000000 No.262 [Last50 Posts]
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708131 No.263
>>>/qnotables/45983
Originally posted at >>>/qresearch/17569695 (240002ZSEP22) Notable: カトリック教会は地球上で最大の財源です
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Q Research General >>>/qresearch/17566599 #21536 >>>/qresearch/17566121
カトリック教会は地球上で最大の財源です
>>>/qresearch/17566093
世界最大のマネーロンダリング銀行の1つが、カモを全て家に持ち帰る。
世界の銀行システムは、循環に依存している。 十分な数の銀行が怖気づき、カモをすべて家に持ち帰れば、世界経済は停止します。 フラクショナルバンキングは終わり、自分の持っているお金の20~30倍を貸すことはできなくなります。 あなたのカモは、マットレスの下で安全に眠っているのです。
カトリック教会は、地球上で最大の金融権力者である。
教会がどれほど裕福か、不思議に思ったことはないだろうか。作家で哲学者のアブロ・マンハッタンは、著書「バチカンの億万長者」の中で、カトリック教会の真の経済的価値を垣間見せてくれている。
「バチカンは、イギリス、フランス、アメリカのロスチャイルド家、ハンブロス銀行、ロンドン、チューリッヒのクレディ・スイスに多額の投資を行っている。米国ではモルガン銀行、チェイス・マンハッタン銀行、ファースト・ナショナル・バンク・オブ・ニューヨーク、バンカーズ・トラスト・カンパニーなどと多額の投資を行っている。
「バチカンは、ガルフ石油、シェル、ゼネラルモーターズ、ベスレヘムスチール、ゼネラルエレクトリック、インターナショナルビジネスマシン、TWAなど、最も強力な国際企業の株を何十億も保有している。(…)
カトリック教会が支配する不動産やその他の富については、ニューヨーク・カトリック会議のメンバーの発言、すなわち「彼の教会はおそらく、年間購入総額で合衆国政府に次ぐ地位にある」という言葉から、ある程度の見当がつくかもしれません。
"もう一つの発言は、全国的にシンジケートされているカトリックの神父によるもので、おそらくさらに示唆に富んでいる。
カトリック教会は米国最大の企業であるに違いない。どの地域にも支社がある。スタンダード・オイル、A&T、U&Sスチールを合わせたものを上回る資産と不動産を持っているはずだ。そして、会費を払っている会員の名簿は、合衆国政府の納税名簿に次ぐものでなければならない。(…)
"カトリック教会は、現存する最大の財力、富の蓄積者、財産所有者である。彼女は、地球上のどの単一機関、企業、銀行、巨大信託、政府、国家よりも物質的な富の所有者なのである。
「ローマ法王は、この巨大な富の目に見える支配者として、結果的に20世紀で最も裕福な個人である。彼が何十億ドルという単位でどれだけの価値があるのか、誰も現実的に評価することはできない。"
https: //www.zubeidajaffer.co.za/the-catholic-church-is-the-biggest-financial-power-on-earth/
ロスチャイルド家はバチカン銀行に多額の資金を貸し付け、バチカン銀行が行うことを実質的に指示していることに留意されたい。
写真関連;ローマ法王とド・ロスチャイルド夫人とその仲間たち。
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708131 No.279
>>>/qnotables/46142
Originally posted at >>>/qresearch/17806472 (250207ZNOV22) Notable: ゴッドファーザー3 デコード
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Q Research General >>>/qresearch/17806124 #21835 >>>/qresearch/17806093
ゴッドファーザー3 デコード
まだ誰もこれを深くやっているのを見たことがないので、ここに紹介します。
この映画のプロットは、コルレオーネ一家が大企業の株式で富を築き、実質的にすべて合法的になってしまったというものです。彼らは拡大を続け、バチカン銀行から大家の会社を買収しようとします。しかし、大司教はマイケル・コルレオーネから最初の「寄付金」を受け取り、全額支払いを待つ間引き延ばし、その間に暗殺されるように仕向ける。大司教はそれを見破り、両者は争う。彼は最終的に勝利するが、自分には大きな犠牲が伴う。
この物語は、実際に起こったことをベースにしている。ロベルト・カルヴィという「神の銀行家」として知られる悪徳銀行家がいて、プロパガンダ2のフリーメーソンのメンバーとして知られていた(余談だが、彼らはフリーメーソンだったが、反共産主義者だったため本会のロッジから追放された…メイソンのゴールについて何か語っている…)。とにかくこの銀行家は、バチカン銀行をオフショア銀行として使い、人々を騙していたのです。バチカンには、最初から腐敗した部分がありました。バチカン銀行は、カリブ海の銀行などを使うずっと以前からオフショア銀行でした。
ここからが本当に面白いところです。
この映画のコルレオーネ・ファミリーは、ロスチャイルド家です。バチカンが貧乏で現金が必要なように振舞ったので、彼らはバチカンに融資をした(彼らの財政は実際には非公開なので、これを偽造するのは簡単であろう)。バチカンにお金を渡したところで……そう、バチカンを追い抜くことには成功しなかったのだ。彼らは別の方法でバチカンに潜入しようとした…メイソンを神父にしたり、内部から裏工作をしたり、いろいろなことをやっている。暗殺さえも ローマ法王ヨハネ・パウロ1世は、早く家をきれいにしようと、わずか33日(へえ)で毒殺されましたが、これは映画の中で、歴史的に正確な出来事として描かれています。
映画の中のソロスは誰かというと、マイケル・コルレオーネのフィクサーで、腐敗した大司教を暗殺したアル・ネリである。ソロスは、お金を動かして、"ファミリー "が指定した国や組織をターゲットに倒す人です。
"金融は銃、政治は引き金を引くタイミングを知ること……" アル・ネリとはソロスのことである。ソロスはロスチャイルドの金の亡者。
私は、このすべてに関わる膨大な歴史があるので、どんな質問にも答えることができる。
神のご加護を。
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708131 No.326
>>>/qnotables/47184
>>>/qnotables/47185
Originally posted at >>>/qresearch/18028430 (280530ZDEC22) Notable: ゴールド・ウォリアーズ : アメリカはいかにして山下家/日本皇室の金を密かに回収したのか?
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Q Research General >>>/qresearch/18028088 #22092 >>>/qresearch/18027840
ゴールド・ウォリアーズ : アメリカはいかにして山下家/日本皇室の金を密かに回収したのか?
>>>/qresearch/18027137 pbの本のリスト
このリストには入っていませんが、この本もお勧めです。
ゴールド・ウォリアーズ : アメリカはいかにして山下家と日本の皇室の金を密かに回収したか
山下の金塊というのは誤解である。彼は、1943年のアメリカの潜水艦封鎖で日本が東京に戻れないときに、(皇室によって)P.I.にそれを隠す(そしてそれを175の細心の注意を払って準備した金庫にすべてブービートラップする計画を立てる)仕事をしただけで、まだ多くのものが引き出されていないのである。1943年にアメリカの潜水艦が封鎖され、日本軍が東京に戻ることができなくなったとき、(皇室が)P.I.に残した。 彼らはいつも、すべてはナチの戦利品で準備されたと言うが、日本の潜水艦の戦利品に比べれば、彼らは教会のピクニックだったのだ。日本の皇室が何百年もの間、アジア全域で略奪してきたものに比べれば。 その多くはまだ東京の皇居の下にも眠っている。 トルーマン(33階級メイソン)ドクトリン全体は完全な詐欺で、日本人に戦争賠償金(他の多くのものの中で)を支払う必要はなかった。
実際の普通の国民は全く貧しかったが、日本の天皇は40年代後半以降、5000万ドル(現在ではインフレ調整後で年間13億9401万ドル)の利子で大金を稼いでいた。ブラックイーグル信託は1000もの他の口座を生み、第二次世界大戦後にトルコやギリシャで行われた「共産主義と戦う」すべてのクソ活動を資金提供した。 これらは全て、1944年のブレトンウッズ会議で設定されたものだ。
時間をかけて読む価値がある。登場人物はほとんどのアノンになじみがあるはずだ。アレクサンダー・ヘイグ、マッカーサー、ポピー・ブッシュ、エドワード・ランズデール、フェルディナンド・マルコス、ヒロヒト、ダレス兄弟、サリバン&クロムウェル、ヘンリー・キッシンジャーなどなど、挙げればきりがない。
同封のPDF
Originally posted at >>>/qresearch/18031444 (282041ZDEC22) Notable: ゴールド・ウォリアーズ : アメリカはいかにして山下家/日本皇室の金を密かに回収したのか?
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>>47184
Q Research General >>>/qresearch/18031161 #22096 >>>/qresearch/18030620, >>>/qresearch/18030717
ゴールド・ウォリアーズ : アメリカはいかにして山下家と日本の皇室の金を手に入れたか?
>>>/qresearch/18027840 ゴールド・ウォリアーズ : アメリカはいかにして山下家/日本皇室の金を密かに回収したか
これは、「陰謀と呼ばないで」以来、私が読んだものの中で、断然重要なものです。政府や軍隊のあらゆるレベルでの腐敗は驚異的です。
世界中のエリート集団が、なぜこれほどまでに権力と富を強化することができたのかを説明するのに大いに役立つ。数千年にわたる略奪が、世界中で、銀行エリート、腐敗した政府、情報機関、総務省に分配されました。
マッカーサー元帥は、日本人と共謀していたのでしょうか?日本が賠償金を払わなかったのは、そのためか?これは主に金塊に関することだ。文化財は、皇居や中央銀行、裕福なエリートの金庫に埋もれたままです。
世界全体が犯罪企業として運営されているのです。第二次世界大戦は想像を絶する犯罪行為であり、我々は今日に至るまでその被害に遭っているのです。
これを投稿してくれた人に感謝します。誰もがその意義に気づくまで、何度も何度も投稿してください。大いなる目覚め、まさしく。
>>>/qresearch/18030620
大歓迎アノン!
>>>/qresearch/18030697
ビンゴ…価格でも、持っている/持っていないの金額でもないんです。
何百年も前から、つまり連邦準備制度ができる以前から、それを使って行われてきたすべてのゲームです。 リースやローン、秘密口座
財務省や連邦準備銀行の帳簿には、1オンスあたり42.22ドルの評価額が記載されています。
連邦準備制度理事会は、金を所有または保有していますか?
抜粋
金の法定価格は、法律で決められています。これは金の市場価格とは関係なく、1973年以来、1トロイオンスあたり42ドル2/9、つまり42.2222ドルで一定しています。財務省が保有する金の簿価は、この法定価格を用いて決定されます。
https://www.federalreserve.gov/faqs/does-the-federal-reserve-own-or-hold-gold.htm
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708131 No.1510
>>>/qnotables/48491
Originally posted at >>>/qresearch/18275251 (030739ZFEB23) Notable: フィリピンは、以前から日本人の逃亡先や犯罪の拠点
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日本がフィリピンに多くの援助をすることによって、日本人がフィリピンで犯罪をしやすい環境を作っている可能性はあるのだろうか?
「ルフィ」強盗事件、「悪党の天国」にしたのは誰か
上から目線でフィリピンを指弾するのはたやすいが
https://toyokeizai.net/articles/-/650347 2023/2/3
マニラ首都圏パラニャーケ市ビクータンにある入管施設に日本のマスコミが押し寄せ、テレビカメラの放列ができている。日本で発生した連続強盗事件の指示役「ルフィ」が収容されているとみられているからだ。この10年ほどの間で、フィリピンにこれほど多くの日本メディアが殺到した例はない。南シナ海の領有権問題にも、大統領選挙にもほとんど関心を示さない日本のテレビ局だが、日本人がらみの事件には時に強く反応する。
一部抜粋
・なぜフィリピンの刑事司法はまっとうに機能しないのだろうか。
それは、途上国一般の事情として警官、検察官、刑務官、裁判官らの司法関係者をはじめとする公務員の給与が安く、それだけでは十分に生活できない状況がある。
・日本とフィリピンの間で犯罪者引き渡し条約は結ばれていない。そのため、日本政府から引き渡しの要請があれば、その都度フィリピン政府が判断する
フィリピンにとって日本は最大の援助国だ。中国などと比べて、援助に関する条件も寛容だ。両国間に大きな懸案もなく、フィリピン政府は日本政府の要請があれば大方は聞きいれる。容疑者引き渡しでも概して協力的といえる。
しかしながら、刑務所や拘置所側の事情もある。金を持つ容疑者や被告から賄賂を受け取っている刑務官や拘置所職員、その上司らからすれば金づるを失いたくない。そうした中で早期送還が実現するかどうかは、日本側の働きかけ次第となる
・収容所の実態からフィリピンを「悪党の楽園」と表現するテレビ局があった。法相に直接、そうぶつけるレポーターもいた。では悪党とは誰か。日本人である。
この国で日本人が殺人などの被害に遭うとき、加害側に日本人がいるケースがほとんどだ。逃亡先として選ぶ際に手引きするのも、多くは日本人だ。
こうした事件があると押しかける日本のマスコミの中には、地元で雇った助手やカメラマンだけではなく、時には官吏や囚人、容疑者にも多額の現金を渡してインタビューや情報を取る輩もいた。フィリピンのよからぬ状況を上から目線で指弾するのはたやすい。しかしながら「犯罪の輸出」をしているのはほかならぬ日本である。
PB
>>47258 小児性愛/人身売買 BUN
>>47235 @JackPosobiec 米国の慈善団体やNGOがその国に「投資」すればするほど、人身売買が行われる可能性は高くなる
>>47236, >>47237, >>47247, >>47249 人身売買とNGO:日本もアメリカと同じようなことになっている可能性は??
>>>/qnotables/48492
Originally posted at >>>/qresearch/18275428 (030915ZFEB23) Notable: フィリピンは、以前から日本人の逃亡先や犯罪の拠点
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>>>/qnotables/48491
この事件の裏にも更なる巨悪がある事を考えます
>・なぜフィリピンの刑事司法はまっとうに機能しないのだろうか。
他国から多くのお金が入ってくる事は貨幣の利潤と関係しますか?
^その国でお金を循環させる事はどの様な影響に繋がりますか?
刑事司法のみならず国自体が(貨幣の循環を望む者達)関係している可能性はありますか?
フィリピンの大統領についての浅いdig 調べてすぐに目に入った古い記事を
フィリピン大統領「麻薬戦争の道のり長い」、最後の施政方針演説
https://jp.reuters.com/article/philippines-politics-idJPKBN2EX0CZ
フィリピン麻薬撲滅作戦、3万人死亡か
https://www.sankei.com/article/20220509-EAGQBYDTBJOTDPCRRBSCO3VOII/
取り締まりで死者5000人、それでも人気衰えず ドゥテルテのフィリピン麻薬戦争
https://globe.asahi.com/article/11989512
麻薬関連にについては厳しい様だが,,,
DeepStateに都合の良い世界?
政=マツリゴト?
CLOWNS IN WORLD
>>>/qnotables/48493
Originally posted at >>>/qresearch/18275799 (031253ZFEB23) Notable: フィリピンは、以前から日本人の逃亡先や犯罪の拠点
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>>>/qnotables/48492
追加情報有難うございます。
生きていくために必要なものが満たされない状況を意図的に作り出し、
犯罪に手を染める人が増えるような世界を作り出している者たち。
お金がないと生きていけない世界にしている者たち。
人類を奴隷にしている者たち。
諸悪の根源を一掃しないと、このような犯罪がなくなることがないですね。
その諸悪の根源を一掃するムーヴメントだからこそ、このQの投稿から始まった
"素晴らしい大覚醒"となる運動は有効的で世界中の愛国者たちが賛同するのでは
ないでしょうか。
138
Nov 11, 2017 11:32:49 PM EST
Q !ITPb.qbhqo ID: gO/UntOB No. 149063549
PhilipPines: フィリピン中央銀行
275
Dec 05, 2017 4:26:34 PM EST
Q !ITPb.qbhqo ID: 7cfe10 No. 38682
+FLY+
銀行が政府を支配し
政府は国民を支配する
SAは選挙で選ばれた人たちを支配する
ソロスは、人々の組織を支配する
準備はいいですか?
Q
1245
Apr 23, 2018 3:31:49 PM EDT
Q !xowAT4Z3VQ ID: 3b9a43 No. 1158695
>>>/qresearch/1158519
サウジアラビアを考える
順序が重要です
サウジアラビア -> 北朝鮮
北朝鮮 -> アメリカ
アメリカ -> イラン
イラン ->
他のならず者核保有国は?
人質の定義は?
保護の定義
不正な核保有国に保護されるのは誰か?
計画を信頼して
世界は繋がっている
なぜAZ/CAのような国境沿いの州は重要なのか?
なぜMXは大統領に反対しているのか?
一番うるさいのは……
WWG1WGA
素晴らしい大覚醒
アイアン・イーグル
Q
https://qalerts.app/
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708131 No.6498
>>>/qnotables/49357
Originally posted at >>>/qresearch/18454507 (061218ZMAR23) Notable: 1988年エコノミスト誌表紙:世界通貨を準備する
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>>>/qnotables/49356
I had seen this Economist cover before, but had rarely paid attention to the words on the cover.
"Get ready for a world currency"
Thank you for telling us once again. Lots of Japanese yen on fire …
I didn't know until I looked it up this time that what the phoenix wears on its head is called a fleur de lis.
The literal translation is lily flower, so it may have something to do with the Emperor's gold (Golden Lily).
このエコノミストの表紙は以前、目にしていたのですが、表紙の文字に注目したことはほとんどなかったです。
"世界通貨を準備する"
改めて教えていただき、ありがとうございました。たくさんの日本円が燃えている・・・。
今回調べて初めて知ったのですが、不死鳥が頭につけているものはフルール・ド・リスと言うそうですね。
直訳すると百合の花なので、天皇の金塊(ゴールデンリリー)と関係があるのかもしれませんね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/フルール・ド・リス
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708131 No.6499
>>6498
>>>/qnotables/49363
あなたが首の周りのメダルの日付を見れば、それは101018であり、市場はその日に巨大なダンプを取った
If you look at the date of the medal around the neck, it is 101018 and the market took a huge dump on that day
そのシンボルは、中国からお金を借りて(伝えられるところでは)それを返済し、返済する契約がこれらの暗号化された金の延べ棒であったため、1930年代
中国からの金の延べ棒の暗号文
次の謎は、米国の博物館の学芸員によってIACRにもたらされました。 完全な話はありませんが、1933年に中国の上海で王将軍に7つの金の延べ棒が発行されたとされています。 これらの金の延べ棒は、米国の銀行との銀行預金に関連する金属証明書を表しているようです。 金の延べ棒自体には、絵、中国語の書き込み、何らかの形のスクリプトの書き込み、ラテン文字の暗号文があります。
驚くことではないが、預金の請求の有効性に関する紛争がある。 誰かがバーの暗号文を解読できれば、紛争を解決するのに役立つかもしれません。 誰もまだその意味についてa理論を入れていません。 私はまた、スクリプトの書き込みを認識することができません。 中国語の文章は翻訳されており、transaction300,000,000を超える取引について説明しています。 また、合計1.8キログラムの重さのこれらの金の延べ棒を指します。
The following mystery was brought to IACR by the curator of a museum in the US. I don't have the complete story, but it seems that seven gold bars were allegedly issued to a General Wang in Shanghai, China, in 1933. These gold bars appear to represent metal certificates related to a bank deposit with a U.S. Bank. The gold bars themselves have pictures, Chinese writing, some form of script writing, and cryptograms in latin letters.
Not surprisingly, there is a dispute concerning the validity of the claim for the deposit. It may help to resolve the dispute if someone can decipher the cryptograms on the bars. Nobody has yet put for the a theory as to their meaning. I am also unable to recognize the script writing. The Chinese writing has been translated, and discusses a transaction in excess of $300,000,000. It also refers to these gold bars which weigh a total of 1.8 kilograms.
https://www.iacr.org/misc/china/
いくつかのうちのこれは、グランドキャニオンまたはヨセミテのいずれかのレリーフマップを持っています,彼らはプレーサー金と呼ぶものの十億が発見されたグランドキャニオン(鉱石)後の1800年代と1900年代初頭に、彼らはあなたが唯一の何百万人がその時点で利用可能であったときに利用可能なオンスの十億を持つことができなかったので、彼らはそれをシャットダウンしなければならなかった. それは制御構造の終わりであり、彼らはそれを知っていたので、ウィルソンはそれをロックすることができるように連邦準備制度法に署名した。 あなた(誰もが)グランドの90%に入ることができない理由がありますcanyon..it's"立ち入り禁止"
That symbol is also on some gold bars from the 1930s becasue we borrowed money from the Chinese and paid it back (allegedly) and the contract to repay were these cyphered gold bars
いくつかのうちのこれは、グランドキャニオンまたはヨセミテのいずれかのレリーフマップを持っています,彼らはプレーサー金と呼ぶものの十億が発見されたグランドキャニオン(鉱石)後の1800年代と1900年代初頭に、彼らはあなたが唯一の何百万人がその時点で利用可能であったときに利用可能なオンスの十億を持つことができなかったので、彼らはそれをシャットダウンしなければならなかった. それは制御構造の終わりであり、彼らはそれを知っていたので、ウィルソンはそれをロックすることができるように連邦準備制度法に署名した。 あなた(誰もが)グランドの90%に入ることができない理由がありますcanyon..it's"立ち入り禁止"
None of those digits or most of the stuff on it has never been successfully translated
これらの数字のどれも、またはその上のもののほとんどが正常に翻訳されたことはありません
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708131 No.6511
>>6498
>>6499
>>>/qnotables/49401
>>>/qresearch/18467329 Q Research General #22645: All Assets Deployed - They Skeered Edition
>>>/qresearch/18468095 notables
>>>/qresearch/18467906
中国鉄道債券、蒋介石・中華民国・台湾、そして中国が世界に負っているもの-ゴジラ、メカゴジラ、Mkt Fagが解説する。
>>>/qrb/138491 QRB General #937: Dims Need Our Guns Cause… Edition
>>>/qrb/138597
MktFag: "ゴジラと金融の話を続けたいと思います。ゲストのメカゴジラと今日のテーマは中国の鉄道債です。まず、あの政権(中華民国)で何が起こったのか、中国共産党による中華民国の買収によって生まれた状況やそれがもたらした影響について少し説明する必要があります。
ゴジラ: "少し寝かせてくれてありがとう。"クソ総理はまだシンガポールにいるからもっと話せるし、メカゴジラももっと話せるだろうけど、彼らはいつも僕ら2人を見ているんだ。
メカゴジラ: "その通りだニカッ。彼らは皆、私が彼らの味方だと思っているが、福島の後、私はその騒音はクソだと言って、ただ一緒に遊んでいる。
ゴジラ:「よかった-まだちょっと警戒してるけど、どうなることやら。
Mkt Fag:" 今日は二人の間に信頼関係を築きましょう、そうなればいいですね".
MktFag: "さて、今日のトピックは、1912年から発行された中国の鉄道債券について、その背景を少し説明します。
ゴジラ: "1949年に毛沢東が政権を取る前、共産主義が始まる前の中華民国が発行していたものです。
メカゴジラ:「あれは1938年に同じ中華民国が発行したものだが、クーデターで追放され、台湾に逃亡した。
Mkt Fag:" その通りです。1949年に共産党が政権を取り、蒋介石将軍は台湾に逃げました。そのクーデター全体が、中国の近代化と西洋への開放に反対する中国国内の派閥によって仕組まれたものだったのです。 " "彼は中国共産党の派閥と戦おうとしたが、結局は負けてしまい、その結果、毛沢東が政権を取った1949年のクーデターに至った"
続き
>>>/qrb/138600
Mkt Fag "なぜ日本人のゲストがここにいるのか不思議に思うかもしれませんが、中国の鉄道債券について話しています。 "これより前に、日本の満州侵攻がありました。"ここで「歴史」は少し使いにくくなります。そこで行われていた軍事作戦は間違いないのですが、それに対する「公式」の解釈には疑問があります。
ゴジラとメカゴジラ:「彼の言う通りです。彼は中国共産党を排除しながら日本を宥めるという信念を持っていましたが、政権を維持するためにそれらの派閥と連携せざるを得なかったため、結局うまくいかず、2人の将軍がバランスをとっていたのでしょう。張学良と楊虎城の2人の将軍は、その宥和政策にうんざりしていた人たちだった。
メカゴジラ 「しかし、日本帝国はどうしようもない状況に追い込まれ、最終的に第二次世界大戦に突入した。 世界を支配する人々は、50~100年という長い時間軸で物事を考えていることを忘れてはならない。 "
Mkt Fag:" 蒋介石が台湾に逃げることになったのは、西安事件と呼ばれる事件がきっかけでした。 「彼は他の2人の将軍に連れられて西安に行きましたが、そこに着くまでに、彼らは彼に我々のやり方か高速道路だと言ったので、彼は譲歩したのです。
ゴジラ:"私はメカゴジラより長く生きているので、ここで少し付け加えられます" "あの件は、彼(魁璽)が中国の軍備を近代化しようとしていたからだが、その後述べたように、彼は中国共産党をなだめなければ、もっと早く追放される危険性があった。" "彼は最終的に南京に戻され、(彼を誘拐した将軍たちと)中国共産党との内部抗争を終わらせ、日本との戦争が避けられないことに同意しなければなりませんでした。"中国は2017年の80周年にこのすべてについてひどい「劇」まで作りましたが、私は劇作家ではありませんがそれはホリブルでした!"。
Mkt Fag "その部分について調べるスペースも時間もないので、さらに調べることをお勧めします。しかし、それは中国共産党が中華民国を乗っ取るための舞台となり、内部の権力闘争がよくやるようにクソみたいなショーになりました。" さて、私たちがここにいる理由は、中国のラリウェイ債について取り掛かりましょう。
>>>/qrb/138610
中国の鉄道債の話に移りますが、あれは中国の内部拡張とインフラ整備のために発行されたもので、当時はまだ本物の貨幣を使っていたので(1913年に連邦準備制度が創設されたことで全世界が変わった)、簡単に売れるように金で裏付けされていたんです。 "最初に発行されたのは£(ポンド)の額面で、価値の5%の金で裏付けされていた。" cap#1を参照。
ゴジラ: "蒋介石がフォルモサ(現在の台湾共和国)に退位して以来、中国共産党は自分たちが引き継ぐ前に発行された債券について責任を負わないと決めた。彼らはまた、台湾が中国の一部だと信じている。国際法上、後継政府は前任者の債務に責任を持つ。ただしこの特定のケースは例外で、それらは多くの価値があり、公開市場で販売されていたので今日でも多くの人の手に渡っている。"
メカゴジラ: "そうです、彼らは台湾がまだ中国だと考えているのですから、その責任を負うべきです。 「ヒラリーがニューヨークの自宅のトイレにあったサーバーで、どうやって中国に国全体を売り渡したか、みんな知っている。
アメリカには、中国政府に国債を償還させようとしている団体があります。その国債は、全世界の未収利息で6兆ドル以上の価値があり、およそ1.6兆ドルを持っています。 中国が1987年に英国に多額の支払いを行い、正確な債券の所有率に関する義務を「解決」したため、「米国債券保有者財団」と呼ばれるグループに6兆円、45歳の弁護士にも協力してもらおうとしていました。
ゴジラ:「ええ、1987年にイギリスの首相(マーガレット・サッチャー)がそれを持ち出して、中国がイギリス(ロンドン市)の金融アクセスにアクセスするのを止めると脅しました。 "なぜこれが重要かというと、そうすることで、彼らが実際に、それらの債券に責任があることを公に認めたからです。それは2350万ポンドの支払いだったので、彼らは所有者の一人に支払いをすることで、それらの残りに責任があることを完全に明らかにしました。"
メカゴジラ: "つまり、彼らは選択的債務不履行に陥っており、国際市場でいかなる債務も発行できないはずですが、私たちが何度も見てきたように、「あなたのためのルール」です…" 「1979年に外国主権免責法を利用した集団訴訟があり、この件では基本的に「主権を訴えることはできない」とされている(キャップ2参照)。
MktFag:"この鍵は、これらの債券が、私たちが中国に押し付けている米国債の債務を、事実上帳消しにすることができるということです。 「なぜなら、1987年に英国に支払うことで責任を負うことを認めて以来、彼らは間違いなく責任を負っているからです。しかし、その執行こそが困難であることが証明されており、過去80年の歴史の多くが「洗いざらい」出てくるまでそのようにあり続けるでしょう。
ゴジラ:「そして、それをさらに難しくしているのは、SEC(自らの規則を執行する代わりにプロンを監視する王)のあのバカどもは、実際にアメリカ債券保有者財団に対して強制訴訟を起こしたことだ。 「何十年も放置してきた市場の問題を解決するのではなく、1987年のイギリス人への支払いによって公に認められた中国共産党とその法的義務の保護にもっと多くの時間を費やしてください」。キャップ#3参照
MktFag: "さて、これで多くの分野をカバーしましたが、まだまだカバーしたいことがたくさんあるので、やっとスタートラインに立てたと思います。 ゴジラさん、メカゴジラさん、ありがとうございました。
ゴジラ:" そして、1950年代に大広間から持ち出された金(1909年に発見され、これが連邦準備制度が作られた理由です)を、システムに戻すこともできません。なぜなら、彼らが皆言うほどには、そこには金がなかったからです。
Mkt Fag: 「このテーマは非常に大きく、きちんと説明するのに時間がかかるので、後日、説明することにしましょう。
ゴジラが話している金の中には、1988年のエコノミスト誌の表紙で、世界単一通貨の到来を告げるフェニックスの首に巻かれているものと同じシンボルがついているものがあります。
お忙しい中、ありがとうございました'
**MktFag ty o7
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708131 No.6528
>>>/qnotables/49694
Originally posted at >>>/qresearch/18575932 (250203ZMAR23) Notable: イスラエルDIG:「イスラエル」とは、FRBのこと
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イスラエルDIG
https://8kun.top/qresearch/res/8708036.html#8708618
#8708618 at 2020-04-07 01:08:40 (UTC+1)
Q Research General #11150: Freddy has coronavirus (allegedly) Edition
私はマインドダンプをしながらCCP(中国共産党)ウイルスの問題についていろいろと考え、かつての断片をすべてまとめようとしています。しかし、これらの出来事を考えれば考えるほど、本当に今この瞬間に起きている仕事にはもっと大きな遊びがあるのだと論理的に結論づけざるを得なくなります。私は大都市圏の近くに住んでおり、この「ウイルス」によって大きな打撃を受けると思われがちですが、実は、私の知り合いや私のフィードを見た人の中には、この問題に関わる人物を知っている人、関わっている人はいません。
実際、昨夜、時間をかけて近隣の郡を調べてみたが、いつも同じ結果になった。誰も知らないか、「聞いたことがある」と言われるかのどちらかだ。具体的なことは何もなく、これが事実であることを証明するものもない。しかし、私たちは「見えない敵」がいると大統領に言われ、メディアは彼らのシナリオを押し付け(彼らはそうしないようにしても常に真実を伝える)、DNCは単純で安価な薬へのアクセスを防ぐために全力を尽くす一方で、人類に対する犯罪に手を染めることになったのである。
その時、私は私たちの調査にとって非常に重要な部分を思い出しました:「イスラエルは最後」です。私は、ここで毎日繰り返される「ユダヤ人が嫌いだ」という戯言が好きではないし、気にしたこともない。しかし、彼らがFRBを支配していること、この問題がどれほど経済を破壊しているか、そしてQが「イスラエルは最後」と述べたこと、そして現在のタイムライン(つまり、もうすぐ4年)を考えると、私たちが現在扱っているのはイスラエルが最後だと思わざるを得ない。「イスラエル」とは、FRBのことです。
それは私にとって最も論理的な意味を持ち、過去の証明からこれまで知られていなかった多くの点を結びつけるものです。私の2セントだけです。
916
Mar 10, 2018 1:04:36 PM EST
Q !UW.yye1fxo ID: 88957f No. 613229
Mar 10, 2018 1:02:22 PM EST
Anonymous ID: 436341 No. 613193
Mar 10, 2018 12:58:27 PM EST
Q !UW.yye1fxo ID: 88957f No. 613129
>>>/qresearch/613114
「DNCと一緒に働いていたパキスタン人のことはどうなったのか」と、大統領は木曜日にニューヨーク・タイムズ紙が掲載したインタビューで質問しました。
大陪審は8月、コロンビア特別区連邦地方裁判所に、アワンとその妻ヒナ・アルヴィを、連邦銀行詐欺と陰謀を含む合計4件の罪で起訴した。アワンはすべての容疑について無罪を主張しています。
"彼らに何が起こったのか?" トランプは続けた。"2台のサーバーは100万個に分解されたんだろう?彼はどうなったんだ?"
>>>/qresearch/613129
アワンはどうなんだ。
イスラエルは関係あるのか?
>>>/qresearch/613193
私たちはイスラエルを最後に救っています。
一度も言及されていない非常に具体的な理由です。
Q
情報を調べている中で、"イスラエル"という言葉は、元々は地名ではなく、生命そのものを指しているという記述があった。
個人ブログだったので、ソースにならないけれど、興味深い内容を一部メモしました。今後の研究に何か繋がるかもしれない。
イスラエルの意味:
全ての生物の有機的機能を動かしている全プロセスのこと。始まりと存続に関する科学を指す暗号。
エジプトのファラオ、イクナートン(アメンホテプ4世)は、物理的な太陽ではなく、太陽が持つ何らかの神秘的な力が地上の全ての
生命を動かす力となっていることを、何らかの方法で理解し、それを"イスラエル"と名付けた。
本来の"イスラエル"という言葉の意味が、どこかで捻じ曲げられて、
無から有を生み出す詐欺システム(中央銀行システム)を指すようになった?
確かに今はお金が地上を動かす力になっている・・・
2020年にアノンが残してくれていた言葉(情報):「イスラエル」とは、FRBのことというのは、腑に落ちる。
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708131 No.6529
>>6528
>>>/qnotables/49696
Originally posted at >>>/qresearch/18576786 (250614ZMAR23) Notable: 数字「72」(地球の数字)/シンボルについての私たちの思考を拡大する
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>>49694
72
72の法則
https://ja.wikipedia.org/wiki/72%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87
72の法則(72のほうそく)とは、資産運用において元本が2倍になるような年利と年数とが簡易に求められる法則である。
72の法則は、次式のとおりである。
年利 (%) × 年数 = 72
私たち人類を債務で支配する法則ですか???
https://8kun.top/qresearch/res/1824562.html#1824744
#1824744 at 2018-06-20 04:19:05 (UTC+1)
Q Research General #2299: Devine Between The Lines Edition
72の法則
複利
eの歴史 (2.7182818284590452353602874713527)
複利
"マネーチェンジャー"
なぜわかったのでしょう?
ずっと後になってから発見された。
どうやって知ったのか?
世界で一番クールな秘密なのに、人を騙して現金を得ることしか考えられなかったのか?
この人たちは病気だ。
創造性がない。
https://8kun.top/qresearch/res/7707710.html#7708242
#7708242 at 2020-01-04 02:32:37 (UTC+1)
Q Research General #9864: Q Research - Big On The Sauce Edition
>>>/qresearch/7708145
数字「72」(地球の数字)
意味と象徴地球の数を表す72という数字は、密教数秘術ではマスターナンバーとして知られている数字である。つまり、顕在する宇宙の周波数や振動、エネルギーを再現するパターンを包含する数であり、72×12=864は太陽の直径に相当する。(地球の数に星座の数、月の数、弟子の数「12」をかけると、オカルトでよく言われる「太陽の数864」「直径864,000マイル」になる)72と23という数字の間には、まだ実現されていない意味があると思うんです。オカルト的な儀式の中で、72と23の数字がお互いの数字をつなぐパイプ役として使われることがよくあります。 特に、ここ10年で多発した銃乱射事件。 (7+2=9)+(7×2=14。)9+14=23(オカルト儀式で多用される数字)一般72年は1°の行列に相当する. (人間の平均寿命は72年。人間の平均心拍数は72bpm。人間の卵子の寿命は72時間。2010年12月21日(冬至)は、ちょうど72分続いた満月食の日である。西暦から始まり、72で終わる年(例:西暦72年・・・西暦172年・・・西暦872年・・・西暦1972年くらい)すべてはうるう年である。 室温は72°F.ハフニウムHFは周期表の72番で発見された最後の安定した元素である。平均的な体には72%の水が含まれている。黄道帯には12の主要な星座と72の副星座がある。モルモン教の宣教師のルール#72 - あなたの仲間の前に発生しない。「72の法則」は、一定の年利が与えられた場合に投資が倍になるまでの時間を決める簡便な方法である。72を年利で割ることで、投資家は初期投資が何年で倍になるかの概算を知ることができます。72は18ホールのゴルフコースのパー数です。パーチーシーのゲームでは、スタート地点からホームまで72のスペースがあります。DPIでは72はApple Macintoshスクリーン上の画像やグラフィックのデフォルト画面解像度です。タイプグラフィではポイントサイズは72分の1で測定します。72ポイントの文字は1インチの高さです。予言者ノストラダムスは、2世紀の72番目の四分音符に正確な日付を与えています: 空からは1999年7月に偉大なエフラヨールの王がやってくる。Sesheshetのピラミッドのベースは72平方フィートで、ピッチは51度、高さは46フィート。72Hzは、感情スペクトルを識別して調べるためによく使われる周波数です。宇宙は72、144、432などの調和系列に基づいている。144(ヘルツの「C」音)は光速の完全調和であり、宇宙の真空中では144,000海里である。「セントゥール」ペルシャ語には72本のコードがあり、音符ごとに3本ある。ハープのアンテナの高さは72フィート映画『スター・トレック into the darkness』で超人の72体が宇宙へ魚雷発射されている。10進法で72はハーシャド数である。
聖書の中で、イエスは72人の弟子や使徒を送り出した。(ルカ10:1-3)「七十二人は喜び帰ってきて言った。『主よ、悪魔さえもあなたの名によって私たちに服従します』」(ルカ10-17) カバラでは、神の名前は72個あるとされている(出エジプト14:19-21)伝承によれば、神がバベルの塔を破壊した後に72言語を作り、人々を分けたとされています(72+72 = 144) また、一部のキリスト教徒(エホバの証人)には、144,000人が天国に連れて行かれると信じられています(黙示録14:1)。モーセは紅海を分けるために72の神の名前を使った。聖書の3つの原語は、ヘブライ語22文字。ギリシャ語24文字。英語は26文字。慟哭の書がエレミヤ書の一部とみなされる場合、カトリック版の聖書の総数72文字.黙示録の本の現在の分布は22章です。しかし、テキストの最も古い既知の分割は、Cesaryのギリシャ語解説者アンドリューのものであり、72 chapters.Sixtyと12(72)は、聖書の中で5回発生する含まれています。72X5=36072世代が創世記10章に記載されている。ノアから始まり、その息子たちに続く。セム、ハム、ヤペテ。
ゴエティア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%82%A8%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2
『ゴエティア』(Goetia)は、17世紀から伝わる作者不明のグリモワール『レメゲトン』の第一書の表題である。
「ゴエティア」は『レメゲトン』の第1部である。『レメゲトン』は『ソロモンの小さな鍵』とも呼ばれ、ソロモンに由来するとされる5つの魔法書をまとめた5部構成となっている(写本によっては4部まで)。フレッド・ゲティングズは、実際には『レメゲトン』のなかで「ゴエティア」のみが本来の内容であって、他はそれぞれ別々に成立したものが後に合本されたのではないかと述べている[5]。
「ゴエティア」の内容は、ソロモン王が使役したという72人の悪魔を呼び出して様々な願望をかなえる手順を記したもので、そのために必要な魔法円、印章のデザインと制作法、必要な呪文などを収録している。本書には、この72人の悪魔の性格や姿、特技などが詳述されており、72人の悪魔各々の印章も収録されている。そのため悪魔名鑑としても参照される。同様に悪魔名鑑として利用されるコラン・ド・プランシーの著書『地獄の辞典』には、ヨハン・ヴァイヤーの「悪魔の偽王国」の記述を参考にして[6]「ゴエティア」と共通する悪魔が多数収録されている。『地獄の辞典』第6版(1863年)に追加されたルイ・ル・ブルトンの挿絵は、創作要素も多分に含まれるものの、悪魔学の資料に基づいて描かれており、現在の多くの人々の悪魔のイメージに影響を与えている。出版された「ゴエティア」にはこの挿絵が引用されているものもある[7]。
「ゴエティア」では、記載されている72の悪魔のそれぞれが地獄における爵位(悪魔の階級)を持ち、大規模な軍団を率いていることが個別に記されている[注 1]。構成するそれぞれの悪魔の名称は文献によって異綴などの差異が見られる。諸版の差異も含めて名前をリスト化すると、総数は72より多くなる[11][注 2]。フレッド・ゲティングズは著書『悪魔の事典』(ライダー社、1988年)において、これらの悪霊に「ソロモンの霊」という総称を与えた[12]。
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708131 No.6535
>>>/qnotables/49742
Originally posted at >>>/qresearch/18605469 (300211ZMAR23) Notable: NESARA/QFS: 長らく続いているインターネット詐欺/政府ソースからすでに QFS が並行して実行されているグローバル通貨リセットの証明
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>>>/qresearch/18603822 Q Research General #22821: International Comfy Day Edition
>>>/qresearch/18604586 #22821 NOTABLES
>>>/qresearch/18604423
政府ソースからすでに QFS が並行して実行されているグローバル通貨リセットの証明
QFSが並行して実行されている世界通貨リセットの証明(政府機関より)
https://www.occ.gov/news-issuances/alerts/2020/alert-2020-3a.PDF
現在並行して行われている世界通貨リセットと量子金融システムの到来に備えて、
国際的な金融活動には、それぞれの機関の規制があり、その規制を厳格に遵守する必要があります。
国際量子イニシアティブ法に規定されたプロトコルおよび規則、
追加
https://www.occ.gov/index.html
Office of the Comptroller of the Currency
https://en.wikipedia.org/wiki/Office_of_the_Comptroller_of_the_Currency
通貨監督庁(OCC)は、1863年の国家通貨法によって設立されたアメリカ合衆国財務省内の独立した局で、米国内のすべての国立銀行とスリフト機関、および連邦政府から認可された外国銀行の支店と代理店をチャーター、規制、監督する役割を果たす[2]: 14-15 通貨監督官の代行は、2021年5月10日に就任したマイケル・J・シューです[3]。
ワシントンD.C.に本社を置き、ニューヨーク、シカゴ、ダラス、デンバーに4つの地区事務所を設置しています。また、全米に92の事業所を有している。米国財務省の独立した局であり、米国上院の同意を得て大統領により5年の任期で任命された通貨監督官(Comptroller of the Currency)がその長を務めています。
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708131 No.6552
>>>/qnotables/50393
Originally posted at >>>/qresearch/19104766 (011422ZJUL23) Notable: 国民にお金を崇拝させる洗脳アイテム?/女性の人身売買を促進した人物が 今の日本のお札に描かれている(Q1010 選択はあなた次第)
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国民にお金を崇拝させる洗脳アイテム?
Cap1 金運を上げることに関する本(Books about making money)
Cap2 金運アップのお守り(Good luck charm for money)
Cap3 金運を呼ぶ神社(Shrines that bring money luck)
etc…
身近にあるものでしたが、もしかして、これらは日本人をお金の奴隷にさせるための洗脳アイテムなのではないか?
もし仮にこれらのアイテムが、本当に日本人(人類)の幸せに繋がるなら、日本の人口はもっと増えているのではないか?
当たり前のように周囲にあるものを全て疑って、そこから少しずつ離れていくことが、世界を変えていくのではないか?
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708131 No.6553
>>6552
>>>/qnotables/50394
Originally posted at >>>/qresearch/19105132 (011542ZJUL23) Notable: 国民にお金を崇拝させる洗脳アイテム?/女性の人身売買を促進した人物が 今の日本のお札に描かれている(Q1010 選択はあなた次第)
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>>50393
日本の1万円札に描かれている"福沢諭吉"は、公娼制度(管理売買春制度)を必要だとしながら、そこで働く娼妓の価値を貶める論を展開したことで有名
要するに、女性の人身売買を促進した人物が 今の日本のお札に描かれている
文明開化に向かう社会にとって公娼制度(管理売買春制度)を必要だとしながらそこで働く娼妓の価値を貶める論を展開したことで有名なのは福沢諭吉である。福沢は 1883(明治 16)年に 自らが創刊した『時事新報』で「欧米諸国にても売淫甚だ盛ん」だが、そこでの「売淫女なるものは大概ね毒婦奸女」であり、これに比して「日本の娼妓は道徳上美事を なすべき心根にて其身を鬻ぎたる婦女子より成立つもの」だから「実に雲泥の相違」 であるとする。しかし、娼妓を「孝女」とするのは「社会の弊風」であり、「若し我国 にても到底青楼遊郭を存して娼妓を許す限りは、其娼妓は悉皆無頼放恣の婦女を以て之を組織するの覚悟」が必要であり、「世人をして売淫は仮令ひ孝道の為にするも甚だ 賎むべき者なりとの感覚を起」さなければならないとした。
さらにこの 2 年後、福沢は「品行論」を『時事新報』に連載する。それは、「娼妓に 依頼して社会の安寧を保つの外あるべからざるなり」という公娼制度必要論でありな がら、そこで働く女性たちを「銭を以て情を売るの芸娼妓たるが如きは、人類の最下等にして人間社会以外の業」であると、「売淫婦人(prostitute)」「売淫婦」と呼んで、 差別・排斥するよう呼びかけるものだった。福沢の意図とは、「我輩は日本の売淫婦 の地位をして西洋の同業者と一様にならしめんことを冀望する者なり」と欧米の娼婦 並みに日本の芸娼妓の価値を引き下げることであった。
家のために娘や妻を身売りすることを厭わない家長やそれを許容する社会に対して 批判の矢を向けるのではなく、あくまで売られた婦女子を「孝女」とみなすことは「社 会の弊風」であり、また女性を買う男性を批判することなく、「銭を以て情を売る」女性たちは「人類の最下等にして人間社会以外の業」であると、芸娼妓となった責任全てを女性に帰すこうした福沢の行為は、「芸娼妓を見る人々の視線(憐憫と賞賛)を、 西洋で Prostitute を見る視線(蔑視と排除)に置き換えようとした」ものであった。
出典:
境界を超える女性たちと近代
——海外日本人娼婦の表象を中心として——
一橋大学審査学位論文
博士論文
P31〜P33
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/26725/lan020201300703.pdf
『時事新報』1883年(明治16)10月18日(『福沢諭吉全集』岩波書店、第9巻、207頁)
『時事新報』1885年(明治18)11月20日(『福沢全集』岩波書店、第5巻、565頁)
福澤諭吉
https://en.wikipedia.org/wiki/Fukuzawa_Yukichi
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89
日本のお札になっている人物=日本人(人類)を不幸にすることに貢献した人物と考えて良いのだろうか・・・
そんなものを有り難く使うことになっている今の世界はかなり狂っている
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708131 No.6554
>>6553
>>>/qnotables/50395
Originally posted at >>>/qresearch/19105213 (011558ZJUL23) Notable: 国民にお金を崇拝させる洗脳アイテム?/女性の人身売買を促進した人物が 今の日本のお札に描かれている(Q1010 選択はあなた次第)
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>>50394
Q1010
>>>/qresearch/894110
お金。
権力。
支配。
人間は単に邪魔なだけ。
奴隷。
羊。
家畜。
人口の脅威レベルを低下させるための大量絶滅イベント。
銃規制。
戦争[偽][上位の幸福][バックエンド契約]。
選挙不正操作。
コントロール。
あなたの声は重要ではありません。
製薬会社[クラスD]。
水
空気
家庭用掃除に押し付けられる化学物質 [癌][床に落ちた赤ん坊-口に手を入れた赤ん坊-始まり]。
ワクチン[すべてではない]。
タバコ。
オピオイド。
究極の勝利[死+お金]。
連邦政府。
ロスチャイルド
'陰謀'
'陰謀'
'陰謀'
イギリス/ドイツ[5日間]
選択はあなた次第。
黙示。
もう十分だ。
Q
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708131 No.6557
>>6553
>>6554
>>>/qnotables/50504
Originally posted at >>>/qresearch/19143328 (080944ZJUL23) Notable: 日本の新紙幣の一万円札の顔となる渋沢栄一とは、どんな人物なのか(ロスチャイルドが所有・支配する銀行Q137 日本: 日本銀行)
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>>50394, >>50395
日本の新紙幣の一万円札の顔となる渋沢栄一とは、どんな人物なのか
・資本主義の父と呼ばれている
・日本で最初の株式会社を作った
・日本で最初の民間銀行を作った(第一国立銀行)
・500以上の企業を設立した
・養育院(現在の東京都健康長寿医療センター)を運営した
・東京慈恵会/日本赤十字社の設立に携わった
・財団法人聖路加国際病院/財団法人滝乃川学園(日本初の知的障害児施設)の初代理事長
・YMCA環太平洋連絡会議の日本側議長に就任
・1923年関東大震災の際、孤児院を建て、大震災善後会を発足させて寄付金を集めた
・日本国際児童親善会の設立に携わった
・2回ノーベル平和賞の候補になった
etc…
新紙幣 来年7月発行へ 渋沢栄一をデザインした一万円札など
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230628/k10014111721000.html 2023/6/28
財務省と日銀は「近代日本経済の父」と呼ばれる実業家、渋沢栄一の肖像をデザインした一万円札など、3種類の新しい紙幣を来年7月をめどに発行すると発表しました。これは28日、新たな紙幣の印刷を開始している東京 北区の国立印刷局の工場を視察したあと、鈴木財務大臣が記者会見で明らかにしました。
会見の中で鈴木大臣は「発行の開始の時期を来年7月前半を目途とする。金融機関や民間事業者におかれては準備を引き続きお願いしたい」と述べ、新紙幣の発行の時期を明らかにしました。新たな紙幣には、一万円札に「近代日本経済の父」と呼ばれる渋沢栄一、五千円札に日本で最初の女子留学生としてアメリカで学んだ津田梅子、千円札に破傷風の治療法を開発した細菌学者の北里柴三郎の肖像をデザインします。
新たな紙幣では、偽造防止の技術も強化していて、世界で初めてとなる最先端のホログラム技術が導入され、紙幣を斜めに傾けると肖像が立体的に動いて見えるほか、「すかし」は、肖像を映し出すだけではなく、紙の厚みを微細に変え高精細な模様を施しています。
政府は、来年3月末までに新たな紙幣を合わせて45億3000万枚を印刷する計画で、来年7月以降、需要に応じて順次、必要な量を発行したいとしています。
渋沢栄一
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80
渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、旧字体: 澁澤 榮一、1840年3月16日〈天保11年2月13日〉- 1931年〈昭和6年〉11月11日)は、日本の実業家[2]。位階勲等爵位は正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。
江戸時代末期に農民(名主身分)から武士(一橋家家臣)に取り立てられ、のちに主君・徳川慶喜の将軍就任にともない幕臣となり[3]、明治政府では官僚も務めた。民部省を経て直属の上司である大蔵大輔と井上馨の下で大蔵少輔、吉田清成らと共に造幣、戸籍、出納など様々な政策立案を行い、初代紙幣頭、次いで大蔵省三等官の大蔵少輔事務取扱となる。
井上馨と共に退官後は実業界に転じ、第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所(現・東京商工会議所)、東京証券取引所といった多種多様な会社や経済団体の設立・経営に関わった。そのうち企業は約500社[4] にもおよび、「日本資本主義の父」[5] と称される。
同時に東京養育院等の福祉事業、東京慈恵会等の医療事業、商法講習所(現:一橋大学)、大倉商業学校(現:東京経済大学)、高千穂高等商業学校(現:高千穂大学)等の実業教育、東京女学館などの女子教育、台湾協会学校(現:拓殖大学)の設立、二松學舍(現:二松学舎大学)第3代舎長就任等による私学教育支援や、理化学研究所設立等の研究事業支援、国際交流、民間外交の実践等にも尽力した。また『論語と算盤』の言葉に代表されるその道徳経済合一の思想でも広く知られている[6]
「国の繁盛は貧民を増す」大富豪渋沢栄一はなぜ「養育院」を援助しつづけたのか/1
https://weekly-economist.mainichi.jp/articles/20210309/se1/00m/020/013000c
・数多くの企業・組織の役職に就いた渋沢が生涯で最も長くその座に就いたのは、明治初期に東京に設立された救貧施設である養育院の院長だ。
大蔵省を辞めて間もないころから死去するまで50年以上にわたり、養育院の維持・拡大に尽力した。
渋沢とて初めから慈善家だったわけではない。養育院の初代院長ではあるが、設立には携わっていない。
「渋沢は講演で養育院院長に就いた経緯を『(東京府)知事とたまたま縁があった』と述べている。
・養育院は孤児の養育、不良少年の教育、身寄りのない高齢者の保護などの目的ごとに施設を増やした。
87歳で年収2億円、授かった子供は100人…渋沢栄一が規格外の傑物だと語られるワケ
https://president.jp/articles/-/60443
91歳まで生きて子供は数十人?渋沢栄一の食と健康トリビア
https://jisin.jp/life/health/1955761/
2人の妻の間に7人の子供がいるほか、実は妾との間にも数十人子供がいたという説も
博愛社を支えた大実業家・渋沢栄一と日赤創設者・佐野常民の"深い縁"
https://www.jrc.or.jp/about/publication/news/210208_006538.html
実業界のみならず公共・福祉事業や民間外交などでも指導的な役割を果たした渋沢は、日赤の前身である博愛社時代からの支援者でした。博愛社の創設者である佐野常民が渋沢に直接協力を依頼し、明治13年に社員(会員)に加入、明治26年には現在の理事にあたる常議員になったのです。佐野と渋沢の両者の縁は、慶応3(1867)年に開かれたパリ万博での出会いにさかのぼります。当時の最先端技術や文化に触れ、帰国後は明治維新の荒波を乗り越え、それぞれの立場から日本の文明開化を支えました。
「渋沢栄一と社会福祉・医療 ~看護、赤十字とのかかわり~」
https://redcross-nursing-history.jp/exhibition/shibusawa.html
渋沢栄一は昭和2(1927)年、日本人移民排斥運動により悪化した日米関係改善のため、互いの国の子どもたちに人形を送りあう「日米人形交流」を後押しし、167体の人形が横浜に到着しました。この活動は後の少年赤十字活動に大きな影響をもたらし、赤十字社でも人形を用いた国際交流が行われました。
渋沢栄一の最晩年、昭和天皇が「単独御陪食(1人で天皇と食事をともにすること)」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67926
天皇とは、決して縁が深いわけではなかった渋沢であったが、最晩年になって、大きな僥倖が待っていた。昭和天皇から、「単独御陪食」(1人で天皇と食事をともにすること)の召命があったのだ。
lb
>>28038, >>28039, >>28040, >>28041, >>28042, >>28043, >>28050, >>28053, >>28055, >>28074 日本が未だ建国していない件。日英同盟も嘘なのか?
pb
>>18295, >>18296, >>18403, >>18420 日本は1859年からずっと英国領?(外国の大使と同じの特権を持つ天皇は、本名名義の私産も不明)
渋沢栄一は、子どもが沢山いたようなので、その子どもの一部を自分が運営する養育院で育て、後に自分が作った組織に忍び込ませて、自分の利益が最大限になるように人脈を拡大していった・・・というようなことがあったのではないかと疑ってしまう。だから、養育院の活動に尽力したのではないか?
ただの偶然かもしれませんが、渋沢栄一の亡くなった日と、日本銀行の名前が記載されたQドロップの投稿日が同じでした(11月11日)
渋沢栄一は、明治6年(1873)に日本最初の銀行「第一国立銀行」を創設。民間資本の民間経営の株式会社であったが、国立銀行条例による発券機能等を有していた。渋沢栄一の孫である渋沢敬三は、昭和17年(1942)に日本銀行副総裁、そして昭和19年(1944)には第16代日本銀行総裁に就任している。就任は昭和19年3月18日であり、戦前最後の日本銀行総裁であった。幣原喜重郎内閣の大蔵大臣就任のために、昭和20年10月9日に日本銀行総裁を辞任している。
https://senseki-kikou.net/?p=12794
ロスチャイルドが所有・支配する銀行
Q137 日本: 日本銀行
>>>/qnotables/50308
>>>/qnotables/50332
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708131 No.6558
>>6557
>>>/qnotables/50505
日本最初の銀行を設立した渋沢栄一、なぜ「銀行」と名付けたのか?
https://maonline.jp/articles/shibusawa_eiichi_ginko_naming2021/print
NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公として今年、人気を博する渋沢栄一(1840~1931)。「近代日本資本主義の父」と呼ばれ、500に及ぶ企業・団体の設立にかかわった。ドラマでも描かれたように、大蔵省を辞めた渋沢が真っ先に取り組んだのが日本初の銀行の立ち上げだ。現在のみずほ銀行の源流にあたるが、そもそも、英語の「Bank」の和訳に「銀行」の2文字がどうして選ばれたのだろう?
日本初の民間銀行「第一国立銀行」設立
渋沢栄一を俳優の吉沢亮さんが演じる「青天を衝け」は、徳川の世から明治に舞台が移り、佳境を迎えている。明治新政府に請われて3年余り勤めた大蔵省を去り、渋沢が民間に下ったのは1873(明治6)年、33歳の時。この年、日本初の民間銀行「第一国立銀行」を開業し、総監役(後に頭取)に就いた。
国営銀行を思わせる名前にもかかわらず、なぜ民間銀行なのか。実は、「国立銀行」は国立銀行条例(1872年制定)に基づいて設立された銀行という意味。同じ民間出資による銀行の中でも、「国立銀行」が銀行券(通貨)を発行できたのに対し、「私立銀行」は銀行券を発行できないという違いがあった。
銀行という名前の由来となった国立銀行条例だが、その下敷きとなったのは米国の国立銀行法(National Bank Act)という法律。では、Bank(バンク)をなぜ「銀行」と訳したのか。
「金行」VS「銀行」、語呂の良さに軍配
日本銀行HP(ホームページ)がこう説明している。翻訳にあたり、高名な学者が協議を重ね、お金(金銀)を扱う店との発想から中国語で「店」を意味する「行」を用い、「金行」あるいは「銀行」という案が有力になったが、結局、語呂のよい「銀行」が採用されたという。
国立銀行条例の制定当時、大蔵省で辣腕を奮っていたのが渋沢。それだけに、「銀行」というネーミングに何らかの関与があったことは想像に難くない。付け加えれば、通貨単位の「円」を創設した中心人物も大蔵省時代の渋沢という。
話を戻せば、国立銀行は第一国立銀行から始まり、1879年開業の第百五十三国立銀行まで153行を数えた。一方、私立銀行としては1876年に開業した旧三井銀行(現三井住友銀行)が最初だ。
もう一つ、見逃せないのは日本における外国銀行の存在。英国の香港上海銀行(HSBC)は外銀で初めて明治維新直前の1866(慶応2)年に横浜支店を開設し、近代国家への仲間入りを目指す日本を貿易や外国為替など国際金融面からサポートしてきた歴史がある。
第一勧業銀行を経て「みずほ」に
今日、わが国唯一の発券銀行である日本銀行が創設されたのは1882年。渋沢がつくった第一国立銀行も1896年に一般銀行に改組し、「第一銀行」として再出発した。その第一銀行は戦時中の1943年に三井銀行と合併し、帝国銀行に。戦後は分割して元の第一銀行に戻り、1971年に同じ都銀中位行の日本勧業銀行と合併し、第一勧業銀行が誕生し、資金量トップに立った。
時は移り、バブル経済崩壊下の1999年、第一勧業銀行、富士銀行、日本興業銀行の大手3行が経営統合した。現在のみずほ銀行(みずほフィナンシャルグループ傘下)だ。
ただ、みずほ銀行は今年だけで2月から9月にかけて大小8度のシステム障害を引き起こし、信用失墜を招いた。渋沢栄一は自ら生み出した日本初の民間銀行の行く末をどう案じているのだろうか。
みずほ銀行とNTTデータ、温暖化ガスの排出量削減サービスを共同で提供
https://xtech.nikkei.com/atcl/nft/column/051100005/070700555/ 2023/7/7
lb
>>>/qnotables/28069 CO2は汚染物質ではなく、植物の栄養です。気候危機は科学ではなく、詐欺です。グリーン・ムーブメントは、反公害ではなく、反生命なのだ
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708131 No.6856
>>6852
Q Research Japan/Nihoん#20 より
テンプル騎士団って金貸しだったの?知らなかった
金貸しとしてのテンプル騎士団
https://thetemplarknight.com/2010/12/22/templar-usury/
上記の英文を翻訳してくれているブログ
https://tokoshie-jp.com/2018/02/17/usury-and-kinights-templar-banking/
テンプル騎士団と彼らの銀行家や金貸しとしての側面については多くの誤解があるようだ。利子が神の罪であった時代、彼らはいかにして銀行業に関わって行ったのか?ユダヤ人の金貸しとの関係はどうだったのか?
利子を禁じた古代宗教の金融観
最初に指摘しておきたいのは、古代から封建時代を通じて、商売で生計を立てること、とりわけ利子をとって儲けることは社会的に蔑視の対象だったことである。貸したおカネに利子を課す行為は、泥棒か詐欺の一種と見なされていた。コーランでは悪魔の所業とされていたし、キリスト教の聖書においても、さまざまな誤訳はあるにせよ、旧約、新約を問わず利貸しは非難されている。
ユダヤ教のトーラーでは、貸し出し前に計算される利子と、貸し出し後に算出される利子を区別している。旧約全体にいえることだが、利子の禁制はユダヤ・コミュニティのみに適用され、コミュニティ外には適用されない。つまり、この戒律には抜け穴があって、異教徒からだったら利子をとってもよいのである。理由は・・・異教徒だからとしかいいようがない。もちろんユダヤ人がユダヤ人に利子を課すことは絶対ダメである。
しかしイメージの中で高利貸しとユダヤ人が結びついたのは、ユダヤ教徒が商人の組合に入れてもらえなかったせいであろう。彼らはカネを貸して生計を立てるしかなかったのである
(トーラー ユダヤ教の聖典。モーゼが神から授かった律法について書かれた、いわゆるモーセ五書―「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」―を指す。)
金貸しを神殿から追い払ったイエスの厳格なイメージの下に育ったキリスト教徒はどうかといえば、金貸しなんてありえない存在だった。少なくても建前の上では。
しかし実態はどうか。中世の君主、臣下、商人、巡礼者―、彼らはみな融資を必要としていた。中世経済が複雑化すると、利貸しの禁制がかえって経済成長や流通の発達の障害となった。経済全体がユダヤの信用貸しに頼るわけにもいかない。そのためイタリア北部に金融グループが生まれ、ヨーロッパ中の見本市で信用取引が一般化していったのである。
テンプル騎士団
そこへ登場したのがテンプル騎士団であった。騎士団のメンバーはその多くが貴族出身で、加入時、自分の財産を団に寄進した。団を応援する君主や領主も多大な寄進を寄せた。アルゴンの王などは王国をまるごと騎士団に預け、最終的には領地を少し減らしたくらいの熱の入れようであった。
13世紀になると、騎士団は広大な土地と莫大な財産を管理する立場になった。何百もある支部は厚い壁に囲まれていたが、そこは礼拝の場所ばかりでなく金庫も兼ねていた。
ヨーロッパから中東にかけて無秩序に広がった支部ネットワークの存在は、人々にとって富を奪われる心配なく移動できる自由を意味した。エルサレムに行く巡礼者であろうと、サラディンとの戦いに臨む十字軍兵士であろうと、かさばる私財や土地権利証は支部に預けばよい。預かり料を払えば、いつでも好きなときに引き出せる。
(サラディン イスラム中世の英雄。エジプト・アイユーブ朝の始祖。1187年のハッティン(ヒッティーン)の戦いでキリスト教徒の十字軍国家「エルサレム王国」を破り、聖地を奪回した。アルメニアのクルド族の出身。)
財産を騎士団の支部に預けるメリットは、預けた財産は軍隊の厳重な護衛付きで守られる点である。キリスト教世界でも最強の精鋭が常駐する場所に、あえて盗みに入る者などいない。いまで言うなら、シティバンクのなかに兵舎があるようなものだ。
北イタリア金融資本の興隆
先ほど中世初期の北イタリアに金融グループが生まれたといった。そのなかでも頭角をあらわしたのがメディチ家である。この家系からはロレンツォ・デ・メディチのような有力政治家から法王まで多くの人材が輩出されたが、その栄光のおかげで金融や利貸しが教会での昇進を妨げることは事実上なくなったのである。
教会公認の利貸し?
それにしても疑問は残る。 なぜローマ教会は、テンプル騎士団やメディチなどキリスト教徒の金貸しを非難しなかったのか?今週訪問したサイトでは「教会が利子の禁止を忘れていた」という迷答があったが、そんなはずがない。教会は金利に上限を設けたのである。シニカルかつ計算高い方策ではないか。では上限は何%か。貸し手が非倫理的に行動しはじめるだろうと教会が思うラインである。
重債務国王の悪計による騎士団の崩壊
言い方を変えれば、=教会は目の見えないふりをしつつ、テンプル騎士団による融資事業のうまみを見逃さなかったのである。騎士団の融資があるお陰で、教皇は心置きなく十字軍を招集でき、戦争と巡礼は潤滑に行われた。そうして物事がうまく回っているうちは文句をいう者はどこにもいなかった。
しかし騎士団の債権にあえぐフランス国王が、最も財政的に潤っていた騎士団パリ支部の財産に手をつけようと計画したとき、テンプル騎士団の転落は突然やってきたのである。
テンプル騎士団が形を変えたのがイエズス会十字軍の世界進出、明治以降の天皇家とマルタ騎士団、ガーター騎士団らしいという情報も…
下記の方程式を発見したのはテンプル騎士団だという情報もある
72の法則
https://ja.wikipedia.org/wiki/72の法則
https://en.wikipedia.org/wiki/Rule_of_72
72の法則(72のほうそく)とは、資産運用において元本が2倍になるような年利と年数とが簡易に求められる法則である。
72の法則は、次式のとおりである。
年利 (%) × 年数 = 72
上式の「年利 (%)」に複利法での年利率を代入すると元本が2倍になるのに必要な年数が求められる。逆に、「年数」に運用年数を代入すると元本が2倍になるのに必要な年利が求められる。上式は年利 (%) が 8% 付近で誤差が最も小さい。
元金 A が2倍になる年利率 r と年数 n は、次式の関係になっている。
2A = A (1+r)n
両辺を A で割ってから両辺の自然対数をとると、
ln 2 = n ln(1+r)
テイラー展開によって ln(1+r) ≈ r と近似できるので、
100 ln 2 ≈ 100r n
72の法則が成り立つのは、2の自然対数が 0.693147… なので 100 ln 2 = 69.3147… ということにある。この値と近い72が、約数が多いという理由で採用されている。
誰が72の法則を見いだしたかは知られていない
6×12=72
マタイによる福音書6章12節
https://www.wordproject.org/bibles/jp/40/6.htm
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。
↑聖書と72の法則との関連は以前にネットで見かけたもの。偶然?
聖書には金と詐欺の成功に関する想念の履歴が記されているという情報もありましたが、(モレクは債務なくして存在できない)聖書に詳しくないのでわかりません…
この世界に"利子"があるのが当たり前になってるけど、それは本来は罪だったということを人類が知る必要があると考えます。この世界に不要なものなのでは?
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708131 No.6857
>>6856
テンプル騎士団
https://ja.wikipedia.org/wiki/テンプル騎士団
テンプル騎士団(テンプルきしだん)は、中世ヨーロッパで活躍した騎士修道会。正式名称は「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち(羅: Pauperes commilitones Christi Templique Solomonici)」であり、日本語では「神殿騎士団」や「聖堂騎士団」などとも呼ばれる。
十字軍活動以降、いくつかの騎士修道会(構成員たちが武器を持って戦闘にも従事するタイプの修道会)が誕生したが、テンプル騎士団はその中でももっとも有名なものである。創設は第1回十字軍の終了後の1119年であり、ヨーロッパ人によって確保されたエルサレムへの巡礼に向かう人々を保護するために設立された。
概要
テンプル騎士団は構成員が修道士であると同時に戦士であり、設立の趣旨でもある第1次十字軍が得た聖地エルサレムの防衛に主要な役割を果たした。特筆すべき点として、騎士団が保有する資産(構成員が所属前に保有していた不動産や各国の王族や有力貴族からの寄進された土地など)の殆どを換金し、その管理のために財務システムを発達させ、後に発生するメディチ家などによる国際銀行の構築に先立ち、独自の国際的財務管理システムを所有していたとされる事が挙げられる。ヨーロッパ全域に広がったテンプル騎士団は聖地がイスラム教徒の手に奪い返されて本来の目的を失った後も活動し続けたが、1300年代初頭にフランス王フィリップ4世の策略によって壊滅状態となり、1312年の教皇庁による異端裁判で正式に解体された。
組織構造
テンプル騎士団はれっきとした修道会であったため、会憲と会則を保持していた。会の発足時には改革シトー会の創立者で当時の欧州キリスト教界で強い影響力を持っていたクレルヴォーのベルナルドゥスの支援を受け、ベルナルドゥス自身が会憲の執筆を行ったことで知られる。テンプル騎士団は各国に管区長(マスター)とよばれる地区責任者がおり、騎士団全体を統括するのが総長(グランド・マスター)であった。総長の任期は終身で、東方における軍事活動と西方における会の資産管理のどちらにも責任を負っていた。
財務機関としての発達
軍事組織としての表の顔に加えて持っていたテンプル騎士団のもう一つの顔が、財務機関としてのものであった。第1回の十字軍は参加者自身が資金を集めていたが、全財産を売り払う者もいたために物価下落を招いたという非難があった。このために第2回以降は教会が遠征費の調達をすることになり、テンプル騎士団が資金の管理に関わるようになった。12世紀中頃になると、ヨーロッパで預託した金を、エルサレムでテンプル騎士団から受け取れるようになった。危険がともなう現金輸送よりも便利であり、巡礼者から国王にいたるまで幅広く利用された[1]。もともと入会者たちは、この世の栄華を捨てる証として個人の私有財産を会に寄贈して共有しており、この慣習はほかの修道会でも行われていた。会の活動目的が聖地守護と軍事活動であっても、実際に前線で戦うのは会員の数%にすぎなかった。ほとんどの会員は軍事活動そのものより、それを支援するための兵站および経済的基盤の構築にあたった。巡礼者に対しては、現金を持って移動するリスクを防ぐため、自己宛為替手形(lettre de change)の発行等の銀行機関のようなサービスも行った。また現在で言う預金通帳のような書類(bon de dépôt)もテンプル騎士団の革新的発明だと言われている。
1187年の十字軍の惨敗も、金融業務の拡大に結びついた。軍事力のみでは聖地の回復は困難と判断したテンプル騎士団は、所領経営を開始する。所領は管区とコマンドリーに分かれており、管区はヨーロッパに10から13、西アジアに3があった。管区の下部組織にあたる所領の最小単位がコマンドリーで、修道院・聖堂・農地で形成されており農地の生産物を貨幣化した。金融業務ではイタリア商人との取引が増え、13世紀中頃にはシャンパーニュの大市を期日としていた[2]。このように多くの寄進を集めたことによって12世紀から13世紀にかけてテンプル騎士団は莫大な資産をつくり、それによって欧州から中東にいたる広い地域に多くの土地を保有した。そこに教会と城砦を築き、ブドウ畑や農園を作り、やがて自前の艦隊まで持ち、最盛期にはキプロス島全島すら所有していた。パリにあった支部はフランス王国の非公式な国庫といえるほどの規模になり、たびたびフランス王に対する経済援助を行っている。1146年にはルイ7世の命により王国の国庫は正式にテンプル騎士団に預けられ、この体制はフィリップ4世の統治時代(後述)まで続く事となる。
金融業務・会計
テンプル騎士団は、12世紀から13世紀にかけて国際金融業務を行なった。初期から櫃型の金庫に金を保管し、騎士団による安全管理が信用を呼んで顧客を集めた。預かったものは貨幣以外に宝石、貴重品、証書類もあった。こうしたいわゆる預金業務(depots reguliers)に加え、寄託された資産の運用( depots irreguliers )も行うようになり、業務が拡大した。depots irreguliersはフランス王室の財政に取り入れられて役人たちもテンプル騎士団に口座を開設し、イングランドやスペインのテンプル騎士団も口座の管理を行ない、ローマ教皇も法王庁の口座を開設した。高い信用を得た騎士団は、顧客間の契約の保証人となったり、口座振替を利用した定期振込なども行なった[5]。
テンプル騎士団がイタリア商人と行った取引は、イタリア海港都市が内陸に進出するための手段でもあった。ジェノヴァやヴェネツィアなどの都市国家は内陸での組織網は持っていなかったため、ヨーロッパ内陸と西アジアで活動するテンプル騎士団が協力をした。イタリア商人は十字軍への貸付も行い、テンプル騎士団はイタリア商人と十字軍の仲介役となった。イタリアへの支払い期日はシャンパーニュの大市の市日、支払い場所はパリとして十字軍に貸付された。こうして現金移送のリスクを回避し、為替取引の利潤と利子を得ることを意図していた[6]。
英語版
https://en.wikipedia.org/wiki/Knights_Templar
この教団の主な使命は軍国主義的でしたが、戦闘員であるメンバーは比較的少数でした。大多数は騎士を支援し、財政インフラを管理するサポート職として行動しました。テンプル騎士団は、その会員は個人の貧困を宣誓していたが、直接の寄付を超えた富の管理を与えられていた。十字軍への参加に興味のある貴族は、不在の間、自分の全財産をテンプル騎士団の管理下に置くかもしれない。この方法でキリスト教世界とアウトレマー全体で富を蓄積し、1150 年の教団は聖地へ向かう巡礼者向けに信用状を発行し始めました。巡礼者は貴重品を預けました。彼らは出発前に地元のテンプル騎士団の指導者から預金の価値を示す文書を受け取り、聖地に到着したときにその文書を使用して、同じ価値の宝の量の資金を回収しました。この革新的な取り決めは銀行取引の初期の形式であり、小切手の使用をサポートした最初の正式なシステムであった可能性があります。 ;これにより、巡礼者が泥棒の標的になりにくくなり、安全性が向上しました。また、テンプル騎士団の金庫の保管にも貢献しました。[21]
このように寄付と商取引を組み合わせて、テンプル騎士団はキリスト教世界全体に金融ネットワークを確立しました。彼らはヨーロッパと中東の両方で広大な土地を獲得しました。彼らは農場やブドウ畑を購入し、管理しました。彼らは巨大な石造りの大聖堂や城を建てました。彼らは製造、輸出入に携わっていました。彼らは独自の船団を持っていました。そして一時はキプロス島全体を所有していたこともありました。テンプル騎士団はおそらく、世界初の多国籍企業としての資格を持っています。
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708131 No.6858
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なぜ目が一つなのか?Mark Passio, Mono Eye
https://youtu.be/-OJ8vZvlQUA?si=02oJyQRSDZzwbxhC
概要欄より:
(日本語字幕版)AlphaMindControlさんの動画の一部
チャーチ・オブ・サタン(創設者はアントン・ラヴェイ氏)の元高僧のマーク・パッスィオ氏
アントン・サンダー・ラヴェイ(Anton Szandor LaVey、本名 ハワード・スタントン・リーヴィー Howard Stanton Levey、1930年4月11日 - 1997年10月29日)[1]は、悪魔教会の開祖であり、アメリカ合衆国における同教会の司祭長であった。著述家、オカルティスト、ミュージシャンでもあった。 The Satanic Bible (『サタンの聖書』)を著し、人間の本性についてラヴェイ自身の理解するところと、物質主義的快楽主義や個人主義を主張した哲学者たちの洞察とを総合した体系である「ラヴェイ派サタニズム」(LaVeyan Satanism)を創始した。参考:ウィキペディア
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708131 No.7298
>>326
翻訳してくださった方、本当に有難うございます
blog.goo.ne.jp/mayosokkuri/c/64ce3686b26ae59767bade10f46ff1a6
2007-06-05
黄金の兵士 プロローグ
GOLD WARRIORS “金の戦士”
著者より
多くの人が、この本は歴史的に見ても重要であり、ぜひとも出版されるべきだと言ってくれる。
しかし、又、「出版すると殺されるぞ!」、とも警告してくれる。
あるオーストラリアの経済評論家はこれを読んで、「彼らが貴方達を生かしておいてくれればいいが。」と言った。しかし、彼は「彼ら」が誰なのかは説明してくれなかった。
日本によるアジアでの略奪と、この略奪された金塊がアメリカの銀行に隠匿されたことは、スイス銀行に隠匿されたホロコーストの押収品と密接に関連がある。
両方の秘密を明らかにすることは危険な仕事なのである。
スイスの教授で議員でもあるジィーン・ツィグラーは彼のThe Swiss the Gold and the Deadで五十年間公式に隠されていた多くの事をあきらかにした。
彼は出版し、そして米国上院金融委員会の前で証言した後、スイス連邦検察官、カルラ・デ・ポンテに国家反逆罪のかどで告発された。
告発は、二十一人の金融屋、商法専門弁護士、そして極右の政治家、大きなスイスの銀行家の大金持ちらが起したものだ。ツィグラーはスイスから莫大な金額を強請り取るユダヤ人組織と共犯であると訴えられた。
ツィグラーは単に欲以前に倫理的迫害を受けた多くの中の一人だった。
ユニオン・バンク・スイスの警備員、クリストファーメイリは処分される前に保全した書類について上院公聴会で証言したために、殺人と家族の誘拐で脅迫された。彼と家族はアメリカに隠れ家を与えられた。我々も以前、殺しで脅されている。The Soong Dynasty(宗王朝)を出版した時、CIA長官から我々を殺すための殺人チームが台湾に集められていると警告された。
彼は、「もし私があなたなら本気にしますよ。」と言った。
我々は英国領コロンビアの沿岸に近い小島に一年間姿を隠した。消えている間に台湾の殺し屋はサンフランシスコにやってきて、中国系アメリカ人ジャーナリストのヘンリー・リューを射殺した。The Marcos Dynastyを出版する時は、マルコスやその仲間からの被害を覚悟していたのだが、代わりにワシントンから嫌がらせを受けた。
他の人もマルコスを調べていた。しかし、我々はいかにアメリカ政府がマルコスの莫大な金にこっそりと関わっているかを初めて明らかにした。すると、米財務省と収税係から嫌がらせがきた。その手先は我々の年老いた両親を真夜中の電話で脅かした。
取材のためにニューヨークへ行った時には、いくつかの経由地のひとつ、JFK空港でパスポートを押収され、三時間も拘束された。そして何の説明もなくパスポートは返ってきた。
情報の自由を主張しその理由を開示するようにせまると、渋々テレックスの伝言の写しを送ってきたが、日付以外はすべて塗りつぶされていた。検査員を正当化するのは政府の守秘義務だということだ。もちろん法の上をいくことだ。
アメリカ財務省の手先からの嫌がらせ電話の中で彼は事務所にすわって、我々が日本で済ませてきたインタビューをながめていると言った。そのインタビューは日本だけで放映され、我々はついに見ることはできなかった。
The Yamato Dynastyの出版の後、その中でGold Warriorの基本にちょっとだけふれたおかげで、我々の電話もメールもおかしくなってしまった。
私が治療上のことで一時的にヨーロッパの病院にいたとき、婦長さんが、誰かがあなたのアメリカの主治医のようなふりをして電話で質問をしてきたと書いてあったのでわかった。この本の抜粋が二〇〇一年の秋South China Postに発表された時、編集者からの電話が突然切れた。新聞社からのメールは我々のところへ着くのに七十二時間も掛かった。
仲間へ資料を郵送するほうが早く着くくらいだ。
最近数ヶ月、訳のわからない殺意ある脅迫を受け始めた。我々が殺人者を怒らせる何をやったというのだ。
ジィーン・ツィグラーの言葉を借りるならば、我々は公的陰謀と戦っている事になり、一九三〇年代のドイツの様な危険な時代を生きている。
隠された財宝を公表するような迷惑なことをする者は、テロリストとか、反逆者とレッテルをはられてしまう。
数ヶ月前、元大使が日本へ行き、大企業に補償を訴えている昔のアメリカ人捕虜や市民強制労働者はテロリストと同じだと言い切った。
いまやCIA職員は機密情報の漏洩をとめる必要があるし、もし必要とあらば、ジャーナリストの巣に鎮圧部隊を送ると言っている。
すべての人民にとって国家機密は重大なことだ。我々もそれに文句はない。しかし、国家機密は、役人の汚職や利害の対立の陰謀を引き起こす。それを圧政というのだ。治療法は開示し、日の元にさらすしかないのではないか。
この本の中ではトルーマンがこれらの略奪品の回収作業を秘密にしていたことが正しいかどうかは問わない。指摘したいのは全体を秘密にすることで、堕落した人々が不正資金を乱用してきたのだし、その乱用が癌のように増殖していったことだ。
世界的な買収の輪が不正資金の回りに群がってきた。
役人、諜報員、軍人達は黒い金に病みつきになった。この略奪物資の多くはみせかけの愛国心のもと、アメリカの極右の連中により吸い上げられる兆候があった。
無計画なトルーマンの決定がもたらしたものは、世界の金融体制の有害な部分となり、罪もない人々を危機に陥れた。この買収で利益を受ける人や、その立場の人はこれを隠すためなら殺人だって何だってやるだろう。この病気を除去するためにはまず最初にそれが何なのかを知ることである。
しかし、皇帝が脳の梅毒で気が狂っていたとき、最初に火あぶりで苦しめられ燃やされるのは診断をした医者だ。つまり、伝える人間は殺される。
アメリカや日本政府を論破する最高の努力、即ち我々は数千の文書を集め数千の文書を集め数千時間のインタビューを行った。にもかかわらずゴールデン・リリーに関する資料は制限され、あるいは失われてしまう。我々はこの本の読者すべてに利用可能な二つのCDを作成し又ウェブサイトwww.bowetring.netで知ってもらえる。そうすれば少しは気分は入れ替えることができる。我々はこれらの行動を前面に出すことを知ってもらい、他の人の応援をする。幹部が買収されてしまえば、幹部から真実は出てこないだろう。
何かをしようとしたジィーン・ツィグラーや、クリストファー・メイリーのような人の小さな積み重ねで明らかになるであろう。
念のため何か変なことが起こるときにそなえてこの本を出版しインターネットの多くのサイトにこの文書をのせている。もし殺された場合、読者は我々を殺した人物を見出すのに苦労はしないだろう。
読者は徹底的な注釈をこの本の後でみてもらえる。追加的な文書、地図、画像、写真を望むなら著者のウェブサイト www.bowstring.netで九〇〇Mバイト以上もある二枚のCDを手に入れてください。
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>>7298
プロローグ
第二次大戦の終結する月(八月)、フィリピンでは、何人かの高位な皇族の皇子達が、将来のための準備をしている間、山下将軍は、ルソン島の険しい山の中で、戦争引き伸ばし作戦に従事していた。彼らは、後日回収されることになる、略奪した金の延べ棒や、盗んだ財宝を洞窟やトンネルの中に、あわただしく隠していた。日本で一番のやくざが、アジアの裏社会や闇経済を奪っている間に、日本陸軍に同行している専門チームは、国庫、銀行、工場、個人宅、質屋、絵画店から組織的に略奪し、一般人の身ぐるみをはいだ。
この点、日本はナチよりもはるかに徹底していた。まるで巨大なバキュームカーが東南アジアを横切ったようなものだ。略奪品のほとんどは、朝鮮経由で日本に送られた。
残りは船を使ったが、一九四三年(昭・十八)米潜水艦が日本周辺を完全に制圧するようになるとフィリピンよりこちらへは運べなかった。隠匿された財宝にとって決定的なことは、日本の軍事力が失われると、財宝も最終的に失われるということだ。
植民地のどこで戦争が終結しようが、日本は常にフィリピンを維持しようとした。
皇子達に監督されて、一七五箇所の皇室地下金庫が島中に作られた。一九四五年(昭・二〇)六月初旬、アメリカ戦車隊がバンバングから二〇マイル以内に接近していたころ、一七五箇所の地下貯蔵庫の技術者代表は、八番トンネルで知られる地下二二〇フィートの坑道でお別れ会を催した。そこには壁から壁へ上から下まで、ぎっしりと金の棒が並べられていた。
夜もふけ、大量の酒を飲み、軍歌を皆で歌いながら、長生きを祈りながら次々と万歳をした。深夜になって、山下将軍と皇子はそこを抜け出し、トンネルの入り口はダイナマイトで爆破し、技術者達は埋められた。彼らは生き埋めにされたのだ。
形式的に言うなら殺された訳ではない彼らは、金の延べ棒に囲まれ徐々に窒息していった。地下貯蔵庫は秘密を保たれることになった。
数日後、皇子は潜水艦で日本へ脱出し、三ヵ月後、山下将軍もアメリカ部隊に投降した。
半世紀の間、この恐ろしい生き埋め事件は知られなかった。隠匿された財宝は、「山下将軍の金塊伝説」として無視された。
しかし、生き埋めの目撃者は、我々を八番トンネルへ案内し、個人的な話も得られた。
フィリピンの若者ベン・バルモアは、戦争中、フィリピンにある皇室財宝基地で基地建設や在庫調べ、封印などに従事していた日本のさる特別な皇子の従者であった。高学歴で、たまに涙もろい皇子はダイナマイトが爆発する直前ぎりぎりでベンを八号トンネルから連れ出し、彼の命を助けた。
我々は十七歳半ばの貧乏だが健康的なベンに取材し、彼は、一九四三(昭・十八)~四五年に、その皇子の部隊で見たこと、経験したことを、何ヶ月にも渡って我々に語った。最終的にその皇子と他に関与していた他の皇子を特定できる重要なヒントを我々に与えてくれた。
アジアでの略奪を監督していたのは裕仁の優雅で洗練された弟、秩父宮であった。
彼の組織は天皇による詩の題名のひとつ、「黄金と百合」にちなんでGolden Lily(黄金のユリ作戦) と名づけられた。他の(下級)皇子は征服した領土に広がったGolden Lily の別の基地で司令官となっていた。情報筋は、戦時中のベンのご主人は、竹田恒泰親王であると確認した。
彼は裕仁の一番上の従兄弟であり、明治天皇の孫にあたる。
この裏づけをとるために、英国図書館から手に入れた一九三〇年代の不鮮明な多くの写真を使い、ベンに目隠しテストを行った。それらは、パールハーバー前日ごろと見られる軍服姿の皇子達の写真である。写真の名前ははずし、普通の兵士も混ぜておいたのに、ベンは竹田宮、そして裕仁の兄弟である秩父宮、三笠宮、そして南京虐殺において日本軍の指揮をとった年長者、朝香宮を指さした。ベンは彼らが在庫を調べ財宝基地に収納する間、ともに過ごし食事を運びお茶やタバコをもっていったと話した。
ベン・バルモアはフィリピンから離れたことのない田舎の百姓であり、小学校以上の学歴はないから、彼が即座に皇子を確認したことは説得力があった。
竹田皇子の写真を見せたときベンはどきっとして、日本の民謡の「さくら さくら」を口ずさみだした。竹田がいつも口ずさんでいたと話した。
竹田皇子の特定を発見したことは、大きな難問の失われている一片をみせてくれた。我々が天皇家の物語Yamato Dynastyを書いているころ、一九四五年(昭・二〇)八月、アメリカ情報局は、フィリピンにある日本軍の財宝地下貯蔵庫の数ヶ所を知り、秘密のうちに数十億ドルの金、プラチナ工芸品、宝石類を回収したと聞かされた。もしこの知らせが本当なら、米国政府が半世紀以上にも渡って隠し続けている、驚くべき国家機密の存在が明らかになる。だから、それらを新たに調査する価値があると考えた事は、重大な危険を伴うことになるだろう。
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708131 No.7300
>>7299
ここに、我々が知ったことがいくつかある。
日本降伏の公式告示を受けた後の一九四五年(昭・二〇)九月二日、山下将軍とその部下達は、キアンガン地帯の要塞から出てきて、MPジャック・ケン・ウォルシィー大佐に率いられる米軍将校等に武器を渡し、マニラ郊外ニュービリバッド刑務所に入れられた。
マニラ市での岩淵幹二提督の船員と海軍による恐ろしい犯罪行為のため(山下が町を無傷のままにして離れる命令を出した後だ!)山下将軍は戦犯に問われた。
彼の裁判の間、戦時略奪の話はいっさいなかった。しかし、そこには隠された密約(agenda 協議事項、覚書)があった。
山下の弁護側弁護士に知られずに山下に肉体的な拷問をすることは不可能だったので、代わりに部下が拷問を受けた。
運転手小島香椎は特に過酷な拷問がなされた。山下が一九四四年(昭・十九)十月フィリピン防衛を引き継ぐため満州から到着して以来、小島はどこへでも一緒にでかけた。小島の拷問を担当したのはフィリピン系アメリカ人、セビリアーノ・ガルシア・ディアズ・サンタ・ロマーナ、情報局の役人で、名前も個性も多い男だ。
友人は彼を「サンティ」とよんだ。彼が小島に自白させたい事は、山下をどこへ乗せていったのか、延べ棒や財宝がどこに隠されているかだった。
サンティを指揮していたのは、のちにアメリカで氷の戦士として知られることになるエドワード・G・ランスデール長官だったとわかった。
ランスデールは三十七才のとりえのない男であり、当時は、サンフランシスコでOSSのためのプロパガンダを書いて過ごすただの広告代理店の作家だった。そこに、彼の人生においてとてつもないチャンスがめぐってきた。トルーマンがOSSの閉鎖を命じたのだ。
OSSのウィリアム・ドノバン長官は、アメリカの知的財産と個人的情報網を保護するため全職員を政府、もしくは軍の部署へ移動させた。ランスデール長官は、フィリピンの米軍G―2へ配転するチャンスを与えられた五十人の職員の一人だった。そこで彼はサンティが山下の運転手の拷問をすることを聞き、その尋問に同席し、観察者、参加者となった。
その年の十月、小島はついに屈服した。そしてランスデールとサンティーをマニラ北方山岳地帯の、簡単に開く事ができた二ヶ所を含む一ダース以上のゴールデンリリー地下貯蔵庫へ案内した。
内部にあったものには誰もが驚いた。サンティとその部隊が貯蔵庫の残りを開けている間にランスデールは東京へ行き、マッカーサー将軍に要点を伝えた。そして、それはトルーマンに知らせるためワシントンヘもたらされた。内閣での討議の後、トルーマンは回収を進める決定をした。ただしそれは国家機密として保ったままでだ。
金、プラチナ、樽に入った宝石などの財宝はヨーロッパで枢軸国の略奪品と一緒にされ、共産主義と戦うために世界中に広がる秘密政治活動資金として創設された。
この黒い金はトルーマン政権に隠れた作戦用に、事実上無制限、かつ領収証なしで基金を扱う権利を与えた。これは又、ワシントンによって連合国の国庫をうるおし、政治家の汚職のため、また外国の選挙を操作するために使う財産基盤の準備金となった。
一九四〇年代、ソビエト連邦が世界中の過激な共産主義者と社会主義者の活動を支え、資本主義世界の生存が窮地におかれていたことがこの方針を正当化させていた。
読者はこの情報により、我々がそうであったようにびっくりするだろう。
何人かは、トルーマンの下した戦略の決定を深刻に悩むだろう、そして、他の人は熱く支持してくれるだろう。この本の狙いは、その決定を調査することでも、良いか悪いかを判断することでもない。それはその時点では賢明な決定だったのだろう。(長い目でみると悲惨な結果になったのだが。)
我々はただ小手調べの記事を書いただけで、政治的には中立でありたいと思っている。
この本の唯一の目的は、秘密のヴェールをあばき、調査を進展させ、多くの、そして悩ましいしい、予期せぬ成り行きを調べることだ。
それは、トルーマン一人の決定だったわけではない。世界的な政治活動資金の基礎を、戦時略奪品でまかなうということは、実際のところルーズベルト政権の戦争大臣、ヘンリー・M・スティムソンが創設したものだ。戦争中にスティムソンは、枢軸国の略奪品と、戦後の枢軸国がどの様に扱われるべきかを詳しく考える顧問団を持っていた。
形勢が枢軸国に不利になってきて、財宝を手に入れるのは時間の問題だった。
この戦争のご褒美はナチスにより侵略された国々と、民間の犠牲者からの金の略奪だった。もともとの所有者の痕跡を消すため、ナチスはそれらを溶かし金塊に鋳造したのち、鉤十字とドイツ銀行の黒鷲の刻印を押した。
金の足跡がたどれないのには別の理由もある。
もとの所有者は死んでしまい、前の政府は消滅しているのだ。東欧はソ連の支配に屈してしまい、略奪された金の返還は不可能だった。特筆すべきスティムソンの補佐役は、補佐官ジョン・J・マッコイ、ロバート・ロベット、そして相談役としてロバート・B・アンダーソンらで、すべて役所や銀行で傑出した抜け目のない男たちだ。
マッコイは、後に世界銀行のトップに、ロバートは国防長官、アンダーソンは財務長官になった。彼らの解決法は非公式なBlack Eagle Trust (黒い鷲基金)を設立することだった。
この考え方をアメリカの同盟国が、秘密裏に議論したのは一九四四年(昭・十九)七月が最初で、四十四ヶ国がニューハンプシャーのブレトンウッズに集まり、戦後の世界経済の計画を練った。
(これは一九四五年のサンティの回収を知っているマニラを拠点としていたCIA職員や前のCIA副長官レイ・クレインを含む多くの高い地位の情報により我々が手に入れた文書の中で確かめられた。クレインは、最近になっても、シテイバンクの地下金庫にまだある日本の戦時略奪金塊を支配しようと関わり続けている。)
トルーマン大統領とワシントンのマッコイ、ロバート、スティムソンへの説明を終えると、ランスデール長官は、一九四五年(昭・二〇)十一月、ロバートB・アンダーソンと共に東京へもどった。そこでマッカーサーはアンダーソン、ランスデールに同行し、極秘にマニラへ飛び、すでにサンティが開放した地下貯蔵庫めぐりへと出発した。聞くところによるとその中で二mの高さにまで金の延べ棒が積まれているところを散策したらしい。
彼らが見たものから、日本が全アジアから数十億ドルの略奪を長年にわたって行ってきたことは明白である。
アンダーソンとマッカーサーが見たのは日本には届かなかった金だけだ。戦争のために破産していたなんてとんでもない。日本はとても豊かだった。
レイ・クラインや他の者によると一九四五年から四七年の間に、金の延べ棒はサンティとランスデールによって四二カ国の銀行の百七十六口座へ慎重に運びだされたらしい。
秘密にしておくことが重要だった。もしも盗まれた莫大な金塊の回収が公になれば、何千もの人々が、多くはうそだろうが、文句を言いに来るだろうし、政府は所有権を解明しようとして身動きがとれなくなるだろう。
トルーマンは又、そんな大量の闇金があると知れると一オンス三十五ドルの固定相場が崩壊すると聞かされた。あまりにも多くの国が、金や米国ドルとリンクしているので、金融災害のせいで世界中の貨幣価値は急落するだろう。この議論は「黒い鷲作戦」によって利益を得る立場の人間が過大に表現していたかもしれない。しかし、誰もどうなるかという確信はなかった。もし、金の秘密が保たれれば、価格は一オンス三十五ドルが維持でき、ドルは強いままで、金ペッグ制の通貨は安定するだろう。
その間に、闇の金が準備資産として配給されれば、連合国の優良銀行を支え、各国政府も強固になるだろう。用心のため、各銀行の金塊置き場は注意深く管理された。金として使用することは厳しい制限下に置かれた。(イヤーマーキングとよばれた)これで、ワシントンは事あるごとに、各政府や中央銀行そして優良銀行に圧力をかけられるようになった。
あまりにも長く国と指導者を協力させ、冷戦の中アメリカと同盟させた状態に放置していたため、眠っている金の延べ棒は、不正政治資金として利益供与の目的で使えるようになった。
公文書は一九四五年から四七年の間にとても大量の金とプラチナが世界最大級の銀行、即ち黒い鷲基金のでかい集積場となるユニオンバンク・スイスや他のスイス銀行に預けられたことを表わしている。
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708131 No.7301
>>7300
スイスは戦争中に中立を保ち、略奪もされず損害もなく、資産も減らさなかったため、重要な役割を演じていた。スイス銀行職員幹部によって書かれた文章は、この財産を基にとても大きな融資が、戦争復興のどさくさで英政府、エジプト、中華民国、又他の国々へ実行されたと明らかにした。
長い時間が経つうちに国家機密の保護が、不快な乱用する立場をつくりだしてしまった。国家の機密を保護するものは、政府の役人や協力者の個人的分野まで保護してしまう。あとの章でこれらの地下資金が莫大な賄賂として表面化したとか、イタリア、ギリシャ、日本そしてそこらじゅうで、選挙の買収に使われたたくさんの書類例をおみせする。
もうかる信託財産が、世界中の影響力のある人々のために準備された。
ゴールド証書が勧誘のために与えられた。賢い人の手の中にあれば可能性は無限である。数十年の期間が過ぎ、いくつかの世界的大手銀行は地下貯蔵庫の黒い金で遊ぶことに病みつきになった。さて、金を保持するためなら、彼らは何であろうとするであろう。たとえ口座の持ち主あるいは自分の後継者から搾取することになろうともだ。
スイス銀行のホロコーストで得た金に、それがおこった。ゴールデンリリーを地下貯蔵庫から回収し、ブラックイーグル基金を準備したのを思い返しても、それはどちらでも良いことだ。愛国的な理由であったし高潔なものだ。
しかし、冷戦中にあまりにも多くの闇金が情報操作に使われたことは、そんなにどちらでもよいことではない。そして国家機密を再検討することは無理になってしまった。
その基金で儲けているやつを別としても、その不正資金を誰が指揮したのだろう。他にも乱用はたくさんあった。財宝の存在を隠し、かつアメリカの一九四〇年代にアジア中から共産主義の流れに対抗する確固たる地位を保つため、ワシントンは外交上で大きなうそをついた。
特に日本がほとんどの金を盗んだことに関しては、うそをついた。
日本の支配者エリート達は共産主義者に非常におびえていた。
伝統的な筋金入りの保守派であったアメリカは、日本にアジアでの反共産主義の砦になってほしかった。だから、東京に隠匿された財産は決して知られてはならなかった。東京のほとんどの熱狂的反共産主義者は、戦犯で起訴されつつあった。そこでアメリカは民主的な改革と新しい憲法を導入しつつ、まったく民主的でない男達の支配下に、日本を逆行させ莫大な闇金を注入して彼らの権力をささえた。
一九四五年、戦争が終わり、ワシントン政府は、日本は決して略奪行為をしなかった、国は荒地となり、国庫は破産していると主張しはじめた。そこに多くの大きなうその出発点がありそれが恐怖の機密になったのだ。
ゴールデンリリーで集められた財宝とワシントンが回収したものが秘密にされなければならなかったので、日本とアメリカの国民はずいぶんだまされることになった。一九五一年(昭・二六)そのうそでねじまげられた平和条約が決まり、それによって数千人の捕虜と強制労働を強いられた市民はその被害に対し何の補償も受け取れなくなった。
戦争補償の要求から日本を守るため、ジョン・フォスター・ダレスは三人の日本人と条約の交渉のためにひそかに会っている。その中のひとりが宮沢喜一で、後に首相になり大蔵大臣を何回も勤めている。
条約の第十四項によると、「戦時中に負傷したり被害を被った連合列強に対して補償金を払うべきだということは認識される。しかしながら現状の日本にはその原資が不足していることもまた同様に認められる。」、第十四項の声明は、日本は破産したと主張し補足している。「連合国列強と各国家は日本の行動で発生したすべての賠償請求を放棄する。」という条約に署名したことで連合各国は日本の略奪をどこかに消し、日本人の餌食となった人は幸運を失うことに合意した。
条約を支持する見返りとして、疲弊した連合国の中央銀行を元気にするために、ワシントンがサンタ・ロマーナによって回収された闇金を秘密に船で送った証拠を提供しよう。
黒い鷲信託は政治活動資金であったから、いくらかは悪い手のものに落ちたものもあるが、聖書の精神とはかけ離れながら、次々と広がり、かつてない大きさで残ったままだ。
信頼できるアメリカ、日本の情報筋によると、一九六〇年に邪悪なニクソン大統領は大統領選へのキックバックを約束する見返りに、日本の自民党の指導者へ、最大級の基金のひとつM資金を供与した。これはこれ自体非常に気がかりなことだ。しかし、三百五十億ドルとか今では五百億ドルをこえるといわれるM資金は、それ以来自民党の実力者に支配され選挙の買収や一党独裁を保つため、色々な重要な改革を阻止するために使われた。
他にも秘密資金を使った同類の悪用は、世界中で見出された。秘密を守ることが力となり、権力は堕落する。秘密の権力が、秘密のうちに堕落する。日本専門のシャルマース・ジョンソンはうまいことを言う。
「冷戦は終わった。合衆国は冷戦を続ける必要性を信じていたんだろうが、冷戦自体をもはやそのための費用と思いもよらない結果についての無知を正当化するために使われることはできなかった。今の課題は日本が社会主義か中道主義に転換するかどうかではなく、アメリカに頼りきって堕落し、長い間、驚くほど弱体だった日本政府が、どうやって進化するのかなのだ。」
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この財宝はどこからきたのだろうか?今まで日本のアジアでの略奪は、酔っ払った兵士によって犯された偶発的な盗みと暴力のいくつかであろうと無視されてきたが、これは意図的な偽情報だ。戦線が拡大してゆく時の略奪は目新しいことではない。
一八六〇年、英仏軍は麻薬を得るため中国北方への懲戒的な遠征の途中、北京郊外の大きな夏宮殿を、荒々しく襲い略奪した。持ち出せないものは何でも粉々に壊し、燃やし、そしてひとつの宮殿と宝物殿を除いて放火して終わった。彼らが金をみつけられなかったと信じたのは本当だ。教養のない兵士達は、そのほとんどを棄てるか酒と交換した。(混合部隊の司令官はエルギン候だった。彼の父はパルテノンからアテネへ彫刻を移動させている。)。一九〇〇年、ヨーロッパ軍は北京市内へ再び行軍し、この時が「ボクサー包囲」とよばれる戦いの幕開けで、紫禁城の中を酔っ払いながら暴力的に略奪し、財宝を粉々にしてしまった。
一八九五年から一九四五年の間に何が日本軍の質を変えてしまったのだろう。これは酔っ払いの略奪や破壊行為ではない。日本人は真面目で節度があり、落ち着いており、普通のこそ泥や歩兵達なら無視してしまうような価値の文献や手紙などですら盗まれないよう格別な注意をはらっていた。彼らはアジアの地下組織・・・三合会、宗派、暴力団からの略奪に特に注意をはらった。日本は麻薬を持参して中国へ押しかけ、金と交換にアヘンをならず者に与え各隠匿場へ財宝を運んだ。金持ちや大物、軍閥の親分、銀行家、実業家をゆすり個人財産を略奪するため暴力が使われた。日本に持ち帰った価値あるものの中には美術品や歴史的工芸品があった。
今日までに盗んだものから、国や個人へはほんの少し、また国家遺産もほんの一片ほどしか返されていないことが記録に残っている。
金の仏像などのいくつかの大きな工芸品はフィリピンの地下にある隠し場所で最近発見された。しかし美術品や工芸品のほとんどは日本の個人地下金庫や東京の皇室コレクションの中にまだあるはずだ。
どのようにして、日本は持ち続けることが許されたのか。公式には戦争は一部の軍事狂信者のせいで始まり、犠牲者がひどい目にあったため戦時中のエリート即ち皇族、財閥、やくざ、そして良識ある官僚たちが終結させたと聞かされた。
天皇裕仁を含む多くの日本のエリート達は戦争を始めたときよりも、はるかに金持ちになって戦争を終わらせた。そして占領される直前とそのあとで何人かは週十億ドルの財産を作った。我々は、終戦時にはひどく荒廃し食べるのがやっとだと聞かされた。実際には、驚くべきことに、ほとんどの工場や住宅は壊されたりひどく破壊されたということはなく、工業基盤はほとんど破壊をまぬがれた。広く宣伝された、ほとんどの被害はウサギ小屋に住む何百万人の一般市民であり、君主にとってはそれらの被害はものの数ではなかった。
日本を共産主義の防波堤にしあげる緊急事態のためワシントンは、皇族、銀行団のアジア十二カ国に対する破壊と貧困に対するあらゆる責任を免除した。
ほんの一握りの戦争指導者が、人身御供として処刑された。そのうちの幾人かは指導者で残る人のために責任をとらされ、強要され、でっちあげられた。
戦後の占領が終わったとき、日本の戦犯のすべてが解放された。一九三〇年代から四〇年代の間アジア全域に広がる世界有数の麻薬密売グループを率いたやくざや大親分も含まれていた。ワシントンは日本政府を、戦争を始めた同じ男達の手の中へ返すよう取り計らったのだった。
これは戦後のベルリンで、ナチス党を復帰させるようなものだ。日本ではほとんどそれに対する抵抗はなかった。それはアメリカにおけるマッカーシーの厳格な赤狩りよりももっときびしい弾圧で反対者を黙らせたからだ。
我々が証明する通り、復活した日本極右組織には、戦争略奪品や財閥が戦争中にアジアで搾り取った利益で資金が融通された。
アメリカの占領が始まって以来、マッカーサー、トルーマン、ジョン・フォスター・ダラス、そしてその手の者たちは、略奪品の全ての存在と、そして日本エリートたちが並外れて裕福なままだったことを知っていたという事実は、隠しようがない。
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708131 No.7302
>>7301
一九五〇年にマッカーサー本部が作成し、発表された占領に関しての公式報告書がある。そこには驚くべき事実(告白、自白、了承事項)があった。
「占領業務の中の注目すべき仕事のひとつは、集められた財産の取り扱いで、莫大な金、銀、宝石、切手、彫刻、日本では流通していない貨幣などの貯蔵品を管理下におくことだ。この膨大な財産は日本の将校によって集められ、アメリカ軍貯蔵庫に収納されたにもかかわらず、金額または量についての申告は知られないまま闇の中へ消えた。」
たとえば、後日回収されたが、東京湾に沈められていた二十億ドルの金の延べ棒のことをマッカーサーの部下達は知っていた。
その他に、一九四六年、アメリカ諜報員が発見した膨大な財産は、戦時略奪品百三十億ドルだった。これは中国や東南アジアでゴールデン・リリー業務をする日本海軍の本当の司令官として児玉誉士夫がアジア地下組織や暴力団から略奪し集めたものだ。
彼は又、アジアにおける麻薬貿易を託されていた。戦争が終わり戦犯の訴追を受けないまま巣鴨からでてきた児玉は一億ドルをCIAに提供した。これはM資金の元手に加えられた。それから児玉は今でもワシントンが強力に支持している自民党が二つの政党を合併し創設されたときの資金を融通していた。
サンティーの行った日本略奪物資の回収の強力な証拠はアメリカの公正な法廷活動によって出てきた。彼の遺言を確認する時に行われたニューヨーク州のアルバニィーにある税金記録の確認と、アメリカ、スイス、香港その他に預金されている財産の確実な証拠などの単純なもので、世界中にゴールデンリリーが生み出した不法な口座がいっぱいある事を明確に証明した。サンタロマーナが一九七四年死亡した時、私達が知っているようにいくつかの黒い金口座の名義が、三十年昔の一九四五年、サンティーと一緒に小島少佐の拷問に加わったエドワード・G・ランスディール少将の名前に書き換えられた。
ランスディールがCIAを引退して十年以上過ぎていた一九七四年までで、ランスディールや他の前任スパイ、そしてアメリカ軍人の新しい情報網と情報機関の役割を認識することでしか答えられない複雑な疑問が発生していた。
この好奇心をそそる物語につながっている他の有名な名前がある。
長い間シティバンクのCEOだったジョン・リードが、サンタ・ロマーナの黒い金の移動の中で鍵を握る人間として、この訴訟の何人かの中に名前があがっていた。
訴訟の被告団の中にはサンフランシスコの弁護士ソルビン・ベリィがいる。ザ・ラスベガス・サンの編集者が書いている中で、ベリーは言っている。「私は世界中のいくつかのとても重要な銀行にサンタロマーナの預金が預けられていると確信している。」
ベリーの公判で読まれた部分に、「被告人ジョン・リードは、シティバンクの会長であり、最高執行役員である。被告は、サンタ・ロマーナ名義の金の延べ棒を換金する作業の陣頭に立っていた・・・・略・・・リードとシティバンクは組織的に、金の延べ棒をバイヤーに売却し、また売り続けている。その売り上げを自分自身のために転用している。」、
他の訴訟ではゴールデンリリーの戦時略奪品が、確かにフィリピンに隠されていることが証明された。
フィリピンの錠前師ロゼリオ・ロクサスは、山下将軍の司令部として使われていたバグイア保養地の病院があった裏の山中に隠されていた一トンもある純金の仏像と数千の金の小さな棒を発見した。
ロクサスがそれらを発見したと聞いたマルコスは暴力団を送り、仏像を押収しようとした。
ロクサスは逮捕され、抵抗すると拷問受け、その後、毒殺された。
一九九六年ハワイ州裁判所は、ロクサスの遺族に対し、マルコス家が四百三十億ドル支払う判決を下した。歴史上で、民間人に対しての最高の金額だ。
一九六八年マラカニアン宮殿で発見された文書には、マルコス大統領が軍将校団を日本に派遣し共同発掘しないかともちかけたことを明らかにしている。
団員のメンバーによると、彼らは『裕仁の従兄弟であり、高位の将校である皇子』と会い、その皇子の話では日本軍はフィリピンに一千億ドルの財宝を隠し、全部を発掘するには百年以上はかかるだろうとのことだった。
関連する法廷闘争としては前の副司法長官ノールバート・スクレイに関してであろう。彼は米国財務省からの日本の秘密のM資金に関するあまりにも多くの質問に苦しめられた後、自分を守るため戦わねばならなかった。
スクレイは、非難された後、起訴されて破産した。M資金に基づいた金融証券を換金しようとして事業が破滅した一方、目撃者によると前国務長官アレクサンダー・ヘイグは大統領ジョージ・HW・ブッシュの親書を携えて日本に行き同様の証書で換金に成功した。
なぜ片方が破滅したのにもう一方は成功したのかはワシントンと東京の間の恐ろしい金融上の陰謀物語なのである。
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708131 No.7303
>>7302
我々はゴールデン・リリーで引用されている莫大なドル価値には深い疑いをもってきた。公式には延べ棒や貨幣そして宝飾品を含め世界中で生産された金はたったの十三万トンしかないといわれている。
公式な記録では世界の人口の七五パーセント以上を占めるアジアが、世界の金の供給量のたった五%しか握っていないという、ちょっと見ただけでもばかげた統計を主張している。しかし、少なくとも西洋では重力の法則のように金の法則が我々にたたきこまれていた。
実際、誰もどれだけの金があるのか知らない。スペインが新世界からどのぐらい略奪したのかもわからない。なぜなら、一旦はヨーロッパに届いたとしても、殆どメキシコとペルーを征服するための融資をしていたヨーロッパの大銀行家、フッガー家(十五、六世紀の大富豪)とウェルザー家に回してしまったからだ。フッガー家とウェルザー家がその金で行ったことは何であろうと極端な秘密を守ってきた。我々はクルップ家、ロスチャイルド家、オッペンハイマー家、ウールバーグ家、ロックフェラー家のような富豪の実際の財産を知るすべはない。ただし彼らがとても昔から富裕であったことと、その財産が巧妙に分離されていること以外はだが・・・・。何兆ドルと言う量になるであろうが、経済評論家は我々に語ってくれた。
「現在二十三兆ドルが金持ちの持ち物だが、ほとんどがオフシェアーの秘密個人口座に眠っており、その国の法律は、彼らの資産を税務署、配偶者、そして顧客からの開示を拒めるようになっている。」
我々はアジア大陸や中近東の王族、貿易商、地下組織の金の保持者についてすら、ほとんど知らない。ヨーロッパの実力者は自分用の銀行や石油会社を所有し、政府への支配力をもっているだろうが、アジアの富裕層は政府や銀行を決して信じない。
財産は小さな金の棒か、プラチナまたは宝石として保持している。
中国では数千年前も昔から、国や銀行を全く信用していない。欧米の銀行業がご存知のとおり金市場を三世紀前にようやく存在させるようになって以来、アメリカとヨーロッパに預金されてきたよりはるかに多くがアジアで二千年にもわたって絨毯の下に隠されてきたことは間違いない。
アメリカ政府は手持ちの金の量も公表を拒んでいる、最後に会計検査院が監査し公表したのは千九百五十年代である。
それには良い理由があるのだ。
この本の要点は、どれだけ盗まれ、隠され、秘密に回収され、そしてどのぐらいが発見されずにまだ残っているかを解き明かすことではない。
ごまかしもあるだろう。本当の内訳なんてわかるはずもない。
この本の注釈と、我々の記録用のCDの中には九〇〇Mバイトの書類、写真、地図、そして画像が入っているが、それらで我々は、シティバンク、チェイス、香港、上海BK、ユニオンバンク・スイス等の保管庫の中には今日でも莫大な略奪した金が残っている強固な証拠をあきらかにした。
我々は手紙、送り状、連絡メモ、州政府の税記録、保険条件、そして黒い鷲基金を運んだブローカーとのインタビュー等を提供している。
マッカーサー元帥と、彼の昔の相談相手であった裕仁とが共謀し、いかなる方法で日本の三和銀行が秘密信託を立ち上げたのかを立証しよう(三和銀行は十三章)。
裕仁が統治した時代にちなんで昭和信託で知られるその勘定は、一九八二年まで、年間十億ドル近くが支払われるほどの大きさであった。我々はその昭和信託の三件の受託者を確認した。そしてマルコス大統領がどのようにしてこの勘定の存在を発見したのか、またそれを使ってどのようにして日本政府を恐喝したのかをはっきりとさせよう。
マルコスらが戦後の一大発掘作戦を、秘密裏に陸や海で行った証拠書類や写真も付け加えよう。
サンタ・ロマーナとランスディールが、一九四五年~四七年に回収したものは財宝のほんの一滴にすぎない。他の人間が重大な回収作業を始める以前に、単独もしくは集団の日本人がフィリピンにもどり、財宝の一部の返還要求をして十年が過ぎた。我々はアメリカの採鉱の専門家で冶金学者、ロバート・カーティスによって約六万点の記録書類と二十五年かかって作成、編集された録音または映像テープを独占的に閲覧させてもらった。
実際、彼はマルコスに渡すために、テレサ二号構から八十億ドルの金の延べ棒を回収していた。彼は危うくマルコスに暗殺されそうになり、フィリピンから逃げ出し、その後は財宝の歴史的に重要な証拠つくりに夢中になっていった。
マルコスに対しての五つの巨大なゴールデン・リリー発掘作業の過程の中で、カーティスはゴールデン・リリーで雇われていた技術者によってまたとない技法の解説を手に入れ、マニラ周辺にある多くの基地を知ることができた。
カーティスがマルコスと働いた数ヶ月間に彼は百七十五箇所の元々の財宝地図、百七十二枚を写真にとった。我々のこのCDにいくつかの地図はのせておいた。日本へ無事に財宝を運ぶため、オランダの客船を病院船に偽装し、ゴールデン・リリーに使用しているのが目撃されている。この船に関わる回収作業、日本の「ttenNoort」作戦も話をしよう(第十四章に詳しくある)。
その船は一九四五年、日本に帰ってきた後、数千トンの金やプラチナをのせたまま舞鶴の海軍基地付近で日本の海軍将校によって沈められた。回収された日本の船の名前も、回収にあたったオーストラリアの船と潜水艦の名前も、参加者によって撮影された写真ではっきりと見てもらえるようCDにのせておいた。
これらと、手紙そして図を含めてアメリカ政府高官や国防省の役人がいかにゴールデン・リリーの財宝を使いジョンバーチ協会、ムーニィー、そして極右のならず者と手を組み、その財宝を支配する新しい組織、FBIや産軍複合組織を作り上げることを望んだのかを見せよう。
これらのことは香港で一九八七年に行われた退役軍人、海軍大将ジョン・シングローブとレーガン政権下の国家安全保障理事会、ロバート・ショウワート将軍らの会合の録音テープが立証する。我々は読者に日本が金の延べ棒を隠すため、一九四二年に掘ったものと勘違いをし、マニラの近くの台所を四百フィートの深さの穴を掘ったことが普通の感覚からしてどうであったかを紹介しよう。
三百フィート以上掘るとそこは海面より下になる。将軍と理事長は回収に海軍の深海潜水夫と減圧装置を投入せねばならなかった。
数ヶ月も苦労を重ね、百万ドル以上つぎ込み、手ぶらのまま断念したのだった。
我々が同様のくだらない失敗で物語るのは、何故批判を直視し、すべてを開示することが差し迫って必要かを明らかにしたことだ。国家の安全とは官僚を守ることや汚職を隠すことではなく、おろかさを隠すことでもないはずだ。
六十年近く費やしてスイス銀行に隠されていた財産が回収され、ホロコーストの被災者へ与えられた。そしてワーゲンのような独企業で強制労働した者への補償を勝ち取り、家や会社から盗まれた工芸品は元の所有者へもどされた。日本占領の五十年記念に加え、これらの成功で他の被災者は正当な補償要求を主張するようはげまされた。被災者の間に空前の活動をもたらせた。太平洋戦争、最後の戦いはカリフォrニアの裁判所で行われた。そこで生き残った捕虜、強制労働者、慰安婦そして被災市民らが戦後不思議にも拒否された補償を勝ち取るための十億ドルの訴訟が行われた。
一九九五年、七十万人の大戦の被害者は、いまだに何の補償も受け取っていないことが推定された。その数は年齢と病気のせいで急速に減少している。
彼らの支えは、並々ならぬ活動家同士の提携と弁護団である。英政府は、彼らを黙らせるため、以前の被災者への支払いを停止することで、法的な流れを変えようとした。
ワシントンは、カリフォルニア裁判所から、連邦裁判へ移動させるというアプローチをとった。そこで彼らは、政治圧力に妨げられ、政府の代理人からの干渉で妨害された。
国務省と司法省は、一九五一年(昭・二六)の第十四項の平和条約を使い、戦争補償を他の被災者が、日本の三菱や住友のような富裕な企業に対し、大きな損害賠償を起すことを防いでいた。二〇〇〇年六月、米上院でユタ州のオリン・ハッチは国務、司法の弁護人に対して、一九五一年の平和条約が、すべての被災者の権利を剥奪したという主張が正当であると結論づけた。
「我々の連邦政府のくそたっれめ、バターン死の行軍や、虐待された人々の権利すべてを棄ててしまえというのか。条約の中にそのようにあるからって、個人の権利を政府が棄ててしまうなんてできるとおもっているのか?我々は日本政府に払ってくれと求めてるのではないんだ。日本では、今やいくつかの会社が数十億ドルの企業になっているというじゃないか。その企業に払えよといってるんだ。」
熱心な訴えにもかかわらず、二〇〇〇年九月二十一日、米地方裁判所判事バウン・ウィーカーは、アメリカ戦時捕虜とほかの捕虜労働者に対して裁定を下した。彼は却下した。
判決で、終戦以来の日米間に存在する外交条約をひっくり返すようなことは危険であるとのべた。前日本大使の三人は、ワシントンポストに手記を公表し、そんなアメリカ人からはみ出したような捕虜や弁護士はテロリストもどきである、という恐るべき意見をのべた。
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708131 No.7304
>>7303
本当に問題なのは利益のとりあいだった。
クリントン政権の間、米国の日本大使であったトーマス・フォーリィは、「平和条約は、日本に対するすべての主張を放棄するものだった。」と主張し、捕虜やほかの就労者に対する賠償をはずすことについて強固であった。
使節の長官クリストファー・J・ラフルアーは、事あるごとにそれを反復した。
フォーリィの妻は戦時中の捕虜労働に深く関わり、訴訟のまとである最大財閥企業のひとつ住友のコンサルタントになっている。彼女がもらっているたっぷりとした報酬は、被災者の補償に当てられるべきだ。フォーリィは、外交官としての役目を終えアメリカへ帰国した瞬間に、大複合企業体の顧問兼ロビー活動の契約をした。三菱・戦時捕虜労働者の最大使用者のひとつだ。
そして、おそらくとても重要なのは、ラフルアーは前首相であり、大蔵大臣経験者でもある宮沢喜一の娘と結婚したことだ。宮沢とジョン・フォスターダラスとは、かって一九五一年の条約を秘密に協議した日本人三人の中の一人である。(宮沢はまた、ロージア教授らとともに海外でのM資金融資を行ったと考えられている。)
補償論争は東京との外交的な役割の中で障害になるようにはみえなかった。今日では日本とアメリカが財政的な共謀をした十分な証拠が、国会公聴会や会計検査院の調査でわかってきている。外交上の嘘、汚職、取り繕いの半世紀の後、国家機密の一端を暴くときで、それは狡猾な圧政の体制である。議会に対し、米国民に対し、民主主義そのものに対し、ワシントンは十分に誠実な採算をする責任を負う。
マニラからバタンガス地方を少し沿岸沿いに下ると、いつの日かゴールデンリリーの記念公園として冷笑されることになる劇的な財宝の隠し場所がある。
ここは最近いくらかの日本人が発掘の努力をしていたところだ。
南シナ海を見下ろして、あまりにも多くのトンネルと銃座が備えられたので、その岬は『ナバーワンの銃座』というニックネームがつけられた。(我々は正確な場所を特定して答えることはできない。)
この複雑な秘密活動は、長期にわたるフィリピンの侵略行動の一環として一九二〇年前半、日本人によって始まった。財宝でいっぱいになったのは一九四四年(昭・十九)だ。
金の延べ棒を運ぶトラックを知っていた日本人の一団によって、その中の三つのトンネルはあけられていた。彼らはトンネルの一番外側に達しただけでも十分に満足だったので、それ以上は進まなかったため、深い坑道を発見することはなかった。
いったい、この財宝はどこからきたのだろう?
それは朝鮮から始まった
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708131 No.7305
>>7304
黄金の兵士 第一章仮面の裏側
第一章 仮面の奥に
一八九五年十月七日夜半、三十人の日本人暗殺団がソウル皇帝の宮殿に侵入した。后の個室のドアを破り、二人の女官をぶった切り Min(ビン)女王を追い詰めた。
宮内大臣は彼女をかばおうとしたが、刀をもった男が彼の両手を切り落とした。
護衛のなくなった彼女は、何度も刺され、切られた。そして泣き叫ぶ彼女は、宮殿の積み上げられた焚き木の上に放り込まれ、石油をかけられ、火をつけられた。アメリカ人の軍事顧問ウィリアム・ディ将軍は女王が生きたまま燃やされる間にも刺客たちが宮殿内で刀を抜いて壊しまくったことを目撃した幾人かの外国人の一人である。
日本は、朝鮮人が日本人を装ってやったのだと言明した。――外交の席で嘲りながら体裁よくごまかした。東京にいた英国大臣、アーネスト・サトウは、在朝鮮公使、杉村一等書記官が刺客を導いたといっている。
女王ビンの暗殺が、日本が朝鮮支配を獲得する活動の転機であった。彼女の夫、高宗(李太王)は弱虫で、中国と同盟して日本に対抗する閔(ビン)財閥に支配されていた。女王が死んだことで日本は王を支配しやすくなり、中国の干渉をなくすことができた。襲撃の計画は、日本の喧嘩大好き人間、山県一派の工作員三浦五郎によってなされた。もともとは日本鉄道の朝鮮人兵士によって内部抗争にみせかけて殺すはずであった。しかし、失敗は許されなかった三浦は玄洋社へ助けを求めた。朝鮮にいる多くのメンバーは日本の大企業、たとえば古い財閥三井などの駐在員を装っていた。玄洋社とか黒竜会と呼ばれる裏社会は東京では認められない汚れた仕事の実行部隊で、アジア大陸における日本の準軍事行動として機能していた。彼らは朝鮮や中国で売春宿、麻薬販売所、高利貸しを経営し田舎者に金、女、酒、ポルノ、ペテンを供給しながら情報網を構築する立場にいた。玄洋社が朝鮮にかかりきりになっている間に黒竜会はロシアの侵入を防ぎ中国を奪い取ることに専念していた。玄洋社は三浦の望むプロの刺客を用意し他の殺し屋は日本領事館からの護衛だった。女王を外国人たちの面前で殺すつもりだったのかは又別の問題だった。
日本の陰謀はひそかに始まっており、制御がきかなくなった。物知りで、且つ思慮深い伊藤博文の様な多くの指導者は暗殺を拒否するだろうとわかっていた。しかし、十九世紀の明治維新の後、日本は深い矛盾を内側にかかえていた。ふたつの派閥が、君主の陰にかくれた権力と明治天皇をも超える権力を求めて冷酷に争っていた。伊藤と組んだ者たちは、ウィルヘルム皇帝を導いたビスマルクであるとかビクトリア女王に対するディスラエリーの役割を見習ってもっと世界主義的であるべきと考えた。山県元帥と同盟する者たちは権力を刺客と急襲、裏切りによって中世の日本へ逆戻りさせようとしていた。山県は伝統的な武士軍団を近代的徴兵制に置換えつつ又、スパイのネットワーク、憲兵隊、やくざ、そして超愛国組織を構築した。山県が日本で作ろうとしている警察国家にとってそれは鍵となる要素であった。地下組織の大部分は日本の支配構造にかかせない部分だ。皇族のメンバーや日本を支配している金融エリート達は頂点にいる暴力団と親密な付き合いをもっていた。山県の指示で朝鮮と台湾を日本軍が侵略したとき暴力団はその先鋭となった。その後、日本地下組織は一八九五年~一九四五年の五十年以上に渡ってアジアでの略奪に大きな役割を演じた。閔女王の暗殺は半世紀にわたる過激な日本の残虐行為と工業基地政策として植民政策の始まりをきざんだ。彼女の暗殺はいかに簡単に日本の良い概念の仮面をはがし残酷な現実を示したことをあらわした。他の日本戦略も又静かに始まり手からこぼれだしていた。例えば外国人がカメラで監視する面前で無力な市民三十万人を殺してしまったような南京虐殺の舞台に立つことを最初から意図していたとは思えない。たった一度だけの虐殺が起こったのならそれは醜い事故になったであろう。しかし電撃的な東南アジアの侵略の間に南京もどきのことが何回も起こった。(訳注、シーグレイプ氏は南京開城時に虐殺が行われた事を一貫して主張している。訳者として原書のまま訳すものの数において大きな誇張があることを指摘しておきたい。)
一九四二年(昭・十七)のシンガポール陥落までに海外渡航中国人に対する虐殺の許可が中国ばかりではなく東南アジアすべてで起こっていた(the Sook Ching 華人虐殺)あまりにもこれは頻繁におこったので単に軍事行動というよりも日本の侵略のためだったといえる。外国の領土を征服することに成功したのにどうして金や財産を持つ中国人らを日本人はいじめたのだろう?理由は軍隊の裏、闇の中にあるほとんどの歴史物語は地下組織の果たした役目に注意をはらっていない。学者たちは無法者のことをめったに調べない。伊丹十三がこっそりと風刺したように、日本では地下組織が権力構造に染み渡っていることを常に考えなければならない。朝鮮の征服は日本で初めての産業基地としての外国植民地の実験でありそして又地下組織自身のためにしたこともたくさんあった。
西洋人は朝鮮でいかに多くのものが盗まれたのかをほとんど知らない。今日では北と南の朝鮮は単に過去を区別した名残だけだ。歴史家のブルース・カミング氏はこう指摘する。「日本にとっての朝鮮の重要性は、朝鮮にとっての日本のそれとは比べ物にならないさ。」昔々、日本は韓半島からの略奪者によって侵略された。そのお返しとして侵略した。しかし、鎧を着けた軍ではなくて刀や矢を持った悪の集団によってだった。その侵略は近親憎悪のようなもので、北アイルランドのカソリックとプロテスタントの似たもの同士の側面をもっていた。簡単にその憎みを説明しどのように侵略を始めたのか明らかにしよう。我々が今知っている限り、確執が始まったのは二千年も昔のことで、朝鮮も日本も存在しないころだ。韓半島のいろいろな地域では気高い宗教、文芸、芸術的文化に支えられた高度な経済地域が発展していた。その磁器の優雅な絵柄、彫、金の細工については現在でも最高にすばらしいものといえる。高官たちは数千人の奴隷を所有し大きな敷地の御殿ですごしていた。彼らは商業とか戦争には関心がなく、天文、数学、書道を発展させ、従来誰もできなかった新しい貴族を創り出した。十六世紀までの朝鮮は世界で最も進んだ文明国のひとつだった。孤立した島国日本は朝鮮と中国からの移民国家だが、神道や巫女に支配されゆるやかな同盟でつながっていた。最終的に幕府による中央軍事独占政府に統一されるまで、千年もの間内乱状態であった。慢性的な陰謀は外国との関係において、ある歴史家がいうところの『日本的な狂気』を創り出した。日本人が互いに冷酷な扱いをしていたとしたら外国人に対してはどんな接し方をするだろう?朝鮮は日本人を『粗野なチビども』とさげすんだ。中国人は洗練されていたから、朝鮮は喜んで中国に朝貢した。お返しは朝鮮を日本から守ることだった。豊臣秀吉が日本を統一した後の十六世紀、彼は十五万八千人の兵士で朝鮮侵略を開始した。彼の計画は、朝鮮をつぶし、その文化を地球から消し去ることだ。ほとんどは成功した。(文禄・慶長の役 一五九二~九三) 数年間の残酷な占領の後、朝鮮は李舜臣(イーサンシン)提督の有名な亀甲船――世界初の鉄でできた軍船で六十五フィートの長さがあり先端には砲撃を満載していた――に救われた。李提督は日本の補給路を断ち、その船を破壊した。屈辱をうけた秀吉はその後まもなく死亡した。この侵略が失敗だったにもかかわらず侵略者たちは朝鮮の略奪で大もうけした。日本の軍隊には、朝鮮の鮮やかな写本を盗むために、僧や学者らが含まれていた。武士達は『李参平(リー・サンピョン)』のような有名な陶芸家を誘拐し日本で強制的に働かせた。韓国の学者は、「日本人は物資を欲しがるばかりか野獣のように人間的な倫理観が欠如している。」と言っている。数百年の後、再び日本は朝鮮に侵入し、僧と学者を含んだ日本軍はもう一度美しい工芸品を探索し、略奪した。朝鮮は立ち直れなかった。十九世紀、東アジアでは、最弱、最貧の国が侵略される機が熟していた。崩壊の端にいた満州は朝鮮を防御する体制ではなかった。明治維新に続き日本は急激な近代化への努力を重ね、西欧と軍事的に張り合えるアジアで唯一の国となった。陸軍、海軍が成長してくると日本は大陸への軍事的征圧行動を開始し、自国の植民地を求める地位についた。最初のねらいは朝鮮だった。政治家も軍部も、日本が朝鮮、満州、台湾を侵略しなければ、ロシア、英国、あるいはフランスが乗り出してくるだろうと話し合った。山県元帥と黒竜会および頭山満たちには、朝鮮を批判し、侵略のきっかけになる出来事が必要だった。
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708131 No.7306
>>7305
山県は頭山に、「突発事件を起しましょう。そしてその火を消すのは軍部の仕事にしましょう。」と話した。朝鮮で火をつけるのは簡単だった。黒竜会のテロリストは東学(トンハク)と呼ばれている田舎の宗教集団を襲った。東学は反撃しそのため何人かの日本人が死傷した。これを言い訳に、東京政府は朝鮮内の日本市民の護衛と称して軍隊を投入した。そこで中国は千五百名の兵士を英国船SSコーシングで派遣したのだが、日本の飛行機は船を妨害し全部を沈めてしまった。この急襲攻撃は、この先数十年何度も繰り返される日本のお家芸となった。頼りない清王朝はおろかにも日本に戦争を宣言した。一八九四年九月、朝鮮の鴨緑江において、たった一日で日本軍は中国軍の半分を壊滅させた。日本は満州の『不朽の要塞』を奪い全ての中国線を沈め、山東省の威海(ウェイハイ)の港を要塞化した。中国はさらに台湾の支配を日本に譲り、台湾は日本初の植民地となった。南満と旅順が日本に引き渡されるや否やフランス、ドイツ、ロシアは元に戻せと圧力をかけてきた。これこそが閔王女が日本の弱い者いじめに対抗した要点であり暗殺された原因である。舞台はいまや二十世紀空前の残酷ショーへうつっていく。満州を蹂躙しながら日本は満州内へ鉄道を建設している帝政ロシアと敵対しつつあることに気づいた。一九〇四年二月八日、ふたつの驚くべき攻撃を始めた。ひとつはウラジオストックのロシア海軍基地で、他の一つは朝鮮の仁川港の河口にいるロシア船に対してだ。反撃のため帝政ロシアは地球を半周してバルチック艦隊を派遣した。一九〇五年、五月、艦隊は対馬海戦で日本に壊滅されただけだった。中国がしたようにロシアも平和を求め樺太の南半分を日本に与え南満の租借権を日本に返還し旅順―長春間の満州鉄道南方部分の支配権を譲渡した。いまや無敵に見えた日本は朝鮮を植民地にすると公式に宣言した。朝鮮人が何を考えているかなんて誰も聞いちゃいない。
西欧政府は抗議しなかった。大量の日本人が富を求めて半島に殺到した。彼らを伴い、財閥系複合企業体の多数代理人が、あらゆる商売のチャンス、天然資源を求めてやってきた。日本は法律と命令を支配し新しい警察と憲兵の情報網を作っていった。もはや武士道の精神はなくあらゆる場所で朝鮮の主権は無視され、すべての抵抗はつぶされた。新聞の編集長は、「ああ何と不幸なことだ。我々二千万人の国民が他国の奴隷になってしまう。」と書いて逮捕された。すべての日本人が略奪者であるわけではない。いくらかは真剣に朝鮮を助けるつもりであって、奪いにいったわけではない。伊藤博文は朝鮮の将校に「あんたの国は自分で守れないジャン・・・自滅を許すとは言ってないぜ・・私が望むのは、あんた達がもっと前面にでてがんばれば、我々と同じ立場に立てる日がくるし、一人前に取り扱うようになるさ。」初代朝鮮総督として伊藤の指令は理性ある政府になる望みを多少は与えた。山県は伊藤の部下に黒竜会の親分、内田良平を加えるようにお取り計らった。秘密のうちに資金が融通され伊藤が総督の時代、内田の暗殺団が暴れ回り、一万八千人の朝鮮人を殺した。彼らは朝鮮を全面併合する命令を口実に殺人をしていた。一九一〇年八月二十二日、朝鮮は単なる植民地から完全に日本の領土内として併合された。日本軍は本国の政治家の干渉から解放された自分の領土をアジア大陸に所有することになった。山県のもっとも過激な仲間の一人に寺内正毅がいる。彼は初めての韓国総統になった。一八七〇年、武士の反乱の時に右手を失った寺内は日露戦争の間は陸相を務めた。今や彼が朝鮮の植民地化と略奪の指揮をとることになった。いくらかの日本人は武士道を重んじ、寛容さを表し無茶な殺人を許さなかったが、寺内は格別残忍でそれが数十年に渡って占領される地域での日本の蛮行の先例となってしまった。
レジスタンスを潰す決意をし、彼は朝鮮人に言った。「手前らをサソリむちで苦しめてやりてえよ。」(聖書の中にサソリむちがでてくるが、彼がそういったのかは疑問だ)彼はサデシスティックな朝鮮やくざで警察隊を組織し、当然のごとく拷問するよう命じ、「東洋人は拷問しない限り本当の事をしゃべる奴はおらんでな。」と言った。
この警察隊は、日本のゲシュタボ、憲兵隊にしっかりと監督されていた。ほとんどの憲兵隊の情報院は文民を装ってはいたが、その実内側の襟裏にある菊の紋章だけに忠誠を誓っていた。日本は徐々にこれらのスパイや情報員、テロリストの網をアジア中に増殖させていった。第二次大戦中、最高で三万五千人の憲兵隊が日本帝国から生み出された。非公式の数はもっとはるかに多い。なぜならば黒竜会、玄洋社そして他の狂信派が統合されたからだ。彼らは互いに『唇と舌』のように連携して動いた。玄洋社のボスである内田は朝鮮に送られる憲兵隊のすべての任命を審査した。朝鮮の抵抗は激しかったものの不首尾に終わった。一九十二年には約五万人の朝鮮人が逮捕され、一九一八年までに毎年十四万人に増えていた。日本統治時代が始まって十年間の間、日本人教師ですら軍服を着用し刀を身につけていた。日本軍は憲兵隊と玄洋社の盗賊が半島を略奪することを見張っていた。日本の警察はモミから店頭までの米の生産を支配し、大部分は日本へ船積みされた。やくざは強請りの専門家だ。日本では被害者を選ぶときにだけ用心深いだけで、彼らは脅し、誘拐、強請り、殺人はお手の物だ。大陸においてはそのような束縛に対する恐れは何もない。寺内のやり方があまりにも残酷なので、日本の銀行家や会社員は哀れみを感じ恥辱を表明する公告をしたほどだ。
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708131 No.7307
>>7306
結局、寺内方式はアジア中に広がり終戦までそのままだった。確かに日本は朝鮮をある程度まで工業化した。しかし経費はかけなかった。朝鮮の労働者は同じ工場の仕事をする日本人の四分の一しかもらえない。寺内は米を日本へ送るために朝鮮人にはキビを食べさせた。この残酷な方法のせいで、半島は芸術品から基本的な野菜まですべてとられてしまった。朝鮮はもはや日本に属している以上、文化財の移転――略奪なのだが――は窃盗にはならない。自分のものをどうやって何かを盗むのだ。希望一覧表の筆頭は中国の陶磁器に勝るとも劣らない有名な青磁器だった。(朝鮮の陶器は、粘土の状態で花柄の切り込みをつけ、焼く前に色がはっきり出るその青緑の光沢が有名だ。)
西洋の専門家はそれを「かつてこれほど優雅で気取らないものはなかった。」と言っている。十六世紀に日本は朝鮮の陶匠を誘拐し、九州にすばらしい釜の産地を発見したものの日本で作られた陶器には同じ魂はなかった。日本人は朝鮮の陶器を宗教儀式や茶会などに使われる他の物より上級であると評価していた。又たとえば朝鮮のパンション石陶器とかチョーソン白磁も欲しがった。この略奪品のいくらかは、東京上野の博物館に展示されている。ほとんどのものは、一般の人には決して見ることができない日本人の私蔵品となり、その個人ですらめったに見られなくなってしまった。日本人の収集家はその財宝を地下金庫に保管し個人的な鑑賞を固く禁じた。したがって今日でも朝鮮で盗まれた骨董品は元の場所にもどってはいない。すべての朝鮮個人収集品が押収されても宮廷記録や古代文書を研究している専門家は美しい陶器が王の墓の中に埋もれいると断定した。この墓の略奪を偽装するために寺内は歴史遺産を維持する法律を導入した。維持するためといって、実は墓をあばき価値ある中身は日本に持ち帰った。そして彼は約二千の墓をあばき開城市王の墓には古代の陶器、仏像、王冠、首飾り、耳飾り、銅鏡、そして他にも装飾的な財宝でいっぱいだった。平城近くの大同江では千四百の墓があばかれ略奪された。この大規模な盗掘は寺内直々の監視のもとで遂行された。彼の最初の仕事は自分自身の邸宅を作るため景福宮宮殿で四千の部屋を破壊することだった。彼は日本へ船積みする予定の数千の中から六百点の工芸品を選び自分の宿舎に飾った。日本の個人収集家や古物商は工芸品だけでなく古文書や重要な国家公文書も持ち去った。―――すべて日本の博物館や大学の学術研究の名のもとで・・。立派な本の数%は朝鮮の国宝に指定されていて、李王朝公文書千八百巻を含みすべて日本に船積みされた。学者は特色の少ない古文書二十万巻を燃やしたと言っている。もちろん朝鮮の特色ある文化を消してしまう考えの一環としてだが。彼らは古代文書などの四万二千件の文化遺産をリストアップして、『研究』のためと称して東京へ持ち去った。そして二度と返されていない。ついでに日本人はダイナマイトを使い李成桂王の遺跡(一三九六~九八)やサンヨング(一五九二年の日本武士達の侵略に逆らった仏教僧指導者)の遺跡などを爆破した。韓国の歴史化イー・キベックは言う。「日本人の目的は朝鮮国家の国民意識や起源などの自覚を消し去り、朝鮮人の存在自体をこの地球から取り除くことだったのだよ。」一度、文化伝達や国民意識を剥ぎ取ってしまうと朝鮮人は二等国民に成り果ててしまった。朝鮮人の受け継いだ国土を剥奪するために日本人の名前に改名させ、儒教、キリスト教、仏教の信仰を神道に改宗させた。天皇だけが彼らの唯一の神であり、いかなる朝鮮人でもその神性を拒否する者は逮捕された。寺院では、銅鍾や仏像が略奪された。普通の宗教的金細工品ですら武力によって持ち去られ、精神の融合と称して溶かされ武器になった。朝鮮人は日本語だけを話し、朝鮮語の新聞社はつぶれ政党は解散させられた。朝鮮の記者は日本語でのみ出版が許され、学者も日本語で教育した。家の中でも日本語で話し合うよう求められた。一九〇七年東京政府は高宗を無理やりまだ十歳の息子へ譲位させた。彼を皇太子『イ・ウン』(李垠)と称して東京へ連れ去り明治天皇の孫達、裕仁、秩父、高松らと共に徐々に学習させると主張していた。実際のところ少年は人質であり彼が生存するには朝鮮の皇室として共に協調を続けていくことしかなかった。
何か理由があったのか、明治天皇は彼に親しみを覚え、自分の孫には決して見せなかったような愛情をもって、気配りや贈り物を与えた。少年は朝鮮君主になる権利を放棄することを説得された。次の十年間に別の朝鮮工芸品数千が力ずくで日本人により持ち去られ、約束と違い決して戻ることはなかった。人々はあまりに恐ろしくて、後に盗まれた正確な明細であるとか受領書の束をもって出頭することは不可能だった。一九六五年、韓国政府は個人を特定できる四四七九件の返還を求めた。日本はそのうちたった一四三二点を三十年かけて少しづつ返しただけだ。大変な量の朝鮮文化工芸品が今日も日本の個人収集家、博物館そして皇室の地下金庫の中に残っている。この国家的遺産のほとんどは途方もない価格だ。第二次大戦が終わった時、日本が破産状態とは程遠かった証拠だけを示そう。いつでも協力者がいるものだ。四十年以上も盗品や古代コーリア陶器の輸出で金儲けをしてきた古物商で中田という日本人がいる。彼の仲間は前の李王朝の高官で億万長者になっている。ほとんどの朝鮮の地主は日本人開発者らの買収によって土地や農地を取り上げられていた。小作人は土地を失い、都市の貧民とともに急き立てられ船に乗せられ奴隷労働、そして日本もしくは千島列島の砲兵大隊に編入させられた。六万人の朝鮮人がシベリアのサハリン半島で炭鉱や軍需工場の強制労働を強いられた。そのうち四万三千人は終戦時サハリンにいて、ソビエト管理下になった時点で帰国は困難なことになった。一九四五年以前には六百万以上の朝鮮人が強制労働隊に編入させられているとおもわれていた。その中の百万人は日本に送られた。他の者はフィリピンやオランダ領の南インドシナへ送られ、海軍、陸軍の軍需工場で生産に従事した。又、略奪品のためのトンネルや塹壕を掘っていた者たちはその場所を隠匿するために殺され、生き埋めにされている。一九四五年八月二四日、日本の青森県で略奪品のための壮大な地下施設の堀削に従事していた朝鮮労働者は、母国へ帰還するために浮島丸という軍用船にのせられた。船は最初日本西沿岸のマイサル海軍基地(舞鶴と思うのだが)へ航行した。そこで朝鮮人は貨物室に閉じ込められたまま船は沖へでて、ダイナマイトで穴をあけられ沈められた。五千人の朝鮮人のうち助かったのは八十人だけだった。日本政府は、彼らが自分たちで錠をかけて閉じこもり自分たちで爆破したと主張した。
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708131 No.7308
>>7307
それから五十七年が過ぎ、十五人の生存者とその関係者たちは、ついに日本政府に対する賠償訴訟に勝訴した。京都地裁は、二〇〇一年八月、日本政府は原告各人にそれぞれ三百万円(三万ドルにも満たない)支払うよう命じた。しかし、法廷は日本政府に事件に対する謝罪の必要性には何もふれなかった。
六〇〇万人の朝鮮人が強制労働者をして従事したことはさておき、一万人もの若い朝鮮人が徴兵され南方作戦で砲撃の餌食になるために派遣され多くはビルマやニューギニアで死んでしまった。もっと悲惨だったのは数千人の朝鮮女性たちが売春婦になってしまうとは知らず騙されて雇用され日本へ行ったことだ。憲兵隊が一九〇四年初めて公式軍事売春宿を作ったのは朝鮮だった。それらは誘拐された婦女でいっぱいにされ、後々にアジア中で従軍慰安婦になるように強制される数十万の朝鮮人たちの先駆けとなった。
(訳注、南京虐殺と同じくシーグレイプ氏は慰安婦問題を日本独自の事のように主張するが大きな間違いだと思う。アメリカ占領時に日本で何が行われたかは日本人もアメリカも沈黙しているがその時点では一般人の被害を避けるための方便であったとおもわざるを得ない。また、強制されたかどうか、または軍の関与については斡旋業者の問題であり日本軍は強制する必要はなかったものと思っている。)
朝鮮人が狙われたのは、仮に日本人が売春を強要されたら兵士たちが暴動を起すと信じられたからだ。日本軍は朝鮮の婦女子を家畜のごとくみなした。情けはまったくない。ブルース・カミング氏はこの状況を要約して、「日本人にこき使われ乱暴された数百万の人達はいったい自分たちの身に何が起こったのかを記録に残せなかったし、日本人と共に働いた朝鮮人はあたかも何も起こらなかったように記憶を消すしかなかったんだ。」朝鮮の悲劇は台湾や他の植民地のやさしい体験談と比較することでしか十分にはわかってこない。中国に無視された台湾は決して独立国家になれなかった。しかし、一六六一年、日本と中国の混血商人、鄭成功(テイ・セイコウ)はオランダの貿易商を追放し自分の領土とする企てをした。不幸なことに、鄭が本部を作った横では蚊が飛び回っており一年後に彼はマラリアで死んでしまい、王国は崩壊した。彼の魅力的な伝説をもとにした演劇が日本で評判となり、台湾が手付かずの天国のような理想を日本人がもってしまったので彼らが喜ぶようにしてあげたのだ。
本来の台湾人からも抵抗はほとんどなかった。朝鮮人とは違って、昔からの日本への嫌悪感もなく戦争の経験もなかった。何よりも重要なことは、盗むものがなかったということだ。数千年も積み重ねて築き上げたような文化遺産に乏しく、堂々とした芸術的な伝統はなく略奪するための大きな墳墓もほとんどなかった。日本人はフォルモサ(美しい国)に改名した国を過去になかったほどの良い生活のできる金のなる木にすることを望んだ。彼ら(日本人)は農業を促進し効率のいい政府を作り、厳しい一般人への法令を定めた。そしていつも軍や警察、そして殖民行政官のそばには、地方の業者のように見える渡り者や実業家の『やくざ』がくっついていた。彼らの本業はモルヒネとヘロインの製造で海峡を越え中国本土へ販売するためである。台湾もまた中国南方やアジア征服の最重要拠点となっていく。島を恒久的軍事拠点にするために莫大な投資が行われた。第一飛行大隊はkookayama山の地下施設に本部が作られ、二五〇人の男たちが従事していた。日本の爆撃隊は台湾から飛び立ちフィリピンのクラーク平原を破壊した。一九四〇年代までは台湾人が徴用されることはなかったが、その後、数千名がフィリピンへ強制労働者として送り出された。台湾への穏やかだった対応は例外である。朝鮮への恐ろしい征服欲と略奪は数百万人の中国人が思い知ることになったとおり、ごく普通のやりかただった。
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708131 No.7309
>>7308
訳者から一言
2007-06-06 09:38:09 | GOLD WARRIORS
ちょっと遅れましたが、このブログの趣旨を説明します。以前、YamatoDynastyを翻訳する時に何人かの人に一章ごと読んでもらっていました。しかし、興味がないのか、最後まで読んでくれたのはたったの三人だけでした。確かに素人が訳した文章は下手だろうし、文学的にもなっていないだろう。しかしながら、私は高い使命感に燃えて時間と金を費やしてきたし、自分のためにやっていることだから何の文句もない。しかし、本当は、たくさんの人に読んでいただき、書かれている内容を議論したかった。シーグレイプ氏は他にも、「宋王朝」「マルコス王朝」などが日本版で出版されている。確かに、ユダヤ系でかつ、反日中国系の論調は見られる。だからと言って内容が全て無視できるわけではない。「YamatoDynasty」でも、戦後の皇室とマッカーサーの駆け引きは実に読み応えがあり、従来のどの本にかかれていない内容だと思う。田中角栄の金儲け、堤家と天皇家の癒着、これらは目からうろこが落ちたものだ。今回、GoldWarriorsを一章ごとに載せるのは非常に大量のデーターですので画面で読むというよりコーピーして印刷したほうがよいだろうと思ったからです。一章ずつ印刷してもA4で10ページにはなるでしょう。毎日少しずつ画面で見るのはなかなか大変です。どうか印刷してお読みください。そして、シーグレイプ氏の言っていることの間違っている事、あるいは正しい事をたくさんの人から指摘して欲しいのです。例えば、秩父宮が肺結核で富士山麓で静養中だったはずなのに、フィリピンで略奪物資の隠匿を指示していたという多数の目撃者がいることについて、一体私たちはそれをどのように受け止めればよいのでしょう。目撃者は命に関わる事だから、名乗り出るはずもない。しょせん水掛け論だろう。しかし、シーグレイプ氏にとってその証言がこの本の根本的な前提なのです。現在、もう一人協力してくれる人が現れたので、彼には十三章以降を担当してもらいます。今日、第二章、第三章、第十三章をアップします。それ以降はたぶん、一ヶ月に二章ずつぐらいしかできないと思います。秋ぐらいまでに完了できたらいいかなと思っています。趣旨ですが、日本で出版されない本を少しでも多くの人に読んでもらいたいことです。実際に大手出版社が発売するもの、ベストセラーになるものに真実はないだろうと思うからです。
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708131 No.7310
>>7309
黄金の兵士 第二章ごろつき武者たち
第二章 ごろつき武者
一九〇五年九月、黒竜会に率いられた暴徒達が、刀を振り回しながら東京の街頭を突進し、外国の影響力の象徴である教会、路面電車、交番を燃やし、政府系新聞社を荒らしまくった。
警察治安部隊がこん棒と剣をもって追いつめ、静けさが戻ったとき、十七名が死亡し五百人が負傷していた。治安部隊はアメリカの鉄道王E・H・ハリマンを脅迫し、日本政府が、先般帝政ロシアから奪い取ったばかりの南満州鉄道を、ハリマンに売却しようとする方針を、妨害する役割を果たした。ハリマンは、皇居から近い、三井倶楽部の安全な部屋から立ち上る煙と炎をながめていた。
彼に危害は及ばなかったがおもしろいはずがない。ヨーロッパの列車乗務員、通訳、そして女性接客係を用意しているこの倶楽部は、ニューヨークやヨーロッパの一流人に、快適なもてなしを提供するのが自慢だった。
ハリマンを招待した三井公爵は、戦争活劇の実演を楽しんでもらおうとした。黒竜会の親分、内田の演出であったのだが、暴動もまた、彼がやらせたのだった。内田と三井は、ハリマンが、世界を周遊する鉄道網を完璧に独占的支配するため、南満州鉄道を買い取ろうとしていたことを、阻止したかった。
暴動は日本政府に対し、ハリマンへの売却決定をしないよう、警告していた。
黒竜会はハリマンの全てを知っていたが、ハリマンは彼らのこと、そしてその満州への野望については知らなかった。
超国家主義者にとって、満州は帝国の土台となる試金石であり、中国侵略の拠点であった。しかし、満州は予期せぬ問題を展開させていた。
朝鮮は二千年間の富で満たされた倉庫の警備は不完全だった。ひとたび抵抗が打ち破られると、全てが奪われて、日本に持ち去られることは当然だった。
これがあまりにも簡単だったので、日本は有頂天になってしまい、アジア全土もたやすい事と思ったのだろう。しかし、満州にいる敵は違っていた。
テキサス州の倍、韓半島の数倍もあり、倉庫に財宝が詰め込まれていたわけではない、たいへんな荒野だった。目立つ財産といえば南部にある遼東半島の工業都市ぐらいである。
日露戦争の結果、ポーツマス条約で大連の商業港、旅順の軍港、そしてロシアが建設した旅順から長春までの満州鉄道などのロシアの権益が日本に割譲された。(この鉄道がゆくゆくは日本が華北全体を侵略する道を開くことになる。)
ロシアの多くの財閥は、南満に投資していたので、数千人のロシア家族が、日本兵、憲兵隊、官僚、やくざらの餌食となり、あっと言う間に没落してしまった。北のシベリアから、西のモンゴルへ広がる残りの中国北東部の広大な田舎では、貧しい農民たちが自分と同じように、厳しい暑さ寒さに耐えるしかないトウモロコシや、他の穀物を育てて暮らしていた。
満州の真の財産はアラスカや英国領コロンビアと同じで、国土と森林、そして鉱物資源だった。したがってロシアも日本も、満州から芸術品、古物、金の延べ棒を手に入れるのではなく、北方中国の商業中心地への軍事行動を支配するための戦略的な位置と、良い港を望んだ。鉄道の連結は、いつの日かこの地域を財産の貯蓄場所に利用することを可能にするだろう。それまでは、国土以外盗むものは何もなかった。そんなところから搾り取るには決意と工夫が必要だろう。
その間に、夢の計画は取り消され、空想家は満州人をごろつきに変えてしまった。日本のならず者は大陸浪人とよばれ、渡り者、スパイ、憲兵隊、銀行陰謀家、熱狂的やくざ、麻薬の売人や、心の病んだ軍将校だった。彼らは空想家達ができなかったことを、皆でやることになった。
満州をアヘンの一大集積地と闇資金の製造拠点に作りかえた。その過程の中、次のねらいが中国を征服することに傾いていった。
満州国経済は日本の南満州鉄道株式会社(満鉄)で成り立っていた。満鉄の株式の半分は、最大の個人株主、裕仁天皇が所有し、次に三井、三菱などの産業と銀行の複合企業が続き、それぞれが自分の諜報網をもっていた。
三井は諜報活動に年間五十万ドルを支払っていた。海外支店は秘密軍事作戦を自分で準備した。愛国心と欲を操ることで、三井は黒竜会と共謀し、関東軍をおだてたり甘やかしたりした。三井が望む中国の権益を、軍隊が強奪できるようにする為だけにだ。
調査の名目で、満鉄は自前の大規模な情報機関を作り始めた。高度な教育を受けた満鉄調査員は、日本軍の軍需品を賄い、前線をはるか南方へのばすには満州内の中国資産乗っ取りを必要としているという内部資料を、軍に準備した。その全てを没収する日にそなえて、慎重に中国の農業、工業、文化そして個人資産の調査を開始した。満鉄調査局はまもなく上海、南京、漢口、広東、香港などに支所をもった。中国を学習する上で最高幹部達の中では、この秀才達への信頼性は確立した。そのうちに、この専門家集団は、ジャワやビルマの南方へ行く、全ての道中での略奪において、軍の助けをするために送られることになる。
満鉄が経済を担っている間に、日本軍は強力な策略をしかけた。一九一一年、中国帝政が崩壊すると混乱の中、満州全体は侵略に対する弱点を見せることになった。日本軍は軍閥から次から次へと鉱物や材木の権利をとりあげ、満鉄をあらゆる方面へ広げる事を認めさせた。三井、三菱は、より協力的な軍閥と手を組むために、莫大な無担保融資を行い、将校団は彼らを顧問として契約した。
張作霖が最も有力な軍閥で、十五人の日本人が常に彼をマークしていた。
彼らは利権の見返りに武器を供給した。秘密の武器調達組織―――皮肉にも台北会社(すばらしい平和の意味)と呼ばれた―――は一九〇七年、三井が創業し利益の五%以外は全て軍が保有した。このことにより、関東軍は財政的に独立でき、また幹部将校達はとても裕福になった。東京からの経済的、政治的な解放により満州は独立権力基地へと転換した。関東軍は、何でも望みどおりにできるようになった。政府が何らかの干渉をしようとすれば、彼らは暗殺も躊躇しないし、将軍達を使い左遷させることもできた。
関東軍と大陸浪人達は、自活可能な危険な独立軍隊になった。誰であれ張作霖を支配するものが、満州を支配するのだ。
最初、彼は日本のためというより、ロシア、中国と張り合っていた。不屈で悪賢く、それでいて大層魅力的であった。貧乏な縫製屋に生まれた張は、盗賊を撃つため馬に乗り、ライフルを手に自分の騎馬隊を組織した。日露戦争中、彼は小さな夢をみて、自分の騎馬隊を日本に貸した。愛国者にもかかわらず彼は抗日に転じ日本の満州拡大に抵抗する袁世凱の国民党(KMT)と同盟した。
一九一六年、日本はお返しに彼の馬車へ爆弾を投げつけた。しかし張作霖は救出され、その地位が保たれているうちだけは日本と協力し、さらに十二年間、満州を統治した。薄いひげ、小さな手をもち、繊細かつ男前の張が毛皮のライナーコートを着てタバコをすう姿はかっこよかった。いつも美しい十代の愛人と一緒だった。このような群雄割拠の時代にあって、処世術がたくみでなければ、軍閥の生きる道を確保するのは大変であった。華北の都市、北京では、提携相手は頻繁に変わる。一九二四年の終わりごろ、キリスト教徒の馮玉祥(ふうぎょくしょう)(火の馬というあだ名だ)に支配された溥儀、満州のラストエンペラーは、紫禁城を追放され、郊外のひっそりとした地域にひそんだ。
数週間後、日本軍を後ろ盾にした張が、新鋭の武力とともに北京入りし、馮を追放し、新しい北京の軍事長として段禖瑞元帥(だんきずい)をたてた。
北京で、段元帥を傀儡として利用した日本は一九二五年、袁世凱が死に、そのKMT党(国民党)が保守派の支持する蒋介石に乗っ取られるまで、自由きままにやることができた。
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708131 No.7311
>>7310
一九二七年四月は、重要な歴史の転換点のひとつだ。蒋大元帥は敵である共産主義者を市中から追い出すために、血塗られた追放劇を計画していたのだが、その彼らと手を組み、市民戦争へと導いていった。右であれ左であれ、愛国心でも全体主義でも、中国での揉め事は日本の征服計画にとっては邪魔になってきた。
中国の学生達は奪われていた政治的、経済的権益の返還を要求してきた。満州では国粋主義者が日本商品をボイコットし、騒然とした示唆行為を行った。張作霖がボイコットの広がりを認めていることが、日本人をとても不快にさせていた。彼を長年支えてきた日本だったが、ついに彼を殺す決定がなされた。暗殺は河本太郎大佐の計画だ。彼は、日本政府が承知の上の陰謀を実行する、凶暴な危険分子の一人だった。彼等は火災や騒乱、分け前の取り合いが大好きだ。十分な支持を取り付けてあるので、彼らのすることは、すべて愛国的としてごまかされた。疑惑をそらすため、大佐は小さな橋を爆破しては過激派の仕業と叫んだ。彼は二人の中国人やくざを殺し、張作霖の会社の横へ告発文書をそえてトラックを放置し、ロシア危険分子と銘記した。張作霖が旅するときはいつも、自分の豪華な客車の前にゆきずりの若い美女をおとりとして連れていた。一九二八年六月二日夜、彼に従っていたのは元マニラやシンガポールに配属されていた日本人顧問、儀我誠也中佐だった。列車は夜行で北方へ向かっていた。二人の男がビールを飲み麻雀をしていた。奉天で中佐はトイレに立った。そして最後尾へ急ぎ、鉄の枠にしっかりとつかまった。大きな爆発が列車を吹き飛ばし脱線した。張作霖は殺され、儀我中佐以外の全員が死傷した。河本大佐は中国の報復を予測し東京にさらなる軍団を送らせ、満州の占領の言い訳にしようとした。ところが驚くことに内閣は軍団を送ることを拒否した。そうなると陰謀は失敗だ。
しかし、軍閥の殺人は無駄ではなかった。というのは、天皇側近の日記によると裕仁天皇は将校自らが満州指導者を暗殺したと聞いても、何の怒りもみせなかったというのだ。彼は個人的にもみけしを容認し、この無断の行動をとがめなかった。
この結果、軍の悪党はこの種の陰謀を続けることをより励むことになった。
天皇のねらいは明らかだ。浪人たちは、日本の領土を広げる限りにおいては、望みのまま悪いことをしても良いということだ。死んだ軍閥の息子、若き司令官、張学良は長い間この事件を忘れてはいなかった。
十年間の潜伏の後、一九三八年、彼によって送られた暗殺者が、儀我中佐を東京軍事学校でみつけ、殺した。
張作霖の暗殺はなんら望ましい結果をもたらしはしなかった。日本の高官は最高に優秀で、風変わりな情報員を送り出した。石原莞爾中佐だ。彼はベルリンに赴任し、ニーチェを読み、中世の仏僧日蓮の教義のとりこになった。これが石原を西欧との大決戦、最終戦で日本がソビエト、アメリカを完全にやっつけ、世界の列強になる事へかりたてることとなった。彼の無謀な未来図は、戦争大学の学生を興奮させ、石原を破天荒な人物であると評した。日本人が被害者で、中国を悪者にみせるような新しい事件を作り出したのは石原の仕業だ。日本人が何をしようと正当で、防衛上のものに見せてしまうのだ。(歴史家ルィーズ・ヤングは言った。「被害者と加害者がひっくり返り・・・・・日本軍のたくらみが自衛戦争の正当な権利に変質してしまった。」)
三年間、石原は時期を待っていた。大元帥、張が彼にきっかけを与えた。大元帥は、遼東半島(遼寧省)の賃借権の拡大を拒否し、日本軍に満鉄の心臓部である鉄道から手を引くよう命じた。日本政府はこれを非難し、中国政府を反日だと非難した。満州現地民が日本移民を攻撃するような空気は、日本憲兵によって厳しく弾圧された。ささいな喧嘩でも、日本の報道では大きく誇張され、大騒ぎにされた。離反していく事件の中で、賄賂のために日本人将校が調査書類や麻薬の荷物を持ち出し、中国兵に逮捕されその場で処刑された。
この瞬間こそが石原が待っていたものだった。彼は誰もいない満鉄の軌道を爆破させ、中国兵の工作であると非難した(柳条湖事件、一九三一年九月十八日奉天郊外)
自衛のためと称し、関東軍は中国の兵営、北大営を急襲し、大砲をはなち、兵舎をぶち壊し、瓦礫の中から這い出してくる中国人兵士を機関銃で撃ちまくった。
混乱の中、関東軍は石原の作戦計画に従って、電撃作戦を遂行し、満州全土、四十四万マイル四方を含む北華四省を支配下におさめた。侵略を取り繕うため、満州はいまや満州国として独立国家となるつもりだと公表した。中国は戦争の準備を整えるには多くの問題をかかえすぎていた。大元帥、張は中国兵に抵抗しないよう命じた。しかし満州の接収には活発に抗議し国際連盟へ提訴した。
裕仁の一番下の弟三笠宮によると、リットン卿を団長とする国際連盟代表団が送られ、彼らの実態調査を断念させるため、コレラ菌の練りこまれた果物がふるまわれたそうだ。(注)テリー・マッカーシー“Tokyo In 1831 Poism Plot 1994.7.7 イン ディペンデント誌
幸いなことに誰も病気にはならなかった。彼等は、満州の事件はでっちあげであり、満州国は日本の傀儡に過ぎず、日本が侵略したのだと結論をくだした。
国際連盟がリットン報告書を一九三三年の春に是認すると、日本代表団は連盟を脱退した。日本は西洋列強との分裂を犯してしまった。
戦争の熱が日本を覆った。雑誌や記録映画はこの軍事行動を十人の日本人が百人の中国人をやっつけたと誇らしげに報じた。すべての中国人は「暴力と非道をみてくれ!」とよびかけていた。中国市民を殺したことは、「満州の町を行くものはすべて平服の兵士(便衣兵)だった。」として正当化された。
もっとあきれるほどの殺人と強姦の弁明のひとつを日本兵が指導者に話している。「誰でも、男だけが便衣兵だと考えている。しかしいろいろいるんだ。女や子供などが・・・。あるとき、二十歳かそこいらの若い女がとても親しげに俺を見ているのに気がついた・・・一方で悪い予感もした。・・・『おい こら!!』と呼んで少女の身体検査をした。彼女は私のことがわからないみたいだったので身振り手振りで意思を示した。彼女は下半身に二重のパンツを身に着けていた。内側には確かにピストルを隠していたんだ。彼女を殺したくはなかったけど、私を撃とうとしたんだ。それで彼女は死んだ・・・俺を誘惑したんだ。」(Yo ung著 Japan’s Total Empiore)
賞賛と大衆の熱狂は、政府と実業家達を軍部の望むとおり満州への野望を実施させるように動かした。満州国は、北京の軍閥から救い出されたラストエンペラー溥儀が、見かけ上の指導者となり、日本軍の独裁国家となった。
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708131 No.7312
>>7311
土肥原賢二大佐により北京を脱出した溥儀は、一時的に天津港の日本居留地の豪華な一角にかくまわれた。土肥原は日本の代表的な諜報員の一人だった。彼は満州のムクデン(瀋陽)の市長ということになっていたが、実際にはこの地域一帯の特務機関の指導者だった。彼はアラビアのロレンスを十分研究していたので、満州のロレンスとよばれた。ロレンスと違い彼はデブで、人を勘違いさせるやさしい顔つきだった。彼はすべてをそこ、満州に賭けていた、骨は現地へ埋めるつもりでいた。彼が最初に皇帝にしようと溥儀に持ちかけたとき、溥儀はためらった。多くの金と供応を受けなかったら、どうして面倒な儀式やしきたりに関わろうとするだろうか?
土肥原は言い張った。分からせる為に溥儀に不発弾の混じった果物かごを送った。
ある時、長春の御殿で、溥儀と王妃エリザベスは、土肥原からヘロインを与えられ、田中隆吉大佐の世話を受けた。ここに、上海で二十年間の隠密任務を果たしてきたブルドックのような中国工作員がいた。田中は「東洋の宝石」――清朝の王女――の報告でエリザベス(婉容)は淫乱だと知った。東洋の宝石、川島芳子は十代後半以降、兄弟ともども日本で養われていた。その集団を教育してきたのは、後に陸軍大臣となる板垣征四郎だ。満州国での憲兵隊の司令官仲間には後に戦時中の首相となる東条英機大佐がいた。一九三二年から三六年の間、この四重奏、土肥原、板垣、田中、東条は、満州のすべての誘拐、殺人などの作戦を遂行した。溥儀の即位は裕仁も祝福し、弟の秩父宮を戴冠式に派遣した。(上海の裏社会の親分Chang Yu-chingからも祝福された)
一九三五年六月、溥儀は東京へ飛んだ。裕仁が記念の祝宴を開いてくれたのだ。溥儀は北華の占領を後押しすることで答えた。彼は紫禁城を追い出される前に皇帝財産を持ち出していた。後日、彼は告白している。「最も貴重だった皇帝財産である絵や書籍、古美術品は弟のPu Chich(溥傑)に与えるふりをして、宮殿からもちだしました。」
これらの中には清朝の国璽や数千の古文書、巻物、絵画などが含まれている。
彼は言う、「弟は学校が終わると毎日とても大きな包みを持って帰ったよ、我々が持ち帰った品は、コレクションの中でも特にすばらしいものだった。騒動が起こったとき、宮中長官や家庭教師は丁度絵や古文書を検品していたので、私達のできることは、正に最高に品位あるものを選んで持ち出すことだったよ。絵画と書物に加えて、随分たくさんの古代文献を持って出た。千の巻物と、二百以上の掛け軸、そしてアルバムや二百近い珍しい清朝の印刷物を運び出さねばならなかったのだ。」
それらは満州国へ移され「調和と美徳」館の裏側にある宮殿の中の、小さな建物の中へ収納された。後日、溥儀は言った。「日本の敗戦が徐々に明らかになってきて・・・私は自分から関東軍へ金、銀宝石をさしだした。・・・宮殿の床からはがした絨毯から数百の衣類まで進呈した。これらの私の行いは、ひろく宣伝されたから日本の役人達にとっても略奪の仕事はやりやすかっただろうね。」
一九四五年秋、傀儡の満州国が崩壊した時、全ての財宝は占領のはるか前に日本へ輸送されて消えていた。
関東軍は満州国を一夜のうちに中央集権的資本主義国家のモデルとするため、壮大な実験を開始し始め、溥儀を王位に即位させた。その費用を正当化するために日本のもつ諸問題を解決するためのものだとして進められていった。
農業の潜在能力、鉱物資源と工業力、そして安い中国の労働者、工業、商業製品の幅広さであっという間に満州は発展していった。若手経済企業家達が、魔法を成し遂げるために満州へおしかけた。その中の一人に有名な岸信介がいた。彼は満鉄をひとつの家系の支配下に置き、経済を別の家系日産財閥の当主に渡した。岸の派閥は『二キ三スケ』とよばれた。
二つの『キ』は関東軍の首脳東条英機と、麻薬を独占している星野直樹(彼は後日天皇裕仁の内閣秘書官長になった)のことだ。『三スケ』は経済人の岸信介、満鉄の社長松岡祐介、そして日産の社主、鮎川義介だ。
彼等は満州のすべてを満州重工業とよばれる大企業群を通じて支配した。日産は頭脳を提供し、東条は武力を供給した。彼等は無鉄砲だった。一九三二年から三八年の間に四十三の満州の都市に水道、下水、水洗トイレ、電気、ガス、電話、道路、鉄道そして軍事設備が広げられた。すべてに日本政府の資金がつぎ込まれた。東京、大阪の銀行家は重大な疑いをもっていたが、軍部を支持しないと殺されると恐れていた。
銀行から借りれないなら盗むだけだ。満州中のすべての銀行から奪っていたのだから、関東軍は豊富な資金をもっていた。一九三一年九月、石原莞爾が満州のでっち上げ事件を起した日以降、関東軍は藩陽へ進出し、フロンティア銀行や三省地方の銀行の財産、行政記録を押収した。兵士が町を封鎖している間に東条の憲兵隊は吉林省地方銀行(Kirin Provincial Bank)のすべての支店、そして黒龍江地方銀行(Heilungkiang Provineicl Bank)を脅した。それらの銀行はすべて中国人が所有しており経営者でもあった。それらの財産で満州国の中央銀行を創設し、あたかも新しい国家紙幣のごとき占領軍票を発行した。誰もが中国の金を軍票と交換するように命じられた。朝鮮銀行(朝鮮にある日本の銀行)は公共品を持ち出すのを進めるため、満州内に二十の支所を設けた。そのニューヨーク支店では満州開拓の融資を借りまくり、最終的に返済されなかった。手っ取り早く金を得るのに強請りは別の手段だった。
ユダヤ人のホテル・劇場所有者サイモン・カスぺの息子が、一九三三年に誘拐された。十万ドルの身代金要求のメモが届いたが彼の父はそれを拒んだ。日本人警察官は少年の救出の努力をしていたが、ユダヤ人達の多くはこの誘拐には憲兵隊が関わっていると疑っていた。十二月三日、サイモンカスぺの身柄が発見された。彼は最終的に射殺される前。殴打され、食物も与えられず、拷問をうけ手足を切断されて地下室に放置されていた。この異様な残忍性こそ東条の憲兵隊か黒竜会または玄洋社の仕業であった証拠である。葬式で会葬者達は「憲兵隊をやっつけろ!」「日本皇軍をやっつけろ!」と叫んでいた。警察は数人の誘拐犯を逮捕した。
彼等は起訴されたが後に解放された。
腹を立て、驚いたユダヤ人集団は中国のほうが平和だろうと満州の国境を越え始めた。(ふぐ計画と呼ばれるユダヤ人追放計画があった。)
被害者達が財産を放出し尽くすのに銀行強盗、通貨偽造、強要は一度か二度しかできなかった。麻薬からあがってくる安定した現金収入が、満州の主要な産業だった。満州国建国の話の中にこの闇の金は含まれていない。実際のところ日本は満州のアヘン、ヘロイン、モルヒネの製造に深く関わっていった。
一九一一年に、地域で生産されたアヘンは少なくとも二千五百キロはあった。その十五年後、満鉄の占有領内で日本地下組織の大農園から収穫されたアヘンは三万六千キロ(年間)に上昇していた。一九三二年、日本が全満州を奪った後は、数万ヘクタールがけしの栽培に向けられ、アヘンからさまざまな品質のモルヒネやヘロインを精製するために数十棟の実験室が建てられた。
関東軍の保護の下、満州の売人の流通範囲はついに長城を越え、北方から中部中国へと下っていった。満州中央銀行は軍による麻薬の専売で生み出される利益によって莫大な蓄えを築き上げた。調剤工場からは、侵略に対する抵抗を和らげるためのヘロイン錠剤が中国に氾濫した。麻薬の専売を指揮していたのは満州の金融業務全体を管理していた前税務官僚で「二キ三スケ」の一人星野直樹だった。
このようにして日本の満州経営は麻薬中毒になっていった。
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708131 No.7313
>>7312
その後、星野が裕仁の内閣秘書官長に出世していき、天皇と日本の巨大な麻薬貿易との直接的なつながりが確立した。
このつながりを知ってしまうと、日本が麻薬で儲けていたことを天皇が知らなかったと信じることは難しいのではないだろうか。
一九三四年、ジュネーブの麻薬取締り委員会は日本が世界最大規模で不法な麻薬取引を単独で行っていると告発した。日本は満州の農家に対してケシの栽培の増収に応じて奨励金を与えた。アヘンからモルヒネやヘロインを精製していたのは日本で最も古い財閥である三井そのものだ。(今でも世界で最も裕福な複合企業のひとつだ)
アヘン専売公社はモルヒネを無制限に配給し、又ヘロイン入りで有名なゴールデンバッドを免税で流通させることで、新規の買い手を創り出し常用させるように積極的にけしかけた。この麻薬取引は即座に関東軍の大きな収入源になり、年間三億ドルもの金額と見積られた。(現在の価値でいうと三十億ドル・・三千六百億円)星野はヘロインを銀行融資の担保として使うことができた。憲兵隊と帝国情報部第八部隊はアヘン窟を経営していた。一九三七年までに世界の不法なアヘンとモルヒネの九〇%は日本製だった。(訳注)(いくらなんでもこれはおかしい。英国、オランダ等の東インド会社が取り扱うアヘンは不法でないと言いたいのだろうか。)
満州の壮大な実験は空想から(麻薬による)幻想に変わってしまった。
満州はまた単に七三一部隊とよばれる日本の生物兵器計画の主な実験場になっていった。本部はハルピン郊外の平房(ピンファン)におかれ、一九二二年京都大学を卒業した石井四郎が統率し、高い地位からの命令で!生物化学兵器を開発し満州の中国人で実験することになった。溥儀は、被験者は、これらの設備を建築するために日本人により中毒にさせられ、秘密を守るために殺害されたと言っている。
後の太平洋戦争中は、他の実験室が北京、広東、シンガポールに作られ、連合軍の捕虜や市民捕虜を実験台にした。裕仁は少なくとも一回はこの詳細の説明を石井大佐から受けていることが記録されている。天皇の兄弟も実験を監察するために平房に行っている。裕仁の一番下の弟、三笠宮は戦後、映像を観ながらもらしている。「とてもたくさんの中国人戦争捕虜が・・・毒ガスの生体実験をするために満州の平房に行列させられていた。」他にもこう言っている。「広大な大地で柱に縛りつけガスを浴びせ銃殺した。その恐ろしい光景は、虐殺としか言いようがない。」
麻薬に関しては一九三六年までの満州での大流行は高価な代償を伴った失敗だったと認知されている。その製品は粗悪だったし、消費者向けは品不足だった。
タール分が不足していたり、他の材料が民間工場の要求にこたえるために回されたりしたからだ。岸による経済支配体制は失敗し、日本本体の経済をすっかりどん底へ落としてしまった。子供が親を食ってしまったのだ。
それにしても将来的には無利息無担保で融資を斡旋する岸にとって大変大きな財産になるはずだった。この融資の見返りとしてのリベートが岸や派閥の人間、関東軍の首脳にもたらされた。国を征服するにも多くの方法がある。満州での出来事は朝鮮とは違っていた。しかし結果は同じだった。
どんな祭りでも終わりがやってくる。一九三二年の全満州の奪取から三六年に軍が失敗を認識するまでたった四年が過ぎただけだ。
関東軍は麻薬の成功に胡坐をかいていた。幾人かの役人は薬や朝鮮、満州の略奪で得た富はみせかけであり、暴力的強盗の結果であることを認識していた。しかし彼等は生活のためなのだ。盗むものがまだあるのにやめられないだろう?
立案者ははいう、もし軍が中国を支配下におき、広大な商業市場を日本の専売体制に置くと満州建国がようやく効果を発揮すると・・。
満州を理想郷にできないのに、中国をできるのだろうか?
そして中国でできなかったら、東南アジア、インド、オーストラリア・・でするのだろうか。
軍隊はもどかしかった。多くの職業軍人が危険を犯し、若い将校が栄光を求め出世しようとしている。そこに疑問など持つはずもない。誰もが南の長城を越えたところに宝の山を夢にみていた。
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708131 No.7314
>>7298
今日はここまで…….赤文字の箇所を読めば大体の内容が掴めるようになるかと思ったのですが、ちょっと画面がうるさくなってしまいましたね。すみません
本当に支配層のトップに都合の悪い話だったら、おそらく出版できないだろうし、暗殺されたりしていると思うので、一番触れてほしくないことから目を逸らさせるための情報や誤誘導の情報もあると思う
でもヒントになる情報も沢山ある
著者の情報を確認
スターリング・シーグレイブ
https://en.wikipedia.org/wiki/Sterling_Seagrave
スターリング・シーグレイブ(Sterling Seagrave、1937年4月15日 - 2017年5月1日)は、アメリカの歴史家。彼は、極東諸国の 20 世紀の政治史の非公式かつ秘密の側面を扱った数多くの本の著者です。
私生活
1937 年 4 月 15 日にオハイオ州コロンバスで生まれたシーグレイブは、中国とミャンマーの国境で、ほぼ 2 世紀にわたって東洋に住むアメリカ人家族の 5 世代として育ちました (彼の父親は、 『ビルマの外科医』の著者ゴードン・シーグレイブ博士でした)。 。[1]彼と家族はテキサス州コーパスクリスティに移り、1953 年から 1955 年まで WB レイ高校に通いました。
シーグレイブの協力者で35年間連れ添った妻はペギー・ソーヤー・シーグレイブで、彼女は夫の約1年前に亡くなった。[2]
シーグレイブさんは2017年5月1日、妻と30年以上暮らしていたフランスで亡くなった。シーグレイブの死は、2017 年 7 月 31 日まで公に発表されませんでした。[2]
出版物
シーグレイブはアジアで調査ジャーナリストとして働き、いくつかの主要な新聞や雑誌に寄稿しました。彼の著書には次のようなものがあります。
イエローレイン:化学戦争の恐怖を巡る旅。ニューヨーク: M. エヴァンス(1981)。 OCLC 8633707。
宋代。ロンドン:シジウィック&ジャクソン(1985)。 ISBN 978-0283992384。
マルコス王朝。ニューヨーク:ハーパー&ロウ(1988年)。 ISBN 978-0060158156。
ドラゴンレディ:中国最後の皇后の生涯と伝説。ニューヨーク:ヴィンテージ ブック(1992)。 ISBN 0679733698。
ロード・オブ・ザ・リム。ニューヨーク:パトナム(1995)。 ISBN 978-0552140522。
大和王朝: 日本の皇室の秘密の歴史。ニューヨーク:ブロードウェイ ブックス(1999)。 ISBN 978-0767904964。
ゴールド・ウォリアーズ: アメリカが秘密裏にヤマシタの金を回収、ペギー・シーグレイブと共演。ニューヨーク:ヴァーソ(2003)。 ISBN 978-1859845424。
朝のレッド・スカイ: 逃げた二人の男と逃げなかった一人の男の秘密の歴史、ペギー・シーグレイブ主演。サウスカロライナ州チャールストン: BookSurge (2008)。ISBN 978-1439240472。
レビュー
フーバー研究所に所属する中国学者ドナルド・G・ギリンは、 『中国の歴史の改ざん:スターリング・シーグレイブの宋王朝の場合』という本を書き、その中でシーグレイブの著書『宋王朝』は蒋介石に偏見を持っていると批判した。[3]
Dragon Lady は、西太后が義和団の乱で義和団を利用したという考えに異議を唱えます。Kang Youwei は、彼女の評判を汚した偽りの話の源であると言われています。この本の中で西渓は同情的に描かれている。
第二次世界大戦後、 CIAが日本軍の戦利品数十億ドル(名目上の「ヤマシタの黄金」)を横領したという疑惑を扱った『ゴールド・ウォリアーズ: アメリカによるヤマシタの黄金の秘密回収』のレビューの中で、[4] BBCヒストリー・マガジンは次のように述べた。 「多くのギャップが残っている……これは広範囲にわたる影響を伴う重要な話であり、さらなる注目に値する。」[5]
>ゴードン・シーグレイブ博士
ゴードン・シーグレイブ
https://en.wikipedia.org/wiki/Gordon_Seagrave
ゴードン・スティフラー・シーグレイブ(Gordon Stifler Seagrave、1897年3月18日 - 1965年3月28日)は、ビルマ生まれのアメリカ人の宣教師、医師、作家。
人生とキャリア
彼はアメリカのバプテスト宣教師アルバート・アーネスト・シーグレイブ牧師とアリス・ヴィントンの息子としてラングーンで生まれました。 [1]そのため、彼は曾祖父母のジャスタス・ヴィントン、カリスタ・ホルマン、ジェームズ・マディソン・ハズウェル、ジェーン・メイソンが1834年と1835年にバプテストの伝道所を設立するためにビルマのモールマンに派遣されたときに始まった伝道の伝統の第4世代を代表していた。彼の大叔母、宣教師、医師のカリスタ・ヴィントン・ルーサーを含む数人の家族によって、後の世代に引き継がれました。シーグローブの姉妹も家族の足跡を継ぎ、レイチェルはペグーで教育宣教師として働き、グレースはモールマインで医療宣教師になった。[1]シーグレイブも彼らの道をたどり、ビルマで宣教師兼医師になった。彼は著書のタイトル「ビルマの外科医」、またはゴードン外科医シーグレイブと呼ばれることもありました。少年時代の彼の第一言語はカレン語でした。
シーグレイブは1920年9月11日にマリオン・グレース・"タイニー"・モースと結婚した。彼らには4人の子供がいました:レスリー・メイ、b. 1921年、メリーランド州ボルチモア。ウェストン M.ジョン・H。スターリングV.、ジャーナリスト兼作家。
シーグレイブは1917 年にデニソン大学を卒業し、 1921 年にジョンズ・ホプキンス大学を卒業しました。彼はビルマの中国国境で 20 年近く医学と外科の診療に従事しました。彼は 1942 年にアメリカ陸軍医療隊に入隊し、ジョセフ・スティルウェル将軍と協力し、中国・ビルマ・インド戦域でのビルマ作戦を通じて中国新第 6 軍に従軍しました。彼は1942 年にスティルウェルのインドへの徒歩撤退を手伝いました。 [2]彼は 1945 年に徒歩で仕事に戻りました。 1945 年から 1946 年にかけて英国軍事政府でビルマのシャン州の主任医務官を務めました。[1]
彼は 1950 年に独立したばかりのビルマ政府によって反逆罪で逮捕され、起訴されました。 [3]彼は逃亡者とみなされるよりも裁判を受けることを選択しました。彼は、カレン族反乱軍による政府委員の逮捕を支援する手紙を書いたことと、カレン族反乱軍に医療援助を行った罪で、1951年1月に6年の重労働刑を言い渡された。その後、刑期は6か月に減刑され、1951年11月に3人構成のビルマ最高裁判所によって評決が覆され、彼は無罪となった。彼は刑務所にいたこともあり、赤熱とマラリアに苦しんだ。[4] [5]
シーグレイブは 6 冊の本を書きました。「廃棄物バスケット手術」、1930 年。廃棄物かご外科医の物語、1939/1942;ビルマ外科医、1943年。写真で語るビルマの冒険、1944年。帰還したビルマ外科医、1946年。そしてヒルズの私の病院、1955年。そして彼はチェスター・ボウルズと共著『ビルマ外科医の生涯』 (1961年)を執筆した。
ゴードン・シーグレイブは1965年3月28日にビルマのナムカムにある病院で死去した。[6]
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708131 No.7316
>>7313
黄金の兵士 第三章中国への侵略
第三章 中国への侵略
日本の暴力的な満州侵略は、静かな大国に怒りと懸念を引き起こした。大多数の人は、今後何年にも渡り、国土を合併するまで中国を切り刻むだろうと信じた。満鉄の調査員は言う。「我々は、我々の意図を、中国の人民に説明する理由がないことを思い起こす必要がある。」
上海では、裕仁の心臓を紙の刃で突き刺してデモ行進が行われた。中国の新聞には、朝鮮人愛国者の銃弾が裕仁を狙ったものの、別の車にそれ、暗殺の企てが失敗したと報じられた。それから十日後の一九三二年(昭・七)一月十八日、僧侶の服装をした五人の若い日本人が、上海大通りの大衆の中を、日本の軍歌を歌いながら練り歩いた。怒った現地の中国人が、その中の一人を襲った。僧侶は特務工作隊長、田中隆吉が送った使い捨ての工作員である。
挑発行為は、日本に介入や日本人を守る護衛活動の言い訳を与えることになる。帝国海軍は商業利権を守るため、上海の黄浦江の拠点へ入港し、日本の海兵が大量に上陸してきた。
数百人のヤクザと、黒龍会の者たちはモーゼル銃、ライフル、銃剣、こん棒を手に、けんか腰で集まっていた。
戦闘は市郊外に駐屯していた中国第十九路軍と始められた。裕仁の是認をうけ、九万の追加支援部隊が投入されることになり、市街のいたるところが砲兵隊と海軍の大砲で破壊された。日本の戦闘機は、密集地帯に機銃掃射と空爆をして、約一万八千人が殺され、二十四万人の中国人が家を失った。驚いた西欧人は、共同租界地区やフランス租界地の安全地帯の屋上からじっとみていた。
日本が朝鮮、満州に進出する際に、西欧人として目撃していたのはほんの一握りの人々であり、そのほとんどは外交官だった。上海では、数千人の外国人が、日本の過剰な殺傷の目撃者となった。報道陣の集中砲火のひとつ、
アーネスト・ハウザーは次のように報じた。「犬とねずみが平和を楽しんでいたが、腹ペコで倒れているのか死骸なのかも区別がつかないような場所もあるんだ。」
ロンドンにいた日本大使吉田茂は、上海での非難について、「重大な誤解がある。」と述べている。
モルガン家のトーマス・ラモントは、日本政府の行動をみて、「投資家や融資団連中からは、もうあまり信用供与をひきだせなくなるな。」と嘆いた。
戦闘から三十四日がすぎた三月二日、第十九路軍は全軍退却を始めた。
次の日、日本は一方的に公式な停戦協定を発表した。
その五年後の一九三七年(昭・十二)の夏、日本軍は仕事を完結しに戻ってくることになる。
当時の中国のイメージとは、崩壊の淵での病める国であり、汚職と悪習のはびこる国であった。中国は堕落したため、その富は、とうの昔に流出してしまっていると、西洋人は考えていた。しかし、真実は全く違っていた。
軍閥から別の軍閥へと持ち主を変えていった、消える事がなかった富は、深く隠匿されたが、残された富に比べればささいなものだ。確かに何回にもわたる北京の略奪によって、清朝の財宝はほとんど流出してしまった。
しかし、貴族、商売人、やくざ、ギャングの持ち物である金塊、絵画、世襲財産は、手付かづのままだ。なぜならば中国人は、自分たちの流動資産を決して銀行には預けないからだ。
家族や派閥でないものは誰も信用しない理由があるのだ。
彼等は、ビスケットとよばれる金の棒や宝石を、大量にかつ巧妙にかくしていた。
千年に渡り、中国人は古物研究と絵画評論家や収集家の共同体となってきた。彼らの望むものは、古代の銅像、陶器、巻物、絵画や装飾品だった。これらの収集品は目録化され、その目録自体が、古物のコレクターと仲介人に大切な記録として配られた。この目録(カタログ)の写しを日本人の収集家が手に入れた。
これで中国国内に何が所有されているか、という大きな秘密はなくなった。二十世紀初めの時点で、中国皇帝だけでも価格のつけようもない翡翠が十万点以上、数百年もかかって、職人が彫った数インチから数フィートに及ぶいろいろな彫刻、百二十万の本や原稿、そして数百万点の陶器を収集していた。
日本人にとって、裕福な中国人が秘密にしている金や銀、プラチナ、翡翠、宝石などの個人的蓄えとどのようにして探し出すかだけが課題だった。Lords of the Rimで、我々は古代中国商人が、三兆円の資産で世界を支配するのではないかと言われるような存在になった、大富豪、華僑の発展をたどってきた。
中国において、皇帝は、常に年貢の代わりにごまかし交易を独占していたので、大部分の商業は死に値する非合法なものだった。
商人達は抑圧の対象となり、投獄されるか、家族ともども夢の国から国外へ追放された。その結果、商売というものが非合法的な地下活動となり、伝統的に行政官を買収し隠れて行うものとなった。
必然的に、中国人の巨大な富は、見えない所に集められ、注意深く隠されていった。十九世紀の末、満州政権が崩壊に向かったときにだけ、商売が合法的なものとなった。西洋の影響にいやいや従ったというよりは、税収が欲しかったというのが真実であろう。
租界の外国銀行に中国人は入れなかった。しかし、地元銀行の支店網は特定の商人閥のために存在しており、質屋は農民へ融資を提供していた。
歴史的にいって、日本には相容れない二つの立場が存在した。支配者も武士達も、商人を人間のくずのようにみていたのだ。だから、日本人は、中国の財宝が押収されるばかりに置いてあるとは思ってもいなかった。財閥は、中国の潤沢な天然資源、工業基盤、巨大な商業市場を支配したいために、軍の侵攻を後押ししたのだが、それらの企業の首脳達は、自分自身の収集品を増やしていた。
西洋での略奪というと、銀行、博物館、宮殿、大聖堂、邸宅が考えられ、闇金の源というのを見落としてしまう。中国では、全ての金が闇金なのだ。こういうものは強請りと強奪を使わずには盗めやしない。日本のごろつき武者達は、朝鮮と満州で強請りと強奪の効果的な訓練をしてきている。彼等は、明白な目的である銀行、博物館、大邸宅は、憲兵隊のために手をつけず、自分達の興味は個人的財産の発見にむけた。麻薬、酒、売春、賭博、密輸、強請りなどで築き上げられた強大な資産にである。日本軍が、同国人をいけにえにすることに何の躊躇も感じない、無情な中国暴力団と、一時的に友好関係を結ぶことはたやすいことだった。これが、一九三〇年代から四〇年代にかけて、かつてなかった財宝の大流失となる暴力団と、ごろつきの邪悪な同盟だ。日本と中国の地下組織同士のでたらめな共演は、数世紀も続いていた。たとえば、福建省沿岸に拠点を置く中国交易組織は、くず鉄運搬のために、アフリカやアラブまで外洋航海をしていた。
どの組織も自前の軍を所有しており、沿岸の要塞や、沖にある島の要塞に金塊を隠していた。彼らの通常の敵は、中国帝国政府だったから、海賊組織としては当然のように、日本と同盟していたわけである。
福建省の商人達は、九州南方にある五島列島を隠れ家として頻繁に使い、藩の領主も彼らをかくまっていた。藩の武士達は、一緒になって、富裕な金持ちが多い揚子江南部の銀行強盗などをしていた。だから、二十世紀になって日本、中国の暴力団が、互いに利益をもたらす組み合わせで、再出発するのは自然な流れだった。この地下組織同盟の背後に、一人の天才を捜すのなら土肥原大将だ。
満州麻薬取引の親玉で、その個人的組織網には、日本最大の暴力団をも含んでいた。彼は上海を拠点とする中国青幇の指導者と、ファーストネームで呼び合う仲だった。上海は、三国の政府によって管理されていた。最大は、蒋介石将軍が指揮する国民党が運営する中国当局だ。あとの二つは、十九世紀に満州の君主から居留地を分割してもらった外国人集団達である。少ないほうが、フランス租界で約五十万の人口だった。二千四百人のフランス人市民と、三百人の警官しかいなかったと言っているのは嘘である。もう一方は、白系ロシヤ人や中国の圧政よりフランス支配の方がましだと思う中国人を含む雑多な民族のヨーロッパ人、一万四千人だった。フランス租界地は最大の権力をもつ青幇(ちんぱん)の大親分、杜月笙(とげつしょう)の本拠地だった。彼は、薬の密売や売春、賭博からあがる収益から寄付をすることの見返りとして、フランスから保護され、快適に暮らしていた。フランス租界地の他は、国際解放地区で、英国とアメリカが管理していた。外国人居留者は、少なくとも四万人はいた。中国全体における英国の影響力は格別で、英国政府や英国人は、十億ドルの投資のほとんどを上海にしていた。しかしながら、一九二〇年代になって、上海で単一としての最大人種は日本人であり、会社員、銀行員、ホテル経営者、暴力団、情報員はほとんどそうだった。ホテルは、西洋人と中国人向けで、日本人は虹口居留地のリトルトーキョーと呼ばれる地域に居住していた。その多くは中国侵略のための先遣情報員である。実業家のふりをさせて、大慌てで準備をしてきた。
東南アジアすべてで軍事計画は飛行場、港湾設備、沿岸監視を含んで進行中だった。上海河岸の中心部右手に日本企業は三つの大きな波止場を設け、江湾通り上に、日本軍司令部から軍事工場までの頑丈に作られたトンネルを掘った。
上海では、杜親分を知らないでは何もできない。彼はすべてに関わっていた。
杜に賄賂を渡すことを拒んだ会社員は誘拐され、撃ち殺されるか、家に爆弾を投げつけられた。一度、杜は蒋介石に、実際は追い込まれているのだと気づかせるため、宋美齢を誘拐したことがある。(蒋介石の妻になっている宋一族の三女、本当の親分は杜であることを思い知らせるためであった。)
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708131 No.7317
>>7316
一九三二年(昭・七)までに、四十四歳の杜は十分に大きな財産をもっていた。彼は黄浦江の向こう東浦区と呼ばれるスラム街で生まれた。父は穀物商の苦力(クーリー・奴隷労働者))でその屈辱をバネに自力で這い上がった。杜は「あばたの黄」で知られるフランス租界の主任捜査官が支配する麻薬ルートで運び屋になった。当時三つの暴力団があった。――赤、緑、青(紅、藍、青)だ――それらが薬の支配で争っていた。杜は、あばたの黄にどうすれば一緒に協定できるかを相談した。最終的にあらゆる障害をのりこえて、揚子江をはるかにさかのぼり中国の中庭にまで薬を送り込んだ緑派が引き離し赤と青は衰えていった。
一九三〇年(昭・五)までで、上海の賭博は一週間で百万ドル以上をうみだすという、地球上のどこにもないような大きな規模であった。杜のFushenカジノは三階建てでフォック通りにあり、顧客はお抱え運転手がリムジンで送り迎えをした。杜の犬競技場には犬レースがあった。十万人以上の売春婦が働いており、ファーレンやデルモンテのようなキャバレーやダンスホールでは、白系ロシアの女達が踊りそれ以上の客が金を使っていた。あるときすべてがわかった。杜は蒋介石の主要な後援者の一人なのだ。彼は大元帥に麻薬の利益を直に支払い、その見返りとして国民党政府からの認可を受けていた。しかし杜のライバル達だけは取引が禁止されていた。蒋の麻薬禁止運動が偽だとわかるだろう。麻薬取締局は押収したアヘンをヘロインやモルヒネに交換するために青幇に転売した。大元帥は自分の取り分を、杜の所有で、影では麻薬農園銀行と呼ばれていた中国農民銀行で受け取っている。蒋は自分の取り分を、軍隊の装備増強に使い、そのことが日本を悩ませた。日本の最初の上海侵入である一九三二年(昭・七)、杜親分は侵入者に対し青幇を送り込み戦いぬいた。蒋はこの愛国心の発揮を褒め称えた。しかし、単なる縄張り争いにすぎなかったのだ。
杜は、日本人が自分の支配下の賭博、売春、アヘンを圧迫してくるとは思っていなかったようだ。土肥原将軍はかつて赤、青、緑がやったように青幇、国民党政府、日本軍で利権をこっそり分け合う譲歩を作り上げた。分け前は、顧(KU)兄弟が履行した。一人は国民党の将軍で、もう片方は,上海江湾地域における青幇のボスだった。日本の投資家が製綿、製鉄、鉄道、製紙工場、発電、銀行などを始めた一九三二年に憲兵隊は最初の売春宿を開くことが可能になった。
かつては英国艦隊が統治していた所であるが,日本の蒸気船は揚子江と内陸深くまでを結び,いつでも軍隊を投入できるようにしていた。
暴力を繰り返し、日本は麻薬を大量に持ち込み、国民党のアヘン独占を覆し始めた。中国人の士気をくじくには、ヘロイン錠剤やヘロイン入りタバコなどの安い薬をあふれさせるのが最良の方法だろう。この事は国民党や青幇を驚かせ、うろたえさせることになった。日本はイランから船で輸入されるヘロインで補いながら、満州のアヘン栽培を空前の規模に成長させた。ペースト状のアヘンは満州や韓国、台湾などでモルヒネやヘロインに加工され、くず鉄にまぜ中国本土にある三井、三菱や他の複合企業の倉庫へ直接送り込まれた。
一九三八~三九年(昭・十三~四)に中国本土の漢口と同じく、日本の認可のある満州、朝鮮、日本の数百の工場のなかで、二千六百キロのヘロインを生産したのはソウルの軍工場ひとつだけであった。その最盛期には、千以上の日本企業が製造しアヘン、コカイン、覚醒剤を販売していた。日本製は青幇の価格よりはるかに安かったので、ある時点から大元帥も薬を日本人から買い付け国民党の独占地域で値上げして売りさばいていた。一九三六年(昭・十一)の末までに満州での実験がうまくいかないことが分かり、日本政府は中国全土の征服をすることになる。最初の段階は北京郊外での出来事からだ、北京北部を越境し、それを口実にした時だ。一九三七年(昭・十二)七月八日マルコポーロ橋(盧溝橋)近くのフェンタイキ付近にいた関東軍司令官は部下にでっちあげであるが、侮辱に対する報復として、中国人宿舎を破壊するように命じた。裕仁はシベリア前線のソビエト軍の圧力が増しつつある状況下では、多くの旅団を中国へ投入するということにあまり同意したくなかった。しかし、顧問達は、「なに言ってるですか。中国との戦闘なんか二-三ヶ月もあれば楽勝っすよ。」と安心させた。
中国のほうでもまた見込み違いがあった。大元帥、蒋の義弟で財務大臣の宋子文は笑って言った。「なあに、三ヶ月以内に金融恐慌の淵に追い込まれ、革命に見舞われるにきまってるさ。」
双方の予言はまったくはずれた。盧溝橋事変は、百万近くの日本軍団が八年間に渡ってはまり込む日中戦争にエスカレーロし、金融が破綻し、革命が起きたのは中国であった。
日本が北華を支配下におくと、フランクリンルーズベルト大統領は、日本の侵略熱を冷ますために貿易制裁で脅迫してきた。権力の座にしがみつくしかない蒋介石は、国民党を守るため、北華全域と揚子江南岸までを放棄した。これで、上海や南方の都市が攻撃にさらされることが対決の焦点となってきた。
一九三七年(昭・十二)八月七日、蒋元帥は自分の資産を守るには、米英を戦いの中へ巻き込むしかないと、日本軍に先制攻撃をすることを決めた。虹口(ホンキュー)に駐屯する五千名の日本人を国民党が三方向から襲った。両側から即座に軍が投入された。しかし、日本が、すばらしい戦術と装備をもって反撃を開始するに及び、優柔不断で行動力のない蒋介石は、数の上での有利さを浪費するだけだった。驚くほどのへまだったのだ。八月十四日、中国航空隊は黄浦江に浮かぶ日本軍旗艦「出雲」を沈めようとして、誤って混雑している市内大通りに爆弾を落としてしまい、大惨事となった。一ヶ月に及ぶ戦闘の末、二十五万人の中国人が殺されたのだが、多くは女、子供だった。混乱の中(日本をがっかりさせたのだが、)全ての中国銀行家、経営者、資本家達は財産をトラックに積み込み、西洋の軍艦が保護してくれるフランス租界地もしくは国際解放区へ急いで逃げた。十一月初旬まで、中国軍は勇敢に戦っていたのだが、蒋は突然不可解なことに自軍と本部を百八十マイル西の揚子江沿いの南京へ移動した。
大元帥を追いつつ西進した日本軍は、今後のいましめに、古都蘇州の美しい町を破壊した。日本軍が南京を包囲すると、蒋介石は再び戦わずして市民を見棄てた。最初に武漢まで河をさかのぼり四川省地方の山中五百マイル上流の重慶へ進んだ。そこならば、すべてから、最も勝利を得ることが決定的な相手からも安全であろう。そこで彼は戦時政府をたちあげ、世界に対して今でも自分が中国を統治していると語った。蒋は工芸的な財宝でいっぱいの数百の木箱を運んでいる。
蒋は最悪の事態に備えて、秘密警察長官の李に北京の国立博物館や、他の博物館から集められるだけたくさんの芸術品を箱詰めにさせた。
最終的にこれら箱詰めされた品々は、西方の山深く四川へ送られた。しかし、箱詰めにしても船積みにしても限度がある。日本が南京を攻略する直前、裕仁は結核を患っている松井石根を引き継ぐために、叔父である朝香鳩彦を派遣した。
どんな貴族社会でも、偏った教育のため、常に極端な国家主義者や、人権差別主義者がいるもので、日本も例外ではなかった。朝香のように自分達を神様だと思っている奴らにとって、中国人、朝鮮人、アジア人は単に軽蔑の対象でしかなかった。ついでに言うと、彼はアル中で、ひどく暴力的な発作に襲われていた。
南京郊外で司令を発し、彼は側近達に「今こそ中国人に忘れることができないくらいの教訓を与える時が来た。」と語った。
そして起こった南京虐殺では、約三十万人の無抵抗の市民が殺され、子供、若者、中年などあらゆる年代の女が強姦され、多くがむごたらしい殺され方をした。男子、女子、子供達が世界を恐怖のどん底に落とすような野蛮な実験の材料にされた。数千人の男達は、縄でしばられ銃殺されるか、ガソリンでずぶぬれにされ燃やされた。他にも、将校達が競技会でたくさん打ち首にできるところをみせるために、銃剣の練習台、もしくは打ち首の練習台に使われた。
残虐行為が続き、通りや路地が死体で埋まるのに数週間がすぎた。知らないところで処理された昔の残虐行為と違い、数百人の外交官、医者、宣教師らの目撃者がいた。そして証拠写真がこっそりと流出した。それは正に、ゴールデンリリィーが実施される苦々しい瞬間だった。
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>>7317
一九三七年(昭・十二)日本軍が揚子江を横切って南京をめざし西進するとき、あまりにも多くの部隊が広がった沿岸に殺到し、日本の支配者エリートは侵略地での財務的な支配力を失う危険があった。というのも、敵対する司令官がその支配力を奪おうと競ってきたからだ。兵士による小規模な窃盗ですら注意しないのに、どうすれば陸軍、海軍の将校を貴重な芸術品に目もくれないようにできるものか。同時に、やくざの一群は恐怖の支配を演出しながら、新しく占領した地域を動き回っていた。すべての財産を守るためには、高度なレベルでの厳しい支配下に置かれる必要があり、帝国総司令部は裕仁が作った歌にちなみ、「金のユリ」(GoldenLily)を創設することにした。それは、皇族の監視のもとで、陸海軍の会計士、簿記係、船積専門家達で成り立っていたが、日本で最高の財政意思決定と、文化宗教に関わる財宝の専門家を擁する宮中組織となっていった。
中国がゴールデン・リリィーに搾り取られるとは、軍隊が牛を押さえている間に皇子達がミルクを盗むということだ。この組織は、裕仁の弟、秩父宮の直接指揮のもとにおかれた。丁度、南京の略奪が始まった一九三七年(昭・十二)十一月、即ち、皇居のなかに大本営が設置された時が、ゴールデン・リリィー立ち上げの日だとわかる。大本営設置の目的は、関東軍が命令を無視し、勝手な行動を繰り返させないためであり、すべての支配を、天皇とその顧問達の手の中に保持することであった。皇軍はすでに多くの特殊任務部隊を保有しており、文化的及び財政的スパイ活動や、土肥原のような情報員とは違う任務をおび、普通の命令系統には属しない情報機関があった。そこでは、崇高な物からくだらないものまで、あらゆる財宝をみつけるに必要な財源が再投資された。南京ではじめてのゴールデン・リリーの実行部隊は憲兵隊だった。憲兵特別部隊は市内を略奪して回り、政府の財産を奪い銀行の金庫、金持ちの家をぶち壊し、金、宝石、原石、絵画などの流動資産で目についた物すべてを持ち帰った。
富裕階級の多くや有名な中国人は、街や郊外に家、屋敷を所有していた。南京が侵略者によって略奪された時だけに限らず、すべてが用心深く正確で機能的に行われた。この一回目の略奪だけでも憲兵隊によって、少なくとも六千トンの金が集められたと報告されている。略奪に関しての歴史家の研究によると、公式な報告は実際に盗難されたもののほんの一片を伝えたにすぎないことを表わしている。(訳注)六千トンは現在価値で一兆五千億円になる。いくらなんでも桁が違うのではないだろうか。
略奪品の多くは貯蔵用に中国人が好んで使ったビスケット型のバーで、まわりに小さなプラチナの鋳型やダイヤ、ルビー、サファイアなどで、芸術的かつローマ時代風な細かい細工がなされていた。それらは個人の住宅や郊外の墓を破壊することで手に入れたのだ。日本人は金冠をとるために情け容赦なく死体から歯をへし折っていった。
憲兵隊が家具や鏡台、そして敷物までも箱に入れ、日本へ船積みしようとしていたころ、秘密情報院のエリートであるゴールデン・リリィーの工作員は、銀行所有者や組合長、質屋組織、派閥組織の親玉の中国人に焦点を向けていた。
特に、三つの組織や暴力団員の頭目には特別な注意がはらわれた。幾人かは町から逃れたが、親族はみつけられ監禁され、人質として使われた。
この整然としたやり方は、モンゴル族大軍の野蛮な略奪とか北京の夏宮殿でフランス、英国人旅団が酔っ払って暴れた事をはるかに越えるものだった。
ゴールデン・リリィーは欲から始まったものだが、又必要にせまられたものでもあった。一九三七年(昭・十二)日本は兵器の支払いで、金の準備高が半分まで減っていた。直系の皇子達が、自ら略奪した資産を記録し、特殊部隊に護衛された貨車やトラックで上海に向かって搬送された。軍司令官達は、皇子達が傷つくのを前に考え直していた。秩父宮はゴールデン・リリィーの監視役として熟考の上選ばれた。皇太子として狭い視野で厳しく教育されてきた裕仁と違い、秩父宮はオックスフォードで一年近く過ごしているし、アルプスの山登り休暇、そしてヒットラーと夕食を共にするというような外交任務もする都会的な教育が許されていた。裕仁の兄弟の中で明らかに彼にだけは冗談が通じるし、彼には又遊び心もあった。たとえば東京の宮殿ホール内で若い妻とローラースケートで遊んだりすることもあった。
日本の情報筋から秩父がゴールデン・リリィーの頭目だったと聞かされたとき、まったく信じられなかった。なぜならば、彼と極端な残虐性は相容れないものだったからだ。しかし、国家の存亡は国家財政にあり、皇室はそれに依存している。彼の教養の幅と、海外での体験があれば、秩父の選択は最良だっただろう。
彼の比較的広い心は、顧問達が描いた略奪の構想をあっさりと引き受けることになった。監視は秩父によって綿密になされた。皇子達だけが最終リストを持ち歩き、持ち帰る財宝の密閉も彼らが封印した。上州から船で直接本国へ送られるか、満州へ列車かトラックで運ばれ、朝鮮経由で日本へ送る前に、貴金属は分類されアクセサリーや加工品は溶かして正規な形に射直しがなされた。他にも多くの皇子達が魅力に乏しく危険な戦いの任務に参加するよりも日本を富ませながら戦争を遂行するこのゴールデン・リリィー作戦に集まってきた。
朝香宮はもちろんだが、我々は秩父と竹田も南京にいたことを知っている。
両者とも後日、あの恐ろしい光景を夢の中でうなされたと友人に打ち明けているからだ。何人かの情報筋は、裕仁の一番下の弟、三笠宮も南京にいたと主張している。後日、彼はフィリピンでゴールデン・リリィーの基地にいたことをはっきりと認めているが、南京にいたか確認はとれていない。
日本の驚くべき例として、いかに詳細にこだわったかと言うと、貴重な本や文章の専門知識をもつ古物専門特別調査団が選ばれていたことがある。その中には、日蓮宗の荒法師もいた。彼ら仏僧の仕事は、中国の図書館、博物館、個人の収集品、寺院の書棚の中から抜き出して日本に送ることだった。略奪が始まる前から彼等は中国を訪ね、個人収集家に力をかし、価値がある物品をリストアップしていた。一九三八年(昭・十三)の春、南京入城の後、千人規模の専門家が貴重な文献や文章の収集品を抜き取るために南京にやってきた。町のほとんどが荒廃しているため、建物の中にあるこれらのコレクションは危険な状況にあった。
皇室図書館がこの略奪品を最初に抜き取り、天皇個人の鑑賞用にとり置いたようだ。母国に持ち込む時に紛失しないよう確認のための一覧表が複数枚コピーされた。四百名の戦士に監視されながら、約二千三百名の中国人が荷造りの肉体労働に借り出された。船積みのために上海へ移動するには三百台以上のトラックが必要だった。それら盗んだ書物により、東京で東アジア研究会、東洋文化学会、東アジア経済学会、東アジア風土病学会、大東アジア図書館などが設立された。戦後、中国の学者達はこれら貴重品の返還を要求しはじめている。盗んだ本を保存していると特定された十七箇所の調査を実施した結果、アメリカによる盗みも発覚した。その中には皇居、宮内省、靖国神社、東京科学博物館、東京芸大、早稲田大学、東京大学、慶応大学などがある。米国占領当局は、日本が中国の蔵書からほぼ三百万冊の貴重な本や文献を持ち帰ったと結論づけている。
今日でも学者達が日本の蔵書はアジアで一番すばらしいというのは、盗んだものをほとんど返してこなかったからだ。
中国が取り戻したのは、たったの十六万巻であり六%にも満たない。ゴールデン・リリィーで中国の略奪に夢中になったのは、日本の巨大な複合企業の代表者である住友吉右ェ門のような大物達だった。彼は銅像の収集が専門だった。彼が戦利品の収集を始めたのは、一九〇〇年の北京包囲戦からで、満州や華北の占領中も続けていった。しかし、AveryBrundageで世界最高ランクとなった莫大な収集品を溜め込んだのは、一九三七~四五年の中華事変中のたった八年の間だったのだ。どうやって獲得したかはおもしろい読み物になるだろうよ。
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708131 No.7319
>>7318
南京征服の六ヶ月前、土肥原は中国暗黒街を十分に略奪し得る男、日本のヤクザのドン、児玉誉士夫を呼びつけた。本拠を東京から上海に移し、土肥原とツー親分と青幇らとの連絡役になった。終戦の前児玉はインドシナ、シャム、ビルマ、フィリピン、インドネシアのギャング達に対するゴールデンリリィーの最良の仲介役となって口止めをしたりもし必要ならば殺すこともあった。児玉は小柄だががっちりとし、又ずんぐりとした体で厚い唇とひどい火傷のあとがあり、プロの戦士のような経験豊かな顔をもっている。彼の指は空手でつぶれていて、こぶしでのどを砕くことができる。二本松(福島県)で失敗したサラリーマンの息子で、九歳のとき朝鮮の祖母の元へ送られ、そこで鉄鋼所に勤めた。
十二歳で日本に舞い戻り、やくざに養われ、組合つぶしが彼の仕事となった。
一九三一年までに、内閣閣僚の暗殺未遂事件に連座した黒龍会の親分、頭山のお気に入りになっていた。その事件で刑務所に入るにあたり、児玉は右翼にとって手引書となる体験記を書いている。釈放後、頭山は満州の土肥原のもとで、陰の仕事をさせるために彼を派遣した。数ヵ月後、児玉は東京で天皇の顧問に爆弾を投げつけようと企てて拘束され、一九三七年まで入獄していた。
一九三七年(昭・十二)の春、土肥原は彼の暴力的な力を中国の地下社会の略奪に利用するため、刑務所から解放した。
児玉の暗殺団から愛国者への転換は黒龍会、頭山の指示であったが、その頭山自身、天皇裕仁の婚礼に招待された一九二四年から、愛国者へと変質していた。
外務省で打ち合わせをした半年後の一九三七年、児玉は、軽率な行動を正すために上海へ着いた。
彼は、戦後になって思い出を語り、「日本が占領した町では、馬鹿どもが、秘密資金を使って、女だとか、酒だとかで遊びまくっていたさ・・・。」
そして貴重な物への不注意な破壊行為に対しては、「占領地域では、・・・どの寺や神殿でも・・・・仏像の頭が壊されたり、首が落とされているのを見たぜ。・・・。」
ほとんどが教養のない田舎者の兵士達だが、仏像本体を盗むほどバカだったら射殺されるべきだ。
児玉の副官たちがこの命令書を発効させる間に、彼は酒、アヘン、日常品を独占的に支配していった。すべての収入は、中国人マフィアからゴールデン・リリィー部隊へ切り替えられた。児玉自身の取り分は除いてだが・・。もちろん、児玉は秩父宮に、また君主に対して忠義を誓っていた。皇子達はマフィア達と話し合う気はなかった。児玉は彼ら(皇子達)の手を汚すことを防いでいた。彼はヘロインを中国マフィアに渡し、金塊と交換する簡単な方法で麻薬を金の延べ棒へかえた。ブローカーがどうやって金塊を得たのかは彼のしるところではない。彼は揚子江中で金とヘロインを交換する海岸のボス 顧祝同(Ku―Tsu―Chuan)と仲良く利益を分けていた。
顧の兄弟で国民党の上級将校、顧竹軒(Ku―Chu―Tung)のおかげで、日本はビルマ経由、あるいはインドから空輸されて中国西部に届くアメリカの武器貸与法で届く戦略兵器に接近できるようになった。
武器商人の代理人としての児玉は、昆明(Kunming)とか重慶の倉庫で日本軍へアメリカ兵器を転売したこともあった。児玉の最も重要だった物々交換のひとつは仲介人である葉慶和(中国語では 叶と書くようだ。ye Ching―ho)とのアヘン取引だ。
一九三七年の終わりごろに葉(Ye)は見せかけの愛国心を棄て、児玉に忠誠を誓う見返りとして「中村太郎」という名前で日本の市民権を得た。彼は、台湾での薬物の支配権を所有し、軍事支配の特権をふるい、日本の愛人を絶やすことはなかった。葉は台湾から中国大陸へ直接船で麻薬を運びこんでいた。葉が別の件で忙しいうちに、児玉とヤクザの暗殺団は揚子江流域の村や町に立ち寄ってはうろうろしていた。地方の名士達を呼びつけて町の長や頭目の頭に銃弾をうちこんだ。これで裕仁にすべての価値あるものをもたらす作戦が保証された。児玉は注意深く絵画、金の延べ棒、宝石類をゴールデン・リリィーに振り向けた。
しかし彼はプラチナに魅了され、それだけは別に隠した。ある時、彼は日本に向かう軍航空機にあまりにもたくさんのプラチナを積み込もうとして、昇降ギアーが壊れてしまったという話があるくらいだ。それ以降、彼は人目につかずに持ち帰れる大きくて最上のルビーやサファイア、ダイヤのみを自分のものとして貯蔵した。公式に言うならば、児玉は児玉機関、あるいは児玉商会の名前で雇われた日本海軍航空隊のための、上海における物資調達員である。(特殊情報部隊は後に将校達の必要から名づけられ、そして代理店と呼ばれた)
記録によると彼の任務は銅、コバルト、ニッケル、雲母などの供給元を突き止め獲得することだった。彼はヘロインで支払うことで国民党秘密警察長官 載笠(Tai Li)から直接手に入れていた。アメリカ情報部によると児玉商会は塩の専売、モリブデン鉱山、農園、漁業、建設業を支配したという。児玉の贅沢な東京の邸宅を作るために薬で支払いがなされたのだ。彼は気前よく贈り物を右翼の人々や、裕仁の叔父東久邇に贈った。彼の個人的人脈は副提督大西、石原将軍、辻大佐、裕仁の従兄弟、竹田宮などで、ゴールデン・リリィーの財宝活動の鍵となる人物達だ。真珠湾と南方攻撃の直前、児玉は竹田宮と同行し、日本の南方軍事本部のサイゴンで陸軍提督寺内と打ち合わせを行っている。寺内は、朝鮮の略奪と併合を実行した寺内将軍の息子である。南方侵攻に海軍が関わり、かつ財宝を積む船がどうしても通過しなければならないマレー諸島を統治したからこそ、児玉は一夜で陸軍から海軍へ転進し、おまけに海軍提督なみの地位を与えられたのだ。まるでアルカポネをアメリカ海軍の提督にしたようなものだ。
児玉の階級は、船舶から徴用することを可能にし、又群島を徘徊する中国密輸団に対する影響力を与えることになった。ジョナサン・マーシャルは「日本は沿岸の海軍力が不足していたので、中国の密輸団から情報を得る見返りとして、彼らの独占を許していた・・・日本は彼らに、沿岸ならオンスあたり六千ドルで売れる麻薬を千六百ドルで奴等に売ったのさ。」と説明している。
真珠湾攻撃のちょうどそのとき、児玉は上海へ引き返した。その攻撃は、長年日本の横暴にさらされていた数百万のアジア人には少しも違和感がなかったのだが、アジアにいた西欧人にとって状況が変わってしまう出来事だった。日本は早速彼らの企業資産を押収し、西欧の銀行をかっさらった。
地方ではどうしても地方軍閥に頼るしかなくなるだろう。マイラとフレッド・スコバルは比較的ラッキーだった。彼等は山東省のTsiningで診療しながら宣教活動をしていた。真珠湾攻撃の当日、日本の兵士は彼らを逮捕し、そして将校は言った。「貴様らは家を離れてはならん。今まで所有していたすべてのものは、今からはすべて帝国の資産である。・・・・家の全ての資産リストを三部作成しないさい。所有する金は勘定されて家の中は将校立会いのもと捜索されることになる。」スコバルは本国送還前に収容所に抑留させられた。移動するたびにアメリカ紙幣を探すために、粗末な所有物が調べられた。「服の縫い目は怪しいぞ、肩パットは引き裂いて開けろ。靴底はもぎとれ、長い髪は残らず刈り取ってしまえ。」
戦後、中国へもどった彼らが見たのは、病院の窓枠、ドア、配管までもが引き剥がされた姿だった。裏玄関の下に埋めておいた銀食器の箱は持ち去られていた。パールハーバーの数週間前、北京にいる古生物学者が世界的な人類学上の財産のひとつである五十万年前の骨や、北京原人の歯などを救うために計画をたてた。一九二〇年代、彼らは北京から三十マイル程の龍骨丘で発見していた。
北京医療大学のスタッフは、骨を回収しアメリカのスミソニアン機構に移し、戦後に返却してもらうことに決めた。それらを梱包し、九個のスチール製の弾薬箱へ詰め込むことにした。この荷物は公使館の医師で、海軍中尉のウイリアム・T・フォーリィーとその助手の薬剤師ハーマン・デービスに預けられた。
運さえあれば、彼らも荷物も外交免責で保護されただろう。しかし、北京を離れる前に真珠湾攻撃が起こり、彼等は戦争捕虜となってしまった。
二週間と少し後、フォーリィーとデービス、そして十一名の公使館にいた水兵達は北京を出て兵站駅へ連行され貨車に入れられ日本の収容所へ向けて連れていかれた。二週間の船旅で貨車は工業地帯の港に着いた。しわがれ声の将校は日本兵士団へ命令し、フォーリィーとそのグループを小屋へ連れて行き、荷物は外で検査された。日本で働いていたことがあり日本語が話せる水兵によると、将校は「そこに置いていけ!」と言ったという。フォーリィー達が後で小屋から引き出された時、九個のスチール箱は持ち去られていた。
彼等は三年半、北海道の三菱鉱山で戦争捕虜労働者として過ごした。ジャーナリストのジョゼフ・コーギンスはニューヨークでこの話を何回もフォーリィーから聞いた後、一九八六年東京にやってきて、フォーリィーに学んだ日本の心臓学者と話しをした。皇居に面した素晴らしいレストランで、心臓学者はコーギンスに、戦後、東京で北京原人に関するいくつかの化石のことが報じられてきた、と話した。彼は皇居の方に向かって言った。「北京原人はおそらくここからそんなに離れてはいないところにあるよ。」
フォーリーィ博士はいつもコーギンスに言っていた。「神に誓って言おう。あの骨は皇居の地下にあると・・・。」
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708131 No.7320
>>7319
黄金の兵士 第4章 激動のアジア
第四章 激動するアジア
日本が中国へ侵略する事になったのは満州での失敗のせいだ。
中国でしくじったことで、東南アジアを侵略することになった。どちらの場合でも、日本は領土を広げることこそが諸問題の解決法だと考えていた。
勝利することは、失うことだとは思わなかったのだろうか?答えは驚くほど簡単だ。勝利を得るごとに、吃驚するほどの財宝が手に入ったのだ。しかし、それはすぐに通常の隠し場所から消えた。そうやって、日本の支配者階級はたいへんに裕福になっていった。その間に、一般国民は軍事費の負担に苦しみ、赤字を埋めるために搾り取られていた。早い話、堕落した支配者達の根本的な問題は、略奪へ資金を投入することで、さらに財政を悪化させただけだということだ。大災難が目の前にきていた。しかし、根っこに独特な愛国心的文化があるため、ほとんど誰も何も言い出せなかった。
中国で苦しみながらも、軍事支出の制限を取り除き陸軍、海軍とも、さらに南方へ賭けをするため前進していった。
日本は数限りない急襲攻撃を繰り返してはすぐに和平条約を結び、台湾、朝鮮、満州を維持している間に少なくともフィリピン、インドネシアを手に入れた。ほとんどの官僚達は、西欧との戦争で勝ち続けることができるとは思っていなかった。しかしながら一九四一年(昭・十六)秋、裕仁は、急襲すれば有利であるが、延期すればチャンスはなくなると、説得されてしまった。
パールハーバーの数週間前、裕仁はローマ法王ピウス七世に連絡をとり、万が一の場合平和の使者になってもらえるよう伝えた。法王の歓心を買うため、裕仁は財務顧問に命じ、ローマのバチカン銀行、ポルトガル、スペインのバチカン系の銀行へ四千五百万ドルの預金をさせた。
驚くべき速さで南方侵略作戦が動いた時に預金が実行された。パールハーバーの翌日、上海国際租界地区が侵略された。日本旅団はシャムに上陸し、バンコク政府は降伏すると連合国へ丁寧に宣戦布告した。
二日後、シンガポールを出て日本軍のマレー半島上陸を阻もうと航行していたプリンスオブウェールズとレパレスが、日本の爆撃機により撃沈させられた。日本旅団はマレー半島を自転車に乗って駆け下り、同時に他の部隊はビルマ、スマトラを侵略していた。十二月末には香港、グアム、ウェイク島を攻略し、日本はフィリピンへ侵攻していった。一九四二年(昭・十七)三月九日、ジャワでは抵抗勢力が敗れた。パターンは四月九日に包囲され、五月六日、カレンドールはおちた。パールハーバーの五ヵ月後、日本は東南アジアを支配したのだった。
暴力的な強盗行為の観点からすると、一九四二年(昭・十七)の十二ヶ月は正に生き地獄だった。日本はあせりながらも力で屈服させるため恐怖をみせつけた。憲兵隊と特務機関はゴールデンリリィーの略奪品を集めるためペナン、あるいはシンガポールに投入された。そして最終的に日本に持ち込む前にマニラへ送られ、皇子達によって分類され、リストを作ることになっていた。
政府の略奪に対する考え方は大本営連絡会議で、裕仁によって作成された。
「東南アジア占領下における軍の行動のための指針」文書の中にある。
彼は「戦略物資の獲得、占領部隊の自給体制の確立、法と命令の回復」を軍に指導していた。ひらたくいうならば、獲得とは奪うことであり、自給とは占領費用の負担を現地の人民にさせること、法令順守は、つまりあらゆる機会に暴力を使って抑圧することだった。この命令は軍に自由裁量を与えることになった。一九四二年(昭・十七)の大本営会議で麻薬貿易の責任者であり、いまや天皇の側近の長である星野直樹は言った。「我々には何の制約もない。あるのは敵の持ち物である。我々は望むまま何でも奪うことができる。」
第二次大戦でほとんど注目されなかった中の一部が、資産的なごまかし、弾圧、暴力、強請り、そして秘密の裏切りである。
ほとんど報道されなかったのは、個人的な富を失うよりもむしろ、自分の国や家族を裏切ることを選択すればとても目立つ存在になってしまうからだ。
今日ですら、日本の資金的な密約は世界で最も硬く閉ざされた疑惑のひとつとして残ったままである。ナチスの略奪や経済的な陰謀については多くの本が出版されてきた。しかし、日本のそれらの記録は、西洋の公文書や記録から持ち去られ、極秘文書のまま今後、半世紀は公開されないだろう。秘密にする理由を言うべきではないだろうか。米議会の努力のおかげで法案106-567が通過して、日本との戦争が始まる初期の公文書が一般公開されることになった。土壇場になりCIA長官は、CIAが公開しても良いと認めた物と、CIAが関与してきた中で、国家の安全に関わるものを除いて公開を許すという抜け穴が付加された。このすべての文書をCIAが選別できる許可は、引き続き始まった戦争での日本とアメリカとの好ましからぬ共謀を覆い隠すであろう。保存文書が全て公開されるまで、我々はほんの断片を見るしかない。もっとひどいことは後の章で紹介しよう。
日本が南方を攻撃すると、日常的な物資が戦利品として略奪できた。銅線、石油、石炭、米、干し魚、保存肉、塩などだ。マレーシアやフィリピン、オランダ領東インドなどでは、穀倉、石油貯蔵庫、魚養殖場から個人の家、ホテルまですべての家屋が没収された。ローマ法王を通じての素早い停戦協約に失敗したため、もっとたくさん略奪するほか選択の余地はなかった。最初こそ勝ち続けたものの、秩父宮や高松宮、そして多くの人から見ると、一九四二年(昭・十七)半ばの時点で軍事的に負ける事は明白になっていた。そうなのだ。かつて、一度も負けた事がないというよりもっと重要な事なのだ。
シンガポール陥落のあと、秩父はゴールデンリリィーの南方本部をそこに設置し、事務員や簿記係、会計士を用意した。彼は略奪品の収集と船積みの一大集中センターのあるクアラルンプールやペナン島の銀行の中心街北部へ飛んだ。アイポーでは華僑の錫精錬業者と共同して没収した大量の金宝飾品を溶かし鋳直しをしていた。ラオス、カンボジア、シャム、ビルマでまとめられた金塊は、列車でアイポーへ運ぶか、貨物船でペナン、シンガポールへ送られた。呉忠信(Wu Chye-Sin)は福建省の実業家だ、彼はビルマやシャムで盗んだ貴金属をゴールデンリリィーのために鋳直しをして数%の歩合で財をなしたのだった。彼は中国語と英語が話せるので、カンボジアではクメール語やフランス語で表示するところを彼の延べ棒は英文字で品質表示をしていた。これによりゴールデンリリィーは多様な品質表示を付け加えることになる。半世紀が過ぎ、アイポーの呉によって製造された数百の金塊はルソン島の洞窟の奥深くでイゴロット族により発見され、それらは朝日放送の撮影隊に披露された。びっくりしたテレビ職員は、金の延べ棒とくり抜いた芯材見本をビデオに収めた。このサンプルが東京で分析され金の特徴(冶金学上でいう指紋のようなもの)が特定された。(十三章を参照)
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ビルマからの金塊は、15.5x5.5x3.8 cmのピラミッド型で、二〇カラット、6.2KGの重さがある。金の仏像も届いていた。金持ちのビルマ人は仏塔を寄贈するか、金の仏像を持つことで輪廻転生を望んでいた。いくつかの仏教徒一派が、金を少しづつ蓄え作り上げたブッダの像の総重量は八トンにもなった。(現在価格で二〇〇億円)それらは石膏で偽装され、全体を白く塗り、顔はペンキで装飾がほどこされていた。その宗派の長老だけが石膏の中が純金であることを知っていた。日本人将校が仏塔で最初に実行したのは石膏の仏像の中味が金であるかどうか見るために壊すことだった。一九四二年(昭・十七)七月、マニラ十五番埠頭に着いた金の仏像は十五フィートを越える高さまで積み上げられた。あまりの重量なので、それらを切り刻むほかに解決法はなかった。しかしそれではヒンズー教徒は怒るだろう。だから、仏像をはしけに降ろし、マルキナ河からマルキナ平原と呼ばれる滑走路へ運んだ。そこにあったブルドーザーで押し、穴の中へ隠し、戦争のあとに掘り出すために土砂でおおった。それを実行した将校が配転すると、この件は忘れられた。
数十年後ある偶然からこの金の仏像が発見された。これはマリキナ平原に宅地が開発された時のことであった。ゴールデン・リリィー部隊はクアラルンプールのネガラ銀行地下金庫で1x2x5.75インチの寸法で各6.25kg、23.97カラットに包装された延べ棒をみつけた。他の金は福建、客家(Hakka)、テオチウ(Teochiu)地方の錫鉱山や、ゴム園の金持ちから押収されたものだ。それ以上のものをマレー国家の各首長や貴族からゆすりとった。カンボジアからは15.5x5x3.7㎝で92.3%純度の延べ棒、数トンが列車でやってきた。
一九四二年、四三年、四四年を通し秩父とその部下達は、乾期はフィリピンで過ごし、マニラで台風が吹き荒れる時期は比較的楽なシンガポールへ移動した。秩父宮は一九三〇年代後半、満州で肺結核を患ったのでフィリピンでの雨期は避けねばならなかった。肺結核はまた日本からの彼の失踪をごまかすのにも好都合だった。秩父宮は健康上の理由から軍を退き、富士山麓の別荘で静養し妻が看病していると公表されていた。秩父宮の死から随分たってから宮妃の回顧録が出版されたが、彼女が言うには隔離状態で戦時中を過ごしたため、兄弟と会う機会は二度か三度だったそうだ。その間、彼がどこにいたのか誰も言えることはできない。多くの日本人やフィリピン人が、彼はマニラにいたと証言している。もっと言うならば、彼の結核は広く知られていたわけではないのに、彼ら証人は、秩父がハンカチに血をはくところを詳しく話している。(訳注)この件は永遠の謎である。水掛け論になるだけだ。
多くの警告を受けつつも、日本軍は政庁、銀行、市民を急襲していた。日本軍がフィリピンを襲う前に不安を感じたアメリカ人は、妻や子供を帰国させる様、国務省に求めた。ところが、国務省は明確な回答を拒んだ。
後に議会が、女子供を避難させるという悪い知らせを送るとせっかくの和平条約の進展に悪影響を及ぼしかねなかった、と主張すると、この国務省の対応はそれなりに正当だとされた。そうするうちに、多くの母子が四年間の収容所生活を送ることになった。
オランダ領は格別に心配であった。一九四〇年(昭・十五)の夏までにナチスがオランダを占領していたため、母国にもどることももはやできなくなっていた。オーストラリアには夢のような安全地帯があり、すでに多くの英国人の植民者が移っていた。しかし英国にいるオランダ亡命政府は、オランダの植民者は動いてはならないと言明した。ジャワやスマトラでは数千名のオランダ人男女が、七十八万マイルにも広がる群島の隅々までに軍役や市民防御隊として借り出されていた。彼等は外へ送金することを禁じられていた。
一九四一年(昭・十六)十二月になって、オランダ植民地政府は公的な貯蔵金(一億二千万ギルダーの価値があった)をジャワ号やフロンチス号のような商船をチャーターして、オーストラリア、アメリカ、南アフリカへこっそりと移動していた。(約二億五千万ギルダーは初期に米国へ移され、アメリカの武器や戦闘機の支払いの精算に使われた。)これらの移動は偽の情報を信じさせるため、極秘とされたままだ。
多くの植民地職員は不意をつかれた。ダグラス・マッカーサー元帥と特に仲のよかったフィリピン大統領マニュエル・クエゾンは、十二月八日、太平洋戦争が始まったと連絡を受けたときバグイオの山岳リゾートで静養中だった。マッカーサー自身もクラーク基地に専用機を停めていて不意をつかれた。そこも、台湾からの日本機によってほとんど破壊されてしまった。十二月二十二日、日本軍はリンガエン湾に上陸した。翌日マッカーサーはマニラを撤収し、米軍及びフィリピン政府はパターンとコレキドールへ引き上げると宣言した。
軍用品、食料、医薬品が島へ船で運ばれた。マッカーサーはチャールズ・ウィロビー大佐(G2)に命じ、フィリピン国家資産とフィリピン中央銀行、ナショナル・シティバンクの個人預金を移すことにした。(ウィロビー隊が空っぽにした二十三のおばけ金庫は、その後ゴールデンリリィーによって金の延べ棒の隠匿用として戦後に掘り出せるようにサンティアゴ要塞で排気口の中で使用された。)フィリピンの国家財産の内訳は、五十一トンの金、三十二トンの銀、百四十トンの銀貨、二千七百万ドルの米国債券などで、さらに未公開の大量の社債、貴金属、財務省証券などがあった。当時、金だけで四千万ドルだった。シティバンクは個人預金として宝石をちりばめた金塊二千トンや貨幣、貴金属などを個人用貸金庫に預かっていた。それらは四日間かけて、マニラからコレキドールへ軍のタグボートや小さなヨットで運ばれた。この業務は一九四一年(昭・十六)十二月二十七日に完了している。
ウィロビーの妻は一覧表を作りを手伝ったのだが、金が目立たないことに驚いた。「それって鈍い輝きで金にはぜんぜん見えないの。ほとんどの延べ棒は包まれてるしね。まあいくつかは包みもなかったけれど・・。数人が伝票を貼り付けて、残りの人は形や重さを記録して中にいれるわけ。私はバターの塊のような延べ棒の大きさを見るために両手を使って持ち上げなければならなかったわ。」(金の塊は12x12x12インチの寸法で二千ポンド(七四六kg)の重さであった)この財宝はコレキドールの坑道施設に収納された。
厳密に言うと、一四三〇トンのペソ銀貨はマリンタトンネル内に置かれた。個人の二トンにもなる金塊は防御柵の中に収められた。
政府の五十一トンの金塊(二〇kgづつで二五四二個になる)はマリンタ・トンネル南側の海軍坑道の横に政府の衛兵が警護する形で置くことになった。
四月の終わりごろ百十一トンの銀貨がサン・ジョーズ湾に投げ捨てられ、潮流によって流されてしまった。
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>>7321
一九四二年(昭・十七)二月三日、対空円形台座付き米軍タンバー級潜水艦、トロウトが食料と医薬品の供給のためコレギドールへ到着した。
荷を降ろすと船長は、荷物と入れ替えにバラスト(重量)が欲しいと言った。そこでマッカーサーは財宝を積み込むことを決意した。二台のトラックが個人所有の財産を取りに防御柵の内側へ送られた。十六トンのペソ銀貨、他の貨幣、㈱、債券、財産証明書などが潜水艦に積み込まれた。トロウトは巡視を続けパールハーバーの軍港へ向かう前に二艘の日本船を沈め、その後サンフランシスコの造幣所へ金を引き渡した。コレギドールが陥落すると日本海軍は残してある財宝を回収し日本へ送ってしまった。防衛部隊はそれをかくすため隣の通路に隠すなどという行動は一度もしていない。各国が侵略されると、数万人の植民者が捕らえられた。彼等は二つのトランクだけを持ち、抑留キャンプのある集合場所へ行くよう命じられた。憲兵隊は早速すべての財産を没収した。トラックに乗った特殊部隊がやってきて、高級将校や市民執行官のために選ばれた屋敷をのぞいて、すべての家屋を丸裸にしていった。ピアノ、絵画、照明器具、台所用品、水洗トイレ、流し台、洋服、食料などを商品貯蔵庫へ運んでいった。銅線や鉛管は壁からはがされた。宝石、蝋燭たて、食器(金属製)額縁などはドラム缶にいれられ、溶かすために仕分け所へ運ばれた。床のフローリングもはがされてしまった。後の国連代表カルロス・ロマーロは、レイテ島がどんな目にあったかを語っている。「日本軍のトラックが各家の戸口にやってきたんだ。兵士は家の中へ入り、使えそうなものは全部運び出し、残りは窓の外へ放り投げるか、そこで燃やしてしまった。略奪したものはみんな日本へ船積みしてフィリピンは裸にされ、棄てられたんだ。」
マニラで日本兵士は上流、中流階級地域を動き回り、綺麗な主婦や娘達をさらっては高級将校や海軍将校のために用意されているホテルに連行した。数週間が過ぎ、母も娘も一日に十五人の相手をさせられ、多くが意識朦朧になるまで繰り返し強姦された。憲兵隊は誘拐した家族を返還するにあたり、隠し財産、担保、あるいは地域や親族の情報を引き換えにすることを命じた。病院では看護婦から日本将校の情婦が選び出された。貧困で財産もない女、子供は、地位の低い将校や、普通の兵士のために、売春宿へ集められた。侵略される前日に多くのオランダ移民は急いで家を売り飛ばし、銀行から金を引き出し、隠すために金の棒や宝石を買っていた。それらの貴重品は庭に埋められた。それを見ていた召使達は、それを回収し、日本人に差し出し、そのたびごとに金をもらっていた。
他のオランダ人は貨物船や個人の船、フェリー、ヨットなどに少しばかりの財産を積み、オーストラリアへ逃げた。いくつかの船は無事にたどりついたが、大半は拿捕されるか沈められたのだった。それらの貴重品は二度と見ることはなかった。
マレーシアやビルマの英国人同様、オランダ人のいくらかも暑さを避けるためにジャワヤスマトラの山中に別荘を持っていた。彼等は見逃してもらえると思い、そこへやってきた。しかし、憲兵隊は、小さな丘の上から別荘を監視していた。その広大な地域全体に秩序をもたせることは、大きな組織と十分に考えた上での配慮が必要なのだ。
銀行員や市民の間でも財産を隠す手段を求めパニックが起こった。銀行は無記名債券を回収し、名簿を本国へ送り、債券を無効とした。
高額紙幣はシリアルナンバーを記録し、燃やされた。もはや時間がなくなり小額紙幣はナンバーを記録しないまま燃やされた。マレー半島では債券のうち一億四百万ドルが、同様の方法で処理された。シンガポールでは、個人所有の四百万ドルの宝石や、小さな貴金属を政府の代理人が受け取り、オーストラリアへ運んだ。シンガポール銀行はナンバーを控えた七千五百万ドルの紙幣を燃やし、他に三千九百万ドルをインドへ運んだ。
日本が侵入した時、横浜正金銀行と日本政府銀行である台湾銀行の職員が大量に動員され、すべての銀行業務を接収した。陸軍の管理下の領土では横浜正金銀行が、海軍の管理下の領土では台湾銀行が業務を遂行した。北京語、広東語、福建、客家、タイ語が解る台湾人の銀行員は、中国人所有の銀行や、質屋の監視役に任命された。現地の職員は、政府の税記録や財産一覧表、中央銀行の記録などを隠したり処分しようと、必死の努力をしていたが、日本軍は役人や銀行幹部を拷問し、脅して倉庫や金庫を開けさせ、隠されている貴重品保管場所の秘密、口座情報、商習慣を白状させようとした。
植民地の支配者による人種差別に不満を持っていた原住民の中から協力するものがでてきた。彼等は地域の裕福な家庭から金を奪うため、税務記録や元帳を差し出したのだった。シンガポールでは、外国銀行の所有財産が没収された。一九四二年(昭・十七)、三月八日にオランダ東インド会社の民間銀行経営者は、地下金庫の中身をすべて強制的に引き渡すことになった。ジャワの最初の強奪だけで日本軍は、銀行から五千二百万ギルダーを獲得した。又、別に千二百万ギルダーをジャワや近くのマドエラ島の貿易商からぶんどった。
日本軍は質屋や小規模な現地人銀行も封鎖した。これらはすべて海外資産管理事務局の監査官を務めていた、日本銀行幹部職員、山本ヒロシに率いられた日本銀行、台湾銀行、三井銀行、華南銀行の職員によって行われた。東南アジア地域の中小銀行の従業員は、収容キャンプに移され、毎日彼らのもとで働いていた。
命に不安をおぼえる彼等は、秘密を洗いざらいもらすようになった。言うとおりにしないものや、嘘をついたものは、特別な扱いをさせるために憲兵隊に引き渡された。スマトラの日本軍捕虜収容キャンプで生まれたオランダ・テレグラフ社の記者、ジョス・バーガースは、ウィルムズ・ギロモスの目撃を含む、日本軍のインドネシアでの略奪に関し、とても多くの報告をしていた。
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>>7322
十五歳の少年だったギロモスは、天皇裕仁の弟に当たるといわれる日本人が、彼の抑留キャンプを訪問し、皇子がそこにいる間に、ギロモスの親友の父親、ジャワ銀行パランバン支店長が、尋問で司令室に連行されていったと話している。又、密告者は日本軍に、支店長が大量のギルダー紙幣を燃やし、没収をまぬがれるため、大量の金の延べ棒を隠していると告げた。質問に答えることを拒むと、若いギロモスら被抑留者は、皆の見ている前でひどく殴られ、その怪我が元で死んでしまう者もいた。日本軍は思った以上に多くの金を獲得した。
それは東南アジアの個人の手元に、誰もが想像している以上に多くの金やプラチナがあることをはっきりさせたのだった。幾世代にもわたり蓄えられたものもあれば、最近のものもあった。
一九三〇年代の大恐慌は、どの人々も紙幣を遠ざけることになり、用心深くさせていた。一九三〇年代後半における日本とドイツの意図に不安を覚え、金こそが極めて重要な資産になっていた。
政府は戦争の成り行きを考えて対策を立て、金を蓄えることにした。
新しい鉱山の開発、例えば南アフリカで最も深いと言われる鉱山並に三千フィート以上まで掘ることで金が採掘できる、ジャワのTjikotokトジコトク鉱山のような開発が有益だとの要求が高まってきた。フィリピンでも同じ事で、マニラ北方のヴェンゲット鉱山から産出される金は、一九三二年に最高を記録した。日本軍は奴隷労働者を使って、すぐにそれらの鉱山を再開した。無制限に労働者が投入されるので経費も危険も悩む必要がなかった。
スマトラ沖のベンカリス鉱山は、日本軍第二十五師団が支配した途端、年間の生産は十倍の四百kg以上に跳ね上がった。同様の増産は、占領中のすべての鉱山で記録された。東南アジアの富が銃を向けて得たものばかりというわけでもない。可能な限り軍票で購入することもできた。
戦争が終わるころまでで通常の七倍もの大量の通貨が流通していた。
最初、陸軍海軍とも各国で一円の軍票を一ドルで割り当てた。(一晩で二倍の価値になる。)軍票には通し番号もなく、貧弱なものだったので簡単に偽造されてしまった。そんな大量供給はさらに価値を失うことになった。
偽の軍票が乱発される中、日本軍は動揺を抑える事を急いだ。
軍票に替えて、南方開発銀行による新しい受取書が発行された。被害者達は再び騙されることになる。どれにも長々と「額面は保証します。」「大きな積立金で裏づけされています。」と注意書きされていた。
香港が接収されたときには、裕福な中国家庭から、家や会社、現金、絵画、古道具などが軍票や受取書などと引き換えに没収された。半世紀たってもこれらの家族は数百万ドルの価値になる軍票や受取書の買い戻しを日本に要求し、法廷の戦いを続けている。
結局日本は、軍票は前の政府が発行したもので現政府にはその持ち主に対する責任は全くないと主張した。多くの香港人が所有していた立派な芸術コレクションは「占領紙幣」で支払った日本人個人の手に残ったままだ。
人力車の引き手だって受取書で雇うことができた。もしそれに感謝を表さないのならば、彼らは打ち首になる。捕虜達にも受取書で支払われるが、送還される時にそれの返却に一ヶ月も保留された。
さらには贅沢税というものもあった。車を所有する者はタイヤを使用するという特権に対して一ヶ月あたり三百ドル相当を支払わねばならなかった。一九三二年(昭・七)から送還されるまで東京にいた米大使ジョゼフ・グルーは言う。「日本の軍国主義者ですら、明きらかな窃盗行為や不法侵入による作戦を漠然と続けることができなくなった。強盗行為はシステムに変貌したんだ。つまり、まったくの財政問題としてね。我々の家計と同じで金儲けなんだ。我々と一緒で、現金、クレジット、ローン、株式会社、政府補助金、鉄道、タクシーみたいな普通に金を利用するためにね。・・・・・いつか、どこかで限界がある。ある時新しい領土が必要となり、日本侵略軍は・・・日本軍の命令を基にした貨幣制度を作り上げ、それを尊重しない者には死がもたらされるような銀行通達が公布されたのさ。その通貨を使って日本軍は、冷酷にも管理貿易のようなに不公平な原理で両替を行った。彼等は明らかに没収、資本課税、そして単に資産家の暗殺、労働者を奴隷のようこき使う事で通貨の不足を補ったのだ。日本は欲しいものを馬鹿馬鹿しいほどの低価格に固定する専売制をとり、日本軍の警備兵はその価格で購入するんだ。この原則ならば、占領地域が干上がるまで日本に物があふれ、日本は大いに発展するだろう。あるとき認可が下りたと思うよ、最上の人へ財産をもたらすためのポンプが、井戸の深いところのタンクに・・・。」
もっと搾り取るために、日本軍は宝くじや賭博場を開業し、多くの金を浪費させた。勝者は軍票を持って家に帰った。日本軍は定期的に米やタバコ、砂糖、塩などの日常品をとても高い価格で買った。それらの物資は公然と入手されたかわりに、共謀している地域のギャングや闇市場へ麻薬の見返りとして運ばれていった。闇市場で食料、タバコ、塩、医薬品を買いたい普通の人々は、秘密の地下金庫に隠してある植民地硬貨や金、宝石に手をつけねばならなかった。
ゴールデン・リリィー部隊で仕分けされた金、プラチナ、宝石、絵画は最初に木枠箱に入れマニラに向け船積みされた。没収された株券、債券、金証書などは横浜正金銀行や台湾銀行へ送られその後中立国で洗浄され日本の口座へ移された。横浜正金銀行の最大個人株主は天皇裕仁であり、彼は全体の二十二%を保有していた。結果、株主総会の主導権は宮内省にあったのだ。
戦争終了時、裕仁は金と海外通貨で一億ドル(現在なら一兆ドル)を越える財産をスイス、南米、ポルトガル、スペイン、バチカンなどに隠していた。戦争終了直前、横浜正金銀行は台帳の収支が正確には一致していない事と、占領地域の銀行に莫大な負債を負っていることに気づいた。貸越高は、無価値な軍票で支払えば消すことができた。(天皇は戦後も筆頭株主を続けていたので、銀行の経営者が変わったから良いという論理はまったく滑稽である。)
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708131 No.7324
>>7323
ナチスドイツは例によって、略奪した金や金塊を溶かし、鋳直し、ドイツ帝国の規格を守った封印であるカギ十字を付けたバーにすることで、合法的なものに洗浄していた。この金塊はスイス、スウェーデン、ポルトガル、アルゼンチンへ運ばれた。日本もそれを見習い、東京のスイス銀行、マカオのポルトガル銀行、チリやアルゼンチンの銀行を通じて金を移した。物理的にいうと、それらの国々へは大きな貨物用の潜水艦を使って運んだのだ。世界の金取引の中心としてマカオはとても繁盛していた。一九四四年(昭・十九)、ナチスと日本の略奪した金が、中立国を通してロンダリングされるのを止めるため、ブレトン・ウッド会議に連合国が集まった時、なぜかポルトガルは、その一覧表にマカオを載せることを忘れてしまった。しかも誰も、その見落としに気づかなかった。
歴史家であるベルティル・リントナーは記している。
「マカオ商人は海外の銀行で一オンス三五ドルで金を買って、すぐに領地(マカオ)へ持ち帰り、誰であろうが買いたがる人間に売ったのさ。華僑のホーイン(HoYin、何口)に率いられた組織は、戦争を逃れるため広東(Guongdong)からとんずらしたんだ。」
マカオは金持ちの華僑にとっては戦時中の避難所であり、貴金属交易のおかげで随分潤ったようだ。当時、日本の略奪品だけが唯一の金の源だったのだ。シナ海では日本の銀行だけが業務の取り扱いをしていた。マカオの質屋、仲介人、個人は、日本人のために貨幣を金と替えてやることで一財産を築いた。戦争が終わり植民地当局が戻ってくるとマカオの億万長者達は植民地通貨を使用することができるのでほとんどの国土や工場を破格の価格で購入することになった。裕仁の個人資産のいくらかはマカオでロンダリングされ、残りは東京のスイス銀行を通した。戦後アメリカ占領当局が監督しているころに裕仁個人の資産記録を閲覧する機会があったジャーナリスト、ポール・マニングは裕仁の財産が、敗戦が避けられないことを覚悟した一九四三年(昭・十八)末に中立国の避難場所へ移し始められたことを知った。内大臣木戸は天皇の財務顧問でもある日本の指導的な銀行家との打ち合わせをした。彼らのすすめにより、所持金は東京からスイスへ送金され事実上東京における裕仁の現金残高は空っぽになった。日本が購入代金を支払ったナチスの金塊は、横浜銀行のスイス支店口座に移されていたが、それもまたスイスにある裕仁の個人口座へ振り替えた。同時に木戸は皇室に備蓄してあった金で現地通貨を買うために、潜水艦でアルゼンチンやマカオに運び、銀行振替でスイスへ送られた。
歴史家のジェームズ・マッケイは、裕仁の財産を個別に言うと、スイス口座に二千万ドル、南米銀行に三千五百万ドル、ポルトガル、スペイン、バチカンに合計で四千五百万ドル所有していたと結論をくだした。(合計すると一億ドル、当時金価格、一オンス三五$が現在では六〇〇ドルとすると、現在価値で十七億ドル、すなわち、二兆円ぐらいか・・・)
日本に到着していた盗品の宝物は、ほとんどが個人の地下金庫や、皇族の金庫に入っていったため、東南アジアの経済復興をしようとする日本戦略はうまくゆかなかった。又、アジア地域の原材料、産業、農業、密輸、強請りなどを支配していた華僑達もその計画を妨害した。彼等は南京虐殺を行った日本を嫌っていたが、それよりも中国沿岸の出身地であるマモイ、スワトウ(履門)や、近辺の港を爆撃したことを特に恨んでいた。過去にヨーロッパの企業は、東南アジアで華僑と協調して働いた時にしか成功していない。日本軍がやってきて、石油、砂糖、塩、その他の日用品に専売制を導入したため、地域経済は崩壊してしまった。価格は高騰し、物資の供給は止まり、膨大な失業者であふれ、インフレと買占めが横行した。日本軍はその報復として華僑に的をしぼることにした。彼らを標的とする暗殺部隊がおくりこまれた。
渡辺ワタル大佐は金持ちの中国人を誘拐する技術を北華で十年もみがいてきた。切断は耳から始まり、鼻、指、銅、睾丸と続けられるのだ。跡継ぎ息子を去勢するぞと脅す彼の手法は特に効果的であった。それにより渡辺は多くの金、宝石、絵画を手に入れて信用を勝ち取った。中国で彼は防諜や対防諜、プロパガンダを流す特殊工作機関など、五つの部署に分かれていたものの一つをまかされていた。華僑を脅迫することが彼の仕事だった。彼の技術は、その所見や書類から十分知られていた。彼が描いたのは「中国人は・・・・従うようなフリをするが、何をするにも悪質すぎてどうしようもないのさ。厳しく取り扱うべきだ。」彼は満州時代の仲間に手伝ってもらった。その一人が辻正信大佐だ。バリバリの世界戦争班の指導者で、山下将軍の南進及びマレー侵略計画を補佐していた。もうひとりは、中国第八特殊工作部隊を率いる情報将校、高瀬透で、中国問題の専門家だった。渡辺は高瀬のことを、難しく、うぬぼれやで、怒りっぽく、喧嘩っ早い奴だと評した。しかしこの冷酷さこそが必要とされるそのものだった。
辻大佐は日本でも最も冷酷な諜報員で特に恐れられていた。ナチス党のゲッペル、ハインドリッヒ、スコーチェニーを混ぜ合わせたような特性をもっていた。
南方侵攻前に大本営は、辻大佐の作った手引書を将校に配布した。それには、東アジアの宝物館の財宝をどのように押収するかの注意が繰り返し記されていた。お薦め手段は基本的に暴力行為だ。同情や思いやりは無視された。もはや華僑達は、快楽と浪費の中での生活にどっぷりとつかっているわけにはいかなかった。日本軍は彼らに過去の誤りを清算し、今までの暮らしと、資産作りをあきらめるよう強制した。辻はその驚くほどの残虐性で注目を集めた。
一九四二年(昭・十七)二月二十一日の夕方までに、シンガポール島の十八歳から五十歳までの中国人の男はすべて五箇所に集められた。彼等は現地の情報提供者の前を通り過ぎ、現地人がうなづくと三角の刻印を肌に押し付けられ、死を宣告された。他の者は、四角の刻印を押されて解放された。合計で七万六百九十九人のシンガポールにいた中国人が拷問か処刑で命を失った。
多くの処刑が何日も続き、辻大佐は厳重にそれを監視していた。ほとんどが銃殺か刺殺、打ち首だったが、二万人がはしけにつながれ、シンガポールの定期船に乗せられ船から投げ出されたのだった。なかなかおぼれない者は機関銃で撃ち殺された。この悪夢のような出来事を「華人虐殺」とか「道徳洗浄」と呼ばれた。辻はこの華人虐殺をマレー半島全体に広げ、女、子供を含む四万人が殺された。中国人の処刑はそこらじゅうで起きたことだ。
渡辺大佐は四月の天皇誕生日プレゼントとして、シンガポールの中国人が五千万円を裕仁に献上するべきだと宣告した。これは当時マレー半島に流通している通貨の四分の一にあたる。高瀬は寄付を集めていたが、そんな大金を短期間に作り出せはしない。そこで誕生日プレゼントに足りない分を、横浜正金銀行で二千二百万円の融資をすることでやりくりした。中国人はその返済、もしくは金利分を金の延べ棒か貨幣、あるいは換金性の高い財宝で返すよう求められた。スマトラにはロイヤル・ダッチ・シェルの油田がある一方、マレー半島は世界最大のゴム生産地域である。渡辺は軍票でゴム在庫のすべて買い日本へ輸送した。さらに、彼はすべてのゴム農園やその設備を日本の財閥系企業に売るように命じた。もちろん軍票で・・・。
この反中国人の暴力的支配による衝撃は二~三週間でおさまった。しかし結果としての反動は、米や塩そして他の日常品の流出となり、さらにそれは消えてしまった。渡辺は売国奴や協力者に、特別な割引やリベートを申し出た。数人のブローカー達は大量の麻薬の供給を望んだ。そうなのだ。日本の協力者は薬の売人とギャング達だったのだ。
奴隷労働者を持っているだけで日本はくじけなかった。被害者には三つのグループがあった。現地人、華僑、ヨーロッパ人だ、それらの扱い方は違っていた。一九四二年(昭・十七)の半ば、日本は約十四万人の連合国捕虜と五十万のヨーロッパ市民、そして百万以上の華僑の抑留者を抱えていた。
ヨーロッパ人たちの収容所の状況は極端に厳格だったにもかかわらず、捕虜達は野蛮な残酷さで扱われた。
多くの連合軍兵士は、急場しのぎで選ばれた一般市民だった。オランダ人ジャーナリストのジョス・ハーガーズは、他の数千人に混じってスマトラのパカーン・バロエ鉄道の建設に従事した。彼は何とか戦後生き残ったものの、健康を害し、結局はオランダに帰ってからその傷害で死んだ。他の人々も三井・三菱系の地下数千フィートの炭鉱で裸になってこき使われた。
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708131 No.7325
>>7324
現地人は生ゴミの扱いだった。戦後、インドネシア政府は、四百万人の市民が奴隷隊として船に押し込まれ、離れ小島で死ぬまで働くために輸送されたといっている。彼らのうち約二十二万五千人はシャムとビルマ間の「クワイ河死の鉄道」作りで働いていた。
彼らが死ぬと、線路の盛り土にあふれんばかりに詰め込まれた。
一九四四年(昭・十九)まで、マラヤでは重要な仕事に従事してない十五歳から四十歳の男達は奴隷部隊にいれられた。
朝鮮は、東南アジアへ船積みされた奴隷労働で六百万人が失われたと主張している。中国人の奴隷労働者数はそんなものではない。毎年日本は、百万人近い中国人と朝鮮人を奴隷として強制的に連行した。その中のいくらかが日本につれていかれた。日本の鉱山は軍需産業として召集されていたため、前の満州国の長であり商工大臣である岸信介は、朝鮮から七十五万人、中国から五万人を調達したのだ。
歴史家のスティハン・ロバーツは、日本帝国の問題の中で、中国人が集められ、動物よりも悪い扱いを受けていた一方で、何の正統性もないのに、朝鮮人は奴隷として差別的な取り扱いを加えられたと説明している。
他に中国からの五万人と、人数は不明であるが台湾からの人々が奴隷としてフィリピンへ船積みされ、ほとんどはそこで死んだ。
目撃者は、我々に数千人の中国人と台湾人がゴールデン・リリィーのためのトンネルと地下貯蔵庫を掘らされ、貯蔵庫が密封される時に生き埋めにされたのだと語った。そこには粥と味噌汁しかなかったので、多くは仕事中に餓死したという。
日本の最大級の企業は、炭鉱労働、道路や列車の建設、空港と港の建築に奴隷を使った。単独企業としての奴隷の雇用主は三井であり、多くの奴隷運搬船は三井船舶会社であった。しかし記録には、川崎重工業、三菱、日本鉄鋼、昭和電工、その他と書かれてある。
ヨーロッパ経済学者は、戦争終結時における三菱の地位を、USスティール、GM、スタンダードオイル、アルコア、ダグラス航空、デュポン、ウェスティングハウス、AT&T、ナショナルシティバンク、ウールワースストア、ヒルトンホテルを合併したものと同じ価値があると主張している。三井にとっても、百八十万人の従業員が本国と海外にいることが自慢であり、少なくとも三百五十六の大企業を所有していたのだ。
それらの複合企業体企業は、終戦時に経営者が代わっており、今日の企業とは同じ会社ではないという論調で、過去の賠償についていかなる責任も負わないとしている。奇妙なことだが、彼らの経営する銀行は米占領中にあらゆる罪から逃れていた。
日本軍が拘束していた連合国捕虜の死亡率は三〇%近くになる。ナチスのそれは四%である。彼等が受けた残虐行為は、数千ページにもなる聞き取り書で証明されるだろう。日本人の収容所所長や医療職員達は、連合国捕虜がビタミンB1不足からおこる脚気が原因の死亡をわざと放置した。作家のガビィン・ダウズ氏は収容所の医師は、精米した米を主食にするとビタミンB1不足になると知っていたことを明らかにした。研ぐ前の玄米にはB1が含まれる。しかし精米の過程で、B1は失われてしまうのだ。安物の玄米を与えるだけで問題は解決したはずだ。ハイナン島の収容所所長、菊池一郎は、捕虜がかろうじて生きていける最低限の食事量を計算し、B1の錠剤を与えなかった。
男達の胸は腫れ上がり、腹は膨張し、睾丸は風船となった。肺は流動物でいっぱいになり、窒息してしまった。誰もが脚気で死ぬときにだすうめき声を知った。数千人の捕虜が地獄船の荷物室に拘束されたまま日本に連行された。
いかにひどい状態だったかというと、千五百人の捕虜のうち、日本に着いた時には百人から二百人は死亡していた。捕虜の運搬船は攻撃されないための方法として、マークを付けるよう義務づけられていた。しかし日本軍は表示しなかったため、連合国の潜水艦や戦闘機によって攻撃され、船倉にすべての捕虜が閉じ込められたまま沈められた。
アルバート・ケルダーの調査によって、英国人、アメリカ人、オランダ人の捕虜、そしてロム・シャスと呼ばれる数千人のインドネシアのクーリー(苦力)が乗っていた十六艘の地獄船を、潜水艦の魚雷で沈めてしまったことが明らかになった。ケルダーはその十六艘が沈められたことで、合計一万七千三十六名が死亡したと我々に語った。ほとんどがアメリカの潜水艦による誤沈であった。故意ではない三艘の攻撃で、二千七百七十六名の捕虜が溺死した記録もある。中国定期航路は軍票で日本にリースされ、連行する慰安婦や奴隷を日本や東アジアへ送ることができた。研究者は、その地獄船や奴隷連行船、傷病院船などが、戦前戦後に合併した会社か、その前身となる世界大手三つの巨大船舶会社など日本を代表する企業が運行していたのではないか、という疑問に対し決定的な記録を発見した。その中で、日本郵船㈱は奴隷船の運行会社のひとつを握っていた東京郵船㈱や、朝鮮郵船㈱の後継者である。別にKKKがいる(汽船株式会社)、国際系列の一部分であり日立グループの親会社で、日本最大規模の銀行を所有する会社だ。
他は三井の大阪商船㈱だ。それらの大株主達には世界的な巨人、三菱、住友も含まれる。これらの企業は先送りされている軍票の償還支払い義務、奴隷達への補償義務も一切認めてはいない。取り戻そうとするすべての努力は、東京やワシントンによりことごとく妨害された。
その共謀の醜さは、この本の後半において述べるとしよう。
多くの捕虜達は日本に着くや、日本製鉄、三井鉱山で奴隷労働者として週に七日間、一日十時間働かされた。栄養失調は、赤痢、黄疸、壊血病、皮膚病をもたらした。監視人は彼らをむちやシャベルで打ち据えた。耐え抜いた人々は内も外も傷だらけだった。
フランク・ビグローの経験は悲惨だった、しかし典型的でもあった。北ダコダで二等水兵だった二十歳の彼は、地獄船で日本に送られ、三井に所属した。
そして三井炭鉱で奴隷労働者として働いた。身長百九十五センチの彼の体重は、たった四十三キロしかなく、味噌汁だけで生きていた。彼は生き残るために炭までをも食べた。ある晩のこと、鉱山の深い炭層で作業中、大きな岩が彼の足へ落ちてきて、弱くなっていた骨を砕いた。「そこにもうひとりアメリカ人捕虜がいたんだ。トーマス・ハウレット博士だ。」、彼は思い出を語った。「博士は二本のとがった自転車のスポークで手当てをし、一本は膝にもう一本は足首にそえた。だけどうまくいかなくて、結局壊疽にかかってしまった・・・。医薬品などもらえる立場ではなかった。ましてや外用薬なんて望めるわけがなかった。私はギロチンの執行人を呼ぶしかなかった。博士は、のこぎりとカミソリを持ち、四人の男が私を押さえつけた。感染に対抗するには原始的な手段を使うというわけさ。蛆虫を包帯の中へいれ、感染を防いだ時に蛆虫を外へ引っ張り捨てたんだ。博士は私の命と足を救ってくれた。残った足に私はそういうべきなんだ。」
戦争が終了し、ビグローや他の捕虜はグアムへ連れていかれ、米国情報将校から長い演説と脅しを聞かされた。そして、彼らの恐ろしい体験を誰にも話さないと約束する書類にサインしろと強要された。
「我々はそれを読み、署名して、口をつぐむように言われた。」、ビグローは言う。「そうして私は礼儀正しくさせられた。」
何らかの理由で日本政府もアメリカ政府も捕虜の虐待について、完全な沈黙を望んでいた。日本の奴隷計画の中でも慰安婦の問題は最悪だ。
十三歳にも満たない多くの少女達をだまし、性的奴隷にした。戦後日本政府は、全ての慰安婦は単に志願してきた売春婦であり、完全に個人的な事業として運営されていた、と主張している。どの声明も、あきらかにうそだ。
憲兵隊が一九〇四年に朝鮮で日本軍のための組織的売春を開始し、全力を尽くしたのだ。その理由は、ベッドのそばから軍の機密がもれ、その諜報員が不注意な兵士やスパイを探りだす可能性があるというものだ。
最初は売春宿が下請けになった。一九三二年(昭・七)には、憲兵隊がすべての支配を取り戻した。典型的な軍部の慰安所は、建物が十戸あり、各々十の部屋に分かれていて、管理者の小屋が付属していた。女を内部にとどめるため、有刺鉄線で囲んであった。田舎の慰安所はテントだが、可動性をもつように列車の客車が備えてあった。朝鮮人と日本人のやくざが厳しく慰安所の安全を確保していた。
報酬は女の人種が基準となる。日本の少女が最高級、次に朝鮮人、沖縄、中国人、東南アジアと続く。後にコーカサスなどの白人が追加された。
高級将校は三円、通常の兵隊は二円五十銭、個人は二円を支払う。
台帳には各女性の給料と、客の人数を書き込む所定の書式で記録してある。
二十万人を越える若い女性や、青春期の女性が、三百五十万人の日本兵に奉仕するための性の奴隷として強要され、毎日十五人の客をとらされた。
名目上、月々八百円もらえるはずが、食事代、衣服、医療代、スープに飲料水代が差し引かれた。多くの少女は無学だったので、騙すのは簡単だった。ほとんどが金を貯めることもなく、戦争が終わったときも極貧だった。今日まできわめて秘密にされてきたため、日本の捕虜の扱い、市民の強制労働、慰安婦などの取り扱い状況の重要な詳細を知ることができなかった。しかしながら、一九四五年(昭・二〇)英国王室海軍が入手したファイルの中で、台湾の台北で捕虜収容所の長官によって書かれた文書が明らかにされた。
長官は丁度、一九四四年(昭・十九)八月一日付で部隊長、つまり第十一フォルモサ収容所部隊、秘密第十師団(憲兵隊)からの命令書を受け取っている。緊急事態の場合、彼は捕虜達の処遇について次のように指示されていた。
「彼等が個々にあるいは集団で撲滅されようが、又処理済みだとしても、多くの爆薬、有毒ガス、溺死、首はねなどを使用していようが、あるいは・・・誰一人として逃がすことは許されない。全員を絶滅させいかなる痕跡も残すことは許されない。」
(訳注、この章ほど議論を呼ぶ章はないのではないか。まさに、言われ放題。
事実を事実として受け止めたいが、あまりに一方的で気分はよろしくない。
しかし、反論しようにも、客観的な資料は乏しい。足して二で割るわけにもいかないし、翻訳者としては、原文どうりに書くしかない。各自の議論をお待ちします。ただ、日本が略奪した華僑やオランダ、英国人は植民政策の中で、原住民を搾取し、また奴隷のように扱い、暴利をむさぼっていたため、現地人もまったく同情する気もなかったのではないか。
狼が去って、虎が来た。と言う事か。
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708131 No.7326
>>7325
M資金の門番
2007-10-12 09:19:15 | GOLD WARRIORS
GoldWarriorsの翻訳のなかで、もう一人にお願いしてあった分のエピローグが完成した。これは後日全文を公開する。その中で宮沢氏に関して面白い事が書いてあったから紹介しよう。
もし誰かが手品のお膳立ての仕方を知っていたとすれば、それは宮沢だろう。誰も宮沢ほど詳しく1940年代はじめから大蔵省の内部業務を知る物はいないし、継続して関わった者はいない。
宮沢は1942年に大蔵省で仕事を始め、ジョン・フォスター・ダレスと51年の講和条約に関する秘密条件を交渉した3人の日本人のうちの一人だ。
宮沢はゆがめられた交渉で得た名声(威信)のおかげで、政治の世界に入り、今日まで驚くべき影響力の持ち主のままである。
宮沢は中曽根、竹下、小渕、森内閣で大蔵大臣を勤めた。この数十年間にわたって、宮沢は自由民主党の会計責任者であり、全ての不正資金の詳しい情報を持っていた。彼は多くの他の閣僚ポストにも就いており、M資金の「57年債」問題が最初に発表された時は内閣官房長官だった。竹下内閣の大蔵大臣だった時、宮沢はM資金と結びついたリクルート・インサイダー取引スキャンダルで竹下首相と一緒に辞任せざるを得なかった。1991年に、M資金の支配者、金丸と後藤田に助けられ、首相になった。宮沢は後藤田を副首相に任命し、金丸を自由民主党の副総裁にし、金丸には「共同首相」の非公式の役割を与えた。
しゃれた都内の料亭で行われたこの協調を祝う酒宴で、宮沢は金丸に約束した。「私はあなたの意志に反することは何もしないし、何でもあなたに相談しよう。」蜜月は短かく、1992年に金丸は佐川急便の一大スキャンダルに巻き込まれた。
佐川急便は政治的に影響力のある連中に戦争略奪金の賄賂を運んでいたのだ。金丸は自分の裁判が決着する前に、都合よく死んだ。(引用おわり)
まだ続くがこの辺までにしよう。宮沢氏が亡くなった時にも書いているが、私も彼の実力を過小評価していたようだ。立派だったと言うのではなく、彼は日米両国の中でもひときわ財務の重鎮だったのだ。本当に惜しい事をした。すべてを告白させてから死ぬべきだった。
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708131 No.7327
>>7326
小野田少尉の真実
2007-11-06 09:35:20 | GOLD WARRIORS
昨日でGoldwarriorsの翻訳を完了した。あとはもう一人に頼んである12章が残っているだけだ。ただし、タイピングと校正でもう少し時間がかかる。今月中に完成させよう。
ところで、第11章の最後に小野田さんが出てきた。ルバング島で生き残っていた小野田さんは真実を語らないままブラジルへ行ってしまった。国民は何も知らないが、今日、真実をここで明らかにしよう。少々長いがしかたがない。読んで欲しい。
前回取り上げた部分を貼り付けよう。
いま「小野田少尉」の告白本を読んでいるが、これが実に興味深い。というのは彼は22歳、昭和十九年の末に参謀本部から秘密の指令を受け静岡からルバングへ赴任した。彼の受けた指令の詳しい内容は今でも秘密だが、要は、戦争が終わっても玉砕はするな、ゲリラ活動をして敵軍の邪魔をしろ。ということだ。
そして、任務を解くには参謀本部の直属の上司からの命令が必要だった。(通常の命令系統とはちがう。)、だから、兄、母、同級生が呼びかけても投降できなかった。(小野田さんは実の兄貴が歌っているのを聞いている。) 上司たちは戦後名前を変え、あるいは所属を隠して生きていた。家族ですら自分の父親が中野学校の出身である事を知らないという。小野田さん、それから今でもフィリピンで戦っている戦士たちは、当時の上司が名乗り出て任務終了を伝達しなければならなかったのだ。自分たちは責任を逃れ、見捨てられた兵士たちは気の毒なものだ。
問題は、その任務だ。ルバング島はマニラ湾の真ん前の島で、確かに戦略的に重要なところだ。しかし、ルソン島自体が占領されてしまえばもう何の意味もない。小野田さんは中野学校で秘密情報部の人間だが、彼にはそこに残る意味があったわけだ。つまり、隠されている隠匿物資の監視だ。参謀本部は戦争終結を見込んで、終戦になっても誰も財宝に近づけないように小野田さんを派遣したのだろう。その任務を解く事が出来る人間は限られていた。フィリピンにはまだ日本兵がいるはずで、彼等はいまだに任務についているのだ。彼等に近づけば必ず銃を撃つだろう。本当に気の毒な事だ。(この内容は、Goldwarriors第十一章に出てくるらしいが、まだ訳していない。もう少しお待ちを)・・・・・以上
今日お伝えするのはその十一章の一部からの引用だ。
小野田さんに指令を出したのは竹田宮だった、それは竹田宮の従者だったフィリピン人のベン・バルモアが証言している。彼はルバング島で小野田を見ていると言う。そして、竹田宮はベンを連れてルバング島で略奪財宝の隠匿を指示していた。
終戦後、財宝を探しに来る者達から財宝を守るために派遣されていた特殊工作員が小野田たちだった。(当時、その島には三人の日本兵が派遣された。)
だから、彼が発見されたあと、日本は任務解除に谷口義美元大佐を派遣した。その一団の中にこっそり竹田宮が入っている、それはベンがテレビ映像で確認している。つまり、竹田が解除命令を出さなければならなかった。
秘密を握っている小野田は帰国後即座にブラジルへ送られ、ルバング島の発掘が終了するまで護衛に守られていた。(監視されていたと言うべきか。)
ルバング島の発掘は笹川良一だ。彼はマルコスと契約してルバング・リゾート開発をした。どのぐらいの回収をしたのかは不明だが、マルコスはそれを知らなかったと言う。笹川はそれを船舶振興会でロンダリングして自分たちの基金に入れた。
これが小野田少尉に関わるすべての真実だ。戦後六十年たっても何も国民は知らない。でも、戦争終了を知っていたにも拘らず、長い間忠実に任務についていた小野田さんの人生とはなんだったんだろう。
捏造の日本歴史研究所で後日アップします。特に重要と思われる章は見る事が出来るようにしています。ぜひご覧ください。
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708131 No.7328
>>7325
※第五章は現在公開されていなかったため、この章だけは自分で翻訳サービスを使用して日本語にしたものになります。題名の翻訳は既に翻訳してくれていた言葉をお借りしました
黄金の兵士 第五章 略奪品の隠匿作戦
1942年5月までに、マニラの15番埠頭には略奪品の積荷が山積みになっていた。日本軍は1944年後半まで、東南アジアから中国を経由する地上ルートを支配していなかったからだ。
マニラは、帰国した貨物船や修理のために足早に帰ってくる損傷した軍艦で日本に送る前に、最終的な選別と目録作りのためにそれらを集める論理的な場所だった。交渉によって戦争が終結しようとも、フィリピンとインドネシアを維持することが日本の希望であった。真珠湾攻撃から6ヵ月後、シンガポール陥落から3ヵ月後の1942年6月、日本はミッドウェー海戦に敗れ、優勢を取り戻すことはなかった。日本への海路は開かれていた。米潜水艦の魚雷は不良品で、日本の船体に当たって外れたり、跳ね返ったりしたからだ。これが修正されたのは1943年初頭のことだった。貴重な積荷を連合国軍機の攻撃から守るため、裕仁天皇は当初、秩父宮に4隻の1万トン級の高速客船を提供し、病院船であることを示す巨大な緑色の十字架で白く塗った(日本は国際的な赤十字の使用を拒否)。各船の身元は、偽の上部構造と余分なファンネルで隠された。
目撃談をさらに混乱させるため、それぞれに日本の正規の病院船の名前が付けられた。ニセの病院船はシンガポールやバタビアで財宝の積荷を引き受け、何百人ものVIP乗客も乗せた。日本の外交官や上級将校とその家族は、国際法によって攻撃から守られている病院船に乗って旅行する方が安全だと考えたのである。多くの人々が個人的に証言しているように、日本軍は病院や病院船を爆撃したり、空爆したりすることをためらわなかった。しかし、連合軍の飛行機や潜水艦が日本の病院船を意図的に攻撃することはないと確信していた。出航した偽病院船は、主要なシーレーンを避け、ジャワ海を東にセレベスまで進み、ボルネオ島の沿岸を北のミンダナオ島まで進み、フィリピンの島々を抜けてマニラ湾に向かった。他の船は、適切な外国船が拿捕されたときに追加された。その代表例が、蒸気船時代の有名な先駆者にちなんで命名されたオランダの客船オプ・テン・ノールト号だった。1942年2月にジャワ島沖で拿捕されると、驚くべき航海が始まった。フィリピンと日本に財宝を運ぶ航海を繰り返し、終戦時には金塊を満載して舞鶴海軍基地沖に沈められ、1990年に日本軍によって回収された。参加者の一人から入手した回収時の写真は、太平洋戦争終結から半世紀を経た現在も、政府高官や日本の大企業がゴールデンリリーの略奪で利益を得ることに関与し続けていることを明らかにしている。(CD参照)
1927年にアムステルダムで建造されたオプ・テン・ノールト号は、東インド諸島のロイヤル・パケット・ナビゲーション・カンパニーの客船として就航した。ジャワ島を拠点に、スラバヤ、スマラン、バタヴィア、ベラワン=デリ、シンガポールを結ぶグレート・エクスプレス・サービスとして知られる定期航路を運航した。この船は、船首が水平で、一重の高いファンネルを持ち、優雅なクルーザー船尾を持つ可愛らしい船で、群島のオランダ人に大変人気があった。6,000トン強、レンツの蒸気エンジンで巡航速度は15ノット、1等と2等には200人の乗客を収容でき、さらに1,200人の原住民甲板の乗客を乗せることができた。太平洋戦争が勃発すると、オランダ海軍の病院船として改装され、赤十字の船体番号が明記された。外交ルートを通じて日本に通知され、東京は正式に病院船として認める返事を送った。それにもかかわらず、1942年2月21日、オペ・テン・ノールトがスラバヤの西の入り口にいたとき、磁気機雷から保護するための脱ガウスが行われ、2機の日本軍機の攻撃を受けた。彼らの爆撃で船は損傷し、医師1人と看護婦2人が死亡した。G.トゥイジンガ艦長は修理のため、ゆっくりとスラバヤ港に向かった。その6日後、ジャワ海戦が始まった。戦闘というより虐殺だった。日本艦隊は30,000ヤードという驚異的な射程距離を持ち、泡の痕跡を残さない酸素推進システムを備えた新型魚雷で武装していた。イギリスの巡洋艦エクセターはこの魚雷で損傷し、オランダの巡洋艦デ・ルイターとジャワは3隻の駆逐艦とともに撃沈され、連合艦隊は壊滅した。生存者を探すためにスラバヤの修理ヤードから急いで出てきたオプ・テン・ノールトは、戦闘現場に出くわし、すぐに2隻の日本駆逐艦に迎撃された。負傷者を救助することを禁じられ、その場にとどまるよう命じられた。翌日の正午、トゥイジンガ艦長はオーストラリアに向かうことを決意し、最高速度でジャワ島沿岸に向かった。3時間後、日本軍機に迎撃され、爆弾を落とされ、引き返すよう命じられた。命令に従い、バンドジャルマシンに向かい、そこで970人の連合軍捕虜を乗船させ、マカッサルまで護衛付きで輸送した。その中には、巡洋艦エクセターからの生存者800人も含まれており、その多くは裸だった。船は捕虜収容所の病院施設として8ヶ月間そこに留まった。滅菌された手術器具を汚染しようとする日本人看守を止めようとした医療スタッフの一人、S・J・ウィーマンスは、全乗員の前でひどく殴られた。1942年10月16日、オプ・テン・ノールト号は日本国旗を掲げて横浜に向けて出航した。1942年12月5日に到着したトゥイジンガ船長は、国際赤十字のスイス代表と話すことを求めたが、拒否された。その代わり、乗組員と医療スタッフ(男性29人と看護師15人)は、広島から75キロ離れた妙義の元アメリカ人宣教師学校の収容所に入れられ、赤十字の一員として捕虜以上の待遇を受けた。
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708131 No.7329
>>7328
一方、横浜では、オプ・テン・ノートは、偽の輪郭と2本目のファンネルを取り付けられ、白地に巨大な緑の十字架が描かれ、「天王丸」と命名された。その3ヶ月後の1943年3月、今度は氷川丸と改名された。氷川丸は1929年に日本郵船向けに建造された11,000トンの大型高速定期船で、病院船として正式に登録されていた。本物の氷川丸は横浜に係留され、ホテルや観光名所として利用された。その後、偽装されたオプ・テン・ノールトは、軍需品やVIP家族を乗せてシンガポールに向けて出航した。戦争の残りの期間、氷川丸はシンガポールとマニラの間を航海し、ゴールデン・リリーのために財宝を運んだ。
1944年10月7日、ジャワ海でオランダの潜水艦ズワルドヴィッシュ(ソードフィッシュ)に目撃されたが、潜水艦のスキッパーは正当な日本の病院船だと思い、通過させた。その年の11月1日、船名は天王丸に戻された。終戦の数週間前、彼女は宝を積んで再び横浜に到着した。荷揚げの代わりに日本の西海岸にある舞鶴海軍基地に運ばれ、大量のダイヤモンドやルビーとともに金とプラチナの延べ棒が積み込まれた。
日本の降伏が発表される2日前、深夜に舞鶴湾に持ち出され、日本人船長と少数の乗組員が射殺され、キングストン弁を開いて沈没させられた。日本政府はオランダ政府に、かつてオプ・テン・ノールト号であった船は戦時中に機雷で沈められたと伝えた。(1990年に回収されたとき、日本の関係筋は積荷を3兆円、つまり300億米ドルと評価した;回収の話は第13章で触れる)。
オプ・テン・ノールト号は、日本に数多くあった偽病院船のひとつに過ぎない。この船で運ばれた財宝がどうなったかは、今日まで秘密にされてきた魅力的で複雑な謎である。パズルのピースは環太平洋に散らばっており、組み立てるには忍耐が必要だ。以下は、その一部である: 略奪品が日本に届くと、ボーキサイトやタングステンなどの戦略物資は戦争生産に使われるか、軍事施設の地下壕に隠され、数年後にそこから姿を現した。例えば、舞鶴海軍基地周辺にはそのような地下壕がたくさんあった。ハード・カレンシー(硬貨)に関しては、日本は多くの国から盗まれた硬貨を処理する物流問題に直面した。金貨と銀貨はそのまま保管されたが、真鍮、青銅、銅貨は戦争産業用に溶かされた。オランダ領東インドでは、日本は後に1億9600万ギルダー相当の硬貨を押収したことを認めている。
これらの多くはアメリカで鋳造されたばかりだった。1940年にオランダがナチスに制圧されたとき、ジャワ島のオランダ植民地政府は本国から硬貨を入手することができず、サンフランシスコ、デンバー、ワシントンD.C.の造幣局で新しい硬貨を作らなければならなかった。1946年、アメリカの情報筋はオランダ軍事使節団に、これらの硬貨110ケースが横須賀海軍基地から日本銀行に移されたことが確認されていると伝えた。
オランダ軍事使節団のシリング中将は、1947年9月、東京湾から30トンのオランダ銀(5,637インゴット)が回収されたことを政府に報告した。これはジャワ島の日本軍第16軍によって没収され、偽の病院船で大阪造幣局に運ばれたものであった。その他のオランダ製インゴットもエチュジーナ湾から回収された。オランダ海軍中尉A.A.Looijenの戦後の探偵活動のおかげで、ジャワ島から盗まれた187トンのオランダ銀地金は、日本銀行に辿り着き、後にオランダ造幣局に返還された。戦争中、捕虜の奴隷労働者として日本で過ごしたLooijen中尉によると、オランダ、インド、イギリス、フィリピン、中国、インドシナ貨はドラム缶に入れられ、川崎と横浜の間にある東京のすぐ南、あすんどりの旧スタンダード石油精製所内にある国書という会社に持ち込まれたという。施設の管理者は山崎陸軍大尉だった。そこにいたオランダ人捕虜の一人、C・H・L・ブロークハイゼンは硬貨の選別を手伝った。彼の日本人作業員は、戦後まで金貨と銀貨を隠し、その後金属を溶かしてインゴットとして再鋳造し、洗浄するのが政府の意図だと話した。他の捕虜は、東京から100マイル北にある日立の工場で銅貨の再製錬を見た。川崎の東京地区第2捕虜収容所に収容されていたアメリカ人捕虜、エド・ジャックファートは、こう語っている。そこは、第二次世界大戦前にスタンダード石油が所有していた石油精製所で、敷地内のいたるところでスタンダード石油の看板を見かけました。そこには巨大な倉庫があった。私たちは、何度も倉庫での作業を割り当てられた。驚いたことに、日本船が東南アジアから持ち込んだ戦利品の多くが、この倉庫に保管されていたのだ。私たちは、ほとんどすべての東南アジア諸国の銀貨が入った何百もの袋を調べた。そこには何トンもの銀貨が保管されていたはずだ。そこには、私たちがあまり注意を払わなかった他の種類の盗品もありました」。その中には、ドラム缶に保管されていた大量のダイヤモンドのルースも含まれていた。最終的に、ダイヤモンドや色石は選別され、最も上質なものは脇に置かれ、最小のものは産業用に委託された。残りは樽に戻され、エリートの倉庫や個人の金庫に保管された。児玉提督をはじめとする東南アジアの日本軍将校や暴力団は、最大で最高のダイヤモンド、サファイア、ルビーを保管していた。児玉は軍用機で日本に持ち帰ることができたが、ほとんどの将校は将校の隠し場所に宝石のコレクションを隠し、戦後に回収して売却した。私たちのCDには、フィリピンの将校の隠し場所から回収され、個人売買のために提供された非常に大きな石数個について記述した文書が再現されている。
中国から陸路で、あるいは海路で日本に到着した金やプラチナのインゴットは、個人の金庫か、爆弾や地震に耐えられるように大規模に作られた日本アルプスのトンネルや地下壕に置かれた。支配階級のエリートたちは、この財宝を下層階級の人々に分け与えるつもりはなかったからだ。そもそもゴールデンリリーが作られたのは、このような理由からであった。日本で最も強力な閥である皇室と、その最も重要な支持者である大物財閥のために財宝の大部分を確保するためであった。最大の地下壕群は、1998年冬季オリンピックの会場となった長野近郊の山中にある松代にある。松代地下壕は、鉄筋コンクリートのトンネルのハニカム構造で、全長10 万立方フィート以上の地下空間があり、もともとは日本が連合国に侵略された場合、皇室、貴族の主要メンバー、すべての政府機関を収容するためのものだった。日本の情報筋によれば、その支坑のいくつかは、戦後日本の復興を支えるのに十分な金とプラチナの延べ棒を保管するために使われたという。松代は1万人の朝鮮人奴隷労働者によって掘られたが、そのほとんどは支坑が封鎖されたときに生き埋めにされたと言われ、二度と姿を見ることはなかった。悲劇的なことに、これは珍しいことではなかった。戦後、連合国の調査官は、本州の北西沖にある佐渡と呼ばれる日本の島で、387人のアメリカ人、イギリス人、オーストラリア人、オランダ人の捕虜が同じような運命をたどったことを知った。この美しくも人里離れた島は、伝統的に退位した天皇、貴族、詩人、司祭、有罪判決を受けた犯罪者の流刑地として使われていた。この島には、奴隷労働者に対する残酷な扱いで悪名高い三菱が所有・運営する金鉱があった。これらの連合軍捕虜は、相川という島の町の近くにある鉱山の坑道のひとつで働いていた。普段は50人が地上に出て、車輪付きの鉱石箱から石炭をホッパーに移す作業をしていた。しかし、日本が降伏する直前の1945年8月2日、囚人たちは全員、坑道の最深部、地下400フィート(約3.5メートル)に集められ、そこで金塊を切り出す作業に従事させられた。看守たちは慎重に地上に引き揚げ、車輪付きの鉱石容器をすべて坑道に押し込むよう命じられた。
前夜、日本の解体専門家が坑道に爆薬を200フィートと300フィートの深さに隠していた。午前9時10分、連合軍の奴隷労働者全員が地下深く潜っている間に、地雷爆破の命令が下された。強制労働収容所の副司令官であった津田義郎中尉は、この出来事を戦争犯罪調査官にこう語っている: 「私は100ヤード離れたところから見ていて、鉱山の入り口から煙と粉塵が押し寄せるのを目撃した。煙と埃が晴れるのを待つ間、手の空いている看守は全員、狭軌の鉄軌道の解体に取りかかり、その一部を坑道入口まで運んだ。午前10時30分までに、鉄軌道の痕跡はすべて取り除かれた。
[その後]、解体部隊が鉱山に入り、入り口のすぐ内側にさらに爆薬を仕掛けた。私が大きな爆発音を聞いたのは、収容所に戻る途中でした。振り返ると、岩と土の雪崩が坑口のあった場所を完全に覆っていました」。津田は、爆破される前に坑内に財宝が投入されたのを見たとは言っていないが、これほどまでに完全に痕跡を消し去り、入り口を覆い隠す理由が他にあるだろうか。三菱に隠し事がなければ、佐渡にいた387人の連合軍捕虜は、他の多くの捕虜と同じように、複雑な手続きなしに送還されたはずである。佐渡島の別の三菱金山で働いていた1000人以上の朝鮮人奴隷労働者も、終戦時に跡形もなく消えた。彼らの存在が知られるようになったのは、1991年に三菱商事が戦時中の奴隷労働者にタバコの配給を行ったという公式記録が公開されてからである。タバコの吸殻の数だけ大量殺人の犠牲者として記憶されるのは、倒錯している。
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708131 No.7330
>>7329
この種の情報がすべてアメリカの公文書館から抹消される前に、アメリカ軍が日本で莫大な戦利品を発見したと報告していたことは、公の記録として残っている。(この文書のタイトルは『マッカーサー元帥の報告』である): 日本におけるマッカーサー: 参謀本部作成『占領軍段階第一巻補遺』、米国議会図書館カタログカード番号66-60006、ファクシミリ復刻版、1994年、戦史センター、Pub 13-4)。ここにあるのは、「日本が所有した金銀の山」…「強迫、不当な没収、剥奪、汚損の下で日本が取得した財産」…「日本で発見され、連合国(中国)にあったと確認された財産で、日本またはその代理人による詐欺や強制によって日本に持ち出されたもの」…。 「金、銀、宝石、外国の郵便切手、彫刻版……日本人が所有または管理していた貴金属とダイヤモンドの備蓄」……1つの備蓄に30,000カラットのダイヤモンドがあり、「52.5ポンドの備蓄プラチナ」が発見され、当時の価値は5,400万円(1945年の価値で1,300万米ドル以上)であった。
占領軍の壮大な任務のひとつは、金、銀、宝石、外国の郵便切手、彫刻版、そして日本で合法でないすべての通貨を収集し、警備下に置くことであった。… 「第8軍は、戦時中、日本または枢軸国政府が所有または管理していた貴金属とダイヤモンドの備蓄を押収し、保管するよう指示された。第8軍の機関はまた、貴金属や宝石が発見された場合はいつでも没収し、東京や大阪の米国の金庫に預ける権限を与えられた。このことから、アメリカは日本が占領した国から財宝を略奪していたことを知っていたことは明白である。その財宝がその後どうなったかは、今日に至るまで国家機密となっている。
1947年、マッカーサー元帥は多くのアメリカ人宝石学者を東京に連れてきた。そのうちの一人がエドワード・P・ヘンダーソンだった。スミソニアン博物館が行ったオーラルヒストリーのインタビューによると、マッカーサーはヘンダーソンを日本に招き、米軍が東京で回収した約5000万ドルの宝石を鑑定させた。その中には、焼け落ちた建物の灰の中から発見されたものもあった。ヘンダーソンはこう振り返った: 「バケツいっぱいの砂や砂利の中にダイヤモンドがたくさん入っていました。私たちの大きな問題のひとつは、汚れや煙などを取り除くことでした。私たちは日本銀行の金塊を保管している金庫の中で作業していたんです」。
ジャーナリストのロバート・ホワイティングによれば、約80万カラットのダイヤモンドはその後、日本銀行からマッカーサー司令部の管理下に移され、それっきり姿を消したという。アメリカの公文書館でその記録をたどろうとしても、すべて失敗に終わった。第二次世界大戦中に日本が略奪した80万カラットのダイヤモンドが、なぜ今ワシントンで「国家安全保障のための極秘事項」として扱われているのか、興味深いところである。誰の国家安全保障なのか?
三井倉庫で発見された5トンの銀塊は、日本が戦利品を連合国の手に渡さないようにするために抱えていた問題を物語っている。倉庫は安全ではないため、洞窟、トンネル、坑道がはるかに良い解決策だった。日本一のヤクザであった児玉提督でさえ、個人的な戦利品の隠し場所がなくなり、皇居の丸天井という特権的な隠し場所を利用せざるを得なくなった。東京ジャーナルによれば、「児玉はこれらの貴重品のかなりの部分を皇居内の皇室保管室に運ばせた。やがて宮内大臣から、占領軍に見つかる前に持ち出すように言われた。噂では、この役人の行動は天皇の直接の要請によるものだと言われていた」。
フィリピンに残っている財宝は?1943年初頭までに、アメリカは魚雷の問題を解決し、フィリピン真北の潜水艦封鎖はほぼ不可解なものとなった。以後、略奪品の多くはフィリピンに留まらざるを得なくなった。これは、秩父宮とその助言者たちに新たな難題を突きつけた。金は不思議な商品だからだ。金地金は手を変える必要がないからだ。いったん金塊の現物を手にすれば、それを安全な場所に置き、何十年、何百年と置いておくことができる。ゴールデンリリーは、すべての金とプラチナをフィリピンやインドネシアの深い保管場所に隠すことができるのです。まるで松代地下壕にあるかのように、安全な場所で眠り続けることができるのだ。たとえ日本が敵に侵略され、占領されたとしても、この金塊の所在は秘密のままである。世界が関心を失ったとき、個々の金庫は目立たないように回収することができる。これが、四天王と呼ばれた当時日本最高の金融ブレーンを含む秩父宮のアドバイザーたちの主張であった。深い坑道の設計は問題なかった。日本では、トンネル掘削は1000年も前から行われていた。どの藩主も土塁、トンネル、地下壕を持っていた。19世紀後半には鉄道トンネルが掘られ、石炭やその他の鉱物の採掘が日本の主要産業となったため、財閥は何万人もの日本人を坑夫として雇っていた。彼らは現在軍隊に所属しており、日本兵は坑道掘りの常習者だった。銃を持たせれば穴を掘る。アメリカは、日本兵をこの穴から焼き出すために火炎放射器を開発した。戦時中に掘られたトンネルが天然の洞窟と要塞や砲台を結んでいた沖縄ほど、優れた例はない。沖縄に点在する中国の墓は、この地下の防衛迷宮と横のトンネルでつながったピルボックス(鉄筋コンクリート製の防御陣地)に姿を変えた。
フィリピンの地質には天然の洞窟が多く、マニラは隠れ家だらけだった。4世紀にわたるスペインの植民地支配の間に、囚人たちによって街の地下に精巧なトンネルが掘られた。トンネルは、場合によっては地下墓地のある教会、大聖堂、修道院、あるいは精巧な地下牢を備えたスペインの砦につながっていた。1571年、スペイン人はセブからマニラに本拠地を移し、現地のモスレム支配者ダト・スリマンの要塞を引き継いだ。スペイン人はこの要塞をサンチャゴ要塞と名付け、隣接する60ヘクタールの土地を巨大な土塁の壁で囲んだ。スペイン人たちはこの複合施設をイントラムロス(「城壁の中」)と呼び、すぐに2つの大きな大聖堂と多数の政府庁舎を増築した。当時、イントラムロスはパシッグ川がマニラ湾に注ぐ河口の南岸にあったため、城壁の周囲に広い堀を掘ってイントラムロスを人工島とした。それ以来、水辺は撤退し、堀は公園となった。スペインの兵士、商人、司祭たちはみな、フィリピン人の使用人とともにイントラムロスの城壁の中で暮らした。奴隷も囚人も、ワイン、ブランデー、マンチェゴチーズ、チョリソ、セラーノハム、オリーブ、穀物、銀、金、火薬などを貯蔵するために、イントラムロスの地下にトンネルを掘る仕事に従事した。教会や修道会は、貯蔵庫や埋葬用の地下墓地を掘った。この地下迷路は、秩父宮に戦利品の隠し場所を提供した。憲兵隊はサンチャゴ砦を司令部としていたので、イントラムロスの警備は厳重だった。既存のトンネルを壁で塞ぐか、横穴を掘って密閉し、巧妙にカモフラージュすれば、中に財宝が隠されているとは誰も気づかないだろう。秩父が直面する最も差し迫った問題は、湾岸の倉庫からイントラムロスまで、いかに慎重に財宝を運ぶかということだった。陸軍のトラック隊は地元の好奇心を刺激する。マニラはホームレス難民、行商人、売春婦、ストリートチルドレン、ギャング、ハスラー、ゴロツキでごった返していた。観客が多すぎたのだ。その解決策は、15番埠頭から直接サンチャゴ要塞まで新しいトンネルを掘り、そこでイントラムロス地下の既存のスペイン時代のトンネルと合流させることだった。工事は1942年5月初旬に始まった。掘削された大量の岩と土は、15号埠頭のすぐ南にあるエルミタ地区の埋め立て地としてマニラ湾に捨てられた。掘削作業は何千人もの捕虜と、朝鮮、中国、フィリピンからの奴隷労働者によって行われた。メル・グティエレスは、バタンガス市のバリオに住む健常な男性全員と一緒に、掘るためにそこに連れて行かれたとき、まだ8歳だった。小さなメルは1日12時間、週7日、2年間働かされた。私服姿の憲兵隊将校は、彼が毎日ノルマをこなすのを確認した。わずかな配給で、多くの掘削労働者が死に瀕した。1943年5月までに、陸軍トラック2台が反対方向に通れるほどの幅を持つ、全長35マイルの一次トンネルが完成し、そのすべてが鉄筋コンクリートで覆われた。トンネルの一端は、イントラムロスを囲むスペイン壁のサンタ・ルシア門にあり、マッカーサー元帥の戦前司令部があったフォート・マッキンリーから直線距離で10マイルも離れていた。トンネルのほとんどは比較的浅く、イントラムロスのすぐ下の粘土の中に掘られ、水位と玄武岩の岩盤のすぐ上に残っていた。しかし、秩父の技術者たちは、パシッグ川では例外的に岩盤を掘り下げ、川の下に止水トンネルを作った。これは、外部には知られていない類まれな技術的偉業であった。1975年、ロバート・カーティスが日本の宝の地図をリバース・エンジニアリングしてこのトンネルを発見したときに知ったように、全長35マイルのトンネル網の端から端まで車で移動することは可能だった。しかし今日、その存在はほとんどのフィリピン人に知られていない。2つの入り口を除くすべてが、最近の工事によって塞がれてしまったのだ。トンネルが掘られていた1942年の夏まで、秩父宮と他の皇太子たちはマニラ周辺の宝物庫候補地を視察した。彼らは、オートバイのアウトライダーを従えた6輪の重い93式スタッフカーの車列で移動した。このリムジンは注目を集めた。戦前のスタッドベーカーやハドソンのシャシーをベースに開発されたこの車は、後部座席の後ろにキャンバス地の幌を折りたたむことができるオープン・ツーリングカーだった。リア・アクスルは2本で、左右に2つの後輪を備えていた。白いサイドウォールのタイヤは、クロームメッキのスポーク・ホイールに取り付けられていた。各フロント・ホイールの後ろのフェンダーは、スペア・タイヤを収納するためにくぼんでいた。スペアタイヤが収まるようになっていた。右のフロントフェンダーには、一等親王の紋章である白地に赤い14弁の菊の花(天皇の紋章は16弁)をあしらったずんぐりした旗印があった。93型にはガソリン仕様とディーゼル仕様があり、それぞれ68馬力と70馬力だったが、7,500ポンドの車重を考えると、最高速度は時速60マイルにとどまった。
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708131 No.7331
>>7330
皇太子たちの後ろには、秩父の軍部職員と技術者たちが、1930年代に世界中で製造された醜い黒いセダンのような、普通の日産セダン6台に乗ってやってきた。そのあとをトラック3台分の重武装した皇宮警察が続いた。皇太子たちは、マニラ大聖堂、サン・オーガスティン教会、サンチャゴ砦、マッキンリー砦、サント・トーマス大学に特に関心を寄せていた。彼らは、これらの歴史的建造物のそれぞれに宝物保管庫を作る方法を見つけ、その宝物保管庫を新しいメイントンネルに支坑で接続することによって、目に見えないようにすることを望んでいた。秩父の技術者たちは、マニラの大きな地図を用意し、そこにすべての候補地が記されていた。その地図には、メイントンネルのルートが示され、将来の各ヴォールトへの小さなアクセストンネルを建設する必要がある場所が示されていた。宝物保管庫が偶然発見されたり、大砲や空爆の直撃を受けたり、将来同じ場所に建設されたりするのを避けることが主な考慮事項だった。ジュネーブ条約は病院、学校、捕虜収容所、教会、歴史的記念碑への爆撃を禁じているため、これらの場所に宝物保管庫を作ることが最善の保険となった。さらに念のため、各宝物保管庫は爆弾が貫通できないほどの深さ(約90フィート)に作られた。これらの保管庫は、将来、掘削、杭打ち、水掘削などの工事中に発見されるかもしれない。そのため、彼らは歴史的な記念碑の下など、将来の建築プロジェクトが立ち入り禁止になるような場所を選び、また既存の水源に近い場所も選んだ。アカシアの大木の近くなど、妙に詩的な選択もある。秩父宮の弟である三笠宮は、一族の中東問題の専門家だった。アカシアの木は聖書の中でメシア復活のしるしとして言及されている。アカシアは根が深いため、干ばつで枯れたり、台風で根こそぎ倒れたりすることはない。皇太子たちが最初に訪れた場所のひとつは、マッキンリー砦にあるマッカーサー元帥の司令部だった。マッカーサーの空襲用シェルターは、司令部の建物の前にある芝生に覆われた四角形の60フィート下にあった。コンクリートの階段が2段続き、鉄筋コンクリートの大きな部屋が3つあった。マッキンリー砦の将校クラブは、なだらかな尾根の一端に建てられており、遠くの海からの涼しい風を楽しむことができた。この尾根の片側にはテニスコートがあり、反対側にはパレード場があった。ゴールデン・リリーのメイン・トンネルは、パレード・グラウンドの下に掘られ、将校クラブの下の丘に掘られることになった。マッカーサーの防空壕へと続くコンクリートの階段の下で、新しいトンネルは左へ100フィート(約1.6メートル)ほど進み、将校クラブのプールの真下に出る。プールの真下90フィートの深さで、秩父は小さな宝物庫の掘削を命じた。丘は固い岩だったので、支保工は必要なかった。
イントラムロス内では、サン・オーガスティン教会とその隣にある修道院にいくつかの宝物保管庫を設置することが決定された。どちらも16世紀、不運に終わったスペイン艦隊をエリザベス朝時代のイギリスに送ったフィリップ2世の統治時代に建てられた。教会はマニラの東で切り出された切石で建てられた。教会の地下には、司祭、貴族、裕福な庶民の遺骨を納めた地下墓地があった。回廊の中庭には、熱帯植物が植えられた庭園があり、巨大な石の花の形をした噴水を取り囲んでいた。両側のアーチ型の通路の壁には、フィリピン人の群れを世話する司祭たちを描いた、幅6フィート、高さ8フィートの大きな油絵が26枚飾られていた。
教会の横には修道院があった。皇太子たちが1942年に訪れたとき、修道院は宗教的な聖遺物、聖人の像、豪華な司祭服でごった返していた。レシビドール(大広間)は長さ150フィート、幅50フィートで、一番奥には大階段があった。一方の壁には、地下墓地へと続く狭い階段があった。
父のサン・オーガスティン計画はすぐに具体化した。教会の回廊にある石の噴水は、ゴールデンリリーのメイントンネルが始まるサンタ・ルチア門から400メートルも離れていた。門から分岐トンネルを掘り、この泉の真下に宝物庫を作ることにした。宝物庫は30フィート四方で、金と美術品がぎっしりと詰まっている。マッカーサーのプールの下にある金庫のように、サン・オーガスティンの噴水の下にあるこの金庫は、将来にわたって安全であろう。
噴水の下からは、教会のカタコンベの下、フアン・デ・マシアス神父の地下墓地の真下に、もう一つのトンネルが掘られる。そこには、鉄筋コンクリートを敷き詰めた20フィート×30フィートの丸天井が作られる。この2つの保管庫が財宝で満たされると、そのアクセス・トンネルの入り口は超硬質セラミック・コンクリート化合物で封鎖され、見えなくなる。
ゴールデン・リリーは日本のセラミックの専門家を起用し、驚異的な硬度のコンクリートを作り上げた。セメントの栓をトンネルの壁の通常の部分に似せて成形し、その合成物を顔料と地元の土で着色することで、入り口は周囲の環境に完全に溶け込んだ。分岐トンネルの入り口が存在するとは誰も想像できないだろう。ロバート・カーティスが発見したのは、彼がオリジナルの地図を持っていたからだ。
サン・オーガスティン教会に隣接する修道院のレシビドールも宝物庫となった。スペイン人が最初にこの巨大な部屋を建設したとき、天井と、その上に追加された床と屋根の重量を支えるために、彼らの石工たちは巨大な切り石のアーチを奥の3分の2のところに取り付けた。秩父は教会の裏の敷地で、同じ淡い灰色の切り石の山を見つけた。ゴールデンリリーの石工たちは、これらの石と同じようなモルタルを使ってアーチを埋め、頑丈な壁にした。これでレシビドールの3分の1が閉ざされ、20フィート×50フィートの宝物庫ができた。レシビドールは公共のスペースではなく、修道院の住民のためだけのものだった。そのため、それがどのようなものかを知る人はあまりいなかった。しかし、修道院の現在の住人は部屋が変わったことに気づくだろうから、憲兵隊にはレシビドールに詳しい神父や教会の労働者を皆殺しにする仕事が与えられた。一方、教会の文書館や記録館では、関連文書や図面がすべて捜索された。これらは焼却され、記録係は刺殺された。(アメリカ軍がマニラを奪還したとき、修道院の地下の浅い墓穴から聖職者服を着た45人の死体が発見された。ほとんどの死体は手を後ろに縛られ、銃声で注意を引くのを避けるために銃剣で殺されていた)
秩父宮はユーモアを交えて他の王子たちを巨大な油絵が飾られた回廊の通路に案内し、「原住民を祝福する聖アウグスティヌス」と題された絵の前で立ち止まった。聖人は右手を上げ、新しいレシビドールの宝物庫の方向を指さしているようだった。秩父は側近に命じて、その手に指を一本余分に描かせ、偽装された入り口を直接指し示させた。この場所の施工図を作成した技師は、聖人の6本目の指を支点とした。(これは「六本指サイト」として知られるようになった)。
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708131 No.7332
>>7331
次に、王子たちは近くのマニラ大聖堂に目を向け、2つの場所を選んだ。ひとつは大聖堂の前にある大きなアカシアの木の下に、もうひとつは祭壇の真下に掘られた。王子たちは、将来誰も祭壇の下を掘ることはないだろうと確信していた。両方のヴォールトは、サン・オーガスティン教会の石造りの噴水の下から枝分かれしたトンネルを通って掘られた。
リサール通りにあるサント・トーマス大学で、彼らは大きな地下室を見つけ、その一端を閉鎖して実質的な宝物室を作ることにした。この建物は、女性や子どもを含むアメリカ民間人の収容所であったため、爆弾から安全であった。赤十字が米軍に通告したため、大学は爆撃機の立ち入り禁止区域となった。その後、王子たちはサンチャゴ砦を構成するすべての建物と敷地を視察した。憲兵隊の本部はどこでも仕事ができる。いくつかの隠れ家が選ばれた。一つはサンチャゴ砦の前庭にある大きな噴水の下だ。マニラ大聖堂のアカシアの木の丸天井から枝のトンネルを通って行く。(1980年代、トレジャーハンターがこの噴水の下に3インチの穴を開けた。その穴を掘ったとき、腐敗した死体のガスが彼らを病気にした。連合軍捕虜は1943年に35マイルのトンネルのその端に生き埋めにされていた。サンチャゴ砦は臭いが消えるまで1週間閉鎖された)
サンチャゴ砦の2番目の隠れ家は、スペイン人将校の中庭にあるアカシアの木の下で、殉教した19世紀の詩人・小説家ホセ・リサールの記念碑のそばにあった。(この丸天井は1985年にイメルダ・マルコスに忠誠を誓う軍部隊によって回収された。1942年当時、4000人以上のアメリカ人とフィリピン人の捕虜がサンチャゴ砦の地下牢に監禁され、死刑になる前に尋問された。何千人もの洗われていない捕虜とくすぶった死体の臭いが、砦に独特の香りを与えた。パシグ川沿いの集団墓地は1942年にはすでに満杯だったため、憲兵隊はほとんどの死体をトラックで湾岸まで運び、はしけに積んでマニラ湾に捨てた。潮の流れによって、死体はコレヒドールを過ぎ、南シナ海へと運ばれた。砦の主要構造物には3つの地下牢があり、それぞれが低層階にあった。最も深い地下3階はパシッグ川の水面下にあった。毎日、一度に200人がこの地下牢に押し込められ、弁を開けて水を入れた飢えた男たちがパニックに陥って溺死するという恐ろしい死に方だったが、弾薬の節約にはなった。彼らが死ぬと、他の囚人たちが古いビルジポンプを使って水を排除した。
北側の地下室2は60フィート×120フィートともっと広く、処刑室として知られていた。サンチャゴ砦の囚人のほとんどは、ここで憲兵隊に尋問の過程で個別に殺害された。帝国の戦利品が優先されたため、秩父宮は地下牢を空にし、臭いを消すために水をかけるよう命じた。それが終わると、彼は検査のために戻ってきた。ここで秩父宮は、水面下に落とし穴を作るよう命じた。坑道が掘られる間、数百人の捕虜が土嚢の壁を維持し、川の水の流入に対して手押しポンプを操作した。穴の底は古い枕木で覆われ、その上に赤い色の大理石の板が敷かれた。大理石の板の上には木枠が置かれ、木枠の中には金の延べ棒が詰められた。そして、穴を掘った捕虜たちは殺され、彼らの遺体の上に土を積み上げ、コンクリート板を打ち、通常の地下室の床の高さまで埋めた。次は地下3階だ。ダト・スリマンの砦が最初に改造されたとき、スペイン人は4つのエアシャフトを作った。最も大きなものは、最も深い地下牢へと続いていた。ゴールデン・リリーの技術者によって拡張され、補強された。ここは、マニラの各銀行や戦前のフィリピンの中央銀行であったインテンデンシアから持ち出されたモスラーの金庫の保管場所となった。空っぽのまま、この大きな金庫22個が最大のエアシャフトから土の床に下ろされた。金庫は75キロの金塊で満たされた。その後、金庫は施錠された。地下室2と同様、全体の上に厚さ1フィートのコンクリートスラブが敷かれた。別のモスラー金庫が運び込まれた時、捕虜たちは緩い岩と土で通気口を埋め始めた。大急ぎでこの金庫を埋め戻しの上に降ろし、さらに土と岩を加え、別のコンクリートスラブを打った。砦の平らな屋根の上には、最大のエアシャフトの上部が再建され、スペイン時代に切り出されたオリジナルの石で塞がれた。(1970年代後半、これらのモスラー製金庫は、マルコス大統領のために、彼の弟子であるギル・ガディ博士が率いるチームによって回収された)
残りの小さなエアシャフトのひとつには、金の延べ棒の入った箱が降ろされ、金貨と銀貨の入ったドラム缶が続いた。このシャフトには超微細な砂が詰められ、固く固められ、屋根の高さのすぐ下に厚さ5フィートの鉄筋コンクリートの板で蓋がされた。もし誰かが横からエア・シャフトを掘れば、超微細な砂が陥没して生き埋めになってしまうだろう。簡単に割れる青酸カリの小さなガラス瓶が砂に混ぜられていた。サンチャゴ砦の隠し場所は他に2つあった。ひとつは地下の部屋にあった。もうひとつは雨水貯水池。もうひとつは、スリマンの宮殿の基礎にある雨水貯水槽だった。
秩父宮殿下と彼の技術者たちによるこのような計画は、建設段階の「ブルーシリーズ」の技術図面に発展させるのに何週間もかかった。最終的には、日本の地図製作者によってコード化された復興地図が描かれた。後日、この「赤色系列」の回収地図が、日本チームを各現場まで案内し、深さを判断する支点や、ブービートラップを回避して回収するために不可欠なその他のデータを与えることになる。この赤いシリーズの地図は、日本の軍隊にいたことのある人なら誰でも知っている風刺画のような形で描かれた、日本独特のものだった。山、川、木、道などの地形が黒板に描かれたように表現されていた。それぞれの地図には、1110億円、7770億円、8880億円など、その金庫に収められている財宝の総額のようなものが大きく記されていた(常に円マーク付き)。
実際、他の地図記号と同様、これは暗号に過ぎない。実際にどれだけ隠されていたかを知るには、鍵が必要だった。例えば、ゼロを6つ取り除く必要があるかもしれない。地図にある他の記号やシンボルも同じように混乱している。推測できるのは、777の敷地は111の敷地よりも広いということだけだ。これらの地図には、カナ(アルファベット)や漢字(中国語の表意文字)など、さまざまな文字で書かれた注記があった。また、英米の大学で訓練を受けた日本人技術者が書いた英語の碑文もあった。暗号化の鍵のひとつは、地図を真正面から見るべきか、鏡で反転させるべきかを示す左右に翻る旗であり、深さと方位を示す時計の文字盤であり、その場所のすべての測定の開始点を示す支点であった。支点を示す地図がなければ、どこを掘ればいいのかわからない。(30年後、例えば、マルコス大統領は2,000人の兵士にマニラ地下35マイルのトンネルを2年以上捜索させたが、トンネル内に放置された軍用トラックの荷台から75キロの金の延べ棒が発見された以外は、空振りに終わった。マルコスは地図を理解していなかった)
このような技術的な詳細が、悲劇的な人的犠牲を見えにくくしている。最も過酷な条件下で働く連合軍捕虜たちが、これらのトンネルや地下壕を掘った。特殊な作業には、同じ場所で働く連合軍捕虜と直接意思疎通ができないため、朝鮮人や中国人の奴隷労働者が使われた。例外なく、宝物庫が埋められ、封印されるたびに、捕虜と奴隷労働者は、沈黙を保証するために、中に生き埋めにされたと目撃者は語った。神道の司祭たちは、死者の霊がその場所を守っていることを確認するために、木の枝でできた杖を振りながら、それぞれの場所に祝福を与えた。この大量殺人の本当の目的は、厳重な警備だった。何千人ものオランダ人、イギリス人、オーストラリア人、カナダ人、ニュージーランド人、アメリカ人捕虜がマニラの地下に消え去り、二度と日の目を見ることはなかった。マニラの南東にあるテレサの一カ所だけで、連合軍捕虜1,200人が生き埋めにされたという目撃証言がある(第11章参照)。1975年10月、ロバート・カーティスによってテレサが公開されたとき、犠牲者の身元を確認するため、坑道内の遺体の中から何百ものドッグタグを集めようとした彼の努力は、警備の男たちに銃口を突きつけられて阻止され、現場から立ち去ることを余儀なくされた。1942年8月には雨が降り、秩父は6ヶ月間マニラに滞在し、マッカーサー元帥のマニラ・ホテルのペントハウスに住んでいた。マッカーサー元帥の本など、私物の多くがそのまま残されていた。窓からは15番埠頭が見渡せ、大きな湾の向こうにバターンの素晴らしい夕日が見えた。しかし、秩父は結核に悩まされることの少なかったシンガポールに逃れた。
日本の略奪の総量を測る一つの尺度は、マニラに作られたこれらすべての宝物保管庫とコレヒドールのトンネルだけでは不十分だったということだ。他の宝物庫はミンダナオ島やミンドロ島、列島の他の島々にも掘られていた。そしてマニラ北部の山間部では、別の皇太子が天然の洞窟を拡大し、日本国外では戦時中最大の宝物庫を作るために懸命に働いていた。
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708131 No.7333
>>7332
第六章 目撃者たち
マニラからはるか北方の高原地帯は、険しい山に被われた涼しい静かな村々で、戦争とは遠く離れた別世界だった。ルソンの平野部を出てポンコツバスで登山をし、曲がりくねった穴ぼこだらけの道でサンタフェを目指し、三千フィートのカラボロ山に入っていくと、バスコ湾のスペインバスコ人の国の後にニエバ・ビスカヤと名付けられた地域がみえてくる。最初の山脈を越えると、バヨンボンの町を取り囲む肥沃なカガヤン渓谷に下りてゆくことになる。カガヤンは火山噴火口のようにあちこちに井戸が点在し、少年が水牛をあやつり湿地を耕す米作地域だった。西へ向かうとコルディラ山脈(セントラル山脈)、東はより高所のシエラマドレ山脈に囲まれる。そこは褌だけを身につけた山岳族しか住まない熱帯雨林で覆われている。カガヤン渓谷のバヨンボンから北に向かうとルソンの北端、沿岸の町アパリへ下りていくように広がり、カミギン島と呼ばれる一大オフシュア島へつながっている。
このバヨンボンの静かな高台の周りが一九四二年(昭・十七)~四五年(昭・二〇)、重要なゴールデンリリィーの基地になった。というのも、この地域には自然による洞窟がたくさんあったからだ。石器時代の道具や木炭画を持つ者もいた。地盤は強固ではあったが、上の地層の砂、石炭、沈殿物は急流や地下水によって洗い流され天然の穴や地下金庫を作っていた。この表面は簡単に掘れるものが多く支柱もいらなかった。日本軍は軍事的な目的と財宝の保管のための要求に最適だと認識した。
カガヤンからフォルサモまで飛行機なら簡単だ。もちろん日本へは沖縄で給油すれば簡単だ。一九二〇年代と同じで、早くから日本の戦略家達はフィリピンを手中にし、日本帝国の中へ吸収する計画をたてていた。
それから、一九二〇年代の初め、若干名の日本人がルソンに開拓者、実業家、地質学者として接触を始め、日本の漁船は沿岸にますます数を増やしながら出現するようになった。連中は偵察兵や情報員達であった。彼らは南シナ海沿岸付近、バヨンボン、バギオ、アパリを開拓し、そしてタガログ語やイロカノ語を学び、そして誰が成功し、影響力があるかをノートに書き込み、地域のインフラ、道路、公共施設の詳細を収集した。港を海図に書き込み沿岸線の地図を作った。農民の助けをかり、洞窟をみつけては調査をした。当時のバヨンバンには二千人にも満たない住民しかいなかった。農民は一キロから二キロで区分けされている居住区か村に密集して住んでいた。バヨンバン郊外の小さな居住区のひとつにデュラオと呼ばれる所がある。その酋長はソノ・バルモアといい、顔立ちがよく素直で無邪気な十代の甥ベンと一緒に水田で働いていた。ベンは両親がまだマニラの北、湿ったパンガシナン平野に住んでいた一九二五年の三月に生まれた。父はそこで日雇い労働者として仕事をしていた。
ベンは子供時代のほとんどをデュラオの伯父の家で過ごし、バヨンハンのカソリック教会へ通った。彼はそこで六年生まで在籍し、読み書き、そしていくらかの英語を「ディズニーの父さん」から教わった。暇な時間は祖父とともに精米をし、春には鳴きながら働く水牛の後ろで畦作りをし、秋には鎌で稲を刈り取っていた。フィリピン人のほとんどはタガログ語を話していたが、イルカノは孤立していたので、ルソン島北岸の乾燥したイルコス地方の方言で話をしていた。バヨンボンやバギオ避暑地、特にマニラにはノロカノの地域があり、自らの政治組織と地下組織をもっていた。
日本軍がフィリピンに侵攻したときベンは十七歳になったところだった。当時、彼の両親はパンガシナンにいたのだが、そこは侵入者の丁度通り道だった。彼の父エステバンはアメリカ軍の新兵時代に射撃事故で片目を失っていた。ほとんどの人は右利きだから、ライフルの使い尽くしたカートリッジは目から離れる右側にはずすように作られている。初めて射撃場に立ったエステバンは左利きなので左肩にライフルを置きそれを撃った。カートリッジは彼の目に直接あたり彼は目を失った。アメリカ軍が占領され、彼は数千名の連合国捕虜の収容所へ行くことになった。アメリカ人と違ってフィリピン旅団はしばらく尋問を受け帰宅を許された。
エステバンが留守の間にパンガシナンの家々は略奪者に燃やされ、彼の家族は無事にデュラオにたどり着けるよう山中へ逃げ込んだ。最年少だったベンは先頭を歩き、母、祖母、兄、妹と続いた。難民と同じで彼らは家財道具を運んでいた。金もないので、数週間も発酵した魚の練り物と米だけを食べていた。日本兵がどこにでもいたので、ベンは多くの質問に答えなければならなかった。多くのフィリピン人が兵隊達に奴隷のように残酷に打たれながら働かされるのを見ていたので大変に怖かった。
二月の半ばごろ、彼らはサン・ジョーンズに到着した。日本の駐屯地を通過するのに四日も要したのだ。デュラオに着いたのは真夜中だったが、安堵と幸福感でいっぱいだった。ベンの祖父リノは即座に豚を殺し料理を作った。そして大きな声で「さあ子供達、どんどんお食べ、お腹いっぱいになるまでな!!」
数日後、ベンの父が解放され、彼らと合流した。抱き合って喜びあった。祖父のリノはベンの父にデュラオの農地を与え、戦争中を通じて家族の面倒をみることができた。十ヵ月後の一九四三年一月、彼らは自家用の砂糖やラム酒、飴玉を作るためにサトウキビを刈っていた。ベンは空き缶を火にかけ調理するために枯れた笹を切り出しに行こうと話した。彼は二頭の牛が引く車を連れて大きな笹の自生する近くの丘に上っていった。彼がナタで缶を切り刻んでいると、木の葉のざわめきが聞こえ、日本兵が回りを取り囲んでいたのに驚きおびえた。彼らはヘルメットを笹で偽装し、ベンは銃を彼に押し付け、ベンはナタを捨てて荷車の後ろにうずくまった。将校の足立大佐はベンに対し、まずタガログ語で話しかけ、次にイルカノ語にかえた。
「ここで何をしてるんだ。」「薪を切っとるんだがね。」
「サン・アントニオ地区への道はどこだ?」ベンは指さした。足立はベンにそこまで案内するように命令した。ベンは父の許しがないと行く訳にはいかないと言った。その時点で、ベンは彼らの指導者の言葉を聞いていない。白い服で刈り込まれた頭の若い男がベンに対して親しげに微笑んだ。
二十代の半ばにしかみえないとベンは思った。
ところがその集団の中で彼は足立大佐や他の将校達から格別の扱いを受けていた。彼は木と革で作った鞘に入った大きな日本刀を持ち、反対側には短剣を身に付けていた。上着の左胸ポケットには金縁で五―六インチの十字形の模様が入った赤い標章が輝いていた。足立大佐は彼に対してうやうやしくキムスと呼んでいた。彼らがデュラオのバルモア家に戻ってくると父は彼を仕事にもどそうとした。しかし祖父はベンにとってサン・アントニオへ案内することのほうが賢明だろうと言った。サン・アントニオへの道中、将校は彼といっしょに水牛の運搬車に乗っていた。ベンは殺されると確信していた。涙が頬をつたった。大佐がどうしたのかと聞いた。大佐はベンにやさしく微笑み、恐ろしくはないよと語った。彼らはベンを傷つけたりはしないだろう。一行が椰子の木の前で止まると、ベンは素早く駆け上りいくつかの椰子の実をとり斧で開いてやった。彼らはベンに名前を尋ねた。彼は「ベン・ハー・ミーン」だと、タガログ語とイロカノ語で伝えた。
キムスは日本語で何やら話し、足立はベンに、もはやサン・アントニオへ行く気はなく、メインキャンプのある反対方向のサン・フェルナンドへ引き返したいと言った。ベンは再び父の許しを得なければならないと答えた。
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>>7333
このことがキムスに感銘を与えたようで、再び彼らはベンの家にもどった。父は今度も抗議したが、日本軍はもう一週間だけベンを借りたいと申し出た。彼らはベンにバナナの葉で外出用の衣服を包み持ってくるように言った。サン・フェルナンドへ向かう途中、1.5kmぐらい離れた森の中で女性の悲鳴が聞こえた。キムスとベンは荷車から飛び降り、何事か調べるため走った。二人の日本兵が村の娘の服を剥ぎ取り強姦しようとしていた。キムスは刀を抜き、二人の兵士を刃の横でピシッとたたいた。男達はしゃがみ込み顔を土にすりつけ助けを求めた。キムスは叱りつけた。彼らは直立不動で聞き震えていた。
将校達は「ハイ」としか言わない。キムスは二人を逮捕させた。キムスは自分の上着を娘に与え家まで送るように部下に命じた。
後日、サン・フェルナンドのキャンプに集団が到着した時、彼らが入口に入るとともに日本人全員がお辞儀するのにはビックリした。足立大佐はキャンプの全員をよびよせた。キムスは二人の強姦犯に厳しい処罰を加え、決してフィリピン人とセックスしてはならない、もしすれば死罪にすると命じた。キャンプ中の誰もが呆然となった。大佐は正に「キムス」と言った。キムスは大きな将校の一団と鉱山技師、地理学者、物理学者、建築家、科学者、陶器専門家、電気、爆薬などの数百人の男達と一大隊の兵士を従えていた。サン・フェルナンドには千人をはるかにこえる人間がいたが、その仕事は唯、略奪品の運搬と隠匿だけであった。
ベンは金属製の数千の箱と木製の箱を見た。それはとても重たそうだった。箱を運ぶ時、四―五名あるいは八人がかりで、革で編んだような帯を使っていた。ある時、ベンは真っ裸の朝鮮人、中国人、フィリピンの奴隷労働者数百人が目隠しをして箱を動かしているのをみた。彼らは足首に鎖がまかれ、手首は、つるはしやシャベルを使うことができる程度にロープでつながれていたので、ベンには彼らが奴隷であることがわかった。重い荷物を積んだトラックがひっきりなしにサン・フェルドナンドキャンプに到着し、荷を降ろすとトラックの男達はどこかへ行ってしまった。キムスの兵隊と労働者達は、その箱を地下道や深い穴あるいはカバヤン渓谷に点在する洞窟へ運んだ。ベンはフィリピン人がトラックの箱を持ってきて道路の横に積み上げるのを見たことがあった。フィリピン人が行ってしまうと、日本兵は箱を洞穴の中へ運んだ。兵士達は離れるように命じられ、中国人労働者がそれを深い洞窟の中で積み上げ土で覆い、その地域特有の平らな石炭や成長の早いパパイヤの木、笹の葉などで偽装した。いくつかの坑道をベンは案内され見ているが、キムスの技術者達によって広げられた大きな洞窟もあった。最初、何が行われているのかベンには全くわからなかった。暴力沙汰もほとんど見ていないから日本人との生活は怖くないというよりむしろ不気味であった。
ベンはキムスの水汲み、食事、召使、付き人になり、食事をもってきたり靴を磨いたり洗濯したり、キムスの洋服に気をつかい、清潔さを保つことを覚えていった。キムスはキャンプの中でテントではなく真ん中の立派な家に住んでいた。サン・フェルナンド地域のフィリピン人住民はすべて追い出されていた。キムスの家には大きなベッドの寝室があり、東南アジアのどこかで略奪してきたであろう真鍮製の足で支えられた堂々たるタイ製のテーブルがあった。ベンはあるものをみて、それは瓶でありキムスがそれで顔を洗うのだろうと思った。ところがそれは単に飾りであって、うっとりとながめるものだったのだ。
夜になると枕をベッドの真ん中におき、ベンに床ではなくて片側で寝るように命じた。キムスは反対側で眠った。ベンに決して枕に触れぬように警告し、仮に、もしそうしたら爪でのどを欠き切るぞと言った。最初は全く動けないので落ち着かない夜を過ごしたベンだったが、後にはなれてしまった。
ベンは十八歳のハンサムな男だったが、キムスは三十歳、洗練されていてむしろベンより若くみえるほどであった。日本人の貴族達にとって彼に対して同性愛の味を感じることは異常なことではなかったであろう。その可能性を排除できないし、ベンとご主人様との間に性的な関係があったかどうかいかなる証拠もでてはいない。
日本の貴族社会において身近に私的な召使を寝させ、命ぜられれば何でも答えるのは普通のことだった。キムスはベンの無邪気さ誠実さそして両親、兄弟への愛情を認め格別に彼を好んでいた。数千の兵士達の真ん中にいて、多くの奴隷達をそばにおいていながらキムスは完全にひとりぼっちだった。ほとんどの農奴は彼の顔を見上げただけで眼がつぶされると恐れていた。
そんな完全なる孤独の中で彼はベンの存在を弟の様に思い、その性格のよさを喜んでいた。キムスも足立大佐も他の日本人から彼を守り、ルソンの他の地域やフィリピンの別の島へも連れて行き丁寧に扱った。
ベンが言うには、多くの将校や兵士はフィリピン人を、又特に連合軍捕虜に対しては怒るように、そして残酷にふるまったそうである。
しかしキムスには暴力を避けた。ベンは言った。「キムスはいつも僕に自分の食べ物をくれたよ、チキン、豚肉、牛肉、缶詰の鰯とかね。」
キムスの作法は優雅だし、紳士的だった。彼の話し方はやさしく、じっくり話を聞いてくれた。まわりに誰もいない時はベンに英語で喋った。ある時、一匹狼のフィリピン人ゲリラが捕まりサン・フェルナンドのキャンプに引っ張られてきた。キムスの側近である川端旅団長と鏑木大佐は銃殺するつもりだったが、キムスが解放してしまった。ゲリラは頭のてっぺんから悲鳴をあげて逃げ去った。きっと後ろから銃撃されるのが恐ろしかったのだろう。日本軍全員がそのこっけいな姿を見て笑っていた。
一ヶ月が過ぎた頃、ベンは勇気をだして足立大佐に、何故キムスは他の人と違っているのですかと尋ねた。足立はいとも簡単に答えた。「彼は殿下だからな。」キムスがこのやりとりを聞き別の部屋から入ってきた。微笑みながら、彼は人差し指を二つ合わせて英語で話した。「裕仁と私はそういう人間だよ。」ベンは聞く、「それじゃあ裕仁天皇の弟なの?」、キムスは答えた。「いや、それは秩父だ。私は従兄弟だよ。」
プライベートな会話の後でキムスはベンに秘密の名前は竹田宮であると話した。しかし戦争中は暗号名、キムス・村越を使った。彼はベンにこの事や他のいろいろな事情を喋らないように誓せた。
竹田恒徳(ツネヨシ)(これがフルネームだ)皇子は明治大帝の孫だ。(1852-1912)明治天皇は側室に四人の娘があり、それぞれが四人の皇子に嫁いだ。その四人の皇子は異色な性格で生涯の悪友だった。
北白河宮成久、弟の竹田宮恒久、そして朝香宮鳩彦、義弟の東久邇宮稔彦である。この血族の殿下達は少年期に同じ学校に集まり、同じ大学へ進学し軍隊も一緒、同じ芸者を共有し一緒に渡欧、そして同じようにプレイボーイだった。二人の皇子は若くして死んだ。竹田宮の唯一の皇子が十歳のとき死亡。そしてその弟の北白河宮成久は、一九二三年、手作りの高級車ブガッテイでパリからドウービルへ旅行中、道路わきのプラタナスの木に激突し、病院で死亡した。だからこそ、残った遊び人朝香と東久邇は大きくなった若い竹田に格別な関心をよせた。竹田は又九歳年下である皇太子裕仁のお気に入りの従兄弟だった。
皇族の男子はすべて軍事教育をうけていた。若い竹田宮は最初学習院へ通い、陸軍士官学校を一九三〇年に卒業し、騎兵隊の少尉に、そしてすぐ中尉になった。後に陸軍大学校で学び、一九三六年(昭・十一)八月には大尉となり一九四〇年(昭・十五)に少佐となった。一九四二年(昭・十七)には東南アジア方面軍司令官、寺内伯爵と裕仁との個人的な連絡役としてサイゴンへ送られた。(朝鮮総督として墓の略奪や市民の虐殺をした寺内大将の息子だ。)他の皇子と同じく竹田も軍部エリート(最高幹部)の一員であり、その戦場での存在は天皇の最高指揮権の堅固な広告塔だ。
天皇の特命を受けている彼の任務は、アジア中でゴールデン・リリィーの指揮をとる秩父宮の副司令官となっていた。
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708131 No.7335
>>7334
陸軍中尉に昇進した彼は作戦師団戦略部隊の将校、宮田中尉の偽名で登録された。公式にはまだサイゴンに在籍していたはずだが、マニラ以外の地域のゴールデンリリィー作戦を担当するためフィリピンへ派遣された。秩父殿下はマニラ全域の司令官であったが個人的にも財宝基地全体を監視していた。しかし彼は東京、シンガポール、ジャカルタへと出張で留守が多かった。ベンはすべての皇子達が戦略会議を支配していた一九四三年の間に二度秩父を目撃している。ベンが言うには、秩父は常に他の皇子からチャコを呼ばれ、竹田はキムスと呼ばれていたそうだ。竹田宮自身はサン・フェルナンドの高地を本拠にし、幾つかの大きな洞窟を建設していたが、最も重要なものはキャンプの隣に急いで作られた。彼は又、島全体の一七四箇所にあるそれぞれの皇族財宝の主任技師として指揮していた。つまり竹田はサンフェルナンドに常駐していたわけではないのだ。彼はフィリピン中を巡回し、シンガポール、バンコク、サイゴン、ジャカルタへ飛ぶ道中で略奪品を集め頻繁に東京へ引き返していた。我々は彼が最低でも年に一度は日本にいたことを知っている。何故なら、彼の妻は、一九四〇、四二、四三、四四、四五、と子供を生んでいるのだから・・。
キムスがサン・フェルナンドキャンプを歩き回る時は、いつも護衛が隣の護衛に皇子が来ることを大声で伝えた。誰もが広場にちらばり彼の目に入らないようにした。数世紀にわたって日本の庶民はいつもひれ伏し、頭を地面にこすりつけた。ベンはこれを目撃していたが、彼は日本人ではないのでこの掟を知らなかった。
何らかの理由から、キムスはベンガが彼の父エスティバンに接する態度と同じことを自分にすることを喜んだ。
ある夜、足立大佐は屋敷の隣にある防空壕へ塩を取りにいかせた。ベンは塩を見つけることができず誤ってトンネルの中へまぎれこんでしまった。
そこで彼は金の延べ棒でいっぱいになった木箱や壷をみつけた。塩ではないかと思い壷のひとつを開けてみると中には硬貨がつまっていた。――ソブリン金貨、ドル銀貨や東南アジアの中で流通している硬貨など、ベンが見たこともないようなものばかりだった。彼は塩がないものかと別の壷を開けた。そしてもっとたくさんの硬貨をみつけた。一箇所にこれほどたくさんの硬貨をみたことがなかったベンはびっくりして、壷に手をいれ硬貨をつかんだ。丁度そこへ日本兵がやって来て何をしているんだと問い詰めた。彼はベンをつまみだし、足立大佐はかれをキムスの前につれていった。皇子は彼に問いただした。ベンはただ塩を探しに行っただけだと説明した。
キムスは微笑んでベンに、行ってはならない所へは決して入らないよう、そして硬貨や財宝に触らないようやさしく注意した。
次の朝早くベンはベッドで一人寝ていて、たくさんの硬貨に埋もれながら目を覚ました。彼は動くのが恐ろしかった。彼は硬貨に触れると殺されるのだとおびえた。自分の名前が呼ばれると、ベンはベッドにへばりついたまま返事をした。キムスが笑いながらやってきて、ベンに硬貨を拾い集め袋に詰めるように言った。
そして牛や馬を乗せた荷車に水牛を結びつけ、硬貨と一緒に新しいミシンを積み込んだ。キムスは「君のお父さんに会いに行こう。」と言った。
彼はベンがトンネルの硬貨に夢中になったことを考えると少年の家族がとても貧乏であることを思い出した。デュラオ地域へ行く途中、河沿いで何人かが深い立抗を堀り、別の者が立抗じゅうに立ててある陶器の壷から大量の硬貨を取り出している日本の兵士の一群を通過した。
キムスは彼らと言葉を交わし、何かの書類を調べ満足そうに荷車にもどった。デュラオへ進み続け、ベンは捕虜が木を切っているのを見た。そして有刺鉄線で囲まれた収容所へ行き着いた。裸同然で痩せ衰えた囚人が、バエンバンでベンに読み書きを教えてくれた「ディズニーの父さん」と呼ばれていた牧師だとわかった。
もうすぐ死ぬことがわかっているベンは悲しく、そして申し訳なさでいっぱいだった。
ベンの家に着くとキムスは足立大佐を通じて、ベンが従者としてとても良くやってくれているのでこのまま使い続けたいという事と、その代わりに父親にミシンと牛、馬、水牛、荷車、硬貨の大きい袋を提供すると話した。最初ベンと両親は、奴隷として買われていくものだと思い、ベンは泣き出した。ベンを見ていた母親もあからさまに叫んだ。
足立は、本当にベンを雇いたいのだと説明した。キムスは日本の皇子であり、ベンがお気に入りだということ、彼を守るし、戦争が終われば皇子が両親のところへ連れて行くことを誓うということを彼らに説明した。両親はベンの考えを聞いた。ベンは皇子の従者は皆親切だと言った。そして母に、心配はない、キムスは自分を弟のように扱ってくれると説明した。高級将校である准将川畑、足立大佐、鏑木大佐、川渕大佐、ホンダ海軍大佐、高橋海軍大佐ら、すべてがベンに日本の言葉や表現を教えていた。(終戦までにはかなり流暢に話せるようになっていたし、簡単な文字ならば読めるようになっていた)話がまとまりベンとキムスは荷車に戻り、サン・フェルナンドキャンプへ戻った。
明治大帝の孫が水牛の荷車で乗り回す姿は随分目立った、というのもキムスはいつもピシッとした白い制服を着ており、従者である陸、海軍の将校と違いがありすぎたからだ。上着の左胸の赤い円形プレートの上に記章を並べ、肩にはベンにとっては何かわからない肩章をつけていた。しかし、赤い連帯記章は特別な意味があるもので、明るい赤の絹糸で刺繍がされていた。四角の回りをスカラップ模様で純金の縁取りがなされ、十四花弁の菊の形は皇族の血流の紋章である。
ある時ベンは刺繍に強くブラシをかけすぎ金糸を引っ掛け、将校にひどく殴られた。この時殴られたことと、防空壕で硬貨に触れた時の叱責が、ベンが乱暴に扱われたすべてである。(半世紀後、表紙に黄金の菊の印のついた「ヤマト王朝」の英語版を見た時、ベンは「これはキムスが上着に付けていたやつだ。」とつぶやいた。)
キムスの前輪のフェンダーと同じ紋章のついた三角旗が将校の車にもはためき、そのためどの日本軍検問所でも衛兵達は皇子が接近していることを知ることができた。
ベンはキムスが二四歳~二五歳ぐらいだと思っていた。(実際は一九四三年で三四歳だ、しかし若くみえた。)、彼はベンより背が高く、五フィート十インチ(一七五センチ)もあった。顔はとても平べったく、頭は剃っていた。彼には小さな癖があった。タバコを吸うとき、小指と薬指の間にタバコをはさみ、煙で輪を描くのだ。貴族としては彼のしぐさはものうげで、少しもあわてずゆっくりとしている。
いつも顔をぬぐうために白いハンカチを持ち歩いていた。彼のめがねはベンが今まで見たこともないようなもので、レンズが前へ飛び出るように蝶番がついていた。
たまに日本の歌「サクラ」を口ずさみ、「リリーマルレーン」を日本語でベンに教え、戦時中の世界の人気曲を歌って聞かせた。
キムスはとても優雅な英語を喋るのだが、それはベンしかそばにいない時だけだった。将校がまわりにいるときは日本語で話し、足立大佐がイロカノ語でベンに通訳した。
彼らのサン・フェルナンドの屋敷は厳重に警護されていた。高官が毎日、新聞をもってきた。財宝でいっぱいの船を回収しやすい所へ沈めたと話しているのをベンは耳にした。キムスは机と大きな黒板を備えたテント部屋を持っており、そこでフィリピン中の財宝基地から報告にくる主任技師に指示をだしていた。ついにベンは、裕仁と皇族達だけのための一七五箇所の特別な財宝基地が作られていることを知った。それらを隠匿することがキムスの任務だったのだ。どの隠匿施設にもそれぞれ主任技師、設計士、鉱山専門家、陶土の攪拌と塗りの専門家、罠の専門家、毒薬やシアン化合物を瓶に詰めて各設備にばらまく科学者などがいた。彼らがキムスに報告する。その進展をながめ整ったとみるや点検し、一覧表を作りに行き、そして封印するのだ。
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708131 No.7336
>>7335
ベンはキムスに付いてどこへでも行った。大きな南のミンダナオ島までも出かけた。キムスは個人の従者に加えて、部下の後ろから重装備のトラックを連ねた三小隊の兵士がいた。これら普通の兵士は皇子と話すこともなく、直接顔を見る事すらできなかった。
車の中のキムスは手元にカバンを置き、中には設計図、目録(財宝一覧表)、地図、設計道具やコンパス、望遠鏡などの道具類が詰め込まれていた。もう片側には軍刀があった。各施設に到着すると、キムスは綿密に調査された地図と主任技師によって書かれた図面の最終点検に出かけ、その地域を歩き回った。彼が十分に納得すると==連合国捕虜や奴隷労働者を中に残し
たまま貯蔵庫を密封した。キムスはベンに、各施設において全ての奴隷労働者と捕虜達を中においたまま封印するのも、又、後日、皇室のメンバーによって回収されるまでこの場所の秘密を守れるように保証することもすべて天皇裕仁の命令==なんだと語った。そして従うしかないとも言った。ベンは、人を残したままトンネルを塞ぐ時、キムスが頻繁に涙を流すのを見ていたのでその言葉を信じた。(ベンはこの件について我々に話したがらない。日本兵士がどうやって生き埋めにしたかを明らかにするのでさえ涙をいっぱいうかべていた。「彼らには財宝を守ることしかなかった。」、彼は生き埋めにされることを怖がっていた。半世紀過ぎた今でも日本人が戻ってきて彼を罰しにくることを恐れていたのだ。)
ベンに言わせると、キムスは職務に忠実で細心の注意を払っていたということだ。ある時、貯蔵庫を封印する直前に労働者の一団から一人の中国人奴隷が逃亡した。その後日本軍が彼を捕えることができないとわかると、貯蔵庫から中のものを運び出すように命じた。そして金の延べ棒がつまった二七〇の金属製の箱は持ち出され、何処かへ運び去られていった。また
別のケースでは、キムスが施設の点検をすませると、その設計図と地図が不正確で、主任技師が自分のための財宝の確保するため悪意を持って修正を加えたと結論づけた。キムスはその場で首を切るように命じ、即座に実行された。三年以上、ベンは彼に従ってルパング島のような島へ飛行機や船で付いてまわった。それらの島には今までとは異なる寸法の貯蔵庫があった。ミンダナオ沿岸、北の果ての小さな島でベンは船を見たが、その船の甲板に大きな植木を生やし、生きた木に偽装していた。ずっしりとした箱が甲板に積み重ねられ、ドイツ兵が警護していた。キムスの将校がドイツの船だと語った。ドイツ兵はすべての箱が降ろされ島の洞穴に運び込まれるのを監視していた。ベンには箱の中身が何であるか分からなかったが、とても重いものであることは確かだった。戦争期間中、日本の貨物潜水艦はナチの潜水艦基地であるフランスのロリエントへウランの購入代金として金の延べ棒を持ち込んでいた。これは日本が自前で原爆開発しようとした秘密計画の一部である。ドイツのユーボートと特殊地上工作員はインドネシアやフィリピンの中継地点にウランを運びそこで降ろした。そこからは日本の潜水艦が東京へ運んだ。鉛で保護された箱が降ろされ、待ち受けていた日本の潜水艦に搬入される取引をベンは目撃したはずだ。キムスは一七五箇所の皇室隠匿場所で最終的な検品をした唯一人の人間だが、初期段階では別の部隊も関わっていたとベンは言った。彼は裕仁の弟、三笠宮に率いられていたと言った。三笠宮が公式には南京の日本軍司令部に属していたと言われる同じ時期の三年間、ルソン島にいたとベンは主張した。そうなのだ、彼のルソンでの存在は確かに可能性があるのだ。(同じく竹田宮は公式にはハノイ配属となっていたが実際にはルソンにいたのだから)
彼が言うには、他のチームは一九三七年(昭・十二)南京虐殺を命じた朝香宮の息子若い朝香孚彦(タカヒコ)に率いられていたそうだ。我々はベンがこれらの皇子の正式な名前を知っていることに驚かされた。一九九〇年代に昔の三十年代に撮られた写真を使いブラインドテストを行った。彼は皇子達を特定した。あらかじめ混ぜてあった皇子でない人物の写真を特定できないだけだった。英国図書館の東洋コレクション管理者から提供してもらった貴重な写真を準備し、念のため身元が分かるものも取り外しておいた。ベンが日本の外部ではめったに見られない時期の写真から、国外では知られていない皇子を特定したことは、彼が電話の掛け方すら習ったことがないことを知ったならばとてもすごいことじゃないか。ベンは確信をもって言った。白い制服をきて赤い記章を付けた写真の男達がサン・フェルナンドにいたキムスに会いに来たと。
東久邇や朝香宮(年配のほう)のように随分年配者も含まれていた。彼らは視察旅行の途中、飛行機でルソンへやってきたのだった。兵士や将校は、そんな高位の皇子が訪ねてくると極度に緊張したという。二つの目撃証言がある。ベンはキムスとマニラの会合に行った時、秩父宮をずい分近い所で見かけた。すると秩父はハンカチに血を吐いた。それはベンにとってとても印象深いものだった。そしてもう一度、戦争が終わる月(八月)にバエンバンで再び秩父宮を見たのだ。ベンが直接目撃したとしても、秩父が結核だったということを彼が知るすべはなかった。何ヶ月もインタビューしているうちに、ベンは秩父の病気がだんだんひどくなり治療のため日本へ戻ったのだと言った。
そしてその間に三笠宮がサン・フェルナンドのキムスの所へ何回もやってきたのだそうだ。ゴールデンリリィに関わった日本人のまったく別の目撃者によると、皇子達の一団が巨大な施設を点検していた時にベンが三笠宮一行の中にいたという。ある日本人の情報ではベンは三笠宮の付き人であると推測されていた。彼らが深い立抗や洞窟、地下道にいたとしてもベンがその中へ入る事など普通はなかった。入口では数十メートル離れた場所にいたし、もちろん入ることを禁じられていたので地面の下で何が行われているかを知る由もなかった。
ベンはタバコ、水、食料をすぐに取ってこれるように待機していたのだから、見ることができたのは、坑道や洞窟の地面に掘った穴の開閉装置が開いている時か、箱が坑道へ降ろされたりトンネルに運ばれるところぐらいだった。中で起きている事はずいぶん後までベンには知らされなかった。ゴルデン・リリィの地下道の多くは丘や山へ真っ直ぐに突き進み、トンネルの床
下を二〇メートルぐらいの深さで立抗を掘っていたのだが、これはとても重要なことだった。立抗はコンクリートの壁が作られ財宝でいっぱいになった。おそらく金の仏像を埋めたのだろう。(ベンは日本の神様だと思っていた。)コンクリートの壁は一~二メートルの厚さで注入され、トンネルの床にみえるように偽装してあった。
宝探しの連中は足元にたまたま地下貯蔵庫があった時か、片側から隠れた坑道を完璧に取り去る以外に実を結ぶことはなかった。
そのひとつにバンタイ・ラケイと呼ばれるフィリピンの山があった。別のものはカパヤにあり、トンネル入口すぐ内側の立抗にとても大きな金の仏像が置いてあった。ベンは日本兵が大きな岩をトンネルの入口にころがし、残った開口部に小さな三つの岩を詰め込み、回りの石と同じ様に見える硬い陶器を混ぜたセメントですべてを塗りこむところを目撃した。
マニラの東、モンタルバンには日本軍の施設がたくさんあったが、その緩やかにうねった地域にたくさんのトンネルが掘られていた。このトンネルを密封する前にベンは二週間にわたって、一日中財宝を積んだトラックが到着するのを見た。太平洋戦争の間、そこには発掘を妨害するための葉が茂った背の高い木が植えられていた。今日のモンタルバンは森林が伐採さ
れて、そのほとんどが水田になっている。財宝回収の最近の取り組みでは、千ポンド爆弾ばかりでなく日本軍が仕掛けたあっという間にトンネルを水没させてしまう巧妙な罠によって妨害されていた。いつもではないけれど、キムスはバエンバンの南、アリタオにあるメニィ・モンキーなどのトンネルや洞窟の中へベンを連れていく機会があった。
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708131 No.7337
>>7336
メニィー・モンキーは奇妙な所で、丘の中腹が一個十~二十トンにもなるたくさんの巨石で覆われていた。これら直径数メートルにもなる巨石は特に毎年十一月にやってくる台風や洪水で丘の中腹で洗い流されてきた。アリタオでは巨石群がぶどうの木や森林の傘におおわれ。赤毛ザルの群れが占領している岩場の間に天然の貯蔵庫をつくっていた。キムスの技師達は猿を追っ払い、葉を燃やし、丘の横にある深さ四六メートルの大きな二つの空間を選んだ。そしてそれらをコンクリートで補強した。それぞれ約二〇フィートの巾と三〇フィートの長さがあり、空間にプラチナと金の延べ棒を綺麗に並べ、アクセサリーから取り外した原石で満たされた大きな五つの壷も追加された。
ベンは宝石が金の金具で留めてあるために没収された数千個の時計でいっぱいになった壷をみて吃驚してしまった。その壷を兵士達が空洞へ降ろした。二五〇キロの小さな金の仏像は注意深くコンクリート製の箱に入れられ、朝鮮の奴隷労働者達が帆布の帯を使って引きずりながら空洞へと引っ張っていった。その施設での積み込みと在庫調べは全体で一週間かかった。次にベンは百台以上のトラックが財宝を積んでやって来たのを見た。それはキムスに最終的な検品をしてもらうためであった。ベンは皇子が色とりどりの宝石が詰まった最後の壷に手をつっこみ、指の間から滝のようにこぼれていくのをうっとりとみている姿に釘付けになってしまった。彼は兵士にそれを迷路の中へ運ぶように命じ、二人は道に迷わないようにおいてある丈夫な赤い紐に従って歩いていった。その壷が他の壷の横に置かれると、空洞に繋がる通路はその地方の石とそっくりに見せるように彩色師によって混ぜ合わされた厚いコンクリートの壁でふさがれた。キムスとベンは兵士と技師の後ろについて巨石群の渓谷を抜け帰り道を行き丘の横の急流にでた。(我々はベンと一緒にメニィー・モンキーを訪れたがコブラの大群に囲まれて入ることができなかった。CDにはその写真がある。)
フィリピン最大の財宝貯蔵金庫施設のひとつは、キムスが拠点としたサン・フェルナンドキャンプのすぐそばにあった。そこは男達を三年間ずっと地下で働かせ、三つの天然の洞窟を拡張し、鉄筋コンクリートで壁を作り地下道でそれらを連結させようとしていた。サン・フェルナンドの地下施設は八番坑道と呼ばれ、規模はサッカー場に匹敵するといわれた。
九番坑道は別の日本軍キャンプの真下にあった。三番目は共同墓地施設とよばれ、バエンバン共同墓地のほとんど真下にあった。八番と九番は約一キロ離れていたが共同墓地とは一キロ半の距離があった。この複合設備は終戦前の最後に在庫を調べ密閉されたひとつだ。サン・フェルナンドの竹田宮が住んでいた屋敷のバルコニーから真東を見るとずんぐりとした一九四〇年代のブラジャーの様にも見える二つの円錐形の山が聳え立っているのが望める。右側が四七七四フィートのセハール山、近くのもうひとつが五五九四フィートのパラウ山だ。イロカノ人はセハール山をナクンビンチャンと名付けたが日本軍はキサドと呼んだ。毎朝、日が昇るとキムスは外へ出かけ、山に向かってお辞儀をしていた。サン・フェルナンドから東に向けて二つの巨大なおっぱい山の裂け目に舗装していない道路がのびていた。この道路の左側にパラウ山の山脚(突き出し)があり、その下が八番坑道だ。(もともとの赤シリーズの地図が我々のCDに再現してある。)この突き出し部の北わき腹から一キロ離れた所に他の陸軍キャンプがあり九番坑道のもうひとつの入口がある。
戦争の後半、一九四五年(昭・二〇)の冬から初春の頃、ここは山下将軍の司令部となり、その後で最終防衛戦を戦うためキアンガン地帯へ転戦していった。
ベンは山下の貯蔵庫の離れていた入口に関しては耳にしたことはなかった。サン・フェルナンドのキムス司令部では八番坑道の痕跡は地面に穴があるだけで、そこから炭鉱夫を立抗へ降ろすための粗雑な骨組みのエレベーターがあっただけだ。このエレベーターがベンやキムスを二二〇フォート下にある地下道の入口へ運んでくれる。ある時地下に下りたベンはどっちの方向へ歩いていくのか聞くことができた。最初に袋でいっぱいの応接間と呼ばれる円形の空洞にやってきた。ベンは袋の中身が何であるかを知らなかったし、聞くこともしなかった。その円形の部屋を囲んですべての方向へ放射状にタイヤホイルのように六本のトンネルがのびていた。彼らがそのトンネルのひとつに入ると、箱が内張りになるよう頭より高いところまで積み重なっているのがみえた。
次に三〇フィート下りるともっと大きな空間に到達した。床も天井もコンクリートが貼ってあり、ベンはまるで野球場のように大きいと思った。そこが八番坑道の主要部分で「貴重な部屋」と名付けられ、すでに金の延べ棒でいっぱいだった。元々は天然の空洞だった所を日本軍のために二年を費やして拡張し強化したもので、今まで訪ねた施設のどこよりも多くの人とトラックを必要としたとベンは語った。そこでは延べ棒は積むというより、島のようになっており、それらの間に通路があった。次の三番目の空洞に着くと、そこは鉄の扉で密閉されていた。そこにはベンは入ることが許されなかった。これが九番坑道か中央司令室だった。ベンとキムスは別の長いトンネルを通り、最後に体育館並みの大きさの地下金庫に着いた。そこでは壁という壁に金の延べ棒が積み重ねてあった。ベンは我々に言った。「私が見たのはとてもたくさんの金塊だった。ブッダそっくりの少年像もあったよ。他にも二つの仏像と、たぶん二十五個ぐらいの小さい物もね。」、すべてが純金で、前からそこにあったものとは思えないとも言った。
一九四四年(昭・十九)の夏になると。連合軍によるフィリピン、或いはフォルモサへの侵攻がせまっていることが明らかになってきた。巨大なアメリカ艦隊がニューギニアのホランディアに集結していた。日本はルソン島ですら守ることが困難になってきた。黒田繁之大将はフィリピンで自らの指揮権を剥奪され、日本最高の戦闘将軍、山下奉文(ともゆき)と交代した。山下は全精力をかけて、失ってしまうと本土が脅かされることになるグアムと沖縄への攻撃を妨害する作戦の一環としてフィリピン北方の防衛に当たることになった。山下は奥が深く興味深い人間だ。表面的にはプロシア軍にあこがれ、日本軍をその様に作ってきたようにみせていた。
彼は大柄で頑丈な首、太い胴体、そして頭は剃っていた。その表情は乏しく残酷で鈍感にみせていた。現実は、日本の狂信的な軍国主義の危険な高まりに反対してきた穏健派だった。一九三五年(昭・十)、最も危険な狂信者、永田鉄山が東京司令本部で相沢三郎陸軍中佐に刺殺された時、山下は玄関で刺客を止め、彼の手を取りその勇気ある行動に感謝したほどだ。戦争の初期に山下はシンガポールにおいてあまりにも素晴らしい勝利を得たため、東条首相から恐れられ妬まれるほど大衆の英雄になったので、東条は彼を呼び戻し、戦争中のほとんどを満州に追い払っていた。しかしながら一九四四年の半ば、東条は失脚し山下を満州からルソンへ送る直接指令が下った。
軍事の天才が奇跡を起すように命じられたわけだ。彼がマニラに着いたのは一九四四年十月六日、もう形勢を変えるには遅すぎたであろう。こうして山下は、最後の十ヶ月間だけゴールデン・リリィーに関わることになるのだ。
その頃皇子達やその側近は、マニラ北部の山へ金の延べ棒や他の財宝を大慌てで移送していた。山下は出来る限り長くそこを持ちこたえるように計画をたてた。一九三〇年代早春の出来事(二・二六事件)が起きたとき、秩父は東京で山下の連隊に所属していたので、個人的に二人はとても親しかった。だからマニラのこの状況下で再会した時、二人の間には格別な連帯感が芽生えたのだ。ベンは彼らが挨拶するのを見たことがあるが、山下は秩父にお辞儀をしなかった唯一の日本人だったと言った。そのかわり山下は秩父を久しぶりにあう弟のように出迎えたという。その年の十月、ベンはキムスとバエンバン北方のバガバグへ行った。
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>>7337
そこには日本軍の飛行場があり、彼らは十二人の乗客とともに双発の空軍機でマニラへ飛んだ。最初に行ったのはサンティアゴ要塞で、連合軍捕虜達がお化け金庫を古いスペイン時代の空気抗へ一生懸命降ろしていた。次の朝は、サン・アウグスティン教会の六本指施設とマニラ大聖堂を訪れた。そしてそこで、金がつまった金属の箱を財宝貯蔵庫へひとつづつ降ろし、次に金むくの仏像を収納するところをながめていた。金むくの仏像はロープで巻かれ、片一方を馬で引っ張りながら降ろした。記録係が助けながら馬はゆっくりと像が立抗に下りていくよう、後ろ向きに動いた。その時山下将軍がやってきた。秩父に親しげに挨拶した時とは違い、キムスと山下はよそよそしく見えた。その最後の十ヶ月、山下は小島カシイの運転で、西はバグイオと中央のバエンバン、そしてルソン北端アパリの間で十二箇所以上のゴールデン・リリィー施設の進展状況を見て回った。とにかく時間がなかった。一九四四年(昭・十九)十月、歴史上最大の海戦であったレイテ湾の戦闘で、日本は破滅的な損失を被った。
マッカーサーは一九四一年(昭・十六)十二月の急襲で恥をかかされたあげく、次の数ヶ月でバターン部隊を置き去りにし、コレヒドールから不名誉な撤退をした経験から立ち直れないままであった。いまや彼は危険を冒すことはできなかった。レイテにおける彼の軍事力は日本のほぼ十倍だった。そこで勝利したマッカーサーは、ルソン侵攻の計画をたてた。山下はひとつの装甲師団と六つの歩兵部隊で二十七万五千人以上の兵士を確保していた。もっとも負傷兵や生存者、用役部隊も混じっていたが。彼は山中において出来るだけ戦闘を引き伸ばすように耐えることしかできなかった。マニラを守ることは難しかった。彼は町から引き上げ、マニラを開放を宣言することを決めた。そうすれば無意味に破壊されることはないだろう。不幸なことに、実際にはマニラは日本海軍の支配下にあったのだ。だから山下は一万六千名の海兵とそこにいる海軍部隊に対しての影響力を持ってはいなかった。山下大将が全日本軍に郊外へ引き上げる命令をだしても、岩淵三次司令官は命令を無視した。岩淵はすべての港湾設備と海軍の倉庫の破壊を指示した。彼には彼の計画があった。コレキドール島に自分と海軍の大量略奪品を隠していたし、秩父宮が大量の財宝を隠したこともすべて知っていた。米軍が制空権を握ったため海への逃げ道はない。
岩淵は山中へ撤退できたのだが、逃げ惑うねずみになる代わりに、海兵にマニラ住民に対して乱暴するように仕向けた。マニラを無法地帯とみたマッカーサーは自分の誕生日である一九四五年(昭・二〇)一月二六日までに首都を落としたかったため、リンガエン湾の浜辺から南方へ向かって大急ぎで軍を進めた。岩淵は一万六千名の兵士に玉砕を命じた。彼らは狼狽しながらマニラを墓場に変えるべく家から家へと銃撃を続け、通りにいた非戦闘員を剣で刺し南京以来の虐殺を女、子供に対して働いた。十万人のフィリピン人と千人のアメリカ人が殺され、都市の八〇パーセントの家が潰された。混乱の中、岩淵自身は城壁の坑道を通って抜け出し姿を消した。公式には死亡と伝えられているが確認はされていない。彼が潜水艦でルソンから抜け出し偽名を使って日本で天寿を全うしたという指摘もある。何故なら彼は死後裕仁によって中将に昇進しているからだ。北方に向かって、山下の防衛ラインがバグイオ、バエンバン、ボントックの三角地帯に作られた。これらの地点に到達しようとすると山峡や谷間の狭い道を通過せざるを得ない、そこには兵士が塹壕を掘って待っている。ベンには何が起きているのかわからなかった。ある日、キムスと部下は多くの飛行機が飛び回る中、ベンと共に小屋の中で待機していた。ベンはそれが日本機だと思ったが、足立大佐は米軍機だと言った。ベンは言った。「もう日本はダメなのですか?」足立や他の人は笑いながら、「米兵がやってくるんだよ、ベン。」数日後、戦闘機が爆撃し機銃掃射していった。ベンはキムスらが祈りの儀式をしているのを見た。彼と竹田宮の結びつきが小さな出来事から汲み取れる。キムスはベンに血の誓約をするようせまった。彼らは右手の小指の先を切り、滴り落ちる血で軍旗に血判をしあった。(実際我々はベンの小指の先が欠落しているのを見ている)
まず、ベンは秩父宮のことを喋ることを禁じられた。第二には竹田宮の暗号名を漏らさないこと。「アメリカ兵にも中国人にもフィリピン人でも、日本人ですら言うな。」、キムスはこれらの施設は皇族達だけのために保持されると語った。ベンの将来のために金がいっぱい詰まった二つの鉄製の箱を隠しておくとも言った。そのためベンが忘れないよう、ベンの手に二つの刺青をいれ、その二つの箱にも同じ印をつけた。次の日彼らはアリタオからバグイオへ向かう途中にピンカン橋へ行った。川から数メートルの高い土手の上に立派なマンゴーの木がそびえ立っていた。水牛が引っ張ってきた二つの金属製の大きな箱が立抗の中へ埋められた。日本兵はその箱をころがすために鉄製パイプを並べていたが、ひっぱるには五頭の水牛を必要とした。箱を立抗に入れた時、蓋が開けられ、キムスはベンを呼び寄せ、中に入っているものを見せた。そこには七五キロの金の延べ棒がびっしりと詰まっていた。キムスはベンに日本語で語りかけた。「これね、サービスだよ。たくさんたくさんのゴールドさ、ね?」大まかに言うならば、「これは貴方にサービスとしてあげるよ。とてもたくさんの金だよ。OKか?」(ゴールドを日本語にすると金だ。しかし英語でゴールドを使う時に日本人の発音はゴールダーだ。現地の人にはそのように聞こえるようだ。半世紀たってキムスが言ったことをベンに書かせたが、彼の日本語の知識は限られていたので、「くれねーサービス。さよくれ、くれ、たくさんゴールドね」であった。)
彼はキムスに箱には毒を振りまくだろうと言った。そして箱を閉じてしまった。戦争が終わって、ベンは自分でそこへきて掘り出した。穴を開けるときベンは灯油を箱にまいてほこりを焼き尽くさねばならなかった。そして蓋を開けるときも箱の中のほこりを焼くためにもっと灯油をかける必要があった。そうして彼は無事にゴールドを掘りだした。彼は全部の金塊の代わりに小さな塊をもらった。というのは、あまりにも注目されすぎると売ることができないからだ。キムスはベンにその金で大きな牧場を買い、村で見かけるような可愛い娘と結婚し、たくさん子供を作り助け合って暮らすといいと話していた。ベンは言葉がでなかった。
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708131 No.7339
>>7338
彼らが穴をいっぱいにするころ、ピンキアン橋のもう片方から別のゴールデン・リリィ部隊がやってきたのにはびっくりした。そのリーダーはキムスと同じ赤いバッジをつけ、白い上着を着た秩父、そのひとだった。キムスと秩父は互いに挨拶もしないし表情ひとつ変えなかった。秩父はとてもほっそりとし、咳き込んでいた。ベンは彼のハンカチはまるで軍隊旗のように真っ赤だったと言った。そして数日から数週間、彼らは残った財宝を必死になって埋めた。山下は米軍が進軍してきたため、バグイオを放棄し、バエンバンの勝負をかけた司令本部へ移動した。しかし、山下はキムスのキャンプがあるサン・フェルナンドにくることはなかった。山下は九番抗の地下司令室に行くため、離れた所に専用入口をもっていた。彼と将校達はキアンガン地帯を放棄する前の数週間、多くの時間をこの地面の下で過ごした。ギアンガンではその合間に山下将軍と将校達が間近にせまる玉砕の戦いに使用するため、頑丈な基地として別の大きな洞窟が用意されていた。キアンガン渓谷は、丁度ケニアのソフトバレーと同じで自然に地面が隆起してできた地域で水も豊富で洞窟だらけだった。山下が防御用に選んだ目的に完璧に適した天然の要塞だった。ベンはこれらの作業は戦闘不能な兵士や、非戦闘員の官僚に指揮された奴隷労働者によって成し遂げられたのだと言った。一九四五年(昭・二〇)五月五日、アメリカ軍の山中への進軍が素早かったため山下は防衛の三つの地点の内二つをあきらめ、ボントックを棄てた。彼は部隊をバエンバンとベガバグの間に引き上げ、キアンガン渓谷に注ぐアシン川に沿って展開した。この地帯は格別に険しいところなのだが、ベガバグは実際バエンバンの北へたった二五マイルしかなく、ギアンガン渓谷の端はバエンバンの西にわずか五マイルなのだ。食料の供給は水牛の群れがあるので十分だ。
又、山下の軍団はキアンガン渓谷中の早場米の収穫をすませていた。新たな収穫は九月にも準備ができるけれど、その頃には戦闘は終わっているだろう。その間に雨季が来る。アメリカ兵には耐えられない台風や洪水もやってくるだろう。山下は空からの攻撃を妨げるために雨や台風を計算していた。一九四五年(昭・二〇)五月末、キムスとベンは秘密に北方へ行った。まず最初、バガバグへ行くとそこには三笠宮が待っていた。二人の皇子とベンはカガヤン渓谷を通りアパリに向かって運転し、沿岸に沿って右へ回り小さな湾に入った。そこで高速警備船に乗るとカミグイン島の北側を横切り、そこに日本潜水艦が待機していた。キムスは艦に乗り、次の週の同じ時間に関しての打ち合わせを船長と行った。その間、三笠宮とベンは警備船に残っていた。三笠宮と二人だったのはその時だけだったとベンは言った。ベンは、キムスは自分がいなくてもベンに悪いことは起こらないとわかっていたと思った。六月に入り最初の四日間に山下の対戦車部隊はアリタオ南部で米軍七七五戦車部隊と戦闘をおこない、その時から渓谷へ逃げ込む速度を上げる必要性が高まってきた。六月一日の夜、一七五箇所のゴールデン・リリィーの主任技師は八番抗の地下会議室でお別れ会に呼ばれた。残っていた財宝はすべて隠匿された。八番、九番坑道も、地下共同墓地も金の延べ棒でいっぱいだった。ベンによると、その夜彼はキムスと一緒にいて、技師達はたくさんの酒を飲み乾杯と万歳を繰り返していた。
その時、地下共同墓地では二百名の奴隷労働者が集められ、日本兵が銃座の上で構えるマシンガンの監視下にあったという。この施設を作ったキムスは主任技師達と一時間ほどつきあったがベンを連れて設備全体の最後の巡回へ出かけた。彼らは連なる坑道を一時間以上歩き、積み重ねられた延べ棒や財宝をながめていた。キムスは繰返しベンに言った。「注意しろよ電線をひっかけるとぶっ飛ぶぞ!。」電線は坑道全体のそこらじゅうでダイナマイトの束につながっていた。お別れ会にもどり、キムスは技師達に熱烈な演説を行い、天皇の名前で彼らの達成した偉業を称えた。真っ赤になった男達は「万歳」を叫び続けた。演説が終わったときはすでに深夜だった。山下大将がやってきた。
彼はキムスに坑道から出る時間だと言った。ベンには中に残れと言った。「いや。」、キムスは言った、「私はベンを家に帰すことを約束しているんだ。」、彼はベンを振り向き、「早く行くんだ。」と、工事用エレベーターの坑道出口を指差した。山下はあきれた顔をしたが、明治大帝の孫に文句を言う勇気はなかった。我々はなぜ山下はベンが中に残るのを望んだのかを聞いた。「それについてはおそらく誰も知らないだろう。」と答えた。山下に従って彼らはエレベーターへ歩き、地上へ上がった。言葉もかけずに山下は闇の中へ歩き去った。キムスとベンが入口から離れた時、飛行機からの爆撃を思われる音が聞こえ地面に伏せた。巨大な爆発が地面をゆすった。(次の日、日が昇ると道路の西側に十五フィートのため池ができていた。連結した坑道が崩落したのだろう)
我々はベンにその時、技術者や奴隷全員が地下に捕われていたことを知っていたかどうか聞いた。ベンは地面を見て、「僕は、キムスが山下の言う事を聞かなかったことを幸いだと思ったよ。・・・・おかげでここに残れた。」すこしたってから付け加えて、「私は山下が恐かった。」と言った。
地面のゆれが止まった時、キムスが泣いているのをベンは見た。ベンは「天皇の直接命令で彼はそうしたんだ。」と言った。海軍大佐本田を含む多くの将校も技術者と一緒に生き埋めにされた。ベンの家に彼らが着いた時、初めてキムスと足立大佐がベンと離れるときがきたことを告げた。彼らはその夜にカミグイン島へ行き日本へ戻るために待機していた潜水艦に乗ったのだろう。
暗かったが、ベンはキムスが涙ぐんでいるのをみた。ベンも又ベソをかいた。「お前は父のベンハミーンの所へ行け。彼は片目しかないから農園ではお前の力がいる。ゲリラや米兵と一緒になるなよ。父さんの所にいて水田を手伝うんだぞ。」キムスは革カバンと刀をそこに置き、白い上着も脱いだ。ベンに上着と同様に軍刀を手渡した。そして歩きかけてから思い直し、地図がいっぱい詰まったカバンを渡しにもどってきた。おそらく潜水艦で日本にもどり、再びもどってくる可能性を考えたのだろう。「私のためにとっておいてくれ。木の箱に入れ家の裏に埋めておくのだ。」そして呪文をとなえて、「私との約束を忘れるなよ。この地図は誰にも、アメリカ人、中国人、日本人、フィリピン人、ゲリラの誰にも渡してはならない。私だけを待っているんだ。え~~いいか、いいか。」(これを繰り返した。ベンはこのいいかを数えたら十回だった。)「私が帰ってきたら君にやるから待っていろよ。三〇年待ってくれ。もしも私がもどらなかったら、地図を日本にもってこい。私が死んだら私の家族に渡すのだ。」、キムスは百ヤードほど行き、又もどってきた。そして再び誓いを繰り返した。「ベンハミーン、ゲリラや米兵と組むなよ。そうすると日本人はおまえを殺す。覚えていろよ。ゲリラはダメ。アメリカも中国もダメだ。私を待つのだ。」
今度こそ歩き去りもどらなかった。ベンは長い間彼を見送り、軍刀とカバン、上着を家の中へ持ち込んだ。夕暮れになって山下はアシン河を棄てキアンガン渓谷へ入った。戦争終了まであと三ヶ月だった。竹田宮がベンに与えた軍刀は、鋳造した鋼の刃を持ち、隕石から得られた鉄から鍛えたもので、木と革の鞘がついていた。日本の生きた宝(人間国宝)の一人が作り、それを収集していたキムスの祖父、明治大帝から送られたものだった。そんな大変な価値も知らないでベンはその年の十一月の収穫や、その後長年にわたり米の刈り取りに使っていた。彼は次の年の春、田んぼを耕しているときには、赤や金の菊の紋章が左胸に付いている白い上着を着ていた。父は皆の前で二度とそれを着てはいけないと警告した。そうでないと共謀者として殺されると。
上着と軍刀は長い間残してあった。何年たってもベンは誓いを守ったのだ。訳者注 岩淵少将が山下将軍の命令に従いマニラを開放したとしたら、フィリピン市民十万人、日本兵千数百人が死ぬ事はなかった。
先日、NHKのハイビジョンでマニラ市街戦の一ヶ月を特集していた。サンチエゴ要塞が陥落したとき巻き添えにフィリピン市民一万人が死んだ。悪いのは海軍だが、マッカーサの誕生日にこだわったため、あせって攻撃をしたアメリカ軍のやり方も決してフィリピン人は許さないだろう。NHKの番組の中では悲惨な砲撃を受けたサンチアゴの要塞の地下にたくさんの戦時略奪財宝が隠されている事は語られなかった。そして、岩淵少尉がトンネルを通って何処かへ消えてしまった事も、そして彼が中将に昇進した事も語られなかった。マッカーサーがその略奪財宝にどのように関わっていくかは次の章で説明されるであろう。
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708131 No.7340
>>7339
黄金の兵士 第七章 ウサギの穴におちて
DOWN THE RABBIT HOLE
日本から正式に降伏の通知を受けた後の九月二日、背が高く牛の様に太い首の山下大将は山道にそって出頭してきた。左に軍刀を持ち、彼と部下は降伏するためアメリカの戦列へ近づいた。最後の一ヶ月、アメリカ軍は三
マイル前進しただけであった。ギアンガン渓谷包囲作戦の中、山下はすっかり痩せていた。彼は部下に切腹行為を許さなかった。「自分が死ねば他の誰かが又責任をとることになる。」と言っていたからだ。将校達の後から運転手などもやってきた。山下達は軍事警察(MP)のA.S.ジャック、ケン・ウヲーシーら収容委員と面会した。彼らがマニラ郊外にあるニュー・ピリバド刑務所へ検挙し護送するのだろう。
山下は立ち止まり部下の将校が彼の後ろに並ぶまで待つことにした。レスリー・Mフライ少佐によると、後ろにいた若い兵士が前に進み出て、運んできた金の延べ棒を贈呈した。それは片側にきちんと積み重ねてあったという。すべてあわせると一トン近くにもなる。山下は軍刀を抜き取り、深くお辞儀をしてケン・ウォーシー大佐にそれを渡した。五ヶ月先の一九四六年二月、ばかげた不当裁判として後に多くの議論をよぶことになるが、山下は絞首刑にされる。山下の罪状にも彼の裁判にも略奪した財宝や戦時中の略奪に係わることは、まったく言及されていなかった。彼はマニラで明らかに命令に反した岩淵の海軍兵と水兵部隊による残酷な犯罪を理由に戦犯にされた。それはアメリカの歴史上で敗戦国の将軍を戦犯として断罪し裁いた初めての事であった。その裁判は正規の資格を持った人々で構成されたものではなく、もっぱら山下を戦犯に仕立て上げるための風評を証拠として集めただけであった。簡略な手続きで、いい加減な証拠しか集まっていない。にもかかわらずマッカーサー司令部からは早く起訴するように催促された。山下将軍の弁護チームは合衆国最高裁に訴え、二つの最高裁判決が公判の実行を非難した。裁判官のマーフィーはこう言った。「被告には弁護のための十分な時間も与えられないまま、そして、そこに彼が戦争法の違反を認識した上で犯したのかを立証する努力もなされてないのに不法な容疑で公判をせまられている。又、それらの犯罪を知らなかったならば尚更彼に責任を負わせるべきじゃないのだ。」別の反対者、裁判官レトレッジは、「その公判過程は、米国、英国の伝統的な慣習法や憲法全体からかけ離れている。」と断言した。そしてトーマス・パインズの警告を引用して結論づけた。「自分達の自由を確保しようとするなら、敵対する相手に対してもその圧力から守ってやるべきです。もしその義務を放棄するならば、その人にも降りかかるような判例を作る事になる。」山下の有罪は覆らなかった。トルーマンへの訴えが退けられた後(彼はまったく対応しなかった)山下は絞首刑にされた。ほとんどの人は、マッカーサーは自分を無能者にした奴に復讐を望む程度のうぬぼれ屋だったことが、山下を絞首刑に送り込む理由だと考えた。
しかし、我々は秘密の約束があったことを知っている。山下将軍に肉体的な拷問を加えれば弁護士に知られてしまう。その代わりに部下達を拷問することにした。山下の運転手、小島カシイ大佐は特にひどい目にあった。
彼は山下将軍がフィリピン防衛を黒田シゲノリ(繁之?)から引継ぎ、一九四四年(昭・十九)十月に満州からやってきて、以来どこへ行くにも一緒であった。小島大佐の拷問を担当したのはフィリピン系アメリカ人、情報将校のセベリーノ・ガルシア・ディアズ・サンタ・ロマーナ、通常はサンティと呼ばれていた。彼はがっしりとして背が高く、広い額をもち、まるで柔道の黒帯のようか、又は古い緑のビンからとびだしてきたジェニー(イスラムの魔神)のようだった。先ごろまでの日本軍が残虐だっただけにサンティはその仕事が楽しかった。多くのフィリピン人が残酷に拷問され殺された。町では婦女子がレイプされ、その多くははらわたを抜き出されバラバラにされた。(一応、原文どおりに訳しておきます。)ただ、サンティと助手達は注意深かった。小島を殺したり記憶をなくしたりするような事はしなかった。サンティが知りたかったのは金をどこに隠したかである。
彼が大佐に望んだのは、ここ数年間の間に山下をどこへ連れていったかを白状してもらうことで、そこが即ち後日発掘される金の延べ棒や略奪品のありかなのだ。サンティは大佐が各地点へ連れて行き入口を示し、罠の詳しい説明をすることを望んでいた。小島大佐への残酷な取調べは、マッカーサーからホワイトハウスまで飛び上がる程ビックリさせるような結果を生み、二〇世紀最大の国家機密となっていった。それはすべての公式文書を「国家機密」の項目に指定したことで今でも不明瞭なままである。サンティのもたらした結果が冷戦中の世界でアメリカの影響力を劇的に変化させたといっても過言ではない。それほどまでに驚くべき結果なのだから、今その経過をさかのぼって見なければならないし、詳しく細部を注意してみよう。例えば、サンティとは誰なのか、本当は誰のために働いたのか?小島大佐を問い詰めるように誰が指示したのか?
サンタ・ロマーナはCIAでもマニラでも伝説に残るほどだが、不可解なままである。彼についてCIA上級将校は、戦時中にウイリアム・ドノバン「野蛮なビル」将軍が率いていた戦略情報部の諜報員として働いていた、と暗示しながら、サンティはOSSの職員でもあったと言う。しかし、そんな事は意味のない一般論だった。彼は決してOSSの職員でないからこそ、OSSが表向き財宝の存在をあきらめていたのに彼は小島を拷問したのだ。我々は又、サンティがゴールデン・リリィーの隠匿物資を知っていたのか聞かねばならないだろう。それはとても簡単なことだった。アメリカ軍はある時から日本軍がフィリピンに略奪した財宝を隠していることを認識していた。もっとも英国や他の連合国には知らせていないが・・・。
例えば、終戦の前の年にマニラ近くのスービック湾で、米軍と一緒に戦っていたフィリピン人が荷物満載の日本病院船から金属製の箱を降ろしているのを目撃している。漁師に変装した米海軍の准尉ジョン・C・バリンジャーは、フィリピン人の派手に塗装された丸木舟からその船の写真を撮っていた。その船は、本当の病院船ではなかった。船の姿を十分調べた上で海軍の情報記録と比べてみた。そして一九三七年(昭・十二)に建造された高速船富士丸と特定したが、偽の装飾が施され、横側には大きな十字が塗られていた。偽の病院船となった富士丸は秩父宮とゴールデン・リリィーのためにシンガポールからマニラまで戦時略奪品を運んでいた。バリン
ジャーの部隊はゲリラの英雄メディナ船長に率いられ、軍用トラック群がとんでもない荷物を運んでいるあとをつけた。洞穴の中へとても重い箱を引きずっているのを見てしまった。バリンジャーはその中に何があるか考えもつかなかったが、とても貴重な何かであることは明らかだった。それぞれの箱をベルトを使って四人がかりで引っ張った。日本軍は洞穴の入口を封印し、偽装したあと去っていった。ゲリラ達は数日後、洞穴を開き、七五キログラム金の延べ棒が入った箱をみつけた。それは、それこそずらっと並んでいた。船の写真、金でいっぱいになった洞穴付近の写真は多くの同様の報告書と一緒にマッカーサー司令部のあるオーストラリアへ潜水艦で送られた。バリンジャーの息子ジェンによると、彼の父はOSSへ報告したつもりだったのだが、現実はそんな単純なものじゃなかったという。
数ヵ月後アメリカ部隊がレイテに上陸したが、バリンジャーは日本軍によるほかの財宝の移動を目撃した。今度はバグイオの日本軍司令本部から重い箱をトラックが列をなして持ち出し、町外れの病院近くの地下道へ運ん
でいた。バリンジャーの息子ジェンが我々に言った。「当時、日本人が思っていたほどの大きな秘密だったわけじゃなかったんだ。彼らはとても慌てていたし、そんなに注意もはらっていなかった。メディナの村人達は彼らを蹴っ飛ばして、地下へ押し込み蓋をしたんだ。日本人達みんなをね。」この行動に関する報告もバリンジャーによってOSSに連絡されなかった。この重大な機密のせいで、戦時略奪品に関するいかなる機密文書の追跡も、嘘や言い訳やキチガイでいっぱいの地下社会へ入っていくみたいにウサギの穴に落ちるようなものだ。
(不思議の国のアリスからの例えだと思うのだが、底なし沼のような意味か?)
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戦時中に略奪された金の延べ棒の動きを監視するアメリカ軍の努力はCIAの前身であるOSSの大きな責任だったことは事実だ。又、移されたり略奪された美術品を監視する責任をもつ特別な情報部隊もあった。例えば略奪美術調査部隊、遺跡グループ、美術品グループ、公文書などのグループだ。しかし、アジアでよりヨーロッパでのほうが効果があったようだ。ヨーロッパと比較するとアジア、太平洋での連合軍情報機関は不完全で協
力し合わなかった。とにかく、東アジアでの貴金属の略奪と輸送を追跡する努力は、地政学、文化、言語が障害となり不十分なものであった。これらの記録のほとんどはアメリカの諜報部が握り、そして次第に何処かに消えてしまった。いったい何が起こったのだろう。当時、ヨーロッパでのOSSは他の情報部と連携して動いていた。しかし、競争も対立も激しかった。最も凄まじい縄張り争いのひとつが、ナチスの略奪品追及の中、米国財務長官ヘンリー・モルゲンソーとスイスのOSS長官でその種の問題に大変尊大な態度をとっていたロマンチスト、アレン・ダレスとの間に持ち上がった。枢軸国の略奪品は連合国の鼻先にある中立な安全地帯に移転されていた。スイスにいたアメリカ情報員はナチの金塊を載せた二八〇台のトラックがドイツからフランス、スペインを横切り中立国ポルトガルの安全地帯へ運ばれるのを目撃している。又、スイス財閥の所有で十字が描かれたトラックが中立を装いながら金を運んでもいた。しかしながら、戦時略奪の情報収集が分断されていたため、結局それらの報告書はヘンリー・スティムソンの陸軍長官の事務所には届かなかった。彼は略奪した金塊に格別な興味を示し、そのためにそれを考える専門金融グループをもっていた。その中に、スティムソンの特別補佐官ジョン・J・マッコイとロバート・ロベット、そして顧問のロバート・B・アンダーソンの三名がいた。戦争終了時に枢軸国の略奪品をどのようにするかという問題が、一九四四年(昭・十九)七月、戦後経済を計画するためニューハンプシャー州の避暑地、ブレトンウッズに四十四カ国が集まり議論された。この議題は最高秘密とされたが、解決できそうにもない国際金融制度の中に、抜け穴と不備が存在するということをはっきりとさせた。別の議案の中にプレトンウッド体制がある(メディアがそう名付けた)それは金(ゴールド)の価格を一オンス、三五ドルに固定すること、さらにアメリカ人が個人として金を輸入することを禁止したものだった。この条約に署名した中立国は知らないうちに盗んだ金塊や略奪財宝を受取らないと約束してしまったことになった。ただ、ポルトガルは自分の属領(植民地)一覧表にマカオを載せることを忘れてしまった。これが結果的には都合のよいものとなり、第四章で述べたように戦争が終わるまで、マカオは不正取得した、あるいは日本軍が略奪した金の世界的な貿易拠点となっていった。ドェイト・アイゼンハワー将軍に容認されていたヨーロッパと違い、太平洋南西部のマッカーサーはOSS が彼の管轄地域でいかなる足がかりも得ることを食い止めた。マッカーサーとその部下たちはいかなる干渉もなく自分達独自の特別作戦をオーストラリアの本部で練っていた。マッカーサーグループの情報集団はチャールズ・ウィロビーの指揮下にあった。
ウイロビーは一八九二年、ドイツのハイデルベルグで生まれ、T・シェップ・アイデンバッハ男爵とメリーランド州バルティモアのエマ・ウィルロビーとの間の私生児だった。男爵と彼女の関係は一九一〇年には気まずいものとなり、エマは十八歳になった息子と一緒にアメリカへ帰国した。そして軍へ志願し軍曹まで昇進した。彼は一九一三年、市民生活に復帰したが、資格がすぐ取れるゲッティーズバーグ大学へ入学した。将校として軍に復帰したウィロビーは、一九一七~一八年にフランスへ派遣され、ベニング要塞でマシンガンの扱い方を教えていた。その後数年間は米大使随行員として強いドイツなまりのスペイン語を使いながらベネズエラ、コロンビア、エクアドルに赴任した。一九四〇年、リーベンウォース要塞の参謀学校を卒業した後、マッカーサーの補佐官で兵站(へいたん)長としてマニラへ送り込まれた。
当時のダグラス・マッカーサーはフィリピン部隊における米陸軍元帥であった。重々しさや権威にあこがれたウィロビーは愛国者マッカーサーに畏敬の念をおぼえた。一九四一年の半ば、マッカーサーが米軍の新極東司令
部司令官になると、ウィロビーにとってマッカーサーはまるで神のような存在となった。他のどんな性格よりも、その個人的な忠誠心に感動したマッカーサーは、ウィロビーを大佐にすると約束するとともに、情報部主席補佐官にひっぱりあげた。日本から攻撃を受けた時、ウィロビーはマッカーサーと共にコレギドールに移動し、その後一緒にオーストラリアへ行った。マッカーサーは自分の司令を受けた範囲の情報収集と特別作戦に関して絶対的な支配を望んでいた。その様な仕事はウィロビーの適性からみるとはなはだ疑問であった。何度となく彼は戦場での判断で大失敗したが、それでも敬服しながらすりよってくる彼をマッカーサーは好んだ。
軍事史専門のケネス・キャンベルに言わせるとウィロビーは本部からの指令がないのに、命令を受けたと言っては自分の不名誉な違反行為をごまかそうと企てたと言う。ウィロビーにとって、真実などどうにでもなるのだ。オーストラリアでウィロビーはフィリピンでゲリラ活動を行う連合国情報部を設置した。そして又日本の無線放送の謀聴、捕虜の取調べ、日本軍文書の翻訳などのために連合国翻訳通訳部門(Allied・Framslaton and Interpreter Section ATIS)を始めることにした。ATIS のほとんどが二世、つまり外国で生まれた二代目達だ。このケースではアメリカにいた日本人の両親から生まれた人達だった。しかしながら戦闘状態でゲリラに接近するウィロビーは、大胆さを望むマッカーサーにはあまりにも慎重すぎることがわかった。
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>>7341
ウィロビーを情報収集の任務から切り離すため、マッカーサーは友人であり私的な弁護士のコートネイ・A・ウィットニーに特別な作戦を伝えた。ウィロビーは腹をたてたが、マッカーサーは将軍に引き上げることで彼をなだめた。こんなことからマッカーサーの旧友ホィットニーはジョーン・バリンジャーなどから届く略奪物資報告書を読んだり、この島での諜報作戦を実行するキーマンになっていった。OSS はこのことに関して何の役割も果たしていない。ホィットニーはフィリピンで政治と権力をもつすべての家族達と親しくしており、賢明かつ裕福なのでマニラでのコネクションはたくさんあり、特殊作戦にはピッタリだった。マッカーサーは一九二〇年代後半、ワシントンで法科学校を卒業したホィットニーをマニラでトップのデヴィッド財閥の弁護士事務所パーキンス・エンライルに就職させた。そこは、マッカーサーの財務部門を担当し、なおかつマッカーサー自身も投資しているフィリピン最大の金鉱山の開発会社、ベンゲット社の財務も掌握していた。真珠湾のころまでホィットニーはこの島で活躍するつもりで、政治、法律、財政的な策略などに自ら関わっていった。彼はサンタ・ロマーナのような男達から気に入られる事が出来た。いろいろな情報源、例えば前副長官レイ・クレインなどによると、サンタ・ロマーナは一九〇七年ルソン生まれ、マルセロ・ディアズ・サンタ・ロマーナとペラギア・ガルシアの間にできた大勢の子供の一人だという。大人になり彼は、ガルシア、ディアズあるいはサンタ・ロマーナと使い分けをしてきた。セベリーノ・ディアズと名のっていた頃、富裕な若い相続人エバンジェライン・キャンプトンと結婚し、カリフォルニアで大学教育を終えている。一九〇七年、サンフランシスコに大地震と火事が起きた当時、彼女の家族はストックトン通りにホテルを所有していた。震災後、ホテルを建て直し、新しいオーナーのトレイク・ウィルシアーに売却した。(今日もそこは「キャンプトンの場所」と呼ばれ、キャンプトンのいるホテルという名前になっている。)
一九三〇年代にはアンジェリーナ(キャンプトン)を連れてフィリピンへ帰り、彼女の相続財産で事業を始めた。そこで彼は、マッカーサー、ホィットニー、アンドレアス、ソリアーノ、サン・ミィグエル・ブルーベリーのオーナー、そして島の富裕層達の社交場の仲間入りを果たした。サンティとアンジェリーナの間には三人の子供がいた。ピーター・ディアズ、メリー・アン・ディアズ、ロイ・ディアズだ。アンジェリーナは第二次大戦が始まって数週間もたたないうちに自分の財産を子供に残して別居し、その後、日本軍の爆撃で死んでしまったと言われている。サンティと彼女の結婚は早々に冷え切っていた。カソリックのフィリピンでは離婚は禁止されている。一九三六年、ディアズの名前をはずし、セバリーノ・サンタ・ロマーナの名前を使い、サンティはジュリエット・ヘルトという可愛い教師とミンドロ島で結婚した。そしてまもなくダイアナという娘をもうけた。結婚迫る時に、彼は教師になるつもりだと言っていた。彼は重婚を犯していたのでこのようなごまかしが必要だった。サンティは戦争中、島にいて、ホィットニーの最も役立つ情報員の一人になっていた。当然、サンティが一九四五年に小島大佐に対して行った拷問は、ホィットニー、マッカーサーの弁護士、飲み友達が公認したものだった。ホィットニーはマッカーサーの許可なしでは何もしなかったのだから、その行為をマッカーサーとその取り巻きが十分承知していたことは言うまでもない。日本軍が降伏した時点で公式にはホイットニーの特務作戦は終了している。ウィロビーのG―2情報戦略部隊は形式上存在し続けたが、ウィロビーとホィットニーはマッカーサーについて日本へ同行した。フィリピンはホィットニー個人の権力の元であり、マッカーサーの権力の源のひとつであった。ホィットニーとマッカーサーは進行中の山下将軍の公判を細かく監視し、我々が見てきたとおり、訴訟過程でも頻繁に介入していた。彼らは又、山下の部下に対する尋問の通達を延期している。マニラにおけるマッカーサーの仲間で別の鍵を持つのがジョゼフ・マックミッキングだ。彼は戦前、コートニー・ホィットニーの弁護士仲間だった。日本軍が侵攻してきた時、ジョー・マックミッキング大尉は、ウィロビー大佐の為にG2の補佐を勤めることになった。彼はマッカーサーと共に硝戒艇でコレヒドールからミンダナオのドール・ピニアプルへ脱出し、飛行機でオーストラリアへ向かったバターン兵士の一人である。一九四五年、小島大佐の拷問中、マックミッキングはG2でサンタ・ロマーナの直属の上司であり、マニラのサンティーと東京にいるホィットニー、マッカーサーとの間のつなぎ役でもあった。小島大佐が口を割り、サンティが金の延べ棒を発掘し始めると、マックミッキングは一夜で異常なほど羽振りが良くなり、フィリピンのスペイン高官、ゾーベル・アヤラ家の女相続人メルセデス・ゾーベルと結婚した。サンティの発掘が進むにつれ、マニラでの財産が激増していったジョーマックキングはアヤラ家が世界の富豪に成り上がる手助けをしながら世界中の不動産をゾーベル・アヤラ財閥が獲得するための策を考えた。ゾーベル・アヤラ家がそんなに貧乏だったとは思えないが、マックミッキングほど懐が豊かだったわけではない。今日の巨大なゾーベル・アヤラ財閥の財産の裏には、フィリピンの星であるマックミッキングという金脈が控えていたのだ。一九六〇年代初期、マックミッキング夫妻はフィリピンで職業訓練、芸術、生涯活動を促進するアヤラ基金を創設した。これは一九八三年にサンフランシスコにあったキャンプトンホテルを買収したアヤラ財閥の動きと逆行している。ホテルは優雅でお洒落な高級ホテルに変身していった。OSSはかろうじてサンティの拷問に関与していくだけだった。山下将軍が降伏した八日後のことだ、前のOSS職員、エドワード・G・ランスデール大佐がサンフランシスコからマニラに到着し、何をするべきか探し始めた。
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>>7342
ランスデールは一見愛嬌があり、興味深い性格を持つ男だが、厄介な秘境に入ってきた捕らえどころのない化け猫だ。後に彼はアメリカ人の中で最も重要な冷戦の兵士の一人として、大きな神話の象徴となって行く。(有名かどうかは各人の見解によるが・・)グレアム・グリーンなどの小説家は、彼をアジアに度を越したアメリカ方式を推進した異常な性格の持ち主として登場させている。ランスデールは多様なキャラクターを演じつつ、常に舞台の上に立っていた。その生活がごまかしばかりなので、でっちあげた神話が現実を隠してしまっている。そこに二つの考え方がうまれる。――ランスデールはアジアの救世主だというものと、戦犯であり極右の回し者だという二つだ。(長年ランスデールと事務所を共有し、米軍事情報将校であり歴史家でもあるフレッシャー・ブロウティは、ケネディ暗殺のときに撮られたランスデールの写真を指差して、他の人たちが確認した事は自分もそうであると断言した。オリバーストーンはJFKの中で変装したランスデールが大統領暗殺に関与させていた。)ランスデールのような口からでまかせをいう広告屋の様な奴が、どうしてあんなに冷戦中に影響力を行使できたのかは謎のままだろう。謎を解く鍵・・それは小島大佐の拷問だった。一九四五年マニラに上陸したランスデールは三七歳のごく普通の男だった。戦時中はずっとサンフランシスコにいてOSSのためのプロパガンダを書いて暮らしていた。一九〇八年、信心深い中流家庭に生まれ、母はサイレンス派、父は敬虔な長老派だった。子供の頃、父からあらゆる宗教の教えを学び、日曜学校ではアメリカの田舎道に記されているような話をお説教として聞かされた。「仕事をいったん始めたなら達成するまでやめてはだめだ。大きな仕事だろうが小さな仕事だろうが働け。やるならやる。そうでないなら全くやるな。」四十歳になった彼は、この言葉をいつも繰り返していた。そうクジラの潮吹きが三十分も続くように・・。CIAの現場に出てからは、フィリピン、ベトナム、日本で部下達にこのセリフを教え、秘密作戦の間の合言葉として使い、アジア秘密警察幹部には食前のお祈りの言葉として使った。
数年後サンティは、このランスデールの習慣ともいえるおまじないの言葉が気に入り、自分の遺言にすら取り入れた。世界恐慌の間、ランスデールは軍の教育課程の中でUCLA のジャーナリズムを習得した。卒業後、ロサンゼルスとサンフランシスコの広告代理店でコピーライターとして働き、機転がきく彼は重宝された。パールハーバーの報道を聞いた時、仕事を中断し軍に志願した。そして軍の情報部とOSSで心理戦争戦略を計画する部署に働き口をみつけた。サンフランシスコのデスクワークをしつつ、日本軍が混乱させる方法を考えて日々を過ごした。彼が「悪魔の口」と呼んだビラは日本の古い格言を使い、それを用いて日本の戦争の誤りを指摘した。「先に悪い事をした者は必ず負ける。(パールハーバーを忘れるな!)」トルーマンが一九四五年九月にOSSを閉鎖する命令を出した時、ランスデールにチャンスがやってきた。数週間しかないところで、ドノバン将軍と准将軍ジョン・マグルーダーは全職員及び海外に派遣しているOSSの雇用を守るため、他の情報局や他国の情報部、そして場合によっては世界中の各分野に秘密情報員を雇う余力のあるGEのような私企業へ、経済情報やワシントン政府のお気に入りとして移籍できる道を模索した。ランスデール大尉はマックミッキング大佐が長官を務めるウィロビー将軍のG2フィリピン部門へ転籍するチャンスを与えられた五十人のOSS職員の一人だった。マニラに着いたランスデールは戦争が終わったばかりの光景に衝撃を受けた。街は海軍少将岩淵の部隊の謀略で廃墟となっていた。おぞましい話を耳にし、過度な残虐さから日本人に対して嫌悪感をもった。
彼の一九四〇年代の日記には憎しみの言葉がいっぱいだった。一九四六年十一月十日は「多くのフィリピン人が拷問された・・・彼らは血まみれの肉片になるまでボロボロにされ・・・」、と書いてある。
彼はG2の事務所で日本軍兵士によって隠匿された金塊関連のファイルをみつけ、サンティによる小島大佐の拷問のことを耳にした。彼はサンティーの拷問を指揮しながらその主導権を握った。マッカーサーチームのほと
んど、ウィロビーの上級将校達は日本に行き留守だったので、ランスデールは、自分の思うままにできた。マニラでは、G2は良くも悪くもランスデールのものになっていた。彼はフィリピン人やアメリカ人の事務局員に、日本軍が行った戦時略奪のすべての証言をファイルから抜き出し、徹底的に調査するように指令した。後日、このことに関して彼が述べている。「司令部の中で我々G2の事務所が報告書の宝を握っていた・・・私の毎日の仕事はその内容に精通することで・・・私は情報部員に今までに判明している事を整理し、もっとたくさん手に入れる事を課題に与えたのだ。」サンティは小島大佐からはるかに大きなものを引き出した。
十月初旬、何日もの拷問の後、小島は口を割り、知っているすべてを漏らした。ランスデールは護送隊を組織し、サンティと小島を連れ、山下将軍が作った一ダース以上のゴールデン・リリー地下貯蔵庫をたどる旅に出発
した。それらは、マニラ北方の高原、西のバグイオから中央のバエンバンの三角地帯、そしてルソン島北端、アパリなどであった。ランスデールは十月初旬に帰り、すぐにマックミッキングに報告し、急いで東京へ飛び、ホィッ
トニー、ウィロビー、マッカーサーへ説明した。そして指令を受けワシントンへ飛んだ。ホィット・バンデンベルグ将軍の下で新しくCIG(中央情報集団)が創立される直前で、OSS最後の戦略情報局長官マグルーダ将軍へ報告した。二ヶ月前にランスデールをマニラへ配属させたのはマグルーダだった。だからヴァンデンベルグとマグルーダは、トルーマン大統領の国家安全補佐官で閣僚でもある海軍大佐クラーク・クリフォードのもとへランスデールを送り概要を報告させた。トルーマンはこの発見を機密とし、出来る限り多くその略奪品を発掘するよう決定した。この段階では、どのようにしてこの内容を明らかにするのか、又はトルーマン大統領が何をしたのかをはっきりと言う事は不可能であった。サンティの回収作業に関してはすべてが機密事項であった。マッカーサーと話し合うためにロバート・B・アンダーソンがランスデールとともに東京に舞い戻った事はCIAのふたつの異なる高官ルートから知ることができた。数日間の会議を終え、マッカーサーとアンダーソンは秘密裏にマニラへ飛び、ランスデールとサンティの案内で山中のいくつかの施設と、ルソン地方アパリ周辺の六ヶ所の地域を回った。
アメリカ軍から選ばれた技術者達とサンティは一緒だったので、数週間のうちに地下金庫のいくつかを開くことができた。そしてマッカーサーとアンダーソンは金の延べ棒がずらっと並んだ所を散歩することになるのだ。
他の施設も数ヵ月後には開放された。すべての回収作業が完了したのは、一九四五年後半から四七年初頭までで、二年間を費やしたことになる。この地下金庫の中身と、アメリカ軍調査員が日本国内で発見した財宝をみれば、日本軍がそれまでの数十年に東南アジアで何十億ドルもの金塊、プラチナ、ダイヤモンド、宝石を略奪したことは明らかである。この大半は海路で、もしくは中国を通り朝鮮から日本へ到着した。しかもフィリピンにはまだたくさん隠匿されたままだ。アメリカの公式な(新聞等)ナチス略奪金の回収高は、いまだにたったの五五〇トンにすぎない。アンダーソンはもっと別の興味深いことを知っていた。彼の仕事仲間が見た写真には、ヒットラーがポーランド、オーストリア、フランスで略奪した金塊を積み重ね、その山のてっぺんでアメリカ兵が、それもアンダーソンの事務員がすわっていた。
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708131 No.7344
>>7343
連合国の指令でその写真を見ることはそれが最後となり、それ以降それに関して話すことも許されていない。同じ情報筋の話で、ヨーロッパのある修道院の中庭にナチスが略奪した一万一千二百トンの金塊が集められたというのもある。ナチスが負けた後、OSSや他の連合国側の情報組織は芸術品や略奪された金を求めてドイツとオーストリアで捜査した。ソビエト軍団と特別部隊はロシア領域で同じことをしていた。金の回収よりもっと多くのことが美術品の回収で起こったことが知られている。百トンのナチ金塊がドイツのマルケル近くの塩鉱から回収され、フランクフルトへトラック護送団が運んでいたが、なぜか途中で消えてしまった。それは強奪されたのだと言われるが、修道院中庭に積まれた延べ棒がそれだったとするのが真相ではないだろうか。こうした行動の目的が、ある時に「黒いワシ」と呼ばれる様になる最高機密プロジェクトだったのだ。その陰謀を大統領に最初に示したのは、陸軍長官ヘンリー・L・スティムソンと戦時顧問で後の世界銀行理事長、ジョン・J・マッコイ、後の防衛長官ロバート・ロベット、後の財務長官ロバート・B・アンダーソンだった。スティムソンは枢軸国の持つ略奪品のすべてを世界中の政治的な基金として融資すると提案した。しかし、すべての略奪金塊の正しい所有者を決められるかどうかが困難な以上、より良い選択は回収をひとまず中止し、戦後に権力側に親しい国を救う基金設立するほうが先決だった。これは非公式に「ドイツの黒いワシ」、後に「黒いワシ基金」とよばれた。これは、ドイツ銀行の隠し金庫から回収されたナチの金の延べ棒に刻印されていた黒いワシとカギ十字ちなんでいる。何人かの情報では、黒いワシ基金は欧米で最も力のあるロックフェラー、ロスチャイルド、オッペンハイナー、ウォールバーグ等が協力したからこそ立ち上げることができたという。輝かしいウォール街の弁護士スティムソンは五人の大統領――タフト、クーリッジ、フーバー、ルーズベルト、トルーマンの色々な部署で働くという輝かしい経験をもっていた。しかし、その異様な経歴はもはや終わろうとしていた。彼は、一九二〇年代にフィリピン総督として赴任していたのでマニラに詳しかった。ハーバート・フーバーは彼を州知事とよんでいた。(フーバーと同じくスティムソンもマッカーサーのことを高く評価していた)
パールハーバーの時、スティムソンはすでに七〇歳だった。陸軍省に四人の補佐官を選定する権限をもつことで大きな戦争責任を果たした。ロバート・ペテルソン(法律家で前連邦判事)、ハーベィ・バンディ(ボストンの法律家でイェール大卒)、天からの授かり者とスティムソンが呼んだ二人の機関車、ジョン・マッコイとロバート・ロベットだ。彼らに共通しているのは、ハリマン、ロックフェラーとの関係が密接だということだ。ロバートの父はかつて日本から南満州鉄道を買収しようとしたEH・ハリマン鉄道王の右腕をつとめていた。その父の足跡をたどりロバート・ロベットも国際通貨の取り扱いや、援助活動をしているウォール街のブラウン・ブラザーズ・ハリマン財閥でアベレル・ハリマンと共に勤めていた。ジョン・J・マッコイは対照的にハーバード法律学校を卒業したフィラデルフィア出身の貧乏人で、ウォール街のクラバス財閥と共同してユニオンパシフィック鉄道の買収契約で七七〇〇万ドルをかせぐ手助けをしてアバレルハリマンの賞賛を得た。(マッコイはそのような割り振りをモルガン家の指示の下に操作していた)陸軍省で働きながらスティムソン、ロベット、マッコイは金融界と密接にからみながら戦後のアメリカに誕生する国際安全制度の助産婦になっていった。マッコイは紛争の調停人でありプロの黒幕だった。自分の仕事は命令系統が全く交わらないような組織全体の頂点になることだと言っている。戦時中、彼は世界中を旅し政治家や銀行家あるいは将軍達と問題解決に努力した。彼は舞台裏での策略に大きく関わりキエロ(古代ローマの哲学者)の言葉、「戦いのカナメは金である。」という言葉を十分理解していた。金は冷戦においてもやはりカナメだった。頭の回転がよいマッコイは国際的な資金の収支のすべてを知った。戦後、彼はロックフェラー家とそのチェース銀行の業務を取り扱う法律会社ミルバンク・ツィードと共同し外務委員会の評議長、世界銀行理事長、チェイスの責任者、フォード財団の理事長へとなっていった。彼こそが、スティムソンの考えを採用し現実にした人間であり、黒いワシ信託を実現した張本人だったのだろう。それに比べてロバート・アンダーソンは不運な引退だった。一九一〇年六月四日、テキサス州ブルレソンで生まれ、テキサス大学で法律を学ぶ前に少しの間、高校の教師をしていた。後に州議会選挙で選出され、一九三三年、テキサス州司法長官助手に指名される。そして翌年には州税務長官となった。何かの関連でアンダーソンは富裕層のための金融コンサルタントになり、大きな成功を夢見て政界を去った。一九四〇年代初め、彼はテキサス中の農場や油田を所有する豊かなW・T・ワグナー遺産基金の支配人になっていた。金の扱い方があまりにも巧みなので、ルーズベルト大統領は枢軸国の略奪物資を運用する責任を持っていた陸軍長官スティムソンの特別補佐官に任命した。海軍のクラーク・クリフォード大佐はアンダーソンの推薦する親しい友人で、ランスデール大佐から概略の説明を受けているトルーマンの国家機密担当補佐官だった。アンダーソンとクリフォードは協力して戦後のアメリカ政界の中で巨大な権力の斡旋屋になっていった。スティムソンは一九四五年に現役を退き、マッコイも当時は政府を去っていた。なのに、彼らとアンダーソンは「黒いワシ信託」の監視に関わり続けていた。
前CIA副長官レイ・クラウンによると、サンタ・ロマーナが回収した金の延べ棒は「四二カ国、一七六の銀行口座に預けられた。」そうだ。アンダーソンは非共産国を通して政治活動資金を分配しながら黒い口座を設立し世界中を旅していった。後に我々はその幾つかを重点的に調査した。一九五三年、アンダーソンに報いるためアイゼンハワー大統領は彼を海軍書記官として顧問団に推薦した。翌年には国防副長官に昇格した。第二次アイゼンハワー大統領時代、一九五七~六一年の間アンダーソンは財務長官に任ぜられた。その後アンダーソンは民間の生活にもどるが、ポール・ヘリウェルが戦後構築した世界中に広がるCIAの銀行情報網に深く関与し続けた。結局これが、CIAとグルになって資金洗浄と黒い金をこっそり動かすことで大銀行のオーナーを儲けさせるためのBCCI(国際信用通商銀行、アラブ・パキスタン銀行)に関与することになっていくのである。ウォール・ストリート・ジャーナルは「世界で最大・最高のペテン」と書いた。BCCI の大敗は、アンダーソンの支援者を罠にはめてしまうことになり、クラーク・クリフォードは起訴されることになった。
クリフォードとその仲間でファースト・アメリカンバンク・シュアーズの代表ロバート・アルトマン、そして首都にいるBCCI の幹部達は、全面的な調査により、BCCI へ隠匿目的の政治的利益供与をした罪で起訴された。
ワシントンポスト紙のベルナルド・ノジターの記事で、アイゼンハワー大統領の財務長官時代のアンダーソンが、テキサスの石油王から二十九万ドルを受け取っていたと報道されて以来、彼の名声は崩壊の一歩を歩み始めた。後に彼は脱税と資金洗浄の罪に対し州へ抗告していたが失意のうちに死亡した。どのようにしてアンダーソンやマッコイらが黒いワシ信託を運営したのかを逆から調べることはこの本の焦点からはみだしてしまう。
まだ公開されていない書類が多すぎるので、今のところ手にした証拠と知っている関係者が今でも活躍していることで自己満足するべきである。
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708131 No.7345
>>7344
唯、ブレトンウッドで何が協議されたのかを知ると、我々は秘密組織の一端を見ることになる。長いヨーロッパとアジアの戦争で打ち壊され破産した連合国各国にとって、世界経済のドル本位制をアメリカが行う以外に選択肢がなかった。経済学者は第二次大戦の終わりを世界通貨体制元年と見ていた。チューリッヒにあるBIS(BANK OF INTERNATIONAL SETTLEMENTS 国際決済銀行)が枢軸国の略奪金を洗浄しているという容疑が広がっていたため、世界の将来的な金融決済と通貨交換の役割を果たすためIMF(国際通貨基金)と呼ばれる新しい中央金融取引場を立ち上げることになった。金(GOLD)は一オンス三五ドルに固定されており、すべての通貨はドルに対して評価付けされていた。この事はある疑問、例えば米ドルと英ポンドの相対的な関係についての疑いを取り払っていた。英国はこの計画でアメリカの仲間だったのに、アメリカに対して深い恩義を感じていた。
一九四一年、英国は三百億ドルの戦争債務を背負ったおかげで戦後計画では後部座席においやられてしまった。どのIMF加盟国も自国通貨が米ドルで換算される事に同意した。各国はIMFへ各国が通貨を発行するに見合うだけの十分な準備高としてゴールドと通貨を貯金した。IMFの主たる機能は一方からもう一方へ資金を一時的に移動することで、それらの通貨の価値を安定させることである。それが世界的な組織である以上、最も重要な後援者はアメリカ政府である。連邦統計では戦争終結時点でアメリカには世界の公式な金準備高の六〇%を持っていることを表していたので、他の国の通貨を操作することが出来る立場にワシントンは置かれた。
一九六〇年になってIMFのヨーロッパ加盟国は公式なアメリカの金準備高よりはるかに超過したドルを発行していることがわかってきた。ひとつの解決策はドルを引き下げてしまうことだ。しかしワシントンはこれを拒否した。その代わり、米国はヨーロッパの中央銀行、英国銀行、スイス銀行と手を結び、英国銀行が運営するロンドン金市場を開設した。その考え方はこうだ。つまり各国から集められた公的な準備金を金の私設市場に十分に投入すれば一オンス三五ドルを維持できるのではないだろうか。暫くはその様になっていった。一九六八年になりフランスが突然、金市場から去った。英ポンドは切り下げられ、金の市場は急上昇した。ロンドン金市場を支えるため、土壇場でアメリカ空軍は金をフォートノックスからロンドンへ緊急空輸した。英国銀行へあまりにも大量の金を運んだため、金を収容する部屋の床が崩壊してしまった。それは金市場がもうすぐ崩壊する前触れだった。
スティムソンのチームで設立された秘密の「黒いワシ信託」は戦後の経済状況の中ですっかり大きくなった。それは、区別された特別な部屋に置かれ、そこで闇金市場を作り、アメリカ政府と、関連した隠れた金融財閥にゆだねられた。この黒いワシ信託と、デビアスに認定されているダイヤンモンド協会、南アフリカのオッペンハイマー家に認定されている金協会とは確かに同じにおいがする。提供された情報によると、これら似た類は十分な理由があるからこそ存在するのであって、違った多くの顔をみせながら生き延びるのだそうだ。ダイヤモンド協会はたくさんの原石を蓄えることができ、市場へ送る宝石の量を調節することによって相場を人工的に高く保ち、その希少性を印象付けている。同じ様なやり方で黒い金の協会は数千トンの金の延べ棒を所有し(それは公式な金の供給量よりはるかに多い)その金の影響力を秘密の不正資金として慎重に使用することで金価格を不自然に高く保っている。もし、略奪された莫大な量の金の回収を、信託されたわずかの人しか知らないのなら、ナチや日本などの枢軸国に盗まれた国家や人民はそれを取り戻そうと訴えることはないだろう。又、そんな大量に金塊が闇に存在することが議論され、大衆が知ることになれば一オンス三五ドルの固定相場などいっぺんに崩壊してしまうだろう。あまりにも多くの通貨がドルとリンクされ、そしてドルはGOLD とリンクされているので、世界中の通貨が急落すると金融恐慌の原因になる。その秘密が保たれれば保たれるほど、一オンス三五ドルという金価格が長く守られ、金に連動する通貨は安定するだろう。その間に闇のゴールドを準備金として供給すれば各国の中央銀行は強化されるし各国政府も元気になれる。準備金として闇のゴールドは、みせかけ、もしくは見せかけるような目的にのみ使うよう厳しく制限され、それらの銀行に備蓄されていた。このことは米国がそれらの国や中央銀行、有力銀行へ圧力を掛け続けることを可能にした。国家と指導者がワシントンとあまりにも長く協力し続け、冷戦で連合し続けたために眠らせていた金の延べ棒は利益供与の財政原資として使用されてしまった。現実に金の延べ棒そのものを与えるのではなく金証券やその他の金派生商品の手段で贈り物や賄賂として使うことができた。政治家、軍指導者、政治的な大物とその家族を儲けさせるための信託が創設された。アンダーソンやマッコイのような賢い男の手にかかれば可能性は無限だった。フィリピンのゴールデン・リリィー地下貯蔵庫から延べ棒を回収すればするほどもっと多くの金の注文が中央銀行や援助団体の個人買取人から注文があったようだ。後の章で、これら非合法な資金が巨大な賄賂として表面化したり、有名なところでは、イタリア、日本、ギリシャで選挙中の買収に(もちろん他の国でもあったであろうが)使われたたくさんの証拠文章をおみせしよう。
幾つかの国際的な有名銀行は、その地下金庫に闇金数十億ドルを慢性的に持っていた事を明らかにしている。あまりにもどっぷり漬かっているため、彼らは延べ棒を返却することを拒否し、さらにあるケースでは前の持ち主やその遺族の文書が偽造品と非難しそれらの人から騙し取ろうとするほど中毒になっていた。実際、ある経営者などは、もし彼らが権利を主張しようものなら、その証書が偽物だとわめくばかりか殺人の脅迫めいたものすら与えた。ある場合では、その様な闇の準備金の使いすぎは倒産する以外にもはやその立場をすてる方法がなくなってしまつた。ある意味、ランスデールよりサンタ・ロマーナの回集金を上手に使った者はいなかった。最初、彼の役目はマニラでの厳格な進行係であり、ゴールデン・リリィーの回収を監視し、延べ棒の在庫を調べ、スービック海軍基地か空軍のクラーク空港の倉庫へ陸送することだった。延べ棒は陸軍の護送団、軍輸送機、軍船などにより十分な機密を保ちつつ移送されねばならなかった。アイゼンハワー大統領がアンダーソンを海軍長官に任命した理由のひとつがこれだったのだ。この大量な延べ棒の運搬は積荷明細書や保険明細文書で確認されている。そして何年分かの多くの書類により関わっていた個人名、ブローカーの名前、そして延べ棒を船積みしてどこの有名な銀行に運ばれたのかも明らかである。この船積みの件は後の章でのべることにしよう。文書はすべてCDに収納してある。ウィロビー将軍は人を見る目がないのでランスデールを単なる自惚れやとして嫌っていた。だからフィリピンでランスデールをG2副長官にした時も一九四七年まで少佐に昇進させなかった。新しくできた中央情報部長官、ホィット・バンデンベルグ将軍はランスデールを空軍に転籍させ彼を救出した。コロラドの戦略情報学校で数ヶ月過ごした後、空軍中佐に昇進した。そしてフィリピンには空軍大佐として送り返され、CIAの気違いと呼ばれていてそして、OPC(OFFICE of POLICY OORDINATIPN 政策調整事務所)という汚い策略を練る部門の長であるフランク・ヴァイスナーの為に働くことになった。ランスデールは急速な昇進を果たした。普通であれば彼の成功は新しい独立国家でラモン・マグサイサイをアメリカ人にしてしまうほど手なづけることに成功したたためだと言われるが、ランスデールの誇張された成功は、共産主義のフク団の暴動を阻止した事とされていた。
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708131 No.7346
>>7345
フク団は富裕なスペイン人や華僑の地主にこき使われた世代による貧乏な田園の抗議行動だっただけで、フィリピンの真実を知っている人は誰もその筋書きに納得しなかった。フク団の連中はマルクスについて(共産主義)なんて何も知らなくて、欲深い地主に対する戦いを支援するあらゆる抗議活動に参加しようとしていた。常に広告屋であるランスデールは撮影クルーに村を舞台としたフィリピン特別部隊によるでっちあげ攻撃をフィルムに収め、次の日にはよく訓練されたマグサイサイの「村の自由」を上演した。これではまるでハリウッドではないか。何がランスデールを偉大な冷戦の名士にしたのかはほんの少ししか知られていない。知られている方法とは、彼の仕事、即ち山下の運転手への拷問、サンタ・ロマーナの発掘回収、そして「黒いワシ信託」を利用したことだ。彼は中年時代を諜報員として生きてきたので、ワシントンで起こった全てを全部自分の仕事だったと信じさせ、権力を持つ男だとみせかけることは簡単なことだった。敬虔な中西部の家族と古めかしい教訓話は彼の魅力であり、彼のアジア改革のためにはアメリカのおおいなる使命があるのだという非現実的な発想はアレン・ダレス、ジョン・フォスター・ダレスがまじめな顔して広めていたが、彼等こそアジアの体験がなく、ワシントンでもっと知るべき人達だったのだ。ランスデールが日曜の夜のパーティでダレス兄弟と意気投合したのはラッキーだった。マニラの米大使レイモンド・スペランスへ送られた書簡にはアレン・ダレスはランスデールを「俺達の友達」だとよんでいた。ダレスは一九四五年にランスデールをベトナムへ送り込んだが、アイゼンハワーには「最高の男」の一人を送りますと話していた。アイゼンハワーはランスデールのフィリピンでの冒険を皮肉めいた冗談ときつい当てこすりを言いながらも楽しんで聞いていた。ランスデールはリチャード・ニクソンとも親密だったが、それはあまり良い結果を招いてはいない。もうひとつの特筆すべき事はランスデールの目には不敵な輝きがあり、エルマー・ガントリーと違い彼はバカだからどんな犠牲を払ってでも止めさせなければならないと言っていた。
「The Phoenix Program」の著者、ダグラス・バレンタインは言っている。「ランスデールはマジソン通り(広告業界のこと)の言葉を使ってボーイスカウトのようにキャアキャア綺麗な事を言っているが、裏側では自分の
ひねくれた残虐な喜びを隠しているのさ。」ランスデールが行ったアジアでの危険な行動は例外なく高価な失敗だった。アレン・ダラスはフィリピンでのCIA活動費として五百万ドルを与えた。しかしその資金はランスデールの応援者マグサイサイに渡り彼は飛行機事故で早すぎる死を迎えた。その話は「マルコス王朝」に詳しいが彼のフク団への鎮圧は詐欺行為であると広く知られていた。ベトナムで彼はまず千二百万ドルの闇金をばら撒き、ディエム家に還元することで盛り上がりつつあった活動を後退させ、誤った方向へ導こうとした。彼は、この本にでてくる多くの人と同じ様に無限の秘密基金の出し入れから得られる権力を愛し、ウィロビーと同じく自分の失敗した秘密を隠すことに成功した。・・・正に国家機密の覆いが本質だ。一九五〇年代後半、彼はフィリピンで厳選した暗殺団を伴って日本に出入りしていた。それはハンサムで冷血な暗殺者、ナポレオン・バレンチノというお気に入り達だった。ランスデールをよく知るアメリカ将校の娘は、どうして彼が日本に来たのかを語った。「フィリピンから、暗殺者としてよく知られてる人を連れてきたわ。子供だったから私は彼に興味をもったの、それと彼の銃にもね。日本では普通、誰も持ってないでしょ・・・。ランスデールの考えたことと、自分の政府が人を暗殺したこと、ショックでがっかりしちゃったわ。」思い返せば、ゴールデン・リリィーや黒いワシ信託の設立は楽な分野だ、彼らは単に他人の金を使う事に関わっただけなのだから。それほど多くの秘密資金が冷戦中に諜報資金として作られるその元々の目的を探るのはそんなに簡単ではない。
日本や、又別の国で極端な秘密ゆえ、これらの巨大な活動資金がすぐに不正な手の中に落ち、今日まででもそのままだ。その途中で多くの嘘は必要だったし、殺人ですら必要だった。サンタ・ロマーナの回収や黒い闇基金を人々に知られないようにするため戦争が終わった時、日本は瓦礫となり破産し、決して何も盗んではいないのだとワシントンは主張していた。これはひどい秘密の始まりにすぎなかったのだ。
(訳者より。) 各国の中央銀行に備蓄された準備金がなくなってしまった状況は、きっとそうなのだろうが、そのメカニズムは訳していてもよく分からなかった。説明不足なのか、私の頭が悪いのだろうか。
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708131 No.7347
>>7346
黄金の兵士 第八章 きたない策略
身体の破片が東京北千住駅の下り線路沿い数百メートルにわたってみつかり、人々は叫び声をあげていた。死体はバラバラで、男か女なのかすらわからなかった。夜が明けた一九四九年(昭・二四)七月、レール付近で身分証明書がみつ
かり、壊れた時計は午前零時二十分を指していた。被害者は下山定則四十九歳、国鉄総裁である。彼は悪名高いヤクザにリベートを払い、国鉄職員として雇った復員兵数千名を解雇しようとする間違いを犯した。不思議なことにその時から、新聞は(マッカーサーの占領指令本部SCAPに支配されていた)下山総裁が日本共産党の陰謀によって殺されたという世論を作り出そうとしていた。
数日後の労働争議では列車が破壊され、三人の死者がでた。再び共産主義者が非難され、二十名の労働者が検挙され、裁判にかけられた。(その九割は労働組合幹部か各種の左翼活動家だった。)彼らの事件は二十年以上、日本最大の疑獄事件のひとつになっていた。この事件は一九七〇年(昭・四五)、罠だったとして赦免され、政府が損害賠償する判決が出るまで続いた。多くの日本人は下山殺人と列車爆破は、ヤクザの助けを借りたアメリカの諜報員の仕事だったと信じていたし、今でもそう思っている。半世紀過ぎてもアメリカ占領の全記録は極めて厳重に密閉され、真実は今でも知ることはない。下山暗殺は、六年に渡る占領期間にアメリカと日本の入念な共謀によって行われた被害者の象徴であり、共謀は今日もまだ続いている。それは戦後のアメリカを席巻したマッカーシーの魔女狩りの頃最高潮に達した。反共産主義アレルギーの必然的帰結だと思われてきたが、このヒステリーはソビエト連邦が崩壊し、ベルリンの壁が消え、中国共産党が資本主義に転換してもおさまりはしない。彼らにとって非常に都合の良い方法なので終わらせるには惜しいのだろう。そのヒステリーは今でもアメリカ、日本に現れ、新しいラベルを貼り、新しい蔵の中に理由を捜して・・。
サンタ・ロマーナの財宝の発見を考えると、終戦後の殺人と共謀の背後にある動機が反共産アレルギーだけだった訳ではないようだ。別の要因がまったく報告する必要のない大量の裏金を引き出すことになったのだ。アメリカが日本で秘密の政治活動基金を設立し、天皇家、支配者エリート、地下組織に対し、そして右翼体制を保ち権力を保持するために使用したということは間違いのない証拠が示している。証拠文書は、まずその資金がマッカーサー司令部の幹部将校の支配下で東京裁判の目撃者への賄賂として使われ、ほぼ間違いなく、進歩的な政治家や左翼組織幹部の暗殺に使われたことを明らかにした。Yamato Dynasty で書いたように日本の右派指導者は、その時代のアメリカの反共産主義者に対する恐怖と彼らの望みを熟知しており、全力でそして巧妙に答えたのだ。
日本の民主化は後退し、政府は戦犯を復帰させた。特筆すべきは岸信介周辺の人達だ。地下社会のドン、児玉誉士夫が戦時中に貯め込んだ財産で創立し、資金提供した岸の政党、自民党は、アメリカ政府の後押しを力強く受け、無制限でかつ証拠のいらない資金の供給を受け続けた。いったん国家機密で隠されたルートを使って引き出された闇金の数百万ドルが何に使われたかを見届ける必要はない。ルーズベルトとトルーマンのもともとの戦略的な目的がどうであろうが、その基金は開示する事に何の関心もなく、自由に、望むまま使うことの出来る堕落した人々の手に落ちてしまった。共産主義に対して盛り上がった恐怖は、転換期に二つの国が作り出した多くの疑問点を両国の国民に隠してしまった。国家機密を引き合いに出すことによって、将校達は多くの書類を隠し、二十一世紀になっても深い所に置いたまま見ることを禁止してきた。アメリカでこれに抗議する者は「日本たたき」と嘲られるか、もっと最近では「テロリスト」と言われる。日本で明らかにしようとする者は自殺志願者になるだろう。その間、日本と世界の他の国々には新しいお伽話と間違った印象を作り出すプロパガンダであふれていた。
まず最初に、SCAPに支配された新聞社とウォール街でマッカーサー後援者に借りを作った従順なる記者達を通じ、日本は被害者に対して補償も賠償も支払えない貧乏で打ちひしがれた国として描かれた。ワシントン政府は日本が盗んだ大量の財宝の存在を知っていたはずである。本土のあちこちの地下金庫にそれは眠っており、大量の金があることは明らかだった。(現金に換えることができなかったか、金に換えられた盗品絵画や文化遺産について何の話も出ていなかった。)一九五一年に調印した講和条約は今から思えば、日本のエリート達が個人的に略奪した財宝を手放さなくてもよいと言う保証をし、冷戦の中、日本の協力を得るための不誠実な共謀であったように思える。この条約には第十四条が追加され調印されている。
それには「日本は戦争期間の苦痛と被害に対し、連合各国へ賠償金を支払うべきだと認める。しかしながら、日本にはその原資がほとんどないことも又認めるところだ・・・だから日本によって引き起こされた事から起きる、連合国及びその他の国々の賠償請求は全てチャラにしようじゃないか。」とある。この項目で、長い間捕虜や市民強制労働者が、日本の大企業、例えば三井、三菱、住友などで苦役に従事した苦痛と残虐さの補償を受け取れなくする教条になってしまった。今日においても、日本の財閥や政府を保護している国務省と司法省は、被害者によるそのような大企業を訴えるいかなる試みをも防ぐために、必ず一九五一年の講和条約第十四条を引き合いに出してくる。
現実にサンタ・ロマーナの回収が明らかになった以上、嘘とごまかしで作られた条約は無効のはずだろう。冷戦最初の数年間、アメリカ政府が枢軸国の戦時略奪金をどの様に使ったかの例は日本だけにある訳ではない。一九四八年(昭・二三)に行われたイタリア選挙はもう一方の例である。戦後のイタリアでは、CIA情報員ジェームズ・ジーサス・アンジェルトンがムッソリーニの軍隊の略奪したエジプト財宝を回収した。この財宝は貧困にあえぐエジプト市民に返されず、イタリア選挙においてアメリカ代理人による反共産主義者への資金融資に使われた。付け加えるなら、情報員は米軍余剰物資の販売で大金を獲得し、その金をイタリアにおける共産主義戦争の中心地、バチカンに投入した。
そしてこの情報員は、選挙中に反共産主義活動用の個人口座からローマ法王へ一億リラを用意した。バチカンが戦時中、裕仁とナチスの財産を隠匿していた事を知った今、これはそんなに驚くほどのことではない。
そしてそれはレイ・クラインの言う、回収されたゴールデン・リリィーの金の延べ棒が運ばれた四十二カ国の一つだったのだ。そしてそれは、サンティがいろいろな名前で口座を設けた銀行のひとつでもあった。
一九六〇年、アンジェルトンはしばしばゲシュタボと蔑まれながらもワシントンでCIAの対諜情報員の職員をしていた。彼は自分だけの「非常に機密性が高く決して開示されない不正資金」を持っていた。CIAの諜報予算情報の歴史(実際幾らの隠し基金を使ったか)は今日でも大きな機密のままで、誰が買収され、又、強要され、あるいは何十年がたち、清算したのかどうか、どんな判断ミスをし、どんな馬鹿者が買収に関わっていたのかは決して明らかにできない前提らしい。我々はこの事実が、受取人を、又は資金を不正に使ったアメリカ高官を守ろうとしているのかどうか疑いの目でみている。
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708131 No.7348
>>7347
一九四八年のイタリアにおける選挙操作のような隠れた行動はトルーマンドクトリンとよばれる暗部である。トルーマン大統領は、このようなことは世界的な指導力を持つためのアメリカの義務であると宣言し、冷戦が将来の米国の外交的軍事的な理念に一致することを明らかにした。これは一九四八年以来、アメリカ政府の外交理念の骨格である。同じ様な隠れた米国による仲裁はギリシャでも起こった。英国はギリシャの国庫は空っぽだと指摘し、ギリシャとトルコの役割を止め、地中海の東端までのすべての資金的、軍事的な援助をやめるよう強要したのだ。共産主義が広がる恐怖から、ロンドンはアメリカ政府に真空地帯を引き受けるよう訴えた。ギリシャは市民戦争の真っ只中、トルコは陥落寸前だった。米国務長官ディーン・アチソンは「病気の樽の中にある腐った林檎」とよんだ。(後にドミノ理論とよばれた)トルーマンは両議会の開催を求め、ギリシャとトルコへ四億ドルの援助を要求した。彼は言う、「現時点では殆どどの国家でも、自分達の生き方を二者択一で決めなければならない・・・生き方のひとつは、大多数の意志を基準とするものだ。そこには自由な制度、国民に選ばれた政府、自由な選挙、個人の自由の保障、言論と宗教の自由、政治的圧制からの解放などで特色づけられる。もう一方の選択は、少数の意志を基本にして多数を力づくで威圧することだ。それは恐怖と虐待、支配された言論、固定化した選挙、個人の自由への圧迫、などに頼らなければいけなくなるだろう。」秘密裏にトルーマンは君主国家の政治活動に介入、選挙の買収、法の効力を傷つけ、報道を支配し、暗殺を実行、そして戦争状態にない国にアメリカの勝手を押し付けるため、枢軸国の戦時略奪資金と、他の保証人のない基金の使用を認めた。
これらの汚い策略はフランク・ワイズナーによって提出された。彼はアジアにおいて格別に行動の自由を持っていた。CIA長官アレン・ダレスはアジアの事をほとんど何も知らなかった。だから世界のアジア部分を完全に、OSSにおける異端者「中国武者」(カウボーイ)グループなどが所属するワイズナーの政策協同事務所へ、丸投げしてしまった。一九四九年の共産党の勝利で中国を追われた「中国カウボーイ」達は、日本、韓国、そして蒋介石と共に、逃れた台湾で再編成した。ワイズナーは戦後の米国秘密作戦の中ではとても重要な立場にあり、やって来た多くのアメリカ人の中でも特に汚い性格だった。戦時中はOSS と共に、イスタンブール、カイロ、ブタペストで過ごし、ナチスと戦うよりもソビエトとの戦いに興味があった。戦後はドイツに居をかまえ、アメリカがナチスの跡を継ぎ、反ソビエトの五つの柱を作り上げる方策を考え出した。彼の力強い友人、ダレス兄弟、ジョージ・グーナン、アベレール・ハリマン、ジョー、スチュアート・アルソップらはワイズナーの奇抜な考え方、つまり破壊とストライキ、暗殺を使った陰謀を歓迎し、その汚い計略をすすめるようにCIAでの職を与えた。
ワイズナーは、今ではアメリカの代理と同義語であるが、反共産主義だと主張する怪しげな態度の人間ばかりを雇った。彼らがもっと右翼だったら、ナチと日本の戦犯達は金融的援助を受ける資格があっただろう。イワン・トーマスによると、ワイズナーは隠密部隊にマーシャルプランの基金を流用することで資金を融通したそうである。彼は情報員にアメダマを渡し、「全部は使い切れないぞ」「制限はないし、誰も勘定する必要もない。」と言った。この仕事が四年で終わる一九五二年までだけで、ワイズナーは海外に四十七箇所の拠点を作り、三千名近い職員と、それとは別に契約職員三千人を持ち、年間の公式予算は八千四百万ドルになっていた。非公式な予算がどのぐらいなのかは推測するしかない。何故ならばここは秘密の汚い策略の帝国なのだから・・・。
ワイズナーは他に古手のOSSに助けを求めた。ワイズナーよりもっとアジアを良く知っているデスモント・フィッツジェラルドだ。ランスデールは彼らのお気に入り情報員の一人で、ナポレオン・バレンチノに率いられたフィリピンの殺し屋を連れて日本、韓国、台湾、インドネシア、タイ、インドシナで暗黒大陸方式の暗殺を実行していた。ワイズナーとフィッツジェラルドが資金を手にしたにもかかわらず、この隠れた作戦は成功しなかった。ランスディールは慢性的な病気とは決して認めていなかったが、一九六三年に無理やりCIAを引退させられた。と同時に情報員の「気の狂った帽子屋」、ワイズナーも「神経的な病気」にかかり急遽引退した。CIAの情報筋が言うには、「ワイズナーはここ数ヶ月それらしい兆候は見せていた。そして突然に発狂したんだ。」アメリカは多くの闇の作戦で泥沼にはまり込み、CIAの新しい長官や副長官が行ったりきたりしていた。
アンジェルトンがイタリアで干渉していたように、戦後の日本では盗んだ財宝と基金を元にSCAPとCIAが政治活動の基金を設立していた。かなりの部分はサンタ・ロマーナの回収した財宝だった。残りは日本にいた米陸軍第八部隊が発見し回収したもので、延べ棒か、ダイヤそのままか、あるいは貨幣に換えられていた。戦後CIAと密接に繋がっていた東京大学法学部の学生、高橋敏夫によるとマッカーサーこそM資金設立の張本人だったという。
「ジョージ・マーシャルがヨーロッパでやった様に、日本経済を立て直すには、まとまった金額が必要な事はマッカーサーも認めていた。ところが、予算獲得のために議会に行ったマッカーサーは、国家の帳簿には記載されていない莫大な原資を日本皇軍が持っている事に気づいたのさ。日本軍は半世紀近く朝鮮を占領していたし、中国のかなりの部分を長年に占領していた。だから東南アジア、フィリピンなどの地域で生み出した資源を軍が日本へ持ち帰っていたのだ。マッカーサーは日本の経済の再建に使われるべき実際の基金はさておいて・・・しかし、マッカーサーは、例えば政治を動かす目的に一般の監視が十分にできない金が幾らかは必要な事をわかっていた・・・マッカーサーはこの資金を秘密事項にすると決定した。そうすればその一部分を戦後の日本民主化の手助けにし、それに関わる政党や政治家の献金に使う事ができるからね。」
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708131 No.7349
>>7348
日本の著名な記者で、日経からM資金の研究を出版した調査専門の記者、高野孟によると、備蓄してあった没収品のダイヤ、金、銀、他の希少金属の販売、日本にいる米国外交官が行った闇市場での販売で、びっくりするほどの現金が集まったという。他の原資はいくつかの小さな財閥を解体し、実際のところ例としてあげるのだが、法的には特例で大企業へ売り飛ばしたのだ。始まった時のM資金の規模はよく知られていない。しかし幾つかの情報源は二十億ドルと考えている。そしてそれはすぐに膨らんでいった。長い間東京で通信員(駐在員)をしていたロバート・ホワイティングは、「秘密の何十億ドルの不正資金・・・は一九五〇年の日本GNPの十%に近かった。」と言っている。
ホワイティングは我々に語った。「日本政府はもの凄い量の備蓄してあった金、プラチナ、銀、銅を闇市場で売ったんだ・・・彼らは敗戦を見越し、一九四五年の初旬にそれらを隠したんだ。」日本軍が供給した殆どのもの、本土決戦のために備蓄されたものは全て消えてしまった。M資金についての記事は信頼のおける日本の週刊誌、「週刊文春」で一九七九年に公開された。それによると、物資の不正販売で得た莫大な金は高級官僚と政治家の所へ行ったという。雑誌によると日銀に収納されていた八十万カラットのダイヤが、どうしてかわからないが、たった十六万カラットに減っていた。「占領が終わった後ですら、アメリカ側による裏の闇資金への移動は続いていた・・・政治的な陰謀に使うためだ。」
別の源は、地下組織の児玉基金だ。彼は戦時略奪物資を個人用として百三十億ドル貯め込んだと報道されている。これにはトラック二台分のダイヤ、金のバー、プラチナの塊、ラジウム、銅、そして他の重要な資源も含まれている。週刊文春が言うには、児玉はマッカーサー達に気に入れられるため、ラジウムをSCAPに売却したのだそうだ。東京ジャーナルでジョン・キャロルは、「児玉は戦争終結時に皇居内にある皇室地下金庫へ自分の宝物をたっぷりと運び込んだ。」と声明をだした。彼は長い間、殺人や誘拐、麻薬、強請りなどに関わっていたにもかかわらず、裕仁天皇から真の愛国者として思われていた。おそらくゴールデン・リリィーのかなりの部分を彼が生み出したからだろう。
それなら、何故日本のギャングの親分が自分の略奪品を皇居の金庫に隠匿することを許されたのかの説明ができるだろう。(訳注、児玉と大森実の対談では、児玉は皇室の金庫の中がからっぽでみっともないので貸してやったのだと語っている。そして、金庫はみかん箱ひとつしかなかったと語った。まさか?)
そして、それは麻薬を含めるといっそう強くなる。一九四五年の春、児玉は台湾へ出張しヘロイン、モルヒネの残った在庫と共に多くのヘロイン設備を分解し日本へ戻すところを監視した。帰国した彼は戦後の占領時代、しばらくの間首相を務めた裕仁の叔父、東久邇の特別顧問に任命された。児玉自身の記憶によれば、降伏後、しばらくして東久邇は、「内閣の大臣には知られないよう、二~三人の米国顧問官と秘密の接触を持ち、横浜でマッカーサーを訪れている。」児玉がこの会合で何を話し合ったのか、殿下と同行したのかどうか、いずれも明らかにしていない。児玉は戦犯として二年間を巣鴨で過ごした。しかし一九四八年中頃、ウィロビーと取引し、CIAに一億ドルを提供するや魔法の様に巣鴨から解放された。(今日の価値ならば十億ドルだ。)この支払いにより、児玉は刑務所からの自由を獲得し、戦犯としてのすべての訴追からも解放されたのだった。この金はアメリカ大使館のCIAが支配する秘密の不正基金のひとつになった。後に彼の名前はCIAの従業員名簿にのり、一九八四年に亡くなるまでそこに名前は存在していた。ニューヨクタイムズのタッド・ツルクは「児玉はCIAに関係する仕事をしていた。」と書き、シャルマール・ジョンソンは「児玉はたぶんCIAの日本財務長官だったんだ。」と言った。米政府の文字どおり従業員だった児玉は、戦後日本の麻薬密売を監視し続け、ヘロイン工場を台湾ばかりか北方中国、満州、朝鮮からも引き上げてきた。日本と製造、販売で協力してきた中国人は聖域が与えられ、日本の農場で生産を始めた。アジアでの三大麻薬王のうち二人はまもなく死ぬ。愛国者、「載李(タイリー)」は一九四六年飛行機事故で暗殺された。上海の大親分、杜月笙(ツー・エンシェン)も一九五一年、香港で天寿をまっとうした。
児玉は米国の雇員であるうちはアジアの麻薬王として残った。彼が日本における麻薬の支配者だったことは広く知られており明白なのだが、これはまたやっかいな問題になり得た。しかし、冷戦が突然終わり、事態は北極の白夜のように明るいものとなってきた。占領中、米国のプロパガンダ(悪徳広報)はアジアの薬物売買は左翼と共産主義者の仕業だとまくしたてた。本当のところ日本の児玉と、国民党麻薬軍団を通じ蒋総統に支配されていた黄金の三角地帯が拠点だった。その麻薬部隊は総統の息子、国民党軍情報司令官、蒋経国の直接支配下にあった。(黄金の三角地帯の麻薬軍事指導者は二人の将軍、つまりツアンと李がいたと率直に語ってくれた。)日本に関してリチャード・フィルマン教授は、一九九三年のパシフィックレビューで次の様に書いている。「占領軍はもちろん日本の犯罪組織もだが、戦時中に日本政府が生産した麻薬や・・・その備品を接収し・・・日本の国民に麻薬を広めるため、SCAP の将校から医薬品を配給するよう請け負ったアメリカ兵や中国、韓国、台湾の仲介人へそれを一緒に横流しすることで闇市場へのせる方法を見つけたんだ。山口組と稲川会のヤクザは、日本を拠点とする韓国ヤクザとの指導者とのつながりを密にし、台湾、韓国、中国の古い犯罪組織を締め付けながら、南朝鮮と日本の間に国境を越えた製造、販売の垂直総合組織を発展させたのだ。」
この強烈な汚職と巧妙な嘘で、アメリカが日本に設立した政治活動基金が方向転換することは避けられなかった。しかし、汚職、ごまかし、道徳の欠如は日本人のみを責めるわけにはいかない。アメリカ人はこの基金の方向転換に関わっており、その悪用から利益を得て、今も色々な方法でそれは続いている。占領期間中に、アメリカ人将校は三つの不正資金を支配していた。即ち、M資金、四谷基金、キーナン基金だ。高野孟によると、M資金はSCAPの経済、科学部門の長であるウィリアム・フレデリック・マークァットにちなんで名付けられた。理論的に言うとマークァットは戦争の不当利得を貯め込んでいた。日本を罰し、日本経済を立て直す計画の長であった。ところが、現実にマークァットの公的業務の悩みは天皇家がほとんどを占めた。つまり、天皇家のいかがわしい利益をどのように隠すかであった。歴史家のジョン・ドウワーは次の様に説明した。「マークァットは財閥企業の解体、経済非集中化の推進、金融、経済のすべてを監視することですら何の責任もないようにみせかけている。主要国の財務、経済機構は、彼の部門のことを財務省であり通産省であり日本銀行をも包括していると報じている。」
マークァットについてはあまり書かれていないが、普段は煙草好きの気の優しい男で仕事人間ではないと描かれている。これにはびっくりした。彼は、ウィルロビーとホィットニーと同じくマッカーサーの身内派閥の一員で、バターン仲間だった。彼のもっぱらの売りは不滅の忠誠心だ。
ジョン・ガンサーは「マークァットは自分の赴任した地域の状況にはほとんど注意を払わず、ある時、私は経済問題の重要な会議で彼の主席補佐をやったが、こう言ったんだ。「なんてひどい経済なんだ、どうすりゃいい?」、てね。」
マークァットは、戦争に資金を出し、それによって潤った銀行と財閥を解散させると思われていた。ほんのささいな化粧直しといくつかの財閥を破産させ、売却をさせたものの、戦争で儲けた大企業にはなんのとがめもなくリストから除いてしまった。彼は又、日本の生物化学兵器部隊七三一部隊の起訴と処罰を見送った。その代わり、米政府は秘密裏に七三一部隊を吸収し、殆どの科学者と文書をメリーランド郊外のフォート・デトリックへ移送した。その活動についての全情報、生物兵器の残虐行為、生体実験の恐ろしい記録はワシントンにより、アメリカ国民にも日本国民にも、そして東京裁判からも隠匿された。アメリカ政府が握った七三一部隊の記録はいまでも極秘のままだ。(訳注、ご存知だろうか、エイズを生み出したのがこのフォート・デトリックである事を。そして、薬害エイズで有名なミドリ十字の役員は731部隊の生き残りであることを。)
マークワットが日本をより民主的にすると思われている時、彼は逆の事をしていた。M資金は、反共産主義が強固な右翼に近い日本政治家を選挙で勝たせるための買収資金として生み出された。日本はアジアで最も工業化された国だ。アメリカ政府は日本を共産主義に対して、労働組合も左翼組織も革命も必要ないほど豊かな砦にしようとしていた。これは、ルーズベルトが共産主義者だと考えるアメリカ保守層の見方であり、英国はドイツ、日本と協調しソ連との戦争を避けるべきだと信じた。日本を改善しようとするこの考えと計画は、尻すぼみになるか、又は無理な話だった。(大きな例外は農地改革だ。これは中止されるまでは完全に成功していた。)M資金の初めての適用は一九四〇年代末、社会主義政権が突然、日本の選挙に勝った時だった。SCAPは社会主義の成長に驚き、衝撃を受けた。すぐに巨額な資金が投入され、社会主義政権の評判を悪くし、ワシントンとの連携がスムーズにいくような政権と置き換える運動を開始した。
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708131 No.7350
>>7349
後に日本が中華人民共和国との関係を考え始めたとき、再び日本を右側に戻すため、巨額の資金が投入された。吉田茂が首相になった時、吉田は信用でき、保守であるし、とても裕福だったので、アメリカ政府の緊張は緩んだ。吉田が首相だった時、M資金は吉田基金とよばれた。彼が首相をやめた後、M資金の名で再開した。(一九八七年の対談でホワイトハウス国家安全顧問のリチャード・アレンは、「私の生涯の中で、吉田基金のことは聴いたことがある、それはすべてM資金のことだと考えている。」)M資金と大変異なっていたのは四谷基金だった。これは日本の地下組織を操り導くためで、汚れた仕事、強奪、誘拐、殺人に対する資金だ。マッカーサーの愛する独裁者でSCAP―G2の長官だったウィロビー将軍は、四谷基金を支配し、児玉とヤクザ軍団に精力的に働きかけ、占領中の左翼活動や市民の抗議行動を抑圧した。民主主義の概念は意見の相違に寛大なので、日本の支配者エリート達は「西洋からの有害な考え方。」とみていた。日本ではささいな異論でさえ許されないのだ。アメリカがマッカーシー旋風の時代、意見の相違を抑圧することは反共産主義と同義となった。(一九五〇~五四年上院で共産党狩りが行われた。)しかし、この時期における日本の魔女狩りはもっと厳しく、いまいましいものだった。ウィロビーはG2の長官であったが、その仕事の後半、情報収集や反スパイ活動というよりむしろ汚い策略に関わっていた。別の仕事の中、彼の四谷基金は、北朝鮮、共産中国、ソ連東部へスパイを送り込む韓国連絡事務所に融資された。
ウィロビーが自分の地下基金の名前にした四谷地区というのは、戦後の数年間、ギャングや売春婦、ドヤ街の親分達などの堕落したみすぼらしい人間が住む闇市の中継地で、非合法の賭博や売春宿が盛んな眠らない街だった。(今日の四谷は変わり、大学生や企業の重役が常連となるような飲み屋街として有名になっている。)アメリカ人のテッド・ルーインや児玉の仲間によって運営されていたマンダリンクラブの様な賭博場や売春宿など、戦後の悪事からのリベートは、日本でウィロビーの汚く陰湿な作戦を実施していたキャノン機関に融通された。米軍大佐J・Yキャノンのために名付けられたこの機関は、殺人請負会社の軍隊版で「死の部隊」だった。ジャック・キャノンは学生運動のリーダー、改革派、左翼主義者、社会主義者、労働組合主催者、学者、記者、邪悪なものは誰であろうが、たたき出し、そして殺した。キャノンは韓国での児玉の代理人、朝鮮民族派ヤクザ、東声会の親分、町井久之(マチイ・ヒサユキ)と親しくしていた。キャノンは最初、米軍の防諜機関CIC で働いていた。ウィロビーの通訳に雇われていた二世は、キャノンの金庫を吹き飛ばす手伝いをしたことがあるとか、いつも映画にでてくるギャングのように振舞っていたと思い出を語った。キャノン機関が設立されると、彼は殆どのアメリカ人でも血が凍ってしまうような人間になっていった。彼は有名な左翼作家、梶わたる誘拐の黒幕であったと考えられている。
又、日本国有鉄道総裁、下山の拷問、切断、殺人は彼の仕業だ。下山の死体は線路にそってばらまかれ発見された。キャノンは又、ウィロビーと戦犯で起訴されている児玉や辻正信大佐の様な人間とのつながりを調査していた英国、米国の外交官や将校を殺すために飛行機爆破を試みたと疑われている。仕事があまりにも陰湿で汚いものだったので、アメリカ政府から完全に切り離されねばならなくなり、ウィロビーはキャノンを避け、KATOH と呼ばれる殺人部隊を紹介した。それは金の為に人殺しをする五人の日本人将校の頭文字である。より混乱させる事になったのは確かなのだが、ウィロビーは同時代の米軍人からは無能で、偏執狂で、先天的に判断ミスをごまかすため追い詰められていたと判断されている。ウィロビーの活動に関わる文書は、半世紀たってもまだ米政府によってほとんど隠されたままだ。おそらく彼の救世主的な活動の中にはもっと混乱する情報があると思われる。一方、キーナン基金は正反対で文民に支配されていた。ジョセフ・キーナン、彼は別の方面で?マッカーサーと親しい東京裁判の主任検事だった。以前は司法省刑事部局長を務めていた。そこでは「ギャング退治」と大酒のみの評判を獲得していた。彼の東京裁判主任検事への指令は適していたとは思えない。アジアの事を何も知らないし、新聞の表面しかみていないと非難を浴びた。トルーマン大統領は彼が嫌いで、ワシントンから放り出したかったのだ。だからこの仕事を最終的にキーナンがすることになった。キーナンの日本での補佐役には、田中隆吉以上最適な者はいなかった。満州で土肥原の親友だった雄牛のような大陸浪人、溥儀の若い妻エリザベスを冷酷に扱ったあの男だ。田中は土肥原と一緒に一九三〇~四〇年代にかけて上海で秘密作戦を行っていた。土肥原と同じく、多くの要人殺人にも関わってきた。そんな彼を、戦後の東京で戦犯法廷におけるアメリカ主任検事の助手に据えるなんて最高に悪い冗談だ。キーナンの酒癖と女癖が悪いという噂は東京にいる(もちろんワシントンにも)報道陣には周知のことであった。田中はキーナンに付き添い小料理屋や売春宿をめぐり、その行動日誌を提出することで無事に(戦犯にならずに)家に帰ることができた。拡大する事を指示されたM資金、四谷基金とは違い、キーナン基金は狭く具体的な役割で使われた。つまり戦争裁判の目撃者の買収、偽証させる説得の仲介人に対して使われたのだ。
マニラの山下や本間はすぐに罰せられたが、東京での戦犯法廷は、三年間も引き伸ばされ、裏では汚い取引が横行していた。法廷は日本の残虐な侵略戦争を、東条と他の軍指導者や文民指導者を裁く事で終了した。国際的な委員会と名乗ってはいたが、全体の運営はもっぱらマッカーサーの身内で行われた。法廷で宣言された綱領の中でマッカーサーは広い権力を与えられ、裁判は彼一人が独占的な権威を維持していた。最終的にマッカーサーとキーナンが書き上げた宣言文には、「法廷は証拠だけにこだわるべきではない。」と述べられている。そのおかげでマッカーサーの部下達は、被告達と自由に接見し、望むままに偽証させ、証拠を隠滅することもできた。金は身代わりになる者の家族の面倒を見るためにこっそりと渡された。私達がYamato Dynasty で証明したように、マッカーサーの軍書記官准将ボナフェラーズの私信で、彼が個人的に目撃者を偽証させ、証拠に手を加え裕仁天皇が法廷に出廷しなくても良い様にさせた事を明らかにした。一九四六年一月二五日、マッカーサーは陸軍長官ドワイト・アイゼンハワーへ暗号電報を送りSCAPの行う取調べで裕仁に対するいかなる犯罪訴追も支持できないと言っている。「日本国のこの十年間の各段階での政治的な決断の中で、間違いなく天皇が関係しただろうという具体的で明白な証拠はないのだ。」バージニア州・ノースホークのマッカーサー記念館の中で、我々はある文書を見つけた。それによりマッカーサーとボナ・フェラーズは前大統領ハーバート・フーバーらと共謀し、裕仁があらゆる罪から免れる保証として、東条大将にパールハーバー攻撃の全ての責任を負わせる証言をさせた事が明らかになった。米内海軍大将ら仲介者は、東条との交渉や偽証の確約を取るため多額の賄賂をキーナン基金から受け取った。フェラーズ将軍の手紙には、米内との会合で偽証を作り上げたと得意げに書かれてある。(付け加えると米内大将は裏の提督、児玉直属の上官だった。)多くの鍵を持ちながらも偽証を拒否した者達は、手荒く殺されるか、回りから白い目で見られるようになった。
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708131 No.7351
>>7350
裕仁の側近で一時は首相も勤め、早期和平を模索するよう裕仁と話そうとしていた数少ない政治家、近衛公を、フェラーズとマッカーサーはひどく嫌っていた。フェローズは彼のことを「あいつは自分の主人を最大の戦犯だと言い、自分が助かりたい為に人を売るようなネズミだ。」、と非難した。近衛はマッカーサー達にバツ印を付けられ、陰口、中傷、そして有罪にされるかもしれないという暗示で絶望的に追い詰められていった。例えば、彼の名前が戦犯リストに加えられたとか、すぐにでも検挙され、投獄、処刑されるという偽情報が伝えられた。一九四五年十二月十六日、近衛は回りから白い目で見られている状況の中、自宅で死んでいるのが発見された。殆どの情報筋は、彼が法廷に出る恥辱に耐えられなくて自殺したのだろうと言うが、戦後初めての自殺幇助の一例だったことは間違いない。学者のメイリンやスージー・ハリーズら多くの者は近衛が殺されたのだと信じている。なぜかというと、マッカーサーは裕仁を赦免しようと狙っていると懸念を表明していたからだ。都合よく公判が始まる前に死んだ二人の重要な参考人は朝香宮の部下だった。彼らは南京虐殺で朝香宮の身近にいて全てを知っていた。一九四五年の末、この二人は突然の心臓病で死んだ。キーナン基金は又、生物化学兵器計画の証言や、皇室の行ったゴールデン・リリィーの莫大な財宝略奪の口止めに使われた。アメリカ政府や他の連合国政府は日本の収容キャンプから捕虜を解放する時に威嚇をしたことはわかっている。彼らは帰国する前に、戦時中の略奪について、或いは七三一部隊が生物化学兵器を実験したことなど、知っている事を決して喋らないよう秘密の誓約書に署名させられた。日本の医療実験の被害者達ですらこの誓約書を提出させられている。当時、彼らは沈黙している事が愛国者としての義務だと聞かされていた。今はもうよく分ったと思う。自分達は来るべき冷戦にそなえ、正義よりも権力者のままでいたかった自分達の政府の犠牲者だったことを・・・。ウィロビーは又、太平洋戦争における日本軍の歴史を偽造する仕事を担当した。アメリカが冷戦兵士を必要としている事を正当化するためにだ。日本側でウィロビーの歴史改竄の協力者には、悪名高き児玉や辻達の戦犯も入っていた。(辻はシンガポールやマラヤでの華人虐殺を立案した。)
彼らが準備した歴史論文はまず日本語で作成され、ウィロビーのATISの二世達によって翻訳された。その論文では、少しでも機密を要するものはすべて取り除かれていた。修正を経て米政府は、「日本の研究と第二次大戦に於ける日本の教訓」というタイトルで出版した。驚く事ではないが、各章には大きな矛盾を含んでいた。正式な前書きには、「元々の命令や計画、部隊日誌などが少なかったことが編集する上で最も困難なことだった・・・・しかし重要な命令、計画、見通しの多くは記憶から復元し・・・それらは概ね正確で信頼できるものと信じられる。」と言明している。公式なフィリピン戦史の著者、ルイス・モートンによれば、第二次大戦中の太平洋とアジア作戦の日本報告書は、ウィロビーの事務所から任命され
た最高に重要な一人の日本人の情報が用意したものだったそうだ。ウィロビーは児玉に、新しい依頼人に気に入られるような回顧録を書くようすすめた。英語版のタイトルは驚くなかれ「I was Defeated、私は敗れた。」、それは一九五一年にCIAの所有会社、アジア出版から出版された。目次には出版人ハーベイ福田、彼が編集長をし、会計としてロバート・ブースになっている。一九五二年には、同じ版元から辻大佐の回顧録の英語版が出されている。
この男は誰?そう読者は思い出すだろう。彼は英国の諜報部から残虐行為を追及されていた男だ。彼が戦後、連合国から隠れ、タイや中国で数年間を過ごしたと主張したという偽の話はあるものの、実際のところは児玉と同じく、彼もウィロビーとCIAに雇われていた。(訳注、この辻大佐についての記事はかなり重要だ。各種の本によっても辻大佐は謎に包まれている。)
これらの回顧録を出版した目的は、戦争責任を本来の策士からそらすためで、戦後日本の政治的履歴を整える事ができたのである。児玉の回顧録は戦争責任の大半を、彼が狂信的な戦争好きの怪物と描いた陸・海軍の最高幹部に押し付けることになり、その大半は死刑となった。誰もかもが無力の人質だったのだ。児玉は自分の豊かな懐から気前よく資金を用意し、ゆくゆくは合併し自由民主党となる二つの極右政党の党首に提供した。彼の回顧録で表明している政治的な見解は、アメリカの事情聴取に備えたもので、「私はこの国において、反共産主義に多大な影響力をもっている保守勢力が戦争共謀者といわれ、その殆どが追放されていることが最も懸念するところであります。これは正に共産党の望むそのものでありまして・・・占領軍の指令で行われる追放のもっぱらの趣旨は、侵略戦争を遂行するにあたっての積極的な共謀者の除去であるべきではないでしょうか。」、児玉は自分がその種の一員に含まれるとは考えてもいなかったようだ。児玉によると、日本で贈賄行為の対象になったのは左翼だけだったという。
当時、社会党の指導者は蔓延している買収の議会追及を要求していた。頭にきた児玉は、それは「鍵穴から風呂場を覗き込むほど」無礼で、社会党に対して、「権力を保持したいなら恥知らずな不正手段」を使う事はダメだと表明した。
三十年に渡り児玉は、ATIS から派遣された二世の通訳で、児玉と辻の本の出版にも携わったハーベイ・福田と密接に仕事をした。ソルトレイクシティに生まれた福田は反日宣伝のプロパガンダを流す戦時放送に従事していた。東京では児玉の常駐書記、通訳、秘書、広報担当としてウィロビーから任命されていた。二人の共謀はとてもうまくいき、福田はCIA所有の広報部門、ジャパンPRと呼ばれる会社を所有し、児玉もその会社の出資者として潤った。児玉は英語が話せないので、福田は児玉の取引のすべてを通訳した。アメリカがタングステンの欠乏で困窮した時、児玉は中国から略奪したタングステンのいくらかを売るように依頼された。その取引は米外交官、アーゲン・ドゥーマンと交渉したと福田は公表している。(訳注:児玉は大森実との対談で、軍票で正式に中国から買ったもので略奪ではないと主張している。上海の中国人商人はあらゆる物資を調達でき、しかもその後ろには米英の兵器商人がいるのだという。石油、鉄、銅、何でも調達できた。それが本来、一年しかもたないはずの日本が五年も戦った原因だった。彼は、軍票で買ったものがすべて略奪だったと言われた、と述べている。)
一九五〇年後半、児玉とロッキード航空との初会合を実現させたのは、ハーベイ・福田である。そこで児玉は日本政府の高官にロッキード機の購入を促すために、賄賂を注ぎ込むことに合意した。一九七〇年代半ば、現金
の運び屋としての児玉の役割が明るみにでて、巨大なスキャンダルとなり、アメリカ高官と実業界の大物が贈賄で罰せられた。どうして最も権力を持った犯罪者の首領をトルーマン、アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン、フォード、カーター、レーガンは連邦の従業員として雇い続けたのだろう。そして又、何故、CIA長官として働いていたジョージ・H・W・ブッシュはそれを開示してしまったのだろう。答えは簡単だ。児玉は日本で最も熱狂的な反共産主義者でもあったからだ。鍼灸師のように彼はどこに針をうち、どのツボを押さえればいいのかのすべてを十分に心得ていた。ロシアや共産中国の脅威に煽られて不安を感じていたワシントン政府は、アジアの地下社会に親しんでいた児玉の知識を利用するために彼を効果的なフィクサーに仕立てあげた。一九四九年、モスクワは初めての核実験を行い、同年十月には中華人民共和国が誕生した。そして八ヵ月後の一九五〇年六月、朝鮮戦争が勃発した。戦争開始直前、児玉はジョン・フォスター・ダレスと同席し、ソウルで話し合った。ダレスの派閥には日本の朝鮮ヤクザの首領で児玉が応援している町井久之も含まれていた。Freedom of Information、情報公開の下で児玉と町井がダレスとの旅行中に何をしたかを知ろうと努力したが壁にぶつかってしまった。
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708131 No.7352
>>7351
マッカーサー記念館の書庫の中に、児玉がマッカーサーへ送った手紙を発見した。そこには朝鮮でアメリカ兵と一緒に戦うため、数千人のヤクザと、旧日本陸軍兵士の用意を申し出ていた。韓国や日本の情報筋によると、その申し出は受理され、彼らは韓国兵のふりをして半島にいた国連軍に合流したという。この分裂状態の中で日本の講和条約は極秘の中で進められ、大幅に短縮され、一九五一年四月にサンフランシスコで調印された。条約が国務大臣、ディーン・アチソンにより作られうちに、細かい条項を吉田茂総理の幹部、大蔵大臣で特別顧問の宮沢喜一を含む三人の日本人と共和党の特別交渉役ジョン・フォスター・ダレスが話し合って秘密裏に解決していった。児玉も又、問題を話し合ったダレスの秘話を把握していた。多くの国が賠償金の請求をしていたが、アチソンは、「日本は賠償金を支払う事が出来ない。」、という事を他の調印国にはっきりさせると言った。同盟国が意見を寄せ合って条約文書を作ったように見えるが、ダレスが交渉し、書き上げ勝手に締結したもので、同意された根拠は今日でも謎のままだ。数年後、アチソンは回顧録の中で「賠償交渉に答えるためには・・・当時冷酷な数字で決断することを求められていた。」、と認めている。しかし、それは明らかに嘘が含まれている。日本は破産状態で賠償金を払えないとアチソンは断言した。しかし私達は知っている、それは真っ赤な嘘だということを・・・。国土は荒廃していると言うプロパガンダにもかかわらず、占領後すぐに日本を旅した欧米人は、インフラ、工場、公共施設、鉄道は殆ど無傷なことに驚くだろう。アメリカの爆撃の選択能力に感謝するべきだ。焼夷弾は数万軒の一般市民のマッチ箱のような家屋を破壊した。東京を荒廃した町のように見せてはいるが、ほとんどの豪邸、工場、重要なインフラ設備は不思議な事に助けられたようにみえる。ジョン・ドウワーは書いている、「貧乏人住宅地のほとんどと、商店、都心部の工場は全焼している。・・しかし洒落た地域の裕福な人たちの邸宅はたくさん残っているじゃないか。東京の金融街は全然被害を受けてはいない。戦争終了時に帝国軍官僚の多くが住んでいた建物も無事だった。鉄道は田舎へ抜け出す程度の機能はまだあったよ。米軍の爆撃に対する考え方は・・・階級差別があったと主張しているようにみえるね。」この内容は、一般には公表されていない。
SCAPの検閲官は新聞とニュース映画で荒廃しボロボロになった国土だけをみせる様、念を入れていた。大きな金額の財産は占領前に素早く名義変更された。連合国が最初の一歩を日本に踏み出す前の二週間で、東京の政府はすべての方面の金を放出した。一九七〇年代の日本人報道記者が発見した記録は、政府が兵器産業へ三千億円(当時の)近くを支払い、備蓄された物資を財閥企業へ渡した。そして降伏した後の四ヶ月で、これらの複合企業体は、戦争利益の三〇%を獲得したと明らかにした。(週刊文春、一九七九年、十月四日、二五日、十一月一日、M資金の真実)
目立った軍事製造会社には支払いがされた。すべての物資の新たな契約は調印され、前もって支払われた、しかし、そのほとんどは実行されなかった。例えば、後に首相になる田中角栄はピストンリングの工場を韓国へ移転するために数百万ドル受取り、仕事は全く完了していない事が知られている。当時まだ小物だった田中も、要職にある個人が銀行から引き出し、財産を隠匿するための「破れかぶれの配給」に参加する事を政府から認められていた。田中は軍票で受け取った。しかし田中は、すぐに韓国へ飛べば、朝鮮の日本銀行で金の延べ棒に換えてもらえると聞いた、彼はその通りに行動し、金をもらって海軍の軍船で帰国した。連合国が到着しても、彼らは鼻先で行われていることに実際は興味がなかった事は明らかで、日本政府の金(カネ)の流出は継続していた。
ドゥワーはこの三億トンに近い物資がどんなものかを説明した。ダイヤ、金、銀、鉄鋼、ゴム、薬品、油、塩、麻薬、チタン、価値は、米ドル一九四五年換算で二百億ドル、現在の価値では二千億ドル(二五兆円)であると言った。連合軍自体も備蓄品の中から日本政府へ一千億円を譲っている。例えば、衣料、食料、医薬品を一般市民への配給品として。物資が闇市場に消えたかわりにギャング達は一財産をこさえた。アヘン、ヘロイン、モルヒネの在庫は医薬品の中へ消えていった。ドゥワーは、「終戦時、銀行の個人口座には二六四〇億円があった。その殆どは早々と闇市の取引で消えてしまったようだ。」と記している。それらの図式にはゴールデン・リリィーの略奪品やヘロイン取引の儲けは入っていないが、それでも今日の価値にして、一年に三十億ドルもあった。(三六〇〇億円)ドゥワーはついでに、「敗戦からのめざましい復興の中で、高い地位にいたたくさんの人達は自分達の利益をまったく失っていないんだ。むしろ、軍事備蓄品や民衆のための物資を略奪し、貧乏人にかわってかき集めたようだ。」と付け加えた。占領中、日本の一般市民は十分に稼ぐ事と、毎日の食料を調達することの二つの仕事が重要だった。同じ頃、裕仁は、自分のスイス銀行口座において、利息だけで年五千万ドルを稼いでいた。ワシントン政府は、世界に向かって、日本は破産し、産業は破壊された、日本政府が被害者に賠償金を払う事は不可能だと繰り返し語っていた。冷戦は大戦中の市民被害者、又は戦死したかはともかく、死んだ者へのお詫びの気持ちを捨てさせるきっかけにはなった。しかし、残酷な目にあったり、奴隷の扱いを受けた人達はまだ生き残っているのだ。強制労働者を最も熱心に使ったのは、日本の財閥企業で、特に三井、三菱、住友だった。十万人以上の連合軍捕虜や抑留者が強制労働者にさせられ、日本中の鉱山、鉄鋼所、建築現場、工場の悪い環境で使われた。多くは亡くなり、ある者は不具者となり、何も補償されなかった。日本の支配者層は戦時中の財閥とは何の関わりもないと今も言っているが、戦後まったく解体されていないではないか。日本が植民地政策を拡大した一八九五年~一九四五年の間に、財閥が蓄積した資本はアメリカ占領時にも無償のまま残った。
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708131 No.7353
>>7352
ドゥワーは言う、「戦争の指導者がそのまま支配者として君臨し、自分達が戦時中にやってきた行為を自分達自身でごまかしたのさ。」不思議な事に、米国占領公式記録には、最も機密性の高い日本の金の備蓄、略奪した絵画、文化遺産、宗教的な像、宝石、祖先からの家財の帳簿、十二カ国の金庫から盗んだ物や地下埋葬所、皇帝の墓から盗んだ明細はどこにも載っていない。もしも隠された情報が公開されれば、一九五一年の講和条約や、ジョン・フォスター・ダレスによって作成された秘密交渉は大衆の笑いものになるだろう。これらの交渉中、ダレスは連合国に対し素知らぬ顔でごまかしていた。英国が提出した第一回目の試案の三九条には、「日本は三年のうちに貨幣準備金で六千万ポンドの賠償をするべきだ。」とあった。(この金(Gold)は自らの通貨を保護するため、あるいは外国の物資を買うために国家が中央銀行に置いてあるものだ。)
又、その五三条の提案には、「日本が略奪したり、不法に移転した貨幣用の準備金すべてを連合国に返還するべきだ。」とある。略奪の合計額は具体的に文書に書かれたのではなく、声明のなかで日本が東アジア英国領とはまったく違ったところで大量の略奪をしたと断言している。三九条、五三条どちらも「貨幣用でない金」については何もふれていない。(つまり、それらの国の博物館や個人的な宗教上の特注品から盗んだ金、宝石、小さな金のバー、絵画、仏像などを秘かに手に入れたもの)英財務省は、ワシントン政府の日本の金庫は空っぽだったという話に唖然としてしまった。金についての考察は次のように取り上げている。「我々は日本から入る準「 備金への金(ゴールド) の」 賠償が我々の財政を安定するための重要な要点のひとつと考える。」しかしながら、ダレスが反撃する好機を得た後の翌月、一九五一年四月、英国外務省は、「日本に金(ゴールド)をそのまま残すことを米国と同意するよう我々が態度を修正しなければならない理由」を求めた。そして「我々は日本から金(ゴールド)を持ち去ることができるとしても、(これについて同意はまったくないが)現実的な目的として我々がその分け前にあずかる可能性がないことは今では明らかではないか。」英国の強国としての地位はアメリカの圧力のもとで、地に落ちてしまった。公式な英国の記録に、米国とSCAP の見解として、「金(ゴールド)は日本の一般人の安定を救うため、外国との物資調達の補償分として日本に残すべきだ。」と述べていると続けてある。英国も最後には屈服して、「我々は条約の中で金については触れないことで合意に達した。」と述べた。
他の連合国もそれにならった。英国は日本の戦後経済における本当の姿に騙されていたのだろうか?そんなことはあるまい。起きてしまった略奪を知らないどころか、財宝がどうなったのかも知っているはずだ。CIA上層部からの情報で、「ブラック・イーグル信託」を設立するにあたり、英国最大の資本家が参加した事を我々は知っている。この本に伴って作ったCDに載せた大量の文書には、サンタ・ロマーナが発掘した金の延べ棒が、最後にはロンドン・シティの金取引所と英国財務省に入ったことを明らかにしている。ランスデールとサンタ・ロマーナが発掘した金を運び出した時、金の移動に伴う銀行の書類や損害保険証書で、英国の商用銀行の口座に大量のゴールドが置かれたことを証明した。
それ故、英国もいろいろな手段で「ブラック・イーグル信託」から利益を得ていたのだ。最終的な講和条約の表現では、将来において個人が個別に賠償を請求するようないかなる取り組みも禁止しようとした。それは十四条で繰り返し表現してある。戦争中に傷つけられたり、被害にあった連合国列強に対し賠償を支払うべきだという認識はある。但し日本にその原資が存在しないことも又認識されている。条約はアメリカ大使、ジョゼフ・グルーのようなほんの限られた実業家と外交員に提出された。彼らはパール・ハーバーの後、没収されていた個人的な所有地や財産を回復することができた。もし、厳しい期限のうちに応募者は所有者の資格を取れない場合、日本は財産を取り上げたままになっている。
殆どの人にこの条項は知らされなかったので、とても多くの財産が所有権の主張がないまま日本政府のものになり、後日素晴らしい利益を生み出し、自由民主党を支える堕落した政治家がそれを利用した。条約では次のように宣言されている。「現在の条約で決められたものと異なると考えられるもので、列強が主張している全ての賠償、日本軍の行動を原因とする列強各国の要求、国家的な刑事訴追の道、占領するに要した直接的な費用などは放棄する。」
英国外務省の文書によれば、「カナダ当局自身は賠償の条約については市民の利益を補償すべく作られるべきものと考えていた。実際のところワシントンに疑問が沸いてくる・・・略・・しかし、会談の席で抵抗する人もそこを追及しなかった。」
結果、外務省は記している。「もし条約十六条を市民にまで広げると、要求する人数があまりにも増大し、一人当たりの金額は馬鹿馬鹿しいものになるだろう。だから入れ物を掃除するため、アメリカ政府は不当にも慰安婦、アジアの強制労働者、連合国捕虜への門戸を閉ざしてしまった。」最初は日本軍に、そして次にサンフランシスコ条約で被害にあった七〇万人の慰安婦は今も生きている。ワシントンが正当な市民を放り出した事実はさておき、日本が将来まとまった金額を各国に支払うと約束した条約二六条には抜け穴があった。条約に調印した国に同様の補償を求める新しい主張を訴える権利が与えられた。結局日本は、ビルマやオランダ、スイスなどの他の国々へは別個に補償を行った。だから理論的に言うと、すべての日本の被害者は再交渉できるのだ。
現在カリフォルニアで進められているように、法律の門が開かれるべきだ。一九五一年の講和条約は嘘と欺瞞をもとにしているため根拠が薄いことは明らかなのに、米、英政府ともに一九四五年以来、日本による被害者になされた不法を正す全ての努力を全力で防止してきた。今日まで、国務省、司法省、日本外務省は一九五一年の講和条約を引き合いにだし、被害者が賠償を求めるいかなる試みも防ぎ、長い間否定してきた。二〇〇〇年、ドイツ政府と経済界は、ついにナチス強制労組者への賠償金五十億ドルを提供する事を認めた。大統領ビル・クリントンは「正義のために五十年待っていた不幸なナチス強制労働者にとって重要な日である。」と述べた。その数ヶ月前、クリントンの使者トーマス・フォリィーが日本に来て、日本人による被害者の要求に対してきっぱりと拒絶した。フォリィーは「講和条約は日本に対する全ての要求を片付けている。」、と述べた。日本の外務大臣もそろって、「五十年も前に決まったことをどうして持ち出すのかまったく驚きですね。第二次大戦からのすべての要求、日本が起した行動から持ち上がった米国やその国民からの要求も含め、すべては既に解決しとりますけん。」と述べた。今、日本での興味深い事は、大使フォリィーの妻は住友のコンサルタントでしっかりと稼いでいる、住友こそ、あの強制労働訴訟の一番の焦点じゃないか。被害者からの正義の訴えに対するフォーリィの拒絶は、彼の主席補佐官、クリストファー・J・ラフローワーが繰り返す事で強化された。なぜだめなのか?彼は宮沢喜一の義理の息子で、宮沢は講和条約でジョン・フォスター・ダレスと秘密交渉を行った日本人の一人なのだ。条約は日本人による被害者にいかなる形でも賠償させない形で作られた。それ以来宮沢は、自民党の大物に居座り、金融関係最高責任者であり、M資金と一心同体となった。
訳者より。この章の翻訳も大変に疲れた。M資金でこれほど詳しく解説してあるものは今までにお目にかかっていない。しかし、週刊文春がそこまで追求していた事を知らなかった。さっそく文春に問い合わせ、現物をたのんでみる事にしよう。それにしても、戦争で、日本のエリート、財閥、そして皇族にほとんど被害がなく、その上、ドサクサのなかで資産を増やしたのが本当なら、天皇陛下万歳と叫んでいった人達は(もっとも本当にそういったのかはわからないが、)あまりにも惨めではないか。捏造されてきた歴史の中でもこれほどのひどい捏造は過去にない。天皇の出自がどこであろうが我々の生活に何の影響もない。しかし、国民に資産を供出させ、命を奪い、自分たちが潤い、そして今も日本を支配するなど許されるはずがない。シーグレイプ氏はさらりと書いているが、日本人はどうしてこんなに人がいいのだろうか
最終校正平成十九年十一月二日
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>>7353
黄金の兵士 第九章 闇の奥 HEART OF DARKNESS
一九六〇年、アメリカはM資金の支配力をニクソンが放棄したときに失った。それは彼の大統領選に対し、日本からの経済的支援との交換条件だった。それ以来四十年以上、M資金は権力を維持するためにそれを利用した七人の自民党政治家の不法な道具であり続けた。ニクソンは底のない闇の鞄、秘密の究極兵器を彼らに与えることになった。アイゼンハワー大統領は、東京で安保条約を改定するつもりだったが、日本の過激な抗議行動のため、彼の来日はキャンセルされた。その代わり岸信介首相がワシントンへ飛び、安保条約は大統領代理と処理することになった。ニクソンは大統領になることを夢に見、M資金の支配を譲り、沖縄の返還を約束し、その見返りが選挙戦資金の協力だった。戦犯で起訴され、戦時体制の中で麻薬、軍事物資、強制労働の鍵を握る人物であった岸は、それ以降、M資金を個人的に支配することになった。高野孟や他の事情通の情報によると、「それだけの資金が北東アジアで勃発した出来事に緊急かつ秘密の原資として必要なのだ。」、という曖昧な言い訳で正当化したという。理論的に言って、戦後の日本憲法は新たに軍隊を作る事を妨げていた。だから政府は大きな予算を割り当てることができなかった。・・少なくともおおっぴらには・・。ニクソンはM資金を自民党が全面的に支配することで、その様な、つまり再軍備にこっそりと使うだろうと主張した。一九六〇年、M資金は三五〇億ドル(当時では十二兆三千億円)の基本財源を持っていたと言われる。
ニクソンにどのくらいリベートを払ったのかは分っていない。ニクソンが日本政府にM資金を与えたのではなく、堂々と正当化する嘘を言いながら岸首相個人に与えたことを記録しておくことは重要だろう。だから数ヵ月後、首相をやめた後も彼の派閥はM資金の支配し続けた。勿論だが、それは決して本来の目的に使われることはなく、自分達が金持ちになるための個人的投資に注ぎこまれた。ニクソンのフォーション大売出しみたいなものだと広くうわさされた。The Arrogance of Power(横柄な権力)の出版物、アンソニー・サマーズ著のThe Secret World of RichardNixson(ニクソンの秘密の世界)で、ニクソンの政治家としての地位と金融資産は、メイヤー・ランスキーと他に暗黒街の親分と共同して増やしていったことを明らかにした。これらは、クリストファー・ヒッチンスがハーペーズ社の「キッシンジャーに対する場合」に初めて紹介された証拠がさらにそれを裏付けている。そこで著者は、ニクソンとキッシンジャーがアメリカ憲法に違反し、自分達の個人的な目標のためにアメリカの政策をこっそりと誤魔化したと主張している。ニクソンがM資金を捨てたからといってその話が終わる訳ではなく、そこからがもっとあるのだ。
自民党支配の下、M資金はエボラウィルスのように世界の金融市場に増殖し、多くの新種金融手段を生み出していったのだった。投資家やその弁護士達は国際的な詐欺戦略に見事にひっかかり不正手段を告発され、有罪判決と刑務所行きで終わってしまった。これらの被害者の何人かは正規な証書を握っている、しかし、自分の引っかかった詐欺事件を日本政府の責任から切り離すため、もがくしかなかったのは痛々しい真実なのだ。(もっとずるい政治的、財政的な動機もあったのだろうが・・・)どの様にして後の数十年、ニクソンの汚い資金はその様なおぞましい袋小路へ運ばれていったのだろう?それを知るには、M資金の持ち主が代わった時に何が起こったかを見なければいけない。ニクソンが割り込むまで、M資金はマッカーサーと親しいアメリカ人の小さなグループに管理され実行されていた。
一九五〇年、朝鮮戦争が始まり、日本にいた米軍のほとんどは韓国へ投入され、安全対策上の真空地帯が生まれた。憲法で軍隊を作る事が禁止されていたので、自衛のための戦力とみなされる物を作るために五千万ドル(当時のお金で百八十億円)がM資金からこっそりと準備された。一九五二年、占領が終わり日米は共同安全保障条約を結びM資金の管理は二重の支配、即ちアメリカ大使館のCIA職員と、アメリカ人お気に入りの日本人の相手に移行していった。四谷基金とキーナン基金はその中へ吸収された。M資金の基本的な財産は、日本の工業、金融界へ投資され、その利息は政治的な買収資金に使用された。M資金評議会はアメリカに対し友好的な保守層の支配下で日本の政財界、団体を維持するために驚くほどの干渉をした。これは日本の政治を革新しようとか、宮本雅雄のいう「拘束服を着た社会」から抜け出す事を望む個人や団体を妨害し、傷つけることを意味していた。これは、麻薬の専売の首領で、東条大将や星野直樹と共に満州で支配階級の核心メンバーだった岸も同様である。岸は一九四一年、アメリカに対する宣戦布告にサインし、大戦中は軍事物資担当軍需大臣で、商工大臣でもあり、強制労働に積極的に関与していた。その上彼は、財閥へ軍需物資の横流しをし、一財産を築いていた。占領時代は、最も重要な戦犯として起訴され、巣鴨で児玉と知り合うことになる。一九四八年、巣鴨から釈放された岸は、児玉に誘われ、その闇金とM資金のあふれんばかりの現金を使い、自由党の財政的基盤を作り始めていた。十年間、岸はACJ(アメリカの日本評議会)のアベレール・ハリマングループのハリー・カーン、アウゲン・ドーマン、カンプトン・パッケンハムらによって親米派としての地位についていた。彼らは岸のさえないイメージの改善に努め、英語を教え、けちになるよう(like Scotch)教えた。彼らにとって岸は日本に残った単なる賭け馬だ(岸に賭けたという事)、それらはこっそりとなされた。もしアメリカ政府が日本の首相を取り替えるためにM資金を使っていた事を日本人が知ったなら、民主主義の作り話は崩壊してしまう。一九五六年の選挙では、すべての策を使ったものの、結果として敵対する自民党の派閥リーダー、石橋湛山に敗れた。岸は少なくとも自民党の巨頭のなかで親米と見られていた。石橋が勝ったのは、アメリカ政府が岸の応援者に賄賂を贈ったが、反対陣営にまでは十分に行き渡らなかったからだ。それにいらついたアイゼンハワーは、こっそりとCIAに、石橋内閣を壊し、岸を自民党の党首にするよう指令した。岸を支持するように動かすために随分大きな買収をしたということだ。一九五七年二月、舞台裏での不平不満の大合唱の結果、自民党の党首は岸に替わり、そして首相となった。歴史家のミッシェル・スコーラーによると、岸はアメリカのお気に入りの戦犯として児玉の後継者になったのだという。
スコーラーは、「ワシントン政府は、日本が中国との接触を制限することを確約し、代わりに米国への輸出と東南アジアでの互いの発展を目指し、冷戦構造の中、アメリカへの忠誠を誓うという甘い言葉にのったんだよなあ。」
岸内閣の期間(一九五七年~六十年)、自民党は毎年一千万ドルを直接CIAから受取っていたが、もっぱらそれはM資金からだった。一九五五年~五八年にM資金を管理し、多くの作戦を日本で行ってきたCIA職員のスルフレッド・C・ウルマー・JRは、「CIAは自民党の情報に頼りきっていたから彼らに金を融通したんだ。」と言っている。岸を首相にするために記録的な努力をし、自民党の金庫の底が見えてきた時、佐藤栄作(岸の弟)は駐日大使ダグラス・マッカーサーⅡ世(将軍の息子だ)に秘密資金の増額を訴えた。マッカーサーⅡ世は要求明細書を書き、国務省へ提出した。「佐藤は、恒常的な共産主義の脅威に対する保守陣営の応援のため、財政支援をアメリカに頼めないかどうかと尋ねてきたんだ。おどろきだよ、昨年も同じ事を言ってきたんだからね。」ボールはニクソン陣営へ投げ入れられた。数ヵ月後、ニクソンは一九五九~六十年に安保改定を再交渉し、岸にM資金を譲ったばかりか、大統領になれば、軍事基地を保持したまま沖縄を日本へ返還すると約束した。前総理大臣、田中と親しかった情報筋によると、「ニクソンが岸に言ったのさ。もし大統領になれるように手助けしてくれたら、M資金の運営の仕事を進呈し、大統領に選ばれたあかつきには沖縄は返すよってね。」と言った。結局、ニクソンと岸は安全保障条約の改定に決着をつけ、M資金は岸にまかされた。一九七三年、ついにニクソンは大統領に選ばれ、沖縄は日本に返還された。ホワイトハウス国家安全担当補佐官、リチャード・アレンは、後に沖縄の返還にはびっくりしたと書き残している。「一九七三年、ニクソンは日本へ沖縄を返しやがった。俺はその後始末をやったんだ。俺はホワイトハウスと連絡しながら、そしていつも困ってたよ。本当に奇妙だったし、何の議論もありゃあしない。突然持ち出して、そしてやりとげた。どうして返還したのかまったく理解できないよ。さて、M資金の件?俺には理解不さ・・。」
日本では日米安保条約はまったくの不人気で、岸は内閣の支配力を失い、首相としての地位も失った。そして、M資金の権限を与えて数ヶ月たっただけなのに、大きな買収による大きな影響力のほとんどを失ってしまった。
ニクソンは期待していたキックバックをまったく得ていないだろう。数年後、ドルの力を弱くし、円を強くして、日本の輸出品の価格を上げるため、アメリカが金の交換を停止する機会がやってきた時、ニクソンは「日本人を狙ってやった。」と笑った。(ニクソン・ショック)それでも岸は姿を現すことなく、自民党の実力者のまま居座っていた。事実上、それ以降の首相はM資金を動かす派閥が決めている。何故なら彼らは受け継ぐ毎に報酬を受けているのだから。派閥として岸、田中角栄、竹下登、中曽根康弘、宮沢喜一、副首相の後藤田正晴、自民党副総裁金丸信等を皮肉をこめて、栄光の七人と呼んだ。偉大な皇族や金融王と比べると彼らは単に政治の歯車に油を差しただけだ。しかし、政治的な行動として見ると、日本国民に対しては責任を負わず、政界財界官界すべての階層に対し比類のない地位にいた。戦利略奪品は財産の基礎となり、利益は画期的な方法か、又は海外に隠された。皆とても頭がよく、田中は格別に賢かった。岸が築いた金権政治のからくりから、田中はM資金の個人的な支配をどのように獲得したのだろうか。ニクソンがM資金を岸に与えた時、最初にとった行動のひとつが一兆円で自分を助けることだった。(当時で三十億ドル)
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>>7354
これは一九六〇年当時、その資金全財産の十%にあたった。彼は首相でなくなっていたにもかかわらず、新しい池田内閣の大蔵大臣に田中を選び、次の内閣では自分の弟、佐藤栄作をとりきめた。高校も卒業していないような田中には大蔵大臣は無理の様にみえた。しかし、彼は別のやり方を知っていた。例えばたっぷりのあめ玉とか金融構造への本能的なひらめきとかだ。一九三〇年代に、土建屋の若い設計屋だった彼は、岸の友人であり理研グループという軍事施設関連企業財閥の総帥、大河内正敏・子爵の庇護を受けるようになった。理研は失敗に終わった日本の原爆製造の中心であった。子爵は田中の人生を、金持ちの出戻り娘と結婚させることで一本立ちさせた。田中の財産の大部分は彼女の父が経営する建築会社を受け継いだものだ。ほとんどの国民が戦災で何もかもなくしていた時、軍事設備の工事で莫大な富を獲得し、日本の戦争成金の一人になっていた。日本が降伏するほんの少し前、田中はアメリカの爆撃を避けるためにピストンリングの工場を朝鮮へ移転させる費用、七千三百万ドルの支払いを受け取った。彼は工場を移転せずに金(マネー)を金の延べ棒に換えたが、それを請求されることはなかった。(返す相手がいなかったのだ。Yamato に詳しいが、交換した金の延べ棒自体が非合法な金なので返す必要はなかったのであろう。)
この授かり物のいくらかを新しい自由党に寄付し、議員の椅子を買ったのである。一九五七年に合併された自由民主党の党首になった岸は、田中を郵政大臣に指名した。(田中は初めての閣僚ポストを岸から三百万円で買ったと自慢していた。)日本の郵便制度は数百万人の郵便貯金口座を持つ国家銀行を持っていたため旨みのある果実だった。田中は国民に対して、節約をさせるようにみせながら金を注ぎ込ませるというおそるべき才能を発揮した。この詐欺の様な贈り物は、岸がM資金を田中に譲ることを考えさせ大蔵大臣に推す動機となった。その地位にいる間、田中は地方自治体に対する中央政府の補助金、国及び地方の公共事業支出のすべてを個人的に支配した。それは毎年四千億ドル(当時$二百円としても八〇兆?)であった。M資金、大蔵省、日本銀行を支配していた田中は市民や国家の資産を奪う事は自由であり、数十億をM資金あるいは日本、スイスの個人口座へ移すことも可能だった。一九六〇年から八六年の二六年間、田中はM資金を勝手に動かす事ができ、自分のことを日本個人銀行の頭取だと自称していた。田中は、上級公務員(官僚)に恩を売ることによって、M資金を育てる手伝いをさせていた。記者の高野孟によると、田中は大蔵省の「上から下まで」買収してしまったという。
日本で議員に選ばれるには四百万ドル(八億)かかり、議員の年間収入は二十万ドル(四千万)にも満たない。一九八九年、百人の国会議員の調査によると、有権者に対する責務の中に月平均六,六回の」結婚式と26.5回の葬式を含んでいる事を明らかにしている。事あるごとに議員はお祝いや、お悔やみにそれなりの金額を期待され、毎月おおよそ六千ドル(百二十万円)が必要だった。従って議員は援助なしではやっていけないのだ。自民党は選挙の年に議員を助けるために二億ドル(四百億)を払わなければならない。このように計算していくと自民党が設立されて以来、権力を維持するための賄賂と利益分与に約十兆ドル(訳注、二千兆円?まさか。一兆円の間違いと思う。)を使わなければならなかった。だから、田中にはくつろぐ暇はなかった。絶えず金を注ぎ込むには利息を生み出すM資金の原資を増やさなければならなかった。これは彼のさりげない贈り物に特に費やされた。それは国庫から奪うのでは不十分だ。田中は建設業の入札を不正に操作してリベートを取ることに加え、国会の承認なして建設国債を生み出した。その債券は裕福な旧友達に格安で販売されるか、単にM資金への寄贈と交換に配られた。債券の満期が来たときに旧友達は利益のほとんどを田中に返す事に同意した。田中はそうした金を、自分の懐にいれるかM資金へ貯め込んだ。田中は又戦時中に敵対する連合国に没収されていた不動産を売却する計画を思いついた。連合国も戦後補償で適用し忘れていた。この所有権が主張されていなかった財産は一九五一年の講和条約、第十六条の条件を考えると、日本にとっては完全な宝物となり、田中がこの金の壺を見つけた時にはまだ売却されていなかった。一九六〇年~七〇年の十年以上にわたって田中は一六八一ヶ所の資産を旧友達に馬鹿馬鹿しいほどの低価格で売却し、その代金を大蔵省の口座へ預け入れた。旧友達は大インフレ時代の一般市場で転売し、その純益は七兆九千億円(二二〇億ドル)を稼ぎだした。お世話になったささいなお返しとして、彼らは莫大な田中の負債を免除し、幾らかを田中の海外口座に、残りをM資金へ入れた。一九六〇年に三五〇億ドルぐらいだったM資金は七〇年には六〇〇億ドル近くになったといわれている。(このころのレートは一ドル三六〇円固定だから二一兆六千億円になる)その年国会で疑惑が持ち上がった。そして田中の不動産詐欺は佐藤首相が一般開示を避け、幕を閉じた。田中の日本個人銀行の原資のほとんどは一九六四年に田中が設立した国民社会福祉協会である。(全日本福祉委員と訳されることもある。)この名前は本当にジョークそのものだ。その存在は正に田中とその友人達への福祉のためだけのものだ。
これこそが田中会であり、田中そのものであった。アメリカ法廷での証言のコピーは翻訳してCDに焼いてあるが、それによると、もともと田中会のメンバーは十七人の旧友達だった。それが最終的には三十名を越えるほどに成長した。彼らは寿司バーの王、石井龍二、実業家、小堀隆、近藤マサオ、そしてオーシャン・ドーム・リゾートの山下茂夫、などの銀行、貿易、不動産開発、投機、建設で財をなした男達だった。彼らの名前は日本の外ではほとんど鳴り響いてはいないが、二人だけは広く知られている。堤家は国際的なホテル、鉄道、リゾート、百貨店を所有している。世界的な富豪の中で堤はロックフェラーと肩を並べる。(注;考えられない。表向きの話だろう。)もう一人は小佐野賢治、日本の大金持ちで、国民銀行の理事長であり、容赦のないビジネスマンの中で「怪物」とのニックネームで知られている。韓国系日本人の彼は、戦争中に軍事用自動車部品で財をなした。
降伏時、小佐野は帝国軍の莫大な備蓄物資の隠匿に関与し、闇市場へ売り払うことで暴利をむさぼった。占領中、彼は闇市場でこの時とばかりに活躍できた。後の数十年、日本人はそれを田中・小佐野・通商商店と呼んで
苦々しく皮肉った。一九七〇年代になり、ほとんどの日本人に禁止されていた海外への大量送金を田中が許可し、小佐野はワイキキのホテルを買収し、自らハワイにおける日韓マフィアの首領となった。そして旅行社を使って西海岸の隅々へ触手をのばしていった。田中の最大のペテンは特別に考案された政府国債だった。彼はその債券を大蔵省で発行させたので、国会の承認があろうとなかろうと法的には有効である。各、国債証書はいずれも高額で、百億円から五百億円までの幅があった。(当時で五百万ドルから二千五百万ドルであり、今の価値ならばその倍だ。)
国債が田中会の有力メンバーにより、自分の金やM資金の闇金で購入されるケースもあった。彼らの名前が受取人として出てきた時、そのほとんどは単に田中にとっての身代わりとして配られた人達だっただけだ。これは大変な金額の不正国債が正式な国債のなかに存在することを許したようなものだ。満期時の利息や利益は田中直接へか、あるいは田中と債券所有者へ分けて別々のリベートになるべきものだった。それらの証書(極秘或いは重要と記してある)には田中、中曽根、竹下の個人印が押されており、利息の支払いに責任がある大蔵大臣、自民党指導者、第一勧銀の頭取などの許可で発行された事を証明する小さな印があった。しばらくの間、この詐欺行為はうまくまわっていた。M資金の運営について田中は自民党裏方の二人、後藤田と金丸の手を借りた。そして、三人ともが大富豪となった。田中は一九八六年、病気でM資金の支配を放棄する前に、十兆円を流用したと言われている。(三百億ドル、現在の価値ではその倍)そして情報筋によると、次の世代の家族を守るため、スイス銀行を通じ、海外の信託基金に投資したといわれている。(二〇〇一年、つかの間ではあるが、彼の娘が外務大臣に就任している。)
カール・ヴァン・ウォルファーレンによると、後藤田は田中に見出され、そのブレーンになったのだという。一九三九年、東京帝大を卒業した後藤田は、ゴールデン・リリーに関連していた内務省情報局に入り、戦後は警察庁へと上がっていった。田中が首相になった時、後藤田は内閣で最も重要な官僚ポストである内閣官房副長官に選ばれた。前憲兵隊員で警察庁長官の後藤田は国中で最も怖がれた一人であった。彼に与えられた田中からの課題は、官僚を緊張させておくことだ。そして金の運び屋は金丸だった。彼は酒屋の息子である。M資金や他の原資からの賄賂とリベートを分配して自民党の政治をあやつっていた。金丸は日本で最高の政治的フィクサーとして位置づけられ、十二回も議員に選ばれながら常に影の支配者として君臨していた。それは田中とはまるで違っていた。絶え間のないきらめきとうぬぼれの男、田中はとどまる事を知らなかった。一九七二年、彼が首相になった時、政敵は彼の不正情報を漏らし始め、二年後には日本の事件記者チームが勇敢にも彼の途方もない買収の暴露本を出版した。次に起こったスキャンダルが田中を病気にし、退陣に追い込んだ。彼は起訴されず、自民党のボスとして裏側から君臨した。一九七六年、米上院外交委員会がロッキード汚職スキャンダルの聞き取りを始めた。そしてロッキード社が新しい航空機を全日空に売却するために賄賂を贈った日本政府高官の一人が田中であることを明らかにした。金はロッキードから出ていたが、まだCIA職員だった児玉を通じ、CIAが運んだものだった。
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708131 No.7356
>>7355
児玉はまた日本にロッキードF104・スターファイター、二百三十機を買わせる斡旋もしていた。田中がロッキードから受け取ったのは、少なくとも五十億円だと言われている。なのに、彼が逮捕された告発状にはたった六億円とされていた。田中の側近達はロッキードからの賄賂があまりにも小さかったので田中は気がつかなかったのだろうと証言した。その間にもM資金の支配を持ち続け、三人の首相を指名し、十五回目の議員として復帰した。公判が引き続き、地位から陥落する最初のきざしがあった。中曽根首相(自民党極右の指導者)が田中に離党をすすめたのだ。中曽根の裏切りは田中を不安にさせ、田中派の他のメンバーが国債債券の数十億ドルをもったまま離れていくことを恐れた。中核メンバーはさておき、田中軍団には二列目の金持ち達がいた。田中に対する彼らの忠誠心は絶対的なものではなかった。彼らの幾人かが国債をいっせいに償還しようとすれば、大蔵大臣は不意をつかれ、弱みを握られてしまうだろう。田中とその派閥は国家財産をあまりにも徹底的に食いつぶしていたため、大蔵大臣は懸案である国債の減債基金を賄うためにはNTTの政府持分を売却するしかなかった。(注)減債基金;公債を漸次償還していくための基金。減債基金はその国債が発行された時、政府が設定した特別口座に準備され、政府は満期日までに償還する金額を減債基金へ入金する義務がある。仮に、田中派の何人かの裏切った国債所有者がその償還を主張すると、大蔵大臣には十分な基金がないため不履行以外に手はない、そうなれば自民党全体の信用は崩壊してしまう。
この危機を乗り越えるために、M資金や田中個人の金を投入するよりももっと恐るべき名案を田中は大蔵省の賢人と思いついた。彼らは元々の日本政府国債を償還証明証と呼ぶ新しい証書に交換することで繰り延べをした。
それは通常の大蔵省発行の国債ではなく、借金証書か借用証書の形式で、裕仁の在位五七年に大蔵省で印刷されたため、一般の国債とは区別して「五七年債」と呼ばれた。この本の中では私達はこの名前で呼んでいく。すでに法外な利息を受け取っていた国債所有者は、支払人と大臣とのパイプ役を務める第一勧銀が特別にデザインし、印刷した小切手用紙を受け取ったようだ。債券所有者の多くは政治的に重要とは思われないので、選択の余地なく単に大蔵大臣から国債を「五七年債」そして小切手に取り替えるように言われたのだろう。こんな事は欧米では考えられないのだが、その高度な技法に対し、交換に応じないと村八分にするとか、あるいは自殺をせまられるような脅しが盛んに行われた。すでにM資金が、岸の弟の佐藤栄作を死に導いた事は、はっきりしている。多くの日本人は一九七五年、M資金の支配をめぐる戦いの中で、佐藤が田中によって毒殺されたと信じている。(訳注少なくとも私には初耳だが・・・・。)
M資金による富士製鉄への融資で、佐藤と組んだ多くの人が一九七〇年代初頭に不審な死をとげている。佐藤の死をめぐる大きなスキャンダルは田中が未亡人にM資金から三千億を支払って決着をつけた。一九八四年に、児玉の広報係で仕事仲間でもあり、すべての事実がどこに隠蔽されたかを知るハーベイ・福田は肝硬変で治療入院中に心臓病で死んだ。彼は毒殺を恐れていると言っていたし、家族は自然な死に方だとは信じてはいない。日本では、もし殺される事を恐れているのならば、病院は避けたほうが良いと助言しよう。そこでは人目につかずに事をすますことができるからだ。次の自殺幇助は竹下首相の私設秘書、青木伊平だ。彼は「五七年債」を知りすぎていた。ウォール・ストリート・ジャーナルに、「青木は腕、足、首を切ったがそれでもだめだったので、ネクタイをカーテンレールにひっかけて首をつった。」と書いてある。物理的に、「五七年債」は以前からの日本政府の国債とは全く違っている。その国債は、一般に募集したものでも、通常の国債のように国債債券市場で売却されたものでもなく、持った人しか現物を見ていないのだ。
そのまさに違いこそが、後の大蔵大臣が「五七年債は偽造品だ。」と宣告できたマジックのからくりだった。本当に間違いのない人だけが選ばれ、こっそりとダンピング交渉が行われた。元々の政府国債に対し支払いをした人達は「五七年債」に無理やり交換させられ、再び騙された。ワシントン政府は「五七年債」は偽造品という日本の断定を支持した。しかし、私達は知ることになるが両者ともがうそをついている証拠がある。何故ならば両者ともゴールデン・リリーの戦時略奪を使ってM資金設立したことに関わってきたから、「五十七年債」の存在を否定する理由があったのだ。
アメリカの弁護士ノルベルト・シュレイによると、「五七年債」は鈴木首相の下で大蔵大臣を務めた渡辺美智雄の注文で、大蔵省、滝の川工場で印刷されたという。これは、渡辺がシュレイにこっそりと話をしたものだ。彼は殺されたから、シュレイは情報元を言う事ができなくなったのだ。渡辺は副首相、外務大臣、通産大臣を務めた後、一九九〇年代後半に死んでいる。彼にはもはや危険は及ばないから、我々はここで、彼をこの裏づけの権威ある情報源として特定できるのだ。「五七年債」が本物であることを否定できない証拠を、南カリフォルニア、マーシャルビジネス大学のエドモンド・C・ルイザー教授が苦労して集めた。ルイザー教授はM資金と田中の債券偽造を趣味で調べていた。彼は辛抱強く債券の複写や関連文書を何年も遡り集め、他の大学の蔵書の中でそれらを発見した。調査の一部として、元々の国債と、取り換えられた「五七年債」との徹底的な比較だった。これらの証書に関する宣誓供述において、彼は「五七年債」を償還証明書だったと述べている。ルイザーは「償還証明書は、引き換えた国債の収益は受取人の権利であり、十五年の満期時に利息を履行してもらう権利を主張できる事を認めたものだ。」と言っている。一九八三年に始まり、三年以上、その種の国債、七種類が現実に日本政府で発行されている。二〇〇〇年九月に満期となった第七回国債まで日本政府が発行した中で、最初と十五年満期の国債だけは特有なものだった。十五年物の七種の国債は大蔵省が名義変更の禁止、期間中の譲渡を制限する条件で発行した。「私が調査した証書に見ると、一九八二年、大蔵大臣、もしくは大蔵省の高官が決定したのは、まず身元の確かな所有者に国債を持たせ、第一勧銀に利益を入れる口座を統合し、その後その国債を「五七年債」と引き換えることにしようという事だったことを表している。」ルイザーが、大蔵省からの数百枚、そして第一勧銀、自由民主党などから集めた証書で、この国債が日本政府の発行であり、償還される根拠があることが確認できる。彼はこれらの証書は、国債の引受人と大蔵省、銀行、「五七年債」の間の否定できない関係の詳細を証明していると言う。「私が調べた証書は、日本政府が公表した記録とともに細部の事項まで、とても細かく定めてある・・・私の意見だが、その証書、あるいはそこから発生する引換証が偽造品だったとするのは全く不可能だよ。政府外の人間で、証書が本物かどうかを見分ける知識を持った者はいないし、実際、知識ある多くの官僚達こそ見分ける必要があるんじゃないか。率直に言って、引換証は偽物ではないね。」ルイザーは、もっともらしい説明として、「日本政府は、本物の国債のなかの大変な金額が、いかがわしい名義人に所有されている事実に懸念が生じたので、その国債を引換証明書と切り替えた。」――引換証書の形式は前もって告げていない――「これではさらにもっともらしく支払いを拒む事ができる。」と言った。
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>>7356
ルイザーは一九八二年に始まり六年間続けたが、日本政府にその突出した国債を償還するだけの債券需要が不足したと言う。少なくとも一時的な問題解決だが、突出した国債を取り戻し、帳簿外の「五七年債」と置き換た。一九八五年、田中は脳障害に倒れた。最初は近親者にすらその状況は隠されていたが、やがて再起不能であることが明らかになり、反対勢力は、誰がM資金を受け継ぐかを争いだした。中曽根は、自分と自民党右派が自然な後継者と見ていた。後藤田と金丸はトロイカ体制の結びつきを強めるよう竹下を仲間にいれ、中曽根に肘鉄を食わせた。この相続争いが進行中に、多くの日本人金持ち達は「五七年債」で大金をつかむ機会がやってきたと決断した。大蔵省の通知は「五七年債」のすべてが偽物だというものだった。彼らは怒り出し、反撃を決意した。何人かは外国人と個人取引で処分し、他の者は、自民党や大蔵省に自分の請求を秘かに認めてもらい、少なくとも額面の相当分を支払うよう圧力をかけた。とりわけ自民党指導者と密着していた人達だけは成功した。大蔵省としては払えないので、トロイカ達はこっそり、「五七年債」と、関連する第一勧銀の小切手は買い戻してもらった、もちろん大幅に割引させられたはずだが。ジャーナリストのジョゼフ・シェリシンガーは「金丸は、一九八四年から自分の財産のほとんどを匿名で買える特別国債(ワリチョー)に切り替えている。そして絶対に所有しているとは言ってないよ。」と言っている。その同じ時期、後藤田も多くの「五七年債」と第一勧銀の小切手を買い戻したようだ。日本人からの情報によると、後藤田は六百億円相当の小切手を握ったという。あまりにたくさんの小切手を手に入れた後藤田は、第一勧銀へ換金をせまることにし、銀行員達は低い相場で買い取ろうとした。しかし、後藤田は態度を強くし、結局、銀行側は額面で支払うこととなった。我々がこの取引を知ったのは、政府の調査員が別の事件で第一銀行を盗聴していた時に集めた証拠からだ。その回線に偶然、後藤田が電話をしてきたのだ。二人の自民党の巨頭、金丸と後藤田は、「五七年債」と「第一銀行小切手」を売り買いしていたように、それらが偽物だとは思っていない。買上に失敗した多くの日本人「五七年債」所有者は、アメリカ、ヨーロッパ、東南アジアへ働きかけた。そんなに遠い所では永遠に妨害されるだけだ。
田中は発作のせいで麻痺していて歩く事も話す事もできないので、直接彼とは連絡がとれなかった。ある者は、もしもその証書が日本に戻り、訴訟を起こすと圧力をかけられた場合、何が起きるかを心配した。彼らは慎重に国際的な銀行家、弁護士、仲介者を通して大蔵省を困らせ、その引換証書を償還するよう接触することにした。それが、ノルバート・シュレイが関わるようになったいきさつである。シュレイは優秀な男だった。一九二九年ダイトンに生まれ、オハイオ州で大学を出て、朝鮮戦争中は海軍将校だった。その後エール法律学校へ入り、法律会誌の編集長を務め、一九五六年優秀な成績で卒業した。米最高裁判事ジョン・マーシャルの事務員として一年勤めた後、シュレイはロサンゼルスで法律現場に入っていった。一九六二年、三十三歳になった彼はケネディ政権で司法副長官に指名された。彼は、一九六二年、米軍を、人種問題で揺れていたミシシッピ大学へ鎮圧のために出動させた時の司法長官、ロバートケネディの補佐官だった。キューバのミサイル危機ではシュレイはケネディに孤立主義を貫くよう助言した。彼は、石器時代でもあるまいにハバナを空爆しようとするデイン・アチソンの様な連中とは対極にあると気づいた。一九六四年の市民権利運動、一九六五年の移民行動、そしてジョンソン政権における貧困対策の立案者でもあった。一九七二年、ロサンゼルスの法人対象として発足していたヒューズ・ヒューバート&リード社というウォール街の会計会社に入り、カールスベルクやアルコ石油のような顧客に対し商法と担保法を取り扱い、ハワード・ヒューズやモルガン・スタンレーの様な顧客が象徴する有名な法廷弁護士になった。そのカリフォルニア事務所にアジアから依頼があり、これに応じた彼は、M資金と「五七年債」に関わる事になった。
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>>7357
償還証明書が偽造品だと日本政府が主張している事情は承知していたが、彼の顧客達は、政府の役人が償還を避けるために嘘を言っていると強く主張していた。彼らはシュレイに対し、この証明書を償還するように日本政府を説得できる可能性をたずねた。彼らが望んだのは、ヒューズ・ハーバード&リード社の様な名声をもってすれば、大蔵省や第一銀行に圧力をかけ、一般的なスキャンダルを避け、和解に同意するのではないかということだ。彼らはシュレイに、莫大な額面の金額を求めているのではなく、田中派の後継者として、約束した利益を実現することを望んでいると伝えた。シュレイが調査を始めると、思いがけない部署からの強烈な反発を食らった。それはアメリカ政府だった。結果、彼の業務を妨害し、その名声を傷つけ始めた。シュレイはウォール街の多くの人や大学当局と同じくM資金や日本の金権政治との係わり合いを隠したい米政府の圧力で中傷を受ける被害者になった事を確信した。シュレイに起こった事は、隠されてきた秘密が驚くほど大きく、深刻な陰謀であることを示していた。思いもよらなかった事は、日本政府が秘密にしようとしていたこれら引換証明書の元々の金額が、とてつもなく大きかったことだ。そして、田中が扱ったM資金の元々の由来は、日本が占領した国から略奪した財宝をもとに、マッカーサーが設立したものだという話に驚いた。
また、ニクソン副大統領が果たした役目を聞いてさらに狼狽した。しかし、シュレイが努力して調べた結果、少なくとも大筋ではそれが真実であると確信した。彼の犯したミスは、これが全て遠い過去の話であり、アメリカの外交官や役人と、この奇妙な過去の不合理な実態を話しあえると思ったことにある。随分後になって、やっと彼は暗黒の闇の中で生き残っている、とても危険な何かに介入してしまった事を悟った。依頼人の一人、学生運動指導者、高橋敏夫はCIAが資金洗浄した四千万円の小切手をアジア解放委員長として受け取った。彼はM資金の歴史の中で最も初期のメンバーだった。その後、田中会のメンバーになり、後に「五七年債」に切り替えられるいくらかの田中国債を買っていた。彼はそれらが偽物で換金出来ないと言われた時、騙されたと気づき、シュレイに頼み、戦う事を決意した。
シュレイはこの件の調査をするため、独断で日本へ行き、通訳とともに二十人の証言を集め、一九六〇年代に遡って記録を閲覧した。自民党指導者は、「五七年債」は偽造品で、M資金など、元々存在していないと主張していたが、シュレイは彼らが嘘をついていると断定できるだけの証拠は十分にあると思っていた。「私はかなり早い時期から依頼人の主張は公正なものだとの結論を固めていました。法律家でなくても、法治国家の基準から、依頼人の主張を正しいものだと論ずるでしょう。」シュレイは、「もし誰かがこの引換証を換金しようとすれば、その事はすぐに大蔵大臣に伝えられ、大臣はそれを阻止することができ、或いは大臣が正当と望む場合はそれを有効にする事もできるという構造で作ったのです。」と言った。シュレイはこの話を知る立場にある政府高官スタンレー・シポーキン、レーガン大統領、国家安全顧問リチャード・アレンなどに話をした。マンスフィールドの側近は、ワシントンが自民党へ秘密の支出をしたといういかなる疑いも否定した。誰もシュレイが自分の政府に対して、とても危ない橋を渡っていると警告しなかった。シュレイはスポーキンに、日本でその引換証書の償還の交渉しに行くこと、そしてCIAもそれに異議がない事を確認したいとはっきり話した。
一晩たって、その事情を調べたスポーキンはシュレイに異様な話の全体はよく分かったが、それは個人に属する事件であり、情報局としては証書の販売セールには興味はないと話した。スポーキンが言った事はとても奇妙な事で、次に起こったことを考えると納得できるだろう。スポーキンはそんなにあわてて「五十七年債」やM資金の機密情報を持つ必要はなかったが、彼は日本のCIA局長等のそれに詳しいCIA職員に尋ねなくてはならなかった。それらの職員達は当然のごとく秘密にする事に決められただろう、しかし彼らがすぐに反応したように、無意識かそうでないかは別として彼を罠にはめる措置を開始した。カルマーズ・ジョンソンが「連合国の占領中、そして占領終了以来、五十年以上も進化させてきたワシントンの日本に対する政治的取り扱いは、単に歴史的な意義だけではないのだ。」と指摘したように、シュレイもそれを苦労して知る事になるだろう。
シュレイが日本にもどり依頼人の主張を強く迫りだすと、自民党の首脳達は米国大使館員に不満を言った。シュレイが知らないところでアメリカにいる依頼人の何人かに米財務局の代理人が接触し、非合法を承知で米政府へその「五七年債」を売却するように誘いをかけた。売却を申し出た者はすべて逮捕され、「五七年債」は押収された。(彼らの弁護人としてのシュレイは共謀者や実行者とみなす事もできた。)ワシントンが一九九二年にシュレイに全力で圧力を掛けるまで、米政府の悩みの種は、ロサンゼルス在住、一ヶ月千ドル以下の社会保険で暮らしている年配で病気がちなバーバラ・ジーン・アー・ルーという女性だった。カフカズ生まれのアメリカ人で、アー・ルーという中国系ハワイ人の会社員と結婚し、長い間トランスフィールド投資会社という会社を経営しながら香港で暮らしてきた。一九八七年、トランスフィールドは、高橋ら、日本の依頼人から、彼らの「五十七年債」の償還に力を貸してくれるように依頼をうけた。トランスフィールドの最初の取り組みは、日本銀行がそれらすべてを偽物とする立場をとったために失敗に終わった。
この期間にアー・ルーは遺失物捜索係りとしてバンコープ・インターナショナルに雇われていた賞金稼ぎのクレイグ・アイベスターに会っていた。彼らは「五七年債」を検討し、アイベスターはその一枚の写真複写をスイス銀行へ送った。そこなら原本を調べる手間をかけずに、それが詐欺であるかを自動的に返事してくれる。アー・ルー夫人は高齢で病弱だったのでロサンゼルスへ引き上げた。そして競売になる寸前の家で寝たきりの老人から一人部屋を借りて住んでいた。そこで再び賞金稼ぎに出くわした。この時、クレイグ・アイベスターは自分の仕事を米カスタマーセンター(消費者センター)への告発人と決めて獲物を探していた。以前、香港で検討したことのある「五七年債」を思い出し、アー・ルー夫人を説得しアメリカ国内で「五七年債」を売却しようと決めた。それが違法だとは知っていたが、カスタマーセンターから彼は謝礼を受け取れるはずだった。彼女は拒否した。まだ常識をもっていたからだ。彼女はアイベスターに、米国内で「五七年債」を交渉する気はないと語った。アイベスターはカスタマーサービズに接触し、アー・ルーを大きな手数料で誘惑し罠にかけようと申し出た。シュレイの調査によると、おとり作戦には、米情報部員ジャック・フォックス、カスタマーセンター職員ミッシェル・サンキー、ミッシェル・ノーマン達が登場しアイベスターの手先を演じた。
彼らの計画では、アー・ルーに「五七年債」の米国内での売却を大きな歩合で誘い、彼女の意図もしくは犯罪を意図しようとしただけで逮捕するというものだった。彼女は気が進まなかったようなので、フォックスはシカゴのファースト・ナショナル・バンクの副会長だと見せかけて信用をさせた。サンキーは金持ちの会社員を装ったのだろう。彼らは盗聴設備のある部屋をレノに借り、話し合おうと彼女を誘った。彼女に州を越えさせれば、州法というより連邦法で罪に問えるのだ。アー・ルーは航空チケットを買う金がなくて、行く事ができなかった。罠の第一段階として、情報部が彼女に自由周遊券を送った。レノに着き、アー・ルーは「申し訳なかったわ。」と言った。しかし彼女は一枚も「五七年債」も持ってこなかった。彼女は「ともかく、日本政府はそれを偽物だと主張しているし、その債券を売る者は牢獄送りだって・・・。」と言った。フォックス、サンキー、ノーマンは、もし有力な証券会社と正当かつ正式な取引を整えられることがない限り、彼女が「五七年債」を再び手に入れたいというまでアー・ルーを脅し続けることにした。(有力な証券会社なら誰にも面倒を起こさずに法が監視してくれるだろう。)秘密情報部員のフォックスはスミス・バーニィに分け前を約束した。彼はアー・ルー夫人へ副大統領行政官ジョージ・サックスと評議員スミス・バーニィからの三通の「五七年債」を買い入れたい旨のファックスを送った。おとり作戦を有効にするには、スミス・バーニィ事務所の司法管区の中で、法に従って行動を起さねばならなかった。彼らはルー夫人をバーニィの事務所のあるフロリダのタンパへおびき出す事にした。そこならば米弁護士は連邦地方裁判所判事エリザベス・カバンシェビッチ氏の弱みを握り、協力させることができる。結局、アー・ルー夫人は高橋の所有していた証書うちの何枚かを手に入れたブローカーで、こっそりと買い手を探していたローシャー・ヒルの話を聞いた。しかし、タンパへの旅行の前夜、彼女は心臓発作に見舞われた。
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>>7358
そこで息子ブルース・ハンズベリーに自分の代わりとしてロジャー・ヒルと一緒に行き、スミス・バニーと金銭面を決めるよう指示した。一九九二年一月十八日、タンパに着いた彼らは逮捕された。彼女はそこにいなかったので、彼女に電話して、架空話の決着を話し合う事で罠にはめなければならなかった。そうしてアー・ルー夫人をロサンゼルスで逮捕することができた。これですべてが終わった。彼女は監禁されてしまった。彼女の香港の住居は国から逃れようとしたとみなされ、未決で収監され、最終的に共謀罪、電話詐欺罪、資金洗浄罪、有価証券詐欺罪で有罪となった。狼狽したアー・ルー夫人は気が変になり精神病院へ移された。そして咽喉ガンが発見され死んだ。一九九二年一月までにアー・ルー夫人へのおとり作戦に十六人の諜報員が関ったといわれている。アー・ルー夫人の件はとるに足らない事で、そんなに多くの税金の投入を正当化できるものではない。誰かがリンチされないか警戒する様なものではないのだ。
もうひとつの可能性が「五七年債」をもつ高橋だった。彼らはロサンゼルスのアパートに侵入したが空っぽで高橋は国外へ逃れていた。勲章稼ぎがアメリカの刑事訴訟制度の特徴になってしまっている。高橋は有名人ではないのでアメリカの野心的な弁護士にとって価値ある勲章とはならない。それに対してノルベルト・シュレイは深い闇の秘密に首を突っ込み、日本政府を悩ましていた。有名な彼は完全に攻撃対象になるのだ。一年前、シュレイはM資金についての報告書を書いていた。それは大々的に回覧された訳ではないが、複写が米政府職員に渡った。職員は心配になり腹を立てた。彼らがシュレイを罠にはめる事ができたら、米政府はシュレイがM資金をかぎまわる事を止めさせることに協力するだろうし、自民党指導者は恩義を覚えるに違いない。問題はどうやって罠をかけるかだ。
シュレイは「五七年債」をアメリカでは決して交渉せず、日本でだけで行っていた。依頼人の味方として弁護士が質問状を提出する権利は合法なのである。しかも、シュレイは依頼人からいっさい金を受け取っていなかった。しかし、高橋はシュレイから返してもらった彼の「五七年債」の一つを売りたくてイライラしていた。そしてシュレイに連絡もせずにロジャー・ヒルに市場での売却をまかせてしまった。ロジャー・ヒルによる「五七年債」の自由市場での売却に対し、シュレイは何も行動していないという主張は確かに知られている。ただ、彼が高橋の弁護をしようとしていたし、日本にいる他の「五七年債」の所有者と協議しているのは明白だから、政府は、アー・ルー、ハンズベリー、ヒルらと共謀しているグループとしてシュレイを逮捕できることになる。それにしても、シュレイがタンパ事件に関わっているとの主張は不可解だ。しかし、気づかれないうちに陪審員を誘導し、手品のようにごまかされてしまった。最終的にシュレイは、日本政府が「五七年債」を偽造品とみなしたことを素直に認めている以上、彼は違法と知って証書の市場取引を容認していたと主張できる。この理屈こそ、日本が支払いを免れるために嘘をついている事を納得させようと、シュレイが再三にわたって言明している決定的な要点なのだ。
シュレイに対する訴訟は名誉狙いの検事や従順な判事、謝った指示をされた陪審員に委ねられ、ワシントンはシュレイの開示請求を拒むために努力した。日本での宣誓供述書を取りに法廷を離れることを拒否し、弁護側の証人を脅し、どうみても責任逃れのために偽の情報を教えこまれている大蔵省や第一銀行の検事側の熟練した証人らを連れてきた。彼は知らないうちに、「アー・ルーの不正取引」の団体と名付けられたことにビックリしたが、タンパで始まる大陪審の法廷での本来の目的が、彼を起訴することだと知った。急いで依頼人がもつ「五七年債」は見つからないように分散された。依頼人達は追い込まれると恐くなり、自分が罪を逃れるかわりにシュレイに対して不利な証言をするようになってしまう。公判で検察側証人は、この引換証書は多くの利息を着服していた二人の大蔵省と第一銀行の下っ端の職員がもってきた偽物だと証言した。シュレイ側の弁護団は反撃して、「買収された日本人職員は、これらの引換証書は正規ではないと嘘の主張をしている。」と言った。しかしながら、ロウザイアー教授は本物と主張した。(前にも引用したが)「その証書には・・・公式に出版された日本政府の資料に契約上の多くの注意書きが書かれてあり・・私個人の意見なのだが、その国債を、或いはその国債の結果としての引換証書を偽物として使う事は不可能だ。」と言った。
日本政府と米政府間の共謀をあばくため、弁護側はアメリカ政府から日本政府、或いは一九四五年から現在までに、日本の政党へ支払われた裏金を明らかにしようとあらゆる報告書や記録の出所を突き止めようとした。我々が見てきたことは、前のCIA職員や外交官などの多くの情報源から確認されてきた。シュレイはその生涯をかけて、役立つすべての証拠書類を必要としていた。前米司法副長官として、彼はその文書を間違いなく発見できたはずだ。そしてこの様な開示要求はシュレイにとって正当な権利だったが、米諜報部はきっぱりと要求を断った。M資金や「五七年債」に関する報道記事で、裁判所はCIA、情報局、国立公文書館、国防省に対してその調査データベースを構築するよう命じざるを得なくなった。大きな秘密に覆われているブラック・イーグル基金、一九五一年の講和条約、M資金、消失した日本に関する数百万通の文書などが少しでも洩れていたら大変な反響を呼んだことだろう。陪審員は、「CIAや情報局、公文書館の調査で、日本政府の職員や雇員、或いはいかなる日本の政党にCIAが金を払ったということを実証するような関連事項、あるいは具体的な公文書などは開示しないこととする。」と語った。
公判記録には「政府はCIAの数百のファイルを一九四八年まで遡り、CIA職員が日本政府や自民党、或いは単独の政党へお金を支払ったことを示す文書を探した。又、政府は「M資金」の項目でコンピューター検索した。調査では・・・いかなる関連性のある具体的な公文書も情報も発見されなかった。」とある。陪審員は、CIAの事実上の長官、海軍提督ウィリアム・O・スチュードマンが一九九五年三月、ニューヨークタイムズに、「CIAは賄賂の対象となる外国の政府や政治家についての情報をもらそうとしなかった。」と語ったことは聞かされていなかった。スチュードマンは「米政府から隠れた援助を認められている不正受給の政治家に対して、諜報員は守秘義務がある。」と言っていた。この声明で、その様な支払いがなされており、ただ詳細を述べる事を拒否したことが確認される。莫大な金額で買収されている日本の政治家を守る事は、アメリカの法廷の判決よりも重要だったのだ。
シュレイは法廷を「イラン・コントラ事件のオーリー・ノースやポインデクス提督、マックファーレン氏のような人が、影響力を持っていたから嘘をついているとしたら、日本政府の人もたぶん何らかの影響力を持っているから同様に嘘をつきうるのだろう。」という形なのだと言った。コバシェビッチ判事は、シュレイが日本での宣誓証書を取り寄せる事を拒否し、シュレイの重要な被告側の証言者が米の弁護士から脅されているという抗議を軽くあしらった。シュレイの弁護士は、検事当局が証人に対して圧力を加えたことは間違いないといっていた。例えばS・M・ハンは米国弁護士、マーク・クラムと免責で同意していた。ハンはクラムから、もし被告側として証言したら、免責の約束は無効になると聞かされたと言っている。又、クラムから、「彼はそうなれば二の足をふむだろうから、免責を取り消す以上に有効な方法ははなかった。」と語ったと言っている。証人を脅すということは、米国司法制度の中で最も深刻な罪であり、資格剥奪の理由にもなりうる。コバシェビッチ判事は証人を脅した事についての新たな裁判所への申し立てを否定し、ハンの申し立てが正しいかどうかを決定する事情聴取をすることすら拒否した。
数年間の嫌がらせの後、シュレイは重大な有価証券詐欺と、ひとつの軽い罪で有罪となった。彼は裁判開始前に一千万ドルの資産をもっていた。しかし裁判中は弁護活動という仕事はできず、自分の弁護活動に巨費を費やしてしまった。職業的にも金融的にも行き詰まり破産同然となった。彼はこのペテンと訴訟のために米政府は、アメリカ国民の税金四千五百万ドルを使ったと見積もった。シュレイは上告し、一九九七年九月、第十一回上告法廷で重大な罪、微罪ともにその有罪判決は破棄され無効となった。そして微罪についても、政府が証人を脅かしたことを根拠に、シュレイの再審申し立ての聴聞に地裁へ差し戻された。
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708131 No.7360
>>7359
第三回上訴審の判事は、コバシェビッチが目撃者を買収するために格別な手当てを支払っていたと判断した。判決には、シュレイを起訴した処理は奇怪でないとするならば異常なことだと書いてあった。彼ら(判事)はコバシェビッチの買収は不可解だと断じ、そして、「私達はシュレイが適正な手続きの権利を奪われたかどうかの判定はできない・・・。なぜならコバシェッチの公判は正確な審理がなされてないからだ。政府が被告側の目撃者を脅していた地裁へ被告が証拠を出した以上、法廷は脅されたのは本当かどうかを判定する審問が認められるべきだ。」と言っている。罠にはめるため始まった裁判はずるずると六年間続き、結果としてシュレイは破滅し、判決は破棄されたのだ。潔白を主張し、シュレイは再審を請求したが、米政府はシュレイが破産したことを知っていた。七〇歳近くにもなり、自分の名声を保つために無期限には戦えない彼は、微罪が未解決のまま、ついに証人買収の罪を追及しないことに合意した。今日、ワシントンでの彼の名声は地に落ちている。もっと真実を知るべき高名な法律家達は、彼は重罪を犯したのだから、出した証拠はあてにならないと最近では主張している。別の人は、シュレイの未解決の微罪について、モラルが欠如した結果であると断言した。この件は後にカリフォルニア法廷で論議され、公式記録からは削除された。二〇〇一年一月、カリフォルニア裁判所議事録で、シュレイはもう一度立派な弁護士として認められたと公示された。しかし、損害はもうすでにもどらない。二〇〇二年春、シュレイはカリフォルニアの浜辺をジョギング中、おおきな心臓発作に見舞われ、脳をやられてしまった。ホームレスの人達が近くに助けをよんだ、しかし数ヶ月の間昏睡状態だった。最後にシュレイに会った時、「私は、どの様に、そして、何故陪審員が私を有罪にしたのか今になってわかってきたよ。私の存在はとても目障りだったんだろうね。」と言った。
一九九二年一月、他の広がりかねない出来事が直にシュレイを迫害に追い込んだのだろう。彼だけがM資金の罠の的になったわけではない。他に逮捕されたのは、十七年間シークレットサービズを勤めたベテラン、ジェームズ・P・セナだ。彼は財務省の偽造を調査していた。セナはアメリカと日本におけるM資金の融資方法を調査し「五七年債」が本物だと確信するようになった。彼は自分でも販売することにした。彼と英国ヨークシャーのイアン、香港のフランシス・チャンは市場で額面総額五百億ドルの「五七年債」を買い付けようと企てて逮捕された。一九九五年十一月、彼らに対する裁判は、突然理由も明らかにされず費用が払われそうにもないという偏見でもって棄却された。にもかかわらず、証拠として没収された「五七年債」は不当取引とみなされ返却は拒否された。もしも偽造品ならば、どうして不法取引になるのだろう?ウォール街筋の話では、財務省はこっそり日本と交渉するため、「五七年債」や他の偽造品の情報を手に入れたがっていたという。同時期、「五七年債」の交渉に関わる事になった有名人は前の国務長官アレクサンダー・ヘイグだ。シュレイと違い、ワシントンが罠の的を選んでいたことを見せ付けるように逮捕も迫害もされなかった。すべての会談に同席していたある人物からの情報によると、ヘイグはパラグアイの味方として仲裁を要求した。パラグアイ政府は額面五百億ドルの「五七年債」を一九九一年十一月二十日、正にあのアー・ルー夫人が罠にはまった時にニューヨークでファースト・ハノーバー証券から買っていた。同日パラグアイ政府はMIC債権整理会社に対し、日本政府へ「五七年債」を償還するように手配してくれるよう要求した。――金銭ではなくて、日本からパラグアイへの対外援助、四百億ドルの借款の要求である。
つまり額面の八〇%を要求したので、日本は二〇%引きで受ける事ができる。MICはイスラエル政府が後援している組織で、イスラエルは東ヨーロッパや南アメリカの政府の国家債務の調整を協議していた。成功すればMICはパラグアイ領内での石油探索や開発の権利を獲得できる。前国務長官ヘンリー・キッシンジャーと前大使マイク・マンスフィールドが熟考した後、MICは彼らの交渉人としてヘイグを選んだ。彼を選んだことは正解だった。ヘイグは日本を良く知っている。彼は一九四七年、ウエスト・ポイントを卒業し、東京でマッカーサーの側近として彼が五一年に解任されるまで仕えていた。マッカーサーの側近としてホイットニーやウィロビーと同じく、極めて限られた仲間の中で働いていたので、おそらく占領中、日本の多くの汚い作戦や秘密資金の設立を聞いていたはずだ。日本在任中にヘイグはマッカーサーの副長官アロンツォ・パトリック・ファックス将軍の娘と結婚した。後に安全保障局員としてニクソン大統領に仕えたヘイグはニクソンとフォード両方でホワイトハウス主席補佐官を勤め、レーガンのときには国務長官でもあった。
情報源によると、策略を練ったのはマイアミで、MICとパラグアイはヘイグにこっそりと、日本の元首相でM資金の元締め、そして自民党の実力者である竹下登と交渉することを求めた。M資金のリベートや戦時略奪品に関連していたリクルートスキャンダルに関与して恥をかいた後、竹下は二年前の一九八九年、首相を辞職させられていた。しかし権力者のままでいた。一九九二年一月、ヘイグは東京で竹下と会う事で合意した。伝えられるところよると、ヘイグはマイアミの円卓会議で、できるかぎり速やかに「五七年債」を内密に交渉すべきであると語ったという。「五七年債」の裏取引について知るべきなのは、ヘイグがワシントンでFBIやCIA、シュレイなどがしてきたよりもっと多く論議していたということだ。
あるCIA職員は、日本にはたくさんの秘密基金があったと説明した。例えば、彼のいうマッカーサー基金とは、おそらく三和銀行にマッカーサーと裕仁の共同口座で預けられ、日本人はそれを裕仁にちなんで「昭和基金」と呼んだものだという。彼は又、日本政府国債がどうして「五七年債」に変わったのかも説明してくれた。情報源は、ヘイグはホワイトハウスへ行き、竹下と首脳会談をするブッシュ大統領に「五七年債」を交渉するように話したと語っている。お互いに関わったじゃないかと説明し、ヘイグはブッシュに支持を求めた。交渉しやすいようにブッシュは、ヘイグに竹下宛の私信を渡したと情報源は言っている。ブッシュ大統領自身も途中で日本へ行った。ヘイグより数日前に東京へ行き、宮沢首相にゲロしたのは有名な話だ。一九九二年一月十三日、ヘイグは二週間後、自民党議員団から帝国ホテルでの昼食会に招かれた。その後ヘイグと竹下は隣の部屋で秘密会談を行った。MICは、竹下はおそらくすべての「五七年債」は偽物だということから始めるだろうと言った。ヘイグはそれに備え、竹下を動揺させるような二、三の反論を用意していた。彼はMICに竹下に見せた時に最も印象度の高い三種類の書類を選ぶように求めた。
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>>7360
そのひとつが、安田火災保険会社が発行した大蔵省からの輸送に伴う保険証書だった。これだけで「五七年債」の根拠が明らかになってしまう。MICはヘイグにこれらの書類が持つ意味を耳打ちし、日本国債と「五七年債」の相違点を教えた。東京で二七回目の会談が行われる直前にヘイグは竹下に、最近の大きなスキャンダルでひどく傷ついていることだろうから、自民党の指導者として日本叩きを止める約束をヘイグに望んでいるのではないかと切り出した。もしも、その様に請合ってもらい、この会談を無事に切り抜けることができれば、彼はスキャンダルから立ち直り権力を取り戻せるだろう。午後二時四〇分、二人の男が席につくと、予想通りヘイグにアメリカ企業や政界が日本叩きを止めるよう求めたそうだ。ヘイグは前向きな返事をして、竹下にブッシュからの私信を手渡した。竹下は、パラグアイの借金清算にいかなる合意をするにしても、石油開発に日本が参加させてもらう必要があると言った。机の上に例のものを並べ、ヘイグは今回の東京訪問の目的のひとつが、パラグアイの持参した「五七年債」と引き換えに、対外援助借款として融資をしてもらえる竹下の保証をもらいたい事だと説明した。ヘイグは竹下にパラグアイがハノーバー証券から購入した「五七年債」を見せた。竹下はその証書を一瞥するや、「ヘイグさん、それは香港で作った偽物じゃないですか。」と言った。そうするとヘイグは、「ほんならこっちの証書を見てみなはれ。」そして安田火災の保険証書と他の二つの証書を手渡した。証書を一つずつ見るうちに、竹下の顔は青ざめて声も弱々しくなった。「ヘイグさん、これを清算するにはとてもビミョーな問題が生じる様におもいますなあ。」ヘイグは「はい、そうですな。ビミョーと思います。」「即答はできまへんな。」会談が終わって数分後、自分の部屋でMICの一団にこのすべてを報告した。彼は竹下が保険証書を見てショックで動揺した時初めて「五七年債」を取り巻く深刻さを悟ったと言った。情報筋によるとヘイグは一転して、パラグアイに怒り「俺を恐喝者にしようとしたな!」そしてニヤリと笑って、「一発目で命中したぞ。」と言った。彼はパラグアイ人とイスラエル人に日本にいる間は十分に注意するよう警告した。竹下は気分を悪くしているから、日本の諜報員にきっと何かの指令をだすだろう。
翌日、竹下の私設秘書がヘイグに会いに来たという。盗聴のできない広間で話をしたいと主張して、「ヘイグさん、証書や証券は正式ではないですよ。従ってわが政府は買い戻せません。」と言った。ヘイグは横目でにらみ、「そうなの、ならば公にしてもいいの?」竹下の秘書は顔色を変えた。彼はもう一度竹下と話をすると言った。二番目のミサイルも的中した。翌朝、再び秘書がやってきて、「証明書の問題に関しまして、地方や海外から我々大蔵省へ多くの問い合わせがまいります。そして政府も対応に苦慮しております。」彼は一瞬止まり、「我々は問題の証明書の金額を確保するばかりになっております。あなたは、この交渉については完全に内密に取り扱ってもらわねばなりません。もし他の政府からも同様な要求がくると我々はその財政的に対応ができてないので大変な事になるでしょう。」結果的にいうと、ヘイグは大成功をおさめ、大金がころがりこんできた。しかし、どうしてヘイグはマイアミ、ワシントン、東京でFBIやCIAと、そしてホワイトハウスでブッシュ大統領と交渉できたのだろう。シュレイと違い逮捕も起訴もされずに・・・。連邦情報員はアメリカ内部でそれを交渉することや、交渉を意図することですら不正行為に当たるといつも言っている。もし全部の「五七年債」が偽造品だとしたら、何故ヘイグは成功したのだろうか?仮にヘイグのものが本物とするならば、何かヘイグは不法なことをしたのだろうか?日本の国債の正当性はその時のホワイトハウスの住人とあなたの関係でどうにかなるのだろうか?ノルベルト・シュレイが罠に落ちたのはヘイグが東京で交渉を決着したすぐあとなのだ。竹下が日本叩きを終わらせる条件の一つはきっと、多くのやっかいな疑いを追究していたシュレイをだまらせ、法廷から追っ払う事だったにちがいない。もしそうなら、ヘイグは間違いなくその件をブッシュに報告しただろう、ならばなぜシュレイがアー・ルー事件に巻き込まれたかは説明できる。ここに投資家のための教訓がある。ブラックイーグル基金と合流した金融債は世界の市場をただよったままだ、丁度、魅力的な鉱山が第二次大戦以降も残って企業や人を破産させたり没落させることができるように。もしいくらかの引換証書が偽造で、他に本物があるとしたら、逮捕や恐喝なしに、彼らが手にした証書が偽物としてはねつけられないよう、本物か模造品かを尋ねることは投資家や弁護士に当然の権利である。特に発行した政府が責任逃れをした過去があるならば、強く嘘の容疑がかけられる。ワシントン政府が自分自身の市民よりも他国の政治家を買収する事に大きな責任を感じるというセンスをみせつけられると、いったい誰を守っているのかとはっきりと問いたくなる。ワシントンの主な関心事は日本との秘密資金の共謀システムを保護し維持していくことだった。それは半世紀以上、十分に機能してきた。米政府職員の経歴と世評を保護することで混乱に巻き込んだ。最終的に何十億ドルかが日本の政治家の懐に入ったことは、どんなに多くがアメリカ職員のポケットに入ったかと比べればそんなに重要ではないのだ。権力が堕落するように、秘密の権力はひそかに堕落する。
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>>7361
黄金の兵士 第十章 THE UMBRELLA アンブレラ作戦
今日、フィリピン政府は、サンタ・ロマーナの存在自体を否定している。「それは伝説なのだよ。」と彼の家族に語っている。我々は彼の弟や愛人、子供にインタビューしている。彼の墓にも訪れ、そして数百の書類、録音テープ、ビデオ、目撃者の口座、結婚届、そしてCIA高官、マルコス一族のメンバー、サンティーの仲間からの確認、銀行記録、訴訟記録を蓄積してきた。(それらは、彼が六十年以上前から実在し、彼の莫大な現金や金の延べ棒などの富が世界中の銀行に眠っているという明らかな証拠となるのだ。)サンティーによる金の回収作業はM資金などの多くの秘密資金の財源になっていた。彼はマルコスが介入するまでアメリカのゴールデン・リリィー回収作戦の窓口だった。マルコスは彼を押しのけ、自分が新しい窓口になった。サンティーの回収が一九四七年(昭二十二)に終わった後、マルコスが同様の作業を始めるまでに二十年の中断があった。
一九五〇年代には日本人の小さな団体が色々な言い訳を言いながら金の回収するためこっそりとフィリピンに戻ってきた。ある人達は兵士の死体を捜し、日本で埋葬し直すためだと主張していた。日本は傷ついた国土を復興するため、山を通す様なあまり必要のないルートで道路や灌漑工事などの援助を申し出ていた。日本のサルベージ会社はマニラ湾に沈んでいる船の引き上げ撤去を申し出て、引き上げそして湾岸へ収容した。この作業は引き上げた船から急いで金の延べ棒を船積みする目的のためだ。日本企業は、フィリピン中で地面に大きな穴を掘らなければならないような奇妙な地域を選んで工場を建設した。工場が完成すると、フィリピン人はテレビ、カセット、コンピュータ、冷蔵庫、クーラーなどの組み立てラインで働いた。それらはとても頑丈な木枠の箱に入れられ日本へ船積みされた。CIAに情報筋によると、諜報員はこの様な方法で金の延べ棒がフィリピンから密輸されていることを承知していたが、邪魔はしなかったという。
マルコスが金を発掘したのは偶発的な出来事からだった。マルコスはルソン島北端、保養所のあるイルコス・ノートで、二人の日本人が山を掘っている事を聞いた。彼らは帝国軍人の古参兵だった。自分達のものがそこに隠されていたのだった。マルコスは彼らの金のバー(小さなもの)を没収した。鋭敏で若かったマルコスはサンティーの回収の話を聞くと彼を積極的に応援した。法律家だったことがマルコスをいろんな面で助けた。徐々にマルコスはサンティーの作戦、いわゆるアンブレラ作戦を乗っ取り始めた。一九六五年、マルコスは大統領になるやいなや、日本地下組織の首領、笹川良一に直接近づき、戦時略奪品の回収を共同でしないかと依頼した。児玉の旧友である笹川は、多くの巨大地下貯蔵庫の場所を知っていた。賠償金の大幅削減をするため、マルコスは気前よく大統領令を発することができた。宝探しをするというより、むしろ残り物をあさるというのがマルコスの典型的なやり方だ。彼はずい分古くてフィリピン人が食べると死ぬ可能性があるイワシの缶詰の大量輸入を躊躇せずに許可したことすらある。彼は日本のギャングを一儲けさせ、フィリピン人を貧乏にすることで財をなすことなど平気だった。一九七一年、マルコスが莫大な宝物を乗っ取った事をわずかな人だけが知っていた。しかし今やそれは世界中に知れ渡っていることだ。
その年の一月、フィリピン人の錠前師でアマチュアの財宝ハンター、ロザリオ・ロジャー・ロクサスが日本軍の掘った坑道にもぐりこみ、壮大な純金の仏像を発見した。重さは一トンだった。(現在だと二十五億円だ)着座した高さは二八インチ、明らかにビルマ風で、マンダレイで作られ徴発されたもので、数世紀の富の蓄積を物語っていた。その後にロクサスの身に起きたことがあまりにも奇妙なので、我々はハワイ州最高裁判所でのロジャー・ロクサス&ゴールデン・ブッダ会社対マルコスの裁判記録を大々的に取り上げ、この物語の土台にしようと思う。この裁判には四三〇億ドルの賠償金がからんでおり、民間としては裁判史上最大の賠償訴訟だった。裁判での実情調査は数千ページの証言やコピー、契約原本、写真、ビデオでの証言などから集められた。マルコス側の弁護士もロクサスの弁護団も即決する気はもうとうなかった。ロジャー・ロクサスはバグイオ別荘地での商売は芳しいものではなかった。しかし空いた時間に財宝探し協会の代表をしていた。その役職のために日本人訪問客とは何度も接していた。その中の一人、大久保・アウセビオ(Eusebio)がロクサスに、自分は若い頃、山下将軍の通訳をしていたと語った。そして、山下は終戦になる前の一年間に自分の旅団に命じ、マニラからバグイオへ大量の金や銀のバーを運んだと言うのだ。大久保は、バグイオ病院のそばの地下坑にはそれらの金塊を入れた木箱が積み重ねてあり、山下が自分の部屋であり本部として使っていた近くで純金の仏像を見たとロクサスに言った。スペイン系のアルバート・渕上はロクサスに自分の日本人の父親が財宝マップを残していったと述べた。渕上家は市場に野菜の売り場を出していた。彼が言うには、彼をバグイオ病院裏にある地下坑へ連れて行ったのは父親で、そこにはトロッコ用の軌道がひかれ、横の地下坑は金の箱でいっぱいだったという。
数年後、アルバートは調査を始めたが何も見つからず、頭にきてマップを燃やしてしまった。妹が地図は鏡に映してみるのだと気づき、彼は大いに怒られた。ロクサスは、戦時中メディナ・ゲリラ団の団長と共にルソン島で戦ってきたアメリカ人、ジョン・バリンジャーと友人だった。病院船富士丸がスービック湾で金属ケースを荷降ろしている所を写真に撮ったのはバリンジャーだ。富士丸から降ろされたケースはトラックで山中へ運び、洞窟の中へ収められ封印された。後になり、メディナの連中がバグイオへ潜入したとき、バリンジャーは日本軍兵士が病院近くの地下坑へ重い箱を運んでいるのを目撃した。ゲリラ達は手榴弾と機関銃で攻撃し、洞穴入り口の密閉部を爆破し、敵を中へ閉じ込めてしまった。バリンジャーは引退しニューメキシコで暮らした時、息子のジュネとアマチュアの宝探し好きのための新聞を作っていた。彼らは出来る限り何度もフィリピンを訪れることにしていた。旅行中、ジョン・バリンジャーはロクサスに、ゲリラ達が閉じ込めた地下坑の入り口はコンクリートのトーチカのそばだったと思うと告げた。しかし、彼は場所を特定することはできなかった。なぜなら、長い年月が過ぎていたし、トーチカは台風によって風化してしまっていたからだ。渕上、大久保、バリンジャー等からの報告で、ロクサスは地下坑の存在を確信した。
しかし、トーチカを捜すのに多くの時間を必要とした。そこは公共の場所なので、財宝探しの穴を掘るには政府の許可を必要とした。条件は発掘した財宝の三〇%を政府に渡すことだった。許可はマルコス大統領のおじ、バグイオ裁判所判事であるピオ・マルコスから与えられた。一九七〇年春、ロクサスと仲間達がトーチカ付近を掘っていると、破壊した地下坑の入り口と思われるものがみつかった。七ヶ月を要してそれを掘り返したのだが、死体からの悪臭で吐き気を催した。中へ入り込む前に、換気のために一週間は必要だった。入り口付近で、軍事無線、銃剣、ライフル、日本軍の軍服を着た遺骸をみつけた。失敗の繰り返しの数週間後、トロッコレールを備えた主坑道にたどりついた。そこには照明用の簡単な配線がされ、本物の地下坑だと確信できた。片方の先は分枝している。主坑道床の土部分の下に厚さ二十フィートばかりのコンクリート板を発見し、それを叩き割った。一九七一年一月二四日、彼らはそれをぶち破り金の仏像をみつけたのだ。高さは三フィートしかないがとても重く、床まで持ち上げるには鉄製のフレームにチェーン巻き上げ機を必要とした。ころがしながら外へ引きずり出すのには大変な苦労だった。ロクサスはトラックを借り、友人とともに仏像を自宅へ運んだ。奥の寝室の角へ置き、ベッドカバーで覆った。再び探索を開始して、今度は小さな木箱を坑道の床でみつけた。中を覗き込むと、二十四個の小さなビスケット状の金のバーがあった。一インチの幅、二インチの長さ、厚みは0.5インチだった。二四金でこの大きさだと重量は三〇オンスぐらいだろう。一九七一年時点でその価値は千五十ドルだ。(1オンス三十五ドル、当時のドルは三六〇円なので約三六万円)一箱でざっと二万五千ドルの価値があることになる(約九百万円)その近くでロクサスは、人工的に作られた部屋をみつけた。幅六フィート奥行き三〇フィートの中に数百の木箱が積み重ねてあった。どれも七五kg の金塊がぴったり入るビール箱ぐらいの大きさだった。
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708131 No.7363
>>7362
彼は中身がなんであるかわかっていたので、箱を開けはしなかった。すでにビスケット状の金塊取引で一財産を作っていたロクサスはいくつかの軍刀や銃剣、美術品と一緒に二十四個の黄金ビスケットを手に入れた。彼は大きい箱はそのまま残しておいた。何日か後、ロクサスは他の誰かが見つけやしないかと心配になり地下坑の口を爆破した。彼にとって安全に穴掘りを継続し、残りの財宝を回収するには、金の工面が先決であった。七つのビスケットを売り、金の仏像の買い手を探し始めた。それが間違いのもとだった。噂は瞬く間のうちに広がった。二人の有力な買い手がやってきて、仏像の首近くに穴をあけ分析を開始した。両者ともその仏像は一九四〇年以前のアジア標準純度である二〇~二二カラットであると結論を下した。一九七一年、エイプリルフールの日に第三の男、ジョー・オイハラが仏像を調べにやってきた。オイハラはロクサスに、自分はマルコス大統領の母の家に住んでいると語った。大統領の母はジョゼファ・エドラソン・マルコスと言い、狡賢く利己的との評判である。彼は念入りに仏像を調べ、買取りに興味があると言い、数日中に手付けの百万ペソを持って戻ってくると約束した。ロクサスはオイハラが首の部分に特に興味を持っていたことに注目し、彼が帰ったあと弟のダニロと一緒に頭部を回してみることにした。頭部に厚板をあてて、緩めるようにハンマーで動くまでたたいた。中はクッキー入れのような空洞で、三個のダイヤモンドが入っていた。ロクサスはダイヤをとりだし、別々に保管し、頭部をもとのように絞めなおした。
四日後の四月五日午前二時半、機関銃を担いだ八人の軍服の男がロクサスの家のドアをたたいた。国家調査局の犯罪調査情報員と名乗り、令状を持っているので中へ入れろと叫んだ。ロクサスはドアを開けるのを恐がったが、二人の男がガラス窓を破り、機関銃を室内に向け、三分以内にドアを開けるか、死にたいか、決めるように言った。ドアを開けるとそこにはオイハラもいた。男は捜査令状をロクサスにちらっと見せた「。中央銀行規定違反と銃器不法所持と」 書いてあるようにみえた。ピオ・マルコス判事の署名がある令状は、仏像とその他に取得した財宝を早急に法廷事務所の監督官のもとへ明け渡すよう命じていた。ロクサスは一人でいたわけではない。弟のダニロは騒ぎまくり銃底で殴られた。ロクサスと家族、ボディガードの二人の友人は、軍人が家を捜索する間、床に伏せているように言われた。彼らは仏像、ダイヤ、残っていたビスケット状の金塊、軍刀、コインコレクションそして子供の子豚貯金箱までも持ち去った。又、彼の友人が置いていった二二口径の壊れたライフルも押収していった。このライフルが後日、彼を武器の不法所持で起訴することになる。彼らは仏像も他の何も裁判事務所へは届けなかった。朝になり、ロクサスは地区の新聞社と警察へ強盗事件として報告した。そしてピオ判事に会いに行き、なぜ捜査令状に署名をしたのかを尋ねた。判事は甥であるマルコス大統領からそうするように命じられたと言うのだった。そして付け加え、警察や報道機関へ言うとは、自分から殺されにいくようなものだと言った。ひるまずロクサスは警察へ引き返し、公式に不服申し立て書へ署名した。彼はマニラ北部カバナツアン市へ行き、地方有力者の助けを求めた。そこで四人のボディガードを紹介され、隠れ家も手配してもらった。その間にバグイオの別の判事は捜査令状の指定どおり、仏像を裁判所の保管所へ返還するように軍部へ命じた。軍部は、マニラの熟練工が真鍮製の仏像を急いで作り上げるまでの二週間、返還を延期した。頭の取り外しができず、見た目もまったく似ていない真鍮の仏像がバグイオの裁判所へ納入された。数日後、ロクサスは大統領の母が送り込んだ二人の諜報員に追い詰められていた。彼らは、ロクサスが真鍮の仏像は自分が見つけた物のひとつだと一般に公表すれば三百万ペソ払うと申し出ていた。
四月末、ロクサスはフィリピン裁判所長官直々に発行した身柄保証書を持ち、四人のボディガード、裁判所からの二人の検察官、自分の弁護士、そして多くの報道陣とカメラマンを引き連れてバグイオへ仏像を調べに戻ってきた。裁判所で彼は仏像を調べた。そして勇気を持って(愚かにも)それは自分の見つけたものではないと発表した。まず、色が違っている、顔の形も違う、頭は取り外せないし検査のためにあけたドリルの穴もないと指摘した。報道陣は無名の一人の男が有名な大統領マルコス派閥に挑戦したことで衝撃をうけた。誰もが大統領、暗殺団、妻そして母の残酷さを聞いている。反対陣営、自由党のメンバーは選挙でマルコスに打撃を与える良い機会だと沸き立ち、ロクサスに上院の「金の仏像事件」調査会で証言するように説得してきた。一九七一年五月四日、ロクサスは上院で全面的な供述をした。マルコスは即座に、下品で政略的な目的の攻撃だと非難し、仇はとると宣言した。十四日後、キャバナツアンに戻り隠れていたロクサスは再び追い詰められ逮捕された。逮捕したのはマルコスが送った市民の格好をした三人の諜報員だった。彼らはロクサスにマルコスに会ってもらうと言った。ところが連れて行かれたのは国家警察署で、そこで拷問を受けた。そしてマニラ北部パンパンガのサンフェルナンド警察本部へ連行された。彼らは窓もない監獄の暗闇の中でロクサスに妻と子供の絵をみせ、もう一度会いたいのなら後援している上院議員のリストを提出し、残っている財宝の隠し場所を白状しろと脅した。ロクサスはそれを拒否した。彼は全身に電気ショックを与えられタバコを押し付けられた。そしてクラーク基地の近く、エンジェル市のホテルへ移され拷問が再開された。大きなゴム製の木槌で気を失うまで顔や頭を殴られた。彼は右目を失い、見た目は怪獣のようになってしまった。二週間にわたりホテルに留め置かれ拷問は繰り返された。一方で兵士は家宅捜査を平和的に行い、武器は持っていなかったとする宣誓供述書に署名するよう言われた。彼らがロクサスを拷問するように命令されたことなどは、取るに足らない様に見えるが、実際には考えられないほど残酷なものだったのだ。ある日彼はバグイオの法廷へ戻り、真鍮製の仏像と一緒に写真を撮らされた。その夜、ホテルの窓をこじあけ逃亡し、妹の家で頼りになる人を探した。彼は身に起こったことを上院議員に電話で報告し、再び上院で宣誓証言を求められた。その証言は一九七一年六月三〇日に行われ、拷問を含め、それまでに起こったすべてを報告した。彼がバグイオの家にもどると、マラカニアン宮殿への召喚状を持った男がやってきた。宮殿で、彼は財務局の職員カエサル・デユムラオに会った。彼が言うのには仏像の為に(三百万値上げして)五百万ペソを支払いたいという事だった。午後には金をもらえるというので宮殿にもどるつもりであったが、ロクサスは生命の危険を感じ、もどることをためらった。七月初め、彼は事情聴取に欠席したために逮捕された。一九七一年一月二八日以来未決だった武器不法所持の事情聴取で、彼は出頭拒否罪の短期拘留を命ぜられた。一ヵ月後、彼は反対派、自由党指導者であり、父親が元フィリピン大統領であった上院議員セルジオ・オスネナから送られた弁護士により保釈された。ロクサスはマニラヘ自家用機で飛び、トラックでミランダ広場へ向かった。そこでオスネナは、その夜の政治集会で話をするように求めた。マルコス反対派による集会は大観衆で混み合い、演台の上には有名な反対派の指導者達がならんでいた。数分後、手榴弾が二つ人ごみの中へ投げ込まれた。十名の市民が死亡、オスネナや七人の上院立候補者を含む六十六名が負傷した。我々がマルコス一族から聞いた話によると、手榴弾はマルコスの指令で、大統領保安部隊から派遣された男達が投げ入れたもので、そのひとつは保安長官ファビアン・バーの投げたものだという。
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708131 No.7364
>>7363
マルコスはこの攻撃を共産主義テロリストのせいにし、身柄保護条例を停止し、多くの候補者を左翼であるとして留置場へ送った。それは戒厳令への第一段階であり、事実その数ヵ月後の一九七二年九月、彼は戒厳令宣言を発している。大虐殺になるのを恐れロクサスはマニラを逃げ、十二ヶ月の間、身を隠していた。最終的に家に戻った一九七二年七月、自宅を監視していた二人の国家情報部員に逮捕された。ザンバルス地方の海軍基地へ連行され、牢の中へ監禁された。そこで地区司令官から金の仏像を発見した状況について質問を受けた。彼はマルコスが戒厳令を宣言するまでの三ヶ月間収監されていた。バー将軍がこっそりとロクサスの監獄へ会いに来て、自分は金の仏像を押収しにロクサスの家へ行った強奪メンバーの一人だったと言った。一九七三年一月、ロクサスは再びバグイオ裁判所へ連行され、銃不法所持の罪で起訴された。有罪となった彼はバグイオ囚人収容所へ送られ、少なくとも二回目となる拷問を受け、再び金の埋めてある地下坑の場所を質問されることになった。二年近く刑期を務め、釈放されて自宅へ帰った。その翌月、彼は復興支援事業所からきたという男性の訪問をうけ、バグイオ一般病院近くの財宝発掘の協力を求められた。もちろん、ロクサスはこれを拒否した。ロクサスの協力を得られなくなったマルコスは、彼の穴掘り仲間の一人、オリンピオ・マグバラを拷問して得られる情報に頼ることにした。ペンチでマグバラの舌を一人一人がひっぱった。それは彼が地下坑の入り口がどこにあるかを話すまで続けられた。病院の裏の地面を調べ、閉ざされた地下坑の入り口をみつけるために部隊が派遣された。病院の看護婦や患者達は、彼らの捜索を見物するための観客席まで作っていた。一九七四年のある日、病院のスタッフは兵士達が地面の穴の中からとても重そうな木箱を運び出すのを見た。彼らはトラックにそれを積み込んでいた。どの箱も四~六人がかりだった。大統領保安部隊から派遣された兵士達に加えて、フィリピン軍事兵学校の生徒も参加していた。いくつかの箱は腐って壊れていたので箱から三個の金塊が地面に落ちた。それはタバコケースの大きさだった。(七五kgの金塊だ)病院の職員の推定によると、一年以上にわたり毎日トラックへ十ケースは積み込んでいたという。すると概ね三六〇〇ケース、一〇八〇〇本の金塊(各七五kg)である。この間、護衛兵がそこらじゅうに配置され、誰も近づくことはできなかった。ロクサスは兵士達が地下坑をみつけ、彼が発見した金塊を盗んでいるのを知ったが、十分に訓練された兵士達には対抗することはできなかった。
一九七六年、彼は少なくとも暫くの間は運が悪かったとして家族とともに隠れ家へ引越し、十年ぐらいは何事もなかった。一九八六年、フェルディナンドとイメルダ・マルコスは米政府により権力を奪われ、ハワイヘ追放された時、ロクサスの存在が再び浮かび上がることになる。ロクサスが反撃できる時がやってくる。この話は第十五章で再開しよう。
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ロクサスが拷問を受けている間、マルコス大統領はサンタ・ロマーナに彼の大量な金口座の幾らかを引き渡すように圧力をかけていた。彼らの関係はずいぶん昔へ遡ることになる。家族の話によると、マルコスとサンティーが最初に手を組んだのは、マルコスが大統領になる前の一九六〇年代だった。サンティーはイメルダがミス・レイテだった時とても親密だったと話している。つまり始めは彼が自分の愛人ということでイメルダをフェルデナンドに紹介したのだった。当時ハンサムで力強いサンティーはイメルダの情夫だった。背が高くスキンヘッドでたくましく、その頬骨が張った東洋的な顔立ちは俳優のユル・ブリンナーそっくりだった。我々が持っている写真の一枚を見ても、白いネール・スーツに白い靴を履き、他の人を見下すように背の高い自然な気品を感じさせる男だ。友人達は彼を「品行方正で、いい性格の男だった。」と述べている。彼のカリスマ性は彼が女性にも男性にも魅力的だったことで作られたのだ。サンティーはセベリノ・ガルシア・ディアズ・サンタ・ロマーナだけではなく、多くの名前を持っていた。(今は引退してカバナツアンに住んでいる彼の弟、ミグエル・マイク・サンタ・ロマーナ判事はサンティーと顔が程遠いのだが、同じ家族の名前を使っている。)
サンティーがエバングライン・キャンプトンと結婚した時に父の別名であるディアズを使った。しかし、一九三八年のジュリエッタ・フェルトとの結婚届ではサンタ・ロマーナにもどしてあった。一九四〇年代後半に仕事上で使い始めた偽名は世界中の銀行証書に見受けられる。たとえば、ラーモン・ポーロッテ、ジョセ・アントニオ・ディアズ、ジョセ・アントニオ・セベリーノ・ディアス、J・アントニオ・ディアス、セベリーノ・ペナ・デ・ラ・パズ、マティアズ・コーネア、ジョセ・アルモンテ、サンティーなどなどだ。偽名を使うということは不法ではないが、どうしても怪しまれる。米国の法律では、偽名が詐欺に使われない限り不法行為とはみなされないことになっている。作家、俳優などの偽名は、生活する上で合法的な役割がある。日本の略奪物資回収の窓口としての彼は、CIAや財務省と仲間だった時、モナコで登記されたDNP・エンタープライズ(ディアズ・ナネティ・ポアロッテ)というトンネル会社を作り、その唯一の株主であり、支配者として偽名を使った。彼は世界中の銀行口座に何十億と持つのだから、ひとつの会社では十分ではない。
他にも、ナネッティ・エンタープライズ、コレット・エンタープライズ、モンティズマ・ディアズ・カンプトン・エンタープライズ、ポイロッテ・エンタープライズ、ディアズ・ポイロッテ・エンタープライズなどの会社がある。それらはマニラから世界の銀行へ金塊を移動する事を隠すために設立した中核会社だった。サンティーはリヒテンシュタインに、最初サンタ・ロマーナ基金と呼ばれる基金を設立した。それは後日、サンティー基金、或いはサンティー・アンタルトに組み込まれた。サンティーの旗艦、DNPエンタープライズのロゴマークは傘の骨組みを意味する開いた傘だった。しかしそれはロゴだけではなかった。アンブレラは、サンティーがフィリピンから世界へ金を移すためのグループに付けられた暗号名だ。我々のCDには大統領マルコスが手書きで注釈を書いたフローチャートを再現しておいた。それを見れば、どのようにしてアンブレラが、一九七〇年代後半までにCIA諜報員、マフィア親分、フィリピン秘密警察、マルコスの殺し屋を混ぜ合わせた強力な組織に成長していったかが明らかになる。
アンブレラ組織の一員にアメリカの億万長者、法を超越しているウォーレン・グローブスがいる。グランド・バハマ島のオーナーであり、そことナッソーのカジノはギャング団、マイヤー・ランスキーが運営していた。グランド・バハマの所有者の中でグローブスの仲間の一人は、パラマウント映画を支配し、ハーバード&チャーリー・アレンを経営するウォール街のアレン&COである。アレンはフィリピンに大きなベンゲット鉱山を所有し、ハーバートはマルコスとゴルフ友達だった。アレンはかつて、「我々は毎日、売春婦や麻薬売人、いかさま師や囚人達と取引してたよ。それはアメリカ建国以来のやり方さ。」と言っていた。複雑なやり取りの中、グローブとアレンは、グランド・バハマの利権の一部をマルコス渡す見返りに、ベンゲットの支配をほぼ独占させるという取引をした。このことで、アンブレラが戦時略奪金塊をフィリピンから持ち出す時、ベンゲット鉱山産出の金に見せかける事ができる。
ある時、金塊がナッソーの一流銀行に着いた。これはグローブスのカジノを通した麻薬代金洗浄などの役割の一部を担うもので、すぐに金の棒に取り替えられる。サンティーはその総額を知っており、一九七三年にその件を書いている。(一ヶ月に渡ったCIAとワシントンのエンタープライズへの訪問中に。)それには「ベンゲット社とバハマ社との取引はとても大きなものだった。そしてX、Y、Zグループはあっという間に数百万ドルを生み出した。」とある。アンブレラはCIAに認められ、多くの銀行の金取引仲介を業務としていた。ビル・キャセイやレイ・クラインのOSS―CIA合同を実現させたポール・ヘリウェルは山下金塊の海外持ち出しに関わった第一世代だった。一九五一年にヘリウェルは海上支援会社の設立を手助けした。早い話、黄金の三角地帯から国民党麻薬軍のヘロインやアヘンを運び出し、中国の国家主義者に供給するためだった。ヘリウェルはナッソーで設立していたキャッスル銀行、マーカンティル銀行から身を引き、グローブスと親密になっていった。ヘリウェルのキャッスル銀行はCIA公認の非正規取引銀行のひとつで、独裁者や軍閥、反体制アジア軍将校の不法収益の資金洗浄を引き受けていた。キャッスル銀行はケイマン諸島のIDコーポレーションと密接な関係がある。IDの唯一のオーナーは日系米国人のシゲ・片山で、ロッキード社が日本の政治家に支払った莫大な賄賂事件の時の鍵をにぎる一人である。キャッスル銀行に悪い噂がでてきたので、ヌーガンハンド銀行と呼ばれるオーストラリア人の一人が潰し取って代わった。ところが、退役した米諜報員と国防省の役人がCIA長官と法律上の協議をすると称し、船に監禁して連れ去ってしまった。ヌーガン銀行がつぶれ、幾人かが殺され、BCCIの構想が実現された。BCCIは最終的に一九九一年破綻し、CIAは長年にわたって隠れた作戦のための出費にBCCIを使ったことを認めた。(注・BCCI the Bank of Credit and Commerce Internatinalパキスタン系のイスラム銀行で、ルクセンブルグ籍1972 年、貧民救済を目的に掲げ設立。以後70 カ国以上の国々に進出し、国際的な業務を行ってきた.一方で、フィリピンのマルコス大統領や、パナマのノリエガ将軍などの独裁者、ビン・ラディン一族などの不正蓄財の舞台となり、イスラム諸国の大量破壊兵器開発の資金源ともなり、さらにはCIA のアフガニスタン作戦での資金仲介などを行ったとされる.1991 年経営破綻し、総額100 億ドル近い預金詐欺事件に発展。邦銀や日本企業にも多額の損害が発生した.)
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>>7364
あまりにも多くの記録文書が隠されたままなので、我々はサンティーの果たした役割は、窓口で進行係、排気弁だったと憶測するべきだ。謎の億万長者として楽しんでいたサンティーにあまりにも財政的なからくりをまかせすぎたため、CIAに拒否権が必要だった。黒い金(black Gold)がフィリピンから香港、チューリッヒ、ブエノスアイレス、或いはロンドンに移さなければならなかった時期は、我々が持つ航空便送り状、貨物送り状、損害保証金などの書類からわかる。それらは、闇の金がクラーク基地から空軍機で、スービック湾から海軍船で、フィリピン国際空港からキャセイ航空で、港湾から米大統領航路により商船で、というふうに運ばれたことを表している。アンブレラは金塊の行き先は勿論だが、機密を守ることに注意した。戦後、サンティーの大量の闇金がバチカンなどのイタリアの銀行へ投入されると、イタリアの共産党が権力を持たないように努力していたCIAに代りマフィアがそれに関わることになるのは承知のことであった。毎回、サンティー或いはサンティーの偽名の一つを口座名に使い新規口座を開設していた。あまりにも多くの偽名を使っていたため、たまに「名無し男」と見られたこともあった。これらの口座にアクセスするには、毎回、通常の銀行コード、パスワード、証書の束、サンティー自身の口座番号、ランスディールから教わった合言葉が求められた。
表面的にはサンティーがその口座の名義人であったが、その財産や派生的な取引は連邦準備銀行や英国銀行、日本銀行、スイス銀行の合意している秘密の目印を取り決め、諸政府に使われていたことがはっきりしている。決して明らかにはされないが、サンティーは口座の窓口としての見返りに、口座金額に応じた相応な歩合、かなりの営業報酬を受け取っていた。一年に十億ドルの一%を報酬としただけで一千万ドルを生み出す。最低で0.1%と考えても百万ドルだ。そしてその口座は何ダースもあったのだ。一九七〇年代まで口座はサンティーと密接に結びついていた。そして幾つかの情報源は彼の物だと考えていた。控えめに見積もっても合計額は五百億ドルをゆうに超えていた。(六兆円??)もしそれが彼の個人財産ならば、世界の大富豪の一人になるだろう。しかし決して国際的な富裕層になることはなかった。私は、彼が死ぬ前年にCIAの要人としてワシントンを訪れたことを、そして死に至るまでCIAに雇われ続けていたことを知っている。
彼はマニラとキャバナツアンに広大な家をもち、マニラのヒルトンにも部屋を持つという優雅な暮らしをしていた。しかし、自家用ジェットもフェラーリも買うことはなかった。彼は、銀行業界とスパイの間を除くとフィリピン外部では知られていなかったし、マニラですら社会的に目立つこともなかった。今まで誰もマニラの不思議な億万長者の物語を書いた者はいない。彼の仕事は冷戦構造の中でとても入り組んだ秘密の歯車のひとつだっただけだ。
CIA或いは米財務省の文書を参考にせずに銀行の内部文書が関わっている彼らの関係を拾い出してみると、どうしてサンティーが口座の名義人の地位にいたかを分析することは重要であろう。しかし、明らかに彼は名義人だったのだから。フィリピン内部で起こったことを把握することは容易だ。サンティーの金の一部は、マルコスが大統領選で勝つための助けになっていた。マルコスはその地位を得るため二十年間出費を続け、ついに一九六五年、実を結んだ。そのやり方は自著「マルコス王朝」に詳しく述べているが、彼はインドシナでの戦争が拡大する間にCIAと米国防省のお気に入りになっていた。マルコスが大統領になる前から、彼の選挙対策チームはランスディールのために働いていた。マルコスは宮殿に入る時、新しいマグサイサイ、つまり、親米家として送り込まれたのだった。
マルコスはホワイトハウスに対して、彼が香港、東京、台北、シンガポール、シドニーの銀行にあるサンティーの預金を賄賂として注ぎ込めば、東南アジアの指導者にベトナム戦争への協力が得られる様にできると説いて回った。それらの現金での賄賂は一晩で浪費される程度のものだったが、金引換証書などの派生商品の形式でその持ち主には莫大な預金の金利が手に入るものがあった。受取人として振舞っている間は、利息を引き出し続けることができた。しかし、仮に彼のことが気に入らないとなれば、その証書は偽者と宣告されるのだ。ちょうど、自民党が「五七年債」を偽造品と言ったようにだ。マルコスが大統領だったとき、彼はインドシナにおけるアメリカの戦争を支持していたが、それは自由のためにではなく、自分がマラカニアンに居続けられるように、アメリカと公共投資で取引をしたのだった。
一九八六年、レーガン大統領によって倒されるまで、彼はホワイトハウスのお気に入りだった。第一期の四年が終わる頃、彼の評判は散々だった。イメルダが週末のショッピングで百万単位の浪費をして、非難が沸き起こった。一九六八年に彼女と娘のアイミーはニューヨークの週末ショッピングで三百三十万ドルを散財した。そしてまた、税務署の記録から、イメルダが大量の預金をしたマンハッタンのシティバンクにはサンティーも大量の現金と金の貯蓄口座を持っていたことが明らかになっている。ある噂(後日、本当だと証明されたが・・)マルコスの給与自体は最低水準だったのに、海外の預金口座には数十億ドルが塩漬けになっていた。多くの批判にもかかわらず、一九六九年、マルコスは不正投票のおかげでもう一期その地位を勤めることになった。フィリピン憲法では三選は禁止されていた。憲法の改正に失敗したマルコスと防衛大臣は、一九七二年、政権に残るためには戒厳令を適用することが必要になり、共産主義の反乱をでっちあげた。そのハイライトは手榴弾によるミランダプラザの攻撃で、反対勢力へのテロ攻撃とロジャー・ロクサスを黙らせることだった。
格別ずる賢かった事は、マルコスらがサンティーにアンブレラの副長官と名づけさせたことだ。二十五年間も次から次へと同じ事をして疲れきったサンティーは酒に溺れていった。マルコスの制御ができなくなり、憂鬱になっていった。マルコスのお気に入りになり褒美にありつくのはCIA高官のトップに成り上がる新しく気まぐれな性格の奴ばかりで、中国で暴れ回ったり、汚い策略を使って冷戦の兵士として活躍したOSSでの昔の記憶などを共有しない連中だった。古い護衛兵達は彼を直接知っていたし、評価もしていた。マルコスはCIAの連中がサンティーの預金に気付かず数年間もそのままになっているのを知った。彼はサンティーにその休眠預金を譲渡させようと考えた。マルコスはサンティー基金には格別に執着した。マラカニアン宮殿では、肉体的な暴力は日常茶飯事だ。宮殿の一角にある「黒い部屋」で殺人や拷問がなされていた事は広く知られていた。大統領と対立した者はすべて酷い姿で暗殺された。目玉はくりぬかれ、バツ印のサインを付けられ死骸は路上に放置された。サンティーは急いで自分自身を守り、なおかつ、個人預金を大統領により押収されない手段を考え始めた。彼が協力を求めた者はタルシアナ・ロドリゲスという名のフィリピン人だった。彼女を彼が持つすべての会社の正式な財産所有者とし、何十億ドルという現金、金の延べ棒、金引換書、世界中にある貯蔵品や財産の信託者とした。
フィリピン裁判所へ提出された宣誓証書には、タルシアナが一九七一年八月にサンティーに初めて会った時のいきさつが説明してある。従姉妹のルツ・ランバーノ(サンティーの死ぬまでの最後三年間の愛人)に紹介された時、彼女は小さな会計会社で秘書をしていた。事実上、ルツは彼と結婚していたのだが、カソリックであるフィリピンでは離婚は許されないから、正式にはジュリエッタ・フェルトが彼と結婚していたことになる。ルツはサンティーに信頼できる会計係と帳簿係が必要だと思い、タルシアナの事務所へ連れていった。後日、タルシアナはヒルトンの彼の部屋へ主任会計士として訪問した時、彼が世界の金融界での重要な人物だと知った。「私は彼が重要人物だとすぐわかったわ。七十年代に普通のフィリピン人が五つ星ホテルに部屋をとっているなんて、とてもすごいことなんですもの。彼の部屋に行くと、銀行家、仲介人、仕事仲間とか、そりゃあいろんな人が次から次へと訪ねて来るのでびっくりしたわ。世界中の力のある銀行家の中で彼は有名人だったのよ。」その時以降、タルシアナはサンティーの中核会社の雑用兼会計係をすることになった。彼女は決して馬鹿な質問をしなかったが、彼の病的な癖には困っていた。ヒルトンに年間契約で住むようなゆとりがあるくせに、マグサイサイビルのCIA事務所から道路を渡ってくるとき、彼はどうしてあんなツギハギだらけの服を着ているんだろう?彼女はそのツギあては穴を補修しているものではないと知った。彼は狂ったフィリピンの与太者を装って、出入りする人々を監視していたのだ。マルコスがロクサスから金の仏像を盗み、彼を布切れのように打ち据えた後、サンティーはルツ・ランバーノと一緒にファースト・ナショナル・シティ・バンクのマニラ支店へ行き口座を開設した。(現在のシティ・バンク)彼女の宣誓供述によると、「四千三百万ドルの現金を銀行家ジェームズ・J・コーリン同席のもとで預金したのよ。小さな紙幣ばかりだったから、職員は六日もかかって数えたそうよ。」
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708131 No.7366
>>7365
めったにおこらないことだが、銀行員は忘れたのだろう。後になり、ルツが弁護士のメル・ベリーを雇ってシティーを訴え、金を取り戻そうとしたら、「コーリンはニューヨークへ宣誓証書を提出してたの。でもそれにはその口座の開設に関わったことを否定してたのよ、それどころかその取引自体までも否定して、一九七一年にセベリーノ・サンタ・ロマーナが銀行にやってきて、何かの事業を始めるのに少しばかりのお金を借りたいと話していった事を思い出したって言うのよ。」サンティーは四千三百万ドルものお金を持っているのに小さな勘定はないだろう。偽のボロ着を身にまとった風変わりな金持ちサンティーはフィリピン中の家や事務所の壁の中の秘密金庫に金を貯めこんでいたにちがいない。それらは日本軍が東南アジアで没収した通貨で東京へ返却されなかったものだったのだろう。マルコスを恐れたサンティーとルツは洗濯袋に金を詰め込み、シティ・バンクへ持っていった。そこが安全だと思っていたとしたら、とんでもない間違いだった。ルツの話によると、サンティーはそこで九個の貸金庫を借り、現金と宝石で中をいっぱいにしたという。マルコス一族の話では、軍事裁判の直前、サンティーはファースト・ナショナル・シティー・バンクのマニラ支店からニューヨークのシティ・バンクへ預金を動かし、八億ドルをフィリピンから海外へ振替えたそうである。しかし、彼はそんなにすぐにしたわけではない。一九七三年二月二七日、サンティーは
大統領個人事務室のあるマラカニアン宮殿に出頭させられ、マルコスにタイプで書かれた「遺言書」に署名をさせられた。この書面には、サンティーが「自分の資産、不動産、動産、他国の通貨、財宝、貸金庫の安全と貯蔵のための個人的な理由でいろいろな名前えを使用している」、とあった。さらに続けて、「私はマニラ、香港、カリフォルニア、ニューヨーク、アルゼンチン、シンガポール、台湾、ドイツ、オーストラリア、ほかのいろいろなアジアの国々の貸金庫に多くの資産を保有している。」遺言書には「私の妻、ジュリエッタ・フェルトを上記のすべての財産の後継者とし、私が死にいたった場合、全権力と権威のもとに裁判所の検認に従い、私の管財人を執行するための第三者を指名するであろう。」と銘記されていた。遺言書にサンティーが署名し、立会人は仕事仲間のジョーズ・T・ベラスケス、そしてマルコスの従僕、ジル・デ・グツマンと大統領秘書ビクタ・G・ニチューダだった。正式にジユリエッタ・フェルトを唯一の法定相続人にするものだったが、彼が死ぬとマルコスが容易に財産の管財人を指名できることになっていた。そうなればマルコスがサンティーの預金を支配できることになる。
数ヵ月後の一九七三年三月、他にも精神的な攻撃を受け、マニラから香港の香港上海銀行へ五億ドル移した。この合計、つまりニューヨークのシティバンクへ振り替えた八億ドルを加えると、彼はマニラの外へ現金で十三億ドル移し終えていた。同じ期間、彼は後日、日本の三和銀行に乗っ取られてしまうことになる一六四〇トンの金塊を香港銀行へ移送した。それからすぐ、レイテ島のタクロバンへの旅行中、ルツとサンティーは逮捕への恐怖からなのか、飲みすぎで大騒ぎをしてしまった。戒厳令の中、マルコスは誰でも逮捕することができる。タルシアナはサンティーからキャンプ・バンパスの軍事基地に留置されていると長距離電話で告げられた。彼はタルシアナに「噂話で」逮捕されたと言った。(マルコスが裏で噂を流していたのだ!)できる限り早くレイテに来てほしいとタルシアナに叫んだ。タルシアナがやってきたので、彼はシティバンクの支店長代理へ私信を運ぶように話し、貸金庫の鍵を渡した。ひとつの貸金庫には他の八つの貸金庫の鍵が入っていた。二番目の金庫にはタルシアナが貸金庫の支払いをするための現金が、三番目には彼女に持ってきてほしい宝石類が入っている。タルシアナが手紙と鍵を持ってシティバンクへ行くと、コーリンは出国していつ戻るか分からないと聞かされた。何年にも渡ってサンティーはCIAやランスディール将軍に格別に保護されてきた。しかし一九七三年、諜報部は大混乱に陥った。高官の多くは、「首になるか、左遷されるなんて馬鹿馬鹿しい。」と辞職していった。彼らの関心は、自分達の秘密組織か影のCIAを設立する事に集中した。CIAはよく「ザ・カンパニー」と呼ばれていたから、新しく作った影のCIAは「エンタープライズ」とでも呼ばれていたのだろう。(あとの章でもっと詳しく説明しよう。そして不思議な成り行きも・・・。)
この混乱の中、サンティーはランスディール、ヘリウェル、クラインなどと共に昔なじみとしてワシントンに招かれた。一ヶ月以上にわたり、彼らはサンティーと昔のOSSの話、例えばマオとの戦い、台湾脱出の話、どの様にしてCAT(クレイル・ケンナウルト・市民航空)をエアー・アメリカに変えたのか、或いはラテン・アメリカやアフリカ、そして鉄のカーテンの裏で行った数々の秘密作戦を説明し、大いに盛り上がっていた。彼はメイフラワー・ホテルへ帰ると、毎晩グラスを片手に椅子に座り、知りえた事を日記に書いていた。ところどころ日付や綴りが間違っているあわれな文章は、タルシアに言わせるとウイスキーのせいだった。その日記の中には数年後にようやくアメリカ市民が知るようになる数多くのCIA秘密工作の内容が説明してあった。
例えばどうしてCIAが自らDNPエンタープライズの様なものを所有したのか。アンゴラなど、極秘の戦争支援のためにどのぐらいの会社が、航空、海運、軍事物資の供給、傭兵などで存在したのか・・などなど・・。人々は、「沈黙を守るために年金を払うのだ。」と彼は言う。そして道徳的なジレンマを多くの諜報員の作戦で感じていたと述べている。「事件に対する倫理観があったかどうか疑問だし、戦時法はCIAには適用されないからね。」費用も法的な許可なしに使われ、諜報員への資金援助は彼らの好きにまかせた。サンティーは神経質になっていたようで、「ラングレー本部は時々、財産は確かに増えていると曖昧にほのめかしただけだ。」とある。日記の最後のあたりには、CIAとニクソン政権はアジア全体をだらしない所と確信しており、長期間の米国介入を正当化したと書いている。「強調したいのは、第三世界であるアジア独占企業の内部事情にあからさまなアメリカの干渉が継続していたことだ。」
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708131 No.7367
>>7366
さて、昔のサンティーの保護者が望んでいた物とは、今や彼らは自分達の私設CIAや私設の軍隊を設立している時であり、ワシントンが失っていた闇の金塊のいくらかを手に入れたかったのだ。彼らはサンティーが大変な金額の個人預金を眠ったまま所有していることを知っていて、それを自由にしたかったのだ。マルコス、CIA、新しい影のCIAの強い圧力に対し、サンティーは自分自身と財産を守るために次の段階へ進まねばならなかった。彼はフィリピンへ引き返し、よく考えた後の一九七四年八月一日、タルシアナへ電話を入れ、カバイト市へ会いにくるように求めた。彼女がやってきた時彼は、彼女に「すべての基金と有価証券、社債の管理と責任」を持ってもらうため、DNPエンタープライズの国内会計士として彼女を正式かつ公式に指名する書類を渡し、彼の旧友であり同僚のDNP エンタープライズ社長、ジョセ・T・バラスクィーズ・JRの助言をもとに、預金も企業への融資もその名前で行うことにした。彼は又、ウェールズ・ファーゴ銀行とハノーバー銀行にあるサンティーの口座をどうするかを指示した。彼女は、どうしてもっとふさわしい人を選ばないのかをたずねた。彼は「信頼できるのは君しかいないよ。」と言った。サンティーは善悪の区別を失いつつあったマニラ虐殺の後の苦しかった時期、小島大佐を拷問してから三十年がすぎていた。
ゴールデン・リリィーの地下金庫からの回収作業は一九四七年で終わり、彼はその歩合から大きな収入を享受し始めた。質素な生活を好んだので、彼の財産は今までに比べとんでもないものに成長していた。心優しい男の彼は、年がたつほど陽気になっていった。しかし、マルコスの裏切りと残酷さは彼にショックを与えた。それから、ワシントンでは、暗殺、誘拐、残虐事件、人間性を問われるような大きな詐欺などの話で彼を楽しませた人物と対決させられた。彼らにとって第二次大戦は終わっていない。彼は初めて自分が悪漢や暗殺団の雇い主であったと思い始め、それが彼を憂鬱な気分にさせていた。安全対策のため、タルシアナ、ルツ、ベラスクィーズの三人が預金をおろせるための口座として、香港銀行マニラ支店(後に香港中央支店)の口座開設届けの署名見本用紙に署名させた。彼はルツとタルシアナに彼のすべての偽名、会社、登記場所、彼の口座がある銀行すべてを記憶するように命じた。各銀行の口座番号、コードとキーワード、そしてその預金の引き出しに必要なすべての事務手続きを一覧表にして渡した。彼はいっそう深酒となり、肝臓は悪化した。八月後半、タルシアナは彼が「不安気で心配そうで・・・とても具合悪く、息も絶え絶えだ」と気づいた。一九七四年九月十三日、彼は倒れ、パセイ市のサン・ジュアン・デ・ディオス病院へ収容された。彼はベッド脇にいるタルシアナへ貸金庫を開ける時がきたと言った。彼は彼女に信託証書の保証約款を渡し、識別表と多くの説明書、彼の人生の「発掘と冒険」の話を書いたメモを渡した。九月二十一日、彼は病院で新しく四ページの遺言書を書き上げた。「私は時間がほしい。どんなにつじつまが合わなくてもこの遺言が日の目を見るようにしてほしい。」彼はマルコスに強制されて署名したマラカニアン宮殿の遺書の内容に言及した。この新しい遺言で彼は、使用中である莫大な香港銀行の香港本店と、他にシティバンク・マニラ支店の預金口座を挙げた。彼は銀行預金の受取人として全部で十四人の名前を出した。シティバンク・マニラ支店の銀行預金通帳から六千五百万ドル以上の配分を決定した。香港・上海銀行香港支店からは、二千万ドル以上と別に八百万ドルの配分を決めた。他に香港・上海銀行の一億二千万ドルはレイテの人々と、言い忘れた人達のためにとっておいた。又、サン・ジュアン市のシティ・バンクにある個人口座から五千万ドルと、別の一千万ペソを配分した。受取人の中には最初の結婚での二人の息子、ピーターとロイ・ディアス、スペイン名でペドロとロランドが含まれていた。(この自筆の遺言書はフィリピンと米国の裁判以前に検認されていただろう。そしてCDに載せてある。)
病院で十二日が過ぎ、彼の娘フロレデリッサ・タントコ・サンタ・ロマーナ(よくリザ・タンと呼ばれている)は父の看護から解放された。サンティーは病院を出ることを恐れたが、リザは彼が自宅で死ぬ事を望んだ。彼女が自宅のあるカバナツアン市へ連れていった数日後、彼はベッドの上で死んだ。肝硬変だった。マルコス一族に精通している情報筋によると、ランスディール少佐はすぐにシティ・バンクのマニラ支店に残っているサンティーの金の延べ棒すべてをニューヨークにあるシティ・バンク本店へ移すように手配したという。もし彼がサンティーの名前による法廷弁護人の委任状を利用したのでないなら、それを実行できた説明は困難だろう。動機のひとつは、たぶんマルコスが没収する前にゴールドをマニラの外へ持ち出したかったことだろう。又、別の魔法の杖をふるうことで、別の銀行にある大きな預金、特にその中で特筆すべきは二万トンの金塊が収められていると言われ、名義人の記録にサンティーが載っている口座がランスディール名義に書き替えられていた。(UBSの証書にはあきらかに合意のもとわざとLandsdale と綴られていた。)ランスディールはその預金をより巨大なCIA、或いはジョンバーチ協会とか世界反共連盟などの保守陣営の権力者とエンタープライズ社の支配に委ねたのだろうか?その回答はあとで確かめよう。仮にマルコスがサンティーの死で預金すべての支配をマルコスの与えられると考えていたとすればがっかりであろう。マルコスとCIAやホワイトハウスとの関係は険悪になっていった。マルコスはその預金に関わることができると考えていた。CIAとホワイトハウスは彼を操ることができると考えた。彼らはどちらも正しかった。回収する財宝がある限りサンティーの休眠口座はそのままにされていただろう。
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708131 No.7368
>>7367
黄金の兵士 第十一章 POINTING THE WAY 道案内
サンティが死んだ一九七四年、雑誌や新聞はマルコスのことを数百億ドルを手に入れたアジアの大金持ちの大統領と呼んでいた。不思議なことに富の源は説明されていない。聞かれると、ニヤリとし、実は山下将軍の金塊をみつけたんだと話すのだが、人々は冗談だと思っていた。しかしマルコスは地下金庫に積まれている金塊を多くの人に自慢げに見せていた。その中には奇妙な刻印の物もある。もうこれは冗談ではあり得ない。CIA冷戦兵士の初代メンバーの一人で、サンティの回収のすべてを知るジョン・シングローブは、マルコスの百二十億ドルの財産は実際のところ山下の財宝によるものだと保証した。彼の財産がその様に膨らんだのは、竹田皇子の従者、フィリピン人のベン・バルモアの出現と、戦時中に作られたゴールデン・リリィの地下金庫とその明細書によるものだ。マルコスの探査部隊がテレサー2や沈んだナチ船、他の地下金庫からの財宝を回収できたのはベンのおかげだった。私達が最後にベンを確認できたのは一九四五年六月で、八番坑道というバンバングの地下坑で一七五名の主任技師達がお別れパーティーを開催中に生き埋めにされた時である。竹田皇子と山下将軍は深夜に洞穴を去った。強力な爆弾がしかけられていたのだ。皇子はベンを洞穴の中に残すことを拒否した。山下は呆れて怒っていたが、彼を地表へ連れ出し安全を守った。数分後、大きな爆発が地表を揺るがした。
「キムスは戦争が終われば僕を家に帰すとパパに約束したんだ。」とベンは我々に語った。「キムスは、山下が僕を中に残そうとしたのを許さなかった。僕達が叔父の家まで行った時、キムスはその夜、潜水艦で日本に帰ると言
っていた。彼は僕に軍刀と上着をくれた。彼は僕の性格は替えちゃいけないよと言ったんだ。いつでも親の言うことは聞いて、そして彼に忠実だったことに感謝してた。それから彼は地図の入った小型のカバンを私に渡し、地中に埋めておけ、私はいつかここへ戻ってくると言ったんだ。」皇子は夜の闇に消えた。言われた通り彼は頑丈な木箱へカバンを入れ、叔父リノの家の裏に埋めた。三ヵ月後、山下は降服した。カバンを掘り出すまでに何年も経っていた。それまで、デュラオやバンバングの周りは米兵でいっぱいだった。ベンは彼等に雇われ、野営場の調理場仕事をもらっていた。錆びた刀と勲章は、GIに売り払ってしまった。
ある時、インディア部落の森の中にたくさん隠してある日本軍のトラックを水牛の荷車で引きずり出し、デュラオまで持ってゆき、その中の十五台をGIに五ドルで売った。当時五セントもあれば、十分に食事がとれたのだ。アメリカ兵が去り、カガヤン渓谷に再び平和が訪れ、ベンは竹田宮の刀と軍服を取り出してきた。白い上着は彼に良く似合った。左胸にはまだ菊の刺繍があり、父が人々から反逆者と呼ばれるぞと警告を受けるまでずっとその上着を着続けていた。しかし、その後は家の中だけで着ていた。日本刀は収穫の時に稲の刈り取りに使い、刃先がなくなるまで使った。彼はその刀が明治天皇から竹田皇子が拝領したものだとは知る由もなかった。二十年以上過ぎても竹田は戻っては来なかった。竹田はベンに対する将来への保障として金塊でいっぱいの大きな鉄製のトランクを二つ埋めていった。それはピンキアン橋の袂、大きなマンゴーの木の下に立坑を掘り、荷車五台で運び五十人の兵士が引きずって埋めたものだった。竹田はベンに言った。「戦争が終わったらこの箱を掘り出すのだよ。そして大きな農場を買ってデュラオでも飛び切りの美女と結婚し、たくさん子供を生ませなさい。」と。しかし、アメリカ兵が去るまでは怖くて近づくことができなかった。一九四九年、叔父リノの知り合いでバニッツというマニラの弁護士がバンバングへやってきた。彼は、戦時中サンフェルナンドで日本人と一緒にいたフィリピン人を探していると言った。叔父のベンは、それなら私の甥っ子に違いないと答えた。ベンはいつも宝物を掘り出したがる頭がおかしい子だと彼は言った。「行こうよパパ、ここを掘ろうよ、ここだよ。」なんてね、とリノは物まねをしてみせた。「ベンは財宝を埋めた所を知っているけど、彼の父は、危険な罠があるから触れてはならないと言っていたよ。」野良仕事から帰ったベンは、宝物のことは何も知らないとベニッツに答えた。弁護士のそばにいたリノはベンに竹田宮が残していった二つのトランクを思い出せと言った。それを聞いた弁護士は興奮して、すぐに皆でピンキアン橋へ行きトランクを回収しようと言い出した。ベンは秘密を守れるけれど、弁護士は赤の他人だ。次の早朝、彼らはピンキアン橋の袂の部落まで農場学習労働者と共に車で出かけた。部落の地区長である長老が出迎えた。ベニッツは市長の出迎えに気づき驚いたふりをして、「これはこれは市長さん、私達はとても大切な仕事で参りました。」と言うと、市長は「まあ、あがってちょ。」と答えた。
ベンは他の者と冷たいポテトの朝食をとるため下に残された。二人の策士がもどり、市長がベンに言った。「あんたは知ってるか?あんたら市民は金を持つということはできんのだわ。半分づつ分けることはだめだと言っとるんだ。うちの政府は許さんでねえ。私らにそれを差し出すなら、謝礼として金の棒一本ぐらいならやってもいいが、どうだ。」ベンが弁護士のベニッツを見ると、彼は重々しくうなづいた。「いいさ。」ベンは言った。「行きましょう。何もくれなくていいですよ。私は箱の中身が見たいだけですから。」彼は川のそばへ連れて行き、マンゴーの木ではなくてアカシアの木へ連れていった。そして皆が一日中掘っているのを眺めて、ほくそ笑んでいた。やがて陽が落ち、彼らは波も発見できなかった。ベンは言った。「多分、日本軍が掘り出して他のどこかへ持っていったんだよ。」と。ベニッツは、木を見上げて言った。「お前はマンゴーの木下と言ったが、これはアカシアじゃないか。」ベンは、「その木がマンゴーだと思っていたんだ。」デュラオへ戻る道中でベンは弁護士に語った。「あなたは私を騙せると思っただろうが、あなたの事を早くわかったので私は助かりましたよ。」帰宅して、ベンはリノおじさんに、彼ら二人がしようとした事を報告した。ベニッツは言い訳にあけくれた。そうしている彼らを残し、ベンは外へ出て大笑いをした。ピンキアン市長に捕らえられたり拷問されたりすることを恐れ、ベンは何年もそこへは行かなかった。その河は新人民軍の勢力圏内だった。ベンは共産軍にさらわれたくはなかったのだ。
一九九九年、ベンはついに友人とそこへやってきた。大きな台風のせいでピンキアン橋とトランクが埋まっていた堤防全体が流されていた。もちろんマンゴーの木もなかった。トランク一個の重さは一トンもあり百万㌦の価値がある。彼らは泥で埋もれたピンキアン川の下流にいた。農園にするにはぴったりだろう。キムスは可愛い誰かと結婚しろと言った。ベンは結婚し子供もあった。最初の結婚を経て再婚し、二人の娘をもった。彼はとても優しかった。しかし戦後二十年以上過ぎても貧しい農民のままだった。彼はデュラオに小さな家を持っていた。ちょうど日本兵数百名が隠匿した場所だ。しかし彼はそれを発見する幸運には恵まれていなかった。彼が何かしようとすると、いつも騙されるか盗まれるかだった。ある静かな夕刻、彼は円錐形の丘が点在する山間の渓谷を眺めながら座っていた。キムスがくれた地図は家の裏に埋めたままだった。彼は何度も鞄を掘り出した。判読すること自体は簡単だった。しかし、意味がわからない。しかたなく鞄に地図をもどし、再び埋めた。ただし磁石(コンパス)と望遠鏡は出したままにした。宝探しの連中はその様な地図が存在することを知っていた。それらは三種類あった。白表紙には一般的な各施設の位置が示されている。ベンが持っていたのは赤表紙で、暗号を解読すれば、回収に必要なすべての情報がわかる。技師が書いた青表紙には、技術的な言葉の説明付で詳細な情報を解説している。いくつかの白表紙は教会で見つかり出回っていた。しかし地下金庫や深さを特定する必要な組み合わせを与えていなかった。
一九五三年、七名の若い日本人がベンのところへやってきて、彼の持つ地図を買うと申し出た。彼らは戦争の体験があるには若すぎる。しかし、何故か地図がベンの所に残っていることと、デュラオにベンが住んでいることを知っていた。多分彼らは竹田の息子の友人か、竹田皇子の息子だったのだろう。彼らは自分が誰なのかを説明しなかった。ベンは財宝の地図について何も知らないと否定し、どうして会いに来たのかを尋ねた。彼らは笑いながら、「私達はあなたのことを知っていますから。」と言い去って行き再び現れることはなかった。戦争が終わり、宝探しが村の主産業になった。日本人が金塊を隠した場所を知っているフィリピン人はポインターをよばれた。各村にポインター、金中毒者、反対者、地域の長老や伝道師がいて、秘密の地図や目撃した記憶をもっていた。大きな収入になりそうだと見ると、秘密の場所へ案内してくれ、掘る所をみせてくれる。彼らは絶妙なタイミングでお客があきらめるころに別のカモを探すために雲隠れするのだ。ベンはポインターになる気はなかった。彼はキムスとの誓いを守った。ただ、父親にはバンバング付近の施設について話をした。ベンが見てきた記憶は消えていない。どうやってキムスと各施設へ行ったのか。そしてどんな風にキムスが青表紙の図面を持ち、歩き回るところを眺めていたのか、地下金庫を閉じる命令を出す前に最終的な一覧表を作ったことも覚えていた。くだらない財宝探しの連中がベンに詳しく話すように圧力をかけてきたが、彼は口をつぐんでいた。彼はただの目撃者ではない。生き残った戦時捕虜、逃げた台湾労働者、ジョーン・バリンジャーの様に日本人が金を隠匿するところを見ていたアメリカ人やフィリピン人もいくらかはいるのだ。森林地帯の牧草所有者の家族が回収に成功したという噂だった。彼らはバンバングの要人になり、町に三階建てのビルを建て大きな三つの衛星アンテナからTVを受信しTV会社を運営した。ベンは皇室の地下金庫、一七五箇所すべてを贈呈できる唯一の男だ。そして彼は貧乏のままだ。
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ある時彼は小さな高さ四インチの金の仏像を掘り出した。小さな農場を買う事ができるのに、値打ちが分からないためにラジオと交換してしまった。彼が二十二歳になった時だった。彼はつつましくよい性格で妻と子供にやさしく、いつも笑みを絶やさなかった。一九六〇年代半ばになりマルコスが国内外で公に戦争状態が和らいだ日本人と財宝の回収に乗り出し、大勢の日本人が財宝を求めてフィリピンに戻り始めた。小さな集団が毎年カガヤン渓谷にやってきた。あるチームはバンバングの共同墓地周りを調査していた。そこは、キムス配下の労働者達が深い穴と七七七番地区と名付けられたとても大きな円形の地下貯蔵庫へ降りていくトンネルを掘っていたのをベンが見ていた所だ。そこは八番トンネルと九番などを含む複合施設の一部分だ。ベンはその人達をひとりも知らなかった。そしてある日彼らはいなくなった。村人は夜のうちに切り取られた木を共同墓地の傍でみつけた。そして三つのトランクの蓋は開けられていた。彼らはそこにいくつかの金の延べ棒が隠されていたのをはっきりと見た。金の延べ棒の周りに木が生えていたのであり、木の中に金の延べ棒があったとは思わなかった。
一九六八年末、マルコスは日本へ使節を送り、もっとたくさんの回収をすすめるために共同開発を求めた。その使節には情報長官フロレンティノ・ビラクルシス中佐、フィリピン軍統制官、准将のオノファ・ラモスと他に三人の将校がいた。その使節は、マルコスが発掘した一定部分を日本に割り当てる見返りにゴールデン・リリィの財宝地図一式を求めた。もし日本政府が協力しないなら、日本企業を全ての島から追い出してやると警告した。マルコス大統領は就任して最初の二年間、東声会の長、児玉と町井久之に率いられた日韓ギャングによる海底発掘を公認していた。他のパートナーに児玉の巣鴨仲間、億万長者の親分笹川良一がいる。彼は競艇を舞台にした賭けスポーツ界の有名人の一人で資金洗浄には都合がよかった。彼の本当の富はスカルノ大統領やマルコス大統領と共同してインドネシアやフィリピンの戦時略奪品回収を分け合って作った秘密資金からきていた。「私とマルコスとはとても親しいよ。」と笹川が記者達に言った。「大統領になるずっと前からね・・・。」笹川は、たまたまゴールデン・リリィー施設を含めた財宝の中でマニラ湾に沈んでいる那智丸の場所を教え、引き換えにフィリピンで死んだ日本兵の共同墓地と慰霊碑の建設を許された。「私は個人として、フィリピンに墓地を提供してもらうために十分な最大級の文化会館を寄付してやったよ。正確に言うと四万袋分だぜ。(一袋いくらかは不明)」と自慢した。
ビラクルシス・チームが東京へやって来た時、児玉と笹川はゴルデン・リリィーのリーダーだった秩父宮は一九五〇年代初期に結核で死んだと彼らに伝えた。そして、ビラクルシス達のために、秩父宮と一緒に活動していた別の皇族と秘密会談ができるように手配した。ビアクルシス一族の話では、その人は「裕仁の従兄弟で最高位にいる将校」ということだ。日本情報部の最高位に位置する陰の人物はラモスとビラクルシスに語った。日本はフィリピンで一千億ドル以上の財宝を隠匿してきた。そしてそのすべてを回収するには百年以上かかるだろうと言ったのだ。この会談の記録にはビラクルシスによって市原公爵とだけ記されている。(裏では音声的にスペイン語でロード・イチハラと綴られている。)
後にマルコスが権力を失い大統領安全命令の多くの文書で東京の市原公爵との秘密の接触に言及している。その文章は、市原公爵が、一九四二年~四五年の間、ルソン島での隠匿作戦において秩父宮グループの鍵を握る一人であり、ゴールデン・リリィの生き字引であることをはっきりと示していた。彼は戦争中に児玉や秩父宮と働いていた高級情報将校のようにみえる。しかし、市原公爵を特定する努力は失敗に終わった。名前が一般的であり、いろんな綴りで書けてしまうからだ。戦後SCAPは貴族の称号を捨てさせた。だから一九六八年にその様な称号の使用は時代錯誤であった。彼は皇子ではなかったかもしれないが、伯爵か男爵だったはずだ。市原公爵というのはフィリピン人に彼が本当は誰なのかを隠すための偽名だろう。或いは戦時中の行いが評価され戦後になって裕仁からこっそりと称号をもらい公爵になることができたのかもしれない。私達は市原公爵が竹田宮の偽名だという可能性を考えてみた。しかし、二人は同一人物ではないと結論をだした。市原公爵がマルコスと共謀しようという意志は竹田皇子の個人的な正義感とは一致しない。キムスはベン・バルモアをマルコスから隠そうとしたが、市原公爵はベンへ彼を引き合わせた。ある日本情報筋は、シンガポールやマニラでの中国人虐殺や連合国パイロットの肝臓を食べたと罵られた悪名高い辻正信大佐に違いないと語った。華人殺害の後、彼は帝国監察長官の肩書きでマニラへ紛争調停役として送られた。形式的にあてはめるなら、辻はパターン死の行軍に責任をとるべき首謀者であり、穏やかな本間大将を出し抜き、行軍中の連合軍捕虜を殺すよう陸軍将校をけしかけたのだ。彼は帝国海軍の支配下では、海軍の肩書きである大佐として扱われた。そして陸軍支配下では、軍服を変えて、やはり陸軍大佐だった。二年間は飛行機で東京との行き来をして、ガダルカナルや他の戦闘に出現していたものの、一九四三~四四年の殆どをルソンで児玉とともにマニラ郊外のゴールデン・リリィー財宝貯蔵庫の監視をしていたと言われる。一九四四年後半、辻はビルマとタイへ移動し一九四五年八月の日本降伏時は捕虜にならないようにバンコクにいた。辻かどうかは別にして、市原公爵は一九四二年の半ばに海軍の軍服を着てマニラに着いたのだった。
日本船はマニラ埠頭で略奪品を降ろし、トラックを連ねてボナファシオ要塞へ向かった。サンティアゴ要塞と同じくボナファシオもスパイや工作員の疑いがある捕虜でいっぱいだった。ボナファシオを訪問中のことだ。市原は、国旗掲揚台に後ろ手でしばられ、日本語で汚くわめいている囚人の前を通った。驚いたことに囚人は流暢な日本語で答えた。市原はどうして日本語を喋るようになったのかを聞いた。囚人は母がフィリピン人で父親はマニラの大使館に所属していた日本人将校だと答えた。「お前の名前は?」と市原が尋ねると「レオポルト・ギガと言います。」と答え、友人はポールと呼んでいると付け加えた。「『ギガ』は日本名だな。」と海軍大佐は言った。実際のところギガ少佐は一九二八年に満州の軍閥張作霖の暗殺を手伝ったことで有名だった。これはギガの父がもらしたのだが。ギガ少佐は東アジア全域で日本情報将校として活動していた。一九二〇年代前半マニラに駐留しそこでフィリピン人と結婚し息子をもった。少年は成長し日本語、英語タガログ語を話した。しかし彼の父は上海やムクデン(Mukden)の任地に赴き彼は取り残された。一九三八年、ギガ少佐自体は暗殺された張作霖の息子が送り込んだ刺客により殺された。市原は囚人の紐を解かせ自分の管理下に置いた。それ以来ギガは通訳兼情報係として雇われることになった。彼の忠誠心と冷酷さを試すために頭巾をかぶせ、ボナファシオの囚人全員と面会させた。ギガと市原がテーブルにすわり、その前を全員歩かせた。頭巾を被ったままのギガは、アメリカのために秘かに活動している男をみつけると頷いた。そしてそれらの男達は即刻処刑された。
タガログ語で裏切り者は「マカピリ」という。しかし頭巾がギガの正体を隠した。それ以来ポール・ギガはルソンでの市原の子分になった。マニラ市にあるサンティアゴ要塞などの四つの財宝貯蔵庫や罠を技術者達と設計したのは市原だった。ポールはカーバイト市から電気工事技師を手配し、罠の配線作りを手伝った。市原がマニラから陸軍指揮下の田園地帯へ活動範囲を移した時、彼は陸軍大佐の制服に着替え、ギガには日本の第十六技術師団少尉の階級を用意させた。ギガは地下抗技術を日本で半年間学んだと言った。しかし、ギガは場所に合わせて色を変えるカメレオンの如く絶えず話を変えることがわかった。二十五年が過ぎ、市原は東京でビラクルシス大佐に、マルコスへゴールデン・リリィーの財宝地図の全てを渡したいのならポール・ギガを探すことだと言った。その後、ビラクルシスは竹田皇子の従者をしていたベン・バルモアを探し出すことができた。皇子の説明では、日本へもどる潜水艦が沈められるという想定される中で、すべての地図はベンの所に残してきたということだ。市原はビラクルシスに、ギガはフィリピンでコルゲート歯磨に雇われていると語った。だから市原は戦争以降ギガと接触していたことは間違いない。市原はギガがコルゲートの収入を補うため、日本人の金堀りグループの通訳やポインター、黒幕として仕事をしていると言った。ギガは日本人が余分な不信感を持たない様に、車、堀削機、発電機、ドリルなどを借りていた。
ビラクルシスはどの様にしてギガが本物のベン・バルモアを見つけたことを知ったのかを聞いた。市原は言った。彼らはベンに直接竹田宮と電話で話しをさせ、その会話を全部聞いたという。もし彼が本当にベン・バルモアならばすぐにわかることだ。東京から戻るや否や、ビラクルシスは急いで諜報員をコルゲートへ送りギガを探し、大統領令で彼を引っ張った。怯えたギガは問われるままになった。ベンを探し出すことは難しいことではないとギガは言った。戦時中に竹田宮と一緒にいる所を何度も見ているし、そして彼等はバンバング郊外のサン・フェルナンド・バリオ地区を拠点にしていた、ベンの家族もその近辺に住んでいたはずだ。そうしてギガはバスに飛び乗りコルゲートから出発していた。一九六九年一月早朝、ギガはデュラオのベンの家をノックした。ベン・バルモアは彼が誰なのかまったく思い出せなかった。ギガはベンに、戦時中ゴールデン・リリィーの色々な施設で話をしたじゃないかと、言った。そして自分は財宝の目録作りにも関与していたと話をした。しかし、目録作りは竹田宮だけが関わったことをベンは知っていたので、それは真実ではないとわかった。そしてギガに会ったことがない事を確信した。ギガはいつも日本の軍服を着ていたと言っている、それではどうすれば他の兵士たちの中でギガを思い出せるだろう?最初から二人の関係は緊迫していた。ベンはギガがひねくれ者で信用できないと感じたからだ。後日ベンは、ギガが誰に対しても、自分は皇子の従者で、財宝の地図を(ベンではなくて)自分がもらったと話しているのを知った。ギガは戦争の後、地図の入ったカバンは燃やしてしまい、今はコピーがあるだけだと言っていた。ギガは一ヶ月千ドルの手付金でどこを掘ればいいのか教えたのだろう。我々の調査員が一九八六年、彼を問い詰めると、ベンは前年に死んでいて、彼と自分はともに日本人とフィリピン人の混血だと主張した。これはどちらも嘘だ。それから彼は終戦の週にベンと共にいかにしてバグイオで山下将軍から地図を盗んだのかを詳しく語った。
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708131 No.7370
>>7369
ギガはデュラオに数週間滞在し、何とかベンを説き伏せようとした。ベンは受け流すため、イロカノ語でしか話せないと偽った。ギガはベンが初歩的な日本語は習っていたのを知っているので日本語で切り替えした。マルコスの使者として来たのであり、慢性的なフィリピンの貧困を救うために金の回収が必要で、そのためにマルコスはベンの地図を望んでいるとベンに語った。ベンは、マルコスは悪魔だという噂や、新聞でイメルダの数百万ドルに及ぶ買い物の馬鹿騒ぎを知っていたので、信じることはできなかった。するとギガは豹変し、もしもベンが地図を差し出さないのならば、大統領国家安全令で兵士がやってきて、ベンも家族もビリバッド刑務所へ連行され、逮捕されて娘はレイプそして全員が殺されると脅した。それでもベンは拒絶した。彼は家族のことが心配だったが、キムスへの誓いがあったのだ。キムスが日本へ帰ってすでに二十三年が経過していた。ベンは三十年間、地図を守ろうと誓っていたのだ。あと七年あった。皇子は二度とこないし接触もなかった。キムスは死んだのかと思った。そうだとしてもキムスの本当の名前は誰にも言わなかった。秩父宮、三笠宮、朝香宮の名前も一度も出したことはない。それでも、ついにベンは家族を守るために歩み寄ろうと決心した。ある朝、ベンはカバンを掘り出した。まず技師の書いた青表紙(ブルーシリーズ)を取り出し、ビニールで包み、頑丈な箱に入れて大急ぎで埋めもどした。次に赤表紙を再検討した。全部で一七五種類ある。彼は三箇所の気に入った施設を自分用に取り置くことにした。それは八番坑と九番坑でバンバングの近く、マニラ東方のモンタルバンだ。赤表紙の地図は丈夫な紙に書かれ、仕上げの後にしっかりと蝋引きしてあった。その図面は地形を三次元で示していた。黒澤明の古い映画「七人の侍」をみた人は、村人を賊から守るために侍達が描いた同じ様な地図をみたことであろう。図案化して描かれた物は命に関かわる情報の暗号である。日章旗が右か左へたなびくのは、その方向へ行くか否かを示している。二つかそれ以上の針を持つ時計の絵は、向かう方向の深さ、そして罠に関する情報を表す。他の記号は各施設のどこに財宝があるのかを教えている。最も重要な事は、赤表紙の地図は各施設の起点を表示していることだ。起点が分からなければ正しい深さと方向は絶対にわからない。(いくつかの赤表紙の地図はCDに公表してある)
残った一七二箇所の赤表紙の地図で、ベンは小さいと考えた所と非常に難しい所、四十箇所を選んだ。もし脅されたり家族に危険が及んだら、その束をギガからマルコスへ渡せばいいのだ。数日後ビラクルシス大佐自身がベンの家にやってきて深夜にも拘わらず「ベン、ベン」と大声で叫んだ。ベンは彼を中に入れた。キムスと約束しているので応じることはできないとベンは言った。ビラクルシスは「君の気持ちは尊重するさ。」と言い、力ずくで地図を取ろうとはしなかった。しかし、「大統領にだけは地図を見せなくてはならないので、私とマニラへ行ってもらいたい、その後で君に返すからね。」言うまでもなく選択の余地はなかった。ベンはビラクルスに四〇の小さな施設の地図を手渡した。彼は夢中でそれを見て、他のも見たいとは要求しなかった。すっかり怯えながらベンはビラクルスが用意した軍車両に乗せられ古い皮のケースに地図を入れ山を降りていった。マラカニアン宮殿ではなく、軍
の支配者であり、ビラクルシスと一緒に東京へ行き児玉、笹川、市原大佐と会談した軍司令官、オノフリオ・ラモスの自宅へ行った。厳重な基地司令部の将軍事務所にはタバコ臭いデブデブの悪漢達が待ち構えていた。マルコスの閣僚も含まれている。ラモスは主人面をして飲み物を回し語った。彼らは非常に機嫌がよかった。
次なる問題は、マルコスに会わせるためにすぐにもベンをマラカニアンへ連れていくかどうかだった。ラモスは怒鳴った。「もし俺があんたならベンを渡すようなことはしないぜ。鍵をもったんだ。鍵を持った以上、なんで大統領にベンを渡さなきゃならんのだ?」結論はでないし、それを認めるのもならないしで、彼らは車に乗り込みマニラ東部にあるアンティポロの高台の防衛大臣、アーネスト・マタの隠れ家へ車を走らせた。マタはカバンを取り上げ、豚のように中の臭いをかぎまわった。マタはマルコス政権のごろつきの一人で、彼の手により多くの血が流され、それを彼はひどく楽しんでいた。彼がいくつかの地図を調べたところで何も理解できなかった。そしてベンに尋ねた。「お前はこれを持っていた奴を殺したのか?」「とんでもない閣下、僕はこのために人を殺すなんてありえません。」「それならどうしてこんな書類を持っているのだ。」「彼が僕に残していったんです。」「いや、お前はそいつを殺している。」ベンはとても怯えた。そしてビラクルシスに帰りたいとささやいた。ベンは約束どおり地図を返してほしいと求めたが、マルコス大統領に見せなければならないと言われた。ビラクルシスは、マルコスがそれを見たらベンに返すだろうと言った。
マタはマラカニアン宮殿の交換機に直通回線を持っていた。安全な宮殿の交換機を使って、東京の市原公に長距離電話をかけた。東京湾東部の農園にいる竹田皇子への取次ぎを求めた。マルコス一味が聞いている中でベンに電話が渡された。次に起こったことは遠い過去のあのキムスの声だった。「やあ。ベンハミーン。」二人の会話は短いものだったが情感にあふれていた。ベンが我々に言ったのだが、キムスが簡単な日本語で話し始めたとき、声から察するに感情がこみあがったのか、泣いていたみたいだったが、話はできたという、地図を皇族以外の誰にも渡してはいけないという誓いをキムスは念をおし、呪文をくりかえした。「ベン・ハミーン、いいかいフィリピン人もアメリカ人も日本人も中国人もだめだよ。私だけを待っていなさい。」国防大臣マタは不意に電話を取り上げ電話を切った。それがベンとキムスの最後だった。彼らは大喜びでタバコを吹かしながらお祝いをした。ベンは本物だと証明された。
マルコスの所へは連れて行かない事にした。彼らが鍵を握ったのだ。この方針の決定後、ビラクルシス、マタ達は「赤表紙の地図」を一枚もマルコスにみせなかった。マタの隠れ家を後にするときビラクルシスは四〇枚の地図の束を研究用として持って行き、ベンには空のカバンを渡した。そしてベンに幾らかの交通費を渡した。それがビラクルシスが見せた唯一の心くばりだった。彼は他の者ほど冷酷ではなかった。そして四〇枚の地図で十分満足だった。四〇枚が理解できないのなら、もっと欲しくなるポイントとはなんだ?ベンは家族の事を心配しているから、残りの地図を取り上げることはいつだってできるではないか。生きている事に感謝し、ベンはバンバングへ飛んで帰った。この気の利かない、馬鹿で、威張り散らしたやり方で、一九七〇年代から八〇年代初めにかけマルコスの金発掘が始まった。最初、本物のゴールデン・リリィーの地図があるのだから、誰が考えてもマルコスも大尉も実に簡単なことだと思っていた。しかし、全員が誤りだった。ビラクルシスはいきなりサンク・メサ・ロータング施設の発掘で大成功し、アジアの国々からの金のバーの詰め合わせ、寺や仏塔から略奪した多くの金の仏像を手に入れた。大いにはりきったマルコス大統領は軍技術者の特別部隊を投入しラグーナの施設で穴掘りをさせた。そしてそこでは金のバーがいっぱい詰まったコンクリート製の地下貯蔵庫を発掘した。(十五章参照)
マルコスが大統領として初めて本当に大きな発掘をしたのはアグイナルド野営地、旗竿の下のゴールデン・リリィー貯蔵庫だった。次に兵士をボナファシオ要塞へ送った。(以前はマッキンレイ要塞と呼ばれていた)そこで彼らはマッカーサーの防空壕を掘り進んでいた。彼らはマニラの地下に掘られた三五マイルの長いトンネルの終点のひとつを発見した。トンネルの探索は二年間続けられたが、置き去りにされた軍車両の跡で金のバーひとつを見つけただけだった。ゴールデン・リリィーで隠匿された地下坑と財宝はそれほど上手に隠されていたのだ。市原公爵は協力し続けていた。マルコスが応援するギル・ガディ博士はサンティアゴ要塞で行われた穴掘りの失敗に立会い、市原公爵に専門家の助言をすすめた。准将軍がマルコスに渡したサンティアゴ・バランガン報告書には、「ガディ博士は、サンティアゴ要塞施設で直面した困難さの理由を話し、東京の市原へ手紙を書いた。市原はラグーナからペドロ・リムに連絡するように言った。リムはルソン島で略奪物資の隠匿でヤグラ大佐や山口大尉と働いていた市原部隊の一員だ。ペドロ・リムはガディ博士にベンジャミン・イルクイアのことを告げた。彼はフィリピンの電気技術者で市原公爵の依頼でサンティアゴの危険な罠を設計し施工したのだ。
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708131 No.7371
>>7370
すべての金貯蔵庫の場所を知っているベンにとってデュラオとバンバングでの生活とは、稲を植えて刈り取るという年間予定をこなしていくことだった。たったひとつの例外はベンがロジャー・ロクサスと友達になったことだ。彼はバグイオに住む錠前師で、埋もれている略奪品目当てに定期的にバンバングへやってきた。数年が過ぎロクサスとベンは友達になった。ある日ベンは、バグイオ病院の裏手で坑道がたくさんある地域の地図を進呈することを約束した。ロクサスは金の仏像を見つけた時、フランスの有名なレイムス大大聖堂を模った立派な金の模型もみつけた。そしてそれを発掘の分け前としてベンに与えた。その大聖堂はウエディングケーキの様に五〇センチの高さがあり、中世の教会の細かい部分を再現し、美しく手作りされたものだった。入り口の大きく丸いステンドグラス以外は純金で作られ、上品な時計がついていた。ベトナムから来た物だという以外その由来は誰にもわからない。財宝にはそれぞれ秘密の歴史があるものだ。熟練の細工師がハノイやサイゴンにあるカソリック教会の裕福な後援者の為に作ったことは明らかだ。ニューヨークやロンドンのオークションに芸術的作品として出品されたならば、その価値は金の価格の倍になるであろう。
ベンはロクサスと金の仏像に起きた事を知り、彼はそれを箱に入れデュラオの裏庭へ埋めなおした。後日、ギガからベンが金の大聖堂を発掘したと聞いたフェビアン・バー将軍はすぐに暗殺団を差し向け、ベンにそれを渡さないならば家族を痛めつけるぞと脅した。ベンは素直に応じた。十年後、キムスから貰ったものでベンに残っていたのは、階級章、水牛、飛行機の模型、ワラ帽子、ココナッツの木、そして水田だけだった。あとはすべて盗まれるか没収されて失くした。マルコスとその悪友達がくれたものといえば、「タバコ」だけだった。子供が生まれ宝探しが行ったりきたりした。ベンは貧乏のままだった。一九七二年、ベンは日本人の一団がバンバングにやってきて、サンフェルナンドにあったキムスのキャンプから半マイル以上離れた山下将軍の野営地区でブルドーザーと堀削機を使って作業していると聞いた。ベンは馬鹿なところを掘るもんだと笑った。彼は誤解していた。ベンがキムスと地下の複合設備をめぐっている時、ベンが一度しか通ったことのない八番坑の入り口を貫通し掘り下げていたのだ。彼は離れたところに別の九番坑の入り口があることを知らなかった。一九四五年、連結坑は潰れてしまったが、鉄筋コンクリートで強化された主坑道はそのままだった。これらの日本人が開けた九番坑の入り口は山下の防空指令本部へ通じていた。日中、彼らは地下の見えないところにいた。近隣の農民の話では、夜になると空のトラックがやってきて夜明けには満載で去って行ったという。
マルコスを利用してゴールデン・リリィー施設の回収を進めるため、竹田皇子はバンバングの地下複合施設の部分的な回収を許可したのだろう。それは八番坑や共同墓地につながる連結坑の再開通に関わっていただろうから、すべてを回収するのは不可能になってしまう。(訳注、申し訳ない、ちょっとここのところ意味がわからない。)竹田が二年後の一九七四年に私用でマニラに戻った事を我々は知っている。当時、九番坑の回収は完了していた。一九四五年六月、ベンと別れ、潜水艦で日本に戻って以来、彼は任務を完璧に成功させたおかげで、裕仁から温かく受け入れられていた。終戦の月には満州に送られ、帝国陸軍の財務長官に着任していた。終戦時、彼は満州の関東軍が裕仁の降伏命令に従う事を確実にするよう指令をうけていた。その後、竹田宮は妻と子供を連れて東京へもどった。貴族制度が終わり、竹田は爵位を奪われ単に竹田恒徳になった。これは明治天皇の意志で一九〇六年に設けられた日本の偉大なる宮家のひとつ、竹田宮家の終わりをもたらした。他の旧宮家と同じで、連合軍に財産を没収されるのを避けるため、竹田は自分の邸宅を富豪の堤家に売却した。堤と彼は残りの人生において密接に関わっていくことになる。彼は東京湾の東部、千葉県ののんびりした農場ひとつだけを残した。他の皇子と同じく実業家として竹田編物機械会社を始めたが、すぐに倒産した。アメリカ人が帰還すると、竹田はすぐに日本の最上貴族としての生活をとりもどした。金などは問題ない。すべてが過去のものとなり、彼はすべての日本人支配者を裕福にする手伝い、つまり借金を返さなくてもよくなるような努力をした。醜い東京にはあきあきし、ほとんどを千葉で過ごし、世界でも最も高価な趣味のひとつであるサラブレッドの品評会をたちあげた。
一九六二年日本オリンピック委員長になり、一九六七年~八一年までIOC(国際オリンピック委員会)のメンバーだった。(彼の息子もこのIOCを引き継いでいる。)一九六四年四月のジャパンタイムズで竹田の横顔が次のように書かれてある。「もし、一言で竹田を表現するとしたら「なごやかさ」(relaxed)だ。自意識や緊張というものから完全に解放され、優しく暖かい雰囲気、惜しみなく好意を示してくれる。毎日の活動において、「真実、公正、善意にこだわろう」と書かれた机の文字は、彼が生きてきた信条を表している。もしもあなたが王様の気品をお望みならば、その最良の見本をお見せできるであろう。」
一九七四年、日本兵の生存者小野田寛郎少尉がマニラ湾の七〇マイル西南、七四マイル四方のルバング島で隠れているところが発見され、竹田はフィリピンへ飛んでいった。一九四五年当時、三人を除いたルパング島の日本兵はアメリカ兵との四日間に及ぶ戦闘で殺されるか捕虜になった。小野田と二人の戦闘員はジャングルにもぐりこみ三十年にわたって散発的なゲリラ戦を継続していた。一九五〇年代、戦争は終わったのだと語りかけるビラをばら撒いたが、彼らは偽装であると考えた。結局、小野田の仲間は二人とも熱帯性の病気で死に、日本では小野田自身も法律的には死んだことになっていた。ルバングの村人はそうは思っていない。一九七四年二月、日本人の若者、鈴木紀夫が小野田をジャングルでみつけた。彼はライフルと五百発の弾薬、手榴弾を持っていた。小野田は自分に指令を出した将校の指令解除がなくては投降できないと拒否した。ベンはテレビのニュースですべてを知った。彼は戦時中、竹田皇子とともに財宝金庫の隠匿にルバング島で数週間すごした。その時、ベンは小野田に会っていた。その施設を守るよう小野田に命じたのは竹田宮であることをベンは知っていた。だから竹田宮だけが指令を解除できるのだ。数週間後、数人の日本人役人が小野田に投降を説得するためフィリピンへ到着した。注目は谷口義美少将に集まり、テレビでは小野田の司令官だったと紹介された。しかし、代表者の後ろにベンは忘れられない顔、竹田宮を確認した。彼が密かに小野田を任務から解放しにやってきたのだ。
数日後、小野田は日本に帰還した。(彼は近代的になった日本にはなじめないと主張し、ブラジルのマタ・グロッソにある大きな日本人所有の農園に送られた。ルパングの財宝が回収されるまで、誰も彼を訪ねて来れないように多くの護衛がつけられた。ルパング島での回収は裕福な日本人旅行者のためのリゾート開発を装い、笹川が成し遂げた。それはマルコスの要望でやった事だと、笹川は言った。結局、ホテルやゴルフクラブが建てられ、日本人の金持ちハンターのために、アフリカの未開の遊びや珍しい鳥が集められ、性的な遊びのために若い男女が用意されていた。同時にイメルダの福祉事業に多くの寄付をしてもらい、戦時中の不快感を日本とフィリピンの友好関係を確立することで払拭するため笹川をフィリピンの名誉市民にした。笹川はマルコスに戦時略奪の分け前を渡すとは言わなかった。
竹田宮は戦後ベンに会いにくることはなかったが、使者をよこした。一九八四年、そのころベンは一時的にマニラに住んでいた。ある朝、日本人の相撲取りのような男がバンバングでバスを降り、重いスーツケースを下ろした。戦時中、竹田宮に従っていた将校の笠淵大佐だった。いまや年をとり白髪の彼は暑さで参り、湿ったハンカチで顔の汗をぬぐった。バンバングにタクシーはなくオート三輪しかなかった。唯一のオート三輪乗り場はランゴーの所有で、彼は人を乗せたり物を運ぶことを仕事にしていた。笠淵はランゴーにサン・フェルナンド部落へ連れていくように頼んだ。ランゴーはスーツケースを持とうとしたが笠淵は断った。サン・フェルナンドへ着くまで膝の上に抱えていた。ランゴーにベンハーミンという名の男を捜していると言った。笠淵はベンの名字を知らないし、もともと、どの部落からやってきたのかも覚えていなかった。彼はランゴーに、ベンは、ここサンフェルナンドで日本人皇族の従者をしていたと語った。笠淵は、はるばる東京から皇子のプレゼントをベンに持ってきたのだった。ランゴーが何度もスーツケースを運ぶと申し出たが大佐は触らせようとはしなかった。一日中、三輪自動車で走り回りベンを知る者を探した。もしも彼らがあと一キロいやその半分でもデュラオ部落へ近づいていたなら、誰でもベンを知っていただろうし、どこへ行けばベンに会えるのかを大佐に正確に話しできただろう。最終日になり、彼とランゴーはやれる事はすべてやったと認め、笠淵は渋々マニラヘの最終便に乗り、贈り物のスーツケースは彼が持ち帰った。ベンはやはり貧乏のままだった。
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>>7371
黄金の兵士 第十二章 SANCTIFYING THE GOLD 金の浄化
すでに熱帯の楽園を手に入れた億万長者、マルコスには病的な傾向があった。多すぎることは決して十分でないと言う事だ。マルコスは自分がロスチャイルド家、サウド家、オッペンハイマー家と同じくらい金持ちであることを万人に知って欲しかった。このことがマルコスを破滅させることになる。マルコスは、日本人が自分を食い物にし、大きな金貯蔵所とは離れた方向へ案内していることを知った。それでも日本人の手助けなしに最良のゴールデン・リリー施設を発見し、発掘することは困難である。本物の地図があり、ベン・バルモアのような目撃者がいたとしても、場所を探し当て目印をつけてそこを掘り始めることは出来なかった。ベンはその場所へ案内することは出来ても地中の構造物については何も知らなかった。地上でさえ、ベンは正確に場所を特定できなかった。木々は倒れ、川はコースを変え、新しい建造物は場所の目印を消してしまったのだ。もし場所を数インチずらしただけで、数ヶ月が浪費されてしまう。
そこで、マルコスは有名な霊能者と利口な鉱山技師を呼び寄せることを決めた。鉱山技師は地図を解析し、霊能者は金の埋蔵場所を正しく確定出来るだろう。ひとたび彼らの仕事が終われば取り除けばよい。金を市場に出すことがもうひとつの悩みの種だった。一九三三年以来、一九七四年まで一般のアメリカ人は金の購入を法律で認められていた。その結果、世界の金価格は上昇し始めた。このおかげでマルコスは、もし市場に金を持ち込めるなら、売却可能な金の大量所有者と言うすばらしく「強者の立場」につけることになる。しかし、マルコスの回収した金の延べ棒は、サイズ、純度、重量、あるいは刻印とも標準ではなく、認定証書もついていなかった。なんでもありの闇市場の取引は別としても、通常の金の取引では、ロンドン金市場で受け入れられる標準のサイズ、重量、純度で行われるのだ。本物の金の延べ棒は純度認証刻印がつき、さらに認定証書番号がかならず必要だ。
また、所有証明書も、由来証明書も必要で、輸送記録を示す文書の保証も保険も必要になる。ゴールデン・リリー作戦で略奪されたほとんど全ての財宝はロンドン標準に合致しなかった。財宝はアジア諸国由来のもので、それらの金塊は一貫性がなく、純度は22カラット以下であった。また、財宝は銀行や国庫からの正規なものではなく、海外の中国王、マレーのイスラム教徒、仏教徒の一派、麻薬王、ギャング、古代の墳墓、宝石類そして工芸品の貯蔵品に由来していた。金塊はいろいろな形や重さで印やシンボルがつけられ、違った言葉でスタンプを押されるか刻まれていた。金塊はそれぞれ指紋のように特徴のある各種の鉱物や不純物を含んでいたので、試金分析をすればどこで採掘されたかが明らかとなる。第2次世界大戦の終った後のヨーロッパで連合国は、ナチの金塊を再精錬し、所有を示す顕著な特徴や名残を消し去り問題を切り抜けた。
過去にマルコスは回収した金塊を日本人やCIAを通して売ることで、この問題を回避していた。両者とも不ぞろいだったため、ずいぶん値切られたようだ。実際、CIAはサンタ・ロマーナが門番(案内人?)を務めた期間にマルコスが手数料を払ったように、マルコスにも発見者としての手数料を払った。マルコスは闇市場での取引を試み、規格外の金塊をパナマに対してコカインと交換し、タイの麻薬王とはヘロインと交換した。しかし、それはそれで麻薬の売人を見つけなくてはならないという別の頭の痛い問題をもたらすことになる。もしマルコスがCIAと日本人を出し抜き世界市場で自分の金塊を売ろうとするなら、ロンドンの金基準を満たすため、金塊は物質的に改変(浄化と呼ぶ過程)されねばならない。大幅値引きさえすれば、「金カルテル」のメンバーがマルコスのために金浄化をやってくれるだろう、だからマルコスは、金を浄化し、さらにその不純物混入率がフィリピン鉱山から採掘された正当な金である正当性を証明の出来る民間人(私人)を見つけなければならなかった。
ひとつの可能性がカーティスと言う名前のネヴァダに住む鉱山技師で冶金学者の男だった。マルコスがメキシコ湾のカンクンで開催された大統領会議に参加した時、マルコスはコスタリカの大統領、ホセ・フィゲレスと金塊問題について話し合った。コスタリカにも金鉱があったので、フィゲレスはその問題についてはよく知っていた。フィゲレススはマルコスに、ロバート・カーティスはすでに発掘された鉱石からより多くの金を取り出す方法を確立し、あたかもフィリピンで採掘されたかのように金塊の持つ顕著な特徴を変えることが出来ると言った。カーティスを見つけ出すため、マルコスがよく面倒をみていたウィスコンシン出身の詐欺師(ばくち打ち)、ノーマン・キルストを呼んだ。マルコスはすでに有名な霊能者、オロフ・ジョンソンと接触をしていた。かれは市民権を取得しアメリカ市民になりシカゴに住んでいた。ジョンソンはアメリカの深海財宝ハンター、メル・フィッシャーが、一七世紀に新世界から略奪した一億四千万㌦相当の金塊を積んで沈没したスペインのガレオン船探索で沈没場所を特定する手助けをした。ジョンソンはまた宇宙飛行士とのテレパシー(精神感応)の実験をするため、アポロ計画の間、アメリカ政府に雇われていた。NASAとの仕事中ジョンソンはアメリカ空軍の大佐と会い、フィリピンに行き、クラーク空軍基地で財宝埋蔵場所を調査するように依頼された。ジョンソンがクラーク基地で仕事をしている時、うわさがひろまり、ヴィラクルシス大佐がジョンソンに会いに来た。彼はジョンソンにクラーク基地での財宝探索は厳しく禁じられていると言った。しかし、ジョンソンはマルコス大統領の大きな力になれたし、基地外の財宝探索にも大きな力となったのだ。マルコスはいつも自分を霊能者だと夢想していたのでマラカニアン宮殿で二人が会った時、マルコスはジョンソンに深く印象付けられた。マルコスは霊能者に、フィリピン人民のためにも第二次世界大戦の財宝を見つけ、そして人民を貧困から救うため、ジョンソンの助けが必要なのだと言った。マルコスは隠匿された日本軍の金塊の多くの場所をすでに知っているが、彼の部下たちはどこを掘ればいいのか厳密には知らないのだと言った。オロフジ・ ョンソンは目標場所を的確に示す偉大な情報提供者になりうる。ヴィラクルシス大佐は専門家チームも投入していた、彼の言によれば、チームはレバー(Leber)グループと呼ばれた。レバーはREBEL(反逆)を逆に綴ったものだった。マルコスはオルフジ・ ョンソンにレバー・グループの指導メンバーになるよう望み、謝礼は気前よく山分けにしようと言った。ジョンソンは大喜びし、魅了され、すぐに意見が一致した。
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708131 No.7373
>>7372
一方で、一九七四年後半、ロバート・カーティスはノーマン・キルストがフィリピンからなんども電話したうちの最初の連絡を受けた。カーティスは四十四才の成功した採掘・精錬会社のオーナーで、会社はレノの近くのネヴァダ州スパークスにあった。カーティスはサン・フランシスコで銀行員としてスタートし、カリフォルニア・ネヴァダ州境に沿った地域の古い銀や金の採掘に魅了された。彼は多くの古い採掘鉱を手に入れ、スパークスに工場を建てた。その工場でカーティスは鉱石を再処理し、より多くの金、そしてプラチナやイリジウムなどの貴金属を採り出す新技術を完成させた。大抵のひとは、アメリカでプラチナが採掘されるとは知らなかったが、それは金のカルテルが、アフリカで自分たちの鉱山から採掘する金属の量や価格を支配するためプラチナの探索を妨害したからだ。
しかし、カーティスは独力でシエラで採掘した鉱石からプラチナを採り出す方法を確立した。そのおかげでカーティスはそこそこの金持ちになれたのだ。ノーマン・キルストはボブカ・ ーティスに、マニラに飛びマルコス大統領のために精錬所を立ち上げる相談をする気がないか訊ねた。キルストはカーティスに、金塊を再精錬し、認証をフィリピンの公式のナンバーと刻印に変え、フィリピンの鉱山からの採掘されたように見えるよう化学組成を変えることをマルコスが望んでいると説明した。カーティスにとって信じがたいのは告げられた金の量の多さだ。キルストとマルコスはまず第一に、少なくとも一年に三百㌧の金塊、つまり三千トンの金塊を向こう十年間で処理することを望んでいたのだ。(現在の価値なら二百八十兆円!)
カーティスはよく考えて、下調べをした。歴史的にみても、フィリピン鉱山から採掘した金が大きな割合を占める可能性はなかった。一九三九年にフィリピンの金山はそれまでの最大の量の金を産出したが、百万トロイオンスつまり三一トンちょっとである。一九七〇年代にフィリピンは毎年わずか二二㌧を産出しただけだった。金鉱の作業は活気がなく非効率的だったので、毎年の産出量が突然十倍に急上昇したことを説明するのはむずかしかった。しかしながら、マルコスはもう少し辛抱すれば長年にわたった少量の市場取引から抜け出せる。金塊の浄化さえできれば、マルコスはすぐにでもそれを民間のバイヤーに売ることが出来る。カーティスはキルストの話を何回か断ったあと、一九七五年二月二十二日、キルストから長い手紙を受け取り考えを変えた。手紙には、本当の金塊の出所は日本軍の略奪品だと明らかにしていた。クリストは手紙で述べている、「アメリカ大使館の敷地、クラーク空軍基地、スービック海軍基地に埋蔵された財宝がある…重要なものが34ヶ所で、それほど重要でない場所が一三八ヵ所ある。レバーグループは百七十二ヵ所全ての回収計画を立てたが、重要な三四ヵ所での作業だけを望んだ。というのは三四ケ所のうちのいくつかから財宝を回収できただけでも、ずいぶんいい仕事になると知ったからだ。」(マルコスはベンが自分のために、八番抗、九番抗、マンタルバンの三枚の地図を取り除いていたことを知らなかったので隠匿場所一七二ケ所と言う数字が定着していた。
「君が埋蔵場所へ行けば、そこで本物の日本軍の図面を見せてもらえるだろう。」。「一九四〇年の金相場で言えば七千七百七十億円の財宝があるんだ…坑道の内のおばけ貯蔵所には…九千九百九十億円の財宝がある…八千八百八十億円の財宝がある…」。どんどん、財宝の数字は途方のないものになった。マルコスの取り巻きはこれらの推測を、三桁の数字と長いゼロが続く円記号で印のつけられた地図を根拠とした。地図上にある多くの他の記号のように人を欺く暗号が含まれていることを考えもせずに、その記号で埋蔵場所に七千七百七十億円の金があるという結論に飛びついた。マルコスはたいへん興奮して、自分のヨットに「七七七」と名づけた。少し理性的に考えれば、各埋蔵場所にどれくらいの財宝があるのか誰もわからないことは自明だ。埋蔵された個別の品目は金の仏像、宝石が詰まったドラム缶ように地図上に特定できるが、その価値は特定できるわけではない。現行の金価格がどうであろうが、七五㌔の延べ棒はまともな人間であれば誰でも満足できるものだ。多くの理由のため、ほとんどの財宝ハンターたちは、地図を持つ者も持たないものも、収穫はなかった。極少数の人間だけが成功し、マルコスも、ロバートカ・ ーティスのおかげで成功者の中に入ったのだ。
カーティスは思い出す。「私は信じられなかった。私は財宝について信じられない理由があるんだ。」カーティスは世界の金算出量の一般常識的について、キルクスが言ったことに満足できなかった。カーティスは工夫と幸運しだいで再精錬されるのを待っている第二次世界大戦の財宝の大きな貯蔵所があると云う考え方に夢中になった。カーティスは何をするかを決める前にもっと調べるべきだった。カーティスはキルクスに三日以内にマニラに飛ぶと告げた。カーティスは一九七五年の二月の終わりにマニラに着き、キルストに会い、ファビン・バー将軍等、マルコスの側近と仲間に紹介された。彼らは大変友好的だったのでバーを含んで彼らの半分がプロの殺し屋だとは気付かなかった。そのことは後ではっきりした。「三日か四日で私は納得したよ。」とカーティスは我々に語った。カーティスはマニラに三日間滞在するつもりだったが、一ヵ月もとどまった。カーティスを納得させたのは圧倒的な物的証拠だった。カーティスはマニラのマラカニアン宮殿や他の場所で、金の延べ棒でいっぱいになった部屋を見た。あるひとつの部屋のだけでも、金の延べ棒で六千万ドル分を見たと計算したのだ。銀行員として、冶金学者としてそれが本物だと理解した。マルコスは礼儀正しいホストであろうと努力して、カーティスはマルコスの知性に感心した。
後になって初めてカーティスはマルコスがまた大変「冷酷な男」だと気づいた。最初の会合で、マルコスは、国際法では「第二次世界大戦の略奪財宝の発掘で、出自が特定できる物はすべて奪われた国に返却されるべきだ。」と定めている、この点で助けが必要なのだと言った。マルコスはカーティスに、自分は莫大な量の金を回収しており、その金が偽装しない限り没収されることになると言った。一九七五年三月十一日から十二日に、マルコスはカーティスや他のゲストと掃海艇を改装した大統領専用クルーザーで夜のクルージングに案内した。クルーザーは百人のゲストを乗せマニラ湾周辺をまわり、宴会が行われ、その後は踊りが続いた。踊りは真夜中に終わり、ゲストは湾に面したところに降ろされた。そして、クルーザーはレバー・グループの中心メンバーと幾人かの外国のゲストだけを乗せて再びマニラ湾へ向かった。カーティスはオルフ・ジョンソン、ノーマン・キルストに混じって、戦争略奪品の回収に関する秘密の会談に参加した「 ニクソン元大統領の側近と」 「フォード大統領の側近」がそこにいたことを覚えている。ニクソンは七ヶ月前に大統領を辞任し、後をフォードが継いだ。共和党はウォーターゲート事件のために一九七六年の大統領選挙に敗れそうだった。二人の側近が参加していることで、カーティスはニクソンとフォードがマルコスの金回収活動に何とかして参加しようとしていると推測した。カーティスは、ふたりの側近が政府の代理人なのか、ニクソンとフォードを非公式に代表しているのかあれこれ考えた。
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708131 No.7374
>>7373
カーティスとマルコスは星空のもとデッキチェアで多くの夜を過ごし、闇の金塊の問題について話し合った。マルコスは自分のことを自国民の生活向上のために、又冷戦時代のワシントン政府の良き協力者であるため誠実に取り組んでいる親米民主主義国家の大統領であると主張した。マルコスは自分の持つ悩み、つまり金塊を処分する難しさについて説明した。最良の方法は、他の金の銀行に金を売る危険に巻き込まれるより、むしろマルコスが自分の地金銀行を設立することだとカーティスは言った。自分の地金銀行があれば、金を保有することもデリヴァティヴに貸し付けることも可能だし、大きな利益を得ることも出来るだろう。この提案はマルコスの興味を引かなかった。なぜなら、世界の新しいオッペンハイマーとしての華やかな自己イメージに合致しなかったからだ。
カーティスはマルコスに金塊をアラブ諸国と石油と交換し、その石油を日本に売ってクリーン・マネーで決済させたことがあるか尋ねた。マルコスはこのアイデアが気に入ったようだ。朝方、クルーザーはバターン州マリヴェレスにある避暑用の大統領宮殿沖に停泊した。カーティス、ジョンソン、そしてキルストはマルコスの書斎に連れて行かれ、そこで本物のロクサスの仏像を見た。カーティスは近づき仏像が純金であることを確認した。仏像には刻み目や引っかき傷があり首にはドリル穴がある、それでメッキした銅ではないことがはっきりした。マルコスはその首がどのように回して外れるかを見せた。オルフ・ジョンソンの助けがあっても、カーティスはひどく重い仏像を動かすことはできなかった。次にカーティスはバー将軍に地下の大きな部屋に連れて行かれ、何列にも並べられた金の延べ棒を十分に調べた。帰りにマルコスはテラスに立ち避暑用宮殿の前の丘を指差した。マルコスはカーティスに、あの丘に幅八〇フィート、長さがフットボール競技場くらいの地下倉庫をいくつかデザインして欲しいと言った。そうすればマルコスは二十万㌧から五十万㌧の金塊を貯蔵できることになる。マルコスはマニラで使用している貯蔵庫はすでにあふれ出んばかりだと語った。再びカーティスはマルコスの述べる金の量に驚いた。その量は一般に存在すると考えられている精錬された金の量の何倍もの量だ。
しかしカーティスは金は稀少だという俗説は、ダイヤモンドの俗説とおなじで、価格を高く維持するために希少だと言っていると確信できるに十分な金の量を見てしまった。一九七五年三月二十五日、カーティスはオルフ・ジョンソン等と一緒にレバー・グル-プとの契約に署名をした。彼らは「前述の財宝を調査研究し回収するため、一緒に能力や手段を出し合うこと」に同意した。見返りは「フィリピンの国土と海域」で回収された金を分け前としてもらうことだった。カーティスが関与したのは、ネヴァダの工場から二基の溶鉱炉を提供したことだった。溶鉱炉はマニラに運ばれた。一基はマラカニアン宮殿に隣接する国立開発コープに据え付けられ、そこでは溶鉱炉は金を適切な品質証明と品質番号をつけロンドン基準に改変(浄化)するために使われた。もう一基はバターン州のうなぎ工場の隣地にカーティスの仕様に合わせて建設された精錬所に据え付けられた。そこで事前に精錬された多量の鉱石や新しい鉱石が、カーティスが開発した、より効率的な抽出工程へ送り込まれた。この新工程での金の産出量の増加はフィリピン全体の金の産出量が増加しているもっともな説明になった。マルコスの金のいくらかは、銀や他の金属を八百純度まで加えることで、精錬していない鉱山のインゴットに見えるように格下げされた。鉱山の金の延べ棒は登録も品質保証も必要ないのでその金は疑惑を起こすことなく少しずつ市場に流された。
カーティスが最初の旅でマニラにいる間、マルコスはオルフジ・ ョンソンを試した。バー将軍は、ジョンソンとカーティスを沿岸警備隊の哨戒用魚雷艇でマニラ湾のある場所に連れて行った。そこは日本軍の重巡洋艦「那智」が一九四四年一一月五日に沈められた所で、ジョンソンが沈んでいる「那智」を見つけられるかどうかを確かめようとした。「那智丸」については、そして「那智丸」がどのようにして、どこで最期を迎えたかについて様々な論議のあるところだ。ひとつの見方として、「那智丸」は衝突で破損した後、日本での修理を必要とし、マニラ湾沿いのカビテ州で百㌧の「金のユリ」金塊が積み込まれ、出航したとたんマニラ湾で待機していた日本軍の潜水艦に故意に魚雷で沈められたというものである。海面に浮かび上がった乗組員たちは潜水艦の乗組員に機関銃で撃ち殺された。
この説明では、「那智丸」は銀貨や金貨でいっぱいのドラム缶を積んだ荷船を曳航しており東京へ向かっていたという。二番目の魚雷は荷船に命中し、真っ二つとなり砂と泥の海底に銀貨や金貨をぶちまけた。日本軍によって意図的に穴を開けられ沈められた他の財宝船のように、「那智丸」は浅い海域(約百フィート)に沈んだ。公式の米国海軍の報告書には、「那智丸」は一九四四年十一月五日にマニラ湾に沈められたと断定しており、その沈没は連合軍の飛行機によるものだとしている。ベン・バルモアに残された「金のユリ」の地図は沈められた船の位置と、積み込まれた財宝の種類を示していたが、マルコス配下のダイバーたちは濁った海水のなかで財宝を見つけることが出来なかった。だから、オルフ・ジョンソンは霊能力で財宝を見つけることを期待されていたのだった。
「那智丸」の位置を正確に突き止める努力に緊迫感が取り巻いた。なぜなら、日本のダイバーたちもまた財宝を探していたのだ。マルコスは以前、日本の難破船引き揚げ会社に許可を与えていたが、その時は日本人が「那智丸」の沈んだあたりに潜水するのを望まなかった。予防手段として「ルソン荷役会社」を国営化したが、この会社は日本のために仕事をしていることをマルコスは知っていた。バー将軍は沿岸警備隊の巡視船に日本人ダイバーたちのどんな動きも見逃すなと命令した。日本政府は何が起こっているのかをあたかも知っているかのように、日本の首相はまさにこの時をマルコス公式訪問に選び、「那智丸」の親族の代表団を一緒に連れてきた。代表団の中には艦長の「コノオカ・エンペイ」大佐の未亡人も含まれていた。代表団は遺骨の回収を希望していると言い、首相は日本の引き揚げチームが「那智丸」から遺骨を探索する許可を要求し、またフィリピン海域に沈んだおよそ四百の日本船を探索する許可も要求した。マルコスは拒否した。カーティス、ジョンソンと一緒に哨戒用魚雷艇に乗っていたのはベン・バルモアとポル・ギガ、加えてフィリピン人ダイバーの一グループとバーの警備係であった。ベンの地図に示された場所に錨を降ろし、ダイバーたちは濁った海水の中で数時間探索したが何ら得るものがなかった。ジョンソンはダイバーたちが諦めるまで忍耐強く待ち、それから右側に数百ヤード移動することを主張した。ダイバーたちは再び潜り、すぐ浮上し、ジョンソンに「那智丸」を発見したと叫んだ。そして、ダイバーたちは証拠に号鐘(船鐘)を運び上げ、浮きブイを沈没船の船首と船尾につないだ。彼ら全員が翌日の午後その場所に戻ったとき、目印のブイは姿を消していた。海流が綱をちぎったようで、その日の内に船の場所を再確認するには遅すぎた。三日目にジョンソンは再び「那智丸」の場所を特定し、新しいブイがしっかりと取り付けられ、バーは侵入者から守るために巡視船をその場に残した。しかし、三日後、彼らが実際に金の回収を始めるためにその場に戻った時、ブイはまたもやなくなっていた。何か胡散臭い。カーティスはバーの直属の部下がブイを取り去ったのではないかとほのめかした。バーは、彼の指揮下の巡視船は大統領のクルーザーを護衛するためにその場所を離れなければならなかったと主張した。実際のところ、カーティスは始めて本当のフェルディナンド・マルコスを理解しつつあった。「那智丸」がどこに沈んでいるか確実に知ってしまえば、マルコスは誰かと回収品を分け合う気持ちが微塵も無かったのだろう。マルコスはカーティスとジョンソンに「那智丸」の事は忘れ、代わりにもっと見込みのある陸上の財宝隠匿場所に関心を向けるように言った。
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708131 No.7375
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マルコス一派のいくつかの情報筋によれば、マルコスは「那智丸」の金を回収したはずだと言う。レバー・グループの元駐米大使、アメリト・ミュータックはカーティスに、マルコスが「那智丸」から回収した金は一九七五年時点で六十億ドルの価値があり、その当時金は一オンス六十五ドルで取引されていたと言った。この数字は別のマルコスサイドの情報筋から我々が確認したものだ。三月の終わりにカーティスは緊急の用事にけりをつけ、自分の所有する精錬機器をフィリピンに発送しにネヴァダに飛んで帰った。彼は何枚かの地図を調べた後、マニラのサンティアゴ要塞ではすぐに金の回収が出来、その後マニラのちょうど東南にあたるテレサー2と呼ばれる大事な場所に取り掛かろうと決めていた。ベンの「金のユリの地図」によれば、テレサー2地区はトンネルのひとつに乗り入れられた多くの日本陸軍のトラックの数を基本にし、また三体の大きな純金の仏像、裸のダイヤモンドが詰まったドラム缶を考えると、金の延べ棒で八十億ドル以上が埋められているはずだ。テレサー2は複合施設のほんの一部分にすぎない、ひとたび彼らがテレサー2に入れれば、別の施設に入り込むことが出来る。カーティスは土木工事の経歴を持つ数人の従業員をネヴァダに持っていた。カーティスは従業員をマニラへ連れて行き、財宝隠匿場所の開放を手伝わせようと計画していた。これは前もって給料、移動費そして海外での生活費など金のかかることだ。カーティスは二基の六トン溶鉱炉をフィリピンまで運ぶ費用も支払わねばならなかった。カーティスはまた、ネヴァダで別の形で生み出していた事業収入も失うことになるだろう。
マルコスは全てのレバー・グループ仲間の経費支払いを拒否したので、カーティスは自分の懐から全ての費用を負担した。マルコスからみれば、カーティスは生涯のチャンスを与えてもらうのだから、全てを犠牲にする覚悟が必要であろうということだ。今にして思えばカーティスは騙されていたのだが、彼は事が順調に進むことを望んだ。カーティスは多額の資金を、彼の鉱山、スパークスの工場と設備に投資をしており、その投資の邪魔をしたくはなかった。彼はフィリピンで地中から金の延べ棒を掘り出し始める費用を補うため、金策をする必要があった。この探索の冒険物語は異様だし秘密なので、間違っても銀行に打診することはは出来なかった。そんなことから彼は「ジョン・バーチ協会」へ話を持ちかけることになった。カーティスは、協会の側近グループが貴金属の取引に深く関わっていることを知っていた。数年も前、協会の連中はカーティスに話を持ちかけていた。「ハント・ブラザーズが一九七〇年代初め、世界の銀生産を独占しようとしていた時に」とカーティスは我々に話した。続けて「連中はハーバート・F.ブッフホルツ大佐を私のもとへ寄こしたのさ…ジェリーア・ ダムズ…ロバート・ウェルチもやって来たな。バーチ協会の創始者、下院議員のラリー・マクドナルド、そしてジェイやダン・アグニュー、フロイド・パクストンもやって来たんだ。」と話した。
バーチ協会は一九五八年、アメリカのいたるところに共産主義者、ユダヤ人、不法入国者、アフリカ系アメリカ人、自由主義者そして同性愛者が入り込んでいると確信する金持ちの実業家と極右政治家のグループにより活動を開始した。会員たちはまた金と銀の虫をその印として与えられた。会員たちはFRB(連邦準備制度理事会)を創設したアメリカ大統領に対し、ずっと前から恨みを抱いた。FRBはアメリカで個人的が金を所有することを犯罪とみなし、その罪は多額の罰金、没収、投獄といった罰を伴うものだった。会員たちはニクソンがアメリカを二度も裏切ったと信じていた。一度は金本位制を廃止した時。二度目は共産中国を承認したことである。他方で、ニクソンの政策のおかげで、一九三三年以来、初めてアメリカ人は合法的に金を購入し、所有することが可能になった。だからこそ、バーチ協会の指導者たちは海外で金を手にいれ、カナダの闇ルートから国内へ金を持ち込み、それを反共活動のために協会の基金に加えられた。
アメリカの超保守グループや、リベラル派にCIAや国防総省から追い出されたランズデール将軍のようにバーチ協会員は自分たちの右翼自警団を作るための長期戦略を持っていた。それは決してヒトラーのブラウンシャツやゲシュタポのように無教養なものではなく、エリート民間軍隊に支持された私設FBIに近いものだ。これには資金がかなり必要だろうから、民間に所有されている多量の金が必要だった。カーティスは保守主義者で愛国者だったが、バーチ協会のメンバーではなかった。しかし貴金属に対する強い興味は共有していた。カーティスがマルコスの金探索に参加したときバーチ協会の役員に対し、隠匿された日本軍の略奪品について自信を持って語った。彼はレバー・グループでの役割、マルコスと行う金の浄化と金を売りさばく販路探しへの関与について語った。
カーティスはバーチ協会幹部の幹部連中がすでにサンタ・ロマーナの金回収や、「ブラック・イーグル信託」を設立した時のロバート・B・アンダーソンとジョン・J・マックロイの役割を知っていることは気付かなかった。すでに彼らはM資金におけるマッカーサー将軍、ウィットニーと、ウィロビーの役割、そして戦後日本での金融操作の全てを知っていた。彼らがこれを知っていたのはバーチ協会の設立メンバーの一人にローレンスバ・ ンカー大佐がいたからで、ユーモアの無い男、バンカーは日本でマッカーサーの個人的スタッフをボナー・フェラーズ将軍から引き継いだ。バンカーは一九四六年から一九五一年まで日本におけるマッカーサーの主席補佐官であり、スポークスマンだった。一九四六年から一九五一年の間、日本ではアメリカで行われたマッカーシーのアカ狩りがかすんで見えるほどひどいアカ狩り(魔女狩り)が続いていた。
カーティスに融資を手配したバーチ協会の金庫番はワシントン州上院議員フロイド・パクストンと彼の息子のジェリーだった。彼らはビニール袋を閉じるプラスチック製のクリップを製造しているクウィク・ロック社を経営していた。カーティスが言うには、もう一人の参画者はアトランタ州の上院議員ジェリー・アダムスで、彼はハント兄弟と提携している貴金属会社「グレート・アメリカ・シルバー社」の社長だった。カーティスが言うには、彼は下院議員のマクドナルドとロバート・ウェルチから、マルコスとの仕事をした時の融資は二人が個人的に「清算」してくれたと知らされたそうだ。彼らはカーティスがバーチ協会の国民会議の一員である億万長者サミュエル・ジェイ・アグニューと直に取引することになっていると言った。彼らはカーティスにフィリピンでの費用として三件の貸付、合計三七万五千ドルをすることに同意した。この貸付にはレバーの分け前22.2%という約束と、うなぎ飼育場の近くのバターン精錬所での10%の分け前以外に担保がなかった。バーチ協会から財政的支援を取り付けたことで勇気づけられ、金を回収すれば数ヶ月で借金は容易に返済できると確信し、一九七五年四月半ば、カーティスはフィリピンへに戻った。カーティスはサンティアゴ要塞で容易に金を回収できるつもりだったので、大金持ちになるのは数週間、数ヶ月そこらで十分だと思っていた。カーティスは相棒のジョン・マカルスターとその妻マーセラ、エンジニアのウェル・チャプマン、霊能者オルフ・ジョンソンを連れて行った。気前の良さを発揮して、カーティスは彼の相棒だけでなく、ジョンソンにもファーストクラスの航空券を購入したのだった。
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708131 No.7376
>>7375
その四月、マニラに再集結し、カーティスはサンティアゴ要塞の換気口からおばけ金庫の回収、つまり簡単な回収から始めたいとマルコスに言った。そうすればバーチ協会に金を返すことも出来るし、ネヴァダで工場の製造を開始することもできるだろう。マルコスはカーティスがバーチ協会に金を返済することには何の関心もなかった。サンティアゴ要塞の作業がそんなに簡単なら、どうしてカーティスにやらせるだろう?マルコスはフォートサ・ ンティエゴは史跡なので特別許可が必要だと嘘をつき、マニラ市街の外側の地区を選ぶようカーティスに言った。マルコスは再び避暑用のマリベラス宮殿裏にある二カ所の地下貯蔵所で作業するようカーティスに強く求めた。カーティスはその仕事をウェスチ・ャプマンに与えた、彼はそれぞれ幅八〇フィート奥行三百フィートのトンネルの設計図を描いた。そこを訪れた一人、常勤のCIA職員はどちらのトンネルも金を詰め込みながら建設されたと証言した。カーティスはサンティアゴ要塞で急ぎの回収が出来ないことに失望したが、テレサー2や、もうひとつの目標の作業に興奮していた。
ビラクルシス大佐はベン・バルモレスとポル・ギガを引き連れ、四〇の財宝隠匿場所をカーティスに調査させた。毎晩カーティスはマニラ空港近くの四つ星ホテル、フィリピンビ・ レッジホ・テルに戻った。そこでカーティスは最上階のペントハウスをジョン、マーセラ、マッカラスター、それにウェスチ・ ャプマン、オルフジ・ ョンソンらと一緒に使用した。カーティスは探索場所を訪れていないときは、時間の多くをベンとペントハウスで過ごした。地図を調べ、その重要部分を発見し、地図の暗号を解読しようとした。カーティスが特定の隠匿場所の調査を望めば必ずベンがバンバングまで長い距離を出かけ、望んだ地図を手に入れてマニラへ持ってきた。結局、ベンは旅をすることに嫌気がさし、彼がいつも持っている三枚の地図を除き、残った地図を全部カーティスに渡してしまった。そいつがとんでもない決定だったのだ。
レバー・グループは当時カーティスと一緒に調査する多くの専門家を用意しており、日本人の言語の専門家も含まれていた。各地図にはひとつの時計の文字盤が描かれており、時には二個か三個の場合もあった。時計には時計の針がないものもあれば、四本の針があるものもあった。各時計の数字は時には普通の並びで、時には奇妙な配列もあり、時には逆さまになっていた。全ての場合に、時計の数字の間にある印はいつも違っていた。全ての地図はそれぞれが謎だった。昼間は多くの実地調査があるために、カーティスには隠匿場所の地図にこだわる時間がますますなくなるし、地図を取り上げられないとの保証もなかった。そこで彼は百七十二枚の地図全てを写真に撮った。最初はポラロイド、次には三十五ミリのカラー写真で撮った。カーティスは記録保存マニアだったので、書類、写真、録画テープの山を積み上げていた。彼は掃除婦がそれらの資料を処分しないかと心配だった。ある日、マルセラ・マッカラスターは買い物に出かけ、フィリピンの堅木から手彫りで作った三層式の回転式食器棚を買ってきた。カーティスは同じ店に出かけ、ネヴァダの妻に回転式食卓をひとつ送ることにした。カーティスは店員が搬送箱の中に古新聞を詰め込んで回転式食卓に詰め物をしているのを見た時、彼は店員に自分の事務書類で代用できないかを尋ねた。それが出来れば別の荷物を送る費用が節約できる。
カーティスは急いでホテルへ帰り、書類、録音テープ、写真、ベンの地図を撮った写真の入った三つの箱を持って帰ってきた。それはとっさの決断だったが、カーティスの命とジョン・マッカラスターの命を救うことになるのだ。翌日、カーティスはマルコスにテレサー2に取り掛かるよう勧めた。ベンの地図によれば、ここは777地区で、かなり期待できる場所だった。マルコスが派遣した陸軍チームはすでにテレサー1の発掘を試みて失敗していた。テレサー1とテレサー2はともに、テレサと呼ばれるヒスパニック地区にある陸軍基地のそばにある。テレサはマニラの南東、リサール州の活気のない地方都市である。ここにすり鉢山の形をした石灰岩質の丘を削って掘られた精巧なトンネル複合施設があり、トンネル内には数十億ドルの価値の金、プラチナ、ダイヤモンドそして三体の純金の仏像があった。テレサは一九四三年におよそ二千人のアメリカ人、オーストラリア人、ドイツ人、そしてフィリピン人の戦争捕虜により掘りおこされた。日本陸軍が既存の軍事基地を支配した時、全ての現地のフィリピン住民たちを立ち退かせ、捕虜収容所が建設された。ちょうどテレサの外側に特別のすり鉢山が突き出ており、それは二百フィート以上突き出ているカルシウム・カルストだったのだ。この石灰岩はきめが細かくネズミ色の岩石で、フィリピン人はそれを切断してアドービ煉瓦と呼ぶ建築用煉瓦にしていた。なぜなら石は強固だが切断しやすく、支柱なし、コンクリート補強なしでトンネルを掘ることが可能だった。日本人技術者たちはすり鉢山とその下に、数層のトンネルを開発するためにひとつの計画を立てた。上の層は片方が水牛の角のように曲がったトンネルのある棒線画に似ている。左手の角はテレサー1であり、右手の角はテレサー2になる。他の層はその下にあった。建設中トンネルを換気するため、地図を見ると六本の通風縦坑が掘られたことが分かる。カーティスは入り口にするため、大きい通風坑のひとつを突き止めようとした。
戦争中、ここには六つの掘削チームがあり、違った開始場所から休みなく働かせた。男たちは腰布と捕虜札を身につけているだけで、薄いお粥の椀だけで生き長らえた。衰弱したり死んだ人間は交換させられた。強制労働をする人間には不足しなかった。トンネル掘りが完了した時、六つのトンネルの内五つは各入り口から二十フィート内側で封印された。封印には陶土、細かい砂、砕石そしてセメントを特別に混ぜたものが使用された。本州北部の石川県(窯業で有名な地方)出身の将校が入口を封鎖する際にその管理をした。石川県の陶磁器が持つひとつの秘伝は、中国北部の土を使うことだった。中国北部の土は海砂、セメント、同地の砕石と混ぜ合わせると固まっても縮まないし、格別に堅牢なる。そして同地の石灰岩と混ぜ合わせれば色をつけることも出来るので、そこが入口であることは見ても分からなくなる。
この入り口の蓋を処理した後、入口に残った二十フィートの部分を土で埋め戻し、低木や竹そしてパパイヤが植えられた。パパイヤは早く成長するので、埋め戻し場所はすぐに近くの地形から区別が出来なくなった。一方、日本陸軍のトラック集団がマニラ湾の倉庫からテレサ地区へ移動し、金塊、宝石の入った油のドラム缶、三体の金の仏像を運び出した。金の仏像はそれぞれ三フィート、八フィート、十三フィートの高さがあった。計画によれば、財宝はトンネル複合体のいろいろな場所に分散して貯蔵された。テレサー1とテレサー2には金の延べ棒を貯蔵する六つの場所があった。小さめの金塊は、床部分にちょうどロジャー・ロクサスが発見した穴のようなものを掘り、二箇所に収められた。他の場所には宝石やダイヤモンドが混在したドラム缶が収められた。何十日もかけて、金の入った金属製の箱はトンネルに運び込まれ、決められた場所に置かれた。すべてのこうした地域はその後、戦争捕虜によって枝編みカゴで運ばれた土で埋め戻された。次に小さいほうの二つの仏像はブルドーザーを使いトンネルのなかへ押し込まれた。各仏像は厚い鉄板の上の場所に押しやられ、片側に突出部が突き出ている千ポンド爆弾の上に載る形になった。引き金機構がセットされてしまえば、誰かが仏像に手をかければ、爆弾は爆発することになる。十三フィートの高さのある三つ目の仏像は大変重いのでトンネルの中へ入れるため二台のブルドーザーが使われ、一台は仏像を引っ張り、もう一台が押して中に入れたのだ。仏像が所定の位置に納まった時、仏像を引っ張ったブルドーザーは動けなかった。そのため、日本軍はエンジンを取り外し、その場所に金の延べ棒の入った2つの箱を押し込み、燃料タンクを空にし、枠をはずした宝石をいっぱいに詰めた。この作業が終った時、最後のトラックがテレサに到着した。これら二十三台のトラックは水牛の角に相当する残った場所にまっすぐ運転していった。タイヤは空気が抜け、車両は金の重みで下がり、車輪の軸(こしき)あたりまで沈み込んだ。
神主が財宝を清めにやって来た。全ての戦争捕虜たちはトラックの荷物を降ろすためと偽りトンネルに入るよう命令された。千二百人全ての戦争捕虜がトンネルに入った時、入り口にブルドーザーが土を押し込み始めた。戦争捕虜たちは自分たちが生き埋めにされるのだと分り、入口に向かってわめきながら殺到した。あらかじめ全ての入口に据え付けられた機関銃が彼らを撃ち殺した。前列にいた捕虜たちが射撃で死んでしまい、飢えと過労で半死半生の残りの捕虜たちには道をふさぐ死体を通り抜ける力も、ブルドーザーがすでに押し込んだ土の山を登りきる力も残っていなかった。捕虜たちはこのままでは生き埋めにされてしまうので、わめきたて土と死体の障害物を何とかしようともがいたにちがいない。それから、この入口は特殊なセラミックセ・ メントで封印され、千ポンド爆弾と青酸カリの入ったガラスの小壜で偽装爆弾がしかけられた。結局、日本軍はテレサー1の三本の通風縦抗とテレサー2の三本の通風縦抗を閉じた。それぞれのグループは、二つの換気口は直径がたったの二フィート、三つ目の換気口は直径八フィートだけで深いトンネルの換気を行った。小さな換気口は土と瓦礫と岩でいっぱいに満した。八フィート幅の換気口は、土、岩、炭、竹、割れたガラスそして人骨で何層にも重ね一杯にした。人骨は殆どが頭蓋骨と腕の骨だった。(日本軍が処罰をする時は、他の捕虜全員がいる前でまず腕を切り落とし、次に頭を切り落としたのだ。)
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708131 No.7377
>>7376
赤表紙の財宝地図には主通風縦抗に詰めた物について細部にわたる正確な情報が含まれている。なぜなら、この情報は何時の日か財宝を回収しに日本から戻ってくるチームにとって、取り掛かる目印になるはずだからである。最後の仕上げは丘の上とその周辺に木を植えることだ、そうすれば村人たちがこの地へ戻ったときにその変化には気づかないだろう。カーティスは、彼とベン・バルモアが財宝の回収の目印となる大きな通風縦抗のひとつを発見できそうだという虫の知らせがあった。カーティスはベンやポールと一緒にその場所を訪れると、地元の男たちが丘の頂上から石灰岩のブロックを採掘しているのに気づいた。彼は、陸軍が軍事施設のためにこの場所の土サンプルを採る予定だと言って彼らを追い払うようバー将軍に頼んだ。数人の無断居住者は掘っ立て小屋から強制退去させられた。カーティス、ベンそしてポールは、縦抗の中味が多少沈み込み円形のへこみが出来ているのですぐに通風縦抗を発見できた。マルコスは掘削のために、「エイジ・コンストラクション社」を設立し、通風縦抗の掘り下げを始めた。
財宝地図が示していた通り、人骨、竹、割れたグラスと炭の層にぶち当たった。三十一メートルの深さで陶磁セメントの仕切板にぶち当り、彼らがその板をぶち壊すと全員がひどいにおいを嗅ぎ、嘔吐をし始めた。作業者は突然の痛みと発疹に襲われ入院が必要だった。ある者は、財宝と共に生き埋めにされたおよそ千人の死体の腐敗から生ずるガスが広がっているのだと信じた。カーティスはそれがメタンガスか、通風坑が封印される前に放り込まれた小型容器に入った毒物だろうと考えた。元が何であれ、数日のうちに腐敗ガスに覆われた通風縦抗の入口は大きな醜い花、いわゆる死の花で囲まれてしまった。通風坑の空気が入れ替わると三十六㍍まで掘削作業が再開された。そこで掘削作業員は直径六十インチで、まん中に六インチの穴がある大きな丸い石を見つけた。それは石うすで、ベンの財宝地図に示された別の記号であり、彼の持つ地図の正当性を証明した。5週間後、つまり一九七五年六月八日、掘削人たちはもうひとつの厚い磁器セメントの板を突き破り、金を積んだトラックのある貯蔵庫に入り込んだ。オロフ・ジョンソンは貯蔵庫に入り、その光景を一目見て恐慌をきたし、半狂乱で転がり出た。ジョンソンはカーティスに、生き埋めにされた全ての男たちの魂を強く感じ、死者の指が自分を掴みかかろうとするのを感じると言った。その後、オロフは中に戻ろうとしなかった。カーティス自身が降りていき、近親者に通知するために認識番号札を集め始めたが、バー将軍の部下はそれを戻すように要求した。カーティスがジョンソンのような霊能者だったらその行為だけで、そしてジョン・バーチ協会から彼に押し付けられた突然の新しい要求を聞いただけで警戒しただろう。突然、アグニュー家はローンに対する追加担保をカーティスに要求してきた。カーティスは電話でネバダにある重機の所有権をアグニュー家に差し出した。
カーティスは、マルコスのために取り組んでいる金の回収の内、二百億㌦までの排他的権利をバーチ協会へ与える新しい契約書に署名することを余儀なくされた。カーティスはバーチ協会員からバハマのオフショア会社(税金回避地に設立された会社)を通して金の販売を行うつもりであると告げられた。その会社は「コモンウェルス・パッケージング」社と呼ばれ、クウィクロ・ ク所有の会社だった。マルコス所有の金は金取引の大規模な中心地であるナッソーで売買されるだろう。手続きはカナダ・ロイヤル銀行ナッソー支店で処理され、売上代金はバーチ協会の幹部メンバーに管理されている口座を使い、カナダのブリティッシュ・コロンビア州、バンクーバーの東にあるカナダ・ロイヤル銀行ケローナ支店の口座に入金される。そこで金はバーチ協会の中心となる金融専門家が管理する口座へ預けられ、その金を手に入れた金融専門家は、国境を越えて金を持ち込むのだ。バーチ協会員はカーティスに、今までもこのようなやり方で多額の金を合衆国へ持ち込んだと自慢した。
カーティスは疑うべきだった。なぜなら、こうした新しい要求が出てくることはカーティスが知らないところで何かが起こっていることを示している。だが、彼はテレサー2にかかりっきりだった。金の回収は間近だった。かなり前から、カーティスはマルコスに警備体制に関する連絡書を送り、そしてテレサー2から回収された財宝をどのように運ぶべきかをマルコスに知らせていた。彼は、財宝がトンネルから回収された場合、カーティス、ヴィラクルシス、バーの副官、マリオ・ラチーカ大佐らの五人の男の立会いで明細書を記載するべきだと提案していた。そして、それから財宝は番号のついた箱に収められるべきだった。カーティスは、裸の宝石は国防部隊で保管したらどうだと提案した。工芸品は流通していない外貨や全ての紙幣と一緒に保税倉庫へ送ることが出来る。「重量のある品物である「金塊」は、金の「浄化」工場かその付近にうまく保存すれば、浄化工場を行ったり来たりする時の護衛部隊は必要でなくなるだろう。」。
マルコスはカーティスに三体の仏像が回収された時には、仏像を切り刻んで再精錬するべきだろうと言った。そうでなければ、出所がばれてしまうに違いない。一九七五年六月五日の朝四時に、カーティスはフィリピンン・ヴィレッジ・ホテルのペントハウスでテレサー2の警備員からの電話で起こされた。工事の現場監督は、掘削人夫がトラックのフェンダーと千ポンド爆弾の突出部を掘り当てたため、全ての掘削作業をストップしていると伝えた。事前の同意により、爆弾にぶち当たった場合、カーティスは全ての作業者を移動させ、ジェモーラ大佐に連絡し、彼に爆弾除去部隊がすぐに駆けつけるよう手配してもらうことになっている。トラックのフェンダーが見つかったとのニュースに興奮し、カーティスとマッカラスターは陸軍基地へ車を飛ばし、ジェモーラをたたき起こした。ジョモーラはバー将軍と連絡をとろうとしたが、連絡はつかなかった。彼らは一緒にケソン市まで車を飛ばしカヌー将軍に知らせ、カヌーはバー将軍と電話で連絡をつけた。バー将軍はあとの事は全て任せ、カーティスとマッカラスターはホテルへ戻るようにカーティスに言った。
バー将軍は後で彼らのところへ車を差し向けマルコス大統領と成功を祝う会合を設定するだろう。カーティスとマッカラスターがペントハウスに戻った時、オロフ・ジョンソンが詰め込んだバッグを持ちひどく心配そうに居間にいるのに気づいた。オロフジ・ ョンソンは二人に自分たちは生死に関わる危険な中にいるので早々にフィリピンを立ち去るべきだと言った。オロフは大変優しい性格だが、自身に関して弱くも風変わりでもない。カーティスはオロフがそんなに動揺しているのを見たことがなかった。「オロフが我々に話したような恐怖をあなたも実感できたら良かったのだが。」カーティスとマッカラスターはオロフを落ち着かせようと試み、自分たちはまさに大金持ちになろうとしているところだと言ってみたが、人の話を聞こうともしなかった。オロフは近くの空港に出来るだけ早くたどり着きフィリピンから立ち去ろうとしていた。カーティスはオロフに、フィリピンは戒厳令(軍政)が施行されているので、必要な出国許可を得る術はなく、その日のハワイ便に乗る術もないと教えた。オロフは思いとどまらなかった。彼はすぐに空港に向かって出発した。「私は今でもオロフがその飛行機をどの様に手配したのかわからないね。」、とカーティスは我々に言った。「フライトは3時間も遅れていた。後でオロフにその遅れは霊能者の力で影響を与えたのかどうか尋ねたが、彼は微笑むだけだったよ。」
カーティスとマッカラスターはまだ意気は高揚していた。二人は金の延べ棒を積んだ二十三台の軍用トラックの中の1台のフェンダーを見つけたことを知った。二人はまさに大金持ちになるところだった。「我々はみんなでマルコス大統領とマラカニアン宮殿でお祝いしようと考えていた。」とカーティスは言った。オロフが祝いの席に欠席するならそれは残念なことに思えた。その日の午後、約束通り、一台の車がカーティスとマッカラスターを迎えに来た。車は二人をマラカニアン宮殿へ連れて行くのではなく、ボナファシオ要塞にあるアメリカ戦争墓地へ連れて行った。ラチーカ大佐が二人を待っており、オリヴァス少佐と一緒にジープに乗っていた。ラチーカは四五口径の自動銃を持ち、オリヴァスは三八口径のリボルバーを持っていた。ラチーカはカーティスに車から降りるように命じ、シャクナゲの生えている一角へ連れて行った。オリヴァスはマッカラスターを別のシャクナゲの一角へ連れて行った。茂みのかげで、ラチーカはカーティスに下を見るよう合図した。そこには掘ったばかりの三フィートの深さの墓穴があった。カーティスはそれは自分の墓だと理解した。ラチーカは自分の四五口径の銃をカーティスの右耳に押し付けて言った。「悪いな、ボブ。こうするように命じられたのだ。個人的なことじゃないからな。」カーティスは早口にしゃべり始めた。「あんたが引き金を引くのをとめる事はできんだろ、だけど、もし撃ったら、次はあんたが穴の中で俺の隣に横たわることは間違いないね。俺を殺せよ、そうすればマルコスは財宝地図を絶対手に入れることは出来なくなるさ。」
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708131 No.7378
>>7377
ラチーカはカーティスの言葉をこけおどしと思ったが、確信が持てなかった。ラチーカはオリヴァスを呼びジープまで戻り、バー将軍に無線連絡をした。ラチーカらが指示を待つ間に、バーは部下を派遣しカーティスの住むペントハウスと隣の会議室を家捜しさせた。そこはカーティスと彼の仲間が使っていたところだった。マルセラ・マッカラスターはそれを見守りながら恐怖に振るえていた。捜査係たちは全ての紙片、写真、図、巻きフィルムを没収した。その没収物は宮殿に運ばれ調べた結果「赤の地図集」は含まれていなかった。その地図がないことがはっきりした時点で、マルコスはバー将軍に殺しを延期するように命じた。
墓地で、ラチーカは「マルコス大統領とバー将軍はお詫びのしるしに数日中にディナーをしたいと言っている。とりあえず、二人をホテルへ送ることにする。」と言った。カーティスは簡潔に答えた。「そりゃよかった。」
その時までに、太陽は沈んでいた。ラチーカとオリヴァスはカーティスらをホテルで降ろした時に、ラチーカは「 マルコス大統領とバー将軍は今回の出来事を非常にすまないと思っている。すべてはひどい誤解だったのさ」。と言った。カーティスは後々まで、このひどい誤解がプリミティボ・ミハレスという名前の男と関わりがあった事を知らなかった。ミハレスは長年にわたってイメルダ・マルコスの報道担当官だった。聡明な男、ミハレスはフィリピンで実際何が起こっているのか、あるいはマラカニアン宮殿の「黒い部屋」と呼ばれる警備室で行われている拷問や殺害について、ほとんどの国民より多くを知っていた。彼は結局うんざりし、反マルコス一派から実態を暴露するように説得された。
ロクサスと同じくミハレスは、勇気ある行動のためにひどい報いを受けることになった。考えうる最高の舞台を求め、ミハレスはアメリカ合衆国に飛び、マルコス体制の聴聞会を開催しているアメリカ議会の委員会で証言するよう手配された。すでに、マルコスが行動を改めないなら,アメリカのフィリピンへの援助は大幅に削減されうるという強い指摘がされていた。ミハレスが議会で証言をすると外交的問題が勃発した。同じ時、一九七五年七月四日~五日、コラムニストのジャックア・ ンダーソンが、マルコスは日本軍の戦争略奪品探索を数人のアメリカ人の助けを借りて行っているという情報を流した。マルコスはロバート・カーティスがジャック・アンダーソンにこの情報を漏らしたと考え、テレサー2で財宝が発見された時点でカーティスとマッカラスターを殺すことを決めた。一九七五年七月五日の夜、ペントハウスで、カーティスはラチーカが言ったことだけは理解した。それは、ジャックア・ ンダーソンのコラムに対する情報漏洩はカーティスとマッカラスターの責任だったという事である。二人は間一髪で自分たちの頭を吹き飛ばされることから免れた。二人はやっとオロフの恐ろしい予感を理解した。マルコスが財宝地図さえ再び手に入れれば、カーティスらを殺すことに躊躇するような輩ではないのだ。
実際のところ、地図はずっとペントハウスにおいてあったのに、バー将軍の部下が家捜しで見つけられなかったことにカーティスは驚いた。数週間前、テレサー2の仕事から解放され、カーティスは一七二枚の蝋引きした地図をどうするかという問題に直面していた。どの財宝地図も金で買えるものではなく、替えの効かないものだ。まだこの部屋を毎日掃除するメイドがいる。会議室を見回し、カーティスはホームバーの流しの下に配管工のパネルがついているのに気がついた。とっさの思いつきで、カーティスはパネルのネジを回し、外すと財宝地図が内側にきちんと入ることを発見した。その時から、彼は地図の原本は四六時中パネルの内側に保管し、関心のある地図だけを取り出していた。今や、カーティスはアメリカ墓地で殺されかけた体験から、バー将軍が近いうちに自分たちの部屋をもっと徹底した捜索をするだろうと考えた。カーティスは地図の隠し場所から地図を取り出し、ジョン・マッカラスターに注意を促した。「財宝の事は忘れようぜ。」とカーティスはマッカラスターに話した。「命あっての物種だろ。」助かるための唯一の方法は、財宝地図を破棄することだとカーティスは言った。マルコスとバー将軍が地図を見つけ出せない限り、彼らはカーティスが地図を隠していると考え、地図を失うような危険な事はしないはずだ。カーティスはマッカラスターに、地図は全ての細部もはっきり分かる写真に撮ってあり、すでにネヴァダに送っていると説明した。カーティスはその写真が回転式食卓と一緒に無事に到着していることを知っていた。そのため、原本の地図がもはや絶対に必要なわけではない。マッカラスターは理解した。問題はどうして地図原本を破棄するかだろう
マッカラスターは地図を埋めようと提案した。カーティスは、我々は厳重に見張られているので、地図の包みを持ってホテルから出ることも、シャベルを買うことも、地図を埋めるための目立たない場所を探すことも出来ない相談だと言った。いい方法はホテルの中で地図の廃棄処分をすることだった。地図はワックスでしっかりと上塗りしてあるので、びりびりにひき裂きトイレに流す事は出来ない。最良の解決策は地図を燃やすことだった。会議室のバルコニーにはホテルの仕出し係がカクテルのつまみを焼くための小さなコンロが置いてあった。朝の三時、カーティスとマッカラスターは会議室のバルコニーにベッドカバーを引っ張り出し、手すりに垂らして掛けた。掛けたベッドカバーのため、はるか下のホテルの庭の見張りからはバルコニーの様子が見えなくなった。コンロに火をつけて二人は一七二枚の地図を一枚ずつ燃やした。それには1時間以上もかかった。
ひとたび地図が廃棄処分した後、二人はフィリピンから脱出するために出国ビザが必要だった。出国ビザはバかマルコスからの直接の指示で発行されねばならなかった。カーティスはネヴァダにいる信頼できる部下のジム・デュクロに暗号テレックスを送った。デュクロはカーティスが自分の会社の緊急役員会に出席しなければならないと平文でテレックスするよう指示された。デュクロはまたカーティスの友人、ネヴァダ州知事D・N・オカラガーンと連絡をとるように頼まれた。オカラガーンは「ラス・ヴェガス・サン」紙の取締役でもあったのだ。カーティスはホテルの電話は敢えて使わなかった。間違いなく彼は盗聴されていたはずだ。ネヴァダからカーティスのホテルに平文のテレックスが着くと、カーティスはラチーカ大佐を邸宅に訪ね、テレックスのメッセージを読んで聞かせた。カーティスはラチーカに、マッカラスターはアメリカ墓地での出来事が原因でストレス性の心臓発作に苦しんでいるので、彼も治療のためアメリカに帰らなければならないと訴えた。
バー将軍とマルコスは恐らくその話がわざとらしい言い訳だと理解していたが、二人は財宝地図をどの様に手に入れるかがわからないため追い込まれていた。マルコスはジャックア・ ンダーソンのコラム事件でひどく危機感を募らせ、アメリカ議会が海外援助を削減するのではないか、あるいは事が収まるまで低姿勢でいたほうがよいかとひどく気をもんでいた。もしマルコスがカーティスとマッカラスターをアメリカまで後を追いたいと望めば簡単にそのように出来たし、簡単に殺し屋グループを送り込むことも出来たのだ。マルコスは時間を稼ぐことにして、バーに二人の出国を許可するよう命じた。カーティスとマッカラスターは直ちにホテルで出国許可証を受け取った。二人は次のユナイテッド航空便の予約を取った。二人は出国の便を待つ間に、バー将軍が自分たちのバッグに麻薬をしかけようとするかもしれないと心配し、小さな機内持ち込み用バッグ以外はすべて残すことにした。二人は空港で緊張から冷や汗をかきながら、警備員に逮捕されることも覚悟していた。「我々はようやく飛行機に乗り込んだ」とカーティスは言った。「そして飛行機は滑走路をゆっくり進み、私はうまくいくと考え始めていた。
その時、パイロットはスロットルを緩め、これからゲートまで戻るとアナウンスした。我々はファーストク・ ラス席にいたんだ。私はマッカラスターにやっかいなことになるかもしれないとささやいた。本当にそうなったよ。ドアが開き制服姿の二人の大佐が機内に入ってきた。スチュワーデスが私をキャビン・ドアまで呼んだ。私は行ったさ。担当の大佐は携帯無線機で誰かと話をしていた。大佐は私に、自分は私と機内持ち込みバッグを調べるよう命令されていると言うのだ。私は彼らが私のバッグに麻薬や金、あるいは金塊のようなものを隠し持ち、密輸品を持ったまま出国しようとしたと主張するだろうと確信したね。私はきつい調子で彼を叱りとばし、俺はアメリカ人だ、アメリカの飛行機に乗っているんだ、空港の警備のチェックをすべて通過して来たんだぞと叫んだ。私は検査を受けることを拒否し、大きな声でこの仕打ちは国際的な違法行為だと叫んだ。大佐は無線通信機を取り出し、タガログ語で誰かと話した。相手が誰であれ、地位が上の人間だろう。大佐は英語で「サー」を連発してたからな。結局、永遠のように思った後で、大佐は、席についてもよいと言った。五分ほどして飛行機のドアは再び閉じられ、我々の乗った飛行機は滑走路を再び動き始めた。我々は助かったのさ、さしあたっては‥‥。」ヴィラクルシスは地図の写真撮影や写真複製という予防策をまったく取っていなかった。カーティスが逃げた後、ヴィラクルシスは自分を守るために記憶に頼り十四枚の地図を描き、それを彼が別にとっておいた「赤表紙の地図」原本であるとうまくごまかした。マルコスはカーティスに見せられた一枚の「赤表紙の地図」しか見てないので、その計略はまんまとうまくいった。マルコスはヴィラクルシスの描いた複製地図をマラカニアン宮殿の書斎にある金庫に保存した。マルコスが権力を剥奪された時、金庫の中でその複製地図は発見された。
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>>7378
カーティスは後日、バー将軍の部下の一人、オーランド・デュレイ大佐から、マルコスはテレサー2からの財宝回収を進めたが、埋っていた陸軍トラックから金塊を回収しただけだったとの情報を得た。マルコスはその後、主要な空気ダクトを閉じるように命じた。マルコスはダイヤモンドと裸の宝石の入った油のドラム缶を回収しなかったし、三体の純金の仏像も回収しようともしなかった。デュレイによれば、金塊はテレサからサンフ・ ァンの町にあるマルコス所有の自宅にトラックで運ばれ、金塊は検査のうえ在庫目録に記入して保管された。デュレイは、トラックの金塊は合計で二万二千トンだったと言うが、金塊保管を手伝ったマルコスフ・ ァミリーの一人は二万トンだと言った。どちらにしても、金塊は一九七五年半ばの相場なら、わずか数百万ドルの誤差を含んでも八十億ドルの価値があるはずだ。
「那智」から回収した金塊六十億ドルに、テレサー2から回収した八十億ドルの金塊を加えれば、ほんの六か月でマルコスは金塊、百四十億ドルを所有する大金持ちになっていた。それもこれもみんなオロフジ・ ョンソン、ロバートカ・ ーティスそしてベン・バルモアの働きのおかげだった。その時、マルコスは、彼らに文句を言わせず、次の回収作業の協力を取り付ける必要があるのに、どうしてカーティス達にレバー・グループの分け前を払わなかったのだろうか?簡単に言うなら、マルコスは病的に貪欲で、金を払うくらいなら殺したほうがましだという輩なのだ。アメリカで受けている新聞での悪評のため、マルコスは神経質になり、自分の不安を緩和するためには誰かを殺し、破滅させ、破産させなければならなかった。
カーティスはまだ生きていたが、彼の難儀は始まったばかりだった。彼の乗った飛行機がマニラ国際空港から離陸したとき、彼はやっと安全だと考えた。しかし、カーティスがネヴァダに着いた時、彼がテレサー2でトラックのフェンダーを見つける以前からマルコスはすでに彼をだましていた事に気がついた。カーティスは我々に次のように述べた。彼がテレサー2で回収作業をしている時に、「金カルテル」( G O L D C A R T E L が) マルコスに「カーティスを殺し、金塊販売の仕事は「金カルテル」に任せろ、さもないとマルコスはまずいことになるぞ」というマフィア的な申し入れを持って近づいていた。カーティスは「金カルテル」という言葉を、世界の公的な金市場を支配している一流銀行、金加工会社、そして(連邦準備銀行やイングランド銀行を含む)国家財政部門の連合体と解釈していた。このときにカーティスが言っている事を証明する事は不可能だが、以下に述べる出来事で裏付けられるだろう。カーティス所有の溶鉱炉とマニラでの金浄化の仕事はジョンソン・マセイ化学と呼ばれる金カルテルのメンバー会社に引き継がれた。ジョンソン・マセイ化学はイングランド「金地金銀行」の一つ、ジョンソン・マセイ銀行(JMB)傘下の会社だった。ロンドンのシティ(金融中心街)の仲買人が「マルコスのブラック・イーグル取引」と呼んだ多くのスキャンダルが引き起こされた後で、ジョンソン・マセイ銀行は倒産しイングランド銀行に吸収された。
(訳者注。G O L D C A R T E L 銀行とは、ロンドンにある五社のことで、モカッタ&ゴールドスミッド、シャープス・ビクスリー、ジョン・マセイ、ロスチャイルド、サミェル・モンタギューのことである。その五社は世界の金相場を支配していると言う。)
マルコスはムータック大使をサン・フランシスコヘ派遣し、カーティスに関係のある全ての破壊工作を始めた。カーティスは次のように言った。「ムータックは私の取引先の経営者や株主の全てに接触し、サン・フランシスコで会合を持ち、その場で私が戻って来ることはないと言った。ムータックは多額の現金を彼らに提供することで、私の会社を倒産させ、民事訴訟を起こすことを要請したのだ。経営者や株主の殆どはムータックの話にのり、マルコスが彼等を金持ちの大物にしてやった・・・・・その結果として、私は民事訴訟、大陪審、告訴とひどい目に遭ってしまった。彼らは文字通り、米国にある私の工場を破壊した。ブルドーザーで壁を倒し、私の所有する設備の全てと貴金属を盗み、私の銀行口座を空っぽにした。我々はトラック、ドリル、ブルドーザーなどの部品を所有していたが、それらは全て盗まれ、金庫には権利書が入っていたので、奴らはそれも売り飛ばした。我々は破産に追い込まれたんだ・・・法廷での弁護費用もないし、事実、無一文だったから、マルコスや金カルテルに何の脅威もかんじなかっただろ。」
ジョン・バーチ協会のジェイ・アグニューはカーティスを法廷に引っ張り出し、コモンウェルス・パッケージング社を通して貸し付けた金を回収しようとした。カーティスには返済は不可能だった。なぜならマルコスがジョン・バーチ協会の協力でカーティスを破産させていたからである。マルコス・ファミリーの情報筋によると、彼らがカーティスを訴える前に、バーチ協会員はすでにマルコスと取引をしており、それはもともとカーティスを通して手に入れる予定だった二百億ドルの金塊を販売するためだった。そんなわけでバーチ協会の理事会(取締役会)は前から狙っていた全てを手に入れたのだ。我々が聞いたところでは、カーティスに対するアグニュー家の訴訟は、取引を決着させるためにマルコスが要求した報酬だったということだ。「あまりにもひどい状況に置かれると、逆に何も感じなくなるものだ。」とカーティスは言った。
以前はカーティスに関心を持たなかったFBIもカーティスの事件を調査するよう命じた。FBIはアグニュー家を謀略に加担したことで告発しようとはしなかった。謀略とはバハマで闇の金を販売したり、カナダ経由でアメリカへ売上金を密輸したことである。その代わり、カーティスとマッカラスターは、バーチ協会員より提供された証拠に基づいて、謀略の詳細を電報と電話で相談した罪で告発された。彼らの裁判は一九七八年八月十四日に始まることになっていたが、カーティスもマッカラスターも無一文だった。彼らは又、国選弁護人ではとても仕事が務まらないと思った。聴聞会でカーティスは事実と認め、執行猶予五年となった。カーティスは反撃に転じて、自分の持つ情報と、全ての証拠(三百時間以上の録音された電話テープと、二千ページの書類)をアメリカ上院情報委員会の委員長であるネヴァダ州上院議員、ポール・ラクソルトに送った。ラクソルトの事務所は何も出来ないと言い、バーチ協会へ全ての資料のコピーを手渡した。
数年後、カーティスはラクソルトがマルコス大統領とホワイトハウスとの主要な橋渡し役の一人であり、マルコスの取り巻き連中の多くがネヴァダ州にセカンドハウスを持つ理由のひとつだと知った。カーティスには事を公表する以外に選択肢はなかった。彼は「ラス・ヴェガス・サン」紙の編集長ハンク・グリーンスパンとコラムニスト、ジャック・アンダーソンに連絡をとった。彼らは一九七八年四月に始めた連載で情報を発表した。スティーブ・プシナキスというカリフォルニア在住のフィリピン人亡命者はその年の六月、「フィリピン・ニュース」紙で二十四回シリーズの記事を発表し、反マルコス派の抗議の火に油を注ぐことになった。マルコスは山下将軍の金塊話をヨタ話だと言って反論した。しかし、こうした記事でマルコスは、カーティスが「赤表紙の地図」を燃やしてしまったことと、カーティスだけがその地図のコピーを持っていることを知った。仲介人を通して、カーティスは、レバー合意で彼に支払われるべき金を支払う事を条件に、マルコスに地図のコピーを返すことを提案した。マルコスは、一九八〇年の十月に回答し、カーティスにレバー回収事業での分け前全額分として、金塊で五十億ドルを送ることで全ての地図を買い戻そうと申し出た。金塊はマニラからネヴァダ州のレノ空港へ直接空輸されるはずだった。ネヴァダ州は州法により非関税の空港なので、金塊も他の輸入品も税金なしに運び込むことが出来る。その年の十月、金塊を積んだ飛行機はマニラ空港から離陸した。太平洋の真中まで来たところで、マルコスは急に飛行機の進路をチューリッヒに変更した。ワシントンでこの飛行を説明したフィリピン大使、トリニダード・アルコンセルによると、マルコスは将来の娘婿のグレゴリー・アラネタ、バー将軍、友人アドナン・カショギから、重大な過ちを冒す事になると警告を受けたのだった。もしマルコスが五十億ドルを払えば、カーティスが述べていた事がすべて真実だという証明が得られただろう。
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>>7379
黄金の兵士 第十三章 勇者たち
あるとき米国の法廷で、マルコスが大統領だった二十年間に、多量の金が積荷としてフィリピンから出ていったことが判明した。その金は中央銀行で作られたのでも、バンゲット社のような鉱業所で作られたのでもなかった。残った謎は、それがどこへ行ったのか?たしかに、マルコスはマニラでロバート・カーティスから盗んだ機材を使いジョンソン・マセイ・ケミカル社で再精錬した後、こっそりと船で運びだした。金はマニラを出る前に、ジョンソン・マセイ銀行で新しい紙で包みなおされ、それからチューリッヒ、ロンドンの金取引所から買い手に運ばれた。他の闇の金塊はサウジの王子や中東シンジケート、またはルクセンブルクやリヒテンシュタインを通してヨッロッパの用意周到なグループに内密に販売された。物資運送状を含む書類によると、いくつかの荷物は商業船や飛行機に乗せられてアメリカへ行ったことが分かる。
一方、残りはCIAの飛行機で香港やオーストラリアの米軍基地へ向かった。金はフォート・ノックスで行き着いたわけでなく、びっくりするほど遠いアメリカへ運ばれた。たとえ、金がそこで行き着いたとしても、アメリカ政府はそのことを認めていない。それなら、金塊はどこへ行ったのか?CIAや国防総省以外に誰がマルコスを保護し助けていたのだ?発見された略奪品から利益を得ていたのは誰だ?個人の懐にこの金塊のいくらかを入れるため連邦政府の影響力が使われたのだろうか?答えはこうだ。マルコスはCIAを飛び越えて、「エンタープライズ」と呼ばれる闇の組織と関係を持っていた。その組織は民間の諜報機関(PIO)と民間の軍事会社(PMF)の一団である。これらの組織はCIAや国防総省の元職員で構成され、彼らは自分たちのことを、冷戦の勇者たちと見なしていた。多くのPIOやPMFはCIAの大改革がすすんだ一九七〇年代に活動を開始した。彼らはジミー・カーターがCIAをかき回した後の一九八〇年代に急速に発展し、やる気十分なメンバーは、別の場所で仕事を続けることになった。
一九七二年の終わり、ジェイムズ・シュレジンジャーは、リチャード・ヘルムズに代ってCIA長官に就任した。彼は、もう役に立たない連中や、ヘルムズの下で暗殺も含め、アメリカの法を侵す活動に長期間従事してきた不正工作一派、数百人の工作員を強制的に退職させる意向をはっきり示した。CIAがウォーターゲート侵入事件や他の国内の侵入事件に絡んでいることが知られるようになった時、シュレジンジャーは内部調査と、政府に迷惑をかけるかも知れないCIAに関わる全ての諜報計画の完全なリストを作成するよう命じた。結果的に六九三頁の「家族の宝石」という報告書となったが、マングース作戦のような暗殺計画、フェニックス作戦における殺人部隊、国家安全保障のために隠された汚い仕事についての情報などが漏洩することになった。そして百人以上のCIA職員が首になるか早期退職を余儀なくされた。
フォード大統領はニクソンが辞任してから、CIAの悪事を調査するためにロックフェラー委員会を設置したが、「米国やトルーマン以後の各大統領の名前を傷つけそうな」事実を明らかにしないよう強硬な保守派を配置した。フェニックス作戦、ロッキード賄賂スキャンダル、その後のイラン・コントラ事件に関する議会聴聞会が開かれ、CIAと国防総省に対する追加的な粛清が行われることになった。こうした追放に加えて、中国との和解についてCIA職員のレイ・クラインとニクソン大統領の間に、ジミー・カーターに対するジョン・シングローブ少将やジョージ・キーガン空軍司令官のような軍トップとの間に生じたのと同じような争いがあった。カーターが大変多くの職業軍人やスパイを排除した時、彼らが個人生活を楽しめるために何をやるべきかということまで充分考えたようには思えない。どんなローマ皇帝でも軍団を解散するときにそれほど不注意であったことはなかったであろう。
賢明で攻撃的な男たちが、バーチ・ソサエティやムーニィズ、世界反共連盟、金持ちの保守派の大物などから資金援助を受けてこっそりと再結集した。サンティーの「アンブレラ組織」のように、「エンタープライズ」は一九八〇年代の後半にパワーのある影響力のある組織に成長した。彼らはすでに民間の市民であったが、こうした男たちは、軍当局者やCIAや国軍の長にたいして緊密なつながりを持ち続けた。こうした二重構造のため、公的なアメリカ政府の活動と秘密の目的を持った活動を厳密に区別することは、殆ど不可能である。このことは、これらの個々人の多くが、秘密の活動、詐欺、公共サービスや秘密基金の使用に長年従事してきたため、本当に分からなかったのだ。
エンタープライズのメンバーは、民間企業の合法的な会社の姿であるが、実際は情報機関のための、もっと言えば軍部のための「トロイの木馬」の役割を果たすCIAの秘密企業と仕事をすることに慣れていた。事実、PMFのいくつかは、軍司令官や提督や元スパイが政府業務から離れていないかのごとく、給料や年金を引き出し続けることが出来るように作られたみせかけにすぎなかった。多くのCIA職員は各種のごまかしの下で、数年いや数十年過してきたので、彼らがすでにCIAを辞めたのか単に地下に潜ったのかを、何の疑いもなく確定することは難しかった。
ひとつの完璧な例は、ウィリアム・キャセイである。キャセイはOSSのオリジナルメンバーの一人である。彼は法科学校を終了後、会計会社で働き、同僚の弁護士であるジョン・ポップ・ハウレイと関係を維持した。ジョンはワイルド・ビル・ドノバン法律事務所、ドノバン・レジャー・ニュートン・アンド・アービーンで働いていた。ドノバンがOSSの長官に就任したとき、キャセイとハウレイは彼の組織、OSSに参加した。キャセイは戦時中のジョン・シングローブ事件の担当官だった。一方。ポール・ヘリウェルはシングローブの直接の上司である。キャセイはまたアレン・ダレスやジョン・フォスター・ダレスの親密な友人であり、レイ・クラインと共に働き、小島少佐に対するサンタ・ロマーナの拷問が成果をあげたころ、ランズデールに関係するようになった。このため、キャセイはブラック・イーグルについて多くを知る地位についた。ある情報筋は、キャセイは財務知識があるため、ロバートB・ .アンダーソンやジョン・J.マッコイの指導のもとにブラック・イーグル・信託を開始するとき、ポール・ヘリウェルやエドウィン・ポーレイと同じように重要人物の一人となった。戦後、キャセイと友人ハウエルは、彼らのウォール・ストリート法律事務所を設立した。しかし、キャセイを本当に金持ちにしたのは、一九五四年のメディア所有会社キャピタル・シティズを立ち上げるとき、別の元諜報担当者と関係を持ったことにある。多くの調査によれば、この時期、CIAは放送や出版における秘密の活動のためのみせかけ会社を設立するため、数百万ドルを注ぎ込んだし、キャセイは破綻したメディア会社を獲得し、赤字決算から抜け出すためキャピタル・シティズにこれらの資金のいくばくを注ぎ込んだといわれている。
キャセイは決してCIAを去ったのではなく、ただ金融を扱う蝶々に生まれ変わっただけだった。上級のCIA工作員がウォール・ストリートで二重の仕事をしたのは初めてではなく、アレン・ダレスは同じことをやった多くの中の一人にすぎなかった。一九七一年から七三年の間に、キャセイは証券取引委員会(SEC)の委員長としてニクソンに任命され、そこでSECの弁護士スタンリー・スポーキンと緊密に仕事をした。(スポーキンは後にキャセイにCIAの総合弁護士として指名され、Schlei 事件に関与することになる)。キャセイはニクソン政権の経済担当次官として、また輸出入銀行の会長として仕えた。一九七八年、キャセイはマンハッタン研究所というシンクタンクを設立したが,そこは多くの元CIA職員を抱え、保守派の基金から保守派の作家まで回り、かき集めた金を注ぎ込んだ。キャセイがキャピタル・シティズを去り、レーガンの大統領の選挙参謀となり、その後レーガン政権のCIA長官になった時、キャピタル・シティズの株を七百五十万ドルも所有する最大の株主であったといわれている。彼はずっと大株主であったし、CIAの長官であった一九八五年、キャピタル・シティズはABCを買収している。
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708131 No.7381
>>7380
自らの全職歴が不正の金融活動に巻き込まれた一人の男、キャセイは本書に登場する多くの主要人物と関係をもった。彼のDNAはサンティーに出会う前からマルコスが終わるまで、あらゆる場所に存在している。彼はCIAの民営化を夢見た男の一人で、CIA長官としてレーガン大統領にその方法を示した。レーガンの最初の行動は、大統領行政命令12333 号に署名することだった。この命令は、CIAや他の政府機関がPMFと契約をすることを公認し、「公認された諜報目的のための契約や調停は、財政支援元を明かす必要がない」ことを公認するものだった。このことでキャセイはクライン、シングローブ、シャックレー、ランズデール、他の多くの追放された者たちとの仕事にもどることになった。そして、彼らの活動をあいまいにしながら、彼らを、少なくとも論理的には秘密の領域の人間にしていた。同時にキャセイは、個人的にマルコス大統領を丸め込む仕事を引き継ぎ、闇の金塊を提供するよう圧力をかけ、最終的にはマルコスの失脚と追放、そしてマルコスの金塊を陰で操った。
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結局のところ、イラン・コントラ事件ではエンタープライズのメンバーと、選挙で選ばれたわけではない国家安全保障会議、国防総省やCIAの職員との間で親密な契約があったことを明らかにしている。そうした二重構造は政府にとっては、例えばランズデールがマフィアに対してフィデル・カストロの暗殺を依頼するような時に役に立つのである。PMFを使い、よその国で暗殺部隊を訓練させることは、ホワイトハウスが暗殺を含む秘密の海外での政治目的を実行することを可能にした。また米国とは戦争状態にない国で、代理軍事活動も可能になったのである。それは対外政策の汚い部分を実行するために、外科手術用手袋やコンドームをつけて、指紋もDNAも残さないようなものである。役人が委託殺人をうまくやってしまうことが許されるだろうか?これは、連続殺人の常習化につながるのではないか?
これまでに、驚くほど多くの元帥、海軍大将が、国家安全保障会議の高級職員がフィリピンでの財宝探しと、マニラからの秘密の金の運搬に関与した。この場合の二重構造は海外での政治目的を有利にすることと、秘密な意図が明らかでない極右の私的軍事組織を豊かにし、資金援助をすること両方に使われたのだろう。ランズデール、レイ・クライン、そしてジョン・シングローブのようなエンタープライズの中で良く知られた人物の幾人かは、第二次世界大戦中にOSSで仕事を開始し、トルーマンやアイゼンハワー政府の時代に急速に出世をしたのだ。当時、ナチや日本軍の金は不法活動を立ち上げるために、M資金のように使われた。「冷戦主義者」としての彼らの政治観は、蒋介石総統を救出しようとした時に、イランでシャーに権力を持たせた時、スカルノやカストロを排除しようとした時、チリのアジェンデ政権を転覆させる動きを助けた時、カンボジアやラオス、ベトナムで不都合な市民を処分する自由をもっていた時などに形成された。
ランズデールは、まだ現役の提督であったが、カストロを殺す活動であるマングース作戦を指揮した。ランズデールはケネディ大統領により引退を余儀なくされた時、かれは簡単に野にくだり、エンタープライズの設立委員となって、一九八七年に死ぬまでその中心人物であった。フェニックス作戦は一九六九年から一九七二年までサイゴンのCIA局長で、後に作戦担当のCIA副長官になった、テッド・シャクリーに監督されていた。ある情報筋によると、シングローブは軍事面でフェニックス作戦に関与していたと主張しているが、本人は強く否定している。彼は確かに、シャクリーを含む作戦に関与した多くの人間に近いところにいた。ウィリアム・コルビーは上院聴聞会で、フェニックス作戦では、共産主義者と疑われた二万人以上のベトナム市民(男・女子・ 供)を殺したと述べた。別の人間は合計を七万人以上と言っている。議会聴聞会は、フェニックス作戦は総じて非合法活動であると宣言した。
それでも、フェニックス作戦は一九七五年に米軍がサイゴンから撤退するまで、議会の方針に従わないで続けられた。「フェニックス作戦は退役軍人ネットワークの創造だった。」と作戦の担当であったスタン・フルチャーは言っている。「最高レベルの男たちのグループ、つまりコルビーとそうした連中は自分たちのことをアラビアのロレンスと考えていた。」同様の古い仲間がエル・サルバドルにいて、この時は、レイ・クラインは特別戦争学校で訓練された台湾の将校を含む代理軍を使っていた。ジャーナリスト、ダグラス・バレンタインは次のように説明する。「フェニックス作戦の全員が一般的に持っていたのは、強圧的な政府やコントラのような」反乱グループに武器や補給品を売って、彼らが反テロリズムから利益を得ていた。それらの名残が第三世界中の焼き尽くされた灰のあとなのだ。
シングローブとシャクリーは後にCIAを去り、エンタープライズの組織と緊密に一体化した。シングローブは公表されている一九七八年のカーター大統領との争いの後、野に下った。シャクリーはカーター政権のCIA長官、スタンスフィールド・ターナーとのケンカの翌年に野に下った。シングローブとランズデールはその時、ウイリアム・キャセイに率いられ、レーガンの選挙運動に参加した。シュレシンジャーによる「家族の宝石」関連の追放と、それに続くカーター大統領による人事面の粛清という組み合わせの影響は、そのために思わぬ面倒を招いた。それは極右を地下活動や民間企業に追いやり、そこではチェック無しにかなりの程度まで活動が出来たし、政府の秘密の資産を自由に使え続けられたという意味においてである。
もし「エンタープライズ」が空軍機、海軍艦、Seals(海軍特殊部隊)、特別作戦部隊を使うことを望んだら、それらが誰に気付かれることもなく、注文通りに準備される方法があったのだ。ニューヨークタイムスのジャーナリスト、セス・ミダンスは信頼できる情報として「シングローブはフィリピンに入ったり出たりしている、彼は、我々に知られないでクラーク基地に着陸することさえ出来るのだ」と紹介している。我々は、特殊部隊の高官が、シングローブやクラインなどに関係するPMFのグループと一緒に、フィリピン財宝狩りに参加するために短い休暇を取ったことを確認している。このことは政府サービスと個人の利益との重大な区分をなくすもので、倫理規範の実践を求めることが出来なくなってしまう。監視されないと常習的になるものだ。
レーガン大統領、ブッシュ大統領のもとで、PIOやPMFは増殖し、ホワイトハウスの事実上、「秘密の拡大組織」となった。今日まで、エンタープライズのリーダーやPMFの支持者達は。ホワイトハウスは事業家に転じた情報員によって運営される私的非合法組織を必要としていると主張している。それゆえに、PMFは少し名前を挙げるだけでも、南アメリカ、アンゴラ、コロンビア、クロアチア、エリトリア、エチオピア、シエラレオネの紛争に関与した。ホワイトハウスに雇われたわけではなく、彼らは政治体制への契約のもとで仕事をしたが、彼らの人権の扱いたるやひどいものだ。ビネル社はディック・チェニーのハリバートンが率いるPMFの子会社で、ミャンマーの軍事独裁政権と仕事をした時は、地球上で最悪の人権の扱いだった。彼らの目的のいくつかは合憲性の面で問題がある。エンタープライズ組織のメンバーからの手紙を再現してみよう、そこには彼らが秘密のFBIスタイルの保安部隊を立ち上げアメリカ国民や「彼らの支配化にある」別の産軍複合体を守るため、発見された日本軍の戦争略奪品をいかに利用しようとしたかが書いてある。これはお金のかかることである。ムーニーズやバーチャーズのようなグループ、そして裕福な個人は必要とされる金額の一部だけしか提供しなかった。ひとつのはっきりした解決がサンタ・ロマーナに管理されて遊んでいる口座のような現存のブラック・イーグル基金を流用することだった。これがサンティーが一九七三年にワシントンヘ連れて行かれ、彼が所有する基金を譲り渡すよう圧力をかけられた理由である。翌年サンティーが死んだ時、彼の所有するシティバンクとUBSにあるいくつかの莫大な金額の口座が速やかにランズデールの管理下に入った理由を説明している。それがどのように使われたかは知られていない。
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708131 No.7382
>>7381
マルコスが一九七〇年代に第2期の探索活動を始め、闇の金を売りさばくための援助を必要とした時、マルコスとエンタープライズは共通の目標を持った。なぜなら、エンタープライズのメンバーはCIAの飛行機、米空軍機、米海軍艦の使用することができたのである。スービック湾やクラーク空港からマルコスの金が出発した時、こうしたことがアメリカ政府により公式に行われたのかエンタープライズによって秘密に行われたのかはなんとも言えない。十四章ではこの二重構造が示す数々のエピソードをお見せしよう。
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次第にマルコスは自分が発見した金の管理、支払い、管理について、レーガンのアメリカ政府と主導権争いをしていることに気がついた。彼はアメリカ政府を出し抜くためにあらゆる策略を用いた。これが彼の失脚につながることになる。国際金融当局は、中央銀行が直接民間から金を購入できるように決定した時、マルコスはフィリピンで採掘したすべての金が中央銀行に直接販売しなければならないと布告した。これでマルコスは自分の金のいくらかを売れるようになったし、銀行はその時から、苦労なしに金を海外へ移動することができるようになった。一九八一年の十一月、フィリピン政府は今回の布告のせいで国際マーケットにおいて「金保有以来の局所的な過剰」をもたらすだろうと言明した。三ヶ月以上にわたって、約三十万オンスの金が香港、ニューヨーク、ロンドンそしてチューリッヒに船で運ばれた。その金はフィリピン政府の金として印がつけられていたが、関与した商業銀行はその金での支払いを許されたが、そのことは金が短期間のうちに取引されたことを意味している。この特権のために、銀行は1%の手数料を支払いそれはマルコスのもとに流れた。フィリピン人の元外交官によると、フェルディナンドの自家用機はスイスまで何回も往復をした。民間機もまた使用され、それは貨物運送状によって証明されている。十二回の極秘輸送がKLM、PAL、エアフランス、サベナ機で行われたと言われている。
たとえば、一九八三年九月には、KLM機のマニラ・チューリッヒ間のフライトで金塊七トンが運ばれている。同時期に別の1.5トンの金塊がロンドンまで運ばれている。その間に、CIAのパイロットと国防総省の貨物飛行機は定期的にマルコスの金をオーストラリアと香港に空輸した。CIAがマルコスの金塊を物理的に移動している間、マルコスはアメリカに財産を貯め込むよう仕向けられた。このことは、一九八三年から一九八五年のロナルド・リウォルドのホノルル詐欺裁判で明らかになり、マルコスの投資財閥会社であるビショップ、ボルドウィン、リウォルド、デリィンハム&ウォンがCIA資金のための一般的なルートだったことを明らかにした。その財閥会社はマルコスや他の裕福なフィリピン人がアメリカで不正の金を投資するのを助けた。イメルダが後にニューヨークで強請の罪で裁判にかけられた時、彼女の弁護人はイメルダと夫マルコスはホワイトハウスの友人からそうするよう働きかけられたのだと述べた。
ホノルルでの裁判証言によれば、フィリピンンの億万長者、マルコス一家の友人であるエンリケ・ゾベルの援助によって、秘密ルートがリワォルドによってつくられた。リワォルドは、ハワイでポロクラブを経営し、ゾベルは世界一流のプレイヤーだった。リワォルドは、ゾベルは自分同様CIAの協力者だと証言した。アヤラ・ハワイのような共同事業を通して、彼らとCIAは、「アメリカへ現金を持ち出したい外国の上級外交官やビジネスマンの金を保護し、いざと言う時にアメリカで役に立てるのだ」。ゾベルとの関係は、当時、ジョー・マクミキング大将が、小島少佐を拷問したG2のサンタ・ロマーナとランズデール大佐の直属の上官だった一九四五年までさかのぼる。その後、金をたっぷり持って、マクミキングはドン・エンリケの叔母、メルセデスと結婚し、ゾベル・アヤラ一族が世界的な金持ちになるのを手伝った。この秘密を漏らさない境遇の中で、エンリケ・ゾベルはひとかどの裏切り者である。UCLAでの勉強した後で、マニラの上流マカティ金融社交界を発展させて名前をあげた。彼のマルコスファミリーとの関係は複雑で変わりやすいものだった。一九八〇年代のはじめには、大統領の後継者の可能性もあると言われるほどだった。マルコスの旧友エドアルド・コンジャンコはサンミゲル社、つまりサンミゲルビールの醸造会社で、アヤラ・コーポレーションの重要な所有会社のひとつを攻撃的にのっとろうととりかかった時、マルコスファミリーはドン・エンリケがごく簡単に屈服すると考えた。このことはおばのメルセデスとおじのジョーを大変不愉快にさせたので、彼らはゾベルからアヤラ社の支配権を奪い彼の最初のいとこにそれを譲った。
ドン・エンリケはその後、独自の道を歩んだ。ゾベルは戦争略奪品を発見しようとするマルコスの骨折りの多くを知っていた。一九七五年にレーバーグループの使節ミュータックはゾベルに、ゾベルがペニンシュラホテルを建築中のネルソン飛行場の管制塔の下にゴールデン・リリー地下金庫室があると通告した。一九七五年六月三日、ミュータックは書いている。「私たちは、古い管制塔の内外の敷地に、少なくとも数億ドルの膨大な量の宝石や金塊から成る財宝の収集品が埋蔵されていることを証明する重要な地図と目撃者を抱える一グループと一緒にいる。我々は前述の敷地が明け渡された事は知っている。そして、ある建築工事が当該の敷地で完了したかも知れないと危惧している。その場でやると計画したどのようなプランも私たちが財宝収集品を探し出し取り戻すまでは待たなければならない」と。
一九八三年、ゾベルはスポーツ花形選手のグレゴリー・アラネタと結婚するイレーネ・マルコスの贅沢な結婚式の後援者だった。グレゴリーはランズデール配下のトップの殺し屋、ナポレオン・バレリアーノの継子だった。イメルダはその結婚式に二千万ドル使ったと言われている。オーストリアのカート・ワルトハイムから贈られた銀の馬車は、モロッコのハッサン王から贈られた七頭のアラブ種の馬に引かれた。お返しにマルコスはオーストリアとモロッコの銀行に多額の金を預けた。(この金の証拠は二〇〇一年に表ざたになったが、それはドイツ政府がイレーヌとその夫をスイスの銀行からドイツの銀行へおよそ一三四億ドルを不正に移そうとしたとして告発したときだった。)
このように金をみせびらかすのはマルコス家の習性のようなものだ。マルコスはアヤラ基金のような慈善信託を立ち上げられたはずだったし、イルコス・ノルテの邸宅に隠居できたはずだった。アンドリュー・カーネギーはかつて「金持ちで死ぬ奴は馬鹿で死ぬ。」といったことがある。マルコスには慈善に費やす時間がなかった。なぜならレーガン政権から米国の対外政策の目的のために、もっと多くの闇の金を出すよう頻繁に圧力を受けていたからだ。マルコスファミリーの情報筋によれば、「ビル・キャセイはフェルディナンドに、もしお前がCIA指定の銀行に闇の金を預けることに同意するなら、アメリカ政府は永遠に権力の座を維持させるだろうと言った。」ということだ。結果として生じたひとつの取引がいわゆる「中国指令」である。マルコスファミリーの情報筋によれば、一九七二年、ニクソン大統領とヘンリー・キッシンジャーは周恩来首相と秘密の取引をした。それはマルコスが差し出した多量の金と引き換えに、中国が台湾に関して米国との争いを避ける取引だったと主張している。我々はその政治的詳細を確認できないでいた。しかしながら、長年にわたって明るみにでた銀行の書類は、はっきりと多量の金塊がこの時期に中国本土の銀行へ移されたことを示している。
そしてサンタ・ロマーナ、フェルディナンド、イメルダ・マルコス、一族のメンバー、そして裕福な仲間はその銀行の金塊口座をもっていた。こうした連中はみんな徹底した反共主義者で、彼らが冷戦のさなかに中国の銀行へ金塊を移すもっともな理由などないのだ。そうした理由だけでも、この話は十分に真実味がある。この情報筋によれば、一九七一年から一九七二年にかけて人民共和国の経済はかなりひどい状況で、外貨準備高は底をつき、世界規模の石油危機と国内の飢饉でさらに悪化していた。そのすべては正しい情報である。共産党政治局へかかる圧力で、党のタカ派は発言力を増し、台湾の資産の支配力を得るため台湾侵攻を主張した。CIAと国防総省のアナリストは、中国は今にも台湾侵攻を始めそうだ、しかしアメリカはベトナム対策で手いっぱいだとの結論を出した。この状況は核戦争につながりかねなかった。ひとつの方法が緊張を和らげるために見出される必要があった。CIAのアナリストが提案した新しい解決策は、マルコスから得た闇の金を多量に投入し、中国が自国経済を安定化させるのを助け、戦争の圧力を減じるというものだった。もしアメリカが中国を国内危機から救えば、フィリピンにも利益をもたらす平和の一時代を招来させることが出来る。
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我々の情報筋が言うように、ニクソンとキッシンジャーは秘密裏に、マルコスが中国へ金塊で六百八十億㌦(マルコスが持つと彼らが知った量)を提供し、五~六年の間に多くの薄片の形でPRC銀行(中国国営銀行)に移すように依頼した。これは即金の贈り物ではなかったようだ。贈り物は追加的に香港や中国大都市のいろいろなPRC銀行に預金され、金塊は銀行に資産担保として残り、事前に協議したいろいろな目的のために割り当てられたのだろう。中国銀行は強化され、中国経済は安定化し、共産党政治局の穏健派は勢力を回復し、台湾侵攻を主張したタカ派は沈黙をさせただろう。米国基金はひとつも関与していない。「それはマルコスが発見した日本軍の戦争略奪品のなかで、よい使われ方をした唯一のものだ。」と我々の情報筋は言った。周恩来はきわめて現実主義者で、その作戦を徹底して推進したと伝えられている。マルコスが協力したことは重大で、彼はアメリカ政府から十分に支援を受けただろうし、多くの形で報われただろう。アメリカ政府はマルコスに、彼とイメルダは北京を公式訪問ができ、それが世界中に彼らの名声を高めることになると保証し、取引を気に入るようにしたのだ。加えて、中国はフィリピンに対して農作物援助を実施してお返しをしたはずだ。
一九七四年、イメルダと息子のボン・ボンは北京を公式訪問した。彼らはびっくりした表情のひ弱な毛沢東を間に挟んで、のぼせて笑いながら写真を撮った、毛沢東が写っている写真の中で最も奇妙な一枚である。フェルディナンドは翌年北京を訪れたが、あけすけにものを言う冷戦主義者としてかれの行動は奇妙なものであった。予定外の余禄として、イメルダの兄弟コケイ・ロムアルデスは自分の知性以上の忠誠心を述べたおかげでフィリピンの中国大使となった。我々のマルコス情報筋によれば、中国指令はニクソンの歴史的中国訪問と、中国政府との外交関係設立の基盤であったと主張している。資料によれば、中国指令は一九七二年に始まり、長年にわたって続き、マルコスの金塊はPo Sang 銀行と香港の中国銀行、シアメンにある他の中国系銀行を含む中国政府所有の銀行に移されたことを示している。こうした銀行からの書類は、サンタ・ロマーナ、フェルディナンド・マルコス、イメルダ・マルコス、他の大変大きな口座の存在したことを示している。われわれのCDにはコピーした関係書類の中に、金仲買人が金の移転がうまく実行できた時に支払われるべき手数料を請求する手紙がいくつかある。マルコスファミリーと金持ちの友人たちは、その後にこうした口座を抱える中国銀行の新社屋落成式に参加するため、シアメンを旅行している。シアメンはアモイに隣接しており、フェルディナンド・マルコスの実父に長く関係のあった福建省グループの故郷なのだ。
二〇〇〇年には更なる証拠が出てきた。それはイメルダがこれらの金口座に近づくため銀行職員を買収し、中国人の女を雇った容疑で香港政庁から告発された時である。一九九九年の十二月に、香港政庁の検察官によれば、中国銀行、HSBCそしてシアメンのPRC銀行の口座から二十五億ドルを取り戻すために、イメルダは賞金稼ぎに三十五%払うことに同意した。イメルダの弁護士は、彼女は貧しい人を助けるために金を工面しようとしただけだと言った。その後、もうひとつ、秘密のマルコスの金塊口座がスイスのUSBにあるというニュースが流れた時、イメルダは「驚くことではないわ、昔はお金を持っていたんだから」と嘆いた。中国におけるこれらの金塊口座の存在が明らかにされた時、冷たい戦争がなお続いていた一九七〇年代のはじめ以来、どのようにして金塊口座が中国にもたらされたのか誰も関心を持たなかった。誰も、金塊口座がもたらされた理由とニクソンの一九七二年の北京への公式訪問とを結び付けなかった。
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一九八〇年代のはじめに、もうひとつおかしな展開があった。フェルディナンドとイメルダは太平洋戦争後にゴールデン・リリー略奪品をもとに開設された特別の秘密口座の存在を知った。これは、大阪の三和銀行の十億ドル金塊信託で、マッカーサー元帥と裕仁天皇の名前で開設されており、第九章で述べられた通りである。日本人はそれをマッカーサー基金と呼び、一方米国人はそれを裕仁の在位時代の名前を使って昭和信託と呼んだ。三和銀行は日本の古い銀行のひとつで、裕仁は第二次世界大戦前からかなりの量の株を所有していた。
その信託はロバート・B・アンダーソンによって開設されたが、それは彼がマッカーサーやランズデールとゴールデン・リリーの財宝の所在地を回ってまもなくのことだと明らかになっている。マーカーサーの名前は信託に使われているが、少なくとも直接的にはマッカーサーに利益をもたらすよう意図していたとは言えない。裕仁に関しては、ジャーナリストで米軍占領時代初期にSCAPの記録を読むことが出来たポール・マニングによると、天皇は戦前から海外に作った口座に金と通貨で秘密の十億ドルを所有していた。天皇は米軍占領中に海外投資からの利益で年に五千万ドルを引き出しており、SCAPの財務相談役はこれらの収入を生み出す資産に気づいていた。重要なことに、三和銀行はSCAPのマクアット将軍の経済科学局によって不問にされた三つの日本の銀行のひとつだった。他のふたつの銀行は東海銀行と第一勧業銀行で、田中クラブによってM資金からの引き出しが増加していることと関係していた。今日、三和銀行は「我々は世界で成功してきた。」というスローガンとともに世界規模の銀行活動を宣伝している。本当かい。
フェルディナンドとイメルダは、サンティの死後、その書類を整理するなかで、三和銀行にある昭和信託の存在を知った。我々がコピーした資料によると一九八一年までに昭和信託は四半期ごとに三億ドル以上の利益、または年に十億ドル以上の利益を生み出していた。銀行オーナーの一人、裕仁天皇は間違いなく有利な利率の権利を有していた。(これらを示す資料はマルコスが権力を剥ぎ取られ、フィリピン政府にマラカニアン宮殿が没収された後、マルコスの個人金庫で発見された。)マルコス一族は、もし自分たちがうまくカードを使えば昭和信託を手に入れることが出来たと考えた。少なくとも、自分たちに利子支払い分のいくばくかを手に入れられたのにと思った。もし、合同信託のニュースが漏れ出たならば、いくつかの理由で日本政府やアメリカ政府にとってかなり具合の悪いことになるであろう。第一に、裕仁は大変貧しく、生計を維持するためには年俸二万二千ドルを与えねばならなかいという見せ掛けを日本政府はなおも維持していたし、第二に、日本自由民主党はその時、田中贈収賄を含むもうひとつの大きなスキャンダルにもがいていたのである。アメリカ政府にしても、日本はまったく無一文だと繰り返し宣言していたので、一九四五年以来の裕仁・マッカーサー合同信託の存在が開示されると、手の込んだやっかいな対策が必要になるであろう。
交渉人ナティビダッド・M・ファジャルドを含むマルコスチームは、昭和信託の三人の受託者(ひとりの日本人とふたりのアメリカ人)を含む日本政府役人と非公式の協議のために東京へ飛んだ。ファジャルドは数多くの金輸送でマルコスのために行動した仲買人だった。東京へのファジャルドの旅はロナルド・レーガン一期目の大統領就任の間に発生した。レーガンはマルコス家の重要な友人だった。レーガンと妻ナンシーは一九七〇年、マニラのイメルダ文化センターの開館式にニクソンの個人的代表として参加するため、初めてフィリピンへ行った。それがマルコスとレーガンがお互いにたたえあう長い友情の始まりだった。ファジャルドとそのチームは東京に着いた時はじめて、彼らの東京訪問の真の目的を明らかにした。簡単に言うならば、マルコス家は、フィリピンのための財政支援策として偽装した膨大な支払いを受け取る代わりに、昭和信託について沈黙を守ることを申し出たのだ。彼らは信託からの四半期分の利息をマルコス家に譲るべきだと要求した。これは強請のごときしろものだ。日本政府は大変驚いて、ファジャルドと彼の連れを武装警備のもとで日本滞在中、都ホテルの部屋にずっと隔離した。そのせいで、いつも彼らは自分の部屋で食事を取らねばならなかった。
ファジャルドが東京からイメルダに送った一九八一年二月二二日づけの手紙には、「日本のフィリピン向けの財政援助は、マッカーサーが皇室に対し、信託の形で残したドル基金(原文ママ)からの蓄積した利息収入で構成されます。・・・・・我々は日本大蔵省の許可のもとでいかにして金を香港へ持ち出すかの手段を考案し・・・・フィリピンで大事業をなしている日本企業に対し融資されます。日本政府はその企業にカワサキがふさわしいと判断したことが明らかになるでしょう。皇族の手のもとにある信託金は、すでに大阪の三和銀行へ預金されており、香港への振替手配が整っています。これを実施するため、三〇年間、無利子でカワサキへ融資されることが明らかにされるでしょう。フィリピンのファーストレディのための大型経済発展計画を財政支援する金を出すのはカワサキになるでしょう」と書かれている。
ファジャルドにより交渉された取引が行われたかどうかは分からない。しかし、銀行の書類によれば、今日でも三和銀行香港支店に多くのマルコスの口座が存在している。日本政府は多分アメリカ政府にこの脅しについて訴え、そのことが直後のマルコスの失脚につながったはずである。しかし、アメリカ政府が最終的にマルコスに見切りをつけた主要な理由は、レーガンによる『虹のドル』戦略の失敗にある。レーガン大統領は政権のはじめに、一九七一年にニクソンにより廃止された金本位制にもどり、『虹のドル』と呼ばれる金本位の新しい通貨を導入すると宣言した。ニクソンの決断以来の一〇年間で、米国はひどいインフレーション、不況、そして高金利の時代を経験した。レーガンの対策は金本位制に戻ることだった。財務長官ドナルド・リーガンはこの政策が「途方もない好況」をもたらすだろうと言った。大量のドル紙幣が世界に循環していたので、もしその紙幣が金に兌換できるようになれば一九三三年以前の事態のように、アメリカ政府は金塊の需要に振り回されるはずだ。解決策は2段階方式だった。『虹のドル』は徐々に現行のドル紙幣と置き換えたとしても、一般大衆は『虹のドル』を金に換えることが出来なくする。『虹のドル』は中央銀行に保持されたときだけ、金に換るというのが『虹のドル』の特別な解決策となるだろう。この政策を実行するために、アメリカは、金価格を操作できるに足る大量な金の備蓄を必要とする。金価格があまりにも下落したなら、アメリカ政府は通貨価値を安定させるために金を買えばよい。もし金価格が高騰したなら、中央銀行は政府からの金塊を必要とし、政府は市場へ金塊を放出することで価格の高騰を抑制するだろう。これがレーガン政権の主要なプランだった。『虹のドル』制度に変更することは、ヘロインやコカインの麻薬ボスのように不正な現金を蓄えている連中が古い通貨を新しい通貨に換えなくてはならず、多くの金が隠匿場所から出てくるということを意味した。このことで連邦政府の赤字を減少させることになるだろう。
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708131 No.7384
>>7383
レーガン大統領は非公式にマルコスへ『虹のドル』を支えるため、闇の金の貯蔵分を貸してくれるよう頼んだ。いつものように、彼は金を貸すにあたり手数料をレーガンに請求することができた。マルコスにとって不幸だったのは、彼が要求した手数料がアメリカ政府が公正と考える以上に高かったことだ。当時ホワイトハウス職員だった人物を含む我々の情報筋によると、レーガンは古い友人が自分を失望させたことを嘆いたそうだ。昭和信託について日本政府を恐喝した当時の試みを考えても、レーガンのアドバイザー、特にキャセイはマルコスはやりすぎたと唱えた。マルコスを退陣させ、その過程で彼が貯めこんでいた多量の金塊を剥奪する時機が来ていた。キャセイは即座に行動に移った。その後数ヶ月の間に、国民のパワーはマニラの道路にあふれ、群集はマルコスの退陣を要求した。民衆の抗議の声が通りにあふれたとき、キャセイはリーガン財務長官、CIAのエコノミストのフランクヒ・ グドン教授弁、 護士ローレンスク・ リーガーとともにマニラに飛んだと言われている。
マルコス側近によれば、会談の目的はフェルディナンドを説得して七万三千トンの金を譲るようにすることだった。キャセイとリーガンはマルコスに最後のチャンスを示していた。リーガンはマルコスに、米国債務証書で八〇%、現金で二〇%と引き換えに金を譲渡する署名をするよう繰り返し説得した。マルコスは終末が近いと感じながら、現金で八〇%、債務証書は二〇%だけにするよう要求した。押し問答が無駄だとはっきりした時、ホグドン教授はマルコスに、「二週間以内」に権力の座から降ろされるだろうと通告したと言われている。実際、数週間の後、マルコスはハワイで事実上自宅軟禁状態だったのである。同じマルコスの側近によると、大詰めでの次の動きはキャセイ、リーガン、ヒグドンとの会談数日後にあり、三者委員会の使者が、マルコスに地球開発基金に対して金塊で五百四十億ドルを提供することを求める内密の要求書を手渡した。その場に居合わせていた我々の情報筋によると、マルコスは文体が華麗なその文書を一瞥し、軽蔑したように発送済書類入れの中に放り投げたと言うことだ。特使は急いでマカティにある三人委員会の事務所にもどり報告した。三日後、マルコスはレーガン大統領の仲介者、ネバダ州上院議員ポール・ラグゾールトから最終提案を与えられた。その時までマルコスはマラカニアン宮殿で事実上立てこもり状態だった。狼瘡をわずらい腎臓と肝臓が衰えた重病の男、マルコスはあきらめて米軍ヘリコプターで救出される見返りに自分の「金」を剥奪された。
その晩、荷船がパシグ川を宮廷まで引かれ宮殿の地下倉庫、大統領保安部隊の敷地や宮殿に隣接したビルの地下倉庫からから多量の金棒が積み込まれた。この作業は一晩中続けられ、多くの人々に目撃された。明け方、荷を積んだ船はマニラ湾そして、最終目的地のスービック湾の海軍基地まで引かれた。その基地で金は最初に軍用品地下倉庫に保管され、その後アメリカ海軍の大型船に乗せられたと言われている。(アメリカ政府は一九五〇年以来公式に金の在庫を監査していないので、その後に金に対して何が起こったかを述べるのは難しい。ただ、アメリカ政府は八千トンの金を所有していることは認めている。)その晩、アメリカ陸軍のヘリコプターがマラカニアン宮殿の庭を急襲し、マルコスファミリーとその取り巻きを積み込んだ。マルコスたちが驚いたのは、マラカニアン宮殿からイルコス・ノルテにある彼らの本拠地に連れて行かれたのではなかったことである。彼らはイルコス・ノルテで自分たちの領地のための防御物を築く計画だった。彼らはハワイの軟禁所に連れて行かれた。「我々は救出されたのではなく、誘拐されたのだわ」とイメルダは噛み付くように言った。イメルダはホノルルに彼らが到着した時、持っていた数十億ドルの価値のある金証明書をアメリカの税関職員が押収したと言った。税関が用意した公式リストにはその証明書は載っていなかった。
その後、イメルダはアメリカ財務省が証明書を押収したことを認めたと主張した。しかし、専門家は証明書のすべては偽造であると決定した。我々が見てきたように、金の証明書を偽造品だと非難することは、本物であったとしても、決まりきった手順だろう。これが押収品に対して一般的に行われるやり方である。このような事情を考えると、今もしくは将来に銀行が金持たちから預かった金証書を偽物だと告げる大きな可能性があるにも拘らず、金持ちが銀行に金を預け続けるのは不思議に思える。そんな詐欺の気配があるなかで、財務省が押収された金の証明書に対してどうしたかを詳しく知ることは興味深いことである。リーガン財務長官は確かに多くを語っていない。彼とCIA長官キャセイは、イラン・コントラ時に資金洗浄と銃密輸で果たした役割で不評を招き辞任せねばならなかった。イラン・コントラ事件でキャセイが果たした役割を見れば、外国政府を操作したり、アメリカ国内の右翼民兵に資金援助をするため、日本の略奪品を不法に使った事件でも彼が任務を果たしたことは十分認識できるものだ。
マルコス家がハワイに到着したときに、彼らから金品をまきあげたり、彼らの金証明書を押収したりしたことは十分に価値のあることであったが、多くの疑問がうやむやのままである。はじめに、どうしてイメルダとマルコスは自分たちの闇の金を他人に管理されている銀行に移そうと主張したのか。全てを押収されたらどうするつもりだったのか?ハワイで、ふたりは苦労して海外に隠した金塊を引き出すことが出来ないことを理解した。腐敗し失脚した独裁者がやったように、金塊が不正に取得されたという口実で彼らの口座は封鎖された。これがアメリカ政府の態度であったが、アメリカは三〇年以上マルコスと同盟を結んでいたのだ。スイス政府はマルコスがスイスの銀行にいくばくかの金を所有していることを簡単に否定して、より現実的な態度をとった。世界中の銀行家たちはマルコスの口座については何も知らないと言明した。ホノルルで彼らがもはや勘定を払うことが出来なかった時に、フェルディナンドは旧友ドン・エンリケ・ゾベルに危機を乗り切るために二億五千万ドルの借金を頼んだ。ゾベルによると、マルコスは借金の返済能力があることを示すためにゾベルに金証明書を見せた。その証明書はアメリカ税関に押収されていなかったものだった。これらもまた後になって、アメリカ財務省によっていかさまであると宣告された。
数ヵ月後、ますます、むくんで黄疸症状の進んだマルコスは、自分と友人に大量のマクドナルド・バーガーとポテトフライを買いにやらせた。食事のさなか、マルコスはビッグ・マックをのどを詰まらせ、ひどく咳き込んだ。翌朝、一九八九年一月一五日、彼は肺の虚脱のためホノルル・セント・フランシス・メディカルセンターに入院し、同九月の彼の死まで、生命維持装置をつけたままだった。そんなふうに、アメリカ政府の歴史の中でもっとも腐敗した関係のひとつが終わった。もしくはそのように思われた。サンティーは死んだ。マルコスも死んだ。一九八七年の五月にキャセイは死んだ。しかし、エンタープライズを作った多くの民間組織の指導者たちはフィリピンの地中に多くの戦争金が残っており、サンティーの世界中の銀行口座は手つかずのままだということを知っていた。彼らは地中から、もしくは銀行から金を回収できるかどうかを確認しようと決めた。どこをさがすべきか正確にはわからないので、ジョン・バーチ・ソサエティは彼らにロバート・カーティスに接近して、過去のことは本当に過去のことなのか確認するようにせかせた。
(訳注、マルコス政権の崩壊は我々リアルタイムで見ていた。今から思えば民主化運動と言うのはこのような理由で行うのかと言う事に驚く。そして、今でもその手法は世界のあらゆるところで実施されている。きっと、そんな程度なのだろう。まさに、びっくりだ。レーガンのレインボーダラーも初耳だ。もし本当なら暗殺されかけたのもうなづけるし、成功していたら大変に良かったのに。)
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708131 No.7385
>>7384
黄金の兵士 第十四章 危険人物たち
ロバート・カーティスはフェルディナンド・マルコスとの金の探索に関係したことで大きな代償を支払った。しかし、カーティスは頑固に戦後明るみになる日本軍の財宝地図の唯一のフルセットを、今でも持っていた。ゆっくり自分の転落人生を元に戻そうと、彼はスパークスからラス・ベガスへ転居し、そこで大きなシボレー販売特約店の販売部長になった。暇なときに、彼は地図を調べ、ゴールデン・リリーの地図製作者が暗号化した謎の多くを解明し、次に(次があればの話だが)どのようにして金塊回収に取り組むかを決定した。だから一九七八年のある日、電話が鳴った時、彼は自分に幸運が巡って来た事をなかなか信じられなかった。信頼している彼の知人が、カーティスに外国の外交官と会うように依頼してきたが、その外交官の政府は、フィリピンで、大掛かりな秘密の戦争金塊の回収に対する支援を望んでいた。待ち合わせの場所はラス・ベガスホテルで、カーティスは西の大国の「首相」と直接の接点を持った。「首相」は潜水艦を含むすべてを準備しており、半々で山分けしようと申し出てきた。我々が、その国の名前も、首相の名前も明かさないという条件で、カーティスは以下のことを詳しく話した。(訳者注、参考までに、当時の日本の首相は福田(十二月まで)、と、大平だ。)
「首相」は初期のマルコスの金回収活動も、カーティスが演じた重要な役割についてよく知っており、カーティスに、潜水艦による深夜の金塊回収に適した場所を選ぶよう依頼した。カーティスはコレヒドール島を選んだ、そこに3ヶ所の大きな貯蔵所があることを知っていたからだ。国際的な紛争を避けるため、首相直属の海軍は、部下を海辺に配置して貯蔵庫を開ける様なことはしなかった。なぜなら、海辺に配置するだけで部下は逮捕される可能性があるからだ。一台の巡洋艦は南シナ海の国際水域のルゾン沖に停泊した。その潜水艦は海岸にかなり近づいたが、特殊部隊がゴムボートを出し、海岸から金の延べ棒を回収する夜まで水中に潜ったままだった。貯蔵所を開けるのも、金塊を海岸に運ぶのもカーティスまかせだった。マルコスはなおも権力を持っていたので、カーティス自身はマニラへ行けなかった。なぜなら彼は逮捕され、殺害されるだろう。そのかわりに、彼は数人の部下を送り金塊を発見させて海岸に金塊を運ばせることにした。そして彼の部下たちは潜水艦から送り出す事が出来た。
「これはわくわくすることだった」カーティスは我々に言った。「私はマルコスには腹を立てていたから、これで五分五分になるわけだ。でも、その辺の事情については、決して話すことはできないだろう。」金持ちになることで、多くの傷は癒されるであろう。「私はコレヒドール島の南端を選んだ。そこはオタマジャクシ型の島の頭部にあたるとこだ。と言うのは、潜水艦には海が深くて都合がいいからだ。大変狭い海岸に向かって断崖を下りるため、私の部下たちはふたつの峡谷のひとつを横断しなければならなかった。」満潮時に海岸は水面下に沈んでいるので、いいタイミングをはかることは、非常に重要なことだ。特殊部隊がゴムボートで近づくには、月の光がない夜で干潮時である必要があった。コレヒドール島はマニラ湾の入り口で、バタン半島沖にあった。バタン半島のマリベレスにマルコスは避暑用の宮殿を持っていた。島は東西に広がり、西側のオタマジャクシの頭の部分をトップサイドという。低地で東側のしっぽの部分は、ボトムサイドと呼ばれた。コレヒドール島の住人はボトムサイドのサン・ホセの町に住む6人だけだったが、毎朝観光船がマニラから到着する。狙いの場所として、カーティスは旅行者用に踏み固められた小道のはずれにあるモルタルの砲床、クロケット砲台の下にあるコンクリート製の防空壕を選んだ。アメリカ沿岸警備隊は、千九百一年にこれらのモルタル砲床を建設していた。コンクリートの厚板の下に、交差するふたつのトンネルが最初は軍用品の倉庫として使用された。千九百四十二年のバタンとコレジドール防衛戦の間に、一斉射撃によるクロケット砲台への直接の着弾により、火薬庫は吹き飛ばされ、多くの防空壕が破壊された。
日本軍が支配権を手にした後で、秩父宮は破壊された砲床の下のコンクリートに裏打ちされたトンネルを見て、そこに金の延べ棒(六十五ポンド、約三十kgのバー)を隠すことを決め、六フィート(1.8m)の厚みのコンクリートで覆い、元のままの砲床に見えるようにした。クロケット砲台が爆破されたことを誰かが覚えていることなどありそうもなかった。冶金化学者として、サーマイト(テルミット)を十分に強化できれば、それを使ってコンクリートの厚板に人間サイズの穴を焼ききることが出来る、とカーティスは考えた。サーマイトはアルミニウム粉と酸化鉄粉が等分の簡単な化合物である。ひとたび着火すると、大体三千℃ぐらいで燃焼する。サーマイトは第二次世界大戦の間、焼夷弾としても使用された。今日では、サーマイトは防壁を貫くため、あるいは熱感知ミサイルに対する熱おとりとして使用される。サーマイトを着火するのはかなりの熱が必要だ。最も簡単な方法は、線香花火を着火するためのマッチを使うことだ。それはサーマイトを着火させるに十分な熱で燃える。ネヴァダ砂漠で、カーティスは六フィート厚さのコンクリート厚板を使ったテスト台を手配し、普通のサーマイトでは時間がかかり過ぎることを確認した。彼は他の配合物を加え、サーマイトを強化して、五千℃近くで燃える化合物を手に入れた。「こいつは、四十分で六フィートの厚みのコンクリート板を焼き切り、一人の人間が這って入れるだけの大きな穴を開けることが出来た。」、と彼は言った。
カーティスは二人の男だったら金塊を発見し、浜辺まで運ぶことが出来ると考えた。彼は二人の男を知っていて、二人はこの仕事に適任のようだったし、彼らはやる気まんまんだった。二人とも“ボー”グリッツエ大佐と特殊部隊にいたので、カーティスは、彼らなら何とかやれると考えた。「一人は大柄の男くさい軍人タイプだった。ラスベガスの大会社で保安部の主任だった。彼には、ラスベガスの元保安官の息子で似たような経歴の友人がいた。」、とカーティス言った。彼らをゲーリーとマイクと呼んで置こう。二人は強化したサーマイトの使用法を学ばなくてはならなかったし、峡谷のあちこちを何度も行き来し、浜辺まで金塊を何とか運び出すことが出来るよう、肉体的に強化する必要があった。この仕事のために、カーティスは馬具職人に二つの頑丈な金の延べ棒をかたどったリュックサックを作らせた。何週間にわたる激しい訓練の末に、ゲーリーとマイクは、一度に2本の金の延べ棒を何とか運べるようになったと判断した。強化サーマイトが入ったふたつの二十五ポンドのバッグは、たくさんの予備を持っていたんだろう。サーマイトは発火装置なので、飛行機では運ぶことはできなかったのだから。そこで、特別強化混合物は外交文書用の封印ポーチに入れられてマニラに運ばれた。
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>>7385
ゲーリーとマイクは、コレヒドールの熱帯雨林の小さな所で2週間生きるのに必要なすべてを集めた。つまり、マシェティ(なた)、食料と水、ハイテク寝袋、防蚊ネット、薬、コブラ毒血清などである。二週間あれば、金の延べ棒を運び出して、西の大国の首相を満足させれるはずだった。フィリピン入国の口実として、カーティスはゲーリーとマイクが、福音伝道の任務にはじめて就くモルモン教の伝道師であるという人物証明書を手に入れた。二人は飛行機でマニラに飛び、安全な外交エリアである大使館邸に泊められた。二人は調査のため、コレヒドール行きの遊覧船に乗った。砲台付近には彼らが考えたとおり、人はいなかった。他の観光客と一緒にマニラに帰り、二人は道具類を集め、外交官にバタンまで車で送ってもらった。そこはコレヒドール島の向かいにあるカブカベンと呼ばれる港町で、二人は明るく塗装されたアウトリガー(船外浮材)と、手ごろサイズで、船外モーター付のフィリピンの小船であるバンカを借り、雇われ船長なしで小船を使えるよう高額の前金を払った。二人の道具類を積み込んだら、バンカは荷物の積み過ぎのようだったが、そのオーナーは大丈夫だと保証した。二人はオーナーにはキャンプに行くのだと説明した。潜水艦で彼らを浜のほうまで運ばせ、ゴムボートに乗せたほうが賢明だったろうが、ある理由でそれは考えられなかった。暗くなる1時間半前に、ゲーリーとマイクは目的地のコレヒドール島へ目盛を適当にセットし出発した。そこに着くには一時間かかった。彼らは漁師のように海上を動き回り、闇がやって来た時、急いで海岸に向かった。ゲーリーとマイクは兵士であって船乗りではなかった。彼らは海については殆ど知らなかった。漁師なら誰でもソッド法を知っている。状況が悪くなるなら、それは悪くなるのだ。(マフィーの法則のことだ。)マニラ湾からの流れる強い潮があるから、彼らは目的地へまっすぐ向かうべきではなかった。彼らは潮に向かって進むべきだったし、潮に彼らの目的地まで運ばせるべきだった。マニラ湾の入り口で潮に逆らって進むことは、船外機のモーターでは大変なことだとわかった。しかも、モーターが動かなくなってしまった。バンカは南シナ海の大きな波のうねりで遠くまで流され、彼らは必死にモーターを再起動させようとした。いくつかの砕ける波が、船べりから彼らを襲った。彼らの低い幹舷を水あぶくだらけにした。殆ど彼らを水浸しにし、リュックサックもサーマイトも流れ去ってしまった。このエリアは悪名高い鮫が、大都会マニラからどっと流れてくる犬の死骸や生ゴミをあさって食べるところで、二人の男はひどく怖がった。ボートを軽くするため、彼らは装備の残りを捨てた。幸運にも、その時モーターは息を吹き返した。彼らはバンカをターンさせてバタンへ引き返すことが出来たのだった。
真夜中過ぎ、彼らはよろめくように浜へたどり着き、電話を見つけ、ネヴァダにいるカーティスを呼び出した。カーティスはびっくりし、そしてがっかりした。彼は仕事を打ち切ろうと主張したのだが、ひとたび陸地に戻ったゲーリーとマイクは、恐怖から快復しつつあり、面目を保つことを必要とした。彼等は星型ドリルと大ハンマーを使いコンクリートの厚板に穴をあけようと主張した。カーティスはうまくいかないことを知っていたが、ゲーリーがどうしてもと主張し、しぶしぶ承知した。ゲーリーとマイクにとり、ショックと失望がとても大きかったため、外交官がより強化されたサーマイトを運んでくる間、二人がおとなしくしていることはできなかった。マニラに帰って、ゲーリーとマイクは新しい備品と道具を買い、ふたたび手数のかかるバンカを借りた。今度はバンカをコレヒドールに向けたのである。カーティスが予想したように、コンクリート板に穴を開けることは絶望的だとわかった。2日間で彼らはたった3インチの深さの穴を開けただけだった。彼らは再びバタンからカーティスに電話をして、もうお手上げだと言った。カーティスはワシントンの大使館に電話をして首相に言葉を告げた。バタン沖に潜水していた潜水艦は母港に呼ばれた。
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すべての金塊回収の努力が失敗に終わったわけではない。うまくいった発見は千九百八十年台にたまたま起こった。日本人グループはよく組織されており、秘密をしゃべらなかったので、彼らの情報管理対策は良かった。ひとつのグル-プは、我々がトシと呼んだ東京郊外に住む一人の男に率いられていた。彼は戦争最後の年にゴールデン・リリーに従事した諜報員で、その時、彼は20代前半であった。トシは自分の名前を明らかにしないという条件で彼の情報を話した。一九四四年から千九百四十五年にかけて、彼は秩父宮、三笠宮、竹田宮、南京事件の虐殺者である朝香宮鳩彦(やすひこ)と、しばしば一緒にいたと言った。トシはベン・バルモアが皇子の所へ、お茶や紙巻タバコを運んでいるのを見たと言ったし、その間、彼らはゴールデン・リリーの場所を見て回っていたのだ。戦後、トシは大学に戻り、父親からの財産を相続した。ハンサムで国際人、英語もフランス語も堪能なトシは、隠匿を手伝った金塊の回収に生涯をかけようと決意した。彼はマニラ郊外の庭付きの小さな家を買い、ひたむきな熱心さと、完璧な秘密主義で、彼の回収作業にとりかかった。彼の息子が大学を卒業すると、東京での金ビジネスを開業させた。
一九八一年に、トシはサンタ・マリア連山の金塊貯蔵所から大量の回収をした際、マルコス大統領と関与した日本人グループの中の一人だった。その金塊はジョンソン・マセイケミカル社により、マルコスが一九七五年にカーティスから盗んだ設備でこしらえた精錬所で処理された。マルコスが一九八三年五月に、ルクセンブルグにある一流の国際銀行を通して、多量の金塊を売った時、トシは自分が回収した金塊も含まれていると言った。最初の販売分だけで七十一万六千四十五本の金の延べ棒で、売価は千二百四十億㌦であった。取引は、仲買人を代表する大勢の弁護士により署名されたが、彼らはロンドン金プールのメンバーだった。フィリピン大統領のレターヘッドのついた便箋に書かれた合意の覚書は、マルコス家が信頼した金塊を扱う婦人の一人、コンセハラ・カンデラリア・V・サンチアーゴによって署名されていた。(CD を参照)これらの書類はアメリカ領事により公証され、彼は書類を写真コピー
してCIA に手渡した。
取引での手数料を払ってもらったノーマン・「トニー」・ダカスによると、週に六十トンの金塊がクラーク基地から米空軍の飛行機で香港へ、運ばれた。最初の運搬分だけでも、マルコスがこれまでに行った最大級の取引のひとつだった。トシはルクセンブルグの取引から分け前を使い、日本で不動産を購入した。いろいろ購入したなかで、彼は東京郊外の鉄道駅の向かいにある高価な土地を購入して大きなアパートを建設し、その最上階には親族の全てを住まわせた。そして、その他の階をすべて賃貸にした。彼はアメリカに旅行をして、フィルター・キング・プラスを含む、地中の金属を探査する電子機器や地中スキャナーを購入したが、手の切れそうな新しい百ドル札の大きな札束から全ての代金を支払った。親切でのんきなトシは、いろいろな住居の前にいる自分が写っているカラー写真を取り出して満足していた。我々はこれらのカラー写真の幾枚かを持っているが、その複製を作れば必ずトシが誰かを特定することができるだろう。
おまけに沖での発見もあった。一九七六年、カーティスは中国沖に沈んでいる偽の日本病院船「阿波丸」を引き揚げて金を発見しようとするアメリカ人グループと接触した。「阿波丸」は一九四五年四月に米軍の潜水艦「クイーンフィシュ」に沈没させられた。潜水艦の艦長、チャールズ・エリオットロ・ ーリン司令官は軍法会議にかけられた。というのは、日本はチャールズが本物の病院船を沈め、死んだ二〇〇九人は殆どが患者だったと主張したからである。(ただ一人の生存者は読み書きの出来ない甲板員で、潜水艦に救助された。)戦後、阿波丸が偽の病院船で、軍需品や木枠に入れた戦闘機、重要人物の家族を南太平洋へ運び、戦争略奪品や、重要人物を日本に運んでいたことを示す記録が発見されたときに、ローリン司令官の正当性が立証された。実際、沈められた時には、阿波丸は五十億㌦の価値のある財宝を運んでいた。阿波丸は四十㌧の金、プラチナ十二㌧、十五万カラットのダイヤモンド、多量のチタニウムや他の戦略的物質を載せていた。飛行士、スコット・カーペンターとチャールズリ・ ンドバーグの息子であるジョンリ・ ンドバーグは海軍公文書の中で、沈没はどこで起こったかを正確に示している潜水艦の航海日誌のコピーを見つけ、さらに、当時も健在であった潜水艦の上級職員と共に、その事実を確認した。沈没船は中国の領海の近くに沈んでいたので、中国政府と取引をし、共同事業を実行し、回収された財宝を山分けにしようとしたが、うまくいかなかった。
彼らが自分たちで引き揚げ作業を始め、場所を正確に突きとめた時、彼らは中国海軍によって場所から追い払われた。中国政府はそれから回収作業を独力で行ったのだ。もっと面白い発見はオランダ客船、オプ・テン・ノート号の発見である。ジャワ沖でのこの船の捕獲は五章で述べられている。この船の名前は天王丸・氷川丸などと数回にわたり変えられた。オプ号は戦争の後半にはゴールデン・リリー作戦の業務につくため、病院船として時を過し、マニラ・横浜間で財宝を運んだ。戦争が終わる直前に、オプ号は二千㌧の金を積んで横浜に到着した。数日後、オプ号は日本の西海岸にある舞鶴海軍基地に移された。舞鶴は殆ど陸地に囲まれた湾なので、そこに沈められたどんな船も、強い海流や津波により動かされなければ、沈んだ場所の近くに残るということを意味していた。そこでオプ号は、海軍基地付近の丘にある地下壕からさらに多くの財宝を積み込んだ。ある夜の遅い時間に、オプ号は湾内に引き出され、船長と二十四人の乗組員は殺害され、船はキングストン・バルブを開けられ、船体は水にあふれた。殺害者たちは日本海軍の高官グループで、この財宝を自分たちで保持したいと願っていたのだ。彼らは、いつの日か帝国海軍の力を再構築するために財宝が使われると自慢げに言った。
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708131 No.7387
>>7386
一九八七年、オプ・テン・ノート号の回収作業は、この高官グループの残った生存者たちが、やくざの黒幕で、一九三〇年代から一九四〇年代に児玉と仕事をしていた笹川に近づいた時に出だしでつまづいてしまった。笹川はその後、インドネシアとフィリピンで、スカルノ大統領やマルコス大統領と協力して財宝を回収することになる。水中の回収専門家と、深い潜水に必要な機材が苦労して集められた。しかし、笹川の分け前をめぐる争いが原因で話し合いは決裂してしまった。一九九〇年にモリチョー社製の巨大な海上用起重機を所有する日本の大企業も参加して回収作業は再開された。またしても、深海の回収作業における国際的な専門家が集められた。彼らはディヴィコン・インターナショナル社所有の潜水艦を用意し、トレンス・タイド号と呼ばれるオーストラリア製の回収船に積み込んで運んだ。トレンス・タイド号は、シドニーにあるタイドウオーター・ポート・ジャクソン・マリーン・PTY社に所有管理されていた。(CDのカラー写真を参照)
回収作業の参加した者は我々に言うには、「財宝は無事にトレンス・タイド号に積み込まれ、参加した日本人がその晩、お祝いに海岸でお祭り騒ぎをしていた。彼らが騒いでいる留守中に、そのオーストラリア船はこっそりと錨を揚げ、財宝を積んだまま公海へ出て行ってしまった。船がいなくなったと判ったのは日の出前のことだった。」と語った。この三〇年間で良く知られた財宝ハンターはジョン・シングローブ将軍のニッポン・スターグループで、PMFSのエンタープライズ組織のひとつである。シングローブは太平洋戦争の終わり近くに、パラシュートでハイマン島に降り、日本軍の強制収容所から数百人の連合軍捕虜を解放し、国民的英雄となった。その後、彼は毛沢東が中国本土を制圧した時、韓国で身を隠しチャイナカ・ ウボーイの一人になった。シンブローブは、数十年の間軍事独裁政権をバックに、とりわけ芳しくない評判をたてられた韓国CIA(KCIA)の設立に関与していた。
シンブローブは長いCIA勤めのなかで、テッド・シャクリーやクライン、ランズデールを含む、全ての最も有名な冷戦主義者たちと一緒に仕事をした。一九七〇年代に彼は、韓国におけるアメリカ軍最高軍司令官であったが、その時、ジミー・カーター大統領といくつかの世論に対する基本的な意見の相違があり、彼は早期退職を余儀なくされた。彼は極右ではヒーローのままで、世界中の血で汚れた体制を支援するPMFの軍補助的代理人の一人だった。ランズデールやクラインのようなエンタープライズにいる彼の元CIAの仲間たちは、一九四〇年代のサンタ・ロマーナの回収、一九七〇年代のマルコスの回収について全てを知っていた。マルコスが権力を剥奪された後、ニッポンス・ ターとフェニックス調査会社と呼ばれる二つのPMFsがマニラへ金塊探索のためにCIAの情報と協力をもとにやって来た。ニッポンは香港で法人化され、フェニックスはロンドンで法人化された。
リベリアに登録されているヘルムット貿易と同様、両社はコロラドに拠点を置き、フェニックス・アソシエイツと密接につながっていた。フェニックス・アソシエイツは「未来の兵士」マガジンの発行人で、シングローブと親密な友人で隣人であるロバート・ブラウン大佐によって設立されている。シングローブは言った、「本来なら、埋蔵財宝の回収計画に関心など持たなかっただろう。しかしニッポン・スターグループは愚直な海岸の物あさりではない。そして、私は過去の経験で、フィリピンに埋蔵されてる日本の金塊の話は本物だと知っていた。」彼は付け加えた。「本当のところ、マルコスの百二十億㌦の財産はこの財宝に由来するもので、アメリカの援助を掠め取ったものじゃない。しかし、マルコスは、一ダースやそこらの最大の埋蔵場所からピンハネをしようとしただけだった。だから、百以上の埋蔵場所が手付かずの状態で残っているんだ。」
シングローブは、ニッポンス・ ターが取り分の一%を彼の「世界貿易国内委員会」に与える事と引き換えに保安顧問になった。一九八〇年代半ばを通し、多くの新聞記事は、ニッポン・スターが行ったフィリピンでの財宝発掘作業が幸運に恵まれず、失敗したことを明らかにした。発掘失敗が続いたため、彼らの資金支援者たちは、ロバートカ・ ーティスを呼ぶことを提案した。1987年1月の初め、カーティスはシアトルのアラン・フォリンジャーという名の人物から電話を受けた。フォリンジャーは「フィリピンの財宝」についてカーティスと会って話したいので、翌朝ラスベガスへ行きたいと言った。「それをどうして知っているのだ。」とカーティスは言った。「私はジャック・シングローブやニッポン・スターと一緒に仕事をしている。」、とフォリンジャーは言った。「君らはCIAだろう。私には興味のない話だね。」とカーティスは言って、受話器をたたきつけた。
翌朝、カーティスが九時前にシボレー販売代理店に仕事で到着した時、彼のオフィスに、二人の男、フォリンジャーと彼の次席のジョン・デンバーが待っていた。彼らは、実際はニッポン・スターと共同事業をしている、デンバーのフェニックス調査会社と呼ばれる団体であると言った。後にカーティスが言うには、フェニックス調査会社はCIAの隠れみのであり、フォリンジャーは本当はマニラのマグサイサイビルにあるCIA局の管理長かオフィス・マネージャーだったのだ。彼はCIAの局長ではない、局長は一等書記官か、普段は使節代理が就くことになる大使館の別のポストである。カーティスは彼等をショールームの外に放り出そうとした時、フォリンジャーが時計を指差し、「3分以内に国防総省の電話交換台から、たいへん重要な電話を受けるだろう。その電話で、これがどうしてこんなに重要なのかを説明されるだろう。」、と言った。9時きっかりに電話が鳴り、カーティスは陸軍補ロバート・L.シュバイツァーと話すことになった。シュバイツァーは、ホワイトハウス近くのエグゼクティブ・オフィス・ビルにある国家安全保障会議(NSC)で、レーガンの上級軍事顧問をしていた。一九八六年、イランコ・ ントラ武器スキャンダルが発生した時、現役勤務から退き、エンタープライズ組織でシングローブの仕事に加わった。
しかし、彼はまだNSCのビルに事務所を持っており、レーガン大統領が軍事面で助言を求める人物であり続けた。シュバイツァーはNSC時代の副官、ディック・チルドレス大佐を通じてNSCと関係を維持していた。ディック・チルドレスは極東担当大臣の地位にあった。この集団には他の人間として、防衛情報局の元局長ダニエル・グラハム将軍、統幕事務局の元会長ジャック・ベッセイ将軍、ジョージタウン大学の戦略研究センターを率いる元CIA副長官レイク・ ラインなどがいた。カーティスが言うには、シュバイツァー将軍は、いまエグゼクティブ・オフィス・ビルから電話をしていると彼に告げた。シュバイツァーは、レーガン大統領は(隣の部屋にいる変な老人だが、)フィリピンの戦争略奪品の回収をしようとするニッポン・スターとフェニックス調査会社の取り組みを是認しているという。
ホワイトハウスとCIAは否認権を維持しなければならないので、レーガンはその計画に公式の認可を与えることができないが、シュバイツァー将軍が言うには、スービック湾海軍基地とクラーク空軍基地の司令官に加え、前もってマニラのアメリカ大使館にも指令が十分に伝えられている。司令官たちは兵士・ヘリコプターの形で支援をし、地中の防空壕の中の金塊の保管を引き受けたのだという。シュバイツァーはカーティスの愛国主義につけ込み、シュバイツァー、フォリンジャー、ヴォス、そして他の大物たちと香港で会うように急き立てた。まさにその朝、レーガンはコーリー・アキノ大統から、「百%協力する」というメッセージを受け取っていたとシュバイツァーが言った。カーティスはジョン・バーチ協会や、マルコスや、バーチャーズと共謀しているアメリカ政府機関にはひどい煮え湯を飲まされていたので、こうした連中の誰とも何もしたくはなかった。一九七五年以来、彼はフィリピンからマルコスの金塊を動かす際の、CIAとエンタープライズの関与について多くを知っていた。彼はこうしたことの証明を満足するだけの数千ページの書類を集めていた。彼はふたたびひどい目に遭わされるのではないかと不安な気持ちを抱いた。
しかし、彼は愛国主義者であり、もしこのことで彼が経済的に立ち直ることが出来るのであれば、リスクを冒す価値はあった。少なくとも、彼は将軍たちが言うべきことや、レーガン大統領が将軍を通して言わねばならなかった事を聴くことができた。カーティスはしぶしぶ同意をして、一九八七年二月十一日、香港のマンダリンホテルにチェックインし、そこに連中が待っていた。四日間彼らはホテルの会議室で会い、一緒に食事をした。カーティスは今回、自分を守るため、会議のはじめから終わりまでの全てを録音すると主張した。(彼は全てのテープのコピーを我々に渡しており、以下に述べる多くのことを我々は知ることができた。)再び騙されないよう、カーティスは自分のパートナーとしてデニス・バートンを連れてきた。彼は国内税収サービスの主席犯罪調査官だ。もし、誰かがカーティスは今回間違って告訴されることはないと保証するとしたら、それは、バートンだろう。週の終わりに、彼らのもとにオロフ・ジョンソンが参加した。彼はスウェーデン人の霊能者でカーティスが絶対必要だと考えた人物だった。
会議が始まった時、シングローブは仲間に自分たちの最大の危険は、日本に略奪された国々が、戦争略奪品のこれ以上の回収を真の所有権が確立するまで、世界裁判所に凍結をさせるべきだと結束することだと言った。合計三十二ヵ国が、数千トンの金塊を収奪されたと主張していると彼は言った。彼はどこでこれらの数字を知ったかを言わなかったが、彼のグループは、一般国民が見ることができないアメリカ政府の書類を見ていたのだ。カーティスが驚き、怒り、失望したのは、シングローブがニッポン・スターへの資金援助を、ジョン・バーチ協会に引き受けるよう説得していたことだ。フォリンジャーにカーティスを引っ張り込ませたのは、ジェイ・アグニューの息子のダンだった。フォリンジャーのカーティスへの最初の電話は、シアトルのアグニュー法律事務所からのものだ。このことは全く奇妙なことで、一九七五年に経済的に、そして職業的にカーティスを破滅させ、彼を刑事罰に追い込んだのはアグニュー家だったのだ。それは十二章で述べた通りである。カーティスを破滅させていたが、アグニュー家は、もしシングローブとフォリンジャーがカーティスを仲間に組み込み、彼の地図と分析技術を活用できれば、ニッポンス・ ターのフィリピンでの回収作業に資金援助するだろうとシングローブに伝えた。
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708131 No.7388
>>7387
「アグニューは俺の人生を台無しにしたんだ、」とカーティスは言った。「そのくせ奴らは俺の助けを求める。あなたたちは、そんなことを許せると思うか。俺は20世紀最大の犯罪者、もしくはそんな意味の言葉で呼ばれてきたんだ。もし、それでも協力するなら、俺は本当に大馬鹿野郎だ。一九七五年にフィリピンから帰ったときまったくの無一文だったし、現在も無一文のままなんだぞ。」シングローブ、シュバイツァーの両将軍は、香港のマンダリンホテルでカーティスと取り組む間、アグニュー家の関与をごまかしていた。彼らはカーティスに、大掛かりな回収をするための最良のチャンスを申し出ているのだと言った。その回収には、レーガン大統領、アメリカ政府がずっと支援しており、アメリカ大使館やスービック基地やクラーク基地の司令官も支援している。それ以上の事はできないだろうと、彼らは言った。この連中は大物たちである。それは力強い口調だった。一九七五年、全てのアメリカの組織は大型のマックトラックのようにカーティスに迫り、同じ組織が、秘密の地図と特別の情報を使えるよう、路上轢死動物のようにこびへつらい、強く要請をしてきた。
カーティスは気分が悪くなったが、ここまで来た以上、しぶしぶだがその成り行きを見てみようと決めた。彼はとりわけシングローブは好んだが、彼らをみんな馬鹿だと思った。シングローブは先の一三ヵ月間に、二百万㌦以上を使い、数ヶ所で財宝回収を試み、失敗したことを認めた。彼は、二人の案内人、ドクター・シーザー・レイランというフィリピン人歯科医とその親友ポル・ジーガに、問題の場所へ案内してもらった。二人はニッポン・スターに信頼できるものだと主張して地図を与えていた。カーティスは地図を見て、すぐにそれが偽物だとわかった。カーティスはポル・ジーガと一九七五年に仕事をしたことがあったし、ジーガが戦中からの日本の財宝の埋蔵場所について直接情報をいくつか持っていることも知っていた。しかし、レイランを信頼することは全くなかった。もし二人が一緒に仕事をし、こんな偽物の地図を悪用したとすれば、彼らはお人よしの将軍を簡単にだましていたことになる。しかし、二人のアメリカ人の将軍に、おまえらは馬鹿だと、どのように伝えるというのか。
アラン・フォリンジャーはまじめで三〇台半ばの見栄えのする、かなり教養のある男であるが、彼はカーティスに言った。「最初の我々の作戦は、海の下の我々が支配している小さな埋蔵場所から個人な財産を探り当てることだ。そして、その中から金の延べ棒を1本取り出して、コリー(コリー・アキノ大統領)に見せることだ。そうすれば、我々は他の埋蔵場所についてアキノ政府の十分で完璧な探索と回収の許可を得るはずだ。」問題はこの場所が、カリタガン湾の礁にあるアンカー地域だとカーティスが気付いたことだった。ジーガとレイランは、数年にわたりだまされやすい人々に、ブルックリン橋を売るかのごとく、情報を不当に売りつけていたのだ。この二人の詐欺師たちは、無垢のプラチナで出来た錨が、日本海軍港の突端から押し出され、金の延べ棒がつまった銅箱を鎖で繋ぎ礁に沈めていると主張した。カーティスはこれが嘘だと知っていたが、自分たちは二人組みの詐欺専門家に騙され、金を巻き上げられていることを、冷戦主義者ジョン・シングローブのような男に言うすべを知らなかった。ニッポン・スターのダイバーが礁で何も発見できなかった時、ジーガは、錨と銅箱は「岩の裂け目に滑り落ちたに違いない。」と主張した。財宝を覆っている日本軍のコンクリート厚板は硬くて突き破れないし、潮の流れはニッポン・スターの潜水台を動かし続けたと投資家達に説明をした。
あるとき、カーティスは将軍たちに錨の場所について騙されていたと認めさせ、彼らが仕事をしている陸上の場所について教えるよう強く求めた。将軍等はカバイトはずれの町であるアルフォンソのこの場所へ、シーザー・レイランに連れてきてもらっていた。レイランは財産家だ。フォリンジャーがそのことを述べた時、カーティスは自分の耳が信じられなかった。レイランはニッポン・スターに、自分が少年のとき日本軍が隣家の下に掘った深い穴に財宝を隠すのを見たと言っていた。その家もまたレイラン家の所有だったのだ。のぼせ上がった将軍たちは、レイランに多額の月々の情報料をあたえ、掘り始めたのだ。何も見つけられなかった時、穴はもっと深かったと考え、さらに掘り続けた。一三ヵ月以上かけて、台所の下をまっすぐ四百フィート掘り下げ、泥を袋に詰め、夜にそれを運び去ったので、多くの隣人は何が起こっているのか知る由もなかった。この時までに将軍たちはかなりの金を使っていたので、あきらめることは出来なかった。地下水位は百フィート下だったので、次の三百フィートは海面以下を掘らなければならず、将軍たちはアメリカ海軍から深海専門のダイバーを連れてこなければならなかった。そうした深さでは、ダイバーたちは上に上がる度に、減圧室を使わねばならなかった。「想像してみろよ。」とカーティスはいった。「六フィート、六フィートの縦抗を三百フィート以上も潜り、その深さで、海中で穴を掘り、泥と岩を袋に入れるんだぜ、彼らは、日本人野郎が四十年台に、この穴をどうやって掘ったのだと考えもしなかったのかよ。彼らの財務記録を見ると、彼らはこのひとつの穴に百五十万㌦も費やしたんだ。俺は、彼らがレイランみたいな典型的なにせ情報に無駄な金を使うのをやめろと、彼らと大喧嘩しなきゃあならなかったんだ。」
カーティスはまた香港での陰口に驚いた。彼らは昔からの友達だと言ったが、テープの記録を聞くと、シングローブ将軍とシュバイツァー将軍は内心ではいがみ合っていたことがわかる。シングローブは個人的に安全対策は引き受けると主張した。彼は自分が信頼する唯一のフィリピン人は、アキノ大統領内閣の情報担当大臣であるテオドロ“テディ”ロシンだと言った。シングローブは、ロシンはアメリカ大使ステッペン・ボスワースとも親密な関係であると言った。「コリーは本当に何もやらない」シングローブは言った。「ボスワースと相談すること無しではね。」シングローブは、アキノ政権との合法的な契約書を持っているので、国の所有地も含め、フィリピン国内のどんな財宝隠匿場所も掘ることができると保証した。彼はカーティスに、大統領機動部隊の便箋に書かれウイルフレド・P.サン・ジュアンが署名した許可証を示した。(後日、サン・ジュアンには財宝回収に関するどんな種類の合意書も発行する権限がないことが判明した。)シングローブはマラカニアン宮殿の連中、大統領保安部隊、カバイトのマフィアのボス、特別の保安のために左翼新人民軍のゲリラ・リーダーにもわいろを贈った事を自慢した。とても多くの連中が賄賂を受けたので、その噂はひろまった。その結果、大変多くのフィリピン人はニッポン・スターとフェニックスの探索活動のことを知ることとなった。フォリンジャーは知的で理性的だったのに、全部隊には命令を出していなかったとカーティスは言った。そのため、将軍たちに怒鳴りつけられ、黙ってしまったのだ。彼らはフォリンジャーを詰問し、彼を厳しく責めたのだろう。彼らはせっぱ詰まり、カーティスに自分たちの失敗を何とかするように言った。彼は、どこを掘ったらいいかを教えることが出来たし、そうすれば、彼らも回収分の1パーセントは与えただろう。その謝礼額はカーティスがマルコスから受けていた申し出のように多額である。
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>>7388
まず、最初に彼らは、カーティスに迅速に財宝の回収が出来、マニラとワシントンの信頼を取り戻せる、簡単な場所の情報をくれるよう頼んだ。シングローブが実際にアキノ大統領からフィリピン共和国の土地で財宝回収をやっていいという許可を得ていると仮定して、(それはまず考えられないことだが、)カーティスは、コレヒドール島の目的の場所をほのめかした。彼はそこにいくつかの大きな場所があるし、すでに明るみに出ているけど、簡単な小さな場所もあると説明した。彼らは確かに注目されていたので、許可は絶対に必要なものだ。シングローブは彼の許可は正しいと主張した。シングローブはこの回収を達成するために部下を配置した。この時までに、シングローブは三七名のアメリカ特別軍と、デルタフォース(米陸軍特殊部隊)の将校を呼び寄せていた。彼らはマニラ国際空港に二人、三人のグループで到着したが、偽名と偽パスポートを使って旅行してきた。将軍たちが作戦を練っている間、カーティスはシボレーの販売部長としてサラリーマンの仕事を再開しにネヴァダへ帰ることにした。飛行機の中で、彼はとんでもない愚か者の船に乗り込んでしまったことに気付いた。シングローブとフォリンジャーは違った風に魅力的だし恰好よかったが、カーティスは彼らが目的を達成できるかは大いに疑問だと深刻に考えていた。
1週間後、彼はフォリンジャーから手書きの手紙を受け取った。彼のコードネーム“ジョージ”の呼びかけで手紙は始まっていた。「次の内容は、私が電話で話したくないいくつかの急ぎの覚書だ。ニッポン・スターの取締役会が開かれ、シングローブは予見される将来のために、フィリピン政府とは関係を持つべきでなく、公にはニッポン・スターから引き離されるべきだと決定した。このことは彼にとって承服しがたいことになるだろう。我々はシングローブに忠実な投資家による、敵対的乗っ取りに対処することになるだろう。」、彼はカーティスに、シングローブの現状行っている三つの金塊回収プロジェクト全てが中止されることになると言った。ニッポン・スターは、CIA、国防総省、国務省、国家安全保障会議出身の超愛国主義者(シングローブやシュバイツァーのような連中)のクラブとして存続する。しかし、その主要な目的は、現実に起こっていることから関心をそらすことにあった。そこで勇者たちは、戦争略奪品の回収を本気でめざし、世界の金市場に売りつける新フィリピン・アメリカ自由基金(PAFF)を設立しようとしていた。フォリンジャーは、自分たちの回収した最初の相当量の金塊はベンゲット社の買収するために使ったと言った。ベンゲット社は、フィリピンの一流金採掘会社で、マルコスがマイアミやナッソーに基盤を持つマフィアの助けを借りて、再精錬した戦争略奪品を輸出するために使っていた。ベンゲット社は世界の金市場へ闇の金を動かすためのPAFFのトンネル会社であった。フォリンジャーは、売上の多くがB―1爆撃機やレーガン政権のスター・ウォーズ計画のような防衛計画の資金供与に使われ「結局、我々が支配する新産軍複合体制を構築したのだ。」と言った。この手紙に添えて、フォリンジャーは、これら全ての連中と組織の関係を示す相関図を描いていた。(CD参照)
この共同事業のフェニックス調査会社とニッポン・スターの相棒として、フォリンジャーはカーティスとその友人、バートン(彼らをC&B引き揚げ屋と呼んでいた。)にこの政治的計画を支援してほしいと言った。カーティスは自分のために、是が非でも金塊の回収をして経済的に立て直しをしたかった。しかし、彼はこの連中と仕事をすることにひどく不安を感じていた。彼はフォリンジャーに、コレヒドール島の映画館の跡地での金塊回収に急いで集中するように説得した。この場所はカーティスが彼らに教えた最も容易で、最も簡単で、最も早くできる地点だった。数年前なら彼は一人で回収をやっていただろう。この地点はすべて周知の事実で、みんな知っていたので、政府所有地を掘る公式の許可が必要だった。どんな子供もそれをやる。しかし将軍たちにそれが出来たろうか。トップサイドにあったマッカーサー将軍の本部の向かい側に、爆破された映画館がある。映画館のそばの小さな隠匿場所に十八本の金の延べ棒が隠されているはずだ。もしどこを掘るべきかを知っていれば、シャベルで簡単に掘り出せるやわらかい土壌のたった十五フィートの深さにある。十八本の七十五㌔の金の延べ棒は、数百万ドルの価値があった。カーティスは一九七五年にそのことを知っていた。当時、彼とマルコスはヘリコプターで観光のためにコレヒドール島へ飛んだ。その日撮った一枚の写真を見ると、映画館のそばを二人がぶらぶら歩いており、その壁は銃弾を浴びせられているのが分かる。
ビラクルシス大佐はその写真を見た時カーティスに、東京で目撃者から聞いていた面白い話を聞かせた。それは竹田皇子とイチバラ(市原?)卿との会談の時のことである。目撃者は、日本海軍高級将校をコレヒドール島の本部ビルに訪ねていた、それはアメリカ軍が島を奪還するための攻撃をはじめた一九四五年二月一六日の事だったと言った。大型爆弾が映画館そばの通りに着弾し、十五フィートの深さの爆弾穴を開けた。海軍指揮官はまだ十八本の金の延べ棒を自分の部屋に置いていて、これはチャンスだと考えた。彼は事務所の職員に、金の延べ棒をその爆弾穴に降ろさせた。近くにあった小型ブルドーザーを使ってすばやく穴を埋めた。数分後、第十一空挺師団と第五〇三落下傘連隊、コンバット・チームの落下傘部隊員が地上に降り立った。戦闘は熾烈で、ひとりの海軍将校が殺された。三十年後、目撃者は、爆弾穴は正確にはどこかわからないが、映画館の近くにあったことを記憶していた。カーティスは、レバー・グループと仕事をしていたときに、コレヒドール島に戻って太平洋戦争記念館を訪れた。ロタンダ(円形大広間)の壁には、貴重なモノクロの空中写真が展示してあり、それは一九四五年の爆撃と攻撃を示しており、それぞれは数分間隔で偵察機から撮影されていた。午前十時十六分の写真は、映画館そばの爆弾穴が写っていたが、十時三十八分の写真では爆弾穴は埋められていた。
それで、カーティスは例の十八本の金の延べ棒がどこに隠されたかを正確に知ったのである。この金塊のおかげでフェニックス探索とニッポン・スターは、誠に厄介な財政支援者たちから解放させ、カーティスの知っている他の場所での数年にわたる金塊回収プロジェクトが可能になったのである。全ての準備が整った時、フェニックスとニッポン・スターから十人のアメリカ人がコレヒドールに到着した。彼らは一緒に周辺を警備するためにフィリピン人の兵士を連れてきたが、彼らは大統領保安部隊から派遣された軍曹に指揮されていた。アメリカ人の中にはフォリンジャー、レーガンの部下のシュバイツァー将軍、五人の大佐、ひとりのアメリカ海軍シール部隊員(特殊部隊員)、カーティスの仲間のデニス・バートンとジョン・レモンがいた。五人の大佐のひとり、エルドン・カミングスは、エル・サルバドルで秘密工作を行ったCIAのベテランだった。他の二人は‘ロック’マイヤー大佐、ジェイムス・ヨーク大佐で伝説に残るような人物だった。シール部隊員は同様に伝説的な人物のトム・ミックスで、GIMCOまたはGEOインナースぺースと呼ばれるなぞの多い会社に所属し、日本の財宝船の海上での金回収でニッポン・スターと緊密に仕事をした。
この連中は重要人物だった。あの日、彼らは全員トラブルに備えて重装備をしていた。映画館地点の回収作業を管理している五人の大佐と別れ、シュバイツァーはマニラ南部のアラバングにある彼らの隠れ家に戻った。まず大佐たちは地中抵抗性感知機を取り出した。一九八〇年代までに、感知器は三十フィート下の金塊がどの辺りにあるかを感知できるようある程度進歩していたので、大佐たちは金塊がまだそこに眠っていることを知った。次の五日以上、彼らは十フィートの深さの穴を掘った。彼らは次の日には金の延べ棒に突き当たることを期待した。そしてその日のあと、突然シューと言う音が聞こえ、三機のフィリピン陸軍ヒューイ・ヘリコプターが彼らの頭上までやって来て、騒音をひびかせた。ヘリコプターには防弾チョッキを来た重装備の兵士でいっぱいだった。二機が威嚇するように空中静止している時、一機が着陸して軽機関銃を持った兵士の一団が飛び降り、一人のフィリピン陸軍の将校が続いた。将校はアメリカ人たちにぞんざいに、自分は軍隊の長であるフィデル・ラモス将軍から、共和国の資産であるコレヒドール島からアメリカ人を放逐するために派遣されたと言った。フォリンジャーは彼に、シングローブが見せびらかしていた共和国に滞在できる大統領の許可書の手紙を見せた。将軍は署名を見て、「それは本物ではない。サンジ・ ュアンはそうした許可証を発行する権限をもっていない。」と言った。彼は直ちに島を退去するよう命令を繰り返した。
アメリカ人はテントをたたみ立ち去った。シュバイツァーは彼の厳選されたチームがコレヒドール島から強制退去させられたと聞いて、怒りのあまり青ざめた。彼はレーガン大統領に電話して、レーガンにアキノ大統領と個人的に仲裁させると脅した。カーティスは、それはよい考えではないので止めるように彼を説得した。フィリピン政府や軍部の多くの人間が、ニッポン・スターの傲慢なふるまいに腹をたてていた。マニラのジャーナリストは、ニッポン・スターはジョンとジョン・ハリガンによって、統一教会の金で資金援助を受けていたことを突き止めた。ニッポン・スターがマニラで最初に設立された時シングローブは闇市場で武器を買った。その中にはアルマライト製の武器や、グレネード・ランチャー(擲弾発射筒)も含まれていたが、シングローブは所持免許を取れなかった。それらの武器が盗品であることが判明したからである。彼はまた車をまとめて安く買ったが、その車も盗んだばかりの商品であることが判明した。それらの車は、マルコス秘密警察の長、ファビン・バーの所有であり、彼が亡命した時、車はひそかに売られ、バーはその金を着服した。シングローブがその車を登録しようとした時、その車は行方不明になっていた政府のものであることが明らかになった。こうした出来事は、フィリピン上院のジュアンポ・ ンセ・エンリレと狡猾な詐欺師たちが、ニッポン・スターはフィリピンの島々を踏みにじり、国家遺産の美観を台無しにしたと主張したことが物語っている。一人の熱烈なジャーナリストが次のように書いている。「もし、フィリピンが自由で民主的な社会を維持したいなら、内乱を工作したCIAの深淵に落ちたくなければ、アメリカ軍の武力侵入と配置という局面に備えるなら、そして、アメリカ軍基地の保持を進めるなら、このような民主主義の敵となる運動や活動は、緊密に監視され縮小されるべきだ。」フェニックスとニッポン・スターがコレヒドール島から追放された時、シングローブはワシントンでイラン・コントラ事件について議会で証言をしていた。「私はジャック・シングローブを好んだ。」と、カーティスは我々にきっぱりと言った。「しかし、彼は口を閉ざすことが出来なかったのだ」。
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708131 No.7390
>>7389
カーティスがフォリンジャーに、自分は共同事業から抜け出すつもりだと伝言した時、フェニックスとエンタープライズの幹部がラスベガスの彼の家に大急ぎで飛んできた。シュバイツァー将軍とシングローブも一緒だった。彼らは考え直すように懇願した。ある時、フォリンジャーは内密でカーティスと話したいと頼んだ。二人は外へ出て、エアコンが効いて、ラジオが鳴っているシボレー・ブレイザーの席に座った。「彼は、なんとしても俺を連れ戻さなければならないし、さもなければ彼らは、俺を抹殺すると言うんだ。俺は、あんた等はCIAなのかとたずねた。彼は、そんなもんじゃないと言った。彼は、ジオ・ミリ・テックから脅されていて、俺をどうしても留めなければいけなかったのだと言った。また、アグニューは、彼に厄介な問題を押し付けているとも言った。」しかし、カーティスは腹を決めていた。その決定的要因は、彼が、アラバングのニッポン・スターの隠れ家は、将軍シュバイツァーとシングローブと全ての大物がマニラ滞在時に住んでいたところで、その隣家はソビエト大使館のKGB諜報員が借りており、彼らが全てを監視し、録音していることに気付いたことにある。「我々は全ての窓を開いていた。」とカーティスは言った。「だから、彼らは窓のそばに機械を設置するだけで、無線通信も含めて我々の会話がすべて聞こえるのだ。その会話はその家で解読されたのだ。この件を知り、気が狂いそうになった」。
その後の数ヶ月で、フォリンジャーは何度も何度もカーティスと接触して、彼に考え直すように頼んだ。シングローブとシュバイツァーもまた電話をした。カーティスは頑として受け入れなかった。将軍たちは自分たちを責めることはなかった。だれもがフォリンジャーを責めたのだ。その後まもなく、フォリンジャーはマニラに戻る途中にハワイにいた、泳いだ後ワイキキの混んだ道を水着姿でぶらぶら歩いていたが、はだかの足を何か鋭いものを持つ通行人に切りつけられた。数日後、彼は呼吸困難をともなう激しい苦痛で病院に担ぎ込まれた。医者は貝毒を疑った。しばらくのあいだ、彼は殆ど虫の息だった。徐々に彼の調子は回復して、マニラの自分のマンションへ健康を回復させるために帰った。そのマンションはジュン・ミトラという名前のフィリピン人と共同使用していたものだった。友人がある朝訪ねて来た時、フォリンジャーは体重をひどく落としていて、呼吸困難をふたたび訴えた。彼は少しの食欲はあったので、友人にイタリア料理を買って来て欲しいと頼んだ。その友人が一時間後に帰った時、フォリンジャーは発作を起こしていた。彼らは近くのクリニックに飛び込んだ。彼は重症の気管支肺炎で、何かが彼の免疫体系をダメにしてい
た。すぐにもう一回の発作が出た時、彼の心臓は止まり、彼を蘇生させる試みはうまくいかなかった。
ワイキキ海岸での出来事について、カーティスは言った、「アランの仲間のひとりは後に、暗殺であったに違いないと私に言った。」ハワイで何が起こったにせよ、マニラの病院の臨床記録に殺人を示すものはない。しかし、証拠がないことが、なにもないことの証拠ではない。フォリンジャーはたいへんな精神的抑圧にの中にいた。精神的重圧はカーティスにも同様に大きな犠牲を強いていた。カーティスが一九八七年七月、サン・フランシスコへ旅行した時、そこで将軍たちと続いていた関係をすべて解消したのだが、ひどい胃の不調を覚え、緊急手術を受けねばならなかった。彼が麻酔からさめた時、ひどくへばらせる鎮痛剤を打たれ続けていた。病院での彼の見舞い客の一人は、チャールズ・マクドゥーガルという名の全くの見知らぬ人物で、山下将軍の金塊について本を書いていると言った。元グリーン・ベレー隊員のマクドゥーガルは、フィリピン大学で暫く勉強をし、そこでノエル・ソリアーノ保安局長と親密な友人になったと言った。ノエル・ソリアーノ保安局長は当時アキノ大統領の国家安全顧問をしていた。
マクドゥーガルは病院をたびたび訪れ、カーティスにいろいろな財宝隠匿場所について語った。カーティスは頭がぼんやりした状態で、マクドゥーガルであればソリアーノ保安局長との関係さえ確かなものだとすれば適当な相手かもしれないと考え始めた。彼らはサンチアーゴ要塞で、復興計画を装った財宝保管所の探索をするのはどうかを議論をした。マクドゥーガルはソリアーノ保安局長にその考えを切り出し、ソリアーノ保安局長はアキノ大統領と相談をし、大統領は了承した。彼らは、秩父宮が砦の地下3階にある通風孔の下に隠していた金塊を探すつもりだ。計画はカーティスに率いられた国際貴金属(IPM)と呼ばれた新会社によって行われる。マクドゥーガルも参加し、フィリピン政府が上前をはねた後、儲けを確保する。掘削は各段階で必要なアキノ大統領の許可のもと、徐々に進められる。彼らは日本人がわからないように置いていた埋め戻しを掘り、ドリルの先っぽで金塊をさぐり、金塊にめぐり合えるよう、そして、彼らが掘削を続けるために必要なアキノ大統領の要求する証拠、つまりコアサンプルを得ることを期待して穴を開けた。作業は、まる一日中掘り続ける若いフィリピン人のチームで始まり、落盤を防ぐため木製の支柱が組み込まれた。そこには四つのタイプのわながあった。最もはっきりしているのは百、二百五十、五百もしくは千ポンドの航空爆弾で、バネをいじると爆発する。埋め戻しの中に置かれたシアン化物のびんは簡単に壊れる。いくつかの場所に、簡単に穴の中を水浸しにするテラコッタ(素焼き)の大樽があった。まれではあったが、砂のわなもある、粘土層と細かい砂を互い違いに作られている。もし作業員がそれをいじれば、粘土が崩れ、掘る人間を困らせ、細かい砂はひとを窒息させるだろう。だから、丈夫な支柱は欠かせなかった。カーティスは、支柱は掘削の進行に合わせて設置しなければならないと厳しい命令を与えた。しかし、彼は丸一日現場にいることは出来なかった。金塊にたどり着くための重圧が重なったので、作業者も監督も注意を怠るようになった。
ある深夜、トンネルの奥深くで作業をしていた三人の男たちが、支柱の上でかなり動いた。急に砂のわなが破裂した。多量の砂が流れ落ち、二人の男が粘土の厚板のために命を落とした。三人目は、瓦礫の中から足を突き出していて、生きて引っ張り出された。カーティスと保安局長ソリアーノ保安局長は事故の通知を受けていたが、誰も民衆の抗議に備えていなかった。ジャーナリストはサンチアゴ要塞に殺到し、フィリピン上院は調査を要求した。マルコスの取り巻きは攻撃を先導し、死者を出したうえ、「国の記念物を冒涜した」と、カーティス等を責めた。彼は、もう少しで回収できそうな金塊はフィリピンの国家負債の支払いに充てることが出来ると反論した。アキノ大統領は彼を支持した。大統領はIPMにあと九十日間発掘を続ける許可を与えた。カーティスは金の貯蔵場所にぶち当たるほんの数メートルにいることを知った。それを証明するために、掘削機を持ち込み掘り下げた。十二番の穴を掘削したとき成果があったのだ。一九八八年、四月二十三日にドリルの先端が金塊、大理石、木のかけらをさぐりあてた。ゴールデン・リリーの地図は、金の延べ棒が大理石の厚板の上の木箱にある事を示していた。カーティスは金脈を掴まえたのだ。
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708131 No.7391
>>7390
彼の電子感知機が、掘削した穴のすぐ左に小さいが重要な物質を捉えた、それは恐らくベンが言った、最後の瞬間に財宝のつまったドラム缶を埋め戻しに加えたものだ。数百万ドルの値打ちのシロモノだろう。アキノ大統領はずいぶん喜んだ。またしても、舞台裏で困ったことが発生していた。資金調達者のジョージ・ワーティンガー(資金調達者)はネヴァダから自称建築業者、アーニーウ・ イッテンバーグ(自称建築業者)(自称建築業者)と一緒にもどった。
ウイッテンバーグ(自称建築業者)の資金は麻薬取引によるもので、後に起訴され、収監されたのだ。ソリアーノ保安局長とマクドゥーガルの二人は最初から、ワーティンガー(資金調達者)がウッテンバーグの麻薬マネーをつぎ込んでいることを知っていたが、誰もカーティスには言わなかった。カーティスが抗議した、すると、ウイッテンバーグ(自称建築業者)は、カーティスが解任され帰国する条件で、計画の利権を五十万㌦の現金で買取ってやると対抗してきた。カーティスが金塊の場所を突き止めたとなれば、彼はもはや用なしだった、テレサ2の場合の二の舞だ。
フィリピンで金塊の回収を望む金の亡者(投資家)は、誰でもカーティスの力を必要とした。それは彼が地図を持っており、地図をよく分っているからだ。しかし、カーティスが、金塊のあり場所を特定してしまえば、彼は用なしだろう。これは財宝探索の典型で、本や映画「シエラ・マドレの宝」でもパロディ化されている。貪欲は自己中心を増大させ、自己中心は、貪欲を増大させるのである。「ソリアーノ保安局長は、私に、ウイッテンバーグ(自称建築業者)の金をもらってやれといったのさ。」、とカーティスは我々に言った。「でも、そいつは麻薬マネーなので、ビタ一文欲しくはないんだ。」ソリアーノ保安局長はその時、カーティスにサンチアゴ要塞の財宝地図を、そしてマニラのあとひとつの重要な場所、ボナファシオ橋の財宝地図をこっそりと渡すよう頼んだ。カーティスがきっぱりと拒絶した時、国家保安局長は厳しく非難した。彼はカーティスに、直ちにフィリピンから出て行かないと、アキノ大統領にIPMに与えた金塊探索の許可を取り消させると言った。もしカーティスが協力するなら、ソリアーノ保安局長はカーティスをいずれ呼び戻しただあろう。もし彼が退去を拒否したなら、彼は逮捕され、彼に対し告訴状が提出されただろう。
顔をゆがめて彼は荷物をまとめアメリカへ帰った。大陪審証言によると、カーティスが去った時、ソリアーノ保安局長とマクドゥーガルは全面的な協力者としてウイッテンバーグ(自称建築業者)を雇い、サンチアゴ要塞での発掘作業を進めた。チームのメンバーは、彼らが二四本の小さな金の延べ棒、金貨・銀貨、宝石の原石を詰め込んだドラム缶を発見したと証言した。カーティスが穴を開けていた主たる目的物はそこから数メートル下にあった、しかし、彼らは程なくその上に到達したのだろう。彼らはまた、ボナファシロ橋で掘り始めたが、そこにウイッテンバーグ(自称建築業者)を責任者として配置した。一九四二年に、パシグ川に架かるこの鉄道橋は、アメリカ軍の退却の時に爆破された。橋はすでに落ちていたがその大きなコンクリート製の橋脚台はまだもとの場所にあった。
その後に、ゴールデン・リリー部隊はひとつのコンクリートの橋脚台の下に深い貯蔵場所を掘り、おばけ金庫の中に五十㌔の金の延べ棒三百四十㌧分を隠した。(一九八八年の相場で45億ドルの価値である)、貯蔵物はもともとのコンクリートに似た厚板で隠された。彼にとって不運だったのは、カーティスは彼のパートナーに、貯蔵庫の側面から掘削すれば突き破るのは簡単だとはっきりと言っていたのだ。彼がその場所で単独の作業をいつも避けたのは、近くにハイウエイがあり、人目につきやすかったからだ。アキノ政府がタイミングよく、ハイウエイのルート変更をしたので、ウイッテンバーグ(自称建築業者)、マクドゥーガル、そしてソリアーノ保安局長は全ての通りかかる車やトラックに見られることなく、掘削装置を使うことが出来た。ソリアーノ保安局長は公式の許可を手配し、数人の無断居住者を追い払った。バオンファシロ橋での作業は、カリフォルニアの投資家のクレイグネ・ ルソンが、十万ドルを出して、直径六フィートの穴を開けられる掘削機を持ち込んだため急速に進んだ。十一月の三十日までに、彼らは橋脚の下、百七十フィートまで進んだ。ネルソンが進行をチェックするためその朝現場に到着した時、彼はアーニー・ウイッテンバーグ(自称建築業者)が大変興奮しているのに気付いた。「ジャップに触ったぞ!」、とウイッテンバーグ(自称建築業者)はわめいたが、それは、彼らが目指すものにたどり着いたことを意味する合言葉だった。
ネルソンは後に証言した。「アーニー・ウイッテンバーグ(自称建築業者)は我々に、エレベーターで穴の下に下りた時、はっきり見える八台の金庫のうち、二つに触れたと話した。」、ネルソンが言うには、ソリアーノ保安局長は発見した金塊を運ぶため、陸軍のトラックを持ち込む腹だった。金塊がたいへん重かったので、一回分として、たった二五本の金の延べ棒がエレベーターで運び上げられた。そこには、六千本以上の金の延べ棒があったのだ。ソリアーノ保安局長は直ちに太平洋横断電話をマクドゥーガルにかけ、マクドゥーガルはカリフォルニアへの旅行を切り上げてマニラへ飛んで帰った。翌日ネルソンは言った。「マクドゥーガルが言うには・・・・、私(ネルソンのこと)はアーニー・ウイッテンバーグ(自称建築業者)を誤解していたに違いない、・・・・アーニー・ウイッテンバーグ(自称建築業者)は、実際には金庫を見ていなかったのだと。」、ネルソンは言う、「マクドゥーガルは、自分たちは金庫の入った部屋にはまだ到達していなかったと主張したのだ。」
ネルソンは自分が騙されていたことを知り、探索場所に戻り調べようとしたが、掘削機の支払いまでさせておきながら、入ることも許されないことに気づいた。すべてのフィリピン人作業員は家に帰され、橋周辺の警備は二人の重装備したアメリカ軍特別部隊に引き継がれていた。二人はマクドゥーガルの知人で、一人はこの警備のために通常任務から休みを取っていたと言われている大佐である。マクドゥーガルはすべての関係者に、水が穴に溢れてしまったのでこの計画をあきらめなければならなかったと言った。リザル州の警察局長であるキャンソン大佐によれば、マクドゥーガルに二台の軍務トラックをあてがったのは、一九八八年一二月二日から六日までの五夜、深夜から朝の五時までである。他の情報筋によると、多くの装甲車もまた参加していた。目撃者は、トラックと装甲車がボナファシロ橋からサンチアゴ要塞へ大量の荷物を運び、そこで荷物がパシグ川ではしけに乗せられたと主張している。その後、マニラ国際空港の保全倉庫で三百二十五㌧の金塊が売りに出ているという噂がひろまった。計算と合わない金塊は十五t以下だった。回収事業に関わった残党たちはお互いに攻撃しあった。資金調達者のジョージ・ワーティンガーはネヴァダの連邦大陪審で、総計百五十万㌦の麻薬マネーがアーニー・ウイッテンバーグ(自称建築業者)によって、砦や橋での掘削作業につぎ込まれたと証言した。ワーティンガー(資金調達者)は、「マクドゥーガルとソリアーノ保安局長のふたりとも麻薬マネーだと承知していたさ。
マクドゥーガルは、『いいかい、これがマスコミに流れたりしたら、・・・・ソリアーノ保安局長はまずいことになるよと』、と言ったんだ。麻薬マネーだったさ。私が言っている意味は、海の向こうのアメリカでマスコミにもれたら我々ははりつけになってしまう、ということだ。」と証言した。実際、マニラの新聞が、ウイッテンバーグ(自称建築業者)の麻薬マネーの幾ばくかがソリアーノ保安局長の個人口座に移されたと報じた時、アキノ大統領は一九八九年二月十五日付けでソリアーノ保安局長が国家安全顧問を辞任するよう要求した。ワーティンガー(資金調達者)はまた、ウイッテンバーグ(自称建築業者)は、マクドゥーガルがマニラに買った新家屋に備える家具の五万㌦の支払いをし、マクドゥーガルがサン・フランシスコに買った新家屋のために資金援助をしたと証言した。そして、ワーティンガー(資金調達者)は、ウイッテンバーグ(自称建築業者)はまた、ソリアーノ保安局長とマクドゥーガルそれぞれに現金五万㌦を与えたと証言した。それから大陪審はマクドゥーガルを召喚した。政府の検察官はまず、マクドゥーガルのサン・フランシスコにある新家屋の没収を要求した。しかし、マクドゥーガルは司法取引で、彼の事業パートナーについての報告書を準備するよう説得された。マクドゥーガルの証言に負うところが多いが、ウイッテンバーグ(自称建築業者)は裁判を受け、麻薬売買のかどで終身刑の判決を受けた。映画「黄金」(シエラマ・ ドレ山の財宝)のハンフリー・ボガートや相棒たちのように、すべてのこれらの男たちは金塊に取り付かれ、お互いに攻撃しあった。しかし、その場で預金として金塊を受け入れて、手品師みたいに金塊を消えてなくした国際バンカーに比べると、彼らは取るにたりない雑魚みたいなものだ。(訳注、この章は人名がややこしいので、大変わずらわしいとは思いましたが、ウイッテンバーグ(自称建築業者)、ソリアーノ保安局長、ワーティンガー(資金調達者)について、あえて区別をつけるため属性を書き込みました。
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>>7391
黄金の兵士 第一五章 なぞの解明
戦時略奪金塊の回収や秘密の裏金を隠すための偽情報が続いた半世紀の後、調査や訴訟、情報漏洩や大失敗などから、論争の余地のない明白な証拠が出現しつつある。マルコスが権力を失うまで、日本の略奪品の存在は事実とかけ離れているとうまくごまかしてきた。もし、日本の略奪がほとんどなかったと言うなら、略奪品がどうなったかをどうして尋ねるのだろう?しかしながら、マルコス家はあるときアメリカの領内で回収された財宝を窃盗し横領したこと、その財宝に係わる人権侵害、不公正な商売をしたかどで訴訟され、攻撃を受けた。裁判所で次に明らかになった新事実は、秘密のベールを押し上げ、アメリカ政府の秘密行動が予期せず露見することになった。レーガン政権のイラン・コントラ事件中の被害対策についての不手際は、とりわけこれまで知られていなかった違法な活動や、民間の軍事情報会社の組織がアメリカの外交政策や国家安全保障を私物化しようとしたことを明らかにした。
彼らの真の目的が、法律問題をうまく避け、議員による調査を避けることにあることが明らかになった。二十五年間、サンタロ・ マーナの後継者(相続人)もまた捜査の妨害をされたが、アメリカの銀行に隠されている多くの金塊を回収するために訴訟を起こした。金塊の多くは我々が今示しているようにまだ銀行に眠っている。確かな証拠としてのかなめとなる事例は金の仏像である。なぜなら、これがアジアでの日本の略奪行為と、この略奪品の戦後の回収を証明する間違いのない基本的な物証なのだから。この証拠はハワイのアメリカ法廷で陪審員団に示され、それは歴史上、金額としては最大のものである。それは次のように起こった。数年間姿を隠した後で、ロジャー・ロクサスは一九八八年に再び登場した。マルコスはホノルルで自宅軟禁状態にあったので、ロクサスは訴訟を起こし、一九七一年に自分が盗まれた金の仏像と金塊を取り戻しても安全であると考えた。彼はジョージア州アトランタの近くに住む子供時代の友人フレックス・ダキャニーと連絡を取った。彼はアメリカ社会で成功しており、アナポリス海軍兵学校に通う二人の息子がいた。ロクサスを守るために彼とダキャニーは、「金の仏像会社」、つまりGBCを設立し、ロクサスはGBCに財宝における彼の権利を譲渡した。ロクサスはもはや要求に対して支配権を持たないので、脅されたり権利を騙し取られることはあり得ないだろ。ダキャニーのジョージア州の弁護士は外部の助けを探し、ロサンゼルスにある有力なダニエル・キャスカートの会社と合意に達した。一九八八年二月に、キャスカートはホノルルのマルコスに対し、殴られたり拷問されたりしたけがの補償も含んだ損害賠償を求め訴訟を起こした。訴訟では、マルコスはロクサスから金の仏像、ダイヤモンド、金塊を盗み、ロクサスが発見のため数年を費やしたトンネル(坑道)から多くの金塊を持ち去ったと訴えた。法的に言えば、ロクサスは、金の仏陀、ダイヤモンド、そして彼が家に持ち帰った金塊だけでなく、後に、マルコス側兵士によって貯蔵場所から回収された日本軍の戦争略奪品のすべての発見者なのである。ハワイでマルコス一家は嘲笑していた。軍副官のアルツロア・ ルイザは報道陣に、「山下将軍の金塊話は十六年前に出てきた夢物語だよ、・・・フィリピン上院による調査も行われたが、何にも出てこなかったじゃないか。十六年も前に却下した話さ、もううんざりだね。」と言った。
キャスカート弁護士の会社は七年をかけ、フィリピンに日本人の盗賊がいたこと、ロクサスは中味の詰まった二十二カラットの金の仏像とインゴットを発見していたこと、マルコスはその金の仏像とインゴットを盗み、それをもみ消すためロクサスに拷問を加えたことを立証する目撃者の証言を集めた。目撃者を突き止める過程でいかにして略奪品が島内に隠され、いかにして略奪品をマルコスが回収し、いかにしてマルコスが世界市場へ金塊を持ち込むためアメリカ政府の助けを借りたのか、という日本軍の略奪品の全貌に係わる証拠が大量に浮かび上がってきた。これら全ては書類、宣誓供述書として集められ、その多くはビデオテープの形に保存され、結局は大きな部屋をいっぱいにするほどの量だった。
取材調査は、キャスカート弁護士に雇われたロサンゼルスの元気のいい私立探偵アーリーン・フリードマンによって行われた。彼女にとって、ロクサスが最初に話した話は全くの夢物語だった。山下将軍の金塊は量があまりにも莫大で、ドルに換算すると大変な額だったのでにわかには信じられなかった。陪審員団を納得させるために、キャスカート弁護士と探偵フリードマンは表に出たがらない(世評を避ける)金のブローカー、秘密にしておくことを切望する財宝ハンター、殺害されることを怖がる目撃者を突き止めた。小柄な女性だけれど非情な探偵フリードマンは、第二次世界大戦以来、何が多くの調査人を威圧し、何をたくみに避けてきたかを明らかにし、その過程で日米政府のもみ消し工作に関する驚くべき発見をした。「その調査が合法で私に精神的荒廃をもたらさない限り、私は情報を得るためならどんなことでもするわ。それが無口女や、浮気女の振りをすることでも、シャーリー・テンプルの衣装を身に着けることだとしても、私はやっちゃうわ。」とフリードマンは私たちに言った。
キャスカート弁護士がフリードマンを呼び出しロクサスに会った時、彼女はロクサスのでこぼこで不恰好な形の顔と、突き出して失明した左眼にギョッとした。(マルコスの暴漢にゴムの槌で殴られた後遺症である左眼の件は第10章で報告されている)キャスカートは五日間に渡ってロクサスに余す所なくインタビューをした。ロクサスの記憶から、やっと細かなことまで聞き出して、キャスカートは何が行われたかを知っている十人の人間がまだ健在だろうと結論をだした。キャスカート弁護士は探偵のフリードマンに、その十人のひとりずつを徹底的に調べるよう依頼した。多くの年月が過ぎていたので調査は簡単ではなかっただろう。ロクサスはフィリピンに配置された一人のアメリカGIを思い出した。彼はバンギオにあるロクサスの家を訪ねて、金の仏像が盗まれる直前にその仏像と一緒にロクサスの写真を撮ったのだ。そのGIの名前は「ティム」か「チテム」だったようだ。フリードマンは国防総省の記録を熟読するうんざりする作業を始めた。
一年以上たって、彼女はケン・チーザムにたどりついた。彼はラスべガスのホテルで夜の警備員として働いていた。「それはユーレカ!(わかったぞ!)のようなものだったわ」と彼女は言った。チーザムが後に陪審員に語ったことによると、千九百七十年代初め二十六歳だったチーザムはクラーク基地に配置された空軍情報将校だった。アマチュアの財宝ハンターのチーザムは山下将軍の金塊の話に興味をそそられて、日本軍の隠匿場所をさがすためバギオに車でやって来た。この時がまさにロクサスが金の仏像を回収し家に持ち帰った時で、行楽地では現地の人間達がなにか驚くべきものを見つけたといううわさで持ちきりだった。チーザムはドアをノックし、自己紹介をした。二人は、ジーン・バリンジャーが運営する同じ財宝探索クラブのメンバーだった。ロクサスはチーザムを奥の寝室へ連れて行き、金の仏像を覆っているベッドカバーを取りはずした。金の仏像はまだ頑丈な紐でぐるぐるに巻かれていた。チーザムはカメラを取り出し、ロクサスと仏像とチーザム自身も一緒に写真を撮った。それはチーザムがそこにいて、金の仏像が存在したことの反論できない確かな証拠だった。
クラーク基地へ帰って、チーザムはロクサスと金の仏像が写っている写真を同封してバリンジャーに手紙を書いた。バリンジャーは財宝探索人の会報に、回収に関する記事を発表したが、間違ってチーザムをロクサスの相棒として扱っていた。この話は有線ニュースに取り上げられ、また、アメリカ軍事新聞、スター・アンド・ストライプにも紹介された。マルコスはその記事を見て、かんかんに怒った。チーザムは基地の保安部に呼び出され、そこでCIA将校とマルコスの代理人と対峙した。チーザムは探偵のアーリーン・フリードマンに「CIAの奴は、その仏像は純金製ではないと言えと言った。話を控えめにしろと言ったのだ。そうすればマルコスがお前への関心を緩めるだろう。お前がこの件に関与するなら、船でヴェトナムに運んでしまうぞと言ったのだ。」と。チーザムは怖がった。CIA将校の無理強いするとおり、仏像が金で出来ていないことを証明する供述書に署名をした。
チーザムはキャスカートに、その時からずっと仏像は真鍮製であり、とにかく純金製ではないと嘘を言ったと話した。ハワイでの裁判で、チーザムの写真は、ロクサスが動かせる頭部のついた仏像を所有していたこと、マルコスによって急いですげ替えられた固定した頭部のついた真鍮製の仏像とは違ったというはっきりした物的証拠を提供したことになる。次に、キャスカートとフリードマンは金の仏像を盗んだのはマルコスだったことを立証せねばならなかった。ラスべガスでフリードマンはロバート・カーティスと接触し、結局カーティスは一本の長い宣誓供述の入ったビデオテープを彼女に与えた。ビデオテープには、一九七五年に彼とマルコスが多くの時間をどのように過ごし、動かせる頭部を持った純金の仏像をマリベレスの避暑用宮殿内の大統領執務室で見たことが述べられていた。カーティスは、自分はその仏像を念入りに調べ、頭部のねじを廻し、冶金学者として仏像は純金製と確信できたと証言した。チーザムの撮ったカラー写真をみてカーティスは、写真の仏像は彼がマルコスの避暑用宮殿で見たものと確かに同一だったと証言した。(この仏像には形・色・細部において間違えようのない独特の特徴があった。)
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>>7392
弁護士ダニエル・キャスカートはまた、仏像は本当に純金製だったのかという疑念を振り払う立証をしなければならなかった。その立証の答えは、フィリピン人の金細工職人のルイス・メンドーサによりなされた。彼は一九七一年にロクサスの家で仏像を検査しており、仏像の首に近い背中に小さな穴を開けて必要な検査が出来るように金粉を取り出した。メンドーサは、検査の結果、仏像は当時のアジア標準で二十二カラットだったと証言した。金の仏像はさておき、ロクサス自身が後で回収しようとトンネルに封印していた金の小さな延べ棒や数千の金塊が盗まれたのだ。フィリピン人の軍隊料理人のジュアン・クィジョンは、マルコスとバー将軍によって一九七二年に作られた陸軍チームで、ひそかにフィリピンの財宝隠匿場所を発掘する「回収特別作業班」に配属されたとホノルルの法廷で証言した。クィジョンはほぼ一年間(一九七四年~一九七五年)、バギオの病院裏でトンネルを掘る兵士たちと共に過したが、そこでロクサスは金の仏像を発見していた。クィジョンは一度に三、四人の男たちが大きな木の箱を運び出すのを見ていた。クィジョンはいくつかの腐った箱が壊れ、大きな金の延べ棒が地面に落ちるのを見た。延べ棒はひとつの箱に三本入っていた。金の延べ棒の入った箱が十二か月の間、一日に平均十箱がトンネルから運び出されたとクィジョンは言う。病院の職員もこの間の作業を見ていたので、この事実を追認している。
クィジョンが言うにはイゴロト族の男たちは大変過酷な作業をしたのだと。全ての金の延べ棒が運び出されたときに、イゴロト族の男たちはトンネルに連れ込まれ、撃ち殺された。目撃者としての彼らを抹殺するためであった。マルコスが、知られているフィリピンの金の備蓄よりもはるかに上回る莫大な量の金塊を所有していたことの証拠として、探偵フリードマンは、一九八〇年代の初めに、一兆六千三百億㌦の金を売るための九件の契約をマルコスと結んだ二人のオーストラリア人の仲買人を突き止めた。陪審員にとって満足のいくものだったのだが、二人は金塊の取引は行われ、作り話ではなかったという裁判記録を立証した。二人が提供した証拠文書のおかげで、マルコスが本当に一兆六千三百億㌦相当の金塊を所有していて、本当に売ったのかどうかという疑念を払拭することになった。オーストリア人の仲買人は、マルコスを訪ねたとき、目隠しをされて倉庫に連れて行かれ、そこで目隠しをはずした時倉庫は金塊でいっぱいだったと証言もした。ラスヴェガスの投資家であるノーマン‘トニー’ダカスはフリードマンに対し、フィリピンに行くとマルコスは、彼をアメリカにあるラシュモア山公園のようなマルコスの記念館を建設しているアポ山に連れていったと言った。
大統領の息子のボン・ボンがアポ山の秘密のトンネルにダカスを連れて行き、そこで、金の延べ棒や他の財宝の入った箱を見せた。ボン・ボンはこの金塊がCIAの指示で米国軍によってフィリピンから飛行機で運び出されるのを待っていると説明した。投資家ダカスはマルコスの上級情報将校の一人、ピメンテル大佐と結婚によってつながりがあるので、専門の情報通だった。ピメンテル大佐は多くの金塊取引の段取りをつけ、自ら金塊を目的地まで「アンブレラ」の上級メンバーとして送り届けた。第十四章で述べたとおり、ダカスはピメンテルとマルコスを助け、ルクセンブルグの金塊取引の仲介をし、見返りに莫大な手数料を受け取っている。金の仏像事件に関する多くの探偵フリードマンの調査は図書館と公文書保管所の中での大変な作業だった。そこで、彼女は資産とビジネス記録に関する数万ページをゆっくりと読み進んだ。記録文書の調査を始めたことがフリードマンに危険を招くことになった。ある朝、彼女が駐車場入り口の階段に入った時、一人の男が彼女を後ろから掴んだ。「話がある。おとなしくしろ。」、彼は言った。彼女はパンチをお見舞いし、逃げ道を作り、二、三の傷と打撲を受けただけで逃げ出した。
センチュリーシ・ ティのグラスタ・ ワーにある弁護士キャスカートの八階事務所は侵入され、盗聴器が仕掛けられた。機密保護の専門家は、盗聴はマルコス一派がやったのではなく、アメリカ政府がやったものだとキャスカートに説明した。というのは、アメリカ政府以外に誰も使わないほどのハイ・テク機材を使っていたからである。彼の法律事務所は向かい側の高層ビルに待機するチームにより常に監視下にあったのだ。
金の仏像の公判がようやく千九百九十三年五月二五日に決まった。裁判の日が近づいたので、キャスカートはロクサスに身を隠すように言い、マニラからホノルルへロクサスを連れて行くためのボディガードを手配した。五月二十四日に、キャスカートはロクサスに電話をかけ、すぐにハワイ行きの飛行機で飛ぶように指示した。「一時間半後に彼は死んでいたんだ。」とキャスカートは言った。ロクサスの未亡人と多くの知人はロクサスが毒殺されたと信じている。未亡人が説明したのは、彼女の夫ロクサスは疲れて元気がないように見えた。二人が身を隠していたアパートの階下にあるパン屋に彼女が行ったとき、身なりのいい男性が近づいてきてロクサスのために無料の薬を上げようと申し出た。ロクサスはその錠剤を飲んで死んでしまったのだ。
二、三時間後、キャスカートや探偵フリードマンと知り合いのCIAの情報提供者がマニラからキャスカートの法律事務所へ電話をかけ、フリードマンに、「おまえの依頼人は死んだぞ。毒殺された。イメルダがそれを命じ、我々が実行したのだ。」と伝えた。その知らせにキャスカートは肝をつぶした。「私はロクサス夫人に、残っている薬を国際便ですぐに私のところへ送るようにと指示したんだ。しかし荷物が到着した時、封筒の中は空っぽだった。」とキャスカートは言った。キャスカートはすぐに死体解剖を手配したが、それは不可能だった。ロクサスは慌ただしく火葬されていた。「検視官は毒物検査をこれまでやったことがないし、ロクサスの死因について本当の事を話すことはなく、ロクサスは結核で死んだと断定したのだ。」とキャスカートは言った。
何度も延期されながらもようやく裁判はホノルルで始まり、陪審員は金の仏像、金の延べ棒でいっぱいの部屋、数千トンの金塊の取引について目撃者が述べるのを聞いた。フィリピンにあるいろいろな日本帝国軍の財宝隠匿場所に関する審議のなかで、ある時イメルダ婦人自身は、マルコスが自分の倉庫に所有していた金塊は「こうした隠匿場所のいくつかから持ってくる事はできた。」と証言した。ロクサスファミリーのメンバーは、イメルダ婦人から数千ドルの支払を受けたロジャー・ロクサスの兄弟、ジョセ(ホセ)は、ロクサスの仏像は金製ではなくただの真鍮製だと述べる嘘を言い、偽証したと証言した。公判中に、陪審員はホセの背中にある大きな文字の刺青が写っている写真を見せられた。金製の仏像の発見者の兄弟 国際ニュースフィリピン こうしたすべての証言から、日本軍の戦争略奪品がフィリピンに隠され、ロジャー・ロクサスがその主要な隠し場所を発見し、金の仏像は純金製であり、その財宝をマルコスが盗み、回収された略奪金塊のうちの数十億㌦分をマルコスが大きな金塊取引で売ったことなどが明らかになった。陪審員はロクサスとその相続人に対して有利な裁定して、マルコス家に対し、金の仏像会社(GBC)に四百三十億㌦の賠償金を払うように裁定した。四百三十億㌦という金額は当時史上初の大きな民事判決だった。(二百二十億㌦+窃盗以来の単利一〇%)
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708131 No.7394
>>7393
後に上告で、ロクサスのトンネルからマルコス一派の兵士が回収した木製の箱すべてに何が入っていたかを確実に知る者は誰もいないと言う主張を基に、この賠償金は二十二億㌦の低い額に減額された。この案件は現在キャスカートがハワイ最高裁判所へ上告し審議中である。スイスのチューリッヒの主任政府任命検事はジャーナリストたちに、金の仏像自体は、チューリッヒ・クローテン空港地下の特別保管室のマルコス金塊貯蔵所にあったと断言した。アメリカ人の陪審員はこれ事態、議論の余地のない明白な事実だと判断しているものの、日米政府はそれを否定し続けている。
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ロクサスの訴訟に勢いを得て、他の被害者たちが名乗り出た。一九九九年に、ロクサスのトンネルや他の隠匿場所から金塊を運び出したフィリピン人兵士たちが、マルコスの財産に対し異議申し立ての訴訟を準備した。ほぼ百人の兵士たちが署名をした宣誓供述書によると、彼らは国家史跡の復旧作業を装った大掛かりな発掘作業を行い、数千トンの金塊、他の貴金属、大量の宝石用原石を回収した。マルコスは発掘場所にやって来るときにしばしば日本人を連れていたと兵士たちは証言した。彼らの最初の大きな発掘成功は一九七三年でラグナ州ルンバンのカリラヤ湖の近くだった。そこで掘削機のひとつが、いくつかのコンクリート製貯蔵庫を始めて掘り当てたのだ。掘削機をがんがんと何度も使い貯蔵所の一角を打ち破り、七五㌔の金の延べ棒を掘り出した。マルコスは「いいか。ここにあるすべての宝は全員で共有するのだ。しかし、分配は時機が来るまで待たねばならない。」と彼らに言った。時機は決して来なかった。他のコンクリート製の貯蔵庫が発掘された時、それは6フィートx5フィートx5フィートの大きさだったが、巨大なクレーンが貯蔵庫を吊り上げ大きな陸軍の戦車輸送車に乗せ、輸送車は秘密の目的地まで運んだ。一九七四年から一九七九年まで、兵士たちはリザル州にあるすべてのゴールデン・リリーの隠匿施設であるモンタルバン、アンティポロ、バラスそしてテレサで発掘作業をした。一九七四年のテレサ1地区の発掘は彼らの失敗だったが、翌年のロバート・カーティスがテレサ2地区をうまく発掘することにつながった。彼らは活動をマニラの古い壁に囲まれた市街、イントラムロスに移し、続いてサンティアゴ要塞に移した。そこで百個以上の財宝の箱を回収したと兵士たちは言った。兵士たちの宣誓供述書によれば、金の延べ棒の入った仕切り箱はマニラ国際空港からC1- 30軍用機を使ってフィリピンから運びだされた。「アンブレラ」の組織としてバー将軍がマルコスのために保有し運営しているタマロー保安サービス社が手配し、金塊のいくつかがキャセイ・パシフィック航空、アメリカン・プレジデント汽船会社により商業的に輸送された。これは、我々が先の章で詳しく述べたことやロバート・カーティスや他の人間が別々に証言で述べた事とは別個の共同作業で、回収チーム自身により行われた。
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サンタロ・ マーナの休眠銀行口座は彼の相続人に対して特別に高金利であったし、又、エンタープライズやアメリカ財務省、そしてサンティの現金と金塊を保有している主要銀行に対しても同様であった。このようにいろいろな言い争い、策謀、中傷があり、彼等はたいへん興味深い訴訟に巻き込まれることとなった。ばらばらに見ると、その断片はとても興味深い。しかし、まとめて見るとそれらは驚くべき物であり、しかも政府の記録で立証されているのだ。
サンティが死んだ時、サンティーは十四人の相続人に、弁護士が五百億ドル以上の価値があると評価した財産を残した。銀行に預けられたサンティの資産を回収しようとする彼らのすべての努力は、妨害されるか、しばしばうまくはぐらかされた。三人の主な相続人はサンティの会社の会計士で、資産確保のための活動をしているタルシアナ・ロドリゲス嬢、内縁の妻のルツ・ランバノ、そして成人した娘、フロデリーザである。なかなかうまくいかないため、彼らは高名なサン・フランシスコの弁護士、メルヴィン・ベリ、ニューヨークの弁護士、エレノア・ピール、元CIA副長官、レイ・クライン、そしてアメリカの著名な銀行家シティバンクのCEOのジョン・リードに助けを求めた。
フロリダのロビイスト、ジョージ・デポンティス、元バハマ最高裁判所判事レオナルド・ノウルズ、ワシントンの弁護士ロバートA.アカーマンもまたこの仕事に関わった。サンティの資産があまりにも大きいので、そしてその秘密性ゆえ、内縁の妻ルツ、会計士タルシアナ嬢そして娘フロデリーザは回収活動のなかで考えられるありとあらゆる妨害を受けたようだ。アメリカ政府とアメリカの銀行はサンティの資産をそのまま残しておきたかった。それはスイス政府も、スイスの銀行も、香港や他の金融センターにある銀行も同様であった。もう数年もたてば、サンティにつながりのある全員が死に、サンティの現金と金塊は銀行の中で何も手をつけられないまま残ることになるだろう。ちょうどホロコースト(ユダヤ人大虐殺)で奪われた金塊のように。アメリカ政府にとって、事実を隠蔽しておくことは関係する資産が膨大だからだけでなく(Schlei 事件の時のように)、弁護士が証拠開示を求めるのを妨害するためにも必要なことである。証拠開示はサンティの財務資料よりはるかに多くのことを明らかにできるのだ。もしかすると、証拠開示によって隠された戦時略奪金塊の回収の目的すべてが公開されることにつながる。M資金と同じく闇の金を不正目的のために使うようになった黒い鷲信託のように。このことは名声や経歴に傷をつけることになり、議会の会計監査室による調査を避けられないだろう。
フォード大統領は一九七五年に同じような問題に取り組み、CIAファミリー・ジュエル事件への関心をおさえるために、ロックフェラー委員会を立ち上げ、トルーマン以来のすべての米国大統領の名声が傷つくような情報が出ることを望まないと述べた。皮肉であるが、サンティの相続人たちは自分たちの貧乏を終わらせることに関心があっただけで、不正行為を暴露することに関心があったわけではないから、気前のいい和解金さえあれば二度と問題を持ち出さないという合意書に署名したであろう。けれども、銀行も政府も相続人を妨害することではいつまでもあいまいで強情のままだった。そのことは銀行や政府が多くの事を隠匿しているという確かな証拠なのだ。三人の主要な相続人は、サンティが相続人に与えた検認済み遺言書、預金通帳、銀行取引証明書、領収書、全ての必要なパスワード、暗号単語、秘密の口座番号などをこれらの銀行に示したが、反応は同じだった。四件の例外はあったが、銀行はそうした口座があることを否定したし、問題の口座が銀行の貸金庫なのか大きな金塊保存庫なのかの回答も拒否した。
例えば、我々のCDに複製されているUBS(スイス連邦銀行)の書類によれば、UBSにあるサンティの最大の単一口座には金塊で二万㌧があった。この口座はサンティの死んだ時、魔法を使ったように名義がサンティの持つクラウン・コモデティ・ホールディングから、エドワード・G.ランズデール少将(Landsdale:原文ママ)に変えられたのである。スイス銀行が行った意図的なスペル間違いは暗号の要素だということを記憶しておいても良いだろう。ひとつの可能性として、この怪物口座に関して、サンティは黒幕の手先にすぎず、もう一人の手先、ランズデール将軍が取って代わったということである。どうだい、どこかの政府以外に誰がスイスの大銀行でそれだけの変更をするだけの大きな力を持てただろうか?UBS(スイス銀単) 独で変更をしたとしても、新しい名義人として不適切なランズデール将軍を選ぶとは思えない。とは言え、一九七四年まで一〇年間ランズデールは政府の埒外にいて、エンタープライズ組織の創立者の一人だったし、アメリカの最富裕で保守の大物の幾人かと親密な仲間だった。もしランズデール将軍とサンティがこの巨大なUBS口座の支配権を共有していたら、UBS(スイス銀に) 名義をランズデールの名前に変更させることも可能だったし、それなら口座を彼の仲間がアクセスするのも可能だったろう。たぶん、アメリカ政府は関与していなかったのではないか。金一オンス三百㌦として、この口座には千九百二十億㌦の価値があり、ビル・ゲイツの正味の資産よりはるかに高額である。この金額は信じられるだろうか?信じられるのである。もしもこの口座にアメリカ政府の多額な闇の金が含まれている秘密口座としたらである。
ちょうどまじめな偽札つくりが馬鹿げたスペル間違いをしないと同じで、正気な詐欺師が口座を巨額すぎるとは考えないだろ。ロクサスの金の仏像事件を思い起こしてもらえば、マルコスがオーストラリア人の仲買人を通し、金塊を千六百三十億㌦で売却したことを証明する証拠を陪審員が見たではないか。
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CDに入っている多くのスイス銀行幹部の署名入り資料群は、UBSが金塊やプラチナを含んで、しかもかなり多額である他の口座を所有していることを示している。そうした巨額の口座はサウジ・アラビアのファハド国王のようなとてつもない金持ちにとってみれば不可能じゃない。ファハド家は数十年間スイスに金塊を預けている。ジェミニ・コンサルティングによれば、世界的な民間銀行の資産は一九八六年、四兆三千億㌦だったが、二千年には十四兆ドルとなっていた。だからUBSのこの口座の金額もありえないことではない。UBSの資料によると、クラウン・コモデティ・ホールディングスはサンティのクラウンエンタープライズの子会社である。グループの代表はアルフレッド・P.ラモスで、彼はモナコに登録したサンティの会社ディアズ&ポイロッテ・エンタープライズの役員だった。ラモスは宣誓供述書で「私は故人のドン・セベリノ・ガルシア・サンタ・ロマーナ、ラモン・ポイロッテ、もしくはホセ・アントニオ・ディアズを『わが老いた父から』という暗号で知っている、そして、ひとたび仕事が始まれば終わるまで放りだすな、作業が大変でも簡単でもうまくやれ、できなければなにもやるな、ということも知っている。」と述べている。
この訓戒は、我々が見てきたように、サンティがランズデールから一九四五年に学んだものである。それはサンティが自分の自筆証書遺言で引用している訓戒と同じだ。その訓戒はサンティの銀行口座で一貫して暗号文として用いられた。半世紀以上たっての暗号文の再現は偶然ではない。ビデオに録画された会計士タルシアナ嬢とのインタビューによれば、サンティの死後すぐにランズデールはシティバンク・マニラ支店のサンティの口座からニューヨーク支店への金塊を移すという不可解な動きに巻き込まれた。たぶん、マルコスが差し押さえる前にフィリピンから持ち出しが行われたのだ。口座はサンティ名義なので、彼の資産管理を認められた受託者もしくは主席会計士タルシアナ嬢のような法廷代理人の資格を有する人間の承認がなければそのような移転は違法である。もしランズデールが法定代理人の資格を持っていたとしたら、いったい誰のために彼は行動していたのだろう。
ひとたびフィリピンを離れたこうした資産は、資料が示すようにサンティがすでに持っていたアメリカのシティバンク、チェイス、ウェル・ファーゴ、ハノーバーバンク他の金塊と現金の口座に加えられた。サンティの死後すぐに、サンティの自筆遺言証書はマニラで検認され、会計士タルシアナ、内縁の妻ルツと娘フローデリザが裁判所によって正当な相続人として指名された。ルツはアメリカへ赴きシティバンク・マンハッタン支店の口座の公開を要求した。そこで彼女は弁護士エレノア・ジャクソンピ・ ールに助力を求め、フィリピンの裁判所によって発行された行政証明書を預けた。こうしたことはニューヨーク裁判所に確認されるべきだった。弁護士ピールはサロゲート裁判所で行政の付属文書の発行を求めて仕事を進めた。その文書はシティバンク、チェイス、ハノーバーのサンティの口座へのアクセス権を内縁の妻ルツに与えるものだった。これにはずいぶん時間がかかった。内縁の妻ルツは自分の用件を他の銀行にも強く求めたので、弁護士ピールは関係するすべての銀行の頭取に手紙を書き、サンタ・ロマーナの口座について照会した。一行たりとも銀行は回答をしなかった。内縁の妻ルツはスイスに飛んで、2人のアメリカ人の友人とともにジュネーブのUBSを訪れた。アメリカ人のひとり、ジム・ブラウンによると、「私はルツともう一人のアメリカ人と一緒に座った。その間、ルツはUBS(スイス銀行の) 副頭取にサンティの金口座ナンバー「金口座7257」を示した。この銀行家はその番号が正しい口座番号だと認めただけでなく、その口座についてはよく知っていると言った。友人ブラウンはその副頭取がルツにこう話したと言う。「わたしはあなたがスイスにいる時に、この金口座の権利を主張することはお勧めできないね。なぜなら、スイスの銀行も政府もあなたがこの口座の中味を手にすることを認める前に、彼らはあんたを最初に殺しかねない。わたしはあなたがどんなスイスの弁護士を雇うこともお勧めできない。なぜなら銀行は簡単に弁護士たちを買収するからだ。」
UBSの副頭取が殺人の脅迫をしたという見方を冷笑するかも知れないが、それならクリストフ・メイリの場合はどうなんだということだ。チューリッヒのUBSで警備員として夜働いていた一人の学生が一九九七年一月に、シュレッダーにかけられる予定の非常に古い書類と本を発見した。その書類と本はナチの死の収容所で死んだ預金者の資産に関するものだった。彼は数ヶ月前スイス政府が銀行に記録文書等を処分しないように命令したことを知っていた。彼はいくつかの書類を持ち帰りそれをチューリッヒのヘブライ協会に与えた。あとでどうしてそんなことをしたのかと聞かれて、メイリはこの間、映画「シンドラーのリスト」を見ていたのだと答えた。「何かをすべきなのは分かっていた。」、と。一ヶ月後、書類が別の人間によって公表されたとき、メイリはUBSでの一万八千㌦の仕事を解雇された。UBSの頭取のロバート・ステューダーはメイリが国際的ユダヤ人の陰謀団より金をもらっていたことをほのめかした。「スイスの銀行にある、いわゆる物言わぬユダヤ人の金のこうした問題は、何度も頭をもたげてくるのだ。我々にとっては全く問題にならない。問題は第二次世界大戦後徹底的に議論され、我々は誠実に銀行のどの金がユダヤ人大虐殺の犠牲者に帰属するものかを調査した。なぜなら、この疑問を今回限りで決着させたかったのだ。われわれにとって、この事件は決着している。」
同様に、アメリカ国務省は一九五一年のサン・フランシスコ講和条約は日本人の戦争犠牲者のための賠償と補償の問題は解決済だと主張している。同様に、アメリカ政府とマルコス家は山下将軍の金塊の話はただの俗説にすぎないと主張した。UBSはシュレッダー事件を不幸な出来事と言ってごまかした。「経営幹部の誰もそのような決定を認めたことはなかった。」ロバート・ステューダーは全ての公職からはずされたが銀行の名誉会長のままだった。メイリは100回以上の殺しの脅迫を受け、妻や子供たちも脅迫を受けた。彼らはアメリカへ逃亡し、そこで隠れ家を与えられた。メイリはスイスの銀行によるナチの資産隠匿を調査している米国議会委員会の前で証言をした。上院議員アンソニー・ダマートーはクリストフ・メイリを国際的英雄と呼び、「犯人は資料をシュレッダーにかけるよう命じた連中だ。」と言った。怯えて意気消沈して、内縁の妻ルツはフィリピンに帰った。3年後、ルツと友人のブラウンは別の銀行と交渉するためにスイスに戻った。ブラウンの話では、この時二人はサンティの口座のひとつから累積した利息を回収することに成功したが、銀行は頑として金塊そのものを引き出そうとはしなかった。別の情報筋によると、ルツはこの回収を秘密にしていた、あまりにも長い間妨害を受けていたので、税金としてそのいくらかでも没収されるのはばかげたことだと感じていたからだ。一方、サンティ所有の会社会計係、タルシアナ嬢は香港にあるHSBC(香港上海銀行)のサンティの口座にアクセスしようと試みた。タルシアナ嬢はサンティの税金コンサルタントであった弁護士アルテミオ・ロブリンのアドバイスに従って、サンティの自筆証書遺言に言及されている口座の存在を確認するようHSBCに要請した。タルシアナがすべての必要な暗号、パスワード、書類を示した後で、銀行の役員は彼女に口座はまだ満期を迎えていないのでアクセスできない、一九八八年になってからもう一度来るようにと言った。次にサンティーの娘、フロデリーザは三和銀行香港支店のサンティの口座にアクセスを求めた。彼女は一九七三年に香港支店へ多額の現金預金を示す通帳を持っていた。最初、その三和銀行は一九七三年には香港に支店があったことを否定した。その時、あらゆる証拠書類が提出されたにもかかわらず、三和銀行はサンタ・ロマーナという顧客も彼の偽名を使った顧客もいないと断言した。コーリー・アキノが大統領になった時、アキノのスタッフがオーストラリア人の財務専門家ピーター・ネルソンに助力を求めた。専門家はコンピュータが打ち出したデーターとサンティの写真つきのパスポート四〇部を見せられ、「パスポートは多数の銀行口座と細かい点まで一致していました。・・・・・多くの口座の移転は、世界中の別のところに動かされる前に、まず香港で始まっていたのです。私は計算を進めながら頭の中で勘定をしていったのですが、四百億㌦は多すぎて数え切れなくなりました。私は木箱の写真を見せられましたが、そのいくつかは開いていました。もちろん、私はこの金塊の品質は保証できませんが、量的には十分保証しますよ。」、と述べた。
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アキノ大統領の支援者の説明によると、サンティは自分の娘に資産の大部分を残していたので、娘のフロデリーザは地球上で最も裕福な婦人の一人になるはずだった。しかし、彼女が銀行に対し遺言書の意思を認定してもらおうとすると、パスポートに違った名前で載っている写真の男性のすべてが実際に彼女の父親であることを証明するように言われた。一方、銀行は金については有利な状態だったはずだ。財務専門家ネルソンは言った。「私は、フィリピンの友人に方法は別にあると言った。もし、フロデリーザが発見の見返りに、およそ5パーセントの手数料をフィリピン政府へ渡すことに合意すれば、フィリピン政府は彼女に一生使うことの出来る以上の金を彼女に与えるだろうし、政府は口座からの金塊回収の推進に力を入れるだろうと言ってやった。彼らは私に感謝をして、シドニーに飛んで帰った。」しかし何も起こらなかったし、フロデリーザは貧乏のままだった。
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最終的に全ての回収の努力をシティバンクに向けることが決められた。シティバンクはジョン・リードが会長でCEOであった。リードの指導のもと、シティバンクは個人の海外金融(原文はoffshore private bankingとなっている。もっと他に良い言葉がないものか銀行員の方に聞いたけれど訳せなかった。富裕層向けのコンサルタントを含む投資業務か?私には判らない)にしっかりと取り組むようになった。一千億ドル以上の海外預金額により、五千八百億ドルのUSB(スイス銀行)、二千九百二十億㌦のクレディ・スイスに次いで三位にランクされるまでになった。国から国へ金を動かすことで、海外の資産は債権者、元配偶者、相続人からの訴訟から守ることができる。資金洗浄、証券詐欺、または麻薬を含む事件を除き、多くの外国の裁判所はアメリカの裁判所の命令を認めようとしない。それで原告は口座がある国の裁判所を通してアクセスするため戦わねばならないが、結局、金はすでに別の裁判管区に移されたことを知るだけになってしまう。これが次に述べることの鍵となる。一九九〇年一二月、会計係のタルシアナ嬢はマンハッタンのシティバンク本部に出かけた。財務アドバイザーと立会人として活動する一人の友人を伴っていた。「私たちは案内されてジョン・リードに会いました。」と彼女の友人が言った。「私たちが口座に関する書類、パスワード、暗号文をリードに見せた時、その重大性に彼はびっくりしたみたいね。彼は真っ青になって、ひどくうろたえたの。彼の顔を見ればそれは一目瞭然だったわ。リードは会議室を急いで飛び出して行き、数分後、彼は数人のシティバンク専属の弁護士を連れて戻ってきたのよ。」リードと弁護士はタルシアナ嬢に翌日来るように伝えた。
「私たちが翌日会議室に入った時、リードは二〇人の弁護士と一緒に座っていました。そして、照会された口座は存在しないと私たちに伝えました。」、とタルシアナの友人は語った。再びタルシアナ嬢と友人は立ち去った。思いついたことがあり、二人はアルバニーに飛びニューヨーク州の税務署を訪ねた。公的記録の書類の中に、二人はサンティがニューヨーク州のシティバンクや他の銀行にサンティの名前や偽名、彼の所有する会社名で作ったすべての口座のリストを入手した(CDに複製済み)。二人はまた、こうした巨額の口座が生み出す利息にすべての州税と連邦税が免除されていることを発見したが、奇妙な税免除であった。シティバンクへ戻って、二人はもう一度リードと彼の弁護士連中と対決することになった。タルシアナ嬢と友人は、彼らにニューヨーク州の納税記録簿のコピーを見せ、銀行が嘘をついていて、口座は存在したことを証明した。タルシアナ嬢が持っていたサンティ自身の記録と書類によれば、シティバンクはサンティの財産である四千七百㌧の金塊を保有していたのだ。もはや、シティバンクはサンティの口座を持っていることを否定できないので、弁護士たちは二人の女に「契約の当事者」を連れてくるように素っ気なく言った。弁護士たちは当事者がだれのことかを明言する事は拒否したが、当然サンティの死骸のことだ。
弁護士たちはまたタルシアナ嬢には「法律で認められた」書類が必要だと言ったのだが、彼女はすでにその書類を見せていたのだ。弁護士たちは、シティバンクがフィリピン政府の金を引き渡したとしても責任を負わせることはないという声明を必要としていると言った。(またしても、銀行がその財産を保有していることを暗黙のうちに認めているということだ。)このことは、そのファンドがマルコスが盗んだ金塊であるとフィリピン政府が主張していることを暗示している、けれど、その口座はマルコスが権力をつかむはるか前にサンティが開いたものなのに。弁護士はイメルダ・マルコスの権利放棄を求めていると言ったが、それはマルコス・ファミリーが(現実であれ想像であれ)サンティの財産に対して要求をしてくるかも知れないと言うことを意味している。最後に、弁護士はマニラのアメリカ大使館の権利放棄を必要としていると言ったが、明らかにアメリカ政府の権利放棄を意味していた。こうした訳の分からない話は、銀行が次の対応を決めている間に、タルシアナの要求をかわすためと言うことは明らかだった。
対応を決めるのに時間はかからなかった。解決策は簡単だった。シティバンクはサンティーの全財産をシティバンク・ニューヨーク支店からバハマのシティ・トラストへと国外に動かそうとした。このことは金塊をニューヨーク裁判所の管轄外に動かす効果があり、サンティの相続人から行われる全ての訴訟を封じ込めようとするものだった。法的にはそうした財産は、口座所有者もしくは相続人、または譲受人(企業会計担当者としてのタルシアナを意味する)の承諾なしにニューヨークの管轄内から移転させることは出来ないはずだ。しかし、もし金塊が口座所有者も相続人も知らずに海外に移転されたのなら、回収のための負担は所有者と相続人にかかるだろう。金塊の大規模な搬送はまた、アメリカ財務省と連邦準備制度理事会が知ることもなく、承諾なしでも起こりえない。バハマ当局の承諾なしに金塊がナッソーに入ることも出来なかった。しかし、そうした障害を切り抜ける方法があったようで、たぶん金の所有者をシティバンク自体に帰することで、何人かの弁護士は「不適切な変更」と表現を弱めて屁理屈を言うのだろう。この海外での策謀は一九九〇年の終わりまで進められた。一九九〇年と言うのは、その話が銀行職員によってエンタープライズのメンバーに漏らされた時なのだ。シティバンクの動きを中止させる対抗策は元CIA副長官レイ・クラインとジョージ・デポンティスによって始められた。ジョージ・デポンティスは、引退した元バハマの主席判事レオナルドノ・ ウルズ卿との友情も含めてナッソーに強力なコネがあるフロリダのロビイストである。クラインがアメリカ政府の助けを必要とする場合、元法務省の弁護士ロバートA・ .アカーマンの助けを求めた。弁護士アカーマンを急がせるために、クラインはアカーマンに手紙、メモそしてファックスを含む多くの書類を与えた。一九九一年一月にアカーマンが書いた手紙によると、クラインは、いかにして「ランズデール将軍のフィリピン時代に」サンティが、日本軍の戦争略奪品を回収し、それを「四二ヶ国の、百七十六行の銀行」に移したかをアカーマンに説明した。
クラインが言うには、これらの口座には多量の金塊と現金があった。そしてアカーマンに、フィリピン人の原告、会計士のタルシアナとアメリカ政府で交わされた合意書つまり、アメリカ政府に帰属する金の多くがアメリカ政府に戻ることになる合意書の調停に関心があると言った。戦争金塊が戦利品であると主張されなかったのに、どうしてそれを盗まれた人々の所有ではなく、アメリカ政府の所有になるのかが不鮮明だ。そういう場合、なぜ半世紀以上も、秘密にされていたのか?また、クラインがどのようにしてサンティの相続人の所有であるべきものからアメリカ政府の所有になるものを切り離すことが出来たのかもあいまいなままだ。もちろん、クラインの緊密なCIAとのコネにより、その切り離しをやり遂げたのであろう。アラン・フォリンジャーによれば、「レイク・ ラインは我々に、サンティとランズデールの金塊回収に関するCIAの資料ファイルは必ず全てに目を通したと言った。」フォリンジャーが言うには、クラインはブレトン・ウッズでの秘密協定と、そこから生まれた「黒い鷲信託」のすべて、そして、いかにしてマッカーサー将軍とロバートB・ ・アンダーソンがサンティとランズデールを連れてゴールデン・リリーの隠匿施設を回り巡ったのか、そしていかにしてジョンJ・ .マックロイがM資金や他の政治活動資金の仕組みを立ち上げるキー・マンになったのかのすべて知っていたのだ。
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708131 No.7397
>>7396
クラインがCIAで長いキャリアを勤めたことから、彼がフォリンジャー、アカーマン等に話したことは信頼の置けるものである。第二次世界大戦の終わりに、クラインは国民政府の何を残存させるかを研究する若いOSSの分析官だった。彼はそこで三年間を韓国に関するCIA主席研究員として過し、ジョン・シングローブ、ポールヘ・ リウェル、ビルキ・ ャセイ(キャセイはウォール・ストリートヘ転出し、現在はダレス兄弟の仲間といっしょである)と手を組んだ。一九五八年から一九六二年の間、クラインは台湾のCIA局長をつとめたが、その職務は不正工作の責任者、フランク・ウィスナーから、彼が発狂する直前に引き継いだ仕事である。台北にいた時、クラインは東南アジア全域にわたる秘密の工作活動の責任を負っている。クラインは政治作戦学校(政治的戦争幹部養成学校)を設立し、そこではフィリピンや他の国からの訓練兵が教え込まれた。
「共産主打倒のために、非情であれ。」蒋介石が生きていた間、クラインは蒋介石大元帥の大酒飲みの息子、蒋経国(CCK)と友達になった。蒋経国は中国国民党の情報部局を支配していた。クラインは「彼の中心的な飲み仲間」になった。蒋経国が台湾総統として父親の跡を継いだ時、クラインの運命もそれに呼応して上向きになっていった。彼はアメリカ政府に戻り、機密情報収集を担当するCIAの副長官になった。クラインは歴史的な事情に精通し、金融面においても熟達していたし、多くの著名人を知っていた。クラインは個人的に戦時の中国国民党の秘密警察の長官、載笠(タイリー)将軍、上海の麻薬王、杜月笙(tu・yuehーsheng)、ヤクザの頭目、児玉、フィクサー笹川、岸首相、田中首相、CIAのウィスナーとキャセイ、ヘリウェル、ランズデール、サンタロ・ マーナ、マルコス、シングローブ、シュヴァイツァーと知り合いになった。
一九六六年に、クラインはジョンソン大統領と極東政策に関してひどく衝突したため、CIA副長官の職を解雇され、ボンのアメリカ大使館へ追放された。ジョンソン大統領が再出馬しないことを決めた時、クラインは帰任が可能になり、国務省の情報調査局長となった。そこでの彼の仕事はマルコス大統領の闇金の動きを監視する事だった。ビル・キャセイのようにクラインはいつも金融情報に特別の関心を払った。彼はハーバード大学とオックスフォード大学からみごとな学業信任状を受けている。一九七三年、台湾との極めて緊密な繋がりがあったおかげで、クラインはニクソン大統領が中国と和解することでケンカをし、政府部局からの引退を余儀なくされ、ジョージワ・ シントン大学の保守的なシンク・タンクの長となった。今やエンタープライズの陰の組織の要となる人物、クラインはレーガン大統領特別顧問となり、キャセイ、シュヴァイツァー、シングローブとは緊密に繋がっていた。香港での会合を録音した音声テープを聞くと、カーティスはおだてられてニッポン・スターの金塊回収を助けることになり、クラインの名前がたびたび出てきた。
クラインがイラン・コントラ事件の聴聞会で議会を前に証言した時、彼はフィリピンのシングローブ将軍を訪ねたかどうかの質問を受けた。クラインは、シングローブは空港で自分と会ったと言った。「シングローブとシュヴァイツァー将軍から十分に説明を受けました。シングローブがそこで、私の知っていた探査した場所に埋められている金塊や貴金属の回収のために調査をしていること、彼がこの財宝を回収出来る確かな兆候を掴んでいたこと、シングローブが財宝を回収しようとしているグループを代表していたことなどの説明です。シングローブとは財宝以外に議論したことはありません。シングローブは多くのものを私に見せました。また、そのことを信じさせることを話したし、シングローブが探査した埋蔵地域から多くの金塊や金が回収できそうだと感じたこと、回収がシングローブの唯一の目的だと話しました。私が知る限りの話です」。この証言からは、クラインが議会に対して言い逃れをしており、クライ
ンがアカーマンに話したことを打ち明けていないことが明らかである。彼の証言における基本的な歴史的地理的な細部が徹底して調査されたが、それらはアメリカ国民が何も知らない内容だからである。
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アカーマンの手紙によると、デポンティスは、最初はタルシアナ嬢がシティバンクにサンティの会社の口座に幾枚かの小額小切手を預金することを提案したが何も警戒されはしなかった。もしシティバンクが預金を受け入れたなら、シティバンクはタルシアナの身分をサンティーの会社の会計係として暗黙のうちに受け入れたということだ。その時にタルシアナが銀行に口座上のすべての取引に関する正規の明細書を彼女に送るよう依頼することが出来たのだ。もし銀行が明細書を送ってきたら、彼女は銀行口座にアクセスする法的権利を確立したことになり、口座からの引き出しを始めることも出来たのだ。ことがうまく運ばなかったので、デポンティスはバハマの裁判所にナッソーへの移転を防ぐために訴訟を起こす準備をした。訴訟を起こす前に、彼はシティバンクにある取引を持ちかけたと言った。テープに録音されたロバート・カーティスとの電話の会話の中で、デポンティスは、もしシティバンクがこの取引を受け入れたなら、かれは七十二億八千七百九十三万七千㌦になる一五%の手数料を受け取るはずだったと語った。手数料一五%だとすると、このことは全体の取引が大体五百億㌦になることを意味する。この額はシティバンクが国外へ動かそうとしていた額なのだ。デポンティスはテープのなかで、こうした多くの金が必要だったと言っているが、「レイ・クライン、アカーマン、こいつにもあいつにも金を返さなくては」ならなかったからだ。影響力をつけるために、デポンティスはタルシアナ嬢と内縁の妻ルツからの代行権限を受けることが必要だった。
千九百九十一年九月、タルシアナは十頁の個人的サービスについてのビデポンティスと取り決めに同意した。代行権限についても同意したのである。しかし、デポンティがシティバンクにタルシアナがたったの二千五百万㌦を手にするだけでよしとする提案をしたため、タルシアナはデポンティスと絶交したのだ。タルシアナは十二の銀行から数十億㌦を追い求めているので、シティバンクとそんなちっぽけな取引を受け入れることは危険な前例をつくることだった。それ以後、デポンティスはすべての活動を内縁の妻ルツの和解金を取ることにはっきりと集中した。一九九二年六月三日、彼はロバート・カーティスに「シティバンクは実にしぶとい、やつらは一流銀行になろうとしているぜ。」と言っている。数週間後、一九九二年七月、タルシアナ嬢と彼女の財務アドバイザーはシティバンクへ出かけ、CEOジョン・リードと彼の会議テーブルを挟んで顔を合わせた。二人はバハマへ移した金塊と現金の口座をニューヨーク支店へ戻すよう要求した。タルシアナ嬢によれば、リードは二人が資産が移されたことを知っていると分った時、再び「青ざめ動転し」、弁護士を呼んだ。またしても、女たちは得るものも無く立ち去った。こんな侮辱を受けたためタルシアナ嬢はシティバンクを追求しようと決めた。
彼女はデポンティスに再び自分の代行権限を任せた。エレノア・ピール弁護士はデポンティスから、バハマでの訴訟については今よりタルシアナ嬢と内縁の妻ルツの代理人となるという電話を受けた。千九百九十二年六月二十五日、一つの合意書がタルシアナ、ルツ、エレノア・ピール、デポンティス、レオナルド・ノウルズ卿、フィリピンの弁護士ゾシモ・バナーグにより作成された。その合意書はデポンティスが訴訟前に最後の取引条件をシティバンクに提案することを認めていた。彼らはシティバンクがバハマへ移していた金塊五百億㌦を当時の市場レートより五十㌦安い一オンス三百五㌦という有利なレートで購入する事を容認していた。シティバンクは、市場価格で金塊を転売でき莫大な利益を得ることになり、その上、不法な移転に対する訴訟を避けることにもなるのだ。シティバンクが提案を拒否したので、デポンティスとレオナルド・ノウルズ卿はバハマ裁判所に訴訟を起こした。エレノア・ピールはナッソーへ飛び、そこでデポンティスとレオナルド・ノウルズ卿に会った。ピールは我々に、レオナルド卿はピールに訴状を開いて見せ、シティバンクはすべてを否定することで時間稼ぎをしているだけだという自分の解釈を述べた。弁護士メル・ベリが論争に参加し、シティバンクの支店があるカリフォルニア州の裁判所でシティバンクへの側面攻撃を開始した。ベリがルツのために起こした二百億㌦訴訟では、ジョン・リードは、サンティの資産をリードの個人使用に不正変更をした被告者として名指しされた。ベリの友人によれば、ベリは健康に問題があり、シティバンクとリードに対する素晴らしい勝利で彼の弁護士としての職歴を絶頂に持っていく考えを楽しんでいた。ベリはブライアン・グリーンスパンというラス・ヴェガス・サン紙の編集主幹に手紙を書いた。「面白いネタだよ。最初からそんな気がしたね。しかし、今は世界中のいくつかの大変有力な銀行がサンティーの預金を保有したことは確かだ。我々は世界中の銀行職員からいくつかの宣誓証言を手に入れた。銀行職員は、我々が領収書と預金通帳を示したにもかかわらず自分たちが受け入れた預金の存在を否定したのだ。」、ベリは、サンティの財産は「山下将軍の財宝に由来している」に違いないと信じるだけの理由があると言った。
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708131 No.7398
>>7397
弁護士ベリの訴訟内容は個人財産の不正な移転に基づいていた。サンティの所有になる特別のシティバンク口座のリスト化をした後で、訴訟は次のように進められた。被告シティバンクの会長兼最高執行責任者ジョン・リードはシティバンクによるサンティー所有の金塊移転の陣頭指揮を執った」。訴訟の最も重要な点は、「リードとシティバンクが組織ぐるみで例の金塊を金の仲買人に販売し、現在も販売しており、販売の手続きを自分たちの都合のいいように変更している、ということであった。」という容疑にあった。ベリの訴訟はまたチェイス・マンハッタン銀行、HSBC、バンク・オブ・アメリカ、ウェルズ・ファーゴ銀行の不法な移転の容疑をもたらした。こうした銀行は全てカリフォルニア州に事務所を持っていた。各銀行はそれぞれサン・フランシスコの法律事務所の大層な陣容で反撃に打って出た。チェイス・マンハッタン銀行はフォルジャー&レヴィン事務所。ウェルズ・ファーゴ銀行はヘラー・エーマン・ホワイト事務所。HSBCはリプリー・ダイヤモンド事務所。企業としてのシティバンクと個人的に被告として名指しされたジョン・リードはスティーフェル・レヴィット・ワイス事務所。バンク・オブ・アメリカは社内の総合弁護士を代表とした。銀行は都合のいい言い分だけを繰り返した。更なる調査と発見の後で、ベリは重大な国家機密に偶然たどりついたと結論づけた。ベリは友人に、シティバンクのジョン・リードはレーガン大統領、ジェイムス・ベーカー、ビル・キャセイ、マーガレット・サッチャー首相らの陰謀に加担し、山下将軍の金塊を米英の秘密の活動に資金援助するために使ったのだと話した。ベリはその計画を「紫インクの書類」として言及した。不幸にも、ベリの健康はそれからの二年半ちょっとで急激に悪化し、事件の解明があんまり進まないうちに一九九六年に死亡した。彼の法律事務所でベリの仕事を引き継いだ連中は同じような熱心さで追究しなかったし、リードやこれら五大銀行相手のベリの訴訟はまだ決着がついていない。
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遅延、激変、妨害、脅迫そして挫折の歳月の後、二千年にエレノア・ピールはニューヨーク・サロゲート裁判所に新しい申請書を提出した。それはルツとピールにサンティの資産の共同管理者としての権利を与えニューヨーク州にあるサンティの資産の所在確認の活動を認めさせる内容だった。ピールは我々に、自分は「ニューヨーク州にある銀行のサンタ・ロマーナの全ての金塊も、以前銀行にあってどこか別の場所にと移された金塊も回収する権利」を持っていると言った。シティバンクで全てがうまくいったわけではない。シティバンクは資金洗浄の罪で告発を受けた。一九九八年十二月に、会計検査院はシティバンがラウル・サリナスのために一億㌦の資金洗浄をしていたと結論づけた。ラウル・サリスは不祥事を起こした元メキシコ大統領カルロス・サリナスの兄である。会計検査院の報告書には、サリナスが複雑な資金の出所、目的そして実質所有者をごまかす資金管理システムを作り上げるのをどのようにしてシティバンクは助けたかが記載してあった。一九九六年十二月、CIA長官ジョン・ドイチェは辞任した。一九九七年、CIA長官ジョンド・ イチェは疑惑の中で辞任し、すぐにシティバンクの重役となった。
二千年十一月、シティバンクでは、突然もうひとつのスキャンダルが発生する直前に、リードがCEOを辞任した。この時、シティバンクはロシアの大物イラクリ・カベラズの八億ドルの資金移動が発覚し困惑していた。イラクリは二千以上のダミー会社をデラウエアに設立し、そこへシティバンクや他の銀行を使い十年間以上にわたり、彼の金を注ぎ込んでいたという。二人のシティバンクの顧客は、今は無きナイジェリアの独裁者、サニ・アバカ将軍の息子たちで、税金、偽造契約、賄賂などから四十億㌦以上を横領したかどで告発されていた。アバカの息子モハメドが当座貸し越し三千九百万ドルをシティバンクに緊急の要請をし、シティバンクは彼への資金を3つの違った口座へ払い込んだ。奇妙なことにシティ信託にあるサンティの五百億㌦の処理について会計検査院が行った調査と同じものは行われていなかった。銀行はどうしてあんなにごまかすのだろう、そしてどうして口座を持っていることを否定できるのだ?その答えは対応を遅らせることで多くの金を生み出せるせいだ。
メリル・リンチは長年マルコス資産の三千五百万㌦を公表せず、裁判所のその資金を手放す命令をされた二千年の末までひと言も言わなかった。こうした年月の間、莫大な利益が休眠資金からもたらされた。スイスの銀行は頑としてマルコスの口座を持っていることを否定したが、二〇〇一年に、イレーネ・マルコスとその夫は百三十四億㌦の資金をスイスの銀行からフランクフルトのドイツ銀行へ移し資金洗浄を試みたかどでドイツ政府から告訴されたのである。数十年間、同じスイスの銀行はユダヤ人大虐殺犠牲者の資産が存在する事を否定してきた。相続人たちはあらゆる種類の証拠を示したが、結果としてそうした書類は偽物だと言われただけだった。もし彼らが強く求めると、偽物を使って交渉した容疑で逮捕される危険を冒すことになる。しかし、誰が書類を偽物だというのだ?例えば、我々の作ったCDに複製されている資料は、インドネシアのスカルノ大統領がスイス銀行に預けた金とプラチナの量がスイス銀行信託の全メンバーにより保証されているとスカルノに示した証明書である。保証したメンバーの署名は目立つように誇示されており、簡単に正当であると確認される。けれども、スカルノの相続人たちが口座を照会しようとするあらゆる努力は失敗し、さらにスカルノの資産が存在する事自体が一笑に付された。あるスカルノの貴金属証明書が実際には偽物かも知れないのに、専門家の意見が出されるまでに、どうして確実に知り得るのか?問題の銀行は詐欺だと主張することが利益に繋がるので、正当であると主張することは決して妥当な判断ではない。ノルベルト・シュレイ事件で見たように、裁判所で書類を考査することだけが、手段が不正行為であると言う裁定がなされ得るのである。あなたはどこで向きを変える事が出来ますか。もし、あなたがある銀行に書類が本物か偽物かを知りたいだけだと言えば、まず間違いなく、すぐその場で尋ねただけで逮捕される。あなたが尋ねない時でさえ、逮捕されるかもしれない。
オーストラリア人の仲買人ピーター・ジョンストンの奇妙な事件を紹介しよう。彼はヨーロッパでUBS(スイス銀行の) 金塊の証書を現金に換えるよう顧客に頼まれた。ジョンストンは旅行中、金証書を持ち運ぶことは望まないので、オーストラリアのウエストパック銀行ロンドン支店に「保護預かり」にしておいた。彼はひんぱんにエストパック銀行にその金証書を提出していた。彼はウエストパック銀行に証書が本物であることを証明するように依頼しなかった。それでも支店長は「胸騒ぎ」がして、ジョンストンの諒解なしでスイスのUBSにコピーをファックスして、それが本物かどうかを問い合わせた。UBSはいつも原本を調査することなしに「非公式に」証書を偽造だと言明した。どんな書類も偽造だとみなし、「公式に」は偽造だと言明を避けるのがUSBの政策だった。なぜなら、公式に言明することは裁判所での宣誓証言と同じ効力を持つからだ。責務を避けている内は、非公式な意見として偽物だろうと疑問を投げかけるのだ。
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>>7398
UBSはいつも証書が偽造だとして、金証書を現金化しようとする人々を追い払っている。普通ロンドン市詐欺特捜部は非公式情報に基づいた嫌疑を追及することはしないが、今回は詐欺特捜部が詐欺罪を仕組んだ。ジョンストンが一九九五年三月六日にウエストパック銀行の事務所に入った時、彼は逮捕され、詐欺未遂で告発された。なぜなら、金証書は偽物で、ジョンストンは将来的にそれを現金化しようとしたからである。驚いたことに、この怪しげな罪で有罪となり一八ヶ月の服役で元気をなくしてしまった。UBSが実際に証書を偽物だと立証したことは一度も無く、ただ証書がチューリッヒのUBSで発行されたものでなかったと言うだけである。これは巧妙なごまかしである。なぜなら、UBSの金塊取引はチューリッヒ支店では行われておらず、チューリッヒ空港の近くにあるグラトブルグにある子会社のワーブールグ・ディロン・リード社で行われているのだ。要するに、ジョンストンは偽の証言と、やる気も無い何らかの罪で間違って服役したということになる。
ここにはシュレイ事件と多くの類似点がある。金証書の専門家、ヴォルフガング・イエンチは、そうした文書は「多くの書式を必要とするが、まず銀行業務の書式には無いものだ」、と説明する。「それらは本来、秘密の銀行業務の書類によるもので、公的な領域には存在しないものだ・・・関係する金額が大きいほど、事情を知る人々の集団はより緊密になる・・・銀行の中枢が秘密の銀行業務の存在をずっと知らないことはない・・・資金のオーナーは・・・証書を保証する多くの別の書類を受け取っているはずだ。オーナーは、証書の存在を証明できる人々だけの詳細情報を書いた手紙を受け取っているはずだし、暗号化された保証番号も受け取っている。」、イエンチは、典型的な暗号は「厳密なスペリング上か、文法的間違いを含んでいる・・・」と言った。そうした間違いのため、銀行が望めば、証明書を偽物として公然と非難することが出来るのだ。
この章で我々は、サンティの相続人が全ての必要な書類と暗号を示し、それでも妨害されたのを見てきた。我々は第9章で、日本大蔵省が「57年債権」が通常の日本政府の債権とは違って見えるように慎重に企んで、「57年債権」を偽物と非難し、大蔵省が支払いを逃れるようにしたことを見た。UBS,シティバンクや他の銀行が同じ事をしたとしても驚きでもなんでもない。顧客が死ぬと、顧客がビュッヘンウォルドの受刑者かインドネシアの大統領だったかは、どちらでもよくなる。銀行は金を保持するためには何でもやるだろう。ここにジョン・ケネス・ガルブレイスが「金の研究、とりわけ経済学の別の分野での研究において、複雑性は真実をごまかすために、または真実を避けるために、真実を明らかにしないために用いられる。」と主張したことのひとつの見本であろう。
この背景に反して、米国財務省検察局がいかに早くスイスの銀行の側近に駆けつけるかを見ることは意味深いことだ。なにせある顧客が銀行へ歩いて入り、金の証明書が本物であるかどうかを訊ねる時なのだから。一九九六年三月に、フィリピン人の弁護士ベン・アラゴネスは退職したウォール街の仲買人W・R・コットン・ジョーンズと会った。アラゴネスはスイスに金塊預金を有する巨大資産の管財人だった。彼はコットンに金証書を現金化しようとしてスイス当局にどのように逮捕されたかを語った。アラゴネスは刑務所で三ヵ月間を過し、再度スイスに入ることを禁じられたのだった。チューリッヒへのもう一度の旅行した時は、アラゴネスと妻は誘拐され脅かされたと言った。UBSが彼を脅して永遠に追い払うためにこんなことまでやるのだと彼は聞かされた。コットンは空想家だったので、スイス銀行のニューヨーク支店が弁護士ベンの証書のひとつを本物かどうかコットンに告げるかどうか様子を見ようと提案した。コットンは「金証書」を現金化しようとしていなかったし、そいつは危ないことに違いない。もし彼が公証された写真複写を取るだけだったら原本は押収されることいだろう。用心深く、彼は金額が最少のたった二千五百万㌦の証書を選んだ。
彼は次のように言った。「一九九六年三月二十日にニューヨークのシティバンク株式会社に歩いて行き、シティバンクが発行し連銀のシールを貼った二千五百㌦の預託証明書を確認し、本物であると証明するよう依頼したのだ。」、シティバンクの職員は彼に、確認のためその証明書を置いていき、二日以内に戻ってくるように頼んだ。彼が三月二十二日に再び訪れた時、銀行職員の振りをした三人の男が金証書の原本を要求し、更に脅迫めいた口ぶりをした。コットンが彼の写真複写を引っつかもうとした時、3人の男は素早く立ち上がり、米国財務省検察局の捜査官だと名乗り、バッジとIDカードを示した。彼らは、コットンの行く手をさえぎり、もしこれを無理やり支給させようとするなら、連邦捜査官に挑戦する事になると言った。「私は書類が有効か否かをこれまでに知っていたことを否定し続け、そして現在も否定している。彼らは私に20年間刑務所に入ることになるぞと言った・・・協力すればいいけれど、そのほうが楽だぞ。と言ったのだ。」九十分脅された後、コットンは下町へ連れて行かれ、二通の米国地方裁判所大陪審の召喚状を渡され、検察局捜査官のトム・アトキンソンの事務所に月曜日の十時に来るよう命令された。コットンが出頭した時、かなりの威嚇を受けた。その上、だれも金証書を偽物呼ばわりはしなかった。
コットンは翌日大陪審へ出頭するよう言われた。コットンが時間きっかりに到着したが、彼の出頭は必要ではないと告げられただけだった。びっくりして、彼は上院議員フィル・グラムに手紙を書き、いかに検察捜査官が彼の権利を侵害したかを述べ、ことの真相を明らかにするのを助けてくれるよう依頼した。法務省はグラムに、「コットン・ジョーンズ氏の主張は財務省と通貨監督官事務所に対する訴訟の眼目をなすもので、その訴訟は二次控訴審で現在審理中である・・・法的、倫理的に考慮して、この件についてこれ以上のコメントは出来ない。」と述べた。これは真実ではない。訴訟などないのだから。法務省がグラム上院議員に嘘をついているか、法務省が財務省に間違った情報を知らされているかなのだ。一九九九年七月、法務省はグラム上院議員に「この問題は少し前に決着した。市民権が侵害されたというジョーンズ氏の申し立てに関し、彼は地域の連邦調査局に情報と助言をもとめて接触したらいいと思う。」と述べた。グラムが主張を続けた時、通貨監督官にこう告げられた。「・・・スイス銀行株式会社がこれまで米国通貨監督官事務所の規制の下にあったと云う事実はない。全ての将来の対応は・・・連邦準備金制度の方に仰ぐべきだ。」、昔ながらのごまかしである。コットンはむっとした。「どういうわけで米国のどの銀行も自分たちの利益のために連邦政府関係機関に介入させたり、個人財産を没収(窃盗)させたりするんだ?財務省秘密検察局は銀行の利益のために私を拘留し、尋問し、怖がらせて、脅迫し、大陪審の召喚状を私に発行するどんな権利を持っていたのだ?」、グラム上院議員はアメリカ政府のやり方を十分に知っていたので、それ以上ことを推し進めようとはしなかった。グラム議員は忙しくて手いっぱいだったのだ。
こうした詐欺行為、資料の押収とそれの偽物宣言がなされる理由は、それらの資料が莫大な金額の価値があるからなのだ、とロージア教授は主張している。ひとたび米国財務省がその書類を手に入れてしまえば、その書類は慎重に政府間の基準に従い現金化することが出来るのだ。もしそうなら、それはそれぞれの政府によって行われる凶器を持った強盗行為と同じ新しい形の犯罪ではないか。意図的に対応を遅らすことで物事はドラマチックじゃなくなるのだ。メル・ベリは彼の訴訟が裁判で進行する前に死んだ。同じ年、一九九六年三月に、レイ・クラインもまた死に、法的策謀のなかでもう一人の人間も追放することになった。レオナルド・ノウルズ卿の健康が悪化した時、彼がタルシアナ(会計係)、ルツ(内縁の妻)、デポンティス(ロビイスト)やクラインのためにナッソーで起こした訴訟も立ち消えになった。ノウルズはナッソーを去りジョージア州メーコンで彼の息子と暮らし、そこで一九九九年に亡くなった。二〇〇一年十一月に、ルツ・ランバノはフィリピンで亡くなった。ユダヤ人大量虐殺の犠牲者の金を公表しないで伏せているスイスの銀行のように、アメリカの銀行はただ長い歳月を待つだけでよく、サンティの財産を争った連中もみんな死んでしまったのだ。
今のところ、メッセージは次の通りである。「あまり多くを要求しないことだ。さもないと監獄へ入ることになるぞ。」、ダグラスバ・ レンタインによれば、一九七六年議会委員会が犯罪活動における連邦政府機関の役割を調査している時、議会の委員会でCIA長官ジョージ・H.W.ブッシュの代理人、ドナルド・グレッグは委員会のメンバーに最後通告をした。「ほどほどに手を引いたらどうだ。さもないと軍法違反の危険に直面することになるぞ。」今日でも、こうした事に共通する事例は見ることができる。つまり、CIA幹部ジェイムズ・B.ブルースは二〇〇二年七月に、ジャーナリストに対しる機密情報の継続的漏洩を止めることを決めてこう宣言したのだ。「CIAはどんなことでもやるようになった。たとえジャーナリストの家々に特別機動捜査隊の派遣を決めたとしてもだ」。
(訳者注、この章はとても登場人物が多くわけが分らなくなりました。やはり登場人物の紹介は必要だと思います。全部が翻訳できた時に考えます。)
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>>7399
黄金の兵士 エピローグ 利害の衝突
米国海軍艦船が米海軍特殊部隊員を運んでフィリピンに到着した。アメリカ大使館の情報筋によれば、特殊部隊はアメリカの準備金を増加させる計画の一環として、金塊を回収するためにフィリピンに送られたのである。大使館の情報筋が言うには、この金塊は二ヵ所から出てきた。つまり、山下将軍の金塊貯蔵所の新しい発掘と、裕福なフィリピン人がすでに回収し個人の貯蔵所に保管していた日本軍の略奪品を(大幅値引きでの)購入することである。二隻のうち一隻はミンダナオ島へ航海し、その情報によれば、積み込んだ多量の金塊は新大統領グロリア・マカパガル・アロヨの一族が所有していたものだったそうだ。情報筋によれば、ブッシュ大統領は「かなり強引だった。」そうだ。ルソン島の金塊ハンターの間で、ブッシュ大統領とその家族の仲間がゴールデン・リリー地域から未だに回収されている金塊を秘密裏に市場で売ろうとしているという噂が出ていた。マニラの金の投資家の間に出る名前のひとつが、東テキサスの石油億万長者、ウイリアムス・ タンプス・ファリッシュの名前で、彼はブッシュ・ファミリーの親密な友人であり、釣り仲間だった。ウイリアムフ・ ァリッシュは馬を飼育しており、ケンタッキー・ダービーが開催されるチャーチルダ・ ウンズ競馬場の取締役会長だが、ブッシュ大統領によりアメリカ駐英大使に任命されており、イギリスではエリザベス女王の個人的な友人となった。ウイリアム・ファリッシュはブッシュ大統領から全幅の信頼を得ていると言われていたので、その噂には特別な響きがあった。今でも、もう一人の大統領が日本軍の略奪品に関心を持ち、戦争捕虜やほかの犠牲者による訴訟から日本の最大の企業をかばったとしても何の驚きはしない。
ハリー・トルーマン以来の各大統領は略奪品と不正資金の隠蔽に関与してきた。ジミー・カーターでさえひとつの役割を果たしており、大物フィクサー、笹川の個人的な友人になったのだ。笹川は骨の髄まで軍隊に深く入り込んでいる人物だ。遠慮なしに言えば、ひどい秘密というのは、アメリカ政府の高官たち、とりわけニクソンは、盗品を受け取ることで出世を果たし、秘密資金を無節操に使い、日本政府と共謀を続けてきた。それを正当だとする理由はいつも「冷戦」であり国家の安全であった。連邦政府の幹部として、このことが彼らの安全を意味したのである。平易な英語では、これは利害の衝突であり、ダブル・スタンダードである。政治家、外交官、官僚、軍当局者そしてビジネスマンが事実と記録の改ざんとごまかしに関与していた。シニカルであれ心得違いであれ、彼らは桁はずれの不正行為に手を貸し、幇助したのだ。チャルマーズ・ジョンソンの著作からの引用では繰り返し述べていることがある。それは「冷戦は終わった。合衆国が正しいと信じたことは何でも冷戦を推し進めるに必要なことだっただろうが、冷戦自体はもはやそのコストや意図せざる結末を無視することを正当化出来ない。今日の問題は、日本が社会主義か中立主義のどちらに路線変更するかではなく、長い間、合衆国に頼りきって発展した日本政府がどうしてあれほどひどく堕落し、無能で弱いかということなのだ。」その答は、ひとつの事柄が別の事柄のきっかけになるということだ。トルーマンが日本軍の戦争略奪品の回収を秘密にしようと決めた時、隠蔽工作を是認する事になり、それが日本の戦後は貧困であるという偽の主張に基づいた偽の講和条約が締結されることになった。
ジョン・フォスター・ダレスの画策により、講和条約は戦争捕虜や「慰安婦」を含む民間人犠牲者らの苦しみに対する賠償要求を封じ込めることとなった。彼らの苦しみは今日まで続いている。なぜなら国務省と司法省がアメリカの裁判所における日本による犠牲者の全ての法的手段を阻止しているからだ。我々は当然のことながら、これが本当にトルーマンの考えたことかと思ってしまう。アイゼンハワー大統領は当時自由民主党を設立するために戦争略奪金塊の使用許可を与え、日本の国内政治過程に介入し、日本国民を岸という男に率いられた一党独裁の元に押し戻してしまった。岸こそ千九百三十年台から、凶器を使った強盗、麻薬、奴隷労働に関与していた男である。
自由民主党は、M資金を独占的に支配する見返りに、どのくらいの金をニクソンの大統領選挙運動に秘密裏に提供したのか?ニクソン大統領とフォード大統領の補佐官たちは一九七五年にマルコスと船上での話し合い、戦争略奪品の回収に関してどんな手を打ったのだろうか?カーター大統領は数百の連合軍捕虜が生き埋めにされた財宝貯蔵所を発掘するマルコスの活動に笹川が参加することが気にならなかったのだろうか?どのようにしてランズデールはUBSにあるサンティの資産を自分の名義に変えることが出来たのか?一方どのようにしてサンティの別の資産をシティバンクマニラ支店からシティバンクニューヨーク支店に移すことが出来たのか?どうしてシティバンクは最初サンティの口座を所有していることを否定し、後で所有を認め、その後サンティの相続人が口座へのアクセスを要求した時には、その口座を国外に移したのか?レイク・ ラインは何をたくらんで、シティバンクがナッソーへ移したサンティの五百億㌦の一部か全てを横取りしようとしたのか?
レーガン大統領がCIA長官ビル・キャセイに命じてマルコス一族を拉致させた時、マラカニアン宮殿から移された全ての金塊はどうなったのか?その金塊は、金塊貯蔵所のあるフォート・ノックスにあるのか、それともブラック・ホールに消えてしまったのか?どうしてレーガンの国家安全保障会議の顧問シュヴァイツァー将軍は、米陸軍大佐、米海軍特殊部隊、米海軍深海ダイバーを使っていたのか?これは正常なことなのか?もし正常と言うのなら、どうしてそんなにごまかすのだろう?クリントンは闇の金塊でゲームでもしていたのか?金反トラスト法委員会によればその通りである。二〇〇一年九月に、「エコノミスト」誌は次のように報道した。「本誌は、アメリカ政府が、第三者に支援されて、なぜか投機家や金塊銀行、特にシティバンクとJ.P.モルガン・チェイスに数千トンの金塊を貸し出し、金価格を押し下げようとした証拠を暴露した」。このようにすべての実例で利害の衝突がはっきりと分かってくる。E.L.ドクトロウが先ごろ次のように述べている。「私は自分の生涯でアメリカ国民に嘘をついたことのない大統領がいたのだろうかと考えてしまう。」
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こうしたことはそんな昔の話ではない、こうした事はばれないように隠され得るのだ。日本がダレスによって賠償金支払いの義務を免除された時、同時に一八九五年以来、アジアの隣国から盗んだ芸術作品、文化遺物その他の略奪品を保有することを許された。こうした盗品の殆どが返却されておらず、残りは日本の貯蔵所に残っており、支配層エリートを豊かにし、これらの文化や盗まれた人々を貧しくさせ続けている。このようにして今日まで悪事は続けられているのだ。なぜなら正義は行われないし、犠牲者は犠牲者のままなのだ。犯罪を規制する気がないのだ。アメリカ政府の役割は実にはっきりしている。つまり講和条約は恫喝して通してしまったやりかただ。
ジョンプ・ ライス教授は次のように話をまとめている。「アメリカ合衆国は条約準備を独り占めにして台無しにしてしまったのさ。」今ではお分かりのように、日本は戦争で破産させられた訳ではない。一九五一年、戦後6年で、日本経済は戦前の最良の事業年よりも強力になっていた。カルロス・ロムロは平和会議のフィリピン派遣団の長だったが、日本は経済的理由のため支払能力がないというアメリカの論拠を覆したのだ。日本の産業活動は戦前のレベルを三二%上回っており日本の財政状態は黒字を示していた。また、貿易収支も黒字になっていた。アメリカ合衆国の金融専門家と日本の大蔵大臣池田勇人との議論の中で、池田は千億円の予算超過を認め、日本国民に対する税の割戻しとして四百億円を使う計画を組んだ。日本銀行の総裁はアメリカ当局に保有金塊の二兆㌦相当を預かってくれるように泣きついた。というのは、彼は「フィリピン人が賠償金として金塊を差し押さえる」ことを恐れたのである。ダレスはオランダのような特定の別の国が賠償について日本と秘密の取引をすることを許した。こうした合意はたいへん機密を要するものだったのでアメリカ政府はこうした文書を五十年間極秘扱いにした。オランダの戦略は二〇〇一年に明らかとなった。
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708131 No.7401
>>7400
ダレスが決めた契約条件の問題点は、オランダ政府が、署名すれば、国民の承認を得ることなく(賠償を)放棄することが明らかになるだろうと表明した時に発生した。ダレスはしぶしぶオランダ国民に、日本政府に個別の要求する権利を与えることに同意した。この秘密取引について、あるアメリカ上院議員は言明した。「ダレスはその取引を機密扱いにし、しかもこうした犠牲者が裁判に訴えることが出来ないように五十年間も機密扱いを継続したんだ。これはダレスがやったことだ。つまりアメリカ政府がやったことだ。これは不正行為であるし、正さなくてはならない。」それから上院議員はこう付け加えた。「我々のアメリカ政府はわが国の兵士に対してはこうした権利を保証する書類を与えようともしなかったんだ。何という不法行為だろう。」
その後、オランダ政府は秘密裏に日本と賠償交渉し、一九五六年、日本政府から千万㌦の支払いを勝ち取った。もっとも、バケツに落ちる一滴くらいわずかなものであった。一九五二年、アメリカ上院外交関係委員会はアジア諸国の要求だけで「ほぼ1千億㌦」(一九五二年当時)になることを認めた。アメリカ政府は多くの隠すべきものを持っている。ナチの略奪行為を隠匿する際も積極的な役割を演じたのだ。それもアルフォンソダ・ マート上院議員の一九九〇年代の厳しい追及を受ける時まで続いた。上院議員はシーグラムの億万長者で、世界ユダヤ人協会のリーダーであるエドガー・ブロンフマンの十分な資金の支援を受けていた。クリントンはユダヤ人協会を選挙民の重要な部分と見て有利になるよう努力する中で、ようやっとナチの略奪金塊の調査を進めることになる。
しかし、それ以前のアメリカ政府は、時間稼ぎをするだけで、ホロコーストの犠牲者についての調査進捗に関し良心的でも正直でもなく、多くの種類の証拠は隠され、失われ、破棄されていた。米国公文書保管人代理はドマートに、ライヒ銀行の金在庫記録(かつてアメリカ政府が所有)は「失われていた」。と言い、公文書管理人が認めたのだが、他の記録はドイツ政府に戻され、奇妙なことに一枚のコピーも米国には残されなかった。アメリカ政府がドイツ企業、銀行家そして元ナチ指導者と共謀した明確な証拠があり、そこには日本との共謀と強い類似点があった。二〇〇〇年十二月、クリントン大統領はアジア・太平洋地域の第二次世界大戦に関する文書を機密扱いからはずすため、日本帝国陸軍情報開示法に署名した。この法案はもともとアメリカ政府に、戦争略奪を含む日本人の戦争犯罪に関連する第二次世界大戦以来のすべての機密扱い文書を公開させようとするものである。
しかし、法案が通過する前に、政府機関の特別調査団が全ての記録を調査し、CIA長官が、特別に機密扱いにすべき国家の安全を危うくすると考えられる文書の全を除外するという規定でひとつの制約が加えられた。特に、ナチの保留扱いの情報の機密開示は許可されなかった。日本の記録については情報の開示は許可されたのである。ある評論家は述べている。「いつからアメリカ政府は日独の同様の問題についてダブル・スタンダードを持つ事になったのだろう。」日本の戦争記録の中に、事後六十年、もしくはそれ以上の間、アメリカの安全を脅かしかねない何があったのだろう?誰がそうした情報開示を恥と思うのだろうか?現状では、政府の特別調査団にはどの記録を機密扱いからはずすべきか、何が全ての過程をだめにしたかを決定するために3年が与えられた。多くの怒りが資金洗浄について湧き上がった。これは歴史のごまかしである。こうした公文書が開示される時までに、日米共謀の真実を明らかにするその種の文書はナチの金塊の公文書のように「失われて」いるだろう。
証拠の隠滅は実際には日本の降伏の前に始まった。一九四五年に日本占領が始まる前に、日本は大量の戦争記録と文書を焼却=した。日本列島の空が煙と灰に満ち満ちた。一九四六年、残されていた日本政府と軍隊の記録の数百万ページがハーバート・フーバーのところへ運ばれた。それも、フーバーが政府幹部でなかったときにである。しかしながら、「ヤマト王朝」で我々が明らかにしたように、フーバーは天皇を潔白にし、東郷将軍に偽証させた首謀者だったし、戦争犯罪者たちに権力を取り戻させたのである。フーバーはカリフォルニアにあるフーバー研究所==にこうした記録類を運び込んだが、半世紀後になってその所在は謎のままである。
もうひとつの日本の公文書の莫大な押収物は一九四〇年代後半にCIAに運ばれた。「機密扱い」の文書は持ち出され、残りは国立公文書館に移された。その際、国務省は驚いたことには、それら公文書全てを日本に返還することを決めた。学者からの抗議があったにもかかわらず、はじめに十㌫だけがマイクロフィルム化されたが、略奪や共謀の証拠は全て消された。我々が一九八七年山下将軍の金塊について情報公開法に基づいて問い合わせをした時、財務省、国防省、そしてCIAは我々の要求をはぐらかし、これらの記録は公開が免除されていると主張した。言い換えれば、記録は「存在」したが、見ることが出来なかったのだ。
それでも一九九〇年代のシュレイ訴訟期間中、政府は日本のアジア地区での略奪と、戦後の不正資金に関するあらゆる記録を求め、全ての政府機関と文書館の徹底調査をすると主張したものの、裁判所に対し、そのような文書化された証拠は発見できなかったと公表した。その間、アメリカ政府に何が起こっていたのだろうか。一方、ドイツは賠償金・補償金の形で四百五十億㌦以上を払っており、日本はたった三十億㌦を払っただけである。現在でも、ドイツはこの賠償補償計画を継続して払っているが、日本は一歩もゆずらないで、賠償問題は一九五一年に決着済みであると言い続けている。日本の立場はアメリカ国務省に確固として支持されている。国務省はアメリカ国民に対してさえ、そして元の戦争捕虜に対してさえ賠償金の支払いを阻む覚悟を決めているのだ。
イギリス政府はこの問題は全て一九五一年のサンフランシスコ講和条約で決着したと主張し、アメリカ政府の言い分を繰り返してきたが、結局その態度を翻した。二〇〇一年に、イギリス政府は日本でのイギリス人戦争背捕虜とその相続人に対してその税収からの一回限りの解決金1万ポンドを支払うことで合意した。このことはおもいやりのあるように思われるかもしれない、しかし、これはどうして日本が支払わずにいるのかという本当の問題を避けることになっている。そして、そのことは日本の公式謝罪を求めるイギリス人戦争捕虜や被抑留者の要求も満足させていない。戦争以後、日本政府は自国民に4千億㌦の賠償金を与えるように一五の法律を作ってきた。賠償金や年金を受け取る人々の中には、告発された戦争犯罪人が含まれていたのである。
日本人の社会学者、タナカ・ヒロシ(田中裕又は寛?)は「我々日本人は自分たちには気前がよく、他国民には金を出し惜しみしている。戦争賠償に関する我々の考え方は外国人に対してははっきり言って不公平で、過去について自責の念などないようだ。」と言った。アメリカ政府は戦争中、不当にアメリカで強制収容された日本人に賠償金を払っている。被収容者はすべて、収容期間の終わりに生まれた赤ん坊さえも、2万㌦を受け取った。彼らの多くは完全に無実で、多くの場合、被収容者の生活は強制収容のために傷つけられ、破壊されたのだ。しかし強制労働をするよう強要されたものは一人もいなかった。一九九九年以来、三〇件以上の訴訟がバターン死の行進の生存者や他の戦争捕虜たちによってカリフォルニアの裁判所に提出された。彼らは当時、日本の企業のために強制労働を強要された。そうした訴訟はカリフォルニア地区に絞り込まれた。なぜなら、州議会が訴訟の出来る期間を延長していたからだ。アメリカ政府はそうした訴訟をサンフランシスコの連邦裁判所に移した。その裁判所の連邦判事ヴォーン・ウォーカーは、そうした訴訟の多くを二〇〇〇年九月に却下(棄却)した。ウォーカーはこうした訴訟は一九五一年の講和条約の条件により裁判にはならないと言った。これは、日米政府が使う完全な訴訟阻止策なのである。信じ難い事だが、国務省はこうした場合は日本と協調する側に立ち、議論を進めるのだ。ウォーカーは、サンフランシスコ講和条約は「起訴人の全ての賠償請求を将来の平和のために放棄した。歴史はこの取引の賢明さを証明するだろう。」、と述べて彼の決定をまとめた。
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708131 No.7402
>>7401
チャルマース・ジョンソンは講和条約が署名されて以来、アジアの戦争で少なくとも1千万人の人々と五万五千人のアメリカ人が死んだことを指摘し、将来の平和と言う文言に反論している。こうした事実だけで、彼はウォーカー判事の発言を「これ以上ないほどのひどい拒絶であった。」と公正に評した。ある者が反撃に転じた。二〇〇一年三月、アメリカ下院議員マイク・ホンダ(民主党、サン・ホセ)とダナ・ローラバチャー(共和党、ハンチントン・ビーチ)は法案、「戦争時捕虜のための正義法」をアメリカ議会に提出した。その法案は超党派的な支持を獲得して二〇〇二年の八月までに両党の院内党幹事を含め228名分の賛成署名を集めた。ホンダ法は「米国国務省が被害者の訴訟を妨害しないよう」、日米間の一九五一年の講和条約の表現の細かな解明を要求したのだった。もし法案が法律として成立したら、三井、三菱そして住友のような日本の企業に強制労働を強いられた戦争捕虜へ賠償請求の道を開くものだった。そうした日本企業は今でも地球上の最も裕福な企業に含まれているのだ。
一九五一年の講和条約二十六条には次のように書かれている。「もし日本国がいずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益を与える平和処理または戦争請求処理を行う場合は、これと同じ利益は、この条約の当事国にも及ぼされなければならない」。言い換えるなら、もし日本が戦争請求に対して講和条約で与えた利益よりも大きな利益を別の国に与えるならば、日本は講和条約に署名した48カ国全てに対して同じ条件に拡大しなければならないのである。さらに、我々は今では知っている通り、秘密の取引がダレスの手配でオランダが1千万㌦を日本から受け取っている。スイスとビルマもまたそれぞれ現代の価値で約5万㌦に相当する自国民に対する賠償金を交渉した。ビルマは日本に占領されたけれども、スイスは戦中は交戦国ですらなかったのだ。
スイスとビルマとの間で交渉が進展した時、イギリス政府(自国の戦争捕虜からの要求に直面していた)は交渉再開に反対することを決定した。講和条約での条件で交渉再開する資格があったにもかかわらず反対したのである。実際のところアメリカと緊密な連合国は、一カ国として第二十六条に首を突っ込むなと言うアメリカ政府の指示を逸脱することはなかった。ウォーカー判事は、おそらく相当なプレッシャーのもとで、国務省側の立場を取り、第二十六条は民間人によっては提訴できないと裁定した。ホンダ・ローラバチャー法は、議会に犠牲者のための行動を取らせ、その奇妙な裁定を何とかしようとするものだった。選挙で選ばれたわけではない国務省の官僚は、選挙で選ばれたアメリカの議員たちの向こう見ずさにあぜんとしたが、ホンダ法は連邦判事に政治的圧力を行使するだけでは拒否しえないと理解していた。その代わり、国務省はホンダ法案の条文を「極端な背信行為をなす法律になろう。」と主張し、高い倫理感を持つようにと発言した。背信?つまり、日本の巨大企業と日本の並外れて腐敗した無能な自由民主党の親玉たちへの背信のことか?
二〇〇一年の春以来、この法案は委員会で審議が滞ったままである。ひとたび下院を通過したなら、法案についての激論が上院でふたたび戦わされるはずだった。その結果大統領の拒否権は(おそらくは)行使されるだろう。そうした場合に、ジョージ・W.ブッシュはトルーマン以来のアメリカ大統領による隠蔽の伝統を支持するからだ。正義が執行されるために国務省や司法省を強制する、もうひとつの議会の努力が予算案に対する修正案だった。二〇〇二年予算に対する修正案は、国務省や司法省が「日本人や日本企業に賠償や補償を求める民事裁判に対抗するためのあらゆる裁判所への申し立ての申請に」いかなる予算を使う事も違法とするものだった。「民事裁判で、原告たちは第2次世界大戦のアメリカ人戦争捕虜のように、奴隷もしくは強制労働者として使役されたと申し立てている。」のだ。この修正案は、圧倒的な超党派的支持で可決された。世界貿易センタービル攻撃の1日前のことである。もちろん、国務省や司法省に戦争捕虜に有利な決着に反対し、裁判所にアドバイスすることや、連邦裁判所に圧力を加えることを何物も禁じてはいない。修正案は一二ヵ月間有効であり、その後は再提出されなければならないだろう。そうなれば、修正案は大衆受けするし、愛国的だが、骨抜きでもあるのだ。
悲しいことに、この裁判所上の行き詰まりはフランス革命前のフランスのようで、その当時のフランスは貴族用の裁判と一般大衆用の裁判という二層構造の裁判制度が行われていた。しかしながら、アメリカ政府が日本の自由民主党をその不正行為と賄賂体質から救うには遅すぎたのだろう。日本の金融破綻はマサチューセッツ工科大学の研究者により予測されていた。その予測は自由民主党が必要とされる重大な改革の着手を拒否したらと言う前提でのものである。実際のところ、まえから日本の銀行は崩壊していたのだが、サイレント映画のように組織は聴衆がどんな音も聞くことなく崩落したのだ。日本の銀行は田中首相のような連中のための談合取引や「ヤクザ」に対するゼロ金利取引などで、帳簿上の不良債が一兆㌦あった。そうした銀行の中で三和銀行と東海銀行がひどい打撃をうけた。第一勧業銀行と共に三和銀行と東海銀行は、マッカーサー元帥とマークアット将軍により一九四五年の銀行再編成から免除を受けた三銀行だった。元首相・大蔵大臣の宮沢は痛みのない緊急援助を提案した。痛みのないのはこうした銀行にとってなのだが・・・。銀行は日本人納税者によって救済されたのだ。納税者がその救済を支持したかどうかは疑わしい。
もし誰かが手品のお膳立ての仕方を知っていたとすれば、それは宮沢だった。他の誰も宮沢ほど一九四〇年代はじめから大蔵省の内部業務に詳しくなく、継続して関わってもいない。宮沢は一九四二年に大蔵省で仕事を始め、ジョン・フォスター・ダレスと五十一年の講和条約の秘密条項について交渉した三人の日本人のうちの一人である。宮沢はゆがめられた交渉で得た名声(威信)のおかげで、政治の世界に入り今日まで驚くべき影響力の持ち主のままである。宮沢は中曽根、竹下、小渕、森内閣の大蔵大臣として勤めた。この数十年間にわたって、宮沢は自由民主党の会計責任者だったので、全ての不正資金の詳しい情報を持っていた。彼は多くの他の閣僚のポストにも就いており、M資金の「五七年債」問題が最初に発表された時は内閣官房長官だった。
竹下内閣の大蔵大臣だった時、宮沢はM資金と結びついたリクルート・インサイダー取引スキャンダルで竹下首相と一緒に辞任せざるを得なかった。一九九一年に、M資金の支配者金丸と後藤田に助けられて、宮沢は首相になった。宮沢は後藤田を副首相に任命し、金丸を自由民主党の副総裁にし、金丸には「共同首相」の非公式の役割を与えた。しゃれた都内の料亭で行われたこの協調を祝う酒宴で、宮沢は金丸に約束したのだ。「私はあなたの意志に反することは何もしないし、何でもあなたに相談しよう」。蜜月は短かく、一九九二年に金丸は佐川急便の一大スキャンダルに巻き込まれたのだ。佐川急便は政治的に影響力のある連中に戦争略奪金の賄賂を運んでいた。金丸は自分の裁判が決着する前に、都合よく死んだ。誰かが真実を知っているとしたら、それは宮沢である。宮沢は何も語っていないし、彼の娘婿も何も語っていない。宮沢の娘婿、クリストファー・J・ラフラーはアメリカの外務専門職員で長年駐日大使館で大使代理(つまりDCM)として、最も力のある外交官だったのだ。
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708131 No.7403
>>7402
一九八六年、三八歳のラフラーはFS―X戦闘機の販売交渉の名目で日本へ派遣された(同年、シュレイは彼の顧客の「五七年債」の交渉のために日本へやってきた)。宮沢は当時大蔵大臣でFS―X戦闘機の交渉担当者であった。リクルートスキャンダルの疑惑の中で宮沢は「五七年債」とM資金との関係が取りざたされた。ラフラーと宮沢の間の友情でひとつの予期せぬ出来事が起こったのだが、それはラフラーが宮沢の娘と結婚したことだ。一九九七年九月、ラフラーは駐日アメリカ大使館で代理大使となり、「大使館の事実上のボス」と呼ばれた。数ヵ月後の一九九八年に、宮沢は小渕内閣の大蔵大臣として指揮官に返り咲いた。この仕事に対する宮沢の初期の役割のように、宮沢は「五十七年債」の被害対策を実践するために大蔵大臣に戻されたのだ。
ロージア教授によれば、この莫大な「五十七年債」の償還日が迫っていた時に、自由民主党も日本政府も償還出来なかったから宮沢が大蔵大臣として戻されたのだ。そして、宮沢は「五十七年債」の証書を偽物と決めつけ、退けたのである。ロージアは、宮沢が大臣としてどの証書を支払い、どの証書は支払わないかを決めることになっていたと考えている。同じ期間に、アメリカ大使館のラフラーは「五十七年債」はイカサマであると主張し、義父により取り決められた一九五一年の講和条約を論拠に、日本企業を訴える犠牲者の権利に対し声高に反論した。ラフラーだけでなく彼が仕えた一連の大使たちもまた明白な利害の衝突を示した。多くの人はトム・フォレイ大使の妻が住友重工の有給の顧問だと聞いて困惑した。住友重工は戦争捕虜たち強制労働に対する訴訟の重要な標的のひとつだったからである。国務省はフォレイ夫人の仕事と、同時に駐日大使として、彼女の夫の任務との間に利害の衝突はないと言明した。しかしながら大使の時、フォレイはアメリカ人戦争捕虜のフォレイの妻が働く企業も含む日本企業を訴える権利を激しく否定した。
フォレイは大使の職を退きワシントンへ帰った後、おおっぴらに三菱企業の戦略諮問委員会のメンバーとして有給のロビイストになった。三菱企業は戦時中、アメリカ兵強制労働の最大の雇用企業だった。ラフラーがフォレイの下で代理大使に任命された時、東京の特派員たちはラフラーについて、日本の「ドリームチーム」のメンバーだと冗談を言った。二〇〇一年には宮沢の娘婿として、ラフラーの特別な立場が広く知られるようになり、利害の衝突とダブル・スタンダードの問題が無視するには余りにも明らかなので、ラフラーはワシントンに呼び戻され、国務省の東アジア太平洋問題局の副長官代理となった。このことは東京での潜在的な困惑からラフラーを救うことになったが、ラフラーはアメリカの裁判所での全ての法的行為を監視するように、アメリカの議会を監視指導する重要なポジションに就くことになった。
こうした茶番の最悪の状態が二〇〇一年の九月にやってきた。その年、三人の元駐日大使(トーマス・フォレイ、マイケル・アマコスト、フリッツ・モンデール)によって書かれた一通の手紙がワシントン・ポスト紙に紹介された。その手紙は、日本へ対するアメリカ人戦争捕虜の主張を世界貿易センターへのテロリストの攻撃と関連させている。「どうして議会はローラバチャー法案を成立させようとしたのだ。その法案は大統領とその政権が激しくテロリズムと戦おうとしているこの時に、わが国安全の土台となっている条約をぶち壊す可能性があるのに。」言い換えれば、ホンダも、ローラバチャーもアメリカ人戦争捕虜たちのこともテロリスト同然だと言ったのだ。日本の政府ですら、フォレイ、アマコスト、モンデールの法案派への攻撃に驚き、日本人スポークスマンはあわててワシントンで、日本政府は戦争捕虜の要求と世界的テロリズムの問題は「別の問題」と承知しているとマスコミに述べた。反対意見を持つ国務省の幹部が冗談ぽく言った。「たまに思うのだが、日本は自分たちの大使館と、彼らのために働く米国の大使館の二つの大使館を持っているようだ。」
完了
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708131 No.7404
>>7403
「GOLD Warriors」の翻訳をしてくださったのはマヨさんという方です。その方のブログ等もいつ消されてしまうかわからないので、こちらでも共有させていただきました。10ヶ月ほどかけて、2007年に翻訳してくれていたものです。長文のため、PDFか画像で共有する方が良いかな?とも思ったのですが、後からキーワード検索した際に点と点を繋げられるようにテキストで投稿させていただきました。「訳者から読者へ」というページもこちらで公開されています↓マヨさんが翻訳してくださった文書のPDFも一部公開してくれています。本当に有難うございます。多くの日本人が読むことを願っています。
http://mayonokuni.web.fc2.com/top.html
この話の全てが事実ではないだろうし、一番触れてほしくないところは書かれていないと思います。出版ができている時点で、大衆にこれが真実だと思われた方が有利な何かが隠されているのではないかと。天皇裕仁の背後にいたものたちは?ヒトラーの背後にいたものたちは?(天皇のこともヒトラーのことも擁護するつもりはありません)一番安全なところから全てをコントロールしているものたちのことは書かれていないのではないだろうか? ですが、多くのことを学べる内容だと思います。自由民主党の裏金問題の根源がこんなにも根深いものだったとは….驚くべきものばかりでした
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708131 No.7411
>>7407
Q Research Japan/Nihon #22より
小泉純一郎といえば、郵政民営化。関連記事
https://www.excite.co.jp/news/article/Mediagong_28584/
2019年08月24日
植草一秀[経済評論家]
***
日本社会が急激な劣化を始めたのは2001年からだ。小泉政権が誕生し、経済の弱肉強食化が推進された。
経済的な勝者は決して「がんばった人」ではなかった。政治権力を不正に利用した「よこしまな人」が濡れ手に粟の不当利得を得る構造が構築されたのである。
「民営化」と表現すると聞こえは良いが、実態は公的事業の「営利化」、「利権強奪」である。
「民でできることは民に」のかけ声で推進された「郵政民営化」がどのようなものであったのか。現時点で総括する必要がある。郵政民営化法が制定される際に、「かんぽの宿」売却が法律に潜り込まされた。
「かんぽの宿」をオリックス不動産に破格の安値で払い下げるプロジェクトが密かに進行したのだ。
かんぽの宿79施設をオリックス不動産が109億円で取得する寸前まで事態は進行した。売却される79施設の1施設に過ぎない「ラフレさいたま」だけで時価は100億円相当というものだった。詳細は割愛するが、はじめからオリックスに払い下げることを仕組んだ「出来レース」であった疑いが濃厚だ。
「民営化」の名の下に私腹を肥やそうとする勢力が蠢(うごめ)いていたと見て間違いないと判断できる。間一髪のところで不正払い下げは未遂で済んだ。
この「かんぽの宿」払い下げを推進したのが日本郵政の「チーム西川」である。
日本郵政社長に三井住友銀行の西川善文頭取が起用された。西川氏とともに三井住友銀行から出向した者などが中心になって「チーム西川」が編成され、この不正払い下げ事案が推進された。その「チーム西川」の中心人物が横山邦男氏だった。
日本郵政における横山氏の「実績」はこれだけではない。日本郵便に900億円を超える損害を与えたJPEX事業失敗でも中核的役割を果たした。
横山氏はこれらの「実績」をあげたのちに銀行に戻ったが、経営企画担当の専務執行役として日本郵政に勤務中も、横山氏は三井住友銀行の社宅に住んでいた。
当時の日本郵政はまだ完全な公的機関である。その公的機関の要職にある者が一私企業の職員であれば、当然、重大な利益相反問題が発生し得る。横山氏は日本郵政に重大な損失を与えて銀行に戻ったが、第2次安倍内閣が発足して日本郵便社長に抜擢されたのだ。その日本郵便が保険販売で史上空前の不正を行ったことが明らかになっている。
保険販売を担当したのは日本郵便の職員である。
日本郵便社長の横山邦男氏が最大の責任を負う。横山氏が引責辞任に追い込まれるのは時間の問題と見られるが、これが「郵政民営化」のなれの果てなのだ。郵政民営化は、そもそも米国が、日本郵政グループが持つ有形無形の巨大資産に目をつけて、これを収奪するためのプログラムだった。
この指令を受けたのが小泉純一郎氏である。米国はその執行役として米国のエージェントである人物を郵政民営化担当相に指名した。米国は同時に日本の金融機関の収奪プロジェクトも進めていた。
この件についても米国は、その執行役に米国のエージェントである人物を金融担当相に指名したのだ。
自己資本比率に関するルールを突然変更する方針が示されたときに、烈火のごとく怒りを示したのが三井住友銀行の西川善文氏だった。しかし、金融担当相は西川氏と米ゴールドマンサックス最高幹部を引き合わせて自己資本不足に対応する資金調達を斡旋した。
この時点から西川氏の態度が一変した。小泉政権に正面から異論を唱えた人物が頭取を務めるりそな銀行が標的とされ、「風説の流布」、「株価操縦」、「インサイダー取引」という巨大な犯罪的行為によってりそな銀行が乗っ取られた。この悪魔のプロジェクトの邪魔になった関係者が2名も不審な死を遂げた。
「郵政民営化なれの果て」の一つの断面がかんぽ生命保険不正販売事案である。日本郵便はすべての保険商品の販売を自粛したが、たったひとつの例外がある。米国アフラック生命の保険商品だけ、いまなお販売を続けているのだ。日本は完全に腐り切っている。
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708131 No.7412
>>7411
この民営化というのは、簡単にいうと、国民の貯金が預金に変わったということらしいです
貯金と預金の違いなんて、当時は考えたこともなかった
「預金」と「貯金」と「貯蓄」。いったい何が違うの?
引用元:https://job.career-tasu.jp/finance/articles/022/
旅行に行くためにとか、結婚式の準備、車や家の購入のためになど、将来やりたいことや購入したいもののために必要なお金を“ためること”を、一般的には貯金と言いますよね。でも、銀行に預ける場合は「預金」と言うし、郵便局の窓口などでゆうちょ銀行に預ける場合は「貯金」と言います。さらに似たような言葉に「貯蓄」もあります。いったいこれらの言葉は何が違うのでしょうか。就活生なら知っておくべきお金にまつわる基礎知識として、ご紹介しましょう。
預ける金融機関で変わる
「預金」と「貯金」の違いは、ずばり「お金を預ける金融機関の違い」です。大まかに区分すると以下のようになります。
1.「預金」と呼ぶ金融機関:銀行、信用金庫、信用組合、労働金庫など
2.「貯金」と呼ぶ金融機関:ゆうちょ銀行、JAバンク(農業協同組合)、JFマリンバンク(漁業協同組合)など
1.では、いつでも引き出せる普通預金も、一定期間を決めて預ける定期預金も「預金」です。2.では、銀行の普通預金にあたるのが普通貯金、定期預金にあたるのが定期貯金になります。「ゆうちょ銀行も銀行なのになぜ?」と思われる方もいると思いますが、これは民営化される前の郵便局時代の呼称が今でも続いているためです。
ゆうちょ銀行は、銀行だから貯金ではないのに、預金のことを"貯金"って呼んで誤魔化しているってこと!?
だから郵貯銀行じゃなくて、ひらがなで ゆうちょ銀行なんですかね?
郵便貯金は庶民が対象
では、なぜ取り扱う金融機関で呼び方が違うのでしょうか? これは、銀行預金と郵便貯金では、成立したときの歴史的な背景がそれぞれ違うためです。
まずは郵便貯金から。郵便貯金は、国の政策として明治8年から始まりました。それまでの日本では、「いざというときのためにお金を貯める」=「貯金」という習慣があまりありませんでした。そもそも江戸時代までは、多くの人が農業を営み自給自足に近い生活を送っていたため、お金そのものが今ほど使われていなかったからです。したがって、その流れを引き継いだ明治初期でも、国民全体はまだ貧しいままだったのです。
そこで、庶民に「お金を貯めること」を奨励しようと、イギリスの郵便制度を参考にして当時の大蔵省(現・財務省)が運用を始めたのが郵便貯金です。一人ひとりの貯蓄額はわずかでも、それらを集めることで国家の発展のために活用しよう、という目的もありました。お金を預けたのは、主に貧しい農民が多かったようです。
企業や商人向けだった銀行預金
対する銀行が日本で初めて設立されたのは、明治6年です。最初はすべての銀行が国立で、当時100を超える銀行がすでにあったようです。明治15年に中央銀行として日本銀行ができた後は、ほかの銀行は民間に変わっていきました。
当時、銀行にお金を預けたのは、都市部の商人や企業などが主でした。これは、預けられる最低金額が1口5円(現在の20万円~30万円程度)以上などと決まっていて、庶民の多くは利用したくてもできなかったためです。当時は、小学校の教員や警察官の初任給が現在の物価換算で月8万円~9万円だった時代です。また、当時から「預金」は企業などに融資という形で貸し出されていました。
ちなみに、「預金」と「貯金」では、金融機関が倒産や破綻した場合に、預けたお金を保護する制度も異なります。
預かったお金を「預金」と呼ぶ銀行や信用金庫などが倒産した場合は、預金保険制度が適用されます。JAバンクなど預かったお金を「貯金」と呼ぶ金融機関では、貯金保険制度が適用されます。
ただし、保護される内容は同じで、いずれも一人あたり1つの金融機関につき元本1,000万円までです。ゆうちょ銀行も預かったお金を「貯金」と呼びますが、適用されるのは預金保険制度です。これは、預かったお金の商品名が「貯金」というだけで、民営化により実質的には「預金」と同じになったからです。
郵便貯金というものは現在は存在しないけど、あたかも存在するかのように誤魔化され続けているってこと?
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708131 No.7413
>>7412
>預かったお金の商品名が「貯金」というだけで、民営化により実質的には「預金」と同じになった
"名前は「ジャパン」なだけで、よくよく見ると、日本産ではありません" って裏に小さく書かれている商品みたいな感じか….
郵便貯金
https://ja.wikipedia.org/wiki/郵便貯金
郵便貯金(ゆうびんちょきん、英: Postal Savings)
2007年10月1日に実施された郵政民営化以前に、郵便貯金法に基づき、日本政府(駅逓局・逓信省・郵政省・総務省郵政事業庁)・日本郵政公社が行っていた貯金の受入れ事業のこと[1][2]。
2007年10月1日以降では、郵政民営化以前に預入された定額郵便貯金・定期郵便貯金など定期性郵便貯金の日本政府による保証を継続させるため株式会社ゆうちょ銀行に承継されず、独立行政法人郵便貯金簡易生命保険管理・郵便局ネットワーク支援機構(郵政管理・支援機構)に承継された貯金のこと[3][4][5]。民営化時点で約131兆円[6][7]。なお、郵政民営化以前に預入されていた通常郵便貯金・通常貯蓄郵便貯金は民営化時点でゆうちょ銀行に承継されており、「郵便貯金」ではなくなった[3][8]。また、民営化後にゆうちょ銀行・郵便局で取り扱う貯金事業の名称は「貯金」であり、「郵便貯金」ではない[8][9][10]。
民営化後のゆうちょ銀行で提供している預金の愛称は「郵便貯金」ではなく「貯金」であるものの、「ゆうちょ銀行」という行名であることも起因し、一般には国営時代と同様に「郵便貯金」と俗称されることも多い[1][2][11]。ただし、これは厳密には誤りである。
ややこしい….実質預金になりましたっていうことを知られないように分かりにくくしているのか?
概要
郵便貯金は、郵便貯金法に基づき「簡易で確実な貯蓄の手段としてあまねく公平に利用させることによつて、国民の経済生活の安定を図り、その福祉を増進すること」(郵便貯金法第1条)として、公社化以前は郵政大臣(総務大臣)が管理する国の事業、公社化後は日本郵政公社が行う事業であった(郵便貯金法第2条)。
24,000を超える日本全国の郵便局で取り扱いが行われていること、日本国政府による政府保証があること、預け入れに1,000万円の限度額が設けられていること等、他の民間金融機関にはない特徴があった。
郵便貯金法
https://ja.wikipedia.org/wiki/郵便貯金法
郵便貯金法(ゆうびんちょきんほう、昭和22年11月30日法律第144号)とは、郵便貯金に関して規定していた日本の法律である。1963年7月12日、改正公布(利率を政令で定め弾力的に運用する)。郵政民営化法等の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律(平成17年法律第102号)第2条の規定により、2007年10月1日に日本郵政公社法や簡易生命保険法などとともに廃止された。
郵便貯金条例は、1890年8月13日公布。 旧郵便貯金法は、1905年2月16日公布、7月1日施行(郵便貯金条例は廃止)。
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708131 No.7414
>>7413
貯金
https://ja.wikipedia.org/wiki/貯金
一般
金銭を蓄えること。貯金箱、タンス預金・タンス貯金(へそくり)も参照。銀行への預金も含む行為。英語ではsavings。通常の会話では銀行への預金を貯金と言っても間違えではない(後述の通り、預金は専門用語である)。
金融機関へお金を入れる行為
旧郵便貯金(郵便局、2007年10月以降のゆうちょ銀行の預金を含む場合もある)、JAバンク(農業協同組合)、JFマリンバンク(漁業協同組合)に金銭を消費寄託すること。貯蓄。預金#取扱金融機関及び預金と貯金の区別を参照。
預金
https://ja.wikipedia.org/wiki/預金
預金(よきん、英: deposit)とは、銀行が貸出や手形買取の際に発生させた、銀行に対する借り手や手形の売り手名義の債権の記録のこと[1]。すべての預金は銀行が貸出や手形買取の際に、借り手や手形の売り手の銀行口座にその金額を記入することによって創造され、振込や口座振替といった形で決済手段として用いられ、返済によって消滅する。このような預金から必要に応じて引き出された現金が市中(銀行業システムの外部)で流通する[2]。また、政府支出によって預金が創造され、納税によって消滅する[3]。
金融機関に金銭を消費寄託(同種同量のものの返還を約してする寄託、期限の定めがない場合にいつでも返還を請求できる点で消費貸借と異なる)すること、または、寄託された金銭のこと。
概要
寄託の態様によって、当座預金、普通預金、定期預金などがある。本質的には預金者は金融機関に金銭を貸したことになる。預金者の要求があればいつでも払出しに応じる流動性預金(要求払預金)と定められた預入期間満了まで払出しに応じない定期性預金に大別される。
貯蓄
https://ja.wikipedia.org/wiki/貯蓄
貯蓄(ちょちく、英: savings)とは、蓄えることであるが、経済学においては色々な定義があり、主なものとして以下のものがある。不動産を含めるか、金融資産を含めるかどうかで金額は大きく変わることに注意。
投資を含む:現金・預金・投資(金融資産や不動産など)・年金・保険などにより資産を蓄えること。
流動資産のみ:現金・預金(普通預金や定期預金など)・金融資産(株や投資信託や債券など)・保険により資産を蓄えること。不動産と年金は含めない。
投資を除く:現金・預金(普通預金など)により資産を蓄えること。
投資を含む用法は、内閣府の国民経済計算の家計貯蓄率[1]などで使われている。資産のリスク性などを考慮に入れず貯蓄とする用法である。所得=消費+租税+貯蓄 の関係にある。
流動資産のみの用法は、総務省統計局の家計調査[2]で使われている。不動産や年金は含まないため、確定拠出年金や小規模企業共済なども貯蓄に含まれない。
投資を除く用法は、貯金と似た意味に使われており、ほぼ無リスクで直ぐに消費に回せる資産だけに限定した用法である。例えば、2001年に小泉純一郎内閣が「貯蓄から投資へ」というスローガンを掲げたが[3]、この時の貯蓄は預金の事をさしている。
更には、リスク性のある金融資産の貯蓄のことだけをさす用法もあり、知るぽるとの発表している「家計の金融行動に関する世論調査」の統計データ[4]に対して、不動産・普通預金・年金などしか資産を持っていない世帯を「貯蓄ゼロ世帯」と呼ぶ用法[5]もある。これは正しくは「リスクのある金融資産ゼロ世帯」である。
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708131 No.7642
QResearch Japan/Nihon #25より
消費税の嘘がわかりやすく纏まっていたので共有します
消費税に騙されていない?【消費税の嘘】5選!
2023-3-29
https://tetragon64.hatenablog.jp/entry/20230329/1680084000
※一部省略します
皆さんは日々買い物をして消費税を払っていますよね。
そんな日々払っていて馴染み深くなってしまった消費税は、実は嘘だらけだと知っていましたか?
消費税って制度上とても分かりづらい税金で、嘘に嘘を塗り固めて説明されていることが多いのです。
今回は、そんな消費税の嘘の中でも、ぜひ知っておいてほしい5つの嘘を取り上げます。
この記事を読んで分かること
消費税は社会保障の財源という嘘
消費税は間接税という嘘
消費税は消費にかけられる税という嘘
インボイス制度は必要という嘘
消費税は国民にメリットのある税金という嘘
消費税は社会保障の財源という嘘
実際は2割程度しか使われていない
2014年の消費税増税時に、5%から8%へと消費税が増税されましたが、時の安倍政権は「増税分を全額社会保障の充実と安定化に使う」と公言し、約束していました。しかし、実態は約2割分しか社会保障費に使わず、残りの金額は国債の返済に当ててしまいました。
国債の償還なんてする必要ないのに。
余談ですが、予算で国債を償還しているのは世界広しといえど日本だけなのです!
日本以外の国は国債を償還せず、借り換えをしておくことで、ずっと国債を償還していません。
財政黒字になった国家は国債の償還に当てるかもしれませんが、そもそも財政が黒字になるというのは国内がバブル景気など、異様な好景気になっている可能性が高く、国内の過剰なインフレが進んでいるため、その加熱したインフレを抑えるために行うに過ぎません。
日本だけは60年償還ルールというおかしなルールがあるので、こんな不景気でお金が出回っていない現状でも国債の額の1/60を償還費として予算に計上し、国債を償還し続けています。
消費税は一般会計なので、どこに使われたのか色は付かない
消費税は一般会計の枠組みの中で取り扱われています。
一般会計ということは、財務省のお財布なのです。
例えば、全額社会保障費に当てるというのであれば、消費税の税収を特別会計にして、厚生労働省の管轄下で、社会保障費に当てているのであれば、これは立派に社会保障費として使っていることになります。
例えば、2009年の道路国会より前のガソリン税であれば、特別会計として国土交通省の自由に使えるお金でした。この特別会計のガソリン税を財源に道路を整備したり補修したりすることができていました。この場合、ガソリン税の使途は道路の整備や補修に限られる国土交通省の予算なので、教育費や防衛費など、国土交通省の管轄以外の用途でガソリン税が使われるわけではありません。
余談ですが、ガソリン税も2009年の道路国会以後は一般財源に入り、財務省の管轄下になって一緒くたにされています。そのため、道路を補修するためにも、国土交通省の官僚が財務省の官僚に頭を下げなければならないという明確な権力の構造ができてしまいました。
しかし、消費税の実態は一般会計の中に入っており、他の所得税や法人税などの税収と一緒に混ぜこぜになっています。
お金に色は付いていないですから、気持ちの意識があろうとも、1万円は1万円で、どこで手に入れようと何をして得ようと価値は変わりません。
所得税と法人税とその他税収と一緒くたにされて、支出されている財務省管轄の税金なので、どこに使われたか分かりません。調べようがありません。
先ほど述べた「約2割分しか社会保障費に使わず、残りの金額は国債の返済」というのも、そういう計算になっているだけに過ぎず、実態として消費税はどう使われたのかは分かりません。
言うなれば、お財布みたいなものですね。
一般会計という生活費のお財布にいろいろなところから収入が入ってきて、支出もしますよね。特別会計という、子どもの学費にしか使わないお財布を作れば、社会保障だけに使うということは成り立ちます。
しかし、一般会計という1つのお財布で生活費も子どもの学費も管理していたら、どこから入った収入をどう使っているのか、分かりようがないですよね。
そんな感じで、一般会計に入れられてしまった以上は、財務省に頭を下げないと支出できない状態にあり、どこから手に入れたお金なのかというのは一緒くたになってしまって分からない状態になっているというのが現状なのです。
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708131 No.7643
>>7642
税は財源ではない
そして、さらに今まで語ってきたことを否定するようですが、税金は財源ではありません。
そもそもこの世になぜお金はあるのでしょう?
それは、政府が作ったからに他ならないですよね。
2023年度の予算と2023年度の税収はどちらが先でしょうか?
2023年度の予算が決まるのは、2023年の3月頃、国会で予算が承認されるタイミングです。また、それからも補正予算が組まれれば、補正予算が採決され、可決されたタイミングで予算は執行されます。
一方、2023年度の税収が確定するのは、2024年3月の確定申告になります。2023年にかかったすべてのお金を計算して、そこから税額を決めて、税金を納めるのは2024年3月の確定申告になります。
ということは、2024年3月まで2023年度の予算は執行できないのでしょうか?
そんなことはないはずです。
実際に予算は2023年度中に執行されます。
ということは、税が徴収されなくても、国には予算を執行することができます。
これを「スペンディング・ファースト」と言います。
つまり、支出が先で、税の収入は後なのです。
この支出する時は、国債(正確には財務省短期証券という1年で償還する国債みたいなものも含まれているが、ここでは国債でまとめる)で支出しているのです。
国には、何もなくても国債で支出することができる力があるのです。
だから、自国通貨を発行できる国は、ある程度供給能力があれば、財政破綻なんてするはずがありません。
消費税は間接税という嘘
直接税と間接税とは
「消費税って間接税でしょ。当たり前じゃん」という少し詳しい方もいらっしゃるようなのですが、「直接税?間接税?何それ美味しいの?」という方のためにも、改めて直接税と間接税について定義を確認しましょう。
直接税とは、納税者が国や地方公共団体に直接納めるもので、担税者(税金を負担する人)と納税義務者(税金を納める人)が一致します。
間接税とは、担税者(税金を負担する人)が直接税金を納めず、事業者などの納税義務者(税金を納める人)を通じて納める租税です。
例えば、直接税の代表格である所得税は、所得を稼いだ人が所得税を納めます。
それに対し、間接税の代表格である入湯税は、お風呂に入る時、お風呂に入る人が直接役所に行って納めるのではなく、一旦お風呂を運営する事業者に払い、その事業者が役所に納める形になっています。
入湯税法には、「鉱泉浴場における入湯に対し、入湯客に入湯税を課すものとする」という記載があります。
入湯税の実際の負担者は消費者であることが、明確に法律に記載されています。
風呂入りに行くのにいちいち役所に行くなんて面倒臭いもんな。
つまり、直接税は「税金を払う人=税金を納める人」であるのに対し、間接税は「税金を払う人≠税金を納める人」となります。
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708131 No.7644
>>7643
消費税は直接税だった
それでは、「消費税は消費した時に一旦店に払い、店が役所に税金を納めているから、間接税じゃん!」という至極当たり前の言説が成り立ちます。
しかし、法律を見ると、これは嘘であるということがわかります。
消費税法第五条では、消費税の納税義務者について、「事業者は国内において行った課税資産の譲渡等につき、この法律により消費税を納める義務がある」としか記載されていません。
引用:https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=363AC0000000108
つまり、消費税は法律上「事業者が払い、事業者が納める」形になっているのです!
消費税法のどこにも、「実際の負担者は消費者である」と明記されていません。
すなわち、担税者(税金を負担する人)と納税義務者(税金を納める人)が一致しているので、直接税になります!
過去の裁判でも明らかになっている
実は、この消費税の議論は、過去の裁判の判例でも明らかになっています。
サラリーマン新党という政治団体が、「消費税は年商3000万円以下(裁判当時)の事業者は払わなくて良いというのは消費税のネコババじゃん!あかんやん!」(簡単に言いました)として、訴えた事例がありました。
もし消費税が間接税であるならば、これはその通りで、現在の法律で言うならば年商1000万円以下の事業者はネコババしているという事実が認められます。
しかし、実際の判決はサラリーマン新党側の敗訴であり、判決理由としては、「消費者は消費税の実質的負担者ではあるが、消費税の納税義務者であるとは到底言えない」「消費税の徴収義務者が事業者であるとは解されないため、消費者が事業者に対して支払う消費税分は、あくまで商品や役務の提供に対する対価の一部としての性格しか有さない」とされています。
つまり、1000円の商品に100円の消費税を載せているのではなく、ただただ「1100円の商品」であり、その中に原価も、人件費も、所得税も、法人税も、そして消費税も含まれているだけの、国の主導した値上げに過ぎないのです。
そして、現在年商1000万円以下の免税事業者は、ネコババでも益税でもないということが裁判によっても証明されています。
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708131 No.7645
>>7644
(余談)元々は直間比率の是正というお題目だった
消費税は、今でこそ社会保障に使うというお題目で導入されていますが、もともと消費税が導入される1989年の竹下登内閣の時代にはどのような議論がされていたのでしょうか?
その時には、「直間比率の是正」というお題目でした。
今のお題目とは違うんやね!
つまり、所得税や法人税という直接税ばかりで税金を徴収しているので、間接税を導入して、直接税の負担の比率を下げようというお題目だったのです。
それは、直接税である所得税や法人税を引き下げる代わりに消費税を入れるというお題目でした。
これは大企業にとってはメリットのある話ですが、一般の国民には負担が増えるという形になっています。
そもそも消費税の導入は、所得税や法人税を引き下げることが当初の目的だったのですね!
それで、結果どうなったのかというと、
そのお題目通りに、法人税の減収と消費税の増収がセットなんですね!
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708131 No.7646
>>7645
消費税は消費にかけられる税という嘘
消費税は預かり金ではない!
先ほどの消費税の議論で出たように、消費税は間接税ではなく直接税です。
でも、なぜ間接税だと思わされているのでしょうか?
その答えは、普段の買い物にあります。
普段の買い物で、1100円の商品を買った時、レシートには必ず「商品1000円、消費税100円」と書かれています。
これがそもそも嘘だったのです!
先ほどの裁判の判例でも明らかなように、1100円という価格は、1100円という価格であり、法律上どこにも消費税が100円である証拠はないのです。
消費税は第二法人税?
では、消費税がどのように計算され、納税されているのでしょうか?
1100円という売り上げの中を、納税を考える場合、大きく3つに分類することができます。
それは、利益、非課税仕入れ、課税仕入れの3つです。
消費税は、全体の売上×10/100ー課税仕入れ×10/100で計算されます。
ということは、(全体の売上ー課税仕入れ)×10/100と()でくくることができます。
()の中を計算すると、これは(利益+非課税仕入れ)×10/100と読み替えることができます。
つまり、消費税は(利益+非課税仕入れ)にかかる税金であると言えます。
利益にかかるのは法人税で、(利益+非課税仕入れ)にかかるのが消費税です。
なので、消費税は第二法人税ということができます。
そう考えると利益には二重に課税されているんやね。厳しい世界やわ。
当たり前ですが、法人税は利益が出なければ納める必要はありません。
しかし、消費税は利益が出なくとも、非課税仕入れ(すなわち人件費など)が発生すれば、必ず払わなければいけません。
地獄のような税金ですね。
普通の経営をしていれば、人件費のかからない企業なんてどこにも存在しませんから。
税金の滞納の約6割は消費税の滞納だそうです。
消費税はもうこれ悪魔の税金としか呼べないわな。
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708131 No.7647
>>7646
※2023年の記事
インボイス制度は必要という嘘
そもそもインボイス制度とは?
2023年の10月からスタートすると言われているインボイス制度をご存知でしょうか?
インボイスとは、「適格請求書」のことです。
このインボイスを持っている人は、先ほどの非課税仕入れの中に入れられるけど、どんな事業者でもインボイスを発行するためには消費税を納めなければならないのです。
逆に、インボイスを持っていない人と取引すると、課税仕入れの中に入れられ、経費で落ちないなどの問題が発生してしまいます。
詳しくは「STOP!インボイス」というサイトで紹介されています。
つまり、インボイス制度とは、消費税の中にあった年商1000万円以下の事業者にも消費税を課税させようとする制度です。
実質の消費税増税でもあります。
そんなインボイス制度、おかしいところや嘘がたくさんあります。
そもそも預かり金ではない
インボイス制度の発端は、「年商1000万円以下の個人事業主は消費税をネコババしているからインボイス制度で取ろう!」という考えからスタートしています。
でも、裁判の判例で出ているように、消費税は(利益+課税仕入れ)にかかる直接税であり、ネコババなんてしていないし、益税でもないし、そもそも預かり金ではないのです。
インボイス制度は国民を分断する政策
そして、インボイス制度の酷いところは、インボイス制度に登録するか否かは納税者である事業者が選ばなければならないという点です。
インボイスを選べば消費税を払うという地獄、選ばなければ取引をしてもらえないリスクがあるという地獄、2択のどちらを選んでも地獄という究極の2択が発生しているのです。
そして、インボイス制度が始まると、電気代の値上げが待っています。
これは側から見ると風が吹けば桶屋が儲かる理論ではありますが、個人の家庭に付けているソーラーパネルはほとんどが個人のものなので、年商1000万円以下の事業主です。
そのため、電力会社の買い取るソーラーパネルから生み出された電気は非課税仕入れになってしまいます。
そのため、電力会社にとって非課税仕入れが増えるので、電気代の値上げが必要という事態になってしまっています。
つまり、インボイス制度によって実質的な増税が行われ、その増税分を誰が支払うのか、国民の間で分断と押し付け合いが始まってしまっているのです。
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708131 No.7648
>>7647
将来の消費税増税を見越している?
インボイス制度が始まると、次に待っているのは消費税増税です。
消費税を増税するという圧力や機運が高まっていますが、食料品などはこれ以上上げるわけにはいきません。
そこで、インボイス制度を始めることで、分離課税をスムーズに行うことができます。
計算するときの消費税の課税額が分離され、さらに課税仕入れに消費税を乗せることができます。
そして、インボイスの登録番号とも紐づいているので、税を逃れられないという悪魔の増税が待ち構えているのです。
経団連は消費税を19%に上げるという要望も出しており、インボイス制度が通れば、これ以上の消費税の増税と家計への苦しみが増えることになります。
消費税は国民にメリットのある税金という嘘
消費税のメリットとは?
一般的に言われる消費税のメリットとは、国が歳入を安定的に確保できることや、財政健全化につながることが挙げられます。
でも、そのメリットって果たして本当にメリットなのでしょうか?
誰にとってのメリットなのでしょうか?
国が歳入を安定的に確保する必要ってないよね
国が安定的に財源を確保して徳をするのは財務省です。
安定的な財源確保によって、ますます一般会計への歳入は増えていきます。
しかし、今の日本は約30年もの空前の不景気!
2019年度の消費税増税による経済の落ち込み、コロナ禍の消費の落ち込み、そしてロシアウクライナ戦争による世界的な悪いコストプッシュ型インフレに巻き込まれ、三重苦です!
こんな時にお金のない一般の方々から税金を巻き上げるのが消費税は安定財源と言われる理由です。
税収は過去最高だと財務省は胸を張って主張していますが、どこの国に国民を貧しくさせて胸を張って威張る政治家がいるんですか?
ここだよ!日本だよ!(悲しすぎるわ)
財政健全化ってまずいんだよね
財政健全化って本当に必要なんでしょうか?
財政赤字を問題にしていますが、政府が赤字ってことはその分国民は黒字になっているわけです。
政府が財政黒字(財政健全化)になったら、国民は赤字ですよね?
国民を痛めつけることが素晴らしいなんておかしいですよね?
つまり、財政健全化とは「国民を貧しくさせます」って言っているんですよ!
こんな政府はあり得ない!
終
※文中で紫テキストにしている箇所は、記事内でキャラクターがコメントしている内容です
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