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708131 No.7366
>>7365
めったにおこらないことだが、銀行員は忘れたのだろう。後になり、ルツが弁護士のメル・ベリーを雇ってシティーを訴え、金を取り戻そうとしたら、「コーリンはニューヨークへ宣誓証書を提出してたの。でもそれにはその口座の開設に関わったことを否定してたのよ、それどころかその取引自体までも否定して、一九七一年にセベリーノ・サンタ・ロマーナが銀行にやってきて、何かの事業を始めるのに少しばかりのお金を借りたいと話していった事を思い出したって言うのよ。」サンティーは四千三百万ドルものお金を持っているのに小さな勘定はないだろう。偽のボロ着を身にまとった風変わりな金持ちサンティーはフィリピン中の家や事務所の壁の中の秘密金庫に金を貯めこんでいたにちがいない。それらは日本軍が東南アジアで没収した通貨で東京へ返却されなかったものだったのだろう。マルコスを恐れたサンティーとルツは洗濯袋に金を詰め込み、シティ・バンクへ持っていった。そこが安全だと思っていたとしたら、とんでもない間違いだった。ルツの話によると、サンティーはそこで九個の貸金庫を借り、現金と宝石で中をいっぱいにしたという。マルコス一族の話では、軍事裁判の直前、サンティーはファースト・ナショナル・シティー・バンクのマニラ支店からニューヨークのシティ・バンクへ預金を動かし、八億ドルをフィリピンから海外へ振替えたそうである。しかし、彼はそんなにすぐにしたわけではない。一九七三年二月二七日、サンティーは
大統領個人事務室のあるマラカニアン宮殿に出頭させられ、マルコスにタイプで書かれた「遺言書」に署名をさせられた。この書面には、サンティーが「自分の資産、不動産、動産、他国の通貨、財宝、貸金庫の安全と貯蔵のための個人的な理由でいろいろな名前えを使用している」、とあった。さらに続けて、「私はマニラ、香港、カリフォルニア、ニューヨーク、アルゼンチン、シンガポール、台湾、ドイツ、オーストラリア、ほかのいろいろなアジアの国々の貸金庫に多くの資産を保有している。」遺言書には「私の妻、ジュリエッタ・フェルトを上記のすべての財産の後継者とし、私が死にいたった場合、全権力と権威のもとに裁判所の検認に従い、私の管財人を執行するための第三者を指名するであろう。」と銘記されていた。遺言書にサンティーが署名し、立会人は仕事仲間のジョーズ・T・ベラスケス、そしてマルコスの従僕、ジル・デ・グツマンと大統領秘書ビクタ・G・ニチューダだった。正式にジユリエッタ・フェルトを唯一の法定相続人にするものだったが、彼が死ぬとマルコスが容易に財産の管財人を指名できることになっていた。そうなればマルコスがサンティーの預金を支配できることになる。
数ヵ月後の一九七三年三月、他にも精神的な攻撃を受け、マニラから香港の香港上海銀行へ五億ドル移した。この合計、つまりニューヨークのシティバンクへ振り替えた八億ドルを加えると、彼はマニラの外へ現金で十三億ドル移し終えていた。同じ期間、彼は後日、日本の三和銀行に乗っ取られてしまうことになる一六四〇トンの金塊を香港銀行へ移送した。それからすぐ、レイテ島のタクロバンへの旅行中、ルツとサンティーは逮捕への恐怖からなのか、飲みすぎで大騒ぎをしてしまった。戒厳令の中、マルコスは誰でも逮捕することができる。タルシアナはサンティーからキャンプ・バンパスの軍事基地に留置されていると長距離電話で告げられた。彼はタルシアナに「噂話で」逮捕されたと言った。(マルコスが裏で噂を流していたのだ!)できる限り早くレイテに来てほしいとタルシアナに叫んだ。タルシアナがやってきたので、彼はシティバンクの支店長代理へ私信を運ぶように話し、貸金庫の鍵を渡した。ひとつの貸金庫には他の八つの貸金庫の鍵が入っていた。二番目の金庫にはタルシアナが貸金庫の支払いをするための現金が、三番目には彼女に持ってきてほしい宝石類が入っている。タルシアナが手紙と鍵を持ってシティバンクへ行くと、コーリンは出国していつ戻るか分からないと聞かされた。何年にも渡ってサンティーはCIAやランスディール将軍に格別に保護されてきた。しかし一九七三年、諜報部は大混乱に陥った。高官の多くは、「首になるか、左遷されるなんて馬鹿馬鹿しい。」と辞職していった。彼らの関心は、自分達の秘密組織か影のCIAを設立する事に集中した。CIAはよく「ザ・カンパニー」と呼ばれていたから、新しく作った影のCIAは「エンタープライズ」とでも呼ばれていたのだろう。(あとの章でもっと詳しく説明しよう。そして不思議な成り行きも・・・。)
この混乱の中、サンティーはランスディール、ヘリウェル、クラインなどと共に昔なじみとしてワシントンに招かれた。一ヶ月以上にわたり、彼らはサンティーと昔のOSSの話、例えばマオとの戦い、台湾脱出の話、どの様にしてCAT(クレイル・ケンナウルト・市民航空)をエアー・アメリカに変えたのか、或いはラテン・アメリカやアフリカ、そして鉄のカーテンの裏で行った数々の秘密作戦を説明し、大いに盛り上がっていた。彼はメイフラワー・ホテルへ帰ると、毎晩グラスを片手に椅子に座り、知りえた事を日記に書いていた。ところどころ日付や綴りが間違っているあわれな文章は、タルシアに言わせるとウイスキーのせいだった。その日記の中には数年後にようやくアメリカ市民が知るようになる数多くのCIA秘密工作の内容が説明してあった。
例えばどうしてCIAが自らDNPエンタープライズの様なものを所有したのか。アンゴラなど、極秘の戦争支援のためにどのぐらいの会社が、航空、海運、軍事物資の供給、傭兵などで存在したのか・・などなど・・。人々は、「沈黙を守るために年金を払うのだ。」と彼は言う。そして道徳的なジレンマを多くの諜報員の作戦で感じていたと述べている。「事件に対する倫理観があったかどうか疑問だし、戦時法はCIAには適用されないからね。」費用も法的な許可なしに使われ、諜報員への資金援助は彼らの好きにまかせた。サンティーは神経質になっていたようで、「ラングレー本部は時々、財産は確かに増えていると曖昧にほのめかしただけだ。」とある。日記の最後のあたりには、CIAとニクソン政権はアジア全体をだらしない所と確信しており、長期間の米国介入を正当化したと書いている。「強調したいのは、第三世界であるアジア独占企業の内部事情にあからさまなアメリカの干渉が継続していたことだ。」
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708131 No.7367
>>7366
さて、昔のサンティーの保護者が望んでいた物とは、今や彼らは自分達の私設CIAや私設の軍隊を設立している時であり、ワシントンが失っていた闇の金塊のいくらかを手に入れたかったのだ。彼らはサンティーが大変な金額の個人預金を眠ったまま所有していることを知っていて、それを自由にしたかったのだ。マルコス、CIA、新しい影のCIAの強い圧力に対し、サンティーは自分自身と財産を守るために次の段階へ進まねばならなかった。彼はフィリピンへ引き返し、よく考えた後の一九七四年八月一日、タルシアナへ電話を入れ、カバイト市へ会いにくるように求めた。彼女がやってきた時彼は、彼女に「すべての基金と有価証券、社債の管理と責任」を持ってもらうため、DNPエンタープライズの国内会計士として彼女を正式かつ公式に指名する書類を渡し、彼の旧友であり同僚のDNP エンタープライズ社長、ジョセ・T・バラスクィーズ・JRの助言をもとに、預金も企業への融資もその名前で行うことにした。彼は又、ウェールズ・ファーゴ銀行とハノーバー銀行にあるサンティーの口座をどうするかを指示した。彼女は、どうしてもっとふさわしい人を選ばないのかをたずねた。彼は「信頼できるのは君しかいないよ。」と言った。サンティーは善悪の区別を失いつつあったマニラ虐殺の後の苦しかった時期、小島大佐を拷問してから三十年がすぎていた。
ゴールデン・リリィーの地下金庫からの回収作業は一九四七年で終わり、彼はその歩合から大きな収入を享受し始めた。質素な生活を好んだので、彼の財産は今までに比べとんでもないものに成長していた。心優しい男の彼は、年がたつほど陽気になっていった。しかし、マルコスの裏切りと残酷さは彼にショックを与えた。それから、ワシントンでは、暗殺、誘拐、残虐事件、人間性を問われるような大きな詐欺などの話で彼を楽しませた人物と対決させられた。彼らにとって第二次大戦は終わっていない。彼は初めて自分が悪漢や暗殺団の雇い主であったと思い始め、それが彼を憂鬱な気分にさせていた。安全対策のため、タルシアナ、ルツ、ベラスクィーズの三人が預金をおろせるための口座として、香港銀行マニラ支店(後に香港中央支店)の口座開設届けの署名見本用紙に署名させた。彼はルツとタルシアナに彼のすべての偽名、会社、登記場所、彼の口座がある銀行すべてを記憶するように命じた。各銀行の口座番号、コードとキーワード、そしてその預金の引き出しに必要なすべての事務手続きを一覧表にして渡した。彼はいっそう深酒となり、肝臓は悪化した。八月後半、タルシアナは彼が「不安気で心配そうで・・・とても具合悪く、息も絶え絶えだ」と気づいた。一九七四年九月十三日、彼は倒れ、パセイ市のサン・ジュアン・デ・ディオス病院へ収容された。彼はベッド脇にいるタルシアナへ貸金庫を開ける時がきたと言った。彼は彼女に信託証書の保証約款を渡し、識別表と多くの説明書、彼の人生の「発掘と冒険」の話を書いたメモを渡した。九月二十一日、彼は病院で新しく四ページの遺言書を書き上げた。「私は時間がほしい。どんなにつじつまが合わなくてもこの遺言が日の目を見るようにしてほしい。」彼はマルコスに強制されて署名したマラカニアン宮殿の遺書の内容に言及した。この新しい遺言で彼は、使用中である莫大な香港銀行の香港本店と、他にシティバンク・マニラ支店の預金口座を挙げた。彼は銀行預金の受取人として全部で十四人の名前を出した。シティバンク・マニラ支店の銀行預金通帳から六千五百万ドル以上の配分を決定した。香港・上海銀行香港支店からは、二千万ドル以上と別に八百万ドルの配分を決めた。他に香港・上海銀行の一億二千万ドルはレイテの人々と、言い忘れた人達のためにとっておいた。又、サン・ジュアン市のシティ・バンクにある個人口座から五千万ドルと、別の一千万ペソを配分した。受取人の中には最初の結婚での二人の息子、ピーターとロイ・ディアス、スペイン名でペドロとロランドが含まれていた。(この自筆の遺言書はフィリピンと米国の裁判以前に検認されていただろう。そしてCDに載せてある。)
病院で十二日が過ぎ、彼の娘フロレデリッサ・タントコ・サンタ・ロマーナ(よくリザ・タンと呼ばれている)は父の看護から解放された。サンティーは病院を出ることを恐れたが、リザは彼が自宅で死ぬ事を望んだ。彼女が自宅のあるカバナツアン市へ連れていった数日後、彼はベッドの上で死んだ。肝硬変だった。マルコス一族に精通している情報筋によると、ランスディール少佐はすぐにシティ・バンクのマニラ支店に残っているサンティーの金の延べ棒すべてをニューヨークにあるシティ・バンク本店へ移すように手配したという。もし彼がサンティーの名前による法廷弁護人の委任状を利用したのでないなら、それを実行できた説明は困難だろう。動機のひとつは、たぶんマルコスが没収する前にゴールドをマニラの外へ持ち出したかったことだろう。又、別の魔法の杖をふるうことで、別の銀行にある大きな預金、特にその中で特筆すべきは二万トンの金塊が収められていると言われ、名義人の記録にサンティーが載っている口座がランスディール名義に書き替えられていた。(UBSの証書にはあきらかに合意のもとわざとLandsdale と綴られていた。)ランスディールはその預金をより巨大なCIA、或いはジョンバーチ協会とか世界反共連盟などの保守陣営の権力者とエンタープライズ社の支配に委ねたのだろうか?その回答はあとで確かめよう。仮にマルコスがサンティーの死で預金すべての支配をマルコスの与えられると考えていたとすればがっかりであろう。マルコスとCIAやホワイトハウスとの関係は険悪になっていった。マルコスはその預金に関わることができると考えていた。CIAとホワイトハウスは彼を操ることができると考えた。彼らはどちらも正しかった。回収する財宝がある限りサンティーの休眠口座はそのままにされていただろう。
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708131 No.7368
>>7367
黄金の兵士 第十一章 POINTING THE WAY 道案内
サンティが死んだ一九七四年、雑誌や新聞はマルコスのことを数百億ドルを手に入れたアジアの大金持ちの大統領と呼んでいた。不思議なことに富の源は説明されていない。聞かれると、ニヤリとし、実は山下将軍の金塊をみつけたんだと話すのだが、人々は冗談だと思っていた。しかしマルコスは地下金庫に積まれている金塊を多くの人に自慢げに見せていた。その中には奇妙な刻印の物もある。もうこれは冗談ではあり得ない。CIA冷戦兵士の初代メンバーの一人で、サンティの回収のすべてを知るジョン・シングローブは、マルコスの百二十億ドルの財産は実際のところ山下の財宝によるものだと保証した。彼の財産がその様に膨らんだのは、竹田皇子の従者、フィリピン人のベン・バルモアの出現と、戦時中に作られたゴールデン・リリィの地下金庫とその明細書によるものだ。マルコスの探査部隊がテレサー2や沈んだナチ船、他の地下金庫からの財宝を回収できたのはベンのおかげだった。私達が最後にベンを確認できたのは一九四五年六月で、八番坑道というバンバングの地下坑で一七五名の主任技師達がお別れパーティーを開催中に生き埋めにされた時である。竹田皇子と山下将軍は深夜に洞穴を去った。強力な爆弾がしかけられていたのだ。皇子はベンを洞穴の中に残すことを拒否した。山下は呆れて怒っていたが、彼を地表へ連れ出し安全を守った。数分後、大きな爆発が地表を揺るがした。
「キムスは戦争が終われば僕を家に帰すとパパに約束したんだ。」とベンは我々に語った。「キムスは、山下が僕を中に残そうとしたのを許さなかった。僕達が叔父の家まで行った時、キムスはその夜、潜水艦で日本に帰ると言
っていた。彼は僕に軍刀と上着をくれた。彼は僕の性格は替えちゃいけないよと言ったんだ。いつでも親の言うことは聞いて、そして彼に忠実だったことに感謝してた。それから彼は地図の入った小型のカバンを私に渡し、地中に埋めておけ、私はいつかここへ戻ってくると言ったんだ。」皇子は夜の闇に消えた。言われた通り彼は頑丈な木箱へカバンを入れ、叔父リノの家の裏に埋めた。三ヵ月後、山下は降服した。カバンを掘り出すまでに何年も経っていた。それまで、デュラオやバンバングの周りは米兵でいっぱいだった。ベンは彼等に雇われ、野営場の調理場仕事をもらっていた。錆びた刀と勲章は、GIに売り払ってしまった。
ある時、インディア部落の森の中にたくさん隠してある日本軍のトラックを水牛の荷車で引きずり出し、デュラオまで持ってゆき、その中の十五台をGIに五ドルで売った。当時五セントもあれば、十分に食事がとれたのだ。アメリカ兵が去り、カガヤン渓谷に再び平和が訪れ、ベンは竹田宮の刀と軍服を取り出してきた。白い上着は彼に良く似合った。左胸にはまだ菊の刺繍があり、父が人々から反逆者と呼ばれるぞと警告を受けるまでずっとその上着を着続けていた。しかし、その後は家の中だけで着ていた。日本刀は収穫の時に稲の刈り取りに使い、刃先がなくなるまで使った。彼はその刀が明治天皇から竹田皇子が拝領したものだとは知る由もなかった。二十年以上過ぎても竹田は戻っては来なかった。竹田はベンに対する将来への保障として金塊でいっぱいの大きな鉄製のトランクを二つ埋めていった。それはピンキアン橋の袂、大きなマンゴーの木の下に立坑を掘り、荷車五台で運び五十人の兵士が引きずって埋めたものだった。竹田はベンに言った。「戦争が終わったらこの箱を掘り出すのだよ。そして大きな農場を買ってデュラオでも飛び切りの美女と結婚し、たくさん子供を生ませなさい。」と。しかし、アメリカ兵が去るまでは怖くて近づくことができなかった。一九四九年、叔父リノの知り合いでバニッツというマニラの弁護士がバンバングへやってきた。彼は、戦時中サンフェルナンドで日本人と一緒にいたフィリピン人を探していると言った。叔父のベンは、それなら私の甥っ子に違いないと答えた。ベンはいつも宝物を掘り出したがる頭がおかしい子だと彼は言った。「行こうよパパ、ここを掘ろうよ、ここだよ。」なんてね、とリノは物まねをしてみせた。「ベンは財宝を埋めた所を知っているけど、彼の父は、危険な罠があるから触れてはならないと言っていたよ。」野良仕事から帰ったベンは、宝物のことは何も知らないとベニッツに答えた。弁護士のそばにいたリノはベンに竹田宮が残していった二つのトランクを思い出せと言った。それを聞いた弁護士は興奮して、すぐに皆でピンキアン橋へ行きトランクを回収しようと言い出した。ベンは秘密を守れるけれど、弁護士は赤の他人だ。次の早朝、彼らはピンキアン橋の袂の部落まで農場学習労働者と共に車で出かけた。部落の地区長である長老が出迎えた。ベニッツは市長の出迎えに気づき驚いたふりをして、「これはこれは市長さん、私達はとても大切な仕事で参りました。」と言うと、市長は「まあ、あがってちょ。」と答えた。
ベンは他の者と冷たいポテトの朝食をとるため下に残された。二人の策士がもどり、市長がベンに言った。「あんたは知ってるか?あんたら市民は金を持つということはできんのだわ。半分づつ分けることはだめだと言っとるんだ。うちの政府は許さんでねえ。私らにそれを差し出すなら、謝礼として金の棒一本ぐらいならやってもいいが、どうだ。」ベンが弁護士のベニッツを見ると、彼は重々しくうなづいた。「いいさ。」ベンは言った。「行きましょう。何もくれなくていいですよ。私は箱の中身が見たいだけですから。」彼は川のそばへ連れて行き、マンゴーの木ではなくてアカシアの木へ連れていった。そして皆が一日中掘っているのを眺めて、ほくそ笑んでいた。やがて陽が落ち、彼らは波も発見できなかった。ベンは言った。「多分、日本軍が掘り出して他のどこかへ持っていったんだよ。」と。ベニッツは、木を見上げて言った。「お前はマンゴーの木下と言ったが、これはアカシアじゃないか。」ベンは、「その木がマンゴーだと思っていたんだ。」デュラオへ戻る道中でベンは弁護士に語った。「あなたは私を騙せると思っただろうが、あなたの事を早くわかったので私は助かりましたよ。」帰宅して、ベンはリノおじさんに、彼ら二人がしようとした事を報告した。ベニッツは言い訳にあけくれた。そうしている彼らを残し、ベンは外へ出て大笑いをした。ピンキアン市長に捕らえられたり拷問されたりすることを恐れ、ベンは何年もそこへは行かなかった。その河は新人民軍の勢力圏内だった。ベンは共産軍にさらわれたくはなかったのだ。
一九九九年、ベンはついに友人とそこへやってきた。大きな台風のせいでピンキアン橋とトランクが埋まっていた堤防全体が流されていた。もちろんマンゴーの木もなかった。トランク一個の重さは一トンもあり百万㌦の価値がある。彼らは泥で埋もれたピンキアン川の下流にいた。農園にするにはぴったりだろう。キムスは可愛い誰かと結婚しろと言った。ベンは結婚し子供もあった。最初の結婚を経て再婚し、二人の娘をもった。彼はとても優しかった。しかし戦後二十年以上過ぎても貧しい農民のままだった。彼はデュラオに小さな家を持っていた。ちょうど日本兵数百名が隠匿した場所だ。しかし彼はそれを発見する幸運には恵まれていなかった。彼が何かしようとすると、いつも騙されるか盗まれるかだった。ある静かな夕刻、彼は円錐形の丘が点在する山間の渓谷を眺めながら座っていた。キムスがくれた地図は家の裏に埋めたままだった。彼は何度も鞄を掘り出した。判読すること自体は簡単だった。しかし、意味がわからない。しかたなく鞄に地図をもどし、再び埋めた。ただし磁石(コンパス)と望遠鏡は出したままにした。宝探しの連中はその様な地図が存在することを知っていた。それらは三種類あった。白表紙には一般的な各施設の位置が示されている。ベンが持っていたのは赤表紙で、暗号を解読すれば、回収に必要なすべての情報がわかる。技師が書いた青表紙には、技術的な言葉の説明付で詳細な情報を解説している。いくつかの白表紙は教会で見つかり出回っていた。しかし地下金庫や深さを特定する必要な組み合わせを与えていなかった。
一九五三年、七名の若い日本人がベンのところへやってきて、彼の持つ地図を買うと申し出た。彼らは戦争の体験があるには若すぎる。しかし、何故か地図がベンの所に残っていることと、デュラオにベンが住んでいることを知っていた。多分彼らは竹田の息子の友人か、竹田皇子の息子だったのだろう。彼らは自分が誰なのかを説明しなかった。ベンは財宝の地図について何も知らないと否定し、どうして会いに来たのかを尋ねた。彼らは笑いながら、「私達はあなたのことを知っていますから。」と言い去って行き再び現れることはなかった。戦争が終わり、宝探しが村の主産業になった。日本人が金塊を隠した場所を知っているフィリピン人はポインターをよばれた。各村にポインター、金中毒者、反対者、地域の長老や伝道師がいて、秘密の地図や目撃した記憶をもっていた。大きな収入になりそうだと見ると、秘密の場所へ案内してくれ、掘る所をみせてくれる。彼らは絶妙なタイミングでお客があきらめるころに別のカモを探すために雲隠れするのだ。ベンはポインターになる気はなかった。彼はキムスとの誓いを守った。ただ、父親にはバンバング付近の施設について話をした。ベンが見てきた記憶は消えていない。どうやってキムスと各施設へ行ったのか。そしてどんな風にキムスが青表紙の図面を持ち、歩き回るところを眺めていたのか、地下金庫を閉じる命令を出す前に最終的な一覧表を作ったことも覚えていた。くだらない財宝探しの連中がベンに詳しく話すように圧力をかけてきたが、彼は口をつぐんでいた。彼はただの目撃者ではない。生き残った戦時捕虜、逃げた台湾労働者、ジョーン・バリンジャーの様に日本人が金を隠匿するところを見ていたアメリカ人やフィリピン人もいくらかはいるのだ。森林地帯の牧草所有者の家族が回収に成功したという噂だった。彼らはバンバングの要人になり、町に三階建てのビルを建て大きな三つの衛星アンテナからTVを受信しTV会社を運営した。ベンは皇室の地下金庫、一七五箇所すべてを贈呈できる唯一の男だ。そして彼は貧乏のままだ。
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708131 No.7369
>>7368
ある時彼は小さな高さ四インチの金の仏像を掘り出した。小さな農場を買う事ができるのに、値打ちが分からないためにラジオと交換してしまった。彼が二十二歳になった時だった。彼はつつましくよい性格で妻と子供にやさしく、いつも笑みを絶やさなかった。一九六〇年代半ばになりマルコスが国内外で公に戦争状態が和らいだ日本人と財宝の回収に乗り出し、大勢の日本人が財宝を求めてフィリピンに戻り始めた。小さな集団が毎年カガヤン渓谷にやってきた。あるチームはバンバングの共同墓地周りを調査していた。そこは、キムス配下の労働者達が深い穴と七七七番地区と名付けられたとても大きな円形の地下貯蔵庫へ降りていくトンネルを掘っていたのをベンが見ていた所だ。そこは八番トンネルと九番などを含む複合施設の一部分だ。ベンはその人達をひとりも知らなかった。そしてある日彼らはいなくなった。村人は夜のうちに切り取られた木を共同墓地の傍でみつけた。そして三つのトランクの蓋は開けられていた。彼らはそこにいくつかの金の延べ棒が隠されていたのをはっきりと見た。金の延べ棒の周りに木が生えていたのであり、木の中に金の延べ棒があったとは思わなかった。
一九六八年末、マルコスは日本へ使節を送り、もっとたくさんの回収をすすめるために共同開発を求めた。その使節には情報長官フロレンティノ・ビラクルシス中佐、フィリピン軍統制官、准将のオノファ・ラモスと他に三人の将校がいた。その使節は、マルコスが発掘した一定部分を日本に割り当てる見返りにゴールデン・リリィの財宝地図一式を求めた。もし日本政府が協力しないなら、日本企業を全ての島から追い出してやると警告した。マルコス大統領は就任して最初の二年間、東声会の長、児玉と町井久之に率いられた日韓ギャングによる海底発掘を公認していた。他のパートナーに児玉の巣鴨仲間、億万長者の親分笹川良一がいる。彼は競艇を舞台にした賭けスポーツ界の有名人の一人で資金洗浄には都合がよかった。彼の本当の富はスカルノ大統領やマルコス大統領と共同してインドネシアやフィリピンの戦時略奪品回収を分け合って作った秘密資金からきていた。「私とマルコスとはとても親しいよ。」と笹川が記者達に言った。「大統領になるずっと前からね・・・。」笹川は、たまたまゴールデン・リリィー施設を含めた財宝の中でマニラ湾に沈んでいる那智丸の場所を教え、引き換えにフィリピンで死んだ日本兵の共同墓地と慰霊碑の建設を許された。「私は個人として、フィリピンに墓地を提供してもらうために十分な最大級の文化会館を寄付してやったよ。正確に言うと四万袋分だぜ。(一袋いくらかは不明)」と自慢した。
ビラクルシス・チームが東京へやって来た時、児玉と笹川はゴルデン・リリィーのリーダーだった秩父宮は一九五〇年代初期に結核で死んだと彼らに伝えた。そして、ビラクルシス達のために、秩父宮と一緒に活動していた別の皇族と秘密会談ができるように手配した。ビアクルシス一族の話では、その人は「裕仁の従兄弟で最高位にいる将校」ということだ。日本情報部の最高位に位置する陰の人物はラモスとビラクルシスに語った。日本はフィリピンで一千億ドル以上の財宝を隠匿してきた。そしてそのすべてを回収するには百年以上かかるだろうと言ったのだ。この会談の記録にはビラクルシスによって市原公爵とだけ記されている。(裏では音声的にスペイン語でロード・イチハラと綴られている。)
後にマルコスが権力を失い大統領安全命令の多くの文書で東京の市原公爵との秘密の接触に言及している。その文章は、市原公爵が、一九四二年~四五年の間、ルソン島での隠匿作戦において秩父宮グループの鍵を握る一人であり、ゴールデン・リリィの生き字引であることをはっきりと示していた。彼は戦争中に児玉や秩父宮と働いていた高級情報将校のようにみえる。しかし、市原公爵を特定する努力は失敗に終わった。名前が一般的であり、いろんな綴りで書けてしまうからだ。戦後SCAPは貴族の称号を捨てさせた。だから一九六八年にその様な称号の使用は時代錯誤であった。彼は皇子ではなかったかもしれないが、伯爵か男爵だったはずだ。市原公爵というのはフィリピン人に彼が本当は誰なのかを隠すための偽名だろう。或いは戦時中の行いが評価され戦後になって裕仁からこっそりと称号をもらい公爵になることができたのかもしれない。私達は市原公爵が竹田宮の偽名だという可能性を考えてみた。しかし、二人は同一人物ではないと結論をだした。市原公爵がマルコスと共謀しようという意志は竹田皇子の個人的な正義感とは一致しない。キムスはベン・バルモアをマルコスから隠そうとしたが、市原公爵はベンへ彼を引き合わせた。ある日本情報筋は、シンガポールやマニラでの中国人虐殺や連合国パイロットの肝臓を食べたと罵られた悪名高い辻正信大佐に違いないと語った。華人殺害の後、彼は帝国監察長官の肩書きでマニラへ紛争調停役として送られた。形式的にあてはめるなら、辻はパターン死の行軍に責任をとるべき首謀者であり、穏やかな本間大将を出し抜き、行軍中の連合軍捕虜を殺すよう陸軍将校をけしかけたのだ。彼は帝国海軍の支配下では、海軍の肩書きである大佐として扱われた。そして陸軍支配下では、軍服を変えて、やはり陸軍大佐だった。二年間は飛行機で東京との行き来をして、ガダルカナルや他の戦闘に出現していたものの、一九四三~四四年の殆どをルソンで児玉とともにマニラ郊外のゴールデン・リリィー財宝貯蔵庫の監視をしていたと言われる。一九四四年後半、辻はビルマとタイへ移動し一九四五年八月の日本降伏時は捕虜にならないようにバンコクにいた。辻かどうかは別にして、市原公爵は一九四二年の半ばに海軍の軍服を着てマニラに着いたのだった。
日本船はマニラ埠頭で略奪品を降ろし、トラックを連ねてボナファシオ要塞へ向かった。サンティアゴ要塞と同じくボナファシオもスパイや工作員の疑いがある捕虜でいっぱいだった。ボナファシオを訪問中のことだ。市原は、国旗掲揚台に後ろ手でしばられ、日本語で汚くわめいている囚人の前を通った。驚いたことに囚人は流暢な日本語で答えた。市原はどうして日本語を喋るようになったのかを聞いた。囚人は母がフィリピン人で父親はマニラの大使館に所属していた日本人将校だと答えた。「お前の名前は?」と市原が尋ねると「レオポルト・ギガと言います。」と答え、友人はポールと呼んでいると付け加えた。「『ギガ』は日本名だな。」と海軍大佐は言った。実際のところギガ少佐は一九二八年に満州の軍閥張作霖の暗殺を手伝ったことで有名だった。これはギガの父がもらしたのだが。ギガ少佐は東アジア全域で日本情報将校として活動していた。一九二〇年代前半マニラに駐留しそこでフィリピン人と結婚し息子をもった。少年は成長し日本語、英語タガログ語を話した。しかし彼の父は上海やムクデン(Mukden)の任地に赴き彼は取り残された。一九三八年、ギガ少佐自体は暗殺された張作霖の息子が送り込んだ刺客により殺された。市原は囚人の紐を解かせ自分の管理下に置いた。それ以来ギガは通訳兼情報係として雇われることになった。彼の忠誠心と冷酷さを試すために頭巾をかぶせ、ボナファシオの囚人全員と面会させた。ギガと市原がテーブルにすわり、その前を全員歩かせた。頭巾を被ったままのギガは、アメリカのために秘かに活動している男をみつけると頷いた。そしてそれらの男達は即刻処刑された。
タガログ語で裏切り者は「マカピリ」という。しかし頭巾がギガの正体を隠した。それ以来ポール・ギガはルソンでの市原の子分になった。マニラ市にあるサンティアゴ要塞などの四つの財宝貯蔵庫や罠を技術者達と設計したのは市原だった。ポールはカーバイト市から電気工事技師を手配し、罠の配線作りを手伝った。市原がマニラから陸軍指揮下の田園地帯へ活動範囲を移した時、彼は陸軍大佐の制服に着替え、ギガには日本の第十六技術師団少尉の階級を用意させた。ギガは地下抗技術を日本で半年間学んだと言った。しかし、ギガは場所に合わせて色を変えるカメレオンの如く絶えず話を変えることがわかった。二十五年が過ぎ、市原は東京でビラクルシス大佐に、マルコスへゴールデン・リリィーの財宝地図の全てを渡したいのならポール・ギガを探すことだと言った。その後、ビラクルシスは竹田皇子の従者をしていたベン・バルモアを探し出すことができた。皇子の説明では、日本へもどる潜水艦が沈められるという想定される中で、すべての地図はベンの所に残してきたということだ。市原はビラクルシスに、ギガはフィリピンでコルゲート歯磨に雇われていると語った。だから市原は戦争以降ギガと接触していたことは間違いない。市原はギガがコルゲートの収入を補うため、日本人の金堀りグループの通訳やポインター、黒幕として仕事をしていると言った。ギガは日本人が余分な不信感を持たない様に、車、堀削機、発電機、ドリルなどを借りていた。
ビラクルシスはどの様にしてギガが本物のベン・バルモアを見つけたことを知ったのかを聞いた。市原は言った。彼らはベンに直接竹田宮と電話で話しをさせ、その会話を全部聞いたという。もし彼が本当にベン・バルモアならばすぐにわかることだ。東京から戻るや否や、ビラクルシスは急いで諜報員をコルゲートへ送りギガを探し、大統領令で彼を引っ張った。怯えたギガは問われるままになった。ベンを探し出すことは難しいことではないとギガは言った。戦時中に竹田宮と一緒にいる所を何度も見ているし、そして彼等はバンバング郊外のサン・フェルナンド・バリオ地区を拠点にしていた、ベンの家族もその近辺に住んでいたはずだ。そうしてギガはバスに飛び乗りコルゲートから出発していた。一九六九年一月早朝、ギガはデュラオのベンの家をノックした。ベン・バルモアは彼が誰なのかまったく思い出せなかった。ギガはベンに、戦時中ゴールデン・リリィーの色々な施設で話をしたじゃないかと、言った。そして自分は財宝の目録作りにも関与していたと話をした。しかし、目録作りは竹田宮だけが関わったことをベンは知っていたので、それは真実ではないとわかった。そしてギガに会ったことがない事を確信した。ギガはいつも日本の軍服を着ていたと言っている、それではどうすれば他の兵士たちの中でギガを思い出せるだろう?最初から二人の関係は緊迫していた。ベンはギガがひねくれ者で信用できないと感じたからだ。後日ベンは、ギガが誰に対しても、自分は皇子の従者で、財宝の地図を(ベンではなくて)自分がもらったと話しているのを知った。ギガは戦争の後、地図の入ったカバンは燃やしてしまい、今はコピーがあるだけだと言っていた。ギガは一ヶ月千ドルの手付金でどこを掘ればいいのか教えたのだろう。我々の調査員が一九八六年、彼を問い詰めると、ベンは前年に死んでいて、彼と自分はともに日本人とフィリピン人の混血だと主張した。これはどちらも嘘だ。それから彼は終戦の週にベンと共にいかにしてバグイオで山下将軍から地図を盗んだのかを詳しく語った。
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ギガはデュラオに数週間滞在し、何とかベンを説き伏せようとした。ベンは受け流すため、イロカノ語でしか話せないと偽った。ギガはベンが初歩的な日本語は習っていたのを知っているので日本語で切り替えした。マルコスの使者として来たのであり、慢性的なフィリピンの貧困を救うために金の回収が必要で、そのためにマルコスはベンの地図を望んでいるとベンに語った。ベンは、マルコスは悪魔だという噂や、新聞でイメルダの数百万ドルに及ぶ買い物の馬鹿騒ぎを知っていたので、信じることはできなかった。するとギガは豹変し、もしもベンが地図を差し出さないのならば、大統領国家安全令で兵士がやってきて、ベンも家族もビリバッド刑務所へ連行され、逮捕されて娘はレイプそして全員が殺されると脅した。それでもベンは拒絶した。彼は家族のことが心配だったが、キムスへの誓いがあったのだ。キムスが日本へ帰ってすでに二十三年が経過していた。ベンは三十年間、地図を守ろうと誓っていたのだ。あと七年あった。皇子は二度とこないし接触もなかった。キムスは死んだのかと思った。そうだとしてもキムスの本当の名前は誰にも言わなかった。秩父宮、三笠宮、朝香宮の名前も一度も出したことはない。それでも、ついにベンは家族を守るために歩み寄ろうと決心した。ある朝、ベンはカバンを掘り出した。まず技師の書いた青表紙(ブルーシリーズ)を取り出し、ビニールで包み、頑丈な箱に入れて大急ぎで埋めもどした。次に赤表紙を再検討した。全部で一七五種類ある。彼は三箇所の気に入った施設を自分用に取り置くことにした。それは八番坑と九番坑でバンバングの近く、マニラ東方のモンタルバンだ。赤表紙の地図は丈夫な紙に書かれ、仕上げの後にしっかりと蝋引きしてあった。その図面は地形を三次元で示していた。黒澤明の古い映画「七人の侍」をみた人は、村人を賊から守るために侍達が描いた同じ様な地図をみたことであろう。図案化して描かれた物は命に関かわる情報の暗号である。日章旗が右か左へたなびくのは、その方向へ行くか否かを示している。二つかそれ以上の針を持つ時計の絵は、向かう方向の深さ、そして罠に関する情報を表す。他の記号は各施設のどこに財宝があるのかを教えている。最も重要な事は、赤表紙の地図は各施設の起点を表示していることだ。起点が分からなければ正しい深さと方向は絶対にわからない。(いくつかの赤表紙の地図はCDに公表してある)
残った一七二箇所の赤表紙の地図で、ベンは小さいと考えた所と非常に難しい所、四十箇所を選んだ。もし脅されたり家族に危険が及んだら、その束をギガからマルコスへ渡せばいいのだ。数日後ビラクルシス大佐自身がベンの家にやってきて深夜にも拘わらず「ベン、ベン」と大声で叫んだ。ベンは彼を中に入れた。キムスと約束しているので応じることはできないとベンは言った。ビラクルシスは「君の気持ちは尊重するさ。」と言い、力ずくで地図を取ろうとはしなかった。しかし、「大統領にだけは地図を見せなくてはならないので、私とマニラへ行ってもらいたい、その後で君に返すからね。」言うまでもなく選択の余地はなかった。ベンはビラクルスに四〇の小さな施設の地図を手渡した。彼は夢中でそれを見て、他のも見たいとは要求しなかった。すっかり怯えながらベンはビラクルスが用意した軍車両に乗せられ古い皮のケースに地図を入れ山を降りていった。マラカニアン宮殿ではなく、軍
の支配者であり、ビラクルシスと一緒に東京へ行き児玉、笹川、市原大佐と会談した軍司令官、オノフリオ・ラモスの自宅へ行った。厳重な基地司令部の将軍事務所にはタバコ臭いデブデブの悪漢達が待ち構えていた。マルコスの閣僚も含まれている。ラモスは主人面をして飲み物を回し語った。彼らは非常に機嫌がよかった。
次なる問題は、マルコスに会わせるためにすぐにもベンをマラカニアンへ連れていくかどうかだった。ラモスは怒鳴った。「もし俺があんたならベンを渡すようなことはしないぜ。鍵をもったんだ。鍵を持った以上、なんで大統領にベンを渡さなきゃならんのだ?」結論はでないし、それを認めるのもならないしで、彼らは車に乗り込みマニラ東部にあるアンティポロの高台の防衛大臣、アーネスト・マタの隠れ家へ車を走らせた。マタはカバンを取り上げ、豚のように中の臭いをかぎまわった。マタはマルコス政権のごろつきの一人で、彼の手により多くの血が流され、それを彼はひどく楽しんでいた。彼がいくつかの地図を調べたところで何も理解できなかった。そしてベンに尋ねた。「お前はこれを持っていた奴を殺したのか?」「とんでもない閣下、僕はこのために人を殺すなんてありえません。」「それならどうしてこんな書類を持っているのだ。」「彼が僕に残していったんです。」「いや、お前はそいつを殺している。」ベンはとても怯えた。そしてビラクルシスに帰りたいとささやいた。ベンは約束どおり地図を返してほしいと求めたが、マルコス大統領に見せなければならないと言われた。ビラクルシスは、マルコスがそれを見たらベンに返すだろうと言った。
マタはマラカニアン宮殿の交換機に直通回線を持っていた。安全な宮殿の交換機を使って、東京の市原公に長距離電話をかけた。東京湾東部の農園にいる竹田皇子への取次ぎを求めた。マルコス一味が聞いている中でベンに電話が渡された。次に起こったことは遠い過去のあのキムスの声だった。「やあ。ベンハミーン。」二人の会話は短いものだったが情感にあふれていた。ベンが我々に言ったのだが、キムスが簡単な日本語で話し始めたとき、声から察するに感情がこみあがったのか、泣いていたみたいだったが、話はできたという、地図を皇族以外の誰にも渡してはいけないという誓いをキムスは念をおし、呪文をくりかえした。「ベン・ハミーン、いいかいフィリピン人もアメリカ人も日本人も中国人もだめだよ。私だけを待っていなさい。」国防大臣マタは不意に電話を取り上げ電話を切った。それがベンとキムスの最後だった。彼らは大喜びでタバコを吹かしながらお祝いをした。ベンは本物だと証明された。
マルコスの所へは連れて行かない事にした。彼らが鍵を握ったのだ。この方針の決定後、ビラクルシス、マタ達は「赤表紙の地図」を一枚もマルコスにみせなかった。マタの隠れ家を後にするときビラクルシスは四〇枚の地図の束を研究用として持って行き、ベンには空のカバンを渡した。そしてベンに幾らかの交通費を渡した。それがビラクルシスが見せた唯一の心くばりだった。彼は他の者ほど冷酷ではなかった。そして四〇枚の地図で十分満足だった。四〇枚が理解できないのなら、もっと欲しくなるポイントとはなんだ?ベンは家族の事を心配しているから、残りの地図を取り上げることはいつだってできるではないか。生きている事に感謝し、ベンはバンバングへ飛んで帰った。この気の利かない、馬鹿で、威張り散らしたやり方で、一九七〇年代から八〇年代初めにかけマルコスの金発掘が始まった。最初、本物のゴールデン・リリィーの地図があるのだから、誰が考えてもマルコスも大尉も実に簡単なことだと思っていた。しかし、全員が誤りだった。ビラクルシスはいきなりサンク・メサ・ロータング施設の発掘で大成功し、アジアの国々からの金のバーの詰め合わせ、寺や仏塔から略奪した多くの金の仏像を手に入れた。大いにはりきったマルコス大統領は軍技術者の特別部隊を投入しラグーナの施設で穴掘りをさせた。そしてそこでは金のバーがいっぱい詰まったコンクリート製の地下貯蔵庫を発掘した。(十五章参照)
マルコスが大統領として初めて本当に大きな発掘をしたのはアグイナルド野営地、旗竿の下のゴールデン・リリィー貯蔵庫だった。次に兵士をボナファシオ要塞へ送った。(以前はマッキンレイ要塞と呼ばれていた)そこで彼らはマッカーサーの防空壕を掘り進んでいた。彼らはマニラの地下に掘られた三五マイルの長いトンネルの終点のひとつを発見した。トンネルの探索は二年間続けられたが、置き去りにされた軍車両の跡で金のバーひとつを見つけただけだった。ゴールデン・リリィーで隠匿された地下坑と財宝はそれほど上手に隠されていたのだ。市原公爵は協力し続けていた。マルコスが応援するギル・ガディ博士はサンティアゴ要塞で行われた穴掘りの失敗に立会い、市原公爵に専門家の助言をすすめた。准将軍がマルコスに渡したサンティアゴ・バランガン報告書には、「ガディ博士は、サンティアゴ要塞施設で直面した困難さの理由を話し、東京の市原へ手紙を書いた。市原はラグーナからペドロ・リムに連絡するように言った。リムはルソン島で略奪物資の隠匿でヤグラ大佐や山口大尉と働いていた市原部隊の一員だ。ペドロ・リムはガディ博士にベンジャミン・イルクイアのことを告げた。彼はフィリピンの電気技術者で市原公爵の依頼でサンティアゴの危険な罠を設計し施工したのだ。
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>>7370
すべての金貯蔵庫の場所を知っているベンにとってデュラオとバンバングでの生活とは、稲を植えて刈り取るという年間予定をこなしていくことだった。たったひとつの例外はベンがロジャー・ロクサスと友達になったことだ。彼はバグイオに住む錠前師で、埋もれている略奪品目当てに定期的にバンバングへやってきた。数年が過ぎロクサスとベンは友達になった。ある日ベンは、バグイオ病院の裏手で坑道がたくさんある地域の地図を進呈することを約束した。ロクサスは金の仏像を見つけた時、フランスの有名なレイムス大大聖堂を模った立派な金の模型もみつけた。そしてそれを発掘の分け前としてベンに与えた。その大聖堂はウエディングケーキの様に五〇センチの高さがあり、中世の教会の細かい部分を再現し、美しく手作りされたものだった。入り口の大きく丸いステンドグラス以外は純金で作られ、上品な時計がついていた。ベトナムから来た物だという以外その由来は誰にもわからない。財宝にはそれぞれ秘密の歴史があるものだ。熟練の細工師がハノイやサイゴンにあるカソリック教会の裕福な後援者の為に作ったことは明らかだ。ニューヨークやロンドンのオークションに芸術的作品として出品されたならば、その価値は金の価格の倍になるであろう。
ベンはロクサスと金の仏像に起きた事を知り、彼はそれを箱に入れデュラオの裏庭へ埋めなおした。後日、ギガからベンが金の大聖堂を発掘したと聞いたフェビアン・バー将軍はすぐに暗殺団を差し向け、ベンにそれを渡さないならば家族を痛めつけるぞと脅した。ベンは素直に応じた。十年後、キムスから貰ったものでベンに残っていたのは、階級章、水牛、飛行機の模型、ワラ帽子、ココナッツの木、そして水田だけだった。あとはすべて盗まれるか没収されて失くした。マルコスとその悪友達がくれたものといえば、「タバコ」だけだった。子供が生まれ宝探しが行ったりきたりした。ベンは貧乏のままだった。一九七二年、ベンは日本人の一団がバンバングにやってきて、サンフェルナンドにあったキムスのキャンプから半マイル以上離れた山下将軍の野営地区でブルドーザーと堀削機を使って作業していると聞いた。ベンは馬鹿なところを掘るもんだと笑った。彼は誤解していた。ベンがキムスと地下の複合設備をめぐっている時、ベンが一度しか通ったことのない八番坑の入り口を貫通し掘り下げていたのだ。彼は離れたところに別の九番坑の入り口があることを知らなかった。一九四五年、連結坑は潰れてしまったが、鉄筋コンクリートで強化された主坑道はそのままだった。これらの日本人が開けた九番坑の入り口は山下の防空指令本部へ通じていた。日中、彼らは地下の見えないところにいた。近隣の農民の話では、夜になると空のトラックがやってきて夜明けには満載で去って行ったという。
マルコスを利用してゴールデン・リリィー施設の回収を進めるため、竹田皇子はバンバングの地下複合施設の部分的な回収を許可したのだろう。それは八番坑や共同墓地につながる連結坑の再開通に関わっていただろうから、すべてを回収するのは不可能になってしまう。(訳注、申し訳ない、ちょっとここのところ意味がわからない。)竹田が二年後の一九七四年に私用でマニラに戻った事を我々は知っている。当時、九番坑の回収は完了していた。一九四五年六月、ベンと別れ、潜水艦で日本に戻って以来、彼は任務を完璧に成功させたおかげで、裕仁から温かく受け入れられていた。終戦の月には満州に送られ、帝国陸軍の財務長官に着任していた。終戦時、彼は満州の関東軍が裕仁の降伏命令に従う事を確実にするよう指令をうけていた。その後、竹田宮は妻と子供を連れて東京へもどった。貴族制度が終わり、竹田は爵位を奪われ単に竹田恒徳になった。これは明治天皇の意志で一九〇六年に設けられた日本の偉大なる宮家のひとつ、竹田宮家の終わりをもたらした。他の旧宮家と同じで、連合軍に財産を没収されるのを避けるため、竹田は自分の邸宅を富豪の堤家に売却した。堤と彼は残りの人生において密接に関わっていくことになる。彼は東京湾の東部、千葉県ののんびりした農場ひとつだけを残した。他の皇子と同じく実業家として竹田編物機械会社を始めたが、すぐに倒産した。アメリカ人が帰還すると、竹田はすぐに日本の最上貴族としての生活をとりもどした。金などは問題ない。すべてが過去のものとなり、彼はすべての日本人支配者を裕福にする手伝い、つまり借金を返さなくてもよくなるような努力をした。醜い東京にはあきあきし、ほとんどを千葉で過ごし、世界でも最も高価な趣味のひとつであるサラブレッドの品評会をたちあげた。
一九六二年日本オリンピック委員長になり、一九六七年~八一年までIOC(国際オリンピック委員会)のメンバーだった。(彼の息子もこのIOCを引き継いでいる。)一九六四年四月のジャパンタイムズで竹田の横顔が次のように書かれてある。「もし、一言で竹田を表現するとしたら「なごやかさ」(relaxed)だ。自意識や緊張というものから完全に解放され、優しく暖かい雰囲気、惜しみなく好意を示してくれる。毎日の活動において、「真実、公正、善意にこだわろう」と書かれた机の文字は、彼が生きてきた信条を表している。もしもあなたが王様の気品をお望みならば、その最良の見本をお見せできるであろう。」
一九七四年、日本兵の生存者小野田寛郎少尉がマニラ湾の七〇マイル西南、七四マイル四方のルバング島で隠れているところが発見され、竹田はフィリピンへ飛んでいった。一九四五年当時、三人を除いたルパング島の日本兵はアメリカ兵との四日間に及ぶ戦闘で殺されるか捕虜になった。小野田と二人の戦闘員はジャングルにもぐりこみ三十年にわたって散発的なゲリラ戦を継続していた。一九五〇年代、戦争は終わったのだと語りかけるビラをばら撒いたが、彼らは偽装であると考えた。結局、小野田の仲間は二人とも熱帯性の病気で死に、日本では小野田自身も法律的には死んだことになっていた。ルバングの村人はそうは思っていない。一九七四年二月、日本人の若者、鈴木紀夫が小野田をジャングルでみつけた。彼はライフルと五百発の弾薬、手榴弾を持っていた。小野田は自分に指令を出した将校の指令解除がなくては投降できないと拒否した。ベンはテレビのニュースですべてを知った。彼は戦時中、竹田皇子とともに財宝金庫の隠匿にルバング島で数週間すごした。その時、ベンは小野田に会っていた。その施設を守るよう小野田に命じたのは竹田宮であることをベンは知っていた。だから竹田宮だけが指令を解除できるのだ。数週間後、数人の日本人役人が小野田に投降を説得するためフィリピンへ到着した。注目は谷口義美少将に集まり、テレビでは小野田の司令官だったと紹介された。しかし、代表者の後ろにベンは忘れられない顔、竹田宮を確認した。彼が密かに小野田を任務から解放しにやってきたのだ。
数日後、小野田は日本に帰還した。(彼は近代的になった日本にはなじめないと主張し、ブラジルのマタ・グロッソにある大きな日本人所有の農園に送られた。ルパングの財宝が回収されるまで、誰も彼を訪ねて来れないように多くの護衛がつけられた。ルパング島での回収は裕福な日本人旅行者のためのリゾート開発を装い、笹川が成し遂げた。それはマルコスの要望でやった事だと、笹川は言った。結局、ホテルやゴルフクラブが建てられ、日本人の金持ちハンターのために、アフリカの未開の遊びや珍しい鳥が集められ、性的な遊びのために若い男女が用意されていた。同時にイメルダの福祉事業に多くの寄付をしてもらい、戦時中の不快感を日本とフィリピンの友好関係を確立することで払拭するため笹川をフィリピンの名誉市民にした。笹川はマルコスに戦時略奪の分け前を渡すとは言わなかった。
竹田宮は戦後ベンに会いにくることはなかったが、使者をよこした。一九八四年、そのころベンは一時的にマニラに住んでいた。ある朝、日本人の相撲取りのような男がバンバングでバスを降り、重いスーツケースを下ろした。戦時中、竹田宮に従っていた将校の笠淵大佐だった。いまや年をとり白髪の彼は暑さで参り、湿ったハンカチで顔の汗をぬぐった。バンバングにタクシーはなくオート三輪しかなかった。唯一のオート三輪乗り場はランゴーの所有で、彼は人を乗せたり物を運ぶことを仕事にしていた。笠淵はランゴーにサン・フェルナンド部落へ連れていくように頼んだ。ランゴーはスーツケースを持とうとしたが笠淵は断った。サン・フェルナンドへ着くまで膝の上に抱えていた。ランゴーにベンハーミンという名の男を捜していると言った。笠淵はベンの名字を知らないし、もともと、どの部落からやってきたのかも覚えていなかった。彼はランゴーに、ベンは、ここサンフェルナンドで日本人皇族の従者をしていたと語った。笠淵は、はるばる東京から皇子のプレゼントをベンに持ってきたのだった。ランゴーが何度もスーツケースを運ぶと申し出たが大佐は触らせようとはしなかった。一日中、三輪自動車で走り回りベンを知る者を探した。もしも彼らがあと一キロいやその半分でもデュラオ部落へ近づいていたなら、誰でもベンを知っていただろうし、どこへ行けばベンに会えるのかを大佐に正確に話しできただろう。最終日になり、彼とランゴーはやれる事はすべてやったと認め、笠淵は渋々マニラヘの最終便に乗り、贈り物のスーツケースは彼が持ち帰った。ベンはやはり貧乏のままだった。
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>>7371
黄金の兵士 第十二章 SANCTIFYING THE GOLD 金の浄化
すでに熱帯の楽園を手に入れた億万長者、マルコスには病的な傾向があった。多すぎることは決して十分でないと言う事だ。マルコスは自分がロスチャイルド家、サウド家、オッペンハイマー家と同じくらい金持ちであることを万人に知って欲しかった。このことがマルコスを破滅させることになる。マルコスは、日本人が自分を食い物にし、大きな金貯蔵所とは離れた方向へ案内していることを知った。それでも日本人の手助けなしに最良のゴールデン・リリー施設を発見し、発掘することは困難である。本物の地図があり、ベン・バルモアのような目撃者がいたとしても、場所を探し当て目印をつけてそこを掘り始めることは出来なかった。ベンはその場所へ案内することは出来ても地中の構造物については何も知らなかった。地上でさえ、ベンは正確に場所を特定できなかった。木々は倒れ、川はコースを変え、新しい建造物は場所の目印を消してしまったのだ。もし場所を数インチずらしただけで、数ヶ月が浪費されてしまう。
そこで、マルコスは有名な霊能者と利口な鉱山技師を呼び寄せることを決めた。鉱山技師は地図を解析し、霊能者は金の埋蔵場所を正しく確定出来るだろう。ひとたび彼らの仕事が終われば取り除けばよい。金を市場に出すことがもうひとつの悩みの種だった。一九三三年以来、一九七四年まで一般のアメリカ人は金の購入を法律で認められていた。その結果、世界の金価格は上昇し始めた。このおかげでマルコスは、もし市場に金を持ち込めるなら、売却可能な金の大量所有者と言うすばらしく「強者の立場」につけることになる。しかし、マルコスの回収した金の延べ棒は、サイズ、純度、重量、あるいは刻印とも標準ではなく、認定証書もついていなかった。なんでもありの闇市場の取引は別としても、通常の金の取引では、ロンドン金市場で受け入れられる標準のサイズ、重量、純度で行われるのだ。本物の金の延べ棒は純度認証刻印がつき、さらに認定証書番号がかならず必要だ。
また、所有証明書も、由来証明書も必要で、輸送記録を示す文書の保証も保険も必要になる。ゴールデン・リリー作戦で略奪されたほとんど全ての財宝はロンドン標準に合致しなかった。財宝はアジア諸国由来のもので、それらの金塊は一貫性がなく、純度は22カラット以下であった。また、財宝は銀行や国庫からの正規なものではなく、海外の中国王、マレーのイスラム教徒、仏教徒の一派、麻薬王、ギャング、古代の墳墓、宝石類そして工芸品の貯蔵品に由来していた。金塊はいろいろな形や重さで印やシンボルがつけられ、違った言葉でスタンプを押されるか刻まれていた。金塊はそれぞれ指紋のように特徴のある各種の鉱物や不純物を含んでいたので、試金分析をすればどこで採掘されたかが明らかとなる。第2次世界大戦の終った後のヨーロッパで連合国は、ナチの金塊を再精錬し、所有を示す顕著な特徴や名残を消し去り問題を切り抜けた。
過去にマルコスは回収した金塊を日本人やCIAを通して売ることで、この問題を回避していた。両者とも不ぞろいだったため、ずいぶん値切られたようだ。実際、CIAはサンタ・ロマーナが門番(案内人?)を務めた期間にマルコスが手数料を払ったように、マルコスにも発見者としての手数料を払った。マルコスは闇市場での取引を試み、規格外の金塊をパナマに対してコカインと交換し、タイの麻薬王とはヘロインと交換した。しかし、それはそれで麻薬の売人を見つけなくてはならないという別の頭の痛い問題をもたらすことになる。もしマルコスがCIAと日本人を出し抜き世界市場で自分の金塊を売ろうとするなら、ロンドンの金基準を満たすため、金塊は物質的に改変(浄化と呼ぶ過程)されねばならない。大幅値引きさえすれば、「金カルテル」のメンバーがマルコスのために金浄化をやってくれるだろう、だからマルコスは、金を浄化し、さらにその不純物混入率がフィリピン鉱山から採掘された正当な金である正当性を証明の出来る民間人(私人)を見つけなければならなかった。
ひとつの可能性がカーティスと言う名前のネヴァダに住む鉱山技師で冶金学者の男だった。マルコスがメキシコ湾のカンクンで開催された大統領会議に参加した時、マルコスはコスタリカの大統領、ホセ・フィゲレスと金塊問題について話し合った。コスタリカにも金鉱があったので、フィゲレスはその問題についてはよく知っていた。フィゲレススはマルコスに、ロバート・カーティスはすでに発掘された鉱石からより多くの金を取り出す方法を確立し、あたかもフィリピンで採掘されたかのように金塊の持つ顕著な特徴を変えることが出来ると言った。カーティスを見つけ出すため、マルコスがよく面倒をみていたウィスコンシン出身の詐欺師(ばくち打ち)、ノーマン・キルストを呼んだ。マルコスはすでに有名な霊能者、オロフ・ジョンソンと接触をしていた。かれは市民権を取得しアメリカ市民になりシカゴに住んでいた。ジョンソンはアメリカの深海財宝ハンター、メル・フィッシャーが、一七世紀に新世界から略奪した一億四千万㌦相当の金塊を積んで沈没したスペインのガレオン船探索で沈没場所を特定する手助けをした。ジョンソンはまた宇宙飛行士とのテレパシー(精神感応)の実験をするため、アポロ計画の間、アメリカ政府に雇われていた。NASAとの仕事中ジョンソンはアメリカ空軍の大佐と会い、フィリピンに行き、クラーク空軍基地で財宝埋蔵場所を調査するように依頼された。ジョンソンがクラーク基地で仕事をしている時、うわさがひろまり、ヴィラクルシス大佐がジョンソンに会いに来た。彼はジョンソンにクラーク基地での財宝探索は厳しく禁じられていると言った。しかし、ジョンソンはマルコス大統領の大きな力になれたし、基地外の財宝探索にも大きな力となったのだ。マルコスはいつも自分を霊能者だと夢想していたのでマラカニアン宮殿で二人が会った時、マルコスはジョンソンに深く印象付けられた。マルコスは霊能者に、フィリピン人民のためにも第二次世界大戦の財宝を見つけ、そして人民を貧困から救うため、ジョンソンの助けが必要なのだと言った。マルコスは隠匿された日本軍の金塊の多くの場所をすでに知っているが、彼の部下たちはどこを掘ればいいのか厳密には知らないのだと言った。オロフジ・ ョンソンは目標場所を的確に示す偉大な情報提供者になりうる。ヴィラクルシス大佐は専門家チームも投入していた、彼の言によれば、チームはレバー(Leber)グループと呼ばれた。レバーはREBEL(反逆)を逆に綴ったものだった。マルコスはオルフジ・ ョンソンにレバー・グループの指導メンバーになるよう望み、謝礼は気前よく山分けにしようと言った。ジョンソンは大喜びし、魅了され、すぐに意見が一致した。
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708131 No.7373
>>7372
一方で、一九七四年後半、ロバート・カーティスはノーマン・キルストがフィリピンからなんども電話したうちの最初の連絡を受けた。カーティスは四十四才の成功した採掘・精錬会社のオーナーで、会社はレノの近くのネヴァダ州スパークスにあった。カーティスはサン・フランシスコで銀行員としてスタートし、カリフォルニア・ネヴァダ州境に沿った地域の古い銀や金の採掘に魅了された。彼は多くの古い採掘鉱を手に入れ、スパークスに工場を建てた。その工場でカーティスは鉱石を再処理し、より多くの金、そしてプラチナやイリジウムなどの貴金属を採り出す新技術を完成させた。大抵のひとは、アメリカでプラチナが採掘されるとは知らなかったが、それは金のカルテルが、アフリカで自分たちの鉱山から採掘する金属の量や価格を支配するためプラチナの探索を妨害したからだ。
しかし、カーティスは独力でシエラで採掘した鉱石からプラチナを採り出す方法を確立した。そのおかげでカーティスはそこそこの金持ちになれたのだ。ノーマン・キルストはボブカ・ ーティスに、マニラに飛びマルコス大統領のために精錬所を立ち上げる相談をする気がないか訊ねた。キルストはカーティスに、金塊を再精錬し、認証をフィリピンの公式のナンバーと刻印に変え、フィリピンの鉱山からの採掘されたように見えるよう化学組成を変えることをマルコスが望んでいると説明した。カーティスにとって信じがたいのは告げられた金の量の多さだ。キルストとマルコスはまず第一に、少なくとも一年に三百㌧の金塊、つまり三千トンの金塊を向こう十年間で処理することを望んでいたのだ。(現在の価値なら二百八十兆円!)
カーティスはよく考えて、下調べをした。歴史的にみても、フィリピン鉱山から採掘した金が大きな割合を占める可能性はなかった。一九三九年にフィリピンの金山はそれまでの最大の量の金を産出したが、百万トロイオンスつまり三一トンちょっとである。一九七〇年代にフィリピンは毎年わずか二二㌧を産出しただけだった。金鉱の作業は活気がなく非効率的だったので、毎年の産出量が突然十倍に急上昇したことを説明するのはむずかしかった。しかしながら、マルコスはもう少し辛抱すれば長年にわたった少量の市場取引から抜け出せる。金塊の浄化さえできれば、マルコスはすぐにでもそれを民間のバイヤーに売ることが出来る。カーティスはキルストの話を何回か断ったあと、一九七五年二月二十二日、キルストから長い手紙を受け取り考えを変えた。手紙には、本当の金塊の出所は日本軍の略奪品だと明らかにしていた。クリストは手紙で述べている、「アメリカ大使館の敷地、クラーク空軍基地、スービック海軍基地に埋蔵された財宝がある…重要なものが34ヶ所で、それほど重要でない場所が一三八ヵ所ある。レバーグループは百七十二ヵ所全ての回収計画を立てたが、重要な三四ヵ所での作業だけを望んだ。というのは三四ケ所のうちのいくつかから財宝を回収できただけでも、ずいぶんいい仕事になると知ったからだ。」(マルコスはベンが自分のために、八番抗、九番抗、マンタルバンの三枚の地図を取り除いていたことを知らなかったので隠匿場所一七二ケ所と言う数字が定着していた。
「君が埋蔵場所へ行けば、そこで本物の日本軍の図面を見せてもらえるだろう。」。「一九四〇年の金相場で言えば七千七百七十億円の財宝があるんだ…坑道の内のおばけ貯蔵所には…九千九百九十億円の財宝がある…八千八百八十億円の財宝がある…」。どんどん、財宝の数字は途方のないものになった。マルコスの取り巻きはこれらの推測を、三桁の数字と長いゼロが続く円記号で印のつけられた地図を根拠とした。地図上にある多くの他の記号のように人を欺く暗号が含まれていることを考えもせずに、その記号で埋蔵場所に七千七百七十億円の金があるという結論に飛びついた。マルコスはたいへん興奮して、自分のヨットに「七七七」と名づけた。少し理性的に考えれば、各埋蔵場所にどれくらいの財宝があるのか誰もわからないことは自明だ。埋蔵された個別の品目は金の仏像、宝石が詰まったドラム缶ように地図上に特定できるが、その価値は特定できるわけではない。現行の金価格がどうであろうが、七五㌔の延べ棒はまともな人間であれば誰でも満足できるものだ。多くの理由のため、ほとんどの財宝ハンターたちは、地図を持つ者も持たないものも、収穫はなかった。極少数の人間だけが成功し、マルコスも、ロバートカ・ ーティスのおかげで成功者の中に入ったのだ。
カーティスは思い出す。「私は信じられなかった。私は財宝について信じられない理由があるんだ。」カーティスは世界の金算出量の一般常識的について、キルクスが言ったことに満足できなかった。カーティスは工夫と幸運しだいで再精錬されるのを待っている第二次世界大戦の財宝の大きな貯蔵所があると云う考え方に夢中になった。カーティスは何をするかを決める前にもっと調べるべきだった。カーティスはキルクスに三日以内にマニラに飛ぶと告げた。カーティスは一九七五年の二月の終わりにマニラに着き、キルストに会い、ファビン・バー将軍等、マルコスの側近と仲間に紹介された。彼らは大変友好的だったのでバーを含んで彼らの半分がプロの殺し屋だとは気付かなかった。そのことは後ではっきりした。「三日か四日で私は納得したよ。」とカーティスは我々に語った。カーティスはマニラに三日間滞在するつもりだったが、一ヵ月もとどまった。カーティスを納得させたのは圧倒的な物的証拠だった。カーティスはマニラのマラカニアン宮殿や他の場所で、金の延べ棒でいっぱいになった部屋を見た。あるひとつの部屋のだけでも、金の延べ棒で六千万ドル分を見たと計算したのだ。銀行員として、冶金学者としてそれが本物だと理解した。マルコスは礼儀正しいホストであろうと努力して、カーティスはマルコスの知性に感心した。
後になって初めてカーティスはマルコスがまた大変「冷酷な男」だと気づいた。最初の会合で、マルコスは、国際法では「第二次世界大戦の略奪財宝の発掘で、出自が特定できる物はすべて奪われた国に返却されるべきだ。」と定めている、この点で助けが必要なのだと言った。マルコスはカーティスに、自分は莫大な量の金を回収しており、その金が偽装しない限り没収されることになると言った。一九七五年三月十一日から十二日に、マルコスはカーティスや他のゲストと掃海艇を改装した大統領専用クルーザーで夜のクルージングに案内した。クルーザーは百人のゲストを乗せマニラ湾周辺をまわり、宴会が行われ、その後は踊りが続いた。踊りは真夜中に終わり、ゲストは湾に面したところに降ろされた。そして、クルーザーはレバー・グループの中心メンバーと幾人かの外国のゲストだけを乗せて再びマニラ湾へ向かった。カーティスはオルフ・ジョンソン、ノーマン・キルストに混じって、戦争略奪品の回収に関する秘密の会談に参加した「 ニクソン元大統領の側近と」 「フォード大統領の側近」がそこにいたことを覚えている。ニクソンは七ヶ月前に大統領を辞任し、後をフォードが継いだ。共和党はウォーターゲート事件のために一九七六年の大統領選挙に敗れそうだった。二人の側近が参加していることで、カーティスはニクソンとフォードがマルコスの金回収活動に何とかして参加しようとしていると推測した。カーティスは、ふたりの側近が政府の代理人なのか、ニクソンとフォードを非公式に代表しているのかあれこれ考えた。
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708131 No.7374
>>7373
カーティスとマルコスは星空のもとデッキチェアで多くの夜を過ごし、闇の金塊の問題について話し合った。マルコスは自分のことを自国民の生活向上のために、又冷戦時代のワシントン政府の良き協力者であるため誠実に取り組んでいる親米民主主義国家の大統領であると主張した。マルコスは自分の持つ悩み、つまり金塊を処分する難しさについて説明した。最良の方法は、他の金の銀行に金を売る危険に巻き込まれるより、むしろマルコスが自分の地金銀行を設立することだとカーティスは言った。自分の地金銀行があれば、金を保有することもデリヴァティヴに貸し付けることも可能だし、大きな利益を得ることも出来るだろう。この提案はマルコスの興味を引かなかった。なぜなら、世界の新しいオッペンハイマーとしての華やかな自己イメージに合致しなかったからだ。
カーティスはマルコスに金塊をアラブ諸国と石油と交換し、その石油を日本に売ってクリーン・マネーで決済させたことがあるか尋ねた。マルコスはこのアイデアが気に入ったようだ。朝方、クルーザーはバターン州マリヴェレスにある避暑用の大統領宮殿沖に停泊した。カーティス、ジョンソン、そしてキルストはマルコスの書斎に連れて行かれ、そこで本物のロクサスの仏像を見た。カーティスは近づき仏像が純金であることを確認した。仏像には刻み目や引っかき傷があり首にはドリル穴がある、それでメッキした銅ではないことがはっきりした。マルコスはその首がどのように回して外れるかを見せた。オルフ・ジョンソンの助けがあっても、カーティスはひどく重い仏像を動かすことはできなかった。次にカーティスはバー将軍に地下の大きな部屋に連れて行かれ、何列にも並べられた金の延べ棒を十分に調べた。帰りにマルコスはテラスに立ち避暑用宮殿の前の丘を指差した。マルコスはカーティスに、あの丘に幅八〇フィート、長さがフットボール競技場くらいの地下倉庫をいくつかデザインして欲しいと言った。そうすればマルコスは二十万㌧から五十万㌧の金塊を貯蔵できることになる。マルコスはマニラで使用している貯蔵庫はすでにあふれ出んばかりだと語った。再びカーティスはマルコスの述べる金の量に驚いた。その量は一般に存在すると考えられている精錬された金の量の何倍もの量だ。
しかしカーティスは金は稀少だという俗説は、ダイヤモンドの俗説とおなじで、価格を高く維持するために希少だと言っていると確信できるに十分な金の量を見てしまった。一九七五年三月二十五日、カーティスはオルフ・ジョンソン等と一緒にレバー・グル-プとの契約に署名をした。彼らは「前述の財宝を調査研究し回収するため、一緒に能力や手段を出し合うこと」に同意した。見返りは「フィリピンの国土と海域」で回収された金を分け前としてもらうことだった。カーティスが関与したのは、ネヴァダの工場から二基の溶鉱炉を提供したことだった。溶鉱炉はマニラに運ばれた。一基はマラカニアン宮殿に隣接する国立開発コープに据え付けられ、そこでは溶鉱炉は金を適切な品質証明と品質番号をつけロンドン基準に改変(浄化)するために使われた。もう一基はバターン州のうなぎ工場の隣地にカーティスの仕様に合わせて建設された精錬所に据え付けられた。そこで事前に精錬された多量の鉱石や新しい鉱石が、カーティスが開発した、より効率的な抽出工程へ送り込まれた。この新工程での金の産出量の増加はフィリピン全体の金の産出量が増加しているもっともな説明になった。マルコスの金のいくらかは、銀や他の金属を八百純度まで加えることで、精錬していない鉱山のインゴットに見えるように格下げされた。鉱山の金の延べ棒は登録も品質保証も必要ないのでその金は疑惑を起こすことなく少しずつ市場に流された。
カーティスが最初の旅でマニラにいる間、マルコスはオルフジ・ ョンソンを試した。バー将軍は、ジョンソンとカーティスを沿岸警備隊の哨戒用魚雷艇でマニラ湾のある場所に連れて行った。そこは日本軍の重巡洋艦「那智」が一九四四年一一月五日に沈められた所で、ジョンソンが沈んでいる「那智」を見つけられるかどうかを確かめようとした。「那智丸」については、そして「那智丸」がどのようにして、どこで最期を迎えたかについて様々な論議のあるところだ。ひとつの見方として、「那智丸」は衝突で破損した後、日本での修理を必要とし、マニラ湾沿いのカビテ州で百㌧の「金のユリ」金塊が積み込まれ、出航したとたんマニラ湾で待機していた日本軍の潜水艦に故意に魚雷で沈められたというものである。海面に浮かび上がった乗組員たちは潜水艦の乗組員に機関銃で撃ち殺された。
この説明では、「那智丸」は銀貨や金貨でいっぱいのドラム缶を積んだ荷船を曳航しており東京へ向かっていたという。二番目の魚雷は荷船に命中し、真っ二つとなり砂と泥の海底に銀貨や金貨をぶちまけた。日本軍によって意図的に穴を開けられ沈められた他の財宝船のように、「那智丸」は浅い海域(約百フィート)に沈んだ。公式の米国海軍の報告書には、「那智丸」は一九四四年十一月五日にマニラ湾に沈められたと断定しており、その沈没は連合軍の飛行機によるものだとしている。ベン・バルモアに残された「金のユリ」の地図は沈められた船の位置と、積み込まれた財宝の種類を示していたが、マルコス配下のダイバーたちは濁った海水のなかで財宝を見つけることが出来なかった。だから、オルフ・ジョンソンは霊能力で財宝を見つけることを期待されていたのだった。
「那智丸」の位置を正確に突き止める努力に緊迫感が取り巻いた。なぜなら、日本のダイバーたちもまた財宝を探していたのだ。マルコスは以前、日本の難破船引き揚げ会社に許可を与えていたが、その時は日本人が「那智丸」の沈んだあたりに潜水するのを望まなかった。予防手段として「ルソン荷役会社」を国営化したが、この会社は日本のために仕事をしていることをマルコスは知っていた。バー将軍は沿岸警備隊の巡視船に日本人ダイバーたちのどんな動きも見逃すなと命令した。日本政府は何が起こっているのかをあたかも知っているかのように、日本の首相はまさにこの時をマルコス公式訪問に選び、「那智丸」の親族の代表団を一緒に連れてきた。代表団の中には艦長の「コノオカ・エンペイ」大佐の未亡人も含まれていた。代表団は遺骨の回収を希望していると言い、首相は日本の引き揚げチームが「那智丸」から遺骨を探索する許可を要求し、またフィリピン海域に沈んだおよそ四百の日本船を探索する許可も要求した。マルコスは拒否した。カーティス、ジョンソンと一緒に哨戒用魚雷艇に乗っていたのはベン・バルモアとポル・ギガ、加えてフィリピン人ダイバーの一グループとバーの警備係であった。ベンの地図に示された場所に錨を降ろし、ダイバーたちは濁った海水の中で数時間探索したが何ら得るものがなかった。ジョンソンはダイバーたちが諦めるまで忍耐強く待ち、それから右側に数百ヤード移動することを主張した。ダイバーたちは再び潜り、すぐ浮上し、ジョンソンに「那智丸」を発見したと叫んだ。そして、ダイバーたちは証拠に号鐘(船鐘)を運び上げ、浮きブイを沈没船の船首と船尾につないだ。彼ら全員が翌日の午後その場所に戻ったとき、目印のブイは姿を消していた。海流が綱をちぎったようで、その日の内に船の場所を再確認するには遅すぎた。三日目にジョンソンは再び「那智丸」の場所を特定し、新しいブイがしっかりと取り付けられ、バーは侵入者から守るために巡視船をその場に残した。しかし、三日後、彼らが実際に金の回収を始めるためにその場に戻った時、ブイはまたもやなくなっていた。何か胡散臭い。カーティスはバーの直属の部下がブイを取り去ったのではないかとほのめかした。バーは、彼の指揮下の巡視船は大統領のクルーザーを護衛するためにその場所を離れなければならなかったと主張した。実際のところ、カーティスは始めて本当のフェルディナンド・マルコスを理解しつつあった。「那智丸」がどこに沈んでいるか確実に知ってしまえば、マルコスは誰かと回収品を分け合う気持ちが微塵も無かったのだろう。マルコスはカーティスとジョンソンに「那智丸」の事は忘れ、代わりにもっと見込みのある陸上の財宝隠匿場所に関心を向けるように言った。
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708131 No.7375
>>7374
マルコス一派のいくつかの情報筋によれば、マルコスは「那智丸」の金を回収したはずだと言う。レバー・グループの元駐米大使、アメリト・ミュータックはカーティスに、マルコスが「那智丸」から回収した金は一九七五年時点で六十億ドルの価値があり、その当時金は一オンス六十五ドルで取引されていたと言った。この数字は別のマルコスサイドの情報筋から我々が確認したものだ。三月の終わりにカーティスは緊急の用事にけりをつけ、自分の所有する精錬機器をフィリピンに発送しにネヴァダに飛んで帰った。彼は何枚かの地図を調べた後、マニラのサンティアゴ要塞ではすぐに金の回収が出来、その後マニラのちょうど東南にあたるテレサー2と呼ばれる大事な場所に取り掛かろうと決めていた。ベンの「金のユリの地図」によれば、テレサー2地区はトンネルのひとつに乗り入れられた多くの日本陸軍のトラックの数を基本にし、また三体の大きな純金の仏像、裸のダイヤモンドが詰まったドラム缶を考えると、金の延べ棒で八十億ドル以上が埋められているはずだ。テレサー2は複合施設のほんの一部分にすぎない、ひとたび彼らがテレサー2に入れれば、別の施設に入り込むことが出来る。カーティスは土木工事の経歴を持つ数人の従業員をネヴァダに持っていた。カーティスは従業員をマニラへ連れて行き、財宝隠匿場所の開放を手伝わせようと計画していた。これは前もって給料、移動費そして海外での生活費など金のかかることだ。カーティスは二基の六トン溶鉱炉をフィリピンまで運ぶ費用も支払わねばならなかった。カーティスはまた、ネヴァダで別の形で生み出していた事業収入も失うことになるだろう。
マルコスは全てのレバー・グループ仲間の経費支払いを拒否したので、カーティスは自分の懐から全ての費用を負担した。マルコスからみれば、カーティスは生涯のチャンスを与えてもらうのだから、全てを犠牲にする覚悟が必要であろうということだ。今にして思えばカーティスは騙されていたのだが、彼は事が順調に進むことを望んだ。カーティスは多額の資金を、彼の鉱山、スパークスの工場と設備に投資をしており、その投資の邪魔をしたくはなかった。彼はフィリピンで地中から金の延べ棒を掘り出し始める費用を補うため、金策をする必要があった。この探索の冒険物語は異様だし秘密なので、間違っても銀行に打診することはは出来なかった。そんなことから彼は「ジョン・バーチ協会」へ話を持ちかけることになった。カーティスは、協会の側近グループが貴金属の取引に深く関わっていることを知っていた。数年も前、協会の連中はカーティスに話を持ちかけていた。「ハント・ブラザーズが一九七〇年代初め、世界の銀生産を独占しようとしていた時に」とカーティスは我々に話した。続けて「連中はハーバート・F.ブッフホルツ大佐を私のもとへ寄こしたのさ…ジェリーア・ ダムズ…ロバート・ウェルチもやって来たな。バーチ協会の創始者、下院議員のラリー・マクドナルド、そしてジェイやダン・アグニュー、フロイド・パクストンもやって来たんだ。」と話した。
バーチ協会は一九五八年、アメリカのいたるところに共産主義者、ユダヤ人、不法入国者、アフリカ系アメリカ人、自由主義者そして同性愛者が入り込んでいると確信する金持ちの実業家と極右政治家のグループにより活動を開始した。会員たちはまた金と銀の虫をその印として与えられた。会員たちはFRB(連邦準備制度理事会)を創設したアメリカ大統領に対し、ずっと前から恨みを抱いた。FRBはアメリカで個人的が金を所有することを犯罪とみなし、その罪は多額の罰金、没収、投獄といった罰を伴うものだった。会員たちはニクソンがアメリカを二度も裏切ったと信じていた。一度は金本位制を廃止した時。二度目は共産中国を承認したことである。他方で、ニクソンの政策のおかげで、一九三三年以来、初めてアメリカ人は合法的に金を購入し、所有することが可能になった。だからこそ、バーチ協会の指導者たちは海外で金を手にいれ、カナダの闇ルートから国内へ金を持ち込み、それを反共活動のために協会の基金に加えられた。
アメリカの超保守グループや、リベラル派にCIAや国防総省から追い出されたランズデール将軍のようにバーチ協会員は自分たちの右翼自警団を作るための長期戦略を持っていた。それは決してヒトラーのブラウンシャツやゲシュタポのように無教養なものではなく、エリート民間軍隊に支持された私設FBIに近いものだ。これには資金がかなり必要だろうから、民間に所有されている多量の金が必要だった。カーティスは保守主義者で愛国者だったが、バーチ協会のメンバーではなかった。しかし貴金属に対する強い興味は共有していた。カーティスがマルコスの金探索に参加したときバーチ協会の役員に対し、隠匿された日本軍の略奪品について自信を持って語った。彼はレバー・グループでの役割、マルコスと行う金の浄化と金を売りさばく販路探しへの関与について語った。
カーティスはバーチ協会幹部の幹部連中がすでにサンタ・ロマーナの金回収や、「ブラック・イーグル信託」を設立した時のロバート・B・アンダーソンとジョン・J・マックロイの役割を知っていることは気付かなかった。すでに彼らはM資金におけるマッカーサー将軍、ウィットニーと、ウィロビーの役割、そして戦後日本での金融操作の全てを知っていた。彼らがこれを知っていたのはバーチ協会の設立メンバーの一人にローレンスバ・ ンカー大佐がいたからで、ユーモアの無い男、バンカーは日本でマッカーサーの個人的スタッフをボナー・フェラーズ将軍から引き継いだ。バンカーは一九四六年から一九五一年まで日本におけるマッカーサーの主席補佐官であり、スポークスマンだった。一九四六年から一九五一年の間、日本ではアメリカで行われたマッカーシーのアカ狩りがかすんで見えるほどひどいアカ狩り(魔女狩り)が続いていた。
カーティスに融資を手配したバーチ協会の金庫番はワシントン州上院議員フロイド・パクストンと彼の息子のジェリーだった。彼らはビニール袋を閉じるプラスチック製のクリップを製造しているクウィク・ロック社を経営していた。カーティスが言うには、もう一人の参画者はアトランタ州の上院議員ジェリー・アダムスで、彼はハント兄弟と提携している貴金属会社「グレート・アメリカ・シルバー社」の社長だった。カーティスが言うには、彼は下院議員のマクドナルドとロバート・ウェルチから、マルコスとの仕事をした時の融資は二人が個人的に「清算」してくれたと知らされたそうだ。彼らはカーティスがバーチ協会の国民会議の一員である億万長者サミュエル・ジェイ・アグニューと直に取引することになっていると言った。彼らはカーティスにフィリピンでの費用として三件の貸付、合計三七万五千ドルをすることに同意した。この貸付にはレバーの分け前22.2%という約束と、うなぎ飼育場の近くのバターン精錬所での10%の分け前以外に担保がなかった。バーチ協会から財政的支援を取り付けたことで勇気づけられ、金を回収すれば数ヶ月で借金は容易に返済できると確信し、一九七五年四月半ば、カーティスはフィリピンへに戻った。カーティスはサンティアゴ要塞で容易に金を回収できるつもりだったので、大金持ちになるのは数週間、数ヶ月そこらで十分だと思っていた。カーティスは相棒のジョン・マカルスターとその妻マーセラ、エンジニアのウェル・チャプマン、霊能者オルフ・ジョンソンを連れて行った。気前の良さを発揮して、カーティスは彼の相棒だけでなく、ジョンソンにもファーストクラスの航空券を購入したのだった。
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708131 No.7376
>>7375
その四月、マニラに再集結し、カーティスはサンティアゴ要塞の換気口からおばけ金庫の回収、つまり簡単な回収から始めたいとマルコスに言った。そうすればバーチ協会に金を返すことも出来るし、ネヴァダで工場の製造を開始することもできるだろう。マルコスはカーティスがバーチ協会に金を返済することには何の関心もなかった。サンティアゴ要塞の作業がそんなに簡単なら、どうしてカーティスにやらせるだろう?マルコスはフォートサ・ ンティエゴは史跡なので特別許可が必要だと嘘をつき、マニラ市街の外側の地区を選ぶようカーティスに言った。マルコスは再び避暑用のマリベラス宮殿裏にある二カ所の地下貯蔵所で作業するようカーティスに強く求めた。カーティスはその仕事をウェスチ・ャプマンに与えた、彼はそれぞれ幅八〇フィート奥行三百フィートのトンネルの設計図を描いた。そこを訪れた一人、常勤のCIA職員はどちらのトンネルも金を詰め込みながら建設されたと証言した。カーティスはサンティアゴ要塞で急ぎの回収が出来ないことに失望したが、テレサー2や、もうひとつの目標の作業に興奮していた。
ビラクルシス大佐はベン・バルモレスとポル・ギガを引き連れ、四〇の財宝隠匿場所をカーティスに調査させた。毎晩カーティスはマニラ空港近くの四つ星ホテル、フィリピンビ・ レッジホ・テルに戻った。そこでカーティスは最上階のペントハウスをジョン、マーセラ、マッカラスター、それにウェスチ・ ャプマン、オルフジ・ ョンソンらと一緒に使用した。カーティスは探索場所を訪れていないときは、時間の多くをベンとペントハウスで過ごした。地図を調べ、その重要部分を発見し、地図の暗号を解読しようとした。カーティスが特定の隠匿場所の調査を望めば必ずベンがバンバングまで長い距離を出かけ、望んだ地図を手に入れてマニラへ持ってきた。結局、ベンは旅をすることに嫌気がさし、彼がいつも持っている三枚の地図を除き、残った地図を全部カーティスに渡してしまった。そいつがとんでもない決定だったのだ。
レバー・グループは当時カーティスと一緒に調査する多くの専門家を用意しており、日本人の言語の専門家も含まれていた。各地図にはひとつの時計の文字盤が描かれており、時には二個か三個の場合もあった。時計には時計の針がないものもあれば、四本の針があるものもあった。各時計の数字は時には普通の並びで、時には奇妙な配列もあり、時には逆さまになっていた。全ての場合に、時計の数字の間にある印はいつも違っていた。全ての地図はそれぞれが謎だった。昼間は多くの実地調査があるために、カーティスには隠匿場所の地図にこだわる時間がますますなくなるし、地図を取り上げられないとの保証もなかった。そこで彼は百七十二枚の地図全てを写真に撮った。最初はポラロイド、次には三十五ミリのカラー写真で撮った。カーティスは記録保存マニアだったので、書類、写真、録画テープの山を積み上げていた。彼は掃除婦がそれらの資料を処分しないかと心配だった。ある日、マルセラ・マッカラスターは買い物に出かけ、フィリピンの堅木から手彫りで作った三層式の回転式食器棚を買ってきた。カーティスは同じ店に出かけ、ネヴァダの妻に回転式食卓をひとつ送ることにした。カーティスは店員が搬送箱の中に古新聞を詰め込んで回転式食卓に詰め物をしているのを見た時、彼は店員に自分の事務書類で代用できないかを尋ねた。それが出来れば別の荷物を送る費用が節約できる。
カーティスは急いでホテルへ帰り、書類、録音テープ、写真、ベンの地図を撮った写真の入った三つの箱を持って帰ってきた。それはとっさの決断だったが、カーティスの命とジョン・マッカラスターの命を救うことになるのだ。翌日、カーティスはマルコスにテレサー2に取り掛かるよう勧めた。ベンの地図によれば、ここは777地区で、かなり期待できる場所だった。マルコスが派遣した陸軍チームはすでにテレサー1の発掘を試みて失敗していた。テレサー1とテレサー2はともに、テレサと呼ばれるヒスパニック地区にある陸軍基地のそばにある。テレサはマニラの南東、リサール州の活気のない地方都市である。ここにすり鉢山の形をした石灰岩質の丘を削って掘られた精巧なトンネル複合施設があり、トンネル内には数十億ドルの価値の金、プラチナ、ダイヤモンドそして三体の純金の仏像があった。テレサは一九四三年におよそ二千人のアメリカ人、オーストラリア人、ドイツ人、そしてフィリピン人の戦争捕虜により掘りおこされた。日本陸軍が既存の軍事基地を支配した時、全ての現地のフィリピン住民たちを立ち退かせ、捕虜収容所が建設された。ちょうどテレサの外側に特別のすり鉢山が突き出ており、それは二百フィート以上突き出ているカルシウム・カルストだったのだ。この石灰岩はきめが細かくネズミ色の岩石で、フィリピン人はそれを切断してアドービ煉瓦と呼ぶ建築用煉瓦にしていた。なぜなら石は強固だが切断しやすく、支柱なし、コンクリート補強なしでトンネルを掘ることが可能だった。日本人技術者たちはすり鉢山とその下に、数層のトンネルを開発するためにひとつの計画を立てた。上の層は片方が水牛の角のように曲がったトンネルのある棒線画に似ている。左手の角はテレサー1であり、右手の角はテレサー2になる。他の層はその下にあった。建設中トンネルを換気するため、地図を見ると六本の通風縦坑が掘られたことが分かる。カーティスは入り口にするため、大きい通風坑のひとつを突き止めようとした。
戦争中、ここには六つの掘削チームがあり、違った開始場所から休みなく働かせた。男たちは腰布と捕虜札を身につけているだけで、薄いお粥の椀だけで生き長らえた。衰弱したり死んだ人間は交換させられた。強制労働をする人間には不足しなかった。トンネル掘りが完了した時、六つのトンネルの内五つは各入り口から二十フィート内側で封印された。封印には陶土、細かい砂、砕石そしてセメントを特別に混ぜたものが使用された。本州北部の石川県(窯業で有名な地方)出身の将校が入口を封鎖する際にその管理をした。石川県の陶磁器が持つひとつの秘伝は、中国北部の土を使うことだった。中国北部の土は海砂、セメント、同地の砕石と混ぜ合わせると固まっても縮まないし、格別に堅牢なる。そして同地の石灰岩と混ぜ合わせれば色をつけることも出来るので、そこが入口であることは見ても分からなくなる。
この入り口の蓋を処理した後、入口に残った二十フィートの部分を土で埋め戻し、低木や竹そしてパパイヤが植えられた。パパイヤは早く成長するので、埋め戻し場所はすぐに近くの地形から区別が出来なくなった。一方、日本陸軍のトラック集団がマニラ湾の倉庫からテレサ地区へ移動し、金塊、宝石の入った油のドラム缶、三体の金の仏像を運び出した。金の仏像はそれぞれ三フィート、八フィート、十三フィートの高さがあった。計画によれば、財宝はトンネル複合体のいろいろな場所に分散して貯蔵された。テレサー1とテレサー2には金の延べ棒を貯蔵する六つの場所があった。小さめの金塊は、床部分にちょうどロジャー・ロクサスが発見した穴のようなものを掘り、二箇所に収められた。他の場所には宝石やダイヤモンドが混在したドラム缶が収められた。何十日もかけて、金の入った金属製の箱はトンネルに運び込まれ、決められた場所に置かれた。すべてのこうした地域はその後、戦争捕虜によって枝編みカゴで運ばれた土で埋め戻された。次に小さいほうの二つの仏像はブルドーザーを使いトンネルのなかへ押し込まれた。各仏像は厚い鉄板の上の場所に押しやられ、片側に突出部が突き出ている千ポンド爆弾の上に載る形になった。引き金機構がセットされてしまえば、誰かが仏像に手をかければ、爆弾は爆発することになる。十三フィートの高さのある三つ目の仏像は大変重いのでトンネルの中へ入れるため二台のブルドーザーが使われ、一台は仏像を引っ張り、もう一台が押して中に入れたのだ。仏像が所定の位置に納まった時、仏像を引っ張ったブルドーザーは動けなかった。そのため、日本軍はエンジンを取り外し、その場所に金の延べ棒の入った2つの箱を押し込み、燃料タンクを空にし、枠をはずした宝石をいっぱいに詰めた。この作業が終った時、最後のトラックがテレサに到着した。これら二十三台のトラックは水牛の角に相当する残った場所にまっすぐ運転していった。タイヤは空気が抜け、車両は金の重みで下がり、車輪の軸(こしき)あたりまで沈み込んだ。
神主が財宝を清めにやって来た。全ての戦争捕虜たちはトラックの荷物を降ろすためと偽りトンネルに入るよう命令された。千二百人全ての戦争捕虜がトンネルに入った時、入り口にブルドーザーが土を押し込み始めた。戦争捕虜たちは自分たちが生き埋めにされるのだと分り、入口に向かってわめきながら殺到した。あらかじめ全ての入口に据え付けられた機関銃が彼らを撃ち殺した。前列にいた捕虜たちが射撃で死んでしまい、飢えと過労で半死半生の残りの捕虜たちには道をふさぐ死体を通り抜ける力も、ブルドーザーがすでに押し込んだ土の山を登りきる力も残っていなかった。捕虜たちはこのままでは生き埋めにされてしまうので、わめきたて土と死体の障害物を何とかしようともがいたにちがいない。それから、この入口は特殊なセラミックセ・ メントで封印され、千ポンド爆弾と青酸カリの入ったガラスの小壜で偽装爆弾がしかけられた。結局、日本軍はテレサー1の三本の通風縦抗とテレサー2の三本の通風縦抗を閉じた。それぞれのグループは、二つの換気口は直径がたったの二フィート、三つ目の換気口は直径八フィートだけで深いトンネルの換気を行った。小さな換気口は土と瓦礫と岩でいっぱいに満した。八フィート幅の換気口は、土、岩、炭、竹、割れたガラスそして人骨で何層にも重ね一杯にした。人骨は殆どが頭蓋骨と腕の骨だった。(日本軍が処罰をする時は、他の捕虜全員がいる前でまず腕を切り落とし、次に頭を切り落としたのだ。)
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>>7376
赤表紙の財宝地図には主通風縦抗に詰めた物について細部にわたる正確な情報が含まれている。なぜなら、この情報は何時の日か財宝を回収しに日本から戻ってくるチームにとって、取り掛かる目印になるはずだからである。最後の仕上げは丘の上とその周辺に木を植えることだ、そうすれば村人たちがこの地へ戻ったときにその変化には気づかないだろう。カーティスは、彼とベン・バルモアが財宝の回収の目印となる大きな通風縦抗のひとつを発見できそうだという虫の知らせがあった。カーティスはベンやポールと一緒にその場所を訪れると、地元の男たちが丘の頂上から石灰岩のブロックを採掘しているのに気づいた。彼は、陸軍が軍事施設のためにこの場所の土サンプルを採る予定だと言って彼らを追い払うようバー将軍に頼んだ。数人の無断居住者は掘っ立て小屋から強制退去させられた。カーティス、ベンそしてポールは、縦抗の中味が多少沈み込み円形のへこみが出来ているのですぐに通風縦抗を発見できた。マルコスは掘削のために、「エイジ・コンストラクション社」を設立し、通風縦抗の掘り下げを始めた。
財宝地図が示していた通り、人骨、竹、割れたグラスと炭の層にぶち当たった。三十一メートルの深さで陶磁セメントの仕切板にぶち当り、彼らがその板をぶち壊すと全員がひどいにおいを嗅ぎ、嘔吐をし始めた。作業者は突然の痛みと発疹に襲われ入院が必要だった。ある者は、財宝と共に生き埋めにされたおよそ千人の死体の腐敗から生ずるガスが広がっているのだと信じた。カーティスはそれがメタンガスか、通風坑が封印される前に放り込まれた小型容器に入った毒物だろうと考えた。元が何であれ、数日のうちに腐敗ガスに覆われた通風縦抗の入口は大きな醜い花、いわゆる死の花で囲まれてしまった。通風坑の空気が入れ替わると三十六㍍まで掘削作業が再開された。そこで掘削作業員は直径六十インチで、まん中に六インチの穴がある大きな丸い石を見つけた。それは石うすで、ベンの財宝地図に示された別の記号であり、彼の持つ地図の正当性を証明した。5週間後、つまり一九七五年六月八日、掘削人たちはもうひとつの厚い磁器セメントの板を突き破り、金を積んだトラックのある貯蔵庫に入り込んだ。オロフ・ジョンソンは貯蔵庫に入り、その光景を一目見て恐慌をきたし、半狂乱で転がり出た。ジョンソンはカーティスに、生き埋めにされた全ての男たちの魂を強く感じ、死者の指が自分を掴みかかろうとするのを感じると言った。その後、オロフは中に戻ろうとしなかった。カーティス自身が降りていき、近親者に通知するために認識番号札を集め始めたが、バー将軍の部下はそれを戻すように要求した。カーティスがジョンソンのような霊能者だったらその行為だけで、そしてジョン・バーチ協会から彼に押し付けられた突然の新しい要求を聞いただけで警戒しただろう。突然、アグニュー家はローンに対する追加担保をカーティスに要求してきた。カーティスは電話でネバダにある重機の所有権をアグニュー家に差し出した。
カーティスは、マルコスのために取り組んでいる金の回収の内、二百億㌦までの排他的権利をバーチ協会へ与える新しい契約書に署名することを余儀なくされた。カーティスはバーチ協会員からバハマのオフショア会社(税金回避地に設立された会社)を通して金の販売を行うつもりであると告げられた。その会社は「コモンウェルス・パッケージング」社と呼ばれ、クウィクロ・ ク所有の会社だった。マルコス所有の金は金取引の大規模な中心地であるナッソーで売買されるだろう。手続きはカナダ・ロイヤル銀行ナッソー支店で処理され、売上代金はバーチ協会の幹部メンバーに管理されている口座を使い、カナダのブリティッシュ・コロンビア州、バンクーバーの東にあるカナダ・ロイヤル銀行ケローナ支店の口座に入金される。そこで金はバーチ協会の中心となる金融専門家が管理する口座へ預けられ、その金を手に入れた金融専門家は、国境を越えて金を持ち込むのだ。バーチ協会員はカーティスに、今までもこのようなやり方で多額の金を合衆国へ持ち込んだと自慢した。
カーティスは疑うべきだった。なぜなら、こうした新しい要求が出てくることはカーティスが知らないところで何かが起こっていることを示している。だが、彼はテレサー2にかかりっきりだった。金の回収は間近だった。かなり前から、カーティスはマルコスに警備体制に関する連絡書を送り、そしてテレサー2から回収された財宝をどのように運ぶべきかをマルコスに知らせていた。彼は、財宝がトンネルから回収された場合、カーティス、ヴィラクルシス、バーの副官、マリオ・ラチーカ大佐らの五人の男の立会いで明細書を記載するべきだと提案していた。そして、それから財宝は番号のついた箱に収められるべきだった。カーティスは、裸の宝石は国防部隊で保管したらどうだと提案した。工芸品は流通していない外貨や全ての紙幣と一緒に保税倉庫へ送ることが出来る。「重量のある品物である「金塊」は、金の「浄化」工場かその付近にうまく保存すれば、浄化工場を行ったり来たりする時の護衛部隊は必要でなくなるだろう。」。
マルコスはカーティスに三体の仏像が回収された時には、仏像を切り刻んで再精錬するべきだろうと言った。そうでなければ、出所がばれてしまうに違いない。一九七五年六月五日の朝四時に、カーティスはフィリピンン・ヴィレッジ・ホテルのペントハウスでテレサー2の警備員からの電話で起こされた。工事の現場監督は、掘削人夫がトラックのフェンダーと千ポンド爆弾の突出部を掘り当てたため、全ての掘削作業をストップしていると伝えた。事前の同意により、爆弾にぶち当たった場合、カーティスは全ての作業者を移動させ、ジェモーラ大佐に連絡し、彼に爆弾除去部隊がすぐに駆けつけるよう手配してもらうことになっている。トラックのフェンダーが見つかったとのニュースに興奮し、カーティスとマッカラスターは陸軍基地へ車を飛ばし、ジェモーラをたたき起こした。ジョモーラはバー将軍と連絡をとろうとしたが、連絡はつかなかった。彼らは一緒にケソン市まで車を飛ばしカヌー将軍に知らせ、カヌーはバー将軍と電話で連絡をつけた。バー将軍はあとの事は全て任せ、カーティスとマッカラスターはホテルへ戻るようにカーティスに言った。
バー将軍は後で彼らのところへ車を差し向けマルコス大統領と成功を祝う会合を設定するだろう。カーティスとマッカラスターがペントハウスに戻った時、オロフ・ジョンソンが詰め込んだバッグを持ちひどく心配そうに居間にいるのに気づいた。オロフジ・ ョンソンは二人に自分たちは生死に関わる危険な中にいるので早々にフィリピンを立ち去るべきだと言った。オロフは大変優しい性格だが、自身に関して弱くも風変わりでもない。カーティスはオロフがそんなに動揺しているのを見たことがなかった。「オロフが我々に話したような恐怖をあなたも実感できたら良かったのだが。」カーティスとマッカラスターはオロフを落ち着かせようと試み、自分たちはまさに大金持ちになろうとしているところだと言ってみたが、人の話を聞こうともしなかった。オロフは近くの空港に出来るだけ早くたどり着きフィリピンから立ち去ろうとしていた。カーティスはオロフに、フィリピンは戒厳令(軍政)が施行されているので、必要な出国許可を得る術はなく、その日のハワイ便に乗る術もないと教えた。オロフは思いとどまらなかった。彼はすぐに空港に向かって出発した。「私は今でもオロフがその飛行機をどの様に手配したのかわからないね。」、とカーティスは我々に言った。「フライトは3時間も遅れていた。後でオロフにその遅れは霊能者の力で影響を与えたのかどうか尋ねたが、彼は微笑むだけだったよ。」
カーティスとマッカラスターはまだ意気は高揚していた。二人は金の延べ棒を積んだ二十三台の軍用トラックの中の1台のフェンダーを見つけたことを知った。二人はまさに大金持ちになるところだった。「我々はみんなでマルコス大統領とマラカニアン宮殿でお祝いしようと考えていた。」とカーティスは言った。オロフが祝いの席に欠席するならそれは残念なことに思えた。その日の午後、約束通り、一台の車がカーティスとマッカラスターを迎えに来た。車は二人をマラカニアン宮殿へ連れて行くのではなく、ボナファシオ要塞にあるアメリカ戦争墓地へ連れて行った。ラチーカ大佐が二人を待っており、オリヴァス少佐と一緒にジープに乗っていた。ラチーカは四五口径の自動銃を持ち、オリヴァスは三八口径のリボルバーを持っていた。ラチーカはカーティスに車から降りるように命じ、シャクナゲの生えている一角へ連れて行った。オリヴァスはマッカラスターを別のシャクナゲの一角へ連れて行った。茂みのかげで、ラチーカはカーティスに下を見るよう合図した。そこには掘ったばかりの三フィートの深さの墓穴があった。カーティスはそれは自分の墓だと理解した。ラチーカは自分の四五口径の銃をカーティスの右耳に押し付けて言った。「悪いな、ボブ。こうするように命じられたのだ。個人的なことじゃないからな。」カーティスは早口にしゃべり始めた。「あんたが引き金を引くのをとめる事はできんだろ、だけど、もし撃ったら、次はあんたが穴の中で俺の隣に横たわることは間違いないね。俺を殺せよ、そうすればマルコスは財宝地図を絶対手に入れることは出来なくなるさ。」
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>>7377
ラチーカはカーティスの言葉をこけおどしと思ったが、確信が持てなかった。ラチーカはオリヴァスを呼びジープまで戻り、バー将軍に無線連絡をした。ラチーカらが指示を待つ間に、バーは部下を派遣しカーティスの住むペントハウスと隣の会議室を家捜しさせた。そこはカーティスと彼の仲間が使っていたところだった。マルセラ・マッカラスターはそれを見守りながら恐怖に振るえていた。捜査係たちは全ての紙片、写真、図、巻きフィルムを没収した。その没収物は宮殿に運ばれ調べた結果「赤の地図集」は含まれていなかった。その地図がないことがはっきりした時点で、マルコスはバー将軍に殺しを延期するように命じた。
墓地で、ラチーカは「マルコス大統領とバー将軍はお詫びのしるしに数日中にディナーをしたいと言っている。とりあえず、二人をホテルへ送ることにする。」と言った。カーティスは簡潔に答えた。「そりゃよかった。」
その時までに、太陽は沈んでいた。ラチーカとオリヴァスはカーティスらをホテルで降ろした時に、ラチーカは「 マルコス大統領とバー将軍は今回の出来事を非常にすまないと思っている。すべてはひどい誤解だったのさ」。と言った。カーティスは後々まで、このひどい誤解がプリミティボ・ミハレスという名前の男と関わりがあった事を知らなかった。ミハレスは長年にわたってイメルダ・マルコスの報道担当官だった。聡明な男、ミハレスはフィリピンで実際何が起こっているのか、あるいはマラカニアン宮殿の「黒い部屋」と呼ばれる警備室で行われている拷問や殺害について、ほとんどの国民より多くを知っていた。彼は結局うんざりし、反マルコス一派から実態を暴露するように説得された。
ロクサスと同じくミハレスは、勇気ある行動のためにひどい報いを受けることになった。考えうる最高の舞台を求め、ミハレスはアメリカ合衆国に飛び、マルコス体制の聴聞会を開催しているアメリカ議会の委員会で証言するよう手配された。すでに、マルコスが行動を改めないなら,アメリカのフィリピンへの援助は大幅に削減されうるという強い指摘がされていた。ミハレスが議会で証言をすると外交的問題が勃発した。同じ時、一九七五年七月四日~五日、コラムニストのジャックア・ ンダーソンが、マルコスは日本軍の戦争略奪品探索を数人のアメリカ人の助けを借りて行っているという情報を流した。マルコスはロバート・カーティスがジャック・アンダーソンにこの情報を漏らしたと考え、テレサー2で財宝が発見された時点でカーティスとマッカラスターを殺すことを決めた。一九七五年七月五日の夜、ペントハウスで、カーティスはラチーカが言ったことだけは理解した。それは、ジャックア・ ンダーソンのコラムに対する情報漏洩はカーティスとマッカラスターの責任だったという事である。二人は間一髪で自分たちの頭を吹き飛ばされることから免れた。二人はやっとオロフの恐ろしい予感を理解した。マルコスが財宝地図さえ再び手に入れれば、カーティスらを殺すことに躊躇するような輩ではないのだ。
実際のところ、地図はずっとペントハウスにおいてあったのに、バー将軍の部下が家捜しで見つけられなかったことにカーティスは驚いた。数週間前、テレサー2の仕事から解放され、カーティスは一七二枚の蝋引きした地図をどうするかという問題に直面していた。どの財宝地図も金で買えるものではなく、替えの効かないものだ。まだこの部屋を毎日掃除するメイドがいる。会議室を見回し、カーティスはホームバーの流しの下に配管工のパネルがついているのに気がついた。とっさの思いつきで、カーティスはパネルのネジを回し、外すと財宝地図が内側にきちんと入ることを発見した。その時から、彼は地図の原本は四六時中パネルの内側に保管し、関心のある地図だけを取り出していた。今や、カーティスはアメリカ墓地で殺されかけた体験から、バー将軍が近いうちに自分たちの部屋をもっと徹底した捜索をするだろうと考えた。カーティスは地図の隠し場所から地図を取り出し、ジョン・マッカラスターに注意を促した。「財宝の事は忘れようぜ。」とカーティスはマッカラスターに話した。「命あっての物種だろ。」助かるための唯一の方法は、財宝地図を破棄することだとカーティスは言った。マルコスとバー将軍が地図を見つけ出せない限り、彼らはカーティスが地図を隠していると考え、地図を失うような危険な事はしないはずだ。カーティスはマッカラスターに、地図は全ての細部もはっきり分かる写真に撮ってあり、すでにネヴァダに送っていると説明した。カーティスはその写真が回転式食卓と一緒に無事に到着していることを知っていた。そのため、原本の地図がもはや絶対に必要なわけではない。マッカラスターは理解した。問題はどうして地図原本を破棄するかだろう
マッカラスターは地図を埋めようと提案した。カーティスは、我々は厳重に見張られているので、地図の包みを持ってホテルから出ることも、シャベルを買うことも、地図を埋めるための目立たない場所を探すことも出来ない相談だと言った。いい方法はホテルの中で地図の廃棄処分をすることだった。地図はワックスでしっかりと上塗りしてあるので、びりびりにひき裂きトイレに流す事は出来ない。最良の解決策は地図を燃やすことだった。会議室のバルコニーにはホテルの仕出し係がカクテルのつまみを焼くための小さなコンロが置いてあった。朝の三時、カーティスとマッカラスターは会議室のバルコニーにベッドカバーを引っ張り出し、手すりに垂らして掛けた。掛けたベッドカバーのため、はるか下のホテルの庭の見張りからはバルコニーの様子が見えなくなった。コンロに火をつけて二人は一七二枚の地図を一枚ずつ燃やした。それには1時間以上もかかった。
ひとたび地図が廃棄処分した後、二人はフィリピンから脱出するために出国ビザが必要だった。出国ビザはバかマルコスからの直接の指示で発行されねばならなかった。カーティスはネヴァダにいる信頼できる部下のジム・デュクロに暗号テレックスを送った。デュクロはカーティスが自分の会社の緊急役員会に出席しなければならないと平文でテレックスするよう指示された。デュクロはまたカーティスの友人、ネヴァダ州知事D・N・オカラガーンと連絡をとるように頼まれた。オカラガーンは「ラス・ヴェガス・サン」紙の取締役でもあったのだ。カーティスはホテルの電話は敢えて使わなかった。間違いなく彼は盗聴されていたはずだ。ネヴァダからカーティスのホテルに平文のテレックスが着くと、カーティスはラチーカ大佐を邸宅に訪ね、テレックスのメッセージを読んで聞かせた。カーティスはラチーカに、マッカラスターはアメリカ墓地での出来事が原因でストレス性の心臓発作に苦しんでいるので、彼も治療のためアメリカに帰らなければならないと訴えた。
バー将軍とマルコスは恐らくその話がわざとらしい言い訳だと理解していたが、二人は財宝地図をどの様に手に入れるかがわからないため追い込まれていた。マルコスはジャックア・ ンダーソンのコラム事件でひどく危機感を募らせ、アメリカ議会が海外援助を削減するのではないか、あるいは事が収まるまで低姿勢でいたほうがよいかとひどく気をもんでいた。もしマルコスがカーティスとマッカラスターをアメリカまで後を追いたいと望めば簡単にそのように出来たし、簡単に殺し屋グループを送り込むことも出来たのだ。マルコスは時間を稼ぐことにして、バーに二人の出国を許可するよう命じた。カーティスとマッカラスターは直ちにホテルで出国許可証を受け取った。二人は次のユナイテッド航空便の予約を取った。二人は出国の便を待つ間に、バー将軍が自分たちのバッグに麻薬をしかけようとするかもしれないと心配し、小さな機内持ち込み用バッグ以外はすべて残すことにした。二人は空港で緊張から冷や汗をかきながら、警備員に逮捕されることも覚悟していた。「我々はようやく飛行機に乗り込んだ」とカーティスは言った。「そして飛行機は滑走路をゆっくり進み、私はうまくいくと考え始めていた。
その時、パイロットはスロットルを緩め、これからゲートまで戻るとアナウンスした。我々はファーストク・ ラス席にいたんだ。私はマッカラスターにやっかいなことになるかもしれないとささやいた。本当にそうなったよ。ドアが開き制服姿の二人の大佐が機内に入ってきた。スチュワーデスが私をキャビン・ドアまで呼んだ。私は行ったさ。担当の大佐は携帯無線機で誰かと話をしていた。大佐は私に、自分は私と機内持ち込みバッグを調べるよう命令されていると言うのだ。私は彼らが私のバッグに麻薬や金、あるいは金塊のようなものを隠し持ち、密輸品を持ったまま出国しようとしたと主張するだろうと確信したね。私はきつい調子で彼を叱りとばし、俺はアメリカ人だ、アメリカの飛行機に乗っているんだ、空港の警備のチェックをすべて通過して来たんだぞと叫んだ。私は検査を受けることを拒否し、大きな声でこの仕打ちは国際的な違法行為だと叫んだ。大佐は無線通信機を取り出し、タガログ語で誰かと話した。相手が誰であれ、地位が上の人間だろう。大佐は英語で「サー」を連発してたからな。結局、永遠のように思った後で、大佐は、席についてもよいと言った。五分ほどして飛行機のドアは再び閉じられ、我々の乗った飛行機は滑走路を再び動き始めた。我々は助かったのさ、さしあたっては‥‥。」ヴィラクルシスは地図の写真撮影や写真複製という予防策をまったく取っていなかった。カーティスが逃げた後、ヴィラクルシスは自分を守るために記憶に頼り十四枚の地図を描き、それを彼が別にとっておいた「赤表紙の地図」原本であるとうまくごまかした。マルコスはカーティスに見せられた一枚の「赤表紙の地図」しか見てないので、その計略はまんまとうまくいった。マルコスはヴィラクルシスの描いた複製地図をマラカニアン宮殿の書斎にある金庫に保存した。マルコスが権力を剥奪された時、金庫の中でその複製地図は発見された。
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708131 No.7379
>>7378
カーティスは後日、バー将軍の部下の一人、オーランド・デュレイ大佐から、マルコスはテレサー2からの財宝回収を進めたが、埋っていた陸軍トラックから金塊を回収しただけだったとの情報を得た。マルコスはその後、主要な空気ダクトを閉じるように命じた。マルコスはダイヤモンドと裸の宝石の入った油のドラム缶を回収しなかったし、三体の純金の仏像も回収しようともしなかった。デュレイによれば、金塊はテレサからサンフ・ ァンの町にあるマルコス所有の自宅にトラックで運ばれ、金塊は検査のうえ在庫目録に記入して保管された。デュレイは、トラックの金塊は合計で二万二千トンだったと言うが、金塊保管を手伝ったマルコスフ・ ァミリーの一人は二万トンだと言った。どちらにしても、金塊は一九七五年半ばの相場なら、わずか数百万ドルの誤差を含んでも八十億ドルの価値があるはずだ。
「那智」から回収した金塊六十億ドルに、テレサー2から回収した八十億ドルの金塊を加えれば、ほんの六か月でマルコスは金塊、百四十億ドルを所有する大金持ちになっていた。それもこれもみんなオロフジ・ ョンソン、ロバートカ・ ーティスそしてベン・バルモアの働きのおかげだった。その時、マルコスは、彼らに文句を言わせず、次の回収作業の協力を取り付ける必要があるのに、どうしてカーティス達にレバー・グループの分け前を払わなかったのだろうか?簡単に言うなら、マルコスは病的に貪欲で、金を払うくらいなら殺したほうがましだという輩なのだ。アメリカで受けている新聞での悪評のため、マルコスは神経質になり、自分の不安を緩和するためには誰かを殺し、破滅させ、破産させなければならなかった。
カーティスはまだ生きていたが、彼の難儀は始まったばかりだった。彼の乗った飛行機がマニラ国際空港から離陸したとき、彼はやっと安全だと考えた。しかし、カーティスがネヴァダに着いた時、彼がテレサー2でトラックのフェンダーを見つける以前からマルコスはすでに彼をだましていた事に気がついた。カーティスは我々に次のように述べた。彼がテレサー2で回収作業をしている時に、「金カルテル」( G O L D C A R T E L が) マルコスに「カーティスを殺し、金塊販売の仕事は「金カルテル」に任せろ、さもないとマルコスはまずいことになるぞ」というマフィア的な申し入れを持って近づいていた。カーティスは「金カルテル」という言葉を、世界の公的な金市場を支配している一流銀行、金加工会社、そして(連邦準備銀行やイングランド銀行を含む)国家財政部門の連合体と解釈していた。このときにカーティスが言っている事を証明する事は不可能だが、以下に述べる出来事で裏付けられるだろう。カーティス所有の溶鉱炉とマニラでの金浄化の仕事はジョンソン・マセイ化学と呼ばれる金カルテルのメンバー会社に引き継がれた。ジョンソン・マセイ化学はイングランド「金地金銀行」の一つ、ジョンソン・マセイ銀行(JMB)傘下の会社だった。ロンドンのシティ(金融中心街)の仲買人が「マルコスのブラック・イーグル取引」と呼んだ多くのスキャンダルが引き起こされた後で、ジョンソン・マセイ銀行は倒産しイングランド銀行に吸収された。
(訳者注。G O L D C A R T E L 銀行とは、ロンドンにある五社のことで、モカッタ&ゴールドスミッド、シャープス・ビクスリー、ジョン・マセイ、ロスチャイルド、サミェル・モンタギューのことである。その五社は世界の金相場を支配していると言う。)
マルコスはムータック大使をサン・フランシスコヘ派遣し、カーティスに関係のある全ての破壊工作を始めた。カーティスは次のように言った。「ムータックは私の取引先の経営者や株主の全てに接触し、サン・フランシスコで会合を持ち、その場で私が戻って来ることはないと言った。ムータックは多額の現金を彼らに提供することで、私の会社を倒産させ、民事訴訟を起こすことを要請したのだ。経営者や株主の殆どはムータックの話にのり、マルコスが彼等を金持ちの大物にしてやった・・・・・その結果として、私は民事訴訟、大陪審、告訴とひどい目に遭ってしまった。彼らは文字通り、米国にある私の工場を破壊した。ブルドーザーで壁を倒し、私の所有する設備の全てと貴金属を盗み、私の銀行口座を空っぽにした。我々はトラック、ドリル、ブルドーザーなどの部品を所有していたが、それらは全て盗まれ、金庫には権利書が入っていたので、奴らはそれも売り飛ばした。我々は破産に追い込まれたんだ・・・法廷での弁護費用もないし、事実、無一文だったから、マルコスや金カルテルに何の脅威もかんじなかっただろ。」
ジョン・バーチ協会のジェイ・アグニューはカーティスを法廷に引っ張り出し、コモンウェルス・パッケージング社を通して貸し付けた金を回収しようとした。カーティスには返済は不可能だった。なぜならマルコスがジョン・バーチ協会の協力でカーティスを破産させていたからである。マルコス・ファミリーの情報筋によると、彼らがカーティスを訴える前に、バーチ協会員はすでにマルコスと取引をしており、それはもともとカーティスを通して手に入れる予定だった二百億ドルの金塊を販売するためだった。そんなわけでバーチ協会の理事会(取締役会)は前から狙っていた全てを手に入れたのだ。我々が聞いたところでは、カーティスに対するアグニュー家の訴訟は、取引を決着させるためにマルコスが要求した報酬だったということだ。「あまりにもひどい状況に置かれると、逆に何も感じなくなるものだ。」とカーティスは言った。
以前はカーティスに関心を持たなかったFBIもカーティスの事件を調査するよう命じた。FBIはアグニュー家を謀略に加担したことで告発しようとはしなかった。謀略とはバハマで闇の金を販売したり、カナダ経由でアメリカへ売上金を密輸したことである。その代わり、カーティスとマッカラスターは、バーチ協会員より提供された証拠に基づいて、謀略の詳細を電報と電話で相談した罪で告発された。彼らの裁判は一九七八年八月十四日に始まることになっていたが、カーティスもマッカラスターも無一文だった。彼らは又、国選弁護人ではとても仕事が務まらないと思った。聴聞会でカーティスは事実と認め、執行猶予五年となった。カーティスは反撃に転じて、自分の持つ情報と、全ての証拠(三百時間以上の録音された電話テープと、二千ページの書類)をアメリカ上院情報委員会の委員長であるネヴァダ州上院議員、ポール・ラクソルトに送った。ラクソルトの事務所は何も出来ないと言い、バーチ協会へ全ての資料のコピーを手渡した。
数年後、カーティスはラクソルトがマルコス大統領とホワイトハウスとの主要な橋渡し役の一人であり、マルコスの取り巻き連中の多くがネヴァダ州にセカンドハウスを持つ理由のひとつだと知った。カーティスには事を公表する以外に選択肢はなかった。彼は「ラス・ヴェガス・サン」紙の編集長ハンク・グリーンスパンとコラムニスト、ジャック・アンダーソンに連絡をとった。彼らは一九七八年四月に始めた連載で情報を発表した。スティーブ・プシナキスというカリフォルニア在住のフィリピン人亡命者はその年の六月、「フィリピン・ニュース」紙で二十四回シリーズの記事を発表し、反マルコス派の抗議の火に油を注ぐことになった。マルコスは山下将軍の金塊話をヨタ話だと言って反論した。しかし、こうした記事でマルコスは、カーティスが「赤表紙の地図」を燃やしてしまったことと、カーティスだけがその地図のコピーを持っていることを知った。仲介人を通して、カーティスは、レバー合意で彼に支払われるべき金を支払う事を条件に、マルコスに地図のコピーを返すことを提案した。マルコスは、一九八〇年の十月に回答し、カーティスにレバー回収事業での分け前全額分として、金塊で五十億ドルを送ることで全ての地図を買い戻そうと申し出た。金塊はマニラからネヴァダ州のレノ空港へ直接空輸されるはずだった。ネヴァダ州は州法により非関税の空港なので、金塊も他の輸入品も税金なしに運び込むことが出来る。その年の十月、金塊を積んだ飛行機はマニラ空港から離陸した。太平洋の真中まで来たところで、マルコスは急に飛行機の進路をチューリッヒに変更した。ワシントンでこの飛行を説明したフィリピン大使、トリニダード・アルコンセルによると、マルコスは将来の娘婿のグレゴリー・アラネタ、バー将軍、友人アドナン・カショギから、重大な過ちを冒す事になると警告を受けたのだった。もしマルコスが五十億ドルを払えば、カーティスが述べていた事がすべて真実だという証明が得られただろう。
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708131 No.7380
>>7379
黄金の兵士 第十三章 勇者たち
あるとき米国の法廷で、マルコスが大統領だった二十年間に、多量の金が積荷としてフィリピンから出ていったことが判明した。その金は中央銀行で作られたのでも、バンゲット社のような鉱業所で作られたのでもなかった。残った謎は、それがどこへ行ったのか?たしかに、マルコスはマニラでロバート・カーティスから盗んだ機材を使いジョンソン・マセイ・ケミカル社で再精錬した後、こっそりと船で運びだした。金はマニラを出る前に、ジョンソン・マセイ銀行で新しい紙で包みなおされ、それからチューリッヒ、ロンドンの金取引所から買い手に運ばれた。他の闇の金塊はサウジの王子や中東シンジケート、またはルクセンブルクやリヒテンシュタインを通してヨッロッパの用意周到なグループに内密に販売された。物資運送状を含む書類によると、いくつかの荷物は商業船や飛行機に乗せられてアメリカへ行ったことが分かる。
一方、残りはCIAの飛行機で香港やオーストラリアの米軍基地へ向かった。金はフォート・ノックスで行き着いたわけでなく、びっくりするほど遠いアメリカへ運ばれた。たとえ、金がそこで行き着いたとしても、アメリカ政府はそのことを認めていない。それなら、金塊はどこへ行ったのか?CIAや国防総省以外に誰がマルコスを保護し助けていたのだ?発見された略奪品から利益を得ていたのは誰だ?個人の懐にこの金塊のいくらかを入れるため連邦政府の影響力が使われたのだろうか?答えはこうだ。マルコスはCIAを飛び越えて、「エンタープライズ」と呼ばれる闇の組織と関係を持っていた。その組織は民間の諜報機関(PIO)と民間の軍事会社(PMF)の一団である。これらの組織はCIAや国防総省の元職員で構成され、彼らは自分たちのことを、冷戦の勇者たちと見なしていた。多くのPIOやPMFはCIAの大改革がすすんだ一九七〇年代に活動を開始した。彼らはジミー・カーターがCIAをかき回した後の一九八〇年代に急速に発展し、やる気十分なメンバーは、別の場所で仕事を続けることになった。
一九七二年の終わり、ジェイムズ・シュレジンジャーは、リチャード・ヘルムズに代ってCIA長官に就任した。彼は、もう役に立たない連中や、ヘルムズの下で暗殺も含め、アメリカの法を侵す活動に長期間従事してきた不正工作一派、数百人の工作員を強制的に退職させる意向をはっきり示した。CIAがウォーターゲート侵入事件や他の国内の侵入事件に絡んでいることが知られるようになった時、シュレジンジャーは内部調査と、政府に迷惑をかけるかも知れないCIAに関わる全ての諜報計画の完全なリストを作成するよう命じた。結果的に六九三頁の「家族の宝石」という報告書となったが、マングース作戦のような暗殺計画、フェニックス作戦における殺人部隊、国家安全保障のために隠された汚い仕事についての情報などが漏洩することになった。そして百人以上のCIA職員が首になるか早期退職を余儀なくされた。
フォード大統領はニクソンが辞任してから、CIAの悪事を調査するためにロックフェラー委員会を設置したが、「米国やトルーマン以後の各大統領の名前を傷つけそうな」事実を明らかにしないよう強硬な保守派を配置した。フェニックス作戦、ロッキード賄賂スキャンダル、その後のイラン・コントラ事件に関する議会聴聞会が開かれ、CIAと国防総省に対する追加的な粛清が行われることになった。こうした追放に加えて、中国との和解についてCIA職員のレイ・クラインとニクソン大統領の間に、ジミー・カーターに対するジョン・シングローブ少将やジョージ・キーガン空軍司令官のような軍トップとの間に生じたのと同じような争いがあった。カーターが大変多くの職業軍人やスパイを排除した時、彼らが個人生活を楽しめるために何をやるべきかということまで充分考えたようには思えない。どんなローマ皇帝でも軍団を解散するときにそれほど不注意であったことはなかったであろう。
賢明で攻撃的な男たちが、バーチ・ソサエティやムーニィズ、世界反共連盟、金持ちの保守派の大物などから資金援助を受けてこっそりと再結集した。サンティーの「アンブレラ組織」のように、「エンタープライズ」は一九八〇年代の後半にパワーのある影響力のある組織に成長した。彼らはすでに民間の市民であったが、こうした男たちは、軍当局者やCIAや国軍の長にたいして緊密なつながりを持ち続けた。こうした二重構造のため、公的なアメリカ政府の活動と秘密の目的を持った活動を厳密に区別することは、殆ど不可能である。このことは、これらの個々人の多くが、秘密の活動、詐欺、公共サービスや秘密基金の使用に長年従事してきたため、本当に分からなかったのだ。
エンタープライズのメンバーは、民間企業の合法的な会社の姿であるが、実際は情報機関のための、もっと言えば軍部のための「トロイの木馬」の役割を果たすCIAの秘密企業と仕事をすることに慣れていた。事実、PMFのいくつかは、軍司令官や提督や元スパイが政府業務から離れていないかのごとく、給料や年金を引き出し続けることが出来るように作られたみせかけにすぎなかった。多くのCIA職員は各種のごまかしの下で、数年いや数十年過してきたので、彼らがすでにCIAを辞めたのか単に地下に潜ったのかを、何の疑いもなく確定することは難しかった。
ひとつの完璧な例は、ウィリアム・キャセイである。キャセイはOSSのオリジナルメンバーの一人である。彼は法科学校を終了後、会計会社で働き、同僚の弁護士であるジョン・ポップ・ハウレイと関係を維持した。ジョンはワイルド・ビル・ドノバン法律事務所、ドノバン・レジャー・ニュートン・アンド・アービーンで働いていた。ドノバンがOSSの長官に就任したとき、キャセイとハウレイは彼の組織、OSSに参加した。キャセイは戦時中のジョン・シングローブ事件の担当官だった。一方。ポール・ヘリウェルはシングローブの直接の上司である。キャセイはまたアレン・ダレスやジョン・フォスター・ダレスの親密な友人であり、レイ・クラインと共に働き、小島少佐に対するサンタ・ロマーナの拷問が成果をあげたころ、ランズデールに関係するようになった。このため、キャセイはブラック・イーグルについて多くを知る地位についた。ある情報筋は、キャセイは財務知識があるため、ロバートB・ .アンダーソンやジョン・J.マッコイの指導のもとにブラック・イーグル・信託を開始するとき、ポール・ヘリウェルやエドウィン・ポーレイと同じように重要人物の一人となった。戦後、キャセイと友人ハウエルは、彼らのウォール・ストリート法律事務所を設立した。しかし、キャセイを本当に金持ちにしたのは、一九五四年のメディア所有会社キャピタル・シティズを立ち上げるとき、別の元諜報担当者と関係を持ったことにある。多くの調査によれば、この時期、CIAは放送や出版における秘密の活動のためのみせかけ会社を設立するため、数百万ドルを注ぎ込んだし、キャセイは破綻したメディア会社を獲得し、赤字決算から抜け出すためキャピタル・シティズにこれらの資金のいくばくを注ぎ込んだといわれている。
キャセイは決してCIAを去ったのではなく、ただ金融を扱う蝶々に生まれ変わっただけだった。上級のCIA工作員がウォール・ストリートで二重の仕事をしたのは初めてではなく、アレン・ダレスは同じことをやった多くの中の一人にすぎなかった。一九七一年から七三年の間に、キャセイは証券取引委員会(SEC)の委員長としてニクソンに任命され、そこでSECの弁護士スタンリー・スポーキンと緊密に仕事をした。(スポーキンは後にキャセイにCIAの総合弁護士として指名され、Schlei 事件に関与することになる)。キャセイはニクソン政権の経済担当次官として、また輸出入銀行の会長として仕えた。一九七八年、キャセイはマンハッタン研究所というシンクタンクを設立したが,そこは多くの元CIA職員を抱え、保守派の基金から保守派の作家まで回り、かき集めた金を注ぎ込んだ。キャセイがキャピタル・シティズを去り、レーガンの大統領の選挙参謀となり、その後レーガン政権のCIA長官になった時、キャピタル・シティズの株を七百五十万ドルも所有する最大の株主であったといわれている。彼はずっと大株主であったし、CIAの長官であった一九八五年、キャピタル・シティズはABCを買収している。
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708131 No.7381
>>7380
自らの全職歴が不正の金融活動に巻き込まれた一人の男、キャセイは本書に登場する多くの主要人物と関係をもった。彼のDNAはサンティーに出会う前からマルコスが終わるまで、あらゆる場所に存在している。彼はCIAの民営化を夢見た男の一人で、CIA長官としてレーガン大統領にその方法を示した。レーガンの最初の行動は、大統領行政命令12333 号に署名することだった。この命令は、CIAや他の政府機関がPMFと契約をすることを公認し、「公認された諜報目的のための契約や調停は、財政支援元を明かす必要がない」ことを公認するものだった。このことでキャセイはクライン、シングローブ、シャックレー、ランズデール、他の多くの追放された者たちとの仕事にもどることになった。そして、彼らの活動をあいまいにしながら、彼らを、少なくとも論理的には秘密の領域の人間にしていた。同時にキャセイは、個人的にマルコス大統領を丸め込む仕事を引き継ぎ、闇の金塊を提供するよう圧力をかけ、最終的にはマルコスの失脚と追放、そしてマルコスの金塊を陰で操った。
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結局のところ、イラン・コントラ事件ではエンタープライズのメンバーと、選挙で選ばれたわけではない国家安全保障会議、国防総省やCIAの職員との間で親密な契約があったことを明らかにしている。そうした二重構造は政府にとっては、例えばランズデールがマフィアに対してフィデル・カストロの暗殺を依頼するような時に役に立つのである。PMFを使い、よその国で暗殺部隊を訓練させることは、ホワイトハウスが暗殺を含む秘密の海外での政治目的を実行することを可能にした。また米国とは戦争状態にない国で、代理軍事活動も可能になったのである。それは対外政策の汚い部分を実行するために、外科手術用手袋やコンドームをつけて、指紋もDNAも残さないようなものである。役人が委託殺人をうまくやってしまうことが許されるだろうか?これは、連続殺人の常習化につながるのではないか?
これまでに、驚くほど多くの元帥、海軍大将が、国家安全保障会議の高級職員がフィリピンでの財宝探しと、マニラからの秘密の金の運搬に関与した。この場合の二重構造は海外での政治目的を有利にすることと、秘密な意図が明らかでない極右の私的軍事組織を豊かにし、資金援助をすること両方に使われたのだろう。ランズデール、レイ・クライン、そしてジョン・シングローブのようなエンタープライズの中で良く知られた人物の幾人かは、第二次世界大戦中にOSSで仕事を開始し、トルーマンやアイゼンハワー政府の時代に急速に出世をしたのだ。当時、ナチや日本軍の金は不法活動を立ち上げるために、M資金のように使われた。「冷戦主義者」としての彼らの政治観は、蒋介石総統を救出しようとした時に、イランでシャーに権力を持たせた時、スカルノやカストロを排除しようとした時、チリのアジェンデ政権を転覆させる動きを助けた時、カンボジアやラオス、ベトナムで不都合な市民を処分する自由をもっていた時などに形成された。
ランズデールは、まだ現役の提督であったが、カストロを殺す活動であるマングース作戦を指揮した。ランズデールはケネディ大統領により引退を余儀なくされた時、かれは簡単に野にくだり、エンタープライズの設立委員となって、一九八七年に死ぬまでその中心人物であった。フェニックス作戦は一九六九年から一九七二年までサイゴンのCIA局長で、後に作戦担当のCIA副長官になった、テッド・シャクリーに監督されていた。ある情報筋によると、シングローブは軍事面でフェニックス作戦に関与していたと主張しているが、本人は強く否定している。彼は確かに、シャクリーを含む作戦に関与した多くの人間に近いところにいた。ウィリアム・コルビーは上院聴聞会で、フェニックス作戦では、共産主義者と疑われた二万人以上のベトナム市民(男・女子・ 供)を殺したと述べた。別の人間は合計を七万人以上と言っている。議会聴聞会は、フェニックス作戦は総じて非合法活動であると宣言した。
それでも、フェニックス作戦は一九七五年に米軍がサイゴンから撤退するまで、議会の方針に従わないで続けられた。「フェニックス作戦は退役軍人ネットワークの創造だった。」と作戦の担当であったスタン・フルチャーは言っている。「最高レベルの男たちのグループ、つまりコルビーとそうした連中は自分たちのことをアラビアのロレンスと考えていた。」同様の古い仲間がエル・サルバドルにいて、この時は、レイ・クラインは特別戦争学校で訓練された台湾の将校を含む代理軍を使っていた。ジャーナリスト、ダグラス・バレンタインは次のように説明する。「フェニックス作戦の全員が一般的に持っていたのは、強圧的な政府やコントラのような」反乱グループに武器や補給品を売って、彼らが反テロリズムから利益を得ていた。それらの名残が第三世界中の焼き尽くされた灰のあとなのだ。
シングローブとシャクリーは後にCIAを去り、エンタープライズの組織と緊密に一体化した。シングローブは公表されている一九七八年のカーター大統領との争いの後、野に下った。シャクリーはカーター政権のCIA長官、スタンスフィールド・ターナーとのケンカの翌年に野に下った。シングローブとランズデールはその時、ウイリアム・キャセイに率いられ、レーガンの選挙運動に参加した。シュレシンジャーによる「家族の宝石」関連の追放と、それに続くカーター大統領による人事面の粛清という組み合わせの影響は、そのために思わぬ面倒を招いた。それは極右を地下活動や民間企業に追いやり、そこではチェック無しにかなりの程度まで活動が出来たし、政府の秘密の資産を自由に使え続けられたという意味においてである。
もし「エンタープライズ」が空軍機、海軍艦、Seals(海軍特殊部隊)、特別作戦部隊を使うことを望んだら、それらが誰に気付かれることもなく、注文通りに準備される方法があったのだ。ニューヨークタイムスのジャーナリスト、セス・ミダンスは信頼できる情報として「シングローブはフィリピンに入ったり出たりしている、彼は、我々に知られないでクラーク基地に着陸することさえ出来るのだ」と紹介している。我々は、特殊部隊の高官が、シングローブやクラインなどに関係するPMFのグループと一緒に、フィリピン財宝狩りに参加するために短い休暇を取ったことを確認している。このことは政府サービスと個人の利益との重大な区分をなくすもので、倫理規範の実践を求めることが出来なくなってしまう。監視されないと常習的になるものだ。
レーガン大統領、ブッシュ大統領のもとで、PIOやPMFは増殖し、ホワイトハウスの事実上、「秘密の拡大組織」となった。今日まで、エンタープライズのリーダーやPMFの支持者達は。ホワイトハウスは事業家に転じた情報員によって運営される私的非合法組織を必要としていると主張している。それゆえに、PMFは少し名前を挙げるだけでも、南アメリカ、アンゴラ、コロンビア、クロアチア、エリトリア、エチオピア、シエラレオネの紛争に関与した。ホワイトハウスに雇われたわけではなく、彼らは政治体制への契約のもとで仕事をしたが、彼らの人権の扱いたるやひどいものだ。ビネル社はディック・チェニーのハリバートンが率いるPMFの子会社で、ミャンマーの軍事独裁政権と仕事をした時は、地球上で最悪の人権の扱いだった。彼らの目的のいくつかは合憲性の面で問題がある。エンタープライズ組織のメンバーからの手紙を再現してみよう、そこには彼らが秘密のFBIスタイルの保安部隊を立ち上げアメリカ国民や「彼らの支配化にある」別の産軍複合体を守るため、発見された日本軍の戦争略奪品をいかに利用しようとしたかが書いてある。これはお金のかかることである。ムーニーズやバーチャーズのようなグループ、そして裕福な個人は必要とされる金額の一部だけしか提供しなかった。ひとつのはっきりした解決がサンタ・ロマーナに管理されて遊んでいる口座のような現存のブラック・イーグル基金を流用することだった。これがサンティーが一九七三年にワシントンヘ連れて行かれ、彼が所有する基金を譲り渡すよう圧力をかけられた理由である。翌年サンティーが死んだ時、彼の所有するシティバンクとUBSにあるいくつかの莫大な金額の口座が速やかにランズデールの管理下に入った理由を説明している。それがどのように使われたかは知られていない。
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708131 No.7382
>>7381
マルコスが一九七〇年代に第2期の探索活動を始め、闇の金を売りさばくための援助を必要とした時、マルコスとエンタープライズは共通の目標を持った。なぜなら、エンタープライズのメンバーはCIAの飛行機、米空軍機、米海軍艦の使用することができたのである。スービック湾やクラーク空港からマルコスの金が出発した時、こうしたことがアメリカ政府により公式に行われたのかエンタープライズによって秘密に行われたのかはなんとも言えない。十四章ではこの二重構造が示す数々のエピソードをお見せしよう。
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次第にマルコスは自分が発見した金の管理、支払い、管理について、レーガンのアメリカ政府と主導権争いをしていることに気がついた。彼はアメリカ政府を出し抜くためにあらゆる策略を用いた。これが彼の失脚につながることになる。国際金融当局は、中央銀行が直接民間から金を購入できるように決定した時、マルコスはフィリピンで採掘したすべての金が中央銀行に直接販売しなければならないと布告した。これでマルコスは自分の金のいくらかを売れるようになったし、銀行はその時から、苦労なしに金を海外へ移動することができるようになった。一九八一年の十一月、フィリピン政府は今回の布告のせいで国際マーケットにおいて「金保有以来の局所的な過剰」をもたらすだろうと言明した。三ヶ月以上にわたって、約三十万オンスの金が香港、ニューヨーク、ロンドンそしてチューリッヒに船で運ばれた。その金はフィリピン政府の金として印がつけられていたが、関与した商業銀行はその金での支払いを許されたが、そのことは金が短期間のうちに取引されたことを意味している。この特権のために、銀行は1%の手数料を支払いそれはマルコスのもとに流れた。フィリピン人の元外交官によると、フェルディナンドの自家用機はスイスまで何回も往復をした。民間機もまた使用され、それは貨物運送状によって証明されている。十二回の極秘輸送がKLM、PAL、エアフランス、サベナ機で行われたと言われている。
たとえば、一九八三年九月には、KLM機のマニラ・チューリッヒ間のフライトで金塊七トンが運ばれている。同時期に別の1.5トンの金塊がロンドンまで運ばれている。その間に、CIAのパイロットと国防総省の貨物飛行機は定期的にマルコスの金をオーストラリアと香港に空輸した。CIAがマルコスの金塊を物理的に移動している間、マルコスはアメリカに財産を貯め込むよう仕向けられた。このことは、一九八三年から一九八五年のロナルド・リウォルドのホノルル詐欺裁判で明らかになり、マルコスの投資財閥会社であるビショップ、ボルドウィン、リウォルド、デリィンハム&ウォンがCIA資金のための一般的なルートだったことを明らかにした。その財閥会社はマルコスや他の裕福なフィリピン人がアメリカで不正の金を投資するのを助けた。イメルダが後にニューヨークで強請の罪で裁判にかけられた時、彼女の弁護人はイメルダと夫マルコスはホワイトハウスの友人からそうするよう働きかけられたのだと述べた。
ホノルルでの裁判証言によれば、フィリピンンの億万長者、マルコス一家の友人であるエンリケ・ゾベルの援助によって、秘密ルートがリワォルドによってつくられた。リワォルドは、ハワイでポロクラブを経営し、ゾベルは世界一流のプレイヤーだった。リワォルドは、ゾベルは自分同様CIAの協力者だと証言した。アヤラ・ハワイのような共同事業を通して、彼らとCIAは、「アメリカへ現金を持ち出したい外国の上級外交官やビジネスマンの金を保護し、いざと言う時にアメリカで役に立てるのだ」。ゾベルとの関係は、当時、ジョー・マクミキング大将が、小島少佐を拷問したG2のサンタ・ロマーナとランズデール大佐の直属の上官だった一九四五年までさかのぼる。その後、金をたっぷり持って、マクミキングはドン・エンリケの叔母、メルセデスと結婚し、ゾベル・アヤラ一族が世界的な金持ちになるのを手伝った。この秘密を漏らさない境遇の中で、エンリケ・ゾベルはひとかどの裏切り者である。UCLAでの勉強した後で、マニラの上流マカティ金融社交界を発展させて名前をあげた。彼のマルコスファミリーとの関係は複雑で変わりやすいものだった。一九八〇年代のはじめには、大統領の後継者の可能性もあると言われるほどだった。マルコスの旧友エドアルド・コンジャンコはサンミゲル社、つまりサンミゲルビールの醸造会社で、アヤラ・コーポレーションの重要な所有会社のひとつを攻撃的にのっとろうととりかかった時、マルコスファミリーはドン・エンリケがごく簡単に屈服すると考えた。このことはおばのメルセデスとおじのジョーを大変不愉快にさせたので、彼らはゾベルからアヤラ社の支配権を奪い彼の最初のいとこにそれを譲った。
ドン・エンリケはその後、独自の道を歩んだ。ゾベルは戦争略奪品を発見しようとするマルコスの骨折りの多くを知っていた。一九七五年にレーバーグループの使節ミュータックはゾベルに、ゾベルがペニンシュラホテルを建築中のネルソン飛行場の管制塔の下にゴールデン・リリー地下金庫室があると通告した。一九七五年六月三日、ミュータックは書いている。「私たちは、古い管制塔の内外の敷地に、少なくとも数億ドルの膨大な量の宝石や金塊から成る財宝の収集品が埋蔵されていることを証明する重要な地図と目撃者を抱える一グループと一緒にいる。我々は前述の敷地が明け渡された事は知っている。そして、ある建築工事が当該の敷地で完了したかも知れないと危惧している。その場でやると計画したどのようなプランも私たちが財宝収集品を探し出し取り戻すまでは待たなければならない」と。
一九八三年、ゾベルはスポーツ花形選手のグレゴリー・アラネタと結婚するイレーネ・マルコスの贅沢な結婚式の後援者だった。グレゴリーはランズデール配下のトップの殺し屋、ナポレオン・バレリアーノの継子だった。イメルダはその結婚式に二千万ドル使ったと言われている。オーストリアのカート・ワルトハイムから贈られた銀の馬車は、モロッコのハッサン王から贈られた七頭のアラブ種の馬に引かれた。お返しにマルコスはオーストリアとモロッコの銀行に多額の金を預けた。(この金の証拠は二〇〇一年に表ざたになったが、それはドイツ政府がイレーヌとその夫をスイスの銀行からドイツの銀行へおよそ一三四億ドルを不正に移そうとしたとして告発したときだった。)
このように金をみせびらかすのはマルコス家の習性のようなものだ。マルコスはアヤラ基金のような慈善信託を立ち上げられたはずだったし、イルコス・ノルテの邸宅に隠居できたはずだった。アンドリュー・カーネギーはかつて「金持ちで死ぬ奴は馬鹿で死ぬ。」といったことがある。マルコスには慈善に費やす時間がなかった。なぜならレーガン政権から米国の対外政策の目的のために、もっと多くの闇の金を出すよう頻繁に圧力を受けていたからだ。マルコスファミリーの情報筋によれば、「ビル・キャセイはフェルディナンドに、もしお前がCIA指定の銀行に闇の金を預けることに同意するなら、アメリカ政府は永遠に権力の座を維持させるだろうと言った。」ということだ。結果として生じたひとつの取引がいわゆる「中国指令」である。マルコスファミリーの情報筋によれば、一九七二年、ニクソン大統領とヘンリー・キッシンジャーは周恩来首相と秘密の取引をした。それはマルコスが差し出した多量の金と引き換えに、中国が台湾に関して米国との争いを避ける取引だったと主張している。我々はその政治的詳細を確認できないでいた。しかしながら、長年にわたって明るみにでた銀行の書類は、はっきりと多量の金塊がこの時期に中国本土の銀行へ移されたことを示している。
そしてサンタ・ロマーナ、フェルディナンド、イメルダ・マルコス、一族のメンバー、そして裕福な仲間はその銀行の金塊口座をもっていた。こうした連中はみんな徹底した反共主義者で、彼らが冷戦のさなかに中国の銀行へ金塊を移すもっともな理由などないのだ。そうした理由だけでも、この話は十分に真実味がある。この情報筋によれば、一九七一年から一九七二年にかけて人民共和国の経済はかなりひどい状況で、外貨準備高は底をつき、世界規模の石油危機と国内の飢饉でさらに悪化していた。そのすべては正しい情報である。共産党政治局へかかる圧力で、党のタカ派は発言力を増し、台湾の資産の支配力を得るため台湾侵攻を主張した。CIAと国防総省のアナリストは、中国は今にも台湾侵攻を始めそうだ、しかしアメリカはベトナム対策で手いっぱいだとの結論を出した。この状況は核戦争につながりかねなかった。ひとつの方法が緊張を和らげるために見出される必要があった。CIAのアナリストが提案した新しい解決策は、マルコスから得た闇の金を多量に投入し、中国が自国経済を安定化させるのを助け、戦争の圧力を減じるというものだった。もしアメリカが中国を国内危機から救えば、フィリピンにも利益をもたらす平和の一時代を招来させることが出来る。
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708131 No.7383
>>7382
我々の情報筋が言うように、ニクソンとキッシンジャーは秘密裏に、マルコスが中国へ金塊で六百八十億㌦(マルコスが持つと彼らが知った量)を提供し、五~六年の間に多くの薄片の形でPRC銀行(中国国営銀行)に移すように依頼した。これは即金の贈り物ではなかったようだ。贈り物は追加的に香港や中国大都市のいろいろなPRC銀行に預金され、金塊は銀行に資産担保として残り、事前に協議したいろいろな目的のために割り当てられたのだろう。中国銀行は強化され、中国経済は安定化し、共産党政治局の穏健派は勢力を回復し、台湾侵攻を主張したタカ派は沈黙をさせただろう。米国基金はひとつも関与していない。「それはマルコスが発見した日本軍の戦争略奪品のなかで、よい使われ方をした唯一のものだ。」と我々の情報筋は言った。周恩来はきわめて現実主義者で、その作戦を徹底して推進したと伝えられている。マルコスが協力したことは重大で、彼はアメリカ政府から十分に支援を受けただろうし、多くの形で報われただろう。アメリカ政府はマルコスに、彼とイメルダは北京を公式訪問ができ、それが世界中に彼らの名声を高めることになると保証し、取引を気に入るようにしたのだ。加えて、中国はフィリピンに対して農作物援助を実施してお返しをしたはずだ。
一九七四年、イメルダと息子のボン・ボンは北京を公式訪問した。彼らはびっくりした表情のひ弱な毛沢東を間に挟んで、のぼせて笑いながら写真を撮った、毛沢東が写っている写真の中で最も奇妙な一枚である。フェルディナンドは翌年北京を訪れたが、あけすけにものを言う冷戦主義者としてかれの行動は奇妙なものであった。予定外の余禄として、イメルダの兄弟コケイ・ロムアルデスは自分の知性以上の忠誠心を述べたおかげでフィリピンの中国大使となった。我々のマルコス情報筋によれば、中国指令はニクソンの歴史的中国訪問と、中国政府との外交関係設立の基盤であったと主張している。資料によれば、中国指令は一九七二年に始まり、長年にわたって続き、マルコスの金塊はPo Sang 銀行と香港の中国銀行、シアメンにある他の中国系銀行を含む中国政府所有の銀行に移されたことを示している。こうした銀行からの書類は、サンタ・ロマーナ、フェルディナンド・マルコス、イメルダ・マルコス、他の大変大きな口座の存在したことを示している。われわれのCDにはコピーした関係書類の中に、金仲買人が金の移転がうまく実行できた時に支払われるべき手数料を請求する手紙がいくつかある。マルコスファミリーと金持ちの友人たちは、その後にこうした口座を抱える中国銀行の新社屋落成式に参加するため、シアメンを旅行している。シアメンはアモイに隣接しており、フェルディナンド・マルコスの実父に長く関係のあった福建省グループの故郷なのだ。
二〇〇〇年には更なる証拠が出てきた。それはイメルダがこれらの金口座に近づくため銀行職員を買収し、中国人の女を雇った容疑で香港政庁から告発された時である。一九九九年の十二月に、香港政庁の検察官によれば、中国銀行、HSBCそしてシアメンのPRC銀行の口座から二十五億ドルを取り戻すために、イメルダは賞金稼ぎに三十五%払うことに同意した。イメルダの弁護士は、彼女は貧しい人を助けるために金を工面しようとしただけだと言った。その後、もうひとつ、秘密のマルコスの金塊口座がスイスのUSBにあるというニュースが流れた時、イメルダは「驚くことではないわ、昔はお金を持っていたんだから」と嘆いた。中国におけるこれらの金塊口座の存在が明らかにされた時、冷たい戦争がなお続いていた一九七〇年代のはじめ以来、どのようにして金塊口座が中国にもたらされたのか誰も関心を持たなかった。誰も、金塊口座がもたらされた理由とニクソンの一九七二年の北京への公式訪問とを結び付けなかった。
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一九八〇年代のはじめに、もうひとつおかしな展開があった。フェルディナンドとイメルダは太平洋戦争後にゴールデン・リリー略奪品をもとに開設された特別の秘密口座の存在を知った。これは、大阪の三和銀行の十億ドル金塊信託で、マッカーサー元帥と裕仁天皇の名前で開設されており、第九章で述べられた通りである。日本人はそれをマッカーサー基金と呼び、一方米国人はそれを裕仁の在位時代の名前を使って昭和信託と呼んだ。三和銀行は日本の古い銀行のひとつで、裕仁は第二次世界大戦前からかなりの量の株を所有していた。
その信託はロバート・B・アンダーソンによって開設されたが、それは彼がマッカーサーやランズデールとゴールデン・リリーの財宝の所在地を回ってまもなくのことだと明らかになっている。マーカーサーの名前は信託に使われているが、少なくとも直接的にはマッカーサーに利益をもたらすよう意図していたとは言えない。裕仁に関しては、ジャーナリストで米軍占領時代初期にSCAPの記録を読むことが出来たポール・マニングによると、天皇は戦前から海外に作った口座に金と通貨で秘密の十億ドルを所有していた。天皇は米軍占領中に海外投資からの利益で年に五千万ドルを引き出しており、SCAPの財務相談役はこれらの収入を生み出す資産に気づいていた。重要なことに、三和銀行はSCAPのマクアット将軍の経済科学局によって不問にされた三つの日本の銀行のひとつだった。他のふたつの銀行は東海銀行と第一勧業銀行で、田中クラブによってM資金からの引き出しが増加していることと関係していた。今日、三和銀行は「我々は世界で成功してきた。」というスローガンとともに世界規模の銀行活動を宣伝している。本当かい。
フェルディナンドとイメルダは、サンティの死後、その書類を整理するなかで、三和銀行にある昭和信託の存在を知った。我々がコピーした資料によると一九八一年までに昭和信託は四半期ごとに三億ドル以上の利益、または年に十億ドル以上の利益を生み出していた。銀行オーナーの一人、裕仁天皇は間違いなく有利な利率の権利を有していた。(これらを示す資料はマルコスが権力を剥ぎ取られ、フィリピン政府にマラカニアン宮殿が没収された後、マルコスの個人金庫で発見された。)マルコス一族は、もし自分たちがうまくカードを使えば昭和信託を手に入れることが出来たと考えた。少なくとも、自分たちに利子支払い分のいくばくかを手に入れられたのにと思った。もし、合同信託のニュースが漏れ出たならば、いくつかの理由で日本政府やアメリカ政府にとってかなり具合の悪いことになるであろう。第一に、裕仁は大変貧しく、生計を維持するためには年俸二万二千ドルを与えねばならなかいという見せ掛けを日本政府はなおも維持していたし、第二に、日本自由民主党はその時、田中贈収賄を含むもうひとつの大きなスキャンダルにもがいていたのである。アメリカ政府にしても、日本はまったく無一文だと繰り返し宣言していたので、一九四五年以来の裕仁・マッカーサー合同信託の存在が開示されると、手の込んだやっかいな対策が必要になるであろう。
交渉人ナティビダッド・M・ファジャルドを含むマルコスチームは、昭和信託の三人の受託者(ひとりの日本人とふたりのアメリカ人)を含む日本政府役人と非公式の協議のために東京へ飛んだ。ファジャルドは数多くの金輸送でマルコスのために行動した仲買人だった。東京へのファジャルドの旅はロナルド・レーガン一期目の大統領就任の間に発生した。レーガンはマルコス家の重要な友人だった。レーガンと妻ナンシーは一九七〇年、マニラのイメルダ文化センターの開館式にニクソンの個人的代表として参加するため、初めてフィリピンへ行った。それがマルコスとレーガンがお互いにたたえあう長い友情の始まりだった。ファジャルドとそのチームは東京に着いた時はじめて、彼らの東京訪問の真の目的を明らかにした。簡単に言うならば、マルコス家は、フィリピンのための財政支援策として偽装した膨大な支払いを受け取る代わりに、昭和信託について沈黙を守ることを申し出たのだ。彼らは信託からの四半期分の利息をマルコス家に譲るべきだと要求した。これは強請のごときしろものだ。日本政府は大変驚いて、ファジャルドと彼の連れを武装警備のもとで日本滞在中、都ホテルの部屋にずっと隔離した。そのせいで、いつも彼らは自分の部屋で食事を取らねばならなかった。
ファジャルドが東京からイメルダに送った一九八一年二月二二日づけの手紙には、「日本のフィリピン向けの財政援助は、マッカーサーが皇室に対し、信託の形で残したドル基金(原文ママ)からの蓄積した利息収入で構成されます。・・・・・我々は日本大蔵省の許可のもとでいかにして金を香港へ持ち出すかの手段を考案し・・・・フィリピンで大事業をなしている日本企業に対し融資されます。日本政府はその企業にカワサキがふさわしいと判断したことが明らかになるでしょう。皇族の手のもとにある信託金は、すでに大阪の三和銀行へ預金されており、香港への振替手配が整っています。これを実施するため、三〇年間、無利子でカワサキへ融資されることが明らかにされるでしょう。フィリピンのファーストレディのための大型経済発展計画を財政支援する金を出すのはカワサキになるでしょう」と書かれている。
ファジャルドにより交渉された取引が行われたかどうかは分からない。しかし、銀行の書類によれば、今日でも三和銀行香港支店に多くのマルコスの口座が存在している。日本政府は多分アメリカ政府にこの脅しについて訴え、そのことが直後のマルコスの失脚につながったはずである。しかし、アメリカ政府が最終的にマルコスに見切りをつけた主要な理由は、レーガンによる『虹のドル』戦略の失敗にある。レーガン大統領は政権のはじめに、一九七一年にニクソンにより廃止された金本位制にもどり、『虹のドル』と呼ばれる金本位の新しい通貨を導入すると宣言した。ニクソンの決断以来の一〇年間で、米国はひどいインフレーション、不況、そして高金利の時代を経験した。レーガンの対策は金本位制に戻ることだった。財務長官ドナルド・リーガンはこの政策が「途方もない好況」をもたらすだろうと言った。大量のドル紙幣が世界に循環していたので、もしその紙幣が金に兌換できるようになれば一九三三年以前の事態のように、アメリカ政府は金塊の需要に振り回されるはずだ。解決策は2段階方式だった。『虹のドル』は徐々に現行のドル紙幣と置き換えたとしても、一般大衆は『虹のドル』を金に換えることが出来なくする。『虹のドル』は中央銀行に保持されたときだけ、金に換るというのが『虹のドル』の特別な解決策となるだろう。この政策を実行するために、アメリカは、金価格を操作できるに足る大量な金の備蓄を必要とする。金価格があまりにも下落したなら、アメリカ政府は通貨価値を安定させるために金を買えばよい。もし金価格が高騰したなら、中央銀行は政府からの金塊を必要とし、政府は市場へ金塊を放出することで価格の高騰を抑制するだろう。これがレーガン政権の主要なプランだった。『虹のドル』制度に変更することは、ヘロインやコカインの麻薬ボスのように不正な現金を蓄えている連中が古い通貨を新しい通貨に換えなくてはならず、多くの金が隠匿場所から出てくるということを意味した。このことで連邦政府の赤字を減少させることになるだろう。
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708131 No.7384
>>7383
レーガン大統領は非公式にマルコスへ『虹のドル』を支えるため、闇の金の貯蔵分を貸してくれるよう頼んだ。いつものように、彼は金を貸すにあたり手数料をレーガンに請求することができた。マルコスにとって不幸だったのは、彼が要求した手数料がアメリカ政府が公正と考える以上に高かったことだ。当時ホワイトハウス職員だった人物を含む我々の情報筋によると、レーガンは古い友人が自分を失望させたことを嘆いたそうだ。昭和信託について日本政府を恐喝した当時の試みを考えても、レーガンのアドバイザー、特にキャセイはマルコスはやりすぎたと唱えた。マルコスを退陣させ、その過程で彼が貯めこんでいた多量の金塊を剥奪する時機が来ていた。キャセイは即座に行動に移った。その後数ヶ月の間に、国民のパワーはマニラの道路にあふれ、群集はマルコスの退陣を要求した。民衆の抗議の声が通りにあふれたとき、キャセイはリーガン財務長官、CIAのエコノミストのフランクヒ・ グドン教授弁、 護士ローレンスク・ リーガーとともにマニラに飛んだと言われている。
マルコス側近によれば、会談の目的はフェルディナンドを説得して七万三千トンの金を譲るようにすることだった。キャセイとリーガンはマルコスに最後のチャンスを示していた。リーガンはマルコスに、米国債務証書で八〇%、現金で二〇%と引き換えに金を譲渡する署名をするよう繰り返し説得した。マルコスは終末が近いと感じながら、現金で八〇%、債務証書は二〇%だけにするよう要求した。押し問答が無駄だとはっきりした時、ホグドン教授はマルコスに、「二週間以内」に権力の座から降ろされるだろうと通告したと言われている。実際、数週間の後、マルコスはハワイで事実上自宅軟禁状態だったのである。同じマルコスの側近によると、大詰めでの次の動きはキャセイ、リーガン、ヒグドンとの会談数日後にあり、三者委員会の使者が、マルコスに地球開発基金に対して金塊で五百四十億ドルを提供することを求める内密の要求書を手渡した。その場に居合わせていた我々の情報筋によると、マルコスは文体が華麗なその文書を一瞥し、軽蔑したように発送済書類入れの中に放り投げたと言うことだ。特使は急いでマカティにある三人委員会の事務所にもどり報告した。三日後、マルコスはレーガン大統領の仲介者、ネバダ州上院議員ポール・ラグゾールトから最終提案を与えられた。その時までマルコスはマラカニアン宮殿で事実上立てこもり状態だった。狼瘡をわずらい腎臓と肝臓が衰えた重病の男、マルコスはあきらめて米軍ヘリコプターで救出される見返りに自分の「金」を剥奪された。
その晩、荷船がパシグ川を宮廷まで引かれ宮殿の地下倉庫、大統領保安部隊の敷地や宮殿に隣接したビルの地下倉庫からから多量の金棒が積み込まれた。この作業は一晩中続けられ、多くの人々に目撃された。明け方、荷を積んだ船はマニラ湾そして、最終目的地のスービック湾の海軍基地まで引かれた。その基地で金は最初に軍用品地下倉庫に保管され、その後アメリカ海軍の大型船に乗せられたと言われている。(アメリカ政府は一九五〇年以来公式に金の在庫を監査していないので、その後に金に対して何が起こったかを述べるのは難しい。ただ、アメリカ政府は八千トンの金を所有していることは認めている。)その晩、アメリカ陸軍のヘリコプターがマラカニアン宮殿の庭を急襲し、マルコスファミリーとその取り巻きを積み込んだ。マルコスたちが驚いたのは、マラカニアン宮殿からイルコス・ノルテにある彼らの本拠地に連れて行かれたのではなかったことである。彼らはイルコス・ノルテで自分たちの領地のための防御物を築く計画だった。彼らはハワイの軟禁所に連れて行かれた。「我々は救出されたのではなく、誘拐されたのだわ」とイメルダは噛み付くように言った。イメルダはホノルルに彼らが到着した時、持っていた数十億ドルの価値のある金証明書をアメリカの税関職員が押収したと言った。税関が用意した公式リストにはその証明書は載っていなかった。
その後、イメルダはアメリカ財務省が証明書を押収したことを認めたと主張した。しかし、専門家は証明書のすべては偽造であると決定した。我々が見てきたように、金の証明書を偽造品だと非難することは、本物であったとしても、決まりきった手順だろう。これが押収品に対して一般的に行われるやり方である。このような事情を考えると、今もしくは将来に銀行が金持たちから預かった金証書を偽物だと告げる大きな可能性があるにも拘らず、金持ちが銀行に金を預け続けるのは不思議に思える。そんな詐欺の気配があるなかで、財務省が押収された金の証明書に対してどうしたかを詳しく知ることは興味深いことである。リーガン財務長官は確かに多くを語っていない。彼とCIA長官キャセイは、イラン・コントラ時に資金洗浄と銃密輸で果たした役割で不評を招き辞任せねばならなかった。イラン・コントラ事件でキャセイが果たした役割を見れば、外国政府を操作したり、アメリカ国内の右翼民兵に資金援助をするため、日本の略奪品を不法に使った事件でも彼が任務を果たしたことは十分認識できるものだ。
マルコス家がハワイに到着したときに、彼らから金品をまきあげたり、彼らの金証明書を押収したりしたことは十分に価値のあることであったが、多くの疑問がうやむやのままである。はじめに、どうしてイメルダとマルコスは自分たちの闇の金を他人に管理されている銀行に移そうと主張したのか。全てを押収されたらどうするつもりだったのか?ハワイで、ふたりは苦労して海外に隠した金塊を引き出すことが出来ないことを理解した。腐敗し失脚した独裁者がやったように、金塊が不正に取得されたという口実で彼らの口座は封鎖された。これがアメリカ政府の態度であったが、アメリカは三〇年以上マルコスと同盟を結んでいたのだ。スイス政府はマルコスがスイスの銀行にいくばくかの金を所有していることを簡単に否定して、より現実的な態度をとった。世界中の銀行家たちはマルコスの口座については何も知らないと言明した。ホノルルで彼らがもはや勘定を払うことが出来なかった時に、フェルディナンドは旧友ドン・エンリケ・ゾベルに危機を乗り切るために二億五千万ドルの借金を頼んだ。ゾベルによると、マルコスは借金の返済能力があることを示すためにゾベルに金証明書を見せた。その証明書はアメリカ税関に押収されていなかったものだった。これらもまた後になって、アメリカ財務省によっていかさまであると宣告された。
数ヵ月後、ますます、むくんで黄疸症状の進んだマルコスは、自分と友人に大量のマクドナルド・バーガーとポテトフライを買いにやらせた。食事のさなか、マルコスはビッグ・マックをのどを詰まらせ、ひどく咳き込んだ。翌朝、一九八九年一月一五日、彼は肺の虚脱のためホノルル・セント・フランシス・メディカルセンターに入院し、同九月の彼の死まで、生命維持装置をつけたままだった。そんなふうに、アメリカ政府の歴史の中でもっとも腐敗した関係のひとつが終わった。もしくはそのように思われた。サンティーは死んだ。マルコスも死んだ。一九八七年の五月にキャセイは死んだ。しかし、エンタープライズを作った多くの民間組織の指導者たちはフィリピンの地中に多くの戦争金が残っており、サンティーの世界中の銀行口座は手つかずのままだということを知っていた。彼らは地中から、もしくは銀行から金を回収できるかどうかを確認しようと決めた。どこをさがすべきか正確にはわからないので、ジョン・バーチ・ソサエティは彼らにロバート・カーティスに接近して、過去のことは本当に過去のことなのか確認するようにせかせた。
(訳注、マルコス政権の崩壊は我々リアルタイムで見ていた。今から思えば民主化運動と言うのはこのような理由で行うのかと言う事に驚く。そして、今でもその手法は世界のあらゆるところで実施されている。きっと、そんな程度なのだろう。まさに、びっくりだ。レーガンのレインボーダラーも初耳だ。もし本当なら暗殺されかけたのもうなづけるし、成功していたら大変に良かったのに。)
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708131 No.7385
>>7384
黄金の兵士 第十四章 危険人物たち
ロバート・カーティスはフェルディナンド・マルコスとの金の探索に関係したことで大きな代償を支払った。しかし、カーティスは頑固に戦後明るみになる日本軍の財宝地図の唯一のフルセットを、今でも持っていた。ゆっくり自分の転落人生を元に戻そうと、彼はスパークスからラス・ベガスへ転居し、そこで大きなシボレー販売特約店の販売部長になった。暇なときに、彼は地図を調べ、ゴールデン・リリーの地図製作者が暗号化した謎の多くを解明し、次に(次があればの話だが)どのようにして金塊回収に取り組むかを決定した。だから一九七八年のある日、電話が鳴った時、彼は自分に幸運が巡って来た事をなかなか信じられなかった。信頼している彼の知人が、カーティスに外国の外交官と会うように依頼してきたが、その外交官の政府は、フィリピンで、大掛かりな秘密の戦争金塊の回収に対する支援を望んでいた。待ち合わせの場所はラス・ベガスホテルで、カーティスは西の大国の「首相」と直接の接点を持った。「首相」は潜水艦を含むすべてを準備しており、半々で山分けしようと申し出てきた。我々が、その国の名前も、首相の名前も明かさないという条件で、カーティスは以下のことを詳しく話した。(訳者注、参考までに、当時の日本の首相は福田(十二月まで)、と、大平だ。)
「首相」は初期のマルコスの金回収活動も、カーティスが演じた重要な役割についてよく知っており、カーティスに、潜水艦による深夜の金塊回収に適した場所を選ぶよう依頼した。カーティスはコレヒドール島を選んだ、そこに3ヶ所の大きな貯蔵所があることを知っていたからだ。国際的な紛争を避けるため、首相直属の海軍は、部下を海辺に配置して貯蔵庫を開ける様なことはしなかった。なぜなら、海辺に配置するだけで部下は逮捕される可能性があるからだ。一台の巡洋艦は南シナ海の国際水域のルゾン沖に停泊した。その潜水艦は海岸にかなり近づいたが、特殊部隊がゴムボートを出し、海岸から金の延べ棒を回収する夜まで水中に潜ったままだった。貯蔵所を開けるのも、金塊を海岸に運ぶのもカーティスまかせだった。マルコスはなおも権力を持っていたので、カーティス自身はマニラへ行けなかった。なぜなら彼は逮捕され、殺害されるだろう。そのかわりに、彼は数人の部下を送り金塊を発見させて海岸に金塊を運ばせることにした。そして彼の部下たちは潜水艦から送り出す事が出来た。
「これはわくわくすることだった」カーティスは我々に言った。「私はマルコスには腹を立てていたから、これで五分五分になるわけだ。でも、その辺の事情については、決して話すことはできないだろう。」金持ちになることで、多くの傷は癒されるであろう。「私はコレヒドール島の南端を選んだ。そこはオタマジャクシ型の島の頭部にあたるとこだ。と言うのは、潜水艦には海が深くて都合がいいからだ。大変狭い海岸に向かって断崖を下りるため、私の部下たちはふたつの峡谷のひとつを横断しなければならなかった。」満潮時に海岸は水面下に沈んでいるので、いいタイミングをはかることは、非常に重要なことだ。特殊部隊がゴムボートで近づくには、月の光がない夜で干潮時である必要があった。コレヒドール島はマニラ湾の入り口で、バタン半島沖にあった。バタン半島のマリベレスにマルコスは避暑用の宮殿を持っていた。島は東西に広がり、西側のオタマジャクシの頭の部分をトップサイドという。低地で東側のしっぽの部分は、ボトムサイドと呼ばれた。コレヒドール島の住人はボトムサイドのサン・ホセの町に住む6人だけだったが、毎朝観光船がマニラから到着する。狙いの場所として、カーティスは旅行者用に踏み固められた小道のはずれにあるモルタルの砲床、クロケット砲台の下にあるコンクリート製の防空壕を選んだ。アメリカ沿岸警備隊は、千九百一年にこれらのモルタル砲床を建設していた。コンクリートの厚板の下に、交差するふたつのトンネルが最初は軍用品の倉庫として使用された。千九百四十二年のバタンとコレジドール防衛戦の間に、一斉射撃によるクロケット砲台への直接の着弾により、火薬庫は吹き飛ばされ、多くの防空壕が破壊された。
日本軍が支配権を手にした後で、秩父宮は破壊された砲床の下のコンクリートに裏打ちされたトンネルを見て、そこに金の延べ棒(六十五ポンド、約三十kgのバー)を隠すことを決め、六フィート(1.8m)の厚みのコンクリートで覆い、元のままの砲床に見えるようにした。クロケット砲台が爆破されたことを誰かが覚えていることなどありそうもなかった。冶金化学者として、サーマイト(テルミット)を十分に強化できれば、それを使ってコンクリートの厚板に人間サイズの穴を焼ききることが出来る、とカーティスは考えた。サーマイトはアルミニウム粉と酸化鉄粉が等分の簡単な化合物である。ひとたび着火すると、大体三千℃ぐらいで燃焼する。サーマイトは第二次世界大戦の間、焼夷弾としても使用された。今日では、サーマイトは防壁を貫くため、あるいは熱感知ミサイルに対する熱おとりとして使用される。サーマイトを着火するのはかなりの熱が必要だ。最も簡単な方法は、線香花火を着火するためのマッチを使うことだ。それはサーマイトを着火させるに十分な熱で燃える。ネヴァダ砂漠で、カーティスは六フィート厚さのコンクリート厚板を使ったテスト台を手配し、普通のサーマイトでは時間がかかり過ぎることを確認した。彼は他の配合物を加え、サーマイトを強化して、五千℃近くで燃える化合物を手に入れた。「こいつは、四十分で六フィートの厚みのコンクリート板を焼き切り、一人の人間が這って入れるだけの大きな穴を開けることが出来た。」、と彼は言った。
カーティスは二人の男だったら金塊を発見し、浜辺まで運ぶことが出来ると考えた。彼は二人の男を知っていて、二人はこの仕事に適任のようだったし、彼らはやる気まんまんだった。二人とも“ボー”グリッツエ大佐と特殊部隊にいたので、カーティスは、彼らなら何とかやれると考えた。「一人は大柄の男くさい軍人タイプだった。ラスベガスの大会社で保安部の主任だった。彼には、ラスベガスの元保安官の息子で似たような経歴の友人がいた。」、とカーティス言った。彼らをゲーリーとマイクと呼んで置こう。二人は強化したサーマイトの使用法を学ばなくてはならなかったし、峡谷のあちこちを何度も行き来し、浜辺まで金塊を何とか運び出すことが出来るよう、肉体的に強化する必要があった。この仕事のために、カーティスは馬具職人に二つの頑丈な金の延べ棒をかたどったリュックサックを作らせた。何週間にわたる激しい訓練の末に、ゲーリーとマイクは、一度に2本の金の延べ棒を何とか運べるようになったと判断した。強化サーマイトが入ったふたつの二十五ポンドのバッグは、たくさんの予備を持っていたんだろう。サーマイトは発火装置なので、飛行機では運ぶことはできなかったのだから。そこで、特別強化混合物は外交文書用の封印ポーチに入れられてマニラに運ばれた。
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708131 No.7386
>>7385
ゲーリーとマイクは、コレヒドールの熱帯雨林の小さな所で2週間生きるのに必要なすべてを集めた。つまり、マシェティ(なた)、食料と水、ハイテク寝袋、防蚊ネット、薬、コブラ毒血清などである。二週間あれば、金の延べ棒を運び出して、西の大国の首相を満足させれるはずだった。フィリピン入国の口実として、カーティスはゲーリーとマイクが、福音伝道の任務にはじめて就くモルモン教の伝道師であるという人物証明書を手に入れた。二人は飛行機でマニラに飛び、安全な外交エリアである大使館邸に泊められた。二人は調査のため、コレヒドール行きの遊覧船に乗った。砲台付近には彼らが考えたとおり、人はいなかった。他の観光客と一緒にマニラに帰り、二人は道具類を集め、外交官にバタンまで車で送ってもらった。そこはコレヒドール島の向かいにあるカブカベンと呼ばれる港町で、二人は明るく塗装されたアウトリガー(船外浮材)と、手ごろサイズで、船外モーター付のフィリピンの小船であるバンカを借り、雇われ船長なしで小船を使えるよう高額の前金を払った。二人の道具類を積み込んだら、バンカは荷物の積み過ぎのようだったが、そのオーナーは大丈夫だと保証した。二人はオーナーにはキャンプに行くのだと説明した。潜水艦で彼らを浜のほうまで運ばせ、ゴムボートに乗せたほうが賢明だったろうが、ある理由でそれは考えられなかった。暗くなる1時間半前に、ゲーリーとマイクは目的地のコレヒドール島へ目盛を適当にセットし出発した。そこに着くには一時間かかった。彼らは漁師のように海上を動き回り、闇がやって来た時、急いで海岸に向かった。ゲーリーとマイクは兵士であって船乗りではなかった。彼らは海については殆ど知らなかった。漁師なら誰でもソッド法を知っている。状況が悪くなるなら、それは悪くなるのだ。(マフィーの法則のことだ。)マニラ湾からの流れる強い潮があるから、彼らは目的地へまっすぐ向かうべきではなかった。彼らは潮に向かって進むべきだったし、潮に彼らの目的地まで運ばせるべきだった。マニラ湾の入り口で潮に逆らって進むことは、船外機のモーターでは大変なことだとわかった。しかも、モーターが動かなくなってしまった。バンカは南シナ海の大きな波のうねりで遠くまで流され、彼らは必死にモーターを再起動させようとした。いくつかの砕ける波が、船べりから彼らを襲った。彼らの低い幹舷を水あぶくだらけにした。殆ど彼らを水浸しにし、リュックサックもサーマイトも流れ去ってしまった。このエリアは悪名高い鮫が、大都会マニラからどっと流れてくる犬の死骸や生ゴミをあさって食べるところで、二人の男はひどく怖がった。ボートを軽くするため、彼らは装備の残りを捨てた。幸運にも、その時モーターは息を吹き返した。彼らはバンカをターンさせてバタンへ引き返すことが出来たのだった。
真夜中過ぎ、彼らはよろめくように浜へたどり着き、電話を見つけ、ネヴァダにいるカーティスを呼び出した。カーティスはびっくりし、そしてがっかりした。彼は仕事を打ち切ろうと主張したのだが、ひとたび陸地に戻ったゲーリーとマイクは、恐怖から快復しつつあり、面目を保つことを必要とした。彼等は星型ドリルと大ハンマーを使いコンクリートの厚板に穴をあけようと主張した。カーティスはうまくいかないことを知っていたが、ゲーリーがどうしてもと主張し、しぶしぶ承知した。ゲーリーとマイクにとり、ショックと失望がとても大きかったため、外交官がより強化されたサーマイトを運んでくる間、二人がおとなしくしていることはできなかった。マニラに帰って、ゲーリーとマイクは新しい備品と道具を買い、ふたたび手数のかかるバンカを借りた。今度はバンカをコレヒドールに向けたのである。カーティスが予想したように、コンクリート板に穴を開けることは絶望的だとわかった。2日間で彼らはたった3インチの深さの穴を開けただけだった。彼らは再びバタンからカーティスに電話をして、もうお手上げだと言った。カーティスはワシントンの大使館に電話をして首相に言葉を告げた。バタン沖に潜水していた潜水艦は母港に呼ばれた。
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すべての金塊回収の努力が失敗に終わったわけではない。うまくいった発見は千九百八十年台にたまたま起こった。日本人グループはよく組織されており、秘密をしゃべらなかったので、彼らの情報管理対策は良かった。ひとつのグル-プは、我々がトシと呼んだ東京郊外に住む一人の男に率いられていた。彼は戦争最後の年にゴールデン・リリーに従事した諜報員で、その時、彼は20代前半であった。トシは自分の名前を明らかにしないという条件で彼の情報を話した。一九四四年から千九百四十五年にかけて、彼は秩父宮、三笠宮、竹田宮、南京事件の虐殺者である朝香宮鳩彦(やすひこ)と、しばしば一緒にいたと言った。トシはベン・バルモアが皇子の所へ、お茶や紙巻タバコを運んでいるのを見たと言ったし、その間、彼らはゴールデン・リリーの場所を見て回っていたのだ。戦後、トシは大学に戻り、父親からの財産を相続した。ハンサムで国際人、英語もフランス語も堪能なトシは、隠匿を手伝った金塊の回収に生涯をかけようと決意した。彼はマニラ郊外の庭付きの小さな家を買い、ひたむきな熱心さと、完璧な秘密主義で、彼の回収作業にとりかかった。彼の息子が大学を卒業すると、東京での金ビジネスを開業させた。
一九八一年に、トシはサンタ・マリア連山の金塊貯蔵所から大量の回収をした際、マルコス大統領と関与した日本人グループの中の一人だった。その金塊はジョンソン・マセイケミカル社により、マルコスが一九七五年にカーティスから盗んだ設備でこしらえた精錬所で処理された。マルコスが一九八三年五月に、ルクセンブルグにある一流の国際銀行を通して、多量の金塊を売った時、トシは自分が回収した金塊も含まれていると言った。最初の販売分だけで七十一万六千四十五本の金の延べ棒で、売価は千二百四十億㌦であった。取引は、仲買人を代表する大勢の弁護士により署名されたが、彼らはロンドン金プールのメンバーだった。フィリピン大統領のレターヘッドのついた便箋に書かれた合意の覚書は、マルコス家が信頼した金塊を扱う婦人の一人、コンセハラ・カンデラリア・V・サンチアーゴによって署名されていた。(CD を参照)これらの書類はアメリカ領事により公証され、彼は書類を写真コピー
してCIA に手渡した。
取引での手数料を払ってもらったノーマン・「トニー」・ダカスによると、週に六十トンの金塊がクラーク基地から米空軍の飛行機で香港へ、運ばれた。最初の運搬分だけでも、マルコスがこれまでに行った最大級の取引のひとつだった。トシはルクセンブルグの取引から分け前を使い、日本で不動産を購入した。いろいろ購入したなかで、彼は東京郊外の鉄道駅の向かいにある高価な土地を購入して大きなアパートを建設し、その最上階には親族の全てを住まわせた。そして、その他の階をすべて賃貸にした。彼はアメリカに旅行をして、フィルター・キング・プラスを含む、地中の金属を探査する電子機器や地中スキャナーを購入したが、手の切れそうな新しい百ドル札の大きな札束から全ての代金を支払った。親切でのんきなトシは、いろいろな住居の前にいる自分が写っているカラー写真を取り出して満足していた。我々はこれらのカラー写真の幾枚かを持っているが、その複製を作れば必ずトシが誰かを特定することができるだろう。
おまけに沖での発見もあった。一九七六年、カーティスは中国沖に沈んでいる偽の日本病院船「阿波丸」を引き揚げて金を発見しようとするアメリカ人グループと接触した。「阿波丸」は一九四五年四月に米軍の潜水艦「クイーンフィシュ」に沈没させられた。潜水艦の艦長、チャールズ・エリオットロ・ ーリン司令官は軍法会議にかけられた。というのは、日本はチャールズが本物の病院船を沈め、死んだ二〇〇九人は殆どが患者だったと主張したからである。(ただ一人の生存者は読み書きの出来ない甲板員で、潜水艦に救助された。)戦後、阿波丸が偽の病院船で、軍需品や木枠に入れた戦闘機、重要人物の家族を南太平洋へ運び、戦争略奪品や、重要人物を日本に運んでいたことを示す記録が発見されたときに、ローリン司令官の正当性が立証された。実際、沈められた時には、阿波丸は五十億㌦の価値のある財宝を運んでいた。阿波丸は四十㌧の金、プラチナ十二㌧、十五万カラットのダイヤモンド、多量のチタニウムや他の戦略的物質を載せていた。飛行士、スコット・カーペンターとチャールズリ・ ンドバーグの息子であるジョンリ・ ンドバーグは海軍公文書の中で、沈没はどこで起こったかを正確に示している潜水艦の航海日誌のコピーを見つけ、さらに、当時も健在であった潜水艦の上級職員と共に、その事実を確認した。沈没船は中国の領海の近くに沈んでいたので、中国政府と取引をし、共同事業を実行し、回収された財宝を山分けにしようとしたが、うまくいかなかった。
彼らが自分たちで引き揚げ作業を始め、場所を正確に突きとめた時、彼らは中国海軍によって場所から追い払われた。中国政府はそれから回収作業を独力で行ったのだ。もっと面白い発見はオランダ客船、オプ・テン・ノート号の発見である。ジャワ沖でのこの船の捕獲は五章で述べられている。この船の名前は天王丸・氷川丸などと数回にわたり変えられた。オプ号は戦争の後半にはゴールデン・リリー作戦の業務につくため、病院船として時を過し、マニラ・横浜間で財宝を運んだ。戦争が終わる直前に、オプ号は二千㌧の金を積んで横浜に到着した。数日後、オプ号は日本の西海岸にある舞鶴海軍基地に移された。舞鶴は殆ど陸地に囲まれた湾なので、そこに沈められたどんな船も、強い海流や津波により動かされなければ、沈んだ場所の近くに残るということを意味していた。そこでオプ号は、海軍基地付近の丘にある地下壕からさらに多くの財宝を積み込んだ。ある夜の遅い時間に、オプ号は湾内に引き出され、船長と二十四人の乗組員は殺害され、船はキングストン・バルブを開けられ、船体は水にあふれた。殺害者たちは日本海軍の高官グループで、この財宝を自分たちで保持したいと願っていたのだ。彼らは、いつの日か帝国海軍の力を再構築するために財宝が使われると自慢げに言った。
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一九八七年、オプ・テン・ノート号の回収作業は、この高官グループの残った生存者たちが、やくざの黒幕で、一九三〇年代から一九四〇年代に児玉と仕事をしていた笹川に近づいた時に出だしでつまづいてしまった。笹川はその後、インドネシアとフィリピンで、スカルノ大統領やマルコス大統領と協力して財宝を回収することになる。水中の回収専門家と、深い潜水に必要な機材が苦労して集められた。しかし、笹川の分け前をめぐる争いが原因で話し合いは決裂してしまった。一九九〇年にモリチョー社製の巨大な海上用起重機を所有する日本の大企業も参加して回収作業は再開された。またしても、深海の回収作業における国際的な専門家が集められた。彼らはディヴィコン・インターナショナル社所有の潜水艦を用意し、トレンス・タイド号と呼ばれるオーストラリア製の回収船に積み込んで運んだ。トレンス・タイド号は、シドニーにあるタイドウオーター・ポート・ジャクソン・マリーン・PTY社に所有管理されていた。(CDのカラー写真を参照)
回収作業の参加した者は我々に言うには、「財宝は無事にトレンス・タイド号に積み込まれ、参加した日本人がその晩、お祝いに海岸でお祭り騒ぎをしていた。彼らが騒いでいる留守中に、そのオーストラリア船はこっそりと錨を揚げ、財宝を積んだまま公海へ出て行ってしまった。船がいなくなったと判ったのは日の出前のことだった。」と語った。この三〇年間で良く知られた財宝ハンターはジョン・シングローブ将軍のニッポン・スターグループで、PMFSのエンタープライズ組織のひとつである。シングローブは太平洋戦争の終わり近くに、パラシュートでハイマン島に降り、日本軍の強制収容所から数百人の連合軍捕虜を解放し、国民的英雄となった。その後、彼は毛沢東が中国本土を制圧した時、韓国で身を隠しチャイナカ・ ウボーイの一人になった。シンブローブは、数十年の間軍事独裁政権をバックに、とりわけ芳しくない評判をたてられた韓国CIA(KCIA)の設立に関与していた。
シンブローブは長いCIA勤めのなかで、テッド・シャクリーやクライン、ランズデールを含む、全ての最も有名な冷戦主義者たちと一緒に仕事をした。一九七〇年代に彼は、韓国におけるアメリカ軍最高軍司令官であったが、その時、ジミー・カーター大統領といくつかの世論に対する基本的な意見の相違があり、彼は早期退職を余儀なくされた。彼は極右ではヒーローのままで、世界中の血で汚れた体制を支援するPMFの軍補助的代理人の一人だった。ランズデールやクラインのようなエンタープライズにいる彼の元CIAの仲間たちは、一九四〇年代のサンタ・ロマーナの回収、一九七〇年代のマルコスの回収について全てを知っていた。マルコスが権力を剥奪された後、ニッポンス・ ターとフェニックス調査会社と呼ばれる二つのPMFsがマニラへ金塊探索のためにCIAの情報と協力をもとにやって来た。ニッポンは香港で法人化され、フェニックスはロンドンで法人化された。
リベリアに登録されているヘルムット貿易と同様、両社はコロラドに拠点を置き、フェニックス・アソシエイツと密接につながっていた。フェニックス・アソシエイツは「未来の兵士」マガジンの発行人で、シングローブと親密な友人で隣人であるロバート・ブラウン大佐によって設立されている。シングローブは言った、「本来なら、埋蔵財宝の回収計画に関心など持たなかっただろう。しかしニッポン・スターグループは愚直な海岸の物あさりではない。そして、私は過去の経験で、フィリピンに埋蔵されてる日本の金塊の話は本物だと知っていた。」彼は付け加えた。「本当のところ、マルコスの百二十億㌦の財産はこの財宝に由来するもので、アメリカの援助を掠め取ったものじゃない。しかし、マルコスは、一ダースやそこらの最大の埋蔵場所からピンハネをしようとしただけだった。だから、百以上の埋蔵場所が手付かずの状態で残っているんだ。」
シングローブは、ニッポンス・ ターが取り分の一%を彼の「世界貿易国内委員会」に与える事と引き換えに保安顧問になった。一九八〇年代半ばを通し、多くの新聞記事は、ニッポン・スターが行ったフィリピンでの財宝発掘作業が幸運に恵まれず、失敗したことを明らかにした。発掘失敗が続いたため、彼らの資金支援者たちは、ロバートカ・ ーティスを呼ぶことを提案した。1987年1月の初め、カーティスはシアトルのアラン・フォリンジャーという名の人物から電話を受けた。フォリンジャーは「フィリピンの財宝」についてカーティスと会って話したいので、翌朝ラスベガスへ行きたいと言った。「それをどうして知っているのだ。」とカーティスは言った。「私はジャック・シングローブやニッポン・スターと一緒に仕事をしている。」、とフォリンジャーは言った。「君らはCIAだろう。私には興味のない話だね。」とカーティスは言って、受話器をたたきつけた。
翌朝、カーティスが九時前にシボレー販売代理店に仕事で到着した時、彼のオフィスに、二人の男、フォリンジャーと彼の次席のジョン・デンバーが待っていた。彼らは、実際はニッポン・スターと共同事業をしている、デンバーのフェニックス調査会社と呼ばれる団体であると言った。後にカーティスが言うには、フェニックス調査会社はCIAの隠れみのであり、フォリンジャーは本当はマニラのマグサイサイビルにあるCIA局の管理長かオフィス・マネージャーだったのだ。彼はCIAの局長ではない、局長は一等書記官か、普段は使節代理が就くことになる大使館の別のポストである。カーティスは彼等をショールームの外に放り出そうとした時、フォリンジャーが時計を指差し、「3分以内に国防総省の電話交換台から、たいへん重要な電話を受けるだろう。その電話で、これがどうしてこんなに重要なのかを説明されるだろう。」、と言った。9時きっかりに電話が鳴り、カーティスは陸軍補ロバート・L.シュバイツァーと話すことになった。シュバイツァーは、ホワイトハウス近くのエグゼクティブ・オフィス・ビルにある国家安全保障会議(NSC)で、レーガンの上級軍事顧問をしていた。一九八六年、イランコ・ ントラ武器スキャンダルが発生した時、現役勤務から退き、エンタープライズ組織でシングローブの仕事に加わった。
しかし、彼はまだNSCのビルに事務所を持っており、レーガン大統領が軍事面で助言を求める人物であり続けた。シュバイツァーはNSC時代の副官、ディック・チルドレス大佐を通じてNSCと関係を維持していた。ディック・チルドレスは極東担当大臣の地位にあった。この集団には他の人間として、防衛情報局の元局長ダニエル・グラハム将軍、統幕事務局の元会長ジャック・ベッセイ将軍、ジョージタウン大学の戦略研究センターを率いる元CIA副長官レイク・ ラインなどがいた。カーティスが言うには、シュバイツァー将軍は、いまエグゼクティブ・オフィス・ビルから電話をしていると彼に告げた。シュバイツァーは、レーガン大統領は(隣の部屋にいる変な老人だが、)フィリピンの戦争略奪品の回収をしようとするニッポン・スターとフェニックス調査会社の取り組みを是認しているという。
ホワイトハウスとCIAは否認権を維持しなければならないので、レーガンはその計画に公式の認可を与えることができないが、シュバイツァー将軍が言うには、スービック湾海軍基地とクラーク空軍基地の司令官に加え、前もってマニラのアメリカ大使館にも指令が十分に伝えられている。司令官たちは兵士・ヘリコプターの形で支援をし、地中の防空壕の中の金塊の保管を引き受けたのだという。シュバイツァーはカーティスの愛国主義につけ込み、シュバイツァー、フォリンジャー、ヴォス、そして他の大物たちと香港で会うように急き立てた。まさにその朝、レーガンはコーリー・アキノ大統から、「百%協力する」というメッセージを受け取っていたとシュバイツァーが言った。カーティスはジョン・バーチ協会や、マルコスや、バーチャーズと共謀しているアメリカ政府機関にはひどい煮え湯を飲まされていたので、こうした連中の誰とも何もしたくはなかった。一九七五年以来、彼はフィリピンからマルコスの金塊を動かす際の、CIAとエンタープライズの関与について多くを知っていた。彼はこうしたことの証明を満足するだけの数千ページの書類を集めていた。彼はふたたびひどい目に遭わされるのではないかと不安な気持ちを抱いた。
しかし、彼は愛国主義者であり、もしこのことで彼が経済的に立ち直ることが出来るのであれば、リスクを冒す価値はあった。少なくとも、彼は将軍たちが言うべきことや、レーガン大統領が将軍を通して言わねばならなかった事を聴くことができた。カーティスはしぶしぶ同意をして、一九八七年二月十一日、香港のマンダリンホテルにチェックインし、そこに連中が待っていた。四日間彼らはホテルの会議室で会い、一緒に食事をした。カーティスは今回、自分を守るため、会議のはじめから終わりまでの全てを録音すると主張した。(彼は全てのテープのコピーを我々に渡しており、以下に述べる多くのことを我々は知ることができた。)再び騙されないよう、カーティスは自分のパートナーとしてデニス・バートンを連れてきた。彼は国内税収サービスの主席犯罪調査官だ。もし、誰かがカーティスは今回間違って告訴されることはないと保証するとしたら、それは、バートンだろう。週の終わりに、彼らのもとにオロフ・ジョンソンが参加した。彼はスウェーデン人の霊能者でカーティスが絶対必要だと考えた人物だった。
会議が始まった時、シングローブは仲間に自分たちの最大の危険は、日本に略奪された国々が、戦争略奪品のこれ以上の回収を真の所有権が確立するまで、世界裁判所に凍結をさせるべきだと結束することだと言った。合計三十二ヵ国が、数千トンの金塊を収奪されたと主張していると彼は言った。彼はどこでこれらの数字を知ったかを言わなかったが、彼のグループは、一般国民が見ることができないアメリカ政府の書類を見ていたのだ。カーティスが驚き、怒り、失望したのは、シングローブがニッポン・スターへの資金援助を、ジョン・バーチ協会に引き受けるよう説得していたことだ。フォリンジャーにカーティスを引っ張り込ませたのは、ジェイ・アグニューの息子のダンだった。フォリンジャーのカーティスへの最初の電話は、シアトルのアグニュー法律事務所からのものだ。このことは全く奇妙なことで、一九七五年に経済的に、そして職業的にカーティスを破滅させ、彼を刑事罰に追い込んだのはアグニュー家だったのだ。それは十二章で述べた通りである。カーティスを破滅させていたが、アグニュー家は、もしシングローブとフォリンジャーがカーティスを仲間に組み込み、彼の地図と分析技術を活用できれば、ニッポンス・ ターのフィリピンでの回収作業に資金援助するだろうとシングローブに伝えた。
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「アグニューは俺の人生を台無しにしたんだ、」とカーティスは言った。「そのくせ奴らは俺の助けを求める。あなたたちは、そんなことを許せると思うか。俺は20世紀最大の犯罪者、もしくはそんな意味の言葉で呼ばれてきたんだ。もし、それでも協力するなら、俺は本当に大馬鹿野郎だ。一九七五年にフィリピンから帰ったときまったくの無一文だったし、現在も無一文のままなんだぞ。」シングローブ、シュバイツァーの両将軍は、香港のマンダリンホテルでカーティスと取り組む間、アグニュー家の関与をごまかしていた。彼らはカーティスに、大掛かりな回収をするための最良のチャンスを申し出ているのだと言った。その回収には、レーガン大統領、アメリカ政府がずっと支援しており、アメリカ大使館やスービック基地やクラーク基地の司令官も支援している。それ以上の事はできないだろうと、彼らは言った。この連中は大物たちである。それは力強い口調だった。一九七五年、全てのアメリカの組織は大型のマックトラックのようにカーティスに迫り、同じ組織が、秘密の地図と特別の情報を使えるよう、路上轢死動物のようにこびへつらい、強く要請をしてきた。
カーティスは気分が悪くなったが、ここまで来た以上、しぶしぶだがその成り行きを見てみようと決めた。彼はとりわけシングローブは好んだが、彼らをみんな馬鹿だと思った。シングローブは先の一三ヵ月間に、二百万㌦以上を使い、数ヶ所で財宝回収を試み、失敗したことを認めた。彼は、二人の案内人、ドクター・シーザー・レイランというフィリピン人歯科医とその親友ポル・ジーガに、問題の場所へ案内してもらった。二人はニッポン・スターに信頼できるものだと主張して地図を与えていた。カーティスは地図を見て、すぐにそれが偽物だとわかった。カーティスはポル・ジーガと一九七五年に仕事をしたことがあったし、ジーガが戦中からの日本の財宝の埋蔵場所について直接情報をいくつか持っていることも知っていた。しかし、レイランを信頼することは全くなかった。もし二人が一緒に仕事をし、こんな偽物の地図を悪用したとすれば、彼らはお人よしの将軍を簡単にだましていたことになる。しかし、二人のアメリカ人の将軍に、おまえらは馬鹿だと、どのように伝えるというのか。
アラン・フォリンジャーはまじめで三〇台半ばの見栄えのする、かなり教養のある男であるが、彼はカーティスに言った。「最初の我々の作戦は、海の下の我々が支配している小さな埋蔵場所から個人な財産を探り当てることだ。そして、その中から金の延べ棒を1本取り出して、コリー(コリー・アキノ大統領)に見せることだ。そうすれば、我々は他の埋蔵場所についてアキノ政府の十分で完璧な探索と回収の許可を得るはずだ。」問題はこの場所が、カリタガン湾の礁にあるアンカー地域だとカーティスが気付いたことだった。ジーガとレイランは、数年にわたりだまされやすい人々に、ブルックリン橋を売るかのごとく、情報を不当に売りつけていたのだ。この二人の詐欺師たちは、無垢のプラチナで出来た錨が、日本海軍港の突端から押し出され、金の延べ棒がつまった銅箱を鎖で繋ぎ礁に沈めていると主張した。カーティスはこれが嘘だと知っていたが、自分たちは二人組みの詐欺専門家に騙され、金を巻き上げられていることを、冷戦主義者ジョン・シングローブのような男に言うすべを知らなかった。ニッポン・スターのダイバーが礁で何も発見できなかった時、ジーガは、錨と銅箱は「岩の裂け目に滑り落ちたに違いない。」と主張した。財宝を覆っている日本軍のコンクリート厚板は硬くて突き破れないし、潮の流れはニッポン・スターの潜水台を動かし続けたと投資家達に説明をした。
あるとき、カーティスは将軍たちに錨の場所について騙されていたと認めさせ、彼らが仕事をしている陸上の場所について教えるよう強く求めた。将軍等はカバイトはずれの町であるアルフォンソのこの場所へ、シーザー・レイランに連れてきてもらっていた。レイランは財産家だ。フォリンジャーがそのことを述べた時、カーティスは自分の耳が信じられなかった。レイランはニッポン・スターに、自分が少年のとき日本軍が隣家の下に掘った深い穴に財宝を隠すのを見たと言っていた。その家もまたレイラン家の所有だったのだ。のぼせ上がった将軍たちは、レイランに多額の月々の情報料をあたえ、掘り始めたのだ。何も見つけられなかった時、穴はもっと深かったと考え、さらに掘り続けた。一三ヵ月以上かけて、台所の下をまっすぐ四百フィート掘り下げ、泥を袋に詰め、夜にそれを運び去ったので、多くの隣人は何が起こっているのか知る由もなかった。この時までに将軍たちはかなりの金を使っていたので、あきらめることは出来なかった。地下水位は百フィート下だったので、次の三百フィートは海面以下を掘らなければならず、将軍たちはアメリカ海軍から深海専門のダイバーを連れてこなければならなかった。そうした深さでは、ダイバーたちは上に上がる度に、減圧室を使わねばならなかった。「想像してみろよ。」とカーティスはいった。「六フィート、六フィートの縦抗を三百フィート以上も潜り、その深さで、海中で穴を掘り、泥と岩を袋に入れるんだぜ、彼らは、日本人野郎が四十年台に、この穴をどうやって掘ったのだと考えもしなかったのかよ。彼らの財務記録を見ると、彼らはこのひとつの穴に百五十万㌦も費やしたんだ。俺は、彼らがレイランみたいな典型的なにせ情報に無駄な金を使うのをやめろと、彼らと大喧嘩しなきゃあならなかったんだ。」
カーティスはまた香港での陰口に驚いた。彼らは昔からの友達だと言ったが、テープの記録を聞くと、シングローブ将軍とシュバイツァー将軍は内心ではいがみ合っていたことがわかる。シングローブは個人的に安全対策は引き受けると主張した。彼は自分が信頼する唯一のフィリピン人は、アキノ大統領内閣の情報担当大臣であるテオドロ“テディ”ロシンだと言った。シングローブは、ロシンはアメリカ大使ステッペン・ボスワースとも親密な関係であると言った。「コリーは本当に何もやらない」シングローブは言った。「ボスワースと相談すること無しではね。」シングローブは、アキノ政権との合法的な契約書を持っているので、国の所有地も含め、フィリピン国内のどんな財宝隠匿場所も掘ることができると保証した。彼はカーティスに、大統領機動部隊の便箋に書かれウイルフレド・P.サン・ジュアンが署名した許可証を示した。(後日、サン・ジュアンには財宝回収に関するどんな種類の合意書も発行する権限がないことが判明した。)シングローブはマラカニアン宮殿の連中、大統領保安部隊、カバイトのマフィアのボス、特別の保安のために左翼新人民軍のゲリラ・リーダーにもわいろを贈った事を自慢した。とても多くの連中が賄賂を受けたので、その噂はひろまった。その結果、大変多くのフィリピン人はニッポン・スターとフェニックスの探索活動のことを知ることとなった。フォリンジャーは知的で理性的だったのに、全部隊には命令を出していなかったとカーティスは言った。そのため、将軍たちに怒鳴りつけられ、黙ってしまったのだ。彼らはフォリンジャーを詰問し、彼を厳しく責めたのだろう。彼らはせっぱ詰まり、カーティスに自分たちの失敗を何とかするように言った。彼は、どこを掘ったらいいかを教えることが出来たし、そうすれば、彼らも回収分の1パーセントは与えただろう。その謝礼額はカーティスがマルコスから受けていた申し出のように多額である。
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>>7388
まず、最初に彼らは、カーティスに迅速に財宝の回収が出来、マニラとワシントンの信頼を取り戻せる、簡単な場所の情報をくれるよう頼んだ。シングローブが実際にアキノ大統領からフィリピン共和国の土地で財宝回収をやっていいという許可を得ていると仮定して、(それはまず考えられないことだが、)カーティスは、コレヒドール島の目的の場所をほのめかした。彼はそこにいくつかの大きな場所があるし、すでに明るみに出ているけど、簡単な小さな場所もあると説明した。彼らは確かに注目されていたので、許可は絶対に必要なものだ。シングローブは彼の許可は正しいと主張した。シングローブはこの回収を達成するために部下を配置した。この時までに、シングローブは三七名のアメリカ特別軍と、デルタフォース(米陸軍特殊部隊)の将校を呼び寄せていた。彼らはマニラ国際空港に二人、三人のグループで到着したが、偽名と偽パスポートを使って旅行してきた。将軍たちが作戦を練っている間、カーティスはシボレーの販売部長としてサラリーマンの仕事を再開しにネヴァダへ帰ることにした。飛行機の中で、彼はとんでもない愚か者の船に乗り込んでしまったことに気付いた。シングローブとフォリンジャーは違った風に魅力的だし恰好よかったが、カーティスは彼らが目的を達成できるかは大いに疑問だと深刻に考えていた。
1週間後、彼はフォリンジャーから手書きの手紙を受け取った。彼のコードネーム“ジョージ”の呼びかけで手紙は始まっていた。「次の内容は、私が電話で話したくないいくつかの急ぎの覚書だ。ニッポン・スターの取締役会が開かれ、シングローブは予見される将来のために、フィリピン政府とは関係を持つべきでなく、公にはニッポン・スターから引き離されるべきだと決定した。このことは彼にとって承服しがたいことになるだろう。我々はシングローブに忠実な投資家による、敵対的乗っ取りに対処することになるだろう。」、彼はカーティスに、シングローブの現状行っている三つの金塊回収プロジェクト全てが中止されることになると言った。ニッポン・スターは、CIA、国防総省、国務省、国家安全保障会議出身の超愛国主義者(シングローブやシュバイツァーのような連中)のクラブとして存続する。しかし、その主要な目的は、現実に起こっていることから関心をそらすことにあった。そこで勇者たちは、戦争略奪品の回収を本気でめざし、世界の金市場に売りつける新フィリピン・アメリカ自由基金(PAFF)を設立しようとしていた。フォリンジャーは、自分たちの回収した最初の相当量の金塊はベンゲット社の買収するために使ったと言った。ベンゲット社は、フィリピンの一流金採掘会社で、マルコスがマイアミやナッソーに基盤を持つマフィアの助けを借りて、再精錬した戦争略奪品を輸出するために使っていた。ベンゲット社は世界の金市場へ闇の金を動かすためのPAFFのトンネル会社であった。フォリンジャーは、売上の多くがB―1爆撃機やレーガン政権のスター・ウォーズ計画のような防衛計画の資金供与に使われ「結局、我々が支配する新産軍複合体制を構築したのだ。」と言った。この手紙に添えて、フォリンジャーは、これら全ての連中と組織の関係を示す相関図を描いていた。(CD参照)
この共同事業のフェニックス調査会社とニッポン・スターの相棒として、フォリンジャーはカーティスとその友人、バートン(彼らをC&B引き揚げ屋と呼んでいた。)にこの政治的計画を支援してほしいと言った。カーティスは自分のために、是が非でも金塊の回収をして経済的に立て直しをしたかった。しかし、彼はこの連中と仕事をすることにひどく不安を感じていた。彼はフォリンジャーに、コレヒドール島の映画館の跡地での金塊回収に急いで集中するように説得した。この場所はカーティスが彼らに教えた最も容易で、最も簡単で、最も早くできる地点だった。数年前なら彼は一人で回収をやっていただろう。この地点はすべて周知の事実で、みんな知っていたので、政府所有地を掘る公式の許可が必要だった。どんな子供もそれをやる。しかし将軍たちにそれが出来たろうか。トップサイドにあったマッカーサー将軍の本部の向かい側に、爆破された映画館がある。映画館のそばの小さな隠匿場所に十八本の金の延べ棒が隠されているはずだ。もしどこを掘るべきかを知っていれば、シャベルで簡単に掘り出せるやわらかい土壌のたった十五フィートの深さにある。十八本の七十五㌔の金の延べ棒は、数百万ドルの価値があった。カーティスは一九七五年にそのことを知っていた。当時、彼とマルコスはヘリコプターで観光のためにコレヒドール島へ飛んだ。その日撮った一枚の写真を見ると、映画館のそばを二人がぶらぶら歩いており、その壁は銃弾を浴びせられているのが分かる。
ビラクルシス大佐はその写真を見た時カーティスに、東京で目撃者から聞いていた面白い話を聞かせた。それは竹田皇子とイチバラ(市原?)卿との会談の時のことである。目撃者は、日本海軍高級将校をコレヒドール島の本部ビルに訪ねていた、それはアメリカ軍が島を奪還するための攻撃をはじめた一九四五年二月一六日の事だったと言った。大型爆弾が映画館そばの通りに着弾し、十五フィートの深さの爆弾穴を開けた。海軍指揮官はまだ十八本の金の延べ棒を自分の部屋に置いていて、これはチャンスだと考えた。彼は事務所の職員に、金の延べ棒をその爆弾穴に降ろさせた。近くにあった小型ブルドーザーを使ってすばやく穴を埋めた。数分後、第十一空挺師団と第五〇三落下傘連隊、コンバット・チームの落下傘部隊員が地上に降り立った。戦闘は熾烈で、ひとりの海軍将校が殺された。三十年後、目撃者は、爆弾穴は正確にはどこかわからないが、映画館の近くにあったことを記憶していた。カーティスは、レバー・グループと仕事をしていたときに、コレヒドール島に戻って太平洋戦争記念館を訪れた。ロタンダ(円形大広間)の壁には、貴重なモノクロの空中写真が展示してあり、それは一九四五年の爆撃と攻撃を示しており、それぞれは数分間隔で偵察機から撮影されていた。午前十時十六分の写真は、映画館そばの爆弾穴が写っていたが、十時三十八分の写真では爆弾穴は埋められていた。
それで、カーティスは例の十八本の金の延べ棒がどこに隠されたかを正確に知ったのである。この金塊のおかげでフェニックス探索とニッポン・スターは、誠に厄介な財政支援者たちから解放させ、カーティスの知っている他の場所での数年にわたる金塊回収プロジェクトが可能になったのである。全ての準備が整った時、フェニックスとニッポン・スターから十人のアメリカ人がコレヒドールに到着した。彼らは一緒に周辺を警備するためにフィリピン人の兵士を連れてきたが、彼らは大統領保安部隊から派遣された軍曹に指揮されていた。アメリカ人の中にはフォリンジャー、レーガンの部下のシュバイツァー将軍、五人の大佐、ひとりのアメリカ海軍シール部隊員(特殊部隊員)、カーティスの仲間のデニス・バートンとジョン・レモンがいた。五人の大佐のひとり、エルドン・カミングスは、エル・サルバドルで秘密工作を行ったCIAのベテランだった。他の二人は‘ロック’マイヤー大佐、ジェイムス・ヨーク大佐で伝説に残るような人物だった。シール部隊員は同様に伝説的な人物のトム・ミックスで、GIMCOまたはGEOインナースぺースと呼ばれるなぞの多い会社に所属し、日本の財宝船の海上での金回収でニッポン・スターと緊密に仕事をした。
この連中は重要人物だった。あの日、彼らは全員トラブルに備えて重装備をしていた。映画館地点の回収作業を管理している五人の大佐と別れ、シュバイツァーはマニラ南部のアラバングにある彼らの隠れ家に戻った。まず大佐たちは地中抵抗性感知機を取り出した。一九八〇年代までに、感知器は三十フィート下の金塊がどの辺りにあるかを感知できるようある程度進歩していたので、大佐たちは金塊がまだそこに眠っていることを知った。次の五日以上、彼らは十フィートの深さの穴を掘った。彼らは次の日には金の延べ棒に突き当たることを期待した。そしてその日のあと、突然シューと言う音が聞こえ、三機のフィリピン陸軍ヒューイ・ヘリコプターが彼らの頭上までやって来て、騒音をひびかせた。ヘリコプターには防弾チョッキを来た重装備の兵士でいっぱいだった。二機が威嚇するように空中静止している時、一機が着陸して軽機関銃を持った兵士の一団が飛び降り、一人のフィリピン陸軍の将校が続いた。将校はアメリカ人たちにぞんざいに、自分は軍隊の長であるフィデル・ラモス将軍から、共和国の資産であるコレヒドール島からアメリカ人を放逐するために派遣されたと言った。フォリンジャーは彼に、シングローブが見せびらかしていた共和国に滞在できる大統領の許可書の手紙を見せた。将軍は署名を見て、「それは本物ではない。サンジ・ ュアンはそうした許可証を発行する権限をもっていない。」と言った。彼は直ちに島を退去するよう命令を繰り返した。
アメリカ人はテントをたたみ立ち去った。シュバイツァーは彼の厳選されたチームがコレヒドール島から強制退去させられたと聞いて、怒りのあまり青ざめた。彼はレーガン大統領に電話して、レーガンにアキノ大統領と個人的に仲裁させると脅した。カーティスは、それはよい考えではないので止めるように彼を説得した。フィリピン政府や軍部の多くの人間が、ニッポン・スターの傲慢なふるまいに腹をたてていた。マニラのジャーナリストは、ニッポン・スターはジョンとジョン・ハリガンによって、統一教会の金で資金援助を受けていたことを突き止めた。ニッポン・スターがマニラで最初に設立された時シングローブは闇市場で武器を買った。その中にはアルマライト製の武器や、グレネード・ランチャー(擲弾発射筒)も含まれていたが、シングローブは所持免許を取れなかった。それらの武器が盗品であることが判明したからである。彼はまた車をまとめて安く買ったが、その車も盗んだばかりの商品であることが判明した。それらの車は、マルコス秘密警察の長、ファビン・バーの所有であり、彼が亡命した時、車はひそかに売られ、バーはその金を着服した。シングローブがその車を登録しようとした時、その車は行方不明になっていた政府のものであることが明らかになった。こうした出来事は、フィリピン上院のジュアンポ・ ンセ・エンリレと狡猾な詐欺師たちが、ニッポン・スターはフィリピンの島々を踏みにじり、国家遺産の美観を台無しにしたと主張したことが物語っている。一人の熱烈なジャーナリストが次のように書いている。「もし、フィリピンが自由で民主的な社会を維持したいなら、内乱を工作したCIAの深淵に落ちたくなければ、アメリカ軍の武力侵入と配置という局面に備えるなら、そして、アメリカ軍基地の保持を進めるなら、このような民主主義の敵となる運動や活動は、緊密に監視され縮小されるべきだ。」フェニックスとニッポン・スターがコレヒドール島から追放された時、シングローブはワシントンでイラン・コントラ事件について議会で証言をしていた。「私はジャック・シングローブを好んだ。」と、カーティスは我々にきっぱりと言った。「しかし、彼は口を閉ざすことが出来なかったのだ」。
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708131 No.7390
>>7389
カーティスがフォリンジャーに、自分は共同事業から抜け出すつもりだと伝言した時、フェニックスとエンタープライズの幹部がラスベガスの彼の家に大急ぎで飛んできた。シュバイツァー将軍とシングローブも一緒だった。彼らは考え直すように懇願した。ある時、フォリンジャーは内密でカーティスと話したいと頼んだ。二人は外へ出て、エアコンが効いて、ラジオが鳴っているシボレー・ブレイザーの席に座った。「彼は、なんとしても俺を連れ戻さなければならないし、さもなければ彼らは、俺を抹殺すると言うんだ。俺は、あんた等はCIAなのかとたずねた。彼は、そんなもんじゃないと言った。彼は、ジオ・ミリ・テックから脅されていて、俺をどうしても留めなければいけなかったのだと言った。また、アグニューは、彼に厄介な問題を押し付けているとも言った。」しかし、カーティスは腹を決めていた。その決定的要因は、彼が、アラバングのニッポン・スターの隠れ家は、将軍シュバイツァーとシングローブと全ての大物がマニラ滞在時に住んでいたところで、その隣家はソビエト大使館のKGB諜報員が借りており、彼らが全てを監視し、録音していることに気付いたことにある。「我々は全ての窓を開いていた。」とカーティスは言った。「だから、彼らは窓のそばに機械を設置するだけで、無線通信も含めて我々の会話がすべて聞こえるのだ。その会話はその家で解読されたのだ。この件を知り、気が狂いそうになった」。
その後の数ヶ月で、フォリンジャーは何度も何度もカーティスと接触して、彼に考え直すように頼んだ。シングローブとシュバイツァーもまた電話をした。カーティスは頑として受け入れなかった。将軍たちは自分たちを責めることはなかった。だれもがフォリンジャーを責めたのだ。その後まもなく、フォリンジャーはマニラに戻る途中にハワイにいた、泳いだ後ワイキキの混んだ道を水着姿でぶらぶら歩いていたが、はだかの足を何か鋭いものを持つ通行人に切りつけられた。数日後、彼は呼吸困難をともなう激しい苦痛で病院に担ぎ込まれた。医者は貝毒を疑った。しばらくのあいだ、彼は殆ど虫の息だった。徐々に彼の調子は回復して、マニラの自分のマンションへ健康を回復させるために帰った。そのマンションはジュン・ミトラという名前のフィリピン人と共同使用していたものだった。友人がある朝訪ねて来た時、フォリンジャーは体重をひどく落としていて、呼吸困難をふたたび訴えた。彼は少しの食欲はあったので、友人にイタリア料理を買って来て欲しいと頼んだ。その友人が一時間後に帰った時、フォリンジャーは発作を起こしていた。彼らは近くのクリニックに飛び込んだ。彼は重症の気管支肺炎で、何かが彼の免疫体系をダメにしてい
た。すぐにもう一回の発作が出た時、彼の心臓は止まり、彼を蘇生させる試みはうまくいかなかった。
ワイキキ海岸での出来事について、カーティスは言った、「アランの仲間のひとりは後に、暗殺であったに違いないと私に言った。」ハワイで何が起こったにせよ、マニラの病院の臨床記録に殺人を示すものはない。しかし、証拠がないことが、なにもないことの証拠ではない。フォリンジャーはたいへんな精神的抑圧にの中にいた。精神的重圧はカーティスにも同様に大きな犠牲を強いていた。カーティスが一九八七年七月、サン・フランシスコへ旅行した時、そこで将軍たちと続いていた関係をすべて解消したのだが、ひどい胃の不調を覚え、緊急手術を受けねばならなかった。彼が麻酔からさめた時、ひどくへばらせる鎮痛剤を打たれ続けていた。病院での彼の見舞い客の一人は、チャールズ・マクドゥーガルという名の全くの見知らぬ人物で、山下将軍の金塊について本を書いていると言った。元グリーン・ベレー隊員のマクドゥーガルは、フィリピン大学で暫く勉強をし、そこでノエル・ソリアーノ保安局長と親密な友人になったと言った。ノエル・ソリアーノ保安局長は当時アキノ大統領の国家安全顧問をしていた。
マクドゥーガルは病院をたびたび訪れ、カーティスにいろいろな財宝隠匿場所について語った。カーティスは頭がぼんやりした状態で、マクドゥーガルであればソリアーノ保安局長との関係さえ確かなものだとすれば適当な相手かもしれないと考え始めた。彼らはサンチアーゴ要塞で、復興計画を装った財宝保管所の探索をするのはどうかを議論をした。マクドゥーガルはソリアーノ保安局長にその考えを切り出し、ソリアーノ保安局長はアキノ大統領と相談をし、大統領は了承した。彼らは、秩父宮が砦の地下3階にある通風孔の下に隠していた金塊を探すつもりだ。計画はカーティスに率いられた国際貴金属(IPM)と呼ばれた新会社によって行われる。マクドゥーガルも参加し、フィリピン政府が上前をはねた後、儲けを確保する。掘削は各段階で必要なアキノ大統領の許可のもと、徐々に進められる。彼らは日本人がわからないように置いていた埋め戻しを掘り、ドリルの先っぽで金塊をさぐり、金塊にめぐり合えるよう、そして、彼らが掘削を続けるために必要なアキノ大統領の要求する証拠、つまりコアサンプルを得ることを期待して穴を開けた。作業は、まる一日中掘り続ける若いフィリピン人のチームで始まり、落盤を防ぐため木製の支柱が組み込まれた。そこには四つのタイプのわながあった。最もはっきりしているのは百、二百五十、五百もしくは千ポンドの航空爆弾で、バネをいじると爆発する。埋め戻しの中に置かれたシアン化物のびんは簡単に壊れる。いくつかの場所に、簡単に穴の中を水浸しにするテラコッタ(素焼き)の大樽があった。まれではあったが、砂のわなもある、粘土層と細かい砂を互い違いに作られている。もし作業員がそれをいじれば、粘土が崩れ、掘る人間を困らせ、細かい砂はひとを窒息させるだろう。だから、丈夫な支柱は欠かせなかった。カーティスは、支柱は掘削の進行に合わせて設置しなければならないと厳しい命令を与えた。しかし、彼は丸一日現場にいることは出来なかった。金塊にたどり着くための重圧が重なったので、作業者も監督も注意を怠るようになった。
ある深夜、トンネルの奥深くで作業をしていた三人の男たちが、支柱の上でかなり動いた。急に砂のわなが破裂した。多量の砂が流れ落ち、二人の男が粘土の厚板のために命を落とした。三人目は、瓦礫の中から足を突き出していて、生きて引っ張り出された。カーティスと保安局長ソリアーノ保安局長は事故の通知を受けていたが、誰も民衆の抗議に備えていなかった。ジャーナリストはサンチアゴ要塞に殺到し、フィリピン上院は調査を要求した。マルコスの取り巻きは攻撃を先導し、死者を出したうえ、「国の記念物を冒涜した」と、カーティス等を責めた。彼は、もう少しで回収できそうな金塊はフィリピンの国家負債の支払いに充てることが出来ると反論した。アキノ大統領は彼を支持した。大統領はIPMにあと九十日間発掘を続ける許可を与えた。カーティスは金の貯蔵場所にぶち当たるほんの数メートルにいることを知った。それを証明するために、掘削機を持ち込み掘り下げた。十二番の穴を掘削したとき成果があったのだ。一九八八年、四月二十三日にドリルの先端が金塊、大理石、木のかけらをさぐりあてた。ゴールデン・リリーの地図は、金の延べ棒が大理石の厚板の上の木箱にある事を示していた。カーティスは金脈を掴まえたのだ。
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>>7390
彼の電子感知機が、掘削した穴のすぐ左に小さいが重要な物質を捉えた、それは恐らくベンが言った、最後の瞬間に財宝のつまったドラム缶を埋め戻しに加えたものだ。数百万ドルの値打ちのシロモノだろう。アキノ大統領はずいぶん喜んだ。またしても、舞台裏で困ったことが発生していた。資金調達者のジョージ・ワーティンガー(資金調達者)はネヴァダから自称建築業者、アーニーウ・ イッテンバーグ(自称建築業者)(自称建築業者)と一緒にもどった。
ウイッテンバーグ(自称建築業者)の資金は麻薬取引によるもので、後に起訴され、収監されたのだ。ソリアーノ保安局長とマクドゥーガルの二人は最初から、ワーティンガー(資金調達者)がウッテンバーグの麻薬マネーをつぎ込んでいることを知っていたが、誰もカーティスには言わなかった。カーティスが抗議した、すると、ウイッテンバーグ(自称建築業者)は、カーティスが解任され帰国する条件で、計画の利権を五十万㌦の現金で買取ってやると対抗してきた。カーティスが金塊の場所を突き止めたとなれば、彼はもはや用なしだった、テレサ2の場合の二の舞だ。
フィリピンで金塊の回収を望む金の亡者(投資家)は、誰でもカーティスの力を必要とした。それは彼が地図を持っており、地図をよく分っているからだ。しかし、カーティスが、金塊のあり場所を特定してしまえば、彼は用なしだろう。これは財宝探索の典型で、本や映画「シエラ・マドレの宝」でもパロディ化されている。貪欲は自己中心を増大させ、自己中心は、貪欲を増大させるのである。「ソリアーノ保安局長は、私に、ウイッテンバーグ(自称建築業者)の金をもらってやれといったのさ。」、とカーティスは我々に言った。「でも、そいつは麻薬マネーなので、ビタ一文欲しくはないんだ。」ソリアーノ保安局長はその時、カーティスにサンチアゴ要塞の財宝地図を、そしてマニラのあとひとつの重要な場所、ボナファシオ橋の財宝地図をこっそりと渡すよう頼んだ。カーティスがきっぱりと拒絶した時、国家保安局長は厳しく非難した。彼はカーティスに、直ちにフィリピンから出て行かないと、アキノ大統領にIPMに与えた金塊探索の許可を取り消させると言った。もしカーティスが協力するなら、ソリアーノ保安局長はカーティスをいずれ呼び戻しただあろう。もし彼が退去を拒否したなら、彼は逮捕され、彼に対し告訴状が提出されただろう。
顔をゆがめて彼は荷物をまとめアメリカへ帰った。大陪審証言によると、カーティスが去った時、ソリアーノ保安局長とマクドゥーガルは全面的な協力者としてウイッテンバーグ(自称建築業者)を雇い、サンチアゴ要塞での発掘作業を進めた。チームのメンバーは、彼らが二四本の小さな金の延べ棒、金貨・銀貨、宝石の原石を詰め込んだドラム缶を発見したと証言した。カーティスが穴を開けていた主たる目的物はそこから数メートル下にあった、しかし、彼らは程なくその上に到達したのだろう。彼らはまた、ボナファシロ橋で掘り始めたが、そこにウイッテンバーグ(自称建築業者)を責任者として配置した。一九四二年に、パシグ川に架かるこの鉄道橋は、アメリカ軍の退却の時に爆破された。橋はすでに落ちていたがその大きなコンクリート製の橋脚台はまだもとの場所にあった。
その後に、ゴールデン・リリー部隊はひとつのコンクリートの橋脚台の下に深い貯蔵場所を掘り、おばけ金庫の中に五十㌔の金の延べ棒三百四十㌧分を隠した。(一九八八年の相場で45億ドルの価値である)、貯蔵物はもともとのコンクリートに似た厚板で隠された。彼にとって不運だったのは、カーティスは彼のパートナーに、貯蔵庫の側面から掘削すれば突き破るのは簡単だとはっきりと言っていたのだ。彼がその場所で単独の作業をいつも避けたのは、近くにハイウエイがあり、人目につきやすかったからだ。アキノ政府がタイミングよく、ハイウエイのルート変更をしたので、ウイッテンバーグ(自称建築業者)、マクドゥーガル、そしてソリアーノ保安局長は全ての通りかかる車やトラックに見られることなく、掘削装置を使うことが出来た。ソリアーノ保安局長は公式の許可を手配し、数人の無断居住者を追い払った。バオンファシロ橋での作業は、カリフォルニアの投資家のクレイグネ・ ルソンが、十万ドルを出して、直径六フィートの穴を開けられる掘削機を持ち込んだため急速に進んだ。十一月の三十日までに、彼らは橋脚の下、百七十フィートまで進んだ。ネルソンが進行をチェックするためその朝現場に到着した時、彼はアーニー・ウイッテンバーグ(自称建築業者)が大変興奮しているのに気付いた。「ジャップに触ったぞ!」、とウイッテンバーグ(自称建築業者)はわめいたが、それは、彼らが目指すものにたどり着いたことを意味する合言葉だった。
ネルソンは後に証言した。「アーニー・ウイッテンバーグ(自称建築業者)は我々に、エレベーターで穴の下に下りた時、はっきり見える八台の金庫のうち、二つに触れたと話した。」、ネルソンが言うには、ソリアーノ保安局長は発見した金塊を運ぶため、陸軍のトラックを持ち込む腹だった。金塊がたいへん重かったので、一回分として、たった二五本の金の延べ棒がエレベーターで運び上げられた。そこには、六千本以上の金の延べ棒があったのだ。ソリアーノ保安局長は直ちに太平洋横断電話をマクドゥーガルにかけ、マクドゥーガルはカリフォルニアへの旅行を切り上げてマニラへ飛んで帰った。翌日ネルソンは言った。「マクドゥーガルが言うには・・・・、私(ネルソンのこと)はアーニー・ウイッテンバーグ(自称建築業者)を誤解していたに違いない、・・・・アーニー・ウイッテンバーグ(自称建築業者)は、実際には金庫を見ていなかったのだと。」、ネルソンは言う、「マクドゥーガルは、自分たちは金庫の入った部屋にはまだ到達していなかったと主張したのだ。」
ネルソンは自分が騙されていたことを知り、探索場所に戻り調べようとしたが、掘削機の支払いまでさせておきながら、入ることも許されないことに気づいた。すべてのフィリピン人作業員は家に帰され、橋周辺の警備は二人の重装備したアメリカ軍特別部隊に引き継がれていた。二人はマクドゥーガルの知人で、一人はこの警備のために通常任務から休みを取っていたと言われている大佐である。マクドゥーガルはすべての関係者に、水が穴に溢れてしまったのでこの計画をあきらめなければならなかったと言った。リザル州の警察局長であるキャンソン大佐によれば、マクドゥーガルに二台の軍務トラックをあてがったのは、一九八八年一二月二日から六日までの五夜、深夜から朝の五時までである。他の情報筋によると、多くの装甲車もまた参加していた。目撃者は、トラックと装甲車がボナファシロ橋からサンチアゴ要塞へ大量の荷物を運び、そこで荷物がパシグ川ではしけに乗せられたと主張している。その後、マニラ国際空港の保全倉庫で三百二十五㌧の金塊が売りに出ているという噂がひろまった。計算と合わない金塊は十五t以下だった。回収事業に関わった残党たちはお互いに攻撃しあった。資金調達者のジョージ・ワーティンガーはネヴァダの連邦大陪審で、総計百五十万㌦の麻薬マネーがアーニー・ウイッテンバーグ(自称建築業者)によって、砦や橋での掘削作業につぎ込まれたと証言した。ワーティンガー(資金調達者)は、「マクドゥーガルとソリアーノ保安局長のふたりとも麻薬マネーだと承知していたさ。
マクドゥーガルは、『いいかい、これがマスコミに流れたりしたら、・・・・ソリアーノ保安局長はまずいことになるよと』、と言ったんだ。麻薬マネーだったさ。私が言っている意味は、海の向こうのアメリカでマスコミにもれたら我々ははりつけになってしまう、ということだ。」と証言した。実際、マニラの新聞が、ウイッテンバーグ(自称建築業者)の麻薬マネーの幾ばくかがソリアーノ保安局長の個人口座に移されたと報じた時、アキノ大統領は一九八九年二月十五日付けでソリアーノ保安局長が国家安全顧問を辞任するよう要求した。ワーティンガー(資金調達者)はまた、ウイッテンバーグ(自称建築業者)は、マクドゥーガルがマニラに買った新家屋に備える家具の五万㌦の支払いをし、マクドゥーガルがサン・フランシスコに買った新家屋のために資金援助をしたと証言した。そして、ワーティンガー(資金調達者)は、ウイッテンバーグ(自称建築業者)はまた、ソリアーノ保安局長とマクドゥーガルそれぞれに現金五万㌦を与えたと証言した。それから大陪審はマクドゥーガルを召喚した。政府の検察官はまず、マクドゥーガルのサン・フランシスコにある新家屋の没収を要求した。しかし、マクドゥーガルは司法取引で、彼の事業パートナーについての報告書を準備するよう説得された。マクドゥーガルの証言に負うところが多いが、ウイッテンバーグ(自称建築業者)は裁判を受け、麻薬売買のかどで終身刑の判決を受けた。映画「黄金」(シエラマ・ ドレ山の財宝)のハンフリー・ボガートや相棒たちのように、すべてのこれらの男たちは金塊に取り付かれ、お互いに攻撃しあった。しかし、その場で預金として金塊を受け入れて、手品師みたいに金塊を消えてなくした国際バンカーに比べると、彼らは取るにたりない雑魚みたいなものだ。(訳注、この章は人名がややこしいので、大変わずらわしいとは思いましたが、ウイッテンバーグ(自称建築業者)、ソリアーノ保安局長、ワーティンガー(資金調達者)について、あえて区別をつけるため属性を書き込みました。
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>>7391
黄金の兵士 第一五章 なぞの解明
戦時略奪金塊の回収や秘密の裏金を隠すための偽情報が続いた半世紀の後、調査や訴訟、情報漏洩や大失敗などから、論争の余地のない明白な証拠が出現しつつある。マルコスが権力を失うまで、日本の略奪品の存在は事実とかけ離れているとうまくごまかしてきた。もし、日本の略奪がほとんどなかったと言うなら、略奪品がどうなったかをどうして尋ねるのだろう?しかしながら、マルコス家はあるときアメリカの領内で回収された財宝を窃盗し横領したこと、その財宝に係わる人権侵害、不公正な商売をしたかどで訴訟され、攻撃を受けた。裁判所で次に明らかになった新事実は、秘密のベールを押し上げ、アメリカ政府の秘密行動が予期せず露見することになった。レーガン政権のイラン・コントラ事件中の被害対策についての不手際は、とりわけこれまで知られていなかった違法な活動や、民間の軍事情報会社の組織がアメリカの外交政策や国家安全保障を私物化しようとしたことを明らかにした。
彼らの真の目的が、法律問題をうまく避け、議員による調査を避けることにあることが明らかになった。二十五年間、サンタロ・ マーナの後継者(相続人)もまた捜査の妨害をされたが、アメリカの銀行に隠されている多くの金塊を回収するために訴訟を起こした。金塊の多くは我々が今示しているようにまだ銀行に眠っている。確かな証拠としてのかなめとなる事例は金の仏像である。なぜなら、これがアジアでの日本の略奪行為と、この略奪品の戦後の回収を証明する間違いのない基本的な物証なのだから。この証拠はハワイのアメリカ法廷で陪審員団に示され、それは歴史上、金額としては最大のものである。それは次のように起こった。数年間姿を隠した後で、ロジャー・ロクサスは一九八八年に再び登場した。マルコスはホノルルで自宅軟禁状態にあったので、ロクサスは訴訟を起こし、一九七一年に自分が盗まれた金の仏像と金塊を取り戻しても安全であると考えた。彼はジョージア州アトランタの近くに住む子供時代の友人フレックス・ダキャニーと連絡を取った。彼はアメリカ社会で成功しており、アナポリス海軍兵学校に通う二人の息子がいた。ロクサスを守るために彼とダキャニーは、「金の仏像会社」、つまりGBCを設立し、ロクサスはGBCに財宝における彼の権利を譲渡した。ロクサスはもはや要求に対して支配権を持たないので、脅されたり権利を騙し取られることはあり得ないだろ。ダキャニーのジョージア州の弁護士は外部の助けを探し、ロサンゼルスにある有力なダニエル・キャスカートの会社と合意に達した。一九八八年二月に、キャスカートはホノルルのマルコスに対し、殴られたり拷問されたりしたけがの補償も含んだ損害賠償を求め訴訟を起こした。訴訟では、マルコスはロクサスから金の仏像、ダイヤモンド、金塊を盗み、ロクサスが発見のため数年を費やしたトンネル(坑道)から多くの金塊を持ち去ったと訴えた。法的に言えば、ロクサスは、金の仏陀、ダイヤモンド、そして彼が家に持ち帰った金塊だけでなく、後に、マルコス側兵士によって貯蔵場所から回収された日本軍の戦争略奪品のすべての発見者なのである。ハワイでマルコス一家は嘲笑していた。軍副官のアルツロア・ ルイザは報道陣に、「山下将軍の金塊話は十六年前に出てきた夢物語だよ、・・・フィリピン上院による調査も行われたが、何にも出てこなかったじゃないか。十六年も前に却下した話さ、もううんざりだね。」と言った。
キャスカート弁護士の会社は七年をかけ、フィリピンに日本人の盗賊がいたこと、ロクサスは中味の詰まった二十二カラットの金の仏像とインゴットを発見していたこと、マルコスはその金の仏像とインゴットを盗み、それをもみ消すためロクサスに拷問を加えたことを立証する目撃者の証言を集めた。目撃者を突き止める過程でいかにして略奪品が島内に隠され、いかにして略奪品をマルコスが回収し、いかにしてマルコスが世界市場へ金塊を持ち込むためアメリカ政府の助けを借りたのか、という日本軍の略奪品の全貌に係わる証拠が大量に浮かび上がってきた。これら全ては書類、宣誓供述書として集められ、その多くはビデオテープの形に保存され、結局は大きな部屋をいっぱいにするほどの量だった。
取材調査は、キャスカート弁護士に雇われたロサンゼルスの元気のいい私立探偵アーリーン・フリードマンによって行われた。彼女にとって、ロクサスが最初に話した話は全くの夢物語だった。山下将軍の金塊は量があまりにも莫大で、ドルに換算すると大変な額だったのでにわかには信じられなかった。陪審員団を納得させるために、キャスカート弁護士と探偵フリードマンは表に出たがらない(世評を避ける)金のブローカー、秘密にしておくことを切望する財宝ハンター、殺害されることを怖がる目撃者を突き止めた。小柄な女性だけれど非情な探偵フリードマンは、第二次世界大戦以来、何が多くの調査人を威圧し、何をたくみに避けてきたかを明らかにし、その過程で日米政府のもみ消し工作に関する驚くべき発見をした。「その調査が合法で私に精神的荒廃をもたらさない限り、私は情報を得るためならどんなことでもするわ。それが無口女や、浮気女の振りをすることでも、シャーリー・テンプルの衣装を身に着けることだとしても、私はやっちゃうわ。」とフリードマンは私たちに言った。
キャスカート弁護士がフリードマンを呼び出しロクサスに会った時、彼女はロクサスのでこぼこで不恰好な形の顔と、突き出して失明した左眼にギョッとした。(マルコスの暴漢にゴムの槌で殴られた後遺症である左眼の件は第10章で報告されている)キャスカートは五日間に渡ってロクサスに余す所なくインタビューをした。ロクサスの記憶から、やっと細かなことまで聞き出して、キャスカートは何が行われたかを知っている十人の人間がまだ健在だろうと結論をだした。キャスカート弁護士は探偵のフリードマンに、その十人のひとりずつを徹底的に調べるよう依頼した。多くの年月が過ぎていたので調査は簡単ではなかっただろう。ロクサスはフィリピンに配置された一人のアメリカGIを思い出した。彼はバンギオにあるロクサスの家を訪ねて、金の仏像が盗まれる直前にその仏像と一緒にロクサスの写真を撮ったのだ。そのGIの名前は「ティム」か「チテム」だったようだ。フリードマンは国防総省の記録を熟読するうんざりする作業を始めた。
一年以上たって、彼女はケン・チーザムにたどりついた。彼はラスべガスのホテルで夜の警備員として働いていた。「それはユーレカ!(わかったぞ!)のようなものだったわ」と彼女は言った。チーザムが後に陪審員に語ったことによると、千九百七十年代初め二十六歳だったチーザムはクラーク基地に配置された空軍情報将校だった。アマチュアの財宝ハンターのチーザムは山下将軍の金塊の話に興味をそそられて、日本軍の隠匿場所をさがすためバギオに車でやって来た。この時がまさにロクサスが金の仏像を回収し家に持ち帰った時で、行楽地では現地の人間達がなにか驚くべきものを見つけたといううわさで持ちきりだった。チーザムはドアをノックし、自己紹介をした。二人は、ジーン・バリンジャーが運営する同じ財宝探索クラブのメンバーだった。ロクサスはチーザムを奥の寝室へ連れて行き、金の仏像を覆っているベッドカバーを取りはずした。金の仏像はまだ頑丈な紐でぐるぐるに巻かれていた。チーザムはカメラを取り出し、ロクサスと仏像とチーザム自身も一緒に写真を撮った。それはチーザムがそこにいて、金の仏像が存在したことの反論できない確かな証拠だった。
クラーク基地へ帰って、チーザムはロクサスと金の仏像が写っている写真を同封してバリンジャーに手紙を書いた。バリンジャーは財宝探索人の会報に、回収に関する記事を発表したが、間違ってチーザムをロクサスの相棒として扱っていた。この話は有線ニュースに取り上げられ、また、アメリカ軍事新聞、スター・アンド・ストライプにも紹介された。マルコスはその記事を見て、かんかんに怒った。チーザムは基地の保安部に呼び出され、そこでCIA将校とマルコスの代理人と対峙した。チーザムは探偵のアーリーン・フリードマンに「CIAの奴は、その仏像は純金製ではないと言えと言った。話を控えめにしろと言ったのだ。そうすればマルコスがお前への関心を緩めるだろう。お前がこの件に関与するなら、船でヴェトナムに運んでしまうぞと言ったのだ。」と。チーザムは怖がった。CIA将校の無理強いするとおり、仏像が金で出来ていないことを証明する供述書に署名をした。
チーザムはキャスカートに、その時からずっと仏像は真鍮製であり、とにかく純金製ではないと嘘を言ったと話した。ハワイでの裁判で、チーザムの写真は、ロクサスが動かせる頭部のついた仏像を所有していたこと、マルコスによって急いですげ替えられた固定した頭部のついた真鍮製の仏像とは違ったというはっきりした物的証拠を提供したことになる。次に、キャスカートとフリードマンは金の仏像を盗んだのはマルコスだったことを立証せねばならなかった。ラスべガスでフリードマンはロバート・カーティスと接触し、結局カーティスは一本の長い宣誓供述の入ったビデオテープを彼女に与えた。ビデオテープには、一九七五年に彼とマルコスが多くの時間をどのように過ごし、動かせる頭部を持った純金の仏像をマリベレスの避暑用宮殿内の大統領執務室で見たことが述べられていた。カーティスは、自分はその仏像を念入りに調べ、頭部のねじを廻し、冶金学者として仏像は純金製と確信できたと証言した。チーザムの撮ったカラー写真をみてカーティスは、写真の仏像は彼がマルコスの避暑用宮殿で見たものと確かに同一だったと証言した。(この仏像には形・色・細部において間違えようのない独特の特徴があった。)
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>>7392
弁護士ダニエル・キャスカートはまた、仏像は本当に純金製だったのかという疑念を振り払う立証をしなければならなかった。その立証の答えは、フィリピン人の金細工職人のルイス・メンドーサによりなされた。彼は一九七一年にロクサスの家で仏像を検査しており、仏像の首に近い背中に小さな穴を開けて必要な検査が出来るように金粉を取り出した。メンドーサは、検査の結果、仏像は当時のアジア標準で二十二カラットだったと証言した。金の仏像はさておき、ロクサス自身が後で回収しようとトンネルに封印していた金の小さな延べ棒や数千の金塊が盗まれたのだ。フィリピン人の軍隊料理人のジュアン・クィジョンは、マルコスとバー将軍によって一九七二年に作られた陸軍チームで、ひそかにフィリピンの財宝隠匿場所を発掘する「回収特別作業班」に配属されたとホノルルの法廷で証言した。クィジョンはほぼ一年間(一九七四年~一九七五年)、バギオの病院裏でトンネルを掘る兵士たちと共に過したが、そこでロクサスは金の仏像を発見していた。クィジョンは一度に三、四人の男たちが大きな木の箱を運び出すのを見ていた。クィジョンはいくつかの腐った箱が壊れ、大きな金の延べ棒が地面に落ちるのを見た。延べ棒はひとつの箱に三本入っていた。金の延べ棒の入った箱が十二か月の間、一日に平均十箱がトンネルから運び出されたとクィジョンは言う。病院の職員もこの間の作業を見ていたので、この事実を追認している。
クィジョンが言うにはイゴロト族の男たちは大変過酷な作業をしたのだと。全ての金の延べ棒が運び出されたときに、イゴロト族の男たちはトンネルに連れ込まれ、撃ち殺された。目撃者としての彼らを抹殺するためであった。マルコスが、知られているフィリピンの金の備蓄よりもはるかに上回る莫大な量の金塊を所有していたことの証拠として、探偵フリードマンは、一九八〇年代の初めに、一兆六千三百億㌦の金を売るための九件の契約をマルコスと結んだ二人のオーストラリア人の仲買人を突き止めた。陪審員にとって満足のいくものだったのだが、二人は金塊の取引は行われ、作り話ではなかったという裁判記録を立証した。二人が提供した証拠文書のおかげで、マルコスが本当に一兆六千三百億㌦相当の金塊を所有していて、本当に売ったのかどうかという疑念を払拭することになった。オーストリア人の仲買人は、マルコスを訪ねたとき、目隠しをされて倉庫に連れて行かれ、そこで目隠しをはずした時倉庫は金塊でいっぱいだったと証言もした。ラスヴェガスの投資家であるノーマン‘トニー’ダカスはフリードマンに対し、フィリピンに行くとマルコスは、彼をアメリカにあるラシュモア山公園のようなマルコスの記念館を建設しているアポ山に連れていったと言った。
大統領の息子のボン・ボンがアポ山の秘密のトンネルにダカスを連れて行き、そこで、金の延べ棒や他の財宝の入った箱を見せた。ボン・ボンはこの金塊がCIAの指示で米国軍によってフィリピンから飛行機で運び出されるのを待っていると説明した。投資家ダカスはマルコスの上級情報将校の一人、ピメンテル大佐と結婚によってつながりがあるので、専門の情報通だった。ピメンテル大佐は多くの金塊取引の段取りをつけ、自ら金塊を目的地まで「アンブレラ」の上級メンバーとして送り届けた。第十四章で述べたとおり、ダカスはピメンテルとマルコスを助け、ルクセンブルグの金塊取引の仲介をし、見返りに莫大な手数料を受け取っている。金の仏像事件に関する多くの探偵フリードマンの調査は図書館と公文書保管所の中での大変な作業だった。そこで、彼女は資産とビジネス記録に関する数万ページをゆっくりと読み進んだ。記録文書の調査を始めたことがフリードマンに危険を招くことになった。ある朝、彼女が駐車場入り口の階段に入った時、一人の男が彼女を後ろから掴んだ。「話がある。おとなしくしろ。」、彼は言った。彼女はパンチをお見舞いし、逃げ道を作り、二、三の傷と打撲を受けただけで逃げ出した。
センチュリーシ・ ティのグラスタ・ ワーにある弁護士キャスカートの八階事務所は侵入され、盗聴器が仕掛けられた。機密保護の専門家は、盗聴はマルコス一派がやったのではなく、アメリカ政府がやったものだとキャスカートに説明した。というのは、アメリカ政府以外に誰も使わないほどのハイ・テク機材を使っていたからである。彼の法律事務所は向かい側の高層ビルに待機するチームにより常に監視下にあったのだ。
金の仏像の公判がようやく千九百九十三年五月二五日に決まった。裁判の日が近づいたので、キャスカートはロクサスに身を隠すように言い、マニラからホノルルへロクサスを連れて行くためのボディガードを手配した。五月二十四日に、キャスカートはロクサスに電話をかけ、すぐにハワイ行きの飛行機で飛ぶように指示した。「一時間半後に彼は死んでいたんだ。」とキャスカートは言った。ロクサスの未亡人と多くの知人はロクサスが毒殺されたと信じている。未亡人が説明したのは、彼女の夫ロクサスは疲れて元気がないように見えた。二人が身を隠していたアパートの階下にあるパン屋に彼女が行ったとき、身なりのいい男性が近づいてきてロクサスのために無料の薬を上げようと申し出た。ロクサスはその錠剤を飲んで死んでしまったのだ。
二、三時間後、キャスカートや探偵フリードマンと知り合いのCIAの情報提供者がマニラからキャスカートの法律事務所へ電話をかけ、フリードマンに、「おまえの依頼人は死んだぞ。毒殺された。イメルダがそれを命じ、我々が実行したのだ。」と伝えた。その知らせにキャスカートは肝をつぶした。「私はロクサス夫人に、残っている薬を国際便ですぐに私のところへ送るようにと指示したんだ。しかし荷物が到着した時、封筒の中は空っぽだった。」とキャスカートは言った。キャスカートはすぐに死体解剖を手配したが、それは不可能だった。ロクサスは慌ただしく火葬されていた。「検視官は毒物検査をこれまでやったことがないし、ロクサスの死因について本当の事を話すことはなく、ロクサスは結核で死んだと断定したのだ。」とキャスカートは言った。
何度も延期されながらもようやく裁判はホノルルで始まり、陪審員は金の仏像、金の延べ棒でいっぱいの部屋、数千トンの金塊の取引について目撃者が述べるのを聞いた。フィリピンにあるいろいろな日本帝国軍の財宝隠匿場所に関する審議のなかで、ある時イメルダ婦人自身は、マルコスが自分の倉庫に所有していた金塊は「こうした隠匿場所のいくつかから持ってくる事はできた。」と証言した。ロクサスファミリーのメンバーは、イメルダ婦人から数千ドルの支払を受けたロジャー・ロクサスの兄弟、ジョセ(ホセ)は、ロクサスの仏像は金製ではなくただの真鍮製だと述べる嘘を言い、偽証したと証言した。公判中に、陪審員はホセの背中にある大きな文字の刺青が写っている写真を見せられた。金製の仏像の発見者の兄弟 国際ニュースフィリピン こうしたすべての証言から、日本軍の戦争略奪品がフィリピンに隠され、ロジャー・ロクサスがその主要な隠し場所を発見し、金の仏像は純金製であり、その財宝をマルコスが盗み、回収された略奪金塊のうちの数十億㌦分をマルコスが大きな金塊取引で売ったことなどが明らかになった。陪審員はロクサスとその相続人に対して有利な裁定して、マルコス家に対し、金の仏像会社(GBC)に四百三十億㌦の賠償金を払うように裁定した。四百三十億㌦という金額は当時史上初の大きな民事判決だった。(二百二十億㌦+窃盗以来の単利一〇%)
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後に上告で、ロクサスのトンネルからマルコス一派の兵士が回収した木製の箱すべてに何が入っていたかを確実に知る者は誰もいないと言う主張を基に、この賠償金は二十二億㌦の低い額に減額された。この案件は現在キャスカートがハワイ最高裁判所へ上告し審議中である。スイスのチューリッヒの主任政府任命検事はジャーナリストたちに、金の仏像自体は、チューリッヒ・クローテン空港地下の特別保管室のマルコス金塊貯蔵所にあったと断言した。アメリカ人の陪審員はこれ事態、議論の余地のない明白な事実だと判断しているものの、日米政府はそれを否定し続けている。
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ロクサスの訴訟に勢いを得て、他の被害者たちが名乗り出た。一九九九年に、ロクサスのトンネルや他の隠匿場所から金塊を運び出したフィリピン人兵士たちが、マルコスの財産に対し異議申し立ての訴訟を準備した。ほぼ百人の兵士たちが署名をした宣誓供述書によると、彼らは国家史跡の復旧作業を装った大掛かりな発掘作業を行い、数千トンの金塊、他の貴金属、大量の宝石用原石を回収した。マルコスは発掘場所にやって来るときにしばしば日本人を連れていたと兵士たちは証言した。彼らの最初の大きな発掘成功は一九七三年でラグナ州ルンバンのカリラヤ湖の近くだった。そこで掘削機のひとつが、いくつかのコンクリート製貯蔵庫を始めて掘り当てたのだ。掘削機をがんがんと何度も使い貯蔵所の一角を打ち破り、七五㌔の金の延べ棒を掘り出した。マルコスは「いいか。ここにあるすべての宝は全員で共有するのだ。しかし、分配は時機が来るまで待たねばならない。」と彼らに言った。時機は決して来なかった。他のコンクリート製の貯蔵庫が発掘された時、それは6フィートx5フィートx5フィートの大きさだったが、巨大なクレーンが貯蔵庫を吊り上げ大きな陸軍の戦車輸送車に乗せ、輸送車は秘密の目的地まで運んだ。一九七四年から一九七九年まで、兵士たちはリザル州にあるすべてのゴールデン・リリーの隠匿施設であるモンタルバン、アンティポロ、バラスそしてテレサで発掘作業をした。一九七四年のテレサ1地区の発掘は彼らの失敗だったが、翌年のロバート・カーティスがテレサ2地区をうまく発掘することにつながった。彼らは活動をマニラの古い壁に囲まれた市街、イントラムロスに移し、続いてサンティアゴ要塞に移した。そこで百個以上の財宝の箱を回収したと兵士たちは言った。兵士たちの宣誓供述書によれば、金の延べ棒の入った仕切り箱はマニラ国際空港からC1- 30軍用機を使ってフィリピンから運びだされた。「アンブレラ」の組織としてバー将軍がマルコスのために保有し運営しているタマロー保安サービス社が手配し、金塊のいくつかがキャセイ・パシフィック航空、アメリカン・プレジデント汽船会社により商業的に輸送された。これは、我々が先の章で詳しく述べたことやロバート・カーティスや他の人間が別々に証言で述べた事とは別個の共同作業で、回収チーム自身により行われた。
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サンタロ・ マーナの休眠銀行口座は彼の相続人に対して特別に高金利であったし、又、エンタープライズやアメリカ財務省、そしてサンティの現金と金塊を保有している主要銀行に対しても同様であった。このようにいろいろな言い争い、策謀、中傷があり、彼等はたいへん興味深い訴訟に巻き込まれることとなった。ばらばらに見ると、その断片はとても興味深い。しかし、まとめて見るとそれらは驚くべき物であり、しかも政府の記録で立証されているのだ。
サンティが死んだ時、サンティーは十四人の相続人に、弁護士が五百億ドル以上の価値があると評価した財産を残した。銀行に預けられたサンティの資産を回収しようとする彼らのすべての努力は、妨害されるか、しばしばうまくはぐらかされた。三人の主な相続人はサンティの会社の会計士で、資産確保のための活動をしているタルシアナ・ロドリゲス嬢、内縁の妻のルツ・ランバノ、そして成人した娘、フロデリーザである。なかなかうまくいかないため、彼らは高名なサン・フランシスコの弁護士、メルヴィン・ベリ、ニューヨークの弁護士、エレノア・ピール、元CIA副長官、レイ・クライン、そしてアメリカの著名な銀行家シティバンクのCEOのジョン・リードに助けを求めた。
フロリダのロビイスト、ジョージ・デポンティス、元バハマ最高裁判所判事レオナルド・ノウルズ、ワシントンの弁護士ロバートA.アカーマンもまたこの仕事に関わった。サンティの資産があまりにも大きいので、そしてその秘密性ゆえ、内縁の妻ルツ、会計士タルシアナ嬢そして娘フロデリーザは回収活動のなかで考えられるありとあらゆる妨害を受けたようだ。アメリカ政府とアメリカの銀行はサンティの資産をそのまま残しておきたかった。それはスイス政府も、スイスの銀行も、香港や他の金融センターにある銀行も同様であった。もう数年もたてば、サンティにつながりのある全員が死に、サンティの現金と金塊は銀行の中で何も手をつけられないまま残ることになるだろう。ちょうどホロコースト(ユダヤ人大虐殺)で奪われた金塊のように。アメリカ政府にとって、事実を隠蔽しておくことは関係する資産が膨大だからだけでなく(Schlei 事件の時のように)、弁護士が証拠開示を求めるのを妨害するためにも必要なことである。証拠開示はサンティの財務資料よりはるかに多くのことを明らかにできるのだ。もしかすると、証拠開示によって隠された戦時略奪金塊の回収の目的すべてが公開されることにつながる。M資金と同じく闇の金を不正目的のために使うようになった黒い鷲信託のように。このことは名声や経歴に傷をつけることになり、議会の会計監査室による調査を避けられないだろう。
フォード大統領は一九七五年に同じような問題に取り組み、CIAファミリー・ジュエル事件への関心をおさえるために、ロックフェラー委員会を立ち上げ、トルーマン以来のすべての米国大統領の名声が傷つくような情報が出ることを望まないと述べた。皮肉であるが、サンティの相続人たちは自分たちの貧乏を終わらせることに関心があっただけで、不正行為を暴露することに関心があったわけではないから、気前のいい和解金さえあれば二度と問題を持ち出さないという合意書に署名したであろう。けれども、銀行も政府も相続人を妨害することではいつまでもあいまいで強情のままだった。そのことは銀行や政府が多くの事を隠匿しているという確かな証拠なのだ。三人の主要な相続人は、サンティが相続人に与えた検認済み遺言書、預金通帳、銀行取引証明書、領収書、全ての必要なパスワード、暗号単語、秘密の口座番号などをこれらの銀行に示したが、反応は同じだった。四件の例外はあったが、銀行はそうした口座があることを否定したし、問題の口座が銀行の貸金庫なのか大きな金塊保存庫なのかの回答も拒否した。
例えば、我々のCDに複製されているUBS(スイス連邦銀行)の書類によれば、UBSにあるサンティの最大の単一口座には金塊で二万㌧があった。この口座はサンティの死んだ時、魔法を使ったように名義がサンティの持つクラウン・コモデティ・ホールディングから、エドワード・G.ランズデール少将(Landsdale:原文ママ)に変えられたのである。スイス銀行が行った意図的なスペル間違いは暗号の要素だということを記憶しておいても良いだろう。ひとつの可能性として、この怪物口座に関して、サンティは黒幕の手先にすぎず、もう一人の手先、ランズデール将軍が取って代わったということである。どうだい、どこかの政府以外に誰がスイスの大銀行でそれだけの変更をするだけの大きな力を持てただろうか?UBS(スイス銀単) 独で変更をしたとしても、新しい名義人として不適切なランズデール将軍を選ぶとは思えない。とは言え、一九七四年まで一〇年間ランズデールは政府の埒外にいて、エンタープライズ組織の創立者の一人だったし、アメリカの最富裕で保守の大物の幾人かと親密な仲間だった。もしランズデール将軍とサンティがこの巨大なUBS口座の支配権を共有していたら、UBS(スイス銀に) 名義をランズデールの名前に変更させることも可能だったし、それなら口座を彼の仲間がアクセスするのも可能だったろう。たぶん、アメリカ政府は関与していなかったのではないか。金一オンス三百㌦として、この口座には千九百二十億㌦の価値があり、ビル・ゲイツの正味の資産よりはるかに高額である。この金額は信じられるだろうか?信じられるのである。もしもこの口座にアメリカ政府の多額な闇の金が含まれている秘密口座としたらである。
ちょうどまじめな偽札つくりが馬鹿げたスペル間違いをしないと同じで、正気な詐欺師が口座を巨額すぎるとは考えないだろ。ロクサスの金の仏像事件を思い起こしてもらえば、マルコスがオーストラリア人の仲買人を通し、金塊を千六百三十億㌦で売却したことを証明する証拠を陪審員が見たではないか。
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CDに入っている多くのスイス銀行幹部の署名入り資料群は、UBSが金塊やプラチナを含んで、しかもかなり多額である他の口座を所有していることを示している。そうした巨額の口座はサウジ・アラビアのファハド国王のようなとてつもない金持ちにとってみれば不可能じゃない。ファハド家は数十年間スイスに金塊を預けている。ジェミニ・コンサルティングによれば、世界的な民間銀行の資産は一九八六年、四兆三千億㌦だったが、二千年には十四兆ドルとなっていた。だからUBSのこの口座の金額もありえないことではない。UBSの資料によると、クラウン・コモデティ・ホールディングスはサンティのクラウンエンタープライズの子会社である。グループの代表はアルフレッド・P.ラモスで、彼はモナコに登録したサンティの会社ディアズ&ポイロッテ・エンタープライズの役員だった。ラモスは宣誓供述書で「私は故人のドン・セベリノ・ガルシア・サンタ・ロマーナ、ラモン・ポイロッテ、もしくはホセ・アントニオ・ディアズを『わが老いた父から』という暗号で知っている、そして、ひとたび仕事が始まれば終わるまで放りだすな、作業が大変でも簡単でもうまくやれ、できなければなにもやるな、ということも知っている。」と述べている。
この訓戒は、我々が見てきたように、サンティがランズデールから一九四五年に学んだものである。それはサンティが自分の自筆証書遺言で引用している訓戒と同じだ。その訓戒はサンティの銀行口座で一貫して暗号文として用いられた。半世紀以上たっての暗号文の再現は偶然ではない。ビデオに録画された会計士タルシアナ嬢とのインタビューによれば、サンティの死後すぐにランズデールはシティバンク・マニラ支店のサンティの口座からニューヨーク支店への金塊を移すという不可解な動きに巻き込まれた。たぶん、マルコスが差し押さえる前にフィリピンから持ち出しが行われたのだ。口座はサンティ名義なので、彼の資産管理を認められた受託者もしくは主席会計士タルシアナ嬢のような法廷代理人の資格を有する人間の承認がなければそのような移転は違法である。もしランズデールが法定代理人の資格を持っていたとしたら、いったい誰のために彼は行動していたのだろう。
ひとたびフィリピンを離れたこうした資産は、資料が示すようにサンティがすでに持っていたアメリカのシティバンク、チェイス、ウェル・ファーゴ、ハノーバーバンク他の金塊と現金の口座に加えられた。サンティの死後すぐに、サンティの自筆遺言証書はマニラで検認され、会計士タルシアナ、内縁の妻ルツと娘フローデリザが裁判所によって正当な相続人として指名された。ルツはアメリカへ赴きシティバンク・マンハッタン支店の口座の公開を要求した。そこで彼女は弁護士エレノア・ジャクソンピ・ ールに助力を求め、フィリピンの裁判所によって発行された行政証明書を預けた。こうしたことはニューヨーク裁判所に確認されるべきだった。弁護士ピールはサロゲート裁判所で行政の付属文書の発行を求めて仕事を進めた。その文書はシティバンク、チェイス、ハノーバーのサンティの口座へのアクセス権を内縁の妻ルツに与えるものだった。これにはずいぶん時間がかかった。内縁の妻ルツは自分の用件を他の銀行にも強く求めたので、弁護士ピールは関係するすべての銀行の頭取に手紙を書き、サンタ・ロマーナの口座について照会した。一行たりとも銀行は回答をしなかった。内縁の妻ルツはスイスに飛んで、2人のアメリカ人の友人とともにジュネーブのUBSを訪れた。アメリカ人のひとり、ジム・ブラウンによると、「私はルツともう一人のアメリカ人と一緒に座った。その間、ルツはUBS(スイス銀行の) 副頭取にサンティの金口座ナンバー「金口座7257」を示した。この銀行家はその番号が正しい口座番号だと認めただけでなく、その口座についてはよく知っていると言った。友人ブラウンはその副頭取がルツにこう話したと言う。「わたしはあなたがスイスにいる時に、この金口座の権利を主張することはお勧めできないね。なぜなら、スイスの銀行も政府もあなたがこの口座の中味を手にすることを認める前に、彼らはあんたを最初に殺しかねない。わたしはあなたがどんなスイスの弁護士を雇うこともお勧めできない。なぜなら銀行は簡単に弁護士たちを買収するからだ。」
UBSの副頭取が殺人の脅迫をしたという見方を冷笑するかも知れないが、それならクリストフ・メイリの場合はどうなんだということだ。チューリッヒのUBSで警備員として夜働いていた一人の学生が一九九七年一月に、シュレッダーにかけられる予定の非常に古い書類と本を発見した。その書類と本はナチの死の収容所で死んだ預金者の資産に関するものだった。彼は数ヶ月前スイス政府が銀行に記録文書等を処分しないように命令したことを知っていた。彼はいくつかの書類を持ち帰りそれをチューリッヒのヘブライ協会に与えた。あとでどうしてそんなことをしたのかと聞かれて、メイリはこの間、映画「シンドラーのリスト」を見ていたのだと答えた。「何かをすべきなのは分かっていた。」、と。一ヶ月後、書類が別の人間によって公表されたとき、メイリはUBSでの一万八千㌦の仕事を解雇された。UBSの頭取のロバート・ステューダーはメイリが国際的ユダヤ人の陰謀団より金をもらっていたことをほのめかした。「スイスの銀行にある、いわゆる物言わぬユダヤ人の金のこうした問題は、何度も頭をもたげてくるのだ。我々にとっては全く問題にならない。問題は第二次世界大戦後徹底的に議論され、我々は誠実に銀行のどの金がユダヤ人大虐殺の犠牲者に帰属するものかを調査した。なぜなら、この疑問を今回限りで決着させたかったのだ。われわれにとって、この事件は決着している。」
同様に、アメリカ国務省は一九五一年のサン・フランシスコ講和条約は日本人の戦争犠牲者のための賠償と補償の問題は解決済だと主張している。同様に、アメリカ政府とマルコス家は山下将軍の金塊の話はただの俗説にすぎないと主張した。UBSはシュレッダー事件を不幸な出来事と言ってごまかした。「経営幹部の誰もそのような決定を認めたことはなかった。」ロバート・ステューダーは全ての公職からはずされたが銀行の名誉会長のままだった。メイリは100回以上の殺しの脅迫を受け、妻や子供たちも脅迫を受けた。彼らはアメリカへ逃亡し、そこで隠れ家を与えられた。メイリはスイスの銀行によるナチの資産隠匿を調査している米国議会委員会の前で証言をした。上院議員アンソニー・ダマートーはクリストフ・メイリを国際的英雄と呼び、「犯人は資料をシュレッダーにかけるよう命じた連中だ。」と言った。怯えて意気消沈して、内縁の妻ルツはフィリピンに帰った。3年後、ルツと友人のブラウンは別の銀行と交渉するためにスイスに戻った。ブラウンの話では、この時二人はサンティの口座のひとつから累積した利息を回収することに成功したが、銀行は頑として金塊そのものを引き出そうとはしなかった。別の情報筋によると、ルツはこの回収を秘密にしていた、あまりにも長い間妨害を受けていたので、税金としてそのいくらかでも没収されるのはばかげたことだと感じていたからだ。一方、サンティ所有の会社会計係、タルシアナ嬢は香港にあるHSBC(香港上海銀行)のサンティの口座にアクセスしようと試みた。タルシアナ嬢はサンティの税金コンサルタントであった弁護士アルテミオ・ロブリンのアドバイスに従って、サンティの自筆証書遺言に言及されている口座の存在を確認するようHSBCに要請した。タルシアナがすべての必要な暗号、パスワード、書類を示した後で、銀行の役員は彼女に口座はまだ満期を迎えていないのでアクセスできない、一九八八年になってからもう一度来るようにと言った。次にサンティーの娘、フロデリーザは三和銀行香港支店のサンティの口座にアクセスを求めた。彼女は一九七三年に香港支店へ多額の現金預金を示す通帳を持っていた。最初、その三和銀行は一九七三年には香港に支店があったことを否定した。その時、あらゆる証拠書類が提出されたにもかかわらず、三和銀行はサンタ・ロマーナという顧客も彼の偽名を使った顧客もいないと断言した。コーリー・アキノが大統領になった時、アキノのスタッフがオーストラリア人の財務専門家ピーター・ネルソンに助力を求めた。専門家はコンピュータが打ち出したデーターとサンティの写真つきのパスポート四〇部を見せられ、「パスポートは多数の銀行口座と細かい点まで一致していました。・・・・・多くの口座の移転は、世界中の別のところに動かされる前に、まず香港で始まっていたのです。私は計算を進めながら頭の中で勘定をしていったのですが、四百億㌦は多すぎて数え切れなくなりました。私は木箱の写真を見せられましたが、そのいくつかは開いていました。もちろん、私はこの金塊の品質は保証できませんが、量的には十分保証しますよ。」、と述べた。
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708131 No.7396
>>7395
アキノ大統領の支援者の説明によると、サンティは自分の娘に資産の大部分を残していたので、娘のフロデリーザは地球上で最も裕福な婦人の一人になるはずだった。しかし、彼女が銀行に対し遺言書の意思を認定してもらおうとすると、パスポートに違った名前で載っている写真の男性のすべてが実際に彼女の父親であることを証明するように言われた。一方、銀行は金については有利な状態だったはずだ。財務専門家ネルソンは言った。「私は、フィリピンの友人に方法は別にあると言った。もし、フロデリーザが発見の見返りに、およそ5パーセントの手数料をフィリピン政府へ渡すことに合意すれば、フィリピン政府は彼女に一生使うことの出来る以上の金を彼女に与えるだろうし、政府は口座からの金塊回収の推進に力を入れるだろうと言ってやった。彼らは私に感謝をして、シドニーに飛んで帰った。」しかし何も起こらなかったし、フロデリーザは貧乏のままだった。
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最終的に全ての回収の努力をシティバンクに向けることが決められた。シティバンクはジョン・リードが会長でCEOであった。リードの指導のもと、シティバンクは個人の海外金融(原文はoffshore private bankingとなっている。もっと他に良い言葉がないものか銀行員の方に聞いたけれど訳せなかった。富裕層向けのコンサルタントを含む投資業務か?私には判らない)にしっかりと取り組むようになった。一千億ドル以上の海外預金額により、五千八百億ドルのUSB(スイス銀行)、二千九百二十億㌦のクレディ・スイスに次いで三位にランクされるまでになった。国から国へ金を動かすことで、海外の資産は債権者、元配偶者、相続人からの訴訟から守ることができる。資金洗浄、証券詐欺、または麻薬を含む事件を除き、多くの外国の裁判所はアメリカの裁判所の命令を認めようとしない。それで原告は口座がある国の裁判所を通してアクセスするため戦わねばならないが、結局、金はすでに別の裁判管区に移されたことを知るだけになってしまう。これが次に述べることの鍵となる。一九九〇年一二月、会計係のタルシアナ嬢はマンハッタンのシティバンク本部に出かけた。財務アドバイザーと立会人として活動する一人の友人を伴っていた。「私たちは案内されてジョン・リードに会いました。」と彼女の友人が言った。「私たちが口座に関する書類、パスワード、暗号文をリードに見せた時、その重大性に彼はびっくりしたみたいね。彼は真っ青になって、ひどくうろたえたの。彼の顔を見ればそれは一目瞭然だったわ。リードは会議室を急いで飛び出して行き、数分後、彼は数人のシティバンク専属の弁護士を連れて戻ってきたのよ。」リードと弁護士はタルシアナ嬢に翌日来るように伝えた。
「私たちが翌日会議室に入った時、リードは二〇人の弁護士と一緒に座っていました。そして、照会された口座は存在しないと私たちに伝えました。」、とタルシアナの友人は語った。再びタルシアナ嬢と友人は立ち去った。思いついたことがあり、二人はアルバニーに飛びニューヨーク州の税務署を訪ねた。公的記録の書類の中に、二人はサンティがニューヨーク州のシティバンクや他の銀行にサンティの名前や偽名、彼の所有する会社名で作ったすべての口座のリストを入手した(CDに複製済み)。二人はまた、こうした巨額の口座が生み出す利息にすべての州税と連邦税が免除されていることを発見したが、奇妙な税免除であった。シティバンクへ戻って、二人はもう一度リードと彼の弁護士連中と対決することになった。タルシアナ嬢と友人は、彼らにニューヨーク州の納税記録簿のコピーを見せ、銀行が嘘をついていて、口座は存在したことを証明した。タルシアナ嬢が持っていたサンティ自身の記録と書類によれば、シティバンクはサンティの財産である四千七百㌧の金塊を保有していたのだ。もはや、シティバンクはサンティの口座を持っていることを否定できないので、弁護士たちは二人の女に「契約の当事者」を連れてくるように素っ気なく言った。弁護士たちは当事者がだれのことかを明言する事は拒否したが、当然サンティの死骸のことだ。
弁護士たちはまたタルシアナ嬢には「法律で認められた」書類が必要だと言ったのだが、彼女はすでにその書類を見せていたのだ。弁護士たちは、シティバンクがフィリピン政府の金を引き渡したとしても責任を負わせることはないという声明を必要としていると言った。(またしても、銀行がその財産を保有していることを暗黙のうちに認めているということだ。)このことは、そのファンドがマルコスが盗んだ金塊であるとフィリピン政府が主張していることを暗示している、けれど、その口座はマルコスが権力をつかむはるか前にサンティが開いたものなのに。弁護士はイメルダ・マルコスの権利放棄を求めていると言ったが、それはマルコス・ファミリーが(現実であれ想像であれ)サンティの財産に対して要求をしてくるかも知れないと言うことを意味している。最後に、弁護士はマニラのアメリカ大使館の権利放棄を必要としていると言ったが、明らかにアメリカ政府の権利放棄を意味していた。こうした訳の分からない話は、銀行が次の対応を決めている間に、タルシアナの要求をかわすためと言うことは明らかだった。
対応を決めるのに時間はかからなかった。解決策は簡単だった。シティバンクはサンティーの全財産をシティバンク・ニューヨーク支店からバハマのシティ・トラストへと国外に動かそうとした。このことは金塊をニューヨーク裁判所の管轄外に動かす効果があり、サンティの相続人から行われる全ての訴訟を封じ込めようとするものだった。法的にはそうした財産は、口座所有者もしくは相続人、または譲受人(企業会計担当者としてのタルシアナを意味する)の承諾なしにニューヨークの管轄内から移転させることは出来ないはずだ。しかし、もし金塊が口座所有者も相続人も知らずに海外に移転されたのなら、回収のための負担は所有者と相続人にかかるだろう。金塊の大規模な搬送はまた、アメリカ財務省と連邦準備制度理事会が知ることもなく、承諾なしでも起こりえない。バハマ当局の承諾なしに金塊がナッソーに入ることも出来なかった。しかし、そうした障害を切り抜ける方法があったようで、たぶん金の所有者をシティバンク自体に帰することで、何人かの弁護士は「不適切な変更」と表現を弱めて屁理屈を言うのだろう。この海外での策謀は一九九〇年の終わりまで進められた。一九九〇年と言うのは、その話が銀行職員によってエンタープライズのメンバーに漏らされた時なのだ。シティバンクの動きを中止させる対抗策は元CIA副長官レイ・クラインとジョージ・デポンティスによって始められた。ジョージ・デポンティスは、引退した元バハマの主席判事レオナルドノ・ ウルズ卿との友情も含めてナッソーに強力なコネがあるフロリダのロビイストである。クラインがアメリカ政府の助けを必要とする場合、元法務省の弁護士ロバートA・ .アカーマンの助けを求めた。弁護士アカーマンを急がせるために、クラインはアカーマンに手紙、メモそしてファックスを含む多くの書類を与えた。一九九一年一月にアカーマンが書いた手紙によると、クラインは、いかにして「ランズデール将軍のフィリピン時代に」サンティが、日本軍の戦争略奪品を回収し、それを「四二ヶ国の、百七十六行の銀行」に移したかをアカーマンに説明した。
クラインが言うには、これらの口座には多量の金塊と現金があった。そしてアカーマンに、フィリピン人の原告、会計士のタルシアナとアメリカ政府で交わされた合意書つまり、アメリカ政府に帰属する金の多くがアメリカ政府に戻ることになる合意書の調停に関心があると言った。戦争金塊が戦利品であると主張されなかったのに、どうしてそれを盗まれた人々の所有ではなく、アメリカ政府の所有になるのかが不鮮明だ。そういう場合、なぜ半世紀以上も、秘密にされていたのか?また、クラインがどのようにしてサンティの相続人の所有であるべきものからアメリカ政府の所有になるものを切り離すことが出来たのかもあいまいなままだ。もちろん、クラインの緊密なCIAとのコネにより、その切り離しをやり遂げたのであろう。アラン・フォリンジャーによれば、「レイク・ ラインは我々に、サンティとランズデールの金塊回収に関するCIAの資料ファイルは必ず全てに目を通したと言った。」フォリンジャーが言うには、クラインはブレトン・ウッズでの秘密協定と、そこから生まれた「黒い鷲信託」のすべて、そして、いかにしてマッカーサー将軍とロバートB・ ・アンダーソンがサンティとランズデールを連れてゴールデン・リリーの隠匿施設を回り巡ったのか、そしていかにしてジョンJ・ .マックロイがM資金や他の政治活動資金の仕組みを立ち上げるキー・マンになったのかのすべて知っていたのだ。
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708131 No.7397
>>7396
クラインがCIAで長いキャリアを勤めたことから、彼がフォリンジャー、アカーマン等に話したことは信頼の置けるものである。第二次世界大戦の終わりに、クラインは国民政府の何を残存させるかを研究する若いOSSの分析官だった。彼はそこで三年間を韓国に関するCIA主席研究員として過し、ジョン・シングローブ、ポールヘ・ リウェル、ビルキ・ ャセイ(キャセイはウォール・ストリートヘ転出し、現在はダレス兄弟の仲間といっしょである)と手を組んだ。一九五八年から一九六二年の間、クラインは台湾のCIA局長をつとめたが、その職務は不正工作の責任者、フランク・ウィスナーから、彼が発狂する直前に引き継いだ仕事である。台北にいた時、クラインは東南アジア全域にわたる秘密の工作活動の責任を負っている。クラインは政治作戦学校(政治的戦争幹部養成学校)を設立し、そこではフィリピンや他の国からの訓練兵が教え込まれた。
「共産主打倒のために、非情であれ。」蒋介石が生きていた間、クラインは蒋介石大元帥の大酒飲みの息子、蒋経国(CCK)と友達になった。蒋経国は中国国民党の情報部局を支配していた。クラインは「彼の中心的な飲み仲間」になった。蒋経国が台湾総統として父親の跡を継いだ時、クラインの運命もそれに呼応して上向きになっていった。彼はアメリカ政府に戻り、機密情報収集を担当するCIAの副長官になった。クラインは歴史的な事情に精通し、金融面においても熟達していたし、多くの著名人を知っていた。クラインは個人的に戦時の中国国民党の秘密警察の長官、載笠(タイリー)将軍、上海の麻薬王、杜月笙(tu・yuehーsheng)、ヤクザの頭目、児玉、フィクサー笹川、岸首相、田中首相、CIAのウィスナーとキャセイ、ヘリウェル、ランズデール、サンタロ・ マーナ、マルコス、シングローブ、シュヴァイツァーと知り合いになった。
一九六六年に、クラインはジョンソン大統領と極東政策に関してひどく衝突したため、CIA副長官の職を解雇され、ボンのアメリカ大使館へ追放された。ジョンソン大統領が再出馬しないことを決めた時、クラインは帰任が可能になり、国務省の情報調査局長となった。そこでの彼の仕事はマルコス大統領の闇金の動きを監視する事だった。ビル・キャセイのようにクラインはいつも金融情報に特別の関心を払った。彼はハーバード大学とオックスフォード大学からみごとな学業信任状を受けている。一九七三年、台湾との極めて緊密な繋がりがあったおかげで、クラインはニクソン大統領が中国と和解することでケンカをし、政府部局からの引退を余儀なくされ、ジョージワ・ シントン大学の保守的なシンク・タンクの長となった。今やエンタープライズの陰の組織の要となる人物、クラインはレーガン大統領特別顧問となり、キャセイ、シュヴァイツァー、シングローブとは緊密に繋がっていた。香港での会合を録音した音声テープを聞くと、カーティスはおだてられてニッポン・スターの金塊回収を助けることになり、クラインの名前がたびたび出てきた。
クラインがイラン・コントラ事件の聴聞会で議会を前に証言した時、彼はフィリピンのシングローブ将軍を訪ねたかどうかの質問を受けた。クラインは、シングローブは空港で自分と会ったと言った。「シングローブとシュヴァイツァー将軍から十分に説明を受けました。シングローブがそこで、私の知っていた探査した場所に埋められている金塊や貴金属の回収のために調査をしていること、彼がこの財宝を回収出来る確かな兆候を掴んでいたこと、シングローブが財宝を回収しようとしているグループを代表していたことなどの説明です。シングローブとは財宝以外に議論したことはありません。シングローブは多くのものを私に見せました。また、そのことを信じさせることを話したし、シングローブが探査した埋蔵地域から多くの金塊や金が回収できそうだと感じたこと、回収がシングローブの唯一の目的だと話しました。私が知る限りの話です」。この証言からは、クラインが議会に対して言い逃れをしており、クライ
ンがアカーマンに話したことを打ち明けていないことが明らかである。彼の証言における基本的な歴史的地理的な細部が徹底して調査されたが、それらはアメリカ国民が何も知らない内容だからである。
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アカーマンの手紙によると、デポンティスは、最初はタルシアナ嬢がシティバンクにサンティの会社の口座に幾枚かの小額小切手を預金することを提案したが何も警戒されはしなかった。もしシティバンクが預金を受け入れたなら、シティバンクはタルシアナの身分をサンティーの会社の会計係として暗黙のうちに受け入れたということだ。その時にタルシアナが銀行に口座上のすべての取引に関する正規の明細書を彼女に送るよう依頼することが出来たのだ。もし銀行が明細書を送ってきたら、彼女は銀行口座にアクセスする法的権利を確立したことになり、口座からの引き出しを始めることも出来たのだ。ことがうまく運ばなかったので、デポンティスはバハマの裁判所にナッソーへの移転を防ぐために訴訟を起こす準備をした。訴訟を起こす前に、彼はシティバンクにある取引を持ちかけたと言った。テープに録音されたロバート・カーティスとの電話の会話の中で、デポンティスは、もしシティバンクがこの取引を受け入れたなら、かれは七十二億八千七百九十三万七千㌦になる一五%の手数料を受け取るはずだったと語った。手数料一五%だとすると、このことは全体の取引が大体五百億㌦になることを意味する。この額はシティバンクが国外へ動かそうとしていた額なのだ。デポンティスはテープのなかで、こうした多くの金が必要だったと言っているが、「レイ・クライン、アカーマン、こいつにもあいつにも金を返さなくては」ならなかったからだ。影響力をつけるために、デポンティスはタルシアナ嬢と内縁の妻ルツからの代行権限を受けることが必要だった。
千九百九十一年九月、タルシアナは十頁の個人的サービスについてのビデポンティスと取り決めに同意した。代行権限についても同意したのである。しかし、デポンティがシティバンクにタルシアナがたったの二千五百万㌦を手にするだけでよしとする提案をしたため、タルシアナはデポンティスと絶交したのだ。タルシアナは十二の銀行から数十億㌦を追い求めているので、シティバンクとそんなちっぽけな取引を受け入れることは危険な前例をつくることだった。それ以後、デポンティスはすべての活動を内縁の妻ルツの和解金を取ることにはっきりと集中した。一九九二年六月三日、彼はロバート・カーティスに「シティバンクは実にしぶとい、やつらは一流銀行になろうとしているぜ。」と言っている。数週間後、一九九二年七月、タルシアナ嬢と彼女の財務アドバイザーはシティバンクへ出かけ、CEOジョン・リードと彼の会議テーブルを挟んで顔を合わせた。二人はバハマへ移した金塊と現金の口座をニューヨーク支店へ戻すよう要求した。タルシアナ嬢によれば、リードは二人が資産が移されたことを知っていると分った時、再び「青ざめ動転し」、弁護士を呼んだ。またしても、女たちは得るものも無く立ち去った。こんな侮辱を受けたためタルシアナ嬢はシティバンクを追求しようと決めた。
彼女はデポンティスに再び自分の代行権限を任せた。エレノア・ピール弁護士はデポンティスから、バハマでの訴訟については今よりタルシアナ嬢と内縁の妻ルツの代理人となるという電話を受けた。千九百九十二年六月二十五日、一つの合意書がタルシアナ、ルツ、エレノア・ピール、デポンティス、レオナルド・ノウルズ卿、フィリピンの弁護士ゾシモ・バナーグにより作成された。その合意書はデポンティスが訴訟前に最後の取引条件をシティバンクに提案することを認めていた。彼らはシティバンクがバハマへ移していた金塊五百億㌦を当時の市場レートより五十㌦安い一オンス三百五㌦という有利なレートで購入する事を容認していた。シティバンクは、市場価格で金塊を転売でき莫大な利益を得ることになり、その上、不法な移転に対する訴訟を避けることにもなるのだ。シティバンクが提案を拒否したので、デポンティスとレオナルド・ノウルズ卿はバハマ裁判所に訴訟を起こした。エレノア・ピールはナッソーへ飛び、そこでデポンティスとレオナルド・ノウルズ卿に会った。ピールは我々に、レオナルド卿はピールに訴状を開いて見せ、シティバンクはすべてを否定することで時間稼ぎをしているだけだという自分の解釈を述べた。弁護士メル・ベリが論争に参加し、シティバンクの支店があるカリフォルニア州の裁判所でシティバンクへの側面攻撃を開始した。ベリがルツのために起こした二百億㌦訴訟では、ジョン・リードは、サンティの資産をリードの個人使用に不正変更をした被告者として名指しされた。ベリの友人によれば、ベリは健康に問題があり、シティバンクとリードに対する素晴らしい勝利で彼の弁護士としての職歴を絶頂に持っていく考えを楽しんでいた。ベリはブライアン・グリーンスパンというラス・ヴェガス・サン紙の編集主幹に手紙を書いた。「面白いネタだよ。最初からそんな気がしたね。しかし、今は世界中のいくつかの大変有力な銀行がサンティーの預金を保有したことは確かだ。我々は世界中の銀行職員からいくつかの宣誓証言を手に入れた。銀行職員は、我々が領収書と預金通帳を示したにもかかわらず自分たちが受け入れた預金の存在を否定したのだ。」、ベリは、サンティの財産は「山下将軍の財宝に由来している」に違いないと信じるだけの理由があると言った。
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708131 No.7398
>>7397
弁護士ベリの訴訟内容は個人財産の不正な移転に基づいていた。サンティの所有になる特別のシティバンク口座のリスト化をした後で、訴訟は次のように進められた。被告シティバンクの会長兼最高執行責任者ジョン・リードはシティバンクによるサンティー所有の金塊移転の陣頭指揮を執った」。訴訟の最も重要な点は、「リードとシティバンクが組織ぐるみで例の金塊を金の仲買人に販売し、現在も販売しており、販売の手続きを自分たちの都合のいいように変更している、ということであった。」という容疑にあった。ベリの訴訟はまたチェイス・マンハッタン銀行、HSBC、バンク・オブ・アメリカ、ウェルズ・ファーゴ銀行の不法な移転の容疑をもたらした。こうした銀行は全てカリフォルニア州に事務所を持っていた。各銀行はそれぞれサン・フランシスコの法律事務所の大層な陣容で反撃に打って出た。チェイス・マンハッタン銀行はフォルジャー&レヴィン事務所。ウェルズ・ファーゴ銀行はヘラー・エーマン・ホワイト事務所。HSBCはリプリー・ダイヤモンド事務所。企業としてのシティバンクと個人的に被告として名指しされたジョン・リードはスティーフェル・レヴィット・ワイス事務所。バンク・オブ・アメリカは社内の総合弁護士を代表とした。銀行は都合のいい言い分だけを繰り返した。更なる調査と発見の後で、ベリは重大な国家機密に偶然たどりついたと結論づけた。ベリは友人に、シティバンクのジョン・リードはレーガン大統領、ジェイムス・ベーカー、ビル・キャセイ、マーガレット・サッチャー首相らの陰謀に加担し、山下将軍の金塊を米英の秘密の活動に資金援助するために使ったのだと話した。ベリはその計画を「紫インクの書類」として言及した。不幸にも、ベリの健康はそれからの二年半ちょっとで急激に悪化し、事件の解明があんまり進まないうちに一九九六年に死亡した。彼の法律事務所でベリの仕事を引き継いだ連中は同じような熱心さで追究しなかったし、リードやこれら五大銀行相手のベリの訴訟はまだ決着がついていない。
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遅延、激変、妨害、脅迫そして挫折の歳月の後、二千年にエレノア・ピールはニューヨーク・サロゲート裁判所に新しい申請書を提出した。それはルツとピールにサンティの資産の共同管理者としての権利を与えニューヨーク州にあるサンティの資産の所在確認の活動を認めさせる内容だった。ピールは我々に、自分は「ニューヨーク州にある銀行のサンタ・ロマーナの全ての金塊も、以前銀行にあってどこか別の場所にと移された金塊も回収する権利」を持っていると言った。シティバンクで全てがうまくいったわけではない。シティバンクは資金洗浄の罪で告発を受けた。一九九八年十二月に、会計検査院はシティバンがラウル・サリナスのために一億㌦の資金洗浄をしていたと結論づけた。ラウル・サリスは不祥事を起こした元メキシコ大統領カルロス・サリナスの兄である。会計検査院の報告書には、サリナスが複雑な資金の出所、目的そして実質所有者をごまかす資金管理システムを作り上げるのをどのようにしてシティバンクは助けたかが記載してあった。一九九六年十二月、CIA長官ジョン・ドイチェは辞任した。一九九七年、CIA長官ジョンド・ イチェは疑惑の中で辞任し、すぐにシティバンクの重役となった。
二千年十一月、シティバンクでは、突然もうひとつのスキャンダルが発生する直前に、リードがCEOを辞任した。この時、シティバンクはロシアの大物イラクリ・カベラズの八億ドルの資金移動が発覚し困惑していた。イラクリは二千以上のダミー会社をデラウエアに設立し、そこへシティバンクや他の銀行を使い十年間以上にわたり、彼の金を注ぎ込んでいたという。二人のシティバンクの顧客は、今は無きナイジェリアの独裁者、サニ・アバカ将軍の息子たちで、税金、偽造契約、賄賂などから四十億㌦以上を横領したかどで告発されていた。アバカの息子モハメドが当座貸し越し三千九百万ドルをシティバンクに緊急の要請をし、シティバンクは彼への資金を3つの違った口座へ払い込んだ。奇妙なことにシティ信託にあるサンティの五百億㌦の処理について会計検査院が行った調査と同じものは行われていなかった。銀行はどうしてあんなにごまかすのだろう、そしてどうして口座を持っていることを否定できるのだ?その答えは対応を遅らせることで多くの金を生み出せるせいだ。
メリル・リンチは長年マルコス資産の三千五百万㌦を公表せず、裁判所のその資金を手放す命令をされた二千年の末までひと言も言わなかった。こうした年月の間、莫大な利益が休眠資金からもたらされた。スイスの銀行は頑としてマルコスの口座を持っていることを否定したが、二〇〇一年に、イレーネ・マルコスとその夫は百三十四億㌦の資金をスイスの銀行からフランクフルトのドイツ銀行へ移し資金洗浄を試みたかどでドイツ政府から告訴されたのである。数十年間、同じスイスの銀行はユダヤ人大虐殺犠牲者の資産が存在する事を否定してきた。相続人たちはあらゆる種類の証拠を示したが、結果としてそうした書類は偽物だと言われただけだった。もし彼らが強く求めると、偽物を使って交渉した容疑で逮捕される危険を冒すことになる。しかし、誰が書類を偽物だというのだ?例えば、我々の作ったCDに複製されている資料は、インドネシアのスカルノ大統領がスイス銀行に預けた金とプラチナの量がスイス銀行信託の全メンバーにより保証されているとスカルノに示した証明書である。保証したメンバーの署名は目立つように誇示されており、簡単に正当であると確認される。けれども、スカルノの相続人たちが口座を照会しようとするあらゆる努力は失敗し、さらにスカルノの資産が存在する事自体が一笑に付された。あるスカルノの貴金属証明書が実際には偽物かも知れないのに、専門家の意見が出されるまでに、どうして確実に知り得るのか?問題の銀行は詐欺だと主張することが利益に繋がるので、正当であると主張することは決して妥当な判断ではない。ノルベルト・シュレイ事件で見たように、裁判所で書類を考査することだけが、手段が不正行為であると言う裁定がなされ得るのである。あなたはどこで向きを変える事が出来ますか。もし、あなたがある銀行に書類が本物か偽物かを知りたいだけだと言えば、まず間違いなく、すぐその場で尋ねただけで逮捕される。あなたが尋ねない時でさえ、逮捕されるかもしれない。
オーストラリア人の仲買人ピーター・ジョンストンの奇妙な事件を紹介しよう。彼はヨーロッパでUBS(スイス銀行の) 金塊の証書を現金に換えるよう顧客に頼まれた。ジョンストンは旅行中、金証書を持ち運ぶことは望まないので、オーストラリアのウエストパック銀行ロンドン支店に「保護預かり」にしておいた。彼はひんぱんにエストパック銀行にその金証書を提出していた。彼はウエストパック銀行に証書が本物であることを証明するように依頼しなかった。それでも支店長は「胸騒ぎ」がして、ジョンストンの諒解なしでスイスのUBSにコピーをファックスして、それが本物かどうかを問い合わせた。UBSはいつも原本を調査することなしに「非公式に」証書を偽造だと言明した。どんな書類も偽造だとみなし、「公式に」は偽造だと言明を避けるのがUSBの政策だった。なぜなら、公式に言明することは裁判所での宣誓証言と同じ効力を持つからだ。責務を避けている内は、非公式な意見として偽物だろうと疑問を投げかけるのだ。
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708131 No.7399
>>7398
UBSはいつも証書が偽造だとして、金証書を現金化しようとする人々を追い払っている。普通ロンドン市詐欺特捜部は非公式情報に基づいた嫌疑を追及することはしないが、今回は詐欺特捜部が詐欺罪を仕組んだ。ジョンストンが一九九五年三月六日にウエストパック銀行の事務所に入った時、彼は逮捕され、詐欺未遂で告発された。なぜなら、金証書は偽物で、ジョンストンは将来的にそれを現金化しようとしたからである。驚いたことに、この怪しげな罪で有罪となり一八ヶ月の服役で元気をなくしてしまった。UBSが実際に証書を偽物だと立証したことは一度も無く、ただ証書がチューリッヒのUBSで発行されたものでなかったと言うだけである。これは巧妙なごまかしである。なぜなら、UBSの金塊取引はチューリッヒ支店では行われておらず、チューリッヒ空港の近くにあるグラトブルグにある子会社のワーブールグ・ディロン・リード社で行われているのだ。要するに、ジョンストンは偽の証言と、やる気も無い何らかの罪で間違って服役したということになる。
ここにはシュレイ事件と多くの類似点がある。金証書の専門家、ヴォルフガング・イエンチは、そうした文書は「多くの書式を必要とするが、まず銀行業務の書式には無いものだ」、と説明する。「それらは本来、秘密の銀行業務の書類によるもので、公的な領域には存在しないものだ・・・関係する金額が大きいほど、事情を知る人々の集団はより緊密になる・・・銀行の中枢が秘密の銀行業務の存在をずっと知らないことはない・・・資金のオーナーは・・・証書を保証する多くの別の書類を受け取っているはずだ。オーナーは、証書の存在を証明できる人々だけの詳細情報を書いた手紙を受け取っているはずだし、暗号化された保証番号も受け取っている。」、イエンチは、典型的な暗号は「厳密なスペリング上か、文法的間違いを含んでいる・・・」と言った。そうした間違いのため、銀行が望めば、証明書を偽物として公然と非難することが出来るのだ。
この章で我々は、サンティの相続人が全ての必要な書類と暗号を示し、それでも妨害されたのを見てきた。我々は第9章で、日本大蔵省が「57年債権」が通常の日本政府の債権とは違って見えるように慎重に企んで、「57年債権」を偽物と非難し、大蔵省が支払いを逃れるようにしたことを見た。UBS,シティバンクや他の銀行が同じ事をしたとしても驚きでもなんでもない。顧客が死ぬと、顧客がビュッヘンウォルドの受刑者かインドネシアの大統領だったかは、どちらでもよくなる。銀行は金を保持するためには何でもやるだろう。ここにジョン・ケネス・ガルブレイスが「金の研究、とりわけ経済学の別の分野での研究において、複雑性は真実をごまかすために、または真実を避けるために、真実を明らかにしないために用いられる。」と主張したことのひとつの見本であろう。
この背景に反して、米国財務省検察局がいかに早くスイスの銀行の側近に駆けつけるかを見ることは意味深いことだ。なにせある顧客が銀行へ歩いて入り、金の証明書が本物であるかどうかを訊ねる時なのだから。一九九六年三月に、フィリピン人の弁護士ベン・アラゴネスは退職したウォール街の仲買人W・R・コットン・ジョーンズと会った。アラゴネスはスイスに金塊預金を有する巨大資産の管財人だった。彼はコットンに金証書を現金化しようとしてスイス当局にどのように逮捕されたかを語った。アラゴネスは刑務所で三ヵ月間を過し、再度スイスに入ることを禁じられたのだった。チューリッヒへのもう一度の旅行した時は、アラゴネスと妻は誘拐され脅かされたと言った。UBSが彼を脅して永遠に追い払うためにこんなことまでやるのだと彼は聞かされた。コットンは空想家だったので、スイス銀行のニューヨーク支店が弁護士ベンの証書のひとつを本物かどうかコットンに告げるかどうか様子を見ようと提案した。コットンは「金証書」を現金化しようとしていなかったし、そいつは危ないことに違いない。もし彼が公証された写真複写を取るだけだったら原本は押収されることいだろう。用心深く、彼は金額が最少のたった二千五百万㌦の証書を選んだ。
彼は次のように言った。「一九九六年三月二十日にニューヨークのシティバンク株式会社に歩いて行き、シティバンクが発行し連銀のシールを貼った二千五百㌦の預託証明書を確認し、本物であると証明するよう依頼したのだ。」、シティバンクの職員は彼に、確認のためその証明書を置いていき、二日以内に戻ってくるように頼んだ。彼が三月二十二日に再び訪れた時、銀行職員の振りをした三人の男が金証書の原本を要求し、更に脅迫めいた口ぶりをした。コットンが彼の写真複写を引っつかもうとした時、3人の男は素早く立ち上がり、米国財務省検察局の捜査官だと名乗り、バッジとIDカードを示した。彼らは、コットンの行く手をさえぎり、もしこれを無理やり支給させようとするなら、連邦捜査官に挑戦する事になると言った。「私は書類が有効か否かをこれまでに知っていたことを否定し続け、そして現在も否定している。彼らは私に20年間刑務所に入ることになるぞと言った・・・協力すればいいけれど、そのほうが楽だぞ。と言ったのだ。」九十分脅された後、コットンは下町へ連れて行かれ、二通の米国地方裁判所大陪審の召喚状を渡され、検察局捜査官のトム・アトキンソンの事務所に月曜日の十時に来るよう命令された。コットンが出頭した時、かなりの威嚇を受けた。その上、だれも金証書を偽物呼ばわりはしなかった。
コットンは翌日大陪審へ出頭するよう言われた。コットンが時間きっかりに到着したが、彼の出頭は必要ではないと告げられただけだった。びっくりして、彼は上院議員フィル・グラムに手紙を書き、いかに検察捜査官が彼の権利を侵害したかを述べ、ことの真相を明らかにするのを助けてくれるよう依頼した。法務省はグラムに、「コットン・ジョーンズ氏の主張は財務省と通貨監督官事務所に対する訴訟の眼目をなすもので、その訴訟は二次控訴審で現在審理中である・・・法的、倫理的に考慮して、この件についてこれ以上のコメントは出来ない。」と述べた。これは真実ではない。訴訟などないのだから。法務省がグラム上院議員に嘘をついているか、法務省が財務省に間違った情報を知らされているかなのだ。一九九九年七月、法務省はグラム上院議員に「この問題は少し前に決着した。市民権が侵害されたというジョーンズ氏の申し立てに関し、彼は地域の連邦調査局に情報と助言をもとめて接触したらいいと思う。」と述べた。グラムが主張を続けた時、通貨監督官にこう告げられた。「・・・スイス銀行株式会社がこれまで米国通貨監督官事務所の規制の下にあったと云う事実はない。全ての将来の対応は・・・連邦準備金制度の方に仰ぐべきだ。」、昔ながらのごまかしである。コットンはむっとした。「どういうわけで米国のどの銀行も自分たちの利益のために連邦政府関係機関に介入させたり、個人財産を没収(窃盗)させたりするんだ?財務省秘密検察局は銀行の利益のために私を拘留し、尋問し、怖がらせて、脅迫し、大陪審の召喚状を私に発行するどんな権利を持っていたのだ?」、グラム上院議員はアメリカ政府のやり方を十分に知っていたので、それ以上ことを推し進めようとはしなかった。グラム議員は忙しくて手いっぱいだったのだ。
こうした詐欺行為、資料の押収とそれの偽物宣言がなされる理由は、それらの資料が莫大な金額の価値があるからなのだ、とロージア教授は主張している。ひとたび米国財務省がその書類を手に入れてしまえば、その書類は慎重に政府間の基準に従い現金化することが出来るのだ。もしそうなら、それはそれぞれの政府によって行われる凶器を持った強盗行為と同じ新しい形の犯罪ではないか。意図的に対応を遅らすことで物事はドラマチックじゃなくなるのだ。メル・ベリは彼の訴訟が裁判で進行する前に死んだ。同じ年、一九九六年三月に、レイ・クラインもまた死に、法的策謀のなかでもう一人の人間も追放することになった。レオナルド・ノウルズ卿の健康が悪化した時、彼がタルシアナ(会計係)、ルツ(内縁の妻)、デポンティス(ロビイスト)やクラインのためにナッソーで起こした訴訟も立ち消えになった。ノウルズはナッソーを去りジョージア州メーコンで彼の息子と暮らし、そこで一九九九年に亡くなった。二〇〇一年十一月に、ルツ・ランバノはフィリピンで亡くなった。ユダヤ人大量虐殺の犠牲者の金を公表しないで伏せているスイスの銀行のように、アメリカの銀行はただ長い歳月を待つだけでよく、サンティの財産を争った連中もみんな死んでしまったのだ。
今のところ、メッセージは次の通りである。「あまり多くを要求しないことだ。さもないと監獄へ入ることになるぞ。」、ダグラスバ・ レンタインによれば、一九七六年議会委員会が犯罪活動における連邦政府機関の役割を調査している時、議会の委員会でCIA長官ジョージ・H.W.ブッシュの代理人、ドナルド・グレッグは委員会のメンバーに最後通告をした。「ほどほどに手を引いたらどうだ。さもないと軍法違反の危険に直面することになるぞ。」今日でも、こうした事に共通する事例は見ることができる。つまり、CIA幹部ジェイムズ・B.ブルースは二〇〇二年七月に、ジャーナリストに対しる機密情報の継続的漏洩を止めることを決めてこう宣言したのだ。「CIAはどんなことでもやるようになった。たとえジャーナリストの家々に特別機動捜査隊の派遣を決めたとしてもだ」。
(訳者注、この章はとても登場人物が多くわけが分らなくなりました。やはり登場人物の紹介は必要だと思います。全部が翻訳できた時に考えます。)
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708131 No.7400
>>7399
黄金の兵士 エピローグ 利害の衝突
米国海軍艦船が米海軍特殊部隊員を運んでフィリピンに到着した。アメリカ大使館の情報筋によれば、特殊部隊はアメリカの準備金を増加させる計画の一環として、金塊を回収するためにフィリピンに送られたのである。大使館の情報筋が言うには、この金塊は二ヵ所から出てきた。つまり、山下将軍の金塊貯蔵所の新しい発掘と、裕福なフィリピン人がすでに回収し個人の貯蔵所に保管していた日本軍の略奪品を(大幅値引きでの)購入することである。二隻のうち一隻はミンダナオ島へ航海し、その情報によれば、積み込んだ多量の金塊は新大統領グロリア・マカパガル・アロヨの一族が所有していたものだったそうだ。情報筋によれば、ブッシュ大統領は「かなり強引だった。」そうだ。ルソン島の金塊ハンターの間で、ブッシュ大統領とその家族の仲間がゴールデン・リリー地域から未だに回収されている金塊を秘密裏に市場で売ろうとしているという噂が出ていた。マニラの金の投資家の間に出る名前のひとつが、東テキサスの石油億万長者、ウイリアムス・ タンプス・ファリッシュの名前で、彼はブッシュ・ファミリーの親密な友人であり、釣り仲間だった。ウイリアムフ・ ァリッシュは馬を飼育しており、ケンタッキー・ダービーが開催されるチャーチルダ・ ウンズ競馬場の取締役会長だが、ブッシュ大統領によりアメリカ駐英大使に任命されており、イギリスではエリザベス女王の個人的な友人となった。ウイリアム・ファリッシュはブッシュ大統領から全幅の信頼を得ていると言われていたので、その噂には特別な響きがあった。今でも、もう一人の大統領が日本軍の略奪品に関心を持ち、戦争捕虜やほかの犠牲者による訴訟から日本の最大の企業をかばったとしても何の驚きはしない。
ハリー・トルーマン以来の各大統領は略奪品と不正資金の隠蔽に関与してきた。ジミー・カーターでさえひとつの役割を果たしており、大物フィクサー、笹川の個人的な友人になったのだ。笹川は骨の髄まで軍隊に深く入り込んでいる人物だ。遠慮なしに言えば、ひどい秘密というのは、アメリカ政府の高官たち、とりわけニクソンは、盗品を受け取ることで出世を果たし、秘密資金を無節操に使い、日本政府と共謀を続けてきた。それを正当だとする理由はいつも「冷戦」であり国家の安全であった。連邦政府の幹部として、このことが彼らの安全を意味したのである。平易な英語では、これは利害の衝突であり、ダブル・スタンダードである。政治家、外交官、官僚、軍当局者そしてビジネスマンが事実と記録の改ざんとごまかしに関与していた。シニカルであれ心得違いであれ、彼らは桁はずれの不正行為に手を貸し、幇助したのだ。チャルマーズ・ジョンソンの著作からの引用では繰り返し述べていることがある。それは「冷戦は終わった。合衆国が正しいと信じたことは何でも冷戦を推し進めるに必要なことだっただろうが、冷戦自体はもはやそのコストや意図せざる結末を無視することを正当化出来ない。今日の問題は、日本が社会主義か中立主義のどちらに路線変更するかではなく、長い間、合衆国に頼りきって発展した日本政府がどうしてあれほどひどく堕落し、無能で弱いかということなのだ。」その答は、ひとつの事柄が別の事柄のきっかけになるということだ。トルーマンが日本軍の戦争略奪品の回収を秘密にしようと決めた時、隠蔽工作を是認する事になり、それが日本の戦後は貧困であるという偽の主張に基づいた偽の講和条約が締結されることになった。
ジョン・フォスター・ダレスの画策により、講和条約は戦争捕虜や「慰安婦」を含む民間人犠牲者らの苦しみに対する賠償要求を封じ込めることとなった。彼らの苦しみは今日まで続いている。なぜなら国務省と司法省がアメリカの裁判所における日本による犠牲者の全ての法的手段を阻止しているからだ。我々は当然のことながら、これが本当にトルーマンの考えたことかと思ってしまう。アイゼンハワー大統領は当時自由民主党を設立するために戦争略奪金塊の使用許可を与え、日本の国内政治過程に介入し、日本国民を岸という男に率いられた一党独裁の元に押し戻してしまった。岸こそ千九百三十年台から、凶器を使った強盗、麻薬、奴隷労働に関与していた男である。
自由民主党は、M資金を独占的に支配する見返りに、どのくらいの金をニクソンの大統領選挙運動に秘密裏に提供したのか?ニクソン大統領とフォード大統領の補佐官たちは一九七五年にマルコスと船上での話し合い、戦争略奪品の回収に関してどんな手を打ったのだろうか?カーター大統領は数百の連合軍捕虜が生き埋めにされた財宝貯蔵所を発掘するマルコスの活動に笹川が参加することが気にならなかったのだろうか?どのようにしてランズデールはUBSにあるサンティの資産を自分の名義に変えることが出来たのか?一方どのようにしてサンティの別の資産をシティバンクマニラ支店からシティバンクニューヨーク支店に移すことが出来たのか?どうしてシティバンクは最初サンティの口座を所有していることを否定し、後で所有を認め、その後サンティの相続人が口座へのアクセスを要求した時には、その口座を国外に移したのか?レイク・ ラインは何をたくらんで、シティバンクがナッソーへ移したサンティの五百億㌦の一部か全てを横取りしようとしたのか?
レーガン大統領がCIA長官ビル・キャセイに命じてマルコス一族を拉致させた時、マラカニアン宮殿から移された全ての金塊はどうなったのか?その金塊は、金塊貯蔵所のあるフォート・ノックスにあるのか、それともブラック・ホールに消えてしまったのか?どうしてレーガンの国家安全保障会議の顧問シュヴァイツァー将軍は、米陸軍大佐、米海軍特殊部隊、米海軍深海ダイバーを使っていたのか?これは正常なことなのか?もし正常と言うのなら、どうしてそんなにごまかすのだろう?クリントンは闇の金塊でゲームでもしていたのか?金反トラスト法委員会によればその通りである。二〇〇一年九月に、「エコノミスト」誌は次のように報道した。「本誌は、アメリカ政府が、第三者に支援されて、なぜか投機家や金塊銀行、特にシティバンクとJ.P.モルガン・チェイスに数千トンの金塊を貸し出し、金価格を押し下げようとした証拠を暴露した」。このようにすべての実例で利害の衝突がはっきりと分かってくる。E.L.ドクトロウが先ごろ次のように述べている。「私は自分の生涯でアメリカ国民に嘘をついたことのない大統領がいたのだろうかと考えてしまう。」
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こうしたことはそんな昔の話ではない、こうした事はばれないように隠され得るのだ。日本がダレスによって賠償金支払いの義務を免除された時、同時に一八九五年以来、アジアの隣国から盗んだ芸術作品、文化遺物その他の略奪品を保有することを許された。こうした盗品の殆どが返却されておらず、残りは日本の貯蔵所に残っており、支配層エリートを豊かにし、これらの文化や盗まれた人々を貧しくさせ続けている。このようにして今日まで悪事は続けられているのだ。なぜなら正義は行われないし、犠牲者は犠牲者のままなのだ。犯罪を規制する気がないのだ。アメリカ政府の役割は実にはっきりしている。つまり講和条約は恫喝して通してしまったやりかただ。
ジョンプ・ ライス教授は次のように話をまとめている。「アメリカ合衆国は条約準備を独り占めにして台無しにしてしまったのさ。」今ではお分かりのように、日本は戦争で破産させられた訳ではない。一九五一年、戦後6年で、日本経済は戦前の最良の事業年よりも強力になっていた。カルロス・ロムロは平和会議のフィリピン派遣団の長だったが、日本は経済的理由のため支払能力がないというアメリカの論拠を覆したのだ。日本の産業活動は戦前のレベルを三二%上回っており日本の財政状態は黒字を示していた。また、貿易収支も黒字になっていた。アメリカ合衆国の金融専門家と日本の大蔵大臣池田勇人との議論の中で、池田は千億円の予算超過を認め、日本国民に対する税の割戻しとして四百億円を使う計画を組んだ。日本銀行の総裁はアメリカ当局に保有金塊の二兆㌦相当を預かってくれるように泣きついた。というのは、彼は「フィリピン人が賠償金として金塊を差し押さえる」ことを恐れたのである。ダレスはオランダのような特定の別の国が賠償について日本と秘密の取引をすることを許した。こうした合意はたいへん機密を要するものだったのでアメリカ政府はこうした文書を五十年間極秘扱いにした。オランダの戦略は二〇〇一年に明らかとなった。
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708131 No.7401
>>7400
ダレスが決めた契約条件の問題点は、オランダ政府が、署名すれば、国民の承認を得ることなく(賠償を)放棄することが明らかになるだろうと表明した時に発生した。ダレスはしぶしぶオランダ国民に、日本政府に個別の要求する権利を与えることに同意した。この秘密取引について、あるアメリカ上院議員は言明した。「ダレスはその取引を機密扱いにし、しかもこうした犠牲者が裁判に訴えることが出来ないように五十年間も機密扱いを継続したんだ。これはダレスがやったことだ。つまりアメリカ政府がやったことだ。これは不正行為であるし、正さなくてはならない。」それから上院議員はこう付け加えた。「我々のアメリカ政府はわが国の兵士に対してはこうした権利を保証する書類を与えようともしなかったんだ。何という不法行為だろう。」
その後、オランダ政府は秘密裏に日本と賠償交渉し、一九五六年、日本政府から千万㌦の支払いを勝ち取った。もっとも、バケツに落ちる一滴くらいわずかなものであった。一九五二年、アメリカ上院外交関係委員会はアジア諸国の要求だけで「ほぼ1千億㌦」(一九五二年当時)になることを認めた。アメリカ政府は多くの隠すべきものを持っている。ナチの略奪行為を隠匿する際も積極的な役割を演じたのだ。それもアルフォンソダ・ マート上院議員の一九九〇年代の厳しい追及を受ける時まで続いた。上院議員はシーグラムの億万長者で、世界ユダヤ人協会のリーダーであるエドガー・ブロンフマンの十分な資金の支援を受けていた。クリントンはユダヤ人協会を選挙民の重要な部分と見て有利になるよう努力する中で、ようやっとナチの略奪金塊の調査を進めることになる。
しかし、それ以前のアメリカ政府は、時間稼ぎをするだけで、ホロコーストの犠牲者についての調査進捗に関し良心的でも正直でもなく、多くの種類の証拠は隠され、失われ、破棄されていた。米国公文書保管人代理はドマートに、ライヒ銀行の金在庫記録(かつてアメリカ政府が所有)は「失われていた」。と言い、公文書管理人が認めたのだが、他の記録はドイツ政府に戻され、奇妙なことに一枚のコピーも米国には残されなかった。アメリカ政府がドイツ企業、銀行家そして元ナチ指導者と共謀した明確な証拠があり、そこには日本との共謀と強い類似点があった。二〇〇〇年十二月、クリントン大統領はアジア・太平洋地域の第二次世界大戦に関する文書を機密扱いからはずすため、日本帝国陸軍情報開示法に署名した。この法案はもともとアメリカ政府に、戦争略奪を含む日本人の戦争犯罪に関連する第二次世界大戦以来のすべての機密扱い文書を公開させようとするものである。
しかし、法案が通過する前に、政府機関の特別調査団が全ての記録を調査し、CIA長官が、特別に機密扱いにすべき国家の安全を危うくすると考えられる文書の全を除外するという規定でひとつの制約が加えられた。特に、ナチの保留扱いの情報の機密開示は許可されなかった。日本の記録については情報の開示は許可されたのである。ある評論家は述べている。「いつからアメリカ政府は日独の同様の問題についてダブル・スタンダードを持つ事になったのだろう。」日本の戦争記録の中に、事後六十年、もしくはそれ以上の間、アメリカの安全を脅かしかねない何があったのだろう?誰がそうした情報開示を恥と思うのだろうか?現状では、政府の特別調査団にはどの記録を機密扱いからはずすべきか、何が全ての過程をだめにしたかを決定するために3年が与えられた。多くの怒りが資金洗浄について湧き上がった。これは歴史のごまかしである。こうした公文書が開示される時までに、日米共謀の真実を明らかにするその種の文書はナチの金塊の公文書のように「失われて」いるだろう。
証拠の隠滅は実際には日本の降伏の前に始まった。一九四五年に日本占領が始まる前に、日本は大量の戦争記録と文書を焼却=した。日本列島の空が煙と灰に満ち満ちた。一九四六年、残されていた日本政府と軍隊の記録の数百万ページがハーバート・フーバーのところへ運ばれた。それも、フーバーが政府幹部でなかったときにである。しかしながら、「ヤマト王朝」で我々が明らかにしたように、フーバーは天皇を潔白にし、東郷将軍に偽証させた首謀者だったし、戦争犯罪者たちに権力を取り戻させたのである。フーバーはカリフォルニアにあるフーバー研究所==にこうした記録類を運び込んだが、半世紀後になってその所在は謎のままである。
もうひとつの日本の公文書の莫大な押収物は一九四〇年代後半にCIAに運ばれた。「機密扱い」の文書は持ち出され、残りは国立公文書館に移された。その際、国務省は驚いたことには、それら公文書全てを日本に返還することを決めた。学者からの抗議があったにもかかわらず、はじめに十㌫だけがマイクロフィルム化されたが、略奪や共謀の証拠は全て消された。我々が一九八七年山下将軍の金塊について情報公開法に基づいて問い合わせをした時、財務省、国防省、そしてCIAは我々の要求をはぐらかし、これらの記録は公開が免除されていると主張した。言い換えれば、記録は「存在」したが、見ることが出来なかったのだ。
それでも一九九〇年代のシュレイ訴訟期間中、政府は日本のアジア地区での略奪と、戦後の不正資金に関するあらゆる記録を求め、全ての政府機関と文書館の徹底調査をすると主張したものの、裁判所に対し、そのような文書化された証拠は発見できなかったと公表した。その間、アメリカ政府に何が起こっていたのだろうか。一方、ドイツは賠償金・補償金の形で四百五十億㌦以上を払っており、日本はたった三十億㌦を払っただけである。現在でも、ドイツはこの賠償補償計画を継続して払っているが、日本は一歩もゆずらないで、賠償問題は一九五一年に決着済みであると言い続けている。日本の立場はアメリカ国務省に確固として支持されている。国務省はアメリカ国民に対してさえ、そして元の戦争捕虜に対してさえ賠償金の支払いを阻む覚悟を決めているのだ。
イギリス政府はこの問題は全て一九五一年のサンフランシスコ講和条約で決着したと主張し、アメリカ政府の言い分を繰り返してきたが、結局その態度を翻した。二〇〇一年に、イギリス政府は日本でのイギリス人戦争背捕虜とその相続人に対してその税収からの一回限りの解決金1万ポンドを支払うことで合意した。このことはおもいやりのあるように思われるかもしれない、しかし、これはどうして日本が支払わずにいるのかという本当の問題を避けることになっている。そして、そのことは日本の公式謝罪を求めるイギリス人戦争捕虜や被抑留者の要求も満足させていない。戦争以後、日本政府は自国民に4千億㌦の賠償金を与えるように一五の法律を作ってきた。賠償金や年金を受け取る人々の中には、告発された戦争犯罪人が含まれていたのである。
日本人の社会学者、タナカ・ヒロシ(田中裕又は寛?)は「我々日本人は自分たちには気前がよく、他国民には金を出し惜しみしている。戦争賠償に関する我々の考え方は外国人に対してははっきり言って不公平で、過去について自責の念などないようだ。」と言った。アメリカ政府は戦争中、不当にアメリカで強制収容された日本人に賠償金を払っている。被収容者はすべて、収容期間の終わりに生まれた赤ん坊さえも、2万㌦を受け取った。彼らの多くは完全に無実で、多くの場合、被収容者の生活は強制収容のために傷つけられ、破壊されたのだ。しかし強制労働をするよう強要されたものは一人もいなかった。一九九九年以来、三〇件以上の訴訟がバターン死の行進の生存者や他の戦争捕虜たちによってカリフォルニアの裁判所に提出された。彼らは当時、日本の企業のために強制労働を強要された。そうした訴訟はカリフォルニア地区に絞り込まれた。なぜなら、州議会が訴訟の出来る期間を延長していたからだ。アメリカ政府はそうした訴訟をサンフランシスコの連邦裁判所に移した。その裁判所の連邦判事ヴォーン・ウォーカーは、そうした訴訟の多くを二〇〇〇年九月に却下(棄却)した。ウォーカーはこうした訴訟は一九五一年の講和条約の条件により裁判にはならないと言った。これは、日米政府が使う完全な訴訟阻止策なのである。信じ難い事だが、国務省はこうした場合は日本と協調する側に立ち、議論を進めるのだ。ウォーカーは、サンフランシスコ講和条約は「起訴人の全ての賠償請求を将来の平和のために放棄した。歴史はこの取引の賢明さを証明するだろう。」、と述べて彼の決定をまとめた。
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708131 No.7402
>>7401
チャルマース・ジョンソンは講和条約が署名されて以来、アジアの戦争で少なくとも1千万人の人々と五万五千人のアメリカ人が死んだことを指摘し、将来の平和と言う文言に反論している。こうした事実だけで、彼はウォーカー判事の発言を「これ以上ないほどのひどい拒絶であった。」と公正に評した。ある者が反撃に転じた。二〇〇一年三月、アメリカ下院議員マイク・ホンダ(民主党、サン・ホセ)とダナ・ローラバチャー(共和党、ハンチントン・ビーチ)は法案、「戦争時捕虜のための正義法」をアメリカ議会に提出した。その法案は超党派的な支持を獲得して二〇〇二年の八月までに両党の院内党幹事を含め228名分の賛成署名を集めた。ホンダ法は「米国国務省が被害者の訴訟を妨害しないよう」、日米間の一九五一年の講和条約の表現の細かな解明を要求したのだった。もし法案が法律として成立したら、三井、三菱そして住友のような日本の企業に強制労働を強いられた戦争捕虜へ賠償請求の道を開くものだった。そうした日本企業は今でも地球上の最も裕福な企業に含まれているのだ。
一九五一年の講和条約二十六条には次のように書かれている。「もし日本国がいずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益を与える平和処理または戦争請求処理を行う場合は、これと同じ利益は、この条約の当事国にも及ぼされなければならない」。言い換えるなら、もし日本が戦争請求に対して講和条約で与えた利益よりも大きな利益を別の国に与えるならば、日本は講和条約に署名した48カ国全てに対して同じ条件に拡大しなければならないのである。さらに、我々は今では知っている通り、秘密の取引がダレスの手配でオランダが1千万㌦を日本から受け取っている。スイスとビルマもまたそれぞれ現代の価値で約5万㌦に相当する自国民に対する賠償金を交渉した。ビルマは日本に占領されたけれども、スイスは戦中は交戦国ですらなかったのだ。
スイスとビルマとの間で交渉が進展した時、イギリス政府(自国の戦争捕虜からの要求に直面していた)は交渉再開に反対することを決定した。講和条約での条件で交渉再開する資格があったにもかかわらず反対したのである。実際のところアメリカと緊密な連合国は、一カ国として第二十六条に首を突っ込むなと言うアメリカ政府の指示を逸脱することはなかった。ウォーカー判事は、おそらく相当なプレッシャーのもとで、国務省側の立場を取り、第二十六条は民間人によっては提訴できないと裁定した。ホンダ・ローラバチャー法は、議会に犠牲者のための行動を取らせ、その奇妙な裁定を何とかしようとするものだった。選挙で選ばれたわけではない国務省の官僚は、選挙で選ばれたアメリカの議員たちの向こう見ずさにあぜんとしたが、ホンダ法は連邦判事に政治的圧力を行使するだけでは拒否しえないと理解していた。その代わり、国務省はホンダ法案の条文を「極端な背信行為をなす法律になろう。」と主張し、高い倫理感を持つようにと発言した。背信?つまり、日本の巨大企業と日本の並外れて腐敗した無能な自由民主党の親玉たちへの背信のことか?
二〇〇一年の春以来、この法案は委員会で審議が滞ったままである。ひとたび下院を通過したなら、法案についての激論が上院でふたたび戦わされるはずだった。その結果大統領の拒否権は(おそらくは)行使されるだろう。そうした場合に、ジョージ・W.ブッシュはトルーマン以来のアメリカ大統領による隠蔽の伝統を支持するからだ。正義が執行されるために国務省や司法省を強制する、もうひとつの議会の努力が予算案に対する修正案だった。二〇〇二年予算に対する修正案は、国務省や司法省が「日本人や日本企業に賠償や補償を求める民事裁判に対抗するためのあらゆる裁判所への申し立ての申請に」いかなる予算を使う事も違法とするものだった。「民事裁判で、原告たちは第2次世界大戦のアメリカ人戦争捕虜のように、奴隷もしくは強制労働者として使役されたと申し立てている。」のだ。この修正案は、圧倒的な超党派的支持で可決された。世界貿易センタービル攻撃の1日前のことである。もちろん、国務省や司法省に戦争捕虜に有利な決着に反対し、裁判所にアドバイスすることや、連邦裁判所に圧力を加えることを何物も禁じてはいない。修正案は一二ヵ月間有効であり、その後は再提出されなければならないだろう。そうなれば、修正案は大衆受けするし、愛国的だが、骨抜きでもあるのだ。
悲しいことに、この裁判所上の行き詰まりはフランス革命前のフランスのようで、その当時のフランスは貴族用の裁判と一般大衆用の裁判という二層構造の裁判制度が行われていた。しかしながら、アメリカ政府が日本の自由民主党をその不正行為と賄賂体質から救うには遅すぎたのだろう。日本の金融破綻はマサチューセッツ工科大学の研究者により予測されていた。その予測は自由民主党が必要とされる重大な改革の着手を拒否したらと言う前提でのものである。実際のところ、まえから日本の銀行は崩壊していたのだが、サイレント映画のように組織は聴衆がどんな音も聞くことなく崩落したのだ。日本の銀行は田中首相のような連中のための談合取引や「ヤクザ」に対するゼロ金利取引などで、帳簿上の不良債が一兆㌦あった。そうした銀行の中で三和銀行と東海銀行がひどい打撃をうけた。第一勧業銀行と共に三和銀行と東海銀行は、マッカーサー元帥とマークアット将軍により一九四五年の銀行再編成から免除を受けた三銀行だった。元首相・大蔵大臣の宮沢は痛みのない緊急援助を提案した。痛みのないのはこうした銀行にとってなのだが・・・。銀行は日本人納税者によって救済されたのだ。納税者がその救済を支持したかどうかは疑わしい。
もし誰かが手品のお膳立ての仕方を知っていたとすれば、それは宮沢だった。他の誰も宮沢ほど一九四〇年代はじめから大蔵省の内部業務に詳しくなく、継続して関わってもいない。宮沢は一九四二年に大蔵省で仕事を始め、ジョン・フォスター・ダレスと五十一年の講和条約の秘密条項について交渉した三人の日本人のうちの一人である。宮沢はゆがめられた交渉で得た名声(威信)のおかげで、政治の世界に入り今日まで驚くべき影響力の持ち主のままである。宮沢は中曽根、竹下、小渕、森内閣の大蔵大臣として勤めた。この数十年間にわたって、宮沢は自由民主党の会計責任者だったので、全ての不正資金の詳しい情報を持っていた。彼は多くの他の閣僚のポストにも就いており、M資金の「五七年債」問題が最初に発表された時は内閣官房長官だった。
竹下内閣の大蔵大臣だった時、宮沢はM資金と結びついたリクルート・インサイダー取引スキャンダルで竹下首相と一緒に辞任せざるを得なかった。一九九一年に、M資金の支配者金丸と後藤田に助けられて、宮沢は首相になった。宮沢は後藤田を副首相に任命し、金丸を自由民主党の副総裁にし、金丸には「共同首相」の非公式の役割を与えた。しゃれた都内の料亭で行われたこの協調を祝う酒宴で、宮沢は金丸に約束したのだ。「私はあなたの意志に反することは何もしないし、何でもあなたに相談しよう」。蜜月は短かく、一九九二年に金丸は佐川急便の一大スキャンダルに巻き込まれたのだ。佐川急便は政治的に影響力のある連中に戦争略奪金の賄賂を運んでいた。金丸は自分の裁判が決着する前に、都合よく死んだ。誰かが真実を知っているとしたら、それは宮沢である。宮沢は何も語っていないし、彼の娘婿も何も語っていない。宮沢の娘婿、クリストファー・J・ラフラーはアメリカの外務専門職員で長年駐日大使館で大使代理(つまりDCM)として、最も力のある外交官だったのだ。
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708131 No.7403
>>7402
一九八六年、三八歳のラフラーはFS―X戦闘機の販売交渉の名目で日本へ派遣された(同年、シュレイは彼の顧客の「五七年債」の交渉のために日本へやってきた)。宮沢は当時大蔵大臣でFS―X戦闘機の交渉担当者であった。リクルートスキャンダルの疑惑の中で宮沢は「五七年債」とM資金との関係が取りざたされた。ラフラーと宮沢の間の友情でひとつの予期せぬ出来事が起こったのだが、それはラフラーが宮沢の娘と結婚したことだ。一九九七年九月、ラフラーは駐日アメリカ大使館で代理大使となり、「大使館の事実上のボス」と呼ばれた。数ヵ月後の一九九八年に、宮沢は小渕内閣の大蔵大臣として指揮官に返り咲いた。この仕事に対する宮沢の初期の役割のように、宮沢は「五十七年債」の被害対策を実践するために大蔵大臣に戻されたのだ。
ロージア教授によれば、この莫大な「五十七年債」の償還日が迫っていた時に、自由民主党も日本政府も償還出来なかったから宮沢が大蔵大臣として戻されたのだ。そして、宮沢は「五十七年債」の証書を偽物と決めつけ、退けたのである。ロージアは、宮沢が大臣としてどの証書を支払い、どの証書は支払わないかを決めることになっていたと考えている。同じ期間に、アメリカ大使館のラフラーは「五十七年債」はイカサマであると主張し、義父により取り決められた一九五一年の講和条約を論拠に、日本企業を訴える犠牲者の権利に対し声高に反論した。ラフラーだけでなく彼が仕えた一連の大使たちもまた明白な利害の衝突を示した。多くの人はトム・フォレイ大使の妻が住友重工の有給の顧問だと聞いて困惑した。住友重工は戦争捕虜たち強制労働に対する訴訟の重要な標的のひとつだったからである。国務省はフォレイ夫人の仕事と、同時に駐日大使として、彼女の夫の任務との間に利害の衝突はないと言明した。しかしながら大使の時、フォレイはアメリカ人戦争捕虜のフォレイの妻が働く企業も含む日本企業を訴える権利を激しく否定した。
フォレイは大使の職を退きワシントンへ帰った後、おおっぴらに三菱企業の戦略諮問委員会のメンバーとして有給のロビイストになった。三菱企業は戦時中、アメリカ兵強制労働の最大の雇用企業だった。ラフラーがフォレイの下で代理大使に任命された時、東京の特派員たちはラフラーについて、日本の「ドリームチーム」のメンバーだと冗談を言った。二〇〇一年には宮沢の娘婿として、ラフラーの特別な立場が広く知られるようになり、利害の衝突とダブル・スタンダードの問題が無視するには余りにも明らかなので、ラフラーはワシントンに呼び戻され、国務省の東アジア太平洋問題局の副長官代理となった。このことは東京での潜在的な困惑からラフラーを救うことになったが、ラフラーはアメリカの裁判所での全ての法的行為を監視するように、アメリカの議会を監視指導する重要なポジションに就くことになった。
こうした茶番の最悪の状態が二〇〇一年の九月にやってきた。その年、三人の元駐日大使(トーマス・フォレイ、マイケル・アマコスト、フリッツ・モンデール)によって書かれた一通の手紙がワシントン・ポスト紙に紹介された。その手紙は、日本へ対するアメリカ人戦争捕虜の主張を世界貿易センターへのテロリストの攻撃と関連させている。「どうして議会はローラバチャー法案を成立させようとしたのだ。その法案は大統領とその政権が激しくテロリズムと戦おうとしているこの時に、わが国安全の土台となっている条約をぶち壊す可能性があるのに。」言い換えれば、ホンダも、ローラバチャーもアメリカ人戦争捕虜たちのこともテロリスト同然だと言ったのだ。日本の政府ですら、フォレイ、アマコスト、モンデールの法案派への攻撃に驚き、日本人スポークスマンはあわててワシントンで、日本政府は戦争捕虜の要求と世界的テロリズムの問題は「別の問題」と承知しているとマスコミに述べた。反対意見を持つ国務省の幹部が冗談ぽく言った。「たまに思うのだが、日本は自分たちの大使館と、彼らのために働く米国の大使館の二つの大使館を持っているようだ。」
完了
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708131 No.7404
>>7403
「GOLD Warriors」の翻訳をしてくださったのはマヨさんという方です。その方のブログ等もいつ消されてしまうかわからないので、こちらでも共有させていただきました。10ヶ月ほどかけて、2007年に翻訳してくれていたものです。長文のため、PDFか画像で共有する方が良いかな?とも思ったのですが、後からキーワード検索した際に点と点を繋げられるようにテキストで投稿させていただきました。「訳者から読者へ」というページもこちらで公開されています↓マヨさんが翻訳してくださった文書のPDFも一部公開してくれています。本当に有難うございます。多くの日本人が読むことを願っています。
http://mayonokuni.web.fc2.com/top.html
この話の全てが事実ではないだろうし、一番触れてほしくないところは書かれていないと思います。出版ができている時点で、大衆にこれが真実だと思われた方が有利な何かが隠されているのではないかと。天皇裕仁の背後にいたものたちは?ヒトラーの背後にいたものたちは?(天皇のこともヒトラーのことも擁護するつもりはありません)一番安全なところから全てをコントロールしているものたちのことは書かれていないのではないだろうか? ですが、多くのことを学べる内容だと思います。自由民主党の裏金問題の根源がこんなにも根深いものだったとは….驚くべきものばかりでした
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708131 No.7411
>>7407
Q Research Japan/Nihon #22より
小泉純一郎といえば、郵政民営化。関連記事
https://www.excite.co.jp/news/article/Mediagong_28584/
2019年08月24日
植草一秀[経済評論家]
***
日本社会が急激な劣化を始めたのは2001年からだ。小泉政権が誕生し、経済の弱肉強食化が推進された。
経済的な勝者は決して「がんばった人」ではなかった。政治権力を不正に利用した「よこしまな人」が濡れ手に粟の不当利得を得る構造が構築されたのである。
「民営化」と表現すると聞こえは良いが、実態は公的事業の「営利化」、「利権強奪」である。
「民でできることは民に」のかけ声で推進された「郵政民営化」がどのようなものであったのか。現時点で総括する必要がある。郵政民営化法が制定される際に、「かんぽの宿」売却が法律に潜り込まされた。
「かんぽの宿」をオリックス不動産に破格の安値で払い下げるプロジェクトが密かに進行したのだ。
かんぽの宿79施設をオリックス不動産が109億円で取得する寸前まで事態は進行した。売却される79施設の1施設に過ぎない「ラフレさいたま」だけで時価は100億円相当というものだった。詳細は割愛するが、はじめからオリックスに払い下げることを仕組んだ「出来レース」であった疑いが濃厚だ。
「民営化」の名の下に私腹を肥やそうとする勢力が蠢(うごめ)いていたと見て間違いないと判断できる。間一髪のところで不正払い下げは未遂で済んだ。
この「かんぽの宿」払い下げを推進したのが日本郵政の「チーム西川」である。
日本郵政社長に三井住友銀行の西川善文頭取が起用された。西川氏とともに三井住友銀行から出向した者などが中心になって「チーム西川」が編成され、この不正払い下げ事案が推進された。その「チーム西川」の中心人物が横山邦男氏だった。
日本郵政における横山氏の「実績」はこれだけではない。日本郵便に900億円を超える損害を与えたJPEX事業失敗でも中核的役割を果たした。
横山氏はこれらの「実績」をあげたのちに銀行に戻ったが、経営企画担当の専務執行役として日本郵政に勤務中も、横山氏は三井住友銀行の社宅に住んでいた。
当時の日本郵政はまだ完全な公的機関である。その公的機関の要職にある者が一私企業の職員であれば、当然、重大な利益相反問題が発生し得る。横山氏は日本郵政に重大な損失を与えて銀行に戻ったが、第2次安倍内閣が発足して日本郵便社長に抜擢されたのだ。その日本郵便が保険販売で史上空前の不正を行ったことが明らかになっている。
保険販売を担当したのは日本郵便の職員である。
日本郵便社長の横山邦男氏が最大の責任を負う。横山氏が引責辞任に追い込まれるのは時間の問題と見られるが、これが「郵政民営化」のなれの果てなのだ。郵政民営化は、そもそも米国が、日本郵政グループが持つ有形無形の巨大資産に目をつけて、これを収奪するためのプログラムだった。
この指令を受けたのが小泉純一郎氏である。米国はその執行役として米国のエージェントである人物を郵政民営化担当相に指名した。米国は同時に日本の金融機関の収奪プロジェクトも進めていた。
この件についても米国は、その執行役に米国のエージェントである人物を金融担当相に指名したのだ。
自己資本比率に関するルールを突然変更する方針が示されたときに、烈火のごとく怒りを示したのが三井住友銀行の西川善文氏だった。しかし、金融担当相は西川氏と米ゴールドマンサックス最高幹部を引き合わせて自己資本不足に対応する資金調達を斡旋した。
この時点から西川氏の態度が一変した。小泉政権に正面から異論を唱えた人物が頭取を務めるりそな銀行が標的とされ、「風説の流布」、「株価操縦」、「インサイダー取引」という巨大な犯罪的行為によってりそな銀行が乗っ取られた。この悪魔のプロジェクトの邪魔になった関係者が2名も不審な死を遂げた。
「郵政民営化なれの果て」の一つの断面がかんぽ生命保険不正販売事案である。日本郵便はすべての保険商品の販売を自粛したが、たったひとつの例外がある。米国アフラック生命の保険商品だけ、いまなお販売を続けているのだ。日本は完全に腐り切っている。
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708131 No.7412
>>7411
この民営化というのは、簡単にいうと、国民の貯金が預金に変わったということらしいです
貯金と預金の違いなんて、当時は考えたこともなかった
「預金」と「貯金」と「貯蓄」。いったい何が違うの?
引用元:https://job.career-tasu.jp/finance/articles/022/
旅行に行くためにとか、結婚式の準備、車や家の購入のためになど、将来やりたいことや購入したいもののために必要なお金を“ためること”を、一般的には貯金と言いますよね。でも、銀行に預ける場合は「預金」と言うし、郵便局の窓口などでゆうちょ銀行に預ける場合は「貯金」と言います。さらに似たような言葉に「貯蓄」もあります。いったいこれらの言葉は何が違うのでしょうか。就活生なら知っておくべきお金にまつわる基礎知識として、ご紹介しましょう。
預ける金融機関で変わる
「預金」と「貯金」の違いは、ずばり「お金を預ける金融機関の違い」です。大まかに区分すると以下のようになります。
1.「預金」と呼ぶ金融機関:銀行、信用金庫、信用組合、労働金庫など
2.「貯金」と呼ぶ金融機関:ゆうちょ銀行、JAバンク(農業協同組合)、JFマリンバンク(漁業協同組合)など
1.では、いつでも引き出せる普通預金も、一定期間を決めて預ける定期預金も「預金」です。2.では、銀行の普通預金にあたるのが普通貯金、定期預金にあたるのが定期貯金になります。「ゆうちょ銀行も銀行なのになぜ?」と思われる方もいると思いますが、これは民営化される前の郵便局時代の呼称が今でも続いているためです。
ゆうちょ銀行は、銀行だから貯金ではないのに、預金のことを"貯金"って呼んで誤魔化しているってこと!?
だから郵貯銀行じゃなくて、ひらがなで ゆうちょ銀行なんですかね?
郵便貯金は庶民が対象
では、なぜ取り扱う金融機関で呼び方が違うのでしょうか? これは、銀行預金と郵便貯金では、成立したときの歴史的な背景がそれぞれ違うためです。
まずは郵便貯金から。郵便貯金は、国の政策として明治8年から始まりました。それまでの日本では、「いざというときのためにお金を貯める」=「貯金」という習慣があまりありませんでした。そもそも江戸時代までは、多くの人が農業を営み自給自足に近い生活を送っていたため、お金そのものが今ほど使われていなかったからです。したがって、その流れを引き継いだ明治初期でも、国民全体はまだ貧しいままだったのです。
そこで、庶民に「お金を貯めること」を奨励しようと、イギリスの郵便制度を参考にして当時の大蔵省(現・財務省)が運用を始めたのが郵便貯金です。一人ひとりの貯蓄額はわずかでも、それらを集めることで国家の発展のために活用しよう、という目的もありました。お金を預けたのは、主に貧しい農民が多かったようです。
企業や商人向けだった銀行預金
対する銀行が日本で初めて設立されたのは、明治6年です。最初はすべての銀行が国立で、当時100を超える銀行がすでにあったようです。明治15年に中央銀行として日本銀行ができた後は、ほかの銀行は民間に変わっていきました。
当時、銀行にお金を預けたのは、都市部の商人や企業などが主でした。これは、預けられる最低金額が1口5円(現在の20万円~30万円程度)以上などと決まっていて、庶民の多くは利用したくてもできなかったためです。当時は、小学校の教員や警察官の初任給が現在の物価換算で月8万円~9万円だった時代です。また、当時から「預金」は企業などに融資という形で貸し出されていました。
ちなみに、「預金」と「貯金」では、金融機関が倒産や破綻した場合に、預けたお金を保護する制度も異なります。
預かったお金を「預金」と呼ぶ銀行や信用金庫などが倒産した場合は、預金保険制度が適用されます。JAバンクなど預かったお金を「貯金」と呼ぶ金融機関では、貯金保険制度が適用されます。
ただし、保護される内容は同じで、いずれも一人あたり1つの金融機関につき元本1,000万円までです。ゆうちょ銀行も預かったお金を「貯金」と呼びますが、適用されるのは預金保険制度です。これは、預かったお金の商品名が「貯金」というだけで、民営化により実質的には「預金」と同じになったからです。
郵便貯金というものは現在は存在しないけど、あたかも存在するかのように誤魔化され続けているってこと?
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708131 No.7413
>>7412
>預かったお金の商品名が「貯金」というだけで、民営化により実質的には「預金」と同じになった
"名前は「ジャパン」なだけで、よくよく見ると、日本産ではありません" って裏に小さく書かれている商品みたいな感じか….
郵便貯金
https://ja.wikipedia.org/wiki/郵便貯金
郵便貯金(ゆうびんちょきん、英: Postal Savings)
2007年10月1日に実施された郵政民営化以前に、郵便貯金法に基づき、日本政府(駅逓局・逓信省・郵政省・総務省郵政事業庁)・日本郵政公社が行っていた貯金の受入れ事業のこと[1][2]。
2007年10月1日以降では、郵政民営化以前に預入された定額郵便貯金・定期郵便貯金など定期性郵便貯金の日本政府による保証を継続させるため株式会社ゆうちょ銀行に承継されず、独立行政法人郵便貯金簡易生命保険管理・郵便局ネットワーク支援機構(郵政管理・支援機構)に承継された貯金のこと[3][4][5]。民営化時点で約131兆円[6][7]。なお、郵政民営化以前に預入されていた通常郵便貯金・通常貯蓄郵便貯金は民営化時点でゆうちょ銀行に承継されており、「郵便貯金」ではなくなった[3][8]。また、民営化後にゆうちょ銀行・郵便局で取り扱う貯金事業の名称は「貯金」であり、「郵便貯金」ではない[8][9][10]。
民営化後のゆうちょ銀行で提供している預金の愛称は「郵便貯金」ではなく「貯金」であるものの、「ゆうちょ銀行」という行名であることも起因し、一般には国営時代と同様に「郵便貯金」と俗称されることも多い[1][2][11]。ただし、これは厳密には誤りである。
ややこしい….実質預金になりましたっていうことを知られないように分かりにくくしているのか?
概要
郵便貯金は、郵便貯金法に基づき「簡易で確実な貯蓄の手段としてあまねく公平に利用させることによつて、国民の経済生活の安定を図り、その福祉を増進すること」(郵便貯金法第1条)として、公社化以前は郵政大臣(総務大臣)が管理する国の事業、公社化後は日本郵政公社が行う事業であった(郵便貯金法第2条)。
24,000を超える日本全国の郵便局で取り扱いが行われていること、日本国政府による政府保証があること、預け入れに1,000万円の限度額が設けられていること等、他の民間金融機関にはない特徴があった。
郵便貯金法
https://ja.wikipedia.org/wiki/郵便貯金法
郵便貯金法(ゆうびんちょきんほう、昭和22年11月30日法律第144号)とは、郵便貯金に関して規定していた日本の法律である。1963年7月12日、改正公布(利率を政令で定め弾力的に運用する)。郵政民営化法等の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律(平成17年法律第102号)第2条の規定により、2007年10月1日に日本郵政公社法や簡易生命保険法などとともに廃止された。
郵便貯金条例は、1890年8月13日公布。 旧郵便貯金法は、1905年2月16日公布、7月1日施行(郵便貯金条例は廃止)。
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708131 No.7414
>>7413
貯金
https://ja.wikipedia.org/wiki/貯金
一般
金銭を蓄えること。貯金箱、タンス預金・タンス貯金(へそくり)も参照。銀行への預金も含む行為。英語ではsavings。通常の会話では銀行への預金を貯金と言っても間違えではない(後述の通り、預金は専門用語である)。
金融機関へお金を入れる行為
旧郵便貯金(郵便局、2007年10月以降のゆうちょ銀行の預金を含む場合もある)、JAバンク(農業協同組合)、JFマリンバンク(漁業協同組合)に金銭を消費寄託すること。貯蓄。預金#取扱金融機関及び預金と貯金の区別を参照。
預金
https://ja.wikipedia.org/wiki/預金
預金(よきん、英: deposit)とは、銀行が貸出や手形買取の際に発生させた、銀行に対する借り手や手形の売り手名義の債権の記録のこと[1]。すべての預金は銀行が貸出や手形買取の際に、借り手や手形の売り手の銀行口座にその金額を記入することによって創造され、振込や口座振替といった形で決済手段として用いられ、返済によって消滅する。このような預金から必要に応じて引き出された現金が市中(銀行業システムの外部)で流通する[2]。また、政府支出によって預金が創造され、納税によって消滅する[3]。
金融機関に金銭を消費寄託(同種同量のものの返還を約してする寄託、期限の定めがない場合にいつでも返還を請求できる点で消費貸借と異なる)すること、または、寄託された金銭のこと。
概要
寄託の態様によって、当座預金、普通預金、定期預金などがある。本質的には預金者は金融機関に金銭を貸したことになる。預金者の要求があればいつでも払出しに応じる流動性預金(要求払預金)と定められた預入期間満了まで払出しに応じない定期性預金に大別される。
貯蓄
https://ja.wikipedia.org/wiki/貯蓄
貯蓄(ちょちく、英: savings)とは、蓄えることであるが、経済学においては色々な定義があり、主なものとして以下のものがある。不動産を含めるか、金融資産を含めるかどうかで金額は大きく変わることに注意。
投資を含む:現金・預金・投資(金融資産や不動産など)・年金・保険などにより資産を蓄えること。
流動資産のみ:現金・預金(普通預金や定期預金など)・金融資産(株や投資信託や債券など)・保険により資産を蓄えること。不動産と年金は含めない。
投資を除く:現金・預金(普通預金など)により資産を蓄えること。
投資を含む用法は、内閣府の国民経済計算の家計貯蓄率[1]などで使われている。資産のリスク性などを考慮に入れず貯蓄とする用法である。所得=消費+租税+貯蓄 の関係にある。
流動資産のみの用法は、総務省統計局の家計調査[2]で使われている。不動産や年金は含まないため、確定拠出年金や小規模企業共済なども貯蓄に含まれない。
投資を除く用法は、貯金と似た意味に使われており、ほぼ無リスクで直ぐに消費に回せる資産だけに限定した用法である。例えば、2001年に小泉純一郎内閣が「貯蓄から投資へ」というスローガンを掲げたが[3]、この時の貯蓄は預金の事をさしている。
更には、リスク性のある金融資産の貯蓄のことだけをさす用法もあり、知るぽるとの発表している「家計の金融行動に関する世論調査」の統計データ[4]に対して、不動産・普通預金・年金などしか資産を持っていない世帯を「貯蓄ゼロ世帯」と呼ぶ用法[5]もある。これは正しくは「リスクのある金融資産ゼロ世帯」である。
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708131 No.7642
QResearch Japan/Nihon #25より
消費税の嘘がわかりやすく纏まっていたので共有します
消費税に騙されていない?【消費税の嘘】5選!
2023-3-29
https://tetragon64.hatenablog.jp/entry/20230329/1680084000
※一部省略します
皆さんは日々買い物をして消費税を払っていますよね。
そんな日々払っていて馴染み深くなってしまった消費税は、実は嘘だらけだと知っていましたか?
消費税って制度上とても分かりづらい税金で、嘘に嘘を塗り固めて説明されていることが多いのです。
今回は、そんな消費税の嘘の中でも、ぜひ知っておいてほしい5つの嘘を取り上げます。
この記事を読んで分かること
消費税は社会保障の財源という嘘
消費税は間接税という嘘
消費税は消費にかけられる税という嘘
インボイス制度は必要という嘘
消費税は国民にメリットのある税金という嘘
消費税は社会保障の財源という嘘
実際は2割程度しか使われていない
2014年の消費税増税時に、5%から8%へと消費税が増税されましたが、時の安倍政権は「増税分を全額社会保障の充実と安定化に使う」と公言し、約束していました。しかし、実態は約2割分しか社会保障費に使わず、残りの金額は国債の返済に当ててしまいました。
国債の償還なんてする必要ないのに。
余談ですが、予算で国債を償還しているのは世界広しといえど日本だけなのです!
日本以外の国は国債を償還せず、借り換えをしておくことで、ずっと国債を償還していません。
財政黒字になった国家は国債の償還に当てるかもしれませんが、そもそも財政が黒字になるというのは国内がバブル景気など、異様な好景気になっている可能性が高く、国内の過剰なインフレが進んでいるため、その加熱したインフレを抑えるために行うに過ぎません。
日本だけは60年償還ルールというおかしなルールがあるので、こんな不景気でお金が出回っていない現状でも国債の額の1/60を償還費として予算に計上し、国債を償還し続けています。
消費税は一般会計なので、どこに使われたのか色は付かない
消費税は一般会計の枠組みの中で取り扱われています。
一般会計ということは、財務省のお財布なのです。
例えば、全額社会保障費に当てるというのであれば、消費税の税収を特別会計にして、厚生労働省の管轄下で、社会保障費に当てているのであれば、これは立派に社会保障費として使っていることになります。
例えば、2009年の道路国会より前のガソリン税であれば、特別会計として国土交通省の自由に使えるお金でした。この特別会計のガソリン税を財源に道路を整備したり補修したりすることができていました。この場合、ガソリン税の使途は道路の整備や補修に限られる国土交通省の予算なので、教育費や防衛費など、国土交通省の管轄以外の用途でガソリン税が使われるわけではありません。
余談ですが、ガソリン税も2009年の道路国会以後は一般財源に入り、財務省の管轄下になって一緒くたにされています。そのため、道路を補修するためにも、国土交通省の官僚が財務省の官僚に頭を下げなければならないという明確な権力の構造ができてしまいました。
しかし、消費税の実態は一般会計の中に入っており、他の所得税や法人税などの税収と一緒に混ぜこぜになっています。
お金に色は付いていないですから、気持ちの意識があろうとも、1万円は1万円で、どこで手に入れようと何をして得ようと価値は変わりません。
所得税と法人税とその他税収と一緒くたにされて、支出されている財務省管轄の税金なので、どこに使われたか分かりません。調べようがありません。
先ほど述べた「約2割分しか社会保障費に使わず、残りの金額は国債の返済」というのも、そういう計算になっているだけに過ぎず、実態として消費税はどう使われたのかは分かりません。
言うなれば、お財布みたいなものですね。
一般会計という生活費のお財布にいろいろなところから収入が入ってきて、支出もしますよね。特別会計という、子どもの学費にしか使わないお財布を作れば、社会保障だけに使うということは成り立ちます。
しかし、一般会計という1つのお財布で生活費も子どもの学費も管理していたら、どこから入った収入をどう使っているのか、分かりようがないですよね。
そんな感じで、一般会計に入れられてしまった以上は、財務省に頭を下げないと支出できない状態にあり、どこから手に入れたお金なのかというのは一緒くたになってしまって分からない状態になっているというのが現状なのです。
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708131 No.7643
>>7642
税は財源ではない
そして、さらに今まで語ってきたことを否定するようですが、税金は財源ではありません。
そもそもこの世になぜお金はあるのでしょう?
それは、政府が作ったからに他ならないですよね。
2023年度の予算と2023年度の税収はどちらが先でしょうか?
2023年度の予算が決まるのは、2023年の3月頃、国会で予算が承認されるタイミングです。また、それからも補正予算が組まれれば、補正予算が採決され、可決されたタイミングで予算は執行されます。
一方、2023年度の税収が確定するのは、2024年3月の確定申告になります。2023年にかかったすべてのお金を計算して、そこから税額を決めて、税金を納めるのは2024年3月の確定申告になります。
ということは、2024年3月まで2023年度の予算は執行できないのでしょうか?
そんなことはないはずです。
実際に予算は2023年度中に執行されます。
ということは、税が徴収されなくても、国には予算を執行することができます。
これを「スペンディング・ファースト」と言います。
つまり、支出が先で、税の収入は後なのです。
この支出する時は、国債(正確には財務省短期証券という1年で償還する国債みたいなものも含まれているが、ここでは国債でまとめる)で支出しているのです。
国には、何もなくても国債で支出することができる力があるのです。
だから、自国通貨を発行できる国は、ある程度供給能力があれば、財政破綻なんてするはずがありません。
消費税は間接税という嘘
直接税と間接税とは
「消費税って間接税でしょ。当たり前じゃん」という少し詳しい方もいらっしゃるようなのですが、「直接税?間接税?何それ美味しいの?」という方のためにも、改めて直接税と間接税について定義を確認しましょう。
直接税とは、納税者が国や地方公共団体に直接納めるもので、担税者(税金を負担する人)と納税義務者(税金を納める人)が一致します。
間接税とは、担税者(税金を負担する人)が直接税金を納めず、事業者などの納税義務者(税金を納める人)を通じて納める租税です。
例えば、直接税の代表格である所得税は、所得を稼いだ人が所得税を納めます。
それに対し、間接税の代表格である入湯税は、お風呂に入る時、お風呂に入る人が直接役所に行って納めるのではなく、一旦お風呂を運営する事業者に払い、その事業者が役所に納める形になっています。
入湯税法には、「鉱泉浴場における入湯に対し、入湯客に入湯税を課すものとする」という記載があります。
入湯税の実際の負担者は消費者であることが、明確に法律に記載されています。
風呂入りに行くのにいちいち役所に行くなんて面倒臭いもんな。
つまり、直接税は「税金を払う人=税金を納める人」であるのに対し、間接税は「税金を払う人≠税金を納める人」となります。
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708131 No.7644
>>7643
消費税は直接税だった
それでは、「消費税は消費した時に一旦店に払い、店が役所に税金を納めているから、間接税じゃん!」という至極当たり前の言説が成り立ちます。
しかし、法律を見ると、これは嘘であるということがわかります。
消費税法第五条では、消費税の納税義務者について、「事業者は国内において行った課税資産の譲渡等につき、この法律により消費税を納める義務がある」としか記載されていません。
引用:https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=363AC0000000108
つまり、消費税は法律上「事業者が払い、事業者が納める」形になっているのです!
消費税法のどこにも、「実際の負担者は消費者である」と明記されていません。
すなわち、担税者(税金を負担する人)と納税義務者(税金を納める人)が一致しているので、直接税になります!
過去の裁判でも明らかになっている
実は、この消費税の議論は、過去の裁判の判例でも明らかになっています。
サラリーマン新党という政治団体が、「消費税は年商3000万円以下(裁判当時)の事業者は払わなくて良いというのは消費税のネコババじゃん!あかんやん!」(簡単に言いました)として、訴えた事例がありました。
もし消費税が間接税であるならば、これはその通りで、現在の法律で言うならば年商1000万円以下の事業者はネコババしているという事実が認められます。
しかし、実際の判決はサラリーマン新党側の敗訴であり、判決理由としては、「消費者は消費税の実質的負担者ではあるが、消費税の納税義務者であるとは到底言えない」「消費税の徴収義務者が事業者であるとは解されないため、消費者が事業者に対して支払う消費税分は、あくまで商品や役務の提供に対する対価の一部としての性格しか有さない」とされています。
つまり、1000円の商品に100円の消費税を載せているのではなく、ただただ「1100円の商品」であり、その中に原価も、人件費も、所得税も、法人税も、そして消費税も含まれているだけの、国の主導した値上げに過ぎないのです。
そして、現在年商1000万円以下の免税事業者は、ネコババでも益税でもないということが裁判によっても証明されています。
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708131 No.7645
>>7644
(余談)元々は直間比率の是正というお題目だった
消費税は、今でこそ社会保障に使うというお題目で導入されていますが、もともと消費税が導入される1989年の竹下登内閣の時代にはどのような議論がされていたのでしょうか?
その時には、「直間比率の是正」というお題目でした。
今のお題目とは違うんやね!
つまり、所得税や法人税という直接税ばかりで税金を徴収しているので、間接税を導入して、直接税の負担の比率を下げようというお題目だったのです。
それは、直接税である所得税や法人税を引き下げる代わりに消費税を入れるというお題目でした。
これは大企業にとってはメリットのある話ですが、一般の国民には負担が増えるという形になっています。
そもそも消費税の導入は、所得税や法人税を引き下げることが当初の目的だったのですね!
それで、結果どうなったのかというと、
そのお題目通りに、法人税の減収と消費税の増収がセットなんですね!
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708131 No.7646
>>7645
消費税は消費にかけられる税という嘘
消費税は預かり金ではない!
先ほどの消費税の議論で出たように、消費税は間接税ではなく直接税です。
でも、なぜ間接税だと思わされているのでしょうか?
その答えは、普段の買い物にあります。
普段の買い物で、1100円の商品を買った時、レシートには必ず「商品1000円、消費税100円」と書かれています。
これがそもそも嘘だったのです!
先ほどの裁判の判例でも明らかなように、1100円という価格は、1100円という価格であり、法律上どこにも消費税が100円である証拠はないのです。
消費税は第二法人税?
では、消費税がどのように計算され、納税されているのでしょうか?
1100円という売り上げの中を、納税を考える場合、大きく3つに分類することができます。
それは、利益、非課税仕入れ、課税仕入れの3つです。
消費税は、全体の売上×10/100ー課税仕入れ×10/100で計算されます。
ということは、(全体の売上ー課税仕入れ)×10/100と()でくくることができます。
()の中を計算すると、これは(利益+非課税仕入れ)×10/100と読み替えることができます。
つまり、消費税は(利益+非課税仕入れ)にかかる税金であると言えます。
利益にかかるのは法人税で、(利益+非課税仕入れ)にかかるのが消費税です。
なので、消費税は第二法人税ということができます。
そう考えると利益には二重に課税されているんやね。厳しい世界やわ。
当たり前ですが、法人税は利益が出なければ納める必要はありません。
しかし、消費税は利益が出なくとも、非課税仕入れ(すなわち人件費など)が発生すれば、必ず払わなければいけません。
地獄のような税金ですね。
普通の経営をしていれば、人件費のかからない企業なんてどこにも存在しませんから。
税金の滞納の約6割は消費税の滞納だそうです。
消費税はもうこれ悪魔の税金としか呼べないわな。
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708131 No.7647
>>7646
※2023年の記事
インボイス制度は必要という嘘
そもそもインボイス制度とは?
2023年の10月からスタートすると言われているインボイス制度をご存知でしょうか?
インボイスとは、「適格請求書」のことです。
このインボイスを持っている人は、先ほどの非課税仕入れの中に入れられるけど、どんな事業者でもインボイスを発行するためには消費税を納めなければならないのです。
逆に、インボイスを持っていない人と取引すると、課税仕入れの中に入れられ、経費で落ちないなどの問題が発生してしまいます。
詳しくは「STOP!インボイス」というサイトで紹介されています。
つまり、インボイス制度とは、消費税の中にあった年商1000万円以下の事業者にも消費税を課税させようとする制度です。
実質の消費税増税でもあります。
そんなインボイス制度、おかしいところや嘘がたくさんあります。
そもそも預かり金ではない
インボイス制度の発端は、「年商1000万円以下の個人事業主は消費税をネコババしているからインボイス制度で取ろう!」という考えからスタートしています。
でも、裁判の判例で出ているように、消費税は(利益+課税仕入れ)にかかる直接税であり、ネコババなんてしていないし、益税でもないし、そもそも預かり金ではないのです。
インボイス制度は国民を分断する政策
そして、インボイス制度の酷いところは、インボイス制度に登録するか否かは納税者である事業者が選ばなければならないという点です。
インボイスを選べば消費税を払うという地獄、選ばなければ取引をしてもらえないリスクがあるという地獄、2択のどちらを選んでも地獄という究極の2択が発生しているのです。
そして、インボイス制度が始まると、電気代の値上げが待っています。
これは側から見ると風が吹けば桶屋が儲かる理論ではありますが、個人の家庭に付けているソーラーパネルはほとんどが個人のものなので、年商1000万円以下の事業主です。
そのため、電力会社の買い取るソーラーパネルから生み出された電気は非課税仕入れになってしまいます。
そのため、電力会社にとって非課税仕入れが増えるので、電気代の値上げが必要という事態になってしまっています。
つまり、インボイス制度によって実質的な増税が行われ、その増税分を誰が支払うのか、国民の間で分断と押し付け合いが始まってしまっているのです。
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708131 No.7648
>>7647
将来の消費税増税を見越している?
インボイス制度が始まると、次に待っているのは消費税増税です。
消費税を増税するという圧力や機運が高まっていますが、食料品などはこれ以上上げるわけにはいきません。
そこで、インボイス制度を始めることで、分離課税をスムーズに行うことができます。
計算するときの消費税の課税額が分離され、さらに課税仕入れに消費税を乗せることができます。
そして、インボイスの登録番号とも紐づいているので、税を逃れられないという悪魔の増税が待ち構えているのです。
経団連は消費税を19%に上げるという要望も出しており、インボイス制度が通れば、これ以上の消費税の増税と家計への苦しみが増えることになります。
消費税は国民にメリットのある税金という嘘
消費税のメリットとは?
一般的に言われる消費税のメリットとは、国が歳入を安定的に確保できることや、財政健全化につながることが挙げられます。
でも、そのメリットって果たして本当にメリットなのでしょうか?
誰にとってのメリットなのでしょうか?
国が歳入を安定的に確保する必要ってないよね
国が安定的に財源を確保して徳をするのは財務省です。
安定的な財源確保によって、ますます一般会計への歳入は増えていきます。
しかし、今の日本は約30年もの空前の不景気!
2019年度の消費税増税による経済の落ち込み、コロナ禍の消費の落ち込み、そしてロシアウクライナ戦争による世界的な悪いコストプッシュ型インフレに巻き込まれ、三重苦です!
こんな時にお金のない一般の方々から税金を巻き上げるのが消費税は安定財源と言われる理由です。
税収は過去最高だと財務省は胸を張って主張していますが、どこの国に国民を貧しくさせて胸を張って威張る政治家がいるんですか?
ここだよ!日本だよ!(悲しすぎるわ)
財政健全化ってまずいんだよね
財政健全化って本当に必要なんでしょうか?
財政赤字を問題にしていますが、政府が赤字ってことはその分国民は黒字になっているわけです。
政府が財政黒字(財政健全化)になったら、国民は赤字ですよね?
国民を痛めつけることが素晴らしいなんておかしいですよね?
つまり、財政健全化とは「国民を貧しくさせます」って言っているんですよ!
こんな政府はあり得ない!
終
※文中で紫テキストにしている箇所は、記事内でキャラクターがコメントしている内容です
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