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君が代の起源その5【20120504】
http://www.mkmogura.com/blog/2012/05/04/1120
“君が代を整理する。
起源は、醍醐天皇の命によって編纂された、古今和歌集である。紀貫之の手による古今集(905年もしくは914年頃)。
紀貫之が編纂=集めただけであり、この歌集の中の「賀の歌」に入っている、「読み人知らず=誰が作ったかわからない歌」が君が代の原型である。
わが君は、ちよにやちよに さざれいしの 巌となりて 苔のむすまで
最初の起源は、「君が代」ではない。
「わがきみ」である・・・。
面白いことに、しかも天皇の歌でもない。
「よみ人知らず=位の高い人ではない」わけであるし、「わが君」というのは、天皇などの目上の人に使う最上級の敬語の部類ではない。
「わが君」の意味としては、『私の頼りにしている主人は』みたいな感じが近い。
現代風に言うなら、社会人が、自分の直属の上司にあてて使う敬語程度。
他の歌で、天皇に使われる「大君は」と比べて、「わが君」=「私の主人」なわけ。
どっちかと言うと、「同系列上」、つまり「同じ階級」で、「頼りにしてる主人は」という種類の敬語という感じである。
むしろ、「わが君・・・」を、「自分と自分の上司は・・・」、の訳として並べてしまったほうが意味が近い。
身分の高い人ではなく、その人「私と私の主人は・・・」みたいに呼ぶのだから、「天皇の歌ではないでしょ?」ということになるわけ。
なぜ、この身分が低い人が作った歌を紀貫之は、選んだのか?
なぜ、これが『賀の歌(長寿の歌)』となるのか?
天皇の勅命に従ったわけだから、天皇に「提出したわけ」ね。
それも、「なぜか?」ってこと。
それが「君が代の意味を知る」ことに、決定的に繋がっている。
でも、答えは次回で。
明確な答えより先に、この話を。
1千年前の話ではなく、もう少し「君が代が、出来上がった時代のこと」、明治の時代に材料を集めることができる。
先に、この部分と、いつから「わが君」が、「君が代」になったのか?を。
なぜ、彼らが「君が代を選んだのか?」というところ。
君が代の、2番、3番のことも補足しておくべきだろう。
なぜ、選んだが見えてくる。
君が代には、3番までがある。
君が代は 千代に八千代に 細石の巌となりて 苔の生すまで
君が代は 千尋の底の 細石 鵜のるる磯と あらはるるまで
君が代は 限りもあらじ 長浜の 真砂の数は よみつくすとも
1番 古今集 読み人知らず→紀貫之
2番 源頼政(天皇のために京都御所で鵺ぬえを退治した源氏) 3番 光孝天皇の即位したときに奉納された歌
3番 光孝天皇の即位したときに奉納された歌
国歌として組み込まれた年代。
1番 1869年に外国資本に応じる形で選ぶ(大山巌)
2番 1882年以前=明治15年に国歌制定の動きがあったときに、2番として小学校唱歌に記載されている
3番 不明(わりと最近)1985年の文部省の調査で報告される
醍醐天皇、天皇を救った源氏、光孝天皇。
誰の歌か?で、「なぜか」、理由が浮かびあがる。
その選んだ理由は、「源氏」の略系図と重なる。
嵯峨天皇→清和天皇→「清和源氏」→「摂津源氏」→ 源頼政(2番)
嵯峨天皇→孫になる光孝天皇(3番)→醍醐天皇(編纂 紀貫之1番)
ここに、南朝の基礎
百済=桓武天皇=菅原氏=土師氏=醍醐寺=嵯峨天皇(大覚寺)
ね、重なるでしょ?
「源氏=八幡=征夷大将軍」という嘘が蔓延してること。
そして、南朝の主軸である百済勢力が、この醍醐寺などを中心とした「桓武からの仏教技術者=土師氏のなかにある」と知ってれば、彼らの都合のいいところから、「君が代」を選んだと浮かび上がってくるわけ。
源氏→大江→毛利もね。
今年の大河ドラマは平氏だそうだが、ここらへん、平清盛についても、桓武平氏(伊勢平氏=伊勢に本拠地を持った)という言葉があるように、桓武天皇(百済)で、間違いはない。
厳島神社には、平家ゆかりの物が多数あるが、ただ、桓武→土師氏の流れで、「仏教の中の技術者」と繋がっているだけである。
ここらへんの流刑地とも重なる海沿いの神社は、「海崇拝」程度の儀礼であり、歴史上の役割に神社が出てきたか?という問いは、絶対にNOであるからだ。
昔の神社という物は、政治とは一切関係ない宗教(儀礼)だからね。
「政治とは関係ない宗教(単なる儀礼)である」という意味を、ちゃんと考えるべきだろう。
この厳島神社というのも単なる海崇拝。
それを、NHKはいつものように、捏造しまくってくれるだろう。平家だから神器の話も出てくるかもね。
それに、征夷大将軍というものさえ嘘であると理解できれば、源氏と平氏の話も違って見えるだろう。
よく考えると、源氏はもちろん、平家だって、歴史の中で「天皇にくっついた数ある血筋の中の一つ」程度の話でしかない。
源氏と平氏で争って、「共倒れしました」みたいな。
笑い話とは言わないが、人情劇のモチーフ的な話というだけである。
昔の政治と神社の話をごまかすように、天皇と仏教に絡んできた藤原氏のこともごまかして、どうでもいい単なる滅んだ家系、源氏だの平家だのを、「重要だよ」と、教えこまれているのである。
その「変な話だよ」ということになってる「なぜ」。
そこに理由がある。
この場合は、桓武天皇からの百済の血筋「仏教の中の技術者の流れ」を、両者とも受け継いでいるから、そういう理由。「神社のもと」
これも基本は同じだよ。藤原氏を無視して、「こっちのほうが日本の重要な人達だよ」と言ってるようなことには、この「神道」という嘘、天皇すり替えという嘘がからんでるってこと。
だから、何度も言うように、支配者と宗教の関係を分析することは、一番最初の基本。
天皇は神道ですという、「人間は卵から生まれます」の考え方では、哺乳類について一切わかるわけない、歴史について一切わかるわけない。
おなじことだよ
源氏は八幡、大江、平家は伊勢、厳島神社などなどと関係してる→だから「特別な存在だよ」と捏造してるわけね。
百済文化が引き継がれてますよ、ってこと。
で、君が代は、その中の源氏の部分と重なるということ。
2番になる源頼政は、「摂津源氏」である。
平氏も勢力を伸ばした「摂津という国=津の国」と言えば、摂津=大江山と大本教というキリスト教そのものの名前を付けた宗教との関係、そして、津(港)の国。今の神社全庁と秦氏の関係、本人達が原始キリスト教徒と言ってる人達、ここらのつながりを連想するのも当然でしょ?
ね、君が代というものが、神社と同じ嘘の種類、必要性を内包している。
おっと、ここはまだ調査していない。
「源氏と重なる。」
これから説明する答えを補完できる材料である。
君が代の謎。
・細石とは何なのか?
・石が成長するのか?大岩になるのか?
・なぜ、これが「賀の歌」長寿の歌なのか?
・「わが君」とは、どういうことか?
・なぜ身分の低い人の歌が、天皇に贈られたのか?
では、明日明確な答えを出そう。
おっと、忘れていたことが一つ。
「わが君」が、「君が代」になったのは、「和漢朗詠集(1013年)」からという話である。
君が代の起源として、辞書や百科事典でも、こちらをあげている事例も多い。
当時の関白の子、藤原公任が、紀貫之の歌などを編纂して作った歌集の中に、古今和歌集の「読み人知らず」の「わが君」がこの歌集に一緒に編まれたわけである。
和漢朗詠集というのは、数多い写本があるのだが、原本は存在していない。
一部は、「わが君」での写本も残っている。
この「君が代」に変更した理由は、「わが君」が最上級の敬語ではなかったからでもある。
では、いつ、誰が、なぜ変更したのか?
上記にあげた「君が代の謎」という箇条書きの答えが、この「君が代に変更した」という答えも教えてくれるのである。
・なぜ、「君が代」にかわったのか?=変えた者たちは誰なのか?
では、明日の君が代事件簿の回答編に、進ませていただこう。
今回出てきた箇条書きの疑問を、もう一度、推理してみてはいかがだろうか。
明日の答えを聞くまでは、説得力はないかもしれないが、大胆な推理を披露しよう。
自分は「君が代」になったのは江戸後期からが基本であると考えている。
君が代の3番、
君が代は 限りもあらじ 長浜の 真砂の数は よみつくすとも
これは、もとから「君が代」の歌であり、同じ古今集の巻20にのっている。
古今集の中の「君が代」。
この歌から君が代になったとも言われている。
光孝天皇の即位したとき、大嘗の祭りのときに納めた歌であり、「伊勢の国の歌」として歌われた歌であるからね。
「伊勢の歌」「伊勢の歌」・・・・・。
ほら、君が代という都合がまた見えてくる。
「伊勢と天皇をくっつけたいのは、江戸末期から」なわけだからね。
つまり、和漢朗詠集の写本の存在は全部捏造か江戸末期の物。たぶん、ほとんどの物が。(残りの可能性もあるが、それは明日の記事で。)
「神のやたらつく天皇」の出てくる、日本書紀の神代記あたりの記述と同じこと。
それらは、キリスト教という神道のための捏造なんだよ。
それが、神道=天皇といってる歴史家しかいない馬鹿国歌の日本であるということ。
正直、中国や韓国を笑えんね。
天皇に対しては、都合の悪い敬語である「わが君」を、神道の都合から、伊勢の歌からもってきた「君が代」をつけた。
スジがとおるでしょ?
(もちろん、伊勢神宮なんてものが政治に絡むことはない。ね、真砂=海岸の砂を意味するでもわかるように、海崇拝の儀礼だったんだろう程度の話。)
「君が代」に変わったことの起源は、この天皇と神道の都合、伊勢の歌にある。
間違いなく、南朝。天皇すり替えのための歌である。
(明日の記事読んだら、読み返して、あなたも考えてみて)
でっちあげの神道と天皇の関係を必死になって捏造してる彼らの苦労を、理解してあげれば「答え」なんて簡単だよ、と。”
摂津と(元)海賊の九鬼氏と大本教はちゃんと繋がっています。
幕府により九鬼氏は代々守ってきた志摩を失う
→①九鬼久隆…摂津国三田
②九鬼隆季…丹波国綾部
に移される(九鬼水軍はその水軍力を失い、陸に上がるが、生き残る)
→幕末、三田綾部の両藩共に討幕派につき、参戦。藩主家は明治17年子爵となり、華族に列しました。 九鬼隆一、九鬼周造らの末裔は優遇されるわけです。