益から寄付をすることの見返りとして、フランスから保護され、快適に暮らしていた。フランス租界地の他は、国際解放地区で、英国とアメリカが管理していた。外国人居留者は、少なくとも四万人はいた。中国全体における英国の影響力は格別で、英国政府や英国人は、十億ドルの投資のほとんどを上海にしていた。しかしながら、一九二〇年代になって、上海で単一としての最大人種は日本人であり、会社員、銀行員、ホテル経営者、暴力団、情報員はほとんどそうだった。ホテルは、西洋人と中国人向けで、日本人は虹口居留地のリトルトーキョーと呼ばれる地域に居住していた。その多くは中国侵略のための先遣情報員である。実業家のふりをさせて、大慌てで準備をしてきた。
東南アジアすべてで軍事計画は飛行場、港湾設備、沿岸監視を含んで進行中だった。上海河岸の中心部右手に日本企業は三つの大きな波止場を設け、江湾通り上に、日本軍司令部から軍事工場までの頑丈に作られたトンネルを掘った。
上海では、杜親分を知らないでは何もできない。彼はすべてに関わっていた。
杜に賄賂を渡すことを拒んだ会社員は誘拐され、撃ち殺されるか、家に爆弾を投げつけられた。一度、杜は蒋介石に、実際は追い込まれているのだと気づかせるため、宋美齢を誘拐したことがある。(蒋介石の妻になっている宋一族の三女、本当の親分は杜であることを思い知らせるためであった。)
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一九三二年(昭・七)までに、四十四歳の杜は十分に大きな財産をもっていた。彼は黄浦江の向こう東浦区と呼ばれるスラム街で生まれた。父は穀物商の苦力(クーリー・奴隷労働者))でその屈辱をバネに自力で這い上がった。杜は「あばたの黄」で知られるフランス租界の主任捜査官が支配する麻薬ルートで運び屋になった。当時三つの暴力団があった。――赤、緑、青(紅、藍、青)だ――それらが薬の支配で争っていた。杜は、あばたの黄にどうすれば一緒に協定できるかを相談した。最終的にあらゆる障害をのりこえて、揚子江をはるかにさかのぼり中国の中庭にまで薬を送り込んだ緑派が引き離し赤と青は衰えていった。
一九三〇年(昭・五)までで、上海の賭博は一週間で百万ドル以上をうみだすという、地球上のどこにもないような大きな規模であった。杜のFushenカジノは三階建てでフォック通りにあり、顧客はお抱え運転手がリムジンで送り迎えをした。杜の犬競技場には犬レースがあった。十万人以上の売春婦が働いており、ファーレンやデルモンテのようなキャバレーやダンスホールでは、白系ロシアの女達が踊りそれ以上の客が金を使っていた。あるときすべてがわかった。杜は蒋介石の主要な後援者の一人なのだ。彼は大元帥に麻薬の利益を直に支払い、その見返りとして国民党政府からの認可を受けていた。しかし杜のライバル達だけは取引が禁止されていた。蒋の麻薬禁止運動が偽だとわかるだろう。麻薬取締局は押収したアヘンをヘロインやモルヒネに交換するために青幇に転売した。大元帥は自分の取り分を、杜の所有で、影では麻薬農園銀行と呼ばれていた中国農民銀行で受け取っている。蒋は自分の取り分を、軍隊の装備増強に使い、そのことが日本を悩ませた。日本の最初の上海侵入である一九三二年(昭・七)、杜親分は侵入者に対し青幇を送り込み戦いぬいた。蒋はこの愛国心の発揮を褒め称えた。しかし、単なる縄張り争いにすぎなかったのだ。
杜は、日本人が自分の支配下の賭博、売春、アヘンを圧迫してくるとは思っていなかったようだ。土肥原将軍はかつて赤、青、緑がやったように青幇、国民党政府、日本軍で利権をこっそり分け合う譲歩を作り上げた。分け前は、顧(KU)兄弟が履行した。一人は国民党の将軍で、もう片方は,上海江湾地域における青幇のボスだった。日本の投資家が製綿、製鉄、鉄道、製紙工場、発電、銀行などを始めた一九三二年に憲兵隊は最初の売春宿を開くことが可能になった。
かつては英国艦隊が統治していた所であるが,日本の蒸気船は揚子江と内陸深くまでを結び,いつでも軍隊を投入できるようにしていた。
暴力を繰り返し、日本は麻薬を大量に持ち込み、国民党のアヘン独占を覆し始めた。中国人の士気をくじくには、ヘロイン錠剤やヘロイン入りタバコなどの安い薬をあふれさせるのが最良の方法だろう。この事は国民党や青幇を驚かせ、うろたえさせることになった。日本はイランから船で輸入されるヘロインで補いながら、満州のアヘン栽培を空前の規模に成長させた。ペースト状のアヘンは満州や韓国、台湾などでモルヒネやヘロインに加工され、くず鉄にまぜ中国本土にある三井、三菱や他の複合企業の倉庫へ直接送り込まれた。
一九三八~三九年(昭・十三~四)に中国本土の漢口と同じく、日本の認可のある満州、朝鮮、日本の数百の工場のなかで、二千六百キロのヘロインを生産したのはソウルの軍工場ひとつだけであった。その最盛期には、千以上の日本企業が製造しアヘン、コカイン、覚醒剤を販売していた。日本製は青幇の価格よりはるかに安かったので、ある時点から大元帥も薬を日本人から買い付け国民党の独占地域で値上げして売りさばいていた。一九三六年(昭・十一)の末までに満州での実験がうまくいかないことが分かり、日本政府は中国全土の征服をすることになる。最初の段階は北京郊外での出来事からだ、北京北部を越境し、それを口実にした時だ。一九三七年(昭・十二)七月八日マルコポーロ橋(盧溝橋)近くのフェンタイキ付近にいた関東軍司令官は部下にでっちあげであるが、侮辱に対する報復として、中国人宿舎を破壊するように命じた。裕仁はシベリア前線のソビエト軍の圧力が増しつつある状況下では、多くの旅団を中国へ投入するということにあまり同意したくなかった。しかし、顧問達は、「なに言ってるですか。中国との戦闘なんか二-三ヶ月もあれば楽勝っすよ。」と安心させた。
中国のほうでもまた見込み違いがあった。大元帥、蒋の義弟で財務大臣の宋子文は笑って言った。「なあに、三ヶ月以内に金融恐慌の淵に追い込まれ、革命に見舞われるにきまってるさ。」
双方の予言はまったくはずれた。盧溝橋事変は、百万近くの日本軍団が八年間に渡ってはまり込む日中戦争にエスカレーロし、金融が破綻し、革命が起きたのは中国であった。
日本が北華を支配下におくと、フランクリンルーズベルト大統領は、日本の侵略熱を冷ますために貿易制裁で脅迫してきた。権力の座にしがみつくしかない蒋介石は、国民党を守るため、北華全域と揚子江南岸までを放棄した。これで、上海や南方の都市が攻撃にさらされることが対決の焦点となってきた。
一九三七年(昭・十二)八月七日、蒋元帥は自分の資産を守るには、米英を戦いの中へ巻き込むしかないと、日本軍に先制攻撃をすることを決めた。虹口(ホンキュー)に駐屯する五千名の日本人を国民党が三方向から襲った。両側から即座に軍が投入された。しかし、日本が、すばらしい戦術と装備をもって反撃を開始するに及び、優柔不断で行動力のない蒋介石は、数の上での有利さを浪費するだけだった。驚くほどのへまだったのだ。八月十四日、中国航空隊は黄浦江に浮かぶ日本軍旗艦「出雲」を沈めようとして、誤って混雑している市内大通りに爆弾を落としてしまい、大惨事となった。一ヶ月に及ぶ戦闘の末、二十五万人の中国人が殺されたのだが、多くは女、子供だった。混乱の中(日本をがっかりさせたのだが、)全ての中国銀行家、経営者、資本家達は財産をトラックに積み込み、西洋の軍艦が保護してくれるフランス租界地もしくは国際解放区へ急いで逃げた。十一月初旬まで、中国軍は勇敢に戦っていたのだが、蒋は突然不可解なことに自軍と本部を百八十マイル西の揚子江沿いの南京へ移動した。
大元帥を追いつつ西進した日本軍は、今後のいましめに、古都蘇州の美しい町を破壊した。日本軍が南京を包囲すると、蒋介石は再び戦わずして市民を見棄てた。最初に武漢まで河をさかのぼり四川省地方の山中五百マイル上流の重慶へ進んだ。そこならば、すべてから、最も勝利を得ることが決定的な相手からも安全であろう。そこで彼は戦時政府をたちあげ、世界に対して今でも自分が中国を統治していると語った。蒋は工芸的な財宝でいっぱいの数百の木箱を運んでいる。
蒋は最悪の事態に備えて、秘密警察長官の李に北京の国立博物館や、他の博物館から集められるだけたくさんの芸術品を箱詰めにさせた。
最終的にこれら箱詰めされた品々は、西方の山深く四川へ送られた。しかし、箱詰めにしても船積みにしても限度がある。日本が南京を攻略する直前、裕仁は結核を患っている松井石根を引き継ぐために、叔父である朝香鳩彦を派遣した。
どんな貴族社会でも、偏った教育のため、常に極端な国家主義者や、人権差別主義者がいるもので、日本も例外ではなかった。朝香のように自分達を神様だと思っている奴らにとって、中国人、朝鮮人、アジア人は単に軽蔑の対象でしかなかった。ついでに言うと、彼はアル中で、ひどく暴力的な発作に襲われていた。
南京郊外で司令を発し、彼は側近達に「今こそ中国人に忘れることができないくらいの教訓を与える時が来た。」と語った。
そして起こった南京虐殺では、約三十万人の無抵抗の市民が殺され、子供、若者、中年などあらゆる年代の女が強姦され、多くがむごたらしい殺され方をした。男子、女子、子供達が世界を恐怖のどん底に落とすような野蛮な実験の材料にされた。数千人の男達は、縄でしばられ銃殺されるか、ガソリンでずぶぬれにされ燃やされた。他にも、将校達が競技会でたくさん打ち首にできるところをみせるために、銃剣の練習台、もしくは打ち首の練習台に使われた。
残虐行為が続き、通りや路地が死体で埋まるのに数週間がすぎた。知らないところで処理された昔の残虐行為と違い、数百人の外交官、医者、宣教師らの目撃者がいた。そして証拠写真がこっそりと流出した。それは正に、ゴールデンリリィーが実施される苦々しい瞬間だった。
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一九三七年(昭・十二)日本軍が揚子江を横切って南京をめざし西進するとき、あまりにも多くの部隊が広がった沿岸に殺到し、日本の支配者エリートは侵略地での財務的な支配力を失う危険があった。というのも、敵対する司令官がその支配力を奪おうと競ってきたからだ。兵士による小規模な窃盗ですら注意しないのに、どうすれば陸軍、海軍の将校を貴重な芸術品に目もくれないようにできるものか。同時に、やくざの一群は恐怖の支配を演出しながら、新しく占領した地域を動き回っていた。すべての財産を守るためには、高度なレベルでの厳しい支配下に置かれる必要があり、帝国総司令部は裕仁が作った歌にちなみ、「金のユリ」(GoldenLily)を創設することにした。それは、皇族の監視のもとで、陸海軍の会計士、簿記係、船積専門家達で成り立っていたが、日本で最高の財政意思決定と、文化宗教に関わる財宝の専門家を擁する宮中組織となっていった。
中国がゴールデン・リリィーに搾り取られるとは、軍隊が牛を押さえている間に皇子達がミルクを盗むということだ。この組織は、裕仁の弟、秩父宮の直接指揮のもとにおかれた。丁度、南京の略奪が始まった一九三七年(昭・十二)十一月、即ち、皇居のなかに大本営が設置された時が、ゴールデン・リリィー立ち上げの日だとわかる。大本営設置の目的は、関東軍が命令を無視し、勝手な行動を繰り返させないためであり、すべての支配を、天皇とその顧問達の手の中に保持することであった。皇軍はすでに多くの特殊任務部隊を保有しており、文化的及び財政的スパイ活動や、土肥原のような情報員とは違う任務をおび、普通の命令系統には属しない情報機関があった。そこでは、崇高な物からくだらないものまで、あらゆる財宝をみつけるに必要な財源が再投資された。南京ではじめてのゴールデン・リリーの実行部隊は憲兵隊だった。憲兵特別部隊は市内を略奪して回り、政府の財産を奪い銀行の金庫、金持ちの家をぶち壊し、金、宝石、原石、絵画などの流動資産で目についた物すべてを持ち帰った。
富裕階級の多くや有名な中国人は、街や郊外に家、屋敷を所有していた。南京が侵略者によって略奪された時だけに限らず、すべてが用心深く正確で機能的に行われた。この一回目の略奪だけでも憲兵隊によって、少なくとも六千トンの金が集められたと報告されている。略奪に関しての歴史家の研究によると、公式な報告は実際に盗難されたもののほんの一片を伝えたにすぎないことを表わしている。(訳注)六千トンは現在価値で一兆五千億円になる。いくらなんでも桁が違うのではないだろうか。
略奪品の多くは貯蔵用に中国人が好んで使ったビスケット型のバーで、まわりに小さなプラチナの鋳型やダイヤ、ルビー、サファイアなどで、芸術的かつローマ時代風な細かい細工がなされていた。それらは個人の住宅や郊外の墓を破壊することで手に入れたのだ。日本人は金冠をとるために情け容赦なく死体から歯をへし折っていった。
憲兵隊が家具や鏡台、そして敷物までも箱に入れ、日本へ船積みしようとしていたころ、秘密情報院のエリートであるゴールデン・リリィーの工作員は、銀行所有者や組合長、質屋組織、派閥組織の親玉の中国人に焦点を向けていた。
特に、三つの組織や暴力団員の頭目には特別な注意がはらわれた。幾人かは町から逃れたが、親族はみつけられ監禁され、人質として使われた。
この整然としたやり方は、モンゴル族大軍の野蛮な略奪とか北京の夏宮殿でフランス、英国人旅団が酔っ払って暴れた事をはるかに越えるものだった。
ゴールデン・リリィーは欲から始まったものだが、又必要にせまられたものでもあった。一九三七年(昭・十二)日本は兵器の支払いで、金の準備高が半分まで減っていた。直系の皇子達が、自ら略奪した資産を記録し、特殊部隊に護衛された貨車やトラックで上海に向かって搬送された。軍司令官達は、皇子達が傷つくのを前に考え直していた。秩父宮はゴールデン・リリィーの監視役として熟考の上選ばれた。皇太子として狭い視野で厳しく教育されてきた裕仁と違い、秩父宮はオックスフォードで一年近く過ごしているし、アルプスの山登り休暇、そしてヒットラーと夕食を共にするというような外交任務もする都会的な教育が許されていた。裕仁の兄弟の中で明らかに彼にだけは冗談が通じるし、彼には又遊び心もあった。たとえば東京の宮殿ホール内で若い妻とローラースケートで遊んだりすることもあった。
日本の情報筋から秩父がゴールデン・リリィーの頭目だったと聞かされたとき、まったく信じられなかった。なぜならば、彼と極端な残虐性は相容れないものだったからだ。しかし、国家の存亡は国家財政にあり、皇室はそれに依存している。彼の教養の幅と、海外での体験があれば、秩父の選択は最良だっただろう。
彼の比較的広い心は、顧問達が描いた略奪の構想をあっさりと引き受けることになった。監視は秩父によって綿密になされた。皇子達だけが最終リストを持ち歩き、持ち帰る財宝の密閉も彼らが封印した。上州から船で直接本国へ送られるか、満州へ列車かトラックで運ばれ、朝鮮経由で日本へ送る前に、貴金属は分類されアクセサリーや加工品は溶かして正規な形に射直しがなされた。他にも多くの皇子達が魅力に乏しく危険な戦いの任務に参加するよりも日本を富ませながら戦争を遂行するこのゴールデン・リリィー作戦に集まってきた。
朝香宮はもちろんだが、我々は秩父と竹田も南京にいたことを知っている。
両者とも後日、あの恐ろしい光景を夢の中でうなされたと友人に打ち明けているからだ。何人かの情報筋は、裕仁の一番下の弟、三笠宮も南京にいたと主張している。後日、彼はフィリピンでゴールデン・リリィーの基地にいたことをはっきりと認めているが、南京にいたか確認はとれていない。
日本の驚くべき例として、いかに詳細にこだわったかと言うと、貴重な本や文章の専門知識をもつ古物専門特別調査団が選ばれていたことがある。その中には、日蓮宗の荒法師もいた。彼ら仏僧の仕事は、中国の図書館、博物館、個人の収集品、寺院の書棚の中から抜き出して日本に送ることだった。略奪が始まる前から彼等は中国を訪ね、個人収集家に力をかし、価値がある物品をリストアップしていた。一九三八年(昭・十三)の春、南京入城の後、千人規模の専門家が貴重な文献や文章の収集品を抜き取るために南京にやってきた。町のほとんどが荒廃しているため、建物の中にあるこれらのコレクションは危険な状況にあった。
皇室図書館がこの略奪品を最初に抜き取り、天皇個人の鑑賞用にとり置いたようだ。母国に持ち込む時に紛失しないよう確認のための一覧表が複数枚コピーされた。四百名の戦士に監視されながら、約二千三百名の中国人が荷造りの肉体労働に借り出された。船積みのために上海へ移動するには三百台以上のトラックが必要だった。それら盗んだ書物により、東京で東アジア研究会、東洋文化学会、東アジア経済学会、東アジア風土病学会、大東アジア図書館などが設立された。戦後、中国の学者達はこれら貴重品の返還を要求しはじめている。盗んだ本を保存していると特定された十七箇所の調査を実施した結果、アメリカによる盗みも発覚した。その中には皇居、宮内省、靖国神社、東京科学博物館、東京芸大、早稲田大学、東京大学、慶応大学などがある。米国占領当局は、日本が中国の蔵書からほぼ三百万冊の貴重な本や文献を持ち帰ったと結論づけている。
今日でも学者達が日本の蔵書はアジアで一番すばらしいというのは、盗んだものをほとんど返してこなかったからだ。
中国が取り戻したのは、たったの十六万巻であり六%にも満たない。ゴールデン・リリィーで中国の略奪に夢中になったのは、日本の巨大な複合企業の代表者である住友吉右ェ門のような大物達だった。彼は銅像の収集が専門だった。彼が戦利品の収集を始めたのは、一九〇〇年の北京包囲戦からで、満州や華北の占領中も続けていった。しかし、AveryBrundageで世界最高ランクとなった莫大な収集品を溜め込んだのは、一九三七~四五年の中華事変中のたった八年の間だったのだ。どうやって獲得したかはおもしろい読み物になるだろうよ。
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南京征服の六ヶ月前、土肥原は中国暗黒街を十分に略奪し得る男、日本のヤクザのドン、児玉誉士夫を呼びつけた。本拠を東京から上海に移し、土肥原とツー親分と青幇らとの連絡役になった。終戦の前児玉はインドシナ、シャム、ビルマ、フィリピン、インドネシアのギャング達に対するゴールデンリリィーの最良の仲介役となって口止めをしたりもし必要ならば殺すこともあった。児玉は小柄だががっちりとし、又ずんぐりとした体で厚い唇とひどい火傷のあとがあり、プロの戦士のような経験豊かな顔をもっている。彼の指は空手でつぶれていて、こぶしでのどを砕くことができる。二本松(福島県)で失敗したサラリーマンの息子で、九歳のとき朝鮮の祖母の元へ送られ、そこで鉄鋼所に勤めた。
十二歳で日本に舞い戻り、やくざに養われ、組合つぶしが彼の仕事となった。
一九三一年までに、内閣閣僚の暗殺未遂事件に連座した黒龍会の親分、頭山のお気に入りになっていた。その事件で刑務所に入るにあたり、児玉は右翼にとって手引書となる体験記を書いている。釈放後、頭山は満州の土肥原のもとで、陰の仕事をさせるために彼を派遣した。数ヵ月後、児玉は東京で天皇の顧問に爆弾を投げつけようと企てて拘束され、一九三七年まで入獄していた。
一九三七年(昭・十二)の春、土肥原は彼の暴力的な力を中国の地下社会の略奪に利用するため、刑務所から解放した。
児玉の暗殺団から愛国者への転換は黒龍会、頭山の指示であったが、その頭山自身、天皇裕仁の婚礼に招待された一九二四年から、愛国者へと変質していた。
外務省で打ち合わせをした半年後の一九三七年、児玉は、軽率な行動を正すために上海へ着いた。
彼は、戦後になって思い出を語り、「日本が占領した町では、馬鹿どもが、秘密資金を使って、女だとか、酒だとかで遊びまくっていたさ・・・。」
そして貴重な物への不注意な破壊行為に対しては、「占領地域では、・・・どの寺や神殿でも・・・・仏像の頭が壊されたり、首が落とされているのを見たぜ。・・・。」
ほとんどが教養のない田舎者の兵士達だが、仏像本体を盗むほどバカだったら射殺されるべきだ。
児玉の副官たちがこの命令書を発効させる間に、彼は酒、アヘン、日常品を独占的に支配していった。すべての収入は、中国人マフィアからゴールデン・リリィー部隊へ切り替えられた。児玉自身の取り分は除いてだが・・。もちろん、児玉は秩父宮に、また君主に対して忠義を誓っていた。皇子達はマフィア達と話し合う気はなかった。児玉は彼ら(皇子達)の手を汚すことを防いでいた。彼はヘロインを中国マフィアに渡し、金塊と交換する簡単な方法で麻薬を金の延べ棒へかえた。ブローカーがどうやって金塊を得たのかは彼のしるところではない。彼は揚子江中で金とヘロインを交換する海岸のボス 顧祝同(Ku―Tsu―Chuan)と仲良く利益を分けていた。
顧の兄弟で国民党の上級将校、顧竹軒(Ku―Chu―Tung)のおかげで、日本はビルマ経由、あるいはインドから空輸されて中国西部に届くアメリカの武器貸与法で届く戦略兵器に接近できるようになった。
武器商人の代理人としての児玉は、昆明(Kunming)とか重慶の倉庫で日本軍へアメリカ兵器を転売したこともあった。児玉の最も重要だった物々交換のひとつは仲介人である葉慶和(中国語では 叶と書くようだ。ye Ching―ho)とのアヘン取引だ。
一九三七年の終わりごろに葉(Ye)は見せかけの愛国心を棄て、児玉に忠誠を誓う見返りとして「中村太郎」という名前で日本の市民権を得た。彼は、台湾での薬物の支配権を所有し、軍事支配の特権をふるい、日本の愛人を絶やすことはなかった。葉は台湾から中国大陸へ直接船で麻薬を運びこんでいた。葉が別の件で忙しいうちに、児玉とヤクザの暗殺団は揚子江流域の村や町に立ち寄ってはうろうろしていた。地方の名士達を呼びつけて町の長や頭目の頭に銃弾をうちこんだ。これで裕仁にすべての価値あるものをもたらす作戦が保証された。児玉は注意深く絵画、金の延べ棒、宝石類をゴールデン・リリィーに振り向けた。
しかし彼はプラチナに魅了され、それだけは別に隠した。ある時、彼は日本に向かう軍航空機にあまりにもたくさんのプラチナを積み込もうとして、昇降ギアーが壊れてしまったという話があるくらいだ。それ以降、彼は人目につかずに持ち帰れる大きくて最上のルビーやサファイア、ダイヤのみを自分のものとして貯蔵した。公式に言うならば、児玉は児玉機関、あるいは児玉商会の名前で雇われた日本海軍航空隊のための、上海における物資調達員である。(特殊情報部隊は後に将校達の必要から名づけられ、そして代理店と呼ばれた)
記録によると彼の任務は銅、コバルト、ニッケル、雲母などの供給元を突き止め獲得することだった。彼はヘロインで支払うことで国民党秘密警察長官 載笠(Tai Li)から直接手に入れていた。アメリカ情報部によると児玉商会は塩の専売、モリブデン鉱山、農園、漁業、建設業を支配したという。児玉の贅沢な東京の邸宅を作るために薬で支払いがなされたのだ。彼は気前よく贈り物を右翼の人々や、裕仁の叔父東久邇に贈った。彼の個人的人脈は副提督大西、石原将軍、辻大佐、裕仁の従兄弟、竹田宮などで、ゴールデン・リリィーの財宝活動の鍵となる人物達だ。真珠湾と南方攻撃の直前、児玉は竹田宮と同行し、日本の南方軍事本部のサイゴンで陸軍提督寺内と打ち合わせを行っている。寺内は、朝鮮の略奪と併合を実行した寺内将軍の息子である。南方侵攻に海軍が関わり、かつ財宝を積む船がどうしても通過しなければならないマレー諸島を統治したからこそ、児玉は一夜で陸軍から海軍へ転進し、おまけに海軍提督なみの地位を与えられたのだ。まるでアルカポネをアメリカ海軍の提督にしたようなものだ。
児玉の階級は、船舶から徴用することを可能にし、又群島を徘徊する中国密輸団に対する影響力を与えることになった。ジョナサン・マーシャルは「日本は沿岸の海軍力が不足していたので、中国の密輸団から情報を得る見返りとして、彼らの独占を許していた・・・日本は彼らに、沿岸ならオンスあたり六千ドルで売れる麻薬を千六百ドルで奴等に売ったのさ。」と説明している。
真珠湾攻撃のちょうどそのとき、児玉は上海へ引き返した。その攻撃は、長年日本の横暴にさらされていた数百万のアジア人には少しも違和感がなかったのだが、アジアにいた西欧人にとって状況が変わってしまう出来事だった。日本は早速彼らの企業資産を押収し、西欧の銀行をかっさらった。
地方ではどうしても地方軍閥に頼るしかなくなるだろう。マイラとフレッド・スコバルは比較的ラッキーだった。彼等は山東省のTsiningで診療しながら宣教活動をしていた。真珠湾攻撃の当日、日本の兵士は彼らを逮捕し、そして将校は言った。「貴様らは家を離れてはならん。今まで所有していたすべてのものは、今からはすべて帝国の資産である。・・・・家の全ての資産リストを三部作成しないさい。所有する金は勘定されて家の中は将校立会いのもと捜索されることになる。」スコバルは本国送還前に収容所に抑留させられた。移動するたびにアメリカ紙幣を探すために、粗末な所有物が調べられた。「服の縫い目は怪しいぞ、肩パットは引き裂いて開けろ。靴底はもぎとれ、長い髪は残らず刈り取ってしまえ。」
戦後、中国へもどった彼らが見たのは、病院の窓枠、ドア、配管までもが引き剥がされた姿だった。裏玄関の下に埋めておいた銀食器の箱は持ち去られていた。パールハーバーの数週間前、北京にいる古生物学者が世界的な人類学上の財産のひとつである五十万年前の骨や、北京原人の歯などを救うために計画をたてた。一九二〇年代、彼らは北京から三十マイル程の龍骨丘で発見していた。
北京医療大学のスタッフは、骨を回収しアメリカのスミソニアン機構に移し、戦後に返却してもらうことに決めた。それらを梱包し、九個のスチール製の弾薬箱へ詰め込むことにした。この荷物は公使館の医師で、海軍中尉のウイリアム・T・フォーリィーとその助手の薬剤師ハーマン・デービスに預けられた。
運さえあれば、彼らも荷物も外交免責で保護されただろう。しかし、北京を離れる前に真珠湾攻撃が起こり、彼等は戦争捕虜となってしまった。
二週間と少し後、フォーリィーとデービス、そして十一名の公使館にいた水兵達は北京を出て兵站駅へ連行され貨車に入れられ日本の収容所へ向けて連れていかれた。二週間の船旅で貨車は工業地帯の港に着いた。しわがれ声の将校は日本兵士団へ命令し、フォーリィーとそのグループを小屋へ連れて行き、荷物は外で検査された。日本で働いていたことがあり日本語が話せる水兵によると、将校は「そこに置いていけ!」と言ったという。フォーリィー達が後で小屋から引き出された時、九個のスチール箱は持ち去られていた。
彼等は三年半、北海道の三菱鉱山で戦争捕虜労働者として過ごした。ジャーナリストのジョゼフ・コーギンスはニューヨークでこの話を何回もフォーリィーから聞いた後、一九八六年東京にやってきて、フォーリィーに学んだ日本の心臓学者と話しをした。皇居に面した素晴らしいレストランで、心臓学者はコーギンスに、戦後、東京で北京原人に関するいくつかの化石のことが報じられてきた、と話した。彼は皇居の方に向かって言った。「北京原人はおそらくここからそんなに離れてはいないところにあるよ。」
フォーリーィ博士はいつもコーギンスに言っていた。「神に誓って言おう。あの骨は皇居の地下にあると・・・。」
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>>>/qresearch/20461296 Q Research General #25100: Latest Edition
>>>/qresearch/20461622, >>>/qresearch/20461630
アーカイブ - 2024年2月22日のNBR大会でのキリスト教放送局でのトランプ演説!!!
注:以下の生地はトランプ・スピーチのメモ
https://controlc.com/1e2ae173
= = = = = = = = ====
ライブ: トランプ大統領、NRB大会でキリスト教放送関係者に演説 - 2024/2/22
https://youtu.be/QtnmvV7eQBM
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トランプ大統領: 私たちはこの国を救う。それは、あなた方のような、この聴衆のような男女のおかげであり、私たちは、神の仕事、あなた方の仕事を作る最高の人々によって代表されている。
トランプ大統領:今回の最大の脅威は国外からのものではない、私はそう信じています。それは内側からです。外国の人々よりも、我が国の人々の方が危険なのです。私たちは中国にも対応できるし、ロシアにも対応できる。賢明な指導者がいれば、私たちはそれらすべてに対処できます。しかし、内部の人は非常に危険です。私の意見では、彼らは多くの場合、非常に病んでいる人々です。彼らは病気なのです。
トランプ大統領:私が今日ここにいるのは、この戦いで勝利を収めるためには、過去の戦いと同じように、やはり主の御手と全能の神の恩寵が必要だということを知っているからだ。私たちはそれを持っていなければなりません。
トランプ大統領:ジョー・バイデン以下、彼らは世界で最もサディスティックな犯罪者や野蛮なギャングによる不法外国人侵略に対して我が国の国境を開放し、平和的なプロライフ市民を刑務所に閉じ込めてきた。
トランプ大統領:すべてのアメリカ人にとって、特にキリスト教徒にとって、この邪悪な制度を打ち破り、憲法上の法の支配の下で公正、平等、偏らない正義を取り戻すこと以上に重要なことはありません。憲法上の法治主義に立ち返らなければなりません。
トランプ大統領: 考えてみれば、すでに私たち全員の周りに鎖が張り付いています。急進左派が私たち全員を追ってやってくるのは、私たちの忠誠が自分たちに対するものではなく、私たちの国に対する忠誠であり、私たちの創造主(クリエイター)に対する忠誠であることを彼らは知っているからです。彼らはそんなこと聞きたくないのです。彼らはそんなこと聞きたくないのです。
トランプ大統領:彼らが我慢できないのは、結局のところ、我々はワシントンの官僚に答えず、天の神に答えているということだ。そうです。私たちは天の神に答えます。
トランプ大統領:「キリスト教徒や信仰を持つ人が民主党に投票するなんて...どうかしている。」
トランプ大統領:我々はそれを取り戻すつもりだ。それがこの国に欠けている最大のものだと私は心から信じています。それが欠けている最大のものです。私たちは自分たちの宗教を取り戻さなければなりません。私たちはこの国にキリスト教を取り戻さなければなりません
トランプ大統領:ペテン師ジョー・バイデンの下で、プロライフ派は現在、バイデン政権によって国家の敵として追い詰められている。
トランプ大統領:アンティファに対する告訴を取り下げた同じバイデン司法省が、ここテネシー州で、6人のプロライフ活動家を検挙した。彼らはクリニックの外で平和的な抗議活動を行い、そこで祈り、賛美歌を歌い、力づくで排除された。先月、この抗議者たちはとんでもない罪で有罪判決を受け、現在、最高で11年の禁固刑に直面している。これは共産主義国家だ。これは共産主義国家の始まりだ。
トランプ大統領:これらの巨大な権力乱用を逆転させるため、私が選挙に勝利した瞬間に、バイデン政権によって不当な犠牲となったすべての政治犯の事件を迅速に調査するための特別委員会を任命するつもりです。連邦政府が宗教信者を標的にするために利用されることは二度とありません。彼らは宗教の信者をターゲットにしています…信仰を持つアメリカ人は我が国にとって脅威ではありません、信仰を持つアメリカ人は我が国の魂です。
トランプ大統領:彼らはできる限り十字架を壊し、それが何を意味するのか誰も知らない社会正義の旗で覆いたいと考えている。
続く
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e9ccba No.132837
Originally posted at >>>/qresearch/20462016 (231319ZFEB24) Notable: LIVE: Trump to Address Christian Broadcasters at NRB Convention - 2/22/24
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>>132836
>>>/qresearch/20461622
トランプ大統領:トランプ政権下では誰もキリストの十字架に触れなくなるだろう。そんなことは決して起こらないと誓います。決して起きない。ホワイトハウスに戻ったら、4年間そうだったように、信教の自由を積極的に擁護するつもりだ。問題はありませんでした。私たちはあらゆる形でそれを守るつもりです。私たちは学校で、軍隊で、政府で、そして放送波のすべてでクリスチャンを守ります…あなたが放送で話している素晴らしい仕事をしています…私たちは公共の場で神を守ります…私は決して許しません大手メディアや左翼圧力団体があなたを黙らせたり、検閲したり、差別したり、何らかの形であなたに言うべきことを伝えたりすることを許しません。私たちはそれを許すつもりはありません。あなたは自分の言いたいように言い、そして信じるでしょう。あなたは神を信じるでしょう。神がここにいて、神が見守っているから、あなたは神を信じることになるでしょう。
トランプ大統領: 就任後、私は反キリスト教的偏見と戦うための新しい連邦対策委員会を設置します…その使命は、米国におけるあらゆる形態の違法な差別、嫌がらせ、キリスト教徒への迫害を調査することです。
トランプ大統領:私はまた、ハマスに数十億の税金を注ぎ込んでいた国連機関への資金提供も打ち切ったが、ジョー・バイデンは資金を返還した。 10億ドル近くです。彼は彼らに10億ドルを返しました。
トランプ大統領: 外国の指導者が他の国からやってくることを想像できますか。彼らは米国ワシントンのことばかりを聞いており、汚れた道路、あちこちに穴があり、中央分離帯が道路に落ちているところを運転しています。
トランプ大統領:もう一つの最優先事項は、教育システムを共産主義者や教育システムを破壊する変人たちから取り戻すことだ…私は、保護者が公立、私立、または宗教学校の中から最も適した学校を選択できるようにする、普遍的な学校選択の政策を支持する。彼らの子どもたちに適しています。そして私は、529の教育普通預金口座を子ども1人当たり年間最大1万ドルまで完全に非課税でホームスクール費用に使用できるようにするなど、アメリカのホームスクール家庭を支援します。
トランプ大統領:私はまた、ジェンダー・イデオロギーの有毒な毒を打ち破り、神が男性と女性という2つの性別を創造したという時代を超えた真実を回復するために歴史的な行動を取るつもりです。
トランプ大統領:何世代にもわたって、アメリカの宗教放送は、この国の人々が「In God We Trust(我々は神を信じる)」という輝かしいモットーの言葉を守るのに役立ってきました。私たちはそのモットーを決して変えるつもりはありません。そのモットーを変えたいと思っている人はたくさんいます。そのモットーは決して変わりません。そのモットーは決して変わりません。素晴らしい座右の銘ですね。
トランプ大統領:3年前、我が国は偉大な国でしたが、間もなく再び偉大な国になるでしょう。あなたの祈り、声、そして投票で、私たちはこの恐ろしい暴君から政府を取り戻します。私たちは共産主義者、マルクス主義者、ファシストを排除します。私たちはペテン師ジョー・バイデンを倒し、信仰と家族をアメリカの生活の中心に戻し、国民に権力を取り戻すだろう。紳士淑女の皆様、皆様のご支援と神のご加護により、2024 年 11 月 5 日にアメリカの偉大なる復興が始まります。
終わり
notablesに含まれていない昨夜の集会に関する集約メモとして再投稿します。
Anon, Thank you as always.
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e9ccba No.132838
Originally posted at >>>/qresearch/20462064 (231333ZFEB24) Notable: LIVE: Trump to Address Christian Broadcasters at NRB Convention - 2/22/24
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>>132837
訂正
>私は決して許しません大手メディアや左翼圧力団体があなたを黙らせたり、検閲したり、差別したり、何らかの形であなたに言うべきことを伝えたりすることを許しません。
私は、大手メディアや左翼の圧力団体が、あなたを黙らせたり、検閲したり、差別したり、あなたの言うべきことを指示したりすることを決して許しません。
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e9ccba No.132839
Originally posted at >>>/qresearch/20462125 (231352ZFEB24) Notable: 『ニュース・メディア』を装った宣伝機関には2つの役割がある: 嘘を売ることと 真実を隠すことである
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>>>/qresearch/20462073
https://truthsocial.com/@TrueGenFlynn/posts/111975463709544140
Avatar
Michael T. Flynn 🙏🏼 🇺🇸
@TrueGenFlynn
From @BrianCates , such a great and truthful post!
ブライアン・ケイツ氏(@BrianCates)より!
「主流メディアはニュースビジネスではなく、プロパガンダ/物語ビジネスであることに気づけば、これまで見てきたことの多くがより理にかなったものになるだろう。
彼らの仕事は、主人からお金をもらってあなたに見せているプロパガンダに疑問を抱かせるようなことを隠すことだ。
彼らのシナリオのほとんどは真っ赤な嘘だ。大衆に嘘を「信じ込ませる」ためには、真実を隠さなければならない。
だから、『ニュース・メディア』を装った宣伝機関には2つの役割がある:
嘘を売ることと
真実を隠すことである。
2024年2月22日、午前2時53分
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e9ccba No.132840
YouTube embed. Click thumbnail to play. Originally posted at >>>/qresearch/20463823 (232026ZFEB24) Notable: LIVE: President Trump Holds a Get Out the Vote Rally in Rock Hill, S.C. - 2/23/24
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>>>/qresearch/20463731
LIVE: President Trump Holds a Get Out the Vote Rally in Rock Hill, S.C. - 2/23/24
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e9ccba No.132841
Originally posted at >>>/qresearch/20463869 (232034ZFEB24) Notable: LIVE: President Trump Holds a Get Out the Vote Rally in Rock Hill, S.C. - 2/23/24
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>>132840
>>131530
2:00 PM EST
LIVE: President Trump Holds a Get Out the Vote Rally in Rock Hill, S.C. - 2/23/24
Right Side Broadcasting Network
https://rumble.com/v4elblx-live-president-trump-holds-a-get-out-the-vote-rally-in-rock-hill-s.c.-22324.html
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President Donald J. Trump to hold a Get Out the Vote Rally in Rock Hill, South Carolina
Doors Open: 1:00 PM (US/Eastern)
https://event.donaldjtrump.com/events/president-donald-j-trump-to-hold-a-get-out-the-vote-rally-in-rock-hill-south-carolina
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e9ccba No.132842
YouTube embed. Click thumbnail to play. Originally posted at >>>/qresearch/20465244 (240016ZFEB24) Notable: LIVE: President Trump Holds a Get Out the Vote Rally in Rock Hill, S.C. - 2/23/24
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>>132840
>>>/qresearch/20464203 Q Research General #25103: Brute Force Edition
>>>/qresearch/20464927
アーカイブ - トランプ氏は2024年2月23日午後10時頃(グリニッジ標準時)に講演予定!!
注: ラリーメモ。
= = = = = = = = = =
ライブ: トランプ大統領、サウスカロライナ州ロックヒルで投票集会を開催 - 2/23/24
ドナルド・J・トランプ大統領は、2024年2月23日金曜日にサウスカロライナ州ロックヒルのウィンスロップ・コロシアムで最後の「投票に出よう」集会を開催する。
RSBNは東部時間午後4時からトランプ大統領の発言を完全に生中継する予定だ。
https://www.youtube.com/watch?v=zU2GiT-S8bE
https://youtu.be/zU2GiT-S8bE
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>>>/qresearch/20464283 djt: 最後にここに来たのは1月16日でした。
トランプ大統領:ニッキー・ヘイリーは民主党とリベラル派に頼っている。ご存知のとおり、民主党は彼女の選挙運動に資金を提供しています。彼女の最大の支持者の一人は、インターネットでお金を稼いだ急進左派の民主党員だ。実はとても悪い奴なんです。
トランプ大統領: 最も悲しいのは、あと9か月あるということだが、彼らが引き起こし得る愚かさと破壊は、まさに気が遠くなるようなものであり、私たちはこの時間が早く過ぎることをただ祈るしかない。だから私たちは、この時間が早く過ぎることを祈るしかない。彼らはこの国を破壊しようとしている。
トランプ大統領:私は、貴重な小さな美しい赤ちゃんを産もうとしているカップルが体外受精を利用できることを強く支持します。そして今日、私はアラバマ州議会に対して、アラバマ州での体外受精の利用可能性を維持するための即時解決策を見つけるために迅速に行動するよう求めています。私は彼らがそうするだろうと確信しています。共和党は常に命の奇跡の側、母親や父親、そして美しい赤ちゃんの側であるべきです。体外受精はその重要な部分であり、私たちの偉大な共和党は常に皆さんとともにあります。私たちは、人生の究極の喜びを見つけるあなたの探求に常に寄り添います、ご存知のように、人生の究極の喜びは、美しく、健康で、素晴らしい赤ちゃんです
トランプ大統領:ミット・ロムニーは共和党にとって災難だが、今はもういない。ご存知のとおり、私たちは非常に悪い人々の多くを排除しています。
>>131597 djt: 信号を送らなければなりません。 1 Qドロップ。
トランプ大統領:私は中国の最恵国貿易地位を剥奪し、中国やその他の貿易乱用者に厳しい罰則を課す。彼らは途方もない貿易乱用者です。
トランプ大統領:外国に対する関税が上がるにつれ、アメリカの労働者や家族にかかる税金は大幅に下がるだろう。
トランプ大統領:ニューヨーク市では、我が国に来る必要のない移民の群れによって我が国の警察が暴徒化され、残忍な暴行を受け、ひどい暴行を受けているのに、その後彼らは我が国の警察官に中指を立てながら再び路上に解放されている…彼らは国から来た人々だ; 彼らが自分の国ではそんなことはしないだろうと私は保証します。彼らは自分の国ではそんなことはしないだろう。私は彼らの国を知っています、彼らの国でそんなことをしたら、彼らは5分と生きられないだろう。
トランプ大統領:私たちはつい最近、サウジアラビアとロシアが石油の生産を縮小し、同時に価格を大幅に引き上げると聞いたばかりである。私たちはその脅威に対し、アラスカやその他の美しい土地での石油掘削を中止すると発表した。
Djt: そして私たちはアメリカを再び偉大にするでしょう
終わり
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e9ccba No.132843
Rumble embed. Click thumbnail to play. Originally posted at >>>/qresearch/20465364 (240041ZFEB24) Notable: トランプ氏、サウスカロライナ州黒人保守連合祝賀会で基調講演 - 2024 年 2 月 23 日
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>>>/qresearch/20465257
>>131629 #25103
>>131590 (次の集会は東部標準時間午後 5 時) トランプ氏、サウスカロライナ州黒人保守連合祝賀会で基調講演 - 2024 年 2 月 23 日
Next rally
5:00 PM EST
生中継:トランプ、S.C.での黒人保守連盟ガラで基調講演 - 2/23/24 - その他の注目すべき講演者には、ベン・カーソン博士、ティム・スコット上院議員、バイロン・ドナルド下院議員、ウェスリー・ハント下院議員が含まれる。
Right Side Broadcasting Network
https://www.youtube.com/watch?v=Ioa2UsmFzA4
https://rumble.com/v4dtvql-live-trump-keynotes-the-black-conservative-federation-gala-in-s.c.-22324.html
-
6:00 PM EST
黒人保守連盟、サウスカロライナ州コロンビアで開催された年次BCFオナーズ・ガラでドナルド・J・トランプ大統領を基調講演者として主催
黒人保守連盟
https://www.donaldjtrump.com/news/c6b1dbf5-aca2-4d0c-9540-eae7a9aa0535
https://twitter.com/BCFOfficial_
https://www.bcfaction.com/2024honorsgala
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e9ccba No.132844
YouTube embed. Click thumbnail to play. Originally posted at >>>/qresearch/20466699 (240514ZFEB24) Notable: トランプ氏、サウスカロライナ州黒人保守連合祝賀会で基調講演 - 2024 年 2 月 23 日
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>>132843
>>>/qresearch/20465679 Q Research General #25105: Fryday Night Shift Count The Beats Edition
>>131692 #25105 NOTABLES
>>131666 ライブ: トランプ大統領、サウスカロライナ州黒人保守連合祝賀会で基調講演
>>131667 トランプ大統領: 私たちがどれだけ偉大な仕事をしたかを示す一つの兆候として、今日、米国下院では、1870年代以降で最も多くの黒人共和党議員が活躍している...私にとっては進歩の兆候だが、急進左派の民主党議員にとってはパニックの原因だ。
>>131670 トランプ大統領 私の政権下で、黒人系アメリカ人はわが国の歴史上かつてないほど繁栄した。アフリカ系アメリカ人の失業率は過去最低を記録した。黒人系若者の失業率も過去最低を記録した。
>>131671 トランプ大統領 バイデンは3年間のインフレ率をほぼ39%とした......少し多く稼ごうが関係ない、インフレ後はずっと、ずっと遅れている。
>>131672 トランプ大統領 住宅ローンの平均的な支払額は、私が大統領であった頃と比べ、現在ではほぼ2倍になっており、一般的な家庭では年間19,000ドルも余分に住宅ローンを支払っている。
>>131673 バイデンにとって、アフリカ系アメリカ人の夢を壊すことは目新しいことではない。あなたはこれを知っている。この男の背後にある本当のストーリーを知っているはずだ......彼と一緒に歴史をさかのぼることができる。それが何かわかるか?人種差別主義者であること。なぜなら彼は人種差別主義者だからだ。
>>131674 トランプ大統領 急進的な民主党は、何十年もの間、黒人家庭に戦争を仕掛けてきた。考えてみれば、実に100年だ。一世紀だ。ボルチモアを、ニューヨークを、シカゴを、これらすべての場所をご覧ください。西海岸で何が起こっているか見てみよう。彼らはスラム街で危険だ。何も起きていない。私たちはそれを変えるつもりです。
>>131675 トランプ大統領 バイデンは何年も悪名高い人種隔離主義者とつるんで過ごした...自分の故郷の州が奴隷の州だったことを自慢していた。彼はそれが素晴らしいことだと思っていた。彼の身振り手振りや言い方を振り返ってみると、彼はそれをとても誇りに思っていた。彼は自分の子どもたちを "人種のジャングル "で育てたくないと言った。
>>131676 トランプ大統領 ジョー・バイデンは1994年の犯罪法案を起草し、黒人社会に壊滅的な打撃を与えた不当な量刑格差を引き起こした...コリー・ブッカーはバイデンを大量収容の立役者と呼んだ...ヒラリー・クリントンとジョー・バイデンが略奪者や犯罪者について話していた時代だった...それから数年後、盗んだ勇気の行動で、ペテン師ジョーは自分を公民権運動の英雄と偽る度胸があったが、それは実に虚偽だった。
>>131677 トランプ大統領 人種差別主義者のジョー・バイデンとは異なり、私は自分の全人生を、雇用を創出し、建物を建設し、地域社会に投資し、あらゆる人種、宗教、肌の色、信条の市民のために機会と自由を拡大するために、黒人系アメリカ人と手を携えて働いてきた。
>>131682 トランプ大統領 人身売買。ほとんどが女性です。そして、それはほとんど古代の犯罪のように考えられている...それは1000年前よりも悪化している。その理由はコンピュータのせいです。インターネットのせいだ。彼らはインターネットで女性を検索し、拉致する。信じられないような恐ろしいことだし、大きなビジネスになっている。麻薬ビジネスと同じくらいの規模になりつつある。私たちはこのような人たちを止めます。
>>131685 トランプ大統領 バイデンが大統領に就任して以来、29以上の主要都市で殺人事件が30%以上増加した。このような犯罪の波はこの国では初めてだ。移民犯罪のせいでさらに悪化するだろう。昨年、ワシントンDCでは過去26年間で最多の殺人件数が発生した。白人リベラルの犯罪促進政策によって、アメリカ黒人ほど苦しめられている者はいない。これらの都市における暴力犯罪のほとんどは、ほんの一握りの危険な常習犯によるもので、その多くはマルクス主義者の検察官によって野放しにされ、彼らは彼らを追及したがらない。急進的な地方検事は共和党員を拘束することに集中している。
>>131687 トランプ大統領 黒人保守派は、わが国の歴史における最大の悪のいくつかは、他者を標的にし、服従させ、自由を否定し、権利を否定しようとする腐敗したシステムから生まれてきたことを、他の誰よりもよく理解している。あなたはそれを理解している。だからこそ、黒人は今、私の味方になってくれているのだと思う。私に起きていることは、彼らにも起きていることなのだ。
>>131688 トランプ大統領 私は地域の教会を支援し、信仰と家族をアメリカ生活の中心に据える。
Anons & Bakers TYVM!
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e9ccba No.132845
Originally posted at >>>/qresearch/20466744 (240529ZFEB24) Notable: GOLD WARRIORS "金の戦士" 【2】【3】【4】
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>>132835
黄金の兵士 第4章 激動のアジア
第四章 激動するアジア
日本が中国へ侵略する事になったのは満州での失敗のせいだ。
中国でしくじったことで、東南アジアを侵略することになった。どちらの場合でも、日本は領土を広げることこそが諸問題の解決法だと考えていた。
勝利することは、失うことだとは思わなかったのだろうか?答えは驚くほど簡単だ。勝利を得るごとに、吃驚するほどの財宝が手に入ったのだ。しかし、それはすぐに通常の隠し場所から消えた。そうやって、日本の支配者階級はたいへんに裕福になっていった。その間に、一般国民は軍事費の負担に苦しみ、赤字を埋めるために搾り取られていた。早い話、堕落した支配者達の根本的な問題は、略奪へ資金を投入することで、さらに財政を悪化させただけだということだ。大災難が目の前にきていた。しかし、根っこに独特な愛国心的文化があるため、ほとんど誰も何も言い出せなかった。
中国で苦しみながらも、軍事支出の制限を取り除き陸軍、海軍とも、さらに南方へ賭けをするため前進していった。
日本は数限りない急襲攻撃を繰り返してはすぐに和平条約を結び、台湾、朝鮮、満州を維持している間に少なくともフィリピン、インドネシアを手に入れた。ほとんどの官僚達は、西欧との戦争で勝ち続けることができるとは思っていなかった。しかしながら一九四一年(昭・十六)秋、裕仁は、急襲すれば有利であるが、延期すればチャンスはなくなると、説得されてしまった。
パールハーバーの数週間前、裕仁はローマ法王ピウス七世に連絡をとり、万が一の場合平和の使者になってもらえるよう伝えた。法王の歓心を買うため、裕仁は財務顧問に命じ、ローマのバチカン銀行、ポルトガル、スペインのバチカン系の銀行へ四千五百万ドルの預金をさせた。
驚くべき速さで南方侵略作戦が動いた時に預金が実行された。パールハーバーの翌日、上海国際租界地区が侵略された。日本旅団はシャムに上陸し、バンコク政府は降伏すると連合国へ丁寧に宣戦布告した。
二日後、シンガポールを出て日本軍のマレー半島上陸を阻もうと航行していたプリンスオブウェールズとレパレスが、日本の爆撃機により撃沈させられた。日本旅団はマレー半島を自転車に乗って駆け下り、同時に他の部隊はビルマ、スマトラを侵略していた。十二月末には香港、グアム、ウェイク島を攻略し、日本はフィリピンへ侵攻していった。一九四二年(昭・十七)三月九日、ジャワでは抵抗勢力が敗れた。パターンは四月九日に包囲され、五月六日、カレンドールはおちた。パールハーバーの五ヵ月後、日本は東南アジアを支配したのだった。
暴力的な強盗行為の観点からすると、一九四二年(昭・十七)の十二ヶ月は正に生き地獄だった。日本はあせりながらも力で屈服させるため恐怖をみせつけた。憲兵隊と特務機関はゴールデンリリィーの略奪品を集めるためペナン、あるいはシンガポールに投入された。そして最終的に日本に持ち込む前にマニラへ送られ、皇子達によって分類され、リストを作ることになっていた。
政府の略奪に対する考え方は大本営連絡会議で、裕仁によって作成された。
「東南アジア占領下における軍の行動のための指針」文書の中にある。
彼は「戦略物資の獲得、占領部隊の自給体制の確立、法と命令の回復」を軍に指導していた。ひらたくいうならば、獲得とは奪うことであり、自給とは占領費用の負担を現地の人民にさせること、法令順守は、つまりあらゆる機会に暴力を使って抑圧することだった。この命令は軍に自由裁量を与えることになった。一九四二年(昭・十七)の大本営会議で麻薬貿易の責任者であり、いまや天皇の側近の長である星野直樹は言った。「我々には何の制約もない。あるのは敵の持ち物である。我々は望むまま何でも奪うことができる。」
第二次大戦でほとんど注目されなかった中の一部が、資産的なごまかし、弾圧、暴力、強請り、そして秘密の裏切りである。
ほとんど報道されなかったのは、個人的な富を失うよりもむしろ、自分の国や家族を裏切ることを選択すればとても目立つ存在になってしまうからだ。
今日ですら、日本の資金的な密約は世界で最も硬く閉ざされた疑惑のひとつとして残ったままである。ナチスの略奪や経済的な陰謀については多くの本が出版されてきた。しかし、日本のそれらの記録は、西洋の公文書や記録から持ち去られ、極秘文書のまま今後、半世紀は公開されないだろう。秘密にする理由を言うべきではないだろうか。米議会の努力のおかげで法案106-567が通過して、日本との戦争が始まる初期の公文書が一般公開されることになった。土壇場になりCIA長官は、CIAが公開しても良いと認めた物と、CIAが関与してきた中で、国家の安全に関わるものを除いて公開を許すという抜け穴が付加された。このすべての文書をCIAが選別できる許可は、引き続き始まった戦争での日本とアメリカとの好ましからぬ共謀を覆い隠すであろう。保存文書が全て公開されるまで、我々はほんの断片を見るしかない。もっとひどいことは後の章で紹介しよう。
日本が南方を攻撃すると、日常的な物資が戦利品として略奪できた。銅線、石油、石炭、米、干し魚、保存肉、塩などだ。マレーシアやフィリピン、オランダ領東インドなどでは、穀倉、石油貯蔵庫、魚養殖場から個人の家、ホテルまですべての家屋が没収された。ローマ法王を通じての素早い停戦協約に失敗したため、もっとたくさん略奪するほか選択の余地はなかった。最初こそ勝ち続けたものの、秩父宮や高松宮、そして多くの人から見ると、一九四二年(昭・十七)半ばの時点で軍事的に負ける事は明白になっていた。そうなのだ。かつて、一度も負けた事がないというよりもっと重要な事なのだ。
シンガポール陥落のあと、秩父はゴールデンリリィーの南方本部をそこに設置し、事務員や簿記係、会計士を用意した。彼は略奪品の収集と船積みの一大集中センターのあるクアラルンプールやペナン島の銀行の中心街北部へ飛んだ。アイポーでは華僑の錫精錬業者と共同して没収した大量の金宝飾品を溶かし鋳直しをしていた。ラオス、カンボジア、シャム、ビルマでまとめられた金塊は、列車でアイポーへ運ぶか、貨物船でペナン、シンガポールへ送られた。呉忠信(Wu Chye-Sin)は福建省の実業家だ、彼はビルマやシャムで盗んだ貴金属をゴールデンリリィーのために鋳直しをして数%の歩合で財をなしたのだった。彼は中国語と英語が話せるので、カンボジアではクメール語やフランス語で表示するところを彼の延べ棒は英文字で品質表示をしていた。これによりゴールデンリリィーは多様な品質表示を付け加えることになる。半世紀が過ぎ、アイポーの呉によって製造された数百の金塊はルソン島の洞窟の奥深くでイゴロット族により発見され、それらは朝日放送の撮影隊に披露された。びっくりしたテレビ職員は、金の延べ棒とくり抜いた芯材見本をビデオに収めた。このサンプルが東京で分析され金の特徴(冶金学上でいう指紋のようなもの)が特定された。(十三章を参照)
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e9ccba No.132846
Originally posted at >>>/qresearch/20466745 (240530ZFEB24) Notable: GOLD WARRIORS "金の戦士" 【2】【3】【4】
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>>132845
ビルマからの金塊は、15.5x5.5x3.8 cmのピラミッド型で、二〇カラット、6.2KGの重さがある。金の仏像も届いていた。金持ちのビルマ人は仏塔を寄贈するか、金の仏像を持つことで輪廻転生を望んでいた。いくつかの仏教徒一派が、金を少しづつ蓄え作り上げたブッダの像の総重量は八トンにもなった。(現在価格で二〇〇億円)それらは石膏で偽装され、全体を白く塗り、顔はペンキで装飾がほどこされていた。その宗派の長老だけが石膏の中が純金であることを知っていた。日本人将校が仏塔で最初に実行したのは石膏の仏像の中味が金であるかどうか見るために壊すことだった。一九四二年(昭・十七)七月、マニラ十五番埠頭に着いた金の仏像は十五フィートを越える高さまで積み上げられた。あまりの重量なので、それらを切り刻むほかに解決法はなかった。しかしそれではヒンズー教徒は怒るだろう。だから、仏像をはしけに降ろし、マルキナ河からマルキナ平原と呼ばれる滑走路へ運んだ。そこにあったブルドーザーで押し、穴の中へ隠し、戦争のあとに掘り出すために土砂でおおった。それを実行した将校が配転すると、この件は忘れられた。
数十年後ある偶然からこの金の仏像が発見された。これはマリキナ平原に宅地が開発された時のことであった。ゴールデン・リリィー部隊はクアラルンプールのネガラ銀行地下金庫で1x2x5.75インチの寸法で各6.25kg、23.97カラットに包装された延べ棒をみつけた。他の金は福建、客家(Hakka)、テオチウ(Teochiu)地方の錫鉱山や、ゴム園の金持ちから押収されたものだ。それ以上のものをマレー国家の各首長や貴族からゆすりとった。カンボジアからは15.5x5x3.7㎝で92.3%純度の延べ棒、数トンが列車でやってきた。
一九四二年、四三年、四四年を通し秩父とその部下達は、乾期はフィリピンで過ごし、マニラで台風が吹き荒れる時期は比較的楽なシンガポールへ移動した。秩父宮は一九三〇年代後半、満州で肺結核を患ったのでフィリピンでの雨期は避けねばならなかった。肺結核はまた日本からの彼の失踪をごまかすのにも好都合だった。秩父宮は健康上の理由から軍を退き、富士山麓の別荘で静養し妻が看病していると公表されていた。秩父宮の死から随分たってから宮妃の回顧録が出版されたが、彼女が言うには隔離状態で戦時中を過ごしたため、兄弟と会う機会は二度か三度だったそうだ。その間、彼がどこにいたのか誰も言えることはできない。多くの日本人やフィリピン人が、彼はマニラにいたと証言している。もっと言うならば、彼の結核は広く知られていたわけではないのに、彼ら証人は、秩父がハンカチに血をはくところを詳しく話している。(訳注)この件は永遠の謎である。水掛け論になるだけだ。
多くの警告を受けつつも、日本軍は政庁、銀行、市民を急襲していた。日本軍がフィリピンを襲う前に不安を感じたアメリカ人は、妻や子供を帰国させる様、国務省に求めた。ところが、国務省は明確な回答を拒んだ。
後に議会が、女子供を避難させるという悪い知らせを送るとせっかくの和平条約の進展に悪影響を及ぼしかねなかった、と主張すると、この国務省の対応はそれなりに正当だとされた。そうするうちに、多くの母子が四年間の収容所生活を送ることになった。
オランダ領は格別に心配であった。一九四〇年(昭・十五)の夏までにナチスがオランダを占領していたため、母国にもどることももはやできなくなっていた。オーストラリアには夢のような安全地帯があり、すでに多くの英国人の植民者が移っていた。しかし英国にいるオランダ亡命政府は、オランダの植民者は動いてはならないと言明した。ジャワやスマトラでは数千名のオランダ人男女が、七十八万マイルにも広がる群島の隅々までに軍役や市民防御隊として借り出されていた。彼等は外へ送金することを禁じられていた。
一九四一年(昭・十六)十二月になって、オランダ植民地政府は公的な貯蔵金(一億二千万ギルダーの価値があった)をジャワ号やフロンチス号のような商船をチャーターして、オーストラリア、アメリカ、南アフリカへこっそりと移動していた。(約二億五千万ギルダーは初期に米国へ移され、アメリカの武器や戦闘機の支払いの精算に使われた。)これらの移動は偽の情報を信じさせるため、極秘とされたままだ。
多くの植民地職員は不意をつかれた。ダグラス・マッカーサー元帥と特に仲のよかったフィリピン大統領マニュエル・クエゾンは、十二月八日、太平洋戦争が始まったと連絡を受けたときバグイオの山岳リゾートで静養中だった。マッカーサー自身もクラーク基地に専用機を停めていて不意をつかれた。そこも、台湾からの日本機によってほとんど破壊されてしまった。十二月二十二日、日本軍はリンガエン湾に上陸した。翌日マッカーサーはマニラを撤収し、米軍及びフィリピン政府はパターンとコレキドールへ引き上げると宣言した。
軍用品、食料、医薬品が島へ船で運ばれた。マッカーサーはチャールズ・ウィロビー大佐(G2)に命じ、フィリピン国家資産とフィリピン中央銀行、ナショナル・シティバンクの個人預金を移すことにした。(ウィロビー隊が空っぽにした二十三のおばけ金庫は、その後ゴールデンリリィーによって金の延べ棒の隠匿用として戦後に掘り出せるようにサンティアゴ要塞で排気口の中で使用された。)フィリピンの国家財産の内訳は、五十一トンの金、三十二トンの銀、百四十トンの銀貨、二千七百万ドルの米国債券などで、さらに未公開の大量の社債、貴金属、財務省証券などがあった。当時、金だけで四千万ドルだった。シティバンクは個人預金として宝石をちりばめた金塊二千トンや貨幣、貴金属などを個人用貸金庫に預かっていた。それらは四日間かけて、マニラからコレキドールへ軍のタグボートや小さなヨットで運ばれた。この業務は一九四一年(昭・十六)十二月二十七日に完了している。
ウィロビーの妻は一覧表を作りを手伝ったのだが、金が目立たないことに驚いた。「それって鈍い輝きで金にはぜんぜん見えないの。ほとんどの延べ棒は包まれてるしね。まあいくつかは包みもなかったけれど・・。数人が伝票を貼り付けて、残りの人は形や重さを記録して中にいれるわけ。私はバターの塊のような延べ棒の大きさを見るために両手を使って持ち上げなければならなかったわ。」(金の塊は12x12x12インチの寸法で二千ポンド(七四六kg)の重さであった)この財宝はコレキドールの坑道施設に収納された。
厳密に言うと、一四三〇トンのペソ銀貨はマリンタトンネル内に置かれた。個人の二トンにもなる金塊は防御柵の中に収められた。
政府の五十一トンの金塊(二〇kgづつで二五四二個になる)はマリンタ・トンネル南側の海軍坑道の横に政府の衛兵が警護する形で置くことになった。
四月の終わりごろ百十一トンの銀貨がサン・ジョーズ湾に投げ捨てられ、潮流によって流されてしまった。
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>>132846
一九四二年(昭・十七)二月三日、対空円形台座付き米軍タンバー級潜水艦、トロウトが食料と医薬品の供給のためコレギドールへ到着した。
荷を降ろすと船長は、荷物と入れ替えにバラスト(重量)が欲しいと言った。そこでマッカーサーは財宝を積み込むことを決意した。二台のトラックが個人所有の財産を取りに防御柵の内側へ送られた。十六トンのペソ銀貨、他の貨幣、㈱、債券、財産証明書などが潜水艦に積み込まれた。トロウトは巡視を続けパールハーバーの軍港へ向かう前に二艘の日本船を沈め、その後サンフランシスコの造幣所へ金を引き渡した。コレギドールが陥落すると日本海軍は残してある財宝を回収し日本へ送ってしまった。防衛部隊はそれをかくすため隣の通路に隠すなどという行動は一度もしていない。各国が侵略されると、数万人の植民者が捕らえられた。彼等は二つのトランクだけを持ち、抑留キャンプのある集合場所へ行くよう命じられた。憲兵隊は早速すべての財産を没収した。トラックに乗った特殊部隊がやってきて、高級将校や市民執行官のために選ばれた屋敷をのぞいて、すべての家屋を丸裸にしていった。ピアノ、絵画、照明器具、台所用品、水洗トイレ、流し台、洋服、食料などを商品貯蔵庫へ運んでいった。銅線や鉛管は壁からはがされた。宝石、蝋燭たて、食器(金属製)額縁などはドラム缶にいれられ、溶かすために仕分け所へ運ばれた。床のフローリングもはがされてしまった。後の国連代表カルロス・ロマーロは、レイテ島がどんな目にあったかを語っている。「日本軍のトラックが各家の戸口にやってきたんだ。兵士は家の中へ入り、使えそうなものは全部運び出し、残りは窓の外へ放り投げるか、そこで燃やしてしまった。略奪したものはみんな日本へ船積みしてフィリピンは裸にされ、棄てられたんだ。」
マニラで日本兵士は上流、中流階級地域を動き回り、綺麗な主婦や娘達をさらっては高級将校や海軍将校のために用意されているホテルに連行した。数週間が過ぎ、母も娘も一日に十五人の相手をさせられ、多くが意識朦朧になるまで繰り返し強姦された。憲兵隊は誘拐した家族を返還するにあたり、隠し財産、担保、あるいは地域や親族の情報を引き換えにすることを命じた。病院では看護婦から日本将校の情婦が選び出された。貧困で財産もない女、子供は、地位の低い将校や、普通の兵士のために、売春宿へ集められた。侵略される前日に多くのオランダ移民は急いで家を売り飛ばし、銀行から金を引き出し、隠すために金の棒や宝石を買っていた。それらの貴重品は庭に埋められた。それを見ていた召使達は、それを回収し、日本人に差し出し、そのたびごとに金をもらっていた。
他のオランダ人は貨物船や個人の船、フェリー、ヨットなどに少しばかりの財産を積み、オーストラリアへ逃げた。いくつかの船は無事にたどりついたが、大半は拿捕されるか沈められたのだった。それらの貴重品は二度と見ることはなかった。
マレーシアやビルマの英国人同様、オランダ人のいくらかも暑さを避けるためにジャワヤスマトラの山中に別荘を持っていた。彼等は見逃してもらえると思い、そこへやってきた。しかし、憲兵隊は、小さな丘の上から別荘を監視していた。その広大な地域全体に秩序をもたせることは、大きな組織と十分に考えた上での配慮が必要なのだ。
銀行員や市民の間でも財産を隠す手段を求めパニックが起こった。銀行は無記名債券を回収し、名簿を本国へ送り、債券を無効とした。
高額紙幣はシリアルナンバーを記録し、燃やされた。もはや時間がなくなり小額紙幣はナンバーを記録しないまま燃やされた。マレー半島では債券のうち一億四百万ドルが、同様の方法で処理された。シンガポールでは、個人所有の四百万ドルの宝石や、小さな貴金属を政府の代理人が受け取り、オーストラリアへ運んだ。シンガポール銀行はナンバーを控えた七千五百万ドルの紙幣を燃やし、他に三千九百万ドルをインドへ運んだ。
日本が侵入した時、横浜正金銀行と日本政府銀行である台湾銀行の職員が大量に動員され、すべての銀行業務を接収した。陸軍の管理下の領土では横浜正金銀行が、海軍の管理下の領土では台湾銀行が業務を遂行した。北京語、広東語、福建、客家、タイ語が解る台湾人の銀行員は、中国人所有の銀行や、質屋の監視役に任命された。現地の職員は、政府の税記録や財産一覧表、中央銀行の記録などを隠したり処分しようと、必死の努力をしていたが、日本軍は役人や銀行幹部を拷問し、脅して倉庫や金庫を開けさせ、隠されている貴重品保管場所の秘密、口座情報、商習慣を白状させようとした。
植民地の支配者による人種差別に不満を持っていた原住民の中から協力するものがでてきた。彼等は地域の裕福な家庭から金を奪うため、税務記録や元帳を差し出したのだった。シンガポールでは、外国銀行の所有財産が没収された。一九四二年(昭・十七)、三月八日にオランダ東インド会社の民間銀行経営者は、地下金庫の中身をすべて強制的に引き渡すことになった。ジャワの最初の強奪だけで日本軍は、銀行から五千二百万ギルダーを獲得した。又、別に千二百万ギルダーをジャワや近くのマドエラ島の貿易商からぶんどった。
日本軍は質屋や小規模な現地人銀行も封鎖した。これらはすべて海外資産管理事務局の監査官を務めていた、日本銀行幹部職員、山本ヒロシに率いられた日本銀行、台湾銀行、三井銀行、華南銀行の職員によって行われた。東南アジア地域の中小銀行の従業員は、収容キャンプに移され、毎日彼らのもとで働いていた。
命に不安をおぼえる彼等は、秘密を洗いざらいもらすようになった。言うとおりにしないものや、嘘をついたものは、特別な扱いをさせるために憲兵隊に引き渡された。スマトラの日本軍捕虜収容キャンプで生まれたオランダ・テレグラフ社の記者、ジョス・バーガースは、ウィルムズ・ギロモスの目撃を含む、日本軍のインドネシアでの略奪に関し、とても多くの報告をしていた。
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>>132847
十五歳の少年だったギロモスは、天皇裕仁の弟に当たるといわれる日本人が、彼の抑留キャンプを訪問し、皇子がそこにいる間に、ギロモスの親友の父親、ジャワ銀行パランバン支店長が、尋問で司令室に連行されていったと話している。又、密告者は日本軍に、支店長が大量のギルダー紙幣を燃やし、没収をまぬがれるため、大量の金の延べ棒を隠していると告げた。質問に答えることを拒むと、若いギロモスら被抑留者は、皆の見ている前でひどく殴られ、その怪我が元で死んでしまう者もいた。日本軍は思った以上に多くの金を獲得した。
それは東南アジアの個人の手元に、誰もが想像している以上に多くの金やプラチナがあることをはっきりさせたのだった。幾世代にもわたり蓄えられたものもあれば、最近のものもあった。
一九三〇年代の大恐慌は、どの人々も紙幣を遠ざけることになり、用心深くさせていた。一九三〇年代後半における日本とドイツの意図に不安を覚え、金こそが極めて重要な資産になっていた。
政府は戦争の成り行きを考えて対策を立て、金を蓄えることにした。
新しい鉱山の開発、例えば南アフリカで最も深いと言われる鉱山並に三千フィート以上まで掘ることで金が採掘できる、ジャワのTjikotokトジコトク鉱山のような開発が有益だとの要求が高まってきた。フィリピンでも同じ事で、マニラ北方のヴェンゲット鉱山から産出される金は、一九三二年に最高を記録した。日本軍は奴隷労働者を使って、すぐにそれらの鉱山を再開した。無制限に労働者が投入されるので経費も危険も悩む必要がなかった。
スマトラ沖のベンカリス鉱山は、日本軍第二十五師団が支配した途端、年間の生産は十倍の四百kg以上に跳ね上がった。同様の増産は、占領中のすべての鉱山で記録された。東南アジアの富が銃を向けて得たものばかりというわけでもない。可能な限り軍票で購入することもできた。
戦争が終わるころまでで通常の七倍もの大量の通貨が流通していた。
最初、陸軍海軍とも各国で一円の軍票を一ドルで割り当てた。(一晩で二倍の価値になる。)軍票には通し番号もなく、貧弱なものだったので簡単に偽造されてしまった。そんな大量供給はさらに価値を失うことになった。
偽の軍票が乱発される中、日本軍は動揺を抑える事を急いだ。
軍票に替えて、南方開発銀行による新しい受取書が発行された。被害者達は再び騙されることになる。どれにも長々と「額面は保証します。」「大きな積立金で裏づけされています。」と注意書きされていた。
香港が接収されたときには、裕福な中国家庭から、家や会社、現金、絵画、古道具などが軍票や受取書などと引き換えに没収された。半世紀たってもこれらの家族は数百万ドルの価値になる軍票や受取書の買い戻しを日本に要求し、法廷の戦いを続けている。
結局日本は、軍票は前の政府が発行したもので現政府にはその持ち主に対する責任は全くないと主張した。多くの香港人が所有していた立派な芸術コレクションは「占領紙幣」で支払った日本人個人の手に残ったままだ。
人力車の引き手だって受取書で雇うことができた。もしそれに感謝を表さないのならば、彼らは打ち首になる。捕虜達にも受取書で支払われるが、送還される時にそれの返却に一ヶ月も保留された。
さらには贅沢税というものもあった。車を所有する者はタイヤを使用するという特権に対して一ヶ月あたり三百ドル相当を支払わねばならなかった。一九三二年(昭・七)から送還されるまで東京にいた米大使ジョゼフ・グルーは言う。「日本の軍国主義者ですら、明きらかな窃盗行為や不法侵入による作戦を漠然と続けることができなくなった。強盗行為はシステムに変貌したんだ。つまり、まったくの財政問題としてね。我々の家計と同じで金儲けなんだ。我々と一緒で、現金、クレジット、ローン、株式会社、政府補助金、鉄道、タクシーみたいな普通に金を利用するためにね。・・・・・いつか、どこかで限界がある。ある時新しい領土が必要となり、日本侵略軍は・・・日本軍の命令を基にした貨幣制度を作り上げ、それを尊重しない者には死がもたらされるような銀行通達が公布されたのさ。その通貨を使って日本軍は、冷酷にも管理貿易のようなに不公平な原理で両替を行った。彼等は明らかに没収、資本課税、そして単に資産家の暗殺、労働者を奴隷のようこき使う事で通貨の不足を補ったのだ。日本は欲しいものを馬鹿馬鹿しいほどの低価格に固定する専売制をとり、日本軍の警備兵はその価格で購入するんだ。この原則ならば、占領地域が干上がるまで日本に物があふれ、日本は大いに発展するだろう。あるとき認可が下りたと思うよ、最上の人へ財産をもたらすためのポンプが、井戸の深いところのタンクに・・・。」
もっと搾り取るために、日本軍は宝くじや賭博場を開業し、多くの金を浪費させた。勝者は軍票を持って家に帰った。日本軍は定期的に米やタバコ、砂糖、塩などの日常品をとても高い価格で買った。それらの物資は公然と入手されたかわりに、共謀している地域のギャングや闇市場へ麻薬の見返りとして運ばれていった。闇市場で食料、タバコ、塩、医薬品を買いたい普通の人々は、秘密の地下金庫に隠してある植民地硬貨や金、宝石に手をつけねばならなかった。
ゴールデン・リリィー部隊で仕分けされた金、プラチナ、宝石、絵画は最初に木枠箱に入れマニラに向け船積みされた。没収された株券、債券、金証書などは横浜正金銀行や台湾銀行へ送られその後中立国で洗浄され日本の口座へ移された。横浜正金銀行の最大個人株主は天皇裕仁であり、彼は全体の二十二%を保有していた。結果、株主総会の主導権は宮内省にあったのだ。
戦争終了時、裕仁は金と海外通貨で一億ドル(現在なら一兆ドル)を越える財産をスイス、南米、ポルトガル、スペイン、バチカンなどに隠していた。戦争終了直前、横浜正金銀行は台帳の収支が正確には一致していない事と、占領地域の銀行に莫大な負債を負っていることに気づいた。貸越高は、無価値な軍票で支払えば消すことができた。(天皇は戦後も筆頭株主を続けていたので、銀行の経営者が変わったから良いという論理はまったく滑稽である。)
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>>132848
ナチスドイツは例によって、略奪した金や金塊を溶かし、鋳直し、ドイツ帝国の規格を守った封印であるカギ十字を付けたバーにすることで、合法的なものに洗浄していた。この金塊はスイス、スウェーデン、ポルトガル、アルゼンチンへ運ばれた。日本もそれを見習い、東京のスイス銀行、マカオのポルトガル銀行、チリやアルゼンチンの銀行を通じて金を移した。物理的にいうと、それらの国々へは大きな貨物用の潜水艦を使って運んだのだ。世界の金取引の中心としてマカオはとても繁盛していた。一九四四年(昭・十九)、ナチスと日本の略奪した金が、中立国を通してロンダリングされるのを止めるため、ブレトン・ウッド会議に連合国が集まった時、なぜかポルトガルは、その一覧表にマカオを載せることを忘れてしまった。しかも誰も、その見落としに気づかなかった。
歴史家であるベルティル・リントナーは記している。
「マカオ商人は海外の銀行で一オンス三五ドルで金を買って、すぐに領地(マカオ)へ持ち帰り、誰であろうが買いたがる人間に売ったのさ。華僑のホーイン(HoYin、何口)に率いられた組織は、戦争を逃れるため広東(Guongdong)からとんずらしたんだ。」
マカオは金持ちの華僑にとっては戦時中の避難所であり、貴金属交易のおかげで随分潤ったようだ。当時、日本の略奪品だけが唯一の金の源だったのだ。シナ海では日本の銀行だけが業務の取り扱いをしていた。マカオの質屋、仲介人、個人は、日本人のために貨幣を金と替えてやることで一財産を築いた。戦争が終わり植民地当局が戻ってくるとマカオの億万長者達は植民地通貨を使用することができるのでほとんどの国土や工場を破格の価格で購入することになった。裕仁の個人資産のいくらかはマカオでロンダリングされ、残りは東京のスイス銀行を通した。戦後アメリカ占領当局が監督しているころに裕仁個人の資産記録を閲覧する機会があったジャーナリスト、ポール・マニングは裕仁の財産が、敗戦が避けられないことを覚悟した一九四三年(昭・十八)末に中立国の避難場所へ移し始められたことを知った。内大臣木戸は天皇の財務顧問でもある日本の指導的な銀行家との打ち合わせをした。彼らのすすめにより、所持金は東京からスイスへ送金され事実上東京における裕仁の現金残高は空っぽになった。日本が購入代金を支払ったナチスの金塊は、横浜銀行のスイス支店口座に移されていたが、それもまたスイスにある裕仁の個人口座へ振り替えた。同時に木戸は皇室に備蓄してあった金で現地通貨を買うために、潜水艦でアルゼンチンやマカオに運び、銀行振替でスイスへ送られた。
歴史家のジェームズ・マッケイは、裕仁の財産を個別に言うと、スイス口座に二千万ドル、南米銀行に三千五百万ドル、ポルトガル、スペイン、バチカンに合計で四千五百万ドル所有していたと結論をくだした。(合計すると一億ドル、当時金価格、一オンス三五$が現在では六〇〇ドルとすると、現在価値で十七億ドル、すなわち、二兆円ぐらいか・・・)
日本に到着していた盗品の宝物は、ほとんどが個人の地下金庫や、皇族の金庫に入っていったため、東南アジアの経済復興をしようとする日本戦略はうまくゆかなかった。又、アジア地域の原材料、産業、農業、密輸、強請りなどを支配していた華僑達もその計画を妨害した。彼等は南京虐殺を行った日本を嫌っていたが、それよりも中国沿岸の出身地であるマモイ、スワトウ(履門)や、近辺の港を爆撃したことを特に恨んでいた。過去にヨーロッパの企業は、東南アジアで華僑と協調して働いた時にしか成功していない。日本軍がやってきて、石油、砂糖、塩、その他の日用品に専売制を導入したため、地域経済は崩壊してしまった。価格は高騰し、物資の供給は止まり、膨大な失業者であふれ、インフレと買占めが横行した。日本軍はその報復として華僑に的をしぼることにした。彼らを標的とする暗殺部隊がおくりこまれた。
渡辺ワタル大佐は金持ちの中国人を誘拐する技術を北華で十年もみがいてきた。切断は耳から始まり、鼻、指、銅、睾丸と続けられるのだ。跡継ぎ息子を去勢するぞと脅す彼の手法は特に効果的であった。それにより渡辺は多くの金、宝石、絵画を手に入れて信用を勝ち取った。中国で彼は防諜や対防諜、プロパガンダを流す特殊工作機関など、五つの部署に分かれていたものの一つをまかされていた。華僑を脅迫することが彼の仕事だった。彼の技術は、その所見や書類から十分知られていた。彼が描いたのは「中国人は・・・・従うようなフリをするが、何をするにも悪質すぎてどうしようもないのさ。厳しく取り扱うべきだ。」彼は満州時代の仲間に手伝ってもらった。その一人が辻正信大佐だ。バリバリの世界戦争班の指導者で、山下将軍の南進及びマレー侵略計画を補佐していた。もうひとりは、中国第八特殊工作部隊を率いる情報将校、高瀬透で、中国問題の専門家だった。渡辺は高瀬のことを、難しく、うぬぼれやで、怒りっぽく、喧嘩っ早い奴だと評した。しかしこの冷酷さこそが必要とされるそのものだった。
辻大佐は日本でも最も冷酷な諜報員で特に恐れられていた。ナチス党のゲッペル、ハインドリッヒ、スコーチェニーを混ぜ合わせたような特性をもっていた。
南方侵攻前に大本営は、辻大佐の作った手引書を将校に配布した。それには、東アジアの宝物館の財宝をどのように押収するかの注意が繰り返し記されていた。お薦め手段は基本的に暴力行為だ。同情や思いやりは無視された。もはや華僑達は、快楽と浪費の中での生活にどっぷりとつかっているわけにはいかなかった。日本軍は彼らに過去の誤りを清算し、今までの暮らしと、資産作りをあきらめるよう強制した。辻はその驚くほどの残虐性で注目を集めた。
一九四二年(昭・十七)二月二十一日の夕方までに、シンガポール島の十八歳から五十歳までの中国人の男はすべて五箇所に集められた。彼等は現地の情報提供者の前を通り過ぎ、現地人がうなづくと三角の刻印を肌に押し付けられ、死を宣告された。他の者は、四角の刻印を押されて解放された。合計で七万六百九十九人のシンガポールにいた中国人が拷問か処刑で命を失った。
多くの処刑が何日も続き、辻大佐は厳重にそれを監視していた。ほとんどが銃殺か刺殺、打ち首だったが、二万人がはしけにつながれ、シンガポールの定期船に乗せられ船から投げ出されたのだった。なかなかおぼれない者は機関銃で撃ち殺された。この悪夢のような出来事を「華人虐殺」とか「道徳洗浄」と呼ばれた。辻はこの華人虐殺をマレー半島全体に広げ、女、子供を含む四万人が殺された。中国人の処刑はそこらじゅうで起きたことだ。
渡辺大佐は四月の天皇誕生日プレゼントとして、シンガポールの中国人が五千万円を裕仁に献上するべきだと宣告した。これは当時マレー半島に流通している通貨の四分の一にあたる。高瀬は寄付を集めていたが、そんな大金を短期間に作り出せはしない。そこで誕生日プレゼントに足りない分を、横浜正金銀行で二千二百万円の融資をすることでやりくりした。中国人はその返済、もしくは金利分を金の延べ棒か貨幣、あるいは換金性の高い財宝で返すよう求められた。スマトラにはロイヤル・ダッチ・シェルの油田がある一方、マレー半島は世界最大のゴム生産地域である。渡辺は軍票でゴム在庫のすべて買い日本へ輸送した。さらに、彼はすべてのゴム農園やその設備を日本の財閥系企業に売るように命じた。もちろん軍票で・・・。
この反中国人の暴力的支配による衝撃は二~三週間でおさまった。しかし結果としての反動は、米や塩そして他の日常品の流出となり、さらにそれは消えてしまった。渡辺は売国奴や協力者に、特別な割引やリベートを申し出た。数人のブローカー達は大量の麻薬の供給を望んだ。そうなのだ。日本の協力者は薬の売人とギャング達だったのだ。
奴隷労働者を持っているだけで日本はくじけなかった。被害者には三つのグループがあった。現地人、華僑、ヨーロッパ人だ、それらの扱い方は違っていた。一九四二年(昭・十七)の半ば、日本は約十四万人の連合国捕虜と五十万のヨーロッパ市民、そして百万以上の華僑の抑留者を抱えていた。
ヨーロッパ人たちの収容所の状況は極端に厳格だったにもかかわらず、捕虜達は野蛮な残酷さで扱われた。
多くの連合軍兵士は、急場しのぎで選ばれた一般市民だった。オランダ人ジャーナリストのジョス・ハーガーズは、他の数千人に混じってスマトラのパカーン・バロエ鉄道の建設に従事した。彼は何とか戦後生き残ったものの、健康を害し、結局はオランダに帰ってからその傷害で死んだ。他の人々も三井・三菱系の地下数千フィートの炭鉱で裸になってこき使われた。
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>>132849
現地人は生ゴミの扱いだった。戦後、インドネシア政府は、四百万人の市民が奴隷隊として船に押し込まれ、離れ小島で死ぬまで働くために輸送されたといっている。彼らのうち約二十二万五千人はシャムとビルマ間の「クワイ河死の鉄道」作りで働いていた。
彼らが死ぬと、線路の盛り土にあふれんばかりに詰め込まれた。
一九四四年(昭・十九)まで、マラヤでは重要な仕事に従事してない十五歳から四十歳の男達は奴隷部隊にいれられた。
朝鮮は、東南アジアへ船積みされた奴隷労働で六百万人が失われたと主張している。中国人の奴隷労働者数はそんなものではない。毎年日本は、百万人近い中国人と朝鮮人を奴隷として強制的に連行した。その中のいくらかが日本につれていかれた。日本の鉱山は軍需産業として召集されていたため、前の満州国の長であり商工大臣である岸信介は、朝鮮から七十五万人、中国から五万人を調達したのだ。
歴史家のスティハン・ロバーツは、日本帝国の問題の中で、中国人が集められ、動物よりも悪い扱いを受けていた一方で、何の正統性もないのに、朝鮮人は奴隷として差別的な取り扱いを加えられたと説明している。
他に中国からの五万人と、人数は不明であるが台湾からの人々が奴隷としてフィリピンへ船積みされ、ほとんどはそこで死んだ。
目撃者は、我々に数千人の中国人と台湾人がゴールデン・リリィーのためのトンネルと地下貯蔵庫を掘らされ、貯蔵庫が密封される時に生き埋めにされたのだと語った。そこには粥と味噌汁しかなかったので、多くは仕事中に餓死したという。
日本の最大級の企業は、炭鉱労働、道路や列車の建設、空港と港の建築に奴隷を使った。単独企業としての奴隷の雇用主は三井であり、多くの奴隷運搬船は三井船舶会社であった。しかし記録には、川崎重工業、三菱、日本鉄鋼、昭和電工、その他と書かれてある。
ヨーロッパ経済学者は、戦争終結時における三菱の地位を、USスティール、GM、スタンダードオイル、アルコア、ダグラス航空、デュポン、ウェスティングハウス、AT&T、ナショナルシティバンク、ウールワースストア、ヒルトンホテルを合併したものと同じ価値があると主張している。三井にとっても、百八十万人の従業員が本国と海外にいることが自慢であり、少なくとも三百五十六の大企業を所有していたのだ。
それらの複合企業体企業は、終戦時に経営者が代わっており、今日の企業とは同じ会社ではないという論調で、過去の賠償についていかなる責任も負わないとしている。奇妙なことだが、彼らの経営する銀行は米占領中にあらゆる罪から逃れていた。
日本軍が拘束していた連合国捕虜の死亡率は三〇%近くになる。ナチスのそれは四%である。彼等が受けた残虐行為は、数千ページにもなる聞き取り書で証明されるだろう。日本人の収容所所長や医療職員達は、連合国捕虜がビタミンB1不足からおこる脚気が原因の死亡をわざと放置した。作家のガビィン・ダウズ氏は収容所の医師は、精米した米を主食にするとビタミンB1不足になると知っていたことを明らかにした。研ぐ前の玄米にはB1が含まれる。しかし精米の過程で、B1は失われてしまうのだ。安物の玄米を与えるだけで問題は解決したはずだ。ハイナン島の収容所所長、菊池一郎は、捕虜がかろうじて生きていける最低限の食事量を計算し、B1の錠剤を与えなかった。
男達の胸は腫れ上がり、腹は膨張し、睾丸は風船となった。肺は流動物でいっぱいになり、窒息してしまった。誰もが脚気で死ぬときにだすうめき声を知った。数千人の捕虜が地獄船の荷物室に拘束されたまま日本に連行された。
いかにひどい状態だったかというと、千五百人の捕虜のうち、日本に着いた時には百人から二百人は死亡していた。捕虜の運搬船は攻撃されないための方法として、マークを付けるよう義務づけられていた。しかし日本軍は表示しなかったため、連合国の潜水艦や戦闘機によって攻撃され、船倉にすべての捕虜が閉じ込められたまま沈められた。
アルバート・ケルダーの調査によって、英国人、アメリカ人、オランダ人の捕虜、そしてロム・シャスと呼ばれる数千人のインドネシアのクーリー(苦力)が乗っていた十六艘の地獄船を、潜水艦の魚雷で沈めてしまったことが明らかになった。ケルダーはその十六艘が沈められたことで、合計一万七千三十六名が死亡したと我々に語った。ほとんどがアメリカの潜水艦による誤沈であった。故意ではない三艘の攻撃で、二千七百七十六名の捕虜が溺死した記録もある。中国定期航路は軍票で日本にリースされ、連行する慰安婦や奴隷を日本や東アジアへ送ることができた。研究者は、その地獄船や奴隷連行船、傷病院船などが、戦前戦後に合併した会社か、その前身となる世界大手三つの巨大船舶会社など日本を代表する企業が運行していたのではないか、という疑問に対し決定的な記録を発見した。その中で、日本郵船㈱は奴隷船の運行会社のひとつを握っていた東京郵船㈱や、朝鮮郵船㈱の後継者である。別にKKKがいる(汽船株式会社)、国際系列の一部分であり日立グループの親会社で、日本最大規模の銀行を所有する会社だ。
他は三井の大阪商船㈱だ。それらの大株主達には世界的な巨人、三菱、住友も含まれる。これらの企業は先送りされている軍票の償還支払い義務、奴隷達への補償義務も一切認めてはいない。取り戻そうとするすべての努力は、東京やワシントンによりことごとく妨害された。
その共謀の醜さは、この本の後半において述べるとしよう。
多くの捕虜達は日本に着くや、日本製鉄、三井鉱山で奴隷労働者として週に七日間、一日十時間働かされた。栄養失調は、赤痢、黄疸、壊血病、皮膚病をもたらした。監視人は彼らをむちやシャベルで打ち据えた。耐え抜いた人々は内も外も傷だらけだった。
フランク・ビグローの経験は悲惨だった、しかし典型的でもあった。北ダコダで二等水兵だった二十歳の彼は、地獄船で日本に送られ、三井に所属した。
そして三井炭鉱で奴隷労働者として働いた。身長百九十五センチの彼の体重は、たった四十三キロしかなく、味噌汁だけで生きていた。彼は生き残るために炭までをも食べた。ある晩のこと、鉱山の深い炭層で作業中、大きな岩が彼の足へ落ちてきて、弱くなっていた骨を砕いた。「そこにもうひとりアメリカ人捕虜がいたんだ。トーマス・ハウレット博士だ。」、彼は思い出を語った。「博士は二本のとがった自転車のスポークで手当てをし、一本は膝にもう一本は足首にそえた。だけどうまくいかなくて、結局壊疽にかかってしまった・・・。医薬品などもらえる立場ではなかった。ましてや外用薬なんて望めるわけがなかった。私はギロチンの執行人を呼ぶしかなかった。博士は、のこぎりとカミソリを持ち、四人の男が私を押さえつけた。感染に対抗するには原始的な手段を使うというわけさ。蛆虫を包帯の中へいれ、感染を防いだ時に蛆虫を外へ引っ張り捨てたんだ。博士は私の命と足を救ってくれた。残った足に私はそういうべきなんだ。」
戦争が終了し、ビグローや他の捕虜はグアムへ連れていかれ、米国情報将校から長い演説と脅しを聞かされた。そして、彼らの恐ろしい体験を誰にも話さないと約束する書類にサインしろと強要された。
「我々はそれを読み、署名して、口をつぐむように言われた。」、ビグローは言う。「そうして私は礼儀正しくさせられた。」
何らかの理由で日本政府もアメリカ政府も捕虜の虐待について、完全な沈黙を望んでいた。日本の奴隷計画の中でも慰安婦の問題は最悪だ。
十三歳にも満たない多くの少女達をだまし、性的奴隷にした。戦後日本政府は、全ての慰安婦は単に志願してきた売春婦であり、完全に個人的な事業として運営されていた、と主張している。どの声明も、あきらかにうそだ。
憲兵隊が一九〇四年に朝鮮で日本軍のための組織的売春を開始し、全力を尽くしたのだ。その理由は、ベッドのそばから軍の機密がもれ、その諜報員が不注意な兵士やスパイを探りだす可能性があるというものだ。
最初は売春宿が下請けになった。一九三二年(昭・七)には、憲兵隊がすべての支配を取り戻した。典型的な軍部の慰安所は、建物が十戸あり、各々十の部屋に分かれていて、管理者の小屋が付属していた。女を内部にとどめるため、有刺鉄線で囲んであった。田舎の慰安所はテントだが、可動性をもつように列車の客車が備えてあった。朝鮮人と日本人のやくざが厳しく慰安所の安全を確保していた。
報酬は女の人種が基準となる。日本の少女が最高級、次に朝鮮人、沖縄、中国人、東南アジアと続く。後にコーカサスなどの白人が追加された。
高級将校は三円、通常の兵隊は二円五十銭、個人は二円を支払う。
台帳には各女性の給料と、客の人数を書き込む所定の書式で記録してある。
二十万人を越える若い女性や、青春期の女性が、三百五十万人の日本兵に奉仕するための性の奴隷として強要され、毎日十五人の客をとらされた。
名目上、月々八百円もらえるはずが、食事代、衣服、医療代、スープに飲料水代が差し引かれた。多くの少女は無学だったので、騙すのは簡単だった。ほとんどが金を貯めることもなく、戦争が終わったときも極貧だった。今日まできわめて秘密にされてきたため、日本の捕虜の扱い、市民の強制労働、慰安婦などの取り扱い状況の重要な詳細を知ることができなかった。しかしながら、一九四五年(昭・二〇)英国王室海軍が入手したファイルの中で、台湾の台北で捕虜収容所の長官によって書かれた文書が明らかにされた。
長官は丁度、一九四四年(昭・十九)八月一日付で部隊長、つまり第十一フォルモサ収容所部隊、秘密第十師団(憲兵隊)からの命令書を受け取っている。緊急事態の場合、彼は捕虜達の処遇について次のように指示されていた。
「彼等が個々にあるいは集団で撲滅されようが、又処理済みだとしても、多くの爆薬、有毒ガス、溺死、首はねなどを使用していようが、あるいは・・・誰一人として逃がすことは許されない。全員を絶滅させいかなる痕跡も残すことは許されない。」
(訳注、この章ほど議論を呼ぶ章はないのではないか。まさに、言われ放題。
事実を事実として受け止めたいが、あまりに一方的で気分はよろしくない。
しかし、反論しようにも、客観的な資料は乏しい。足して二で割るわけにもいかないし、翻訳者としては、原文どうりに書くしかない。各自の議論をお待ちします。ただ、日本が略奪した華僑やオランダ、英国人は植民政策の中で、原住民を搾取し、また奴隷のように扱い、暴利をむさぼっていたため、現地人もまったく同情する気もなかったのではないか。
狼が去って、虎が来た。と言う事か。
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e9ccba No.132851
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>>132850
M資金の門番
2007-10-12 09:19:15 | GOLD WARRIORS
GoldWarriorsの翻訳のなかで、もう一人にお願いしてあった分のエピローグが完成した。これは後日全文を公開する。その中で宮沢氏に関して面白い事が書いてあったから紹介しよう。
もし誰かが手品のお膳立ての仕方を知っていたとすれば、それは宮沢だろう。誰も宮沢ほど詳しく1940年代はじめから大蔵省の内部業務を知る物はいないし、継続して関わった者はいない。
宮沢は1942年に大蔵省で仕事を始め、ジョン・フォスター・ダレスと51年の講和条約に関する秘密条件を交渉した3人の日本人のうちの一人だ。
宮沢はゆがめられた交渉で得た名声(威信)のおかげで、政治の世界に入り、今日まで驚くべき影響力の持ち主のままである。
宮沢は中曽根、竹下、小渕、森内閣で大蔵大臣を勤めた。この数十年間にわたって、宮沢は自由民主党の会計責任者であり、全ての不正資金の詳しい情報を持っていた。彼は多くの他の閣僚ポストにも就いており、M資金の「57年債」問題が最初に発表された時は内閣官房長官だった。竹下内閣の大蔵大臣だった時、宮沢はM資金と結びついたリクルート・インサイダー取引スキャンダルで竹下首相と一緒に辞任せざるを得なかった。1991年に、M資金の支配者、金丸と後藤田に助けられ、首相になった。宮沢は後藤田を副首相に任命し、金丸を自由民主党の副総裁にし、金丸には「共同首相」の非公式の役割を与えた。
しゃれた都内の料亭で行われたこの協調を祝う酒宴で、宮沢は金丸に約束した。「私はあなたの意志に反することは何もしないし、何でもあなたに相談しよう。」蜜月は短かく、1992年に金丸は佐川急便の一大スキャンダルに巻き込まれた。
佐川急便は政治的に影響力のある連中に戦争略奪金の賄賂を運んでいたのだ。金丸は自分の裁判が決着する前に、都合よく死んだ。(引用おわり)
まだ続くがこの辺までにしよう。宮沢氏が亡くなった時にも書いているが、私も彼の実力を過小評価していたようだ。立派だったと言うのではなく、彼は日米両国の中でもひときわ財務の重鎮だったのだ。本当に惜しい事をした。すべてを告白させてから死ぬべきだった。
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e9ccba No.132852
Originally posted at >>>/qresearch/20467669 (241432ZFEB24) Notable: 日本を拠点とする首席兵曹をスパイ容疑で起訴
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>>>/qresearch/20452628 Q Research General #25090: Grabbing the World by the Pussy Edition
>>130457 #25090 NOTABLES
>>130436
https://twitter.com/NavalInstitute/status/1760391441413550423
https://news.usni.org/2024/02/21/japan-based-chief-petty-officer-charged-with-espionage
日本を拠点とする首席兵曹をスパイ容疑で起訴 - USNIニュース
著者: サム・ラグローン
2024 年 2 月 21 日 14:47 - 更新日: 2024 年 2 月 21 日 15:59
USSヒギンズは2022年9月20日に台湾海峡通過を実施した。米海軍写真
USNIニュースが水曜日に入手した起訴状によると、日本を拠点とする誘導ミサイル駆逐艦に配属されていた船員がスパイ行為と外国人への防衛情報伝達の罪で起訴された。
日本を拠点とする駆逐艦ヒギンズ (DDG-76) に配属されたブライス・ペディチーニ首席兵曹消防管制官は、今週一般軍法会議に臨む予定であると海軍関係者が発表した。
「アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦USSヒギンズ(DDG 76)に配属されていた船員が、機密文書と情報を不正に扱った疑いがある。この事件は引き続き調査中であり、法的手続きが続いている」と米海軍水上部隊報道官の声明は述べている。
海軍はペディチーニ氏がバージニア州ハンプトンローズで2022年11月下旬から2023年2月にかけて機密情報を安全な場所から密輸し、不特定の外国政府の職員に提供したとして告発している。ペディチーニ氏が共有したとされている情報の種類は訴状からは不明である。文書には、横須賀滞在中に機密情報を扱うために指定されたコンピューター画面の写真を含む写真を外国人に渡そうとしたとも主張されている。
告発文書に基づいて、ペディチーニ氏は日本でのスパイ未遂事件の直後に逮捕された。告発文書によると、ペディッチニ被告は5月19日から9カ月以上、公判前に監禁されている。
この容疑は1月18日に米海軍水上部隊が召集当局となる一般軍法会議に付託された。
海軍の裁判記録によると、ペディチーニ氏は水曜日にサンディエゴで公聴会が開かれる予定だった。同氏の第32条公聴会は、軍事的には民間人の罪状認否に相当し、すでに行われている。 USNIニュースが海軍広報官を通じてペディチーニ氏の弁護士に連絡を取ろうとしたが、すぐには連絡が取れなかった。
ペディチーニ氏は、スパイ活動と防衛情報伝達の罪に加えて、外国人との接触を指揮系統に報告しなかった、機密情報の要求を報告しなかった、個人のデバイスを安全な部屋に持ち込んで機密情報を輸送したという罪にも問われている。
海軍の経歴によると、ペディチーニ氏は 2008 年初めに海軍に入隊し、2009 年半ばから駆逐艦に勤務しました。彼は、USS マクフォール (DDG-74) と USS カーティス ウィルバー (DDG-54) に乗艦し、4 月にヒギンズに報告しました。
テネシー州出身のペディチーニ氏は、8月22日に署長に昇進した。
スパイ疑惑:
2022年11月22日:バージニア州ハンプトンローズで、ペディチーニ容疑者が「第1112条」と呼ばれる文書を外国政府職員に渡した疑いがある。
2022年12月3日:バージニア州ハンプトンローズで、外国政府職員に「第1112条追加2」と呼ばれる文書を渡した疑い
2022年12月:バージニア州ハンプトンローズで、外国政府職員に「第1112条追加3」と呼ばれる文書を渡した疑い
2023年1月:バージニア州ハンプトンローズで、外国政府職員に「第1223条」と呼ばれる文書を渡した疑い
2023年1月:バージニア州ハンプトンローズで、外国政府職員に「第1223条追加1」と呼ばれる文書を渡した疑い
2023年2月5日:バージニア州ハンプトンローズで、外国政府職員に「第1223条追加2」と呼ばれる文書を渡した疑い
2023年2月19日:バージニア州ハンプトンローズで、外国政府職員に「第1223条最新情報」と呼ばれる文書を渡した疑い
2023年5月8日から17日:日本の横須賀で、ペディチーニは機密情報を含むコンピューター画面の画像を含む国防写真に関連する情報を伝達しようとしたとされる。
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e9ccba No.132853
Originally posted at >>>/qresearch/20467682 (241435ZFEB24) Notable: 核物質密輸未遂で日本人の男起訴と米地検
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>>>/qresearch/20452628 Q Research General #25090: Grabbing the World by the Pussy Edition
>>130457 #25090 NOTABLES
>>130439
米連邦検事、日本のヤクザ幹部に対する核物質密売容疑を発表
https://www.justice.gov/usao-sdny/pr/us-attorney-announces-nuclear-materials-trafficking-charges-against-japanese-yakuza
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e9ccba No.132854
Originally posted at >>>/qresearch/20467740 (241449ZFEB24) Notable: Q は NSA の部門で、セキュリティおよび対諜報部門と呼ばれ、一般に公開される機密情報を扱う???
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>>>/qresearch/20462495 Q Research General #25101: CPAC Day 2 Edition
>>131526 NOTABLES
>>131511 Q is a branch of the NSA called the Associate Directorate for Security and Counterintelligence that deals with classified info n what gets out to public???
>>>/qresearch/20462915
Q は NSA の部門で、セキュリティおよび対諜報部門と呼ばれ、一般に公開される機密情報を扱います
https://media.defense.gov/2021/Jul/02/2002755744/-1/-1/0/POLICY1-30.PDF
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e9ccba No.132855
Originally posted at >>>/qresearch/20467795 (241505ZFEB24) Notable: アストラゼネカの現在のCFOが赤十字社の理事会のメンバーであることをご存知ですか?
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>>>/qresearch/20464203 Q Research General #25103: Brute Force Edition
>>131629 #25103 NOTABLES
>>131616
アストラゼネカの現在のCFOが赤十字社の理事会のメンバーであることをご存知ですか?
https://twitter.com/DC_Draino/status/1761083558892880252
DC_Draino
@DC_Draino
アストラゼネカの現CFOが赤十字の理事であることをご存知ですか?
モデナの前CFOも理事会のメンバーであることを知っていましたか?
赤十字がなぜワクチンを注射した献血と注射していない献血を分別しないのか、おわかりいただけただろうか?
なぜ大手製薬会社が血液バンクを支配しているのか?
@its_gabbygabs
ここでウェブ全体を公開します👇🏼
https://youtube.com/watch?v=bfIK84yl4PQ
0:34 / 0:45
Quote
DC_Draino
@DC_Draino
·
Feb 22
赤十字は説明する必要がある
赤十字がC19ワクチンの接種状況を尋ねていることがわかったが、それは多くの人が予想するような理由によるものではなかった。
我々はさらに深く掘り下げ、*大手製薬会社*の幹部が役員であることを発見した。
そして、彼らはワクチン接種を受けた血液をワクチン未接種者に送り込もうとしている。
彼らの計画👇🏼
https://youtube.com/watch?v=bfIK84yl4PQ
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0:15 / 0:35
6:40 AM · Feb 23, 2024
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e9ccba No.132856
Originally posted at >>>/qresearch/20467821 (241513ZFEB24) Notable: GOLD WARRIORS "金の戦士" 【5】【6】
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>>132851
※第五章は現在公開されていなかったため、この章だけは自分で翻訳サービスを使用して日本語にしたものになります。題名の翻訳は既に翻訳してくれていた言葉をお借りしました
黄金の兵士 第五章 略奪品の隠匿作戦
1942年5月までに、マニラの15番埠頭には略奪品の積荷が山積みになっていた。日本軍は1944年後半まで、東南アジアから中国を経由する地上ルートを支配していなかったからだ。
マニラは、帰国した貨物船や修理のために足早に帰ってくる損傷した軍艦で日本に送る前に、最終的な選別と目録作りのためにそれらを集める論理的な場所だった。交渉によって戦争が終結しようとも、フィリピンとインドネシアを維持することが日本の希望であった。真珠湾攻撃から6ヵ月後、シンガポール陥落から3ヵ月後の1942年6月、日本はミッドウェー海戦に敗れ、優勢を取り戻すことはなかった。日本への海路は開かれていた。米潜水艦の魚雷は不良品で、日本の船体に当たって外れたり、跳ね返ったりしたからだ。これが修正されたのは1943年初頭のことだった。貴重な積荷を連合国軍機の攻撃から守るため、裕仁天皇は当初、秩父宮に4隻の1万トン級の高速客船を提供し、病院船であることを示す巨大な緑色の十字架で白く塗った(日本は国際的な赤十字の使用を拒否)。各船の身元は、偽の上部構造と余分なファンネルで隠された。
目撃談をさらに混乱させるため、それぞれに日本の正規の病院船の名前が付けられた。ニセの病院船はシンガポールやバタビアで財宝の積荷を引き受け、何百人ものVIP乗客も乗せた。日本の外交官や上級将校とその家族は、国際法によって攻撃から守られている病院船に乗って旅行する方が安全だと考えたのである。多くの人々が個人的に証言しているように、日本軍は病院や病院船を爆撃したり、空爆したりすることをためらわなかった。しかし、連合軍の飛行機や潜水艦が日本の病院船を意図的に攻撃することはないと確信していた。出航した偽病院船は、主要なシーレーンを避け、ジャワ海を東にセレベスまで進み、ボルネオ島の沿岸を北のミンダナオ島まで進み、フィリピンの島々を抜けてマニラ湾に向かった。他の船は、適切な外国船が拿捕されたときに追加された。その代表例が、蒸気船時代の有名な先駆者にちなんで命名されたオランダの客船オプ・テン・ノールト号だった。1942年2月にジャワ島沖で拿捕されると、驚くべき航海が始まった。フィリピンと日本に財宝を運ぶ航海を繰り返し、終戦時には金塊を満載して舞鶴海軍基地沖に沈められ、1990年に日本軍によって回収された。参加者の一人から入手した回収時の写真は、太平洋戦争終結から半世紀を経た現在も、政府高官や日本の大企業がゴールデンリリーの略奪で利益を得ることに関与し続けていることを明らかにしている。(CD参照)
1927年にアムステルダムで建造されたオプ・テン・ノールト号は、東インド諸島のロイヤル・パケット・ナビゲーション・カンパニーの客船として就航した。ジャワ島を拠点に、スラバヤ、スマラン、バタヴィア、ベラワン=デリ、シンガポールを結ぶグレート・エクスプレス・サービスとして知られる定期航路を運航した。この船は、船首が水平で、一重の高いファンネルを持ち、優雅なクルーザー船尾を持つ可愛らしい船で、群島のオランダ人に大変人気があった。6,000トン強、レンツの蒸気エンジンで巡航速度は15ノット、1等と2等には200人の乗客を収容でき、さらに1,200人の原住民甲板の乗客を乗せることができた。太平洋戦争が勃発すると、オランダ海軍の病院船として改装され、赤十字の船体番号が明記された。外交ルートを通じて日本に通知され、東京は正式に病院船として認める返事を送った。それにもかかわらず、1942年2月21日、オペ・テン・ノールトがスラバヤの西の入り口にいたとき、磁気機雷から保護するための脱ガウスが行われ、2機の日本軍機の攻撃を受けた。彼らの爆撃で船は損傷し、医師1人と看護婦2人が死亡した。G.トゥイジンガ艦長は修理のため、ゆっくりとスラバヤ港に向かった。その6日後、ジャワ海戦が始まった。戦闘というより虐殺だった。日本艦隊は30,000ヤードという驚異的な射程距離を持ち、泡の痕跡を残さない酸素推進システムを備えた新型魚雷で武装していた。イギリスの巡洋艦エクセターはこの魚雷で損傷し、オランダの巡洋艦デ・ルイターとジャワは3隻の駆逐艦とともに撃沈され、連合艦隊は壊滅した。生存者を探すためにスラバヤの修理ヤードから急いで出てきたオプ・テン・ノールトは、戦闘現場に出くわし、すぐに2隻の日本駆逐艦に迎撃された。負傷者を救助することを禁じられ、その場にとどまるよう命じられた。翌日の正午、トゥイジンガ艦長はオーストラリアに向かうことを決意し、最高速度でジャワ島沿岸に向かった。3時間後、日本軍機に迎撃され、爆弾を落とされ、引き返すよう命じられた。命令に従い、バンドジャルマシンに向かい、そこで970人の連合軍捕虜を乗船させ、マカッサルまで護衛付きで輸送した。その中には、巡洋艦エクセターからの生存者800人も含まれており、その多くは裸だった。船は捕虜収容所の病院施設として8ヶ月間そこに留まった。滅菌された手術器具を汚染しようとする日本人看守を止めようとした医療スタッフの一人、S・J・ウィーマンスは、全乗員の前でひどく殴られた。1942年10月16日、オプ・テン・ノールト号は日本国旗を掲げて横浜に向けて出航した。1942年12月5日に到着したトゥイジンガ船長は、国際赤十字のスイス代表と話すことを求めたが、拒否された。その代わり、乗組員と医療スタッフ(男性29人と看護師15人)は、広島から75キロ離れた妙義の元アメリカ人宣教師学校の収容所に入れられ、赤十字の一員として捕虜以上の待遇を受けた。
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e9ccba No.132857
Originally posted at >>>/qresearch/20467831 (241514ZFEB24) Notable: GOLD WARRIORS "金の戦士" 【5】【6】
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>>132856
一方、横浜では、オプ・テン・ノートは、偽の輪郭と2本目のファンネルを取り付けられ、白地に巨大な緑の十字架が描かれ、「天王丸」と命名された。その3ヶ月後の1943年3月、今度は氷川丸と改名された。氷川丸は1929年に日本郵船向けに建造された11,000トンの大型高速定期船で、病院船として正式に登録されていた。本物の氷川丸は横浜に係留され、ホテルや観光名所として利用された。その後、偽装されたオプ・テン・ノールトは、軍需品やVIP家族を乗せてシンガポールに向けて出航した。戦争の残りの期間、氷川丸はシンガポールとマニラの間を航海し、ゴールデン・リリーのために財宝を運んだ。
1944年10月7日、ジャワ海でオランダの潜水艦ズワルドヴィッシュ(ソードフィッシュ)に目撃されたが、潜水艦のスキッパーは正当な日本の病院船だと思い、通過させた。その年の11月1日、船名は天王丸に戻された。終戦の数週間前、彼女は宝を積んで再び横浜に到着した。荷揚げの代わりに日本の西海岸にある舞鶴海軍基地に運ばれ、大量のダイヤモンドやルビーとともに金とプラチナの延べ棒が積み込まれた。
日本の降伏が発表される2日前、深夜に舞鶴湾に持ち出され、日本人船長と少数の乗組員が射殺され、キングストン弁を開いて沈没させられた。日本政府はオランダ政府に、かつてオプ・テン・ノールト号であった船は戦時中に機雷で沈められたと伝えた。(1990年に回収されたとき、日本の関係筋は積荷を3兆円、つまり300億米ドルと評価した;回収の話は第13章で触れる)。
オプ・テン・ノールト号は、日本に数多くあった偽病院船のひとつに過ぎない。この船で運ばれた財宝がどうなったかは、今日まで秘密にされてきた魅力的で複雑な謎である。パズルのピースは環太平洋に散らばっており、組み立てるには忍耐が必要だ。以下は、その一部である: 略奪品が日本に届くと、ボーキサイトやタングステンなどの戦略物資は戦争生産に使われるか、軍事施設の地下壕に隠され、数年後にそこから姿を現した。例えば、舞鶴海軍基地周辺にはそのような地下壕がたくさんあった。ハード・カレンシー(硬貨)に関しては、日本は多くの国から盗まれた硬貨を処理する物流問題に直面した。金貨と銀貨はそのまま保管されたが、真鍮、青銅、銅貨は戦争産業用に溶かされた。オランダ領東インドでは、日本は後に1億9600万ギルダー相当の硬貨を押収したことを認めている。
これらの多くはアメリカで鋳造されたばかりだった。1940年にオランダがナチスに制圧されたとき、ジャワ島のオランダ植民地政府は本国から硬貨を入手することができず、サンフランシスコ、デンバー、ワシントンD.C.の造幣局で新しい硬貨を作らなければならなかった。1946年、アメリカの情報筋はオランダ軍事使節団に、これらの硬貨110ケースが横須賀海軍基地から日本銀行に移されたことが確認されていると伝えた。
オランダ軍事使節団のシリング中将は、1947年9月、東京湾から30トンのオランダ銀(5,637インゴット)が回収されたことを政府に報告した。これはジャワ島の日本軍第16軍によって没収され、偽の病院船で大阪造幣局に運ばれたものであった。その他のオランダ製インゴットもエチュジーナ湾から回収された。オランダ海軍中尉A.A.Looijenの戦後の探偵活動のおかげで、ジャワ島から盗まれた187トンのオランダ銀地金は、日本銀行に辿り着き、後にオランダ造幣局に返還された。戦争中、捕虜の奴隷労働者として日本で過ごしたLooijen中尉によると、オランダ、インド、イギリス、フィリピン、中国、インドシナ貨はドラム缶に入れられ、川崎と横浜の間にある東京のすぐ南、あすんどりの旧スタンダード石油精製所内にある国書という会社に持ち込まれたという。施設の管理者は山崎陸軍大尉だった。そこにいたオランダ人捕虜の一人、C・H・L・ブロークハイゼンは硬貨の選別を手伝った。彼の日本人作業員は、戦後まで金貨と銀貨を隠し、その後金属を溶かしてインゴットとして再鋳造し、洗浄するのが政府の意図だと話した。他の捕虜は、東京から100マイル北にある日立の工場で銅貨の再製錬を見た。川崎の東京地区第2捕虜収容所に収容されていたアメリカ人捕虜、エド・ジャックファートは、こう語っている。そこは、第二次世界大戦前にスタンダード石油が所有していた石油精製所で、敷地内のいたるところでスタンダード石油の看板を見かけました。そこには巨大な倉庫があった。私たちは、何度も倉庫での作業を割り当てられた。驚いたことに、日本船が東南アジアから持ち込んだ戦利品の多くが、この倉庫に保管されていたのだ。私たちは、ほとんどすべての東南アジア諸国の銀貨が入った何百もの袋を調べた。そこには何トンもの銀貨が保管されていたはずだ。そこには、私たちがあまり注意を払わなかった他の種類の盗品もありました」。その中には、ドラム缶に保管されていた大量のダイヤモンドのルースも含まれていた。最終的に、ダイヤモンドや色石は選別され、最も上質なものは脇に置かれ、最小のものは産業用に委託された。残りは樽に戻され、エリートの倉庫や個人の金庫に保管された。児玉提督をはじめとする東南アジアの日本軍将校や暴力団は、最大で最高のダイヤモンド、サファイア、ルビーを保管していた。児玉は軍用機で日本に持ち帰ることができたが、ほとんどの将校は将校の隠し場所に宝石のコレクションを隠し、戦後に回収して売却した。私たちのCDには、フィリピンの将校の隠し場所から回収され、個人売買のために提供された非常に大きな石数個について記述した文書が再現されている。
中国から陸路で、あるいは海路で日本に到着した金やプラチナのインゴットは、個人の金庫か、爆弾や地震に耐えられるように大規模に作られた日本アルプスのトンネルや地下壕に置かれた。支配階級のエリートたちは、この財宝を下層階級の人々に分け与えるつもりはなかったからだ。そもそもゴールデンリリーが作られたのは、このような理由からであった。日本で最も強力な閥である皇室と、その最も重要な支持者である大物財閥のために財宝の大部分を確保するためであった。最大の地下壕群は、1998年冬季オリンピックの会場となった長野近郊の山中にある松代にある。松代地下壕は、鉄筋コンクリートのトンネルのハニカム構造で、全長10 万立方フィート以上の地下空間があり、もともとは日本が連合国に侵略された場合、皇室、貴族の主要メンバー、すべての政府機関を収容するためのものだった。日本の情報筋によれば、その支坑のいくつかは、戦後日本の復興を支えるのに十分な金とプラチナの延べ棒を保管するために使われたという。松代は1万人の朝鮮人奴隷労働者によって掘られたが、そのほとんどは支坑が封鎖されたときに生き埋めにされたと言われ、二度と姿を見ることはなかった。悲劇的なことに、これは珍しいことではなかった。戦後、連合国の調査官は、本州の北西沖にある佐渡と呼ばれる日本の島で、387人のアメリカ人、イギリス人、オーストラリア人、オランダ人の捕虜が同じような運命をたどったことを知った。この美しくも人里離れた島は、伝統的に退位した天皇、貴族、詩人、司祭、有罪判決を受けた犯罪者の流刑地として使われていた。この島には、奴隷労働者に対する残酷な扱いで悪名高い三菱が所有・運営する金鉱があった。これらの連合軍捕虜は、相川という島の町の近くにある鉱山の坑道のひとつで働いていた。普段は50人が地上に出て、車輪付きの鉱石箱から石炭をホッパーに移す作業をしていた。しかし、日本が降伏する直前の1945年8月2日、囚人たちは全員、坑道の最深部、地下400フィート(約3.5メートル)に集められ、そこで金塊を切り出す作業に従事させられた。看守たちは慎重に地上に引き揚げ、車輪付きの鉱石容器をすべて坑道に押し込むよう命じられた。
前夜、日本の解体専門家が坑道に爆薬を200フィートと300フィートの深さに隠していた。午前9時10分、連合軍の奴隷労働者全員が地下深く潜っている間に、地雷爆破の命令が下された。強制労働収容所の副司令官であった津田義郎中尉は、この出来事を戦争犯罪調査官にこう語っている: 「私は100ヤード離れたところから見ていて、鉱山の入り口から煙と粉塵が押し寄せるのを目撃した。煙と埃が晴れるのを待つ間、手の空いている看守は全員、狭軌の鉄軌道の解体に取りかかり、その一部を坑道入口まで運んだ。午前10時30分までに、鉄軌道の痕跡はすべて取り除かれた。
[その後]、解体部隊が鉱山に入り、入り口のすぐ内側にさらに爆薬を仕掛けた。私が大きな爆発音を聞いたのは、収容所に戻る途中でした。振り返ると、岩と土の雪崩が坑口のあった場所を完全に覆っていました」。津田は、爆破される前に坑内に財宝が投入されたのを見たとは言っていないが、これほどまでに完全に痕跡を消し去り、入り口を覆い隠す理由が他にあるだろうか。三菱に隠し事がなければ、佐渡にいた387人の連合軍捕虜は、他の多くの捕虜と同じように、複雑な手続きなしに送還されたはずである。佐渡島の別の三菱金山で働いていた1000人以上の朝鮮人奴隷労働者も、終戦時に跡形もなく消えた。彼らの存在が知られるようになったのは、1991年に三菱商事が戦時中の奴隷労働者にタバコの配給を行ったという公式記録が公開されてからである。タバコの吸殻の数だけ大量殺人の犠牲者として記憶されるのは、倒錯している。
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e9ccba No.132858
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>>132857
この種の情報がすべてアメリカの公文書館から抹消される前に、アメリカ軍が日本で莫大な戦利品を発見したと報告していたことは、公の記録として残っている。(この文書のタイトルは『マッカーサー元帥の報告』である): 日本におけるマッカーサー: 参謀本部作成『占領軍段階第一巻補遺』、米国議会図書館カタログカード番号66-60006、ファクシミリ復刻版、1994年、戦史センター、Pub 13-4)。ここにあるのは、「日本が所有した金銀の山」...「強迫、不当な没収、剥奪、汚損の下で日本が取得した財産」...「日本で発見され、連合国(中国)にあったと確認された財産で、日本またはその代理人による詐欺や強制によって日本に持ち出されたもの」...。 「金、銀、宝石、外国の郵便切手、彫刻版......日本人が所有または管理していた貴金属とダイヤモンドの備蓄」......1つの備蓄に30,000カラットのダイヤモンドがあり、「52.5ポンドの備蓄プラチナ」が発見され、当時の価値は5,400万円(1945年の価値で1,300万米ドル以上)であった。
占領軍の壮大な任務のひとつは、金、銀、宝石、外国の郵便切手、彫刻版、そして日本で合法でないすべての通貨を収集し、警備下に置くことであった。... 「第8軍は、戦時中、日本または枢軸国政府が所有または管理していた貴金属とダイヤモンドの備蓄を押収し、保管するよう指示された。第8軍の機関はまた、貴金属や宝石が発見された場合はいつでも没収し、東京や大阪の米国の金庫に預ける権限を与えられた。このことから、アメリカは日本が占領した国から財宝を略奪していたことを知っていたことは明白である。その財宝がその後どうなったかは、今日に至るまで国家機密となっている。
1947年、マッカーサー元帥は多くのアメリカ人宝石学者を東京に連れてきた。そのうちの一人がエドワード・P・ヘンダーソンだった。スミソニアン博物館が行ったオーラルヒストリーのインタビューによると、マッカーサーはヘンダーソンを日本に招き、米軍が東京で回収した約5000万ドルの宝石を鑑定させた。その中には、焼け落ちた建物の灰の中から発見されたものもあった。ヘンダーソンはこう振り返った: 「バケツいっぱいの砂や砂利の中にダイヤモンドがたくさん入っていました。私たちの大きな問題のひとつは、汚れや煙などを取り除くことでした。私たちは日本銀行の金塊を保管している金庫の中で作業していたんです」。
ジャーナリストのロバート・ホワイティングによれば、約80万カラットのダイヤモンドはその後、日本銀行からマッカーサー司令部の管理下に移され、それっきり姿を消したという。アメリカの公文書館でその記録をたどろうとしても、すべて失敗に終わった。第二次世界大戦中に日本が略奪した80万カラットのダイヤモンドが、なぜ今ワシントンで「国家安全保障のための極秘事項」として扱われているのか、興味深いところである。誰の国家安全保障なのか?
三井倉庫で発見された5トンの銀塊は、日本が戦利品を連合国の手に渡さないようにするために抱えていた問題を物語っている。倉庫は安全ではないため、洞窟、トンネル、坑道がはるかに良い解決策だった。日本一のヤクザであった児玉提督でさえ、個人的な戦利品の隠し場所がなくなり、皇居の丸天井という特権的な隠し場所を利用せざるを得なくなった。東京ジャーナルによれば、「児玉はこれらの貴重品のかなりの部分を皇居内の皇室保管室に運ばせた。やがて宮内大臣から、占領軍に見つかる前に持ち出すように言われた。噂では、この役人の行動は天皇の直接の要請によるものだと言われていた」。
フィリピンに残っている財宝は?1943年初頭までに、アメリカは魚雷の問題を解決し、フィリピン真北の潜水艦封鎖はほぼ不可解なものとなった。以後、略奪品の多くはフィリピンに留まらざるを得なくなった。これは、秩父宮とその助言者たちに新たな難題を突きつけた。金は不思議な商品だからだ。金地金は手を変える必要がないからだ。いったん金塊の現物を手にすれば、それを安全な場所に置き、何十年、何百年と置いておくことができる。ゴールデンリリーは、すべての金とプラチナをフィリピンやインドネシアの深い保管場所に隠すことができるのです。まるで松代地下壕にあるかのように、安全な場所で眠り続けることができるのだ。たとえ日本が敵に侵略され、占領されたとしても、この金塊の所在は秘密のままである。世界が関心を失ったとき、個々の金庫は目立たないように回収することができる。これが、四天王と呼ばれた当時日本最高の金融ブレーンを含む秩父宮のアドバイザーたちの主張であった。深い坑道の設計は問題なかった。日本では、トンネル掘削は1000年も前から行われていた。どの藩主も土塁、トンネル、地下壕を持っていた。19世紀後半には鉄道トンネルが掘られ、石炭やその他の鉱物の採掘が日本の主要産業となったため、財閥は何万人もの日本人を坑夫として雇っていた。彼らは現在軍隊に所属しており、日本兵は坑道掘りの常習者だった。銃を持たせれば穴を掘る。アメリカは、日本兵をこの穴から焼き出すために火炎放射器を開発した。戦時中に掘られたトンネルが天然の洞窟と要塞や砲台を結んでいた沖縄ほど、優れた例はない。沖縄に点在する中国の墓は、この地下の防衛迷宮と横のトンネルでつながったピルボックス(鉄筋コンクリート製の防御陣地)に姿を変えた。
フィリピンの地質には天然の洞窟が多く、マニラは隠れ家だらけだった。4世紀にわたるスペインの植民地支配の間に、囚人たちによって街の地下に精巧なトンネルが掘られた。トンネルは、場合によっては地下墓地のある教会、大聖堂、修道院、あるいは精巧な地下牢を備えたスペインの砦につながっていた。1571年、スペイン人はセブからマニラに本拠地を移し、現地のモスレム支配者ダト・スリマンの要塞を引き継いだ。スペイン人はこの要塞をサンチャゴ要塞と名付け、隣接する60ヘクタールの土地を巨大な土塁の壁で囲んだ。スペイン人たちはこの複合施設をイントラムロス(「城壁の中」)と呼び、すぐに2つの大きな大聖堂と多数の政府庁舎を増築した。当時、イントラムロスはパシッグ川がマニラ湾に注ぐ河口の南岸にあったため、城壁の周囲に広い堀を掘ってイントラムロスを人工島とした。それ以来、水辺は撤退し、堀は公園となった。スペインの兵士、商人、司祭たちはみな、フィリピン人の使用人とともにイントラムロスの城壁の中で暮らした。奴隷も囚人も、ワイン、ブランデー、マンチェゴチーズ、チョリソ、セラーノハム、オリーブ、穀物、銀、金、火薬などを貯蔵するために、イントラムロスの地下にトンネルを掘る仕事に従事した。教会や修道会は、貯蔵庫や埋葬用の地下墓地を掘った。この地下迷路は、秩父宮に戦利品の隠し場所を提供した。憲兵隊はサンチャゴ砦を司令部としていたので、イントラムロスの警備は厳重だった。既存のトンネルを壁で塞ぐか、横穴を掘って密閉し、巧妙にカモフラージュすれば、中に財宝が隠されているとは誰も気づかないだろう。秩父が直面する最も差し迫った問題は、湾岸の倉庫からイントラムロスまで、いかに慎重に財宝を運ぶかということだった。陸軍のトラック隊は地元の好奇心を刺激する。マニラはホームレス難民、行商人、売春婦、ストリートチルドレン、ギャング、ハスラー、ゴロツキでごった返していた。観客が多すぎたのだ。その解決策は、15番埠頭から直接サンチャゴ要塞まで新しいトンネルを掘り、そこでイントラムロス地下の既存のスペイン時代のトンネルと合流させることだった。工事は1942年5月初旬に始まった。掘削された大量の岩と土は、15号埠頭のすぐ南にあるエルミタ地区の埋め立て地としてマニラ湾に捨てられた。掘削作業は何千人もの捕虜と、朝鮮、中国、フィリピンからの奴隷労働者によって行われた。メル・グティエレスは、バタンガス市のバリオに住む健常な男性全員と一緒に、掘るためにそこに連れて行かれたとき、まだ8歳だった。小さなメルは1日12時間、週7日、2年間働かされた。私服姿の憲兵隊将校は、彼が毎日ノルマをこなすのを確認した。わずかな配給で、多くの掘削労働者が死に瀕した。1943年5月までに、陸軍トラック2台が反対方向に通れるほどの幅を持つ、全長35マイルの一次トンネルが完成し、そのすべてが鉄筋コンクリートで覆われた。トンネルの一端は、イントラムロスを囲むスペイン壁のサンタ・ルシア門にあり、マッカーサー元帥の戦前司令部があったフォート・マッキンリーから直線距離で10マイルも離れていた。トンネルのほとんどは比較的浅く、イントラムロスのすぐ下の粘土の中に掘られ、水位と玄武岩の岩盤のすぐ上に残っていた。しかし、秩父の技術者たちは、パシッグ川では例外的に岩盤を掘り下げ、川の下に止水トンネルを作った。これは、外部には知られていない類まれな技術的偉業であった。1975年、ロバート・カーティスが日本の宝の地図をリバース・エンジニアリングしてこのトンネルを発見したときに知ったように、全長35マイルのトンネル網の端から端まで車で移動することは可能だった。しかし今日、その存在はほとんどのフィリピン人に知られていない。2つの入り口を除くすべてが、最近の工事によって塞がれてしまったのだ。トンネルが掘られていた1942年の夏まで、秩父宮と他の皇太子たちはマニラ周辺の宝物庫候補地を視察した。彼らは、オートバイのアウトライダーを従えた6輪の重い93式スタッフカーの車列で移動した。このリムジンは注目を集めた。戦前のスタッドベーカーやハドソンのシャシーをベースに開発されたこの車は、後部座席の後ろにキャンバス地の幌を折りたたむことができるオープン・ツーリングカーだった。リア・アクスルは2本で、左右に2つの後輪を備えていた。白いサイドウォールのタイヤは、クロームメッキのスポーク・ホイールに取り付けられていた。各フロント・ホイールの後ろのフェンダーは、スペア・タイヤを収納するためにくぼんでいた。スペアタイヤが収まるようになっていた。右のフロントフェンダーには、一等親王の紋章である白地に赤い14弁の菊の花(天皇の紋章は16弁)をあしらったずんぐりした旗印があった。93型にはガソリン仕様とディーゼル仕様があり、それぞれ68馬力と70馬力だったが、7,500ポンドの車重を考えると、最高速度は時速60マイルにとどまった。
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