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bb4308 No.6611
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bb4308 No.6852
Q Research Japan/Nihon #20より
今の神道は和風キリスト教?神道は日本の伝統ではない可能性
日本のカルト宗教のことを調べている中で、真の黒幕はキリスト教だという情報がありました…その可能性について探っています。
(※決してキリスト教を信仰している一般の罪もない人たちを攻撃する/分断する意図はないことを念の為記載します。真実を知りたいだけです)
平田篤胤
https://ja.wikipedia.org/wiki/平田篤胤
平田 篤胤(ひらた あつたね、安永5年8月24日〈1776年10月6日〉 - 天保14年閏9月11日〈1843年11月2日〉)は、江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者。
気になる箇所
復古神道の成立
篤胤が求めたのはこの世の幸福であり、関心をいだいたのは死後の霊の行方についてであった[7]。その霊の安定を神道に求めたのであり、それゆえ、神道は従来以上に宗教色を強めた[7]。ここで篤胤は、天主教(キリスト教)的天地創造神話と『旧約聖書』的な歴史展開を強く意識しながら、天御中主神を創造主とする首尾一貫した、儒教的・仏教的色彩を完全に排除した復古神道神学を樹立している[4]。篤胤によれば、天・地・泉の3つの世界の形成の事実、そしてそれについての神の功徳、それは「御国(みくに)」すなわち日本が四海の中心であり、天皇は万国の君主であるということを、国学を奉ずる学徒の大倭心の鎮として打ち立てた柱、それが「霊の真柱」だった[3]。
思想
当初は、本居宣長らの後を引き継ぐ形で、儒教・仏教と習合した神道を批判したが、やがてその思想は宣長学派の実証主義を捨て、神道的方面を発展させたと評されることが多い[5]。篤胤の学説は、関東・中部・奥羽の神社・農村・宿駅など在方の有力者に信奉され、従来の諸学派をしのぎ、幕末の思潮に大きな影響をあたえ、特に尊皇攘夷運動の支柱となった[5]。
篤胤は独自の神学を打ち立て、国学に新たな流れをもたらした[5]。神や異界の存在に大きな興味を示し、死後の魂の行方と救済をその学説の中心に据えた。そのために天地の始原・神祇・生死・現世と来世などについて、古史古伝に新しい解釈を加え、キリスト教の教義も取り入れ、葬祭の儀式を定め、心霊や仙術の研究もおこなっている[5]。仏教・儒教・道教・蘭学・キリスト教など、さまざまな宗教教義なども進んで研究分析し、八家の学とも称した。なお、篤胤が大切にしていた新井白石肖像画が現在も伝世しており、学者としてすぐれ、実証的・論理的に学問をおこなう人物に対しては、相手が儒者であれ、深い尊敬の念をいだいていた[6]。また、西洋医学、ラテン語、暦学・易学・軍学などにも精通していた。篤胤は、本居宣長同様、日本が他のどの国よりも優秀であると主張するが、しかし、宣長のように日本人本来の心を取り戻すために儒学的知を排除しなければならないというような異文化排斥の態度をとらない[14]。彼の学問体系は知識の広範さゆえにかえって複雑で錯綜しており、不自然な融合もみられるとも称される[5]。篤胤の神道は復古神道と呼称され、後の神道系新宗教の勃興につながった。
幽冥論
篤胤は、学問をするにはまず自らの死後の魂の行方を最優先で知らなければならないと断言した。そうして心の安定を得て、初めて学問に向き合えるとした。
本居宣長は、古典に照らして、人の魂はその死後、黄泉に行くと考えたともされる。黄泉の国は良くない国であり、そのことは逃れのないことで、だから死ぬことほど悲しいことはないと述べた[14]。悲しいものは悲しいのであり、その現実をそのまま受け入れるべきだと説いた[14]。宣長の門人で篤胤に大きな影響を与えた服部中庸も同様に死者の魂は黄泉国に行くとした。ただし、中庸は黄泉国は空に浮かぶ月のことであり、その世界は須佐之男命(月読命と同神だという)が治めていると考えた。
一方、篤胤は、他の学者のように他界を現世と切り離して考えたりはしなかった[14]。黄泉の国の存在は認めたが、人は死後、黄泉の国へいく霊と、神になる霊とに分かれ、よい志をもっていた人の霊は神となって、神々の国である幽冥界へ行くのだとしたのである[14]。篤胤は、現実の習俗などから類推して、死者の魂が異界へおもむくのは間違いないが、その異界は現世のあらゆる場所に遍在しているとし、神々が神社に鎮座しているように、死者の魂は墓上に留まるものだとした[14]。現世からはその幽界をみることはできないが、死者の魂はこの世から離れても、人々の身近なところにある幽界にいて、現世のことをみており、祭祀を通じて生者と交流し、永遠に近親者・縁者を見守って行くのだとした[14]。これは近代以降、民俗学が明らかにした日本の伝統的な他界観に非常に近いといえる[4][14]。その意味で、平田国学は民俗学の成立に強い影響をあたえたということができる[4]。また、現世は仮の世であり、死後の世界こそ本当の世界であるとした。これはキリスト教の影響である。篤胤は、キリスト教の教典も、『古事記』や仏典などと同じように古の教えを伝える古伝のひとつとして見ていたのである。
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bb4308 No.6853
>>6852
英語版
https://en.wikipedia.org/wiki/Hirata_Atsutane
国学の発展
江戸にいる間、平田は山崎闇斎朱子学の学生でした。北蝦夷地(現在のサハリンと千島列島)へのロシアの襲撃と侵略を懸念し、外科医の吉田長宿のもとで現代オランダ医学を学んだ。吉田の下での彼の研究には、少なくとも1つの人体解剖が含まれていました。彼は後に、中国の哲学者荘子の著作に見られる道教に目を向けました。国学運動の創始者である本居宣長の著作を知ったのは、本居宣長の死から2年後の1803年でした。平田は後に本居宣長から夢の中で国学教師の称号を直接受け取ったと主張しているが、この話は偽りである。当初は「真菅乃屋」という名前で出版していましたが、しかし、1816年に地方の神社を巡った際に、彼は大切にしていた古い石器の笛を手に入れ、出版名を「息の家」という意味の「いぶきのや」に変更しました。彼は本居春庭に師事し、古代や中国の古典、ニコラウス・コペルニクスやアイザック・ニュートンなどの外国の著作、仏教や神道に関する論文などを貪欲に読みました。彼は多作な作家でもありました。日本古来の伝統研究の代表的な著作としては、『玉の御柱』、『甲子正文』、『古道体異』、『続神道体体』、注釈書『甲子帳』、『甲子伝』などがある。彼はまた、古代インドと中国の伝統(印度草子や諸越太閤伝)の研究や、仙境遺文や勝五郎再世記などの霊界を扱った著作でも知られています。彼の初期の著作『本教外典』は、イエズス会が中国で著したキリスト教文献に通じていたことを示している。Orise は1812年に死去。
影響力
平田の活動には、大国隆正や鈴木重胤ら500人以上の弟子がいた。彼の国粋主義的な著作は、尊王攘夷運動を支持し、明治維新の倒幕のために戊辰戦争を戦った武士たちに大きな影響を与えた。
平田が国学に与えた影響力は最近、過大評価されていると考えられている。彼は「国学の四大偉人」の一人と呼ばれているが、これは彼自身が作り出した言葉である。彼の作品は、大日本帝国では政府よりも宗教団体に影響を与えることが多かった。
平田氏の日本思想への貢献の中でも特に不朽のものは、皇室や一部の貴族だけでなく、すべての日本人がカミの子孫であることを思い出させたことである。彼が言うように、「この輝かしい国土は、カミが起源を持つ国土であり、私たちは皆、カミの子孫である。このため、私たちに生命と存在を与えてくれた両親から、祖父母や曾祖父母を越えて遡り、太古の祖先を考えるならば、それらの祖先は必然的にカミであったに違いない」[4]。
平田篤胤とキリスト教
https://higurasi101.hatenablog.com/entry/2014/08/21/193520
(*1:子安宣邦著「平田篤胤の世界」ぺりかん社 2001)の内容を引用したものを記載してくれているものからの一部転載
復古神道の大成者平田篤胤(1776~1843)は、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人(うし)の中の一人であり、幕末維新の中で大きな影響力をもった人物である。篤胤は、宣長亡き後国学を変革し、明治維新に大きな影響を及ぼしていく。(それは一面、国粋主義の元凶とも言われている。)平田国学の特徴の一つは、宣長の時代国文学の研究の範囲に留まっていた国学を宗教化していったことに大きな特徴がある。
篤胤は、本居宣長がこの世で悪しき事邪な事が起きる事、正しい道理のままではないこの世の事態は悪神のしわざであって、死ねばだれしも黄泉の国に行かざるを得ないと諦観していたのに対して、現世にあって報われることの少ない不遇な倫理的行為者の幽冥界(死後)での救済を説いていく。彼が説いた救済観は、現世での受難者が神のもとに永生をうるというキリスト教の救済の論理を受容し、神道教理に応用したものといわれている。
篤胤における天主教教理受容の明確な軌跡を示すものとして、篤胤の「本教外篇」(未発表)という著作がある。村岡典嗣の論文「平田篤胤の神学に於ける耶蘇教の影響」で紹介された。村岡は、「本教外篇」がイタリア人宣教師マテオ・リッチが書いた中国語のカトリック教理書の「畸人十篇」や「天主実践」による翻案やほとんどその直訳からなる部分、またバントーハの「七克七書」の抄出からなる部分や、耶蘇教の趣意をもって篤胤が書いた部分を指摘し、篤胤の神学の由来が耶蘇教にあることを明瞭にした。
「天地世界を創造し、人種万物を生成し、又人間に至善の霊性を賦与せる祖神」というような創造的主宰神の観念や、死後に人の霊魂は幽世におもむき、そこで幽世の大神の審判を受け、善なる魂は幽世で永生をうること、そしてそれこそが人の真福であり、また幽世こそが本つ世であるという来世の観念を提示した。
「古史伝」に述べられている次の言葉は、キリスト教の救済論の投影であり、篤胤自身が「外国籍に謂ふ如く」と認めている。
「現世の富、また幸あるも、真の福に非ず、真は殃(わざわい)の種なるが多かり。(其は冨かつ幸あるが故に、罪を造て、幽世に入て其罰を受ればなり。)現世の貧また幸なきも、真の殃に非ず、真の福の種なるが多かり。(そは貧かつ幸なきが故に、罪を造らず徳行を強め、幽世に入て、其賞を受ればなり。)・・・・抑々徳行に苦める者、幽世に入ては、永く大神の御賞を賜はりて用ひらる。是を真の福といふ。抑々此世は、吾人の善悪きを試み定め賜はむ為に、しばらく生しめ給へる寓世にて、幽世ぞ吾人の本ッ世なるを、然る故義(ことのこころ)をば弁へずして、仮の幸を好み、永く真の殃を取ことを知ざるは、最も悲しき態なり。
此世にある間は、大かたの人は、百年には過ざるを、幽世に入ては無窮なり。然れば此世は、人の寓ノ世にて、幽世の本ッ世なること決(うつ)なし。此は信に、外国籍(ぶみ)に謂ふ如くにぞ有ける。(『古史伝二十三』)」
まとめ
「現世(顕世)とは神に与えられた課題遂行の試練の場である」といい、「現世における苦難や不幸はむしろ幽世における真の幸福につながる」のだといい、そして「現世で報われることのない善人も、死後幽世において幽神の正しい審判によって賞され、霊魂は永生をうる」ことができるのだと説く(子安宣邦)のである。
神道にもこんな教えがあったのかと驚かれる方も多いのではないだろうか。
>平田篤胤の思想が明治維新の倒幕のために戊辰戦争を戦った武士たちに大きな影響を与えた
明治維新
https://ja.wikipedia.org/wiki/明治維新
明治維新(めいじいしん、英語: Meiji Restoration、Meiji Revolution[1][2]、Meiji Reform[3])とは、江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の日本国内で行われた幕藩体制を打倒して天皇を頂点とした中央集権統一国家を形成し、幕府の封建社会から資本主義社会へ移行した近代化改革を指す[4][5]。政治や中央官制・法制・宮廷・軍事・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策の改革・近代化が進行した。
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bb4308 No.6854
>>6852
金羊毛騎士団
https://ja.wikipedia.org/wiki/金羊毛騎士団
https://en.wikipedia.org/wiki/Order_of_the_Golden_Fleece
金羊毛騎士団(きんようもうきしだん、フランス語: Ordre de la Toison d'or、スペイン語: Orden del Toisón de Oro、ドイツ語: Orden vom Goldenen Vlies、オランダ語: Orde van het Gulden Vlies、英語: Order of the Golden Fleece)は、ブルゴーニュ公フィリップ3世によって創設された世俗騎士団。スペイン王国最高位の騎士団勲章として現存し、オーストリアでもハプスブルク家による名誉として存続している。
英語に基づいてゴールデン・フリース騎士団、フランス語に基づいてトワゾン・ドール騎士団とも呼ばれる。
概要
創設者フィリップ善良公と騎士たち
1430年に、フィリップ善良公(ル・ボン)がポルトガル王女イザベルと結婚する際に、イングランドのガーター騎士団に倣って作られた。聖アンデレ(サン・タンドレ)を守護聖人とし、異端を排除してカトリックを守護することを目的の1つにしており、宗教改革時にはメンバーをカトリックのみに限定していた。騎士団集会が開催された際には、当時の騎士団員全員の紋章を描いた板絵が描かれている。これはフランデレン地方を中心として複数の教会に残されており、金羊毛騎士団はブルゴーニュ貴族の身分、地位及びアイデンティティの象徴となった[1]。
フィリップ善良公の孫娘で、ヴァロワ=ブルゴーニュ家最後の君主となったマリー女公がハプスブルク家のマクシミリアン(後、神聖ローマ皇帝)と結婚したことで、同家の君主が騎士団主権者となった。16世紀にかけてハプスブルク家の勢力拡大により、権威が増大していった[2]。
ハプスブルク家は、スペインとオーストリアに分かれ、1700年にカルロス2世が崩御してスペイン・ハプスブルク家が断絶する。スペイン継承戦争を経て、王朝がブルボン朝に代わったため、騎士団もまたスペインとオーストリアに分かれた[3]。
スペインとオーストリアで、勲章の形が異なる。スペインは君主制廃止と王政復古を繰り返しつつ、今日も同国最高位の勲章として存続している。一方、オーストリアは第1次世界大戦後のオーストリア革命により帝政が廃止され、金羊毛騎士団の地位や勲章は政府や君主公認ではなくなった。しかし、最後の皇帝カール1世の子孫が引き続き主権者を務め、カトリック諸国での権威を保っている[3]。
標語と意匠
名称はギリシア神話のイアソンの物語(金羊毛)と、旧約聖書・士師記のギデオンの物語に由来している[4][5]。これはフィリップ善良公が、十字軍を想定していたからである[1]。モットーは「Pretium Laborum Non Vile」(我らの働きに報償に値しないものはない)。
なお「金羊毛皮」は錬金術の達人の象徴でもある。ただし、善良公が何故、金羊毛を意匠に定めたかは、騎士団規約にも記載がない[注釈 1][6]。
衣装は、銀鼠色の縁取りが施された膝丈の真紅のローブに、同じく真紅のマントであり、マントには火口金と火打石の文様が施された[7]。この意匠はフィリップ善良公がジャン無怖公(サン・プール)より継承したもので、敵対するオルレアン家の紋章である棍棒を削り、さらに燃やすという標語に由来する[8]。
現在のオーストリア金羊毛騎士団員
現在もハプスブルク家が主催するオーストリア金羊毛騎士団は、ハプスブルク一族、旧ドイツ諸侯家などを団員としている。現役国家元首としては、ベルギー国王、ルクセンブルク大公、リヒテンシュタイン侯が在籍する。前述の通り、ベルギー国王、ルクセンブルク大公はスペイン金羊毛騎士団員でもある。
帝政時代から今日に至るまで、団員資格をカトリック教徒の男性に限定している。そのため日本の皇室のみならず、同じヨーロッパの王侯でも非カトリック教徒が団員となることは原則として無い。ただし、ナポレオン戦争期に英国のジョージ摂政王太子(のちに国王)[注釈 4]が例外的に受章した。オーストリア金羊毛勲章を受けることは、現在でもドイツ系の王侯貴族の間では格式ある名誉とされる。
日本との関わり
日本人からは明治天皇から第125代天皇だった明仁上皇までの4代の天皇のみがスペイン王国の金羊毛勲章を授与されている[44]。明治天皇は1883年(明治16年)、大正天皇は皇太子時代の1896年(明治29年)[45]、昭和天皇は1928年(昭和3年)[46]、明仁上皇は、皇太子時代の1985年(昭和60年)に授与された[47]。
あれ?天皇はカトリック教徒???
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bb4308 No.6855
>>6854
伊勢神宮
https://ja.wikipedia.org/wiki/伊勢神宮
伊勢神宮(いせじんぐう)は、日本の三重県伊勢市にある神社。正式名称は「神宮」(じんぐう)である[1][注釈 1]。他の神宮と区別するために、「伊勢」の地名を冠し伊勢神宮と通称される。
「伊勢の神宮」[2]、または親しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」[3]とも称される。古来、最高の特別格の宮とされ[4]、現在は神社本庁の本宗(ほんそう。全ての神社の上に立つ神社)であり、「日本国民の総氏神」とされる[5]。
概要
伊勢神宮には天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ。天照大御神)を祀る皇大神宮と、衣食住の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮の二つの正宮があり、一般に皇大神宮は内宮(ないくう)、豊受大神宮は外宮(げくう)と呼ばれる[8]。
広義には、別宮(べつぐう)、摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)、所管社(しょかんしゃ)を含めた合計125の社宮を「神宮」と総称する[9]。この場合、所在地は三重県内の4市2郡に分布する(後述)[10]。
他の多くの神社は仏教建築の影響を受け、瓦屋根や朱塗りの建物に変わっていったが、伊勢神宮は神明造という古代の建築様式を受け継いでいる[11]。これは弥生時代の高床倉庫が起源で、神へのお供え物をする特別な建物だったといわれている[11]。また、式年遷宮が20年に一度行われる(後述)。この他、近世以前には、仏教用語を用いない「忌詞」の制度や[12]、僧尼の立ち入りを制限する「僧尼遥拝所」が存在し[13]、神宮寺も早期に廃止される[12]など、伊勢神宮では仏法禁忌が比較的維持され、祭儀が一定程度古儀のまま継承された。
伊勢神宮は皇室の氏神である天照大御神を祀るため、歴史的に皇室・朝廷の権威との結びつきが強い[14]。神宮の神体である八咫鏡は、宮中三殿の賢所に祀られる御鏡と一体不可分の関係とされ[15]、神宮祭祀と宮中祭祀は一体性をもって行われてきた[16]。また、南北朝時代に途絶するまで、未婚の皇女が宮中から派遣され、神宮に奉仕する斎宮の制度が設けられていた[17]。現代でも天皇・皇后が参拝[18]するほか、神宮の神嘗祭に際しては毎年天皇から勅使が派遣され[19]、神宮の祭主を元皇族の女性が務めるなど、天皇と神宮の繋がりは深い。
また、伊勢神宮は公的性格が強く、古代には国家全体の神として天皇による公的祭祀が行われ、個々人が私的な幣帛を奉る行為は禁止されていた[20]。このため、創建以来一貫して、朝廷、幕府、明治政府といった歴史上の政府により、国家的な管理・維持が行なわれてきた[21](後述)。第二次世界大戦後に、伊勢神宮は国家の管理から離れ、法的には一宗教法人となった[21]が、現代においても内閣総理大臣および農林水産大臣などが年始に参拝することが慣例となっている[22]。
中世以降は、このような天皇の祖神としての性格や公的な性格に加え、「国家の総鎮守」として庶民を含むあらゆる階層から信仰を集め膨大な数の参拝者を生むようになり、とりわけ江戸時代には短期間で数百万人が参拝する「お蔭参り」が生じるなど、伊勢神宮は日本の信仰の中心地となった[23](後述)。
近現代
本皇族浮世絵は、1869年(明治2年)3月11日に明治天皇(画面中央)が御輿に乗って伊勢神宮を参拝したときの様子を描写した作品。
明治2年(1869年)、明治天皇が在位中の天皇としては初めて参拝した。天皇による参拝が長期にわたり空白だった理由については諸説が唱えられているが、決定的なものはない。
311という数字は偶然ですか?天皇による参拝が長期にわたり空白だったんじゃなくて、明治天皇から始めたことである可能性は?(歴史捏造)
英語版
https://en.wikipedia.org/wiki/Ise_Grand_Shrine
伊勢神宮 (伊勢神宮, 伊勢神宮)、伊勢日本の三重県は、太陽の女神アマテラスを祀る。 )外宮 (]ジャ [外宮と)内宮 (] の 2 つの本宮を中心とする多くの神社で構成される神社群です。 ja [内宮)神宮 (神宮。正式には単に神社
内宮(正式には「皇大神宮」としても知られています)は、アマテラスを祀る神社で、伊勢中部の南にある宇治立の町にあり、アマテラスは天照大神を祀ると信じられています。住む。社殿は檜の無垢材で造られており、釘を使わずに木を接ぎ合わせて造られています。外宮、外宮 (正式には「豊受大神宮」としても知られています) は、内宮から約 6 キロ離れた場所にあり、< a i=3>豊受大神、農業、稲作、産業の神。[1]内宮のほか伊勢市とその周辺地域にはさらに 123 の神社があり、そのうち 91 の神社が内宮に関係し、32 の神社が外宮に関係しています。[2]
神聖な鏡の本拠地とされるこの神社は、神道の最も神聖かつ重要な場所の 1 つです。 両方の遺跡への立ち入りは厳しく制限されており、4 つの高い塔の陰に隠された中央建造物の茅葺き屋根の視界を越えて一般人が立ち入ることは禁止されています。 >に遡る装飾用の歩道など、森を自由に散策することができます。 明治時代。ただし、観光客は木製フェンス[3]
江戸時代には、日本人の10人に1人がおかげ参りを行ったと推定されています。 神社への巡礼。したがって、神社への巡礼は商業的にも宗教的にも盛んになりました。史料によると、1625年には50日間で362万人が参拝し、20年に一度の大祭が行われた1829年には3日間で118万人が参拝したという。[ 4] 神社は聖域とみなされているため、 と考えられていたため、セキュリティチェックは実施されませんでした。信者による冒涜。伊勢の 2 つの本宮は、古市の古い歓楽街を通る参詣道で結ばれています。
伊勢神宮の宮司または巫女は皇室出身でなければならず、伊勢神宮を監視する責任があります。現在の神社の女帝は、 上皇明仁の娘、 元皇女黒田沙耶子である。 .[5]
明治より前の時代は、道教や仏教を日本人は信仰していて、天皇を崇拝するような伝統はなかったという情報もある。伊勢神宮の歴史は捏造されている可能性があるのでは?明治以降に偽の伝統文化が日本人に広がっているのでは?
伊勢神宮ウェブサイト
https://www.isejingu.or.jp/about/
「お伊勢さん」「大神宮さん」と親しく呼ばれる伊勢神宮は、正式には「神宮」といいます。神宮には、皇室の御祖先の神と仰ぎ、私たち国民の大御祖神として崇敬を集める天照大御神をお祀りする皇大神宮(内宮)と、衣食住を始め産業の守り神である豊受大御神をお祀りする豊受大神宮(外宮)を始め、14所の別宮、43所の摂社、24所の末社、42所の所管社があります。これら125の宮社全てをふくめて神宮といいます。
だけど天皇はカトリック教徒???
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bb4308 No.6871
Q Research Japan/Nihon #20より
今の日本の結婚式スタイルも、本来は日本の伝統ではなかった
私が今まで日本で学んできた伝統は、偽物ばかりなのかもしれません
神社での挙式の始まり
神前結婚式の始まりは、1900年(明治33年)大正天皇のご結婚の礼
神前結婚式は、1900年(明治33 年)に当時の皇太子殿下(後の大正天皇)の御結婚の礼が、宮中で初めて皇居内の賢所(かしこどころ)のご神前で行われたのが最初と言われています。
当時の結婚式のほとんどが家庭で行われていたため、ご神前での婚儀は画期的な出来事として人々に感動を与えました。この慶事を記念して、日比谷大神宮(現・東京大神宮)は、一般の人々に向けた神前結婚式を行い、やがて全国への神社へと普及。こうして神社での結婚式が増え、神前結婚式が日本の結婚式の代表的なスタイルとなっていきました。
https://nihon-kekkon.com/article/knowledge/id33505/
結婚式
https://ja.wikipedia.org/wiki/結婚式
近・現代の変遷
・1938年(昭和13年)の華族の結婚写真。新郎が洋装で新婦が和装という姿は大正期以降しばしば見られた
上記のごとく以前は日本では、少なくとも庶民の間では、結婚式は自宅で行うことが多かった。神社で行う「神前結婚式」はそれ以前にも行われていた[9]ものの、数としてはごく少数であった。1873年には英国籍の中華系シンガポール人の貿易商タン・ベン・テキ(Tan Beng Teck/陳明徳)と日本女性の磯部和以(わい)が日本で最初とされる西洋式の結婚式を挙げている[10]。
1878年(明治11年)12月9日、出雲大社宮司千家尊福が神前式を行い、その内容が「婚禮式」として残されている[11]。
1885年(明治18年)、元は日蓮宗の僧侶であった田中智學によって創設された「国柱会」の前身「立正安国会」において仏教における結婚式(本化正婚式)の規定が定められた[12]。田中智学の思想「仏教夫婦論」により、明治維新以降の日本において夫婦の結婚(つまり一夫一妻制に基づく結婚)を制度化することは国家の近代化に不可欠であるとされた。この立正安国会による仏前結婚式が、仏教史上はじめての正式な結婚式である。
1900年(明治33年)5月10日に皇太子嘉仁親王(大正天皇)と九条節子(貞明皇后)が結婚。正装した男女が、宮中三殿に拝礼し、神の前で夫婦の誓いを立てる形式の結婚の儀が行われた。これは社会的にも大きな反響を呼び、市民から神前での挙式を望む声が上がった。これに応じて、神宮奉斎会(現在の東京大神宮)が結婚の儀を模した形で「神前式」の儀式を新たに創設、国民の間に定着していった。
・戦後になり、軽井沢の教会での挙式を嚆矢として、高度経済成長期に結婚式場による「キリスト教式」も流行するようになった。
石井研二國學院大學教授によると「日本の結婚式で宗教性が加わったのは高度経済成長期以降で、1960年代に神前式が普及し、1970年代には8割を占めた、ピークを迎えたのは団塊の世代。1990年代になるとチャペル式が急増し、海外挙式を合わせると約7割を占めるようになった[14]。
国柱会
https://ja.wikipedia.org/wiki/国柱会
国柱会(こくちゅうかい 國柱會)は、元日蓮宗僧侶・田中智学によって創設された法華宗系在家仏教団体。純正日蓮主義を奉じる。戦前の右翼に大きな影響を与えた[1]。
国柱会の名称は、日蓮の三大請願の一つ「我日本の柱とならん」から智学によって命名された。独立した宗派としての正式名称は「本化妙宗」。 また、智学の造語であり、戦前日本では国家主義のスローガンとして多用された「八紘一宇」を最初に標榜したのは国柱会であった。「日蓮主義」という表現も、国柱会によって初めて使われた。「主義」という概念が、明治以降に流入した西洋哲学に由来するものであり、後述のように日蓮主義という概念は、日蓮教学の近代的体系化の一端を表している。
思想・信仰
国柱会の根本の理念は、寺檀制度によって形骸化した伝統宗門の改革と近代化を在家主義の立場から目指すものである。
教学における国柱会の功績は、現在でも「師子王文庫」や「真世界社」などに引き継がれている。分派した各法華宗・日蓮宗宗派の統一、更には法華一乗のもと全宗派、全宗教の統一(一天四海皆帰妙法)のための宗教革命、ならびに皇祖皇宗の日本国体を法華経のもとに体系化することを究極の目標としている。
更には、智学の思想による「全国の神社に祀られる主神はすべて皇祖神に統一されるべき」という主張や、法要時の礼服、祭壇の祀り方、数珠を一切用いない、など神道的な要素を強く残しており、法華神道の団体としての色彩も強い。なお、本化妙宗としての信仰は、釈尊を教祖、日蓮を宗祖と仰ぎ、本尊は日蓮大聖人の「佐渡始顕の妙法曼荼羅」としている。
歴史
・また、著名な会員であった帝国陸軍・石原莞爾中将の「東亜連盟」構想や「世界最終戦論」、更には石原が参謀であった満州国建国の思想的バックボーンとして、国柱会の思想は多大な影響を及ぼした。特に満州国には皇軍慰安隊を国柱会より派遣し、関東軍軍人を支援している。この時期が国柱会の歴史上もっとも活況だった時代であり、日蓮系諸教団の中でもエリート主義集団と目されるほど、有数な著名人が会員であったことで知られる。
活動
青木理によれば、日本会議との関係についてのAERA編集部による取材・アンケートにおいて、日本会議関連団体である「美しい日本の憲法をつくる国民の会」代表委員に教団幹部が就任している、としている[2]。
上杉聡によれば、過去に実施された保守系政治団体日本会議のイベントの受付において、国柱会を含む各種宗教団体別の受付窓口が設けられ、参加者を組織動員したことがある[3]。
国柱会という仏教団体って、仏教を装っただけだったのでは?仏教の考えはどこへ?
殺生禁断
https://kotobank.jp/word/殺生禁断-548184
生き物を殺すことを禁じること。仏教の慈悲の精神などから、鳥獣・魚などの狩猟・殺生を禁じること。殺生禁制
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bb4308 No.6872
>>6871
八紘一宇
https://ja.wikipedia.org/wiki/八紘一宇
八紘一宇(はっこういちう、旧字体: 八紘一宇、英語: Eight crown cords, one roof)、または八紘為宇[1](はっこういう、旧字体: 八紘爲宇)とは、「天下を一つの家のようにすること」または「全世界を一つの家にすること」を意味する語句であり[2]、「天皇総帝論」、「唯一の思想的原動力」等ともいう[3]。『日本書紀』の「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ」を、全世界を一つの家のようにすると解釈したもの[4]。
一つの家とは、つまり「八紘一宇」とは、人種・民族・宗教等の差別なく、世界のみんなが一つの家に平和に暮らす理想を願った意味合いがある。日本が思想する世界秩序そのものである。
・1940年の近衛政権以来、教学刷新評議会の「国体観念をあきらかにする教育」を論ずる中などで頻繁に使用され[1]、「大東亜共栄圏の建設、延いては世界万国を日本天皇の御稜威(みいづ)の下に統合し、おのおのの国をしてそのところを得しめようとする理想」を表明するものとして引用使用された[1]。
・第二次世界大戦に至る中で、「八紘一宇」は「天皇総帝論」であり、それはまた
「唯一の思想的原動力」
「天皇中心の世界一体観」
「大宇宙をも包含するが如き深遠宏大なる日本肇国理念」
「真日本の発見」
「純なる日本的世界観」
「古事記の発見」
「天皇政治の世界性」
「大和民族の宿志」
「大和民族本来の世界史的使命]
「神武天皇が抱懐せられたる世界史的御雄図」
「惟神(かんながら)的世界観」
等であると認識されていった[3]。こうした八紘一宇・天皇総帝論の由来は、「天皇信仰の主唱者」「世紀の予言者」と呼ばれていた幕末の国学者・大国隆正が唱えた議論だった[8]。これは要するに、天皇は世界の皇帝たちよりも上の地位にあり、歴史の「必然」として世界の「総帝」であるという主張だった[8]。八紘一宇においては、天皇が「現人神」「唯一天皇」「唯一神」「真神」「絶対至尊」などと見なされるようにもなった[9]。このようにして、大国隆正のような国学者たちが足がかりにされ、「八紘一宇」が日本建国の理念へと結合されて、「伝統の発明」が完成した[10]。
・田中智學による国体研究
大正期に日蓮宗から在家宗教団体国柱会を興した日蓮主義者・田中智學が「下則弘皇孫養正之心。然後」(正を養うの心を弘め、然る後)という神武天皇の宣言に着眼して「養正の恢弘」という文化的行動が日本国民の使命であると解釈、その結果「掩八紘而為宇」から「八紘一宇」を道徳価値の表現として造語したとされる[17]。これについては1913年(大正2年)3月11日に発行された同団体の機関紙・国柱新聞「神武天皇の建国」で言及している
・田中は1923年(大正12年)11月3日、社会運動組織として立憲養正會を創設。「養正」の語も神武天皇即位前紀から取られている。
現人神を英語翻訳するとliving godと出てくる
天皇を日本版イエス・キリストのようにして日本人が崇拝する対象を創り出し、戦争に駆り立てたのでは?
戦争で不幸をたくさん作り出し、その不幸につけ込んで支配者層が創り出した宗教に依存させる(そして洗脳/支配する)
明治から日本は植民地化している??
illuminati (n.)
https://www.etymonline.com/jp/word/illuminati
1590年代、ラテン語の「 illuminatus 」の複数形。「 illuminare 」の過去分詞で「照らす、明るくする、照明する」( illumination を参照)を意味する言葉。元々は、16世紀のスペインの一派(アルンブラドス)に適用された名称で、その後、大陸の他の一派にも名前が与えられ、1797年以降はバイエルン州インゴルシュタットで創設され、そこで弾圧された自然神論者の共和主義的な秘密結社「 Illuminaten 」の翻訳として使用され、自由思想家および知的な啓蒙主義を信奉する人々(1816年以降は皮肉の意味で)に一般的に使用されています。
明=イルミナティ
明治=イルミナティが治める
(※これは私が気づいたものではなく、ネットで指摘してくれていた人がいました)
明治から天皇は騎士団員
関係している?
>>6854
「日月神示」の話もたまに見かけますが、国民が真相にたどり着けないようにするための囮のようなものかもしれない?
日+月=明
日月神示
https://ja.wikipedia.org/wiki/日月神示
日月神示(ひつきしんじ、ひつくしんじ)は、神典研究家で画家でもあった岡本天明に「国常立尊」(国之常立神)という高級神霊からの神示を自動書記によって記述したとされる書物。昭和19年から27年(昭和23・26年も無し)に一連の神示が降り、6年後の昭和33、34年に補巻とする1巻、さらに2年後に八巻の神示が降りたとされる。(これも明治時代ですね)
高級霊から降りてきたと言いつつ、都合よく話を作れますよね?もし高級霊というものがいたとしても、それが高級霊だとどうやって誰がわかるのでしょう?
真相追求をし始めた人たちを、スピリチュアル系の話題に夢中にさせて、問題改善に目を向けさせないように支配者層が仕向けている可能性は?
>(これも明治時代ですね)
訂正
これは昭和からですね。見間違えました。失礼しました
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bb4308 No.6877
今の日本人のお正月の伝統も、創られた伝統だった
除夜の鐘や初詣といった「日本人のお正月」は神社(神道=和風キリスト教)の集金イベントとして作られた。
「初詣」の初出は明治18年。
除夜の鐘が風物詩になったのは昭和のラジオが原因。
『日本の伝統』の多くは明治期の✝製の『創られた伝統』
引用元:
https://x.com/kitsuchitsuchi/status/550305201735753729?s=20
2014年12月31日
こちらのブログ主さんが興味深いことを沢山まとめてくれているので一部引用させていただきます
今後のDIGの参考になると思います
※念の為記載しますが、特定の宗教を信仰している罪もない一般人を攻撃したり宗教による分断をしたい訳ではありません。真実を知りたいだけです
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-47.html
明治以降のキリスト教と和風キリスト教(神道)により『創られた伝統』
神道、神道の天皇、現人神、神前結婚式、
仏前結婚式、金剛峯寺、
武士道、戦場は白兵戦が主流、
国技としての相撲、
全面的に良い意味としての「愛」、
個人の誕生日(満年齢)を祝う、
初詣、年越しの風物詩としての除夜の鐘、年賀状、
「勤勉な日本人」、「働かざる者食うべからず」。
''”初詣は、神社勢力(和風キリスト教の戦争屋)の資金集めの為に明治中期に成立した創られた伝統。
参詣客が増えたのは鉄道という交通網の発達のお陰。
全国初詣客数ランキングを見るとキリスト教が再興した真言宗(金剛峯寺ができたのは明治以降)や、和風教会の神社に客が集まっていることがわかる。”''
”本来日本の誕生日は旧暦の正月で一斉に歳を取った(数え年)ので、個人の誕生日(満年齢)を祝うのはキリスト教の強制です。”
”ユダヤに金融特権を与えたカトリックは大金持ち。資本主義を発達させたのはプロテスタント。ユダヤは単なる実行部隊。
キリスト教=奴隷労働教=貧乏人を働かせろ(でも金持ちにさせるな)。働かざる者食うべからずの元ネタは新約聖書であり日本の伝統ではない。働けば自由になる=ナチス=バチカン製。”
”日本はキリスト教が作った奴隷労働教儲が多過ぎですよね。過労死多過ぎ。「働かざる者食うべからず」は聖書が元ネタだし、「勤勉な日本人」だって明治以降の偽伝統。神学校がモデルの労働者育成用学校で規則と時間を守るように訓練させて、砂糖入り飲料を飲む労働者を育成。”
”ゼイリブでの支配者の命令である「8時間働け。8時間寝ろ。8時間遊べ」に従う方が現状が改善されるって本当に日本は異常だと考えます。日教組の先祖が下中弥三郎の啓明会(イルミナティの和訳。百科全書派系)ですし。会社に砂糖入りコーヒーや紅茶の自販機が置かれたり。”
”「愛」は仏教では執着=悪。キリスト教では創造神が与える善。なのでアガペーは16世紀(仏教が国教)の『どちりな きりしたん』では「御大切」と訳されました。
明治維新でキリスト教の植民地になって以降、愛=善というキリスト教思想に染まったのが今の日本人です。”
”戦争屋の集金装置である✝神社✝にお賽銭を入れて平和を願う人は、戦争を願うが神社にお賽銭を入れない人よりも結果的には有害である。悲しいことに、想いに関係なく、お金を送ったか否かの行動だけで結果が決まってしまう。善い意思を悪い結果に変換するシステム。初詣と年賀状の一般化も明治✝から。”
”キリスト教国家の服を着て、キリスト教の神学校がモデルの学校に通い、キリスト教の暦(西暦)を使い、日曜日に休み、教会で結婚し、キリスト教原理主義のアメリカに逆らえない植民地にいることを意識させない為に、神道・神前結婚式・仏前結婚式・金剛峯寺の偽伝統を明治以降にキリスト教が捏造した。”
”洋服。洋食。ハーフ賛美。ブランド。白人が多い広告。西暦。日曜日が休み。神学校がモデルの学校。教会で結婚。神道=和風キリスト教・神前結婚式・初詣の偽伝統は明治以降のキリスト教製。陰謀ではなく陽謀。どこが在日とユダヤの文化?”
”病院に✝、歌詞に英語を混ぜ、金髪にし、偽皇族がキリスト教大学に行き、偽天皇が英国の騎士団員になるなど最も表に出ている✝の支配に気づかせない為に、偽伝統を捏造。伝統だということにして意識させない。”
”八紘一宇と仏前結婚式を作ったのが国柱会=和風キリスト教。教祖の田中智学の名は神智学と人智学=キリスト教の変形が元ネタ。国柱会は日蓮聖人700年遠忌記念事業でオラトリオ=カトリック製音楽を流すキリスト教仏教部です。”
”宗教統一が目標の国柱会は満州国建国の思想的支柱で、満州国に皇軍慰安隊を派遣し、関東軍を支援。信者:金子彌平(初代京都局長)、近衛篤麿(近衛文麿の父)、宮沢賢治、石原莞爾、北原白秋夫人菊子、高山樗牛、武見太郎、藤牧義夫、神崎武雄。”
”武士道
初出は江戸初期編纂の『甲陽軍鑑』。意味は個人的生存術。山鹿素行(朱子学批判で赤穂に配流。門弟に大石良雄)の士道論など儒教道徳が影響。耶蘇だらけの佐賀藩の山本常朝『葉隠』は生きる為のマナー本で禁書。新渡戸の耶蘇流武士道。”
”反仏教の儒教とキリスト教が大好きbushido!仏教伝来以前と明治以降=偽伝統。仏教国教時代=真伝統。仏教説話はあるが神道説話はなし。愛は仏教では迷妄と執着を齎す悪。仏教嫌いは愛の歌大好き。”
”日ユ同祖論の年代矛盾。ダビデの星がユダヤの象徴になったのは十七世紀から(イエズス会製)。伊勢神宮のダビデの星がある石灯籠の設置は戦後。ユダヤ・カバラで生命の樹理論の元型ができたのは12世紀(盲人イサク)から。クリスチャン・カバラ(生命の木中心)は15世紀にピコが創始。”
"江戸末期以降の神道系宗教の名前を見るとキリスト教系と区別できないことがある。『古事記』では神道を「本教」等と表現。偽国学者でクリスチャンな平田篤胤の『本教外篇』は本教=和風キリスト教にしたもので、国家神道=天皇一神教や大本教という和風キリスト教の手本。"
"国学はキリスト教の隠れ蓑。平田篤胤(✝。『本教外篇』で本教=和風キリスト教)
→大国隆正(平田篤胤門下。本教本学を提唱)。
→福羽美静(大国隆正門下。明治天皇の侍講)、
玉松操(岩倉具視の腹心。大国隆正門下)。
平田篤胤→大国隆正→福羽美静→明治天皇。"
”天皇が信仰した思想体系がある伝統宗教という意味での神道は捏造。天皇が信仰した思想体系がある伝統宗教は仏教(創造神否定)。なので明治天皇以前の天皇は伊勢神宮(反逆者の宗教施設)を参拝しない。土着の信仰を隠れ蓑→革命→宗教と王をすげ替え→伝統を捏造。”
”「神道」も「天皇」も道教用語であり神道用語ではないです。神社なんて単なる地方土着の祭壇で天皇に影響力なし。#日ユ同祖論 も聖書が根拠のキリスト教に見えないキリスト教思想。仏教徒の天皇を否定し、神道とキリスト教の関係を隠す為に紐付き陰謀論者✝が布教。”
”神道に教義や教典がないとしたのは、単なる土着の信仰だったのでそもそもそんなものがなかったのを隠す為。超古代や明治以降を強調し仏教国教時代を無視。神仏習合は神と仏が対等だと思わせるデマ。本地垂迹説は寺が土着の信仰を管理支配する為。神宮「寺」や別当「寺」。”
”18世紀初頭、四史攸編(聖書中国語訳でGOD=神が初登場)
1806年、本教外篇(平田篤胤。本教=和風耶蘇教=神道)
1813年、新遺詔書(GOD=神と訳す)
神を伝統だと強調する朝鮮・欧米支配の神道勢力。”
”新聞での「初詣」の初出は東京日日新聞で明治18年1月2日の記事”川崎大師へ初詣”。明治30年頃までは初詣はほとんど全てが川崎大師との関連で使われている。歳時記に初詣が初登場するのは明治41年。しかも例句なし。初詣の俳句が登場するのは大正以降らしい。明治33年=1900年。”
”江戸時代の参詣は日にちと場所について様々なルールがあった。川崎大師の縁日は毎月の21日であり元日ではなかった。居住地から見てその年の恵方に当たる寺社に参詣するのが恵方詣。縁日とも恵方とも関係のない新しい正月参詣を意味する語が初詣。二年参りが都市部で一般化したのは昭和から。”
”除夜の鐘は特別なイベントではなかった。明治・大正期の人にとって大晦日は非常に忙しく、除夜の鐘はいつのまにか鳴ってしまうものだった。終夜運転は仕事をする人用で、初詣用ではなかった。除夜の鐘が年越しの風物詩として定着したのは昭和以降で、ラジオが年越し番組に除夜の鐘を扱ったから。”
Ummmかなり衝撃的な情報です
日本の本来の伝統だったものを知りたい
※念の為再度記載しますが、特定の宗教を信仰している一般人を攻撃したり宗教による分断をしたい訳ではありません。真実を知りたいだけです
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bb4308 No.6878
>>6877
「自動販売機の普及率」は<日本が世界一>
https://www.acure-fun.net/lounge/products/entry142.html
2020.10.15
普及台数は494万台強と、約650万台のアメリカに続く第2位ではあるものの、人口に対して42人に1台の割合で設置されており、人口比率では世界一を誇ります。
※2 一般社団法人日本自動販売機工業会「自販機普及台数及び年間自販金額」 より
「缶コーヒーは悪魔の飲み物」と医者が言う理由
https://diamond.jp/articles/-/142513
2017.9.22
知らず知らずに体の不調を生み出し、日々のイライラから肥満・老化・病気までを生み出すものの正体とは? 缶コーヒーをはじめ清涼飲料水は、私たちの体を蝕む悪魔の飲み物だった! 人体のメカニズムを解析する生化学や、世界中の最新論文を熟知し、20万人以上の臨床経験を持つ牧田善二氏の新刊『医者が教える食事術 最強の教科書』から、内容の一部を特別公開する。
知らずに体の不調をつくっているものとは?
――いかにも健康に良さそうなものの正体
「今日も1日、頑張ろう」
保険関係の企業に勤める30代半ばのA氏は、毎朝、会社が入っているビルに設置された自販機で缶コーヒーを買います。それを持って自席につき、飲みながらパソコンを立ち上げメールチェック。こうして1日を始めるのが日課になっているのです。
A氏のように、缶コーヒーを欠かさないビジネスパーソンをよく見かけます。テレビで流されているCMでは、「すっきり目が覚め、爽やかな気分で仕事にのぞめる」といった印象づけを行っていますから、その影響を受けているのかもしれません。
しかし、健康を大事に考えるビジネスパーソンにとって、缶コーヒーは悪魔の飲み物。口にするのは絶対に避けたほうがいいのです。
缶に限らずペットボトルも同様ですが、そうしたものに入った「コーヒー飲料」は、カフェで売られているいれたてのコーヒーとはまったくの別物。「砂糖の塊が解けた液体」に過ぎず、健康に悪いことはあってもいいことなど1つもないからです。
下の図0-1を見てください。よく見かけるコーヒー飲料の、1本あたりの糖質含有量を示してあります。
「ボス とろけるカフェオレ」という商品の場合、100ミリリットルあたりの糖質(*)は8.9グラムですが、500ミリリットルのペットボトル1本を飲むと、角砂糖にして、なんと11個分くらいに値します。「ジョージア マックスコーヒー」という商品も250グラムと容量は多くないですが、1本あたり角砂糖6個分に値します。
*正確には炭水化物=糖質+食物繊維だが、食品中の食物繊維はわずかなので、ここでは糖質≒炭水化物とする。
コーヒー飲料に限りません。下の図0-2にあるように、自販機やコンビニで売られている身近な飲料は、大量の糖質を含んでいるものが多いのです。
コーラなどの甘い清涼飲料水が糖分を多く含むことはわかるとして、注意が必要なのはいかにも健康に良さそうな商品です。代表的なところをあげただけで、ウイダーinゼリー・エネルギーに45グラム(角砂糖11個分)、C.C.レモンに50.5グラム(角砂糖12個分)、デカビタCに28・3グラム(角砂糖7個分)といった具合に大量の糖が含まれています。
本来、健康な人間の体内には約4.5リットルの血液があり、その中のブドウ糖濃度(血糖値)は空腹時90mg/dlです。つまり、その血液中には4グラム前後のブドウ糖が存在します。それだけあれば十分だから、この数値なのです。
では、4グラムでいいところに、コーヒー飲料などを飲んで、いきなり大量の砂糖がドバーッと入ってきたらどうでしょう。人間の体がまったく想定していなかった、ばかげた事態が起きるのです。
自動販売機も不要な文化かもしれない
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bb4308 No.6879
Q Research Japan/Nihon #20より
日猶同祖論や景教渡来説はプロパガンダの可能性が高い
日本で現在も流されている情報。こういう話に夢中にさせて、国民が真相に辿り着けないようにさせているのか?
日ユ同祖論
https://ja.wikipedia.org/wiki/日ユ同祖論
日ユ同祖論(日猶同祖論、にちゆどうそろん)は、日本人の祖先が2700年前にアッシリア人に追放されたイスラエルの失われた十支族の一つとする説。但し、ユダヤ人(古代イスラエル人のうちのユダ族、ベニヤミン族、レビ族)ではなく、ユダヤ人と共通の先祖ヤコブを持つ兄弟民族である。英ユ同祖論など、ユダヤ人と他民族文化を関連づけて論じられるユダヤ人同祖論のひとつ[1]。
英語版
https://en.wikipedia.org/wiki/Japanese-Jewish_common_ancestry_theory
日ユ同祖論(にちゆうどうそろん)とは、17世紀に登場したフリンジ理論で、日本人はイスラエルの失われた10部族の主要な部分であると主張する仮説である。後のバージョンでは、ネストリウス派キリスト教に改宗した中央アジアのユダヤ人の部族の末裔とされている。この説には、日本人全体に適用されるものもあれば、日本人の中の特定のグループだけがユダヤ人の子孫であると主張するものもあった。
チューダー・パーフィットは、「イスラエル人起源説の流布は……西洋の植民地事業の一貫した特徴である」と書いている[1]、
想像上のユダヤ人の過去の太平洋における最も顕著な進化をたどることができるのは、実は日本である。世界の他の場所と同様に、この国の諸相がイスラエル人のモデルによって説明されるという理論は、西洋のエージェントによって導入された[2]。
研究者であり作家であるジョン・エンタインは、DNAの証拠は日本人とユダヤ人の間に重要なつながりがある可能性を排除していると強調している[3]。
起源
大航海時代、ヨーロッパの探検家たちは、最初に接触した多くの民族を失われた10部族に結び付けようとした。ロスト・トライブスを東アジアの民族と最初に特定したのは、イエズス会の宣教師で通訳のジョアン・ロドリゲス(1561-1634)だった。1608年、彼は中国人がイスラエルの失われた部族の子孫であると主張した。彼は、中国の聖人孔子と老子はユダヤ教からその思想を受け継いだと考えた[4]。彼は『日本宗教史』(Historia da Igreja do Japão)の中で、日本には大陸から2つの移民の波が押し寄せ、一方は浙江から、もう一方は朝鮮から来たと主張した[5]。
パルフィットによれば、「この説の最初の本格的な展開は、宣教師として日本に行き着く前にニシン産業でキャリアをスタートさせたスコットランド人のニコラス・マクラウドによって提唱された」[6]。 1870年、マクラウドは『日本古代史叙事詩』を出版した[7]。 [ズヴィ・ベン・ドール・ベナイトによると、マクロードは宣教師として日本と朝鮮で数十年を過ごし、「真のイスラエル人を探していた」[8][9]と『日本古代史叙事詩』の挿絵[10]。この説の根拠として、神武天皇とモーセの伝説の類似性、日本人の一部に「ポルトガル系ユダヤ人」の人種的特徴があること、神道とユダヤ教の類似性などが挙げられている[11]。
日本における影響
これらの理論は日本ではほとんど影響を与えなかったが[12]、最近になって日本語に翻訳され、日本で出版された[13][14]。 これらの理論を支持すると主張するジョセフ・アイデルバーグ(1916 - 1985)の他の著書は日本語に翻訳され、4万部以上売れ、日本のテレビシリーズ(7話)で取り上げられた。[15] [16]
しかし1908年、早稲田大学の教授であった佐伯好郎(1872-1965)は、この理論の変形を展開した本を出版した。好郎は日本のネストリウス派の専門家であった。佐伯氏は、3世紀に朝鮮半島から渡来して日本に定住した秦氏がユダヤ系ネストリウス派であったという説を唱えた。ベン=アミ・シロニーによれば、「佐伯の著作は『日本人とユダヤ人の共通の祖先』(日ユ同祖論)に関する説を日本に広めた。
現代のDNA分析を含め、この仮説を支持する遺伝学的証拠はない。最近発表された日本人の遺伝的起源に関する研究は、佐伯が提唱したような系譜的つながりを支持していない[18]。
他の地域への影響
日・ユダヤ共通祖先説は、ヨーロッパの人種学者が、他の「劣った」あるいは「劣化した」アジア人、特に中国人の近代化とは対照的に、日本の急速な近代化を説明しようとした試みのひとつとみなされてきた[11]。しかし、この説自体は異なる方向でとらえられた。
中国におけるユダヤ人
この理論に関する佐伯の本が出版された同じ年に、上海シオニスト連盟が発行していた雑誌『イスラエルの使者』に、さらに別のバージョンの理論を宣伝する記事が掲載された[19]。マクラウドが日本の僧侶カーストと支配階級はユダヤ人の子孫であると主張していたのに対し、上海のグループが発表した記事は、よりプロレタリア的なバージョンの理論を提供していた。シロニーは次のように書いている:
その著者は、マクラウドが書いたものとは逆に、ユダヤ人の子孫であるのは日本の追放者、エタ族(記事ではエティ族と表記)であると主張した[20]。
この記事の著者は、西洋のユダヤ人と同様に、日本のエタは勤勉な人々であり、特に靴製造業に従事し、ゲットーに住んでいた。著者はまた、エタ族はユダヤ人の習慣を守っていたとも主張している: 「例えば、長崎のゲットーでは、エタは安息日を非常に宗教的に守っている。その曜日に働かないだけでなく、正統派ユダヤ人と同じように、煙草も吸わず、火も焚かない」[20]。
シロニーによれば、「この滑稽でまったく根拠のない話は、その後の雑誌の号では、挑戦も反論もされなかった」[20]。
キリスト教シオニズム
ベン=アミ・シロニーは、ビクトリア女王の元侍女で、著名なキリスト教シオニストでもあったエリザベス・A・ゴードンが書いた手紙についても、同じ雑誌に掲載されたものを紹介している。ゴードンは、日本とイギリスのイスラエル主義、特にイギリス王室がイスラエル系であるという見解とを結びつけようとしている。ゴードンは日本ではよく知られており、彼女はキリスト教に起源を持つ真言宗の研究をしていた。1921年の手紙の中で、彼女は「幻想的な推論の連鎖」を採用し、「日本とイギリスの皇太子間の会合は、ユダとイスラエルの待望の再会を意味する」ことを証明した。ゴードンは当時、日本で一定の影響力を持っていた[21]。
真言宗は神仏と人間が一体化する「即身成仏」思想なので、キリスト教と根本が全く異なるそうです。なのでエリザベス・A・ゴードンのキリスト教を起源に持つ真言宗の話は嘘の可能性が高い
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bb4308 No.6880
>>6879
こちらの方が要点をまとめてくれているので引用させて頂きます
日猶同祖論や景教渡来説のおかしさ
https://kokuhiken.exblog.jp/24803627/
〇兵庫県に大避神社という神社がある。御祭神は秦河勝である。この時点で「秦氏=猶太人説」「秦氏=景教徒」という説は崩れるのではないか。猶太教や景教を含む耶蘇教では人を神として祭るのはご法度のはずである。こういう基本的な事柄を無視することからして日猶同祖論や景教渡来説はうさん臭い。
〇日猶同祖論者は日本人と猶太人の宗教観の違いという根本的なところを無視する。どこそこにダビデの星があるとか、この日本語はヘブライ語と響きが似ているとか、その手の後付とかどうとでも解釈できる枝葉の部分ばかり強調する。猶太教徒にとって最も重要な宗教観の部分で日本人と猶太人は相容れない。
〇日本はアニミズムの国であり猶太人が重視する「天地の創造主」という信仰は無い。「猶太教が一神教化する前の多神教徒としてのヘブライ民族が渡来したのだ」と言う者もいるが、それならば道教やヒンドゥー教の神々も仏教の護法神として渡来しているから「猶太」だけ取り立てて言う意味がない。
〇「多神教徒としてのヘブライ民族が渡来した」とまで言って、あくまでも日本と猶太を結び付けようとするのは、何らかの政治的意図があるとしか思えない。道教の神もヒンドゥー教の神も日本に渡来している。例えば金刀比羅宮の御祭神はガンジス川のワニの神である。かと言って日印同祖論は言われない。
〇修験道も日猶同祖論において定番である。小箱の頭巾やほら貝が猶太教で使われる物と似ているといった類である。しかし、修験道と猶太教は根本的に世界観が異なる。修験道は原始アニミズムを色濃く継承し、木石など自然物を崇敬する。超越神を崇拝する猶太教でそれはあり得ないだろう。根幹が違う。
〇とはいえ一神教的な傾向を持つ修験一派が存在するのも事実である。それが丹波や鞍馬山の人脈である。インサイダー筋が大本教の母体として示す大江山の霊媒集団や神智学の影響を受けている鞍馬寺の鞍馬弘教等である。大本一派は一神教的だが元々かかる傾向性を持つサンカの修験一派が母体の可能性。
〇古代のラビと修験者の頭巾やほら貝、服装が似ていたとしても「だから何」という程度の話に過ぎない。そんな事より、明らかに意図的に「天地の創造主」というキリシタン神学由来の概念を導入した平田篤胤の方が問題である。出口王仁三郎もその神観を継承している。同祖論もこの周辺が主に唱える。
〇ネストリウス派=景教は人性と神性を明確に区別する。マリアも「神の母」ではなく「人性としてのキリストの母」という扱い。カトリックより人格と神格が厳格に区別されている。人と神の距離が近く、同一視し、場合によって人が神に命じる関係(例:役小角と一言主神)すらある日本の宗教観と隔絶する。
〇神智学徒のゴルドン夫人が高野山に大秦景教流行中国碑のレプリカを建立した。人性と神性はあくまで区別されるべきだとするのが景教である。一方、真言密教は「即身成仏」つまり、人も仏も構成要素は同じ「六大」だから人と仏はゼロ距離だとする教義である。似ても似つかないどころか真反対である。
〇宗教観を見ると、景教渡来説がいかに胡散臭く、ありえそうにないかが見えてきた。正倉院の宝物と同じで西方の外面的な文物は多数渡来したであろう。法隆寺のエンタシス方式もそうである。しかし、日本人の宗教観は同じ汎神論文化の印度や支那とは親和性があるが、中東以西のそれとは隔絶が大きすぎる。
〇●●渡来説、●●同祖論の類は、枝葉の文物をいくら眺めても「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」という程度の「結論」しか得られない。要するに信じたいものを信じるという結果にしかならない。比較的明確な結論を得るには世界観や宗教観など思想の枠組みを比較するのがより確実と思う。
〇日猶同祖論の初期の論者の一人佐伯好郎は同時に景教渡来説の権威。日猶同祖論と景教渡来説は初期からセット。佐伯は英国聖公会のキリスト教徒。聖公会は英国諜報員とメーソンの巣窟と渡部悌治先生述。猶太資本導入推進のために日猶同祖論を唱えたことを服部之総に告白。河豚計画の犬塚惟重の団体顧問。
〇景教渡来説を唱えている人士はキリスト教徒ばかりである。宗教的立場からの願望が投影されている「説」と言える。「いろは歌」まで耶蘇教の思想を歌ったものという者までいて驚いた。仏教の基本的教義を抑えておけば「いろは歌」は「有為=縁起したものの無常と、無明の克服」という趣旨と分かる。
〇猶太人のシンボルと言えばダビデの星=六芒星というイメージだが、六芒星が猶太のシンボルになったのは17世紀からである。六芒星はネパールでもよく使われるシンボルだそうだ。六芒星が伊勢神宮や松尾大社にあっても日猶同祖論の根拠にならない。猶太の古代からの象徴は七枝の燭台=メノラだろう。
〇石上神宮に安置されている七支刀がメノラだ!とかこじつける者もいる(笑)メノラは燭台であって刀ではないであろう。そもそもアニミズムの日本と一神教の猶太という根本的な相違がある。日猶同祖論者はわずかでも共通点があれば針小棒大に取り上げ、違いはどんなに大きいものでも無視する。
(了)
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Q Research Japan/Nihon #20より
元々日本で使われてた意味とは異なる意味で、明治時代から使われている言葉の一つが"愛"という言葉
Loveってなに…?日本には明治時代まで"愛"という言葉がなかった
https://zatsugaku-company.com/japan-love/
2020年6月29日
一部転載
・「愛する」という言葉が使われるようになった明治時代に何が起きたのかというと、宗教の多様化だ。それまで、日本では仏教が一般的で、キリスト教は迫害されていた。しかし、明治政府は「どんな宗教でも受け入れよう」といいだしたのだ。これは西洋の文化を受け入れようとする姿勢でもあり、これによって、海外の文学もどんどん翻訳されるようになる。しかし日本人には言い表せない言葉があった。それが「Love」である。
それまでの日本では、恋愛感情を表すには「恋する」・「恋しい」などが一般的だった。しかし、「Love」は家族や友達にだって使えるものである。家族や友達に「恋する」などとはいわない。かといって、「想っている」などと訳すのも違和感がある…。つまり、日本人は恋愛以外も含めた広い意味での「愛」を、一言で言い表す術を持っていなかったのだ。そこで漢語から「愛」という字を引っ張ってきて、新しい言葉を作ったという。
・ちなみに、「愛する」という言葉が作られる以前にも、「愛」を使った言葉は存在した。「愛しい」などがそうだ。これは「いとしい」とも読むが、当時は「かなしい」という読み方も一般的だった。
そのニュアンスからもわかるように、どちらかというと、陰鬱としたイメージをもつ言葉だったのだ。キリスト教の愛は、見返りを求めずに与えるもの。しかし仏教では、愛は相手への執着を表すものである。つまり、相手の幸せは関係なく、自分の欲求を満たしたいという側面の強い言葉だったのだ。宗教による言葉の概念の違いを見ても、日本で長らく「愛する」という言葉が使われなかったことに合点がいく。
・「Love」のような広い意味での愛を表現する言葉がなかったことは、日本人の繊細な心情を表している。たとえば、夏目漱石は「愛している」というストレートな表現は野暮だとし、「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳している。
ドチリナ・キリシタン
https://ja.wikipedia.org/wiki/ドチリナ・キリシタン
ドチリナ・キリシタンは、近世初期にイエズス会によって作成されたカトリック教会の教理本。当時のポルトガル語でDoctrina Christã[1](現在の表記ではDoutrina Cristã)、ラテン語でDoctrina Christiana[1]と表記する。
日本のドチリナ・キリシタン
日本で刊行されたドチリナ・キリシタンは、刊行年・刊行地共に不明の国字本「どちりいな・きりしたん」[注 1]、文禄元年(1592年)発行の天草版ローマ字本[2]、慶長5年(1600年)発行の長崎版ローマ字本[2][3]、同年発行の長崎版国字本「どちりな・きりしたん」の4種類がある[1][4][注 2]。これらはそれぞれ1冊ずつしか現存しない[7]。収蔵館は最初から順番に、バチカン図書館、東洋文庫、水戸徳川家、カサナテンセ図書館である[8][注 3]。
ローマ字本はヨーロッパ人の日本語学習のため、国字本は日本人信徒の教理学習用として編纂され、問答体の平易な文章で書かれている。天正18年(1590年)に2度目の来日をしたアレッサンドロ・ヴァリニャーノがヨーロッパから持ち込んだ活字印刷機により他の数々の書物と共に印刷された。「どちりいな・きりしたん」と天草版ローマ字本は木版印刷、長崎版「どちりな・きりしたん」はローマ字・国字本ともに金属活字による印刷である[8]。
ドチリナ・キリシタンでは、キリスト教が来世における救済の教えであることを、キリシタンに対して繰り返し強調していた[10]。また、デウスの十戒の第4の掟で、「父母に対する孝行」を「主人・司たる人(主君や領主)に対する忠誠と服従」と敷衍して規定していた[11]。
ドチリナ・キリシタンの変遷
1540年代にインドでの布教に従事していたフランシスコ・ザビエルは、同地方の住民のために問答体の教理書カテキスモを作成した。そして日本に渡航する際に、日本人アンジローに教理書を日本語に翻訳させた。日本の宗教事情を考慮して仏教用語を多く借用したが、来日後に仏教用語を払拭した改訂版を作成した[1]。
ガスパル・ヴィレラが上京した当時、宣教師が日本で用いていたドチリナ・キリシタンは、弘治2年(1556年)に来日したインド菅区長メルシオール・ヌーネスが、それまで使われていたザビエル作成の教理書を全面的に改訂して、バルタザール・ガーゴ神父に新たに編纂させた25章からなる「二五ヶ条」と呼ばれる教理書であった[12][1]。ルイス・フロイスが永禄11年(1568年)当時畿内布教のために使用したドチリナ・キリシタンも、日本語に翻訳されていたヌーネス編纂の教理書であった[注 4]。
ポルトガルのイエズス会士マルコス・ジョルジュが中心となって、子供を対象にした対話式の教理書「ドチリナ」が作成され、1566年にリスボンで上梓された[13]。これが海外で布教に従事するイエズス会士に使用され、永禄11年(1568年)に日本にももたらされた。このドチリナが日本語に翻訳された後、日本の実情に即して成人向けに編纂し直され、写本となり日本各地で使用された[1]。この写本は、国字本「どちりいな・きりしたん」が印刷されるまで約20年間使用された[13]。
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敬天愛人
https://ja.wikipedia.org/wiki/敬天愛人
敬天愛人(けいてんあいじん、英: Revere Heaven Love Man[1])とは、明治時代の啓蒙思想家、中村正直の造語で、天を敬い人を愛すること。
明治元年に著した「敬天愛人説」で初めて使われた[2]。キリスト教の「神」を儒教の「天」によって理解しようと試みた所産である[3][4]。中村正直の学んだ中国や日本の儒学在来の敬天思想が、新しくキリスト教の「愛神」の思想に接触して、これを摂取し、深く感化されて「敬天愛人」へと結実したものと考えられる[要出典]。
西郷隆盛と敬天愛人
この言葉は、西郷隆盛の座右の銘であり、「南洲翁遺訓」に登場することで広く知られている。
「二五 道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」
(現代語訳)
「道というのはこの天地のおのずからなるものであり、人はこれにのっとって行うべきものであるから何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も自分も平等に愛したもうから、自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である」(西郷南洲顕彰会発行『南洲翁遺訓』より抜粋)
稲盛和夫と敬天愛人
実業家の稲盛和夫は、西郷隆盛の「南洲翁遺訓」にはリーダーのあるべき姿が語り尽くされていると語り、自身の人生、経営の指針として同書を紐解いていた[15]。
自身が創業した京セラの社是を「敬天愛人」としている。
稲盛が塾長を務めた経営塾「盛和塾」においても、西郷の「敬天愛人」の精神に基づいた経営のあり方を後進に伝授していた[15]。
中村正直
https://ja.wikipedia.org/wiki/中村正直
中村 正直(なかむら まさなお、1832年6月24日(天保3年5月26日) - 1891年(明治24年)6月7日)は、明治時代の日本の啓蒙思想家、教育者。文学博士。英学塾・同人社の創立者で、東京女子師範学校摂理(校長)、東京大学文学部教授、女子高等師範学校長を歴任した。通称・敬太郎。字は敬輔、号は敬宇、鶴鳴、梧山。洗礼名はジョン(John)[3]。
来歴
江戸・麻布の幕府同心の中村武兵衛の長男として生まれる。幼名は釧太郎、葛馬茂右衛門から四書を学び、石川梧堂の門人となり筆法を修める。1846年(弘化3年)、築地の井部香山の塾で漢学を学び、翌年桂川甫周から蘭学の指南を受ける。
1848年(嘉永元年)、昌平坂学問所の寄宿寮に入る。佐藤一斎に儒学を、箕作奎吾に英語を習った。1855年(安政2年5月)に教授、1856年(安政3年)に甲府徽典館の学頭となる。1862年(文久2年)に幕府の御用儒者となる。
1868年(慶応4年)6月 幕府瓦解のため、帰国。
1868年(慶応4年)8月 静岡市大岩町の臨済寺に家を借りる。その後に半洋式の家「無所争斎」を建ててそちらに移る[5]。
1868年(明治元年)9月 静岡学問所の教授となる。
このとき同じく静岡学問所の教授であったエドワード・ウォーレン・クラーク宣教師に感化され、彼の生涯の友となった[6]。
教授時代の1870年(明治3年)11月9日に、サミュエル・スマイルズの『Self Help』を、『西国立志編』(別訳名『自助論』)の邦題で出版し100万部以上を売り上げ、福澤諭吉『学問のすすめ』と並ぶ大ベスト・ロングセラーとなった。序文にある‘Heaven helps those who help themselves’を「天は自ら助くる者を助く」と訳したのも彼である。
ジョン・スチュアート・ミル『On Liberty』を、『自由之理』(現在では同書を『自由論』と称するのが一般的)で訳し、「最大多数の最大幸福」という功利主義思想を主張し、個人の人格の尊厳や個性と自由の重要性を強調した。この『自由之理』にはエドワード・ウォーレン・クラークにより書かれた序文も付けられている[7]。
1872年(明治5年)6月 大蔵省翻訳局長に任じられ、後に帝国学士会員、東京大学教授となる。女子教育・盲唖教育にも尽力。
1873年(明治6年)3月 大蔵省退官後に小石川の私邸に同人社を開設、この私塾で英学を教えた。同人社は、三田の慶應義塾及び近藤真琴の攻玉社と並ぶ三大義塾と称された[8]。
また、1873年(明治6年)、国内における学術団体の嚆矢とされる明六社の設立に参加、福澤諭吉、森有礼、西周、加藤弘之らとともに主要メンバーとして啓蒙思想の普及に努め、機関誌「明六雑誌」の執筆を行う。
1874年(明治7年)1月4日 横浜ユニオン・チャーチでジョージ・コクラン宣教師の説教を聞く。それがきっかけでコクランを同人社に迎え入れる[9]。
1874年(明治7年)12月25日 養子の一吉と共にコクランから洗礼を受け、カナダ・メソジスト教会の日本人最初の信徒になる[9]。洗礼名はジョン(John)で、Nakamura Masanawer John と呼ばれた。[3]
1890年(明治23年)9月29日、貴族院勅選議員に任じられ[10]、死去するまで在任した[11]。 1891年 死去。満58歳。 六大教育家のうちの3名のクリスチャン(あと2人は森有礼と新島襄)のうちの1人。興亜会会員。
英語版
https://en.wikipedia.org/wiki/Nakamura_Masanao
略歴
江戸の武士の家に生まれた中村は、もともと儒学者であった。1866年、指導教官として徳川幕府留学生14名のイギリス留学に同行した[1]。徳川政権の崩壊により、ロンドン留学は早々に終わりを告げ、中村は1868年6月に帰京した。
帰国後、中村はサミュエル・スマイルズの『自助論』とジョン・スチュアート・ミルの『自由について』を日本語に翻訳した。この2冊のテキストはそれぞれ1871年と1872年に出版され、絶大な人気を博した。
中村は東京帝国大学で教鞭をとり、同人社を創立し、後のお茶の水女子大学の学長を務めた。中村はまた、女性の教育機会を促進したことでも知られ、スコットランドの医師で長老派の宣教師であったヘンリー・フォールズの協力を得て、盲児教育のための慈善施設「楽善会」を設立した[2]。
中村は、キリスト教に改宗した最初の著名な日本人哲学者の一人であり、儒教的なヒューマニズムと人間の生来の善良さへの信念を和らげた。彼はキリスト教を西洋諸国の軍事力と経済力の基礎とみなし、日本が国を強化するために必要なステップとして、伝統的な信仰を捨てる必要があると述べた。この点で、彼は明六社の哲学者サークルの中でもより急進的なメンバーの一人であった。
稲盛和夫
https://ja.wikipedia.org/wiki/稲盛和夫
稲盛 和夫(いなもり かずお、1932年〈昭和7年〉1月21日[注 1] - 2022年〈令和4年〉8月24日[2])は、日本の実業家。京セラ・第二電電(現・KDDI)創業者。公益財団法人稲盛財団理事長。「盛和塾」塾長[3]。日本航空名誉会長。一時経営破綻した日本航空の再建にリーダーシップを発揮するなど、日本経済に大きく貢献した[4]。
啓蒙・慈善活動
企業家の育成にも力を注ぎ、1983年には若手経営者の勉強会「盛友塾(現:盛和塾)」を開塾。1984年に財団法人稲盛財団を設立して理事長に就任。1985年には同財団主催の京都賞を創設し、同年第1回授賞式で三笠宮崇仁親王夫妻やスウェーデン王国シルヴィア王妃列席の下、ノーベル財団に特別賞を授与した[21]。稲盛財団の現在の資産総額は1,108億円で、民間で設立された財団法人としてはトップ5に入っている[22]。なお、盛和塾は自身が高齢になり積極的な活動ができなくなったことや従来から自身の一代限りで活動を終了させると表明していたことから2019年末をもって活動を終える予定である[23][24][注 2]。
1986年には京セラ会長に就任。1994年5月から1995年5月まで関西経済連合会副会長を務めた。1994年にはDDIポケット企画(ウィルコムの前身で後に関連会社のイーモバイルとともにソフトバンクグループが買収して現在ではワイモバイル)を設立。
母校の鹿児島大学に個人資産を寄附して大学キャンパス内に新しいホール「稲盛会館」(建築家安藤忠雄が設計を担当)を寄贈したほか、稲盛アカデミーへの援助を行なう。また地域社会はもとより国際社会において21世紀の更なる学術・文化の発展に貢献していくことを目的として、京都大学や九州大学の学術・文化趣旨に賛同し、稲盛財団記念館を寄贈竣工したほか、2013年11月、京都府に次世代を担う若者の創造教育の為に20億円を寄付し、2014年に完成した大学施設は稲盛記念会館と名付けられた[26]。関西鹿児島県人会総連合会会長も務める[27]。
2016年には郷里の鹿児島県と鹿児島市にそれぞれ10億円、計20億円を寄付した[28][29]。
仏教とのかかわり
幼少時に郷里の鹿児島で祖母の隠れ念仏を行う姿を見て宗教に関心を持ち、1997年に臨済宗円福寺の西片擔雪の下で在家得度(法名:大和)。雲水と共に修行を重ねた[30][31][32]。円福寺本堂と庫裏の建て替えに寄進したり、京都市と京都仏教会とを仲介したりするなど、居士としての活動も行なった[33]。
英語版
https://en.wikipedia.org/wiki/Kazuo_Inamori
慈善活動
・禅宗の僧侶であった稲盛は[7]、1984年に稲盛財団を設立し、「科学、文明、そして人類の精神性に多大な貢献をした人」を称える京都賞を毎年授与している[3]。
・大英帝国勲章名誉騎士団長、2019 年
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京セラ㈱ 名誉会長 稲盛和夫が英国より名誉大英勲章KBEを受章
https://www.kyocera.co.jp/news/2019/1106_ozak.html
2019年11月29日
京セラ株式会社 名誉会長 稲盛和夫(KDDI株式会社 最高顧問、日本航空株式会社 名誉顧問、公益財団法人 稲盛財団 創立者)は、このたび、英国エリザベス女王陛下より、名誉大英勲章KBE(Honorary Knight Commander of the Most Excellent Order of the British Empire)を受章し、11月28日(木)、駐日英国大使館大使公邸にて叙勲式が執り行われ、ポール・マデン駐日英国大使閣下より勲章が授与されましたのでお知らせいたします。
名誉大英勲章KBEは、様々な分野における優秀な功績を認め、社会全体の貢献に対して感謝するというもので、特に、際立った成果を残した人々、または奉仕活動に尽くした人々に授けられる権威ある勲章です。
■名誉大英勲章KBE叙勲理由
稲盛様が創業された京セラ株式会社とKDDI株式会社は、ヨーロッパの公共インターネット・トラフィックの半分以上を占めるロンドンのデータセンターをはじめ、英国全体の地域経済を活性化させてきました。また、日本航空株式会社では、稲盛様のリーダーシップのもとエアバス機購入時の契約交渉においてより広範な市場開放の議論のための環境が創造されるなど、英国の経済、産業の発展に寄与されました。英国オックスフォード大学における稲盛様や京都賞受賞者によるご講義、公益財団法人 稲盛財団のブラバトニク行政学院新学部設立へのご助力などを通じて、教育面でも稲盛様の哲学が広く受け継がれています。また、1984年に創設された京都賞ではこれまでに12名の英国人を含む世界中の思想、芸術、科学、技術の分野で優れた方々が表彰され、日本や英国のみならず世界の進捗に貢献されています。
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>>6882
キリスト教書店「銀座教文館」の公式サイト
https://www.kyobunkwan.co.jp/xbook/archives/13282
いかにして自分の夢を実現するか
著訳者など:ロバート・シェラー 稲盛和夫監訳
出版社: 三笠書房
発売年月:1992年12月1日カテゴリー : キリスト教書籍
教文館
https://ja.wikipedia.org/wiki/教文館
株式会社教文館(きょうぶんかん、英語: Kyobunkwan Inc.)は、日本の東京都中央区銀座4丁目に所在する出版社・書店。
概要[編集]
1885年(明治18年)創業の老舗。現在[いつ?]の社屋は銀座通りと松屋通りとに面した場所に構える。2011年(平成23年)12月時点では、銀座で路面店として営業している唯一の書店である。
書店業としては、売場面積は狭いながらも、各階ごとに個性ある売場を展開しているのが特徴である。
プロテスタントを基盤とする企業で、文書伝道を目的とする一面も持つ。創立時はメソジスト系であったが、1933年(昭和8年)の株式会社化によって外国宣教団体から独立し、現在は特定の教派には属していない。
主要株主である公益財団法人日本キリスト教文化協会は、日本キリスト教協議会の加盟団体である。
Ummm カテゴリーがキリスト教書籍??ロバート・シェラー氏がキリスト教徒なのか?
↓探して出てきた記事
大手英銀代表「キリスト教と金融業は共存可能」 ロンドンの教会で講演
https://www.christiantoday.co.jp/articles/4377/20091105/news.htm?pc=1
2009年11月5日
英銀大手バークレイズのジョン・バーリー最高経営責任者(CEO)が3日夜、ロンドンの英国国教会で講演し、利益は「邪悪」なものではないとして、キリスト教精神と銀行業は矛盾しないと訴えた。米ブルームバーグ紙電子版が4日報じた。
聖マーティン・イン・ザ・フィールズ教会を会場に開催された講演会で聴衆に語ったもの。講演後のインタビューでは、金融業の収益と社員に支払われる報酬はキリスト教と共存可能とも語った。
これらの発言は、英国国教会の霊的最高指導者であるローワン・ウィリアムズ・カンタベリー大主教が9月、世界的な金融危機を招いた投資家らの間で依然として「悔い改め」が見られないとし、現在の高額なボーナス文化に対して怒りを感じると語ったことを意識したものと見られる。バリー氏は昨年だけで110万英ポンド(約1億6500万円)のボーナスを受け取っている。
ロンドンでは先月20日もゴールドマン・サックス・インターナショナルの顧問、ブライアン・グリフィス氏が英国国教会・聖パウロ大聖堂で講演した。銀行システムが富と格差の象徴として批判されていることについて、「国家に大きな繁栄をもたらし、すべての人に機会を与えるためには格差を受け入れるべきだ」「自分を愛するのと同じように他者を愛しなさいというイエスの教えは、自己の利益を肯定している」などと語っている。
米ニューヨーク・タイムズ紙によると、米ゴールドマン・サックスは昨年、従業員953人ひとりにつき最低百万ドル(約9千万円)、役員にはさらに5百万ドル(約4億5千万円)のボーナスを支給した。今年の支給準備額は昨年比3倍以上になるという。
カンタベリー大主教は、世界的な金融危機が深刻化していた昨年秋には、「利益の裏づけがない空証文の取引が大被害をもたらした」と、金融取引のあり方に対して不信を表明。金融界の仮想現実の拡大を「偶像礼拝に相当する」と酷評し、全面規制は必要ないとしながらも、金融市場の適切な規制と公共の利益を確保する必要性を強調していた。
米エール大学経済学部のロバート・シラー教授は、過剰な経済格差は国家にとって害となり、富裕層さえ住めない環境を生み出すとして、経済格差に連動した税制を提案している。
ロバート・シラー
https://ja.wikipedia.org/wiki/ロバート・シラー
ロバート・シラー(Robert James Shiller、1946年3月29日 - )は、デトロイト出身のアメリカ合衆国の経済学者。
イェール大学教授。専攻は金融経済学、行動経済学。著書「根拠なき熱狂」 (Irrational Exuberance') で知られる。2013年にノーベル経済学賞を受賞。
ITバブルの崩壊やサブプライム危機へ警鐘を鳴らしたことで知られる[1]。
イェール大学
https://ja.wikipedia.org/wiki/イェール大学
・イェール大学(イェールだいがく、英語: Yale University、略称YU)は、コネチカット州ニューヘイブンに本部を置くアメリカ合衆国の私立大学である。
・創設当初の名称はThe Collegiate Schoolであったが、東インド会社総督だった篤志家エライヒュー・イェール(英語版)に因み、1718年に現在の名称へと変更された。その後、20世紀初頭にシェフィールド理科学校を併合した。
・ビル・クリントン元大統領、ジョージ・W・ブッシュ元大統領、ジョージ・H・W・ブッシュ元大統領、ヒラリー・クリントン前国務長官もイェール・ロー・スクール出身
英語版
https://en.wikipedia.org/wiki/Yale_University
カレッジ・スクールは、コネチカット植民地の会衆派聖職者によって1701年に設立された。当初は神学と聖なる言語を教える牧師養成に限定されていたが、アメリカ独立戦争の頃には人文科学や科学もカリキュラムに取り入れるようになった。19世紀には大学院や専門教育にも進出し、1861年には米国初の博士号が授与され、1887年には大学として組織化された。1890年以降、キャンパスの拡張と科学研究プログラムの充実により、イェールの教授陣と学生数は急速に増加した。
カリキュラム
イェール大学の学部生はリベラル・アーツ・カリキュラムに従い、学科ごとに専攻を持ち、全寮制のカレッジで構成されている。
エール大学は、トーマス・クラップ学長とエズラ・スタイルズ学長の宗教的・科学的関心により、大覚醒(the Great Awakening)と啓蒙主義という当時の大きな知的運動に巻き込まれた。彼らは戦争、学生の騒動、落書き、カリキュラムの「無関連性」、寄付金の絶望的な必要性、コネチカット州議会との意見の相違などに対処しながら、イェール大学の科学的カリキュラムの発展に尽力した[25][26][要ページ]。
特にニューイングランドでは、神学や神学を学ぶアメリカの真面目な学生たちは、ヘブライ語をギリシャ語やラテン語と並ぶ古典言語とみなし、旧約聖書を原語で学ぶために不可欠なものと考えていた。1778年から1795年までカレッジの学長を務めたエズラ・スタイルズ牧師は、(他の学校では一般的であった)古代の聖書を原語で学ぶ手段として、ヘブライ語に関心を持ちました、 新入生全員にヘブライ語の学習を義務づけ(上級生にのみヘブライ語の学習が義務づけられていたハーバード大学とは対照的)、イェール大学の校章にヘブライ語のフレーズאורים ומתים(ウリムとトンミム)が使われるようになった。1746年にイェール大学を卒業したスタイルズは、牧師であっただけでなく、ブラウン大学の創立に不可欠な役割を果たし、教育分野での経験を積んでこの大学にやってきた[27]。スタイルズにとって最大の試練は、1779年7月にイギリス軍がニューヘイブンを占領し、大学を取り壊すと脅したときに起こった。しかし、イェール大学を卒業したエドマンド・ファニングが、占領を指揮するイギリス軍将軍の秘書として介入し、大学は救われた。1803年、ファニングはその功績により名誉学位LL.D.を授与された[28]。
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>大手英銀代表「キリスト教と金融業は共存可能」 ロンドンの教会で講演
>https://www.christiantoday.co.jp/articles/4377/20091105/news.htm?pc=1
この記事はロバート・シラー氏主体の記事ではないですね…
引用するには不適切だったかもしれません。失礼しました
それにしてもイェール大学出身の日本人がこんなにいたのですね。知りませんでした
https://ja.wikipedia.org/wiki/イェール大学
日本出身者(生年順)
吉原重俊(大原令之助)- 日本人初のイェール大学留学生として政治・法律を学ぶ。大蔵小輔、日本銀行初代総裁[注釈 2]。
相馬永胤 - 専修学校(現・専修大学)創立者、初代学長。東京弁護士会副会長、判事、衆議院議員等を歴任。
田尻稲次郎 - 専修学校(現・専修大学)創立者の一人。大蔵総務長官、東京市長等を歴任。
山川健次郎 - 日本で最初の理学博士、元東京帝国大学理学部教授。東京帝国大学総長、明治専門学校(九州工業大学の前身)初代総裁、九州帝国大学初代総長、京都帝国大学総長、武蔵高等学校校長を歴任。
岡部長職 - 和泉岸和田藩第13代藩主で子爵、明治・大正期の政治家・外交官。
鳩山和夫 - 専修学校(現・専修大学)創立時の協力者。早稲田大学総長、衆議院議長、外務次官等を歴任。鳩山家初代当主。
箕作佳吉- 箕作秋坪の三男で動物学者。東京帝国大学教授。
片山潜 - 共産主義運動指導者、ユニテリアン。日本共産党、アメリカ共産党、メキシコ共産党の結党に参画。日露戦争中の第二インターナショナル第6回大会では副議長に選出。元コミンテルン常任執行委員。
松方幸次郎 - 衆議院議員。川崎造船所初代社長。松方コレクションの収集で知られる。松方正義の三男。
斎藤隆夫 - 衆議院議員。二・二六事件後に軍部の政治介入を激しく非難(いわゆる「反軍演説」)して除名される。第二次大戦後、国務大臣・行政調査部総裁を歴任。
田中一貞 - イェール大学で修士号取得。慶應義塾教授(社会学講座の初代担当者)。
朝河貫一 - 歴史学者、イェール大学教授。第二次世界大戦において、日米開戦阻止のため尽力。日米の交戦中も講義を行うことができた。
柴田一能 - 慶應義塾創設者福澤諭吉に呼び出されて留学を勧められた。のちに慶應義塾大学教授、日蓮宗宗務総監等を歴任、また立正診療院を開設。
平山清次 - 天文学者、東京帝国大学教授。
松本亦太郎 - 心理学者、京都帝国大学教授、東京帝国大学教授、日本心理学会初代会長。日本に実験心理学を導入。
高城仙次郎 - アーヴィング・フィッシャーに師事し博士号取得。帰国後、慶應義塾大学教授。
大塚野百合 - 恵泉女学園大学名誉教授、英文学者、キリスト教文化・賛美歌研究家、キリスト教功労者。
佐藤和夫 - 経済学者、ラトガーズ大学名誉教授。
大内啓伍 - 民社党委員長、厚生大臣(第76・77代)。
浜田宏一 - 経済学者、東京大学教授を経てイェール大学教授、国際金融、法と経済学などで大きな貢献。内閣官房参与。
山崎正和 - 劇作家、大阪大学教授、紫綬褒章。
西安信 - 北海道工業大学学長、学校法人北海道尚志学園理事長。
野口悠紀雄 - 一橋大学名誉教授。ベストセラー『「超」整理法』の著者。
川口順子 - 外務大臣。
小松正之 - 農林水産省官僚。
加藤良三 - 駐米大使。12代プロ野球コミッショナー。
宮島昭夫 - 駐トルコ大使。
廣瀬直己 - 東京電力ホールディングス社長。
秌場準一 - 一橋大学名誉教授、国際法学会理事長。
日下部元雄 - 大蔵省官僚、世界銀行の副総裁、社会学者。
小川伸一 - 日本の軍事学者。防衛省防衛研究所研究部長。イェール大学Ph.D.(政治学)
大芝亮 - 一橋大学名誉教授、日本国際政治学会理事長。イェール大学Ph.D.(政治学)
小暮厚之 - 慶應義塾大学名誉教授。イェール大学Ph.D.(統計学)
西崎文子 - 東京大学大学院総合文化研究科教授。イェール大学Ph.D.(歴史学)
猪口邦子 - 上智大学法学部教授。2004年3月まで軍縮会議日本代表部全権大使、衆議院議員。
小塩隆士 - 一橋大学経済研究所教授。
平山健二郎 - 関西学院大学教授。
田村耕太郎 - 参議院議員。
増井禎夫 - 細胞周期の研究で知られる著名な細胞生物学者、トロント大学教授。
寺西重郎 - 一橋大学経済研究所長、一橋大学副学長等を歴任
藤原帰一 - 政治学者。東京大学大学院法学政治学研究科教授。
中丸友一郎 - JPモルガン主席日本エコノミスト。
上野拓朗 - 経営コンサルタント。エコノミスト。
川岸令和 - 早稲田大学法務研究科教授。イェール大学J.S.D.
宮川成雄 - 早稲田大学法務研究科教授。
宮澤節生 - カリフォルニア大学ヘイスティングス・ロー・スクール教授、アジア法社会学会会長、アジア犯罪学会会長。イェール大学社会学博士。
髙砂民宣 - 青山学院大学大学宗教主任及び、経営学部准教授。
吉川洋 - 東京大学経済学部教授。
柴田元幸 - 東京大学大学院人文社会系研究科教授。
加野忠 - ソロモン・ブラザーズ銀行日本代表。
齊藤栄吉 - 富山銀行頭取。
山口勝業 - イボットソン日本法人創立者・会長、早稲田大学大学院経営管理研究科教授。
浅子和美 - 日本の経済学者。一橋大学経済研究所教授。イェール大学Ph.D.(経済学)。
福田慎一 - 日本の経済学者。東京大学大学院経済学研究科教授。イェール大学Ph.D.(経済学)。
古倉義彦 - クレアモントキャピタルホールディング代表取締役。
塩路悦朗 - 経済学者。一橋大学教授。イェール大学Ph.D.(経済学)。
斎藤淳 - 日本の政治家。衆議院議員、イェール大学政治学科助教。イェール大学Ph.D.(政治学)。
阿部修人 - 日本の経済学者。一橋大学経済研究所教授。イェール大学Ph.D.(経済学)。
乾久美子 - 日本の建築家。乾久美子建築設計事務所主宰。横浜国立大学大学院Y-GSA教授。
新谷元嗣 - 日本の経済学者。東京大学大学院経済学研究科教授。イェール大学Ph.D.(経済学)。
下津克己 - 日本の経済学者。東京大学大学院経済学研究科教授。イェール大学Ph.D.(経済学)。
杉山悦子 - 日本の法学者。一橋大学大学院法学研究科教授。イェール大学LL.M.。
若井克俊 - 日本の経済学者。京都大学大学院経済学研究科教授。イェール大学Ph.D.(経済学)。
立川志の春 - 落語家。
その他にもノーベル賞受賞者、上院議員、連邦最高裁判所判事、実業家、大学教授等を含め著名人多数。
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bb4308 No.6886
Q Research Japan/Nihon #20より
日本にバレンタインデー文化が導入されているのは、本来の日本文化が支配層に乗っ取られていることを、国民に気づかせないためなのではないか?
()=私のコメント
(キリスト教圏のお祝いの日だとは知らなかった…現在日本文化だとされているものはもしかしたら、支配層にとって都合の良いものばかりなのかもしれない)
バレンタインデー
https://ja.wikipedia.org/wiki/バレンタインデー
バレンタインデー(英: Valentine's Day)、または聖バレンタインデー(バレンタインデー)・セイントバレンタインデー(英: St. Valentine's Day)は、キリスト教圏の祝いで主に欧米で、毎年2月14日に行われるカップルが愛を祝う日とされている。家族や親友などと祝う人もいる。
元々269年にローマ皇帝の迫害下で殉教した「聖ウァレンティヌス(テルニのバレンタイン)に由来する記念日」だと、主に西方教会の広がる地域においてかつて伝えられていた。
この日は、キリスト教圏では一般に恋人や家族など大切な人に贈り物をすることが、習わしとなっている。
非キリスト教圏である日本においては伝統的に「女性が男性にチョコレートを贈る日」とされてきた。一方それに対して国内で批判や不満もあり[1]、日本におけるバレンタインデーの様相も変わりつつある[2]。
日本や中国大陸、台湾、韓国では、バレンタインデーに派生して「ホワイトデー(英: White Day)」が存在する。
起源
ローマ帝国発祥説
バレンタインデーの歴史は、ローマ帝国の時代にさかのぼるとされる。
当時、ローマでは、2月14日は女神ユーノーの祝日だった[3]。ユーノーはすべての神々の女王であり、家庭と結婚の神でもある。翌2月15日は、豊年を祈願する(清めの祭りでもある)ルペルカーリア祭の始まる日であった。当時若い男たちと女たちは生活が別だった。祭りの前日、女たちは紙に名前を書いた札を桶の中に入れることになっていた。翌日、男たちは桶から札を1枚ひいた。ひいた男と札の名の女は、祭りの間パートナーとして一緒にいることと定められていた。そして多くのパートナーたちはそのまま恋に落ち、そして結婚した。
ローマ帝国皇帝クラウディウス2世は、愛する人を故郷に残した兵士がいると士気が下がるという理由で、兵士たちの婚姻を禁止したと言われている。キリスト教の司祭だったウァレンティヌス(バレンタイン)は、婚姻を禁止されて嘆き悲しむ兵士たちを憐れみ、彼らのために内緒で結婚式を行っていたが、やがてその噂が皇帝の耳に入り、怒った皇帝は二度とそのような行為をしないようウァレンティヌスに命令した。しかし、ウァレンティヌスは毅然として皇帝の命令に屈しなかったため、最終的に彼は処刑されたとされる。彼の処刑の日は、ユーノーの祭日であり、ルペルカリア祭の前日である2月14日があえて選ばれた。ウァレンティヌスはルペルカリア祭に捧げる生贄とされたという。このためキリスト教徒にとっても、この日は祭日となり、恋人たちの日となったというのが一般論である。
異説・異論
上述の逸話には歴史的背景の説明が必要である。
初期のローマ教会は、当時の祭事から異教の要素を排除しようと努力した跡がみられる。ルペルカリア祭は排除すべきだが、ただ禁止しても反発を招くだけであったため、教会にはこの祭りに何かキリスト教に由来する理由をつける必要があった。そこで兵士の結婚のために殉教したとされるバレンタイン司教の助けを借りることにしたと考えられる。こうしてキリスト教以前からあったルペルカリア祭は、バレンタイン由来の祭りであると解釈を変更され、祭りはその後も続いた。前述のくじ引きでパートナーを選ぶ話も、ローマの宗教行事は野蛮であるという印象を与えるために初期キリスト教会によって創作されたものである可能性がある。
世界各国における状況
多くの国で恋人や家族などと愛を祝う日になっている。
日本
沿革
日本では、1958年(昭和33年)ごろから流行した[11][12]。ただし、その内容は日本独自の発展を遂げたものとなっている。
戦前に来日した外国人によって一部行われ、第二次世界大戦後まもなく、流通業界や製菓業界によって販売促進のために普及が試みられたが、日本社会に定着したのは、1970年代後半であった。毎年2月に売り上げが落ちることに頭をかかえていた菓子店主が企画を発案したと云われている。「女性が男性に対して、親愛の情を込めてチョコレートを贈与する」という「日本型バレンタインデー」の様式が成立したのもこのころであった。文化的に日本の男性は女性にプレゼントをする習慣があまりなかったため定着しなかったので、女性から男性に贈るというキャッチコピーに変えると徐々に流行りだした。菓子店の企画と広告、キャッチコピー、宣伝方法、百貨店とのタッグなどによる商戦の成功であったといわれている。なお、バレンタインデーにチョコレートを渡すのがいいのではと最初に考案して実践したのは、一説に大田区の製菓会社メリーチョコレートカムパニーの原邦生であるとされる[13]。原はその時「一年に一度、女性から愛を打ち明けていい日」というキャッチコピーをつけたといわれている。口コミで広がり、マスコミも報道した。
特徴
日本では、女性がアプローチしたい意中の男性に愛情の告白として本命チョコを贈る習慣がある。
西欧・米国でも、恋人やお世話になった人に『チョコレート』を贈ることはあるが、決してチョコレートに限定されているわけではなく、またバレンタインデーに限ったことでもない。女性から男性へ贈るのが殆どという点と、贈る物の多くが『チョコレートに限定されている』という点は、日本のバレンタインデーの大きな特徴である。しかし2017年には、本命チョコにこだわらず、クッキーやケーキ、マフラーなどを贈る人もいた。
また、「恋人までは行かないが、友人として」贈る「義理チョコ」、同性(主に女性)間で贈り合ったりする「友チョコ」、男性が女性に渡す「逆チョコ」、自分で買って食べる「自己チョコ」、男性が男友達に送り合ったりする「強敵(友)チョコ」というものも見られる。
「日本型バレンタインデー」の特徴を整理すると、以下の3点となる[14]。
贈答品にチョコレートが重視される点。
女性から男性へ一方通行的贈答である点。
(女性の)愛情表明の機会だと認識されている点。
このほか、職場における贈答習慣が強い点[† 1]や、キリスト教との直接的関連はほとんど意識されていない点[† 2]も日本型バレンタインデーの特徴である。
20世紀終盤から2000年代以降
日本のチョコレートの年間消費量の2割程度が、2月14日に消費されると言われるほど[21]の国民的行事となっており、2000年代以降は後述のように多様化している。
女性が男性にチョコレートを贈ると同時に愛の告白をするといった主要目的以外にも、すでに交際中の恋人や、結婚している夫妻、子供同士でも行われるようになり、憧れの男性・女性に贈るケースや、上司や同僚、ただの友人などの恋愛感情を伴わない相手にもチョコレートを贈る「義理チョコ」という習慣が定着しているが、義理チョコは1990年代後半以降衰退傾向にあり[22]、2000年代後半から2010年代前半においてもその傾向は継続している[23]。
また、女性が女性へチョコレートを贈る「友チョコ」の動きが2000年代初旬より広まってきてバレンタイン市場・商戦を支える存在となっており[22]、特に2000年代後半以降、友チョコの市場規模は拡大傾向となっている[24]。
バレンタインデーにおけるチョコの売上停滞に危機感を抱いた関連業界の企業において、友チョコを重視したキャンペーンを行ったり、男性が女性にチョコレートを贈る「逆チョコ」といった様々な展開で消費活性化を図っている[22][24]。逆チョコは特に森永製菓が積極的に展開しており、1960年と同じく2000年代後半以降も大々的なキャンペーンを行っていて、逆チョコ仕様の「逆ダース」を期間限定発売するなど力を入れている[25]。この時期はチョコレート販売店舗で特設会場が設けられたり、商品の種類が多様化するため、その試食を目当てにしたり、輸入品や高級品のように店頭在庫が珍しいものを自らのために買い求める「自分チョコ」を行う者も2000年代以降増えている[22][24][26]。
https://en.wikipedia.org/wiki/Valentine%27s_Day
歴史
アイルランド、ダブリンのホワイトフライアー ストリート カルメル会教会にある聖バレンタイン教会
数多くの初期キリスト教の殉教者はバレンタインと名付けられました。
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bb4308 No.6887
>>6886
>森永製菓
森永製菓
https://ja.wikipedia.org/wiki/森永製菓
https://en.wikipedia.org/wiki/Morinaga_%26_Company
森永製菓株式会社(もりながせいか、英: Morinaga & Co., Ltd.)は、東京都港区に本社を置く日本の大手菓子製造業者。森永乳業とは兄弟会社の関係で、同一敷地に本社を構えておりモリナガグループを形成している。コーポレートメッセージは「おいしく たのしく すこやかに」。
概説
1899年(明治32年)に創立された、当時洋菓子と言われていたキャラメルなどを製造している老舗メーカーである。トレードマークに「エンゼル」が使用されている。本社の最寄り駅は山手線及び京浜東北線の田町駅と、都営地下鉄浅草線及び都営地下鉄三田線の三田駅。
特色
ビスケットやソフトキャンディーの製造、販売を基幹とする。森永ビスケットシリーズは知名度のある売上の高い商品、特にマリーやムーンライト、チョイスは基幹商品。ハイチュウはキャラメルの技術を活かした他社の追従を許さない森永の売れ筋商品。グレープ味は一番人気。次にキョロちゃんで知られる「チョコボール」は、子供を中心に人気である。なかでも「チョコボール」シリーズを買い、一定の条件を満たした応募者全員に贈られる「おもちゃのカンヅメ」キャンペーンは、菓子会社の懸賞の中でも歴史が古い。
その他
戦後日本で、女性が男性にチョコレートを贈るといったバレンタインの習慣が広まった起源のひとつに森永製菓の宣伝がきっかけとなった説がある。詳しくはバレンタインデーを参照。
ビスケット/パイ菓子
森永ビスケットシリーズ
マリー - マリー・アントワネットが宮殿で初めて高級ビスケットを作らせ、自分の名マリーと名付けて常に愛用した伝から創業者が命名[6]
ムーンライト
チョコチップクッキー
エンゼルパイシリーズ
マンナシリーズ - 『旧約聖書』でイスラエル人がエジプト脱出後荒野で神から与えられた食物と言われる「マンナ(マナ)」に由来[6]
パックンチョシリーズ
(こんなに聖書を意識した商品づくりがされていたとは知りませんでした)
沿革 (気になる箇所を転載)
(注)森永製菓の社名の変遷、乳業事業(現在の森永乳業)の変遷は、森永乳業のページの沿革部分にて説明されている。
1899年(明治32年) - 前身の森永西洋菓子製造所を設立(創立者は森永太一郎。ビスケットの森永チョイスに「MT」と浮き彫りになっているのはMorinaga Taichirohにちなむ)。マシュマロの生産販売を始める。
1905年(明治38年)
経営実務担当のパートナーとして松崎半三郎を招聘する。以後は近年まで森永家と松崎家が交代で社長に就任していた。トレードマークにエンゼルマークを制定する。マークは、創業時の主力商品のマシュマロが英語で「エンゼルフード」と呼ばれていたことと、太一郎自身がキリスト教徒だったことによる。
1930年(昭和5年) - 赤ちゃん専用ビスケット「マンナ」を発売開始。
1931年(昭和6年) - チューインガムの生産販売を開始。
1937年(昭和12年) - 「森永母を讃える会」を設立。母の日の普及活動を全国展開
1944年(昭和19年) - ペニシリンの国産化に初めて成功。
1945年(昭和20年) - 終戦後から1952年(昭和27年)の占領解除までの間、占領軍兵士向けの菓子類を生産納入。
1955年(昭和30年)6月頃 - 森永乳業が森永ヒ素ミルク中毒事件を起こす。
1956年(昭和31年) - アイスクリームの生産販売を本格開始。
1957年(昭和32年) - ホットケーキの素を商品化。
1960年(昭和35年) - 日本で初めてインスタントコーヒーを製造発売。バレンタインデーの企画を大々的に展開。ベルマーク運動に参加。
1961年(昭和36年)「森永エンゼルパイ」発売開始。中華民国の旗 中華民国(台湾)台北市に台灣森永製菓股份有限公司を設立。
1984年(昭和59年)10月 - この年世間を騒がせた「グリコ・森永事件」に巻き込まれ、多大な損害を出す。[注 10]
1991年(平成3年)「エンゼル財団」を設立。
2008年(平成20年)1月 - (株)ディユーアソシエイツから株式を取得し、「ステラおばさんのクッキー」を販売する(株)アントステラを100%子会社化。アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国カルフォルニア州に「米国森永製菓」を設立。社会貢献活動「エンゼル・スマイル・プロジェクト」開始。
(私も子どもの頃は食べていたお菓子です。チョコボールが出てくる箇所のくちばしにエンゼルが出てくるまで買いたくなる…)
チョコボール<ピーナッツ>
https://www.morinaga.co.jp/products/detail.php?id=PRD2018-10-0054
原材料
ピーナッツ(アメリカ産又はアルゼンチン産)、砂糖、植物油脂、カカオマス、全粉乳、小麦粉、とうもろこしでん粉、水あめ、ホエイパウダー、乳糖、ミルクカルシウム、食塩/乳化剤(大豆由来)、香料、光沢剤
https://www.morinaga.co.jp/kyorochan/
金なら1枚、銀なら5枚!エンゼルのくちばしを集めてもらおう!
【応募方法】
チョコボール各種のくちばしに金のエンゼルが出たら1枚で1缶、銀なら5枚で1缶、おもちゃのカンヅメを差し上げます。
住所・氏名・年齢・電話番号を明記し、はがき又は封書でお送りください。
チョコボールの当たりマークが、天使のマークになっているのも、創業者がキリスト教徒だったから?
https://news.mynavi.jp/techplus/article/20130610-mrng/
森永製菓というと天使(エンゼル)が象徴的ですが、これはいつ頃から使われているものなのでしょうか?
森永製菓のシンボルであるエンゼルマークの起源は1905年にまでさかのぼります。
現在のロゴマークをデザインしたのは誰でしょうか?
ランドー・アソシエイツ社(アメリカ)です。
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bb4308 No.6888
>>6887
森永太一郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/森永太一郎
森永 太一郎(もりなが たいちろう、慶応元年6月17日(1865年8月8日) - 昭和12年(1937年)1月24日)は、日本の実業家。森永製菓創業者。安倍晋三首相の妻・昭恵は外曾孫娘にあたる。
経歴
父・常次郎、母・キクの長男・伊左衛門として肥前国松浦郡伊万里(現・佐賀県伊万里市)に生まれる。生家の森永商店は陶磁器の積み出し港として栄えた伊万里で一番の陶器問屋で、伊万里湾の漁業権を握る網元でもあったが、父の代には家勢も衰え、6歳の時に父が病死すると財産は人手に渡り、母は再婚。親類の家を転々とする不遇な幼少時代を過ごした。やがて伯父の山崎文左衛門に引き取られて山崎太一郎となり[1]、商人の心構えを教え込まれた。[2]12歳まで自分の名さえ正確に書けず、奉公の余暇に手習いをさせてもらう約束で本屋の住み込み店員となり、13歳で野菜の行商人になり、15歳から伊万里焼の問屋に奉公し、19歳で上京して、叔父も出資していた横浜の合資会社有田屋(伊万里焼の営業所)で働いた[1]。
20歳で結婚し、翌年九谷焼を外国商館に販売していた横浜の陶器問屋道谷商店で数年を過ごしたが同店が倒産。債権者への返済のために店の商品を海外で販売することを目論み、明治21年(1888年)24歳の時に妻と長女を日本に残して渡米した[1]。
サンフランシスコで焼き物の販売を試みたが、労働者階級の地域であり、陶器の価格も高かったため、失敗に終わった[3]。日本から持ってきた陶器をオークションで売り払って日本に送金し、無料宿泊所である日本人ミッション教会の厄介になりながら、米人家庭の掃除や皿洗いなどで糊口を凌いだ[1]。そこで日本では誰も手掛けていなかった西洋菓子の製造に目を付け、菓子工場の仕事を探したが、人種差別の強い時代のためもあってなかなか望む仕事は見つからなかった。オークランドに移り、下働きとして住み込んだスカンジナビア人とアイルランド人のクリスチャンの老夫婦に親切にされたことをきっかけにキリスト教に関心を持ち、のちにメリマン・ハリスから洗礼を受けた[1]。
明治23年(1890年)夏に一度は日本に帰国し、故郷の伊万里で福音伝道を試みたが、全く相手にされなかったどころか、異教に入信したことを知った叔父に勘当され、森永姓に復姓[1]。
3か月後、今度こそ西洋菓子製法の習得を目指して再び渡米し、アラメダのジョンソン・ホームベーカリーの雑用係を経て、明治28年(1895年)31歳の時にオークランドのキャンディー工場&キャンディーストア「ブルーニング社」の掃除係として入社した。この当時、森永は身長180cm、体重70キロの巨漢だった[1]。ここでも多くの人種差別の苦難に遭いながらも様々な西洋菓子の製法を5年間で身に付け、日本に西洋菓子を普及させる時期になったと判断した太一郎は計11年間の滞米を終えて帰国の決心をした。この時オークランドのブルーニング夫妻から「小売りをせず、卸だけやれば家賃の安い辺鄙な所でも済む。自分も二坪ばかりの小さな家で菓子を作り、そこで寝泊りをして始めた。」と助言を受け、明治32年(1899年)6月下旬に横浜に到着した。
帰国後の1899年、現在の森永製菓の前身となる森永西洋菓子製造所を東京・赤坂(旧溜池町、現在の赤坂1・2丁目付近)に設立した[4]。主にマシュマロを製造していたが、後にキャラメルを主力製品とする。当時「天使の食べ物」と呼ばれていたマシュマロは在米中に行なった市場調査で邦人にもっとも好まれた菓子だった[3]。1905年には貿易商社に勤めていた松崎半三郎を迎い入れ、森永も自らリヤカーを引いて販売に当たった[3][5]。
帰国後キリスト教を離れたが、1930年に2人目の妻を亡くしたのをきっかけに再び信仰に戻り、1935年4月に社長を引退、その後はキリスト教の教えを説きながら全国をめぐる日々を過ごした。1937年に71歳で没した[1]。
https://en.wikipedia.org/wiki/Taichiro_Morinaga
森永製菓は1905年、友人でありクリスチャンでもあった松崎半三郎[1]を雇い、キャンディを売り出し、1909年には工場の蒸気機関を使ってお菓子の大量生産を開始した。森永は当初、日本人がミルク味やバター味を好むかどうか疑問視していたが、1914年には10銭ミルクキャラメルが大人気となった[4]: 30
安倍昭恵
https://ja.wikipedia.org/wiki/安倍昭恵
安倍 昭恵(あべ あきえ、旧姓:松崎、1962年〈昭和37年〉6月10日 - )は、第90・96・97・98代内閣総理大臣である安倍晋三の妻。
東京都出身。生家の松崎家は、森永製菓創業家の森永家と繋がりが深い家系である[1]。聖心女子専門学校卒業後[2]、電通に入社[3]。衆議院議員の安倍晋太郎の次男である晋三と1987年に結婚。夫の晋三ものちに衆議院議員、さらには内閣総理大臣となったが、昭恵はラジオのディスクジョッキー、居酒屋の経営[4]など、政治家の妻としては異色の活動を展開した。森友学園瑞穂の國記念小學院では名誉校長を務めていたが、森友学園問題が浮上した際に退任した。同様に、加計学園御影インターナショナルこども園では名誉園長を務めていたが、のちに加計学園問題が取り沙汰された際に問題視された。大麻解禁[5]、反原発[3]、反TPP[3]など、夫の晋三とは正反対の主張を展開することもたびたびあった。2017年12月、「国内外における女性の社会参画推進への貢献」によりベルギーからレオポルド2世勲章グランオフィシエに叙勲[6][7]。
経歴
生い立ち
父は森永製菓社長を務めた松崎昭雄[8]。
聖心女子学院初等科、聖心女子学院中等科、聖心女子学院高等科を経て、聖心女子専門学校英語科卒業後、電通に入社。新聞雑誌局で勤務した[8]。
1985年、職場の上司を通じて安倍晋三を紹介される[9]。1986年10月、晋三と婚約[10]。
森友・加計学園との関わり
森友学園が2017年4月に開校予定だった瑞穂の國記念小學院の名誉校長をかつて務めていた。同年2月23日、安倍晋三の事務所は同学園に、名誉校長辞任の意向を伝えるファックスを送信[50][51]。同日午後、森友学園は「瑞穂の國記念小學院」の公式サイトから、昭恵の写真と挨拶文を削除した[52]。
加計学園が運営している認可外保育施設御影インターナショナルこども園の「名誉園長」を務めている[53]。
2017年3月28日、参議院決算委員会で、「安倍昭恵が『安倍晋三からです』と封筒に入った100万円を下さった」との籠池泰典の証言と、これを否定する安倍内閣総理大臣の答弁の食い違いが議論になった[54]。
新型コロナウイルス感染拡大中における不要不急の外出
新型コロナウイルス感染拡大中の2020年3月14日、晋三は首相記者会見を実施し、「自らの身を守る行動を」「現状は依然として警戒を緩めることはできません」「感染拡大の防止が最優先」「全国津々浦々、心を一つに、正にワンチームで現在の苦境を乗り越えていきたい」と国民にコロナウイルス対策の重要性を訴えた。
翌日、昭恵が大分に旅行し、約50人の団体とともに大分県宇佐市の宇佐神宮を参拝したことを週刊文春が報道した。昭恵は、同行者に「コロナで予定が全部なくなっちゃったので、どこかへ行こうと思っていたんです」と語っていたという[62]。
https://en.wikipedia.org/wiki/Akie_Abe
彼女は、東京の聖心女子学院 (または 誠心女子学院) で教育を受けました。 )、ローマ カトリック教徒の私立小学校から高等学校までを卒業し、聖心の専門訓練を卒業大学。安倍首相はその後、世界最大の広告代理店である電通に勤務し、1987 年に安倍晋三と結婚した。
・2014 年 4 月 27 日、彼女は東京で行われたゲイプライドパレードに参加した。 日本の LGBT コミュニティに対する広範な権利への支持を示すため。
(安倍昭恵氏はカトリック教徒?)
(MORINAGAもしっかりSDGsを推進しています)
https://www.morinaga.co.jp/sustainability/
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bb4308 No.6889
>>6888
>ベルギーからレオポルド2世勲章グランオフィシエに叙勲
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/219142
2017/12/08
安倍首相夫人の昭恵氏が7日、ベルギー王国から、女性の社会参画に功績があったとして、同国の勲章「レオポルド2世勲章グランオフィシエ」を授与された。
レオポルド2世勲章
https://ja.wikipedia.org/wiki/レオポルド2世勲章
レオポルド2世勲章(レオポルドにせいくんしょう、フランス語: Ordre de Léopold II、オランダ語: Orde van Leopold II)は、第2代ベルギー国王(ベルギー王)兼コンゴ自由国国王のレオポルド2世の名を冠するベルギーの勲章であり、同国の発展に貢献した人物に対して授与される[1]
8等級に分かれており[2]、名称は高位から順に、グランクロワ(大十字) - グランオフィシエ(大将校) - コマンドゥール(司令官) - オフィシエ(士官) - シュヴァリエ(騎士) - 金 - 銀 - 銅である。
英語版
Order of Leopold II
https://en.wikipedia.org/wiki/Order_of_Leopold_II
レオポルド 2 世勲章は、次の勲章です。 ベルギーであり、レオポルド 2 世王にちなんで名付けられました。この勲章は、1900 年 8 月 24 日にコンゴ自由国の君主としてレオポルド 2 世によって制定され、コンゴがベルギーに引き渡された 1908 年に法人化されました。ベルギーの賞システムに組み込まれました。この勲章は、ベルギー国王への功績をたたえ、また個人的な親善の証として授与されるものです。この賞はベルギー人にも外国人にも授与され、外交上の功績のある贈り物とみなされます。[1]
この勲章は公務員に対する長期服務勲章となり、王冠勲章の代わりに授与されます。 レオポルド勲章は、まれな状況で授与されます。この勲章は現在、ベルギーの栄誉序列においてレオポルド勲章(第1位)、王冠勲章(第2位)に次ぐ第3位に位置している。レオポルド 2 世勲章は王令によって授与されます。
記章
騎士団のバッジは金属製のマルタ十字、ナイト クラスは銀色、上級クラスは金色で、十字架の腕の間に同じ金属の月桂樹の葉の花輪が付いています。 。表面の中央ディスクには、黒いエナメルの背景にライオンが描かれ、その周りを青いエナメルのリングで囲まれており、「団結は強さ」というモットーが描かれています。 フランス語 (L'union fait laforce) およびオランダ語 (Eendracht maakt macht)。バッジの上部には同じ金属の王冠が付いています。レオポルド 2 世勲章がベルギー国家勲章に組み込まれるまで、中央の円盤にはコンゴ自由国の青、黒、白のエナメル加工された紋章とTravail et Progrès のモットーが示されていました。 .
グランド クロスのプラークは、星の枝の間に金色の光線が入った、ファセットカットされた銀色の五芒星です。中央は指揮官の十字架の表面を示しています。グランドオフィサーの盾は、ファセットカットされた五腕の「マルタのアスタリスク」です。 (マルタ十字を参照)、腕の間に金色の光線があります。中央は将校の十字架の表面を示しています。
メダルは、漠然と八角形で閉じたように見える金属製の形で刻印された勲章の形状を示しています。フロリアン クロス。メダルの金属は、金メダルの場合はゴールド、銀メダルの場合はシルバー、銅メダルの場合はブロンズです。
注文のリボンは青色で、中央に黒い縞模様があります。ただし、特別な状況で勲章が授与された場合、オフィサーおよびナイト クラスのリボンには次のバリエーションが表示されます。
交差した剣は、戦時中に授与された場合にリボンに追加されます (勲章が第二次世界大戦または中に授与された場合) a>、戦争の名前を示す小さなバーがリボンに追加されます);朝鮮戦争
特別な勇気ある行為に対して授与されるリボンには、両側に垂直の金色の縁取りが付いています。
非常に功績のある行為に対して授与される場合、リボンには黒のストライプの中央に金の縦ストライプが入っています。
受信者が全国レベルで発送に記載されている場合、リボンに金色の星が追加されます。
戦時中に軍関係者に授与される場合は、リボンに銀または金のヤシが追加されます。
星とボーダー、またはストライプが同時に授与されることもありますが、これらの逸脱が授与されることは現時点ではほとんどありません。
青と白がコンゴ自由国の色であったため、当初はリボンの中央のストライプは白でした。
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bb4308 No.6890
>>6889
レオポルド2世
https://ja.wikipedia.org/wiki/レオポルド2世_(ベルギー王)
レオポルド2世(フランス語: Léopold II、1835年4月9日 - 1909年12月17日)は、第2代ベルギー国王(在位:1865年 - 1909年)。
初代ベルギー国王レオポルド1世の王太子として生まれ、1865年に父王の崩御に伴い即位。レオポルド2世の在位中、1884年までは自由党(オランダ語版)、それ以降はカトリック党(オランダ語版)が政権を担当していた。ベルギー経済は父王の代から引き続いて急速に成長を遂げたが、労働者階級の社会不安も増加。在位後半にはベルギー労働党(オランダ語版)が台頭したことで様々な社会改革が行われた。
即位前から植民地獲得に強い関心を持ち、他の列強の支配が及んでいないコンゴに目を付け、コンゴ国際協会を創設して探検を支援。先住民の部族長と協定を結ぶなどコンゴ支配の既成事実化を進めた。その結果、1884年のベルリン会議にてコンゴを私有地として統治することを列強から認められた(コンゴ自由国)。
コンゴにおける治世の初期は、鉄道敷設やアラブ人奴隷商人による奴隷狩りから黒人を守るなど、コンゴの近代化に努める面もあったが、先住民を酷使して天然ゴムの生産増を図り、イギリスなどから先住民に対する残虐行為を批判され、1908年にはコンゴをベルギー国家へ委譲することを余儀なくされた(王の私領からベルギー植民地への転換)。
1909年に崩御。嫡出子の男子がなく、甥のアルベール1世が王位を継いだ。
生涯
1835年4月9日にベルギー王国の首都ブリュッセルに初代ベルギー王レオポルド1世とその妃ルイーズ=マリー・ドルレアン(フランス王ルイ=フィリップ1世の娘)の間の次男として生まれる[1][2]。兄ルイ=フィリップは前年に夭折していたため、王太子となった[3]。
弟にフィリップ王子(フランドル伯)、妹にシャルロット王女(メキシコ皇帝マクシミリアーノ1世皇后)がいる。またイギリス女王ヴィクトリアとその王配アルバートとは従姉弟の関係にあたる[4]。
9歳のときにブラバント公に叙された(以降ベルギーの王位継承者に与えられる爵位となる)[3]。
1853年8月にオーストリア大公・ハンガリー副王ヨーゼフ・アントンの娘マリー=アンリエット・ド・アブスブール=ロレーヌと結婚、彼女との間に3人の女子と1人の男子を儲けたが、男子レオポルドは9歳にして夭折している[3]。当時のベルギーは女子の王位継承を認めていなかったので、長男レオポルドの薨去とともに直系の王位継承者を失った。
1855年に上院議員となり、政界入りした[3]。
ベルギーは1830年にオランダから独立したばかりの新興国であったが、父王レオポルド1世の立憲君主の枠を越えた強力な指導の下に、他の国に先駆けて1836年に鉄道を完成させ、飛躍的な経済発展を遂げていた[5]。それでも国土が狭く人口も少ないベルギーは、ヨーロッパの中では小国にすぎなかったが、レオポルド王太子はいつまでもベルギーをその立場に甘んじさせるつもりはなかった[6]。隣国オランダがコーヒーブームに乗って植民地ジャワから莫大な利益を吸い上げているのを見て、ベルギーにも植民地が不可欠であると確信するようになったという[7]。
植民地を物色するために中近東や北アフリカ、セイロン島、清などを旅行してまわった[8]。帰国後、上院において植民地獲得を熱心に訴えたが、植民地に関心を持つ上院議員はあまりいなかったという。グアテマラ植民地化の失敗以来、ベルギー国民も議会も帝国主義政策を支持していなかったのである[9]。
それでも王太子の植民地への熱意は消えず、1860年には「外に向かって膨張すべき時期が来ている。もはや最良の条件 ―我が国より冒険的な国々によってすでに奪われてしまった― を待っているべき時ではない。」と語っている[8]。ベルギーが植民地化できる可能性のある場所を手当たり次第に物色し、1865年には「清か日本への遠征が成功すればベルギーは巨大な帝国となるだろう。人間が同じ人間を搾取することは許されないが、ヨーロッパの出現を東洋が救済と考えないと誰が言えるだろうか」と語り、極東の植民地化にも関心を示している[10][7]。
レオポルド2世
https://www.y-history.net/appendix/wh1402-005.html
19世紀後半のベルギー国王。アフリカのコンゴの植民地化に着手し列強と競合、1884~5年のベルリン会議で私有の領土と認められコンゴ自由国とし、その国王を兼ねる。象牙、ゴムなどを搾取する苛酷な植民地支配が国際的な批判をうけ、1908年にコンゴ自由国はベルギー政府が管理するベルギー領コンゴに移管された。
(引用)ベルギーのフィリップ国王(King Philippe)は30日、自国によるコンゴ民主共和国の植民地支配がもたらした被害について、ベルギー国王として初めて「遺憾の極み」との思いを表明した。
フィリップ国王は、コンゴの独立60周年を記念して同国のフェリックス・チセケディ(Felix Tshisekedi)大統領に送った書簡の中で「過去の傷について、遺憾の極みと伝えたい。その傷の痛みは今日、私たちの社会に依然存在する差別によって呼び覚まされている」と記した。
米国でアフリカ系のジョージ・フロイド(George Floyd)さんが白人警官の拘束下で死亡した事件を受けて、ベルギーでも過去の植民地支配をめぐる議論が活発になっている。
歴史学者らによると、現在のコンゴ民主共和国に当たる地域で、ベルギーのレオポルド2世(King Leopold II、1865~1909年在位)が所有していたゴム園※の労働者数百万人が、殺害されたり体を切断されたり、病気で亡くなったりしたという。
フィリップ国王はレオポルド2世の名には触れなかったものの、当時「暴力的で残虐な行為があり、それが私たちの共通の記憶に重くのしかかっている」と述べ、「それに続く植民地時代(1908~60年)も、苦痛と屈辱をもたらした」と認めた。フィリップ国王はあらゆる形態の人種差別に立ち向かっていくと表明し、植民地支配の記憶が静まるよう、ベルギー議会が提起したこの問題に対して反省を促していきたいと語った。
ベルギーではここ数週間、レオポルド2世の複数の像が反人種差別抗議デモの参加者によってペンキをかけられたり倒されたりしており、像の撤去を求める請願運動も始まっている。
AFP BB NEWS 2020/6/30 https://www.afpbb.com/articles/-/3291178
※コンゴのゴム採取はゴム園ではなく、ジャングルに自生するゴムの木から原液を採集する危険な労働だった。
(もしかしてレオポルド2世勲章が昭恵氏に授与されたのは、昭恵氏が植民地化に貢献したからなのではないか?カトリック教徒の強い団結???)
(※念の為誤解がないように記載しますが、特定の宗教を信仰する人たちを攻撃する意図はありません。宗教の仮面を被って他国に侵略し、自分達の富だけを増やす偽善者である支配層の闇に光を当てたいです)
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bb4308 No.7100
Q Research Japan/Nihon #21より
昔の葬儀はどんな内容だった?縄文から大正まで全ての時代を振り返る
https:// www.osohshiki.jp/column/article/208/
現代の葬儀といえば、通夜と葬儀・告別式を行い火葬するのが一般的な流れです。
では、大昔の縄文時代や文明開化のあった明治時代などの他の時代には、どのような葬儀が行われていたのかご存知でしょうか。時代が変わると「死」に対する考え方や、宗教が葬儀に与える影響の大きさも異なります。
今回の記事では、縄文時代から大正時代まで、時代を追って変化してきた葬儀内容をご紹介したいと思います。
〜縄文~弥生時代の葬儀(紀元前145世紀頃~3世紀頃)〜
縄文時代には、屈葬という埋葬方法が行われていました。屈葬とはその名のとおり、身体を曲げた状態で埋葬されることです。この屈葬は日本以外ではあまり見られない埋葬方法で、他の国ではアフリカの一部地域にのみ存在するようです。
屈葬を行っていた理由には下記のようにいくつか説があります。
・墓穴を掘る労力を少なくするため
・死後の世界でも安らかに眠れるように安楽の姿勢をとらせた
・胎児と同じような体勢をとらせて復活を願った
・死者の霊が浮遊しないよう動きにくい体勢にした
屈葬されている遺体の中には石を抱いていたり縛られたりしている遺体が多いことから、死者の霊が浮遊しないように、というのが最有力な説とされています。
弥生時代になると、屈葬から一転して伸展葬が行われるようになります。屈葬とは逆で、身体を伸ばして埋葬する方法です。縄文時代でも一部特権階級には伸展葬が許されていましたが、弥生時代では庶民の間でも伸展葬が一般化しました。
伸展葬に変わった理由はいくつかありますが、わざわざ身体を曲げる時間的余裕がなくなったことや、死
者が生き返らないことがわかったからだとされています。また、この頃から墓が見られるようになったとされています。これは、稲作が伝来したことで農耕が発展し、定住化が進んだことに起因しています。
弥生時代以降、大陸から文化が流入してきた影響もあり、土葬が強く根付くことになります。
〜古墳時代の葬儀(3世紀頃~7世紀頃)〜
古墳時代では、支配階級の埋葬方法が大きく変わりました。
古墳と呼ばれる大型の墓が全国的に広がったのです。特に古墳時代の前半期は極めて大型の前方後円墳が数多く登場し、その多くは豪族1人を埋葬するためだけに作られました。棺は石室と呼ばれる部屋に納められ、棺のほかに副葬品として銅鏡や碧玉製宝器、太刀、剣、鉾などが一緒に埋葬されています。
その一方で、庶民の埋葬に関しては特筆した変化は特になかったようです。
〜飛鳥時代の葬儀(592年~710年)〜
古墳時代の末期と飛鳥時代初期は年代がかぶっていて、飛鳥時代でも古墳は作られているものの、葬儀文化において大きな変化が起こっています。
聖徳太子が618年に自分の墓を建てたという記録があり、その墓も古墳です。しかし、646年に出された「薄葬令」によって、古墳の大きさや築造にかける期間、人員などが細かく制定されるようになりました。これにより、古墳時代初期のような大型の古墳は作られなくなったのです。
701年に制定された大宝律令以降は、三位以上の身分をもつ者だけに古墳を作ることが許されました。この頃、庶民に対しても埋葬に関する規定が定められました。庶民は一定の範囲の葬所を利用し、複数の場所に散埋することは許されなくなりました。
また、初めて火葬が行われたのがこの飛鳥時代です。700年に道昭という僧侶が火葬にされたという記録が残っているほか、702年には持統天皇も火葬にされています。しかし、火葬はまだ一般的には広まらず特権階級の間でのみ行われていたようです。
〜奈良時代~平安時代の葬儀(710年~1185年)〜
奈良時代に入ると、首都の内部に墓を作ることが禁止されました。そのため、平城京の敷地内からは当時の墓は発見されていません。平安時代に入ってもこの基本方針は変わらず、天皇や貴族といった特権階級の墓であっても京の外に作られました。
一方、庶民の墓は飛鳥時代と同じく一定の場所が設けられていて、そこに埋葬するように定められていました。このほか、『梧庵漫記』という記録には、京の周辺の山野や河原が庶民の葬られる場所だった、という記述が残されています。
平安時代には、高野山に火葬した骨や遺髪を納めるという「高野納骨」が盛んに行われました。1085年に崩御した性信法親王は遺骨を、1108年の堀河天皇は遺髪を高野山に納めました。仏教の教えにおいて、悟りを開くものがいない時期を意味する「末法」だといわれていたこの時代、天皇や貴族などの特権階級の人々は、弥勒の浄土である高野山に納骨されることを願っていたようです。
〜鎌倉時代~室町時代の葬儀(1185年~1573年)〜
鎌倉時代になると、浄土宗や浄土真宗といった鎌倉仏教が一般的に普及することとなり、その結果として火葬も広く利用されるようになりました。
しかし、火葬が広まったとはいえ火葬場がそうそうあるわけではなく、また火葬技術が未熟なことから遺体を完全焼却することが難しかったため、土葬と火葬の両墓制が長らく続くことになります。また、鎌倉仏教が広まったために、仏教の死生観も一般的に知られることとなりました。こういったことから、本格的な葬儀が一般的に行われるようにもなりました。
室町時代では、応仁の乱以降に寺院の境内に墓地を設ける例が数多くあります。京中寺院における埋葬は相変わらず禁止されていましたが、それ以外の阿弥陀寺や知恩寺に対しては、特例として境内への土葬が許可されました。住人たちの「寺院の本堂近くに墓を立てて追善供養を受けたい」という願いの結果であり、これが現在の寺院墓地の始まりとなっています。
〜江戸時代の葬儀(1603年~1868年)〜
江戸時代の葬儀については、こちらの記事をご覧ください。
https:// www.osohshiki.jp/column/article/021/
〜明治~大正の葬儀(1868年~1926年)〜
明治3年に全ての寺院墓地が国有地となり、明治5年には法律によって自葬祭が禁止されました。これにより、葬儀は全て神主や僧侶によって行われることになったのです。
また、明治初期は仏教の排斥と神道の推奨から火葬禁止令が出され、火葬が行われなくなりました。
しかし、火葬再開を望む声が多かったことに加え、土葬用の土地が枯渇してきたことから、火葬禁止令は2年で撤回されることになりました。その後は衛生的な観点から火葬の有用性を認め、火葬が義務化されるようになりました。また、この頃から欧化のあおりを受け、喪服が白から黒へと変化していきました。
大正時代に入ると霊柩車が庶民の間でも使用されるようになり、輿を使った人力での葬送は徐々に見られなくなっていきました。こういったこともあり、現代の葬儀の原型は大正時代の頃にできたと言えるでしょう。
明治から日本は乗っ取られていると考えると、お葬式の文化も破壊され、侵食されてきたのかもしれない
lb
>>20018238, >>20018240, >>20018506, >>20018715, >>20022985, >>20022993, >>20023036 今の神道は和風キリスト教?神道は日本の伝統ではない可能性
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bb4308 No.7101
>>7100
喪服の色は1000年以上白かった 喪服の色の歴史や黒になった経緯
https://www.sougiya.biz/kiji_detail.php?cid=17
現代の日本の葬儀での服装は、基本的に黒一色になっている。ところが、黒い喪服が日本全体に普及したのはそれほど古い時代のことではない。
千年以上に渡って喪服の色は白かった
「日本書紀」や「隋書(倭国伝)」などの記述を見ると、古代のわが国での葬儀では、故人の親族も参列者も白い喪服を着用するのが通例だったことがわかる。
ちなみに平安時代後期に、宮中の貴族は墨染めの喪服を着用するよう喪葬礼によって定められたことがあるが、これが一般人にまで浸透することはなかった。
つまり千年以上にわたって、日本人には白い喪服こそ主流だったのだ。
喪服の色に白が選ばれた理由とは
古来、東アジアでは、儒教思想から白を清浄・清純な色の象徴として人生の節目に用いてきた。今でも赤ん坊の産着や花嫁衣装、死に装束などに白を使っている。白を新生や再生の象徴として扱う習慣が、まだ生活の一部に残っていることがわかる。
実際に戦前の日本の葬儀では、喪主は白の裃(かみしも)で、女性は白い綿帽子を着用するという方式が広く行われていた。
暑い夏には薄水色の麻の喪服を身につけたり、幼い女児を振り袖で着飾らせるなど、季節への配慮や地方色も豊かに表現され、現代のそれから比べるとかなりヴァリエーションが多かったのも特徴である。
喪服の色が白から黒へと変わったきっかけとは
喪服の色の伝統が大きく変わることになるのは、明治維新で欧米列強の文化に接するようになってきてからのことだ。
明治30年に皇室の葬儀に列席した欧米諸国の賓客たちは、ヨーロッパ王室式の黒い喪服を揃って着用していた。これを見た明治政府首脳部は、日本人の参列者にも黒い喪服をしつらえさせたのである。
このときをきっかけに、華族をはじめとする上流階級の人々の間で、黒を国際標準の喪服の色として認識する気風が広まり、大正期には、宮中参内での喪服は「黒を基調とする」と皇室令に明記されるようになった。
宮中に参内する機会などない一般の人々は、それでもなお葬儀には白い喪服を着用しつづけていた。
一般の人々が黒い喪服を着用するになったきっかけとは
しかし、歴史の流れは日本を第二次大戦の惨禍に巻き込んでいく。戦没者の葬儀が立て続けに執り行われるのが、日常の光景として当たり前のことになってしまっただ。
白い喪服は非常に汚れやすいものだ。連日のように葬儀がある時代には、次第に取り扱いにくい厄介なものとみなされるようになったのは当然のなりゆきだった。やがて葬儀の数がピークに達した大戦集結直後に、大手の喪服専門貸衣装屋が、汚れの目立たない黒の喪服に全ての衣装を統一してしまうという思い切った手段を講じることになる。
日本が連合国の占領下で欧米の影響が強かったこともあり、この「黒い喪服」はまたたく間に広く世間に行き渡っていった。以来、わが国の喪服は黒が基本とされて今に至るわけである。
今でも白い喪服を着る人はいる
実は現代でも白い喪服を着る方はいる。2012年、歌舞伎俳優の中村勘三郎氏の本葬に際して、妻の好江さんが着た喪服は純白のものだった。
「貞女二夫にまみえず」という言葉がある。貞淑な妻は一度添い遂げた夫が死んでも再婚することはないという意味だが、あるいはそんな決意をあらわすために、あえて白い喪服を着用なさったのかもしれない。
わが国では今、葬儀の個性化・自由化が進行しつつある。喪服が黒基調で占められている現状にも、変化の気運が訪れることがあるかもしれない。なぜなら、好江さんのように、喪服もまた、故人への追悼のメッセージのひとつであることは間違いないのだから。
画像はこちらのものをお借りしました
https://kwsklife.com/white-mourningdress/
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bb4308 No.7102
Q Research Japan/Nihon #21より
"神道"という単語に"墓穴へはいる道"という意味がある
https://kotobank.jp/word/神道-82299
④墓穴へはいる道。墓所へ行く道。墓道。墓門。〔塵袋(1264‐88頃)〕 〔後漢書‐中山簡王伝〕
(今まで沢山真相追求研究して残してくれている方々の情報から勉強中ですが、どうやら神道は日本の伝統ではなさそうだというのが今の感想です。日本支配のための手段。神社が多いところは基本的に流刑地と重なるそうで、流刑地では仏教以外の崇拝儀礼が許されたのでそれに頼った形で現在の神社という嘘は出来上がっていると。Ummmm 日本の伝統だと言われているもの全てを見直す必要があるかもしれない )
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bb4308 No.7103
Q Research Japan/Nihon #21より
八幡神社というものが全国にある意味
征夷大将軍←宇佐八幡←源氏・・・・じつはその上があって、大江→周防の海(宇佐八幡もここに含まれる)、で、実はその海支配=倭寇=八幡(海賊そのものをあらわす=海賊旗)、これがロックフェラー陣営と言うか、神社全庁の起源でもあるわけ。
午後7:02 · 2011年10月28日
https://twitter.com/mkmogura/status/129860647054876672#m
豊橋駅に到着。「ええじゃないか」の祭やってる。そう。明治維新前に「外国資本のための尊皇攘夷」という変な話のためのあの大衆陽動。ここの朝鮮海賊=八幡が発症の地。でっちあげ神道を国教にするためであり、東国進出、天皇すり替えにつながる話。秋葉原はここや静岡の秋葉神社とのつながりね。
午後7:53 · 2012年10月20日
https://twitter.com/mkmogura/status/259608317855408128#m
倭寇
https://ja.wikipedia.org/wiki/倭寇
https://en.wikipedia.org/wiki/Wokou
倭寇(わこう)とは、一般的には13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した日本の海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人に対する中国・朝鮮側での蔑称[1]。和寇と表記される場合もある。また海乱鬼(かいらぎ)[要出典]、八幡(ばはん)とも呼ばれる。
概要
倭寇の歴史は大きく見た時に前期倭寇(14世紀前後)と、過渡期を経た後期倭寇(16世紀)の二つに分けられる[2]。また、15世紀、室町時代の武将少弐嘉頼は大内持世と戦う中で高麗盗人(倭寇の国内蔑称)を行っていた[3]。
前期倭寇は主に北部九州を本拠とした日本人で一部が高麗人であり、主として朝鮮沿岸を活動の舞台として中国沿岸(登州、膠州など黄海沿岸)にも及んだが、李氏朝鮮の対馬を中心とする統制貿易、日明勘合貿易の発展とともに消滅した[1]。高麗王朝の滅亡を早めた一因ともいわれる[1]。
後期倭寇は明の海禁政策による懲罰を避けるためマラッカ、シャム、パタニなどに移住した中国人(浙江省、福建省出身者)が多数派で一部に日本人(対馬、壱岐、松浦、五島、薩摩など九州沿岸の出身者)をはじめポルトガル人など諸民族を含んでいたと推測されているが[4]、複数の学説がある。主として東シナ海、南洋方面を活動舞台にしていたが、明の海防の強化と、日本国内を統一した豊臣秀吉の海賊停止令で姿を消した[1]。
八幡船
日本の室町時代から江戸時代にかけての海賊船は通称して「八幡(やわた)船」と呼ばれた。倭寇が「八幡(はちまん)大菩薩」の幟を好んで用いたのが語源とされるが、「ばはん」には海賊行為一般を指すとも考えられている。
幡
https://kotobank.jp/word/幡-117810
旗。のぼりの意味がある
↓(こういう記事などで、日本の伝統だと洗脳されていくのか……)
日本一多い!八幡神社にまつられる「八幡さま」は、どんな神さま?
https://tenki.jp/suppl/grapefruit_j02/2020/09/17/29979.html
抜粋:
・神社本庁の「全国神社祭祀祭礼総合調査」によると、八幡神社や八幡宮、若宮神社などの八幡信仰に関わるものが最も多く、その次が伊勢信仰(神明社、神明宮、皇大神社、伊勢神宮)、3番目が天神信仰(天満宮、天神社、北野神社)、次いで、稲荷信仰(稲荷神社、宇賀神社、稲荷社)という結果になっています。
・八幡さまは、土着神であり天皇の化身でもある
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bb4308 No.7269
Q Research Japan/Nihon #21より
在日特権が存在する理由
明治維新で天皇すり替えや国教すり替えが行われ、南朝側の天皇となり国家神道が設立され、その見返りとして北朝側に与えているのが在日特権らしい…(ネット上で掲載されていた考察)
だから在日利権だけを叩くのではなく、天皇すり替えが行われたこともセットで批判しないとこの問題は解決しないということ。北朝側と南朝側で利権争いで叩き合っているのが現状か?
もちろんこんなことがオープンソースに書かれている訳がないので、捏造されまくりだと思うけど、出ている情報で繋がりそうな点を集めてみる。歴史に詳しいアノンがいたら有り難いのですが….
※念の為お伝えしますが、在日の人全てを批判したいのではなく、その利権を貪っている一部の人たちやそのシステムに焦点を当てたいです。この件に限らずですが、国 vs 国 や人種 vs 人種ではなく、思想が問題だと考えます
在日特権
https://ja.wikipedia.org/wiki/在日特権
在日特権(ざいにちとっけん、朝鮮語: 재일특권)とは、右派系・保守系言論者やメディアが「特別永住権を持つ在日韓国・朝鮮人」、朝鮮総連や在日本朝鮮商工連合会など朝鮮総連関連団体への優遇設置や制度を批判する際に使用している言葉である[1][2][3]。
特例的な永住権を持つ在日外国人は、「通常の永住権やその他の在留資格で日本に居住する一般外国人」には無い優遇措置や特例措置が右派系・保守系から不公平なものとして批判対象となることが多い。例として、朝鮮総連関連組織の関わる税金特権[3]、通常の韓国籍などその他の外国籍者が日本で刑事罰を受けた場合は出所後に国外退去に処されるのに対して、特別永住権者は事実上退去処分が免除されていることがあげられる[1][2]。
他には、特権と批判されたものとして、一部の地域で行われていた特別永住者に対する住民税半額化[4]、安易な通名変更許可[5][6]、朝鮮商工連による「5項目の『合意事項』」[3]、朝鮮総連施設などの固定資産税の免税措置(朝鮮総連関連施設地方税減免措置問題)や朝鮮学校の用地使用に関する無償もしくは格安貸与など一部は、メディア報道されて社会問題化後に是正されたり、その後「違法」判決が出て改善されたものもある[1][7][3]。
一方、こうした「在日特権」という呼称で批判対象となる状況に対しては、 「特権」ではなく「様々な歴史的経緯や社会的差別からくる貧困の事情を踏まえた救済設置」「アファーマティブ・アクション(積極的格差是正措置)」「できるだけ安定した地位を与えようと日本政府による措置」であるという反論がなされ[8][9]、野間易通は、右派系・保守系の批判は在日韓国・朝鮮人に対する「ヘイト」「嫌韓」に当たり、特に「在特会」のヘイトスピーチを含んだ抗議活動などは憎悪煽動であると批判した[10]。共同通信は、「在日特権」の言説はレイシズムを助長するとの懸念を示した[11]。
一部地域住民や民族組織関係者に対する税減免
民族団体を通じた徴税
在日韓国・朝鮮人の自営業者を対象に、在日韓国・朝鮮人の民族団体である在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)を通じて行われてきた事例を挙げる。在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)傘下のパチンコ、不動産、金融、飲食業など自営業者が加盟していた在日本朝鮮商工連合会(旧・在日本朝鮮人商工連合会)は、「昭和51年(1976年)に国税庁との間で合意を行い団体交渉権を成立させた。朝鮮総連や朝鮮商工連は在日朝鮮人の納税について、「課税権は本来、共和国(北朝鮮)にあるが、日本の法律に従って日本当局に納税しているだけ」「植民地支配という歴史的事情を無視して日本の税法を機械的に適用すべきではない」と主張し、合意させた。平成3年に朝鮮総連が発行した「朝鮮総連」には、朝鮮商工連と国税庁の「5項目の合意事項」と呼ばれる合意内容が記載されている。これは、後に産経新聞から「納税に関する在日特権」とされている[3]。大阪市では市内で行われてきた朝鮮総連の関連施設の諸税が減免されてきたが、2012年に減免に対する是正措置で廃止された。朝鮮総連は「長い間減免してきたのに、合理的な理由もなく突然取り消した」と提訴したが、2018年に大阪地方裁判所は大阪市による是正措置を「本来の納税義務の復活」と支持して提訴を棄却している[12][13]。架空を含む在外外国人被扶養者らの存在による在日外国人扶養者らへの所得税減免制度には悪用がある。これは特別永住権者だけでなく、在外外国人扶養者を申請した者らも可能である。2015年に親族扶養関係者の公的な資料提出の義務化で手続きが複雑化はされたものの、申請で扶養者の所得税から被扶養者の人数分免税する仕組みは残っている。元警察官で“通訳捜査官”を自称する坂東忠信は、地方自治体にとって現地語で書かれた文書が本物であるか判別困難で審査が有効に機能していないこと、「公的な資料」という意味では本物であっても書いてある内容が虚偽であった事案を複数取り扱ったことも現役時代にあると述べている。会計検査院が外国人被扶養者のいる扶養者を調査対象にしたところ、年間300万以上も扶養控除を受けている者の扶養家族の平均は10.2人で、最大26人分も扶養控除されているケースもあった。調査対象の6割が扶養控除により、実質所得税を払っていなかった[14]。[疑問点 – ノート]
朝鮮商工連が一般納税者には許していない徴税に対する団体交渉権が成立した「合意」を根拠に、確定申告や税務調査への対応は個人で行わずに、「朝鮮商工連傘下の商工会」を窓口にするように在日朝鮮人らに呼びかけていた。アメリカ政府で国家経済会議専門エコノミストを務めていたマーカス・ノーランドは1995年調査報告書で「朝鮮総連関係の企業が日本の国税庁から特別の優遇措置を黙認されていることを日本政府関係者も非公式に認めている」と記述している[3]。
在日本朝鮮商工連合会に対する所得税・法人税・固定資産税の減免関連
1998年11月29日、産経新聞は在日本朝鮮商工連合会と国税庁による『合意事項』を報じた。これは1991年に朝鮮総連が発行した便覧「朝鮮総連」に掲載されていたもので、以下の5項目から成るため「五箇条の御誓文」の俗称がある。
朝鮮商工人のすべての税金問題は、朝鮮商工会と協議して解決する
定期、定額の商工団体の会費は損金(経費)として認める
学校運営の負担金に対しては前向きに解決する
経済活動のための第三国旅行の費用は、損金として認める
裁判中の諸案件は協議して解決する
この合意は1976年8月6日に、日本社会党の高沢寅男衆院議員(後の党副委員長)の仲介によって実現し、この合意を根拠に朝鮮商工連は一般納税者には認められていない団体交渉権が成立したとして、朝鮮総連傘下の商工業者に対して確定申告や税務調査への対応は原則として個人で行わず、朝鮮商工連傘下の商工会を窓口にするよう呼びかけてきた[15]。
『嫌韓流の真実!ザ・在日特権 朝鮮人タブーのルーツから、民族団体の圧力事件、在日文化人の世渡りまで!』によれば、裏づけとして、朝鮮商工会の発行する「商工新聞」の主張で朝鮮商工会と国税当局との間で税金に関する「合意」があるとしており、また、1991年2月に朝鮮総連が発行した朝鮮語冊子「朝鮮総聯」の中で「総聯は日本当局の不当な税務攻勢を是正させ、税金問題を公正に解決するために粘り強く闘争した。この努力の結果として、1976年に在日朝鮮人商工連合会と日本国税庁の間で税金問題解決に関する5項目の<合意>が成立した。その基本内容は、在日朝鮮商工人の税金問題はすべて朝鮮商工会と日本税務当局との合意によって公正に処理するというものである」と記されている[16][17]。
なお、2007年ごろから朝鮮商工会関係者がたびたび税理士法違反で逮捕されている[17][18][19][20][21]。2014年には、商工会幹部から京都・祇園での飲食や韓国旅行などの接待を受けていた国税調査官が税務調査の日程を事前に漏らしたとして、国家公務員法(守秘義務)違反容疑で逮捕された[17]。
2012年まで大阪市による朝鮮総連に関連する施設への固定資産税など税金の減免がなされてきた。しかし、同年に大阪市の監査委員が「減免は裁量権の逸脱」と勧告し、大阪市は翌2013年度から朝鮮総連関連施設への減免措置を廃止して、2009~2012年度分だけを課税した。しかし、朝鮮総連は減免取り消しを不服として提訴した。2018年に大阪地方裁判所は朝鮮総連を「在日朝鮮人の一部のみに支持される政治的な性格が強い団体で、施設は在日外国人のための公民館的施設とは言えない」とし、棄却したことで大阪市側の主張が支持された[12]。
一部の地域における住民税半減
三重県伊賀市では1960年代後半に旧上野市(現伊賀市)と地元の民団や朝鮮総連との交渉で、条例を制定しないまま在日韓国人・朝鮮人の住民税の納付額を半減する措置を始め、2006年まで継続してきた[22]。
1980年代以前は、両団体支部を通じた在日韓国人らが窓口に来た際、一般職員ではなく係長級職員が直接受け付け、減額を行っていた。当時は自身らが戦勝国民であるという理由や、日本人と同じ権利が得られないことへの不満から税金の支払いを拒絶する者も多く、徴収が難しかったという事情があり、半額でも徴収したいとの上野市(現伊賀市)側の思惑もあったとされる。本件は伊賀市内の元在日韓国人の医師が日本に帰化するのに伴い住民税が本来の額に上がるため相談を持ち掛け、これに応じた伊賀市の元総務部長が半分のままでいいから自分に渡すよう促し、更には、受け取ったまま納付せずに着服していたことで発覚したが、2002年から2004年3月までの間に、上記の元在日韓国人が住民税として元総務部長に支払った額が約1800万円であり[23]、いわゆる高所得者であったことと、帰化することで減税の権利がなくなること(減税の可否が在日コリアンか日本人かという属性のみで判断されていたこと)から、週刊誌やマスコミでも在日側を非難する論調で取り上げられた。勝谷誠彦は「典型的な免除利権」と批判した。発覚した時点で伊賀市に居住していた在日コリアン400人のうち、企業に就職して源泉徴収を受けていた者を除く50人程度がこの制度を利用して減税を受けていたことが判明している[24]。
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>>7269
特別永住者への措置内容・他の在留資格者との比較
一般永住者・一般韓国人との比較
特別永住永住者には、在留資格、再入国可能期間、みなし期間の年数、再入国時の上陸拒否の可否、強制退去の要件、上陸審査における個人識別情報の提供義務の有無、在留カードなどの身分証明書の常時携帯義務の有無など特例措置がある。一般永住者に対する永住許可要件にはある「素行善良」と「独立生計」が特別永住者には免除されている。特別永住永住者への強制退去も、「内乱罪、外患誘致罪など国益を著しく棄損する行為」に限定されており、無期または7年超の懲役・禁固を受けた場合の強制退去も、「日本の重大な利益を害する場合」に限られる[14]。
「特別永住制度」には見直し論と共に、韓国政府による冷遇がある。2015年11月17日には韓国人と結婚して韓国に住む特別永住者にさえも保育料支援支給対象外としていることから、韓国政府を訴えた。難民にもその他の在韓外国人にも支給されるのだが、特例永住者の韓国人は対象外となっている[14]。
特別永住者の数・内訳
詳細は「特別永住者」を参照
日本への帰化の影響により、特別永住者数は減少傾向にある。在日韓国人が運営する東洋経済日報社によると、特別永住者の減少は死去数より帰化数が増えたためであり、在日韓国・朝鮮人の日本への帰化は1980年代まで年平均3000-5000人だったが、1990年代から増加し、1995年に一年に帰化数が初の1万人を突破した。その後の在日韓国・朝鮮人の帰化者は減少傾向にあり2010年代は5000人から4000人であった[25][26]。2022年末時点、特別永住者の総数は28万8980人、国籍の内訳(韓国・朝鮮28万5459人、台湾1054人、アメリカ854人、中国713人、その他)[27]である。
元々、平和条約国籍離脱者が韓国・朝鮮人、台湾人のみであったため、「平和条約国籍離脱者」及び「平和条約国籍離脱者の子孫」である特別永住者にも、その3国籍が多い。両親の国籍が日本以外の別々の国である場合、成人した子供が韓国・朝鮮、台湾以外の方の国籍を選択することがある。そのことにかかわらず、両親の一方が特別永住者であった場合、特別永住許可を申請できる。
この特別永住許可を得る資格は特別永住者とその子孫に対して血筋のみで継承されるものであり、一般永住者やその子孫が新規に特別永住許可を申請することは不可能である。
特別永住者に対する他の在留資格との比較・各種措置・免除
特別永住者には以下のような措置がある。ただし、在留資格の種類によって、特別永住以外の外国籍者にも同じ措置がされているものも含まれる。(ここで、一般永住者、特別永住者、日本人の配偶者等、永住者の配偶者等の外国人の日本定住者を「定住外国人」と呼ぶ)。
在留期限がなく、在留期間を更新する必要がない(特別永住者、永住者、高度専門職2号)[28]。
一部公務員を除き、職業の制限がない(定住外国人)。
生活保護の申請資格がある(定住外国人)。
「平和条約国籍離脱者の子孫」、すなわち特別永住者の子孫は特別永住許可を申請できる。
再入国許可の期限が、3年の場合は4年、4年の場合は5年に延長される。
「特別永住者証明書」の常時携帯義務が特別永住者にはない[29]。
日本への入国する場合、指紋及び顔写真審査の免除(他の在留資格で同様な措置対象は、16歳未満の外国籍、「外交」または「公用」の在留資格者、国の行政機関の長が招聘した者、「外交」「公用」「長の招聘者」に準ずる者)
ただし再入国を前提とした自動化ゲートを使用する場合には日本人と同様にパスポートと指紋の審査がある[30][31][32]
国外退去要件の限定
特別永住者に対する、国外退去強制は以下の場合のみであり、他の在留資格は刑事罰を受けたら強制退去処分になるのと比べて、一律に適応されるのは外患誘致罪レベルの人物のみという非常に限定的である。「7年越えの判決を受けた凶悪な特別永住者」には一律ではなく、「法務大臣の認定」も必要としており、適応例は非常に少ない。凶悪犯罪者として知られる金嬉老は日本政府・司法による強制退去処分ではなく、韓国政府の支援表明や韓国国内の自身を英雄視する世論に惹かれて自主的に帰国したケースである[2]。彼は無期懲役判決を受けた後、1999年9月に日本で仮釈放されると韓国へ居を移した[33]。
内乱に関する罪、外患に関する罪、国交に関する罪、外国の元首、外交使節又はその公館に対しての犯罪により禁錮以上の刑に処せられた者。
外交使節又はその公館に対する犯罪行為により禁錮以上の刑に処せられた者で、法務大臣においてその犯罪行為により日本国の外交上の重大な利益が害されたと認定したもの。
それ以外の罪で無期又は7年を超える懲役又は禁錮に処せられた者で、法務大臣においてその犯罪行為により日本国の重大な利益が害されたと認定したもの。
日本国籍を持たないものが日本で就職する場合は、雇用対策法により在留カードを企業へ提出し、企業はそれをハローワークへ届け出なければならない。しかし特別永住者と、在留資格「外交」(つまり外交官)、「公用」(母国政府の命により滞在し任務を遂行している)の外国人だけは提出義務がなく除外されている[34][35]。クローズアップ現代によると、法務省は特別永住者について「歴史的経緯などを考慮して認められた在留資格であり特権ではない」としている[36]。
特別永住者の他にも、旧満州などに移住した日本人の子孫である中国残留孤児の2世・3世についても同様の論議がなされることがある。逮捕・摘発されても父母ともに日本人であるために強制送還はされない。また、本人が日本国籍を保有している場合もある。他の外国人マフィアが逮捕と強制送還で次々と壊滅に追い込まれていく中、怒羅権など中国残留孤児の2世・3世を中心とした反社会的勢力が日本国内で勢力を拡大しているとされることもある[37]。
外国人の日本からの退去強制は「薬物犯罪で有罪となったもの、売春や不法入国に関与したもの、そのほか無期又は1年を超える懲役若しくは禁錮に処せられた者」など要件がある(出入国管理及び難民認定法(以下「入管法」)第24条)。ただし一般永住者(とその配偶者)、特別永住者(とその配偶者)、日本人の配偶者と子・特別養子の外国人、定住外国人については必ずしもその限りではない。また、特別永住者は、「内乱罪、外患誘致罪、外患援助罪、または無期または7年を超える懲役又は禁錮に処せられ、かつ法務大臣が日本の重大な利益が損ねられたと認定した場合等」に要件が限定され(日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法(以下「特例法」)第22条)、極めて手厚くその地位が保障されており[38][39]、特例法の規定により退去強制となった特別永住者は報告されていない。一方、金嬉老や許永中のように本人の希望により特別永住許可を失うことになっても韓国に帰国することを選択する者もいる。
日韓基本条約締結の結果として、1966年から特別永住制度に移行する1991年年初まで韓国籍保有者のみに許可された協定永住者の退去強制事由(日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定の実施に伴う出入国管理特別法(以下「特別法」)第6条)は、その後移行した特別永住者よりも厳しく、営利の目的をもって麻薬及び向精神薬取締法等に違反して無期又は三年以上の懲役又は禁錮に処せられた者(執行猶予者は除く)、あるいは、三回以上刑に処せられた者や日本国の法令に違反して無期又は七年をこえる懲役又は禁錮に処せられた者も対象となっていた。また、協定永住を選択しなかった在日韓国・朝鮮人など(主に韓国籍以外の朝鮮籍平和条約国籍離脱者とその子孫で1991年から特別永住許可に移行)で永住許可を持たなかった者に1981年から許可された特例永住者(入管法附則第7項(昭和56年法律第85号))であった場合は一般の永住者などと同様に入管法に従い退去強制手続きがとられた。
退去の統計
協定永住者らの退去強制に関する統計が作られた1978年(昭和53年)から1990年(平成3年)末までに、退去強制手続の対象になった協定永住韓国人は85人であり、この内、在留特別許可の対象になった者が55人で残りの30人に退去強制令書が発付された[40]。特別法第6条により実際に送還された者は19人、別途入管法第24条によるものが16人であった。1990年末までの5年間に退去強制となった協定永住者は2人、特例永住者は1人であり、殺人罪により懲役15年となった者が1人、覚醒剤取締法違反の再犯による者が2人であったが、これらと同等の条件では特別永住者は退去強制とはならない[40]。
また、協定永住者で退去強制になった者は通算19人、1990年末までの10年間に韓国・朝鮮籍協定永住者、特例永住者で退去強制になったのは16人(特別法8人、入管法8人)で、1981年に12人(特別法5人、入管法7人)、1985年に1人(特別法)、1986年に1人(特別法)、1987年に1人(特別法)、1988年に1人(入管法)であった[39]。
一方、1970年代後半、日本で犯罪を犯した在日韓国人20人を韓国に強制退去させようとしたが、韓国政府は受け入れを拒否した[41][42]。 法務省入国管理局によれば、1978年、初めて韓国・朝鮮籍2人が退去強制により送還され、その後1988年までにさらに17人が送還されたとの記録がある。国交のない北朝鮮への送還は考えにくく、韓国に送還されていた可能性が高いという[41]。
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>>7270
入国時の指紋押捺と顔写真提出の免除
現在16歳以上の外国人を対象として、日本に入国する外国人は一般永住者、日本に生まれ育った人、中国残留孤児、日系南米人も含め全員指紋の押捺と顔写真の提出が義務づけられているが、特別永住者は、「外国籍生徒、「外交」又は「公用」の在留資格に該当する活動を行おうとする者、国の行政機関の長が招へいする者」と共に、これらの義務が免除されている[43]。
兵役免除
「在外国民2世」の在日韓国人には、韓国国内で就職や起業など営利活動や長期間滞在しても兵役義務免除対象となっている。しかし、永住目的帰国や、韓国住民登録した韓国滞在の場合には兵役義務対象となる[44]。「在外国民2世」制度があり満6歳以前に出国したもの、韓国国外で出生したもの、満17歳まで韓国以外の国で暮らし国籍または永住権を取得したもの、韓国国内の小中高の学歴が3年以内のものは兵役が免除される。この制度は2012年に兵役法が改正され1994年1月1日以降に生まれた在外韓国国民が18歳から37歳までの期間に通算3年以上韓国に滞在する、7歳から17歳の期間に通算90日韓国に滞在した場合は、在外国2世とみなされず兵役の義務が生じると改められた。韓国国内の若者の間では、経済不況を背景に、この制度における兵役免除の適用対象である在日韓国人が特権を持っているとする見方がある[45]。北朝鮮では、平時には在外国民も外国帰還者の子女も、兵役の徴集から除外される[46]。[独自研究?]
刑法関連
特別永住者#退去強制を参照
特別永住者は国外退去となる条件が他の在留資格よりも制限されている。無期又は7年を超える懲役又は禁錮に処せられ、かつ法務大臣が日本の重大な利益が損ねられたと認定した場合である。
「在日」の立場を利用した警察や事件被害者に対する圧力行為
朝日新聞記者の金漢一は、自著「朝鮮高校の青春 ボクたちが暴力的だったわけ」の中で、朝鮮学校在籍中に集団で日本人に対する暴行、傷害や強盗などの犯罪を繰り返し、中には勤め人の月給袋ごと強奪するといった高額の強盗に及ぶ者すらいたが、警察に捕まっても呼び出された教師と一緒に「我々朝鮮人を強制連行した日本政府が悪いんだ」と話を政治問題にすり替えると、警察官は黙りこくってしまいお目こぼしをされていたと主張している[47]。
通名・法的拘力のある通称
「通名」も参照
一般に通名とは外国人が日本国内で使用する法的効力のある通称名を指し、日本人が使用する一般の通称(ペンネームや芸名、既婚者の旧姓使用)と異なり、契約書など民間の法的文書のほか公的手続きにも使用できる。本名と通名とで法的効力のある名前を二つ持つことが可能になる。(日本人は本名以外に法的効力を持つ別名を所持することは不可能で、通称で法的文書を作成した場合、詐欺罪や文書偽造罪などに問われる場合がある。)法的効力を持つ通称名は外国人であれば登録を条件に持つことが出来るため在日韓国・朝鮮人のみが持っている権利ではないが、2013年度の民団の調査によると、在日韓国人が日本人の職場や取引先で、通名のみを使用している者は70.9%なのに対して、本名のみは17.8%であった[48]。
通名変更容易時代における制度不正使用
2013年に変更を制限する通達がなされるまで、外国人登録証の通名変更が容易であった[49]。
そのため2000年9月には、これを悪用して名前の違う健康保険証約30枚を取得し、大量の携帯電話を購入して売りさばいたとして在日韓国人の男性が検挙されている[50]。2013年11月にも、多数の通名を悪用して約160台のスマートフォンやタブレットなどの端末を詐取し、古物商へ転売したとして在日韓国人の男が組織的犯罪処罰法違反(隠匿)と詐欺容疑で逮捕された[51]。頻繁な通称変更を不審に思った区役所の届け出を受けた捜査で発覚した[52]。組織的犯罪処罰法の隠匿容疑は暴力団やテロ組織などが犯罪による収益を隠匿した場合などに適用される。
片山さつきは、「戦後生まれの人は、通名を持つ意味は少ない。日本名を名乗りたければ帰化すればいい。」と通名制度の見直しを求めている。[53]通名制度を是正することで、通名を隠れ蓑にした外国人の政治献金の防止ができることや、通名で日本人として潜伏している中国人が中国政府の指示で蜂起する危険性など安全保障上の問題点も指摘している[5][54]。
在日韓国・朝鮮人は、民族系金融機関である商銀信用組合(商銀)や朝銀信用組合(朝銀)を営業しており、これらの金融機関では通名や借名、偽名を使った口座が多数作られ、不正に利用されていた。信用組合関西興銀の背任事件に関連し、当時会長であった李煕健が、関西興銀破綻直前から関西興銀や都銀に持っていた「李煕健」名義や通名の「平田義夫」名義で開設していた口座から預金を引き出し、同じく当時会長を務めていた新韓銀行に入金、約30億円を韓国に送金していた。個人資産の差し押さえを免れるための資産隠しが目的であったとされる[55]。なお李熙健は懲役後も新韓銀行の名誉会長や在日本大韓民国民団(民団)の常任顧問[56]の地位に留まっていた。また新韓銀行では2010年の内紛事態に際し、在日韓国人の借名口座が問題になった[57][58]。在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)系の朝銀でも1990年代末からの破綻に関連し、多数の仮名・架空口座が作られ北朝鮮への送金や日本の政界工作資金として利用されていたことが発覚した[59][60]。2006年には、朝銀東京に架空名義で口座を開設し脱税資金を預金していたパチンコ店経営の在日韓国・朝鮮人の男性に対し、脱税の時効が成立した資金41億8千万円を公的資金で穴埋めする判決を最高裁判所が下した[61]。このように、通名の変更しやすさと、借名・仮名・架空口座を受け入れる民族系金融機関が組み合わさることが脱税や不正送金など犯罪の温床となってきた。一方、民族系金融機関での日本人によるこのような口座の開設については、在日社会と縁の深い暴力団などのみ可能であったとされている[62]。
変更を厳格化させた2013年の事件とは、通名を6回変更し、ケータイ電話を転売していたた韓国籍を逮捕したケータイ転売事件であった。これを受けて、総務省は11月15日に「外国人が通名を記載する際には要件を厳格にした上で、原則として変更を許さない」と通名の原則変更禁止が明確化した。男は、「同じ通称の人間が悪いことをした」「音楽活動をしている。業界に同じ名前がいる」などと嘘の申出で通名を変更していた[6]。
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bb4308 No.7272
>>7271
入管法等変更後の証明書携帯義務免除
2009年に政令で施行された、入管法や住民基本台帳法を一部改正した「新たな在留管理制度」では、外国人登録証は廃止され、特別永住者については通称名(通名)記載のない特別永住者証明書が新たに交付されると同時に、外国人住民票登録が開始され、通称名が氏名欄に括弧書きで記載される[63]。特別永住者証明書は携帯義務はない[64]。
犯罪事件の報道
犯罪報道で、容疑者が在日コリアンや中国籍の場合、本名を出さず通名のみを用いる報道機関も存在する。例えば、朝日新聞は容疑者名の報道で通名と本名のどちらを使用するかは事件ごとに選択している[65][66][67]。
在特会の会長である桜井誠は、このような通名報道を在日特権だと主張している。
日本人やほかの外国人の犯罪者であれば、法によって裁きを受けるだけでなく、メディアの報道によって犯罪事実を広く世間に公表されることで、社会的制裁を受けることになります。しかし、朝日新聞などの一部のメディアは、在日韓国朝鮮人による犯罪だけは国籍と本名を隠して通名で報道して、社会的制裁を特別に免除させているのです。(桜井誠の著書「日本第一党宣言」より引用。)[要ページ番号]
これに対して野間易通は自著の中で、本人がふだん通名で生活をしている場合、新聞に本名の民族名が載るよりも、通名が載るほうが社会的ダメージが大きいはずだと反論している[68]。
警察庁の通訳であった坂東忠信は、「中国人犯罪への報道について言論弾圧としか言えない状況が出ている」「中国人の犯罪とわかっていても、せいぜいアジア系外国人としか報道されない。これは異常である」と主張している[69]。
崔碩栄は凶悪事件が起きると根拠もなく「犯人は韓国人では?」と疑う者が出てくるのはメディアが通名報道を続けてきたことに原因があると指摘したうえで、最初から実名報道をしていればこういった事態は防げていたはずだと主張している[70]。
2017年、新潟県長岡市で19歳の中国人少年が日本人義父を殺害した事件で、共同通信社は犯人が中国籍であることを伏せて報道した[71]。一部のメディアのみ犯人の国籍を報道した[72][73]。
2017年、長野県御代田町で女性が面識のない無職の中国籍の男に殺害された事件[74]では、朝日新聞は、犯人の本名を伏せて通名のみの報道を行った[75]。
2017年、過去4番目の量となる大量の覚醒剤が茨城県で押収された事件では、日本人・オランダ人・中国人が逮捕され、日本人とオランダ人は名前が報道されたが、中国人二人の容疑者は名前を出されなかった[76][77][78]。犯人を単に外国人としただけで国籍すら報道しないメディアもあった[79][80]。
センター試験外国語科目における「韓国語」
宮島理によると、2002年度から2006年度までの大学入試センター試験の外国語筆記試験の平均点は、中国語と韓国語が英語より20点程高かった[81]。宮島は、センター試験では同じ科目間で20点以上の平均点差が生じた場合、得点調整が行われるが、外国語科目は得点調整の対象外となっていることを挙げ、英語以外の選択肢を持つことが困難な多くの日本人受験者がこの事実を知れば複雑な感情を抱くに違いないと述べた[82]。
これに対し文部科学省は英語以外の言語で受験するものは在留外国人、留学経験者といったネイティブ中心であること、受験者の差が大きすぎることから難易度調整は不可能であると説明した[83]。
社会保障
在日外国人高齢者(障害者)福祉給付金
在日障害者無年金訴訟において、最高裁で在日側の敗訴が確定した後、各地方自治体に福祉給付金(呼び名は各地で異なる)を要求した。これは国民年金が発足した1961年(昭和36年)当時、既に高齢等であったため加入要件を満たすことのできなかった日本人高齢者に対して支給された老齢福祉年金や障害基礎年金に相当する措置を、国民年金の国籍条項撤廃(1982年)後、経過措置が認められた1986年に、「既に60歳を越えていて加入要件を満たせなかった居住外国人」に対しても採るよう各自治体に求めたものである。日本人の老齢福祉年金のケースとほぼ同額の月額5000円~3万数千円(兵庫県神戸市の場合)の支給額を決定し、要件を満たす申請者に対して支給している[84]。
この福祉給付金は老齢福祉年金と同様に国民年金に加入できなかった外国人居住者が対象であり、特別永住者に固有のものではない。加入可能であった外国籍貧困高齢者には生活保護が支給されている例が多い(#生活保護受給参照)。
支給対象者は主に以下の要件を全て満たす者である(細かくは自治体によって異なる)。
1926年(大正15年)4月1日以前に生まれている。
1982年(昭和57年)1月1日前から日本国内で外国人登録を行っている。
1982年1月1日以前から重度心身障害者であった者(障害者福祉給付金の場合)。
生活保護を受けていない。
公的年金を受給していない。
前年中の所得が基準額(自治体によって額は異なる)以下である。
(なお高齢者福祉給付金と障害者福祉給付金の同時支給は出来ない。)
生活保護受給・受給率
2020年度の厚生労働省「 被保護者調査」によれば、世帯主が日本国籍者の総世帯数は5447万1321世帯[85][86]のうち被保護世帯数は157万1226世帯[87][88]で生活保護の受給率が2.88%なのに対して、朝鮮籍・韓国籍の総世帯数20万549世帯のうち被保護世帯数は2万8966世帯で受給率は14.44%となっており、日本人世帯の約5倍の受給率となっている。国籍別で見ても在日フィリピン人世帯2.96%、在日ブラジル人世帯0.09%、在日中国人世帯1.6%に比べて高い水準となっている[89][90]。
1950年に制定された生活保護法は、対象を「生活に困窮する国民」としており、最高裁第二小法廷も2014年7月に「外国人は生活保護法に基づく生活保護の受給権を有しない」と判断したにも関わらず[91]、4万を越える外国籍世帯が受給をしているのは、厚生省社会局長名で1954年5月に出された『生活に困窮する外国人に対する生活保護の措置について』という通達で、1951年のサンフランシスコ講和条約によって日本国籍を失った韓国・朝鮮籍で生活に苦しい人々を、人道的かつ治安上の観点から“当分の間”保護したことが理由である。
片山さつきは、この当分の措置が日韓国交正常化以降50年続いていることに疑問を呈した上で、韓国では『韓国国民と結婚(離婚、死別も含む)、かつ韓国国籍の未成年を養育している(妊娠中も含む[92])』場合だけ外国人に基礎生活保障を認めていることを挙げ、国際化の中で相互主義の観点から外れていると述べている[93]。
不正受給が判明した例
2014年1月15日、韓国籍の男性が交通事故で1100万円を受け取っていたが、それを申告せずに生活保護費計約470万円を不正に受給した疑いで逮捕された。男性は高級車ポルシェも所持していた。
2013年5月には東京新宿区歌舞伎町で韓国人クラブを経営しており、1億円近い年商のあった韓国籍の女性が格安の都営住宅に住みながら生活保護費を騙し取っていた疑いで逮捕されている。
外国人に生活保護を支給する条件として、永住者、定住者、日本人配偶者がいるなど入管難民法上の在留資格があれば受給する資格があり、通常は日本人となんら変わらない審査をしている。ただし、申請者が日本人ならば親や親せきなどに生活を援助できる人がいないかどうか調査をするが、外国籍の場合は戸籍を辿るのが困難な場合があり、審査が甘くなる原因になっていると指摘されている[94]。
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bb4308 No.7273
>>7272
朝鮮総連関連施設に対する税減免や低額・無償貸与
朝鮮総連関連施設に対する固定資産税の減免
各地方自治体の朝鮮総連関連施設に対する税減免措置に対して、これを違法と訴える訴訟が各地で起き[95]、最終的に最高裁の「朝鮮総連関連施設には公益性がなく税減免は違法」とする判決が下り、2015年度に初めて朝鮮総連関連施設が存在するすべての自治体において税減免がなくなり通常課税となった(朝鮮総連関連施設地方税減免措置問題)。
また、一部の在日本大韓民国民団の関連施設に対しても同様に訴訟が起こされ、「民団施設には公益性がなく税減免措置は違法」とする判決が下っている。
朝鮮学校用地の低額・無償貸与
兵庫県尼崎市は、学校法人兵庫朝鮮学園に対し、尼崎朝鮮初中級学校の用地として、市有地7850平方メートルを年間約28万円(市が算定した標準賃料約2900万円の約100分の1)で賃貸していた。1966年、在日朝鮮人が通う尼崎市立小学校の分校を兵庫朝鮮学園が引き継ぐ形で運営を始めた際、坪当たり1か月10円で市が学園に土地を賃貸することで合意し、その後40年以上継続していた。2011年になって「他の市有地賃料と均衡が取れない」と指摘を受けた同市は、契約を更新し2025年まで年間約260万円で貸す契約となった[96]。市の関係者は「(在日朝鮮人に対する)補助金的な意味合いもあったのかもしれない」としているが、理由については明確でないとしている。「救う会兵庫」の代表者は「理由もなく格安の賃料で貸し続けていることは『優遇』といわれても仕方がない」と批判した[7]。
兵庫県伊丹市が兵庫朝鮮学園に対し、伊丹朝鮮初級学校の用地として市有地約4150平方メートルを相場の約20分の1の月額約4万円で貸していたことが判明した[97]。また、伊丹朝鮮初級学校創設の際には木造平屋建て約400平方メートルの校舎や机等の備品などを無償譲渡をしていた[97]。市有地の標準賃料によれば月額74万5600円になる[97]。
大阪市が、中大阪朝鮮初級学校を運営する学校法人「学校法人大阪朝鮮学園」に対し、1961年以降、約50年にわたり市有地である同校用地4957平方メートルを無償で貸していることが2011年に判明し、これについて市契約管財局は、「歴史的な経緯もあり、無償貸与が続いてきた。現在は有償化や用地の買い取りを求めて協議している」とした[98]。大阪市は2013年、学校敷地上の工作物一切を収去と土地の返却、そして2014年4月1日から明け渡しまでの間、1ヶ月あたり124万4000円を支払い求めて大阪地裁に提訴[99]、2017年2月28日学園側が市有地を3億4200万円で購入、2013年1月から2017年3月末までの土地使用料として約2千万円を支払うことで和解した[100]。
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bb4308 No.7274
>>7269
>在日本朝鮮商工連合会に対する所得税・法人税・固定資産税の減免関連
>1998年11月29日、産経新聞は在日本朝鮮商工連合会と国税庁による『合意事項』を報じた。これは1991年に朝鮮総連が発行した便覧「朝鮮総連」に掲載されていたもので、以下の5項目から成るため「五箇条の御誓文」の俗称がある。
これとは別にあるもう1つの五箇条の御誓文がこちら
こちらは天皇教利権ってこと?
明治神宮ウェブサイト
https://www.meijijingu.or.jp/about/3-3.php
日本の民主主義の基本と、普遍的な理念
慶応3年(1867)10月、将軍徳川慶喜は大政を奉還し、12月9日には王政復古の大号令が発せられ、幕藩体制に代わる新政府が成立しました。しかしながら開国まもない当時の日本の世情は依然混沌としており、国際的にも多くの問題を抱えておりました。 慶応4年(明治元年)3月14日、明治天皇は京都御所紫宸殿に公卿・諸侯以下百官を集め、維新の基本方針を天地の神々にお誓いになりました。絵には副総裁三條實美が五箇條の御誓文を御神前に奉読する光景が描かれています。明治天皇は白の御引直衣をお召しになり玉座に南面し、御神前に御身体をお向けになっておられます。この日、天皇みずからが国難の先頭に立って伝統あるこの国を護り、世界各国との親交を深めつつ国を隆昌に導こうとするにあたり、国民への協力を求める告諭(宸翰)が、御誓文とあわせて布告されました。
「五箇條の御誓文」意訳(口語文)
一、 広く人材を集めて会議を開き議論を行い、大切なことはすべて公正な意見によって決めましょう。
一、 身分の上下を問わず、心を一つにして積極的に国を治め整えましょう。
一、 文官や武官はいうまでもなく一般の国民も、それぞれ自分の職責を果たし、各自の志すところを達成できるように、人々に希望を失わせないことが肝要です。
一、 これまでの悪い習慣をすてて、何ごとも普遍的な道理に基づいて行いましょう。
一、 知識を世界に求めて天皇を中心とするうるわしい国柄や伝統を大切にして、大いに国を発展させましょう。
これより、わが国は未だかつてない大変革を行おうとするにあたり、私はみずから天地の神々や祖先に誓い、重大な決意のもとに国政に関するこの基本方針を定め、国民の生活を安定させる大道を確立しようとしているところです。皆さんもこの趣旨に基づいて心を合わせて努力して下さい。
「五箇條の御誓文」(明治神宮聖徳記念絵画館蔵)
明治元年三月十四日、天皇は公卿や諸侯を京都御所の紫宸殿に集め、神前で明治の新しい政治の基本方針五箇條を誓約(うけい)され、国民全体に知らせるよう指示されました。御誓文は、簡潔な文章で政治の基本となる不朽の方針を示したもので、明治時代の驚くべき躍進の基となったものです。左の絵は、明治神宮外苑の聖徳記念絵画館に展示されているもので、副総裁の三條實美が御神前で御誓文を奉読している場面です。
御誓文は以後明治維新の指導精神として、近代国家建設のさまざまな施策に受け継がれましたが、とくに昭和天皇は昭和21年元日の「新日本建設ニ関スル詔書」において、五箇條の御誓文を引用され「叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス」「国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ」と、御誓文の精神に立ち返り国づくりに努めるご決意をなされました。
ここには日本の民主主義の基本と、普遍的な理念が示されております。私たちは明治維新の尊い精神を継承し、その心を現代に生かすことが肝要です。
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bb4308 No.7277
>>7269
https://web.archive.org/web/20090221094620/http://www.yuriko.or.jp:80/kokkai/q-990706.shtml
1999年7月6日
衆議院大蔵委員会
「朝銀への公的資金1兆円の融資について」
小池委員
自由党の小池百合子でございます。
金融に関しまして御質問をさせていただきます。質問は数多いわけではございますが、その中で私はあえて朝銀問題について質問をさせていただきたいと思っております。チョウギンはチョウギンでも長期信用銀行ではございません。いわゆる北朝鮮系の朝銀問題でございます。
御承知のように、北朝鮮に関しては、テポドンであるとか新型ミサイルの発射準備が整ったなどという報道が相次いでおるところでございまして、多くの国民はこの件について大変不安を抱いているところでございます。
一方で、KEDOの開発に対しましては、資金供与問題など、国会を通過したわけでございますが、私ども自由党についても、朝鮮半島の平和的解決に向けての努力として百歩譲って承認をしたところでございます。
しかし、昨今の金融不安の中で、預金保険機構を通じて既に三千億円を超えます日本国民のお金が、経営不振、破綻に陥りました朝銀系の信用組合に対しまして直接間接につぎ込まれていることは、これは既に行われた事実でございます。特に、日本への税金をまともに払う気もない人たちによりますバブルのツケ、そして本国への寄附など北朝鮮への莫大な送金疑惑が消えない中で、日本政府が十分な審査、検査もせずに大盤振る舞いをして、その資金がいかなるルートであれテポドンなどの軍備増強に使われるというふうになっているならば、これはブラックユーモア以外のものではないというふうに思っております。
国民の生命、安全、財産を守るのが政治の基本的な務めと私は思っております。ということであるならば、これらすべての観点からこの問題を看過することなく追及をしていかなければならないと思っております。もちろん、もう一つの長銀など邦銀の金融問題を徹底調査、追及しなければなりませんが、これは事日本の安全保障にもつながる問題でもございます。であるならば、もっと真剣に力を注いでいかなければならない、それが政治の責務だと考えております。
ちなみに、この朝銀問題に関しましては国会でいまだ一度も論議することがございませんでした。これはある意味での政治の怠慢ではないかということで、自省、猛省を含んで、また蛮勇を振るってこの問題を取り上げさせていただきたいと私は思っております。
まず伺わせていただきたいのが、既に保険機構から資金援助が行われたケースでございますが、朝銀近畿のケースでございます。
これは、九七年の五月に債務超過で破綻いたしました朝銀の大阪信用組合が、近畿五府県の朝銀信組と統合されまして、また日銀の政策委員会の議決も経まして、昨年の五月、朝銀近畿として再スタートをいたしております。その際、預金保険機構から特別資金として三千百五十九億円、日本の皆さんのお金であります三千百五十九億円が既に投入されているところでございます。
そこで、この金融検査について伺わせていただきたいんでございますが、きょうは、当時の監督責任は大阪府にあるわけでございますが、その大阪府に聞きたいところですが、金融監督庁並びにそれらを審査し最終的に資金投入を実行されました保険機構、一体どのような検査、審査を行われたのか、厳正にその検査を行われたのか、どのような議論があったのか、またそのことに対して十分な情報公開は行っておられるのか、これらの点について伺わせていただきます。
〔委員長退席、鴨下委員長代理着席〕
五味政府委員
検査に関連して、まずお答え申し上げます。
お言葉がありましたとおり、朝銀大阪信用組合は大阪府の管轄下にございまして、大阪府の検査は、平成九年八月三十一日を検査基準日としまして九月二十五日から実施をされました。資産の確定というのが主な目的の検査でございます。
私ども直接の監督官庁でございませんので必ずしもその詳細は把握しておりませんけれども、資産の確定の検査という意味では適切に実施されたというふうに承知をいたしております。
小池委員
適切に検査が行われたということをおっしゃったわけでございますが、一連の金融不祥事が続いて、そしてその中でさまざまな方々が責任を問われ、中には逮捕されというような状況が続いた、これはそういう中での大阪朝銀幹部の証言でございます。預金を金正日に流したのだから逮捕を覚悟した、逮捕されたらすべてを語るつもりでいたが、だれも調査に来ず、来たのは預金保険機構からの三千百億円の贈与であった、そして逮捕を免れたという証言もあるわけでございます。そして、さまざまな幹部から直接間接に聞くところは、いや、そんな調査なんかしてませんよということ、こういう証言は山ほどあります。
そして、保険機構でございますけれども、これは結局単なる書類審査、ちゃんと正しく書かれているのかどうかというぐらいのチェックしか実際にはされなかったのではないかと思わせる節がございますが、それについてはいかがでしょうか。
松田参考人
お答えいたします。
先生御指摘のとおりの金銭贈与それから資産の買い取りということで三千百五十九億円を支出することに決定いたしました。その後、ちょっと経過がございますけれども、五十八億円、後発事由を発見しましたのでそれを減額させて、現在のところ三千百一億円が朝銀大阪の処理に使われたということになります。
私どもといたしましては、検査権限を直接持っておりませんので、破綻公表の後の大阪府の清算検査をもとに買い取り資産の価格の妥当性等を審査いたしまして、十年の四月に大蔵大臣による資金援助をすることの適格性の認定を受けまして、それによって申し込みなされたものについてさらに審査をしまして、これはペイオフコストを超える金額だということで必要性の認定をもう一度大蔵大臣に御認定いただきまして、その上で事業譲渡、この金額を確定しまして、運営委員会で決定をして、譲渡日にその資金を供与して不良資産は買い取った、こういう段階でございます。
〔鴨下委員長代理退席、委員長着席〕
小池委員
今五十八億円の減額というふうにおっしゃいましたが、五十八億円という切りのいい数字ではなくて、きっと細かい、円までの単位が出てきていると思うのですね。
では、それは、大阪府の方がそれをまた検査をし直してそういう申請にし直した、もしくは保険機構の方での判断によるものなのでございましょうか。
松田参考人
それは、運営委員会で一たん資金援助の額を決めますね。決める基準日が清算検査をした日を基準にいろいろな妥当性について審査してくるものですから、それと実際に営業譲渡に至るまでの間に期間的なラグがあります。その間に後発事象として思いがけない回収があったという事実を私どもがつかみましたらそれで減額をしていく、こういう形でございます。
小池委員
そういう事実までおつかみになるのでしたら、例えば、預金保険機構の方でも、世に言われます、また多数あると言われている架空口座であるとか仮名口座についての審査、検査などもなさったのでしょうか。
松田参考人
先ほど申し上げたように、私ども、検査権限を持っておりませんので、その中の、私ども審査の一番重要なことは、架空口座と預金の関係ではなくて、買い取り資産がどれだけ傷んでいるか、どれだけ補てんをして預金者を保護することができるかという点に重点が置かれておりますので、そこはそれほど主力を置いたことはありません。
小池委員
大阪府がやるべきであるということでございますけれども、しかしながら、現実にそういった幹部の人たちが、ろくな調査をしていないという証言があるわけでございます。そして、多額の、三千百一億円でございますか、このお金が使われたということは事実でございまして、やはり私は、納税者の一人といたしましても、大阪府による検査、これが本当に妥当なものかどうか再検査をしていただきたいということをお訴えしたいと思っております。
また、預金保険機構、このところずっとフル回転でお忙しゅうございましょうが、たまたまきのうホームページを引っ張ってみましたら、「預金保険機構は、国民一般の預金を保護する機関です。」とまず冒頭に役割として出てまいります。また、「預金保険制度は、預金者にとってのラストリゾートといえましょう。」というふうにも書いてあるわけでございまして、そして保険機構の審査に対しての信頼性ということも、この朝銀の問題からさかのぼればどうかなと思わせるところも残念ながら出てくると、だれにとってのラストリゾートなのかという話にもなってしまいますので、これまでの審査、そしてこれまでの過程、デュープロセスなどは私はしっかりと情報公開すべきではないかというふうに思っております。
それからもう一つ、何かホームページばかり見ている人間のようでございますけれども、こちらは、ことしの五月十四日付、「朝銀愛知信用組合の事業譲渡について」ということで、朝銀愛知の事業譲渡に関しますお知らせでございます。これは、朝銀岐阜、三重、静岡、石川、富山が合併いたしまして朝銀東海をつくる、これに朝銀愛知、朝銀福井が事業譲渡をするというふうにあります。
それから、ちょうどきょう皆様のお手元にあるこの分厚い報告書の百六十一ページでございますが、ここに「預金保険制度を活用した処理予定案件一覧」ということで、百六十一ページはほとんどが朝銀関係の今後の再編のスキームと申しましょうか、それが一覧になっているわけでございます。つまり、例えば関東甲信越の朝銀神奈川、埼玉、茨城、栃木、群馬が合併いたしまして朝銀関東信組をつくる、これに東京、千葉、新潟、長野の各朝銀が事業譲渡するということで、これはさきの朝銀近畿のケースをモデルケースといたしまして、全国三十二の朝銀系信用組合のうち十三の信用組合が経営破綻状態にある、残りの十九信組が地域ブロックごとに四つに合併しようというものであります。
これは、聞くところによりますと、内部では大阪朝銀方式と呼んでいるそうでございます。この大阪朝銀方式というのは、再編のシステムもさることながら、つまり、これまで大阪朝銀のケースにあったように、チェックが甘い、検査が甘い、フリーパス同然だ、だから今度のこの四つの方もうまくいくぞ、そういうふうな受けとめられ方をしており、また一方で、どうせ検査がおざなりだったらこの際水増ししておけというようなことまで行われているということを聞いておるわけでございまして、さきの朝銀近畿の場合で三千億円余がつぎ込まれたということから類推いたしますと、もっとも朝銀大阪が一番多かったわけでございますけれども、いずれにいたしましても、全国に広がります朝銀系の信用組合のネットワークから逆算いたしますと、あと一兆円ぐらいつぎ込まなくちゃいけないことになってしまうのではないかということが最大の不安になっているわけでございます。
つまり、最初の朝銀大阪のときにきっちりと検査をしていないということで、その後なめられるんじゃないかということを私は懸念しているのですが、その点については、御担当、いかがでございましょうか。
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bb4308 No.7278
>>7277
日野政府委員
お答えいたします。
朝銀の場合も、これは信用組合ということで、監督事務につきましては、中小企業等協同組合法に基づきまして第一義的には都道府県知事が所管しているところでございます。本年五月に破綻が発表されました朝銀系の十三信用組合につきましては、自己査定の結果、平成十年度決算におきましては債務超過に陥ったというふうに聞いております。
これらの十三組合では、自力再建が不可能であるというふうに判断いたしまして、それぞれの組合の監督官庁であります都道府県知事に対しまして、いわゆる再生法、金融機能の再生のための緊急措置に関する法律の六十八条の一項に基づきまして、その業務または財産の状況に照らし預金等の払い戻しを停止するおそれがある旨の申し出を行ったところでございます。破綻した十三組合につきましては、先ほど小池先生がお話しになりましたように、全国の朝銀系信用組合を四ブロックに分けまして、そしてブロックごとに合併する組合に事業譲渡を行う方針であるというふうに聞いております。
ところで、今回発表されました破綻した朝銀系信用組合に対する資金援助額はどの程度見込まれるのかという趣旨の御質問であったかと存じますが、破綻した朝銀系の信用組合に対する資金援助額等につきましては、破綻発表以後監督官庁であります都道府県知事が検査を行いまして、破綻した信用組合の資産内容を調査し、その後預金保険法上の手続を経まして、最終的には預金保険機構において具体的な資金援助額が決定されるというふうに承知しておりますが、現時点では資金援助額等を算出するための作業はまだ終了しておりませんで、具体的な資金援助額の見込み等についてはまだお答えできるような状況にないということを御理解いただきたいと存じます。
小池委員
破綻した大阪朝銀の場合も、最初二千億程度というふうに言われていたのが、結果的に三千億という数字に積み重なっているということがございます。ということで、自己査定で債務超過とはいえ、これまでの破綻した金融機関に押しなべて言えることは、これはたしか柳沢委員長もおっしゃっていましたように、破綻前と破綻後でその金額が莫大に、二十倍とか、そういうふうにめちゃくちゃ変わってくることもあるわけでございます。その意味で私は一兆円という数字を予測したわけでございます。
そうしますと、私の今最大に指摘したいことは、あれだけ、日本の銀行である長銀などに対していろいろな検査であるとか、それから、破綻したかしないかによって違うんでしょうけれども、今いろいろと責任追及などが行われている中で、日本の銀行でもあるのか、その辺がややこしいのですが、外資と言えない、その中で邦銀以上にこれは厳しくチェックもし、責任も追及しなければならないのではないか。
例えば一連の情報公開ですね。朝銀の各信組のこれまでの議事録であるとかバランスシートであるとか不良債権先の名簿とか金額、融資先の決定基準と決定方法、不良融資決定の際の稟議書。ちなみに、不良融資ということについていえば、それぞれ、朝鮮総連が持っているような財産に対して考えられないような額の融資を行っていることはよくマスコミなどでも報じられているところでございます。
これらのことをやはり明らかにしない限りは次の一歩を進めちゃいけないというふうに私は思うのでございますが、こういった一連の情報公開をする考えはあるのかどうか、御担当の方、お願いいたします。
乾政府委員
金融機関のいろいろな不良債権等については、一般論としましてディスクロージャー等が求められているところでありますけれども、ただ、今御指摘にありましたような個々の取引ということになりますと、破綻をいたしました金融機関とはいいましても、その取引先等、生きているところがあるということがございまして、その詳細についての公表は差し控えるべきだというふうに従来からお答えしているところでございます。
小池委員
しかし、事の問題は安全保障にもかかわってくる、そこが一番問題なわけでございまして、これについてやはり日本国民に、なぜこうなったのか、そのデュープロセスをしっかり見せなければ、ましてや直接間接に、先ほども申し上げましたように、いかなるルートであれ、今我が国はいろいろな脅威にさらされているわけでございます。そして、私たち日本のお金が、どういうルートであれ使われる、もしくは品物にかわってそれが送られる、そして私たちが脅威にさらされてのほほんとしている方がおかしいということを私は申し上げているのでございます。
ごめんなさい。今の質問は、そういえば通告するのを忘れていた、今加えた問題でございますけれども、この問題について、確かに監督はそのときは大阪府でございました。しかしながら、きのうのそれぞれ通告をした中で私が感じましたことは、全部たらい回しです。どこにだれが責任を持ってやるのか。私たちは言われたことだけやっていますと。確かにそうかもしれない。だけれども、結果としての意思を持たない方向違いということが生じてきて、今我が国の安全保障にまで多くの脅威が出てきているのではないかと思っております。
先ほど、責任の所在を明確にすべきということを申し上げましたが、例えば、朝銀の愛知信組のある方が自分の口座から勝手に預金を引き出された、信用組合の個人なのか信用組合そのものなのか、この辺のところがまだ問われているんですが、預金を引き出されたとして訴えて、勝訴した方がおられます。そして、その提訴の中で、朝鮮総連内の非公然組織とされていた学習組という存在が明るみになったわけでございますが、公安調査庁に伺わせていただきます。
この学習組というのが朝鮮総連の意思を伝える一種の実行部隊であるというふうに考えてよいのか。そしてまた、現在の朝鮮総連ですが、構成員の数は今どうなっているのか、過去と比べてどうなのか、この辺のところをお伝えください。
松田説明員
お答えいたします。
現在、在日朝鮮・韓国人総数は約六十三万九千人であり、このうち朝鮮総連系は、全体の約三〇%に相当する十九万六千人と見ております。また、韓国民団系は、全体の約六五%に相当する四十一万八千人と承知しております。増減傾向につきましては、民団系が漸増しているのに対し、朝鮮総連系は近年組織勢力が減少していると承知しております。
また、学習組についてでございますが、学習組は、朝鮮総連中央・地方組織、傘下団体の中に設置されている非公然組織であると認識しております。現在、学習組員数は五千人と見ております。
小池委員
朝鮮総連系が減ってきているということは、これはまた朝銀の衰退、弱体化と歩調を合わせている、つまり経済問題が非常にいろいろな意味での影響を与えているということが言えると私は思います。
それで、私が先ほどから申し上げている一番のポイントは、これまでも、こういった朝鮮総連の傘下にあると言っていい朝銀の信用組合、これが足利銀行などを通じ、また現金で北に送られているのではないかという送金疑惑でございます。ある方は年間で六百億とも、またある方は一千億とも言われておりますし、また、九三年には、当時の羽田外務大臣が日本記者クラブでの会見で二千億円という数字を認めておられるわけでございますが、まず公安調査庁の方には、この北への送金額はどれぐらいと見積もっておられるのか、それはキャッチするのは難しいのかどうなのか。
それから一方で、もう一つは大蔵省に伺わせていただきますけれども、足利銀行を通じての送金額、もしくは足利銀行などの銀行からの送金額。それから、人、物、金を本国へせっせと運ぶ船ということで指摘されております万景峰92号、これは新潟の港に着くわけでございますけれども、実際に税関のチェックはどれほどされてきたのか。それぞれ伺います。
松田説明員
お答えします。
朝鮮総連など北朝鮮関係者による北朝鮮への送金については、公安調査庁といたしましても重大な関心を持って調査を行っているところでございます。しかし、その全体像を把握するには至っておりません。
送金の状況につきましては、今後の業務に支障を来すおそれがありますので、答弁を差し控えさせていただきたいと思います。
黒田政府委員
外国向けの送金につきましては、御承知のように、現行外為法上原則として自由でございまして、北朝鮮向け送金の実態を把握することは困難でございますが、御指摘のように、かつて北朝鮮向け送金の取り扱いが多いとされていた銀行から任意に聞いたことがございますが、そのとき聞いた限りでは、平成八年度における北朝鮮向け送金額は総額二十八億六千万円でございました。
渡辺(裕)政府委員
新潟港に入港しております北朝鮮の定期船でございますマンギョンボン号、日本語読みしまして万景峰号でございますが、これを利用して北朝鮮に現金が不正に持ち出されているのではないかという御心配でございます。
私も実際に新潟の現場に行って見てまいりましたが、税関は、まず警察、海上保安庁等関係取り締まり機関との連携によりまして、入港中の船舶に許可を得ないで物を持ち込むことのないよう厳重に警戒をいたしております。
それからまた、許可を得て持ち込む旅客の携帯品や貨物につきましても必要に応じ開披検査を行いまして、これらに紛れ込んで不正な持ち出しがあることのないように厳重な取り締まりを行っているところでございまして、先生御心配のようなことがないよう万全を期しているところでございます。
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bb4308 No.7279
>>7278
小池委員
ずっとこういうことが積み重なって、結局日本は、国交のこれまでのおくれてきたこともございましょうが、しかしながら、北朝鮮はもうアメリカとしか話をしない、日本に話してもしようがないみたいな、もうなめられちゃっているわけですね。それではやはり国家としての体をなしていないのではないか。それぞれ、一つ一つはパーツでしっかりやっておられるかもしれないけれども、全体の誤謬と申しましょうか、そういったことで結果的に我が国は非常に、平たく言ってなめられていると言わざるを得ないと私は思います。
また、以前日本海での不審船との交戦が話題になったことがございますけれども、この万景峰92号こそ私は堂々と入ってくる不審船だというふうに思うわけでございまして、必要に応じということで関税局長おっしゃいましたが、これは常に必要があるというふうに、さらにきっちりとしたチェックをすべきということを私は主張しておきたいと思っております。
いずれにいたしましても、事総連絡み、朝銀絡みとなると、どうも皆さん腰が引ける。また、国会においてもこれが初めての質問であるということ、これも同じことだと思います。また、ある月刊誌の七月号には、大阪朝銀の破綻について、大蔵省筋はやはり民族系金融機関という事情が大きいと説明している、そういうくだりもございます。
これまで、国税庁と朝鮮人商工会とのいわゆる五カ条の御誓文なるものがあって、それによって団体交渉権を得て、商工連の判こがあればそれはほとんどノーパスだということは、この業界、この方では極めてよく知られるところでございます。国税庁は、以前も参議院の方で質問があった際に、そういう合意書はないというふうにお答えになっているのですが、しかし、国税庁が否定なさったその直後に、商工連の梁守政氏は、絶対に既得権は守ると言って高らかに宣言をされておられるそうでございます。彼らにとっての既得権とは一体何なのでしょうか、国税庁、お答えください。
○大武政府委員
お答えさせていただきます。
今先生からお話ありましたように、過去に在日朝鮮人商工連合会から国税に関する要望があったということは承知していますが、国税庁としては、決して特定の団体なりその会員に対し特別な扱いということを行うことはあり得ず、御指摘のような合意事項というものは存在いたしません。
昨年十一月、先生からもありました、あたかも合意事項が存在しているのではないかと国民の誤解を招くおそれのある報道が新聞紙上でされたこともございまして、本年の一月、合意事項なるものは存在しないという旨について改めて職員に周知徹底を図ったところでございまして、今後とも適正かつ公平な税務の執行に全力で取り組んでいきたい、そう思っているところでございます。
小池委員
ありがとうございました。
最後に一言だけ申し上げておきますと、私は、もともと人権擁護団体で始まった朝鮮総連の歴史というものには深く敬意を表するところもございます。しかしながら、いつの間にかそれが北の政権のお財布がわりになってしまった、そしてそれに貢ぐ人たちが在日の人になってしまった、貢ぐお金がバブルの崩壊でなくなってくると今度は北の方に入国しようと思っても拒否されてしまう、そういう実態もございます。つまり、これまで在日の方々は、いろいろな主義主張もございますでしょうけれども、結果として貢ぐ役を務めていたことになって、お金がなくなって金の切れ目ということになると今度はぞんざいな扱いを受けているという、私は大変気の毒だと思わざるを得ないわけでございます。私の地元の兵庫県の中にも、こういった問題について大変深刻に考えている方々も多数おられます。
私は、在日の方々が本当にこれまでの苦労を経て、そしてみずから働いたお金でみずからを守る、そういう本来のあるべき生活が一日でも早く営まれるような、そういう形で臨んでいくべきだというふうに思っております。中には、先ほどから出ております万景峰号を何とかとめてくれないかという朝鮮総連関係の方もおられると聞いております。あの船がとまれば私たちはミツグ君でなくなるんだ、だからとめてくれというような、これは切実な叫びであるということもお伝えいたしまして、私の質問を終わらせていただきます。
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bb4308 No.7280
>>7278
>新潟港に入港しております北朝鮮の定期船でございますマンギョンボン号、日本語読みしまして万景峰号
あの万景峰号は今どこに? 在日朝鮮人との関わり深い北朝鮮の貨客船
配信: 2021/08/31
https://www.koreaworldtimes.com/topics/news/9963/
万景峰号とは、かつて、北朝鮮の元山港と新潟の間に就航していた北朝鮮の貨客船である。2000年代の中頃まではこの名が、やたらとテレビや新聞をにぎわせていた。しかし、北朝鮮への経済制裁が行われるようになると、万景峰号の新潟入港も禁止された。最近では、まったくマスコミに登場することはなくなったが…、近況を知りたい。と、探ってみる。
すると、2017年4月の日本経済新聞に、北朝鮮の羅先特別市とロシアのウラジオストク間に新設される定期航路に就役するという記事を見つけた。が、この翌年にはロシアのタス通信が、万景峰号から制裁違反の貨物が発見されて、ウラジオストクへの入港を拒否したことを伝えている。ウラジオストク沖で進退窮まった万景峰号は燃料不足のため救難信号を発信し、ロシアから燃料や食料の支援を受けたという。
記事には万景峰号の写真も載っていたが、ここで「おや?」と違和感を覚えた。新潟港に寄港していた万景峰号よりもずっと小さくて古臭い。明らかに別の船だ。しかし、調べてみると、この船もまた万景峰号なのである。
実は、万景峰号と呼ばれる船は2隻が存在していた。
本当の船名は「万景峰92」だった
90年代から2000年代にかけて日本のニュースでよく目にした万景峰号だが、こちらの正式名称は「万景峰92」という。
万景峰92は、当時の最高指導者・金日成(キム・イルソン)主席の80歳の誕生日を記念して1992年に完竣工したもの。9672トンの船体は日本ではよくある大型フェリーのサイズだが、北朝鮮では最大の客船だ。就航後は在日朝鮮人の親族訪問や朝鮮学校の修学旅行などに利用された。ピースボートがチャーターして運行したこともあり、不正輸出事件にかかわるなど、経済制裁で入港禁止となる以前にも多くの話題を提供した。
しかし、日本のテレビや新聞がこの船の話題を取り上げる時、その大半が正式な船名である万景峰92ではなく「万景峰号」としていた。我々もそれがすっかり刷り込まれている。
だが、北朝鮮には万景峰号と名付けられた船が、すでに存在していたのだからややこしい。この船は、1971年に建造された3317トン、載貨重量1500トンの貨客船。70~80年代の在日朝鮮人帰還事業にも使われ、万景峰92と同様に日本のマスコミへの露出度も高かった。
90年代になって万景峰92が、万景峰号と交代して日本への航路に就航するようになるが、日本のマスコミはこの新造船もそのまま万景峰号の名で呼び続ける。深く考えることなく惰性でそうなったのか、あるいは、何か意図があってのことか。それはわからないのだが。
2隻の万景峰号は今でも現役で使われている
日本航路から退役した万景峰号も日本人がその存在を忘れていただけで、廃船にされことなく現役で使われ続けていた。ウラジオストクへの入港を禁じられて窮地に陥ったが、その後は北朝鮮に帰還できたようである。すでに建造されてから40年を過ぎているが、それより古い木造船が現役で使っているお国柄なだけに、今後も第一線で活躍するだろう。
また、万景峰92のほうであるが、こちらも北朝鮮国内の観光クルーズに使われたり、2018年の平昌五輪の際には友好使節団を乗せて韓国を訪れている。現在も北朝鮮随一の豪華客船として活躍し続けている。
余談ではあるが、万景峰とは首都・平壌の郊外にある山。万景峰の大同江近くの丘陵は万景台と呼ぶ景勝地になっている。金日成主席はここで生まれたとされ、生家も残っている。革命聖地の1つであり、北朝鮮を訪れた外国人観光客は必ずここに案内されるのだとか。
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bb4308 No.7281
>>7269
総聯に「破防法」の適応を!(2006.4.12)
佐藤勝巳
https://web.archive.org/web/20070923054846/http://www.modern-korea.net:80/column/20060412.html
3月23日東京警視庁公安部は、総聯傘下大阪府朝鮮商工会など5ヵ所を原敕晁氏拉致容疑で(「国外移送目的拐取と監禁などの容疑」)で強制捜査を行なった。
朝鮮商工会機関誌「朝鮮商工新聞」(4月4日)は「常軌を逸した政治的暴挙」『「合法」の名による政治的弾圧』などと意味不明なことを書いて「反発」している。理由は、同商工会は拉致とは無関係なのに強制捜査を行なったから「政治的暴挙」「政治的弾圧」という主張である。
それならば聞くが、総聯並びに朝鮮商工会は、金正日に今でも「忠誠」を誓い無条件で支持している。その金正日はすくなからぬ前から日本人を拉致し、主権侵害を行なったことを認めた。商工新聞は、日本警察が9時間事務所を強制捜査したことを「弾圧」の理由に上げているが、主権侵害を認めれば、国際法上爆撃しても違法ではない。やらないでいるのは日本政府が腰抜けだからだ。
総聯・朝鮮商工会は、テロ政権を支持すれば爆撃をはじめとして強い報復を受けることを知らないはずがなかろう。覚悟があって支持してきた確信犯のはずである。
9時間ぐらい強制捜査で関係書類など持ち去られ、一人が事情聴取を受けただけで逮捕すらされていない。敵性団体の捜査にしては甘すぎる。これをもって「政治的弾圧」など泣き言をいうぐらいなら、金正日政権支持を速やかにやめるべきだ。日本政府に文句をいう暇があったら、総聯や朝鮮商工会は、金正日テロ政権に向かって、「拉致を早く解決しろ」となぜ言わないのか。
総聯の旧朝鮮信用組合(以下朝銀と呼ぶ)からの借金は、総聯が認めただけで628億円。公的資金導入にあたって、日本政府は預金保険機構傘下の「回収機構」(RCC)が総聯の不良債権を買い取った。総聯が借りたカネを返さないから訴訟となっている。総聯の資産の全てが差し押さえ競売に付されてもなお借金は残るだろう(老総聯幹部)といわれている。
総聯並びに傘下在日朝鮮人は、金日成・金正日父子テロ政権に60年近く莫大なモノやカネを献上してきた。結果、日本政府に総聯財産の全てを差し押さえられ、競売に付されることが秒読み段階に入っている。これが総聯のテロ政権に長年「忠誠」を誓ってきた結果である。自らが選択したことで誰も恨むことはないし、当然の報いである。
長年にわたって日本社会をなめきって、言いたい放題やりたい放題のことをやってきた。特に、1967年12月13日、国税当局は、総聯系在日朝鮮人貸し金業の故「具次龍氏」の脱税問題で取り引き先の朝銀の前身「同和信用組合」に400名の機動隊に守られ強制捜査を実施した。
すると朝鮮総聯は、全国の朝鮮人多住地域の税務署に「抗議行動」なる暴力を指示、税務行政を困難に陥れた。そして1976年朝鮮商工会と国税当局との間に(社会党高沢寅男議員を介在し)「税金問題解決に関する五項目の合意が成立した。」「①朝鮮商工人たちの全ての税金問題は、朝鮮商工会と協議して解決する。他は略」と1990年12月朝鮮総聯発行の『総聯』という書籍に書いてある。この1976年(昭和51年)から総聯系在日朝鮮人の税金は日本国税務署との間で「団体交渉」で決められてきたのだ。
勿論国税当局は「合意」を否定しているが、筆者が調べた限り総聯系在日朝鮮人の税金は税務署と商工会の間の団体交渉、もしくはそれに近い形で決められてきたことは紛れもない事実だ。日本国家に納めるべき税金を金日成・金正日に献上してきたのだ。この事実を日本の側から見れば、日本が北朝鮮と総聯の暴力に屈し、従属関係に陥った国辱の日と言ってよい。
しかし、やがてバブルの崩壊とともに金融機関の統廃合が訪れ、総聯所有の朝鮮信用組合(以下朝銀と略す)も杜撰な運営と預金の金正日政権への違法送金などで破綻、1兆4千億円の日本国民の税金が投入され救済された。
そのさい不良債権が旧朝銀から回収機構に買い取られ、上述のように差し押さえ競売という運びとなった。商工会メンバーはパチンコ貸し金業などで金を稼ぎ、他方、朝銀は脱税を隠蔽する役割を引き受け、金日成父子独裁政権を資金面で支えてきた犯罪組織なのである。かてて加えて、大阪商工会幹部は日本人拉致に関与したのである。破防法適用が相当である。
総聯は、3月30日東京千代田区の日本教育会館で中央緊急集会を開いた。商工新聞には参加者の人数が報道されていないが、この集会にメッセジを送った日本人は「朝鮮女性と連帯する日本婦人連絡会代表・清水澄子氏、床井茂弁護士、同志社大学・浅野健一教授、評論家・野田峰男氏、大阪経済法科大学・吉田康彦教授」である。
いままでこのような集会に必ず名前を出していた土井たか子、福島瑞穂氏らの名前がない。政党・政治家の名前も見当たらない。名前が出ているのは、札付の日本人ばかりだ。1950年代後半から総聯を見てきた筆者にとって、日本社会でこんなに孤立し、うらぶれ果てた総聯の姿を見たことがない。
総聯系在日朝鮮人は、今からでも遅くない金正日政権と手を切り、拉致を含む人権弾圧を糾弾すべきである。そうでなければ在日朝鮮人の生きる場所は何処にもなくなるだろう。
「北朝鮮に拉致されました」ってことにして、故郷に帰っている人とかいたのではないか?
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bb4308 No.7282
>>7269
一般市民が真の問題に目を向けないように、日本でもこの分割統治が今でも行われているのではないか? 支配層はアジアの国同士が争っている方が支配しやすくて都合が良い。自分達に矛先が向かないから
分割統治(読み)ぶんかつとうち(英語表記)divide and rule
https://kotobank.jp/word/分割統治-128361
精選版 日本国語大辞典
〘名〙 被支配者の間に分裂状態を生じさせ、団結をむずかしくしておいて安定した支配の継続をはかる方法。
デジタル大辞泉 「分割統治」
支配者が被支配者の間にある民族的、宗教的、経済的利害の対立をあおり立てて、互いに分裂・抗争させることで統治の安定をはかる政策。植民地統治によく用いられた。
日本大百科全書(ニッポニカ)
支配者が被支配者を分割、すなわち被支配者の団結を妨げて分裂させ、それをもって統治を容易にさせようとすること。「分割して統治せよ」ということばは、元来は古代ローマ帝国のその支配地域における統治術をさしたものである。そこでは被支配部族・民族が互いに離反・対立するように策し、ローマの支配に対する彼らの敵愾心(てきがいしん)を分散させ、被支配者の連帯よりもローマへの忠誠心を生み出すようにした。そうすることでローマ帝国の統治を容易にした。こうした統治術は植民地時代に欧州列強によって用いられ、イギリスやフランスなどは分割統治を原則として植民地住民を統治した。たとえば、スーダンにおける統治でイギリスは北部住民(アラブ系)と南部住民(ネグロイド系)の対立を利用し、南部住民を軍隊に用いて北部住民を抑え込むなどした。
なお、この分割統治ということばは、いろいろな政治状況で用いられるが、日本では、比例代表区のブロック制導入によって政党支持票の分断といった事態や、それを通じて野党の連携を困難にさせる場合にも使用されることがあった。
ブリタニカ国際大百科事典
「分割して支配せよ」というフランスの国王ルイ 11世の言葉に由来する支配,統治技術の一つ。統治者が被統治者間の人種,言語,階層,宗教,イデオロギー,地理的,経済的利害などに基づく対立,抗争を助長して,後者の連帯性を弱め,自己の支配に有利な条件をつくりだすことをねらいとしている。過去の植民地経営,支配にしばしば用いられ,イギリスのインド統治はその典型とされる。現代でも,国際政治の分野だけでなく,国内における選挙 (都市票と農村票の分離) ,労働組合 (第1,第2組合の分裂) の対策など,対立の契機を含んだ集団の制御に適用できる。
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bb4308 No.7283
在日問題から改めて考える…
日本人とは何者なのか?
戦前は混合民族説が通説だった
君は日本を知っているか(14)— 単一民族説の呪縛を解き、自民族優越主義を克服するために
http://www.gendainoriron.jp/vol.22/feature/kitsukawa.php
新型コロナウィルスによる肺炎の蔓延という地球的規模の大問題の陰に隠れて注目されることもなく忘れ去られようとしているが、この間、日本の民族意識に関わって重大な問題のある出来事が相次いで発生した。
まず、問題発言の多さで際立っている麻生太郎財務大臣が、福岡県での彼の国政報告会で発言した内容である。麻生は「2000年の長きにわたって一つの国で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝を126代の長きにわたって一つの王朝が続いている国はここしかない」と言ったという。
繰り返される単一民族説の誤り
あきれたことに、この発言の中の「一つ」という形容句を付けたすべての事項について誤認・矛盾が含まれている。たとえば、「2000年の長きにわたって」と「126代の長きにわたって」という言葉の間には、明らかに矛盾がある。『日本書紀』によれば、2000年前という時代は活目入彦五十狭茅(イクメイリヒコイサチ 11代垂仁天皇)の治世にあたり、126代の最初の天皇は神大和磐余彦(カムヤマトイワレヒコ 初代神武天皇)で、即位したのは紀元前660年で、それは2680年前ということになっている。したがって、「2000年の長きにわたって」という説をとるとすれば、初代から10代までの660年という年月がなかったことになってしまう。
麻生太郎は、こんなずさんな発想で単一民族説を説き、自民族の優越性を吹聴しているのだが、この政治家は、1986年当時の総理大臣中曽根康弘が単一民族説に立って、黒人を侮蔑する人種差別発言を行い、国内外の厳しい批判を浴びたことを知らないか、忘れてしまったのであろう。
次に、問題は大学でも発生した。東京外国語大学国際社会学部のある教授のゼミが実施したアンケート調査が差別的であると批判され、学長が謝罪文書を出すに至った事件である。そのアンケート項目にはいくつか問題になるものがあるが、特に単一民族説と関係があるのは、「純ジャパ以外の日本人を『混ジャパ』と呼ぶことに抵抗はありますか?」という項目である。
「純ジャパ」とか「混ジャパ」という言葉が一般的なのかどうか分からないが、「純ジャパ」とは「純粋な日本人」、「混ジャパ」とは「混血の日本人」のことだとすれば、そんな区別をすることにどんな意味があるのだろうか。そもそも「純粋の日本人」とはどういう存在なのか。それが、生物学的にも歴史学的にも定義されたなどとは聞いたこともない。縄文系とか弥生系とか、様々な日本人のルーツをめぐる議論を紹介するまでもなく、「純粋日本人」などというものが定義不能であることは明らかであろう。そんな言葉を安易に使ってしまう背景には例の単一民族説があることはまちがいない。
さらに、問題は内閣府の世論調査でも発生した。内閣府は、昨年「基本的法制度に関する世論調査」を実施したが、そのなかで難民受け入れと永住権を持つ外国籍住民に関する質問事項について、移住者と連帯するネットワークと全国難民弁護団連絡会議が抗議声明を内閣府に突き付けるという事態が発生した。
難民については、「これまでの日本における、難民および人道上の配慮が必要な人の受け入れ数についてどう思うか」と尋ね、次に「これ以上積極的に受け入れるべきか、慎重に受け入れるべきか」を問う。さらに「難民認定制度を濫用・誤用する者に対する対応」について問い、その有効な対応策についての具体的な設問まで尋ねている。
日本の難民の受け入れについては、従来から受け入れ数の少なさと審査の厳しさには問題があると内外の厳しい批判を浴びてきたことは周知の事実である。にもかかわらず内閣府の調査の内容は、難民認定制度を一層厳しくし、狭き門をさらに狭くしようとする方向を向いているとしか思われない。
外国籍永住者についての質問も、「日本の永住者数は多いと思うか」という問いから始まって、「永住許可を取り消す制度への賛否」を問うという仕掛けになっていて、取り消し制度の導入への意図が見え見えである。実際には、入管法の在留資格の取り消しや強制退去の規定によって永住権の事実上の取り消しが行われていることを考えれば、永住権についても制限を強化しようという意図が透けて見える設問の仕方といわざるをえないだろう。
内閣府のこの世論調査は、直接に単一民族説を主張しているわけではないが、単一民族説的日本観を背景にしていることはまちがいない。そこには、日本は単一民族・単一文化の国だから多くの外国人を受け入れるのは困難だというもっともらしい俗説と通底する偏見が見え隠れしている。
以上のような出来事は、すべて今年になってから発生した。政治家、大学、行政組織の中で単一民族説あるいは単一民族幻想が未だに根強くはびこっていること、またそういう幻想を拡大しようという動きが続いていることを示している。
しかし、日本で単一民族説がはびこるようになったのはそんなに古いことではない。小熊英二が『単一民族神話の起源』(新曜社)で論じているように、それは戦後のことに属する。戦前は、人類学・民俗学・考古学などの研究者のみならず、右翼運動と深いかかわりを持つ論客の間でも混合民族説が圧倒的に優勢であった。まともな研究者には周知のことに属するかもしれないが、前述したような出来事が依然として続いていることを考えれば、ここでかれらの民族観を再検討しておくことも無意味とはいえないであろう。
「八紘一宇」の唱道者田中智学の場合
「八紘一宇」といい、田中智学といっても、いまでは大部分の人は忘れてしまっているか、聞いたこともないようなことかもしれない。しかし、5年ほど前のことであるが、自民党の参議院議員三原じゅん子が国会で「八紘一宇」について「日本が建国以来大切にしてきた価値観である」と発言して問題になったことがあった。当時、右派の論客からは、「よくいった」というような称賛するかのような声があげられ、本人も、その後反省の態度を示していない。その意味では、「八紘一宇」という言葉は、完全に死語になったとはいい切れないのである。
ところで、「八紘一宇」という言葉を造語し、唱道した田中智学は、1880年代から1930年代まで活動した日蓮宗を信奉する国粋主義者であった。田中は、国柱会という宗教思想団体を創設し、戦前の右翼政治家・軍人・財界人などに一定の影響力を保持していた(ちなみに、国柱会は現在も存在している)。彼の思想について全体を検討するわけにはいかないが、ここではその民族観についてだけ見てみよう。
田中の著書『日本国体の研究』によれば、日本人民は「世界の人を正しい『道』に入れてやって、それに究竟の平和安楽を与えるために、先祖と国土の先天的因縁に結びつけられて、その目的を達すべき使命を帯びた模範的人民であって、その事業なり主義なりから之を『天業民族』と称する」という。「先祖と国土の先天的因縁」というのは、『日本書紀』や『古事記』の「開闢」から「神武建国」にいたる神話に田中流の解釈を加えた言葉で、「道」はそこに示されたとする忠孝を具体的内容とする。その実現を運命的使命(天業)とするから日本人民は「天業民族」だという。まさに誇大妄想的選民思想そのものである。
では、その天業民族とはどのような人々のことか。それについて田中は、四つの種族を区別する。まず第一に、「神代の神から流れたのは『神別れ(かみわかれ)』の種族」、第二に、「御代々の皇室から別れて、臣籍に這入って姓を賜ったのは『皇別(すめらわかれ)』の種族、この二つを「吾民族の大部分とする」という。そして、第三に「従来土着の種族」、第四に「他国から帰化して来た所謂『蕃別れ(えびすわかれ)』の種族」もいることを認める。この二種族についての記述は、引用するのも不愉快なほど極めて差別的であるが、正確さを期すため紹介しておこう。
田中は、第三、第四の種族には、共通して二つの傾向があるとする。一つは、「素質に向上性のない、理解力を有たない民族」で、「自然に征服されて漸次その生存が保てなくなって、終に自然消滅に帰してしまう」もの、「漸次王化に沾い心身ともに改造されて向上発達し、終に天孫種族と縁組したり又は追々と任運に雌雄淘汰を遂げ、いつしか天業民族に同化」したりするもの、という二つに分かれるという。そして、第三の種族の例としてアイヌ民族、第四の種族の例として朝鮮人、韃靼人、支那人をあげる。
「只の生類級にひとしい蛮族」という侮蔑的言葉や「自然消滅」、「同化」という自然現象であるかのように語る言葉が、いかに差別的であり、歴史的事実を歪曲・無視したものであるかはいうまでもないが、ことを民族的組成の観点からすれば、田中の民族観は単一民族説とは明らかに異なっている。
「神別れの種族」という種族は、<イザナキ・イザナミ―アマテラスー天孫>という系譜とは異なる神の系譜を持つ種族が存在したことを前提としており、「天孫種族と縁組」によって「同化」したという以上、かの「天業民族」なるものの中に「従来土着の種族」や「蕃別れの種族」の遺伝子が含まれていることは否定できない。その意味では、「天業民族」は混血によって出来上がった混合民族ということになる。もし田中が自らの論理に忠実であれば、前節で紹介したような「純日」「混日」というような区別は絶対に承認しないはずである。
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bb4308 No.7284
>>7283
アジア主義者大川周明の日本民族観
大川周明は、戦前の右翼思想家の中では、きっての理論家として知られ、そのアジア主義は「大東亜共栄圏」構想に理論的支柱を与えたといわれた人物である。その影響力の故か、戦後の東京裁判では唯一の民間人として起訴された。そして、その法廷での奇矯な振る舞いによって裁判から除外され、釈放されたことでも有名になった。その民族観も、独特の性格を持ち、天皇機関説事件を起こした蓑田胸喜のようなファナティックな国体論者から批判されることもあった。
さて、その大川周明は、日本民族の起源について、『日本二千六百年史』の第三章「日本国家の建設」において次のように述べる。すなわち「有史以前の太古に於て、吾が日本国もまたアジア大陸と同じく、南北二大勢力の争闘の舞台であった。南方の民は日本民族であり、北方の民はアイヌ族である」と。さらに日本の地名にアイヌ語起源とみられるものが多く残っていることを根拠に、「アイヌ民族は日本諸島の先住者であり、日本民族は彼らに後れて到着したものとせねばならぬ」と、日本民族が、南方系の後発の渡来民族であると主張している。
そうなると、『日本書紀』や『古事記』の天孫降臨神話との関係が当然問題になる。その点について、大川は、「吾国の古典は、吾が日本民族が、八重に棚引く叢雲を押し分け、高天原よりこの国に天降れることを記している。[そは吾らの先祖が、その発祥の地を忘れ去りしを示すものにして]、いまや人類学者・考古学者・歴史家が、この高天原を地球上のいずれかに捜し当てようと苦心するに拘らず、未だ定説を聞かない」と、天孫降臨神話の信憑性について重大な疑義を呈している。
なお、『日本二千六百年史』は、蓑田ら国体論者の激しい非難を浴びて、再版では[]の部分は削除されているが、南方渡来説自体は撤回されてはいない。このことは、「日本民族の起源」について、当時の右翼ファシストの間でも統一的見解がなかったことを示しているという意味で注目しておくべきであろう。
次に、先住民族としたアイヌ民族との関係においても、問題を含む。この点についても、大川は独特の考え方を持っていた。大川は、アイヌ民族を「その強勇に於て日本民族の好敵手」とか「北方の強者」「勇武なる先住者」ととらえ、もし彼らがいなかったら「南方民族に免れがたき文弱に陥」ったかもしれないと評価している。南方民族は文化の民、北方民族は尚武の民という根拠のないステロタイプ的認識を根拠にしているとはいえ、田中智学が「只の生類級にひとしい蛮族」とこき下ろしているのとは、著しい相違がある。それは、東亜諸民族の共存共栄を建前とするアジア主義者としての立場があらわれているといってもいいかもしれない。
しかし、大川も、同化の論理と選民思想的優越性の主張とを捨てることはできなかった。大川は、古代日本においてその住民は「もはや本来の部族的感情を失い、先住民族の子孫も、はたまた帰化人の子孫も、悉く<神武部族を中心とせる>(ここも新版では削除された)大和民族に同化せられ」た、と主張する。
そして、水戸学派の編纂した『大日本史』の序にある「天下一姓」の語について、日本国民は「皆同一遠祖の血を引きたる一姓の民と信じていた」、また「異種の民族も之に同化せられたるが故に、事実に於て、一姓の民と言うことが出来る」と解説しているが、「信じていた」といい、「言うことが出来る」といい、単純に一姓と断言してはいない。これは、大川が、基本的に混合民族説にたっており、血統的同一性の主張を受け入れていないことを示しているとみてよいであろう。
以上のような日本民族観を前提として、大川は、その日本民族に対して「天意を実現して行く民」という位置付けを与える。すなわち、<天=神、神=至高の理想、至高の理想の具現者=皇祖皇宗、皇祖皇宗の延長=天皇、天皇の大御心を奉ずる日本国民>という理屈で、日本民族の選民化を図っているのである。さらに、「多くの国々に於ては、ただにその敵を神と認めざりしのみならず、実に人間以下のものとして之を卑しみ憎んでいた。吾らの祖先は断じて左様なことがない。如何なる敵でも、一度『まつろひ』さえすれば、皆吾らの同胞となる」と説く。
一見、日本民族の寛容さを説いているようであるが、その背後には「干戈を執」って「まつろはぬ者をまつろは」す、つまり武器によって服従させるという論理を潜ませていた。こうした武器によって「まつろはす」論理は、大東亜共栄圏建設の論理に拡大され、日本のアジア諸民族への侵略戦争の思想的支柱となったのである。
いずれにしても、民族の起源と組成という論点に限定して整理すれば、まず、大川が、日本民族は南方から渡来した民族であるという民族の起源についての考えを持っていたということが確認できる。また、武力の強制による「同化」によって、在来の民族であれ、後来の民族であれ、異民族の遺伝子を取り込んで「現在の」日本民族ができあがっていると考えていたことも間違いない。つまり、大川も混合民族説をとっていたのである。
民族問題にまともに取り組まなかった日本
戦前の日本民族の起源と組成の問題について、当時影響力のあった田中智学と大川周明を取り上げて紹介してきたが、先述したように渡来説・混合民族説をとる論者は他にも多数いた。天孫降臨神話にこだわり、「天孫族」単一民族説を主張する者はむしろ少数派でしかなかった。渡来説といっても南方説・北方説入り乱れ、中にはメソポタミアのシュメール族に淵源を求めたり、中央アジアのウラルアルタイル地方からの渡来を説く者まで、多様な見解が乱れ飛んでいた。
また、日本に渡来した異民族についても、田中や大川のように混合・吸収を「同化」ととらえる者の他に、それらの異民族と祖先を同じくするという同祖論を唱える者も少なくなかった。たとえば、朝鮮半島に伝わる檀君神話と天孫降臨神話との類似性を根拠にして朝鮮民族と日本民族とが同祖であったという主張や、源為朝が琉球に渡り琉球王朝を開いたという為朝伝説を利用した日琉同祖論などがそれである。
このような日本民族の起源と組成に関する議論の紛雑した状況は、明治維新以後、近代国家としての体裁を整え、さらに帝国主義の段階に入っていくとともに、その時々の政治動向と合わせてそれぞれの主張の勢力配置を変化させていったが、結局、一つの方向に収斂させることはできなかった。琉球併合、北海道旧土人保護法制定、朝鮮併合さらに満州国の捏造、大東亜共栄圏建設と民族問題に向き合わなければならない節目があったにもかかわらず、日本はその問題に真剣に向き合ってこなかった。
実際、日中戦争が始まる直前に出された『国体の本義』と、日米開戦の直前に出された『臣民の道』という、政府のいう「東亜新秩序建設」に向けて国民教化のために、文部省が刊行・頒布した二つの文書を検討すると、いかに民族問題に無自覚であったかが分かる。無自覚というよりも、問題を避けているのではないかという印象すらある。
この二つの文書で、教化の対象あるいは国家の担い手たるべき住民の呼称を調べてみると、『国体の本義』では臣民、国民の語が圧倒的であって、赤子の語がそれに次ぎ、『臣民の道』では、臣民、皇国臣民、国民の語が使われている。そして、これらの語に定義が与えられることはなく、したがって、琉球民族、アイヌ民族、朝鮮民族が含まれるのかどうかは明らかではない。
近代日本国家は、これらの民族に対して、基本的に「同化政策」をとってきた。それが差別を内包した極めて欺瞞的な対応であったことはいうまでもないが、さらに東南アジア・インドなど西アジアも含めた「大東亜共栄圏」という巨大な帝国を構想するようになると、矛盾を露呈せざるをえなくなる。同祖論も同文同種論もましてや古代日本の同化の論理も通用しない異民族を包含することになるからである。さらに、その異民族を独立した民族として遇することにすれば、国内にその論理が跳ね返ってくる。その意味で、国内的に民族問題を避けようとする態度が生まれたとしても不思議ではない。
さらに、言葉の問題について使われていそうで使われていない語について検討してみよう。そうすると、「民族」という語の使用例が極めて少ないことに気付く。天孫民族はおろか大和民族の語もない。『国体の本義』の場合、民族や民族性の語は少数ながらでてくるが、それは、「文化は国家・民族を離れた個人の抽象的理念の所産ではない」とか、「支那・印度・欧米の民族性・歴史性」というような一般論の中で使われているに過ぎない。
『臣民の道』の場合は、「もとより我が国には古来他民族の皇化を慕って来たり仕えるものがあったが、これ等外来民族も御稜威の下に皆斉しく臣民たるの恵沢に浴し、時移るに従い、精神的にも血統的にも全く一体となって、臣民たるの分を竭くし来った」と過去を語る場面でのみ使われている。しかし、ここには重大な矛盾が隠されている。この文書で国民教化のために強調している「敬神崇祖」と「祖孫一体」という原理との矛盾である。完全に同化するということは、かれらにはこの強調して止まない二つの原理に背かせることにならざるをえないし、この原理を守らせるならば、外来民族は外来のままに止まることになる。
遠い過去のことだから問題はないと考えたかもしれないが、厳密な論理に従えば、こうした矛盾が避けられないのである。民族の語をほとんど使わないということには、こうした矛盾を避けたいという意志が働いたのではないかという推測が成り立つだろう。
いずれにしても、重大な時期に国家が刊行した重要文書が民族問題に正面から対応していないことは明らかである。この民族問題に正対しない態度は、戦争終結とともに変化したかといえば、残念ながらそうはいえない。むしろ、帝国が解体され、日本領土が四つの大きな島とそれに付属する諸小島に限定されたことによって、帝国が抱えていた民族問題を意識する必要がなくなったという錯覚が生まれた。
単一民族説は、そういう錯覚の中から生まれてきた。それが、戦後文部大臣も務めた天野貞祐の、日本国とは「われわれが祖先以来この同じ国土に住み、同じ日本語を語り、同じ運命をしのいで来た文化的倫理的協同体をいう」(「愛国心の問題」1956年)というような認識が、堂々とまかり通ってしまう背景にあった。
そこでも、琉球民族やアイヌ民族、朝鮮民族への視点は完全に欠落している。敗戦直後には、単一民族幻想の中に閉じこもり、単一であることにわずかに民族的矜持を維持しようという心理が働いたといえるかもしれないが、その心理が麻生のように今でも生き残っているのであろうか。すでに外国人労働力なしに日本の経済も社会もたちゆかなくなっており、これから多くの外国人を受け入れようというのに、こんなことで済むはずはないのだが。
上記の情報を持ってきたのは、「海外の人たちをもっと柔軟に受け入れよう」と主張したいわけではないことを念の為記載しておきます。優先すべきはもっと他のことにあるのではないかと
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bb4308 No.7285
>>7283
日本人とは何か。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B%E3%80%82
『日本人とは何か。』は、山本七平の1989年の著作[1]。
山本のほぼ唯一の日本通史であり[注釈 1]、明治維新までの日本史を通して日本人を論じた。日本を理解したい外国人にどう説明したらいいかという問題提起に始まっており、比較的平易である。山本は2年後の1991年に死んだため、彼の日本学の総決算と考えることもできる。
内容
プロローグ 『大勢三転考』の日本
1 日本人とは何か
津田左右吉は、大和朝廷の日本統一は、武力よりも文化伝搬によって行われたと考えた。
2 文字の創造
平安時代にかなが生まれ、日本語を自由に記述可能になり、日本文学・日本文化が生まれた。
3 律令制の成立
律令制の口分田を確保するには開墾せねばならない。しかし土地の私有を認めなければ開墾するものはいない。こうして公地公民制は崩壊する。
4 神話と伝説の世界
日本は中国と違い、天皇の下に神祇官が作られた。天皇の祭儀の正統性を根拠づける書として『日本書紀』が作られたのだろう。
5 仏教の伝来
仏教は当初は貴族のものだったが、鎌倉時代に変質し、民衆に普及した。
6 「民主主義」の奇妙な発生
仏教の伝統により、寺で大問題を決するときには、一人一票の秘密投票が行われた。つまり日本の民主主義は仏教から生まれた。
7 武家と一夫一婦制
政府から軍事・警察権が民間に移譲され武士が生まれた。鎌倉幕府もそういう政権だった。
8 武家革命と日本式法治国家の成立
律令は現実と乖離しており、新しい法を作る必要が生まれた。当時の常識の結晶である『貞永式目』である。(8,9章は『日本的革命の哲学』[2]の要約。)
9 武家法の特徴
式目の基本は土地所有権の保証だった。裁判権は徐々に朝廷から幕府へ委譲されていった。
10 エコノミック・アニマルの出現
清盛の時代に輸入を始めた宋銭で貨幣制度が確立した。貨幣経済が一族郎党という血縁集団を崩壊させていく。(『日本人の土地神話』[3]でもこれを論じる。)
11 下克上と集団主義の発生
中世の契約社会集団が一揆である。(「『一揆』の成立まで」[4]の要約。)
12 貨幣と契約と組織-中世の終わり
足利幕府は貨幣経済に基づく権力だった。貨幣経済が発展し、貨幣に基づく軍隊が作られる。鉄砲の導入とあいまって戦国時代は終息する。
13 土一揆・一向衆・キリシタン
西洋人はどのようにキリスト教を広めたか。蓮如の平等主義をまね、かつ印刷機を使い入門書を出版した。
14 貿易・植民地化・奴隷・典礼問題
秀吉のキリシタン禁止はどういうものか。キリスト教自体ではなく、一向一揆のような団結勢力となることを禁じた。
15 オランダ人とイギリス人
家康はヤン・ヨーステンとウィリアム・アダムスを厚遇した。彼ら新教徒は面倒な宗教問題を持ち込まなかった。
16 「鎖国」ははたしてあったのか
島原の乱の後、キリシタンの徹底的弾圧によって結果的に鎖国となった。
17 キリシタン思想の影響
棄教者である不干斎ハビヤンは、諸宗教の中から合理的と思われる思想だけ採用した、近代日本人の元祖である。(この章は『日本教徒』[5]の要約。)
18 家康の創出した体制
家康は学問を好み、社会制度は先例にならって、各身分の「諸法度」を作った。
(14,15,16,18,20章のテーマは『徳川家康』[6]でも触れられた。)
19 幕藩体制の下で
『日本永代蔵』に生産技術の改善が描かれている。(19,21,22章は『経営人間学』[7]の要約。)
20 タテ社会と下克上
江戸時代の大名は専制君主ではなく、「同輩中の第一人者」だった。
21 五公五民と藩の経営
年貢が米納から金納になると、付加価値の高い農業生産物が有利になり、経済成長を起こす。
22 幕藩体制下の経済
江戸時代の消費経済の発達は、諸藩の財政を困窮させていった。
23 江戸時代の技術
江戸時代の和時計技術が精密工業の基礎を作った。
24 江戸時代の民衆生活
江戸時代の家族制度は貞永式目の伝統の延長だった。
25 江戸時代の思想
浅見絅斎(あさみけいさい)は幕府支配の正統性を否定(『現人神の創作者たち』[8]の要約)。鈴木正三と石田梅岩は商業・勤労を肯定(『勤勉の哲学』[9]『日本資本主義の精神』[10]の要約)。
26 現代日本人の原形
富永仲基の聖典正文批判。山片蟠桃の無神論。(山片から、エピローグの由利までの人々については『江戸時代の先覚者たち』[11]に詳しく書かれた。)
27 現代日本国の原形
数学者本多利明と儒学者海保青陵の経済学。(詳しくは『江戸時代の先覚者たち』)
エピローグ 明治維新の出発点
由利公正は福井藩の横井小楠の弟子。産業を起こして福井藩の財政を改善させた。(詳しくは『江戸時代の先覚者たち』)
これに続く時代が渋沢栄一を描いた『近代の創造』[12]となる。
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bb4308 No.7286
>>7283
日本は高句麗から大きな影響を受けているらしい
恵慈
https://ja.wikipedia.org/wiki/恵慈
https://en.wikipedia.org/wiki/Hyeja
恵慈(えじ、? - 推古天皇31年2月22日(623年3月31日))は、飛鳥時代に高句麗から渡来した僧。慧慈とも[1]。
人物
三論宗、成実宗に通じ、推古天皇3年(595年)に朝鮮半島の高句麗から渡来して、厩戸皇子の仏教の師となり、飛鳥時代の日本仏教界で活躍した。仏教を日本に広め、推古天皇4年(596年)、法興寺(蘇我善徳が寺司、現在の飛鳥寺安居院)が完成すると、百済の僧慧聡と住し、ともに三宝の棟梁と称された[1]。
『伊予国風土記』には、伊予国の温泉(道後温泉)に聖徳太子、葛城烏那羅とともにでかけ、その妙験をたたえたと記されている[1]。
推古天皇23年(615年)、聖徳太子が著した仏教の経典である(『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』)の注釈書『三経義疏』を携えて高句麗へ帰国し、『三経義疏』を高句麗に伝え、広める[1]。
推古天皇30年2月22日(622年4月8日)に聖徳太子が没したという訃報を聞いて大いに悲しみ、「高麗僧恵慈…誓願して曰く、日本国に於て聖人(聖徳太子)有り、…玄聖の徳を以て日本の国に生まる」といい[2]、来年の命日に死ぬと予言し、その誓いどおりに入滅したしたので、高句麗人は恵慈もまた聖なりと評したという[1]。
韓国における恵慈
韓国の歴史教科書は「高句麗もたくさんの文化を日本に伝えてあげた。高句麗の僧侶彗慈(恵慈)は聖徳太子の師であり、曇徴は紙、墨、硯を作る技術を教えてあげ、法隆寺金堂壁画も彼の作品として知られている」と記述している[3]。
高句麗
https://www.y-history.net/appendix/wh0301-081.html
3~7世紀、ツングース系の民族が満州から北朝鮮にかけて建国した国家。4世紀末~5世紀の広開土王・長寿王の時代に最盛期となった。7世紀には隋の煬帝・唐の太宗の遠征軍を撃退したが、668年に唐・新羅連合軍に攻撃され滅亡した。その後継国家として渤海と高麗がある。
・中国東北部(満州)から朝鮮半島北部にかけて活動していたツングース系の半農半狩猟の貊人(はくじん)が鴨緑江流域に建国した。朝鮮最古の歴史書『三国史記』によると、同じく貊人の国で北方いた扶余の王族朱蒙が、前37年に建国したとされている。これは史実としては疑わしいが、前1世紀の中ごろ、漢の置いた四郡の一つ玄菟郡が衰えたことによって、東北地方の遊牧系民族の一つであった高句麗もこの頃自立したと考えられる。古代の朝鮮の三国時代に、中国東北地方から朝鮮半島にかけて支配した強国として重要であり、中国の隋・唐の侵攻に強く抵抗したが、668年に唐に滅ぼされた。その後、朝鮮半島は新羅が統一するが、その力は鴨緑江以北には及ばず、高句麗の支配領域にはその後継国家の渤海が登場する。
楽浪郡・帯方郡を滅ぼす
部族連合国家であった高句麗は、後漢末に遼東の太守公孫氏に追われて、209年、鴨緑江流域に移り、その北岸に丸都城を築いた。これが実質的な建国である。中国が三国時代の分裂期にはいると勢力を強め、さらに、魏に続いた晋が、311年に匈奴によって都洛陽を占領される永嘉の乱がおり、華北が五胡の北方民族に支配されるという変動が起こった。その動乱の中で、高句麗の美川王は遼東郡に出兵、さらに313年に楽浪郡を滅ぼし、翌314年には帯方郡も攻略した。
三国時代の高句麗
高句麗によって楽浪郡・帯方郡が滅んだことは漢民族による朝鮮半島直接支配が終わったことを意味し、半島南部の韓民族も自立の動きを早めることとなり、馬韓は百済が、辰韓は新羅が統一し、4世紀後半からの朝鮮半島は三国時代へと移行した。
三国時代には、高句麗の南下は主に百済に向けられ、百済は対抗上、中国の南朝や倭国(日本)とも結んだ。一方、新羅とは比較的友好関係を保ちながら、勢力を南下させていった。そのころ、朝鮮南部は加羅と言われ、小国家分立が続いていたところに、倭の勢力も進出したため、高句麗と倭は直接戦うこともあった。
仏教の受容
高句麗の小獣林王(在位371~384年)は国力の充実を図った。372年、華北を統一支配していた前秦(五胡の一つ氐が建国した)の苻堅は高句麗に僧順道や仏像・経典を高句麗に送り、これが朝鮮の仏教の始まりとなった。また、高句麗では372年には大学が建てられ、儒教による教育が始まり、律令も頒布されたという(ただし、高句麗の律令は現在伝えられていない。)
広開土王 4世紀末に登場した高句麗王のに広開土王(在位391~412年)は、領土を南方に広げて高句麗の全盛期を現出させ、396年年には百済と朝鮮半島に進出した倭人(倭国)と戦って破った。その他、周辺に盛んに遠征して領土を広げ、その勝利を記念する石碑である広開土王碑が次の長寿王によって首都丸都城付近に建てられた。
長寿王 414年に広開土王碑を建てた長寿王は、427年に都を国内城から南下させて現在の平壌に移し、朝鮮半島南部への圧力を強めた。長寿王は中国の燕と戦っただけでなく、靺鞨(後の女真)を討ち、さらに新羅にも出兵した。475年には百済の都漢城を攻めて蓋鹵王を殺し、漢江流域に進出した。そのため百済は都を南の熊津城に討つさなければならなかった。491年、長寿王はその謚の通り、98歳という長寿を全うして没した。その報せを聞いた北魏の孝文帝は、哀悼式を挙行し、「車騎大将軍大傅遼東郡開国公高句麗王」の称号を謚に康を贈った。<金両基『物語韓国史』 p.133>
隋の煬帝の遠征軍を撃退
高句麗の勢力は中国の遼東半島にも及び、北西の突厥とともに中国の王朝にとって脅威となったので、隋の煬帝はまず大運河のひとつ永済渠を軍事物資用に建設した上で、612年から3度にわたって高句麗遠征を行った。隋の大軍に対して高句麗軍は激しく抵抗、また隋国内で反乱が起こったため、結局煬帝は形の上で高句麗の降伏を取りつけて軍を引かざるを得なかった。この高句麗遠征の失敗をきっかけに、煬帝に対する反乱が各地で始まり、ついに618年に隋は滅亡する。
唐の干渉と三国の興亡
唐が建国されると、高句麗・百済・新羅はいずれも唐に朝貢し、その冊封体制に組み込まれたが、三国は半島での覇権を競い、唐も半島への勢力拡大を狙っていたので、東アジアはなお不安定な情勢が続いた。
唐の太宗は百済の要請を受けたことを理由に、645,647年に百済救援と称して高句麗遠征の軍を起こしたが、この時も高句麗によって撃退された。さらに国力を充実させた唐は、高宗の時、再び高句麗遠征を企て、660年に名将蘇定方、劉仁軌らを派遣した。唐はこんどは新羅と結び、まず百済をほろぼし、663年に唐・新羅連合軍は百済の復興を支援する日本(大和王権)を白村江の戦いで破った。これによって日本の朝鮮半島での足場も失われた。
唐の攻勢を受け滅亡
その後、高句麗に内紛が起こったこともあって、唐は将軍李勣(りせき)を派遣、唐軍は新羅軍と高句麗を挟撃し、668年に平壌を占領してようやく高句麗を滅ぼした。唐は平壌に安東都護府を置いて羈縻政策で統治した。朝鮮半島の三国では新羅だけが残ったことになるが、新羅は次第に唐への従属から脱し、半島統一国家へと脱皮していく。
高句麗文化の影響
4~5世紀に高句麗が強大になったことは、東アジアの中での日本国家の形勢に大きな影響を与えた。高句麗時代の古墳に見られる壁画と日本の高松塚古墳(7~8世紀初頭)との類似性が注目されている。なお、貊族と同じツングース系の靺鞨は、「高句麗の遺民」と称して698年にほぼ高句麗と同じ領域に渤海国を建国した。
世界遺産 高句麗の古都と壁画古墳群
2004年7月、中国の吉林省集安の高句麗の首都と古墳群と北朝鮮のピョンヤンの高句麗壁画古墳群が同時に世界遺産に登録された。二ヶ所とも高句麗時代の高い文化水準を示す遺跡として価値が高く、珍しい国境を越えた世界遺産として指定された。
かつて高句麗が支配していた地域は北朝鮮と中国にまたがって、1万を超える古墳が残されており、そのうち90ヶ所から壁画が発見されている。その約半分近くが世界遺産に登録された地域に含まれている。特にピョンヤン付近にある高句麗王国中・後期の63基の古墳には美しい壁画が良く保存されており、4~5世紀頃のいきいきとした生活風習が描かれていることに驚かされる。また日本の高松塚古墳の壁画の源流にあると思われる女性像を見ることもできる。 → ユネスコ世界遺産センター:Complex of Koguryo Tombs You Tube:高句麗壁画古墳など
https://whc.unesco.org/en/list/1091/gallery/
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bb4308 No.7287
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bb4308 No.7288
>>7286
負け戦から学ぶこともある!高句麗から日本へ伝わったものとは
https://hobbytimes.jp/article/20171108b.html
皆さんは「高句麗」という国をご存知ですか?
百済(くだら)、新羅(新羅)、高句麗(こうくり)、という3国が朝鮮半島の覇権を争っていたのは4世紀頃。日本では古墳時代のあたりです。
この、高句麗をはじめとした百済や新羅、中国などの東アジアとのかかわりは、日本の黎明期に大きな影響を与えました。
今回はそんな高句麗と日本のかかわりをご紹介していきたいと思います。
当時のアジア情勢と日本のポジション
日本が高句麗とかかわりを持ち始めるのは、日本がまだ「倭国」と呼ばれていた古墳時代のこと。その頃の朝鮮半島は、中国、日本、朝鮮半島の小国らがその土地の利権と資源をめぐって戦いを起こしていました。
中国の北東部から興った高句麗という国は、勢力を拡大しながら朝鮮半島北部にまで支配を広げ、313年、中国の植民地だった楽浪郡(らくろうぐん)を滅ぼしました。さらに4世紀後半になると、高句麗は朝鮮半島をさらに南下の進路をとるようになり、同時期に興っていた新羅や百済、加耶(加羅)などを圧迫し始めていました。鉄資源を確保するために、加耶と親交関係の深かった倭国(わこく=日本のヤマト政権)も、当然ながら高句麗との争いに巻き込まれていきます。
高句麗との直接対決!?朝鮮半島で倭国が学んだことは
当時高句麗の都として栄えていた丸都(がんと)、現在の中国吉林省集安市には、高句麗の好太王の大きな石碑があります。その碑文によると、
“百残(百済)新羅は旧是れ属民なり。由来朝貢す。而るに倭、辛卯の年よりこのかた、海を渡り百残を破り新羅を□□し、以て臣民と為す”
とあり、倭国が高句麗と直接戦を交えたことを伝えています。
高句麗はたけだけしい騎馬軍団を持つ軍国主義帝国でした。それまで「馬に乗る」という風習がなかった倭国は、高句麗との戦いで痛いほど騎馬の必要性を感じます。親交関係のあった百済や加耶から技術者を呼び寄せ、馬の育成や馬具などの生産が倭国で始まるきっかけとなったのです。さらに5世紀以降に作られた古墳の中には、これまでになかった馬具が副葬されるようになりました。このことは、倭国に馬の文化が定着していることを示しています。馬は聡明で力も強く、移動手段としてや農耕のため、重いものを運んだり、皮や毛を利用できたりと、人々の生活に必要不可欠な動物となっていったのです。
中国大陸、朝鮮半島からもたらされたもの
この朝鮮半島の戦乱から逃れてきた人々の多くは、海を越え倭国に多く渡ってきました。同時に大陸の多彩な技術や文化が倭国にもたらされたのです。機織りや金属加工技術、焼き物の生産、土木技術などが、その良い例です。倭国は朝鮮半島からの渡来人を積極的に取り入れ、技術組織集団を組織しました。鞍作部(くらつくりべ)、錦織部(にしごりべ)、陶作部(すえつくりべ)などと呼ばれ、各地に配置されたのです。
また、漢字が導入され文字を使用するようになったのもこの頃といわれています。漢字の音を使って、倭人の言葉や人の名前を表記することができました。さまざまな記録や出納も、史部(ふひとべ)などと呼ばれる渡来人が作成を担っていたようです。
このようにして、倭国には大陸の優れた文化を吸収する土台が作られていきました。
この後も、朝鮮半島からは儒教や仏教、暦や医学、易などがもたらされ、倭国の文化技術のますますの発展がもたらされました。
その後高句麗はどうなったのか
七世紀半ばの朝鮮半島の情勢を見てみましょう。
655年、高句麗と百済が手を結び、新羅を攻めています。新羅は中国統一を成し遂げた唐に援軍を求めます。新羅・唐の連合軍は圧倒的な兵力で百済を攻め滅ぼします。しかし百済の遺臣たちは復興を願い、倭国に滞在していた百済王子豊璋(ほうしょう)の送還と、倭国の援軍を要請してきます。それに応えるべく向かったのは斉明天皇(在位655~661年)のと、乙巳の変・大化の改新で有名な中大兄皇子です。しかし、倭国は大軍を率いるも663年白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦いにおいて大敗を喫してしまいました。
百済と結んでいた高句麗は、百済の滅亡によって孤立してしまいます。すでに疲弊していた高句麗でしたがおり悪く内紛が勃発、これをチャンスと見た新羅・唐の連合軍は高句麗の都平壌に侵略を開始します。そしてついに668年、東アジア圏内で強い影響力を誇った高句麗は、ここに滅亡したのでした。
日本にもあった、高句麗の軌跡
埼玉県の日高市に高麗神社があります。日高市は、滅亡した高句麗から逃れてきた、一部の遺民たちが住んだとされている地域。近くには高麗川が流れ、ほかにも国の重要文化財に指定されている高麗家住宅や、高麗家の人々の菩提寺・聖天院など、高句麗の名残を感じさせる建物などがあります。
朝鮮半島からもたらされたさまざまな文化や技術、そして風習。ルーツをたどれば1500年前に高句麗から伝わったものだった!なんて、とてもロマンがあると思いませんか?機会があれば色々探してみるのも楽しいのではないでしょうか。
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bb4308 No.7289
>>7288
天皇皇后両陛下 「高麗神社」参拝で伝えた平和への願い
2017.09.28
https://www.news-postseven.com/archives/20170928_616935.html?DETAIL
4年前に始まった両陛下の私的旅行は8回目を数えた。ある時には魚市場をご覧になり、時に紅葉を楽しまれ、時にサクランボを収穫された。しかし、そんなプライベートタイムでも「象徴の重責」から解放されることはない。今回もまた、両陛下はある思いを胸に秘めて旅路へとつかれていた。
「三国時代」と聞けば、誰もが思い浮かべるのは3世紀頃の中国で魏、呉、蜀が覇権を争った、いわゆる三国志の時代のことだろう。
実は、4世紀から7世紀にかけての朝鮮半島でも3つの国がにらみ合う時代があった。「百済」、「新羅」と並び、朝鮮半島の北半分と中国南西部を支配したのが「高句麗」だった。一時は三国の中で最大規模の領土を誇ったが、668年、新羅と唐(中国)の連合軍に破れ滅亡。祖国を失った人の中には、海を越え日本にまで逃れた人々がいた。
彼らが多く移住したのが、現在の埼玉県日高市と飯能市にまたがる地域。高句麗にちなみ、明治時代まで高麗郡と呼ばれたその地には、当時の指導者を祀った「高麗神社」が厳然とたたずんでいる。
9月20日、天皇皇后両陛下は同神社に足を運ばれた。
「20日には高麗神社のほか、約500万本の真っ赤なマンジュシャゲ(ヒガンバナ)が咲き誇る巾着田曼珠沙華公園を訪問。1泊されて21日には、第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京証券取引所、東京ガスといった数々の企業の設立に寄与した事業家・渋沢栄一の生誕の地や記念館をご覧になりました」(皇室記者)
私的な行事でありながら、今回のお出ましは遠く韓国でも大きく報じられた。
《参拝は歴代日王(天皇)で初めて》
主要各紙にはそんな見出しが躍り、参拝時の両陛下の様子が詳報された。その理由は、同神社が朝鮮半島からの渡来人に縁深い地だからに他ならない。
「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、『続日本紀』に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」
2001年の誕生日会見で、陛下はそう述べられていた。また、2005年のサイパン、2015年のパラオと先の大戦の「祈りの旅」を続けられてきた両陛下にとって、韓国は“最後の地”ともいわれている。それだけに、両陛下の胸にもさまざまな思いが去来したことだろう。
「高句麗は何年に滅んだのですか」
「高句麗人と百済人は、どのような違いがあるのですか」
両陛下は、同神社を案内した宮司にそう質問を投げかけられた。訪問にあたっては事前に資料をご覧になったほか、御所で専門家からの説明も受けられたという。だが、その熱心な姿勢の陰には、単なる「ゆかり」以上の理由があった。皇室ジャーナリストの神田秀一氏が明かす。
「1980年頃、まだ昭和天皇がご存命だったときに、私は高麗神社の関係者から“陛下に足をお運びいただくことはできないものでしょうか?”と相談を受けたことがあったんです。当時、テレビ局で宮内庁担当記者をしていた私は、その希望を宮内庁側に伝えました。ですが、返ってきた答えは“NO”。さまざまな事情を考慮しての結果だったようですが、結局、昭和天皇が同神社を参拝されることはありませんでした」
それからおよそ40年。今回の訪問は陛下、そして美智子さまにとって、昭和天皇が遺した悲願を叶える旅だったのかもしれない。
◆訪問先は一般人立ち入り禁止
元共同通信記者で、陛下のご学友としてさまざまなメディアに登場した故・橋本明氏は生前、本誌・女性セブンの取材に次のように話していた。
「皇太子時代の1986年、両陛下の韓国訪問が予定されていました。ところが、美智子さまが子宮筋腫の手術のため入院を余儀なくされ、取りやめに。それからというもの、両陛下は韓国訪問への思いを日増しに強くお持ちでした」
だが、韓国内での反日感情の高まりや、燻り続ける「慰安婦問題」などのトンネルの出口は見えず、日本と韓国の間には緊張状態が続いている。それだけに、今回の私的旅行でも異例の光景が広がっていた。
「お出かけの際、両陛下は一般のかたとの触れあいを大事にされています。もちろん周囲に警護の人間はいますが、偶然居合わせた人に声をかけたり、写真撮影に応じられたりととても和やかな雰囲気に包まれています。ですが今回、例えば巾着田曼珠沙華公園は朝8時から一般人立ち入り禁止。両陛下が到着されたのは午後3時でしたから、徹底した『人払い』が行われたわけです。両陛下のお出ましを知らなかったため、公園に入れずやむなく帰っていく観光客も多くいました」(前出・皇室記者)
異例の厳戒態勢の理由は、やはり今回の旅行に、高麗神社参拝というデリケートな予定が組み込まれていたからだろう。だからこそ、両陛下も本来の「距離感」を諦められた。それでも、高麗神社に足を運ばないという選択肢には至らなかった。
「その理由は、現在の日本と韓国との関係性に加え、ミサイル発射や核実験を繰り返す北朝鮮とアメリカの間で空気が張り詰めていることにあったのでしょう。もとはといえば、高句麗の支配地域は現在の北朝鮮の領土です。韓国と北朝鮮も38度線を挟んでにらみ合いを続けているわけですから、いざ戦争にまで発展すれば、朝鮮半島すべてが“戦地”となってしまってもおかしくはありません。だからこそ両陛下は、高麗神社を参拝することで“平和を願っている”ことを無言のうちに伝えようとされたのではないでしょうか」(皇室ジャーナリスト)
旅行を終え東京駅に降り立たれた美智子さまは、薄い茶色のサングラスをかけられていた。
「相手に表情がよく伝わるように」
そんなお気持ちから、美智子さまは小ぶりな帽子を愛用されている。サングラス姿を見慣れないのも、同様の理由からだろう。9月下旬を迎えても依然強い日差しが、もし美智子さまにとって堪える部分があったかと思うと、心配が募る。
それでも、美智子さまの目に映っていたのは「平和への祈り」だけだったのだろう。
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Q Research Japan/Nihon #22より
https://wendy-net.com/mswendy/backnumber/ms201511/
2015年11月掲載
このままではアイヌが滅びてしまう。15歳で立ち上がりました。
・アイヌは昔から、集落の子どもはみんなの子ども、お年寄りはみんなのお年寄りという意識が高かった。どこの子どもであろうがおなかを空かしていれば食事を与える。病気を患って動けない人がいれば、その人の分まで山菜を採り食事をさせる。それが当たり前のことだった。
・父の最後の言葉は、いじめに屈することは、自分からも国からも逃げることになる。チャランケ(ちゃんと話し合え)ということだと思いました。
・父は「どんなに非道なことをされたとしても、それを非道で返したら、それは同罪。だから絶対に非道なことはやってはいけない。アイヌにはチャランケしかない」と言う人でしたから。
大事なことは真実を知ること
アイヌを知ってもらうためには、日本語やアイヌ語でのユーカラ(叙事詩)の語り部など、アイヌ文化の伝承活動は大切なことです。でも、一番大事なことは真実を知ってもらうことだと思っています。日本人は、アイヌも朝鮮人も中国人もモンゴル人の血も入っている複合民族だということ。アイヌ問題は日本人の問題です。知らない、無関心は人種差別していることと同じ。真実の歴史を明らかにし、ちゃんと知ることが人種差別のない世の中へとつながっていきます。私たちが前線に立つことによって少しでも真実を知ってもらい、人種差別のない世の中になることを願っています。そのために私は死ぬまで戦っていきます。
考えさせられる記事です。
日本は島国なのだから、近隣諸国からの移民や侵略等を通して様々な人種が混ざって所謂日本人とされるものたちが成り立ってきた国なのではないだろうか。
朝鮮人が悪いだの中国人が悪いだの人種で一括りにして憎悪を煽るのは、他国にとても失礼で、歴史から学ぼうとしていない怠惰な態度なのではないだろうか。
逆に殊更日本人を持ち上げるような情報発信も、対立を煽るものだと思う。素晴らしい物事に人種は関係ないのではないだろうか。
他国を貶し、日本を上にみせることも
日本を持ち上げ、他国を下にみせることも
何方も恥を晒す行為ではないのか。
最近、「在日は祖国に帰れ」という内容の文章を見かけた。あまりにも乱暴なのではないか。
対立を煽る工作員か、その扇動にまんまとのせられてしまった人達か?
帰りたくても帰れなかった人たちが仕方なく日本人として生きてきたということもあるのではないか?
批判的に考え、問題を指摘することは良いと思うが、○○人だから悪いというような的外れな言動はする必要がないと思う。
現状、日本人とされる人達の生活が苦しい中で更なる移民を受け入れる政策を推進するのは反対だが、対立を煽るような情報は、誰が何のために流しているのか考え、感情的な言動には注意する必要があるのではないだろうか。
戦争をしたい人達に利用される行いに加担することを避けることができるのではないか。
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Q Research Japan/Nihon #22より
君が代の起源
引用元:http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-19.html
君が代の起源その1【20120430】
http://www.mkmogura.com/blog/2012/04/30/1110
“君が代の起源。
明治以降から実質的に国歌として歌わされてきた「君が代」。
この国歌としての装置。
それは、明治からでもわかることだが、「すり返られた天皇を賛美する装置」そのものである。
国歌自体がナショナリズムと無関係ではいられない装置であるわけで。
そして明治以降に始まった醜悪に機能的なもの、それは「天皇すり替え」を無視していては、答えは見つからない。
ロスチャイルドは、君が代を、挽歌「死者を哀悼する歌」と言い。
ロックフェラーは、君が代を、長寿「未来永劫を願う歌」と主張する。
なら「君が代は何か?」を自分が説明しよう。
※ロスチャイルドってなぁに?という素人さんへ、簡単に説明。
日本のロスチャ=憲法9条賛美=左翼。ロック=憲法改正=右翼で分けてくれればいいよ。
http://www.mkmogura.com/site/menu3.html
そもそも、君が代の歌詞は、面白い話だとは思わないだろうか?
君が代は 千代に八千代に 細石(さざれいし)の巌となりて
こけのむすまで
細石(さざれいし)とは、字のごとく「小さい石(川の流れに流される石)」である。
「細石が、なぜか巌(大岩、巨石)になる。」
小さな石が、大きい岩になってしまう。
石が大きく育つ?こんな非科学的な話がありえるか?ってことね。
こんな不可思議な歌詞のこと。
この部分は、「天皇すり替え」を無視していては、絶対に答えが出ない。
こここそが、すり替えられた南朝天皇のための装置として君が代が選ばれた理由でもある。
なぜ、小さな石が大岩になって、それが長寿の歌とも挽歌ともなるのか?
くり返しになるが、「天皇の宗教は仏教であるか神道であるか」その質問に「ゼンマイ仕掛けの祈祷師」には答えられない。
つまり、大学などの肩書きを持つ歴史研究者で、この同じ属性の話、「君が代について」の答えを、ちゃんと説明できる人は誰一人いない。
今日は、序章である。
「なぜ石が育つ?」、それが「南朝天皇崇拝にどう繋がるのか?」
これを考えてもらって、次回へと引っ張ろう。
今は君が代を口ずさんで、気にしてくれるだけで良い。
5秒でいいから考えて欲しい。
文学的にも「とあること」を意識しなければ、絶対に説明がつかないフレーズだからだ。
この「君が代の話」は、少し遠回りをすることになる。
以前の神道の話の記事では、省略した、南朝天皇のためのキリスト教のこと、これもセットで説明したいからだ。
中国の漢訳聖書 : 日本の国学である神道
神道で出てきたこの2つの話。
これらは日本と中国、全く関係ない、独立した事象である。
なのに、両方とも、なぜか「神」という創造神にふさわしくないキリスト教が決めた創造神の漢字を使い、その字を使い始めた時期まで完全にリンクしている。
そして明治、神道が出来上がった。
で、明治から、この君が代=賛美歌は作られた(アーメン!)
神道についてのこと。
明治以前の仏教の世界の中に、この明治という嘘を作り上げた役者の「集団意識」、血脈みたいなものを見つけることができる。
そこを、もう少し説明したいから。
君が代の歌詞、川の中で「さざれ石が岩となった」ように、それは「仏教が神道になった(させた)」という歴史の流れの中のお話。
重なる部分があるのよ。
だからこそ、神道についての補足も一緒にする。
で、「君が代がなんであるか?」をちゃんと説明したい。
ロスチャが挽歌といい、ロックが長寿と言い張る。
それは、ある意味、両方とも正しい。
今の自分は「鎮魂であるともいえる」ぐらいの説明もしておこうか。
では、お付き合い頂きたい。
ちなみに、さざれ石とは実在していています。
その、さざれ石が取れるとしている岐阜県の春日村というところには、中曽根康弘の建てた「君が代発祥の地なる石碑」があります。
あと、下鴨神社とかにもあるそうです。
まあ、大きな岩には絶対にならないけど・・・。”
“まっこうモグラ(管理人) さんのコメント:
言い聞かせるように、他人に言う言葉は、多くの場合。自分自身に言い聞かせている言葉であることが多い。念仏のように唱えているなら尚更である。
だまされてるもなにも、日教組の歴史改竄については、貴殿よりくわしいですけど…。
神道の分類のこと以前に「創造神としての神」というのが、キリスト教徒によって捏造された捏造なんですけど。
七福神だろうと仏教だろうと、そのなかのインド神だろうと、古事記どころか、漢文だろうと、その後に作られたキリストに重なる意味での神様は存在しません。「天」ならいるけどね。
すべては聖書の訳を神とあてたことにあわせた、でっちあげです。
だまされてはいけません…とはいいません。だまされてたことに気づいたら、受け止める勇気を持ってください。“
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bb4308 No.7491
>>7490
君が代の起源その2【20120501】
http://www.mkmogura.com/blog/2012/05/01/1112
“結論を少しだけ言うと、「君が代も南朝」である。
知ってのとおり、「南朝=百済」である。
醍醐天皇(醍醐寺=真言宗) → この醍醐の名前を引き継いだのが、明確な南朝である後醍醐天皇(真言立川流&大覚寺系統=南朝のこと)になる。
この醍醐天皇のときに右大臣だった人物。
「歴史上、百済系では唯一の出世頭」が、菅原道真であるわけ。
で、「北野天満宮=菅原道真」で、「よくわかんないけど学問の神様」で神社を構成しているわけ。
そもそも大覚寺というのは「3種の神器が引き継がれたお寺」という嘘になっている。
そもそも、お寺で三種の神器?神道の話?になってるのも、妙な話・・・どころか完全に無理があるのだが・・・。
それ以上に無理がありすぎるのは、「醍醐=仏教の最高真理を意味する単語」である。
こんな名前をつけた天皇なのに、南朝の起源=「神道でした」となってるのだから、もう笑うしかない。
こんな嘘だらけ。
逆に、その嘘をすくい上げていけば、どんな奴らが「作り上げているか?」が浮かび上がる。
神道=「キリスト教+真言宗+寝返った徳川(水戸学派)+薩摩長州」
このような、もっと大きな意味での「区分けと経緯」は、前回の「神道ができるまで」あたりの記事を、参考にして欲しい。
今回は、江戸末期から明治維新の執行者ではなく、彼らの集団意識のみなもと。
「さらに、その起源」ともいえる、もっとピンポイントな話。
その浮かび上がった構図が、君が代の構図とも「完全に重なり」、そして「歌詞の意味がわかる」わけである。
どういう流れで「できたよ」という話は、過程の部分を省いているので、「こういう歴史の流れの中のこういう集団」というのを箇条書きに説明する。
・桓武天皇(土師氏。菅原氏の起源。毛利=大江の起源)
天皇の韓国訪問時の発言。韓国の新聞の一面になった最近の話。
「続日本記より桓武天皇の生母が百済系であることでゆかりを感じる」
その桓武の即位10年に「自分の親戚である土師氏に大江(毛利の起源)の姓を与えたのが起源。
菅原氏=土師氏。
ね、朝鮮渡来人=土師氏=毛利=百済。だから主君も百済。
・嵯峨天皇(桓武天皇の第2皇子)
源氏の起源。
のちの後醍醐天皇の時代、南朝のお寺、大覚寺(真言宗)。
いわゆる南朝のことをを別名、大覚寺系というのだが、その嵯峨天皇の開いたお寺こそ、山号が嵯峨山で、嵯峨御所とも言う大覚寺なわけ。
・醍醐天皇
土師氏(仏教界の中の技術者集団の一派である)彼らが作ったのが=醍醐寺(真言宗)など。
その醍醐の名を持つ天皇に、当時の官房長官(右大臣)に抜擢されたのが菅原道真
→でも、藤原北家の圧力によりのちに更迭(将来の北朝に敗北→悪霊化→神社になる)”
上記のもぐらさんの記事の引用で分かるように、北朝の牙城だった京都ですら、いや京都だからこそ改竄だらけです。
当然ですが、京都は北朝最大勢力の地だったので、南朝が用意した調停役と監視役が抜け目なくあるわけです。監視役の大本が大本です。
大本教の根拠地が京都であるのは監視の為でもあります。そして京都に原爆が落ちなかった理由でもあります。日本の本当の首都は田布施あたりか京都御所周辺でしょうから。
大本教の本部は二つあります。
①梅松苑【綾部祭祀センター】(京都府綾部市)(大本発祥の地にして祭祀の場)
②天恩郷【亀岡宣教センター】(京都府亀岡市)(「宣教の中心地」)
亀岡市には出雲大社の分院があります。
実は、出雲大社は、
×神仏習合○仏教による他教支配
の影響下で鎌倉時代から天台宗の鰐淵寺と関係が深まり、鰐淵寺は杵築大社(出雲大社)の神宮寺も兼ねたのです。まあ、出雲大社も寺に監視と管理されていたってことです。出雲大社の神主に鰐淵寺に支配されてきたことを言うと嫌がられること間違いなし!
綾部市も面白いところです(わざとこの地を選んだってことですよ)。
世界連邦宣言都市を宣言しているあの綾部市です。
1892年に綾部町に住む出口なおが神懸かり(笑)したらしいです。
綾部市は海賊大名・九鬼氏の城下町でした。海賊は反体制(北朝)側の傾向あり。
北朝に対抗するために、南朝の後醍醐天皇は海賊を味方につけておりました。まあ、土地基準で税を取る朝廷と海賊は利害が一致しませんから敵の敵は味方理論ですね。
北朝にとっては等しく「悪党」なのです。
一般人の私にとっては、敵も、敵の敵も、敵ですが。
九鬼嘉隆は最初伊勢国の北畠氏に属していましたが、後に織田信長に仕えました。
伊勢・信長(キリスト教公認)・海賊大名。
その後、信長の海戦部隊として伊勢長島の一向一揆の討滅戦において活躍(アンチ仏教海賊)しました。信長没後は織田信雄に仕えましたが、羽柴秀吉方に寝返り、九州征伐、小田原征伐に参加し、文禄・慶長の役では水軍の主力として功を挙げました。このような戦功の結果、紀伊半島(南朝の後醍醐天皇で有名)の制海権を与えられ、5万石の大名になりました。こうした経歴から、江戸時代には軍記物などで海賊大名の異称を取ります。
で、家督争いやら色々あって、幕府により九鬼家は代々守ってきた志摩を失い、九鬼久隆は摂津国三田藩に、九鬼隆季は丹波国綾部藩に移されました。ここに九鬼水軍はその水軍力を失い、陸に上がることとなったのですが、九鬼氏はこの後も廃藩置県まで生き残ります。
で、幕末、三田綾部の両藩共に討幕派につき、参戦。藩主家は明治17年子爵となり、華族に列しました。 九鬼隆一、九鬼周造らの末裔は優遇されるわけです。
伊勢と信長(キリスト教公認)にゆかりのある元海賊大名が幕府に復讐したわけです。
綾部市にある真言宗醍醐派の光明寺(こうみょうじ)があります。実はイエスキリスト(笑)だと支配者の太鼓持ちがでっちあげようとしたりするなど風評被害甚大な聖徳太子による開創を伝える古刹です。
で、真言宗醍醐派の総本山が醍醐寺(京都市伏見区)。
伊勢・信長(キリスト教公認)・海賊大名・真言宗・(後)醍醐天皇・大本教・世界連邦運動……すべて綾部市とゆかりがあります。
ちなみに、綾部市の姉妹都市・提携都市はエルサレム市(イスラエル)です。モロですな。
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bb4308 No.7492
>>7491
君が代の起源その3【20120502】
http://www.mkmogura.com/blog/2012/05/02/1114
“今の歴史研究の基礎となる日本書紀を編集をしたのは黒板勝美であり、彼の甥は醍醐寺霊宝館館長である。
そもそも、歴史を研究するうえで統治者の宗教というのは、一番最初に考えるべきところである。
生物を科学的に研究するのに、哺乳類か爬虫類かを知らずに研究は出来ないのと同じように。
しかし、キリスト教徒に言われ、「天皇と神社」という関係をでっち上げた日本では、その最初のステップにさえ到達できていない。
どんだけ、嘘があるんだよ、てなわけで、自分も騙されてる部分があるかもしれない。
まあ、他の歴史家、「人間は卵から生まれます=天皇は神道でした」よりは参考になるでしょ?
おっと、醍醐という単語でもわかる系譜。
今の嘘を作ってる縦糸(大本教的に言ってみた)
それが、前回の記事で箇条書きにした面子である。それを後醍醐天皇でまとめよう。
この醍醐の名を引き継いだ後継者、後醍醐天皇=南朝なわけである。
醍醐天皇・在位 897~930 後醍醐天皇・在位1318~1339
だいぶ離れてるけど、真言宗、土師氏などの、仏教の技術者軍団の中の系譜で、つながってるわけね。
そういうわけで、百済の血縁は、土師氏を中心とした、仏教の中で装飾などを担当する技術者一派を中心に構築されている。
その技術者の中での窓際族(落ちぶれた)であるといえる。
だから、「仏教界の中でこれが神道だよ」という嘘が、無理がありすぎるのばかりである。
吉田神道(徒然草、なぜか出家??!!)とか、吉川神道(毛利)とかね。
もっと、仏教の中で主流の一派だったら、「もっとわかりにくい嘘になっていた」だろう。
仏教の中でろくな功績を立てられなかったから、「天皇に結びつく寺」が少なく、九鬼氏(海賊&度会氏)の「伊勢神道=天皇」だとかの主張をせざるを得なかったわけで。
ちなみに、物部為国という人物は伊勢権大夫という肩書きで、高野山の工事をやったとして、伊勢→高野山も、落ちぶれた仏教界の技術者で繋がっています。(仏教反対の物部氏が起源。物部神道。)
神道という言葉自体が出来たのが江戸末期。それだけでも無理があるのに。
「ここらへんを神道ですよ~」と捏造を作ってるのが、ここらへんの落ちぶれた=主流になれなかった人たちね。。
そもそも、鎌倉や伊豆、これら神社が多いところ、そして南朝の元である吉野まで、基本的に「流刑地」で重なる。
流刑地では、仏教以外の崇拝儀礼が残った(許された)わけで、それに頼った形で、今の神社という嘘は出来ている。
主流は、藤原氏。
そして仏教の主教である天台宗系(中国つながり。呉織みたいな技術者もいるよ。)、あと聖徳太子のお師匠さん慧慈(技術者でもある)などから続く、高句麗系の派閥、こっちが主流派で形成されていたわけであって。
よって、のちの南朝、百済は仏教界の窓際族。
その中で、彼らがよりどころとしてる起源をあげると、この面子になる。
そういうわけ。
補足も少ししよう。
最近の天皇の発言でも確定的な「百済系」の桓武天皇。
その桓武の親戚である土師氏で、骨格は出来ている。
で、醍醐になって「菅原道真」という唯一の出世頭を排出したが、でも藤原北家に追い出されて、(更迭)。さらには、後醍醐天皇の時には吉野に逃げる。文字通り都落ち。
ちなみに源氏の先生になるのが、大江匡房(毛利)。その曾祖父にあたる匡衡に対して先生的な指導をした人物こそが、菅原道真の孫、菅原文時。
百済だけじゃなく、こう繋がってもいる。
ね、つながりなんて簡単でしょ?
骨格が仏教の装飾などを担当した土師氏。
それが、後醍醐天皇のときに、真言立川流になったこと。
そう考えれば、この意味、「失墜した」というのが、わかるよね。
Let’s骸骨本尊セックス!! 【20090504】
異端も異端。窓際族どころか、どれだけ追いやられて、カルト化したんだよ?ってことね。
寺の技術者か骨格。だから大覚寺、醍醐寺で繋がっている。
で、それが真言宗になって、とてつもない落ちぶれっぷり=異端=カルト化したってこと。
はい、おさらい。
桓武(百済生母)→土師氏(毛利)→醍醐寺・大覚寺(真言)→醍醐天皇(菅原道真)→後醍醐天皇(真言密教)→滅亡。”
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bb4308 No.7493
>>7492
君が代の起源その4【20120503】
http://www.mkmogura.com/blog/2012/05/03/1117
“君が代は「天皇すり替えを行った物達が、己の起源を再認識するための歌」である。
「彼らのため」の国の歌という舞台装置。
で、前回は、その彼らそのものの起源の話を箇条書きにした。
それと照らしあわす前に、今回は、君が代を整理したい。
君が代の制定は、明治2年(1869年)になる。
しかし、作られてから十年以上もの間、まともに歌われることはなかった歌でもある。
イギリスの歩兵軍楽隊から楽曲を薩摩藩兵は、習っていた。
その英国の軍楽隊隊長であるジョン・ウイリアム・フェントンは、薩摩兵から「日本には国歌がない」というのを、知らされる。
じゃあ「なんか選べ」と、薩摩砲兵隊隊長である大山岩次郎(のちの陸軍大将・元帥)に選ばせた曲こそが、君が代であり、フェントンがそれに旋律をつけたのが、初代君が代の誕生である。(今の旋律とは違う。)
君が代は、薩摩琵琶歌の蓬莱山の中にあり、それが好きだった大山(巌)が、その歌を選んだとされている。
その君が代のルーツを探ると、最終的には古今和歌集(紀貫之が編纂)した、読み人知らず=誰が作ったかわからない歌になる。
ここで、大山岩次郎(大山巌)について、軽く説明。
外国資本のしでかした明治維新と、選ばされた国歌・・・。
君が代という和歌を選んだ、この本名「岩次郎(当時は弥助と名乗った)」、のちに君が代から「巌」を自分の名として名乗り、今では大山巌という名前が一番有名になっている人物。満州軍総司令官でもある。
こいつの嫁に山川捨松(♀)といるのだが、当時、数億円の経費であろう海外留学をし、その後、日本に帰ってきて英語の教鞭を振るうという外国資本の手先そのままである。
この山川というのは、面白い話である。
戊辰戦争のときに会津側の指揮をしていた、つまり新政府軍と戦った会津側の指揮をしていたのが、山川大蔵。捨松の兄である。
で、薩摩藩砲兵隊である、とうの大山巌と戦争をした。
捨松の兄、大蔵の弟、山川健次郎という人物も有名だ。
この会津の戦争、つまり白虎隊に参加していた。
「白虎隊=勘違いで自決した」という「あやしすぎる話」の生き残り。
普通、推測だけで死なないと思うけど・・・背後から白虎隊をガトリングガンで一掃したとかのほうが信憑性が・・・。
おっと、山川は、自分の敵、なぜか逆側の手先になってるわけ。
それが大山の嫁。山川捨松。
それだけでも眉唾なわけだが、山川健次郎。こいつも生き残って米国に留学(エール大学)→そして、東京帝国大学総長(つまり東大の一番偉い人)にまで、エリート街道を上り詰めている。
敵だったのが、寝返って出生していく。留学というおまけつきでね。
ま、第2次世界大戦の後、岸、児玉とかの行動と一緒。
寝返り組だろうね。
どこかの韓国製菓財閥と関係が深い統一教会の御曹司と、その嫁みたいな話。
敵対してたけど、和解→結婚。そんなとこまで、おんなじ、おんなじ。
東京帝国大学総長である山川健次郎は、のちに国家主義思想団体「国本会」を設立している。(右翼っぽい)
山川って言うと、山川均という共産党を作った人物を連想するけど、それとは血縁関係がないよ。
たしか、その嫁が、この捨松の学校(同じ日本初の女子留学生、津田梅子が作った女子英学塾・津田塾大学)の出身だったから、「同じ山川か!!」って、最初は俺も勘違いしていた。
でも違った。
左翼が君が代に反対になっていくとこ。
それは自分が言う、ロスチャ系南朝族のように、最初は天皇すり替えに協力=左翼教育も基本はすり替えに隠蔽協力だったこと、そこからアンチになっていくという経緯が大事なところであるわけ。
君が代のこと。左翼がアンチ天皇になっていく、その経緯ね。
大正天皇と戦後のGHQ情報参謀2部の巻き返し(逆コース)で2度裏切られてるから。。
天皇すり替え→明治→大正天皇(北朝=左翼系の天皇になるはずだった)→追い出した&大正天皇は馬鹿だと流布→昭和天皇(南朝)が院政で乗っ取り→軍国主義(右翼化)→敗戦(天皇制の廃止するはずだった=GHQ民政局(戦後左翼教育)→象徴天皇→民政局を追い出した(GHQ情報参謀2部)→CIA体制(左翼的教育現場に愛国教育などの侵略)=今。
こんな感じになってるわけね。
戦後には消えるはずだった天皇。それを残したこと。
で、日本のロスチャ=左翼平和ボケ教育現場であるはずが、GHQ情報参謀2部(CIA)が巻き返したことで、「今」、君が代という「すり替えた南朝天皇の歌」を強制させようとしてるということ。
だから、日本のロスチャ(左翼系)がヒステリーを起こす。
君が代の強制は、軍国教育への回帰になるとかの主張でね。
日教組やらの義務教育の現場は、ロス茶の筆頭だからね。憲法9条を作ったアメリカ【20091224】
で、消えるはずだった天皇なのに、君が代として強制(侵略してきてる)として、今の君が代についての賛成、反対という問題になるわけ。
ここは、過去のおさらい。
特に左翼系は反対、日教組は断固として君が代は反対!!!でたまに、ニュースになる。
卒業式とかのときにね、
でも、そんなときに思い出して欲しい、こんな話を。
日本の左翼教育=ロスチャイルドといっていい。
そしてメーデーを含む、労働組合による運動=ロスチャイルド思想の歴史ともいえる。
よって、教員の労組、日教組=ロスチャイルドの権化といっていい。
統一教会臭い2ちゃんやら右翼やらが嫌いな代名詞、日教組であるが、この部分のロスチャであることは間違いはない。
1947年以降の逆コース、日本が左翼平和主義ではなく自衛隊と戦争屋、ロックフェラーの流れに、反転して進んでしばらくした後の1951年。
その、日教組自身によって、「新しい国歌」の募集が行われたのは、あまり知られていない。
正確には「新エルサレム・・・」ではなかった、「新国民歌の斉唱運動」ね。
彼ら自身によって選ばれた歌が、「緑の山河」という歌ね。
君が代に絶対反対の教師に、じゃあ君が代って何?と聞いても「よくわからない」と返答が返ってくるのだが・・・。
立場的には君が代を絶対反対という、そのロスチャの化身である日教組自身が、国歌を作ろうとしたことがあるわけ。
まあ、ボツになったけど。
理由がわからないけど反対!!でも、自分達の選んだ国歌ならOK!
それじゃ、単なる「好き嫌い」だろ!!!”
まっこうモグラ(管理人) さんのコメント
“民政局の最初の草案では天皇がなかったよ。
うーん、わけもわからない歌を歌わされてることという前提があるので、それは大事なとこではないんじゃないかな?
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bb4308 No.7494
>>7493
君が代の起源その5【20120504】
http://www.mkmogura.com/blog/2012/05/04/1120
“君が代を整理する。
起源は、醍醐天皇の命によって編纂された、古今和歌集である。紀貫之の手による古今集(905年もしくは914年頃)。
紀貫之が編纂=集めただけであり、この歌集の中の「賀の歌」に入っている、「読み人知らず=誰が作ったかわからない歌」が君が代の原型である。
わが君は、ちよにやちよに さざれいしの 巌となりて 苔のむすまで
最初の起源は、「君が代」ではない。
「わがきみ」である・・・。
面白いことに、しかも天皇の歌でもない。
「よみ人知らず=位の高い人ではない」わけであるし、「わが君」というのは、天皇などの目上の人に使う最上級の敬語の部類ではない。
「わが君」の意味としては、『私の頼りにしている主人は』みたいな感じが近い。
現代風に言うなら、社会人が、自分の直属の上司にあてて使う敬語程度。
他の歌で、天皇に使われる「大君は」と比べて、「わが君」=「私の主人」なわけ。
どっちかと言うと、「同系列上」、つまり「同じ階級」で、「頼りにしてる主人は」という種類の敬語という感じである。
むしろ、「わが君・・・」を、「自分と自分の上司は・・・」、の訳として並べてしまったほうが意味が近い。
身分の高い人ではなく、その人「私と私の主人は・・・」みたいに呼ぶのだから、「天皇の歌ではないでしょ?」ということになるわけ。
なぜ、この身分が低い人が作った歌を紀貫之は、選んだのか?
なぜ、これが『賀の歌(長寿の歌)』となるのか?
天皇の勅命に従ったわけだから、天皇に「提出したわけ」ね。
それも、「なぜか?」ってこと。
それが「君が代の意味を知る」ことに、決定的に繋がっている。
でも、答えは次回で。
明確な答えより先に、この話を。
1千年前の話ではなく、もう少し「君が代が、出来上がった時代のこと」、明治の時代に材料を集めることができる。
先に、この部分と、いつから「わが君」が、「君が代」になったのか?を。
なぜ、彼らが「君が代を選んだのか?」というところ。
君が代の、2番、3番のことも補足しておくべきだろう。
なぜ、選んだが見えてくる。
君が代には、3番までがある。
君が代は 千代に八千代に 細石の巌となりて 苔の生すまで
君が代は 千尋の底の 細石 鵜のるる磯と あらはるるまで
君が代は 限りもあらじ 長浜の 真砂の数は よみつくすとも
1番 古今集 読み人知らず→紀貫之
2番 源頼政(天皇のために京都御所で鵺ぬえを退治した源氏) 3番 光孝天皇の即位したときに奉納された歌
3番 光孝天皇の即位したときに奉納された歌
国歌として組み込まれた年代。
1番 1869年に外国資本に応じる形で選ぶ(大山巌)
2番 1882年以前=明治15年に国歌制定の動きがあったときに、2番として小学校唱歌に記載されている
3番 不明(わりと最近)1985年の文部省の調査で報告される
醍醐天皇、天皇を救った源氏、光孝天皇。
誰の歌か?で、「なぜか」、理由が浮かびあがる。
その選んだ理由は、「源氏」の略系図と重なる。
嵯峨天皇→清和天皇→「清和源氏」→「摂津源氏」→ 源頼政(2番)
嵯峨天皇→孫になる光孝天皇(3番)→醍醐天皇(編纂 紀貫之1番)
ここに、南朝の基礎
百済=桓武天皇=菅原氏=土師氏=醍醐寺=嵯峨天皇(大覚寺)
ね、重なるでしょ?
「源氏=八幡=征夷大将軍」という嘘が蔓延してること。
そして、南朝の主軸である百済勢力が、この醍醐寺などを中心とした「桓武からの仏教技術者=土師氏のなかにある」と知ってれば、彼らの都合のいいところから、「君が代」を選んだと浮かび上がってくるわけ。
源氏→大江→毛利もね。
今年の大河ドラマは平氏だそうだが、ここらへん、平清盛についても、桓武平氏(伊勢平氏=伊勢に本拠地を持った)という言葉があるように、桓武天皇(百済)で、間違いはない。
厳島神社には、平家ゆかりの物が多数あるが、ただ、桓武→土師氏の流れで、「仏教の中の技術者」と繋がっているだけである。
ここらへんの流刑地とも重なる海沿いの神社は、「海崇拝」程度の儀礼であり、歴史上の役割に神社が出てきたか?という問いは、絶対にNOであるからだ。
昔の神社という物は、政治とは一切関係ない宗教(儀礼)だからね。
「政治とは関係ない宗教(単なる儀礼)である」という意味を、ちゃんと考えるべきだろう。
この厳島神社というのも単なる海崇拝。
それを、NHKはいつものように、捏造しまくってくれるだろう。平家だから神器の話も出てくるかもね。
それに、征夷大将軍というものさえ嘘であると理解できれば、源氏と平氏の話も違って見えるだろう。
よく考えると、源氏はもちろん、平家だって、歴史の中で「天皇にくっついた数ある血筋の中の一つ」程度の話でしかない。
源氏と平氏で争って、「共倒れしました」みたいな。
笑い話とは言わないが、人情劇のモチーフ的な話というだけである。
昔の政治と神社の話をごまかすように、天皇と仏教に絡んできた藤原氏のこともごまかして、どうでもいい単なる滅んだ家系、源氏だの平家だのを、「重要だよ」と、教えこまれているのである。
その「変な話だよ」ということになってる「なぜ」。
そこに理由がある。
この場合は、桓武天皇からの百済の血筋「仏教の中の技術者の流れ」を、両者とも受け継いでいるから、そういう理由。「神社のもと」
これも基本は同じだよ。藤原氏を無視して、「こっちのほうが日本の重要な人達だよ」と言ってるようなことには、この「神道」という嘘、天皇すり替えという嘘がからんでるってこと。
だから、何度も言うように、支配者と宗教の関係を分析することは、一番最初の基本。
天皇は神道ですという、「人間は卵から生まれます」の考え方では、哺乳類について一切わかるわけない、歴史について一切わかるわけない。
おなじことだよ
源氏は八幡、大江、平家は伊勢、厳島神社などなどと関係してる→だから「特別な存在だよ」と捏造してるわけね。
百済文化が引き継がれてますよ、ってこと。
で、君が代は、その中の源氏の部分と重なるということ。
2番になる源頼政は、「摂津源氏」である。
平氏も勢力を伸ばした「摂津という国=津の国」と言えば、摂津=大江山と大本教というキリスト教そのものの名前を付けた宗教との関係、そして、津(港)の国。今の神社全庁と秦氏の関係、本人達が原始キリスト教徒と言ってる人達、ここらのつながりを連想するのも当然でしょ?
ね、君が代というものが、神社と同じ嘘の種類、必要性を内包している。
おっと、ここはまだ調査していない。
「源氏と重なる。」
これから説明する答えを補完できる材料である。
君が代の謎。
・細石とは何なのか?
・石が成長するのか?大岩になるのか?
・なぜ、これが「賀の歌」長寿の歌なのか?
・「わが君」とは、どういうことか?
・なぜ身分の低い人の歌が、天皇に贈られたのか?
では、明日明確な答えを出そう。
おっと、忘れていたことが一つ。
「わが君」が、「君が代」になったのは、「和漢朗詠集(1013年)」からという話である。
君が代の起源として、辞書や百科事典でも、こちらをあげている事例も多い。
当時の関白の子、藤原公任が、紀貫之の歌などを編纂して作った歌集の中に、古今和歌集の「読み人知らず」の「わが君」がこの歌集に一緒に編まれたわけである。
和漢朗詠集というのは、数多い写本があるのだが、原本は存在していない。
一部は、「わが君」での写本も残っている。
この「君が代」に変更した理由は、「わが君」が最上級の敬語ではなかったからでもある。
では、いつ、誰が、なぜ変更したのか?
上記にあげた「君が代の謎」という箇条書きの答えが、この「君が代に変更した」という答えも教えてくれるのである。
・なぜ、「君が代」にかわったのか?=変えた者たちは誰なのか?
では、明日の君が代事件簿の回答編に、進ませていただこう。
今回出てきた箇条書きの疑問を、もう一度、推理してみてはいかがだろうか。
明日の答えを聞くまでは、説得力はないかもしれないが、大胆な推理を披露しよう。
自分は「君が代」になったのは江戸後期からが基本であると考えている。
君が代の3番、
君が代は 限りもあらじ 長浜の 真砂の数は よみつくすとも
これは、もとから「君が代」の歌であり、同じ古今集の巻20にのっている。
古今集の中の「君が代」。
この歌から君が代になったとも言われている。
光孝天皇の即位したとき、大嘗の祭りのときに納めた歌であり、「伊勢の国の歌」として歌われた歌であるからね。
「伊勢の歌」「伊勢の歌」・・・・・。
ほら、君が代という都合がまた見えてくる。
「伊勢と天皇をくっつけたいのは、江戸末期から」なわけだからね。
つまり、和漢朗詠集の写本の存在は全部捏造か江戸末期の物。たぶん、ほとんどの物が。(残りの可能性もあるが、それは明日の記事で。)
「神のやたらつく天皇」の出てくる、日本書紀の神代記あたりの記述と同じこと。
それらは、キリスト教という神道のための捏造なんだよ。
それが、神道=天皇といってる歴史家しかいない馬鹿国歌の日本であるということ。
正直、中国や韓国を笑えんね。
天皇に対しては、都合の悪い敬語である「わが君」を、神道の都合から、伊勢の歌からもってきた「君が代」をつけた。
スジがとおるでしょ?
(もちろん、伊勢神宮なんてものが政治に絡むことはない。ね、真砂=海岸の砂を意味するでもわかるように、海崇拝の儀礼だったんだろう程度の話。)
「君が代」に変わったことの起源は、この天皇と神道の都合、伊勢の歌にある。
間違いなく、南朝。天皇すり替えのための歌である。
(明日の記事読んだら、読み返して、あなたも考えてみて)
でっちあげの神道と天皇の関係を必死になって捏造してる彼らの苦労を、理解してあげれば「答え」なんて簡単だよ、と。”
摂津と(元)海賊の九鬼氏と大本教はちゃんと繋がっています。
幕府により九鬼氏は代々守ってきた志摩を失う
→①九鬼久隆…摂津国三田
②九鬼隆季…丹波国綾部
に移される(九鬼水軍はその水軍力を失い、陸に上がるが、生き残る)
→幕末、三田綾部の両藩共に討幕派につき、参戦。藩主家は明治17年子爵となり、華族に列しました。 九鬼隆一、九鬼周造らの末裔は優遇されるわけです。
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bb4308 No.7495
>>7494
君が代の起源その6ラスト【20120505】
http://www.mkmogura.com/blog/2012/05/05/1122
“わが君は 千代に八千代に 細石の巌となりて 苔の生すまで
細石が巌=巨岩になって、苔が生える。
さざれいし=川に流される小石。
これが岩になる?
この誰も答えられない世紀の疑問に、お菓子を食いながら答える。
では、君が代のことを、説明しよう。
こんなものは歌心さえあれば、なぜなのかがわかるわけ。
まず、これは身分の低い人の作った歌である=「わが君」。
醍醐天皇の命を受けた紀貫之が、編纂した=天皇に提出した。
紀貫之は、「賀の歌」=長寿を願う歌にしている。
天皇すり替えと、当時の時代背景。それを知ってれば、簡単にすべて説明がつく。
そもそも、長寿の歌なら、何を「人に例えている=擬人化している」のか?
それは、紀貫之が選んでるわけで、「長寿の祝い」になるというところに間違いはない。
「苔むす」=巌・いわお(巨石)
苔が生えますよ=時間が続きますよ=永遠を願うわけだからね。
その巌は、川に流される小石(さざれいし)が、成長して出来上がると言うこと。
で、細石は実在してるが、大きな岩=巨石になることはない。
石の中のカルシウム分が溶けて、他の小石にくっつくだけ=これが実在している細石。
君が代の解釈を説明してる人で、一部は、君が代の「石が育つ」のは、塵も積もればで「鍾乳洞だ」と言ってる人もいるけど、「さざれ石=流される小石」である以上、それはないと思うぞ。
小川に流される石と鍾乳洞では、重なりようがない。
おっと、それ以前に「細石=巌=人」であるのは明確なわけ。
それなら簡単であり、当時の時代背景を知ってれば、なぜ紀貫之がこの歌を選んで天皇に献上したかも、簡単なことなんだよ。
結論からいう。
身分の低い「読み人知らず」が、この歌を作った。
その意味は、「私と私の主人は、時代の流れに負けず意地を張りつづけますよ」という意味。
当時、藤原北家に押されまくってた醍醐天皇。
そしてその醍醐天皇の側近である紀貫之は、この歌に感銘を受けて、「自分達も藤原氏に負けないで、巌になりましょう(団結しましょうの意味もある)=意地を張りつづけましょう」ということで、天皇に献上した。
川に流れていた細石が、流されないように育つということ。
つまり巌とは岩窟王のことさ。
(文字ヅラから連想されるガンコ=石頭であることと、藤原氏に取り囲まれてるという意味で、岩窟王とかけてみた)
そうすれば「苔むす=永遠ですよ」ってことね。
だから、「長寿を願う=賀の歌」なわけ。
ほら、桓武天皇から続く仏教界の窓際族、それが百済の流れで醍醐天皇につながってること。それが醍醐寺(真言宗)で、南朝の起源になっていくこと。
醍醐天皇の右大臣、菅原道真。失墜して悪霊化(歌の当時)→後醍醐天皇、吉野に流される(その後)。
ほら、百済という仏教界の窓際族で、藤原氏に負けそうだったって意味がわかるでしょ?
時代背景のこと。だから、「いわおになりましょう」なわけ。
細石が「昔流されていた小石」が、巌(巨石)になる。
これは天皇自身に「あなたは天皇なんです、藤原氏に、もう流されないで下さい」と言ってる部分もあるわけね。
・細石とは何なのか? =人間の意地=当時の天皇を指す
・石が成長するのか?大岩になるのか?
=もう藤原氏に流されない巌でいてね
・なぜ、これが「賀の歌」長寿の歌なのか?
=流されない、そうすれば千代に八千代にってこと
・「わが君」とは、どういうことか?
=天皇自体が藤原氏に負けそうだった部分もあるから
・なぜ身分の低い人の歌が、天皇に贈られたのか?
=身分の低い人が意地を通したように、自分達も従います、団結します(細石くっつきます)から、「流されないで」=懇願の歌でもある。
実在しない、細石から育つ巌(岩)が、人間そのものをさす事。
そして天皇自身へ向けた歌で、天皇よりも「権力があった藤原氏」の存在があるなら、わかりやすい歌でしょ?
で、右大臣の菅原道真は、藤原時平の一言で左遷させられるんだからね。
なんで、菅原道真が学問の神様として「神社に祀られているか」を知ってれば簡単。
ほら箇条書きの答えも、すんなり意味が通るでしょ。
あと、醍醐天皇の皇子である源高明も右大臣である藤原師尹の一言で左遷させられている事例とかもあるよ。
藤原家の全盛というと、のちの藤原道長のころを連想すると思うけど、この時代、君が代の3番に出てくる光孝天皇は、最初の関白である藤原基経が担ぎ出した天皇だからね。
で、確定的といえるのが、醍醐天皇(君が代1番)は、その基経の娘(醍醐皇后)にとっての婿扱いなわけ。
天皇に関白を認めさせたのが、この藤原基経だから。天皇を担ぎ出し、関白を認めさせた。=天皇に命令して実行した。権力構図がわかるでしょ?
「わが君」を紀貫之が天皇に献上した理由。
・「天皇自体が藤原氏に追い込まれていた」
・「藤原氏に流されないで=懇願した」
で、右大臣である菅原道真だけでなく、紀貫之も土佐守=高知に左遷させられるんだから、簡単でしょ?
君が代と藤原氏では、前回の記事、和漢朗詠集についてのことも補足する。
関白の子、藤原公任。醍醐天皇の頃より100年ほど後になるが、このときこそ、「藤原北家の全盛」なわけ。
此の世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることの 無しとおもへば
藤原道長が、天皇以上の支配者であるという歌、これをうたうのが、和漢朗詠集のできた直後である。
このときに「わが君」の歌が、「君が代」に変わったということだが、天皇をないがしろにしている藤原一族の一員である藤原公任が、そんな天皇に気をきかせるような理由自体が存在しない。
だから、「わが君」のままであって、伊勢とくっつけたかった江戸末期、もしくは明治になってから「わが君→君が代」したんじゃないのかな?と、自分は考えているわけ。
で、伊勢の歌で繋がってるなら、ほぼ確定的だろと。
おっと、天皇自体が「追い込まれていた」だから、懇願としての君が代があるわけ。
「あなたの地位を あきらめないで~♪」
あと、もともとの歌った人が「読み人知らず」であるわけで、どっちかというと元の意味は、「流されませんでした→意地を張りました」→「わが主人に栄光あれ!!!ぐふぅ!!」という、玉砕の歌、鎮魂の歌というほうが近いと思う。
この部分は、太平洋戦争のときの「天皇陛下万歳」をイメージが重なる部分もあるよね。
そういう意味では昔のナショナリズムの悪しき部分が露骨すぎる歌でもあるよね。君が代。
この鎮魂であるというのは、「君が代にも繋がる源氏」、そう、源氏物語も同じである。
正直、こうやって調べていくと「あまりにも捏造が酷い」わけで・・。
2割か、3割の可能性として、もとから「源氏物語ではなく、藤原物語だった?」=まるまる捏造だった!!!!!なんて可能性も、少し頭の中に残して考えてはいるんだが・・・。
とりあえず表面上の情報で言うなら、源氏物語の作者は紫式部という、藤原家の娘である。
時代も和漢朗詠集とほぼ重なる、まさしく藤原氏の全盛である。
天皇の嫁は全部が藤原氏!!!!
そんな時代に源氏物語という藤原氏の娘が、失墜したとはいえ、ライバルの関係になる源氏を賞賛する作品を作るというのも、妙な話なわけで。
タイトルが源氏であるなら、まさか藤原家賛美のための作品ってわけではないだろうし・・・。
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bb4308 No.7496
>>7495
http://www.mkmogura.com/blog/
2012/01/08/1037/comment-page-1#comment-1923
世界の果てさんへ
源氏物語は、源氏が衰退した後で当時の皇后には藤原氏系しかなれなかったので、その都合からも藤原道長がモデルといわれますが、読んで字のごとく源氏賛美の物語なわけです。
昔、ガキの頃、なんでわざわざ源氏にするの?ってところから、
「暴露本であるのか?」→源氏を暴露する理由も、藤原氏を暴露するのもおかしい
「ポルノ本とか、官能小説のような下品な娯楽か?」作品の中身はそうでもないし、女性週刊誌の感覚とは少し違うだろ
などなどから、今、自分は、井沢元彦のような考え方と、彼らのような人たちが隠す「源氏と天皇すり替えの都合」みたいな部分が答えで、鎮魂であろうと結論付けております
で、さっき出てきた藤原氏に島流しにされた源高明(醍醐天皇の皇子)あたりにむけた鎮魂の作品であると、なんとなく考えています。(源氏物語当時の1008年?~、まだ源氏全体では藤原氏におされ一部衰退しただけで滅んでもいない)
※正直、君が代を調べてみて「藤原物語の可能性」があがった・・・。
まじで、まるまる捏造だったりして?
鎮魂であるというのは井沢あたりの話から、もってきた考え方ね。
源高明は藤原氏から嫁をもらい、その間の子が天皇の息子の妃になった=親戚であるはずの藤原氏にとって邪魔になった・・・これが島流しの原因・・・なんという藤原氏の妬み!!!で、源氏物語がこの鎮魂のための作品なら一応の筋は通る。
おっと、君が代の話。
君が代の最初の原型は、身分の低い人が歌った「意地を張った」という歌である。
先述のとおり、「鎮魂の歌」に近い。
天皇のために、この歌を選んだ紀貫之らには、「懇願の歌」になるわけ。
今、この歌を、「君が代」という題名で歌っている。
これは、ロックフェラー系、つまり右翼が「今のすり返られた南朝天皇の世の中を未来永劫を願う歌」であると主張することも、もとの原型である「鎮魂の歌」から転じて、戦後に天皇を捨てようとしたロスチャイルドが「死を悲しむ歌=挽歌である=天皇は死んだ」と主張することも、どちらも、ある意味では正しい。
というか、両方とも意味は繋がっていると思うわけね。
天皇の永遠を願う歌
天皇の失墜=滅んだ=鎮魂
どっちとも言えるわけね。
もともとは「藤原氏によって傀儡化した天皇を嘆く」ためでもある。
そして追い込まれた天皇だから、この歌を、南朝の起源である醍醐天皇のアンチ藤原氏の奴らが、天皇に献上したということでもあるわけ。
ただ、一つ課題が残ってしまった。
「君が代」に、変わった経緯、このことは、疑問が残る。
自分が言ったように、君が代の3番、「伊勢の歌」つながりで、明治以降に「君が代」になったという可能性は、もちろんあるし。
そうではなく、普通に「君が代」になっていたという可能性もあるわけで。
もともとは、名もない人の歌、「わが君」である。
それが「君が代」になったのは、「もともと読み人知らずのための鎮魂だった、わが君の歌」が、南朝というものが滅びたことにより、「滅びた南朝自体をさす為に、君が代に変更されて歌われた」という可能性は十分あるからね。
君が代を選んだとされる大山巌は、薩摩琵琶の「蓬莱山」が好きで、この歌を選んだとされている。
この琵琶歌(鎮魂っぽいでしょ?)のもとが、和漢朗詠集で、そのもとが、古今和歌集であるからね。
薩摩ってだけで、南朝崇拝な部分はあるわけだが。
この蓬莱山は、室町末期、島津忠良が作ったのが最初といわれている。
和漢朗詠集の頃に、藤原氏が「君が代」と変更するのは、絶対にない(和漢朗詠集の写本は明治以降の捏造であろう)とは言い切れるが、南朝崇拝が部分的に残った「鎮魂歌」のなかで、「南朝全体をさすために、君が代に変えられて歌われていた」というのは、「ない」とは言い切れず、ありえる話ではあるからね。
南朝崇拝の鎮魂歌である太平記。
たぶん・・・・鎮魂である源氏物語。
そして、神道の起源は、仏教界の窓際族の百済の血縁にある。
「滅びた南朝にする」、それが明治維新。
それは、食べ残しをあさるカラスのように、「鎮魂の中の南朝崇拝」というのを拾い集めて、結果として神道というでっちあげを、無理やり作らなきゃならなかったということでもある。
源氏物語の源氏賛美などでは、鎮魂?であることを隠して、よくわからないけど源氏賛美みたいになってること。
そして、八幡=源氏ってだけの摩訶不思議な話に頼り、征夷大将軍という嘘までも作り上げていること。
そもそも、神社という嘘を、外国資本に言われて作らさせられている時点で、悲しすぎる。それはすり替えた、どこぞの馬の骨の天皇であると、バレバレすぎる稚拙すぎる話なわけで。
それに、もともとは藤原氏に追い出されたせいで、結果的に南朝という吉野に流れ、「真言立川流」というカルトにはしるほど、落ちぶれたわけでもあるのに。
藤原氏に負けてセックスカルト宗教になるのも、国際金融資本に言われて、神という御伽噺の「残飯宗教」を作らされるのも、同じではないかと。
どれもこれも、「救われない話」である。
もともとは、「藤原氏の傀儡にならないで」との意味で歌われた「わが君」という歌である。
「天皇、意地をはって負けないで」と。
それが、「君が代」という歌となって、今は「外国資本の傀儡に過ぎない天皇」のために歌われている。
流されていた細石も、巌となる。
流されないようになる。
意地を張らなきゃならないのは、誰なんだろうね?
君が代を賛成、反対とかはめんどくさいので、卒業式とかも骸骨本尊を抱えて、肩には「真言立川流」というタスキかけて、「南朝崇拝を強制される場合はこの格好をします」という「宗教の自由」を盾にして参列すればよろし。”
締め。
仏教徒だった天皇は完全にキリスト教に敗北し、天皇=現人神=和風イエスとなり下がり、イエスと同じく、虐殺人形と化しましたとさ。
そして今も、教科書には『土佐日記』『伊勢物語』『源氏物語』……
仏教説話集はあっても神道説話集なんてものはないのにね。
めでたくなし。めでたくなし。
Ummmこれだけの情報をまとめ上げるのには相当な調査が必要だったのではないでしょうか。次のDIGに繋がる情報も10年以上も前に残してくれていた皆様、有難うございます
※この情報を持ってきたことには、特定の宗教を信仰する一般人を攻撃する意図はないことを念の為記載しておきます
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bb4308 No.7497
>>7496
GODと「神」について
https://ebible.jp/engbib/god.html
翻訳の専門家ではないが、翻訳というのは難しいらしい。特に今日のように文化的交流が無い時代に、まったく文化の違う言葉に翻訳することは相当の苦労が必要だ。このような異文化間の翻訳で最も歴史が古いのは聖書だろう。かつて誰も行ったことのない、ことばも全くわからない国へ宣教師たちは出かけていき、ことばを学びながら、聖書を翻訳して、キリスト教を伝えていった。
今日でもウイクリフ聖書翻訳協会などが、あらゆる民族のことばに聖書を翻訳するため、同じような苦労を味わっているに違いない。
この辺りの事情を知る上でとても参考になるのが、”「ゴッド」は神か上帝か”(柳父 章著:岩波現代文庫)である。以下、その内容を掻い摘んで紹介しよう。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
聖書を最初に中国語に翻訳したのは、イギリス人のロバート・モリソンという宣教師であった。彼は中国(当時清国)の広州を中心に活動し、聖書翻訳と英華辞典の作成を手がけた。
モリソンは1819年に中国語聖書「神天聖書」の翻訳を完了し、1823年にマカオで出版した。アヘン戦争後、清国への宣教のチャンスが拡大し、聖書の改訳の必要性から1847年、上海にイギリス、アメリカの宣教師が集まって、改訳委員会が開かれた。(このときすでにモリソンは他界していた。)
このとき、英語の「God」の訳語をめぐって2つの意見が対立した。(ここで英語の「God」は、聖書の神の訳語として正しいということが前提にある。)
モリソン訳「神天聖書」は、「God」を中国語の「神(shin)」と訳していた。改訳するにあたって、委員長メドハーストを初めとするイギリス人宣教師は、「上帝(shan te)」を主張し、アメリカ人宣教師ブリッジマンはモリソンと同じ「神」を主張した。結局議論はかみ合わず、GodとSpritの部分を空白にした草稿を作ったのち、2つの中国語聖書を別々に発行することになった。
「上帝」派の主張
「神」の第一の意味は、たましいであって、唯一の至高な存在を意味しないので、不適当である。
「上帝」は中国の書物の中で常に至高の存在を意味している。
「神」派の主張
「上帝」は、政治的、現世的指導者の意味であり、不適当である。
「God」にふさわしい言葉は、もともと中国語には無い。
「神」派=ブリッジマンの2つ目の主張が重要である。つまり、中国人にはもともとキリスト教の神の概念は無いのだから、それに相当する言葉も無い。「聖書の神」の概念は所詮、コンテキスト(文脈)の中で理解していくしかない、という理屈であり、モリソンもこの考え方であった。翻訳者の姿勢として謙虚な姿勢である。しかし「神」という訳語が、やはり不適切であるという事実に変わりはない。
日本に最初に持ち込まれた中国語聖書は、ブリッジマンの訳であった。日本語にも「神」という言葉があり、同じ漢字を使う民族であったため、彼らは何の疑問も持たなかった。そして、最初の日本語訳聖書(明治訳)を作るときも、中国語聖書をお手本とし、無批判に「神」という訳語が使われて今日に至っている。しかし、日本で古来使われてきた「神」という言葉は、中国語の「神」ともまた異なり、2重のずれが生じている。
以上が、”「ゴッド」は神か上帝か”(柳父 章著:岩波現代文庫)の要約である。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
日本におけるGodの訳語については、明治以前のカトリックの初期宣教時と明治以降で変化が見られる。
フランシスコ・ザビエルが最初に日本で伝道したとき、日本人にわかりやすいようにと、「聖書の神」を「大日」と呼んだ。しかしまもなくザビエルは、このことばが仏を意味する言葉で誤解を招くことに気づき、「ぜうす」と自分たちの発音どおりに変更した。したがって明治以前のキリシタン達は皆「ぜうす」と呼び、決して「神」とは言わなかった。「大日」も「神」も、「天地創造の神」を表すことばとしてはふさわしくないと判断されたのである。
しかしプロテスタントの宣教師が中国語聖書を持ち込み、それをお手本に日本語聖書を翻訳するようになると、無批判に「神」が訳語となった。カトリックでは、幕末以降に「天主」ということばが使われていたが、これは中国でも「上帝」と並んで使われた訳語であり、これも本来仏教用語である。
明治初期の英日辞典では、Godの訳語は、「上帝、天主、神」、という順になっているが、やがて、「神」のみが訳語となった。
「神」ではなく、もっとふさわしいことばを使っていれば、日本のキリスト教はもっと普及したであろうと言われる。宗教社会学者の鹿嶋春平太氏(著書:「神とゴッドはどう違うか」など。)は、日本人が「神」と呼んでいる限り、正しい「聖書の神」の理解はできない、と主張し、「創主(つくりぬし)」と呼ぶことを推奨している。
ただ、私の感覚では昔と今とで「神」という日本語の意味が変わってきていると思う。私は昭和二桁生まれだが、「神」と言えば、やはりキリスト教の神、天地創造の人格を持った神を連想する。日本古来の神道の「神」のような具体性の無い「神」のイメージは無いに等しい。それは私がすでにキリスト教徒で聖書を読んでいるからかもしれないが、すくなくともコンテキストによってキリスト教の「神」概念が理解できたことは事実だろう。
言葉は時代と共に変わっている。現代においては、聖書の訳語は「神」で問題ないくらいキリスト教の神イメージは定着しているのではないだろうか。特に日本人は西洋文化をすんなりと受け入れてきたし、キリスト教徒でも無いのにクリスマスをお祝いし、教会で結婚式をするのだから、特別かもしれないが。
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ここでは「神」の訳語を取り上げたが、その他のことばについても、翻訳というのは非常に難しいものだ。だから、聖書を読むときには、ひとつの日本語訳だけでなく、いくつかの訳を比較することをお勧めする。また英語聖書もいろんな訳が出ている。これらを読み比べることで、聖書のことばの意味が立体的に浮かんでくることを私自身しばしば体験している。
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bb4308 No.7498
>>7497
中国語訳聖書
https://ja.wikipedia.org/wiki/中国語訳聖書
中国語訳聖書(ちゅうごくごやくせいしょ、中国語: 圣经汉语译本 或 聖經漢語譯本)は、キリスト教聖書の中国語への翻訳である。
中国語使用者とキリスト教
中国語は中国および台湾で共通語としてとして教育・日常生活に使われており、書き言葉は中国では第二次世界大戦後作られた簡体字、香港と台湾と世界に広く存在する華僑の地では伝統的な繁体字が多く使われている。
中国文化圏では、キリスト教三大宗派のうち、「天主教」(カトリック)、「基督教」(プロテスタント)が広く伝わっており、「東正教」(正教会)の信者も少数いる。
歴史
中国語聖書に関しては、唐代の7世紀に「景教」(ネストリウス派のキリスト教)が伝わり流行したと「大秦景教流行中国碑」で伝えられているので、聖書翻訳も行われたものと推測はされるものの、聖句の断片的な翻訳しか残っていない。
明代末の16世紀に入ると、カトリック宣教師たちが日本に次いで中国布教に乗り出すが、清代初期に日本と同様、最終的には禁教されてしまう。その迫害の最中にパリ外国宣教会のジャン・バセ(Jean Basset,MEP)によって翻訳が試みられ、1737年に「4福音書」および「使徒行伝」から「ヘブル書」第一章までが『四史攸編』として執筆された。しかしこうした事業は久しく忘れられていた。
19世紀よりプロテスタント諸教会による海外宣教が盛んになり、聖書の漢文訳が試みられる。新約聖書の全訳はロバート・モリソンによって行われ、1813年に『新遺詔書』全8冊として広東より出版された。これに引き続きモリソンはウィリアム・ミルン(William Milne)の助けを得て旧約聖書を『旧遺詔書』として1823年にマラッカから出版。上記二つを合わせて『神天聖書』全21冊(マラッカ、1823年)とした。
その後、宣教師会議によって改訳作業が行われたが訳語をめぐって会議が分裂。イギリスのメドハーストやストロナックは1852年に『新約全書』、1854年に『旧約全書』を出版した。これは代表者訳Delegate Versionあるいは文理訳Wenri Versionと呼ばれている。これに対してアメリカのブーンやブリッジマンそしてカルバートソンM.S.Culbertson,PNは独自の改訳を行い1861年に『新約全書』、1863年に『旧約全書』を米国聖書協会の手で上海から出版した。
宣教会議のこの分裂は主にThoseを「上帝」と訳すか「神」と訳すかで紛糾したことに端を発している。漢文の「神」では自然界の不思議な力を持つ精霊の類を含んでしまい、一神教の最高存在を示す言葉としては相応しくない。その一方で「上帝」は中国古来の存在であり、皇帝は上帝を祭る祭壇(天壇)で毎年冬至の日に儀式を営んでいた。カトリック宣教時代にはこうした儀式を「市民的慣習」とみるか異教の典礼とみるかで「典礼問題」が発生し、カトリックでは最終的に「天主」という訳語があてられたという経緯もある。『神天聖書』やブリッジマンの改訳聖書では「神」を、代表者訳では「上帝」が採用されている。この訳語問題は、その後も尾を引いたが、プロテスタントでも「天主」という訳語を採用するケースが増えているという。なお、日本へやってきたプロテスタント宣教師たちは「神」と訳したブリッジマンの改訳を参照して日本語訳を行ったので、日本のキリスト教会はその後一貫してThoseは「神」である。
清朝崩壊後のカトリックの聖書翻訳は、当時まだ若かったフランシスコ会の修道士ガブリエル・アレグラによって1935年に開始された。彼はヘブライ語およびアラム語による原語から旧約聖書の翻訳を開始し、それから10年経過した頃、北京において Frs Solanus Lee OFM, Antonius Lee OFM, Frs Bernardinus Lee OFM and Ludovicus Liu OFMの募集を行った。その後、中国は国共内戦が勃発。このため1948年、修道士は香港のStudium Biblicumを動かすこととなる。こうして20年の努力を経て1954年にようやく初の旧約聖書が出版された。また、1968年には旧約と新約を1冊にまとめた聖書が出版された。
現状
20世紀の間に数多くの中国語訳聖書が出版されたが、現在の中国のプロテスタント教会でもっとも普及している版は『和合本』と呼ばれる1912年作成で、様々な改定を経た翻訳である。香港と台湾では繁体字の『和合本』、中国では簡体字に再編集された『和合本』である。中国のカトリック教会で最近もっとも使われるようになったのは、1999年に翻訳が完了した『牧霊聖経』で、これまでの『思高聖経』に取って代わっている。
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bb4308 No.7499
>>7490
>七福神だろうと仏教だろうと、そのなかのインド神だろうと、古事記どころか、漢文だろうと、その後に作られたキリストに重なる意味での神様は存在しません。「天」ならいるけどね。
天
https://ja.wikipedia.org/wiki/天
天(Tiān、てん、あま)は、東洋思想の鍵概念のひとつで、人の上にある存在、人を超えた存在をあらわす。また東洋思想の概念だけでなく、後の時代に中国やアジアに伝来したインド哲学、仏教や、西洋思想・キリスト教 等々に含まれる類似の概念を漢字で表記するためにも「天」という語は用いられている。
「天」という言葉には様々な意味がある。まず基本から説明すると、「天」という漢字は、人の姿を現す「大」の上に、「一」を置いて、六書の指事で意味内容を示しており、人の上方、空の方向を示している。この意味における天は陽気の象徴であり、陰気の象徴である「地」と対義語になる。時に、「壌」と対義語にする場合もある。人の上方、という意味では「空」という字と意味がいくらか重なっている。その意味では(似た意味の字を連ねることで意味を示す方法で)「天空」とも言う。
中国思想の「天」「天帝」「天命」
人の上の存在、人を超えた存在という意味に関しては、中国の思想では、全ての人には天から、一生をかけて行うべき命令が与えられており、それを実行しようとする人は天から助けを受け、天命に逆らう者は必ず滅ぶと考えられている。天は全ての人のふるまいを見ており、善を行うものには天恵を、悪を行うものには天罰を与える。その時の朝廷が悪政を行えば天は自然災害の形を取ってこれを知らせ、逆にこの世に聖天子が現れる前兆として、天は珍しい動物を遣わしたり、珍しい出来事を起こしたりして知らせる、と考えられた。特に皇帝、王朝の交代時には盛んに使われ、ある王朝を倒そうとする者は「天の命が革(あらた)まって我々に新しい天命が授けられた。」と言う考え方をする。つまり革命である。
近世日本における解釈
幕藩体制のイデオロギーである朱子学における天は、理と等置され、人に内在する道徳的原理であると共に自然に内在する自然法則とも解釈された(石毛忠「江戸時代中期における天の思想」『日本思想史研究』三)。これに対し、徂徠学における天は、人格的意味が強く、「知の対象」ではなく、儒教(中国)元来の「敬(信仰)の対象」であった[1]。一方、国学者本居宣長は『古事記伝』において天命思想を否定している(詳細は道 (国学)を参照)。
人の上方、人を超えた存在としての天
・天は、天帝や神の住む所とされて来た。
「天」は神の住む所とされてきたので、派生的用法として「天」だけで神を意味することもある。
死後に人の霊が行く場所。人が行ける神の世界に近い場所。天国。嬉しい気持ちを「天にも昇る気分」と言う。
仏教上での「天」の意味は、佛を守る役目をする神々のことをいい、「梵天」「帝釈天」「毘沙門天」「四天王」「金剛力士」「十二神将」「弁財天」等がある。
「天部」も参照
・アイヌの「カント」も天と訳され、樺太アイヌ文化研究者の北原モコットゥナィによれば、天を除く、海や山奥にあるカムイモシリのカムイは送り返された後、さらに天=カントに行くことになっているとされ、カムイモシリの上の他界観としてある[2]。
・インド思想(インドの宗教)や西洋思想(西洋の宗教)が中国・アジアに伝わるにつれ、それらに含まれる、人を超えた存在を表す用語の翻訳にも、「天」の字が用いられるようになった。
(仏教)。梵語(サンスクリット)で「svarga」と表現される、「神々の世界」を漢字に翻訳する時に「天」の字が用いられた。「天界」とも。
「天 (仏教)」も参照
六道のひとつで、人の世界よりは優れているが、まだ輪廻を免れていない領域。(なお、インド仏教の世界観では、下から順に言うと、「欲界の六天、色界の十八天、無色界の四天」という階層的な世界がある、とされている[3]。)
・(キリスト教)万物を創造した唯一の神がいる世界、ラテン語で「cælum カエルム」、を漢字で表すために「天」が用いられている。「天主」とは神のこと。「天使」とは神の使いのこと。
・(冒頭で説明したように)「天」の字は人の上方を示し、結果として漢字では「空」の字と意味が重なるところがある。
なお、天は蓋(ふた)のように世界を覆っているとする天蓋説や、卵殻形の天が地球(卵黄に相当)を囲んでいるとする渾天(こんてん)説がある。
天候も指し、結果として気象をあらわす文字としても頻用されている。(「晴天」「荒天」等々)
・単純に方向を示す語としては、「北」がしばしば前方を指すのに対して、「天」は上方を指す。例:「天地無用」(上下を覆すな)
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bb4308 No.7500
>>7493
>日教組自身によって、「新しい国歌」の募集が行われたのは、あまり知られていない
日本における国旗国歌問題
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本における国旗国歌問題
現在、国旗国歌法(1999年8月13日法律第127号)の規定によって、日本国政府が公式に、日本国の国旗は「日章旗」(日の丸)であり、国歌は「君が代」であると指定している。
君が代の現状
君が代は、国旗国歌法によって、公式に日本国の国歌となっている。法制定以前にも、1974年(昭和49年)12月に実施された内閣府・政府広報室の世論調査[注 1]において、対象者の76.6%が「君が代は日本の国歌(国の歌)としてふさわしい」と回答する一方で、「ふさわしくない」と回答したのは9.5%だった[1]。君が代が日本の国歌にふさわしいという世論調査の一方で、君が代の歌詞への反対意見はしばしば取り上げられる。
意見の対立
前掲のとおり、君が代が日本の国歌にふさわしいという世論調査の一方で、君が代の歌詞への反対意見はしばしば取り上げられる。主に日本教職員組合や傘下の教職員労働組合による、教育現場での「君が代伴奏」「君が代斉唱」反対運動も存在する。主な肯定的/否定的意見には以下のようなものがある。
肯定的意見
事実上の国歌として歌われてきた明治以来の伝統を重視すべき
政治的背景とは無関係に日本的な曲であって、国歌に最もふさわしい
国民は愛国心を持つことが望ましく、「君が代」を歌うことで、その意識を高めることができる
歴史的に「君が代」は、国家平安を祈願する歌であり、そもそもの歌詞の意味合いが「祝福を受ける人の寿命」を歌う和歌であり、政治的意図は後付けである。
否定的意見
大日本帝国時代の国歌であり、歌詞は天皇崇拝の意味合いが強い。
(「天皇の治世」という意味の国歌は)天皇が絶対的権力者だった大日本帝国憲法には相応と言えても、主権在民の日本国憲法にはふさわしくない。
…(中略)
教育現場
「君が代」の教育現場での扱いについては一部で議論になることが多いテーマである。
1998年(平成10年)頃から教育現場において、文部省の指導で日章旗(日の丸)の掲揚と同時に「君が代」の斉唱の通達が強化される。日本教職員組合などの反対派は、日本国憲法が保障する思想・良心の自由に反するとして、旗の掲揚並びに「君が代」斉唱は行わないと主張した[要出典]。1999年(平成11年)には、広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺し、「君が代」斉唱や日章旗掲揚の文部省通達と、それに反対する現場の日教組教職員との板挟みになっていたことが一因であった。
これを一つのきっかけとして「国旗及び国歌に関する法律」が成立、日本国政府は「国旗国歌の強制にはならない」としたが、日教組側は実際には法を根拠とした強制が教育現場でされていると指摘、斉唱・掲揚を推進する教育行政並びに、これを支持する保守派との対立は続いてきた。
教育委員会から職務命令[7]が発せられていること自体は事実で、職務命令の服従を拒否した結果懲戒処分を受け、懲戒処分の取消を求める行政訴訟も頻発している。しかし近年、国民の大多数に受け入れられている現実から、日教組の姿勢も軟化し、入学式や卒業式での国旗掲揚国歌斉唱の実施率は上昇している。
日教組は、「日の丸・君が代」を拒否している[要出典]が、「君が代」に代わる新しい国歌の制定を主張していない。ただし、独自に新たな「国民歌」を公募したことがある。
君が代に代わる国歌制定運動
第二次世界大戦後の1950年代初頭、「君が代」に代わる新たな「国民歌」を作ろうと、日本教職員組合と壽屋(現:サントリー)がそれぞれ募集し、別々に「新国民歌」を選定し公表した。日本教職員組合が「緑の山河」、壽屋が「われら愛す」という楽曲をそれぞれ選出したが、その後、これらの曲は、いずれも定着までには至らなかった。
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bb4308 No.7501
>>7491
>醍醐天皇(醍醐寺=真言宗) → この醍醐の名前を引き継いだのが、明確な南朝である後醍醐天皇(真言立川流&大覚寺系統=南朝のこと)になる。
立川流 (密教)
https://ja.wikipedia.org/wiki/立川流_(密教)
この項目では、真言宗醍醐派三宝院系の法流の一つについて説明しています。俗に「立川流」と呼ばれる、性的儀式を信奉した名称不明の密教集団については「「彼の法」集団」をご覧ください。
立川流(たちかわりゅう)は、蓮念(仁寛、?–1114年)と見蓮によって創始され、平安時代末期から江戸時代中期にかけて存在した日本密教の真言宗の法流。真言立川流(しんごんたちかわりゅう)とも。真言宗醍醐派三宝院の流れを汲む。
近年恵海『破邪顕正集』(弘安4年(1281年))や宥快『宝鏡鈔』(天授元年/永和元年(1375年))などの影響によって、性的儀式を信奉する名称不明の密教集団(「彼の法」集団)と混同されるようになり、風評被害を受けたという学説がある。立川流は真言宗内では大きな勢力を持つことはなく、江戸時代中期に消滅した。
概要
密教には、血脈(けちみゃく)といって、師弟関係の歴史を記録した系図がある。立川流の血脈は大日如来・金剛菩薩に始まり、弘法大師空海を経て、真雅・源仁・聖宝(醍醐寺の開基)・観賢・淳祐・元杲・仁海・覚源・定賢・勝覚、そして「蓮念」という人物に続く[1][2]。この蓮念は、仁寛(?–1114年)が伊豆国に流罪になった後に改名した人物と一般に言われる[1]。蓮念までは、真言宗醍醐派三宝院の正統な血脈に属するもので[注釈 1]、蓮念によって新たな法流が創始されたと見なすことができる[4]。その弟子が見蓮という僧で、この人物の詳細は不明だが、柴田賢龍によれば、当時天台宗だった久能寺(後の臨済宗鉄舟寺(静岡県静岡市清水区))の僧であり[1][5]、宰相入道観蓮(公卿藤原教長(1109–?))とも親しかった可能性もあるのではないかという[5]。本物の立川流は、その血脈に必ず蓮念と見蓮を含むため、これによって俗に言う立川流(「彼の法」集団)と区別することが出来る[6]という説がある。
「立川流」という名称は、少なくとも建暦元年(1211年)8月25日写の金沢文庫所蔵「水丁秘口」まで用例を遡ることができる[3]。また、剱阿(1261–1338年)自筆の仁寛血脈に、「武蔵国立川蓮念」と書かれていることから、立川流の「立川」とは、武蔵国立川(東京都立川市)という地名に由来するのではないかと考えられる[7]。
真言立川流の血脈に連なる著名な僧としては、文永4年(1267年)に金沢流北条氏の菩提寺である横浜市称名寺(金沢文庫)の開山となった審海や、新義真言宗を立てた頼瑜(1226–1304年)などがいる[8]。
しかし、「俗に言う立川流」=「彼の法」集団との係わりで最も著名な僧は心定(1215–?[9])である。立川流の心定は『受法用心集』(文永5年(1268年)[10])の中で、荼枳尼天を祀り髑髏本尊という性的儀式を信仰する名称不明の密教の一派(「彼の法」集団)を「邪行」と批難した[11]。ただし心定の『受法用心集』には勿論「彼の法」集団や名称不明の密教の一派という名称が出ているわけではなく、またそれらを批難しているとは読めない点、心定自身が立川流の聖教を理趣経や瑜祇経の創作としている点(心定 2023, p. 303)、心定がそもそも立川流の僧侶であったのかという点、さらに典拠となる『受法用心集』が書写された年代により文の加筆などがある点も合わせて精査が必要である。 立川流は『受法用心集』に付言した恵海『破邪顕正集』(弘安4年(1281年))や宥快『宝鏡鈔』(天授元年/永和元年(1375年))などで髑髏本尊を祀る邪道法流だったかのような印象操作が行われて風評被害を受け、また、後醍醐天皇の側近の文観も立川流の一人と誤認されるようになったという学説が近年存在する(詳細は「彼の法」集団#歴史)。
『宝鏡鈔』によって邪教との汚名を被った後は衰退し、江戸時代中期に消滅した[12]。
2000年代に、ドイツの日本学者シュテファン・ケック(Stefan Köck)[13][14]らによって本格的な史料批判が始まり、真言立川流・「彼の法」集団(髑髏本尊を祀る教団)・文観派の三者はそれぞれに全く関係がない集団であると彌永は主張している[15][16]。「彼の法」集団(俗に言う立川流)についてではない、本来の意味での立川流に関する研究は醍醐寺の学僧の柴田賢龍らによって初めて為された[17]。
英語版
https://en.wikipedia.org/wiki/Tachikawa-ryū
立川流は、真言宗の宗派で、12世紀初頭に仁寛(1114年死去)によって創始されました。仁寛は真言宗醍醐寺派の僧侶で、当時の天皇であった鳥羽天皇の暗殺計画に関与したとして、1113年に伊豆国(現在の静岡県の一部)に流罪となりました。
中世後期、立川流は真言宗の他宗派の僧侶から性交や髑髏崇拝などの異端の儀式を行っていると非難され、悪名が広まり、江戸時代の衰退とその後の解体につながった。立川流の文書の多くは紛失または破損したため、長い間立川流に関する知識は主に反対者の著作に限られており、立川流に関する学術的および一般的な扱いは、これらの著者による反論を多かれ少なかれ額面通りに受け止めていた。しかし近年、一部の[要出典]が立川流の宗派、その本質、中世(およびそれ以降)の日本仏教における役割と影響の再評価を主張したことで、立川流の評判は回復し始めている。これらの学者は、「立川流」という用語には実際には必ずしも互いに関連しないいくつかの異なるグループが含まれており、それに起因する性儀式は実際には仁寛によって確立された系統とは異なる別のグループによって実践されていたと主張しています。
…(中略)
その後、仁寛がどうなったかは定かではない。1114年に自殺したとする文献もあるが[7] [8]、 1129年の記録では、仁寛はその時も京に戻っていなかったと記されている。[8]しかし、日野拓也(2012)は、仁寛は流刑中に別の名前で占星術師として活動していた可能性があると示唆している。実際、後の文献には仁寛が蓮念と改名したと記されており、この名前は立川流の血脈にも登場する。[ 8] [9]彼は、藤原忠実(1078-1162)の日記『殿暦』(1098-1118年)には、仁寛が占術の専門家が流刑にされたことで有名な伊豆の大島に流刑になったと記されていると指摘している。[10]
日野は仁寛を「朝廷の権威を強化し、朝廷と貴族の意志に対する潜在的な障害を取り除く目的で占星術と占いの実践を行った中世の占星術師」と特徴づけ、仁寛は最終的に「守護僧侶としての役割を果たせず、王国に大きな混乱をもたらした政治的失敗者と見なされた」としている。[11]占いは非主流の習慣ではなく、実際には当時の宗教活動だけでなく政治活動でも中心的な役割を果たしました。実際、占星術は平安時代の貴族の日常生活と意思決定を左右しました。[12]真言宗の僧侶義範(1023-1088)[13]は源俊房の一族や醍醐寺と深い関係にあり(正覚は実はその弟子の一人であった)、真言宗や天台宗の著名な僧侶の多くは、中国の影響を受けた仏教の占星術や占い(宿曜道)を実践していた。[ 14 ]
仁寛は伊豆にいる間に立川流を確立したと考えられています。立川流の批評家の一人である高野山の僧侶宥快( 1345-1416) は、宝鏡鈔(1375)の中で次のように書いています。
醍醐寺三宝院の正覚法師の弟子(実の兄弟)に仁寛阿闍梨(後に蓮念と改名)という人物がいたという話もある。この人物は何かの犯罪で伊豆に流されたらしい。そこで彼は肉食やその他の不道徳な行為をする女性や在家に真言を教え、弟子にした。同じ場所に武蔵国立川の陰陽師がいた。この人物は仁寛から真言を学び、自分の陰陽の実践を真言に持ち込んだ。こうして真理と邪教が絡み合い、内と外が混ざり合った。その結果、立川派と呼ばれ、真言の一派として持ち上げられた。これが邪教の源泉であった。[15]
立川流は邪悪な異端の儀式を伝え、実行していたという非難があるにもかかわらず、この宗派に由来する現存する文献には性的な教えや異端とみなされるような内容は含まれておらず、実際の立川流は醍醐寺流の分派である真言宗の普通の(マイナーではあるが)一派であったことを示唆している。[16] [17] [9]日野(2012)は、仁寛の流派が実際に行っていた占星術や占いの実践は「中世日本の多くの人々に共通する秘教的な実践であった」と強調している。[18]
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bb4308 No.7502
>>7501
批判と衰退
歴史記録から、立川流は広く受け入れられ、実践され、13 世紀中頃の南北朝時代には真言宗正統派の有力なライバルとなっていたことがわかります。これが流派の第二期と考えられています。13 世紀初頭、高野山の真言宗正統派は立川流に対する中傷キャンペーンを開始しました。この第二期は西暦 1500 年頃まで続きました。高野山の真言宗正統派による差別と攻撃は、西暦 1470 年頃に最高潮に達しました。
1470年から1500年は、流派の第三期の始まりです。この頃までに、真言宗の正統派は、立川流のほとんどの教えと実践者を正式に非難し、破門しました。しかし、立川流は依然として一般大衆に非常に人気がありました。立川流の作品は、三義一心記(三界一心)、不動尊愚抄(不動尊愚抄)、金光抄(本空洞の概要)などの作品でまだ出版されていました。立川流の思想と影響は、双身歓喜天(そうしんかんぎてん)と愛染明王(らがらじゃ)の宗教的実践や、密教天台のもう一つの主要な正統派である、現在は絶えた元始帰命団のカルトにも現れています。また、浄土真宗の教えや思想、特に覚鑁と道範によって展開された秘密念仏にも影響を与えた。[21]
頭蓋骨の儀式
立川流で実践されていたとされる多くの儀式や儀礼の中に、頭蓋骨儀式があります。人間や動物の頭蓋骨を使用する儀式は珍しくありません。立川流頭蓋骨儀式の正確な起源は不明ですが、歴史的文献から、インド・チベットのヴァジュラヤーナタントラのアヌッタラヨーガタントラ、特にヘヴァジュラタントラとカンダマハローサナタントラの儀式に似ているようです。しかし、さらなる証拠がなければ、その起源について他の結論を下すことはできません。
立川流髑髏儀式の記述は、真言宗の無名の僧侶、真乗によるものです。[22]真乗については、彼自身について書いたもの以外ほとんど何も知られていません。髑髏儀式については、1270年頃に書かれた彼の著作『受法用心集』に詳しく記されています(サンフォード 1991)。[23]
…(中略)
現代
立川流は事実上、絶滅した。13世紀に日本の当局によって非合法化され、その文献のほとんどが焼かれたり、高野山や関連寺院で封印されたりした。しかし、少なくとも1689年までは密かに流派が存続していたという主張もあり、変装して現在も活動していると信じる者もいる。[24]
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bb4308 No.7503
>>7501
>「彼の法」集団
「彼の法」集団
https://ja.wikipedia.org/wiki/「彼の法」集団
「彼の法」集団(かのほうしゅうだん)は、13世紀前半から[1]14世紀前半にかけて[2]、荼枳尼天を本尊とし、「髑髏本尊」などの性的儀式を信奉した日本の密教集団。本来の名称が不明なため、宗教学研究者の彌永信美が便宜上このように命名した。この他、真言宗醍醐派の学僧柴田賢龍による、内三部経流(ないさんぶきょうりゅう)という名称もある。
真言立川流の心定(1215年 - ?[3])は、「彼の法」集団を邪教と批判し、『受法用心集』(文永5年(1268年)[4])を著して髑髏本尊などの儀式の詳細を明らかにし、これを糾弾した[5]。ところが、恵海『破邪顕正集』(弘安4年(1281年))によって、「彼の法」集団と立川流が混同されるようになり、「彼の法」集団を批判した心定を含む立川流[6]の側が、逆に淫祠邪教と誤認されるようになってしまった。さらに、高野山教学の大成者である宥快(1345年 - 1416年)の『宝鏡鈔』(天授元年/永和元年(1375年))によって、後醍醐天皇側近の学僧文観房弘真(1278年 - 1357年)に結び付けられるようになった[7][8]。しかし、実際には、「彼の法」集団(髑髏本尊の教団)・真言立川流・文観派、これらの三者は、互いに全く異なる集団である。また、真言宗醍醐派から独立した宗教法人真如苑は総本部を東京都立川市においているが真言立川流や「彼の法」集団とは全く関係がない。
なぜ、宥快がこのようなことを行ったかについては、諸説ある。彌永の主張によれば、当時北朝の新進気鋭の学僧だった宥快が、南朝の実力者で巨大な権勢を持つ文観の一派を退けるため、言うなれば「真言密教界の南北朝内乱」に勝利するために、これらの弱小集団を身代わりの生贄にして「文観派=立川流=髑髏本尊を崇め性的儀式を行う「彼の法」集団」という図式を作り、文観派排除を図ったのだという[7]。一方、フランス出身の宗教学研究者ガエタン・ラポーの説では、政治闘争が動機とする点では彌永と同じだが、特に文観個人を狙った訳ではなく、敵対派閥を一緒くたにしてまとめて批判したのであるという[9]。また、ラポーによれば、中身の分析による異端批判ではなく、目録による異端批判という宥快の技法は、以降の異端批判の手法にも影響を与えたという[10]。
名称
本項目では、「髑髏本尊」などの性的儀式を信じた密教の一派とその影響について記述するが、この一派が本来なんという名前だったのかは不明である[11]。そもそも名前を持たなかった可能性もある[11]。たとえば、近い時代に両部神道や伊勢神道等の巨大な宗教思想運動があったが、これらの名前は後から付けられた名称で、当時の人は特に決まった名称を用いていなかった[11]。
2018年時点で、この一派はしばしば、真言宗の蓮念(仁寛)と見蓮を祖とする法流である立川流と混同される[12]。「彼の法」集団という名称は、本来の立川流と区別するために、2018年に仏教学者の彌永信美が論文「いわゆる「立川流」ならびに髑髏本尊儀礼をめぐって」(『智山学報』第67巻)で提唱した[13]呼称である[注釈 1]。このように名付けられた理由は、この集団に関する唯一の信頼できる情報源『受法用心集』で、一貫して「彼の法」「此の法」と呼ばれているからである[13]。その他、いわゆる「立川流」[15]や「いわゆる」付きの「立川流」[13]と彌永は呼称する。
また、彌永以前にも、2008年に、真言宗醍醐派の阿闍梨(師僧)・学僧である柴田賢龍が、本来の立川流と髑髏本尊の教団を区別するために、ブログ上で内三部経流という名称を提唱した[16]。このように名付けた理由として、柴田は、一つ目には髑髏本尊の教団が根本文献に「内三部経」という題の経典を用いていたこと、二つ目には沙門某による心定『受法用心集』への小序(文永9年(1272年)9月27日)に「爰(ここ)に邪法あり。内三部経[注釈 2]と名(なづ)く」とあることを挙げている[17]。
以下、本項目では、便宜上、「彼の法」集団と統一して呼称する。
歴史
起源
「彼の法」集団は、おそらく13世紀前半に成立したと思われるが[1]、その起源は正確にはわからない。立川流の心定(1215–?)によれば、「彼の法」集団は田舎真言師の一派(「都鄙の間、田舎の間」)、つまり正規の真言僧ではなく、民間信仰のシャーマン的な人間によって作られたのではないか、という[18]。実際、「彼の法」集団の「血脈」(けちみゃく、後述)は真言密教的に有り得ないものとなっており、彌永によれば真言宗を聞きかじって憧れを抱き真似しただけの素人が作ったかのようにも見えるという[19]。
彌永信美は一方で、創始者は密教へ深い知識を持った人物だった可能性もまた考えられるとする。唐代(618–907年)の『大佛頂廣聚陀羅尼經』に髑髏を使った儀式の記述があり、おそらくこの経典の内容を読んだ、もしくはまた聞きした人間が中心にいたのではないか、という[20]。この経典の髑髏儀式には性的な内容は直接には含まれていないが、男女の髑髏について有用性の違いが述べられており、この箇所は解読が難しいので、あるいは性的な内容にも誤読されることも有り得るかもしれないと述べる[20]。つまり、民間のシャーマンのように無学な存在ではなく、この経典の内容に触れ得るほど仏典に精通した人物によって創立された可能性もまた捨てきれないという[18]。
また、彌永によれば、性的儀式に関しては、中世密教の「赤白二渧論」と「胎内五位説」から発展したという[21]。
彌永によれば、これらの髑髏儀式と性的儀式の二つを組み合わせて成立したのが「彼の法」集団である[22]。13世紀当時、髑髏を使う儀式と性的儀式それぞれ単体は、この集団以外にも行う一派があった[23]。「彼の法」集団の特徴は、両方を組み合わせたので、「エロスとタナトス」的な不気味さが感じられることであるという[22]。また、普通の「異端」宗教は性的儀式を「含む」ことが批判される(それが批判者からの誹謗中傷であるかどうかはともかく)のに対し、「彼の法」集団は性的儀式を単に含むだけではなく中心的な儀式として用いた(と批判された)のも固有の特徴である、とする[22]。
密教には、血脈(けちみゃく)といって、師弟関係の歴史を記録した系図がある。しかし、「彼の法」集団の血脈は、真言僧や仏教学者が見れば捏造と判断されるほど錯乱した系図になっている[24]。しかも、「彼の法」集団は「灌頂の血脈」と「三経一論の相承血脈」という二つの血脈を相伝するが、このような流儀は正統な真言密教には存在しない[24]。この点もまた、真言宗醍醐派三宝院の流れを汲む格式ある血脈を備える本物の立川流とは対照的な部分である[25]。
なお、「彼の法」集団の性的儀式を解釈する上では、当時の人の感覚では性行為がどのように捉えられていたかについても注意する必要がある[26]。彌永の主張によれば、奈良時代から江戸時代末期までの日本では、性について語ったり他人に見せたりすることは、笑いの一種として捉えられていたという[27]。たとえば、平安時代後期に書かれた藤原明衡『雲州消息』では、伏見稲荷の祭りで、男女の芸人が見世物の一環として「交接」をして観衆の哄笑を誘ったと記録されている[27]。
…(中略)
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>>7503
宥快による批判
南朝との政治闘争説
そうして実際の「彼の法」集団が既に消滅した後に現れたのが、高野山真言宗の学僧宥快(ゆうかい、1345年 - 1416年)[注釈 3]である。この宥快が著した『宝鏡鈔』(天授元年/永和元年(1375年))によって、「彼の法」集団・立川流・後醍醐天皇の側近文観房弘真(1278年 - 1357年)が結び付けられるようになった[7][8][36]。なぜ宥快がそのようなことをしたのかについて、本節では、宗教学研究者の彌永信美が2018年に唱えた説に従って述べる。
彌永の主張によれば、宥快には、文観という僧侶の一派を根絶したいという強い意志があったという[37]。なぜなら、当時、日本は南北朝時代(1336–1392年)に突入していて、朝廷は南朝と北朝に分かれており、北朝方である宥快は、南朝の後醍醐天皇や後村上天皇に側近として仕えて権勢を誇った文観の一派とは、敵対していたからである[37]。この年(1374年)には、南朝と北朝の戦いはほぼ北朝勝利で決しており、南朝方の文観派を攻撃する好機だった[37]。加えて、文観派との論戦に勝利できれば、高野山真言宗内部での自分の地位も大きく上がるであろう、と考えたのかもしれない、という[37]。しかし、文観は1,000巻以上もの膨大な仏教学的著作を残した知的巨人であり[38]、その学説に正面から対抗するのは簡単ではなかった[39]。
彌永の説によれば、このような戦いにおいて、宥快が目を付けたのが、(本物の)立川流である[37]。まず立川流をスケープゴートとして邪教の烙印を押し、それから文観が立川流所属の人間であることにすれば、文観派を一括して排除しやすくなり[37]、正面から論戦しなくてもレッテル貼りで勝利することができるのである[39]。犠牲にするのは立川流ではなくどれでも良かったが、立川流は真言宗全体の中で見れば弱小な法流に過ぎないので、ちょうど適していた[37]。もし他に弱い適当な法流があれば、それを選んでいたであろう、と彌永は推測する[37]。
もともと13世紀半ばには既に、立川流を批難するかのような徴候が一部にはあった[6][注釈 4]。また、立川流の心定が「彼の法」集団の性的儀式を批判した『受法用心集』には色々と写本・刊本があり、おおよそ「守山本」に近い系統と、「高山寺本」(弘安4年(1281年)写)単独で構成される系統の、二系統に分かれている[4]。このうち「守山本」系統では、心定が立川流の僧侶であることが明記されている(「(前略)灌頂を受け、立川の一流秘書(奥義書)悉(ことごと)く書きつくし了(おわん)ぬ」)[6]。ところが、「高山寺本」では、「立川の」という部分が削除されており、心定の法流がわからなくなっている[6]。しかも、「高山寺本」の末尾には恵海の『破邪顕正集』という書の一部が付録しており、この中では性的儀式を行う「彼の法」集団=立川流なのだろうかと推測されている[41][42][注釈 5]。よって、「高山寺本」を引用するだけで、立川流=「彼の法」集団=邪教の構図を作ることができるのである[41]。なお、彌永の主張によれば、宥快は、心定が立川流であることが明記されている「守山本」系統の『受法用心集』も入手していたかような節がある[45]。つまり、立川流に無知だったのではなく、意図的に邪教の罪を負わせた可能性も考えられるのである、という[46]。
こうして宥快は、天授元年/永和元年(1375年)、『宝鏡鈔』を著して、文観やその他の敵対法流を批判した。この書はしばしば「立川流の文観」を批判したものと紹介される。ところが、実は、宥快は「文観は立川流の人である」などとは一言も本文中で述べていない[8]。宥快は、たとえば「弘真流(文観派)の書籍は(中略)多く大和の国や越中の国に存在する(後略)」という文の直後に、「立川流もまた(中略)越中と大和の国に多く(後略)」という文を置く[8]。こういう書き方を繰り返すことによって、文観(およびその他の敵対法流)と立川流を直接結びつけることなく、読み手が文観派(およびその他の敵対法流)=立川流と誤解するように仕向けた[39][8][36]。彌永は、「著者・宥快が攻撃しようとするすべての法流を「あたかも立川流と同様に性的な邪義であるかのように」示す方法は、きわめて巧妙で、根拠薄弱な中傷に満ちたもの」[39]と述べる。
正邪弁別説
フランス出身の宗教学研究者のガエタン・ラポーもまた、2017年に発表した論文の中で、文観房弘真や立川流が邪教とされたのは、宥快の『宝鏡鈔』によるテキスト操作によるものとする[36]。一方、なぜ宥快がそのようなことを行ったかについては、彌永信美とは別の見解を述べる。
ラポーもやはり、宥快らによる敵対派閥批判が、教義上の対立というよりは、権力抗争・政治闘争に基づくものであることを指摘する[47]。しかし、文観個人を狙って集中攻撃したとする彌永説とは違い、ラポーは敵対派閥を満遍なく狙ったものであるとする[9]。たとえば、宥快の『宝鏡鈔』による立川流批判のある部分では、立川流ではなく金剛王院流の実賢らが批判されている[9]。立川流の心定は、金剛王院流の如実に学んだこともあるなど、この二つは全くの無関係とも言えないが、基本的には別の流派であるにもかかわらず、である[9]。
ラポーの推測によれば、宥快はこのように混同しやすい複数の敵対派閥を、意図的に混同してまとめて一つの巨大な異端流派として扱うことで、個々の法流に対する教義の分析を回避した[9]。そして、その仮想上の巨大流派が、後世に立川流と呼ばれるようになったのではないか、という[9]。
ラポーの主張によれば、宥快の発明のおかげで、それ以降の真言宗では、「正」と「邪」の弁別を効率的にすることが可能になったという[10]。教義の中身への分析の有る無しにかかわらず、もし、ある僧やその著作が宥快(あるいはその後継者ら)による目録や議論に現れていれば、その教義を異端的と見なすことができるのである[10]。そして、宥快以降、第二次世界大戦終結後ごろまでの600年近く、目録そのものへの批判的分析は為されなかった[10]。その意味において、宥快らが編み出した目録による異端批判という手法は、現代に繋がる真言宗を形成する上で、大きな貢献を果たしたのではないか、という[10]。
文観・立川流のその後
こうして、文観房弘真は淫祠邪教の妖僧の烙印を押され、その一派は南朝と共に亡び、「邪僧文観と邪教立川流」のイメージは後世を支配し続けた[38]。例えば、祐宝の 『伝灯広録 』(宝永4年(1707年))は、「上奏状」なる偽文書を引き、文観は荼枳尼天を祀って算道卜筮・呪術修験を操る「外法」の怪僧で、陰陽師や山伏と同類の者であると述べている[38]。
スケープゴートにされた立川流の方は細々と生き延びたが、それでも江戸時代中期には絶えた[48]。
文観・立川流の名誉回復
文観・立川流を邪道とみなすことの問題点は2000年以前から櫛田良洪や甲田宥吽らによって部分的に指摘されていた[注釈 6][49][50]。しかし、「彼の法」集団(髑髏本尊の教団)・真言立川流・文観派の三つがそれぞれ別の集団であると判明し、彼らの名誉が回復されたのは、2000年代、ドイツの日本学者シュテファン・ケック(Stefan Köck)[51][52]らによって本格的な史料批判が始まってからである[50][53]。
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bb4308 No.7505
>>7504
…(中略)
しかし、「彼の法」集団の本流におけるこの儀式の奥には別の真実が隠れているという説がある。「彼の法」集団の本流では、独自の見解として『理趣経』には本来、男性と女性の「陰陽」があって初めて物事が成ると説いている。また、この儀式に8年もの歳月がかかるのは、その過程で僧侶とその伴侶の女性が悟りを得ることがその目的だからであり、そうなればもはや髑髏本尊など必要なくなってしまう[67]。
「彼の法」集団では、両端の片方が三鈷杵、もう片方が二鈷杵になって人形(ひとがた)にも見える金剛杵を好んで用いたとされ、流派独自の命名でその名を「人形杵」(にんぎようしょ)と呼んでいた[68][69][70]。その後は、「彼の法」集団の弾圧に伴い誤解を受けてこの法具も姿を消し、現在、博物館[注釈 10]などに文化財として少数が残る他は、好事家に珍重されるか「唐密」の古法の一部で知られる以外は、一般に用いられることはない[71]。
なお、「彼の法」集団の本流における教義は、日本の陰陽道の教えを取り入れ、「陰陽」の二道により真言密教の教理を独自に発展させたもので、男女交合の体験を即身成仏の境地と見なし、男女交合の姿を曼荼羅として図現したものである。しかし、髑髏を本尊とするなどの儀式に関しては、あくまでも俗説であって、「彼の法」集団の秘儀や作法などが述べられた文献はほとんど焚書で亡失しており、「彼の法」集団に性愛教義があったとする主要な論拠はこの流派を邪流として非難した側の文書にあるため、それが真実かどうかはわからない。
「彼の法」集団の真髄は性交によって男女が真言宗の本尊、大日如来と一体になることである[72]。 「彼の法」集団の本流において男女交合の体験、すなわちオーガズムが即身成仏の境地であると曲解されるに至ったのにはいくつかの理由がある。密教では、人間はそもそも汚れたものではないという、自性清浄(如来蔵思想)[73]という考えがあり、『理趣経』の原文には、「妙適清浄句是菩薩位(びょうてきせいせいくしほさい)[74]」、「欲箭清浄句是菩薩位(よくせんせいせいくしほさい)[74]」、「適悦清浄句是菩薩位(てきえつせいせいくしほさい)[75]」などとあり、そこには性行為を含めて、仏や菩薩の境地に至ったならば[76]、人間の営みはすべて本来は清浄なものであると『十七清浄句』[77][78]に説かれていることに起因すると考えられている[79][80]。
しかし本来、理趣経の十七清浄句はそのように理解されるものではない[注釈 11]。
また、20世紀までの文献では、「彼の法」集団は「東密(真言密教)の流れを汲む」邪宗とされたため、台密(天台宗の密教)でも玄旨帰命壇という口伝相承に愛欲を肯定する傾向が生じたとされることから、この二つはよく対比して論じられることが多い[81][82]。
ポップカルチャーへの影響
かつては「立川流」の名称で「性行為に基づく秘術を修めた魔術的秘密結社」としてフィクション(特に伝奇小説や怪奇小説)の題材とされる事が多かった。一例としては夢枕獏『魔獣狩り』、京極夏彦『狂骨の夢』、黒須紀一郎『婆娑羅太平記』、朝松健『一休暗夜行』などが挙げられる。またコンピューターゲーム『Fate/EXTRA CCC』に真言立川流(正確にはその架空の傍流『真言立川詠天流』)最後の宗主にして元宗主の娘という設定のキャラクターが登場している。
Ummmm本当のところはどうなんでしょうか….
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bb4308 No.7562
こんな計画があったとは、知らなかった
日本の分割統治計画
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本の分割統治計画
日本の分割統治計画(にほんのぶんかつとうちけいかく)は、第二次世界大戦終了後の日本本土を連合国が分割統治しようとした計画案。
ソビエト連邦は、北方四島と北海道占領計画を持っており[1]、またアメリカ合衆国もイギリス、ソ連、中華民国の連合国での分割統治する案を検討したが、結局、日本占領は分割占領でなく連合国軍最高司令官総司令部による日本国政府を介した間接統治となった[2]。
日本占領計画案の経過
ブレイクスリー原則
国務省対外政策諮問委員会極東班のジョージ・H・ブレイクスリーが領土小委員会(PWC territorial group)に提出した1943年7月28日の「日本の戦後処理に適用すべき一般原則」(General Principles Applicable to the Post-War Settlement with Japan:T-357)では、日本の領土については、満州を含む全軍事占領地、および民族自決の原則から朝鮮と台湾からの撤退が主張された[3][4][5]。
1944年3月14日には、ブレイクスリー議長が起草した「戦後日本に関する米政府の目標」(The Postwar Objectives of the United States in regard to Japan(PWC108, CAC116))にはこうある[6][4]。
(領土)日本は満洲、委任統治諸島、軍事占領下の全地域より撤退し、朝鮮、台湾、第一次大戦後に獲得した全島も奪われる。
(軍事)日本が米国と太平洋諸国にとっての脅威とならないようにする。そのために日本を武装解除し、軍事を監視し、経済をコントロールし、連合国の安全保障のために長期制限する。
(経済)略
(政治)他国の権利と国際義務を尊重する政府を日本に樹立することが、アメリカの国益である。軍国主義から解放された新政府は、平和維持のための文民統制政府となる。よって(1)陸海軍から政治的特権を剥奪する、(2)新聞とラジオを通して、民主主義国と知的コミュニケーションの自由を確立する(3)節度のある政治分子を強化する
(最終目的)太平洋地域での平和と安全のために、日本を諸国の中で完全・平等かつ友好的な一員へ復興する。
アメリカ合衆国の間接統治案(SWNCC150)
1945年6月、初期対日方針(SWNCC150)では、日本の行政機関を利用する間接統治方式が記された。
アメリカ合衆国の直接統治案
1945年8月8日、マッカーサー司令部のブラックリスト作戦は日本に対する直接統治を念頭においた[7]。
アメリカ合衆国の分割統治案
一方、統合戦争計画委員会(JWPC)の日本領土に対する最終的占領案である政策文書 385/1 は日本を5つの地域に分割して統治する分割占領案を勧告していた[7][1]。
SWNCC 70/5
1945年8月11日にアメリカ国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)が承認し、8月18日にトルーマン大統領が承認した大統領宛覚書「日本の敗北後における本土占領軍の国家的構成(NationalComposition of Forces to Occupy Japan Proper to the Post-Defeat Period)(SWNCC 70/5)で連合国による分割占領案が記載されている[2]。覚書SWNCC 70/5では、
C.. The United Kingdom, China and the Soviet Union have a responsibility to participate with the United States in the occupation and military control of Japan and the obligation to assume a share in the burden thereof.
と書かれており、連合国であるアメリカ、イギリス、中国、ソ連も日本の軍事占領に貢献する必要があるとされていた[2]。
JWPC385/1
7月6日付の合衆国陸海軍最高司令官(大統領)付参謀長ウィリアム・リーヒによる短いメモ(JCS1398/2)には「日本を占領統治するなら、コストを節減し米軍は最小限にとどめるべきだ。米国が日本軍政に主な責任を負うべき理由はない」とあり、その影響でポツダム会談へ向かう代表団は、米軍負担の軽減化のため、連合国による日本共同占領案が高まり、日本降伏の翌8月16日に、ペンタゴンの統合戦争計画委員会(Joint War Plans Committee,JWPC)が起案した日本占領案「日本とその領土の最終占領(Ultimate Occupation of Japan and Japanese Territory)」(JWPC385/1)が成立した[8]。それによれば、
占領開始期は、米国が単独で占領せざるを得ず、二十三個師団・八十五万人の米軍を投入する。組織的抵抗、反乱のため一年間は維持する。
三ヶ月目からは、米軍を撤収させ、各国軍に占領させる。
ソ連:北海道、東北地方。
アメリカ:本州中央(関東、信越、東海、北陸、近畿)。
中華民国:四国。
イギリス:西日本(中国、九州)をそれぞれ統治
東京は四カ国共同占領。
一年後、各国兵力を半数以下に削減し、米軍は13万5千人程となる。
ソ連の北海道占領計画
詳細は「樺太の戦い (1945年)」、「占守島の戦い」、および「 ソビエト連邦による北海道侵攻計画」を参照
ヤルタ会談でソ連は対日参戦の見返りとして北方領土を占領することが認められていた[1]。しかし、8月16日にスターリンは、北方領土だけではなく、北海道北東部(釧路-留萌を結んだ直線以北)の半分をソ連占領地とするよう、トルーマン大統領に求めた(「北海道スターリンライン」や「留釧の壁」と呼ばれた)[7][1]。17日トルーマンはヤルタでの協定を根拠にこれを拒否、18日にはこれはスターリンにも伝えられたとみられるが、その後も南樺太で日ソ両軍の戦闘が続く中、24日留萌、釧路への上陸作戦決行を前提にスターリンは潜水艦部隊を18-19日にも出撃させ、ワシレフスキー大将からの21日午前1時の極東ソ連軍全軍への北海道及び南千島上陸作戦準備に関する指令で、これらの上陸作戦の準備を23日までに完了させるよう指示が出ている。最終的には、22日午後0時10分頃南樺太で抵抗を続けていた日本軍が無条件降伏し停戦協定が成立したことにより、順次日本軍との戦闘状態が終結、同日午後のうちにはスターリンはトルーマンに北海道北東部の占領が認められなかったことに失望を表明しながらも、トルーマンの主張を受け入れる旨、返信している。21日、この停戦が成立する昼頃までの時間の間にも、三船殉難事件や豊原駅への空襲が起き、多くの民間人犠牲者が生じている。
アメリカによるソ連北海道占領案拒否と単独統治(SWNCC70/5・150/3)
8月18日、トルーマン大統領は、スターリンの要求を即座に拒否し、分割占領を回避することを勧告する国務省案である SWNCC70/5 を承認した[7][1]。
8月22日、さらにトルーマン大統領は SWNCC150/3 を承認し、日本政府を介した間接統治方式を最終的に承認した[7]。
なお、スターリンは8月23日に極東地域の日本軍捕虜50万人をシベリアに移送するよう命じた[1](シベリア抑留)。
戦後、ソ連はアメリカに対して日本への分割統治を強く求めたものの、マッカーサーがこれを拒否した[9]。
イギリス連邦占領軍による中国・四国統治
1946年2月にはイギリス軍、オーストラリア軍、ニュージーランド軍、インド軍などのイギリス連邦占領軍(the British Commonwealth Occupation Force ,BCOF)が中国・四国地方を統治した[10]。
1-8 トルーマン「日本の敗北後における本土占領軍の国家的構成」(SWNCC決定)を承認 1945年8月18日
https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/018shoshi.html
統合参謀本部の承認を受け国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)が1945(昭和20)年8月11日に承認した「敗北後の日本占領軍の国家的構成」(SWNCC70/5)に対して、同月18日付けでトルーマン大統領が承認した覚書。日本の占領と軍政における他の連合国の責任と分担に関する米国政府の政策である。本文書は、最高司令官をはじめ主要な司令官は米国が任命し、米国が軍政において支配的発言権を行使することを規定する一方で、英中ソは米国とともに占領軍への実質的な貢献を求められるとし、米国の主導権は堅持しつつも、他の連合国との協調的な政策を形成する方針がとられた。本文書はその後、極東諮問委員会といった連合国対日占領管理機関の設置をめぐる議論の中で修正を受け、最終的に、日本本土の占領は米占領軍が主力となり、分割占領が回避された。
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bb4308 No.7563
>>7562
題材にしたフィクション作品
架空戦記や歴史改変SFではよく題材にされる。
小説
『あ・じゃ・ぱん』- 矢作俊彦
東経139度線を境に大日本国(The Japan)と日本人民民主主義共和国に分かれている。1980年代末の東西の指導者はそれぞれ吉本シヅ子と中曽根康弘。東の首都は東京、西の首都は大阪市。
『一分ノ一』- 井上ひさし
『屋上のテロリスト』- 知念実希人
『影の艦隊』- 山田正紀
『五分後の世界』- 村上龍
『征途』- 佐藤大輔
北海道の留萌市 - 旭川市 - 釧路市を結ぶ線より北側と南樺太が日本民主主義人民共和国/北日本になっている。 北日本の首都は豊原市(ユジノサハリンスク)。逆に日本国/南日本は北方領土を実効支配しており、在日米軍基地が置かれている。
『沈黙の橋』- 東直己
『日本分断』- 豊田有恒
日本民主主義人民共和国と大和民国に分断。
『レヴァイアサン戦記』- 夏見正隆
日本は対米戦争に勝利(有利な条件で講和)したが、その後の大不況で内戦となり、東日本共和国(内戦を引き起こした「平等党」独裁による社会主義国)と西日本帝国(大日本帝国の流れを汲む立憲君主国)に分裂。東京23区の真ん中を壁(国境)が走っている。東の臨時首都は新潟市、西の首都は東京(西東京)。なお皇居は京都市。両国の状況は朝鮮半島のパロディに近い。
『ひきさかれた街』- 藤本泉
『鸚鵡の罠』- 笠井潔
『大逆転!2003年戦艦「武蔵」』- 檜山良昭
『赤い旅券』- 井上淳
漫画
『スカルマン』 - 石森章太郎(石ノ森章太郎)
敗戦後津軽海峡を挟んで南北に日本人民共和国と大日本共和国に分断され、現在も進駐軍に占領されている。
『百姓貴族』 - 荒川弘
「作者の出身地北海道が第二次大戦後にソ連やロシア領となっていたら」という設定で描かれる回が存在する。
『太陽の黙示録』 - かわぐちかいじ
『Qコちゃん THE地球侵略少女』 - ウエダハジメ
『国境のエミーリャ』- 池田邦彦
ゲーム
『ROSE GUNS DAYS』 - 07th Expansion
『RING of RED』 - コナミ
『凱歌の号砲-エアランドフォース-』 - コーエーPCゲーム
『咎狗の血』 - Nitro+chiral
『レーベンスラウム 新世界大戦1985』 - ホビーデータPBM
アニメ
・境界戦記
『雲のむこう、約束の場所 』 - 新海誠
1945年の敗戦後、北海道がソ連の制圧下に置かれ、日本の主権回復後もソ連、及びその後継として1956年にフルシチョフが樹立した共産国家群「ユニオン」の占領下に留まり、エゾと名称を変える。その後エゾでのナショナリズム高揚を受けて1975年に国交断絶、完全に分断される。
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