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日本を偉大にする

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000000 No.264 [Last50 Posts]

主にキリスト教と日本の関わりや、古代の思想に関する情報をまとめていく。

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940713 No.265

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>>>/qnotables/45989

Originally posted at >>>/qresearch/17571429 (240332ZSEP22) Notable: KADOKAWA会長を逮捕 五輪組織委元理事に贈賄容疑 東京地検(Q997を思い出す)

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>>>/qresearch/17571187

安倍総理大臣とローマ教皇フランシスコ台下との会談等  2019/11/25 外務省HP

https: //www.mofa.go.jp/mofaj/erp/we/va/page6_000444.html

安倍総理大臣から,「教皇フランシスコ台下の訪日を歓迎。長い間,訪日したいと希望しておられたが,今回,38年ぶりにローマ教皇の訪日が実現して嬉しい。」,「2014年にバチカンを訪問し,台下にお目にかかったが,本日は,官邸に台下をお迎えでき光栄である。」旨述べました。また,「日本とバチカンは共に,平和,「核兵器のない世界」の実現,貧困撲滅,人権,環境等を重視するパートナーである。教皇フランシスコ台下の訪日を契機に,バチカンとの協力を拡大していきたい」旨述べました。教皇フランシスコ台下から,訪日できてうれしく思う,今後両国の協力を一層強化していきたい旨述べました。

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940713 No.266

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>>265

>>>/qnotables/45990

Originally posted at >>>/qresearch/17571507 (240348ZSEP22) Notable: KADOKAWA会長を逮捕 五輪組織委元理事に贈賄容疑 東京地検(Q997を思い出す)

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>>>/qnotables/45989

記念すべきローマ教皇来日前夜! バチカンと日本のさらなる文化交流が始動! 【バチカンと日本のヴェールに包まれた歴史の交流、その解明の扉がいま開かれる―100年プロジェクト】

https: //kadobun.jp/feature/readings/bf2clq6cke80.html 2019/11/26

日本の文化振興に寄与するための事業を手掛ける公益財団法人 角川文化振興財団は、【バチカンと日本のヴェールに包まれた歴史の交流、その解明の扉がいま開かれる―100年プロジェクト】の記者会見を、2019年11月22日(金)14時より、開催しました。

第266代ローマ教皇フランシスコ来日(11月23日~26日)の前日[11月22日(金)]、飯田橋の《神楽座》にて、【バチカンと日本のヴェールに包まれた歴史の交流、その解明の扉がいま開かれる―100年プロジェクト】記者会見が、ジャン=クロード・オロリッシュ枢機卿(ルクセンブルク大司教)、川村信三氏(上智大学教授)、シルヴィオ・ヴィータ氏(京都外国語大学教授・イタリア国立東方学研究所研究企画代表)を招いて開催されました。

記者会見に先立ち、駐日ローマ法王庁大使のジョゼフ・チェノットゥ大司教から、本プロジェクトに向けてのメッセージが伝えられました。またローマ教皇の来日に合わせて訪日された、在バチカン日本大使館・特命全権大使の中村芳夫氏も本会見のために来場されました。

プロジェクトの概要について

◎バチカンと日本の交流

バチカンと日本の交流の歴史は、大航海時代におけるキリスト教伝来とキリシタン文化の時代に始まり、今日までに400年を超えます。その後、潜伏キリシタンと呼ばれる時期があり、明治初めの長崎における奇跡の「信徒発見」に至ります。さらに100年前の1919年、日本にローマ教皇庁使節館が設置され、1942年には両国の正式な国交が結ばれ、現在まで深い交流が続いています。

バチカン図書館やバチカン機密文書館には、長い歴史の中で蓄積された、日本に関するさまざまな資料が残されており、今回その包括的な調査と研究に挑戦します。また、研究成果を公開するシンポジウムをはじめ、両国の友好関係のさらなる発展に寄与したいと願い、その他にもいくつかの企画を展開してまいります。それらをひとつのプロジェクトとして、東京2020オリンピック・パラリンピックの開催時期に合わせ、推進していきます。

◎文化庁「日本博」の事業

本プロジェクトは、文化庁が取り組んでいる「日本博」における助成事業のひとつとして採択されています。 「日本博」は総合テーマ「日本人と自然」の下、日本全国で日本の文化芸術に流れる「日本の美」を国内外へ発信し、次世代に伝えることで更なる未来の創成を目指す文化芸術の祭典です。そのプロジェクトのひとつとして、長崎県、長崎市とパートナーシップを結び、日本におけるキリスト教文化を世界中に発信する取り組みを実施します。長崎は、世界遺産に登録された潜伏キリシタン関連遺産をはじめ、バチカンとキリシタン文化に深い関係をもっています。

◎関連書籍の出版

今回の教皇の来日を機に、KADOKAWAからフランシスコ教皇の御著書『「幸福」と「人生の意味」について』(単行本)、中村玲子さんのエッセイ『ローマ教皇 食の旅』(単行本)、竹下節子さんの『ローマ法王』(角川ソフィア文庫)を刊行いたしました。また、今後はシンポジウムの成果なども書籍としてまとめていきます。  

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940713 No.267

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>>266

>>>/qnotables/45991

Originally posted at >>>/qresearch/17571594 (240417ZSEP22) Notable: KADOKAWA会長を逮捕 五輪組織委元理事に贈賄容疑 東京地検(Q997を思い出す)

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>>>/qnotables/45990

KADOKAWA会長を逮捕 五輪組織委元理事に贈賄容疑 東京地検2022/9/14

https: //www3.nhk.or.jp/news/html/20220914/k10013817531000.html

東京オリンピック・パラリンピックのスポンサー契約をめぐる贈収賄事件で、東京地検特捜部は、出版大手、KADOKAWAの角川歴彦会長(79)が、大会組織委員会の高橋治之元理事に総額6900万円の賄賂を提供していたとして、新たに贈賄の疑いで逮捕しました。

逮捕されたのは、出版大手、KADOKAWAの会長、角川歴彦容疑者(79)です。

東京地検特捜部の調べによりますと、角川会長は大会のスポンサー選定などで便宜を受けたことへの謝礼などとして、大会組織委員会元理事の高橋治之容疑者(78)に去年までの3年間に総額6900万円の賄賂を提供したとして、贈賄の疑いが持たれています。

特捜部は今月6日、KADOKAWAの、元専務、芳原世幸容疑者(64)と、担当室長だった馬庭教二容疑者(63)の2人を、高橋元理事への贈賄の疑いで逮捕するとともに、元理事を受託収賄の疑いで再逮捕し、捜査を進めていました。

Q997

>>>/qresearch/884736

P = pope?

>>>/qresearch/884748

[ローマ法皇] は最悪の5月を過ごすことになる。

彼を支援していた人たちは、光に押し込まれるでしょう>

闇から光へ。

真実。

Q

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940713 No.282

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>>>/qnotables/46283

Originally posted at >>>/qresearch/17853256 (300955ZNOV22) Notable: 全日本仏教教会の元会長はWEFメンバー

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https://www.weforum.org/people/yukei-matsunaga

松長有慶

1951年、高野山大学密教学研究科卒業、1959年、東北大学大学院博士課程修了、1978年、九州大学大学院博士課程修了(文学博士)。1942年、南院出家、1965年、高野山大学助教授、1968年、高野山宝幢院住職、1970年、高野山大学教授、1983年、高野山大学学長、1984年、三教文研所長。1991年修養会、1994年学会、関学、1999年高野山宝珠院門主、1995年紀州修養会代表、2006年高野山専修学院院長、2008年高野山真言宗、第412世住職、金剛峰寺住職。

https://ja.wikipedia.org/wiki/松長有慶

https://ja.wikipedia.org/wiki/全日本仏教会

http://www.jbf.ne.jp

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940713 No.283

>>282

高野山 金剛峯寺 第412世の座主 松長有慶さん死去

2023年4月18日

https://www3.nhk.or.jp/lnews/wakayama/20230418/2040014371.html

高野山真言宗の総本山、金剛峯寺の座主を務めた松長有慶さんが16日、亡くなりました。

93歳でした。

松長さんは高野町出身で、高野山大学の学長などを歴任し、平成18年に金剛峯寺の第412世の座主に就任しました。

平成21年には、比叡山延暦寺を総本山とする天台宗の座主による高野山の公式訪問を初めて実現させるなど、宗派を超えた交流にも取り組みました。

また、密教研究の専門家として知られ、多くの著書を残しました。

金剛峯寺によりますと、松長さんはすい臓がんのため、16日、大阪市の病院で亡くなったということです。

金剛峯寺の今川泰伸 執行長は「私たち若い者の先生としてずっと高野山におられました。卓越した先生の教えは、今も全国に数多くのお弟子さんがいます。まだまだ現役で私たちにお教えをと思っていましたので、寂しく名残惜しいです」と話していました。

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940713 No.318

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>>>/qnotables/46897

Originally posted at >>>/qresearch/17984720 (200331ZDEC22) Notable: マザー・テレサの知られざる暗黒面の内幕

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Q Research General >>>/qresearch/17980885 #22027 >>>/qresearch/17980702

マザー・テレサの知られざる暗黒面の内幕

教皇、3人の慈善家の模範に感謝 - バチカン・ニュース バチカン

2022年12月17日

12月17日の誕生日に、教皇フランシスコは、困窮者の救済に献身した3人を表彰しました。彼らは、シリアのフランシスコ会司祭アントレプレナー・ペドロロ神父です。この取り組みは、教皇庁の慈善奉仕会により行われています。

(Vatican News Network)インド・カルカッタのマザー・テレサを記念して、12月17日の誕生日に、教皇フランシスコは、人生の全く異なる状況の中で、最も貧しい人々のために慈善活動を行った3人を称えた。

教皇庁慈善事業団の発表によると、授与された人の中には、フランシスコ会司祭のハンナ・ジャルーフ師が、現在も続く壊滅的な戦争の時代に、シリアの貧しい人々のケアに身を捧げました By. もう一人は、毎日受け取る助成金の一部を自分より貧しい人々のために使うホームレスのジャン・ピエロ、またの名をウエです。この2人に加え、ローマ法王が授与したシルヴァノ・ペドロロは、イタリア・ベローナ出身の企業家で、会社の利益の大部分をアフリカ、インド、ラテンアメリカのケアと援助に充てています。貧しい国々に学校を建て、井戸を掘り、医療施設を建設しているのです。

教皇のシンプルかつ重要な動きは、カルカッタのマザー・テレサに敬意を表してのことだった。12月17日の授賞式には、慈善宣教修道女会の修道女たち20人と、彼女たちが管理する寮に住む人々20人が出席した。

現在、慈善宣教修道女会は6,000人以上の修道女がおり、139の国と地域に分布する762の慈善施設で貧しい人々の世話をするマザー・テレサの仕事を続けています。すべての人に、このチャレンジが求められているのです。教皇から贈られた「感謝の花」は、小さな地球儀を支える立方体に埋め込まれています。立方体は世界を一つにまとめる愛の象徴であり、地球儀には窓が描かれていて、その奥には子供を抱くソー・マザー・テレサが迫ってきています。マザー・テレサは開かれた窓であり、そこからイエスが現れ、世界各地の貧しい人々に語りかけました。 そして、彼らに微笑みと慰めと尊厳を与えたのです。

https://www.breakinglatest.news/world/pope-thanks-three-exemplars-of-charity-vatican-news-vatican/

マザー・テレサの "やり方 "を学んだ6,000人?彼らの邪悪な魔力に苦しむ人々を主よ救いたまえ

マザー・テレサの知られざるダークサイドの内幕

By Nickolaus Hines|Checked By Jaclyn Anglis 公開日:2021年10月18日 更新日:2021年10月22日

2016年、有名な修道女マザー・テレサはローマ法王フランシスコによって聖人に認定された–しかし多くの人々は、彼女はそれに値しないと言う。

マザー・テレサの医療センターとミッションの恐ろしい状況

マザー・テレサが生涯を通じて付き合った怪しい仲間たち

マザー・テレサのお金の行方の永遠の謎

1991年にドイツの雑誌「シュテルン」に掲載されたレポートでは、彼女が受け取った数百万ドルのうち、わずか7%しか慈善事業に使われなかったと推定されています。

https://allthatsinteresting.com/mother-teresa-saint

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940713 No.325

>>>/qnotables/47069

Originally posted at >>>/qresearch/18006734 (240541ZDEC22) Notable: 小児性愛/人身売買 BUN / 仏教の小児性愛者の僧侶たち

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Q Research General >>>/qresearch/18005778 #22063 >>>/qresearch/18005589, >>>/qresearch/18005590

仏教のロリコン僧侶たち

特集: 仏教の小児性愛者のお坊さん

https://www.upi.com/Odd_News/2002/05/01/Feature-Buddhisms-pedophile-monks/81841020273948/

ワシントン 5月1日(UPI) 聖職者と少年との性行為は、決してカトリック特有の現象ではない、と米国の著名な学者が水曜日に述べた。何世紀にもわたってアジアの仏教僧院で行われてきた。

「マディソンにあるウィスコンシン大学のレナード・ツウィリングはユナイテッド・プレス・インターナショナルに語った。「もちろん、これは仏教の聖典に反しているが、チベット、中国、日本、その他の地域で一般的に行われてきたことだ」

"実際、イエズス会が16世紀に中国と日本に到着したとき、彼らは仏教の僧侶とまだ子どもであった修行僧との形式的な関係にぞっとしたのです。これらの関係は明らかに独身主義を破っていたのです」と、ツヴィリングはこのテーマについて30年以上にわたって幅広く執筆しており、それを最初に発表した一人である。

仏教学の博士号を持つツヴィリング氏は電話インタビューで、この慣習は20世紀に入っても続いていたと語った。

仏陀は僧院での性行為を明確に禁じているが、「チベットの僧侶の規律を守るための組織であるボブ・ドブのメンバーが、男子をめぐって争った事件がある」とツヴィリングは続けた。

「彼らは商売道具の巨大な鍵で互いを打ちのめした。また、ダライラマが何世代にもわたって "お気に入り "を持っていたことも分かっています。

牧師、心理学者、児童虐待の世界的な専門家であるミネソタ在住のラルフ・アンダーウェージャーによれば、他の研究によれば、日本の仏教僧は10世紀には性的でない形の「小児性愛」を実践していたそうです。

アンダーウェージャーと彼の仲間であるホリダ・ウェイクフィールドは、この現象を専門に扱う学術誌「Paidika」のインタビューで、"無性の愛情としてのプラトニックラブという概念がペドフィリアを記述している "と指摘している。

アンダーウェージャーとウェイクフィールドは、ギリシャの哲学者ソクラテス、プラトン、ソフォクレス、アリストテレス、劇作家アリストファネス、政治家・軍人のアルキビアデスが、"愛が小児性愛を動機付けると主張している "と説明しています。

しかし、彼らがそうであったとしても、それはセックスの意味でのものではなかった。

ツヴィリングによれば、「挿入と射精を伴うセックス」をした僧侶は、仏陀とダルマ(教え)と共に仏教の三帰依の一部であるサンガから追放されることになる。

「これは、僧侶が女性、男性、子供のいずれと貞操の誓いを破った場合でも同じことです」とツヴィリングは言う。"挿入や射精がなければ、罰はそれほど重くありません"。

その場合、違反者は懲罰を受けるだけで、おそらく階級を下げられるだけで、修道院から追い出されることはない、とこの学者は説明した。

「実は、仏教の正典には小児性愛はほとんど出てこないんです」と彼は続けた。「少年を愛した男の運命を描いた一節を目にしたことがあるだけだ。彼は地獄に行き、酸で満たされた川に行き着き、少年たちはその川を泳いだ。子供たちは苦悶していた。

「子どもたちへの愛から、その男は川に飛び込み、子どもたちの苦痛を味わうことになったのです」

オーストラリアの著名な仏教研究者であるピーター・A・ジャクソンは、この信仰では、苦しみの消滅という宗教的目標を達成するために、あらゆる形の性欲や欲望を超越しなければならないと指摘している。

上座部仏教の僧侶の行動規範であるヴィナヤを引用して、ジャクソンはこう書いている。「僧侶が性交する者は…敗北者であり、(サンガでの)交わりを見つけることはできないだろう」。

ヴィナヤは、自動性交を含む性犯罪を非常に明確に非難している(その章の一つは、「長いペニスを持つ僧侶のケース」と題されている)。しかし、古代の仏教の書物では、同性愛は第3の性として扱われているため、同性愛を特別視していない、とツヴィリングは言う。

しかし、2,500年ほど前に、ある「パンダカ」(上座部仏教の聖なる言語であるパーリ語で、同性愛者)の非道な振る舞いが、釈尊にそのような男性の叙任を禁止させたと、ビナヤは伝えているのである。

こんな話である。

「パンダカは、ある僧院で出家した。彼は若い僧のところに行って、こう励ました。「みんな来て、私を襲ってみろ」。

「パンダカ、あなたは必ず…精神的に破壊されるでしょう。それが何の益になるのか?…彼は、何人かの大きくたくましい修行僧のところに行って、こう励ました、「みんな来て、私を襲ってみろ」。

修行者たちは口を揃えて、『パンダカ、お前は必ず滅ぼされる。それが何の益になるのでしょうか』。

p1

>>>/qresearch/18005589

「パンダカはその後、象や馬を飼う人たちのところへ行き、こう話しかけた。お前たち全員来て、私を襲ってみろ」。象や馬を飼う男たちは彼に襲いかかった。

"それから祝福された方は、僧侶たちに「見よ、僧侶たちよ、パンダカとは出家してはならない者であり、・・・すでに出家している(パンダカ)には服を脱がせなければならない」と命じられた。"

ツヴィリングによれば、仏教の信徒が同性愛行為をしても、地獄に落ちることはない。そのような運命は、姦淫者や強姦魔のために用意されているのだ。一方、同性愛は、前世でそのような罪を犯した人に対する罰の延長線上にある。

タイの有名な新聞コラムニストで、仏教について書いているプラソックは、釈迦の側近であるプラ・アナンダの運命がこれであったことを紹介している。

彼は前世で姦通の罪を犯したため、カトーイ(タイ語で同性愛者の意味)に生まれた。そのため、何万年も地獄で煮詰まっていたのです。

「地獄から解放された後も、古いカルマの一部が残っていて、何百回もカトーイとして生まれ変わることになったのです」。

これは性犯罪に対するかなり厳しい罰に聞こえるかもしれないが、仏教は不貞な夫に対してもっと悪いものを用意しているかもしれないと、ツヴィリングはUPIに語った。「彼は女に生まれ変わるかもしれない」

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940713 No.348

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>>>/qnotables/47281

Originally posted at >>>/qresearch/18053216 (011405ZJAN23) Notable: ローマ法王ベネディクト16世のルビー色の靴に隠された意味

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Q Research General >>>/qresearch/18047983 #22118 >>>/qresearch/18047257, >>>/qresearch/18047270, >>>/qresearch/18047295

ローマ法王ベネディクト16世のルビー色の靴に隠された意味

ローマ法王ベネディクト16世のルビー色の靴に隠された意味

この色には、さまざまな意味がある。ある人は、十字架にかけられたイエスの血まみれの足を思い起こさせると信じ、またある人は、カトリックの殉教者のこぼれた血を表していると信じている。

フィラデルフィアを拠点とするカトリック系ニュースサイト「Whispers in the Loggia」の編集者であるRocco Palmo氏は、2008年に初めて実際に見たときのことを今でも覚えている。「最初に思ったのは、『なんてこった、この靴は本当に赤いんだ』ということでした。見慣れた靴なのに、実物を見ると、何かが飛び出してくるようでした」と、今は笑って話す。

https://www.washingtonpost.com/lifestyle/2022/12/31/red-shoes-pope-benedict/

>>>/qresearch/18047257

>>>/qresearch/18047263

ローマ旅行

>>>/qresearch/18047257

2018年(あなたの投稿と同じ)

ローマ法王のルビーレッドのスリッパに隠された真実

https://www.messynessychic.com/2018/02/07/the-truth-behind-the-popes-ruby-slippers/

あるいは

これは「赤い靴」の謎か?

"最悪なのは、儀式的に殺害した子供の皮膚で作った靴を履いている"

https://ellacruz.org/2018/05/02/is-this-the-mystery-of-the-red-shoes/

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940713 No.6470

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>>6469

妙見菩薩

https://ja.wikipedia.org/wiki/妙見菩薩

妙見菩薩(みょうけんぼさつ、旧仮名遣:めうけんぼさつ)は、北極星または北斗七星を神格化した仏教の天部の一つ。尊星王(そんしょうおう)、妙見尊星王(みょうけんそんしょうおう)、北辰菩薩(ほくしんぼさつ)などとも呼ばれる[3]。

妙見信仰の由来・拡散

妙見信仰は、インドで発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星・北斗七星信仰と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来したものである[4]。「菩薩」とは、本来「ボーディ・サットヴァ」(梵語:bodhisattva)の音写で、「菩提を求める衆生」の意であり、十界では上位である四聖(仏・菩薩・縁覚・声聞)の一つだが、妙見菩薩は他のインド由来の菩薩とは異なり、中国の星宿思想から北極星を神格化したものであることから、形式上の名称は菩薩でありながら実質は大黒天や毘沙門天・弁才天と同じ天部に分類されている[4][5]。

道教に由来する古代中国の思想では、北極星(北辰)は天帝(天皇大帝)と見なされた。これに仏教思想が流入して「菩薩」の名が付けられ、「妙見菩薩」と称するようになったと考えられる[6]。「妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者ということである[7]。

妙見信仰は中国の南北朝時代には既にあったと考えられているが、当時からの仏像は未だに確認されていない[8]。妙見を説く最古の経典は晋代失訳『七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経』(西暦317~420年[9][1]、大正蔵1332)である

・妙見信仰が日本へ伝わったのは7世紀(飛鳥時代)のことで、高句麗・百済出身の渡来人によってもたらされたものと考えられる。当初は渡来人の多い近畿以西の信仰であったが、渡来人が朝廷の政策により東国に移住させられた影響で東日本にも広まった。

能勢がキリシタン大名の高山右近の領地であったことと、キリシタンの多い土地に日蓮宗の僧侶が送り込まれたことから、隠れキリシタンは日蓮宗系の妙見菩薩像(いわゆる能勢妙見)を天帝(デウス)に見立てたともみられている[4]。

>妙見を説く最古の経典は晋代失訳『七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経』(西暦317~420年[9][1]、大正蔵1332)である

ここで話は逸れますが、安倍晋三の"晋"という文字は中国の晋(王朝)が何か関係している可能性はある??安倍晋三の名前の"三"も気になる。何かの3代目???三男じゃないのに名前に"三"が入っている意味・・・

https://ja.wikipedia.org/wiki/晋_(王朝)

https://en.wikipedia.org/wiki/Jin_dynasty_(266%E2%80%93420)

この記事には下記の記載があります:

「晋」の字をもらったものの、次男なのに「晋三」と名付けられた。母の洋子さんに、なぜ「晋三」なのかと聞いたことがある。

「主人も私も女の子を欲しかったが、2人目も男の子だった。父(岸氏)は喜んでいましたが。名前の由来はよく聞かれますが、晋二より晋三の方が字画が良いとか。主人も字の据わりが良いからとはじめから『晋三だ』といいました」

https://www.news-postseven.com/archives/20220709_1772134.html?DETAIL

Ummm 本当にそれが理由???

英語版

Myōken

https://en.wikipedia.org/wiki/My%C5%8Dken

主に真言宗、天台宗、日蓮宗で崇拝される北極星の仏教の神格化です。日本の仏教の流派.

妙見の名前と菩薩としての地位はサンスクリット語に由来するとされているにもかかわらず、妙見は初期の仏教文献には明らかに存在しておらず、彼の名前が最初に登場するのは中国起源の外典経典である。したがって、彼は唐の時代に仏教と習合した北極星や北斗七星に関する道教や民間信仰に由来すると考えられています。

起源

唐の時代、中国仏教は道教の北斗七星崇拝を採用し、さまざまな経典や儀式を借用し、仏教の実践や教義に適合するように修正されました。北斗七星の崇拝は最終的にさまざまな仏教の神々の崇拝に吸収され、妙見もその 1 つでした。[7]

妙見に関する最も古い情報源は、東晋時代のある時点で翻訳されたとされる『七仏八菩薩が教えた大陀羅尼の神呪』[8] (伝統的: Qīfó bā púsà suàshuō dà tuóluóní shénzhòu jīng ; T . 1332 ) です。 (西暦 317 年 - 420 年) [7]妙見は、本文の中で自分自身を「『不思議なビジョン』(明见、ピンイン: Miàojiàn、日本語:妙見)という名の北極星の菩薩(北星菩薩)」と紹介しています。あ]

唐の時代までに、妙見を中心とした密教の文書や儀式が急増しました。唐の文書を直接引用した、妙見を主神とする多数の星状曼荼羅が日本に保存されています。838 年に中国を旅行した円仁の日記は、唐時代末期にも妙見信仰が中国でまだ栄えていたことを示唆しています。

妙見菩薩(宮沢英心『妙見菩薩信仰論』より).jpg(添付画像)

→確かに刀と頭部の飾りとの重なりが十字架のように見える・・・

>能勢がキリシタン大名の高山右近の領地であった

高山右近

https://ja.wikipedia.org/wiki/高山右近

高山 右近 / 高山 重友(たかやま うこん / たかやま しげとも、天文21年〈1552年〉または天文22年〈1553年〉- 慶長20年1月6日〈1615年2月3日〉)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名である。代表的なキリシタン大名として知られ、カトリック教会の福者でもある。

父は摂津国人・高山飛騨守、母はマリア(洗礼名)。同じく摂津国人の中川清秀は従兄弟とされる。

・右近の生年は日本側の史料に所見がなく、外国側史料でも一致しないが、天文21年(1552年)から天文22年(1553年)ごろと推定され[1]、友照の嫡男として生まれた。後世キリシタンとして有名となる右近であるが、早くも永禄6年(1563年)に10歳でキリスト教の洗礼を受けている[4]。それは父が奈良で琵琶法師だったイエズス会修道士・ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためであった。右近はジュストの洗礼名を得た

・葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげてイントラムロスの中にあった聖アンナ教会にて、10日間という長期間にわたり盛大に行われた。右近の亡骸は、イエズス会コレジオのサンタ・アンナ聖堂の近くに埋葬された。1634年には、右近の遺骨はサン・ホセにあったコレジオの聖堂に移され、石棺の上には右近の画像が掲げられた。1767年、マニラのイエズス会が閉鎖され、土地と建物はマニラ大司教区の所有となる。その後、右近の遺骨と画像は行方不明となった。右近の遺骨を探す活動は今も続けられている

・1962年、高槻天主教会堂跡の近くに、高山右近臨終の地であるフィリピン・マニラ郊外アンティポロにある聖母大聖堂を模して建てられたカトリック高槻教会の新聖堂は、高山右近記念聖堂と命名された

・高山右近没後400年にあたる平成27年(2015年)、日本のカトリック中央協議会は「高山右近は、地位を捨てて信仰を貫いた殉教者である」として、福者に認定するようローマ教皇庁に申請した[18]。

同年6月18日、教皇庁の神学調査委員会が最終手続きに入ることを了承し[19]、翌2016年(平成28年)1月22日に教皇フランシスコが認可した[20]。 同年6月23日、カトリック中央協議会は、教皇庁国務省が高山右近の列福式を平成29年(2017年)2月7日に大阪市で執り行うと発表した[21]。 平成29年(2017年)2月7日に大阪府大阪市の大阪城ホールで列福式が執り行われた[22]。列福式には、教皇代理として教皇庁列聖省長官のアンジェロ・アマート(英語版)枢機卿が来日して司式した[23]。

高山右近、「福者」認定=国外追放のキリシタン大名-バチカン2016/01/22

https://archive.is/K3Gtp

バチカン(ローマ法王庁)は22日、江戸幕府のキリスト教の禁教令で国外追放されたキリシタン大名、高山右近(1552〜1615年)を最高の崇敬対象となる「聖人」に次ぐ「福者」に認定したと発表した。フランシスコ・ローマ法王が21日に承認した。

 福者に加える儀式「列福式」は日本で行われる見通し。右近は現在の大阪府で生まれ、父の影響で12歳で洗礼を受けた。豊臣秀吉のバテレン追放令で領地や地位を失っても信仰を守り、1614年にマニラに追放され、翌年病死した。

 昨年は没後400年の節目で、日本のカトリック教会が右近を殉教者として福者に認定するようバチカンに働き掛けていた。日本カトリック司教協議会は声明を出し、右近は物質的な豊かさや権力ではなく、信仰が人を幸せにすると確信していたと指摘。「右近の生き方は現代に生きる人々を照らす光になる」と訴えた。

 福者になるには殉教か、難病の治癒など「奇跡」が一つ認定されることが必要。2007年には江戸幕府の弾圧で殉教したペトロ岐部ら日本人カトリック教徒188人が福者に決まり、08年に長崎市で列福式が行われた。

フィリピンマニラの高山右近銅像

https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g298573-d11743086-Reviews-Lord_Justo_Ukon_Takayama_Monument-Manila_Metro_Manila_Luzon.html

バチカンが高山右近を福者に認定したということは・・・

キリシタン大名の高山右近の領地であった能勢とイエズス会の繋がりは、能勢キャンプが行われたことと何か関係があるのでは???

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940713 No.6471

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>>6470

高山右近研究室のブログ

https: //ameblo.jp/ukon-takayama/entry-12288316241.html

出典はないのですが、興味深い記述がありました。

ホイヴェルス神父様作の 「 復活のキリスト 」 というお能があるのを知ってビックリポンです! 

そこで思い出すのが、1581年に巡察師ヴァリニャーノを迎えて高槻で行われた復活祭のこと。この時、右近どの自ら筆を執って、キリスト復活のお能の台本を書き、上演されたのでしたね。

どんな作品だったのかしら? といつも気になっています。ホイヴェルス神父様作の 「 復活のキリスト 」 を見てみたいし、その台本があれば、琵琶で語ってみたいなぁと思います。琵琶の語り物って平家物語だけでなく、謡曲を翻案したものも多いのです。右近どのの時代、日本にキリスト教を広めるために大活躍したのが琵琶法師のロレンソ了斎。彼のキリスト教への造詣の深さと信仰の強さ、そして語りの力があったからこそ、日本人の間にキリスト教が広まっていったと思うのです。そう思うと、実際に私も琵琶を手にしてキリストの復活を語ってみたいという衝動に駆られるのでした。

バチカンで能「復活のキリスト」 幻の演目 54年ぶりよみがえる 2017年6月9日

https://web.archive.org/web/20170818234606/http://www.tokyo-np.co.jp/article/entertainment/tradition/CK2017060902000197.html

カトリックの総本山であるバチカン市国で二十三、二十四両日(現地時間)、一九五七年に能楽宝生流で初演し、六三年に一度だけ再演されたのを最後に封印された宝生流唯一のキリスト教の演目「復活のキリスト」が上演される。日本とバチカンの国交樹立七十五周年の記念公演で、シテ(主演)のキリストを二十世宗家、宝生和英(かずふさ)(31)がつとめる。和英は「能は宗教を超え、相互理解を重んじてきた。あらゆる信仰の人たちに鑑賞してもらいたい」と話す。 (藤浪繁雄)

 世界各地でテロや紛争が相次ぎ、国際情勢が不安定化する中での公演に、和英は「能は歴史的にいろいろな文化を吸収し、柔軟性がある懐が深い芸能。それだけに意義がある」と強調する。

 六百五十年ほどの歴史を持つ能は、日本に伝来するまで洋の東西の影響を受けながら発展してきた。日本では神仏習合に適応し、さまざまな宗教や神も受け入れてきた。例えば、天下太平を祈る「翁(おきな)」のように「すべての人の心の中にある神を映し出す」という趣旨の曲もある。

 和英は近年、イタリアで公演を重ね、舞台美術に工夫を凝らした「高砂」「乱(みだれ)」といった曲で好評を得てきた。観客が祈るように鑑賞している姿を舞台から見て「ミサに近いと思った」と話す。バチカンで能が上演される機会が少ないことから、今回の上演に気合をみなぎらせている。

 「復活のキリスト」は、ドイツ人宣教師の原作を五七年に宝生流十七世宗家の宝生九郎(〇〇~七四年)が演出とシテで初演。キリストがよみがえり、それを見届けた信徒の女性たちとのきずなを描く。六三年の再演後は「廃曲」となっていたが、最近、流派の蔵からこの曲で使われた冠や装束類、謡(うたい)や所作の書き付けなどが見つかり、復曲の機運が高まっていた。

 バチカンでは十五~十六世紀に建てられたカンチェレリア宮殿で上演される。和英は「単に披露するだけでは『日本、すごいね』で終わってしまう。一方通行の交流ではなく、お客さんたちが多様な考え方をいかに理解し合えるか。そのきっかけにしたい」と語り、能が持つ相互理解のパワーに託す。「翁」や「羽衣」といった能の代表的な曲目も披露する。

 これに先立ち、二十一日にはイタリア北部ヴィチェンツァの世界最古の室内劇場「テアトロオリンピコ」で開催される「第七十回古典演劇フェスティバル」で「翁」を公演する。

<復活のキリスト> イエズス会のドイツ人宣教師で、上智大学長も務めたヘルマン・ホイヴェルス(1890~1977年)の原作。教義への日本人の理解を促す一環として手掛けた。57年4月に東京・水道橋能楽堂(現宝生能楽堂)で初演。重厚な芸風の宝生流にあって異色の新作で、機関誌「宝生」は当時「珍らしく始めての新作能が生まれた。しかもキリストをシテとするという思い切り異色の能であつた」(原文ママ)と記している。

画像引用元(画質が良くないです):

能「復活のキリスト」上演 日バチカン国交75周年記念 2017/6/25

https://www.nishinippon.co.jp/item/o/337996/

Ummm 高山右近とバチカンの関わりは深そうです・・・

Q133

飲み込むのは難しい。

進歩するために重要なこと

操り人形の主は誰か?

サウド家(6+++)-4兆ドル以上

ロスチャイルド(6++)-2兆ドル以上

ソロス(6+) - 1兆ドル以上

上記(3)に注目。

富の公開 - 偽り。

世界の多くの政府が「目」を養っている。

裏金(資金供給者)を考える。

戦争を考える(資金供給者)。

環境協定を考える(資金供給者)。

三角形には(3つの)側面がある。

プロビデンスの目。

血統をたどれ。

キーストーンとは何か?

サタンは存在するか?

サタンの「思想」は存在するか?

誰がサタンを崇拝しているのか?

カルトとは何か?

エプスタイン島

寺院とは何か?

寺院では何が起こるのか?

礼拝?

なぜ寺院は山の上にあるのか?

下にはいくつの階層があるのか?

ドームの上の色、デザイン、シンボルの意味は?

なぜこれが関係しているのか?

人形遣いは誰ですか?

人形遣いはこの島に来たことがありますか?

いつ?どのくらいの頻度で?なぜ?

"ウラジーミル・プーチン:サタンを崇拝する新世界秩序"

Q

画質が良いものがありました

https://natalie.mu/stage/gallery/news/503549/1951780

https://www.nohgaku.or.jp/caravan2022/performance/detail/20221225_tokyo

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940713 No.6774

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Q Research Japan/Nihon #19より

サヴォイア家諸騎士団が事前活動として子ども向け教育プログラムを行う真の目的は何なのか?

こちらのフリージャーナリストさんの記事に掲載されていた情報から調べてみました。

https://rakusen.exblog.jp/30485389/

イタリア王家サヴォイア家諸騎士団ウェブサイト

https://ordinidinasticicasasavoia.jp/

イタリア王家サヴォイア家は、ヨーロッパ屈指の王家として、聖マウリツィオ・ラザロ騎士団、勲功騎士団などの歴史と名誉のある騎士団を擁しています。

騎士団の設立は約一千年前の中世に遡ります。

当初はキリスト教徒の聖地巡礼の支援活動から始まりましたが、現代では世界中で様々な慈善活動に取り組んでいます。

本サイトでは、日本支部での慈善活動の取り組みや、主事業である騎士団(ナイト)の行動規範を現代の最先端の認知科学の成果で解釈した子ども向け教育プログラムをご紹介致します。

日本支部

https://ordinidinasticicasasavoia.jp/orders#03

イタリア王家と日本とは古くから親交が深く歴代の皇室の方々や、近代日本の立役者であるような政治家、教科書に載るような文化人も、騎士団の一員です。

近年、日本支部での活動はさらに精力的となり、毎年の王太子や騎士団長らの来日による慈善パーティ(チャリティーガラパーティー)の開催や、新騎士の推薦を行ってまいりました。叙勲された騎士には、世界最大の映画祭での受賞をうけた映画監督や、日本を代表するアーティスト、世界的な活躍をされている建築家もおります。

この日本支部で行う慈善活動の一つが、本ページで紹介している「騎士道(ナイト)の行動規範を現代の最先端の認知科学の成果で解釈した子ども向け教育プログラム」です。

今後も本プログラムの導入状況や、騎士による社会貢献活動を報告していきます。

次回の慈善晩餐会は、2021年春の開催を予定しております。興味をお持ちの方はニュースレターへの登録をお願いします。

サヴォイア王家ジュニアナイト卓絶騎士 養成プログラム

https://ordinidinasticicasasavoia.jp/program#01

イタリア王家サヴォイア家騎士団 日本支部では、慈善活動として、ナイトの行動規範を現代の最先端の認知科学の成果で解釈した子ども向け教育プログラムを開発しました。

勇気、礼儀、寛容、誇り高さ、強固な倫理観などで知られるナイトの高い自己評価と、平和を愛し弱者を助ける行動規範は、ともすれば画一化し、自己評価を上げにくい現在の教育システムにおいて、重要な役割を果たすと自負しています。

全15ユニットのカリキュラムを修了した子ども達には、サヴォイア家からジュニアナイトの称号と勲章が授与されます。子ども達が国内のみならず世界でリーダーとして活躍する大きな力となるものと確信します。

本プログラムは世界の子ども達に無償で提供いたします。

教育プログラムの詳細

プログラムは、子ども達が講義動画を視聴しながら、訓練を受けたファシリテーターがクラスを進行する形で行われます。

■チャプター1「イントロダクション:現代の騎士道とは」

自尊心、利他の精神、寛大さ、など

■チャプター2「騎士(ナイト)として、より広いコンフォートゾーンを維持するために」

私たちはコンフォートゾーンを超えたパフォーマンスを発揮することはできない

■チャプター3「コンフォートゾーンとセルフイメージ」

自己イメージがコンフォートゾーンを決める

■チャプター4「セルフイメージとブリーフシステム」

ブリーフシステムが自己イメージを制限する

■チャプター5「ブリーフシステムの作られ方」

過去に受け入れた周囲からの言葉が、今のあなたのブリーフシステムを作っている

■チャプター6「ブリーフシステムを変化させる:ゴール設定」

ゴール設定によって見えるものが変わり、新しいブリーフシステムが作られる

■チャプター7「ブリーフシステムを変化させる:エフィカシーと騎士(ナイト)のエスティーム」

ドリームキラーの言うことは聞かなくていい。君ならできる。君は本当にすごい

■チャプター8「ブリーフシステムを変化させる:セルフトークとビジュアライゼーション」

セルフトークやグループトークを改善する。エンドステートを映像化する

■チャプター9「ブリーフシステムを変化させる:時間は未来から過去に流れる」

過去が未来を決めるのではなく、ゴールが未来を決める

過去の実績は未来を作る力として使う

■チャプター10「ブリーフシステムを変化させる:Want-toとHave-to」

本当にこれをやりたいのか?それとも誰かに言われてやっているのか?

■チャプター11「エモーションコントロール、「戦う」か「逃げるか」 ホメオスタシスを観察(モニタリング)する」

脳と心を上手に使うこと:現代の騎士(ナイト)が持つレジリエンスの基本

■チャプター12「自発的な創造性と圧倒的に高いパフォーマンス」

マインドの働き方を知ることであなたの創造性と知性を無限に伸ばすことができる

■チャプター13「本気で世界平和を実現するという「ゴールと価値観」に対するお互いの尊重」

お互いがお互いのブリーフシステムを尊重し合おう

■チャプター14「コレクティブエフィカシー、より高いゴール、複数のゴールのバランス、そして素晴らしい人生」

あなたは、バランスが取れたとても高いゴールを持っている、大変エフィカシーが高いグループの一員である

■チャプター15「イマジネーションの限界を超えていこう」

私たちのイマジネーションの限界が、私たちの限界を作る。力をあわせて限界を超えていこう

コンフォートゾーンという言葉、どこかで聞いたことがあるような…

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940713 No.6775

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>>6774

>コンフォートゾーン

コンフォートゾーン

https://ja.wikipedia.org/wiki/コンフォートゾーン

コンフォートゾーン(英語:Comfort zone)とは、「快適な空間」を意味する語である。心理学などでは、ストレスや不安が無く、限りなく落ち着いた精神状態でいられる場所を指す。また、天文学の世界では、生命が存在する可能性があるハビタブルゾーンの別名である[1]。建設業界でも快適性評価に関連して使用されることがある[2]。

ソーシャルワークの研究家ブレネー・ブラウンは、「私たちの不安、欠乏、および心の傷つきが最小限に抑えられている場合 - 私たちが十分な愛、食べ物、能力、時間、賞賛を得ることができると信じられる場所。そういったものが整えられている場所の事である」と説明している[3]。

【基本的なコンセプト】コンフォートゾーン SPECIAL EDITION 苫米地メソッド特別編集版 苫米地英人公式チャンネル

https://youtu.be/yslcBwdUqWs?si=GGlLHNw6J2h8R20C

苫米地英人

https://ja.wikipedia.org/wiki/苫米地英人

苫米地 英人(とまべち ひでと、1959年9月7日 - )は、日本の認知科学者(機能脳科学、計算言語学、認知心理学、分析哲学)。カーネギーメロン大学計算言語学博士(Ph.D. in Computational Linguistics)。かつて「苫米地 英斗」と表記されていた時期がある[注 1][注 2]。世界の戦争と差別をなくすのがゴールと語る。サインは一念三千。脱洗脳をテーマに活動している。

カーネギーメロン大学サイバーセキュリティアンドプライバシー研究所(サイラブ)フェロー[1]。ジョージ・メイソン大学コマンド・コントロール・コミュニケーションズ・コンピューティング・インテリジェンスアンドサイバーセンター(C4I and Cyber Center)研究教授[2]。早稲田大学研究院客員教授。中国南開大学情報技術科学学院客座教授。ロシア国立極東連邦大学客員教授。株式会社ドクター苫米地ワークス代表。コグニティブリサーチラボ株式会社CEO。角川春樹事務所顧問。米国公益法人The Better World Foundation日本代表。米国教育機関TPIジャパン日本代表。天台宗ハワイ別院国際部長。公益社団法人日本ジャーナリスト協会会長兼理事長[3] 聖マウリツィオ・ラザロ騎士団大十字騎士[4]。サヴォイア王家諸騎士団日本代表

略歴

祖父は苫米地英俊(言語学者、衆議院議員、参議院議員)[6][7][8]。

1979年:駒場東邦高等学校を経て帰国子女であり推薦入学で上智大学外国語学部入学。

1981年:マサチューセッツ大学アマースト校コミュニケーション学部(ディベート専攻)留学。

1983年:上智大学外国語学部英語学科卒業(言語学)、三菱地所入社

1985年:イエール大学大学院計算機科学科博士課程(人工知能)入学[9]、イエール大学人工知能研究所・認知科学プロジェクト研究員(フルブライト奨学生)[10]

1987年:カーネギーメロン大学大学院哲学科計算言語学研究科博士課程転入[11]

1987年:カーネギーメロン大学計算機科学科研究員(-1992)[12]

1990年:ATR自動翻訳電話研究所滞在研究員[13]

[14]

1992年:徳島大学助教授(工学部知能情報工学科) 担当科目: 情報システム工学、データベース[15]

1993年:カーネギーメロン大学大学院博士課程修了(計算言語学博士号、Ph.D. in Computational Linguistics)[16]。

1995年:株式会社ジャストシステム 本社開発本部ディレクタ、ジャストシステム基礎研究所所長[17][18]、ハーバード大学医学部マサチューセッツ総合病院脳機能研究共同プロジェクト日本側代表[19]。

1996年:通商産業省情報処理振興審議会専門委員。ジャストシステム ピッツバーグ研究所(JPRC)取締役。

1998年:コグニティブ・リサーチ・ラボラトリィズ株式会社取締役[20]

2003年:中国南開大学情報技術科学学院客座教授[21]。

2000年:文部省領域研究ゲノム情報科学高速化委員[22]

2007年:カーネギーメロン大学サイバーセキュリティアンドプライバシー研究所(サイラブ)[23] フェロー[24]

2008年、米国の自己啓発家ルー・タイスとともに、米国認知科学の最新の成果を盛り込んだ能力開発プログラム「PX2」の日本向けアレンジに着手。日本における総責任者として普及に努めるようになった[25]。

2012年11月23日、第46回衆議院議員総選挙に北海道第4区から新党大地公認で立候補することを発表[26]。政務調査会長に就任、2012年12月15日までに小樽や札幌で街頭演説等を多数行う[27]。2012年12月16日、第46回衆議院議員総選挙で落選。

2013年:ロシア国立極東連邦大学客員教授就任[28][29]

2014-2019:河野克俊統合幕僚長期間中の自衛隊におけるサイバー軍の創設と留学生受け入れを含む教育にカーネギーメロン大学リエゾンとして協力[30][31][32]

2015年:公益社団法人自由報道協会会長就任[33]

2019年:サヴォイア王家諸騎士団日本代表就任[34]

2019年:ジョージ・メイソン大学C4I and Cyber Center客員教授就任 (2021年より研究教授)[35][36]

現在は、ドクター苫米地ワークス代表、株式会社コグニティブリサーチラボCEO[37]、角川春樹事務所顧問、天台宗ハワイ別院国際部長[38]、カーネギーメロン大学サイラブフェロー[39]、ジョージ・メイソン大学C4I and Cyber Center研究教授[35]米国公益法人ベター・ワールド・ファウンデイション[注 3]理事、一般財団法人BWFインターナショナル代表理事[40]、合同会社TPIジャパンCEO[41]、合同会社苫米地インスティチュートCEO[42]、一般財団法人苫米地国際食糧支援機構代表理事[43][44][45]。公益社団法人日本ジャーナリスト協会会長兼理事長。世界的なギターコレクターとしても知られる[46][47]。

Hideto Tomabechi

https://en.wikipedia.org/wiki/Hideto_Tomabechi

彼は、認知科学、人工知能、計算言語学、認知心理学、マインドコントロール (洗脳)、認知戦争、人間の脳情報処理の数学モデルのモデルを開発しました。

気になる箇所を転載します

・自衛隊顧問

・ダライ・ラマ法王大使

・苫米地氏は研究分野を政府プロジェクトに集中させました。苫米地氏の主な貢献は、自衛隊(JSDF) とカーネギーメロン大学との共同研究を主導したことです。[31]彼はまた、仮想通貨関連政策に関して多くの政府に助言し、仮想通貨取引所や ICO 企業を含む世界中の民間機関にも助言を行っています。[44] [45]

・苫米地英人氏は、徳島大学情報科学部・知能システム学科教授としてジャストシステムの代表も務めた。ジャストシステムは当時、日本最大のソフトウェア開発・技術会社でした。[46] [47] [48] [49]

1995年、日本の警察は苫米地英人に地下鉄サリン事件の捜査協力を要請した。彼はハーバード大学で脳の研究に携わったアメリカから帰国しました。一連の攻撃は影響を受けた意識状態(主に薬物と催眠術)で行われ、暗殺者らは記憶喪失となった。苫米地英人博士は認知技術と催眠術を駆使し、人々の意識から暗殺の詳細を呼び起こすことに成功し、捜査に大きな影響を与えた。彼は、この攻撃に関与した終末カルトであるオウム真理教の指導者のプログラムを解除することに成功した。苫米地氏はオウムの最大の敵の一人であり、彼に対して暗殺計画が立てられたが失敗に終わった[65] [62] 。[66]

苫米地氏はメディアに何度も登場し、オウムの洗脳手法について解説している。同氏は、オウムはMKウルトラなどのCIAファイルにアクセスできたと述べた。苫米地氏によると、オウムは人々の性格や記憶を作り変える技術を使っていたという。

苫米地氏はオウムの洗脳手法を3つに分けて論じた。1 つ目は、精霊や魂を信じる日本の社会的および文化的な信念体系です。つまり、最初の一歩はすでに踏み出されていたのです。なぜなら、そもそも、超常現象を信じる人々がオウムに行ったので、彼らの基本的な信念を変える必要がなかったのです。日本人の信仰体系はオウムの教えを受け入れました。二つ目は、教えの論理の中に隠されていました。彼らは人々に恐怖を生み出す教えを築き上げました。彼らは麻原だけが信者の恐怖を解決できることを示し、また人々の精神的な欲求を呼び起こしました。彼らは、社会、両親、友人が霊的に間違った道を歩いていると教えました。信者たちは、オウム以外の人々は皆、悪いカルマを生み出すと教えられました。したがって、彼らは彼らに会うことも話すことも許されていません。こうして彼らはますます孤立し、オウムの教えの中でのみ平和を見出したのです。3番目のステップは、一連の具体的な心理的、化学的、技術的手法でした。麻原は信者に薬物を与え、それを食べ物の中に隠した(主にLSD)。このように、信者たちは強い霊的体験を経験したが、それは全員が麻原の力によるものだと考えた。その後、彼は、潜在意識のメッセージを含むビデオや脳に電気を送る帽子などのテクノロジーツールも使用しました。

・苫米地家

苫米地英人は、苫米地家武道の宗家兼家元(苫米地流十段)でもあります。苫米地武術は700年以上の歴史を持つ古武術です。その起源は、足利将軍が貴族一族に、後にサムライと呼ばれる戦士になるよう要請したことに遡ります。

苫米地流は何世代にもわたって一族だけの武道でした。近年、苫米地博士は、社内規則の例外として、自衛隊特殊部隊や機動隊から選ばれた隊員に指導を行っています。彼の先祖には、足利将軍家としての関東地方の将軍である上杉憲政、京都と長崎の奉行(奉行)である大久保忠広、そして徳川幕府の陸軍奉行並などの有名な武士が含まれています。幕末には先祖代々の名刀「虎徹」を新選組局長近藤勇に贈った[100] 。

苫米地氏は若い頃、柔道、剣道、空手を含むさまざまな日本の武道も習いました。日本には1945年から1950年まで連合国最高司令官(SCAP)による武道禁止があった。苫米地博士の祖父である苫米地英利は、日本の国会議員であり、嘉納塾の塾長であり、嘉納治五郎の講道館柔道の初期指導者(八段)でもあった、柔道の禁止免除の立役者であった。剣道も禁止から解放された。古代の家の武術は禁止から解放されませんでした。したがって、家庭での武道の練習を非公開にすることが重要でした。したがって、苫米地博士は若い頃、公的には講道館柔道と警察剣道の訓練を受け、プライベートでは家庭武道の訓練を受けました。彼も極真館の創成期に13歳で極真空手に入門した。[101]

現在は世界極真武道会の名誉会長も務めている。極真空手では黒帯五段を持っている

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940713 No.6776

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>>6775

第3回 慈善晩餐会にて、隈研吾氏が最高位勲章を受勲されました

https://ordinidinasticicasasavoia.jp/archives/368

2019年5月21日にホテル椿山荘東京オリオンの間にて、サヴォイア王家による新騎士叙任式と慈善晩餐会(チャリティガラパーティ)が開催されました。式および晩餐会には、サヴォイア家からエマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア王太子殿下(ピエモンテ公・ヴェネチア公)と世界各地の騎士、そして日本の騎士を含む約450人のVIPにご参列頂きました。

●隈研吾氏、日本人初の「イタリア王家サヴォイア家勲功騎士団」大十字騎士に叙任

叙任式では、優れた社会貢献や文化活動を評価された数名が上記2つの騎士団から新たな「キャバリエーレ(騎士)」として称号と勲章を授与されました。このうち「イタリア王家サヴォイア家勲功騎士団」からは、日本人としては騎士団史上初めての「キャバリエーレ・ディ・グラン・クローチェ(大十字騎士)」の称号と勲章が建築家・隈研吾氏に贈られました。

●サヴォイア家諸騎士団日本支部の慈善活動について

参列したエマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア王太子殿下は、スピーチで「サヴォイア家諸騎士団日本支部には、日本でトップレベルの慈善団体になるよう活動していってほしい」と発言され、今年2019年から諸騎士団日本支部の独自チャリティ活動としてスタートした無償教育プログラム「サヴォイア王家ジュニアナイト卓絶騎士 養成プログラム」とその実施状況についても言及されました。このプログラムは、青少年に「騎士道精神=ナイト(騎士)の行動規範」を学んでもらう教育プログラムで、世界中の子どもたちに無償で提供されております。

●チャリティ晩餐会の様子

叙任式に続いて開かれたチャリティ晩餐会では、イタリア王宮料理をイメージしたフルコースが饗され、参列されたVIPが華やかな雰囲気の中で会を楽しみました。

格式の高い晩餐会を彩る催しとしては、柔道北京五輪代表選手で全日本柔道連盟シニア強化コーチの金丸雄介氏、および世界柔道形選手権で7度の世界一を手にされ現在も5連覇中の横山喬之氏による「形」の演武が三味線演奏にあわせて行われたほか、虚無僧姿に扮した尺八奏者による演奏や、フルオーケストラによる宮廷音楽の演奏などが行われました。

本パーティへの参加費用の一部は、日本赤十字社に寄付いたしました。

共同通信:慈善晩餐会にて、隈研吾氏が最高位勲章を受勲 2019/6/1

https://kyodonewsprwire.jp/release/201906017066

イタリア王家サヴォイア家が発祥の、欧州で最も名誉と歴史のある騎士団である「聖マウリツィオ・ラザロ騎士団」「イタリア王家サヴォイア家勲功騎士団」などを擁する、サヴォイア家諸騎士団(ORDINI DINASTICI DELLA REAL CASA DI SAVOIA)の日本支部「一般財団法人 サヴォイア王家諸騎士団」は2019年5月26日、ホテル椿山荘東京にて、2019年度の新騎士叙任式とチャリティ晩餐会を開催いたしました。

式および晩餐会には、サヴォイア家からエマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア王太子殿下(ピエモンテ公・ヴェネチア公)と世界各地の騎士にもご参列いただきました。

・2019年2月には、神奈川県の洗足学園中学高等学校にて、世界で初めてのプログラム開催とプログラム修了者への叙勲セレモニーが行われました。

 このセレモニーには、エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア王太子殿下と、エマヌエーレ王太子のいとこでユーゴスラビア王家のセルジュ・カラジョルジェヴィチ王太子殿下も参列され、計37名の中高生に「ジュニアナイト」の称号が贈られました。

●イタリア王家サヴォイア家について

ヨーロッパ屈指の名門貴族であり、イタリア統一とイタリア王国統治をおこなった王家。1946年のイタリアの王政廃止により一時はスイスへ亡命するが、現在はその拠点をイタリアへ戻して活動している。

サヴォイア家のもとには5つの騎士団が存在し、そのうち特に「聖マウリツィオ・ラザロ騎士団」「サヴォイア家勲功騎士団」は現代でも世界30カ国以上に支部をもって精力的に活動している。騎士団は、設立当初(古くは西暦1000年ごろまでルーツを遡ることができる)はキリスト教徒の聖地巡礼の支援を主な活動としていたが、現代ではその人道主義的な性格はそのまま受け継ぎつつも宗教には捉われずに、世界中で慈善活動に取り組んでいる。

●エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア王太子殿下について

ヴェネツィア公およびピエモンテ公の爵位と、イタリア王国王位継承権を持つ。祖父はイタリア王国最後の国王ウンベルト2世。1972年6月22 日、イタリアの王政廃止に伴う国外追放によりサヴォイア家が亡命したスイス・ジュネーブにて生まれる。2002年の憲法改正により父とともにイタリアに帰国。

現在はスイス・イタリア・モナコに住居を構える。自ら立ち上げた慈善事業財団「ピエモンテ=ヴェネツィア公財団」を通じて、文化保護活動やギニアでの学校施設などに寄付している。イタリア国内ではタレントとしても活動しており、国民的な人気のスターでもある。自らプロデュースする服飾ブランドやイタリア料理レストランを立ち上げるなど実業家としての活躍も幅広い。私生活ではフランス人女優クロティルド・クロー様と結婚。2女の父親である。

●一般財団法人サヴォイア王家諸騎士団について

サヴォイア王家諸騎士団の日本支部を運営する法人。当法人のなかには、「聖マウリツィオ・ラザロ騎士団」「イタリア王家サヴォイア家勲功騎士団」の2つの騎士団が存在する。現在の代表は苫米地英人(2019年1月1日就任)。活動目的は、主に国内を中心とした慈善活動を行うこと。毎年5月に新騎士叙任式並びにチャリティ晩餐会をひらくほか、独自の慈善活動「ジュニアナイト卓絶騎士養成プログラム」の青少年への無償提供や、各種慈善団体への寄付活動をおこなう。

 「聖マウリツィオ・ラザロ騎士団」の日本人騎士としては、明治から昭和の天皇陛下、山縣有朋氏や伊藤博文氏ら総理大臣、のような錚々たるメンバーが名を連ねている。現在も、芸術、科学、産業などの世界において著しい業績を残した人物に門戸を開いている。

「イタリア王家サヴォイア家勲功騎士団」は、各界において著しい業績をおさめる人物のほか、騎士団の人道主義的な精神に賛同し慈善活動を誓う人物も受け入れている。騎士団の序列は5段階あり、隈研吾氏は騎士団史上で初めて日本人で最高位「大十字騎士」となった。

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940713 No.6777

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>>6776

EXILE ATSUSHI、イタリア王家から“ナイト”の称号を授与

https://www.oricon.co.jp/news/2099772/full/  2017/10/28

人気グループ・EXILEのATSUSHIが27日、東京・帝国ホテルで開催されたイタリア王家サヴォイア家の慈善宮廷晩餐会に出席し、王家騎士団「聖マウリツィオ・ラザロ騎士団」から、“ナイト”の称号と勲章を授与された。

ATSUSHIが受勲した「聖マウリツィオ・ラザロ騎士団」は1572年に設立され、現在、世界33の国に約4000名の騎士、貴婦人がいる。今日では、慈善活動や人道支援活動に取り組んでおり、ATSUSHIの国際的な文化活動や、社会貢献活動の功績が評価され受勲に至った。

過去の受章者には、明治天皇や昭和天皇といった皇室をはじめ、初代内閣総理大臣の伊藤博文、建築家の丹下健三、茶道裏千家前家元の千玄室、読売巨人軍永久名誉監督の長嶋茂雄、歌舞伎役者の十二代目市川團十郎など、錚々たる面々が騎士団員として名を連ねている。

 晩餐会のフィナーレでは、欧州貴族など豪華な来賓者が集うなか、ATSUSHIは「エマニュエル王子が、慈善活動のために、こうして日本に来てくださったことに、感謝の気持ちと敬意を評して」と、自身が作詞作曲をし「日本の心」をテーマに制作した「道しるべ」、そして「この曲のような想いで、世界の人々が共に共存できるような世界を想像しながら、夢見ながら、聴いていただけたら」と、ジョンレノンの「Imagine」の2曲を披露した

 イタリアの初代国王を輩出した王家サヴォイア家は、4世紀頃から続く騎士団を5つ束ね、慈善活動や人道支援活動を存在意義として活動。戦後の情勢変化により、日本における騎士団の慈善活動は行われていなかったが、今回の晩餐会を節目に、日本での活動も再開していくという。

デヴィ夫人ブログ:イタリア王家サヴォイア家 慈善晩餐会にて

https://ameblo.jp/dewisukarno/entry-12324167825.html 2017/11/4

皆さま ごきげんよう

ヨーロッパ屈指の旧家であるイタリア王家サヴォイア家の慈善晩餐会が帝国ホテル 富士の間でありました。この日は 慈善活動や社会貢献活動などに取り組んだ取り組みが顕著な方々が王家騎士団 「聖マウリツウィオ・ラザロ騎士団」から〝ナイト〟の称号と勲章を授与されました。 EXILE の ATSUSHIさん、映画監督の 三池崇史さんが新任騎士に叙任されました。1572年に設立された 「聖マウリツウィオ・ラザロ騎士団」は、現在 世界33カ国に約4000人の騎士、貴婦人がいるそうです。過去の受賞者には、明治天皇や昭和天皇といった皇室をはじめ、 初代内閣総理大臣の伊藤博文、 建築家の丹下健三、茶道裏千家家元の 千玄室、読売巨人軍永久名誉監督

長嶋茂雄、歌舞伎役者の十二代目市川團十郎など、そうそうたる面々が騎士団員として名を連ねています。

(敬称略)

私も 以前ラザロ騎士団より DAMEの称号を頂いておりましたので、 勲章をつけて 出席させて頂きました。ホテルの会場には サンマリノ大使をはじめ、そうそうたる 豪華な来賓者がいらしていました。

ステキなゲストの皆さまと♪左から 騎士 岡部芳彦さん、ダニエル、Anthony Schembriさん、私、畑中由利江さん、 畑中さんのご主人Jean Henri Tamenne Lovenfosseさん、友人の マークエステルさん

千 玄室大宗匠 聖マウリツィオ・ラザロ騎士団勲章を受章 2013年

https://www.urasenke.or.jp/archives/textm/headq/soke/news/news153/news153.html

12月25日(水)、千 玄室大宗匠は、イタリア王家サボイア家「聖マウリツィオ・ラザロ騎士団最高位大十字騎士勲章」を受章されました。

 ラザロ騎士団は十字軍の時代に創設され、キリスト教の聖地を旅する巡礼者を守ることを目的とした騎士団でしたが、今日では、キリスト教の慣習に基づいた慈善活動に取り組んでいます。大宗匠の茶道を通じた多彩な国際貢献が認められ、この度の叙勲に結びつきました。

 受勲式は、12月25日の午前11時から東京都港区のホテルオークラ東京にて開催。来賓として裏千家老分で、関東第一地区地区長の本庄八郎氏、同地区副地区長の竹田恒和氏、裏千家老分で、同地区特別顧問の牛尾治郎氏、東京第六西支部支部長の越智隆雄氏はじめ関東第一地区役員、日本在住のラザロ騎士団受章者、関係者らが招かれ、大宗匠の受章を祝福しました。

 式典は、聖マウリツィオ・ラザロ騎士団日本代表者の加瀬英明氏、騎士団団員で在日外交団団長のサンマリノ共和国 マンリオ・カデロ駐日特命全権大使が入場し、開式となりました。

 加瀬代表の挨拶に続いて大宗匠に勲章が授与された後、カデロ大使がイタリア語で入団を宣言し、大宗匠の騎士団入団を歓迎されました。

大宗匠は挨拶で、「平成21年にバチカンで偶然にもサボイア家の皆さまにお会いすることができ、今回の受勲もそのときのご縁ではないかと感じています。これからも、一碗のお茶で平和のために寄与していく決意です」と謝辞を述べられました。

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940713 No.6778

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>>6777

関連するニュース

イタリア「サヴォイア王家諸騎士団」を巡る高貴ではない“決闘” 「謎の科学者」対「外交評論家」

https://www.dailyshincho.jp/article/2022/02101040/?all=1 2022/2/10

日本支部の新旧代表

 2020年9月、東京地裁で、とある名誉毀損裁判の判決が下された。原告は苫米地英人(とまべちひでと)氏、被告は加瀬英明(ひであき)氏である。なぜか日本で、かつてイタリア全土を支配していたサヴォイア王家を巡るトラブルが起きていたのだ。

苫米地氏は脳機能学者として知る人ぞ知る存在で、オウム事件の際には信者の「脱・洗脳」を担当したこともある人物。事件後は人工知能関連会社を経営し、言論活動にも積極的だ。一方の加瀬氏は元国連大使の子息にして、ブリタニカ国際大百科事典の初代編集長。大物政治家からも頼りにされてきた外交評論家である。

二人が法廷で争うことになったきっかけを、加瀬氏が振り返る。

「もともと私は『サヴォイア王家諸騎士団』(以下・王家騎士団と略)という団体の日本代表を13年間務めていました。建築家の丹下健三さんがお元気なころに日本支部の運営を頼まれて引き受けたのです」

 王家騎士団は慈善活動を行い、社会貢献のあった人物に「騎士」の称号を与えている。代々、サヴォイア家の当主が代表を務めており、現代表は「最後の王子」と呼ばれるエマヌエレ・フィリベルト王太子だ。王太子の訪日時に関係を築いた苫米地氏は、15年、「騎士」の称号を与えられた。19年から、加瀬氏に代わって代表に就いている。

そして20年6月。なんの前触れもなく、加瀬氏は苫米地氏から1100万円の損害賠償を求めて訴えられた。訴状には、王太子の側近や王家騎士団に対し、加瀬氏が虚偽の情報を二度にわたってメールで流布したと記されている。

 いわく、〈オウムのリーダーである麻原彰晃が苫米地氏の義父であり友人である〉〈苫米地氏には、アメリカにおけるレイプの話等その他の良からぬ話がある〉等々。

 これらは事実ではない。加瀬氏はメール送信など身に覚えがないというが、判決は220万円の賠償を命じた。加瀬氏が裁判をすっぽかしてしまったからだ。

「自宅に届いた訴状をお手伝いさんが処分してしまったようで、訴えられていたことを知らなかった。控訴審では一審判決をひっくり返すつもりです」

 一方の苫米地氏は、

「係争が継続しておりますので、取材、コメントは差し控えさせていただきます」(苫米地英人事務所)

 高貴な団体を巡る、なんとも奇妙な裁判である。

関口雄輝(元海将補)がコグニティブリサーチラボ株式会社執行役員(安全保障担当)に就任

認知戦防衛、サイバー防衛、安全保障全般のコンサルティング事業、シンクタンク事業、関連ソフトウェア並びにハードウェア研究開発を担当

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000022.000006328.html 2023/4/3

関口雄輝(元海将補)がコグニティブリサーチラボ株式会社(本社:東京都港区代表取締役CEO苫米地英人、以下CRL)の執行役員(安全保障担当)に就任致しました。

関口雄輝は、海上自衛隊に30年以上在籍、米海軍士官学校(在メリーランド州アナポリス)航海科主任教官を経て、米中央軍司令部連絡官、在米国大使館の主席防衛駐在官を務め、日米における軍事交流に大きく貢献致しました。尚、海将補は、海上自衛隊内では、海上幕僚長、海将に次ぐ階級とされています。2015年には米駐在百数十カ国の国防武官団の団長にアジアから初として就任しています。( https://ameblo.jp/tank-2012/entry-12092901503.html )

今後はCRLにおいて、執行役員(安全保障担当)として、当社の認知戦防衛、サイバー防衛、安全保障全般のコンサルティング事業、シンクタンク事業、関連ソフトウェア並びにハードウェア研究開発を、弊社特別顧問の米元国防次官補リントン・ウェルズ博士のアドバイスと共にご担当頂きます。

関口雄輝 プロフィール

防衛大学校理工学部卒業、青山学院大学大学院(国際政治学修士)卒。護衛艦はつゆき航海長、米海軍士官学校(在メリーランド州アナポリス)航海科主任教官、護衛艦はまぎり艦長、などを経験後に、外務省に出向、在フロリダ州米中央軍司令部多国籍軍調整所日本代表として勤務。その後、防衛省統合幕僚監部運用部日米共同班長、海上幕僚監部防衛課防衛調整官、外務省外務参事官(在米国日本大使館 防衛班長)、統合幕僚幹部指揮通信システム部長(J-6)、海上自衛隊舞鶴地方総監部幕僚長、海上自衛隊第2術科学校学校長、海上自衛隊幹部学校副校長を歴任し、2022年12月に退官しました。退官後は、認知戦、次世代サイバー戦に関わる研究並びにミッションクリティカル分野におけるリーダー教育プログラム開発などを弊社CEO苫米地英人と共に行なっています。

■会社概要

商号 : コグニティブリサーチラボ株式会社

代表者 :代表取締役 苫米地 英人

所在地 :〒106-0032 東京都港区六本木7-5-11

設立 : 2000年3月

事業内容 :ソフトウェア開発

URL : https://www.crl.co.jp/

弊社創立時の苫米地英人の研究業績集

https://www.crl.co.jp/thesis

・Machines break the language barrier(機械は言語の壁を打ち破る)

・文脈理解するAI

・文脈理解し応答

・自動通訳システム

・ニューロ電算機を開発

・新ニューロ電算機

https://www.crl.co.jp/info

特別顧問(応用研究) リントン・ウェルズ博士

米国海軍大佐(退役、海兵1967年卒)、米国国防総省国防次官補を歴任し、現在も現役で米国政府の国家安全保障を指導するリーダー。

ベトナム戦争から湾岸戦争までの戦争に従軍し、9.11当時は米国国防省次官補として国防総省及び全世界に展開する米軍の情報セキュリティーを全て統括し、未曾有のテロに対しクライシス・リーダーシップを実践した。

テロの脅威からサイバー脅威に移行する中、安全保障、国家戦略論とレジリエンスの世界権威の立場からも、新時代のクライシス・リーダーシップ論、サイバーレジリエンス論、並びに次世代意思決定教育論などを提唱している。また、近年では国防的観点からの経済安全保障に関わる指導も行っている。

関口雄輝(元海将補)

関口雄輝は、海上自衛隊に30年以上在籍、米海軍士官学校(在メリーランド州アナポリス)航海科主任教官を経て、米中央軍司令部連絡官、在米国大使館の主席防衛駐在官を務め、日米における軍事交流に大きく貢献致しました。尚、海将補は、海上自衛隊内では、海上幕僚長、海将に次ぐ階級とされています。2015年には米駐在百数十カ国の国防武官団 の団長にアジアから初として就任しています。

今後はCRLにおいて、執行役員(安全保障担当)として、当社の認知戦防衛、サイバー防衛、安全保障全般のコンサルティング事業、シンクタンク事業、関連ソフトウェア並びにハードウェア研究開発を、弊社特別顧問の米元国防次官補リントン・ウェルズ博士のアドバイスと共にご担当頂きます。

プロフィール

防衛大学校理工学部卒業、青山学院大学大学院(国際政治学修士)卒。護衛艦はつゆき航海長、米海軍士官学校(在メリーランド州アナポリス)航海科主任教官、護衛艦はまぎり艦長、などを経験後に、外務省に出向、在フロリダ州米中央軍司令部多国籍軍調整所日本代表として勤務。その後、防衛省統合幕僚監部運用部日米共同班長、海上幕僚監部防衛課防衛調整官、外務省外務参事官(在米国日本大使館 防衛班長)、統合幕僚幹部指揮通信システム部長(J-6)、海上自衛隊舞鶴地方総監部幕僚長、海上自衛隊第2術科学校学校長、海上自衛隊幹部学校副校長を歴任し、2022年12月に退官しました。退官後は、認知戦、次世代サイバー戦に関わる研究並びにミッションクリティカル分野におけるリーダー教育プログラム開発などを弊社CEO苫米地英人と共に行なっています。

井上一徳(前衆議院議員)

井上一徳は、内閣官房内閣安全保障・危機管理室、内閣官房内閣参事官(第一次安倍内閣 総理補佐官付)、防衛省運用企面局事態対処課長(東日本大震災)を経験し、防衛省大臣官房文書課長、防衛省沖縄防衛局長、防衛装備庁調達管理部長、防衛省大臣官房審議官を経て、衆議院議員を務めました。

今後はCRLにおいて、執行役員(安全保障担当)として、当社の認知戦防衛、サイバー防衛、安全保障全般のコンサルティング事業、シンクタンク事業、関連ソフトウェア並びにハードウェア研究開発を、弊社特別顧問の米元国防次官補リントン・ウェルズ博士のアドバイスと共にご担当頂きます。

プロフィール

横浜国立大学経済学部卒業。元防衛省大臣官房審議官、元沖縄防衛局長、元自衛隊島根地方協力本部長を経て、防衛装備庁調達管理部長、防衛省大臣官房審議官を経験。

2017年、第48回衆議院総選挙当選、衆議院議員として2022年まで務めた。

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940713 No.6779

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>>6774

誤字訂正

>サヴォイア家諸騎士団が事前活動として子ども向け教育プログラムを行う真の目的は何なのか?

サヴォイア家諸騎士団が慈善活動として子ども向け教育プログラムを行う真の目的は何なのか?

聖マウリッツィオ・ラザロ勲章

https://ja.wikipedia.org/wiki/聖マウリッツィオ・ラザロ勲章

聖マウリッツィオ・ラザロ騎士団(伊語:Ordine dei Santi Maurizio e Lazzaro)は、近世イタリアで結成された騎士修道会、及びこれを後身とする世俗騎士団。イタリア王国の騎士団は、1572年9月16日、コモ湖のリエルナ城教会のリエルナ(イタリア語: Lierna Lake Como)に設立された。

歴史

「Category:聖マウリッツィオ・ラザロ勲章受章者」および「聖ラザロ騎士団」も参照

同騎士団には二つの源流があり、サヴォイア家出身の対立教皇であったアメデーオ8世・ディ・サヴォイア(フェリクス5世)が組織した聖マウリッツィオ騎士団、もう一つは十字軍遠征時の武勲で知られる聖ラザロ騎士団である。1572年、サヴォイア公及びネーデルラント総督エマヌエーレ・フィリベルトによって二つの騎士団は統合され、ローマ教皇の認可により聖マウリッツィオ・ラザロ騎士団に改称した。

後にサヴォイア家の宮殿騎士団となり、やがてイタリア王位を得ると同じ騎士修道会である聖アヌンツィアータ騎士団が最高勲章となったのに合わせて、それに次ぐ等級の勲章として機能した。

英語版

Order of Saints Maurice and Lazarus

https://en.wikipedia.org/wiki/Order_of_Saints_Maurice_and_Lazarus

聖モーリスとラザロの騎士団 (イタリア語 : Ordine dei Santi Maurizio e Lazzaro) (略称 OSSML) はローマ カトリック教徒 王室サヴォイア家から授与される王朝騎士爵位。この騎士団は世界で 2 番目に古い騎士団であり、その系譜は西暦 1098 年に遡ります。教皇勅書教皇 グレゴリウス13 世によるものです。[1] その教皇グレゴリウス 13 世は、サヴォイア公エマヌエル・フィリベール とサヴォイアの後継者たちに、このナイト爵位を永久に授与します。 グランド マスターは、ナポリ公ヴィットリオ エマヌエーレとしても知られています。最後のイタリア王ウンベルト 2 世の長男であるサヴォイア公として。しかし、ヴィットリオ・エマヌエーレのいとこは、父親が当主であると主張したため、アオスタ公アイモーネ王子がグランドマスターであると主張し、かつて追放されました。サボイの。

この勲章は、以前はイタリア王国 (1861 ~ 1946 年) によって、サヴォイア家の当主が として授与されていました。 a>イタリアの王。元々は高貴な性質の騎士団であり、少なくとも 8 人の高貴な曽祖父母の証明を持つ高貴な家族の対象に限定されていました。この騎士団の軍事的かつ高貴な性質は、ローマ カトリックの性格と結びついており、今でも結合されています。

1946 年に 君主制が廃止されイタリア共和国が設立された後、この秩序の遺産は、国家の僭称者によって維持されています。サヴォイア家とイタリアの亡命王位。

この注文には世界中で約 2,000 人の会員が含まれると推定されており、そのうち米国には約 200 人が含まれます。この秩序は、国連のECOSOC の一部として、国連との名簿協議の地位も持っています。 .[2]

聖マウリッツィオ・ラザロ勲章受章者

https://ja.wikipedia.org/wiki/Category:聖マウリッツィオ・ラザロ勲章受章者

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940713 No.6780

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>>6777

>EXILE ATSUSHI、イタリア王家から“ナイト”の称号を授与

>https://www.oricon.co.jp/news/2099772/full/  2017/10/28

戦後初めての王家主催による慈善晩餐会の開催いたしました。

https://ordinidinasticicasasavoia.jp/archives/118

2017年10月27日に帝国ホテル東京 富士の間にて、戦後初のサヴォイア王家による慈善晩餐会(チャリティガラパーティ)が開催されました。参加者として、サヴォイア家のエマニュエル・フィリベルト皇太子と諸騎士団大総監ヨハネス・ニーデルハウザー閣下、日本皇室の代表、各国大使と騎士団員、そして日本の騎士を含む350人以上のゲストが出席いたしました。

 2017年の新騎士として、映画監督の三池崇史さんと EXILEの ATSUSHIさんらが叙任されました。

 本パーティでは、武楽で始まり、江戸木遣りや著名な音楽家のギター演奏、最後には新騎士である ASTUSHIさんによる歌の披露もございました。

 本パーティへの参加費用の一部は、日本赤十字社に寄付いたしました。

Qの最初の投稿

2017 年 10 月 28 日午後 4:44:28 EDT

何か関係している?

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940713 No.6862

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>>6861

Q Research Japan/Nihon #20 より

私財6億円を投じた伝説の無声映画!90年の時を超え、浦上教会にて弁士・楽団付で復活!!

https://entamerush.jp/344595/

2022年04月04日

株式会社KADOKAWAのプレスリリース

日本の文化振興に寄与するための事業を手掛ける公益財団法人 角川文化振興財団(理事長:角川歴彦)は、「バチカンと日本 100年プロジェクト」の関連プログラムのひとつとして、長崎出身のカトリック信徒、平山政十が巨額の私財6億円を投じて製作した、1931年の無声映画「殉教血史 日本二十六聖人」の活動弁士、楽団付上映イベントを 2022年4月2日(土)、ゆかりの深い長崎のカトリック浦上教会にて開催しました。

1597年に長崎県長崎市・西坂の丘で殉教した、国内のカトリック信仰のシンボルとして有名な日本二十六聖人。彼らの壮絶な運命をドラマチックに描いた1931年製作の歴史超大作「殉教血史 日本二十六聖人」の上映イベントが、公開時と同じく活動弁士、楽団付という演出で、ゆかりの深い長崎市の浦上教会にて開催されました。

 当時、6億円という巨額の私財を投じ、ローマでの撮影ロケも敢行して製作したのは、長崎出身のカトリック信徒、平山政十。彼は本作を日本国内での公開だけでなく、アメリカやヨーロッパでの上映にも踏み切るなど、並々ならぬ心血を注ぎ、アメリカのカトリック雑誌「The Lamp」(1932年)では、“アメリカで初めて公開された日本映画”として紹介され、全米約200個所で上映、およそ15万人が観賞したといわれています。

 今回の上映イベントでは、公開された昭和6年当時同様、活動弁士、楽団の生演奏付で、しかも教会内で実施するという普段めったに見ることのできない趣向を凝らした演出で開催。活動弁士の澤登翠さんの語りと無声映画専属楽団カラード・モノトーン・デュオのギター・湯浅ジョウイチさんとフルート・鈴木真紀子さんの調べにのせた壮大な歴史ドラマに、約200人の観客は固唾をのんで見入っていました。

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940713 No.6863

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>>6862

日本では「耶蘇会」という名前なのですね。これも知りませんでした

イエズス会

https://www.y-history.net/appendix/wh0903-063.html

対抗宗教改革の一つの運動体。スペインのロヨラらが1534年、ローマ教皇への服従を誓い、プロテスタントに対抗してカトリックの世界布教を目指す修道会として創設した。会士のザビエルは日本、マテオ=リッチらは中国での布教を行った。

 ローマ教皇への絶対服従、神と教皇の戦士として伝道に努めることを使命として、1534年にイグナティウス=ロヨラ(スペイン人)らによって結成された修道会。「イエズス会」というのは「イエス=キリストの伴侶」という意味で、「ジェズイット教団」ともいう。日本では「耶蘇会」と言われる。1540年に教皇パウルス3世から認可を受け、対抗宗教改革の先頭に立って、活動を開始した。

 ロヨラとザビエルはスペインのバスク地方の出身で、パリに出てパリ大学に学びながら、人文主義の影響を受け、当時ヨーロッパ各地で猛威をふるうプロテスタントによる攻勢から、カトリック教会の信仰を守るには、カトリック教会自身の改革も必要であると考えるようになった。それは教皇を批判するのではなく、教皇に絶対服従する強固な信仰で実現できるという信念から、イエズス会は対抗宗教改革の実戦部隊となっていった。

積極的な海外布教

 まずドイツ、オランダなどのプロテスタント地域でのカトリックの復興を進め、ついでアメリカ新大陸、アジアなどの新天地での積極的なカトリックの布教活動を行った。その一環として、フランシスコ=ザビエルは日本伝道を行った。はじめて中国伝道を行ったマテオ=リッチなどもイエズス会員であった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/イエズス会

日本での活動[編集]

日本でのイエズス会事業は、ルイス・フロイスやグネッキ・ソルディ・オルガンティノ、ルイス・デ・アルメイダといった優秀な宣教師たちの活躍で大きく発展した。日本人初のイエズス会士は薩摩国(鹿児島県)出身のベルナルドで、彼は日本人初のヨーロッパ留学生としてポルトガルに渡り、1553年にリスボンで入会して修道士となった。1561年には琵琶法師であったロレンソ了斎が入会。有名な天正遣欧少年使節を計画したのはイエズス会の東洋管区の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノであった。

1580年に大村純忠が長崎の統治権をイエズス会に託したことは、長崎をイエズス会専用の港にすることで南蛮船がもたらす貿易利益を独占しようとした大村純忠と、戦乱の影響を受けずに安心して使える港を探していたイエズス会の両者の利害の一致によるものであった(ただし大村純忠は実際に熱心な信徒でもあり[22]、領民への改宗強制や仏教や神道への迫害を行ったため領内で反発を招いている[23])。しかし、これをスペイン・ポルトガルによる日本征服の第一歩ではないかと疑いの目を向けた豊臣秀吉は、1587年にバテレン追放令を発布し、長崎をイエズス会から取り上げて直轄領とした。最終的に江戸幕府による禁教令によって、宣教師と協力者たちは処刑・追放となり、正保元年(1644年)マンショ小西の殉教を最後に日本人司祭も存在しなくなり、江戸時代にイエズス会は日本での活動を終えた。

イエズス会内部には、アメリカ大陸と同様に、武力による日本・明国の征服を主張する者もあった。アレッサンドロ・ヴァリニャーノなども書簡でこの考えを述べており、九州のキリシタン大名を糾合し、長崎を軍事拠点とする計画であった。サン=フェリペ号事件のあとでは武力制圧計画が再度持ち上がった[24]。

※画像を1つ追加しています

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940713 No.6864

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>>6863

イエズス会の紋章に似ているような…

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO58270140Q0A420C2AA1P00/

2020年4月21日

岡本太郎が1970年の大阪万博のシンボルとして制作した「太陽の塔」は外側に3つの顔を持つ。塔頂部にある「黄金の顔」、正面の「太陽の顔」、そして背面に描かれた「黒い太陽」だ。内部には第4の顔といわれる「地底の太陽」もある。

長編ドキュメンタリー映画「太陽の塔」

https://webmagazin-amor.jp/2018/09/20/長編ドキュメンタリー映画「太陽の塔」/

鵜飼清(評論家)

・1970年の3月に大阪万博が開幕した。そのテーマは「人類の進歩と調和」だった。お祭り広場のテーマ館にそびえるのが《太陽の塔》である。

岡本太郎はテーマプロデューサーに就任した時から「おれはテーマの“進歩と調和”には反対だ」と公言していた。「私は進歩に疑問を持っている」「人間なんて少しも進歩してないですよ」「人間的な生き方をしている人なんて、今日いないじゃないですか」と言っている。

それでは岡本は《太陽の塔》をどのように考えていたのか。「神聖感をあらゆる意味で失ってしまった現代に、再び世界全体に対応した、新しい『祭り』をよみがえらすことが出来たら。『祭り』であるためには神聖な中核が必要だ。太陽の塔はそのシンボルである。根源によびかけ、生命の神秘を噴き上げる。神像のようなつもり。それを会場の中心に、どっしりと根をはってすえつける。おおらかな凄みで、すべての人の存在感をうちひらき、人間の誇りを爆発させる司祭として」

・3.11の年の6月に、私はカトリックに関わるSNNの仕事で釜石と大槌に行った。大槌では町がそっくり無くなった光景を目の当たりにした。唖然として立ち竦む私の眼に、1人で瓦礫のなかを歩くイエスが蜃気楼のように見えた。私はそのときに、生まれ変わらねばならなかったのかもしれない。

・岡本敏子は岡本太郎について書いている。「『キリストはいい奴だ。』そう言っていた。『共感するところがある。だけどあいつの駄目なところは、十字架にかけられて、がっかりした悲しそうな顔をしている。それが良くない。十字架の上で、槍で突き刺されて、血だらけになって、にっこり笑っていなきゃ。——岡本太郎は、にっこりしてるだろ。』」

いま《太陽の塔》を見るとき、私にはそれが十字架に見え、磔刑のイエスを想うのだ。岡本太郎から新たに、福音のインカルチュレーション(文化内開花)という課題を授けられたように感じている。

岡本太郎の手に書かれた目

https://youtu.be/sbFb4r4Dzt4?si=AEcW6omRguqbBbdi

岡本太郎

https://ja.wikipedia.org/wiki/岡本太郎

https://en.wikipedia.org/wiki/Tarō_Okamoto

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940713 No.6865

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>>6861

>マッキンゼー・アンド・カンパニー

あのマッキンゼーが「関西」に拠点を開くワケ

https://toyokeizai.net/articles/-/211840

2018/03/09

世界3大戦略コンサルティングファームの一角・米マッキンゼー・アンド・カンパニーが3月、大阪市に拠点を新設した。1971年の日本進出以来、東京一極で活動してきたが、上陸47年目にして初めて日本の地方都市に拠点を設ける。日本の産業界においてマッキンゼーは、コンサルという業態を根付かせた存在。日本支社長を務めた大前研一氏の知名度もあって、「コンサルの中のコンサル」のイメージだった。だが近年は、競合に比べコンサルタントの頭数で劣ることもあり、日本での存在感が相対的に後退していた。そのマッキンゼーがなぜ今、大阪に拠点を開くのか?

マッキンゼーは3月1日、「日本支社関西オフィス」を大阪国際ビルディング(中央区)に開設した。共同代表には、別の外資コンサルを経てコクヨ執行役員を務めた北條元宏氏と、ハーバード公衆衛生大学院出身でヘルスケア産業への知見が豊富なレイモンド・チャン氏(いずれも日本支社パートナー)が就任。コンサルタント数十人規模を目指す。京阪神を中心とする西日本の製造業や、ガス・電気・公共交通機関といったインフラ企業の経営課題を手がけるのが狙いだ。京阪神は人口と域内GDPでは世界でも上位20位内に入る巨大な都市圏だ。特に製造業については、大阪にパナソニックとシャープ、京都に日本電産、京セラ、村田製作所といったグローバルな電機・電子メーカーが集積している。だがエリア内の産業界全体でみると、「海外や首都圏の企業と比べると、総じて営業利益率が低い。人材不足やイノベーションの遅れなど、構造的な経営課題が顕著に出てきている」(北條氏)。こういった地域企業の経営課題を、マッキンゼーがグローバルに有する知見で解決していく――というのが関西進出のターゲットだ。

大阪維新 橋下改革が日本を変える(本)角川新書

https://www.kadokawa.co.jp/product/201089000016/

上山 信一

発売日:2011年04月21日

大阪府改革の橋下ブレーンが明かす これは平成の討幕運動である!

橋下徹府知事のブレーンとして大阪府改革を推し進める著者。今の日本には「地域分割」と「民営化」が必須だという。なぜ「大阪維新」が日本を救うのか、その作戦と展望を語る。・「醒めた大阪人」の日本国病の診立て・ストック活用が再生の鍵・もう中央政府には期待できない・なぜ今、大阪がホットなのか・すでに始まっている「大阪維新」・小さすぎて大きすぎる「日本国」

上山信一

https://ja.wikipedia.org/wiki/上山信一

上山 信一(うえやま しんいち、1957年(昭和32年)10月6日[1] - )は、日本の公共政策学者、運輸官僚。慶應義塾大学総合政策学部教授(「公共政策」「企業経営」担当)。大阪府市特別顧問[2]、愛知県政策顧問、国土交通省政策評価会座長。

略歴[編集]

大阪市生まれ。大阪府立豊中高等学校卒業。1980年京都大学法学部(西洋法制史:上山安敏ゼミ[3])卒業後、鉄道好き[4]ということもあり運輸省に入省。1983-1984年米プリンストン大学に政府派遣留学(修士号(公共経営)取得)。1986年同省を退官し、マッキンゼー・アンド・カンパニーに入社。1992年同社共同経営者に就任[要出典]。2000年までに大企業20社の改革を手がける。同社在籍中に行政に「評価」と「経営」の考え方を入れることを提唱[要出典]。企業改革の経験と英米の先進事例調査を基にNTT出版から2冊の本(「行政評価の時代」「行政経営の時代」)を出版。また福岡市の経営管理委員会委員、逗子市顧問などを兼務[要出典]。またこの時期に全国のパブリックセクターの関係者に呼びかけてNPO「行政経営フォーラム」(会員数約400人[要出典])を創設し代表となる。

2000年、マッキンゼーを退社して渡米。ワシントンD.C.を拠点に米ジョージタウン大学政策大学院研究教授、東京財団上席客員研究員として政策と行政改革の研究に取り組む。2003年に帰国。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科特別研究教授(2003年9月~2007年3月)及び大阪市立大学大学院(創造都市研究科)特任教授(2003年度~2011年度)に就任。2007年に慶應義塾大学総合政策学部(湘南藤沢キャンパス、SFC)の専任教授となり現在に至る。本務の傍らで首長や政治家、経営者のアドバイザー、企業の非常勤監査役、政府委員、自治体の各種委員等を務める。株式会社麻生の監査役を務める[5]。

外務省への出向経験をもつほか国連機関の評価・改革委員も務める[要出典]。著書は韓国でも翻訳出版された。

第232回 日本の行政DX(下)――実は水道、消防と同じく広域化と民営化が鍵

上山 信一

https://project.nikkeibp.co.jp/jpgciof/atcl/19/00005/092700030/

2022.03.10

>株式会社麻生の監査役を務める

そういえば麻生太郎氏はカトリック教徒でした

https://ja.wikipedia.org/wiki/麻生太郎

信仰

クリスチャン(カトリック)である。洗礼名はフランシスコ。

原敬、高橋是清、片山哲、鳩山一郎、大平正芳、祖父の吉田茂に加えて、7人目のクリスチャン首相であった[28]。

靖國神社への参拝も行っている[29](総理在任時には参拝していない)。また、靖国神社の非宗教法人化を提唱している[30]。終戦の日の8月15日ではなく、春秋の例大祭に合わせて参拝している[29]。

内閣総理大臣在任中の2009年(平成21年)1月4日、伊勢神宮に参拝した。また、神道政治連盟国会議員懇談会の名誉顧問でもある。

家庭連合(旧:統一教会)との関係

過去に世界平和統一家庭連合機関紙の思想新聞に名刺広告を出している[43]。

家庭連合の関連団体「国際勝共連合」が1986年と1990年の機関紙「思想新聞」で、反共の運動に同調する「勝共推進議員」の名簿を掲載した中に、麻生の名があった[44]。

2011年5月10日付の世界平和統一家庭連合(旧統一教会)系の日刊紙「ワシントン・タイムズ」に、妻・千賀子や安倍晋三らと共に全面意見広告を掲載[45][46]。

家庭連合系グループ事業の一環である日韓トンネル研究会では顧問を務める[47]

霊感商法などの問題を受け、2022年8月31日、自民党の役員会で、党と旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)との関係を断絶する方針を決定したが[48]、その後の2023年5月26日、麻生がビデオメッセージを送った憲法改正をテーマにしたイベント「安倍晋三名誉会長を偲び、新しい憲法を制定する推進大会」に旧統一教会の信者が多数参加、会場準備のボランティアとして携わっていたことが判明した[49]。

やはり伊勢神宮は和風キリスト教なのだろうか??

>>6852

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940713 No.6866

>>6865

大勝利した小池知事を取り巻くブレーンの“怪”

https://dot.asahi.com/articles/-/112187?page=1

2017/07/05

東京都政改革本部には、小池百合子知事のブレーンといわれる特別顧問・特別参与が計13人いるが、うち5人は外資系の大手コンサルタントのマッキンゼー・アンド・カンパニー出身者だ。

上山信一氏(慶応義塾大学総合政策学部教授)、宇田左近氏(ビジネス・ブレークスルー大学副学長)、山梨広一氏(山梨広一事務所代表)、町田裕治(経営コンサルタント)、安川新一郎(経営コンサルタント)というメンバーである。 マッキンゼーは大前研一氏、DeNA創業者の南場智子氏ら多くの著名人が輩出した名門コンサルティング会社だが、多すぎないか。

『マッキンゼーマフィア』と呼ばれるほど、卒業生たちのネットワークが強い。なぜ、小池知事が彼らを任命したのか、都幹部でもわからない」(関係者)

序章 マッキンゼーとは何者か. 「ザ・ファーム」の神秘性(2)

https://diamond.jp/articles/-/41626?page=2

2013.9.26

彼らの手法は、イエズス会やアメリカ海兵隊、カトリック教会になぞらえられてきた(外部の人間、また彼ら自身によって)。強い自負心を抱いている彼らは、固有名詞など必要ないと主張している。外部にとっては、彼らはコンサルティング会社だ。そして彼ら自身にとっては、ごく単純に「ザ・ファーム」なのだ。

 しかし、マッキンゼーの社史にはさらに多くの事柄が含まれている。それが物語っているのは、20世紀におけるアメリカのビジネスの繁栄と勢力範囲であり、変化する時代に対する驚くべき適応力だ。

 アメリカ資本主義は現在ストレスにさらされた状態にあるかもしれないが、現代アメリカの経営技術は――マッキンゼーが創出と普及に一役買ったものだ――その手腕はもちろん、その力により、抜きん出た存在となっている。現在のマッキンゼーは、成功して世界的な存在になった。しかし最初は、きわめてアメリカ的な会社だった。

 マッキンゼーの秘密の1つは、アメリカという国ときわめて似通っていることだ。確固たる基盤の上に適応力に富む層が広がり、そのすべてが昔ながらの幸運に恵まれている。誤解してはいけないのは、マッキンゼーはたまたま生き残ってきた組織ではないことだ。この組織は、目的があって作られてきた。しかしそれでも、歴史の偶然として、適切な時に適切な場所で作られたと言えるだろうか? イエスだとしても、グーグルやレゴ、トヨタが偶然そうだったというのと同じ程度だ。そのほかの会社は、やがて消え去ってしまう。

 マッキンゼーは、“セルフ・インベンション”という典型的なアメリカの流儀で始まった。形式的には1926年にシカゴ大学の会計学教授、ジェームズ・O・マッキンゼーによって設立されたが、後継者である伝説的なリーダー、マーヴィン・バウワーが抱いていた長年の目標は、顧客に激変する将来の課題と不確実性に対する準備をさせる新しい専門的職業を作りあげることだった。

 その当時、さらにはもっと以前からライバルも同じことを考えてはいたが、バウワーほどの規律と集中力を持ち合わせていなかった。彼は社員の外見からはじまって、採用と育成にこだわり、有名な「昇進できなければ去れ」という無慈悲な制度で選抜することで、何をするのかだけでなく、どのようにするのかにおいても、マッキンゼーを差別化した。

 コンサルタントという職業は、何世紀も前から存在している。古代中国の思想、法家の代表的人物であり皇帝の助言者であった韓非が、最初のコンサルタントだと言われている。しかしそれでも、マッキンゼーは驚くほど多くの点に関して「最初」だと主張することができる。科学的なアプローチを現実的に経営に取り入れ、仮説とデータ、証拠を用いる手法でビジネスの問題を解決した最初のコンサルティング・ファームだ。経験より若さに賭け、本当の意味で世界的な存在になろうと挑戦した最初の会社なのだ。

 1920年代の効率化ブーム、第二次世界大戦後の1940年代の巨大化、1950年代の政府合理化とマーケティングの進歩、1960年代における企業の影響力の増大、1970年代のアメリカの再構築と戦略の進歩、1980年代のIT(情報技術)の飛躍的発展、1990年代のグローバリゼーション、2000年代以降の経営破綻と清算ラッシュという歴史の流れのすべてにおいて、マッキンゼーは大きな役割を果たしている。そして今日、その影響力は非常に広範囲にわたっているため、マッキンゼー抜きで世界のビジネスを考えるのは難しくなっている。

マッキンゼーの人脈はもしかしてイエズス会と関係があるのでは?

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940713 No.6867

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>>6866

バイデン氏のそばにもマッキンゼー出身者

動き出した組織内弁護士: バイデン氏、元マッキンゼー、フェイスブック弁護士を上級スタッフに起用

https://www.reuters.com/article/lawyer-moves-in-house-idUSL1N2I621B/

2020年11月21日

ジョー・バイデン次期米大統領は21日、コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニーで副顧問兼広報部長、フェイスブック社で公共政策担当ディレクターを務めたルイーザ・テレル氏を、次期政権のホワイトハウス法制局局長に起用すると発表した。

テレル氏は現在、バイデン-ハリス政権移行チームの立法事務を監督している。

ルイーザ・テレル

https://en.wikipedia.org/wiki/Louisa_Terrell

バイデン政権

ジョー・バイデンのアメリカ大統領就任後、テレルはホワイトハウス法制局局長に任命された。2021年、彼女は共和党と民主党の穏健派に「アメリカン・ジョブズ・プラン」を働きかけ、同プランは最終的に「インフラ投資・雇用法」として2021年8月に上院を通過した[11][12][13]。

テレルはシャランダ・ヤング、スティーブ・リチェッティとともに、2023年の米国債務上限危機をめぐる交渉で民主党側のリーダーに抜擢された[14]。2023年7月末に退任予定[15]。

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940713 No.6910

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>>6909

宮沢氏のTwitterのヘッダー画像は椿?何か意味がある?

ツバキ

https://ja.wikipedia.org/wiki/ツバキ

https://en.wikipedia.org/wiki/Camellia_japonica

ツバキ(椿[10]、海柘榴)[注 1]またはヤブツバキ[2](藪椿[11]、学名: Camellia japonica)は、ツバキ科ツバキ属の常緑樹。照葉樹林の代表的な樹木。花が観賞されて庭などに植えられるほか、薬用や食用にもなる。

英語では、カメリア・ジャポニカ (Camellia japonica) と学名がそのまま英語名になっている珍しい例である。17世紀にオランダ商館員のエンゲルベルト・ケンペルがその著書で初めてこの花を欧州に紹介した。後に、18世紀にイエズス会の助修士で植物学に造詣の深かったゲオルク・ヨーゼフ・カメルはフィリピンでこの花の種を入手してヨーロッパに紹介した。その後有名なカール・フォン・リンネがこのカメルにちなんで、椿の属名にカメリアという名前をつけ、ケンペルの記載に基づき「日本の」を意味するジャポニカの名前をつけた[17]。

椿とキリスト教

椿はキリスト教信者にとってシンボルであった

https://www.city.goto.nagasaki.jp/tsubaki/010/050/20190122223311.html

2019年9月13日

下五島へのキリスト教伝来は1566年とされ、室町時代末期にあたります。これは、領主宇久純定が修道士を招いたことに始まります。

純定の子、純尭は自ら洗礼を受け、その後島内を布教してまわり、信者を増やしていきました。このように五島はキリスト教に寛容なところでした。

江戸の鎖国時代、キリスト教の信仰は禁じられていました。

熱心な信者は五島へ移住し、潜伏信者(隠れキリシタン)として信仰を続けました。しかし、迫害の追手は終に及び、「五島崩れ」など悲劇的な事件が起きましたが、ひたすら教えを守りぬき、今に至ります。

五島にあるカトリック教会堂のステンドグラスを含めた内部装飾には独特の特徴がみられます。ヨーロッパのカトリック教会堂に対し、五島では規則的に、表現したものが多くみられます。

市内のいくつかの教会堂のステンドグラスには椿が用いられているとの謂われがあります。また、周辺に椿が植栽されている教会堂も見られ、五島では、生活や信仰の上でも、とても身近な植物となっています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/宮沢孝幸

年譜

1964年 - 東京都中野区生まれ、兵庫県西宮市育ち。

1980年 - 甲陽学院中学校卒業

1983年 - 甲陽学院高等学校卒業

1984年 - 東京大学理科二類入学

1990年

東京大学農学部畜産獣医学科卒業

獣医師国家試験合格

東京大学大学院農学生命科学研究科博士課程獣医学専攻入学

1992年1月 - 1994年3月、日本学術振興会特別研究員

1993年 - 東京大学大学院農学生命科学研究科博士課程獣医学専攻修了 博士(獣医学)取得

1994年4月 - 1996年3月、日本学術振興会海外特別研究員(英国グラスゴー大学博士研究員)[1]

1996年4月 - 東京大学大学院農学生命科学研究科助手

1999年9月 - 2001年1月、英国ロンドン大学名誉研究員[1]

2001年4月 - 2003年10月、大阪大学微生物病研究所エマージング感染症研究センター助手(2003年10月31日まで)

2002年 - 日本科学技術振興事業団(現:科学技術振興機構)さきがけ21 (PRESTO) 研究員(チームリーダー)

2003年4月 - 2005年12月、帯広畜産大学畜産学部獣医学科助教授(PI[14])

2005年12月 - 2009年5月、京都大学ウイルス研究所附属新興ウイルス感染症研究センター 特別教育研究助教授(PI)

2009年5月 - 2016年9月、京都大学ウイルス研究所細胞生物学研究部門 信号伝達学研究分野 准教授(PI)

2013年 - 京都大学ウイルス研究所進化ウイルス研究領域 准教授(兼任)

2016年10月 - 現在、京都大学ウイルス・再生医科学研究所(現:京都大学医生物学研究所)附属感染症モデル研究センター ウイルス共進化分野 准教授 (PI)[1]

2020年3月28日、新型コロナの感染対策について、情熱的なツイートが話題になり[15][16]、その後、多数のメディアに登場している[7][17]。

2024年5月 - 京都大学を退職予定[12][13]

受賞

1998年 - 日本レトロウイルス研究会 最優秀発表賞

2002年 - Best Oral Presentation Award in International Feline Retrovirus Research Symposium (IFRRS):国際ネコレトロウイルス学会Best Oral Presentation

2004年 - 日本獣医学会賞:Award of the Japanese Society of Veterinary Science[18]

2016年 - ヤンソン賞[19]

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940713 No.6911

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>>6910

宮沢氏は京都大学。PHP研究所も京都にある

そして宮沢氏の愛読書は『マーフィーの法則』だとウィキペディアに記載があった。PHPからも関連書籍が出ている

松下幸之助創設 PHP研究所YouTubeチャンネル

ゲノムとは何か?【宮沢孝幸】『京大 おどろきのウイルス学講義』第5弾|PHP新書

2022/1/6

https://www.youtube.com/watch?v=b3-CQrlrSbY

PHP研究所

https://ja.wikipedia.org/wiki/PHP研究所

株式会社PHP研究所(ピーエイチピーけんきゅうしょ、英語: PHP Institute, Inc.)は、日本の出版社。

1946年創業で、松下幸之助が創設した企業の1つ。当初は株式会社PHP総合研究所という名称でトータルシンクタンクを標榜していたが、2010年10月1日に子会社で出版社であった株式会社PHP研究所を吸収合併し、現在の名称に改名した[1]。

概要

「PHP」とは、「Peace and Happiness through Prosperity」(繁栄によって平和と幸福を)の頭文字をとった語で[2]、「物心両面の繁栄により、平和と幸福を実現していく」という松下幸之助の願いのもと、1946年(昭和21年)11月に創設された[3]。

翌1947年(昭和22年)4月に月刊誌『PHP』を創刊[3]。1950年代にいったん活動を停止したが[3]、1961年(昭和36年)8月に幸之助の別邸「真々庵」にて活動を再開し[3]、翌1962年(昭和37年)には松下幸之助が真々庵の庭園内に根源の社を創建してPHPの精神的な拠り所とした[4]。根源の社は京都に建設されたPHP研究所本社ビルにも置かれている[4]。

1971年(昭和46年)より出版事業を拡大し一般書籍の刊行を開始[3]。現在は『PHP』『Voice』『The 21』『歴史街道』などの雑誌や単行本の出版、PHPゼミナールなどによる人材開発支援、PHP理念経営経営センターによる経営理念浸透や政策シンクタンクPHP総研を通じた政策提言、PHPしあわせファクトリーによる社会貢献活動などを主な活動・事業として展開している。松下幸之助が創業したパナソニックさらには多くの国会議員を輩出した松下政経塾とは姉妹関係にあり、交流も盛んである[要出典]。

株式会社ピーエイチピー研究所

PHP Institute, Inc.

本社所在地

京都本部

設立 1946年11月3日

事業内容

出版事業は、企業直販向けの部門と、書店・一般向けの部門に分かれる(直販の出版物も、注文をすれば一般の読者も手に入れることができる)。前者の直販部門の編集部は京都にあり、通常の書籍、雑誌の編集部は東京に置かれている。京都と東京を拠点に教育研修事業も手がけるが、社員教育用書籍などの面で出版事業との接点は少なくない。教育研修事業は、松下幸之助の人材育成手法や哲学(人間観)を中核に据え、人間力の向上をめざすとしている[5]。

年間の出版点数は600点を越え、出版社別の年間発行点数ランキングでは常時トップ10入りしている。月刊誌から単行本、PHP文庫、PHP新書など数多くのラインアップを持ち、内容も多岐に渡っている。一般書では概して保守的な内容のものや精神論的なものが目立つ。出版物の大部分を占めるビジネス分野では、社会的に一定の影響力を持つ規模の出版社が慎重になる成功哲学や自己啓発書、斎藤一人に代表される引き寄せの法則や疑似科学本なども多く手がける。また、児童書や文芸書も発行している。

松下幸之助

https://ja.wikipedia.org/wiki/松下幸之助

https://en.wikipedia.org/wiki/K%C5%8Dnosuke_Matsushita

松下 幸之助(まつした こうのすけ、1894年〈明治27年〉11月27日 - 1989年〈平成元年〉4月27日)は、日本の実業家、発明家、著述家。位階は正三位。

パナソニックホールディングスを一代で築き上げた経営者である[3]。異名は「経営の神様」。その他、PHP研究所を設立して倫理教育や出版活動に乗り出した。さらに晩年は松下政経塾を立ち上げ、政治家の育成にも意を注いだ。

受賞

Order of the House of Orange Decorated Commander in the Order of Orange (1958)[2]

瑞宝章

旭日章 (29 April 1981)

桐花章 (29 April 1987)

Order of the Defender of the Realm

Order of the Crown

褒章

褒章

China Reform Friendship Medal (2018)

・第二次世界大戦中は、下命で軍需品の生産に協力する。1943年4月に松下造船株式会社を設立し、海運会社出身の井植歳男社長の下で、終戦までに56隻の250トンクラスの中型木造船を建造した。次いで同年10月には盾津飛行場そばに松下航空機株式会社を設立し、空技廠の技術指導により強化合板構造の練習用木製急降下爆撃機「明星」を終戦までに7機試作。試験飛行に漕ぎ着けたものの、1機は間もなく空中分解し、航空機に求められる絶対的な品質と信頼性に対する認識不足から[注 1] 惨憺たる失敗に終わった。

・1973年、80歳を機に現役を引退し、相談役に退いた。1974年には奈良県明日香村の名誉村民となる[10][11]。1974年から1983年まで中野種一朗の後任として伊勢神宮崇敬会第3代会長を務め、後に松下正幸も第8代会長を務めた[12]。1979年、私財70億円を投じて財団法人松下政経塾を設立し、政界に貢献しようとした。

・米『タイム』誌国際版の表紙を飾った2人目の日本人実業家である(1人目は戦前に登場した日本郵船の各務鎌吉)

・郷里の和歌山市に、友人達から贈られた「松下幸之助君生誕の地」の石碑(同郷である湯川秀樹の揮毫)と、幸之助がポケットマネーで寄付した和歌山市立松下体育館や、和歌山城西之丸庭園(紅葉渓庭園)内の茶室「紅松庵」がある。

記念碑・施設

椿大神社の「松下幸之助社」では祭神として祀られる[32]。また、門真市には「パナソニックミュージアム 松下幸之助歴史館」がある。

中華人民共和国首都の北京市に2018年6月開設された「松下記念館」は、企業としての松下電器産業(パナソニック)のPRだけでなく、幸之助の中国との関わりも紹介している[33]。幸之助は、中国を改革開放へ転じさせた鄧小平が日本訪問することになったことを知ると松下電器工場への訪問を日程に組み込むよう各方面に働きかけ、実現している[34]。当時の財界人にはときには戦前の満州を含む中国で様々な特権を享受した個人的な体験等まであって政権与党としての自民党に遠慮しつつも市場としての中国に価値を見て中国との関係改善を望む者も伏流としてかなり存在していた。鄧小平の松下電器工場訪問は巷間の一部で伝えられるような中国側の希望によるものではなく、実際にはあくまで松下側の運動によるものであった。しかし、幸之助の場合は、訪日時(1978年)に会った後、翌年・翌翌年と招きを受けて訪中し鄧小平と会談、日本企業としては早い時期に中国で現地生産することを決断しており、中国を市場価値の点ばかりで見ていたわけではないことが分かる[35]。

椿大神社

https://ja.wikipedia.org/wiki/椿大神社

https://en.wikipedia.org/wiki/Tsubaki_Grand_Shrine

椿大神社(つばきおおかみやしろ)は、三重県鈴鹿市にある神社。

概要

式内社、伊勢国一宮。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。三重県では伊勢神宮・二見興玉神社に次いで3番目に参拝者数の多い神社であり、2013年には1,455,000人が参拝した[1]。

猿田彦大本宮とも呼ばれる。猿田彦大神を祀る神社の総本社とされる。

明治4年(1871年)に郷社、昭和2年(1927年)に県社に列格。昭和10年(1935年)、内務省神社局の調査により、全国約2千社の猿田彦大神を祀る神社の総本社「地祗猿田彦大本宮」とされた。しかし、それらの神社で当社と実際に関係があるものは少数である。一方で、「椿大明神」を祀る「椿神社」は全国各地に存在している。

昭和62年(1987年)、アメリカ合衆国カリフォルニア州にアメリカ椿神社(現在のアメリカ椿大神社(ワシントン州))を創建し、神道の普及活動を開始。

(この神社も明治から捏造された歴史かもしれない)

(神道と関わりが深い人物が海外の勲章をもらっていることが多いような…偶然?)

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940713 No.6921

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>>6911

Q Research Japan/Nihon #20より

私のコメント→()

(松下幸之助関連)

パナソニックホールディングス株式会社ウェブサイト

M矢の商標を制定 1920年(大正9年)

https://holdings.panasonic/jp/corporate/about/history/konosuke-matsushita/025.html

アタッチメントプラグ、2灯用差込みプラグの成功により、商売もまず順調に推移し、大正7年の暮れには、早くも従業員20名余りになった。それでも手狭な普通の家で作業をしていたのだから、不思議である。

当時は、作業場に棚をつり、棚上、棚下でも作業ができるようにした。得意先の人が来て、「えらい工夫をしているなあ。まるで蒸気船の船室みたいや。なるほど安くできるのも当たり前やなあ」と感心して帰ったこともあった。実は、まだ工場を建てるほどの資力もないので、少しでも効率的に家を使いたいと考えた末の便法であった。

そうした中で、所主は松下電器の商標を定めたいと考えていた。ある日、石清水八幡宮に参詣したときにもらった破魔矢を見ていて、ふと、この矢と松下の頭文字Mを組み合わせたらどうだろうと思いついた。こうして完成したのが、初めての商標「M矢のマーク」である。これにはどんな障害をも突破し、目標に向かって突き進もうとの願いが込められていた。

(森永もMORINAGAのMをとって商標を作っていた。頭文字からとっただけではない別の意味があるのではないか?)

>>20057408

石清水八幡宮とエジソンの関係

https://blog.kanko.jp/kyoto-sightseeing/kyoto-shrine/iwashimizuhachimangu

最も電球が長持ちする竹が石清水八幡宮のある京都 男山周辺の"真竹"だった。

石清水八幡宮

https://ja.wikipedia.org/wiki/石清水八幡宮

イクトゥス

https://ja.wikipedia.org/wiki/イクトゥス

イクトゥス(イクテュス、ichthys ichtus、ギリシャ語: ΙΧΘΥΣ/ ἰχθύς 発音 [ikʰtʰýs]) は、弧をなす2本の線を交差させて魚を横から見た形に描いたシンボルである。初期のキリスト教徒が隠れシンボルとして用いた。

英語では、イクサス (ichthys, ichthus[ˈɪkθəs][1]) のほか、ジーザス・フィッシュ (Jesus Fish) やクリスチャン・フィッシュ (Christian Fish) とも呼ばれている。

頭文字の符牒

イクテュスはギリシャ語で「魚」という意味を持つが、同時にΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ (ギリシャ語でイエス、キリスト、神の、子、救世主)の頭文字を並べたものでもある。

(こので強調した文字、Mのように見える。こじつけすぎ?)

(神道が和風キリスト教だという説の裏付けとなるような情報を集めています。おそらく石清水八幡宮の歴史もでっち上げられてる可能性が大きいのでは?)

(天皇を現人神とし、その天皇の存在で国民を戦争に駆り立て、多くの命を犠牲にし、その上でさらに支配層だけが潤う仕組み)

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940713 No.6922

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>>6921

Q Research Japan/Nihon #20より

>イクトゥス(イクテュス、ichthys ichtus

(プロジェクト名にも使われていた)

🇦🇺

https://8kun.top/qresearch/res/12772779.html#13055039

#13055039 at 2021-02-26 20:15:17 (UTC+1)

Q Research AUSTRALIA #13 - THE WAR IS REAL Edition

>>13055026

オーストラリアと日本は、強力な柱に基づいて構築された素晴らしいパートナーシップを築いています

山上信吾 - 2021年2月26日

1/2

オーストラリアは日本の外交官にとって理想的なポストだ。日本のビジネスマンにとってはなおさらだ。キャンベラに向けて東京を出発する前に、私はオーストラリアで事業を行っているすべての大企業の幹部に会おうとしました。驚いたことに、どこに行っても、それらの会社の会長や社長が挨拶してくれました。これらの幹部全員が例外なく、オーストラリアが自社のビジネスにとっていかに重要であるかを強調し、ダウンアンダーのパートナーに対する愛情を表明しました。

昨年末に到着して以来、私は多くのオーストラリアのビジネスマンに会い、彼らの日本人ビジネスマンに対して同じような感情が表明されているのを聞きました。

オーストラリアは長い間、原材料とエネルギーの信頼できる供給者としての役割を果たしてきましたが、日本は技術移転や雇用の機会を通じてオーストラリアに長期的な貢献をしてきました。日本の投資は増加しており、米国からの投資に次ぐ英国の投資と同等となっています。この相互信頼は両国と国民にとって大きな財産です。

これを背景に、スコット・モリソン首相は日本の新首相・菅義偉を訪問した初の外国首脳となった。我々は、両首脳が確立した個人的な関係をさらに強化するために、今年の訪問に報いるつもりである。

オーストラリアと日本の経済関係は、その範囲と深さを急速に拡大しています。その中には、ノーザンテリトリーのthe Ichthys project(イクシスプロジェクト)のような前例のない規模のエネルギー関連投資や、シドニー西部のスマートシティ建設やビクトリア州での日本向け輸送用の水素製造などの新しいタイプの投資が含まれます。日本の 3 つのメガバンクは、プロジェクト融資のプロバイダーのリストをリードしています。

宇宙は協力の新たなフロンティアとしても浮上しています。日本とオーストラリアが新たな低排出エネルギー技術に関して協力できる可能性は無限にあります。

経済は関係を支える一つの柱にすぎません。安全保障協力は比較的新しく、急速に成長している柱です。オーストラリアと日本は、民主主義、市場経済、人権の尊重、法の支配などの基本的価値観に加え、自由で開かれたインド太平洋地域の維持という戦略的利益を共有しており、当然のパートナーである。共同演習や南シナ海の通過は、このパートナーシップの例です。

(続き)

>>13055039

2/2

オーストラリアと日本はまた、北朝鮮による核兵器とミサイル開発に関する国連安全保障理事会決議に違反する瀬取りを阻止するために東シナ海でも協力している。日本は、オーストラリアが昨年、インド、米国、日本とのマラバール海上演習に13年ぶりに参加したことを嬉しく思っている。台湾を取り巻く状況は依然として懸念されており、台湾における無謀または強圧的な行動はインド太平洋地域全体の平和と安定に影響を与える可能性がある。これにより、オーストラリアと日本が協力する重要性が増しています。

相互アクセス協定は、両国における共同訓練や訓練を含む活動の枠組みを制度化するものである。長く待たれていたこの結論は、オーストラリア国防軍と日本の自衛隊の間の協力強化への道を開くことになる。

安全保障協力に関連するもう 1 つの柱は、情報協力です。私は元外務省情報分析局長官として、このような協力の重要性を高く評価しています。

次に、国際協力だけでなく、多国間および地域フォーラムでの協力の柱もあります。オーストラリアと日本は、環太平洋パートナーシップのための包括的かつ先進的な協定を拡大し、高水準の貿易自由化とルールづくりの推進という両国の利益をよりよく反映するため、地域包括的経済連携協定の確実な実施の成功を保証するために協力する。オーストラリアと日本はルールに基づく多角的貿易システムを強く信じており、紛争解決メカニズムを含む世界貿易機関の改革に取り組んでいる。同氏がOECD事務総長に選出されれば、日本はマティアス・コーマン元財務大臣と喜んで緊密に協力することになるだろう。

インド太平洋諸国との協力も強化しています。オーストラリアの太平洋地域への強化イニシアチブ、東南アジア開発パートナーシッププログラム、および同地域に対するオーストラリアの関与のレベルの向上は心強いものです。日本はまた、東南アジアや太平洋における外交、経済、安全保障への関与を拡大している。

米国との三者協力は、米国-シンガポール間をパラオまで結ぶ支線潜水艦の延長などのプロジェクトにつながった。このプロジェクトにおける私たちの協力は、自由で開かれたインド太平洋地域を支援する高品質のインフラを構築するという私たちの共通の目標の実現に向けた重要な一歩となるでしょう。

オーストラリアと日本の関係は、幅と深さにおいて驚くべきスピードで発展しています。実際、オーストラリアと日本が協力して達成できることはたくさんあります。私はこの素晴らしいパートナーシップを推進するためにあらゆる努力を惜しみません。

山上信吾は駐オーストラリア日本大使です。

https://www.theaustralian.com.au/commentary/australia-and-japan-have-a-great-partnership -built-on-strong-pillars/news-story/7ab8df2b94d492f6609d3d66ac88310b

経済産業省

2018-12-11

史上初・日本企業による大型LNGプロジェクトがついに生産・出荷を開始!

https://www.enecho.meti.go.jp/about/special/johoteikyo/ichthys_lng.html#:~:text=日本初・大規模LNG,生産するというプロジェクトです%E3%80%82

天然ガスを約マイナス162℃まで冷却して液体にした「LNG(Liquefied Natural Gas)」。日本語では「液化天然ガス」と呼ばれるこのLNGは、火力発電の燃料として、あるいは都市ガスの原料として利用されています。サイト内リンクを開く「LNGを安定的に供給するための取り組み」でご紹介したように、日本はこのLNGの世界最大の消費国であり、LNGは日々の生活や企業活動を支えるエネルギーのひとつとなっています。そうした中、日本企業が初めて主導し進めていた大型LNG開発プロジェクトで、ついにLNGの生産がスタート。10月には出荷も始まりました。今回は、そんな「イクシスLNGプロジェクト」についてご紹介しましょう。

・イクシスLNGプロジェクトとは、このようなLNGについて、オーストラリア北西部の沖合にある「イクシス ガス・コンデンセート田」を開発し、準州ノーザンテリトリーの州都・ダーウィンで生産するというプロジェクトです。

実施しているのは、日本の石油・天然ガス開発企業で、中東やアフリカ、米国などで油田などを開発している「国際石油開発帝石(INPEX)」。このような大型LNGプロジェクトで、日本企業が主導しオペレーター(操業主体)を務めるのは初めてのことです。

このイクシスLNGプロジェクトがどれほど大規模なものであるかは、施設の大きさを見てもわかります。洋上に浮かんでいる「沖合生産・処理施設」の高さは210m、「沖合生産貯油・出荷施設」の高さは140mと、高層ビル並の大きさです。また、このガス田からダーウィン港そばにある「陸上ガス液化プラント」まで、890kmにもおよぶ長さの海底パイプラインでガスが輸送されていますが、これは東京都から福岡県までの直線距離とほとんど同じ距離です(約880km、外部サイトを別ウィンドウで開く国土地理院調べ)。

https://www.inpex.co.jp/ichthys/

(日本初のプロジェクト名は、相当思い入れがあるのでは?初のプロジェクトをこの名前にしたのはなぜ?)

(ここにその理由が記載されていたけど…本当にこれだけ?)

https://www.inpex.co.jp/ir/library/pdf/annual_report/annual2011-05a.pdf

「イクシス」という名称は、古代ギリシャ語で「魚」という意味で、鉱区の近隣で古代魚の化石が多く発見されていることに由来します

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940713 No.7026

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Q Research Japan/Nihon #20より

プラトンは優生学と職人軽視と知性主義(馬鹿は人間ではない)と偽りの公平感を与える儀式(選挙など)の基盤?

(プラトンに関する情報をまとめてくれている下記リンク先から、気になる箇所を一部転載させていただきます。)

http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-category-18.html

・プラトンは優生学と職人軽視と知性主義(馬鹿は人間ではない)と偽りの公平感を与える儀式(選挙など)の基盤

・プラトンは、理想的な国家とは「守護者」「補助者」「大衆」の三つの階層制度=三つの種族制度だとしました。

守護者(理性)=支配者

(“知”を愛する哲学者が頂点。哲人王による哲人政治)

補助者(気概)=軍人

大衆(欲望)=農夫、大工、職人、商人ら一般市民。守護者と補助者を養う。

つまり肉体労働しないやつが一番偉いって思想です。プラトンが哲学者だから自分が一番上の階級なのね。

プラトン『国家』 藤沢令夫訳、岩波書店〈岩波文庫〉

上巻

・“ちょうど、前庭で犠牲を供える式をすませたところだったのだ。”上巻p.19

さりげなく生贄を捧げております。

“最もすぐれた男たちは最もすぐれた女たちと、できるだけしばしば交わらなければならないし、最も劣った男たちと最も劣った女たちは、その逆でなければならない。また一方から生まれた子供たちは育て、他方の子供たちは育ててはならない。もしこの羊の群が、できるだけ優秀なままであるべきならばね。そしてすべてこうしたことは、支配者たち自身以外には気づかれないように行なわれなければならない――もし守護者たちの群がまた、できるだけ仲間割れしないように計らおうとするならば

「そうするのがいちばん正しいやり方です」と彼は言った。

「それでは、われわれは何らかの祭典と供犠の式を法に制定して、そうした儀式のなかで花嫁と花婿をめあわせることにしなければならない。そしてわれわれの詩人たちには、そのようにして行なわれる結婚にふさわしい讃歌を作らせよう。他方、結婚の数については、これをわれわれは支配者たちの裁量にまかせることになるだろう――彼らが戦争や病気やすべてそれに類することを考慮しながら、これらの人々の数を可能なかぎり一定に保つように、そしてわれわれの国家ができるだけ大きくも小さくもならないようにするためにね」

「正しい措置です」と彼。

「そうなると、思うに、何か巧妙な籤(くじ)が作られなければならないだろう。そうすれば、それぞれの組合せが成立するときに、先述の劣ったほうの者は自分の運を責めて、支配者たちを責めないことになるだろうからね

”上巻p.367-368

・“「で、ぼくの思うには、すぐれた人々の子供は、その役職の者たちがこれを受け取って囲い〔保育所〕へ運び、国の一隅に隔離されて住んでいる保母たちの手に委ねるだろう。他方、劣った者たちの子供や、また他方の者たちの子で欠陥児が生まれた場合には、これをしかるべき仕方で秘密のうちにかくし去ってしまうだろう」

「守護者たちの種族が、純粋のまま維持されるべきでしたらね」と彼は言った。”上巻p.369

純粋、優秀、選別って優生学の基盤ですな。

・“「哲学者たちが国々において王となって統治するのでないかぎり」とぼくは言った、「あるいは、現在王と呼ばれ、権力者と呼ばれている人たちが、真実にかつじゅうぶんに哲学するのでないかぎり、すなわち、政治的権力と哲学的精神とが一体化されて、多くの人々の素質が、現在のようにこの二つのどちらかの方向へ別々に進むのを強制的に禁止されるのでないかぎり、親愛なるグラウコンよ、国々にとって不幸のやむときはないし、また人類にとっても同様だとぼくは思う。さらに、われわれが議論のうえで述べてきたような国制のあり方にしても、このことが果されないうちは、可能なかぎり実現されて日の光を見るということは,、けっしてないだろう。

さあ、これがずっと前から、口にするのをぼくにためらわせていたことなのだ。世にも常識はずれなことが語られることになるだろうと、目に見えていたのでね。実際、国家のあり方としては、こうする以外には、個人生活においても公共の生活においても、幸福をもたらす途(みち)はありえないということを洞察するのは、むずかしいことだからね」”上巻p.405

政治的権力(王)と哲学的精神(哲学者)の一致した哲人王。

・“ある人々は生まれつき哲学にたずさわるとともに国の指導者となるのが適しているが、他の人々は哲学にたずさわることもなく指導者に従うのが適しているという事実”上巻p.406-407

・“正義をはじめ、人間の生き方に関わる道徳上の事柄を「技術」としてとらえるソクラテス”上巻p.428

正義=支配技術

・“哲学者とは、つねに恒常不変のあり方を保つものに触れることのできる人々のことであり、他方、そうすることができずに、さまざまに変転する雑多な事物のなかにさまよう人々は哲学者ではない”下巻p.16

・“哲学者の種族が国の支配者となるまでは、国家にとっても、国民にとっても、禍いのやむときはないだろうし、われわれが言葉によって物語っている国制が事実において完成されることもないだろう”下巻p.63

・“われわれの任命する最も厳密な意味での守護者たちは、哲学者でなければならぬ”下巻p.67

・“「多くの美しいものがあり」とぼくは言った,「多くの善いものがあり、また同様にしてそれぞれいろいろのものがあると、われわれは主張し、言葉によって区別している」

「ええ、たしかに」

「われわれはまた、<美>そのもの〔・・・・・〕があり、<善>そのもの〔・・・・・〕があり、またこのようにして、先に多くのものとして立てたところのすべてのものについて、こんどは逆に、そのそれぞれのものの単一の相に応じてただ一つだけ実相(イデア)があると定め、これを<まさにそれぞれである〔・・〕ところのもの>と呼んでいる」

「そのとおりです」

「さらにまた、われわれの主張では、一方のものは見られるけれども、思惟によって知られることはなく、他方、実相(イデア)は思惟によって知られるけれども、見られることはない」”下巻p.78-79

思惟がないとイデアは認識できない=知性主義。

・“支配者の地位につく者は、けっして支配権力を恋いこがれるような者であってはならないのだ。そうでないと恋がたきどうしの争いになるだろう”下巻p.111

・“「また下賤な手細工仕事や手先の仕事といったものが、なぜ不名誉なものとされるかと思うかね? それはほかでもない、その人がもっている最善の部分が生まれつき弱くて、自分の内なる獣たちを支配する力がなく、仕えることしかできないようになっていて、ただ獣たちにへつらうことだけしか学ぶことができないような場合、ただそのことのためであると、われわれは言うべきではないだろうか?」

「そう思われます」と彼は言った。

「では、そのような人もまた、最もすぐれた人間を支配している部分と同様の部分によって支配されるようになるためにこそ、その人はかの最もすぐれた人間、自己の内に神的な支配者をもっている人間の下僕とならなければならないのだと、われわれは主張するのではないかね?”下巻p.296

肉体労働軽視。そもそも肉体労働は奴隷がやることだからねっていう思想もモノ作り軽視。そりゃ頂点が考える哲学者だし。しかも生まれつき。

・“「あなたの言われるのは、われわれがいまその建設を詳しく論じてきた国家、言論のうちに存在する国家においてならば、という意味ですね。というのは、少なくともこの地上には、そのような国家はどこにも存在しないと思いますから」

「だがしかし」とぼくは言った、「それはおそらく理想的な範型として、天上に捧げられて存在するだろう――それを見ようと望む者、そしてそれを見ながら自分自身の内に国家を建設しようと望む者のために。しかしながら、その国が現にどこかにあるかどうか、あるいは将来存在するだろうかどうかということは、どちらでもよいことなのだ。なぜなら、ただそのような国家の政治だけに、彼は参加しようとするのであって、他のいかなる国家のそれでもないのだから」”下巻p.300

プラトン

https://ja.wikipedia.org/wiki/プラトン

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940713 No.7027

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>>7026

哲人王

https://ja.wikipedia.org/wiki/哲人王

哲人王(てつじんおう、英: philosopher king[1][2])

哲人王 (プラトン) - 古代ギリシア哲学でプラトンが構想した理想国家の君主

『哲人王 〜李登輝対話篇〜』 - 2018年、園田映人の監督による映画。台湾の民主化の原動力となった李登輝を描く作品。

哲人王 - 上記のプラトンの哲人王思想から「哲人王」と称される人物。

アルキタス - プラトンの哲人王のモデルの1人とされる。

プロイセン王フリードリヒ2世(ドイツ語: Friedrich II)哲人王(ドイツ語: Philosoph König)との異名がある。

マルクス・アウレリウス・アントニヌス - 「哲人君主」の実現例と見なされている。

ホスロー1世 - サーサーン朝ペルシア帝国の第21代君主で、ギリシア難民たちから哲人王の異名を贈られる。

哲人総統・哲人指導者 - 「哲人王」概念に基づくアドルフ・ヒトラーの自認異名。

哲人王 (プラトン)

https://ja.wikipedia.org/wiki/哲人王_%28プラトン%29

哲人王(てつじんおう、英: philosopher king[1][2])は、プラトンが中期対話篇『国家』において述べた理想国家の君主である。『第七書簡』などでも言及されている。

概要

プラトンは、ある人が「善い」ということは「善を知ること」であり、逆に悪とは「善を知らないこと」であるという主知主義を展開した。そして、彼は哲学者の目標は感覚世界の背後にある実体であるイデア、そして最終的には善のイデアを見る・知ることであるとした。イデアを知るということはものの真実のあり方、性質を知るということであり、善のイデアを見る・知ることはとりもなおさず「善を知ること」であった。したがって、彼は、善のイデアを知った=善なる哲学者は最も物事を知り、知恵ある善き統治者たりうるとし、哲学者を王とする哲人王の思想を展開した。また、彼は哲人王育成の教育プログラムやその過程での厳しい選抜についても述べており、誰でも哲人王になれるわけではなかった。哲人王の候補者たちは数学や体育、音楽などの習いたい基礎科目・予備学科を習い、その過程で克己心や清貧などの徳を身につけることを推奨し、その上で哲学を学ぶ。プラトンはこのようにして将来の哲人王を育成するべきであるとし、その過程で適性のない者をふるい落として厳しく選抜することを説いた。

プラトンは『国家』において哲学者を王とする理想国家の国政、他の政体(名誉王の型、寡頭の型、民主の型、そしてプラトンが最悪の政体だとする僭主の型、独裁の型)との比較を行い、哲人王による統治が最も優れているものであるとした。

「夜の会議」への移行

詳細は「夜の会議」を参照

しかし、プラトンは、後期最後の対話篇である『法律』の段階になると、「哲人王」を持ち出さなくなり、代わって『国家』で述べられた「哲人王」と同じような教育を受けた、しかも多くの国政実務経験者も含む、複数人による「夜の会議」という機構に、国制・法律の保全、及びその目的である徳・善の見極めを委ねる考えを、表明するようになった。

これは中期の「哲人王」思想の洗練・発展形とも言うことができるし、「哲人王」思想をより現実主義的に修正したものだとも言える

後世の受容と批判

近代以前『国家』はユートピア的な理想国家の思想と捉えられてきたが、19世紀イギリスでは哲人王の思想はエリート主義的な国家運営のモデルとして見られた。20世紀に入ってからは独裁国家のイデオロギーの源泉のように見られるようになり、特にポパーの『開かれた社会とその敵』において哲人王はレーニンやヒトラーに直結するものとして批判された[3]。

夜の会議

https://ja.wikipedia.org/wiki/夜の会議

夜の会議[1][2](よるのかいぎ、古希: νυκτερινὸς σύλλογος、英: nocturnal council)とは、プラトンが最後の対話篇である『法律』の末尾で提示した、哲人王に代わる国制・法律の保全策としての機構。夜間会議(やかんかいぎ)とも[3]。『法律』10巻の908Aと909Aで初めて言及され、最終巻である12巻の951D-952D、及び961A以降で詳細にその内容が述べられる。

構成員と資格

『法律』12巻(951D-E, 961A-B)において、「夜の会議」の構成員は以下のように説明される。

護法官の中の最年長者10名

監査官 (神官) 全員

(教育監全員 (※951D-Eにおける記述のみ))

外国視察員の内、他の会員による審査で認定された者

各会員がそれぞれ1人同伴できる、事前に他の会員の承認を得た、30歳以上の適格な若者

また彼らは、『国家』における「哲人王」と同じく、幾何学・天文学を含む数学諸学科などの予備学を修めた上で、雑多なものから一なる形相(イデア)を導き出していく能力を養われ、また、諸天体が神々の「最善の魂」の知性(ヌース)によって動かされていることを理解して「敬神」の心を持ちつつ、国制・法律の目的である徳・善を追求・護持していける者であることが求められる[4]。

彼らは、公私の用事から解放される夜(早朝・夜明け前)に会議を持つので、これを「夜の会議」と呼ぶ。そして、この会議が国家全体の「錨」(いかり)として投じられていれば、それが必要な条件を満たしている限りは、国制・法律を安全に保ってくれると述べられる[5]。

(英語版)

Philosopher king

https://en.wikipedia.org/wiki/Philosopher_king

哲人王とは、政治的手腕と哲学的知識を兼ね備えた仮想の支配者のことである。哲学者が統治する都市国家という概念は、紀元前375年頃に書かれたプラトンの『共和国』で初めて探求された。プラトンは、理想的な国家とは、すべての市民が最大限の幸福を享受できる国家であり、哲学的な研究によって得られる絶対的な知識を持つ統治者によってのみ実現しうると主張した。中世以降、イスラムやユダヤの作家たちはこの理論を発展させ、自分たちの考える完璧な支配者に適合させた。アレクサンダー大王やマルクス・アウレリウスを含む歴史上の人物は、古今東西の作家によって、哲学者の王の理想を体現した人物として描かれてきた。

共和国

「共和国」はソクラテスの対話篇である。最初の2冊で、ソクラテスは正義の定義を問われ、理想的な都市国家がどのように機能するかを想像することでそれを達成しようと提案する。彼は、理想的な国家は特別に訓練されたガーディアン階級によって統治され、そのガーディアン階級は気骨のある性質と哲学的な気質を兼ね備えているだろうと提案している[1]。

ソクラテスは国家内の生活の様々な側面について議論を続ける。第5巻で、ソクラテスの対話者たちは、彼が説明している国家が現実に存在しうるかどうかを彼に問う。ソクラテスは、ある条件のもとでのみ実現しうると答える:

哲学者が王になるか、あるいはこの世の王や君主が哲学の精神と力を持つまでは……都市は決してその悪から安息することはないだろう、いや、私が信じているように、人類もそうだろう

ソクラテスは、真の哲学者と偽の哲学者を区別することによってこのコメントを明確にします。真の哲学者 (または「知恵の愛好家」) とは、物事そのものだけを愛する人ではなく、「それぞれの物事の中にある真実」を愛する人です。[3] これはプラトンの、すべての特定のものは永遠の形の影に過ぎないという信念に言及している。哲学者だけが絶対的な真理についての知識を持っており、国家のためにこの知識を適用することができるからである[4]。

ソクラテスは次に、理想的な哲学者が持つべき資質として、真実性、節制、正義、記憶力の良さなどを挙げている[5]。しかし、多くの哲学者は「まったくのならず者」であり、哲学者の中で最も優れたものは一般に役に立たないと考えられているため、この理想は現実とは著しく対照的であることが観察されています。ソクラテスは、哲学者の評判の悪さを国家船の比喩を通して説明し、アテネの民主主義を船の舵取りをめぐって互いに争う反逆的な船員のグループに例えています。船員たちは航海術の知識がまったくなく、これがパイロットに必要な資格であることを否定し、目標の達成に協力しない者に対しては罵倒を重ねる [6] 。

ソクラテスは、多くの哲学者が確かに堕落していることを認めるが、それは彼らが堕落した社会で育ったからだとする。理想的な状態においてのみ、哲学者はその潜在能力を最大限に発揮し、「自分自身と同様に、自分の国の救世主となる」ことができる[7]。

ソクラテスは、理想国家という主題に戻った後、後見人たちを形式についての完全で総合的な知識へと導くための教育方法について詳しく述べている。この教育は35年間続き、後見人となる者は、人生経験を積むために、さらに15年間、より軽い職に就かなければならない。そして50歳になったとき、彼らは統治者としての資格を得る。しかし、哲学者である彼らは政治に携わることを望むことはなく、ただ義務感から政治に携わることになる[8]。

ソクラテスは、理想国家は実現可能であるが、それは一人以上の哲学者が何らかの形で都市で権力を握った場合に限られることを再確認して、対話のこの部分を締めくくる。さらに彼は、もしそうなった場合、哲学者の王が完璧な国家を実現するための最も手っ取り早い方法は、10歳以上の住民をすべて追い出し、哲学の原理に従って若い世代を育てることができるようにすることであると示唆する[9]。

(プラトンの思想を悪用しているのが今の支配層?様々な古代の思想を悪用しているのか?)

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940713 No.7028

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>>7026

(赤文字箇所は引用者によるものです)

#177387 at 2017-12-26 07:18:29 (UTC+1)

CBTS #207 Christmas Before The Storm Edition

実は……今回のことは、ダ・ヴィンチの鍵の本とほとんどまったく同じ展開になっている。(映画はいいから本を読め)。DBにはもう1冊『天使と悪魔』という本があり、私はまだ読んでいないが、これもいい本に違いない。2008年に読んだ『ダ・ヴィンチの鍵』は、秘密結社がどのように存在し、なぜ存在するのか、そしてそれがこの件全体の鍵を握っていることについて、実によく洞察している。秘密。Qがドロップしているここに隠されたコード…ヒント、シンボルなど。それが助けを求める叫びなのか、警告なのかはわからないが、すべてがそこにある。ただ、私の意見だ。世の中にはたくさんのものがある。偽情報、ウサギの穴、行き止まりもたくさんある。インターネットが普及し始めた1991年以降に書かれた本はあまり信用できない。真実を知れば、それがデタラメかどうかわかる。

真実は、ローマ・カトリック教会とその信者の一団が、かつてローマが支配したように、地球を支配しようとしているということだ。ネロ・カエサル風に。それは、ほとんどすべての国や開拓者の目標だった。自分たちの国/民族/宗教/家族を「トップ」にすることを目標に、戦争、戦争、戦争。

私がアイン・ランドの作品を読んだのは10歳くらいのときで、プラトンやソクラテス、シェイクスピアもたくさん読んだ。私は、普通よりも賢い人たちの本を読みたかったのです。ローマ帝国との取引や支配者のやり方を知っていたからだ。

(日本の義務教育では哲学を教えないが、支配階級のイデオロギーを意識させないためだったのかもしれない。)

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940713 No.7029

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>>7026

プラトン・アカデミーを創設したメディチ家

プラトン=アカデミー

https://www.y-history.net/appendix/wh0902-021.html

15世紀、フィレンツェのメディチ家が設けた研究所。ギリシア思想の研究、復興を進めルネサンスの一つの拠点となった。

 1459年、フィレンツェのコジモ=デ=メディチは、別荘の建物を改装して、「プラトン=アカデミー」とし、若い哲学者フィチーノに命じて古代ギリシアのプラトンの著作のラテン語訳に従事させた。古代ギリシアのアテネにプラトンが作ったアカデメイアの再興をめざし、フィレンツェの学者が集まり、プラトンの著作などのギリシア哲学について盛んに議論し、研究が進められた。コシモの孫のロレンツォもその議論に加わっており、メディチ家の当主となってからも続けた。プラトン=アカデミーにはピコ=デラ=ミランドラら、当代のすぐれた学者、思想家が集まり、ルネサンスのユマニスムス(ヒューマニズム)の拠点となった。

メディチ家による保護

 フィレンツェにギリシア思想が知られたのは、1439年、コジモが招聘してフィレンツェで東西教会合同のための宗教会議が開催されたとき、ビザンツ帝国から皇帝自身と、ベッサリオンやゲミストゥスなどのギリシア人の学者がフィレンツェにやってきて、プラトンやアリストテレスを引用しながら盛んに議論をしたときからである。フィレンツェの知識人はこの時初めてプラトンのイデア論とアリストテレスの形相の概念を知り、キリスト教信仰にとってどちらが真理か、という哲学論争を経験した。フィレンツェ人はプラトンの思想をより支持したため、プラトン学者であったゲミストゥスは感激し、コシモにプラトン=アカデミーの設立を働きかけたという。この宗教会議は、迫りくるオスマン帝国に対抗するためのものであったが、目的の東西教会の合同は結局できず、1453年にビザンツ帝国は滅亡した。

プラトン・アカデミー

https://ja.wikipedia.org/wiki/プラトン・アカデミー

プラトン・アカデミー(伊: Accademica Platonica, 英: Platonic Academy)は、ルネサンス期にフィレンツェ・メディチ家の周囲に集まった人文主義者らによる私的なサークルをいう。大学のようなものではなく、フィチーノの友人たちの集まり、と言ってもよい。

概要

アカデミーの本拠地となったカレッジの別荘

メディチ家当主のコジモ(1389年-1464年)は、古代ギリシア哲学、特にプラトンの思想に強い関心を持っていた。1439年のフィレンツェ公会議の際に東ローマ帝国の代表団の一人としてやってきた哲学者プレトンが行ったプラトン講義をきっかけに、フィレンツェではプラトン哲学への関心が高まっていたのである。

コジモは侍医の子であるフィチーノに語学の才能があるのを見抜き、1462年頃からフィレンツェ郊外カレッジ(Careggi)にあるメディチ家別荘[1]の近くに別荘を与え、プラトンのラテン語翻訳に従事させた。フィチーノはプラトン全集やヘルメス文書などの翻訳により、名声を博した。そしてカレッジの別荘ではプラトンに心酔し、古代のアカデメイアに憧れる人文主義者らの会合が開かれるようになった。

プラトン・アカデミーはフィチーノを中心に、ランディーノ、ポリツィアーノ、ピコら多くの人文主義者が集い、メディチ家のロレンツォも加わって、プラトンの対話篇さながらに愛や美を巡る知的な討論を行った。異教的な思想が育まれ、ボッティチェッリの『プリマヴェーラ』『ヴィーナスの誕生』もこれらの知的風土の中に生まれた作品である。

1468年には(カレッジのアカデミーではないが)カマルドリ会系修道院でフィチーノ、アルベルティらにより「至高の善」をめぐる討論会が開かれ、ロレンツォも加わっている。ランディーノの著作が討論の様子を伝えている。

また1475年11月7日(プラトンの命日)にはプラトン当時を偲んで、カレッジに集まり『饗宴』を朗読し、その解釈を各人が述べるという催しも行われた。

ロレンツォの死(1492年)の後にはアカデミー活動は不活発となった。その後、メディチ家復帰(1512年末)後、プラトンアカデミーの再興が試みられたこともある)

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940713 No.7030

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>>7029

メディチ家

https://www.y-history.net/appendix/wh0902-019.html

イタリアのフィレンツェの大富豪。共和政で強い発言力を持ち、15世紀にはルネサンスの芸術・学問の保護者となった。共和政が衰えた後はトスカナ大公としてヨーロッパの貴族の一員となる。

 イタリア北部の内陸最大の商業都市、フィレンツェの大富豪でルネサンスの保護者として知られた一族。13世紀ごろからフィレンツェで薬屋を営み(その紋章の赤い6つの玉は、丸薬を示す看板だったという)、財をなしたらしい。14世紀末には銀行業を営み、全ヨーロッパにも知られ、主要な町に支店を置くようになっていた。特にローマ教皇の管財人となりその財産の管理にあたり名声を高め、またフランス王やドイツの諸侯などにも融資している。後にその紋章の6つの赤い玉の上に、フランス王家の紋章である百合の花をつけることを許されている。

メディチ銀行

 ジョバンニ=ディ=メディチは、共同経営者の一人としてローマで金融業を営んでいたが、1397年に故郷のフィレンツェに本拠を移し、資本金1万フィオリーナで銀行商会を設立した。これがメディチ銀行の実質的な創設であり、1420年までにローマ、ナポリ、ガエータ、ヴェネツィアなどに支店を設け、事業を拡大していった。当時は他にペルッツィ商会とバルディ商会の方がイタリア外にも支店を持って大きかったが、メディチ銀行は独自の経営形態を組織して、次第に大銀行に成長していった。

独自の銀行組織 独自の経営形態とは、単一の会社組織ではなく各支店は独自の資本と帳簿を持つ法的に分離した会社の形をとり、それらをフィレンツェの本部(メディチ邸)にいる総支配人が強力に統括する本社と支社の二重構造であった。それによって一支店の失敗による商社全体の倒産の危険性を回避するとともに分散経営の非効率性の欠点も埋めることができた。銀行幹部にはメディチ家だけでなくフィレンツェの商人も採用された。

最大の顧客は教皇庁 メディチ銀行の最大の顧客はローマ支店が窓口となったローマ教皇庁であった。教皇庁からの収益は、1435年までの銀行の年収益の50%をつねに超え、1397~1420年までの純利益は7万9千フィオリーノにのぼっている。当時のローマ教皇庁は大シスマの渦中にあり、メディチ銀行は対立教皇の政治資金に融資し、双方から利益を得た。メディチ銀行は教皇庁の徴税事務や資金輸送を請け負い、ローマ支店長は教皇庁財務管理者に任命されてその財政に深く関わるようになった。<森田義之『メディチ家』1999 講談社現代新書 p.64-79>

パトロンとしてのメディチ家

 ジョバンニは銀行業の利益を毛織物業に投資し、またその名声からフィレンツェ市政にも関与し、芸術を保護するパトロンとしても活躍し、ブルネレスキなどが、その委嘱を受けて作品を製作した。ジョバンニはこのようにルネサンスの保護者としてのメディチ家の基礎を築いた人物であり、その仕事は子のコジモと孫のロレンツォに継承される。

メディチ家の全盛期

 メディチ家はフィレンツェの共和政の中で大きな発言力を揮うようになり、15世紀のコジモ(”イル=ヴェッキオ”、古老の意味)とその孫のロレンツォ(“イル=マニフィコ”、偉大な、という意味)の二人の時が最も有力であり、まさにフィレンツェがルネサンスの中心地として栄えた時代であった。

コジモ=イル=ヴェッキオ 1429年にジョバンニが死去すると、新興勢力であるメディチ家に反発したフィレンツェの大商人たちが全市民大会を開いてその子コジモを政府転覆の陰謀ありという口実で追放してしまった。しかしわずか1年で市民大会はコジモの召喚を決議、1434年にコジモはフィレンツェに復帰し、かえってメディチ家の支配権力が確立した。権力を握ったコジモは、メディチ銀行の支店をジュネーヴ、ブリュージュ、ロンドン、アヴィニヨンに置き、毛織物・絹織物の事業を拡大、さらにヨーロッパ各地の商品を扱う総合商社としてその全盛期を迎えた。コジモは揺るぎない財力を背景に、彫刻家のドナテルロなどの芸術家を保護し、また古典文芸の保護につとめてプラトン=アカデミーを創設した。

ロレンツォ=イル=マニフィコ フィレンツェは共和政を原則としていたので、政権は世襲されなかったが、メディチ家と数家による寡頭支配が現実のものとなっていた。コジモの孫のロレンツォも1469年に「国家の長」の地位についたが、一時反メディチ勢力による襲撃事件などもあって動揺した。しかし祖父の財力と名声でフィレンツェの実権を握り、またギリシア・ローマの文芸や芸術作品を収集するなど、ルネサンスのパトロンとして重要な働きをした。ボッティチェリやミケランジェロ、レオナルド=ダ=ヴィンチらはいずれもその保護を受けた。世人は彼をイル=マニフィコ(偉大なという意味)と呼んだ。ローマ教皇レオ10世は彼の次男、後にフランス王アンリ2世の妃となるカトリーヌ=ド=メディシスは曾孫にあたる。

メディチ家の没落と再興

 1492年にロレンツォが死ぬと、フィレンツェでは反メディチ家を掲げる共和派が発言権を増し、しかもルネサンス的な華美な風潮を非難するサヴォナローラが登場して不安を煽るようになった。おりから、1494年にイタリア戦争が勃発、フランス王シャルル8世がフィレンツェを攻撃したため、メディチ家はフィレンツェから追放され、サヴォナローラの神権政治が行われる。しかし、サヴォナローラはローマ教皇から異端と断定されて急速に民衆の支持を失って処刑され、メディチ家は復活を遂げた。

メディチ銀行の経営不振   コジモの子のピエロ(ロレンツォの父。“通風やみ”)のころから、メディチ銀行は次第にその経営が困難になっていた。その理由は、ローマ教皇や各国王に貸し付けた資金が不良債権化したためであった。特にイタリア戦争が長期化すると、各国王への貸付金は焦げ付き、回収できなくなり、メディチ銀行はいくつかの支店を閉鎖しなければならなくなった。

メディチ家出身のローマ教皇

 その後、メディチ家からはレオ10世とクレメンス7世という二人のローマ教皇を出している。特にレオ10世の時、1517年、サン=ピエトロ大聖堂の修築のためにドイツで贖宥状を発売し、それを批判したルターによる宗教改革が始まることとなる。また、そのころフランス王と神聖ローマ教皇の対立が激化してイタリア戦争が再燃、ローマ教皇クレメンス7世がフランス王と結んだことから、1527年に神聖ローマ皇帝カール5世によるローマの劫略が行われると、フィレンツェでも共和派が決起し、再びメディチ家が追放された。

メディチ家支配の復活

 フィレンツェ共和国はメディチ家の復権を阻止すべく防衛体制を強化したが、宗教改革を始めたルターという共通の敵を持つこととなった神聖ローマ皇帝とローマ教皇の提携が成立すると、フィレンツェでも旧体制であるメディチ家を復活させるため、1530年に皇帝軍が総攻撃を加え、激戦の結果フィレンツェ共和国は敗北し、またまたメディチ家が復活、今度は共和制の形態をとらず、神聖ローマ帝国皇帝からフィレンツェ公の地位を与えられると言う形で、フィレンツェを統治することとなった。

トスカナ大公としてのメディチ家

 メディチ家はその後、その周辺の土地も合わせてトスカーナ公となり、1569年以降はトスカーナ大公といわれるようになる。その後は、メディチ家はトスカーナ大公の地位を世襲し、ヨーロッパ列国の王家と同列の国際的地位を保っており、フランスのユグノー戦争の時の王妃カトリーヌ=ド=メディシスもメディチ家の出身である。トスカーナ大公位は18世紀まで継続したが、結局は断絶する。<中田耕治『メディチ家の人々』初版1979年集英社 2002年講談社学術文庫版 などを参照>

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940713 No.7031

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>>7030

メディチ家

https://ja.wikipedia.org/wiki/メディチ家

メディチ家(メディチけ、イタリア語: Casa de' Medici)は、ルネサンス期のイタリア・フィレンツェにおいて銀行家、政治家として台頭、フィレンツェの実質的な支配者(僭主)として君臨し、後にトスカーナ大公国の君主となった一族である。

その財力でボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ヴァザーリ、ブロンツィーノ、アッローリなどの多数の芸術家をパトロンとして支援し、ルネサンスの文化を育てる上で大きな役割を果たしたことでも知られている。歴代の当主たちが集めた美術品などはウフィツィ美術館などに残され、また、ピッティ宮殿などのメディチ家を称える建造物も多数フィレンツェに残された。これらは、メディチ家の直系で最後の女性アンナ・マリア・ルイーザの遺言により、メディチ家の栄華を現代にまで伝えている。一族のマリー・ド・メディシスはブルボン朝の起源となった。

メディチ家の起源

「メディチ」は「医師」という意味で、先祖は薬種問屋か医師であったのではないかとされており、13世紀のフィレンツェ政府の評議会議員の記録に既にメディチの名前が残されているが、それ以前の経歴や一族の出自に付いてはあまり明らかにされていない。美術研究家の高階秀爾は著書で、メディチ家が元々はムジェッロ(英語版)出身の農民であり、耕地を売り払って街に出たと推測している[1]。メディチの紋章(金地に数個の赤い球を配する)の由来については、2つの説がある。ひとつは、「メディチ」(Medici)の家名そのものが示すように、彼らの祖先は医師(単数medico/複数medici)ないし薬種商であり、赤い球は丸薬、あるいは吸い玉(血を吸いだすために用いる丸いガラス玉)を表しているという説である。もうひとつは、メディチ家をフィレンツェ随一の大富豪にした当の職業、すなわち銀行業(両替商)にちなんで、貨幣、あるいは両替商の秤の分銅を表しているという説である[2]。銀行業を始める前は、薬品の一種で、欧州の工業で大きな位置を占めていた毛織物産業において媒染剤として重用されたミョウバンを商って栄えていた。いずれにしろ、一族に多いコジモの名は、医師と薬剤師の守護聖人、聖コスマスに由来している。

14世紀には銀行家として台頭し、フィレンツェ共和国政府にもメンバーを送りこむまでになった。1378年の下層労働者と新興商人が結んだチョンピの乱では、メディチ一族のサルヴェストロが活躍するが、反対派のアルビッツィ家らに巻き返されて失敗する。サルヴェストロの名は、永くフィレンツェ市民の記憶に残ったというが、一族の勢力は衰えた。そうした中で後のメディチ一族の基礎を作ったのはヴィエーリ・ディ・カンビオ(1323年 - 1395年)である。ヴィエーリはローマ教皇庁にもつながりを持って、銀行業で成功した。

(英語版から気になる箇所を転載)

https://en.wikipedia.org/wiki/House_of_Medici

・メディチ銀行が1397年に創設されてから1494年に没落するまで、ヨーロッパで最も繁栄し、尊敬を集めた機関のひとつであり、メディチ家は一時期ヨーロッパで最も裕福な一族とみなされた。メディチ家はこの基盤をもとに、当初はフィレンツェで、のちにイタリアとヨーロッパ全域で政治的権力を獲得した。彼らは、債権と債務を追跡するための複式簿記システムの開発を通じて、会計の総勘定元帳システムを使用する最も早い企業の一つであった。

メディチ家は、ピアノとオペラの発明に資金を提供し[7][要検証][8][要非三次資料]、サン・ピエトロ大聖堂とサンタ・マリア・デル・フィオーレの建設に資金を提供し、ブルネレスキ、ボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、マキャヴェッリ、ガリレオ、フランチェスコ・レディなど、芸術と科学の分野で多くの人々のパトロンであった。また、宗教改革の初期からトレント公会議、フランス宗教戦争に至るまで、反宗教改革の中心人物でもあった。

・メディチ家は、便宜結婚、提携、雇用などを通じて、当時の他のほとんどのエリート一族とつながっていたため、一族は社会的ネットワークの中心的な位置を占めていた。いくつかの一族は、メディチ家を通じてのみ、他のエリート一族と組織的に接触することができた。バルディ家、アルトヴィティ家、リドルフィ家、カヴァルカンティ家、トルナブオーニ家などがその例である。このことがメディチ家の台頭の理由として示唆されている[16]。

・メディチ家のメンバーは、14世紀初頭、特にフランスとスペインとの羊毛貿易で頭角を現した。メディチ家の何人かは街の政府機関に存在していたにもかかわらず、アルビッツィ家やストロッツィ家のような他の傑出した一族に比べると、まだはるかに目立たない存在であった。サルヴェストロ・デ・メディチの一人は1378年から82年にかけてのシオンピの反乱の際に毛織物職人組合の議長を務め、アントニオ・デ・メディチの一人は1396年にフィレンツェから追放された[17]。1400年に別の陰謀に関与したため、一族のすべての分家は2人を除いて20年間フィレンツェの政治から追放された。

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940713 No.7032

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>>7029

(赤文字箇所は引用者によるものです。情報元のリンクはないですが、次の深掘りに繋がりそうな情報をアノンが残してくれていたので共有させていただきます)

https://8kun.top/qresearch/res/1755656.html#1756288

#1756288 at 2018-06-15 07:03:40 (UTC+1)

Q Research General #2210 Encouraging Nite Shift Fags To Learn to Bake Edition

メディチ家は、バチカン、銀行、医療産業、秘密結社、シオニズムに関与する、よく知られた黒人貴族である。フィレンツェ貴族の多くは、古代ローマ時代にフィレンツェに移住したカバラを修行するアッシロ=カルデア人を祖先に持つ。ムーア人の侵攻の際には、これらの一族がさらにフィレンツェに移住し、大量の黄金を持ち込んだ。ナポレオン・ボナパルトは、すべての「ユダヤ人」がエルサレムに定住することを宣言した最初の政治的シオニストだった。シオニズムとは支配のことである。シオンとはエルサレムにある丘のことで、キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒によって聖地とされている。シオンは軍事的勝利を意味する。メディチ家は何世紀にもわたってヨーロッパで最も裕福な銀行家のひとつだった。彼らは3人の教皇と2人のフランス王妃を輩出した。メディチ家とボナパルト家は密接な関係にあり、現在も協力関係にある。両家は現在も存続している。エミリオ・ガラスターズ・メディチはブラジルの独裁者で、ブラジルに軍事政権を樹立した。ブラジル人のアンドレ・セザール・メディチは、現在ワシントンDCの世界銀行で医療経済学者として働いているメディチという名前は医療を意味し、彼らは魔術の実践と結びついてきた

薬学は、魔術や毒を意味するギリシャ語のPharmakeiaに由来する。薬学で最もよく使われるシンボルは、ヘルメスの杖に似た棒に蛇が巻きついたアスクレピオスの杖である。メディチ家は錬金術の魔術に関与しており、黄金の夜明けのヘルメス教団を運営している。ローマの宮殿にはヘルメスの像がある。メディチ家はヨーロッパ最古の植物園であるピサ植物園を設立し、フィレンツェ植物園も設立した。彼らはハーブや植物を人間の精神や生理を操作する錬金術に利用した。彼らはヘルメス騎士団のメンバーを使って食品会社や製薬会社に潜入している。

ドレフュス家はメディチ家と同じような先祖を持ち、非常に裕福である。フランスのドレフュス家はボナパルト家の宮廷官吏として働いている。ルイ=ナポレオン・ボナパルトはフランスの初代大統領である。フランスの大統領はボナパルトのレジオン・ドヌール勲章を受章しており、アルフレッド・ドレフュス、ピエール・ルイ=ドレフュス、ブノワ・ポティエ、ピエール=アンドレ・ド・シャルダール、パトリック・プヤンヌ、ルネ・オベールマン、ベルナール・アルノーなど、億万長者や大企業、大銀行の頭取を数多く輩出している。メディチ家最後のトスカーナ大公コジモ3世は、バイエルン選帝侯から多額の金塊を受け取った直後に、国営銀行を破産させた。メディチ家はこの金塊でロスチャイルド家を新たなトップバンカーにしたのだろう。ロスチャイルド家は、ナポリ銀行を経営していたカール・マイヤー・フォン・ロスチャイルドとともにメディチ家に資金を提供し、オッタヤーノのルイジ・デ・メディチ公と協力してきた。メディチ家は負債を追跡するために使われる複式簿記システムを開発した。

これらの犯罪一族の現在のメンバーには、オッタヴィアーノ・デ・メディチ王子、ジュリアン(グリアーノ)・デ・メディチ王子、ロレンツォ・デ・メディチ=トルナキンチ=フォスカリ王子、ボナパルト家にはチャールズ・ナポレオン・ボナパルト王子、ジャン・クリストフ・ナポレオン・ボナパルト王子がいる。ジャン・クリストフ王子はモルガン・スタンレーとアドヴェント・インターナショナルに勤務していた。アドヴェント・インターナショナルは300億以上の資産を持つ大手バイアウト会社である。メディチ家はローマの徴税人であり、ローマの権力ネットワークを通じて国税庁を監督している。ニューヨーク連邦準備銀行は、フィレンツェのメディチ・リッカルディ宮殿と建築デザインが似ている。メディチ家は、ローマが異端と宣言した人々を財政的に迫害するために、国税庁に命令している。所得税が不道徳であるだけでなく、国税庁は何もないところから借金をでっち上げ、そのでっち上げられた、あるいは膨らまされた借金に基づいて人々を迫害する。オッタヴィアーノ・デ・メディチ公はこの邪悪な血統の長であり、冷酷な暴君である。

アンドレ・メディチ

http://www.iea.usp.br/pessoas/pasta-pessoaa/andre-medici

アンドレ セザール メディチ は、経済学の修士号、経済史の博士号を取得しており、世界銀行の上級保健エコノミストです。 30 年以上にわたり、経済と医療改革、戦略計画、健康の優先事項などのテーマに専念し、ラテンアメリカ諸国の医療改革の設計と改善に貢献してきました。ブラジルでは、統合医療システム (SUS) の計画、開発、実装において基本的な役割を果たしました。

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940713 No.7033

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>>7030

紋章

https://en.wikipedia.org/wiki/House_of_Medici

メディチ家の紋章の起源は記録されていない。確証のない話では、シャルルマーニュの騎士アヴェラルドが巨人ムジェッロを倒したのがメディチ家の祖先とされている。その褒美として、カール大帝はアヴェラルドに、玉の形にへこんだ巨人の盾とムジェッロの巨人の土地を与えたと言われている。

最も単純な説は、メディチ家が所属していた両替商組合(Arte del Cambio)の紋章を模した硬貨を玉で表したというものである。その盾には、ビザンチン硬貨(ベザンツ)が赤く散りばめられていた[72][73]。また、これらの硬貨は聖ニコラスに関連する3枚の硬貨または黄金の玉を参照したとも論じられており、特にイタリアの銀行家たちが誓いを立てる際に聖人を呼び出したためである[74]。

イタリア語の語彙である "メディチ "は "医学博士 "を意味し、11世紀には一族の名前の中に医師であることを示すものが見られる。空想的な話では、この像は丸薬か、中世後期の医療器具で血液を採取するのに使われたカッピング・グラスとして描かれている。錠剤が存在したのはずっと後のことで、メディチ家の紋章が最初に描かれた時代には、血を抜くことは一般的な習慣ではなかった。しかし、美術史家のロッキー・ルッジェーロは、この図像はイタリアで一般的に栽培されている完熟したブラッドオレンジを丸ごと表現しているのではないかと、もっともらしく考えている。当時はビタミンの知識は存在しなかったが、オレンジが特定の病気に有効であることは認識されており、医師による推奨との関連性から、メディチ家の紋章に意図されたイメージである可能性が高いとルッジェーロは示唆している[75]。

また、メディチ家の紋章は当初、エトルリアの奉納彫刻のシンボルから着想を得たという説もある。楕円形のドームに玉(メディチ家の盾の形と同じ)、三角形の中に6つの玉(メディチ家の紋章の三角形の別バージョンに見られる)が描かれている例がある[76]。さらに、エトルリアの奉納彫刻の概念は、メディチ家が奉納像を奉納する宗教的慣習に参加していたことと一致する。この慣習は、神の恩恵を願い、あるいは神の恩恵に感謝して彫刻を奉納するという古代エトルリアの慣習を想起させるものであった[78]。このような恩恵には、奉納者とその子孫の両方にとって、強く健康な家庭を築くという願いも含まれていたであろう[79]。

(この映画のタイトルにオレンジが入っていることと、もしかして何か関係があるのだろうか?)

時計じかけのオレンジ

https://ja.wikipedia.org/wiki/時計じかけのオレンジ

https://en.wikipedia.org/wiki/A_Clockwork_Orange_(film)

『時計じかけのオレンジ』(とけいじかけのオレンジ、A Clockwork Orange)は、アンソニー・バージェスが1962年に発表した同名の小説を原作とする1971年公開のSF映画。スタンリー・キューブリック監督。

2020年、アメリカ議会図書館によって「文化的、歴史的、美学的に重要」とみなされ、アメリカ国立フィルム登録簿に保存された。

概要

暴力やセックスなど、欲望の限りを尽くす荒廃した自由放任と、管理された全体主義社会とのジレンマを描いた、サタイア(風刺)的作品。近未来を舞台設定にしているが、あくまでも普遍的な社会をモチーフにしており、映像化作品ではキューブリックの大胆さと繊細さによって、人間の持つ非人間性を悪の舞踊劇ともいうべき作品に昇華させている。

皮肉の利いた鮮烈なサタイア(風刺)だが、一部には暴力を誘発する作品であるという見解もある(後述)。

原作同様、映画も主人公である不良少年の一人称の物語であり、ロシア語と英語のスラングで組み合わされた「ナッドサット言葉」が使用されている。

この映画は、史上初めてドルビー研究所が開発したドルビーノイズリダクションシステムを使用し、ステレオ録音された映画である[注 1]。ただし、劇場公開用のフィルムはモノラルである。

主演のマルコム・マクダウェルは公開から37年後にこの作品について「アレックスを演じた後の10年間、あの役を嫌っていた。作品を観ようとも思わなかったし、人前で語ることさえも嫌だった。それは、人にいつもあの映画の話をされ、与えられた新しい映画でわたしが演じるキャラクターは、すべてアレックスをイメージして作られたものばかりだったからね。だが、今となっては自分もそれを受け入れて感謝しなければならないと思えるようになった。あの作品は誰がどう観たって傑作だからね。」と語っている[1]。

アレックスが二度目に作家の家を訪れたときに登場するマッチョな男は、『スター・ウォーズシリーズ』でダース・ベイダーの中身を演じたデヴィッド・プラウズである。

https://8kun.top/qresearch/res/28660.html#29279

#29279 at 2018-01-12 16:45:52 (UTC+1)

Q Research #33: Oatmeal Raisin Edition

>>29019

>>29165

チャーチ委員会

MK-ULTRA計画は1975年、チャーチ委員会とロックフェラー委員会として知られる大統領委員会の調査によって、アメリカ議会によって初めて広く世間に知られるようになった。

マインド・コントロールというテーマをあからさまに使ったスタンリー・キューブリックの映画には、『時計じかけのオレンジ』がある。アレクサンダー・デラージ(アレクサンダー大王?あるいは、スタンリーは『不思議の国のアリス』の男性版を使っているのかもしれない)は、映画館の椅子に縛り付けられ、目を開かされ、水を飲まされ、暴力的な行為に関する映画を見ることを強要される。アレックスは投与された薬物によって気分が悪くなり、その感覚はスクリーンに映し出された映像に結びつく。

MK体験中、アレックスはこう言った: 「現実の世界の色彩が、スクリーンで映像化されたときだけ、本当に現実のものに見えるのは不思議だ。明らかに映画は現実ではない。しかし、MKの被害者に、ファンタジーが現実である、あるいは現実よりも優れていると思わせることは、洗脳の重要な部分である。アレックスが拘束されている椅子は、『エターナル・サンシャイン・オブ・ザ・スポットレス・マインド』、『陰謀陰謀』、『トータル・リコール』などに登場するモントーク施設の実際のMKウルトラの椅子を強く彷彿とさせる。

アレックスの洗脳の間、彼は薬漬けにされ、暴力を見ることを強要されたが、最後にルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番が流され、アレックスが好きな曲を聞くたびにうっかり気分が悪くなった。釈放されたアレックスは、自分が男女を襲った家に偶然出くわした。彼はその男に、ベートーベンの第9を聴くと気分が悪くなると言った。そこでアレックスの正体に気づいた男は、アレックスに赤ワインを飲ませ、アレックスを2階に閉じ込め、アレックスが窓から飛び降りるまでベートーヴェンの第9番で拷問する。

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940713 No.7034

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>>7033

時代の転換期に演奏された「第九」。戦争、平和、革命、その歴史を辿る

https://www.kateigaho.com/article/detail/152977

2022.11.18

戦争、平和、革命――時代の転換期に演奏されてきた第九

「第九」は歴史を語る

日本では年末に演奏されることが多い第九。世界では、特別な日に演奏する、特別な曲です。世界情勢とも切り離せないその歴史を辿ります。

近・現代史を目撃してきた「第九」

第九はオーケストラの定期演奏会の枠を超え、国家的イベントでも演奏される“特別な曲”です。その第九をイベントで演奏した最初の人物が、オペラ作曲家のワーグナーでした。ドレスデンで宮廷歌劇場楽長を務めていた1846年、キリスト教の祝日「棕櫚(しゅろ)の主日」という特別なキリスト教の祝日に、祝賀イベントとして第九を演奏しました。

1905年には、ベルリンの労働者のためのコンサートで演奏。それまで貴族や富裕層のものだったクラシック音楽が、労働者に開放されました。1918年12月31日深夜11時、労働者教養協会主催のコンサートでは、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団が第九を演奏。今でいうカウントダウンコンサートです。これが日本にも伝わり、“暮れの第九”となっていきます。

ヒトラー政権になると、第九は“ナチスの音楽”へ──。大指揮者フルトヴェングラーも、不本意ながらヒトラー誕生日祝賀演奏会で第九を指揮し、ラジオ放送もされました。その録音は今聴いても凄まじい熱演です。

そして1945年9月、第二次世界大戦終戦。今度は勝利したアメリカのカーネギーホールで、大指揮者トスカニーニ指揮の下、第九が演奏されました。勝利の「歓喜の歌」として──。つまり、総力戦を戦ったナチスと連合国の双方で、第九は特別な曲だったのです。

戦争はヨーロッパの多くの歌劇場やホールを焼失させました。戦後、スカラ座やウィーン国立歌劇場、ベルリン・フィルハーモニーホールなどが再建されます。そして、そのこけら落としでも第九が演奏されています。

1989年の東欧革命でも、第九は重要な役割を果たします。ビロード革命を祝うプラハでも、“ベルリンの壁”崩壊を祝うベルリンでも、そして翌年(1990年)の東西ドイツ再統一記念式典でも──。

一方、2000年、ナチスのマウトハウゼン強制収容所跡地での犠牲者追悼演奏会で、第九が奏でられました。終わっても拍手のない、まさに“鎮魂の演奏会”でした。

第九は近・現代史の重要な場面で、さまざまな意図のもと演奏されてきました。歴史に翻弄された曲といえるでしょう。しかし、第九の価値は揺るがない──、第九の方が、人類を翻弄しているのかもしれません。

世界における「第九」演奏史

1770年 12月、ベートーヴェン誕生。

1785年 シラー「歓喜に寄す」を書く。

1792年 ベートーヴェン、「歓喜に寄す」に曲をつけたい、と考える。

1824年 1月〜2月、「第九」ほぼ完成(以下「第九」は略)。5月7日、ウィーンで初演。

1826年 プロイセン国王に献呈。8月出版。

1846年 ニョーヨーク・フィルがアメリカで初めて演奏。ドレスデンにてワーグナー指揮で祝日に演奏【大イベントでの演奏の始まり】。

1905年 ベルリンにて労働者のためのコンサートで演奏。

1918年 日本・徳島の板東俘虜収容所でドイツ兵により演奏【日本初演】。 ライプツィヒで12月31日深夜に演奏【「暮れの第九」の起源】。

1923年 全曲初録音。

1927年 2月、トスカニーニ指揮ニューヨーク・フィルの演奏で初めてのラジオ中継。

1931年 スペイン・バルセロナで共和国誕生記念にカザルスの指揮で演奏。

1940年 12月31日、日本の新交響楽団(現・N響)が演奏しラジオ中継。日本の「暮れの第九」の始まり。

1942年 ヒトラー誕生日祝賀演奏会にてフルトヴェングラー指揮で演奏。

1944年 日本交響楽団(現・N響)が学徒出陣の学生のための壮行会で演奏。

1945年 9月、第二次世界大戦終戦を祝いトスカニーニ指揮でニューヨークにて演奏。

1947年 12月30日、日比谷公会堂での学徒出陣した戦没者の追悼で演奏。

1955年 空襲で焼失したウィーン国立歌劇場再建記念演奏会でワルター指揮。

1963年 ベルリン・フィルハーモニーホール落成記念演奏会でカラヤン指揮。

1970年 ベートーヴェン生誕200年、世界各地で演奏。

1989年 12月14日、チェコスロバキアのビロード革命を祝福する演奏会でチェコ・フィルが演奏。12月23日、25日、バーンスタイン指揮でベルリンの壁崩壊を祝しベルリンで演奏。

1990年 10月2日、東西ドイツ再統一記念に演奏。

1998年 2月、長野五輪開会式で小澤征爾が指揮して演奏。

2000年 5月、ナチスのマウトハウゼン強制収容所の跡地でウィーン・フィルが犠牲者追悼の演奏。

2001年 ベートーヴェンがプロイセン国王に献呈した楽譜がユネスコの「世界の記憶」に。

2011年 4月、東日本大震災被災者支援チャリティ演奏会にてメータ指揮でN響が演奏。

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940713 No.7035

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>>7033

>>20153271

日本語訳を一部訂正します

>メディチ家の紋章に意図されたイメージである可能性が高いとルッジェーロは示唆している[75]。

これはおそらくメディチ家の紋章に意図されたイメージであるとルッジェーロは示唆している[75]。

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940713 No.7036

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>>7034

交響曲第9番 (ベートーヴェン)

https://ja.wikipedia.org/wiki/交響曲第9番_(ベートーヴェン)

交響曲第9番 ニ短調 作品125(こうきょうきょくだい9ばん ニたんちょう さくひん125、ドイツ語: Sinfonie Nr. 9 d-moll op. 125)は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1824年に作曲した独唱と合唱を伴う交響曲。ベートーヴェンの9番目にして最後の交響曲である[注釈 1]。

ベートーヴェン自身はタイトルをつけなかったが、通称として「合唱」や「合唱付き」が付されることも多い。また日本では略称として「第九」(だいく)とも呼ばれ、その演奏会は年末の風物詩となっている[1]。第4楽章は独唱および合唱を伴って演奏され、歌詞にはシラーの詩『歓喜に寄す』が用いられ、その主題は『歓喜の歌』としても親しまれている[2]。原曲の歌詞はドイツ語だが、世界中の多くの言語に翻訳されており、その歌詞で歌われることもある。

多くの批評家や音楽学者によってベートーヴェンの最高傑作に位置付けられるだけでなく、西洋音楽史上最も優れた作品の1つに数えられている[3][4]。第4楽章の「歓喜」の主題は、欧州評議会においてはヨーロッパ全体をたたえる「欧州の歌」として、欧州連合(EU)においては連合における統一性を象徴するものとして、それぞれ採択されている。このほか、コソボ共和国の暫定国歌や、かつてのローデシアの国歌[5]としても制定されていた。ベルリン国立図書館所蔵の自筆譜資料は2001年に国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)のユネスコ記憶遺産リストに登録された。初演/初版の版刻に用いられた筆写スコアが2003年にサザビーズで競売にかけられた際には、「人類最高の芸術作品」と紹介されている[6]。

日本での年末の演奏の歴史

1940年(昭和15年)12月31日午後10時30分、紀元二千六百年記念行事の一環として、ヨーゼフ・ローゼンシュトックが新交響楽団(現在のNHK交響楽団)を指揮して『第九』のラジオ生放送を行った。これを企画したのは当時、日本放送協会(NHK)の洋楽課員だった三宅善三である。彼は、その理由について「ドイツでは習慣として大晦日に第九を演奏し、演奏終了と共に新年を迎える」としている。実際に、当時から現在まで年末に『第九』を演奏しているドイツのオーケストラとして、著名なところではライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団が挙げられ、それを模倣するオーケストラもいくつかある。ただし厳密には、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団による大晦日の『第九』演奏は深夜に行われるものではない。よって何らかの意思疎通や通訳の誤りにより "深夜に演奏してそのまま新年を迎える" といった勘違いをしたのではないかと思われる。

日本で年末に『第九』が頻繁に演奏されるようになった背景には、第二次世界大戦後間もない1940年代後半、オーケストラ演奏の収入が少なく、楽団員が年末年始の生活に困る状況を改善するため、合唱団も含めて演奏に参加する楽団員が多く、しかも当時(クラシック音楽の演奏の中では)「必ず(客が)入る曲目」であった『第九』を日本交響楽団(現在のNHK交響楽団)が年末に演奏するようになり、それが定例となったことが発端とされる[7]。既に大晦日に生放送をする慣習が定着していたから、年末の定期演奏会で取り上げても何ら違和感が無かったことも一因として挙げられよう[注釈 9]。1956年(昭和31年)に群馬交響楽団が行った群馬での第九演奏会の成功が全国に広まったのをきっかけに、国内の年末の『第九』の演奏は急激に増え、現在に至っている[44]。

バイロイト音楽祭と第九

1872年、バイロイトに祝祭劇場を建設する際、その定礎の記念として選帝侯劇場にてリヒャルト・ワーグナーの指揮で『第九』が演奏された。その所縁もあり、『第九』はバイロイト音楽祭においてワーグナーの歌劇・楽劇以外で演奏される唯一の曲となっている。以後、何度か演奏されている。1933年はリヒャルト・シュトラウス、1951年と1954年はヴィルヘルム・フルトヴェングラー、1953年はパウル・ヒンデミット、1963年はカール・ベーム、2001年はクリスティアン・ティーレマン。

(ベートーヴェン作詞)

歓喜よ、神々の麗しき霊感よ

天上の楽園の乙女よ

我々は火のように酔いしれて

崇高な汝(歓喜)の聖所に入る

汝が魔力は再び結び合わせる

(1803年改稿)

時流が強く切り離したものを

すべての人々は兄弟となる

(1785年初稿:

時流の刀が切り離したものを

貧しき者らは王侯の兄弟となる)

汝の柔らかな翼が留まる所で

ひとりの友の友となるという

大きな成功を勝ち取った者

心優しき妻を得た者は

彼の歓声に声を合わせよ

そうだ、地上にただ一人だけでも

心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ

そしてそれがどうしてもできなかった者は

この輪から泣く泣く立ち去るがよい

すべての被造物は

創造主の乳房から歓喜を飲み、

すべての善人とすべての悪人は

創造主の薔薇の踏み跡をたどる。

口づけと葡萄酒と死の試練を受けた友を

創造主は我々に与えた

快楽は虫けらのような弱い人間にも与えられ

智天使ケルビムは神の御前に立つ

天の星々がきらびやかな天空を

飛びゆくように、楽しげに

兄弟たちよ、自らの道を進め

英雄のように喜ばしく勝利を目指せ

抱擁を受けよ、諸人(もろびと)よ!

この口づけを全世界に!

兄弟よ、この星空の上に

ひとりの父なる神が住んでおられるに違いない

諸人よ、ひざまずいたか

世界よ、創造主を予感するか

星空の彼方に神を求めよ

星々の上に、神は必ず住みたもう

4年ぶり『1万人の合唱団』が歌声響かせる…師走恒例の「サントリー1万人の第九」(2023年12月4日)

https://youtu.be/R2P0c-5j0t4?si=OcXxRkKd1BUrsBdk

師走恒例の「サントリー1万人の第九」4年ぶりに1万人の合唱団が歌声を響かせました。

 ベートーヴェンの交響曲第9番を高らかに歌い上げる「サントリー1万人の第九」。今年で41回目を迎え、指揮者の佐渡裕さんがタクトを振るのは25回目となります。

 新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、3年前とおととしは投稿された動画を編集して流す形で行われ、去年は合唱団を2000人に絞って開催されましたが、今年は全国から集まった6歳から96歳までのおよそ1万人が合唱に参加。4年ぶりに歓喜の大合唱が大阪城ホールに響きわたりました。

 コンサートの様子は12月16日にMBS系全国ネットで放送されます。

(日本の年末の風物詩だったのですか!?kek 私は第九が年末の風物詩だと思ったことは今まで一度もありませんでした。単に縁がなかったからそう感じるだけかもしれません。このようなイベントも今まで意識して観たことがありませんでした。)

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940713 No.7037

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>>7036

Q Research Japan/Nihon #20より

選帝侯

https://ja.wikipedia.org/wiki/選帝侯

選帝侯(せんていこう、ドイツ語: Kurfürst)は、神聖ローマ帝国において、ローマ王(ドイツ王)すなわち神聖ローマ帝国の君主に対する選挙権(選定権)を有した諸侯のことである。選挙権以外にも他の帝国諸侯とは一線を画した数々の特権を有した。選挙侯(せんきょこう)または選定侯(せんていこう)ともいう。

選帝侯

https://www.y-history.net/appendix/wh0603_2-083.html

1356年の金印勅書で定められた神聖ローマ皇帝の選出権を持つ7つの有力諸侯。

 1356年、神聖ローマ帝国皇帝カール4世の「金印勅書」によって定めらた、神聖ローマ帝国皇帝の選挙権を持つ、有力な7つの諸侯をいう。マインツ大司教、トリーア大司教、ケルン大司教の三聖職諸侯と、ファルツ(プファルツ)、ザクセン、ブランデンブルク、ベーメン(ボヘミア)の4世俗諸侯。このなかでマインツ大司教が筆頭格とされ、神聖ローマ皇帝の補佐役の立場にあった。また、選帝侯の会議は、従来の諸侯会議と同じく、フランクフルトで行われた。この選帝侯は世襲なので、原則として1806年の神聖ローマ帝国の消滅まで続いた。

 それぞれ有力な領邦の領主であったが、金印勅書の付帯的な条項によって、選帝侯領は分割されず長子によって相続されること、貨幣鋳造権・関税徴収権・鉱山採掘権などが認められたこと、裁判権が強化されたことなど、大幅な特権が認められた。これによって彼らの領邦は神聖ローマ帝国内にありながら独立した国家の形態をとるようになった。

選帝侯の変遷

 1356年に7選帝侯に選ばれなかった有力諸侯としては、オーストリアを勢力圏とするハプスブルク家、バイエルンのヴィッテルスバッハ家であろう。これは神聖ローマ皇帝に選ばれ金印勅書を出したベーメン王国のルクセンブルク家カール4世が、対抗勢力として排除したものであった。しかし、時代とともにその他の領邦も選帝侯と同等の権利を得ようと努力するようになる。

 16世紀の宗教改革を経てヨーロッパの政治情勢が宗教戦争によって激動が始まり、17世紀の三十年戦争の発端となったベーメンの反乱では、プロテスタント諸侯同盟の盟主となったファルツ(プファルツ)選帝侯が敗れて、一時選帝侯の地位をバイエルン公に奪われている。その後、ウェストファリア条約で領地を回復し、選帝侯の地位も復活したが、バイエルン選帝侯もそのまま継続したので、ここからは八選帝侯となる。

 さらに、その後にブラウンシュヴァイク=ハノーヴァー公が選帝侯に加えられることもあったので、七選帝侯として固定されていたわけではない。また、ハプスブルク家のオーストリア(大公)は選帝侯となることはなかったが、次第に力を拡大して、選帝侯国を上回る領邦国家を建設することとなり、皇帝に選出され続けて事実上皇帝位を世襲する。

(現在の利権問題も、もしかしてここが始まり?)

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940713 No.7038

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>>7036

>天上の楽園

エーリュシオン

https://ja.wikipedia.org/wiki/エーリュシオン

エーリュシオン(古希: Ἠλύσιον, Ēlysion、ラテン語: Elysium)は、ギリシア神話に登場する死後の楽園である。冥界の審判官を務めるアイアコス、ミーノース、ラダマンテュスが支配する世界で、神々に愛された英雄たちの魂が暮らすとされる。長母音を省略してエリュシオンとも表記される。

(英語版)

Elysium

https://en.wikipedia.org/wiki/Elysium

エリュシオン(/ɪˈlɪ. əm/, /ɪˈlɪʒəm/[1])は、エリュシオンの野(古代ギリシア語: Ἠλύσιον πεδίον, Ēlýion pedíon)またはエリュシオン平原として知られる死後の世界の概念であり、時代とともに発展し、ギリシアのいくつかの宗教的・哲学的宗派やカルトによって維持された。当初はギリシアの冥界である黄泉の国から切り離されていた。神々や英雄に関係する人間だけが三途の川を渡ることができた。その後、神々に選ばれた者、正しい者、英雄的な者を含むようになった。彼らは死後もエリュシオンの野に留まり、祝福された幸せな死後の世界を生き、生前楽しんでいたあらゆる楽しみを満喫することになる[2][3][4][5][6][7]。

ホメロスによれば、エリュシオンの野はオケアノスの流れによって地球の西端に位置していた[2]。ギリシャの詩人ヘシオドスの時代には、エリュシオンは「幸運の島々」、あるいは「祝福された島々」としても知られていた。 [2][8][9]テーバンの詩人ピンダルは、祝福された島々を一つの島に縮小し、木陰の公園があり、住民が運動や音楽の娯楽に興じていると描写した[2][3]。

エリジウムの支配者は著者によって異なる: ピンダルとヘシオドスはクロノスを支配者として挙げており[10]、詩人ホメロスは『オデュッセイア』の中で白い髪のラーダマンサスがそこに住んでいると描写している[7][8][11][12]。"祝福された者たちの島 "は、サモサタのルシアンによる2世紀の喜劇小説『A True Story』にも登場する。

・語源: テサロニケのエウスタティウス[13]によれば、エリュシオン(Ἠλύσιον)という言葉はἀλυουσας(ἀλύω、 喜びから深くかき立てられる)[14]、あるいはἀφθάρτως(ἄφθαρτος、朽ちることのない)[15]の同義語であるἀλύτωςに由来し、この場所での魂の生活を指している。もう一つの示唆は、ελυθ-、ἔρχομαι(来るべきもの)からのものである[16]。

・映画とテレビ

例えば、リドリー・スコット監督の映画『グラディエーター』では、マキシマス将軍が軍隊にこう語りかける場面で、エリジウムについて少し触れられている: 「緑の野原を疾走し、太陽を顔に浴びながら、ひとりぼっちになったとしても、悩むな。君たちはエリジウムにいて、すでに死んでいるのだから!」。ヘラクレス: Hercules: The Legendary Journeys』とそのスピンオフ作品『Xena: Warrior Princess』では、実際のエリュシオン・フィールズが幸せな死後の世界として何度か登場し、タイトルキャラクターの家族がそこに住んでいる。エリジウムという名前は、スタートレックの小説『Before Dishonor』で、冥王星の4番目の月の名前として使われた。

2013年のマット・デイモン主演のディストピア映画『エリジウム』では、貧しい人々が住む荒廃した地球とは対照的に、富裕層が住む豪華な軌道上の宇宙ステーションを表現するためにエリジウムという名前が使われた[34]。

ハウス・オブ・カード』シーズン5第8話では、権力者のための秘密結社が「エリジアン・フィールズ」と名付けられた。

#220385 at 2018-01-01 04:35:01 (UTC+1)

CBTS General #260: Drunk on Q Crumbs - Happy New Years Edition

スレッドを見逃していた(笑)。あけましておめでとうアノンたち。

ジョン・レジェンドがマリーナ・アブラモヴィッチと参加したイベントを見ていました。

エリジウムの芸術の一部であるエリジウムの天の精神。このチャリティー/アートセンター全体を掘り下げる場所だ。このグループに関わる多くの人々のリストがある。

http://www.theartofElysium.org/programs-1/#

天国のイベントは2017年のもので、マリーナ・アブラモヴィッチが主催し、アンバー・ハードにエリジウムの精神賞を与えた。

アンバーは現在、ロケットマンのイーロン・マスクとチリにいる。

彼らは奇妙なアニメのクリップを示すイベントのビデオを持っている。写真を何枚か載せておこう。

https://ebstudios.vhx.tv/the-art-of-Elysium-s-heaven/season:1/videos/sno-heaven-marina-abramovic

この写真は、古代の混合宗教と太陽と一緒に描かれていると思う、

(彼らの宗教は、真の悪、狂気、ナルシスト、サイコパスの近親交配に数秘術、黄道十二宮を加えた、パゲン/エジプト/ローマ/ギリシャ/バベロニア/悪魔崇拝/ルシフェリアン/土星崇拝のミックスだと思う)

反対側には、米軍、ジョン・ウェイン(笑)、猿、巨大な頭蓋骨に見える。

同盟と陰謀団の戦争に見える。

誰かアンバー・ハードのツイッター https://twitter.com/realamberheard ?lang=en とインスタグラムをアーカイブしてくれないかな。

そしてイーロン・マスクのアーカイブも。

セレブ、政治家、企業トップ、VIP)人々のソーシャルメディアアカウントをアーカイブし始めた自閉症患者はいるのだろうか(クリッシー・テイゲンのように消され始めると困るから)彼女は遅すぎた、自閉症患者はすでに彼女のアカウントをアーカイブしていたのだ。

エリジウムの各イベントにはホスト委員会がある。そのリストにはたくさんの名前がある。

#218641 at 2017-12-31 23:14:37 (UTC+1)

CBTS General #258: Q Year's Eve Countdown Edition

ジョン・レジェンドのイベント "Heaven "の一部であり、悪魔崇拝者のマリーナ・アブラモヴィッチが彼のビジョナリーサークルに加わる "The Art of Elysium "について調べていた。

www. theartofElysium.org/heaven-2018/

エリジウムの501(c)(3)990'sを見てみると、カリフォルニア州アナハイムにあるサービテ高校から特に3万ドルの寄付があるようだ。サーバイト高校は男子校で、創立当初から性犯罪の疑惑が絶えなかった。

ヘッドライン

アナハイムのセルバイト高校を含む、新たな性的暴行疑惑が明らかになった。

www.ocregister. com/2015/05/02/final-catholic-misconduct-files-reveal-new-sexual-assault-allegations-including-at-anaheims-servite-high/.

3 カトリック兄弟による痴漢行為を主張 : 訴訟: 1967年から1986年にかけて、高校、教会、旅行先で起きたとされる事件に関連して、損害賠償が求められている。

articles.latimes. com/1993-04-22/local/me-25840_1_servite-high-school

ここで点と点を結んでみると……。アート・オブ・エリジウム=ジョン・レジェンド=スピリット・クッキング・マリーナ・アブラモヴィッチ」=サーヴィテ高校が多額の寄付をする…。

奇妙な関係だ…。

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940713 No.7039

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Q Research Japan/Nihon #20より

日本航空516便の"516"関連情報

(日本航空516便について)シーア兄貴”516はカトリックだと聖ブレンダンの祝日でこの人は旅行者の守護聖人ね

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午前8:31 · 2024年1月3日

引用元:

http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-date-202401.html

クロンファートのブレンダン

https://ja.wikipedia.org/wiki/クロンファートのブレンダン

クロンファートのブレンダンまたは聖ブレンダン(英語:Saint Brendan of Clonfert または Bréanainn of Clonfert, 484年頃 - 578年頃)は、初期ケルト系キリスト教の聖人であり、聖公会・カトリック教会・正教会で崇敬されている。ローマ・カトリックでの祝日は5月16日。正教会では1月15日。航海者ブレンダン、旅行者ブレンダンとも呼ばれる。船乗り、旅行者の守護聖人。主として半ば伝説と化した楽園探索「聖ブレンダンの航海」(Immram)で名高い。ドイツ語では聖ブランダン(St. Brandan)。

(英語版)

Brendan the Navigator

https://en.wikipedia.org/wiki/Brendan_the_Navigator

クロンファートのブレンダン(AD484年頃-577年頃)は、アイルランド初期の修道会の聖人の一人で、アイルランドの12使徒の一人。ブレンダン・ザ・ナビゲーター、ブレンダン・ザ・ボイジャー、ブレンダン・ザ・アンカーライト、ブレンダン・ザ・ボールドとも呼ばれる。ブレンダンの名はアイルランド語ではNaomh BréanainnまたはNaomh Breandánと訳される。彼は主に「祝福された島」を探す伝説的な航海で知られ、「聖ブレンダンの島」と呼ばれることもある。聖ブレンダンの航海の記録は、『聖ブレンダン修道士の航海』(The Navigatio Sancti Brendani Abbatis)にある。

聖ブレンダンの祝日は、カトリック、英国国教会、正教会によって5月16日に祝われている。

崇敬

ブレンダンはカトリック教会によって聖人として認められている。彼の祭日は5月16日である。7年間の航海の伝説が広まると、大勢の巡礼者や学生がアードファートに集まった。ブレンダンの霊的な導きを求めてやってきた人々の要望に応えるため、ガレラス、キルマルチェドール、ブランドン・ヒル、ブラスケット諸島に修道院が設立された[6]。ブレンダンは船乗りと旅人の守護聖人である。メリーランド州アナポリスのアメリカ海軍兵学校には、ブレンダンの功績を記念する大きなステンドグラスがある。トラリーのフェニット・ハーバーには、ブレンダンの思い出を称えるために、ティゲ・オドノヒュー/ロス作の大きなブロンズ像が建てられた。ヘリテージ・パークとブレンダンの道(Slí Bhreanainn)を含むこのプロジェクトは、Gearóid Ó Donnchadha神父が率い、聖ブレンダン委員会の活動によって完成した。

守護聖人

ブレンダン・ザ・ナビゲーター(Brendan the Navigator, Brénainn moccu Alti)は、アイルランドの2つの教区(ケリー教区とクロンファート教区)の守護聖人である。また、船乗り、航海者、旅行者、高齢の冒険家、クジラ[28]、アメリカ海軍[29]の守護聖人でもあり、カヌーの航海の守護聖人でもある[7]。

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940713 No.7040

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>>7039

利光松男

https://ja.wikipedia.org/wiki/利光松男

利光 松男(としみつ まつお、1923年11月23日 - 2004年11月8日)は、日本の実業家。東京都出身。日本航空株式会社元名誉顧問・相談役・代表取締役社長。一般社団法人日本航空協会元会長。公益財団法人日本棋院元理事長。勲二等旭日重光章受章。

経歴

1947年 -上智大学経済学部経済学科卒業。

1951年8月1日に日本航空の第一期生として入社。特殊法人時代から一貫して民営化を唱え、「浮き沈みの激しい会社生活」を送る。

1977年 - 日本航空取締役。

1981年 - 日本航空常務取締役。

2月 - 教皇ヨハネ・パウロ2世来日。カトリック信徒である利光がJAL団長を務める

1983年 - 旅行開発(現ジャルパック)社長。

1985年6月 - 日航商事(現JALUX)社長。

1987年 - 日本航空代表取締役副社長(民営化実現)。

1990年 - 日本航空代表取締役社長。

1995年 - 日本航空取締役相談役。

1998年 - 日本航空の子会社役員。

1999年 - 日本航空協会会長就任(2004年11月まで)。

2000年 - 日本棋院理事長。

2004年4月 - 日本棋院理事長を体調不良のため退任。

2004年11月8日 - 80歳で死去。葬儀は誕生日1日後に兼子勲・日本航空会長の弔辞とともに行われた。その後の警察の調べでは自殺と推定されている。

青年時代[編集]

遠藤周作との深く長い親交で知られる。貧乏時代の遠藤が住む家を無くしていた際、利光が遠藤の生活を世話した。

晩年・死去[編集]

1999年、自宅に銃弾が打ち込まれる。以降、総会屋・暴力団などの反社会的勢力とJALの決別の推進への報復を警戒し、2004年10月まで利光家は24時間体制で警察の警備を受けた。

2004年、警察の警備が解除されて約1か月後、利光は首をつった状態で発見された。

映画製作[編集]

『紅の豚』製作総指揮

(初代会長がカトリック信徒かどうかの情報はすぐに見つけられず….)

藤山愛一郎

https://ja.wikipedia.org/wiki/藤山愛一郎

藤山 愛一郎(ふじやま あいいちろう、1897年5月22日 - 1985年2月22日)は、日本の政治家、実業家。

外務大臣、経済企画庁長官、衆議院議員(6期)、日本商工会議所会頭、経済同友会代表幹事、初代日本航空会長、自民党総務会長などを歴任した。

藤山コンツェルン二代目。位階は従二位。勲等は勲一等。

来歴・人物

東京王子に王子製紙専務取締役藤山雷太(佐賀県士族)の長男[注釈 1]として生まれる。慶應幼稚舎時代、当時の官立崇拝の強い風潮の中、父が福澤諭吉門下直系であるにも拘わらず第一高等学校(現東京大学教養学部)合格者数第一位を誇った府立一中(現東京都立日比谷高等学校)を受験するも失敗、慶應義塾普通部に進学した[1]。更に慶應義塾大学政治科に進むが1918年に病気療養のため中退し、父が築いた藤山コンツェルンの後継者として大日本製糖社長となる。その後、日東化学工業(現在の三菱レイヨン)社長や日本金銭登録機(現在の日本NCR)社長などを歴任した。

1941年に僅か44歳で日本商工会議所会頭に就任した。第二次世界大戦下の1943年には大正製薬創業者の石井絹治郎の葬儀委員長を務めた。1945年3月には熱海の自邸を終戦工作に奔走する高木惣吉少将に提供、その拠点となった。

戦後の連合国軍の占領下で公職追放となるが1950年に復帰。1951年に日商会頭を再任され、その後日本航空(旧法人[注釈 2])の初代会長にも就任。その一方で経済同友会代表幹事などを歴任した。

1956年には、東南アジア諸国との関係改善を目指すアジア善隣国民運動の中央本部会長に就任し、全国的な募金活動を支援した[2]。

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940713 No.7086

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Q Research Japan Nihon #21より

山本太郎はイエズス会人脈で暗躍しているのか?

れいわ新選組の山本太郎代表、一家はカトリック 教会で過ごした過去語る

https://www.christiantoday.co.jp/articles/27478/20191210/taro-yamamoto-reiwa-shinsengumi-catholic.htm

2019/12/10

新政党「れいわ新選組」の山本太郎代表(45)が最近、男性誌「GQ JAPAN」のインタビューに応え、一家がカトリックで、小学生の頃には教会で多くの時間を過ごしたことを明かした。

同誌によると、山本氏は兵庫県宝塚市生まれ。1歳で父を亡くし、2人の姉と共に、ペルシャ絨毯(じゅうたん)の販売を手掛けていた母親に育てられた。一方、一家はカトリックで、小学5~6年生の頃は、多くの時間を教会で過ごしたという。母親とは衝突することが多く、「若い神父さんがいて、自分につきあってくれたなぁ。夕飯どきになってもまだ自分がいるもんだから、神父さんは2人分、料理しなくちゃいけなくなったり。小さな教会だったから、2人しかいないということもよくありました」と、当時を振り返っている。

しかし、山本氏自身は「特に信仰深かった時期というのはまったくない」と言い、最近は輪廻転生の考え方に引かれ、仏教に興味を感じているとも語っている。

山本氏は2015年にも、ジャーナリストの岩上安身氏とのインタビューの中で、「僕はもともとカトリック」と話し、カトリックの背景があることを明かしている。

「GQ JAPAN」誌のインタビューは、日本全国を回る遊説ツアー中の山本氏に北海道で話を聞いたもの。米ニューヨーク・タイムズ紙の元記者でジャーナリストのジョナサン・ソーブル氏による。

日本の現職の政治家で、カトリック信者として著名な人には、麻生太郎副総理兼財務相がいる。

【訂正とお詫び】本記事掲載時、立憲民主党の海江田万里氏について、幼少期に洗礼を受けていると伝えていましたが、誤りでした。お詫びして訂正いたします。(2021年7月28日)

日本のクリスチャン有名人一覧

https://ja.wikipedia.org/wiki/日本のクリスチャン有名人一覧

山本太郎(やまもと たろう 、1974年 - 、カトリック、元俳優、元参議院議員、元衆議院議員、れいわ新選組代表)

2019年11月28日

ソース:https://johosokuhou.com/2019/11/28/21341/

日本におけるキリスト教(カトリック)のトップである大司教の菊地功さんが、れいわ新選組の山本太郎代表に言及した記事が話題になっています。

菊池大司教はローマ教皇の来日に合わせてメディアの記事に談話を掲載し、その中で「今年夏に参議院選挙があり、山本太郎氏が率いる『れいわ新選組』が躍進しました。障がい者の方を二名、政界に送り込んだのには驚かされました」と述べ、山本太郎代表の活動に触れていました。

山本氏が参議院選挙で支持を拡大した理由についても、「それは山本氏が、政治に『いのち』の問題を持ち込んできたからであるという見方もできます。そしてそれを、決まり切った文句ではなく、聞く人の心に落ちる、まさに『生きた言葉』で語りかけたからではなかったかと思います」などと言及。

経済的な問題として消費税廃止だけを叫んでいるわけではなく、「いのち」をどうやって守っていくのかと語っている山本氏の姿勢はとても重要だとしていました。

この記事はツイッターを中心にSNSで話題となり、5000回以上もシェアをされています。ローマ教皇とも交流がある大司教の菊地功さんが山本太郎氏に触れたのは非常に大きなニュースですが、それ以上に山本太郎氏の考え方や行動原理をここまで丁寧に分析していたということに驚かされると言えるでしょう。

ローマ教皇フランシスコの日本への思い いま、深刻な「いのち」の危機が、被災地だけではなくこの国のあちこちで起こっている

https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019102400004.html?page=9

菊地功 カトリック東京大司教区大司教

「いのち」を根底に置いた価値観の回復を

今年夏に参議院選挙があり、山本太郎氏が率いる「れいわ新選組」が躍進しました。障がい者の方を二名、政界に送り込んだのには驚かされました。

選挙期間中は、山本氏の選挙演説を聞きに、多くの人が集まりました。これまでにない額の寄付金が寄せられ、中には、ポケットに数百円しかない人が、その数百円を差し出した、というようなことがあちこちであったとも耳にします。

それは山本氏が、政治に「いのち」の問題を持ち込んできたからであるという見方もできます。そしてそれを、決まり切った文句ではなく、聞く人の心に落ちる、まさに「生きた言葉」で語りかけたからではなかったかと思います。

世界連邦国会委員会創設70周年記念「SDGs推進大会」が、衛藤征士郎会長の主催で、開催され、国会議員が超党派で参加し祝辞と挨拶をした。(27/11/2019)

http://www.gpaj.org/ja/2019/12/05/18508

れいわ新選組 舩後靖彦参議院議員(党代表挨拶 *代読)

世界連邦の実現に70周年記念式典を祝い、SDGsを推進して、だれ一人残さない多様性のある社会の実現に努力すべきことに同意すます。SDGsの17の目標にある通り, 全ての人に健康をそして不平等を無くすことが令和新撰組の目標でもあり、SDGsを達成できなければ、地球の破滅に繋がるので、環境を守り子供の健康と幸福を守ることが大切である。まずは日本でこの17の目標と169のターゲット、世界の模範となるべきである。世界連邦国会委員会の発展とSDGsの達成でだれ一人取り残されないことを願っております。

山本太郎

https://ja.wikipedia.org/wiki/山本太郎

山本 太郎(やまもと たろう、1974年〈昭和49年〉11月24日[2] - )は、日本の政治家、元俳優[7]、元タレント[8]。参議院議員(2期)。れいわ新選組代表[9]。

衆議院議員(1期)、自由党共同代表兼政策審議会長等を歴任した。

・また2003年12月に開催された「サントリー1万人の第九」第21回公演に、一般参加者に混ざってテノール・パートにて合唱出演。当時『第九』はおろかクラシック音楽を歌うこと自体初めてだったという自身の公演本番に至る奮闘ぶりは、後日に放映された「1万人の第九」ドキュメンタリー「1万人の第九 山本太郎『第九』を歌う」にて紹介された[13]。

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>>20153543 第九は欧州評議会においてはヨーロッパ全体をたたえる「欧州の歌」として、欧州連合(EU)においては連合における統一性を象徴するもの  (第九の日本語の歌詞の内容を読むとゾッとする)

https://8kun.top/qresearch/res/19930440.html#20153543

能登半島地震の被災地への訪問

2024年1月1日の令和6年能登半島地震の発生後、山本は1月5日にレンタカーで現地入りした[202]。2日間かけて松葉杖姿で被災地を視察し、それに基づいた提言や政府への批判を本人のSNSに投稿した[203][204]。しかし、道路の寸断に伴って石川県と北陸地方整備局が「人命救助や復旧作業に支障が出る」として一般車両の移動を自粛するように呼びかけていた[205]状況であったことや、山本が炊き出しのカレーを食べたことなどから[202]、この訪問の賛否が分かれた。

良くも悪くも注目される意味を考える

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>>20073368, >>20073432, >>20073479, >>20073538, >>20073648, >>20073773, >>20073839, >>20073960, >>20074037, >>20077560, >>20077594, >>20077595 世界連邦運動とは一体何なのか?世界連邦政府 (ベータ版)が2021年に東京にできている

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940713 No.7087

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>>7086

周庭

https://ja.wikipedia.org/wiki/周庭

周 庭(しゅう てい、(英: Agnes Chow Ting、アグネス・チョウ、1996年12月3日 - )は、香港の政治運動家[1]。民主派政党・香港衆志の創始者の一人として常務委員などを務めた。自決派。香港では「学民の女神」と呼ばれている[2][3]。2020年11月、BBCが選ぶ「今年の女性100人」の内の一人に選ばれた[4]。

2017年までイギリス国籍を保有した。両親が彼女の幼少期に申請したためであるが、イギリス本土に居住したことはなかった[5]。同年香港特別行政区立法会地方選挙に立候補するため放棄した[6]。2023年9月以降はカナダに滞在しており、事実上の亡命状態にある[7]。

・2019年6月10日、日本記者クラブで単独会見し[21]、6月12日に明治大学で講演した[22]。翌13日には永田町でれいわ新選組代表の山本太郎と対談した[23]。

英語版

Agnes Chow

https://en.wikipedia.org/wiki/Agnes_Chow

私生活

チョウは自身の生い立ちを無政治的なものだと語っている[10]。15歳の頃、何千人もの若者たちが変革を求めるフェイスブックの投稿に触発され、彼女の社会活動が始まった[11]。チョウによると、彼女のカトリック教徒としての生い立ちは社会運動への参加に影響を与えたという。

2014年、チョウは香港バプティスト大学に入学し、政府と国際関係を学んだ[13]。2018年、チョウは香港島の補欠選挙に出馬するために大学の最終学年を延期した[14]。チョウはまた、基本法によって義務付けられた資格要件であるイギリス国籍を放棄した[15]。

チョウは広東語、北京語、英語、日本語に堪能で[16]、アニメを見て独学で日本語を習得した[15]。 日本のメディア、インタビュー、ニュース番組に出演している[17][5]。日本のメディアは、香港の民主化運動における彼女の役割から、彼女を「民主の女神」(民衆の女神)と呼んでいる[6][18]。

2020年2月、チョウはYouTubeチャンネルを開設し、広東語と日本語でブログ動画をアップロードした[19][20]。 2020年12月の時点で、チョウのチャンネル登録者数は30万人を超えていた[21]。

2021年6月28日、香港の地元メディアはチョウのフェイスブックのプロフィールが削除されたと報じた。チョウは自らプロフィールを削除したかどうかについての記者の質問には答えなかった。[22]

2019/6/14

https://www.facebook.com/imahahitori/posts/1119271494925512/

周庭(アグネス・チョウ)さんが永田町に来てくださいました。

日本人にも影響を及ぼしかねない、逃亡犯条例改正案についてお話しを聞きました。

日本からも民衆運動への暴力的対応ではなく、高度な自治を誇る香港ならではの合意形成がなされるよう、声明が出せないか。

諸先輩方と動きます。

#香港加油 #反送中

https://twitter.com/yamamot.../status/1139423420112760832

「逃亡犯条例」改正案の正式撤回 「学生の女神」周庭氏も香港政府トップの林鄭月娥行政長官もカトリック

2019.09.04

https://christianpress.jp/2019-hong-kong-anti-extradition-bill-protests-agnes-chow-ting-carrie-lam-catholic/

林鄭月娥(りんてい・げつが、キャリー・ラム)行政長官は4日、香港の抗議デモのきっかけとなった「逃亡犯条例」改正案の正式な撤回を表明した。

同法案の完全撤回は、デモ参加者が掲げる5大要求の一つ。ほかに「暴動」認定の撤回、デモ参加者の釈放、当局による暴力の調査、普通選挙実現がある。

香港は1997年に中国へ返還されるまでは英国の植民地だったため、返還後も、表向きは中国共産党からの干渉がないとされる高度な自治権を持つ地域「特別行政区」だ。現在、約750万人が暮らしており、うち中国人は92%を占める。

戦後、中国が建国され、共産党政府による圧制を嫌った大量の難民が自由を求めて香港に流入した。その後、1989年の天安門事件で、民主化を求めてデモに集まった人々が中国の軍隊によって虐殺されたことを見て、香港住民の不信はますます強まったとされる。

今春から香港で審議されている「逃亡犯条例」改正案が制定されると、中国政府に批判的な人物が中国本土へ引き渡されるのではないかという懸念がぬぐえないため、抗議デモが3カ月も続いていた。

香港では今、普通直接選挙は行われていない。そうした中で、中国政府の意に沿わない民主化を推進しようとする人物を選ぶことのできない現状に反発した学生たちが、2014年に「雨傘運動」という、総参加者約120万人に及ぶ反政府デモを起こした。警察による催涙ガスなどから身を守るため、デモ参加者が傘をさして対抗したのだ。

このように中国政府による干渉が強まれば強まるほど、民主化を求める声は大きくなる。今年6月9日には主催者発表で103万人、16日には200万人がデモに参加した。

香港の民主団体「デモシスト」の幹部で、日本語で香港デモへの支持を呼びかけていた「学生の女神」周庭(アグネス・チョウ)氏(22)と黄之鋒(ジョシュア・ウォン)氏(22)が8月30日、「政府が許可していない活動に参加するよう他人を煽動した」などとして警察に逮捕、起訴され、同日、保釈された。周氏はカトリックで(黄氏はルーテル派)、次のように述べている。

「社会運動への参加は、私の宗教の影響を受けています。幼い頃、父は私を教会に連れて行ってくれました。抑圧されている人々や、弱くて助けを必要としている人々について、私たちは学ぶ必要があります。キリスト教だけでなくどの宗教でも、助けを必要とする人と弱い人を気にかけることを学ぶ必要があるというのが基本です。それが、私が人々を気にかける理由なのです。

香港にいる多くのクリスチャンは社会を大事にしています。この運動の初めに、多くのクリスチャン参加者が『主にハレルヤ』(Sing Hallelujah To The Lord、日本バプテスト連盟『新生讃美歌』35番「主を賛美しよう」)を歌いました。たとえば、警察が抗議を止めようとした時や、私たちを批判している人がいる時、いつも『主にハレルヤ』を歌います。全員ではありませんが、参加者の多くはクリスチャンです。

中国政府は信教の自由を抑圧し続けており、プロテスタントやカトリックだけでなく、さまざまな宗教も抑圧されています。香港では今、信教の自由がありますが、将来的にますます深刻になる中国政府の干渉で、香港の信教の自由も影響を受ける可能性があります」(Religion Unplugged)

香港政府トップの林鄭行政長官(62)が、非公式に「辞任」に言及していたことも明らかになり、3日の記者会見では林鄭氏はこれを否定しなかったが、実は林鄭氏もカトリック。カトリックの女子校である聖フランシス・カノッサ・スクールと同カレッジで初等および中等教育を13年間受け、その近くのカトリック教会のミサに毎週日曜日、通っていた。今も重要な政治の事案に関しては、カトリック司教に定期的に相談しているという。

菊地功(きくち・いさお)カトリック東京大司教はブログで次のように述べている。

「香港には知人や友人が大勢いるので、メールでさまざまな情報が伝わってきています。非常に心配です。香港教区の湯枢機卿は、香港の方々と香港政府と北京政府の間の緊張関係の中で、なんとか事態を平和裏に終結させようと、日々仲介の努力をされています。北京政府は、香港の人々に現在保障されている権利や自由をあからさまに侵害したり、さまざまな手法を持って制限したり、また暴力的に弾圧することなく、平和裏に共存する道を選ぶように賢明な判断をされることを心から望みます」(「司教の日記」9月2日)

南京条約(1842年)で清が英国に香港を割譲した前年に、香港でキリスト教会が誕生した。約48万人(6%)がプロテスタント、約38万人(5%)がカトリック(香港政府「香港のファクト──宗教と習慣」2016年)。

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940713 No.7088

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>>7087

日本×香港×台湾 若者はあきらめない(本)

2016.6.17

https://www.ohtabooks.com/publish/2016/06/17141910.html

SEALDs(日本)、雨傘運動(香港)、ひまわり学生運動(台湾)

--国境を越えた「学生運動」の連帯は可能か?

東アジア学生対話集。

●SEALDs(日本)

奥田愛基

1992年、福岡県生まれ。SEALDs創立メンバーのひとり。一般社団法人<ReDEMOS>代表理事。

牛田悦正

1992年、東京都生まれ。SEALDs創立メンバーのひとり。ラッパー。

溝井萌子

1995年、石川県生まれ。SEALDsメンバー。SEALDsではデモ・街宣の企画運営に関わる。

●雨傘運動(香港)

周庭(Agnes Chow)

1996年、香港生まれ。香港の学生運動組織“学民思潮”(2011‐2016年)のスポークスマンを務め、雨傘運動の際には“学民の女神”と呼ばれた。現在は黄之鋒とともに新政党“香港衆志”(DEMOSISTO)に参加。

黄之鋒(Joshua Wong)

1996年、香港生まれ。“学民思潮”招集人。香港学生運動の象徴的存在として、世界中からその言動は注目を集めている。2016年4月、“学民思潮”を解散し、新政党“香港衆志”(DEMOSISTO)設立を発表。

●ひまわり学生運動(台湾)

陳為廷(Chen Wei-ting)

1990年、台湾苗栗県生まれ。2014年、両岸サービス貿易協定に反対した学生たちが台湾の立法院(国会)を24日間占拠(オキュパイ)した「ひまわり学生運動」のリーダーを、林飛帆とともに務める。現在、兵役に服務中。

目次

対話1 占拠(オキュパイ)が解放したもの ~周庭(香港)~

■香港のデモ事情

■「自分たちの場所」という手ごたえ

■SEALDs=日本共産党?

■「知名度」という財産

■「運動」の先に何を見るか

■中国という脅威

■公民的不服従

■政治とデート

対話 2 社会運動の立ち上げ方 ~黄之鋒(香港)~

■ソーシャル・メディアと社会運動

■「おまえらは左派じゃない」

■SEALDsが政党をつくる可能性

■我々は時代に選ばれし子どもたち

■運動組織を維持していくために

対話3 東アジア学生ネットワーク ~黄之鋒(香港)~

■〝招集人〟という立場

■東アジアの平和構築のために

対話4 ナショナリズムと民主主義 ~黄之鋒(香港)~

■若者に富が回ってこない

■良いナショナリズムと悪いナショナリズム

■国家を超えたプラットフォーム

■現時点での成果、今後の展望

対話5 中国との向き合い方 ~陳為廷(台湾)~

■立憲主義VS民主主義?

■政治と文化(カルチャー)の関係

■台湾ナショナリズム

■〝ネトウヨ〟はどういう人たちなのか

■誰が台湾を守ってくれるのか?

■現実は「変革可能なもの」

■SEALDs解散後、について

SEALDs

SEALDs(Students Emergency Action for Liberal Democracy - s)。

自由と民主主義のための学生緊急行動。

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940713 No.7089

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>>7088

SEALDs

https://ja.wikipedia.org/wiki/SEALDs

https://en.wikipedia.org/wiki/SEALDs

自由と民主主義のための学生緊急行動[1][6](じゆうとみんしゅしゅぎのためのがくせいきんきゅうこうどう、英語: Students Emergency Action for Liberal Democracy - s[注釈 1])、略称でSEALDs(シールズ[1][6])は、2015年5月から2016年8月まで活動していた日本の政治団体[2]・学生団体[3][注釈 2]。反体制的な活動により、公安調査庁の調査対象にもなっていた[8]。しかし、新時代の学生運動として、有名人が多数賛同したことでも知られている。

2016年8月以後は「自由と民主主義のための琉球・沖縄緊急学生行動(SEALDs琉球)」のみ、名前を変えて活動を継続しており[9]、2017年3月17日に、元メンバーらが新団体未来のための公共を設立するが、2019年8月15日に活動終了を発表した。

同団体への対抗のため、旧統一教会(世界平和統一家庭連合)2世信者が中心になって勝共UNITEが結成された。

沿革

前身団体である特定秘密保護法に反対する学生有志の会(とくていひみつほごほうにはんたいするがくせいゆうしのかい、「Students Against Secret Protection Law」(略称:SASPL)は第2次安倍内閣によって提出された特定秘密保護法が参議院本会議で可決された2013年12月6日に、同法の成立以前から学内勉強会を開催していた首都圏の大学生メンバーが発起人となって設立された日本の学生による政治団体[2][10][11][12][13]。

SASPLは2014年2月1日に特定秘密保護法に反対するデモをスタートし、同法が施行された12月10日の官邸前デモを最後に解散した[10][注釈 3]

SEALDsは2015年5月3日、安倍首相の政権運営や憲法観に対して危機感を感じた学生らがSASPLの後続団体という形で発足させた。同年6月5日に成立した安全保障関連法に反対する国会前での抗議デモを主催していた。また、関西圏(近畿地方)の大学生が中心となって活動する派生団体「SEALDs KANSAI(シールズ関西)」が5月[15]、 東北地方(仙台圏)の大学生が中心となって活動する派生団体「SEALDs TOHOKU(シールズ東北)」[16] も同年7月20日に、さらに沖縄県の大学生が中心となって活動する派生団体「SEALDs RYUKYU(シールズ琉球)」も同年8月15日に[17]、そして同年9月7日には東海地方(名古屋/津圏)の大学生が中心となって活動する派生団体「SEALDs TOKAI(シールズ東海)」も発足している[13][18]。2015年10月23日付で政治団体設立の届け出をし、「その他の政治団体」として登録された[2]。

2016年8月15日に動画メッセージを残して解散した[3]。

デモに参加

内田樹(人文学者)[92] - 「この(新有権者)240万人に対して今一番影響力を持つ組織は、自民党でも民主党でもなく、SEALDsだからです[93]。」と述べた。

落合恵子(元文化放送アナウンサー) [72]

香山リカ( 精神科医) デモ参加[72]

志位和夫(日本共産党書記長)[71]

中野晃一(上智大学教授)- 産経新聞は「SEALDsの後ろ盾のような存在」と報じている[73]。

山室信一(歴史・政治学者)[76]

西牟田祐二(経済学者)[76]

茂木健一郎(脳科学者)[94]

・筑波大学のロビン・オデイは、SEALDsの中心メンバーはキリスト教系の大学(明治学院大学、国際基督教大学、上智大学、法政大学)に通学しており、同じ高校の出身者であると述べ、明治学院大学のトム・ギルは、キリスト教が多数派の国では保守主義と結びつきやすいが、少数派の信仰の場合は進歩主義となる、と述べた[13]。

奥田愛基

https://ja.wikipedia.org/wiki/奥田愛基

奥田 愛基(おくだ あき[3]、1992年(平成4年)6月24日[4] - )は、学生運動を行う市民活動家[5]。平和安全法制(安保法制)に反対する「自由と民主主義のための学生緊急行動」(シールズ:以下「SEALDs」)を創設したメンバーの一人[6]。SEALDs前身の「特定秘密保護法に反対する学生有志の会」(サスプル:以下「SASPL」)の創設メンバーでもある[7]。一般社団法人ReDEMOS(リデモス)の創設者、代表理事[8]。

人物と活動

1992年(平成4年)生まれ[9]。福岡県北九州市出身[10]。父親は日本バプテスト連盟の牧師の奥田知志[11] で、ホームレスや貧困者を支援する特定非営利活動法人「抱樸」の理事長を務めている[12]。

中学2年時に不登校[10]。その後、島根県江津市にある全寮制のキリスト教愛真高等学校に入学。同校の授業で海外の貧困問題に関心をもち、国際学部に進むきっかけとなった[10][13]。2011年、明治学院大学国際学部に指定校推薦で入学[10]。入試の面接時にはのちに共著を出す面接官の高橋源一郎とカレーの話で盛り上がったという[14]。大学入学直前に東日本大震災が起こり、被災地支援に関わる[9]。短編ドキュメンタリー『生きる312』を監督として製作し[9]、2013年に国際平和映像祭でグランプリと地球の歩き方賞をダブル受賞した[15][16]。また、震災後の政治運動について考える団体「the Temporary Autonomous Zone」(TAZ)を運営した[9][17]。5月から大学に復帰するが、その後休学しカナダなどに留学した[9]。

2013年12月、SASPLを1年限定で設立し、幾つかの大学に組織を広げ、反対運動を行った[10]。SASPLは2014年12月10日に解散したが[9][18]、その後、主に沖縄、辺野古基地問題の政治運動を行う「自由と民主主義のための学生緊急行動(ex-SASPL)」を発足した[18][19]。

そして、翌2015年5月にSEALDsの結成につながった[20]。SEALDsはSASPLに比べ大きな組織となり、同年6月時点で20大学ほどの学生100名を大きく超える規模となったと奥田本人は述べている[20]。同年8月23日、連合が主催した国会前の反安保関連法案集会で[21] 8月21日の特別委員会において民主党の質問中に「そんなこと、どうでもいいじゃん」とやじを飛ばした自民党の安倍晋三に対して「どうでもいいなら総理をやめろ」「憲法を守れ」「戦争反対」「安倍は辞めろ」などラップ調で連呼したことで産経新聞に報道された[21][22]。9月15日、平和安全法制を審議する参院特別委員会の中央公聴会で意見を表明する公述人に、民主党の推薦で、大学の法学の名誉教授や元最高裁判所判事などに並んで意見を陳述した[23][24][25]。奥田は法案への反対の立場で意見を述べた[23]。

2015年12月1日、奥田は、政党への政策提言などを行う一般社団法人「ReDEMOS -市民のためのシンクタンク-」[26] を設立[27][8]、奥田は代表理事に就任した[27][8]。同月14日に、奥田は参院議員会館にて設立の記者会見を行った[27][8]。記者会見で奥田は(国会前での抗議を続けて)「なぜ正式なプロセスで異議申し立てできないのか」と疑問を持ったとし、「こうした思いを法律レベルにして発信したい」と述べた[27]。2016年3月27日、民進党結党大会にて来賓として登壇した[28]。

大学在学中から、一橋大学大学院進学を目指して勉強を行い、2015年3月に大学を卒業、4月から一橋大学大学院に進学。政治学を専攻し、政治参加の方法を体系的に分析・研究する[29][30][31]。

2016年4月10日、アジアの民主主義や民主化運動の状況を話し合う若者団体の初会議がフィリピンのマニラで開かれ、台湾の林飛帆ら「ひまわり学生運動」のメンバーや、香港の「雨傘革命」のメンバーなど、合計10の国や地域の代表が参加し、日本からは奥田らSEALDsのメンバーが参加した。会議ではSEALDsのデモのスタイルが称賛されたほか、奥田が「(各国の状況や目標は違うが)努力しないとそれをつかめないということを忘れてはならない」と述べるなどした。また参加者から「日本はアジアの中で最も民主主義が進んだ国」という認識を聞かされ戸惑ったという [32][33]。

同年フジロック・フェスティバルへの出演が発表されると、賛否両論がインターネット上を賑わせた[34]。

2017年の第48回衆議院議員総選挙の直前には結党されて間もない立憲民主党の枝野幸男代表と街頭宣伝を行った[35]。

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940713 No.7090

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>>7089

>父親は日本バプテスト連盟の牧師の奥田知志

奥田知志

https://ja.wikipedia.org/wiki/奥田知志

奥田 知志(おくだ ともし、1963年7月15日 - )は、日本の牧師。日本バプテスト連盟東八幡キリスト教会牧師、認定NPO法人抱樸理事長、公益財団法人共生地域創造財団代表理事、北九州市立大学MBA特任教授[1]。

経歴

1963年、滋賀県大津市に生まれ、サラリーマン家庭に育つ[2]。関西学院大学神学部卒業後、1988年、同大学大学院修士課程修了[3]。1990年、西南学院大学神学部専攻科卒業[4]後、東八幡キリスト教会牧師に就任[5]。1991年、関西学院大学大学院神学研究科博士前期課程修了[6]。2003年、九州大学大学院国際比較文化研究所博士後期課程単位取得退学[2]。

ホームレス支援

大学1年の時、先輩に連れられて大阪の釜ケ崎で日雇いで働いている人を支援する活動に参加したのをきっかけにホームレス支援を始める[2]。

1990年、ホームレス支援組織「北九州越冬実行委員会」に参加。事務局長に就任し、1995年より代表となる[3]。

2000年7月、NPO法人北九州ホームレス支援機構(2014年に抱樸に改称)を設立し、理事長に就任[7]。

2004年9月、第34回毎日社会福祉顕彰受賞[7]。

2007年4月、北九州ホームレス支援機構として初の自前施設である「抱樸館下関」を開所した[8]。

2007年6月、NPO法人ホームレス支援全国ネット発足。代表に就任[7]。

2010年、社会福祉法人グリーンコープ副理事長として抱樸館福岡の開設に携わった[9]。

2011年3月24日、菅内閣下における「一人ひとりを包摂する社会」特命チームの第4回会合にてプレゼンテーションを行う[10]。

2019年6月、村木厚子共同代表らとともに一般社団法人全国居住支援法人協議会を設立し、厚生労働省内の厚生労働記者会で設立会見を開いた[11][12]。

2020年2月、村木厚子を顧問として「希望のまちプロジェクト」を開始[8][13]。

2020年7月16日、赤坂御所へ招かれ、天皇・皇后に対し新型コロナウイルス禍での生活困窮者への支援策などの説明を行った[14]。

人物

座右の銘は「無理しない、楽しない」。尊敬する人物はディートリヒ・ボンヘッファー[5]。

1990年、東八幡キリスト教会牧師として赴任[15]。同時に、学生時代から始めた「ホームレス支援」に北九州でも参加。事務局長等を経て、北九州ホームレス支援機構(現 抱樸)の理事長に就任[15]。「あんたもわしも おんなじいのち」をスローガンに掲げ、老若男女問わず、さまざまな生きづらさを抱えた人たちを対象にした活動している[16]。

当初団体目標1日も早い解散を目標にしていたが、その後活動を続ける中で、解散をしないことを決断した[17][18]。

“2000年、私達はNPO法人となりました。その日、「一日も早い解散を目指します」と宣言しました。こんな活動が必要ない社会を創ることを目標にしたのです。私達が掲げたミッション(使命)は、「ひとりの路上死も出さない」「ひとりでも多く、一日でも早く、路上からの脱出を」「ホームレスを生まない社会を創造する」でした。

孤立が広がる時代において「ひとりにしない」こと、「断らない」こと、そして「つながり続ける」ことが私達の基本姿勢となりました。制度の枠に縛られることなく「ひとりとの出会い」から必要な仕組みを作りました。そのような「制度に因らない活動」は、「人を属性で見ない」と言う在り方を生みました。そもそも「ホームレスと言う人」はいません。例えば山田さん、田中さんという名前のある個人との出会いからすべてが始まり、私達は「出会った責任」を考え続けました。活動は自立支援に留まらず、「出会いから看取りまで」、「人生そのものに伴走する」というスタイルとなりました。

活動開始から25年を経た2014年、私達は名称を「抱樸(ほうぼく)」としました。山から切り出された原木・荒木(樸)をそのまま抱き止めることを意味するこの名称は、「自己責任」など、「断る理由」が横行する日本社会に対する「対抗文化」を意味します。すでに、日本の貧困と格差は常態化しています。私達は、「解散できない」ことを悟り、「解散しない」ことを決意しました[17]。”

これまでに3750人(2022年3月現在)以上のホームレスの人々の自立を支援。自立後も継続して今でも2000人以上の人をサポートしている。活動初期はお弁当を持って配るということに特化した団体だったが、障害のある方への支援、子供の支援、刑務所出所への支援など27事業など包括的な支援をおこなっている[17]。

2004年には457人以上のホームレスが北九州市内におり、問題となっていたが現在では増減を繰り返し58人にまで減っている[17]。

その他、共生地域創造財団代表理事、全国居住支援法人協議会共同代表、社会福祉法人グリーンコープ副理事長[19]、国の審議会等の役職も歴任。第19回糸賀一雄記念賞受賞など多数の表彰を受ける。NHKのドキュメンタリー番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」にも2度取り上げられ、著作も多数と広範囲に活動を広げている[20]。

日本財団ジャーナル

2020.12.08

目指すのは「助けて」と言える社会。NPO法人抱樸の奥田知志さんが奔走する「ひとりにしない」支援

https://www.nippon-foundation.or.jp/journal/2020/51611

この記事のPOINT!

新型コロナウイルスの影響により、今後も解雇・雇い止めによる生活困窮者の増加が懸念されている

増加する「貧困」「孤立」の問題を同時に解決していく仕組みが、今の日本社会には必要

必要なのは健全な依存。人と人が相互依存していくことが「助けて」と言える「生きやすい」社会をつくる

〈プロフィール〉

奥田知志(おくだ・ともし)

1963年7月滋賀県大津市生まれ。14歳でキリスト教徒に。関西学院大学入学と同時に大阪釜ヶ崎と出会う。以来、ホームレスや困窮者の支援に携わる。その後、西南学院大学専攻科、九州大学博士後期課程で学ぶ。1990年日本バプテスト連盟東八幡キリスト教会牧師就任。NPO法人抱樸、公益財団法人共生地域創造財団、ホームレス支援全国ネットワーク、全国居住支援法人協議会などの代表を務める。「もう一人にさせない」(いのちのことば社)、「助けてと言える国へ」(集英社新書)、「いつか笑える日が来る 我、汝らを孤児とはせず」(いのちのことば社)、近著「『逃げ遅れた』伴走者―分断された社会で人とつながる」(本の種出版社)など著書多数。

社会福祉法人グリーンコープとは

https://fukushi-greencoop.or.jp/about/index.html

○ 社会福祉法人グリーンコープは、グリーンコープ生協とワーカーズが母体となってつくられた社会福祉法人です。(2003年3月設立)

※ ワーカーズ……グリーンコープの組合員が中心となって「出資し、経営し、働く組織であるワーカーズコレクティブ」を

作りました。そこで働いている人たちをワーカーズと呼びます。

○ 社会福祉法人グリーンコープは、広島から鹿児島までの9県で、

高齢者の福祉・障がい者の福祉、こどもの福祉、生活困窮者の福祉に取り組んでいます。

○ 社会福祉法人グリーンコープは、人と人が支えあって「共に生きる」を基本理念としています。

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>>20074037

世界連邦Newsletter680を発行しました。

2023.12.01

https://wfmjapan.org/news/世界連邦newsletter680を発行しました%E3%80%82/

(参加表明した団体の中に、生活協同組合 コープみらい・生活クラブ事業連合生活協同組合連合会があるけど 社会福祉法人グリーンコープも世界連邦に関係している?)

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940713 No.7091

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>>7090

>奥田 知志(おくだ ともし、1963年7月15日 - )は、日本の牧師。日本バプテスト連盟東八幡キリスト教会牧師

日本バプテスト連盟

https://ja.wikipedia.org/wiki/日本バプテスト連盟

日本バプテスト連盟(にほんバプテストれんめい)は、日本のバプテスト教会の連盟である[1]。埼玉県さいたま市南区南浦和に事務所を置く宗教法人である。ただし、加盟教会によって構成される総会において、意思決定がなされる包括宗教法人という側面も併せ持つ。

概要

アメリカ合衆国の南部バプテスト連盟が、協力して伝道に取り組むために1947年に結成された教会の協力体。第二次世界大戦以前は、米国の米国南部バプテスト連盟が、北部バプテスト同盟(現米国バプテスト同盟)との間の協定に従って、九州を中心に伝道活動を行っていた。米国南部バプテスト連盟の日本での宣教は、大阪から開始された。加盟教会が九州、特に福岡に集中しているのは、関連学校が福岡県に集中しているからである。

第2次世界大戦後は、全国に開拓伝道を展開している。現在は、東日本においても日本バプテスト同盟(米国北部バプテスト同盟系)を超える加盟教会がある。特に、首都圏を中心に有している。

阪神淡路大震災の際には、阪神間(特に兵庫県内)にある諸教会が甚大な被害を受けた。その後、現地支援委員会を立ち上げ、計7年間にわたる活動が行われた。

日本バプテスト連盟の機関誌としては、『バプテスト』誌(A4判、表紙と裏表紙はフルカラー)がある。1950年から発行されており、現在では毎月発行されている。また、教会教育のための教案誌として『聖書教育』誌を年間4冊発行していて、連盟の教会を初め他教派を含む多くの教会で利用されている。さらに独自の讃美歌集として、2003年に『新生讃美歌』を新たに発行して伴奏CDを発売する等活発に利用を呼びかけている。

2010年10月現在で、日本全国に325の加盟教会(内48が伝道所)が在る。

各個教会の「自立」と「協力」に重点を置き、「協力伝道」の名の下に一致して活動を行っている。日本キリスト教協議会(NCC-J)に加盟しており、キリスト教の教派の中でも伝道活動に熱心な教派の1つである。

前史

米国の南部バプテスト連盟は、1860年に日本伝道を決め、宣教師を派遣するも乗船が遭難し行方不明となった[2]。1889年に再び日本伝道を決め、同年に宣教師を派遣して宣教を始めた[2]。北部バプテスト同盟との申し合わせで、南部バプテスト連盟は神戸以西で活動することとなっていたが、南部バプテスト連盟に先んじて日本伝道を進めていた北部バプテスト同盟宣教師の助言もあり、大阪で伝道していた宣教師が一時帰国で留守の間に、大阪で日本伝道を試行することとなった[3]。翌1891年(明治24年)に大阪浸礼教会が設立され、南部バプテスト連盟が日本で手がけた最初の教会となった[3]。直後に申し合わせが改められ、南部バプテスト連盟の伝道区域が九州のみとなり、宣教師団の拠点は1892年初(明治25年初)に小倉に移った[3]。既に北九州には北部バプテスト同盟が赤間関を拠点に設けた講義所が三つあり、これを南部バプテスト連盟が引き継いだ[3]。1893年(明治26年)には九州で最初となる門司バプテスマ教会が設立された[2]。1901年(明治34年)には福岡浸礼教会、1902年(明治35年)には熊本浸礼教会、佐世保浸礼教会及び長崎浸礼教会が設立された[3]。1903年(明治36年)4月には、九州に在る7教会と北部バプテスト同盟の山口県内に在る2教会とによる「浸礼派西南部会」が組織された[2]。続いて同年6月に宣教師団「在日本「サヲゾルン、バプチスト」宣教師社団」も結成された[3]。1908年(明治41年)に広島以西と四国が南部バプテスト連盟の伝道区域に変更し、域内の北部バプテスト同盟の教会が南部バプテスト連盟に移管された[2]。1911年(明治44年)には伝道区域制が撤廃され、日本全国での伝道が可能となり、先ずは東京に講義所を置いた[2]。1918年(大正7年)に「浸礼派西南部会」を改組し「日本バプテスト西部組合」となった[2]。南部バプテスト連盟は日本人伝道者育成のための学校経営も手掛け、1907年(明治40年)に「福岡バプテスト神学校」を、同校が北部バプテスト同盟の「横浜バプテスト神学校」と合併されると、その跡地に語学学校「福岡バプテスト夜学校」を、1916年(大正5年)に男子中学校「西南学院」を開校した[4][5]。1939年(昭和14年)に宗教団体法が公布されると、認可基準を満たすため南部バプテスト連盟所属22教会は北部バプテスト同盟所属教会と合同し「日本バプテスト基督教団」を組織するとともに、外国宣教団からの独立を宣言せざるを得なくなった[6][7]。南部バプテスト連盟は1940年(昭和15年)に、教会の運営を日本人伝道者に任せ、大半の宣教師を帰国させた[8]。更には、1941年(昭和16年)に「日本基督教団」に合流することで、かろうじて信仰は維持された[6]。翌1942年の南部バプテスト連盟定期総会で「戦後」についての検討が開始され、1945年の定期総会では日本に派遣する宣教師7名が選任された[9]。戦後、進駐軍属として入国した南部バプテスト連盟牧師2名は、旧「日本バプテスト西部組合」関係者と接触し、「日本基督教団」からの独立と宣教師の受け入れの意思を確認した[9]。1947年(昭和22年)4月に進駐軍属牧師の陪席のもと、旧「日本バプテスト西部組合」16教会による「日本バプテスト連盟」が結成された[9]。

活動

加盟教会ごとに差があるものの、日本バプテスト連盟全体としては、リベラル的傾向にあり、「世」と「教会」の二元論化や信仰の内面化に対して批判的な立場を採っている。1962年の反ヤスクニ宣言や1988年の罪責告白(戦責告白)に表されるように、現代世界に対するクリスチャンや教会の責任また社会的使命を大切にする方向を目指すとしている。近年には、米国南部バプテスト連盟の保守化の中においてジミー・カーター元米国大統領が名を連ねているCooperative Baptist Fellowship(CBF)との連携を強めていく動きもある。

加盟教会の活動においては、「生の全領域」でイエス・キリストを証しする生活のための「全年齢層の教会学校」を標榜しており、子どもの聖書の学習をはじめ青年・成人による共同学習も重視している。また、福音を宣べ伝える具体的な働きとして特別委員会が、靖国神社問題、部落問題、日韓・在日連帯、公害問題、ホームレス、性差別問題、「障害」者等に対し、支援活動を展開している。2002年総会では「平和に関する信仰的宣言」(平和宣言)を採択する等、平和運動に取り組む姿勢を表明している。

加盟教会員や特定非営利活動法人は、千葉県市川市や(京都府)京都市、兵庫県神戸市、福岡県北九州市等において、野宿を強いられている人への生活支援活動を行なったと報告している。この支援活動には、他教派のキリスト者や一般のボランティアも参加している。 2011年3月11日発生した東北地方太平洋沖地震および東日本大震災では、翌日午前に災害対策本部を立ち上げ、緊急救援物資輸送の準備に取りかかった。3月13日午後、世界バプテスト連盟の緊急救援チーム(BWAid)と共に被災地を訪れた後、緊急救援物資輸送を行った等と公表している。

憲法フェスティバル

2014年5月24日、東京都目黒区にある連盟の恵泉バプテスト教会において、「憲法フェスティバル2014」が、開催された。洋光台キリスト教会や花小金井キリスト教会、日本バプテスト教会連合の大野キリスト教会からも会員が参加する等、参加者人数は120人に上ったという[10]。 憲法9条がノーベル平和賞候補にノミネートされた事に関して、きっかけを作った日本バプテスト教会連合大野キリスト教会会員は、「9条の素晴らしさを「輸出」していくことで、この国から世界の平和を手繰り寄せていく。9条は自分たちだけのものにしてはいけない気がしています。」とコメントをしたという[11]。

地方連合別 加盟教会&伝道所数

北海道地方連合…北海道16教会

東北地方連合…14教会3伝道所(青森県5教会1伝道所・岩手県1教会・秋田県1教会・宮城県3教会1伝道所・山形県1教会1伝道所・福島県3教会)

北関東地方連合…16教会4伝道所(新潟県1教会・栃木県1教会・群馬県2教会1伝道所・茨城県3教会1伝道所・埼玉県9教会2伝道所)

東京地方連合…49教会5伝道所{東地区(東京都2教会・千葉県10教会);西地区(東京都16教会3伝道所);南地区(東京都10教会1伝道所);北地区(東京都11教会1伝道所)}

神奈川地方連合…神奈川県20教会5伝道所

西関東地方連合…8教会1伝道所(長野県1教会1伝道所・山梨県2教会・静岡県5教会)

中部地方連合…13教会1伝道所(石川県1教会・富山県1教会・福井県1教会・岐阜県2教会・愛知県7教会1伝道所・三重県1教会)

関西地方教会連合…32教会4伝道所{京滋ブロック(滋賀県…2教会・京都府…1伝道所);大阪ブロック(大阪府…14教会1伝道所・奈良県…1教会・和歌山県…1教会1伝道所);兵庫ブロック(兵庫県…1伝道所・鳥取県…1教会)}

中四国地方連合…19教会1伝道所(岡山県…1教会・島根県…1教会・広島県…7教会・香川県3教会1伝道所・徳島県…1教会・愛媛県…5教会・高知県…1教会)

北九州地方連合…28教会(山口県…3教会・福岡県22教会・大分県3教会) 

福岡地方連合…13教会{東部方面(福岡県7教会1伝道所);東区(福岡市)3教会;博多区(福岡市)1教会;中央区(福岡市)4教会;城南区(福岡市)2教会;早良区4教会1伝道所;南区(福岡市)4教会;筑紫方面(福岡県)2教会1伝道所;西区(福岡市)3教会;前原市(前原市)1教会1伝道所;筑後方面(福岡県3教会2伝道所・佐賀県1伝道所);壱岐(長崎県)1教会}

西九州地方連合…13教会2伝道所(佐賀県6教会1伝道所・長崎県7教会1伝道所)

南九州地方連合…20教会9伝道所(福岡県3教会1伝道所・熊本県7教会3伝道所・宮崎県5教会2伝道所・鹿児島県4教会2伝道所・沖縄県1教会1伝道所)

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940713 No.7092

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>>7086

コープ自然派 ウェブサイト

https://www.shizenha.net/stop_nuclear_power/

子どもたちの未来のために原発のない社会へ

コープ自然派は、生産者との顔の見える関係を大切にし自然と共存する暮らしをめざしています。

コープ自然派ではその前身となる共同購入時代から、原発に反対する運動を続けています。

2006年には、「六ケ所村核燃再処理工場本格稼働反対」の見解を発表し、漁場を放射能汚染から守るため、生産者とともに六ケ所核燃料再処理工場反対署名にも取り組んでいます。

福島第一原発事故後、コープ自然派では食品の放射能測定を開始し、その結果を組合員に公表。

コープ自然派の各生協では学習会や講演会などを開催、地域の集会やデモに参加しています。

また、「脱原発」への意志を広く伝えるため、脱原発を訴える山本太郎さん登場のテレビCMも制作し放映しました。

2017年からは、コープ自然派の各生協間で結成された「コープ自然派脱原発ネットワーク主催」で脱原発ツアーを開催。2017年は伊方原発を訪ね、近隣の生産者、組合員、役職員で脱原発の思いを共有しています。

2023年に福島第一原発のALPS処理水が海洋放出される決定に対して、コープ自然派の組合員、役職員、生産者が反対の意志を表明しました。

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940713 No.7093

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>>7090

>尊敬する人物はディートリヒ・ボンヘッファー

ディートリヒ・ボンヘッファー

https://ja.wikipedia.org/wiki/ディートリヒ・ボンヘッファー

https://en.wikipedia.org/wiki/Dietrich_Bonhoeffer

ディートリヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoefferドイツ語: [ˈdiːtʁɪç ˈboːnhœfɐ], 1906年2月4日 - 1945年4月9日)は、ドイツの古プロイセン合同福音主義教会(ルター派)の牧師。20世紀を代表するキリスト教神学者の一人。反ナチ主義者。ボーンヘッファー、ボンヘーファーとも表記。

第二次世界大戦中にヒトラー暗殺計画に加担し、別件で逮捕された後、極めて限定された条件の中で著述を続けた。その後、暗殺計画は挫折。ドイツ降伏直前の1945年4月9日、処刑を急ぐ国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)により、フロッセンビュルク強制収容所で刑死。ベルリン州立図書館の一階には、絞首台のロープが首にかけられたボンヘッファーを描いた大理石の胸像が展示されている。

(気になった箇所を抜粋)

・母パウラ・ボンヘッファー(旧姓ハーゼ)は、イエナ大学神学部教授でルター派の歴史神学者カール・フォン・ハーゼの孫娘で教師であった。

・同年、ロンドンのドイツ人教会の牧師に着任し、教会闘争において最も親しい友人となる世界教会会議議長チチェスターの主教ジョージ・ベル(英語版)に出会う。

神学思想

その早すぎる死のため、ボンヘッファーは自らの思想を語りつくすことはできなかったが、「安価な恵み」「高価な恵み」、「非宗教的キリスト教」、「成人した世界」などの論争的な術語により、第二次世界大戦後のキリスト教界に大きな影響を与えた。

上述したように、ボンヘッファーはガンジーから影響を受け、非暴力の抵抗を理想と考えたが、当時のドイツは限界状況にあり、違法な手段以外に選択肢はなかった。ボンヘッファーは、ある一定の状況においては殺人が善でありうると主張したのではない。殺人は悪であり、神の審きの対象であることに変わりはなく、マタイによる福音書26章52節にあるように、「剣を取る者は皆剣によって滅びる」のである。しかし、隣人のためにその罪を自ら引き受ける者が彼の時代には必要であるとボンヘッファーは考えた。そのようにして神の律法を一時的にでも超えて行くことは、彼によれば、将来における真の意味での律法の成就に不可欠であった。逆に、善を選ぶことが不可能な状況下において、より大きな悪を避けるためにより小さな悪を選ばないことは逃避であるとされ、批判の対象となった。

当時のナチ党の思想下による国民の影響についてボンヘッファーは、良心は葛藤を避けるために自律を放棄して他律に陥り、それが当時のドイツではヒトラー崇拝という形をとった、との見方をした。

ボンヘッファーの神学は歴史的状況によって促された面と、弁証法神学、ヘルンフートの敬虔主義、ルター派の伝統、カトリシズム、アドルフ・フォン・ハルナック、マルティン・ケーラー(英語版)、ルドルフ・オットー、ヴィルヘルム・ディルタイからの影響を自分の神学に取り込んだ面を持っている。彼は旧約聖書のトーラー(律法思想)と新約聖書でのキリスト論的集中を結合させた[2] 。 中心的テーマはキリストのからだ、イエスに従う共同体、この世に連帯する神から託された共同体としての教会である。 ボンヘッファーの神学は内面に向かう傾向を持ち、神秘主義的特徴を帯びながらも、実践との結びつきを失ってはいない。このような幅広い多様性は彼の著作に関して非常に異なった解釈をもたらす。そのため、様々な傾向を持つ神学的模倣者と思考傾向を生み出した。これが東独のキリスト者とキリスト教会において、社会主義に関しての漸進的開放に導き、最終的には、ボンヘッファーの神学を援用して、東独のドイツ福音主義教会連盟(Bund der evangelischen Kirchen in der DDR)において「社会主義の中にある教会」という路線が定着する結果になった。「社会主義の中にある教会」路線とは東独という社会主義国家の存在を認め、キリスト教会とキリスト者は東独社会主義と共に生きることを主張した[5]。

中心としてのイエス・キリスト

ボンヘッファー神学の展開に関して、中心点はイエス・キリストにある。この中心的観点から、神学的な深い考察、霊的深さ、倫理的責任感が組み合わされている。知覚し得る霊的な事項はキリスト教的存在論における根本事項である。イエス・キリストを中心とすることで、ボンヘッファーの神学的思惟における全要素が統一性を得ることになり[6]、大学で講じられる福音主義神学に組み込まれた。 ボンヘッファーのキリストに関する深い考察に際して、19世紀における宗教批判は現在においても意味を持っている。ルートヴィヒ・フォイエルバッハとアドルフ・フォン・ハルナックに関する暗示をおこないながら、彼は1928年の論文に『イエス・キリストとキリスト論の本質』という表題をつけていた。そこにおいて、彼はカール・バルトの弁証法神学の方法を用いて、知識、モラル、教会と宗教を神への無意味な道と見なした。「人間において神へ向かう道は一つであって、そこで人間と神は出会う必要がある[7]。」 イエスにおいて、神が無条件の愛を示して人間に接近して来ているのは明白であって、神の無条件の愛は死よりも強いのである [8]。 キリストはそれ自体として存在し得るのではなく、人間である私に向けて存在するのであり、共同体においてのみ考えられ得る存在なのである[9] 。

ボンヘッファーは新約聖書を引用して、キリスト論においてパウロとルターを重要な問題と見なしている。「お前は誰なのか、神自身なのか?」という問いに、初代教会はその問いに方法論という見地で答えたが、現代神学は本質論で答えようとして混乱している[10]。 イエス・キリストは今現在、単なる人間として存在し得るのであり、しかし、神としても永遠に存在し得るのであり、同時代人として存在し得るのであり[11]、生きてもいる[12]。

キリストは人間の中の義人による祈りと行為において存在し得るのであり、受肉と十字架がこの世に向けた全面的な愛を根拠づけるからである。1939年のテオドール・リットへのボンヘッファー書簡には以下の様に書かれている。

„なぜなら、神は貧しく、惨めで、無名で、敗北した人間になったのであり、神自身は貧困と十字架においてのみ見出し得るので、それゆえ、我々は人間とこの世から逃れることは出来ず、兄弟たちを愛し続けるのである“[13]

この世と教会(二王国論の否定)

ボンヘッファーのイエス・キリストへの集中は1940年に執筆した『倫理』においても明確である。そこでは「二王国論」という数百年の間支配的だった思考モデルを拒絶している。教会とこの世、福音と律法という思考を彼は明確に否定している。

„ただキリストを主と見なす信仰を我々が強めれば強めるほど、神の国の広がりはますます明らかになる。「…」この世はキリストに属し、この世というものはキリストにおいてのみ存在する。それゆえ、この世界においてキリストだけが求められている。この世には何か、もしかするとキリスト教的律法に与えられていたのに、その全てが破壊されたなら、教会のためにキリストを心にしまっておこうとするだろう。「…」神がキリストの肉体を得た時以来、神がこの世に来たのであり、二つの空間、二つの現実を語ることを我々に禁じた。この現実こそがこの世である“[14]

しかしながら、ボンヘッファーはマルティン・ルターとの一致を強調した。キリスト者において服従義務が課せられている限り、上に立つ権威が神の掟からの離反を強いてしまう[15]。ルターは使徒行伝5章29節を言及して、地上の権威への服従義務に限界があることを指摘した[16]。 ボンヘッファーはこの世と教会共同体の間に明確な区別を把握し、再三再四、この世への宣教がキリストから教会共同体に委託されたものであると強調していた。それも、教会共同体だけでなく、この世のために死んだキリストからの委託である。この世は教会共同体との生死を賭けての戦いの中にある。教会共同体への宣教委託と存立の本質はこの世における戦いである。しかしながら、すでに、この世に向けて神との和解が語られ、神の愛という現実が成就していることを理解せずに、この世は神の愛に刃向かったのである[17]。 これをボンヘッファーは『倫理』において言及したが、『服従』(『主に従う』、『キリストに従う』という邦題で出版)においてもより詳しく展開している。「神が見出したのは小さな教会共同体であったが、偉大な教会共同体であった。なぜなら、そこで民を見出したからである。若者たちと民は深く結びついており、若者たちは神の使者になり、聴衆と信仰者たちを見出す。しかし、彼らの間で終末まで敵意があり続けるだろう」[18]。

1人のキリスト者は同時に神とこの世の現実の中で生きることになる[2]。 この世は仮の居場所に過ぎないという現実から、今の世界は目を背けている。究極以前のものは究極に覆いがされたものである。究極のものは歴史において現れ、神の国という可能性を明確に示している。そこにおいて、信仰のある人間はこの世を介して神に至るのであり、この世を通り過ぎるのではない。さらに、ここでボンヘッファーは古い神学的モデルとの関係を断っている。それまで重視されていた創造された自然の価値とこの世の自立性を彼は低く評価した。それゆえ、キリスト教信仰をまやかしと見なして、彼岸なる言葉で慰めを語っているに過ぎないと批判したルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ、カール・マルクス、ジークムント・フロイトをボンヘッファーは対置させている。

ボンヘッファーは敬虔と倫理的行為を個人に属するものとして配慮しているが、この世に組み込まれた個々人の存在という背景を前にして、彼は敬虔と倫理的行為をキリスト教的共同体に組み入れるのである。彼にとって神学は祈りながらの思索であり、教会内で両膝をついて祈りながら思索することでもある。 目の前に見える教会に彼は悩み、苦しむが、その教会と彼は連帯している。ヘーゲルの言葉「神は教会共同体として存在している」に依拠して、「キリストは教会共同体として存在している」とボンヘッファーは語った。神は啓示において自らを現すのであり、神は人間にとって無縁の存在ではないが、人間に対して自由な存在である。それにもかかわらず、教会はこの世の一部として啓示の形態でもある(学位請求論文『聖徒の交わり』)。彼は教授資格論文『行為と存在』を1931年に出版した。

„神はここにおられる、すなわち、永遠に非即物的存在ではなく、仮の存在として現れている。言葉において具体的であり、教会において理解できる存在である“[19]

「キリストのように、人間は他者のために存在している」と記述した後で「教会が他者のためにここに存在している場合ならば、教会は教会に他ならない存在である」と書き加えている[20]。 1944年、ボンヘッファーは自身の属していた教会に批難を浴びせている。教会が自己存続のためだけに活動したと見なしたからである[…] [21]。

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940713 No.7095

>>7089

(SEALDSの闇と戦っていた方の個人ブログです。次のDIGに繋がりそうな参考になる情報が盛りだくさんです。エプスタイン関連の情報も深掘りされています。転載させて頂こうかと思ったのですが、膨大なので、一部リンクを共有します)

2016/5 SEALDS 資金追及 恫喝訴訟の仲間たち The obscure funding of the astroturfing group SEALDs – Gang members that love to threaten people with lawsuits

https://naomi-sayonara.hatenablog.com/entry/2019/06/04/142655

訴訟され中です 真実の光は闇を照らす All roads lead to the Jesuits

https://naomi-sayonara.hatenablog.com/entry/2019/11/09/232903

ANTIFA(元SEALDs)による恫喝訴訟の途中報告2:「人工芝」編

https://naomi-sayonara.hatenablog.com/entry/2020/06/11/165820

ANTIFA(元SEALDs)による恫喝訴訟の途中報告3:「恐喝・嫌がらせ・SLAPP」編

https://naomi-sayonara.hatenablog.com/entry/2020/06/14/202848

元SEALDsによる恫喝訴訟の途中報告(4):脅迫編

https://naomi-sayonara.hatenablog.com/entry/2020/06/28/201503

裁判資料: ソロスNGOによる「誹謗中傷」キャンペーンと民事訴訟 Documentary evidence for my SLAPP suit: Soros NGOs "defamation" campaign and their abuse of civil suits to oppress the mass

https://naomi-sayonara.hatenablog.com/entry/2020/12/12/160926

裁判資料:BLMと米大統領選挙 #ジョージ・ソロス Documentary evidence: BLM and US presidential election: Wakako Fukuda's SLAPP suit #GeorgeSoros

https://naomi-sayonara.hatenablog.com/entry/2021/02/02/130159

弱者の個人情報を違法にばらまき、集団リンチするソロスネットワーク:CIA SEALDsの弁護団 The Soros NGO lawyers that gang-bash a vulnerable private citizen, exposing her identity illegally

https://naomi-sayonara.hatenablog.com/entry/2021/02/14/155621

SEALDs福田和香子がスラップ訴訟で陳述書や人証尋問で嘘をついた事実 Wakako Fukuda lied in her statement of facts and examination in court in a SLAPP against a regular citizen

https://naomi-sayonara.hatenablog.com/entry/2021/02/23/114846

ブルージャパンとSEALDsと立憲民主党とCLP=ソロス #ジンケンはマネロンのフロント

https://naomi-sayonara.hatenablog.com/entry/2022/01/15/122323

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940713 No.7198

>>7195

Q Research Japan/Nihon #21より

>カルヴァン主義

カルヴァン派

https://www.y-history.net/appendix/wh0903-041.html

キリスト教のプロテスタント(新教)の中のカルヴァンの教えを支持する各派を総称してカルヴァン派ということがある。宗教改革時代にはカトリック(旧教)に対して改革派と言われ、ルター派とともにプロテスタント(新教)の一部となった。

 宗教改革の中で、カルヴァンの教説を信じる信仰の系列は、スイスからフランス、ネーデルラント、イギリス(イングランドとスコットランド)に広がり、さらにアメリカ大陸にひろがった。しかし、カルヴァンは、自らの教えを新しい宗派とされることを否定したので、宗教改革時代には彼らはカルヴァン派ではなく、広く改革派と言われた。現在ではルター派と並んで、プロテスタントに分類されており、世界史上は「カルヴァン派」という表現も用いられている。

西ヨーロッパに広がる

 16世紀の中ごろ、ルターの聖書主義、福音主義などとともにカルヴァンの予定説などの教えはヨーロッパ各地に広がって改革派とも言われたが、特にカルヴァンの教えは地域によって、異なった呼び方が行われるようになった(つまり、共通してカルヴァン派と言われることはなかった)。フランスではユグノー、オランダではゴイセン(正しくはヘーゼン)、スコットランドではプレスビテリアン(長老派)、イングランドではピューリタン(新教徒)と言われた。カルヴァンの教えが西ヨーロッパの経済先進地域にひろがったことは、その予定説とともに注目される。

カルヴァン派に対する弾圧と公認

 西ヨーロッパ各地のカルヴァン派は、信仰の自由とともに政治と経済においても自立を求め、宗教統制を強めようとする権力者と戦った。それが17世紀におけるイギリスにおけるピューリタン革命、16~17世紀のスペインの支配に対するオランダ独立戦争であり、その戦いを担っていったのは、カルヴァン系の改革派の人びとであった。フランスでは激しい宗教内戦のユグノー戦争(1532~98年)の末に1598年のアンリ4世によるナントの王令でカルヴァン派の信仰が認められた。

 ヨーロッパ全体での最後の宗教戦争とも位置づけられている三十年戦争(1618~48)の講和条約として、1648年に国際条約として締結されたウェストファリア条約で宗教対立も最終的に解決した。ウェストファリア条約では、1555年のアウクスブルクの和議でルター派の信仰が認められたことを確認し、同時にカルヴァン派の信仰も認められた。

 しかし、フランスではその後、ブルボン王朝絶対王権の強化に伴い1685年にルイ14世がナントの王令を廃止し、多くのカルヴァン派は国外に逃れた。その結果、フランスではカトリックの優位が確定し、ヨーロッパのプロテスタントはオランダ、北ドイツ、北欧がその分布圏となり、カルヴァン派から分かれたプロテスタントの多くは北米大陸へと広がっていった。

カルヴァンの予定説の意義

 20世紀ドイツの社会学者マックス=ウェーバーは、主著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1920)において、西ヨーロッパにおいて発展した資本主義経済の理念的な背景となったのが、カルヴァンの『予定説』であると分析した。これはカルヴァンおよびカルヴィニズムに対する歴史的意義づけとして現在もよく論及される。

予定説

https://www.y-history.net/appendix/wh0903-037.html

人間の救済はあらかじめ定められているというカルヴァンの宗教信条。そこから人間は神から与えられた現世の仕事に努力することが求められたことが西ヨーロッパの資本主義社会の理念的背景となったと考えられている。

 宗教改革におけるカルヴァンの思想は、より徹底した聖書中心主義であり、神は絶対的な権威をもち、人間の原罪はキリストの福音によってのみ救われるというものであった。その神による救済は「予(あらかじ)め定められている」であり、それを定めるのは絶対の権限を持つ神だけである、したがって「人間はすべて平等に創られてはいない。永遠の生命にあずかるもの、永遠の劫罰に喘ぐのも、すべて前もって定められている」とした。

 そのような人間がどのようにして神への絶対的服従を示すことができるかというと、現世の天職を与えられたものとして務めることでしかできない、と説いた。このようなカルヴァン派の信仰は西ヨーロッパの商工業者(中産階級)に支持されていった。

 20世紀のドイツの社会学者マックス=ウェーバーは、西ヨーロッパの商工業者の中から、近代社会を出現させる資本主義が生まれてきたと分析し、その理念となったのがカルヴァンの予定説であると指摘した。 → 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

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940713 No.7199

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>>7198

ジャン・カルヴァン

https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャン・カルヴァン

ジャン・カルヴァン(フランス語: Jean Calvin [ʒɑ kalvɛ]、1509年7月10日 - 1564年5月27日[1])は、フランス出身の神学者。マルティン・ルターやフルドリッヒ・ツヴィングリと並び評される、キリスト教宗教改革初期の指導者[2]である。また、神学校として1559年に創設されたジュネーヴ大学の創立者である。

カルヴァンの神学は、ルター派など一部を除き教派の違いを超えてプロテスタント諸派に大きな影響を与えた。そこにおいて強調されるのは、神の絶対性、聖書の権威、神意による人生の予定、長老による教会政治、信者の訓練などである。プロテスタント教会のひとつ改革派教会は彼の思想的流れを汲む教会である。

>ジュネーヴ大学

https://ja.wikipedia.org/wiki/ジュネーヴ大学

ジュネーヴ大学(ジュネーヴだいがく、フランス語: Université de Genève, 英語: University of Geneva)は、スイス・ジュネーヴにある大学である。2006年のニューズウィーク誌では、世界ランキングで32位に入っている。規模としてはスイスで2番目に大きい大学である。

概要

1559年にフランスの神学者ジャン・カルヴァンにより創設された。当初は神学校であったが、法律学も教えていた。

17世紀にかけては神学的な校風が強いままであったが、啓蒙思想の学問的中心になるにつれて、この頃から、他の学問領域を加えはじめた。1873年には宗教的団体を手放し、総合大学の確固たる地位を獲得した。今日では、ジュネーヴ大学はスイスで2番目に大きな大学であり、多くの分野で指導的役割を果たしている。

また、惑星科学と遺伝学についての顕著な発見を成し遂げていることから、科学研究の分野においてもヨーロッパでトップクラスの大学のひとつであると考えられている。ジュネーヴ大学では、教育(授業は一般にフランス語で行われる)、研修、より広いコミュニティへの奉仕を3大使命としている。

ジュネーヴ大学は、コインブラ・グループとヨーロッパ研究大学連盟(LERU)に加盟している。

2006年、数名の教授に詐欺の疑いがあることが明らかになった。詳細な調査の結果、架空の旅費を請求していた事例や、大学以外の団体から給与を受け取っていた事例が明らかとなった。法律上は、大学に報告し、給与の一部を納付すべきであったにもかかわらず、大学に報告していなかったことも判明した。大学の副総長が嫌疑をかけられた教授に含まれており、総長と副総長が2006年8月1日付けで辞任するよう促された。2006年7月現在、詳細な調査が進行中である。

著名な卒業生

マルセル・ジュノー :赤十字国際委員会副委員長

大久保敏弘 : 慶應義塾大学経済学部准教授

富盛伸夫 : 東京外国語大学外国語学部教授

丸山忠孝 : 神学者

大河原愛子 : 実業家

英語版

https://en.wikipedia.org/wiki/University_of_Geneva

歴史

この大学は、プロテスタントのジュネーブにおける公教育の中心地として、1559 年にフランスの神学者ジョン カルヴァンによってジュネーブ アカデミー(アカデミー ド ジュネーブ)として牧師会が運営する神学校として設立されました。[7]牧師だけでなく共和国の治安判事も教育することを目的として、アカデミーは1565 年に法の教育を開始しました。[7]

ジュネーブのフランス併合(1798 ~ 1813 年)中に、学位の導入と学部の分割により、学校はより普遍的な形式に再編成されました。この近代化のプロセスは国家維新の時代まで続いた [ 7 ]

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940713 No.7203

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>>7199

>大久保敏弘 : 慶應義塾大学経済学部准教授

大久保敏弘

https://ja.wikipedia.org/wiki/大久保敏弘

大久保 敏弘(おおくぼ としひろ)は、日本の経済学者。専門は、国際貿易・海外直接投資・日本経済・空間経済学・国際マクロ経済学。学位は、Ph.D.(国際関係学・経済学)(スイス・ジュネーブ大学、スイス・高等国際問題研究所)[1]。慶應義塾大学経済学部教授。日本国際経済学会小田賞受賞。

略歴

神奈川県川崎市出身。1999年、一橋大学経済学部卒業(首席卒業)。2000年、一橋大学経済学研究科修士課程修了(飛び級)。2003年、ミシガン大学修士課程修了(M.A. 経済学)。2005年、ジュネーブ大学および国際・開発研究大学院博士課程修了、Ph.D.(国際関係学)。

2003年、スイス・ジュネーブの国際・開発研究大学院助手。2006年、イギリス・マンチェスター大学政治経済ガバナンス研究所講師。2008年、イギリス・マンチェスター大学名誉学術研究員。

ベルギー・ルーヴァン・カトリック大学研究員、一橋大学研究員、中国・浙江大学経済学院研究員、イギリス・バーミンガム大学経済学部研究員(日英大和財団)を経て、2009年神戸大学経済経営研究所グローバル経済研究部門准教授、2010年イギリス・オックスフォード大学経済学部フェロー、チューリッヒ大学実証国際経済研究所客員教授・経済学部客員教授、ストックホルム大学経済学部客員研究員、2011年慶応義塾大学経済学部准教授、2015年4月慶応義塾大学経済学部教授。チューリッヒ大学経済学部客員教授(Guest Professor)、オーストラリア国立大学Centre for Macroeconomic Analysis (CAMA)リサーチアソシエイト、パリ・IPAGビジネススクール客員教授(Affiliated Professor)を兼任。

2016年、日本国際経済学会特定領域研究奨励賞(小田賞)受賞[2]。2017年慶應義塾大学特選塾員。2018年Elsevier and Pacific-Basin Finance Journal Sponsored Best Paper Award受賞。2020年NIRA総合研究開発機構上席研究員。2021年参議院内閣委員会参考人。2022年財務省財務総合政策研究所客員研究官、文部科学省科学技術・学術政策研究所専門調査員[3]、内閣府経済社会総合研究所研究協力者。2023年内閣府経済社会総合研究所客員主任研究官[4]。研究分野は国際貿易、グローバリゼーション、地域経済、デジタル経済[4]。

参議院 2021年05月06日 内閣委員会 #03 大久保敏弘(参考人 慶應義塾大学経済学部教授)

https://youtu.be/64r0NRi8Ge0?si=6CxWoaG2JXhTICR4

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940713 No.7211

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>>7207

Q Research Japan/Nihon #21より

>栄光学園

栄光学園中学校・高等学校

https://ja.wikipedia.org/wiki/栄光学園中学校・高等学校

栄光学園中学高等学校(えいこうがくえん ちゅうがく こうとうがっこう)は、神奈川県鎌倉市玉縄四丁目に所在し、中高一貫教育を提供する私立男子中学校・高等学校。

高校からの生徒募集はしていない完全中高一貫校[1]。カトリック修道会の一つであるイエズス会を教育母体とするミッションスクールである。

当校の指す「栄光」は AD MAIOREM DEI GLORIAM(より大いなる神の栄光のために)というイエズス会の標語から来ている。

概要

イエズス会によって1947年(昭和22年)、横須賀市田浦に旧制栄光中学校設立。その年の内に新制となり、1949年(昭和24年)栄光学園中学校・高等学校となる。1964年(昭和39年)には横浜市栄区に隣接する鎌倉市玉縄へ移転した。最寄り駅は大船駅で、上野東京ラインや湘南新宿ライン、横須賀・総武快速線、京浜東北線といった関東広域を結ぶ系統が発着し、東京・神奈川県全域から通学可能となっている。

設置者である学校法人栄光学園は、2016年4月に3つの学校法人(六甲学院、広島学院、泰星学園)とともに学校法人上智学院へ合併した[2]。合併後各学校法人は解散するが、各校は上智大学の附属校にはならず名称もそのままに独立経営を維持[3][4]。各学年の定員180人規模(1学年4クラス)も変わらない。

東京ドーム約2.4個分の広さ(11万3000m2)を誇る緑豊かなキャンパスを誇る。創立70周年を迎えた2017年春、鉄筋コンクリート造(1階)、木造(2階)のハイブリッド方式による低層2階建ての新校舎が完成した。日本設計・大成建設一級建築士事務所設計共同企業体による設計、21期卒業生の隈研吾(東大教授、建築家。国立競技場の計画案をデザイン)の監修[5]による。2017年度のグッドデザイン賞に選ばれた。

教育

教育理念

“Men for others, with others”( 他者のために、他者とともに)の教育理念の下で、人格教育に重きを置いた教育がなされている。世界に通用するリーダーを養成するため、心身ともに徹底的に鍛えるという教育方針を採る。カトリックの学校であり、しつけや学習の指導は厳しい。一方で、明文化された校則はあるものの少なく、自由である。

学習

学校は真理に基づく人間教育を実践、進学実績の数値や偏差値だけに左右される教育とは一線を画している。

習熟度別クラス編成は採用していない。6年間を「初級」「中級」「上級」に分け、中高生としての心身の成長に重きを置いた教育を重視している。中1から高3の全ての授業において、授業の開始前と終了前に「瞑目」を行っていなければならない。これにより、精神集中を図っている。

中学1年から倫理の授業があり、中学では当校の歴史、方針を教えている。また、道徳と同じような内容も含まれる。高校2年では理科など一部の科目で選択必修という形式をとっているが、本格的な受験に向けた体制は高校3年時のみで、理系クラス(通常A / B組 / C組の一部)・文系クラス(通常C組の一部 / D組)の文理分けがされる。特別な宗教授業などはない(ミサや聖書研究などはあるが、任意参加)。外国人教員も加わる英語教育は質が高く、本校が独自に開発した教科書「プログレス・イン・イングリッシュ」は、他校でも使われている。

進路

卒業生1万人中3,000人以上が東京大学へ進学する実績もある、神奈川県有数の進学校である[6]。

2018年大学入試では、1学年173人程度の在籍者にもかかわらず、東京大学に77人が合格(全国5位、県内1位)、東京大学への現役進学率は約28.9%を記録した(全国4位、県内1位)。2008年から2013年までの卒業生(計1076人)の主な進学先は東京大学350人、国公立大学医学部98人、一橋大学63人、東京工業大学39人、その他国公立大学107人、私立大学医学部37人、慶應義塾大学134人、早稲田大学102人、その他私立大学117人、その他29人(東京大学理科三類、慶應義塾大学医学部は「医学部」の集計に含まず。浪人中・進学先不明等は「その他」に含む)である[7]。

各界で活躍する同校OBの進路ガイダンス「OBゼミ」も定期的に実施するなど、大学受験の10年後、20年後を見据えた具体的な進路指導も重視している。

沿革

出典[8]

1947年(昭和22年) -米軍から要請を受けたイエズス会により神奈川県横須賀市田浦(現:横須賀市船越町)内の海軍工廠跡地に創立

上智大学文学部歴史科科長のドイツ人神父グスタフ・フォス師を校長に、旧制の栄光中学校(5年制)として中学1年生72名でスタートし(現在では1学年180人、1クラス45人の6学年)、その年の内に新制3年制の中学校として認可された。

1949年(昭和24年) - 栄光学園中学校と改称、高等学校の設立認可を得て、中高一貫校となった。

1957年(昭和32年) - 財団法人上智大学より独立し、学校法人栄光学園となる。

1964年(昭和39年) - 校地が海上自衛隊横須賀基地となるのを期に、広大な敷地を求め、約111000m2の現在地に移転。

旧田浦校地は現在、海上自衛艦隊艦隊司令部となっている。

2016年(平成28年)4月 - 学校法人上智学院と合併するが、独立した学園運営は従来同様に維持される[2]。

公式サイト

https://ekh.jp/

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940713 No.7212

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>>7211

著名な関係者

Ummmmm 教育理念からして強固なネットワークがありそうです

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940713 No.7242

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北海道を開拓したのはキリスト教徒でしたか?

開拓という名の侵略をしていたのだろうか? 念の為お伝えしておきますが、キリスト教を信仰する一般の人たちを攻撃したり分断する意図はありません。宗教を隠れ蓑にし、支配層のツールとして宗教を利用し、特定の思想や繋がりを持つ者たちだけが利益を得られるように暗躍している偽善者たちがいるのではないかという疑問をもっているだけです。悪しからず

依田勉三

https://ja.wikipedia.org/wiki/依田勉三

依田 勉三(よだ べんぞう、嘉永6年5月15日(1853年6月21日) - 大正14年(1925年)12月12日)は日本の北海道開拓者。北海道開墾を目的として結成された「晩成社」を率い帯広市を開拓した。開墾に関わる業績から緑綬褒章を受章している。北海道神宮開拓神社の祭神

生い立ち

依田家は甲州武田氏の流れを汲む伊豆国那賀郡大沢村(現:賀茂郡松崎町)の豪農で、勉三は善右衛門の三男として生まれた。もっとも幼くして次男が亡くなったため、戸籍上は次男となっている。幼名を久良之助といい、土屋三余・保科酔月から漢籍を教わる。12歳で母が、後を追うように14歳のときに父が死去し兄の佐二平が後を継ぐ。兄とともに伊豆の松崎町にある土屋三余の私塾「三余塾」に学ぶ。

19歳の時に上京しスコットランド出身でスコットランド一致長老教会の宣教師・医師ヒュー・ワデル(1840年 - 1901年)の英学塾(ワデル塾)に学び後に開拓の同志となる鈴木銃太郎・渡辺勝と知り合う。その後慶應義塾に進み、当時の新知識を吸収。福澤諭吉らの影響もあり、北海道開拓の志を立てたが、胃病と脚気のため2年在学の後中退し郷里に帰る。

明治12年(1879年)に兄・佐二平が提唱した洋学校に渡辺を招き教頭とし1月15日に私立豆陽学校として開校した。この学校は後に郡立中学豆陽学校と名称を変更した後昭和24年(1949年)4月に静岡県立下田北高等学校となる[1]。同校の同窓会は豆陽会を名乗る。

明治12年(1879年)4月に従妹のリクと結婚し、この頃北海道開拓の志を固めた。

明治14年(1881年)に、晩成社の代表発起人として単身北海道に渡る。晩成社は失敗に終わるが、開田事業は成功して、十勝開拓の父と呼ばれた。

北海道の調査

明治14年(1881年)8月17日に北海道に渡った勉三は函館から胆振、函館に戻り根室に向かい釧路国・十勝国・日高国の沿岸部を調査し、苫小牧・札幌を経て帰途につく。

明治15年(1882年)には郷里の静岡で佐二平・園・善吾と勉三を発起人に、晩成社を設立し資本金を5万円とした。政府から未開地一万町歩を無償で払い下げを受け開墾しようというのである。学友の鈴木と鈴木の父・鈴木親長と共に横浜港から北海道に向かい札幌県庁にて開墾の許可を願い十勝に向かった。7月16日に十勝国河西郡下帯広村(帯広市)を開墾予定地と定め鈴木銃太郎と鈴木親長は帯広に残り勉三は帰国した。その頃の帯広にはアイヌが10戸程と和人が1戸あるのみだった。静岡では渡辺勝が移民の募集をした。

明治16年(1883年)4月に13戸27人が集まり横浜を出港した。4月14日、函館に着いた一行は海陸二手に分かれ帯広に向かい、1ヶ月後の5月14日に帯広に到着した。

>スコットランド出身でスコットランド一致長老教会の宣教師・医師ヒュー・ワデル

ヒュー・ワデル

https://ja.wikipedia.org/wiki/ヒュー・ワデル

ヒュー・ワデル(Hugh Wadell、1840年 - 1901年6月20日)は、アイルランド出身の来日宣教師である。

生涯

幼少期

1840年アイルランド長老教会の牧師ヒュー・ワデルの子としてアイルランドに生まれた。1859年の大覚醒の影響で宣教師への献身を決意した。

学生時代

1862年に北アイルランドのクィーンズ大学に入学した。その後、ベルファストの長老派神学校のアッセンブリ・プレスビテリアン・コレジを卒業して、1868年にバリメイナ長老会から説教資格を取得した。

中国宣教師

アイルランド長老教会海外伝道局が中国伝道の宣教師に招聘したので、同教会初の中国宣教師として、J・M・ハンターと一緒に、1869年2月にサザンプトン港から船出した。中国東北部の牛荘に赴任したが、咽喉の病気になり、1871年に帰国した。1872年からはスペイン・コルドバ伝道に従事する。

日本宣教師

1874年(明治7年)、スコットランド一致長老教会の日本宣教師へ応募して承認される。1874年6月10日にワデル夫妻は横浜に上陸し、ロバート・デイヴィッドスンやヘンリー・フォールズが居住していた築地居留地18番に住んだ。

クリストファー・カロザースが経営していた築地大学校の教師になった。1876年(明治9年)に葺手町(現在の港区虎ノ門四丁目)に私塾「ワデル塾」を開設した。その学校へは後に北海道十勝開拓において重要な役割を果たした渡辺勝、依田勉三、鈴木銃太郎らが学んだ。

1878年(明治11年)にワデル塾は教会は教会に発展し、西久保教会になった。1879年(明治12年)3月29日には、東京葺手町教会になり、日本基督一致教会に加入した。

その後ワデルは依田の故郷伊豆の松崎地方や上州館林に説教所を設けた。1883年の第一回全国基督教信徒大親睦会で第2日目に「神の性および宰治」と題してワデルが説教をした。

1884年(明治17年)には一時的にアイルランドに帰国した。2年後の1886年(明治19年)に再来日した。1893年(明治26年)の田村直臣の日本の花嫁事件では、追放された田村に同情していて、日本基督教会の決定に対してJ・H・バラやG・H・フルベッキと共に大反対した。

1900年(明治33年)、スコットランド一致長老教会が日本宣教を中止し、ワデルはアイルランドに帰国する。1901年(明治34年)6月20日、ワデルはアイルランドでインフルエンザで死去する。

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940713 No.7243

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>>7242

>北海道十勝開拓において重要な役割を果たした渡辺勝、依田勉三、鈴木銃太郎

渡辺勝 (開拓者)

https://ja.wikipedia.org/wiki/渡辺勝_(開拓者)

渡辺 勝(わたなべ まさる、1854年(嘉永7年)9月 - 1922年(大正11年)6月15日)は、クリスチャンの北海道開拓者である。妻カネは鈴木銃太郎の妹である。

略歴

1854年(嘉永7年)に尾張藩槍術指南役・渡辺綱良の長男として名古屋城下の武平町に生まれる。1874年(明治7年)6月に上京し、電信技術の試験に合格する。[1]

1876年(明治9年)1月に東京市芝区久保葺手町の(現在の港区虎ノ門四丁目付近)ヒュー・ワデルの私塾で聖書を学び、塾生の依田勉三や鈴木銃太郎らと知り合った。[1]1877年(明治10年)1月7日に洗礼を受ける。10月に東京一致神学校に入りワデル塾から通学した。1878年(明治11年)8月に依田の勧めで伊豆の蓮台寺の豆陽学校(後の静岡県立下田北高等学校[2])の英語教師になり、[3]1883年(明治16年)まで務めた。同年4月9日鈴木カネと結婚。[4] その後、依田一族による結成された北海道開拓団晩成社の幹部として北海道に移住した。 1883年(明治16年)から、下帯広村の地で居をかまえ開墾に従事し、[5] 1889年(明治22年)に然別で牧場経営に着手した。[6] 1893年(明治26年)には本格的な放牧を行い、本州より実弟豊吉を呼びよせ、管理をまかせ、傭人として大村壬作・アイヌ民族の数人を使って十数等位の馬が飼育し、この年から、然別太に定住し本格的な牧場経営に専念した。[5] 1893年(明治26年)に晩成社を去る。[7] 1901年(明治34年)に然別の総代として選出され、村の世話役や地域の諸問題解決に奮闘し、1906年(明治39年)に音更村が「二級村」になった時、第1回村議会議員になって、地域の諸問題の解決にあたった。[5] 1921年(大正10年)10月26日、脳溢血症に倒れ、1922年(大正11年)6月15日死去し、遺言により神道で葬られた。[5]

妻カネ

妻の渡辺カネは、安政6年(1859年)4月14日、信州上田藩士・鈴木三九郎親長の長女として江戸御弓町(真砂町)に生まれた[8][4]。父の親長は上田藩勘定奉行・松村親賢の三男で、主命により奥女中・鈴木直の養子となり鈴木家を継いだ武士であった[8]。カネ5歳のとき、藩命で帰郷した父に連れられ上田に転居したが、廃藩置県により職を失った父や家族とともに14歳で上京[8]。親長は養蚕業を始めたが失敗し、失意の中、キリスト教に救いを求めて受洗、牧師の紹介で横浜で日本語教師と聖書販売を始めた[8]。1875年(明治8年)、カネは16歳でミッションスクール共立女学校に入学し[4]、7年間学んで英文全科と皇漢学科を卒業し、夫ともに北海道開拓に携わり、6人の子を育てた[8]。

Ummm クリスチャンだけど遺言により神道で葬られた???

lb

>>20018238

鈴木銃太郎

https://ja.wikipedia.org/wiki/鈴木銃太郎

鈴木 銃太郎(すずき じゅうたろう、1856年4月21日(安政3年3月17日) - 1926年(大正15年)6月30日)は、クリスチャンの北海道開拓者である。[1]

1856年(安政3年)に上田藩士鈴木親長の長男として生まれる。1874年(明治7年)7月に父と共にデイヴィッド・タムソンから洗礼を受ける。タムソン塾、ワデル塾、東京一致神学校で学び、1879年に教師試補(伝道師)の准允を受けたが、1880年の按手礼試験には不合格になり、中会の承認を得て埼玉県の和戸教会の初代牧師に赴任する[2]。しかし、1881年(明治14年)に「嫌疑の風聞」ありと信徒から訴えられ、牧師を罷免された[2]。

その後、依田一族による結成された北海道開拓団晩成社の幹部として、1882年(明治15年)依田勉三と共に地選定調査旅行に随行し、帯広の原野で越冬、現地のアイヌと親交を結んだ。[3]1883年(明治16年)5月に晩成社の移民団を迎え入れた。アイヌ人の食料援助をし、妹カネの夫渡辺勝と共にアイヌの農業指導を札幌権県に進言した。

1886年(明治19年)5月、シブサラ「(現在の芽室町西土狩)のアイヌ民族のサンケモッテの娘のコカトアンと結婚。[4][5]1888年(明治21年)5月、晩成社幹事を辞任。[3]1889年(明治21年)3月頃、晩成社移民高橋利八と共に、シブサラに新天地を求め新たに入植した。[3]

画像引用元

https://obihiro140.jp/da_detail.php?id=2

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940713 No.7244

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>>7242

ウィリアム・スミス・クラーク

https://ja.wikipedia.org/wiki/ウィリアム・スミス・クラーク

ウィリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark、1826年7月31日 - 1886年3月9日[1])は、アメリカ人の教育者。化学、植物学、動物学の教師。農学教育のリーダー。日本ではクラーク博士として知られる。日本における「お雇い外国人」の一人である。

1876年(明治9年)札幌農学校(現・北海道大学)開校。初代教頭。同大学では専門の植物学だけでなく、自然科学一般を英語で教えた。この他、学生達に聖書を配り、キリスト教についても講じた。のちに学生たちは「イエスを信じる者の誓約」に次々と署名し、キリスト教の信仰に入る決心をした[2]。

略歴

1826年7月31日、医師であったアサートン・クラークを父として、ハリエットを母としてマサチューセッツ州アッシュフィールドで生まれる。1834年ころ一家はマサチューセッツ州のEasthamptonに引っ越した。ウィリストン神学校で教育を受け、1844年にアマースト大学に入学。Phi Beta Kappaの会員となる。1848年に同大学卒業。

1848年から1850年にウィリストン神学校で化学を教え、化学と植物学を学ぶべく、ドイツのゲッティンゲン大学へ留学、1852年に同大学で化学の博士号取得。社交的で誰からも好かれ、成績が非常に優秀であったので[3]、同年、20代にして教師就任の要請を受けてアマースト大学教授となる。分析化学と応用化学を担当して教える(これは1867年まで担当する)。また化学だけでなく動物学と植物学も教え、計3つの専門を教えるという活躍をした。(動物学は1852年〜1858年、植物学は1854年〜1858年に担当)。

じきにクラークは農業教育を推進しはじめる。というのはゲッティンゲン大学で学んでいた時期にすでにそれに着目していたのである。1853年には新しく設立された科学と実践農学の学部の長になったが、これはあまりうまくゆかず、1857年には終了した。これによってクラークは、新しい農学教育を効果的に行うためには新しいタイプの教育組織が必要なのだということに気付いた。

マサチューセッツ農科大学(現マサチューセッツ大学アマースト校)第3代学長に就任した(初代と2代学長は開学前に辞任しているため、クラークが実質的な初代学長である)。 1860年〜1861年にHampshire Board of Agricultureの長(1871年〜1872年も再度就任)。

途中、南北戦争に参加することになり、クラークの学者としてのキャリアは一旦中断する。

アマースト大学で教えていた時期、学生の中に同大学初の日本人留学生がいたが、それは新島襄(同志社大学の創始者)である。任期中には新島襄の紹介により、日本政府の熱烈な要請を受けて、1876年(明治9年)7月に札幌農学校教頭に赴任する。マサチューセッツ農科大学の1年間の休暇を利用して訪日するという形をとった。

クラークはマサチューセッツ農科大学のカリキュラムをほぼそのまま札幌農学校に移植して、諸科学を統合した全人的な言語中心のカリキュラムを導入した。明治政府(開拓使)は欧米の大学と遜色ないカリキュラムを採る札幌農学校に、国内で初めて学士の称号を授与する権限を与えた

札幌農学校におけるクラークの立場は教頭で、名目上は別に校長がいたが、クラークの職名は英語で「President(校長)」と表記することが開拓使によって許可され、ほとんど実質的にはクラークが校内の全てを取り仕切っていた

クラークは自ら模範となり、学生を鼓舞、激励するだけでなく、マサチューセッツ農科大学の教え子から生え抜きを後継者に据えて規律及び諸活動に厳格かつ高度な標準を作り出し、学生の自律的学習を促した[4]。

9ヶ月の札幌滞在の後、翌年の1877年5月に離日した。帰国後はマサチューセッツ農科大学の学長を辞め、洋上大学の開学を構想するが資金が集まらず頓挫、生活費に困るようになっていたときに出資者を募って知人と共に鉱山会社「クラーク・ボスウェル社」を設立して7つの鉱山を買収[3]、当初は大きな利益を上げたが、その知人が横領を繰り返し、果てに逃亡、設立から1年半で破産、負債は179万ドルだった[3]。叔父から破産をめぐる訴訟を起こされ、裁判で罪に問われることはなかったが[3]、晩年は心臓病にかかって寝たり起きたりの生活となり、1886年3月9日、失意のうちに59歳でこの世を去った。

彼は帰国した後も札幌での生活を忘れることはなく、死の間際には「札幌で過ごした9ヶ月間こそ、私の人生で最も輝かしいときだった」と言い残したと伝えられる。彼の墓はアマースト町ダウンタウン内にあるウエスト・セメタリーにある。

イエスを信ずる者の契約

ここに署名する札幌農学校の職員学生は、キリストの命じるところに従いキリストを告白すること、および十字架の死により我らの罪をあがなわれた貴き救い主に愛と感謝を捧げるためにキリスト者としてのすべての義務を真の忠誠をもって果たすことを願いつつ、また主の栄光のため、および主が代わって死にたもうた人々の救いのために、主の御国を人々の間に前進させることを熱望しつつ、ここに今より後、イエスの忠実なる弟子なるべきこと、および主の教えの文字と精神とに厳密に一致して生きるべきことを、神に対し、また相互に対して、厳粛に誓約する。さらに、ふさわしい機会があればいつでも、試験、洗礼、入会のため福音的教会に出向くことを約束する。

我らは信ずる、聖書が、人に対する神からの、言葉による唯一の直接的啓示であり、来たるべき栄光の生に向けての唯一の完全で誤りのない手引きであることを。

我らは信ずる、我らの慈悲深き創造主、我らの義なる至上の支配者でまた我らの最後の審判者である、唯一なる永遠の神を。

我らは信ずる、心から悔い、そして神の子イエスへの信仰によって罪の赦しを得るすべての者は、生涯にわたり聖霊によって恵み豊かに導かれ、天の父の絶えざる御心によって守られ、ついにはあがなわれた聖徒の歓喜と希望とが備えられることを。しかし福音の招きを拒むすべての者は、自らの罪の中に死に、かつ永遠に主の御前から追放されねばならぬことを。

我らは、地上の生涯にいかなる変転があっても、次の戒めを忘れず、これに従うことを約束する。

あなたは、心を尽くし精神を尽くし力を尽くし思いを尽くして、主なるあなたの神を愛しなさい。また自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい。

あなたは、生物・無生物を問わず、いかなるものの彫像や肖像を崇拝してはならない。

あなたは、主なるあなたの神の名を、いたずらに口にしてはならない。

安息日を憶えてこれを聖きよく守りなさい。すべての不必要な労働を避け、その日を、できるだけ聖書の研究と自分および他の人の聖い生活への準備のために捧げなさい。

あなたは、あなたの両親および支配者に聞き従い、彼らを敬いなさい。

あなたは、殺人、姦淫、不純、盗み、ごまかしをしてはならない。

あなたは、隣り人に対して何の悪もしてはならない。

絶えず祈りなさい。

我らは、お互いに助けあい励ましあうために、ここに「イエスを信ずる者」の名のもとに一つの共同体を構成する。そして、聖書またはその他の宗教的書物や論文を読むため、話しあいのため、祈祷会のために、我らが生活を共にする間は、毎週一回以上集会に出席することを固く約束する。そして我らは心より願う、聖霊が明らかに我らの心の中にあって、我らの愛を励まし、我らの信仰を強め、救いに至らせる真理の知識に我らを導きくださることを。

— 1877年3月5日  札幌にて  ウィリアム・スミス・クラーク

画像引用元

https://www.hitsujigaoka.jp/facility/clark_square/

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940713 No.7245

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>>7244

クラークとカレー

クラークは学生にカレー以外のメニューの時の米飯を禁じ、パン食を推進したと言われ、カレーを日本に広めたのはクラークであるという説もある。しかし、『カレーなる物語』(吉田よし子、1992年)によれば、北海道大学には、当時のカレーに関する記録は1877年9月(クラーク離日後)のカレー粉3ダースの納入記録しか残っておらず、クラークの命令もあったのかどうかは不明とされる。ただし、1881年の寮食は、パンと肉、ライスカレーが隔日で提供されていたことは確認されている。クラークとカレーを結びつける文献として古いものは、『恵迪寮史』(1933年)があり、これによると、札幌農学校ではパン食が推進され、開学当時からカレー以外の米食が禁じられていたという。

北海道立文書館発行『赤れんが』81号(1984年)によれば、開拓使東京事務所では、クラーク訪日前の1872年からお雇い外国人向けにライスカレーやコーヒーが提供されていた。また、札幌農学校の前身である開拓使仮学校は、東京に設置されている。そもそも、北海道でパン食を推進したのは、クラークの前任者とされる開拓使顧問のホーレス・ケプロンであるとされ、札幌農学校とカレーとの関係は、クラーク以前の時代に遡る可能性もある。

「ライスカレー」という語はクラークが作ったという説もあるが、クラーク訪日前の開拓使の公文書『明治五年 開拓使公文録 八』(1872年)で、「タイスカレイ」(ライスカレーの意味)という語が使われている。

第三者からの人物エピソード

内村鑑三は、「後世への最大遺物」において、「ものを教える」技能を有し教育で貢献する人物の例として挙げ、農学校時代にクラークを第一級の学者であると思っていたが、米国に渡って聞いたらある学者に「クラークが植物学に付いて、口を利くなどとは不思議だ」と云って笑った人があります、と言い「先生、大分化(ばけ)の皮を現はした」とした[6]。しかし、内村は続けて、「しかしながら、とにかくアノ人は非常な力を持って居る。何であるか、即ち植物学を青年の頭のなかへ注ぎ込んで、植物学というInterest(インタレスト) を起す力を持った方であります。それゆえに植物学の先生としては非常に価値のあった人であります。故に学問さえすれば、我々が先生になれるという考を我々は持つべきでない。我々に思想さえあれば、我々が悉く先生になれるという考を抛却(ほうきゃく)して仕舞わねばならぬ。先生になる人は学問が出来るよりか、学問はなくてはなりませぬけれ共、学問が出来るよりか学問を青年に伝える事の出来る人でなければ往かぬ。[7]」と評価している。

札幌農学校の校則について、開拓長官の黒田清隆(後の内閣総理大臣)に「この学校に規則はいらない。“Be gentleman”(紳士であれ)の一言があれば十分である」と進言したと言われている。それまで雁字搦めの徳目に縛られていたのと比べると、これはいかにも簡潔なことであった。しかし、何をして良いのか、何をしてはいけないのかは自分で判断しなければならないため、自由でありながら厳しいものとなっている。ただし、開校日にクラーク自身が学生に提示した学則は、これよりはるかに多い。これは、クラークの前任者であるホーレス・ケプロンの素案をそのまま使ったためとも言われている。

離日後も黒田清隆や教え子との間で手紙による交流を続けた。現在も多くの手紙が残っている。

主な教え子

一期生(16人のみ)

佐藤昌介(北海道帝国大学総長)

大島正健(言語学者、旧制甲府中学校校長)

内田瀞(牧場主)

黒岩四方之進(牧場主)

伊藤一隆(道庁勤務を経て石油会社経営。玄孫はタレント、歌手、女優、声優の中川翔子)

渡瀬寅次郎(教育者、種苗店経営)

柳本通義(台湾官吏)

英語版

https://en.wikipedia.org/wiki/William_S._Clark

1876 年、クラークは日本政府から招かれ、札幌農学校(現在の北海道大学)を設立しました。 1867 年の明治維新後、日本の新政府は急速な近代化の道を歩み始め、そのプロセスを促進するために多くのヨーロッパとアメリカの学者や軍事専門家を採用しました。これらの人々は日本政府によって「おやとい外国人」または「雇われ外国人」と呼ばれていました。[36]

モデルとなる農業大学を求めて、駐米公使の森有礼は、米国農務省長官ホーレス・ケプロンに推薦を求めた。 Capron 推奨の MAC。同大学訪問後、森大臣はその後、SAC設立の理想的な候補者としてクラーク氏を日本政府に推薦した。[37]

クラークは 1876 年 3 月 3 日にワシントン DCで日本政府との契約に署名しました。[38]翻訳の不一致により、クラークの正式な称号については今日に至るまで矛盾が存在する。伝記作家のジョン・マキ氏によると、クラークの契約書の日本語版と英語版はこの点で異なっていたという。日本語版ではクラークを「校長(つまり助監督)」と名付けた。このため、日本ではクラークはSACの「助監督」、あるいは時には「副会長」と呼ばれている[39] 。しかし、英語版の契約書では「文中に『大統領』という単語が挿入され、吉田清成(当時の駐米公使)のイニシャルが付けられた」。[39]肩書に関係なく、クラークはSACの組織化において日本政府の全面的な支援を受け、日本滞在中は大学に対して主な権限を行使した。[40]

クラークは 1876 年から 1877 年までの 8 か月間を札幌で過ごしました。マサチューセッツ州で否定的な報道に耐えた後、日本政府から受けた熱心な協力に満足しました。 SAC はわずか 1 か月で組織されました。クラークさんは妻に「私は実際に地球の裏側でMACを再建しているところです」と書いた。[41] SACの設立にあたり、クラークは日本に最初のアメリカのモデル農場と納屋を導入し、国内初の大学軍事部隊を導入した。彼はまた、農業、漁業、畜産業において新しい作物や新しい技術を導入しました。[42]

SAC で働いていたクラークの直属の上司は、北海道知事 (そして将来の日本の首相)黒田清隆でした。二人はお互いを大いに尊敬しており、過去に軍事経験があるという点で絆を共有していた。彼らの良好な関係は、札幌滞在中のクラークの多くの業績を促進し、SACプログラムの実施だけでなく、北海道の植民地開発に対するクラークの影響力にも広い自由度を与えました。[43]

北海道は当時日本の辺境を代表しており、北海道を植民地化するためにはやるべきことが多かったので、黒田はクラークのアドバイスを歓迎し、頻繁に実行した。[40]クラークは、移住漁民の永住入植者への転換や繊維産業の設立など、さまざまなテーマに関する勧告を知事に提出した。[44]実際、クラーク自身も植民地問題に対する自身の影響力の明らかな範囲に驚いており、妻に「黒田知事は常に私に相談し、常に私のアドバイスに従っている」と書いている。[45]彼は後にこう書いている、「自分がどれだけ自信を持って、毎日どんな責任を負っているのかを考えると震える」。[45]

クラークは植民地開発に大きな影響を与えただけでなく、SAC の最初の学生たちに強い個人的な影響を与えました。彼が MAC で採用した野心と個人の高揚に関する同じレトリックは、日本の学生たち、さらには厳格な封建的カースト制度から脱却したばかりの日本国民にさらに深く共鳴しました。[46]教室での講義、非公式の夜の講演、植物標本の収集に出かける際、クラークは道徳について話し合い、生徒たちに「紳士であれ」と促した。[47]

日本政府は公立学校で聖書を教えることを禁止していたが、クラーク氏は多大な努力の末、倫理指導で聖書を活用することについて黒田氏の許可を得ることができた。[48]そうすることで、クラークは大学の最初の入学クラスに(プロテスタントの)キリスト教の原則を導入しました。 [49]彼らは、クラークが去った後に入学した第二クラスの生徒たちにも影響を与えた。 1877年、SACの31人の学生がキリスト教に改宗し、クラークが起草した「イエスを信じる者の契約」というタイトルの文書に署名した。彼らの中には、後に 20 世紀初頭の日本の近代化が進む中で、キリスト教、教育、国際関係の分野で重要な役割を果たした人もいます。内村鑑三(日本のキリスト教協会である無教会運動の創始者)や新渡戸稲造(クエーカー教徒、教育者、外交官)などの卒業生は、今でも日本で全国的に知られており、大学の第二期入学者クラスの出身でした。[50] [51]

クラークは北海道滞在中に地元の植物相を調査し、新種の植物や樹木を日本から米国に導入しました。彼はマサチューセッツ州に大量の種子を送りましたが、その多くは緯度の高い地域から選ばれたため、彼の州にとって特別な価値があることが判明しました。札幌市手稲区の標高3,200フィート(980メートル)の手稲山の中腹で新たな地衣類を発見し、エドワード・タッカーマンによって彼の名誉を称えてCetraria clarkiiと名付けられた。[8]

クラークが出発する日、1877 年 4 月 16 日、SAC の学生と教員は、札幌から 13 マイル (21 km) 離れた島松村までクラークと一緒に車で行きました。生徒の一人、大島正武さんが思い出したように、クラークさんは別れを告げた後、「少年よ、大志を抱け!」と叫んだ。[52]クラークの別れの言葉のいくつかの異なるバージョンは今日でも残っており、その中には「少年よ、この老人のように野心的であれ!」などが含まれる。そして、「少年たちよ、キリストのために野心的であれ!」[52] 1971年に描かれたクラークの辞任を描いた絵が札幌の県議会議事堂に飾られており、そこにはクラークの別れの言葉の長いバージョンが含まれている。 「人間が名声と呼ぶはかないもの。人間がそうあるべきすべてを達成するために野心的であれ。」[52]

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940713 No.7246

>>7245

レガシー

クラーク氏は故郷のマサチューセッツ州ではほとんど忘れ去られているが、日本では依然として国民的な人物である。[64]北海道の農業と経済の発展に対する彼の影響は大きかったが、今日でも反響を呼んでいるのは主に彼の文化的メッセージである。歴史家の藤田文子氏によれば、クラークの「少年よ、大志を抱け!」という言葉は、 「日本ではほぼ不死身」です。[65]日本政府観光局は、このスローガンは「有名」であり、全国的によく引用されると述べている。[66]歴史家のジョン・マキは、日本の多くの学校教科書には「(クラークの)作品と彼のスローガンについての簡単な説明が掲載されている」と述べ、「学校、建物、商店、菓子、そして無数の観光土産物」にクラークの名前が登場していると記した。[67]

クラークの宣教活動により、1882 年に SAC の学生によって設立された札幌独立キリスト教会が誕生しました。それは明治維新後の日本における最初のキリスト教の細胞の一つでした。最終的に、クラークの「イエスを信じる者たちの契約」の署名者のうち 10 人が資金を集め、1922 年に札幌にウィリアム・S・クラーク記念教会を建設しました。教会は 1962 年に取り壊されましたが、別の場所に再建され、今もオリジナルの教会が保管されています。 『契約』とクラークが札幌に持ち込んだ数冊の聖書。[68]

日没直後の大学キャンパスの写真。長方形の超高層ビルが視界を支配し、紺碧の空を背景にシルエットで立っています。その左側には、ライトアップされた時計塔のある小さな石造りの礼拝堂があります。

米国におけるクラークの主な遺産は、彼が設立した 2 つの大学、現在はマサチューセッツ大学アマースト校と北海道大学の間で継続的に行われている協力の 1 つです。ジャーナリストのダニエル・フィッツギボンズによれば、学生と教員の交流は長年にわたり非公式であったが、1960年代初頭、「米国国務省が北海道の農業カリキュラムの強化を支援するために大学と契約を結んだ。そのプログラムを通じて、11人のマサチューセッツ大学教員が札幌に行き、 52人の日本人教職員と学生がアマーストで高度な訓練を受けました。」両大学はさまざまな学部を通じて交換プログラムを維持しています。[69] [70]

1969年、国際農業研究センターのジョン・H・フォスター教授は、両機関間の協力関係を「米国の大学と外国の大学間の最も古い技術援助関係」と認定した。[69]この事実と、2つの大学の設立におけるクラークの役割を認識して、マサチューセッツ大学アマースト校と北海道大学は1976年に姉妹大学となりました。1990年2月7日、マサチューセッツ州と北海道県は姉妹大学となりました。姉妹国となった。[70] [71] [72]

クラークの功績を称える最初の公共芸術作品の 1 つは、SAC 設立 50 周年を記念して 1926 年に北海道大学のキャンパスに設置された胸像でした。元の胸像は第二次世界大戦中に溶けてしまいましたが、1947 年に再建されました。 [73]クラークの札幌到着 100 周年を記念して、羊ヶ丘展望台にクラークの像が1976 年に建てられました。像の台座にエッチングが刻まれています。クラークの有名な言葉「少年よ、大志を抱け」。この場所は人気の観光地です。[66]最後に、マサチューセッツ大学アマースト校のキャンパス内に、0.5 エーカー (0.20 ヘクタール) の石と彫刻の庭園であるウィリアム スミス クラーク記念碑が 1991 年 10 月 17 日に奉献されました。クラークヒルの頂上にあるクラークの家。この記念碑は景観建築家のトッド A. リチャードソンによって設計されました。[72]

クラークにちなんで名付けられた建物には、もともと植物学部を収容するために 1905 年に建設されたマサチューセッツ大学アマースト校のクラーク ホールや、1960 年に北海道大学のキャンパス内に建てられた最初で最大の洋風建築であるクラーク記念学生センターなどがあります。日本の大学生センター。[74]

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940713 No.7247

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>>7242

話が脱線しますが…

依田勉三の記念碑がある大樹町では堀江貴文氏が宇宙事業をしている

なぜ、堀江貴文は“コスパ”も“タイパ”もよくない北海道の宇宙事業を支援し続けるのか?

https://goetheweb.jp/person/article/20230814-horie-rocket?heading=2

宇宙事業の拠点となる大樹町の移住者を増やす

日本国内でロケットを発射できる場所は、限られている。

「ワーストケースに備えて、かなり広い警戒区域をとらなければならないんです。ロケットは真上ではなく、海の方向に向けて少し斜めに打ち上げるんですが、発射場と海の間の陸地に人が住んでいてはいけないし、道路があってもダメ。さらに船や飛行機の路線があってもいけないなど、相当条件が厳しい。打上げ実験ができる場所を、日本中探しまくっていました」

堀江貴文さんがファウンダーであるロケットの開発・製造を行う宇宙ベンチャー、インターステラテクノロジズが出合ったのが太平洋に面する十勝南部の町、大樹町(たいきちょう)だった。

「酪農と漁業、農業の町で、1980年代から航空宇宙に関する誘致を行っていました。2021年に民間も使える開かれた“宇宙港”となる北海道スペースポートが稼働し、宇宙関連では注目を集めています」

東京23区の約1.3倍の816㎢の面積で、人口はわずか5400人。ロケット打上げには、最適な環境ともいえるが、「北海道の地方にありがちな、広々とした田舎町(笑)」。宇宙関連の研究者が集まりつつあるが、問題がないわけではない。

「宇宙産業の発展を見越して、コンビニとかドラッグストアは充実しているんです。でも、とにかく出会いがない。インターステラテクノロジズの場合、大樹町に80人くらいいるんですが、ほとんど彼女がいない理系男子。これ、笑い事じゃないんですよ。生活には困らなくても、遊ぶ場所、集まれるような場所がないと、若い人が定着しない。町内の酪農をやっている人でも年収数千万円あるのに独身という人が多い。仕事のモチベーションにもかかわってきますから、深刻な問題なんです」

そんな大樹町に2020年にオープンしたのが、エンタメパン屋「小麦の奴隷(どれい)」。HIU(堀江貴文イノベーション大学校)のコミュニティから誕生したこの店は、看板メニューである「ザックザクカレーパン」が全国のカレーパングランプリで金賞を受賞して話題で、町外からも人が押し寄せる人気スポットに。

「今、町の小さなパン屋がコンビニとか大手チェーンに押されてどんどん廃業しているんですよ。でも焼き立てパンの需要はあるはずだし、過疎地でも訪問販売とかすれば成功するんじゃないかと。そこで大樹町で始めて、成功したら全国に広げてみようと思ったんです」

少しずつだけど町が変わってきている

大樹町に本社を置く「小麦の奴隷」は、その後全国にフランチャイズ展開。2年間で100店舗を超える広がりとなった。さらに堀江さんは町内にレストラン「蝦夷マルシェ」やラーメン店「堀江家」をプロデュース。

「少しずつですけど、町が変わってきているという感覚はあります。町も協力的ですし、いい流れになっているんじゃないかと思っています」

もちろん一番の目標は、宇宙分野で大きな成果を収めること。

「いつまでに何をやるみたいな目標は設定していない。とにかく“なるはや”で。目標を設定してもだいたい1年、2年遅れるんですよ。だからスケジュールは決めないんです」

ライブドア時代の約20年前からロケット開発に取り組んできた堀江さん。“コスパ”も“タイパ”もいいと思えないこの事業を支援し続ける理由についてこう答える。

「社会問題を解決しながら、面白いことができるから。他の人がやれることだったら、その人たちにやってもらえばいい。自分にしかできないからやっているんです」

堀江貴文/Takafumi Horie

実業家

1972年福岡県生まれ。2013年に北海道大樹町で宇宙の総合インフラ会社、インターステラテクノロジズを創業。その子会社Our Starsでは情報通信事業や地球観測事業の展開を目指す。「衛星通信3.0を実現したい」

https://www.town.taiki.hokkaido.jp/soshiki/kikaku/uchu/aerospace.html

大樹町は、今から約40年前(1980年代)に「航空宇宙産業基地」の候補地とされて以来、官民一体となって「宇宙のまちづくり」を進めています

町内美成地区の「北海道スペースポート(HOSPO)」では、JAXAをはじめとして、民間企業や大学等により様々な実験が行われています。

また、町内外において航空宇宙に関連した様々な取組みも行っています。

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940713 No.7257

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>>7256

>賀川豊彦

賀川豊彦

https://ja.wikipedia.org/wiki/賀川豊彦

賀川 豊彦(かがわ とよひこ、旧字体:豐彥、1888年(明治21年)7月10日 - 1960年(昭和35年)4月23日)は、大正・昭和期のキリスト教社会運動家・社会改良家。戦前日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動、協同組合保険(共済)運動において、重要な役割を担った人物。日本農民組合創設者。「イエス団」創始者。キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高く、戦前は現代の「三大聖人」として「カガワ、ガンジー、シュヴァイツァー」と称された[1]。

茅ヶ崎の平和学園の創始者である。墓は東京都の多磨霊園にある。

妻の賀川ハルも社会運動家。息子の賀川純基は教会音楽家で東京の賀川豊彦記念松沢資料館の初代館長。孫の賀川督明はグラフィックデザイナーで神戸の賀川記念館の初代館長。

生涯

生い立ち

兵庫県神戸市に、回漕業者・賀川純一と徳島で芸妓をしていた菅生かめの子として生まれる。4歳の時に相次いで父母と死別して、姉と共に徳島の本家に引き取られる。徳島では血のつながらない父の本妻と祖母に育てられるが、「妾の子」と周囲から陰口を言われるなど孤独な幼年時代を過ごした[2][3] 。兄の放蕩により15歳の時に賀川家は破産してしまい、叔父の森六兵衛の家に移る。旧制徳島中学校(現在の徳島県立城南高等学校)に通っていた1904年(明治37年)、日本基督教会徳島教会にて南長老ミッションの宣教師H・W・マヤスより受洗。この頃安部磯雄・木下尚江の著作を読み、キリスト教社会主義に共感を覚える。また『戦争と平和』に代表されるトルストイの反戦思想にも影響を受け、軍事教練サボタージュ事件を起こす。伝道者を志し、1905年(明治38年)に明治学院高等部神学予科に入学、卒業後の1907年(明治40年)、新設の神戸神学校(のちの中央神学校)に入学する。

社会事業家として

結核に苦しみ、また信仰への懐疑に煩悶(はんもん)しながら、やがて「貧民問題を通じて、イエスの精神を発揮してみたい」と一念発起し、1909年(明治42年)神戸市新川のスラムに住み込み、路傍伝道を開始する。12月24日、神戸新川の貧民窟に転居し、救霊団(のちの神戸イエス団)の事業を始めた[4]。1911年(明治44年)に神戸神学校を卒業、1912年(大正元年)には一膳飯屋「天国屋」を開業した。

芝ハルとスラムで出会い、1913年(大正2年)に神戸の教会で簡素な結婚式を挙げた。ハルは印刷工場に勤務していた父の転勤に伴い、家族とともに横須賀から神戸に転居、父が勤務する印刷工場の女工となった。賀川はスラムの隣人を招いて披露宴を行い、普段はきつねうどん以上のご馳走を口にしない彼が寿司の折詰を配って妻ハルを紹介して言った。「私はみなさんの女中をお嫁にもらいました。あなた方の家がお産や病気で手が足らなくて困った時には、いつでも頼みに来てください。喜んで参ります」[5]。

ハルは結婚後、賀川とともにスラムで貧民の救済活動に献身、不衛生なスラムの環境によりトラコーマに感染し右目を失明するも、救貧活動を続けた。なお、賀川も両眼ともトラコーマに冒され、何度も失明の危機を経験している[2][3]。

1914年(大正3年)に渡米し、アメリカの社会事業、労働運動を垣間見つつ[6]プリンストン大学・プリンストン神学校に学び、1915年(大正4年)にスラムでの経験をふまえて渡米前に執筆した『貧民心理之研究』が出版される。同書は、貧民を外から観察するのではなく、貧民の中にあって観察・分析した「日本の貧民研究史上不朽のもの」[7]との評価もあるが、文中に被差別部落の人々への誤った差別的見解や表現があり、のちに部落解放運動関係者から批判されている[8]。

1917年(大正6年)に帰国すると、神戸のスラムに戻り無料巡回診療を始めた。また、米国留学中の体験から貧困問題を解決する手段として労働組合運動を重要視した賀川は、鈴木文治率いる友愛会に接触し、1919年(大正8年)に友愛会関西労働同盟会を結成、理事長となった。また同年には日本基督教会で牧師の資格を得た。

1920年(大正9年)に自伝的小説『死線を越えて』を出版、わずか1年で100万部超という一大ベストセラーとなり、賀川の名を世間に広めた。その後もベストセラー作家として、『一粒の麦』『空中征服』『乳と蜜の流るゝ郷』など、数々の小説を発表する。これらの原稿料や莫大な印税はほとんど関与した社会運動のために投じられた[2][3]。また同年、労働者の生活安定を目的として神戸購買組合を設立、生活協同組合運動にも取り組んだ。同組合はのち灘神戸生協を経て、日本最大の生協となったコープこうべへ発展した。また武藤富男らと共に、キリスト教系新聞『キリスト新聞』(発行元:キリスト新聞社)を立ち上げた。

1921年(大正10年)、神戸の三菱造船所(現・三菱重工業神戸造船所)・川崎造船所(現・川崎造船神戸工場)における大争議を指導し、労働者による工場自主管理や約3万5千人を組織した大規模デモなどを指導するが、示威行動中の労働者と警官隊との衝突により、賀川をはじめ百数十人の組合幹部が一斉に逮捕され、戦前最大の労働争議は労働組合側の敗北に終わった。これを契機に「無抵抗、非暴力」を唱える賀川は、「直接行動」を主張する急進派(左派)から激しい批判を浴びた[2][3]。やがて、関西の労働運動において急進的なサンディカリストの勢力が増し、賀川は農民運動に活動の場を移すことになる。また、関東大震災の被災者救済をきっかけに本所基督教産業青年会を発足[9]、貧民診療所などを経営した[10]。

1922年(大正11年)、協力者の杉山元治郎とともに日本農民組合を設立し、本格的に農民運動に取り組んだ。組合は急速に発展し、3年後の1925年(大正14年)末には組合員数は7万人を超えた。この間、1923年(大正12年)に関東大震災が起きると、直ちに現地に駆けつけ、罹災者救済活動を行う。この活動は、宗教、医療、保育等、広範囲にわたるセツルメント事業として展開され、江東消費組合や中ノ郷質庫信用組合も設立した[2][3]。また無産政党運動にも積極的に関与し、1926年(大正15年)の労働農民党結成に当たっては執行委員に就任するが、同年末の左右分裂に際して党を脱退した。

1926年(大正15年)には廃娼運動にも参画。同年10月1日に日本青年会館で行われた廃娼全国同志大会でストライキやボイコットをもって娼妓に自覚を促すよう演説を行った[11]。

1920年代後半以降は、社会運動から宗教活動へと比重を移していった。1925年(大正14年)に同志社大学で講義を行い中島重に影響を与え友誼を結ぶ。1929年(昭和4年)、日本基督教連盟の特別協議会は賀川の主導により「神の国運動」を議決、賀川は「百万人の救霊」を目標として、1932年(昭和7年)まで福音伝道のため全国を巡回した。また米国・中国・欧州等世界各国で講演活動を行う。

1938年(昭和13年)4月、賀川は厚生省社会局が主催する庶民経済保護座談会に参加。国民服や栄養食配給所設置運動構想の策定に参画した[12]。同年5月、満洲を視察する旅行に出かけた[13]。南満洲鉄道がほぼ丸がかえで汽車と飛行機と自動車を乗り継ぐ4週間の旅で全満洲の主だった都市をめぐり、満鉄総裁の松岡洋右や共和会中央本部総務部長甘粕正彦とも会談した[13]。帰国後、賀川は満洲基督教開拓村を日本基督教連盟に提案し、満洲の長嶺子と太平泰に2つの基督教開拓村をつくった[13][注釈 1]。1940年8月25日、渋谷憲兵隊に反戦的平和論で拘引される。1941年(昭和16年)4月、リバーサイド日米キリスト者会議でアメリカ合衆国のキリスト教会に「アメリカ教会への感謝状」を送る。1943年5月27日、神戸で憲兵隊に留置取調をうける。

第二次世界大戦に関しては「国際戦争反対者同盟」に属したが、1943年(昭和18年)11月3日の憲兵隊による取調べを境に同同盟を脱退、「国際友和会日本支部」を自ら解散している。賀川は、徳島中学時代に軍事教練拒否で鉄拳制裁を受けるなど、生来の平和主義者であり、その平和思想を危険視する憲兵隊に逮捕されるなど弾圧を受けるが[2][3]、太平洋戦争(大東亜戦争)後期においては(一説には太平洋戦争当初から)、多くの宗教家と同じく戦争に協力的な姿勢であった。これは、賀川が設立した協同組合等社会事業とその関係者や、彼を慕う多くの弟子・支持者を軍部の弾圧から守るため「取引」をしたものともいわれる[14]。1944年10月20日、宗教使節として中国に赴く。敗戦により中止となったが、1945年(昭和20年)8月16日には賀川も奨励者として名を連ねる「戦意昂揚音楽礼拝」が「日本基督教団戦時活動委員会」の主催により予定されていた。

その後、太平洋戦争敗戦による強制接収にて中国から帰国していた清水安三・郁子夫妻と偶然知り合い、1946年に学校法人桜美林学園の創立のため、町田市内の米軍工場跡を安三に提供した。安三と共に桜美林学園創始期の運営に携わり、初代理事長に就任したが、後に方針の違いから安三と袂を分かつ形で桜美林学園を去っている。

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940713 No.7258

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>>7257

政治家として

戦後は東久邇宮内閣参与や貴族院勅選議員(1946年3月12日就任[15]、登院は一度もなかった。1947年5月2日まで在任[16])を務め、日本社会党の結成にも参画した。民間人として初めてマッカーサーに会った人物であるとされている。終戦直後の目立った活動としては「一億総懺悔運動」への協力が挙げられる。マーク・ゲイン著『ニッポン日記』によると、東久邇宮稔彦王の後任首相として有力であったらしいが、戦時中の翼賛的な活動が原因で実現しなかったとのことである。同書には、一般に知られる賀川の人物像とかなり食い違う姿が記されており、またそこで書かれている様な賀川への批判が連合国軍総司令部 (GHQ) により封じられていたともある。幣原内閣解散後の吉田内閣組閣の難航に伴い、総理大臣候補として名が挙がったこともあるという。晩年は世界連邦運動に取り組み、1947年(昭和22年)と翌1948年(昭和23年)にはノーベル文学賞の候補となり(1947(昭和22)年は候補48人中、1948(昭和23)年は候補45人中)[17]、 1954年(昭和29年)1955年(同30年)1956年(同31年)および1960年(同35年)の4回にわたりノーベル平和賞候補者として推薦された[18]。

大宅壮一によると、賀川はクリスチャンかつ労働運動・社会運動の指導者的立場ながら、昭和天皇・皇室の熱烈な支持者でもあり、日本社会における天皇(天皇制)の存在意義を積極的に認めていたという。日本社会党結党の際には、中間派の浅沼稲次郎らと共に中心メンバーとなり、結党大会で「天皇陛下万歳」三唱の音頭を取ったことで、社会党左派との内部対立を引き起こした。

エピソード

大宅壮一は、賀川の追悼文のなかで「大衆の生活に即した新しい政治運動、社会運動、組合運動、農民運動、協同組合運動など、およそ運動と名のつくものの大部分は、賀川豊彦に源を発していると云っても、決して云いすぎではない。近代日本を代表する人物として、自信と誇りをもって世界に推挙しうる者を一人あげようと云うことになれば、私は少しもためらうことなく、賀川豊彦の名をあげるであろう。かつての日本に出たことはないし、今後も再生産不可能と思われる人物――、それは賀川豊彦先生である。」と記している[19]。

自身が結成した日本MTLを率いてハンセン病患者への宣教と慰問を中心に活動していた。しかし、賀川は当時学説の主流だった優生学に傾倒しておりハンセン病患者の淘汰を目的とした無癩県運動へと活動の重点を移していった[20]。

賀川は『女性賛美と母性崇拝』(豊文書院、1937年)を著すなど、早くから女性の地位向上を説いていたが、売買春等には宗教家としての倫理観から厳しい見方もしている。連合国軍占領下の日本において米兵による婦女子の強姦事件が多発していた頃、『婦人公論』1947年8月号で「闇の女に堕ちる女性は、多くの欠陥を持っている」とし、パンパンについては「わざと悪に接近」するような悪魔的なところがあり、「一種の変成社会における精神分裂病患者である」と指摘した[21]。

ワシントン大聖堂には、賀川豊彦の彫像が、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアら等と共に、独立した形で掲げられている。(なお同大聖堂には、他に日本人として新島襄の彫像が、集合の彫像の一部として掲げられている)

1947年と1948年には、ノーベル文学賞の候補に選ばれたことがある[22]。

関連団体

学校法人平和学園 - 賀川豊彦が設立した神奈川県茅ヶ崎市のキリスト教主義学校。

学校法人桜美林学園 - 賀川豊彦が設立に関与した東京都町田市のキリスト教主義学校。

雲柱社(うんちゅうしゃ) - 賀川豊彦が設立した東京都世田谷区の社会福祉法人[23]。「雲柱社」の名称は『出エジプト記』の「(神は)雲の柱をもって彼らを導き」の一節に由来する[24]。

NPO法人賀川豊彦記念・鳴門友愛会

福音館書店 - 賀川の伝道を手伝っていた佐藤喜一がカナダ人宣教師の設立した書店を引き継いだ会社。

英語版

https://en.wikipedia.org/wiki/Toyohiko_Kagawa

賀川 豊彦(ががわとよひこ、1888年7月10日 - 1960年4月23日)は、日本のプロテスタント キリスト教平和主義者、キリスト教改革者、労働活動家。賀川は、社会や協同組合の秩序にキリスト教の原理を採用する方法について、執筆し、講演し、熱心に取り組みました。貧しい人々を助けるという彼の使命により、彼は貧しい人々の中で暮らすようになりました。彼は女性参政権を主張し、平和的な外交政策を推進した。

生い立ち

賀川は日本の神戸で女好きの実業家と妾の間に生まれた。両親は彼が幼い頃に亡くなった。彼は学校に送られ、そこで二人のアメリカ人宣教師教師、博士から学びました。彼を自宅に引き取ったハリー・W・マイヤーズとチャールズ・A・ローガン。

賀川はこれらの宣教師から英語を学び、若い頃に聖書の授業を受けた後福音派プロテスタントに改宗したが、そのために残った親戚から勘当されることになった。賀川は東京長老派学校で学び、その後神戸神学校に入学した。そこで勉強している間、賀川は神学生たちが教義の専門的な点に関心を持っていることに悩まされました。彼は、実際に行われているキリスト教こそがキリスト教の教義の背後にある真実であると信じていました。彼はイライラして、善きサマリア人のたとえ話を指さしました。[1] 1914 年から 1916 年まで、彼はプリンストン神学校で学びました。神学に加えて、プリンストン大学の交換留学プログラムを通じて、発生学、遺伝学、比較解剖学、古生物学も学びました。[2]

活動主義

1909年、賀川は宣教師、ソーシャルワーカー、社会学者として活動するつもりで神戸のスラム街に引っ越した。 1914 年に彼は貧困の原因と闘う方法を研究するために米国に行きました。[3] 1916年、彼はこの経験に基づいて『貧しい人々の心理学の研究』を出版し、その中で彼は中産階級の日本人にはそれまで知られていなかったスラム社会の多くの側面を記録した。その中には、不法売春(つまり、日本の合法売春制度の外側)、非公式結婚(前述のカテゴリーと重複することが多い)、子供の養育のために金銭を受け取って殺害する行為などが含まれていた。

賀川は1921年に日本で逮捕され、1922年にもストライキ中の労働運動に参加したとして再び逮捕された。刑務所にいる間、彼は小説『死線を越える 』と『太陽に向かって撃つ』を執筆した。前者はコービーの極貧時代を半自伝的に描いたもの。釈放後、賀川は1923 年の関東大震災後の東京での救援活動の組織化に貢献し、1925 年の成人男子普通選挙の実現に貢献した。

彼は1928 年に日本労働総同盟と全国反戦同盟を組織しました。この期間を通じて、彼は日本の貧しい人々に福音を伝え、女性参政権を主張し、平和的な外交政策を訴え続けました。 1926 年から 1934 年の間、彼は神の王国運動を通じて福音主義の活動に焦点を当てました。

アーサー・ミラーは、 1935年にアナーバーにあるミシガン大学のヒル講堂で賀川が福音主義の講義を行っているのを聞いたときのことを書き、彼を「崇高な商人」と評している。[4]

1940年、賀川は日本の中国占領について中華民国に謝罪し、この行為で再び逮捕された。釈放後、彼は米国と日本の間の戦争を阻止しようとする無駄な試みとして米国に戻った。その後日本に戻り、女性参政権獲得の努力を続けた。日本の降伏後、賀川は日本暫定政府の顧問を務めた。

賀川はアルバート・アインシュタインとともに、1950年から1951年にかけてスイスのジュネーブのパレ選挙区で開催された世界人民大会(PWC)、別名人民世界制憲議会(PWCA)のスポンサーの一人であった。[5] [6]彼はまた、世界憲法起草のための会議を招集する協定の署名者の一人でもあった。[7] [8]その結果、人類史上初めて、地球連邦憲法を起草し採択するための世界制憲議会が召集されました。[9]

賀川は生涯に150冊以上の本を書きました。彼は 1947 年と 1948 年にノーベル文学賞にノミネートされ、1954 年と 1955 年にはノーベル平和賞にノミネートされました。 [10]

健康と死

1955年3月、大阪で賀川さんは心臓の悪化で倒れ、2週間寝たきりとなった。家族や同僚の懸念にもかかわらず、彼は執筆、説教、プロジェクトの監督、ゲストの接待などを続けた。賀川の病状は年々悪化し、1959年に再び高松の聖路加病院に3か月入院した。香川さんは松沢にいるほとんどの期間、自宅で寝たきりだった。彼の健康状態は4月中旬から徐々に改善したが、その後再び悪化した。 4月23日、賀川さんは3時間ほど意識を失ったが、目覚めて妻や周囲の人たちに微笑みかけ、最後の言葉は「世界平和と日本の教会のために頑張ってください」だった。[11]

同胞団の経済学

賀川の経済理論は、著書『同胞団経済学』で表現されているように、キリスト教会、協同組合運動、平和運動が「強力に機能する統合」で団結し、資本主義、国家社会主義、ファシズムに代わる実行可能な選択肢を提供することを提唱した。[12] 協同組合運動における賀川の活動は、1921年にコープこうべ、灘生活協同組合(後にコープこうべと合併)、京都生活協同組合など、いくつかの生活協同組合を設立することであった。 、東京学生生活協同組合、東京医療生活協同組合。[11]

レガシー

死後、賀川は日本で二番目に高い栄誉である瑞宝勲章を授与された。アメリカ福音ルーテル教会は4月23日に社会の刷新者として彼を追悼する。賀川はまた、聖公会(米国)の典礼暦と長老教会(米国)の暦でも同日に祝祭日を与えられています。 [14]

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940713 No.7292

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>>7291

Q Research Japan/Nihon #21より

選民思想は優生学に繋がる

優生学

https://ja.wikipedia.org/wiki/優生学

優生学(ゆうせいがく、英: eugenics)は、「優良な遺伝形質」による人々の向上を目指す学問[2]、思想[3][4]・哲学[3][4]・運動[4][5]、疑似科学などを指す言葉[6][5][7]。ダーウィンの進化論に影響されたフランシス・ゴールトンが主導した[2][注 1]。

“eugenics”の和訳は「優生学」の他に「優生思想」 [9][10][11]、「優生主義」[12][10][4]。

出典 定義・解説

日本語辞典『広辞苑』 優生学〔…〕人間集団の質的向上を目的に、優良な遺伝形質の保存・改善を研究する学問[2]。

百科事典『ブリタニカ百科事典』 優生学とは、将来の世代の改良のために望まれた遺伝的特徴を選択することであり、典型的には人類を対象とする。〔…〕20世紀前半において、とりわけナチス・ドイツが「社会的に劣等」と捉えた人々の絶滅を促進するために優生学を用いた以降、優生学は科学として破綻した[6][注 2]。

『哲学・思想事典』 優生学〔…〕人間の遺伝的改善や劣化の防止を実現しようとした思想.〔…〕ゴルトンによれば,優生学とは人間の遺伝的質とその改良に関わるあらゆる要因の研究を意味する[3].

『イギリス哲学・思想事典』 優生学(優生主義)とは、19世紀後半のイギリスを震源として〔…〕人間集団の遺伝形質の改善を図ろうとした思想運動をいう[4]。社会ダーウィニズム〔社会進化論〕と優生学、あるいは人種主義とは混同されてはいけないが、これらが密接な関係にあることは指摘されなければならない[13]。

学術誌『学術の動向』の論文「ゲノム編集技術を用いた生殖補助医療における女性の身体のポリティクス」 優生学(eugenics)は、「望ましい性質」と「望ましくない性質」を遺伝概念と結びつけ、子の遺伝的質のコントロールを目指す思想及び実践である。優生学は19世紀末にイギリスで提唱され、その後国際的に普及した。しかし、人種差別や階級差別を遺伝決定論によって正当化したとして、20世紀後半には疑似科学であると批判されるようになった[5]。

学術誌『自然科学』の論文「疑似発生学と個人性」 優生学はアメリカ的大衆文化に影響した(そして今でも影響している)疑似科学だったのであり、人種主義的な反移民法の原因となった[7][注 3]。

ニッポンドットコムで科学史家の米本昌平が言うには、優生学とは、19世紀末から20世紀半ばにかけて多くの先進国で受け入れられてきた考え方で、進化論と遺伝学を人間に当てはめ、集団の遺伝的質の向上や劣化防止を目指す政策論である[14]。優生学の実践には歴史的に、「生殖適性者」に生殖を促すという積極的なものと、「生殖に適さない人」への結婚禁止や強制不妊手術(断種)などの消極的なものがある[要出典]。「生殖に適さない」とされた人々には、障害者や犯罪者、少数民族が含まれることが多かった[15]。

優生学にもとづいた政策は特にアメリカ、ドイツ、北欧、スイス、カナダ、日本で広く実施された[要出典]。日本では「国民優生法(1940 - 1948)」「優生保護法(1948 - 1996)」に基づき、精神疾患やハンセン病患者の断種手術や人工妊娠中絶が行われていた[16][14]。

1980年代から1990年代にかけて、体外受精・着床前診断・出生前診断など、新しい生殖補助医療が利用可能になり、優生学がより強力な形で復活する可能性がある[17][18][19]。近年、ゲノム編集や遺伝子検査などの新技術の利用をめぐる生命倫理的な議論において、これらの技術を優生学と呼ぶべきかどうか、激しい議論が行われている[20][21]。

概史

生殖管理により人種を改良する、という発想は、プラトンにまで遡ることができるが[22]、学問として成立したのは19世紀末から20世紀初頭にかけてであり、優生学(eugenics)という言葉は1883年にフランシス・ゴルトンが定義した造語である[22][23]。ゴルトンは、従兄弟のチャールズ・ダーウィンが1859年に著した『種の起源』から影響を受けた[24]。

優生学の目的は、遺伝による人類の定性的(非定量的)向上[2]、または思想的・哲学的な遺伝の改善や劣化防止等とされる[3]。これらの目標を達成するための手段として、産児制限・人種改良・遺伝子操作などが提案された。優生学は20世紀前半に先進国の多くの有力者や知識人に支持され[25]、その中にはアレクサンダー・グラハム・ベルやジョン・メイナード・ケインズ、ジョージ・バーナード・ショー、セオドア・ルーズベルト、若かりし頃のウィンストン・チャーチルが含まれる[26]。

当時、精神障害は遺伝であると漠然と考えられ、それらの人々は一般の人よりも子供を多く作ると信じられていた。それゆえ精神障害者が増加して逆淘汰が起きると懸念され、それを回避するために優生学的な施策が求められた[27]。 優生学にもとづいた政策が初めて大規模に実施された国はアメリカであった。1907年にインディアナ州で精神障害者への強制不妊手術(断種)を可能にした世界初の法律が制定されたのを皮切りに、多くの州で断種法が制定され、また特定国からの移民制限が行われた[28]。障害者の断種は、カナダ、ヨーロッパ諸国、日本でも実施された。これらの政策は集団の遺伝的な質の向上を目指していた。

優生学は後世において、保守系極右の学問だったと誤解されるが、むしろ自由主義の左派に人気があり、社会変革を求めて多くの社会主義者やリベラル、進歩主義者が優生学を支持した[29][30]。優生学の支持者には、H・G・ウェルズ、マーガレット・サンガー、ハロルド・ラスキやシドニー・ウェッブらのフェビアン社会主義者、マルクス主義の遺伝学者であるJ・B・S・ホールデンとハーマン・マラーがいる[30]。初期のドイツの優生学者の多くは社会主義に共感をもっており、1929年に断種法を制定したデンマーク政府も社会民主主義政権であった[31]。

北欧では1920年代から、福祉国家の水準維持のために社会保障費の負担となる障害者を減らす優生政策が積極的に行われた[32][33]。障害がどの程度遺伝するのか不明だとしても、障害者は子供をきちんと育てられず、子供も親と同様に福祉の世話になるからという理由で、断種が支持された[34][33]。

1930年代、エルンスト・リューディン(英語版、ドイツ語版)が優生学的な言説をナチス・ドイツの人種政策に融合させる試みを開始した。ナチス政権下で、優生学と安楽死と人種主義を結びつけた政策が実行され、多くの倫理的問題を引き起こした[35]。

第二次世界大戦の終結以降も、アメリカ、北欧、日本では、障害者に対する不妊手術や人工妊娠中絶が行われるなど、福祉政策の一環として優生学的施策が続いたが、1970年代以降に優生学は大きく批判されるようになり、「民族衛生」や「絶滅政策」といったナチスの政策と結びつけて認識されるようになり、廃れた[36]。集団に対する優生学・思想は廃れたが、個人の自己決定としてどのような子供を産むかという問題は「新しい優生学」として続いている[37]。

振り返り

>>20305042, >>20305087, >>20305275, >>20305315, >>20305356, >>20310545, >>20310668, >>20310767, >>20310946, >>20310997 ウィンストン・チャーチルに深い感銘を与えたフェビアン協会の会員で SFの巨人、ハーバート・ジョージ・ウェルズを知っていますか?ニューワールドオーダーは、このウェルズという人物の思想が基盤?/フェビアン協会を母体とし、設立されたロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの関係者にはJFK大統領やジョージソロス・デイヴィッドロックフェラー・麻生太郎氏・木原誠二氏もいる

麻生太郎氏は優生思想や選民思想が強いのでは?というか支配層はその思想が強い?

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940713 No.7293

>>7292

初出と定義

ゴルトンは1883年、『人間の能力とその発達の研究』の脚注において、初めて「優生学」という用語を使用している。

優生(eugenic)は、ギリシャ語で何と呼ばれるかというと、「eugenes」、すなわち良い素質を持つ、遺伝的に気高い素質を授けられている、という意味である。これと、様々な関連する用語(「eugeneia」など)は、等しくヒトや動物、植物に対して応用されている。我々は、種の改良の科学を表現するに簡潔な用語をことのほか好むものであり、それらは決して賢明な交配という問題に限られたものではない。しかし、取り分け人類に関して言及するならば、その語はあらゆる作用について我々に気付かせることになる。それは、程度の差こそあれ、より環境に適合した人種や血統に対し、そうでない存在に優先して、より十分な機会を即座に与える作用である。「優生学(eugenics)」という語はそのような概念を余すことなく表現するものであり、それはより洗練された用語であり、少なくとも、私が以前試みに使ってみた「viriculture」という語よりは違和感がないであろう。[38][注 4]

このように優生学(eugenics)の語源は、ギリシア語でeu(良い)、-genēs (誕生)を組み合わせたもので、「良い生まれについての学問」という意味である。 1904年、ゴルトンは優生学を次のように定義した。

人種の先天的な諸特質を改善する、あらゆる様々な影響に関する科学である。そこには究極的に優れた状態へ人間を発達させることも含まれる[39]。

優生政策は歴史的に次の2つのカテゴリーに分けられてきた。

積極的優生学

子孫を残すに相応しいと見なされた者がより子孫を残すように奨励する。

消極的優生学

子孫を残すに相応しくないと見なされた者が子孫を残すことを防ぐ

積極的優生学は、優れた形質を持つと思われた人間を増やすことを目的に、複数の子供を持つ優れた素質を持つ両親を表彰したり、金銭的援助を与えるという手段を採る。消極的優生学は劣った形質を持つ人間に生殖を防ぐものである。

歴史

先駆としての古代ギリシア優生思想

人種改良は、少なくともプラトンまで遡ることが可能である。彼は、人間の生殖活動は国家によって管理されるべきであると考え、次のように記している。

最も優れた男性は、意図して最も優れた女を妻に娶ったに違いない。そしてその反対に、最も劣った男性についても同じことが言える

— 『国家』、プラトン

プラトンは、選択法則に気付いて人々の心が傷つけられるのを防ぐため、偽りのくじ引きで(人為的)選択が行われるべきであると提案している。その他の古代の事例としては、虚弱な新生児を都市の外れに遺棄したスパルタの伝説的な慣行が挙げられる。このスパルタの事例については、のちにエルンスト・ヘッケルも参照している[40]。

ゴルトンの理論

1860年代から1870年代にかけて、フランシス・ゴルトンは従兄弟のチャールズ・ダーウィンの『種の起源』におけるヒトと動物の進化に関する新たな理論と、アドルフ・ケトレーの「社会物理学」から影響を受け、統計学的アプローチに基づき、進化論を独自に解釈した[41]。ゴルトンは“自然選択のメカニズムはいかにして人間の文明によって潜在的に妨げられているか”という文脈において、ダーウィンの研究を解釈し、「多くの人間社会は経済的に恵まれない人々と弱者の保護に努めてきた。それゆえにそれらの社会は、弱者をこの世から廃絶するはずの自然選択と齟齬を来してきた」と論じた。

ゴルトンは、これらの社会政策を変えることによってのみ、社会は「月並みな状態への逆戻り[注 5]」(統計学において彼が最初に作った造語である)から救出することが可能であると考えた。この語は、現在では一般に「平均への回帰[注 6]」という用語に置き換わっている。ゴルトンは、1865年の論文「遺伝・才能・性格」において、初めて自説を開陳し、1869年の『遺伝的天才』において、「天才」と「才能」は人間において遺伝するとした。また、「人間は動物に対して様々な形質を際立たせるために人為選択の手段を用いることが可能であり、そのようなモデルを人間に対して応用するなら、同様の結果を期待することが出来る」として、次のように述べた。

人間の生まれつきの才能は、あらゆる生物界の形質と身体的特徴がそうであるのと全く同じ制約を受けて、遺伝によってもたらされる。こうした様々な制約にも拘らず、注意深い選択交配により、速く走ったり何か他の特別の才能を持つ犬や馬を永続的に繁殖させることが現実には簡単に行われている。従って、数世代に亘って賢明な結婚を重ねることで、人類についても高い才能を作り出しうることは疑いない。

—ゴルトン、『遺伝的天才』1869年、序文[注 7]

ゴルトンは、社会は既に知的に劣った者の出生率が知性に優れた者に勝る状態(すなわちダーウィンの用語で言うところの「カタストロフィー」の状態)にあるとして、逆淘汰の状況に進んでいると主張した。ゴルトン自身は如何なる形での選別方法も提示することはなかったが、もし人々が子孫を残すことの重大性を認識することで社会的規範が多少なりとも変わるならば、いつの日にか解決方法が見つかるであろう、と願った。

ゴルトン以降の理論史

英国の統計学者カール・ピアソンは、学問分野としての優生学を打ち建てることに尽力した[42]。ゴルトンと彼の統計学的方法を継承したピアソンは、「優生学」に対して生物測定学的アプローチと呼んだものを発展させた。それは種の遺伝を記述するために新たな複雑な統計モデルを発達させたものである。

しかし、グレゴール・メンデルの遺伝法則の再発見に伴って、優生学を唱道する2つの学派が現れることになった。その1つは統計学者から、他方は生物学者から構成された。統計学者たちは、生物学者たちは粗雑な数学モデルしか用いないと考え、一方、生物学者たちは、統計学者たちは生物学についてほとんど知識を持たないと考えた。

優生学は、最終的には、出生率に直接影響を及ぼす研究手法を通じて、望ましい形質を持った子供を作り出すために、意図的な選択的生殖に関わっていった

「社会進化論」は、優生学とは分岐していった。両者は知性は遺伝するという点では主張は一致するが、優生学者たちは新しい諸政策は、より「優生学的な」状況へ現状を変える必要があると主張した。他方、社会進化論者たちは、社会そのものは、もし社会福祉政策が機能しなければ(例えば、貧困者は多産であるが、乳幼児死亡率も高いといった具合に)、ゴルトンが危惧した「逆淘汰」の問題を自然に食い止めることが出来たと主張した。

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940713 No.7294

>>7293

フィッシャーと集団遺伝学

ロナルド・フィッシャーは優生学の熱心な推進者でもあり、1930年に出版された『自然選択の遺伝学的理論』では、「集団数(個体群)の増大が多様性を生み、それによって生存の機会の数も増大していく」と述べて後の集団遺伝学の基礎となった。さらにフィッシャーはこの考えはヒトに関しても適用できると述べ、「文明の衰退と凋落は、上流階級の生殖力の低下に帰することが出来る」とした。例証として、1911年のイギリスの国勢調査結果を基に、生殖力と社会階級とに逆関係があると述べた。そして子供の少ない家庭への補助を撤廃する一方、子沢山の家庭に対して父親の収入に比例した補助金を出すことを提案している。これに関してはフィッシャー自身が8人の子供の父親であり、その養育の負担が、彼の遺伝学・進化論的確信を深める原因の一つとする家族や友人達の証言もある。

フィッシャーの理論は、チャールズ・ゴールトン・ダーウィン(チャールズ・ダーウィンの孫)を初め、ウィリアム・ドナルド・ハミルトンの血縁選択説の形成にも影響を与えた。また優生学会は、1929年から1934年にかけて、優生的観点から断種法(結果的には否決されたが)の制定を求めるキャンペーンを、フィッシャーらを中心として行っている。

集団遺伝学者には、J・B・S・ホールデン、ハーマン・J・マラーなどがおり、「改革派優生学」として知られる。

優生学運動(1890年代 - 1945年)

1905年にはドイツ優生学教育協会が設立され、優生学は、急速に世界的な潮流となった[42]。英国では、優生学教育協会(英語版)(1908年)、スウェーデン優生学教育協会(1909年)、そして国際優生学会議(1912年)が続いて設立された[42]。

ゴルトンの資金援助により、ロンドンのユニヴァーシティ・カレッジに優生学の研究部門(1907年)と講座(1911年)が設けられた[43]。

近代において優生学的な考え方を提唱した最初の一人に電話を発明したことで知られるアレクサンダー・グラハム・ベルがいる。1881年にベルはマサチューセッツ州マーサズ・ヴィニヤード島における聾者の人口比率を調査した結果、聴覚障害は自然に遺伝すると結論付け、聴覚障害を遺伝しない結婚を奨励した[44]。ベルは1921年に第2回国際優生学会議の名誉議長を務めた[45]。

優生学と人種研究の科学的地位は、ナチス・ドイツの時代に最も高まったが、その後は急速に失墜した[43]。

第二次世界大戦後

優生学は今では、「人間遺伝学」や「社会生物学」と呼ばれている[43]。1954年に『優生学年報』(Annals of Eugenics)は『人間遺伝学年報』(Annals of Human Genetics)と改名された[43]。また、1969年に『季刊優生学』(Eugenics Quarterly)は『社会生物学』(Social Biology)となった[43]。講座や研究所も同様の改名が行われた[43]。

世界の過去の優生政策

気になるものを一部転載

・優生記録所(1910)

1898年、米国の著名な生物学者であるチャールズ・B・ダベンポートはコールド・スプリング・ハーバー生物学研究所所長として植物と動物の進化に関する研究を開始した。

1904年、ダベンポートは実験的進化を目的とした研究所の創設のためにカーネギー財団から資金援助を受け、カーネギー研究所のなかに実験進化研究所を設立した。1910年に同研究所の付属施設として優生記録所(英語版)が開設され、ダベンポートとハリー・H・ラフリン(英語版)は優生学の普及を開始した。翌1911年のダベンポートの著作『人種改良学』[51]はアメリカ優生学史上に残る仕事であり、大学教科書として使用された[注 8]。翌年ダベンポートは米国科学アカデミーの会員に選出された。

「優生記録所」は数年間に渡って膨大な量の家系図を収集し、不適者達の存在は経済的かつ社会的に劣悪な背景が遠因となっていると結論付けた。ダベンポートや心理学者のヘンリー・H・ゴダード(英語版)、自然保護論者のマディソン・グラント(英語版)などの優生学の信奉者達は、「不適格者」の問題への解決について様々なロビー活動の展開を開始した。ダベンポートは最優先事項として移民制限と断種に賛意を表した。ゴダードは自著『カリカック家』(1912年)において人種隔離を主張し、グラントはこれら全てのアイデアに賛意を表し、かつ絶滅計画も示唆していた。

ダベンポートは、1929年の著作『ジャマイカにおける混血』[注 9]において、黒人と白人の間で生まれた混血の子供は生物学的にも文化的にも劣っているという統計学的な証拠が示されたとした。これは今日では科学的人種差別と見なされ、また当時もトーマス・ハント・モーガンなどから批判された。さらにダベンポートは、ナチス・ドイツの研究所とつながりがあり、ドイツの2つの学術誌(1935年創刊)の編集委員や、1939年には劣等人種の隔離政策にかかわったオットー・レーヒェ(ドイツ語版)に対する記念論文集に寄稿している[52]。

・アメリカ優生学協会

1926年にはハリー・クランプトン、ハリー・H・ローリン、マディソン・グラント、ヘンリー・フェアフィールド・オズボーンなどによって、アメリカ優生学協会が創設された[55]。1926年から1994年までの20世紀後半期の著名な会員には状況倫理の創始者のジョーゼフ・フレッチャー(英語版)、P&G財団のクラレンス・ギャンブル(英語版)博士、産児制限の提唱者で『共有地の悲劇』の著者のギャレット・ハーディンらが含まれる。アメリカ優生学協会は1972年に社会生物学会へと改名された。

・産児制限

一般的に優生学の概念に同意しない立場においても優生学的立法は依然として公益性を有すると主張している人々が存在した一例として、米国産児制限協会創立者のマーガレット・サンガーは優生学に基づいて、産児制限(バース・コントロール)運動を展開した[55]。当時優生学は科学的かつ進歩的な思想であり、人間の生命の領域に、産児に関して科学的な知見を応用するものであると多くの人々から理解されていた。第二次世界大戦の強制絶滅収容所以前、優生学がジェノサイドに繋がる恐れがあるとする考え方は真剣には受け取られなかった。

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940713 No.7295

>>7294

日本

1872年(明治5年)、高杉晋作の義弟である南貞助が海外遊学中に日本人種改良論者になり、やがて英国女性のライザ・ピットマンと「日英混血児を得る」ことを目的に結婚をした事例がある[67]。ライザが日本での生活に馴染めず、人種改良のための結婚生活は失敗に終わった[68]。

1884年(明治17年)、『時事新報』社説記者の高橋義雄は『日本人種改良論』を出版し、日本人と西洋人の雑婚(国際結婚)により優れた子孫を残し日本人種を改良できると主張した[69]。

日本への優生学の影響は20世紀初頭には既に現れた。雑誌『人性』(1905年(明治38年) - 1918年(大正7年))に欧米優生学(民族衛生学)の紹介が見られる。

1910年代には、海野幸徳『日本人種改造論』1910年(明治43年)[70][71]、澤田順次郎『民種改善 模範夫婦』(1911年(明治44年))[71][72]、氏原佐蔵『民族衛生学』(1914年(大正3年))[73]が書かれた。

1916年(大正5年)に保健衛生調査会が内務省に設置され、ハンセン病者への隔離を実施し、断種政策とも関連が深い癩予防法の制定へ向けて政府関係者自らが「民族浄化」を叫ぶなどした。

1919年(大正8年)には市川源三を中心に大日本優生会も結成された。

1924年(大正13年)には、後藤龍吉を主幹として雑誌『ユーゼニクツス』(のち『優生学』)が刊行された。

池田林儀は1920年(大正9年)から1924年(大正13年)にドイツでワンダーフォーゲルや民族優生学に影響され1926年(大正15年)に日本優生運動協会を設立、雑誌『優生運動』も創刊した。

1930年(昭和5年)には、永井潜を中心に日本民族衛生学会が結成された。これまでにない大規模な優生学者の団体である。『民族衛生』を刊行し、形態を変えつつも現在にいたっている。この団体は通俗講演会も積極的に行ったほか、優生結婚相談所の開設や映画『結婚十字街』の製作など注目すべき事業も行っている。またアイヌの調査も有名である。

1938年(昭和13年)戦争に対応するため厚生省が作られ、予防局優生課が『民族優生とは何か』など優生政策をすすめた

1940年(昭和15年)、人工妊娠中絶条項は国会の反対で大幅に修正されたものの、遺伝性精神病などの断種手術などを定めた国民優生法が公布された。この法による断種手術は1941年(昭和16年) - 1947年(昭和22年)で538件だった。しかし厚生省の意図とは異なり、当時の「産めよ殖やせよ国のため」の国策に加えて、天皇を中心とする家族的な国家観が強制断種と馴染まなかったなどの理由から、優生的な政策は必ずしも実効を結ばなかったとされる。衆議院議員で神道家の曽和義弌は、1940年(昭和15年)に「民モ昔ニ遡レバ神ノ御末デアル、ソレヲ断種スルト伝フコトハ、……徹頭徹尾猶太〔ユダヤ〕思想デアル」と発言して神国思想から反対した(1940年、昭和15年3月13日、衆議院)[74]。

優生保護法

戦後も優生学の動きは残り、戦後の混乱期の人口抑制を目的として優生保護法が1948年(昭和23年)に全会一致で成立した[75]。

日本社会党は福田昌子、加藤シヅエ、太田典礼を中心に1947年(昭和22年)「優生保護考案」を第2回国会に上程したが、GHQとの折衝に時間をとられ、国会で十分な審議がなされないまま廃案となった。

ついで後に日本医師会会長になる民主党の谷口弥三郎参議院議員を中心とした超党派による議員立法で1948年に優生保護法が提案・採択された。

優生保護法は優生学的見地からの強制断種が強化される原因になったことでも特筆される。当時必須とされた日本の人口抑制による民族の逆淘汰を回避することを提案理由として、子孫を残すことが不適切とされる者に対する強制性を増加させたものとなった。

同法は、らい予防法でハンセン病を新たに断種対象としたほか、1952年の改正の際、新たに遺伝性疾患以外に、精神病(精神障害)、精神薄弱(知的障害)も断種対象とした。1948年から1996年の間に、手続き上本人の同意を必要としない強制不妊手術(第4条、12条)が1万6500件実施された[76]。強制不妊手術の実施数は1950年代末に年1000件以上に達したが、その後、次第に減少し、1980年代にはほとんど行われなくなった[14]。1996年に優生条項を削除する法改正がなされ、名称も母体保護法と変更された。

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940713 No.7296

>>7295

現代の優生政策

集団に対する優生政策は、1980年代以降ほぼ行われなくなり、個人の自己決定に基いて子供の病気を予防するリベラル優生学が実践されるようになった[77]。出生前診断の結果をもとに、個人の自己選択に基づく人工妊娠中絶を行うか、あるいは着床前診断により病気をもたない胚を選択するという形で行われる。

イギリスでは、行政が費用を負担してほとんどの人が出生前診断を受けており、人工妊娠中絶により二分脊椎症は1990年代までに激減した[78]。またダウン症と診断された妊婦の90%以上が、人工妊娠中絶を選択している[79]。

キプロスではβサラセミアという貧血を引き起こす劣性遺伝病の患者が多く、人口の17%が保因者と推定されている[80]。結婚前の保因者検査の義務化や、出生前診断と中絶を推奨する政策により、新規発症者数は1988年以降ほぼゼロになった[80][81]。

1970年以降、ユダヤ人コミュニティに多いテイ・サックス病などの保因者検査が自発的に行われている[82]。正統派ユダヤ教のコミュニティに対してはDor Yeshorim(英語版)という団体が、ユダヤ人に多い劣性遺伝病の保因者検査を提供しており、イスラエルなど様々な国に事務所がある。これらの影響で、病気の頻度は大きく減少した[83][84]。カップルの両者がともに保因者だった場合、破談となることはよくある。ユダヤ教国であるイスラエルでは、費用負担なしで妊娠初期に遺伝子検査を受けるよう推奨され、胎児が遺伝病と診断された場合、自発的に人工妊娠中絶することがある。

中国では「優生優育」政策(簡体字: 优生优育)と呼ばれる障害者の出生率を抑制する優生学的国家政策が行われている[85][86][87]。一人っ子政策(計画生育政策)の柱の1つは「優生」(健康で優れた子供を生む)である。中国優生優育協会[88]、中国優生科学協会[89]が中国政府の下でこの政策を支える社会団体(日本の独立行政法人や外郭団体に近い)として設立されている。2018年11月に中国で世界初の遺伝子操作されたヒトの出産が発表されて国際的な波紋を呼んだ際は中国の「優生優育」などに代表される研究者や政府の都合を優先する中国の組織風土が槍玉にあがった[90]。

2000年代にヒトゲノムが解明された事によって、再び優生学的なヒト遺伝子の選抜が論じられるようになった。これて新たな優生学が誕生しつつあるとの意見がある。例えば、デオキシリボ核酸を用いた遺伝子診断サービスなどが商業化され、自己責任においてそれを利用するなど、個人レベルでの優生思想が、現実問題として現れてきた。今後は、この様な新しい優生学の、倫理問題について考えていく時代となっている。

2000年に採択された国連ミレニアム宣言は、こうしたヒトゲノムや生物工学の倫理的配慮を要請し、同年に欧州連合が採択した欧州連合基本権憲章では、人の選別を目的とした優生学的措置を禁止している[91]。また障害者権利条約も、第10条に障害者差別のない生存権[92]、第15条に医学的実験の禁止、第17条に不可侵性の権利を掲げ[93]、障害者に対する優生学的措置を否定している。

カール・セーガンは、人類がヌクレオチドを自由に並べ替えられるようになり、望み通りの特質をもった人間を作り出せるようになるだろうが、そのような未来は不安なものだと述べている[94]。

サイエンス・フィクション(SF)において

映画『ガタカ』(1997年)は、優生学により人々の能力と地位を決定するディストピア社会を、社会派SFで表現している[95][96]。『ガタカ』は興行的には成功しなかったが批評家には高く評価され、ヒトの遺伝子操作という論争の的となる議論を具体化させたと言われている[95][96]。この映画の「遺伝子差別」のディストピア的描写は、優生学や遺伝子決定論的イデオロギーの社会的受容に対して躊躇や反対をする多くの生命倫理学者や一般人によって引用されてきた[97]。行動遺伝学者のロバート・プロミンは、著書『ブループリント』(2018年)の中で、ガタカは全体主義国家に遺伝子情報が利用される危険性を警告する一方で、民主主義社会では教育や雇用のために人を選ぶ心理テストがすでに実施されており、遺伝子検査が能力主義を促進させるために、バイアスのない方法でテストを補完する可能性を示唆している[98]。

優生思想という用語について

優生思想という言葉は、もともと優生学と同じ意味で用いられていた。すなわち「不良な子孫の出生防止」や「優れた子孫の出生促進」という意味である。当時の新聞などからも裏付けられており、1949年の国会決議でこの言葉が使われた際も、子の出生に限定された意味である[99]。しかし1970年代以降、優生思想は一部で「障害者や病者に対する差別一般」という、本来とは異なる意味で用いられるようになる[99]。これは障害者団体の青い芝の会が、障害者差別を批判するために優生思想をこのような意味で用いたことに由来する[100]。「優生(eugenic)」に対するこのような用法は、日本以外ではあまり見られない独特のものである[99]。

さらに優生思想は、より漠然と「(遺伝や生殖とは関係のない)弱者差別・排除」「人間を序列化する価値観」[100]のような意味で用いられることもあり、いずれも日本独自の用法である[99]。

このような用法は、英語だとエイブリズム(ableism、健常者中心主義)に近く[101]、特に2016年の相模原障害者殺傷事件の後に爆発的に広まった[102]。

横山尊は、優生学史研究において日本の言論がガラパゴス化する可能性があると指摘し、改めて国際的研究の標準が学ばれるべきだと主張している[102]。

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940713 No.7415

Q Research Japan/Nihon #22より

シュタイナー教育って何ですか?

シュタイナー教育

https://ja.wikipedia.org/wiki/シュタイナー教育

シュタイナー教育(シュタイナーきょういく、ドイツ語: Waldorfpädagogik、英語: Waldorf education)とは、ルドルフ・シュタイナーが提唱した「芸術教育」(独: Erziehungskunst)としての実践であるヴァルドルフ教育を、日本で紹介する際に名付けられた[注釈 1]。教育という営みは、子供が「自由な自己決定」を行うことができる「人間」となるための「出産補助」であるという意味で、「一つの芸術」であると考えられている[1]。その思想と実践は、シュタイナーが創設した人間が自らの叡智で人間であることを見出すという神秘的学説・人智学(アントロポゾフィー)によって支えられている[2]。独自のシステムで養成された教師により行われ、教員の法的立場は国や修了した養成組織によりそれぞれ異なっている[1]。カリキュラムや授業内容も公的なものとは異なっており、独特の芸術教育などが知られる。

1919年にドイツ南部ヴュルテンベルク州シュトゥットガルトに初めて学校が開かれた[1]。第二次世界大戦後にその数を増やし、20世紀末時点で世界全体で約780校の姉妹校がある[3]。シュタイナー学校は発祥の地ドイツで最も数が多く、次いでアメリカが多い[4]。シュタイナーの死後、障害児の支援を長年行って高く評価されており、イギリスのキャンプヒル共同体及び関連する活動(キャンプヒル運動)では、学習障害を持つ人々に生涯にわたるケアを行っている[5]。国家が教育を独占していたドイツで私学・代替学校[注釈 2]の可能性を切り開き、教育を豊かにすることに貢献した。アメリカでは近年、公的資金を獲得したチャーター・スクール型のシュタイナー学校が相次いで設立されているが、それにより、特定の世界観を持つ学校に公費を出すことの是非が議論の的になった[4]。シュタイナー教育は自由教育の象徴的存在とも捉えられており、日本では知識偏重の受験教育に対する代替として支持を集めている[6]。日本では実践は受け入れられるが、思想は敬遠される傾向がある[6]。

シュタイナー学校関連年表

1912年 - 隈本有尚により日本に初めてシュタイナーの教育思想が紹介される。

1919年 - 社会三層化運動(1 - 6月)、9月にシュトゥットガルトにドイツの煙草工場に付属する社営学校としてシュタイナー学校(自由ヴァルドルフ学校)が設立される[1]。

1921年 - ケルンに開校。

1922年 - ハンブルク、エッセンに開校。

1923年 - ハーグに開校。

1925年 - ロンドンに開校。シュタイナー死去。

1926年 - バーゼル、オスロ、ハノーファー、ブダペストに開校。

1927年 - チューリッヒ、グロスターに開校。

1928年 - ベルリン、ニューヨークに開校。シュトゥットガルトに最初の補完的教員養成講座[注釈 14]が開かれる[1]。

1929年 - ウィーン、ベルゲン、ドレスデンに開校。

1933年 - ドイツでナチスが政権を獲得。これ以降ドイツ国内の私学の国家化が図られ、シュタイナー学校を含む私立の一般陶冶学校は必要性を否認され、全面的な解体へと向かう[11]。

1935年 - エディンバラに開校。

1936年 - エッセン校が閉鎖。

1937年 - ナチス政権の圧力により、多くのシュタイナー学校が閉鎖。

1941年 - ナチス政権下で最後まで残っていたドレスデンのシュタイナー学校が閉鎖。

1945年 - 第二次世界大戦終了。シュトゥットガルトでシュタイナー学校、教員養成講座が再開[1]。

1973年 - ヴィッテン/アンネンで、4年制の完結的教員養成講座が開かれる[1]。

1975年 - 子安美知子が日本で 『ミュンヘンの小学生』を出版。

1980年代 - ミルウォーキーにアメリカ初の公立のシュタイナー学校が開校。

1986年 - 日本初のシュタイナー学校とされる『ルドルフシュタイナーシューレ富士、JAPAN』が、静岡県富士市で始まる。(全日制ではない)

1987年 - 高田馬場に日本初・アジア初の全日制シュタイナー学校『東京シュタイナーシューレ(現:学校法人シュタイナー学園)』が開校

1994年 - ヴィッテン/アンネンのシュタイナー教師養成機関が、ノルトライン=ヴェストファーレン州との交渉を経て、同校の4年制教員養成課程修了者に対する、シュタイナー学校担任教員としての「暫定的な授業許可」の国家的保証を受けるようになる[1]。

1997年 - 香港に開校。

1998年 - アメリカでシュタイナー学校に公的資金を投入することの是非をめぐり裁判が起こる。

1999年 -シュトゥットガルト自由大学(ドイツ語版)と、その教員養成課程がドイツ国家により認可され、同校の教員養成過程を修了したシュタイナー教育教師は、ドイツにおいて通常の国家的な教員資格を持つものと同じ扱いになった[1]。

2001年 - 小泉内閣の構造改革特区制度を利用して『東京シュタイナーシューレ』が学校法人化、『学校法人シュタイナー学園』となる

デジタルエリートに大人気の教育法は超アナログだった!シリコンバレーで広がる”脱テクノロジー”な子どもの育て方

2014.01.31

https://greenz.jp/2014/01/31/elite_education/

「シリコンバレーのデジタルエリートたちの間で非常に人気がある教育法」と聞くと、どんなものを思い浮かべますか?きっとiPadやITを駆使した、次世代のデジタル英才教育…と思いきや、実はうんとアナログな教育法なのです。その教育法とは、ウォルドルフ教育。日本では「シュタイナー教育」といったほうがなじみがあるかもしれません。オーストリアの思想家ルドルフ・シュタイナーによって体系化された教育法で、取り入れられている遊び道具どはれも自然素材。プラスチック製品はもちろん、テレビやコンピュータ、スマートフォンといった電子機器は一切排除されます。

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940713 No.7416

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>>7415

鳩山友紀夫氏もヴァルドルフ/シュタイナー教育100周年の際にメッセージを送っている

https://waldorf.jp/100th/message/hatoyamayukio/

鳩山友紀夫さん

東アジア共同体研究所理事長

この度はヴァルドルフ/シュタイナー教育100周年誠におめでとうございます。世界の人々に真の教育をお与え下さったことに感謝を申し上げ、心からお慶び申し上げます。

私が初めてシュタイナー教育のことを伺ったのは、政治家になって数年経った頃、初等科の恩師の小野田三男元学習院初等科長のご自宅を訪問したときでした。小野田先生からシュタイナー教育を勉強したらどうかと示唆をいただいたのでした。そこでシュタイナー教育に関する本を何冊か買って読んでおりましたら、誠に偶然はないと思うのですが、なんと私の高校時代の同級生の大村祐子さんが、私の選挙区の中にあります伊達市に人智学共同体「ひびきの村」を立ち上げられたのです。そこで彼女はシュタイナー保育所から幼稚園、小、中、高等学校、個性ある子どもたちのためのラファエル・スクール、更には大人のためのミカエル・カレッジを始められました。

….

こんな書籍も出ているようです

改訂版ルドルフ・シュタイナーと出口王仁三郎の符合Ⅰ: 弥勒菩薩とキリストの再臨編 (神秘家たちの符合シリーズ)

本書は、2009年に出版した「ルドルフ・シュタイナーと出口王仁三郎の符合」から、「弥勒菩薩の下生」と「キリストの再臨」についてのみ、新たに詳細な考察を加えて改訂したものです。

 シュタイナーは1911年頃の講演活動において、20世紀初頭に弥勒菩薩が転生してきていることを何度も語っていました。その理由の一つは、当時在籍していた人智学協会において、シュタイナーが霊的に認識していた弥勒菩薩の特徴とは全く異なる人物を菩薩とする人々が現われたことでした。ただし、この霊的認識の過ちに対して、シュタイナーがそれを徹底的に否定した理由は、それだけではなかったのです。それはシュタイナー自身の霊的洞察において、この弥勒菩薩の存在は、今後2500年間における人類の魂の進化のために必要な、極めて重要な『霊的認識の鍵』が握られていることを感じ取っていたためだったのです。それの要点は、おおよそ次のようなものです。

・キリストと釈迦(仏陀)、弥勒菩薩は、霊的次元で深く結びついていること。

・20世紀初頭に転生する弥勒菩薩は、30歳を過ぎてから自らの力で教えを広めること。

・転生した弥勒菩薩は、エーテル界へのキリストの再臨を準備し、それを告げる存在であること。

・世界的大戦争の末に、新約聖書の中でキリスト自らが預言していた再臨が果たされること。

・人智学協会においても弥勒菩薩を探し出し、キリストの再臨を学ぶことが課題であること。

・今世におけるキリスト再臨の理解が、死後や来世にキリストを明視する道を開くことになること。

・キリスト再臨の理解が、今後2500年間の人類の霊的進化の最重要点の一つであること。

・3000年後に仏となる弥勒菩薩から、人類の指針となる霊的な教えを学ぶ必要があること。

 そのため、このことは当時の人智学協会においてはもちろんのこと、私たち個々人にとっても死後に高次の霊的世界(天国)に至り、キリストを明視する可能性を開くことになる最重要テーマの一つだったのです。同時に、全く異なる人物を弥勒菩薩とすることは、こうした可能性を阻む障害となる誤謬として、断じて放任できないことだったのです。

 

 また、その当時キリストの再臨を予言していたのは、シュタイナーだけではなく、複数のスピリチュアリストや心霊研究家、宗教指導者によっても語られてきた霊的な共通認識でもあったのです。

 では、そのキリストの再臨を成就するとされる弥勒菩薩とは誰なのか?

 シュタイナーの証言を詳細に調査して行くと、それは大本の出口王仁三郎以外考えられないほど、多くの符合が見つかるのです

https://the-spirit-world.sakura.ne.jp/index.html

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940713 No.7417

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>>7415

ルドルフ・シュタイナー

https://ja.wikipedia.org/wiki/ルドルフ・シュタイナー

ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner, 1861年2月27日 - 1925年3月30日(64歳没))は、オーストリアやドイツで活動した神秘思想家、哲学者、教育者である。ゲーテの自然科学論や学芸雑誌の編集に携わりながら、前衛的な団体やアナキズムの傾向をもつ人々と関係するようになり[1]、ニーチェ主義的な[2]自由思想の立場に至るが、神秘思想の講演者に転身し[3]、人智学[* 1]と称する精神運動を創唱した[2]。人智学運動は神智学協会の神智学運動から派生したものであるが、インド思想に傾倒した神智学協会よりもキリスト教神智学に近い性格をもっており[6]、ロマン派の自然哲学[7]、グノーシス、薔薇十字思想の流れも汲んでいる[8]。

カール・グスタフ・ユング、パウル・クレー、アルベルト・シュヴァイツァーにも影響を与えた[9]。ドイツ哲学研究者の三島憲一は、1970年代以降のドイツで緑の党に集まった知識人たちのなかに人智学に学んだ人々が多い[* 2] と述べているが、その一方で、1920年代にヴァルター・ベンヤミンはシュタイナーについて「前近代への願望でしかないと見て深く軽蔑していた」(三島 2002 : 596)とも指摘している[10]。

人物と業績

20代でゲーテ研究者として世間の注目を浴びた[11]。1900年頃からドイツの神智学サークルと関係するようになり、神智学徒たちの集まりで講演を行うようになった。1902年に神智学協会の正会員となり、同年ベルリンで「神智学協会ドイツ支部」が設立されると、その事務総長(書記長)に選ばれた。1912年に同協会を脱退し、友人らによって設立された人智学協会(アントロポゾフィー協会)の指導にあたった。晩年の1923年末には「一般人智学協会」(普遍アントロポゾフィー協会)を創設してその代表に就任し、亡くなるまで活動を続けた。人智学について多くの著作を物し、物質世界を超えた超感覚的世界(精神界)に関する事柄を語った。その思想の詳細は、ヨーロッパ各地で行われた生涯6千回にも及ぶ講演を通じて明らかにされた。そのテーマは教育、芸術(オイリュトミーと呼ばれる舞踊など)、医学、農業、建築、経済など、多方面にわたった。シュタイナーの著作や講演集は現在も継続してドイツ語で出版され、版を重ね、外国語にも翻訳されている[12]。

ヨーロッパの秘教伝統のなかでもとりわけ重要な人物とみなされている[12]。ドイツの観念論とロマン派の影響下でみずからの思想を形成し[13]、ドイツ近代哲学の認識論の系譜を引いている[14]ほか、ドイツ神秘主義の影響も受けた[2]。また、教育学者の菱刈晃夫によると、シュタイナーはヨーロッパ中世・ルネサンスから続く「魔術」の水脈を受け継いでいる[15]。三島憲一の説明によると、ゲーテの自然科学論の影響下でシュタイナーが展開したのは、当時さまざまに模索されていた総合知のひとつのかたちであり、その背景には新プラトン主義、ドイツ神秘主義、ヨーロッパの古典的な自然科学があった。シュタイナーは宇宙の精神とむすびついた人間の内なる霊性についての認識の基礎づけを図り、また、近代社会の諸問題の克服に向けた調和への道筋を探った[10]。

一貫性のある完璧に整えられた生活スタイルを提唱しており、オーラの色から台所の棚の色までこまごまと生活の指導を行い、追随者たちに精神生活から食事まで影響を与えた[16]。

環境問題が切迫した課題になった現代では、多くのスピリチュアルな組織や指導者が、精神的な課題として環境保護に注目するようになった[17]。環境問題に関心を持っており、その思想の中心はエコロジーと宗教が占めていたため、現代の時流とうまくマッチした[17]。また、神秘思想としては珍しく、教育、農業、治療といった実用的・世俗的な実践のノウハウを確立させていたため(神智学と大きく異なる点である)、シュタイナーの思想は現代で復活した[17]。シュタイナーの遺したさまざまな構想は、特にドイツ語圏の国々で、小規模とはいえ存在感をもって実践され続けている[12]。現代の人智学協会の活動はさほど活発とも言えないが(主要メンバーは年配者である)、時代に乗って環境運動を成功させ、有機農業・伝統事業といった生態環境的観点に適う企画に低利率で資金を貸し付ける銀行を設立し、人智学運動は教育、治療および医療まで手を広げた[17]。教育の分野においては、ヴァルドルフ教育(シュタイナー教育)が代替教育として広く普及し、日本でも、世界のヴァルドルフ学校の教員養成で学んだ者を中心に実践されている。現代の人智学協会の影響は、活動の規模よりもかなり大きい[17]。その一方、The Skeptics Society(懐疑派協会)の創設者でサイエンスライターのマイケル・シャーマーなどの現代の批評家は、人智学の生物学、医学、農業などを偽科学と批判している[18][19]。

霊的な知識(精神科学/霊学)

詳細は「人智学」を参照

「アカシックレコード」も参照

人間の持っている通常の五感では事物の表面しか捉えることができず、五感を超えた高次の感覚(霊的感覚、超感覚的認識)によって初めて事物の本性を把握することができるという。シュタイナーは透視能力を持っていたといわれ、それによって得た超感覚的世界の実相に基づいて人智学を創始して、人類の霊的向上を促そうと啓蒙を行った[20]。シュタイナーは、物質偏重に傾きすぎた今の文明の在り方を正すために、古代から受け継がれた秘教的・霊的知識を総合し、万人に公開し、それを近代的認識批判の立場からも受け入れられる言葉で語ることが必要と考えた[20]。近代神智学から受け継いだ伝統的な東西の秘教の教義をバックボーンに、整合性と合理性のある体系を作り上げた[20]。ミドルセックス大学のピーター・ワシントンは、人智学についてこう解説している。

人間の存在とは感覚的な存在と感覚を超越した世界が統合されている存在で、この点で人間は動物や天使と違っている。感覚を超越した領域には客観的な実体があり、現象世界も同様である。人智学はその二つの間の人間の位置を研究する学問である。これは絶対に我々が持つことのできない神々の知恵ではなく、人間の慎ましい知恵であり、むしろ人間についての知恵というべきものである[21]。

彼は近代神智学の創始者ヘレナ・P・ブラヴァツキーのような純粋な霊媒ではなく、見霊能力者(透視能力者)であると同時に、「自然科学者の目と哲学者の論理的思考能力、それに芸術家の文章構築構築力」を備えており、神秘学を学問として成立させようとした[20]。そのために、神智学協会の「マハトマ」のような、教祖にしか把握できず、教祖を介さなければ接触できないような神秘的存在を遠ざけた[20]。霊媒や降霊術等の、理性的な思考から離れて感情に没入する“神秘主義”については、科学的でなく、まちがった道であると警鐘を鳴らしていた。

人智学が一つの学問になるためには、全ての人が彼の言う「超感覚的認識」を持つ必要があるが、シュタイナーはそれが誰にでも獲得できる能力であると考え、霊的な教師のための精神教育の確立を重視し、人智学の方法に従った修行、特にその「瞑想」と「集中」の行を毎日15分間行いさえすれば、自然と見霊能力が発現すると主張した[20][21]。この点によって、シュタイナーは従来の神秘主義と一線を画している[20]。霊的な事柄についても、理性的な思考を伴った科学的な態度で探求するということを重要視していた。人智学は神智学から心霊科学という概念を受け継いでおり、シュタイナーの言う科学は、一連の知識、明確なひとつの方法論を意味している[21]。自著『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』では、具体的な霊的体験を得るための修行法について記しているが、第二部を作る前に世を去った。

神智学の「ロード・オブ・ダーク・フェイス(黒い顔の主)」という、「グレート・ホワイト・ブラザーフッド・オブ・マスターズ(大いなる白き同胞団)」と闘争を続ける悪霊という漠然とした概念を明確に定義づけし、人類の主な敵は傲慢の霊ルシファーと物質主義の霊アフリマンで、ルシファーは人間は努力すれば人間の限界を超え霊的能力を持てるという身の程知らずな考えに陥らせる霊で、アフリマンは、現代科学・技術の最高神で、人類が精神と五感の領域だけを信じ霊的な面を拒むように仕向けると考えた[22]。1914年に戦争が起こると、シュタイナーは戦争を起こしたのはダーク・フォースだと主張した[23]。また、国家の運命は宇宙の計画の一部としてあらかじめ定まっており、各国には世界進化のために果たすべき役割があり、ドイツ人はその最も高度な点に関わっていると考えていた[23]。国家はそれぞれ天が遣わした大天使が導いており、大天使はその国の民族精神とも言うべき存在だという[23]。

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940713 No.7418

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>>7417

社会改革

人類史上初めての世界的戦争である第一次世界大戦後の最中にあって、戦争をはじめとした社会問題の解決策として、「社会有機体三分節化」運動を提唱した。社会を有機体として捉え、精神生活(文化)、法生活(政治)、経済生活の三つの部分が独立しながらも、精神生活においては「自由」を、法生活(政治)においては「平等」を、経済生活においては「友愛」を原則として、この3つが有機的に結びつくことが健全な社会のあり方であると説いた。当時のドイツの外務大臣を初めとする国家の指導者たちに提案するも、政治的に採用されるには至らず、長い間顧みられなかった。1970年代後半頃から再び検討されるようになり、1980年代の西ドイツの緑の党 (Die Grünen) の創立理念に影響を与えた。

キリスト教

シュタイナーは独自の宇宙論の中でキリスト存在の中心性を重視した[12]。神智学協会はすべての宗教の本質は同一であるという立場を取っていたものの[6]、なかでもインド思想を偏重しており、それに比べるとキリスト教は他の一宗教に過ぎなかった[2]。神智学協会内でシュタイナーの支持者と主流派との間に対立が起こったのも、そうしたキリストに対する立場の違いに起因していた[12]。シュタイナーは人間の肉体を持ったキリストとキリストが亡くなる3年前に彼の肉体に入った聖霊を区別していたため、ジッドゥ・クリシュナムルティが聖霊キリストの最後の生まれ変わりであり最上の人間であるというチャールズ・ウェブスター・レッドビータの主張を、受け入れることはできなかった[24]。また、シュタイナーのキリスト論はキリスト教の主流派からは認められない異端的なものであり[12]、人智学は神学者たちからも厳しく批判された[2]。

キリスト者共同体

シュタイナーの弟子であったルター派の牧師フリードリヒ・リッテルマイアー(ドイツ語版)の主導で、1922年、シュタイナーの特異なキリスト教思想に基づく「キリスト者共同体」が設立された。運動の中心は司祭の養成学校のあるドイツのシュトゥットガルトで、イギリス、オランダ、スカンディナヴィアにもある。この団体は普遍アントロポゾフィー協会から独立した宗教組織で、シュタイナーはこの組織に属さないで外部から司祭たちに助言を与え続けた。

気になった箇所

・シュタイナー医学から、シュタイナーの理念に基づいて自然の原料のみを使った化粧品や食品を製造している会社「Weleda」(ヴェレダ)が生まれた。

・ホメオパシーとの関係が深い。由井寅子の日本ホメオパシー医学協会は、シュタイナーが思想にホメオパシーも取り入れていることから、シュタイナー教育関連者にホメオパシー実践者も多いと述べている[31]。

・子どもの予防接種に否定的で、シュタイナー医学信奉者の集まるシュタイナー学校が感染症のアウトブレイクを幾度も引き起こしている。

・シュタイナーは、有機農業を地球次元だけにとどまるものと考え、天体の動きなど宇宙との関係に基づいた「農業暦」にしたがって種まきや収穫などを行い、自然そして超自然との調和を目指す独特の農業を提唱した。背景には西洋占星術的な世界観、農民の伝承文化の尊重と近代科学批判などがある。

幼少時代(ウィーン以南のオーストリア各地、1861年-1872

1861年2月27日、オーストリア帝国国境近くの町クラリェヴェク(現クロアチア)にて、オーストリア南部鉄道の通信技師として働く鉄道公務員ヨーハン・シュタイナーとその妻フランチェスカの第一子として誕生[11](両親は低地オーストリア出身で、前年5月16日に結婚)。

1862年、メートリングへ転居。

1863年年頭、半年で、ポットシャッハへ転居。8歳まで生活する。妹レオポルディーネと弟グスタフが生まれたのもこの土地である(家族は合計5人)。

1868年、物質界を超えた超感覚的世界を感知するようになったという。

1869年、父親の転勤で、ノイデルフルへ転居する。

1870年、学校の代用教員に幾何学に関する本を借り、幾何学に魅了される。

1871年、カトリック教会のミサに出席し、大きな感銘を受ける。教区のリベラルなカトリック神父を通して地動説を知る。フリーメイソンリーの支部に出会う。ノイデルフルから5km離れた隣町ウィーナー・ノイシュタットの医師カール・ヒッケルを通してドイツ文学を知る。駅にある無線電信で電気を知る。読むことは問題なかったが、正しく文字を綴ることに苦労する。

1877年、カントの『純粋理性批判』を購入。またヘルバルト主義的哲学の研究にも没頭する。

1904年、5月、『神智学 - 世界についての超感覚的知識と人類の目的への序文』 (GA9) を出版。それまでは自身の世界観を明らかにしていなかったが、この著作によって自身の思想の根幹を初めて公にした。雑誌『ルツィファー』はウィーンの雑誌『グノーシス』と合併して『ルツィファー=グノーシス』に改名。

1905年、1月21日、同校指導部からの妨害により退職。

5月7日、神智学協会の創始者ヘレナ・P・ブラヴァツキーについて「霊的使命を持った人物は人々から生涯の外的側面によって判断されるため必然的に、はじめは誤解を、否、誹謗を受けざるを得ない」という旨を述べる。

1907年、神智学協会会長であるヘンリー・スティール・オルコット(1832年-1907年) が2月17日に死去し、アニー・ベサントが第2代会長に就任する。

1911年、1月、アニー・ベサントは養子のインド人少年ジッドゥ・クリシュナムルティ(1895年-1986年)をトップとする「東方の星教団」をインドで設立。ベサントの右腕チャールズ・W・レッドビーターが彼を見出して教育し、“来るべき世界教師”が降臨するための“乗り物”であるとされた。

死後

1928年、第二ゲーテアヌムが完成。

国家社会主義(ナチス・ドイツ時代)人智学はさまざまな規制を加えられた。

1933年11月15日、国家社会主義のテューリンゲン州の経済相は、生物学的力動的(バイオダイナミック)な生産方式の宣伝普及を禁止した。

1935年11月1日、ドイツのすべての普遍アントロポゾフィー協会が、ラインハルト・ハイドリヒ の訓令により禁止された。

1992年、日本アントロポゾフィー協会(東京)でも精神科学自由大学の活動(クラッセン・シュトゥンデ)が始まる[38]

2000年5月、日本で「日本アントロポゾフィー協会」が設立される(2002年11月、NPO法人として認証を受ける[38])。

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940713 No.7419

>>7418

日本への紹介

1912年、明治・大正期に教育界で活躍した隈本有尚(1860年 - 1943年)による「宗教的、道徳的情操の教養上見神派の心理学の応用」(1912年、『丁酉倫理会倫理講演集』)によって、シュタイナーの教育思想が日本に紹介された[39]。

1925年から14年、ドイツ人哲学者フリッツ・カルシュが旧制松江高等学校(現島根大学)にて教鞭を執っていたが、その授業の中で人智学を教えている。カルシュはマールブルク大学在学中にゲーテアヌムでシュタイナーと直接会ったのをきっかけに人智学に傾倒しており、人智学に関して綴ったノートを妻エッメラ宛に送っている。また、長女メヒテルトは関連文献の英語訳者として活動、次女フリーデルンはマールブルクのシュタイナー学校に通い、自由ヴァルドルフ学校でシュタイナー教育に従事、日本人親子を指導したとされる[40]。

1920年代には、シュタイナーの設計した「ゲーテアヌム」を現地で見て感激した早稲田大学の今井兼次教授によって、日本の建築関係者達の間で知られるようになった。

1970年代頃から、娘の教育のため、家族でドイツに留学した早稲田大学教授の子安美知子が『ミュンヘンの小学生 : 娘が学んだシュタイナー学校 』(中公新書 1975年)を初めとした一連の教育体験報告が反響を呼び、新しい教育方法としてシュタイナー教育が注目された。

1970年代後半になって、哲学関係の出版社「イザラ書房」がシュタイナーの翻訳出版(『神智学』1977年)を始める。

1996年には、NHKのNHK衛星第2テレビジョンの「素晴らしき地球の旅」という番組で、シュタイナー教育を行うヴァルドルフ学校が紹介された。

また、イタ・ヴェーグマン医師とシュタイナーが共同で創始したシュタイナー医学に関しては、2004年春から、「ゲーテアーヌム精神自由大学」の主催で医師向けの専門的な訓練が日本国内でも開始されており、2005年5月5日には「日本アントロポゾフィー医学のための医師会」が設立された。

2000年・2001年には、東京と大阪で、シュタイナーが生涯を通じてひそかに書きためていた600冊のノートを分析して思想を探り、うち100冊を公開する展覧会が開催された。(4月14日から8月27日は東京のワタリウム美術館で、2001年3月3日から4月5日はKPOキリンプラザ大阪で開催。)翻訳はシュタイナー研究者・人智学徒の高橋巖。[41]

シュタイナーを評価した人々

ブルーノ・ワルター - 指揮者。晩年アントロポゾフィー協会に入会した。

ヴィクトル・ウルマン - 作曲家

ソール・ベロー - カナダ出身のノーベル賞作家。

ヨゼフ・ボイス - 芸術家。

マイケル・チェーホフ - ロシアの名優。革命後アメリカに渡りユル・ブリンナー、グレゴリー・ペックなどハリウッドの俳優を教育した。ロシア時代にシュタイナーの影響を強く受けている。

ミヒャエル・エンデ - シュタイナー学校に2年ほど通い、キリスト者共同体にも関係していた。シュタイナーから思想的に影響は受けているけれども、芸術に関してはシュタイナーとは意見を異にすると語った。

今井兼次 - 建築家。ゲーテアヌムに感銘を受け、日本に紹介。

笠井叡 - 舞踏家・オイリュトミスト。シュタイナー学校に留学し、帰国後、ワークショップや翻訳などシュタイナー思想の普及活動に従事する。

江原啓之- スピリチュアルカウンセラー。スピリチュアリズムをアカデミックな思想として確立させたいとしている[42]。

雁屋哲 - 漫画『美味しんぼ』の原作者。子どもたちをシドニーのシュタイナー学校に通わせ、シュタイナー教育を高く評価している[43]。ただし、シュタイナー教育の背景にあるシュタイナーの神秘思想は、宗教思想同様に理解し難いとも述べている[44]。

日本では、一昔前にシュタイナー教育が流行した影響もあり、日本の人文学系の大学の研究者にはシュタイナーの信奉者がかなり存在しているが、その思想や世界観の全体像は、必ずしも明確に理解されているわけではない[45]。

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940713 No.7420

>>7416

神秘的なものや霊的なものは、証明できないしどうとでも話を作れるし、洗脳ツールとしては好都合で悪用されやすい思想なのではないだろうか

スピリチュアルブームがあったのは(今もあるのか?)、かなり強力で厄介な洗脳なのではないか?どこかの誰かが指示しなくとも、思想を各々が都合よく改変して広げてしまうようなカルト蔓延時代なのかもしれない

ロマゾフィー協会事件

https://ja.wikipedia.org/wiki/ロマゾフィー協会事件

ロマゾフィー協会事件[1][2](ロマゾフィーきょうかいじけん)とは、霊能団体・新宗教団体を自称していたグループ「ロマゾフィー協会」が2010年に引き起こした事件である。

沿革

2002年設立。ロマゾフィーとは「想智学」の意で、ルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーを基礎に発展させたもの[3]と代表者は主張していた[4]。代表者は幼少時から霊の存在を認識していたと主張しており[5]、武蔵大学の日本文化学科を卒業後は共済組合や出版社に勤めた後[6]、1995年から本格的な修業を始めた。この頃、手術で全身麻酔をかけられたことが霊的覚醒につながったと主張している[7]。2000年には元OLと結婚、自らを代表、妻を副代表として協会を設立した[8]。協会設立後は各地で霊能・除霊などの研究・啓蒙・普及と称した活動を開始した。

2009年頃から代表は「ミニスカは霊的に正しい力がある」「ミニスカの着用で地震が減る」と主張、女性信者にミニスカートを着用させるようになり、独特の服装の信者が出入りする代表夫妻宅は近隣住民からも奇異の目で見られるようになっていた[9][10]。

事件

2010年9月、会員の女性に対する傷害容疑で代表夫妻が逮捕された。被害女性は2007年に入会、2009年10月以降は夫妻宅に住み込み、家事を行っていたが、11月頃から夫妻は家事がいい加減だとして常習的にこの女性に暴力を加えるようになった。2011年4月には50cmの木の棒でこの女性の腰や尻を4時間にわたり、数十回殴った。全治2週間の怪我を負った女性は夫妻宅を脱出、田園調布署に逃げ込み、事態が発覚した[11]。代表は当初妻がやったことと主張、妻は「尻に活を入れた」「しつけ」などと主張していたが[12]、後に代表も暴行に加わったことを認めた[13]。

この逮捕と前後して「ロマゾフィー協会被害者の会」が結成され、夫妻が暴力と脅迫で信者を支配する協会の実態が明らかとなっていった。夫妻は最初の逮捕容疑に加え、脱会した元信者から返金を迫られ、男性幹部から計1357万円を脅し取り返金に充当していた事例[14]や、女性会員に暴行を加え、この女性に当時の勤務先を退職し、家事に専念するよう強要した事例[15]でも追及を受けることになった。信者の証言によれば、暴行には夫妻の子供も加わっていたという[9]。霊視や除霊ができるという代表の主張も全て嘘だったことも判明した[16]。

2011年3月、東京地裁は代表に懲役4年6月、妻に3年6月の実刑判決を言い渡した[17]。事件をめぐっては以前協会に籍を置いていた声優のチャン・リーメイが一時活動を自粛したり[18]、代表の著書を出版していた出版社が著書販売を取り止めるなど、副次的な影響も出た。

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940713 No.7421

>>7420

無宗教の日本人が「スピリチュアル」にはまる謎

2000年以降の江原啓之ブームは何だったのか

https://toyokeizai.net/articles/-/687794

2023/07/21

――日本で「癒し」や「スピリチュアル」という言葉がはやり出したのはいつ頃でしょうか。

日本では1970年代からオカルトやニューエイジ、精神世界と呼ばれる、宗教団体と一線を画したブームが起こりました。1995年のオウム真理教事件を経て下火になるかと思いきや、2000年代にはテレビ・書籍を中心にスピリチュアル・ブームが起こります。

その象徴的な存在はスピリチュアル・カウンセラーの江原啓之氏です。ピークは2007年あたりで、その後、江原氏がテレビ出演を控えたのでブームは衰退したように思われています。しかし、出版やネットユーザーの動向を見る限り、2011年の東日本大震災以降にも関心の高まりがみられます。

つまり、テレビとは異なるメディアを通して、拡散と深化は続いているのです。

――2000年代初頭は江原氏が芸能人を霊視するテレビ番組「オーラの泉」が放送され、一般にスピリチュアルという言葉が定着したように思えます。

年に2度ほど放映された特別番組「天国からの手紙」も、故人となった霊のメッセージを江原氏が遺族に伝えるという内容でした。このような能力をもつ存在は、従来なら「霊能者」「霊能力者」と呼ばれてきましたが、江原氏は霊という文字の暗いイメージからの脱却を図るため、自らを「スピリチュアル・カウンセラー」と呼びます。

江原氏は集団を組織する権威主義的な「宗教」とは距離を置きます。心理学用語やカウンセリングという言葉を用いながら、個人カウンセリングは行わず、メディアを活動の中心としました。「スピリチュアル」をキャッチフレーズとした生活に役立つ商品(聖地の旅行ガイド、音楽作品、ダイアリー、育児書など)を販売しました。

…中略

オウム事件によって宗教への警戒心は高まったが、新たに「スピリチュアル」という言葉が「霊を信じるが無宗教」という層の受け皿になった

…中略

――癒しやスピリチュアル、ヒーリングなどさまざまな言葉が使われているのはなぜでしょうか。

ネット上では「スピリチュアル」が虚偽や詐欺、信じやすさというイメージで批判されるため、当事者がスピリチュアルという言葉を使うのを避けています。特に彼らは宗教と同一視されることを恐れます。

耳に心地よいスローガン的な言葉が登場しても、世間に流布すると「宗教」と同様ではないかとたたかれて廃れていき、別の言葉に取って代わられる。その結果、さまざまなニュアンスの異なる言葉が乱立することになります。

人々を思考停止にさせるための新しいツールとして、スピリチュアルという洗脳兵器が作られ、その言葉が警戒されると今度は別の表現が現れるってことか…

心地よい言葉や、癒しのような言葉ばかり聞いているうちに、現実の問題を考えることから逃げるようになる。現実の問題を直視することはとても苦しいこと。でも、スピリチュアルは楽なのではないだろうか。自分の頭で考えない。結果として、問題を先延ばしにするだけとなり、何の解決にもならず現状は改善されない

支配する側からしたら、都合が良い。そういう目に見えない神秘的なものがあるのかもしれないが、その世界に没頭することの弊害は大きいと考える

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940713 No.7422

>>7415

人智学

https://ja.wikipedia.org/wiki/人智学

人智学(じんちがく)とは、ギリシア語で人間を意味する ἄνθρωπος (anthropos, アントローポス)と、叡智あるいは知恵を意味する σοφία (sophia, ソピアー)の合成語、すなわち逐語的には「人間の叡智」を意味する ドイツ語: Anthroposophie の日本訳語である。ドイツ語音からアントロポゾフィーと音訳される[* 1]。

19世紀末から20世紀初頭にかけてドイツ語圏を中心とするヨーロッパで活躍した哲学者・神秘思想家のルドルフ・シュタイナー(1861年-1925年)が自身の思想を指して使った言葉として有名であるが、この言葉自体は初期近代(近世)にすでに使用されている。[要出典]

人智学という言葉を使用したドイツ語圏の哲学者イマヌエル・ヘルマン・フィヒテとイグナツ・パウル・ヴィタリス・トロクスラー(ドイツ語版)は、人間には超感覚的存在としての側面があるという考え方を提示したが、同じく人智学という用語を用いたシュタイナーの思想もその流れを受け継いでいると高橋巖は指摘している[1]。

語源

人智学(アントロポゾフィー)という言葉は、ギリシア語で人間を示す ανθρωπος (anthropos アントローポス)と叡智あるいは知恵を示す σοφια(sophia ソピアー)を合成したものである。シュタイナー思想を指す言葉として広く知られるが、シュタイナーの造語ではなく、初期近代の文献にもその使用が確認されている。それ以降はイグナツ・パウル・ヴィタリス・トロクスラー(Ignaz Paul Vitalis Troxler, 1780年-1866年)や、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテの息子であり、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルの弟子(右派)であるイマヌエル・ヘルマン・フィヒテにおいてもこの言葉の使用が認められる。

シュタイナー以前の歴史

16世紀

人智学(Anthroposophie, アントロポゾフィー)という言葉は、初期近代の時点ですでに使用されていることが確認されている。ルネサンス・プラトン主義者で秘教学者として有名なドイツのハインリヒ・コルネリウス・アグリッパに端を発するとみなされている、著作者不明の魔術書『アルバテル - 古人の魔術について : 至高の叡智の研究』(Arbatel de magia veterum, summum sapientiae studium, 1575)は、神智学 (Theosophia) と人智学 (Antroposophia〔ママ〕) を「善良なる知識」に分類し、後者には「自然の事象の知識」(Scientia rerum naturalium) と「人間の事象の洞察」(Prudentia rerum humanarum) が該当するとしている[2]。

…中略

思想

シュタイナーは、第一次世界大戦後のドイツの破滅的な状況のなかで、近代の諸問題を克服する思想・実践を模索した。近代の物質主義を忌避しており[4]、人間の意識は進化すること、人間は意識の進化の基礎となる霊的な現実を直接知覚することが可能であること、また、文化活動・経済活動・政治活動を通して社会を発展させることができると信じた[4]。様々な思想や当時の科学的知見を取り入れて自らの思想を構築し、その思想を当初は「神智学」、のちに人智学と呼んだ。人間の内なる霊性の認識と訓育、さらには近代社会の諸問題を乗り越えた新たなる調和に至る社会構想を説いた[5]。神智学協会との決裂後、人智学協会を設立した。

ミドルセックス大学のピーター・ワシントンは、人智学についてこう解説している。

人間の存在とは感覚的な存在と感覚を超越した世界が統合されている存在で、この点で人間は動物や天使と違っている。感覚を超越した領域には客観的な実体があり、現象世界も同様である。人智学はその二つの間の人間の位置を研究する学問である。これは絶対に我々が持つことのできない神々の知恵ではなく、人間の慎ましい知恵であり、むしろ人間についての知恵というべきものである[6]。

シュタイナーの認識論は広義には直観を認識の基本とする直観主義と理解されており、シュタイナーの霊的な直観を認識の基本とする。衞藤吉則は、人智学は「理論的にも実践的にも究極的には<所与の絶対確実な知識>を依り所として理論づけられている」と述べている[7]。人智学は、シュタイナーの超感覚的観照(霊感)によって得られたという知識・法則が絶対の基準としてあり、これは本質的なものであるとされ、検証は全く必要とされない[7]。実践は、この知識・法則の適用あるいは現実化の技術である[7]。シュタイナーが設立した人智学協会は、彼の思想や著作を求道の指針としており、新宗教に近い性格を持つ[8]。

ドイツ哲学研究者の三島憲一の説明によると、ゲーテの自然科学論の影響下でシュタイナーが展開したのは、当時さまざまに模索されていた総合知のひとつのかたちであり、その背景には新プラトン主義、ドイツ神秘主義、ヨーロッパの古典的な自然科学があった[5]。グノーシス主義等を研究する宗教学者大田俊寛の指摘するところでは、シュタイナーは近代神智学の創始者ヘレナ・P・ブラヴァツキーの『シークレット・ドクトリン』における霊性進化論(人間は転生を繰り返して霊的に進化するという思想)[* 2]を承けて、これを独自の明晰な体系に再構築しようとした[10]:68。シュタイナーはブラヴァツキーによる、聖なる数字とされてきた7を用いたオカルト進化論の単位とも言える「周期(ラウンド)」という図式を、ブラヴァツキー以上に自身の思想に徹底的に組み入れて重視した[10]:68。地球・人種・文明・人間は進化のプロセスが7段階あるとされ、それぞれ密接に関係しあっていると考えた[10]。ただし、インド思想を重視した神智学協会にとってキリスト教は数ある宗教の一つでしかなかったが[11]、シュタイナーは西洋思想とキリスト教的霊性を重視し、特異なキリスト論[* 3]を自らの思想の中軸に据えた[4]。大田は、神智学の周期説のほかに、マクロコスモスとミクロコスモス(宇宙と人間)の照応という西洋の伝統的な秘教・自然魔術の観念や、ドイツの生物学者・哲学者エルンスト・ヘッケルの有機体進化論における「個体発生は系統発生を繰り返す」という「反復説」という生命観が折衷・融合されていると指摘している[10]:68。

人智学の思想的一面をシュタイナーは「精神科学 / 心霊科学 / 霊学」(Geisteswissenschaft[* 4])と呼んだ。[要出典](以下便宜的に「精神科学」で統一。)

シュタイナーの著作に「人智学」を冠するものはなく[* 5]、その著作において一貫して「人智学とは〜である」といった固定的な表現には否定的であった。シュタイナーの最盛期は最晩年であるとも言われるが、その時期の1924年2月17日に人智学に関する発言が(文書にて)なされた。[要出典]それが以下のものである。

人智学は認識の道であり、それは人間存在(本性)の霊的なものを、森羅万象の霊的なものへ導こうとするものである

— 『人智学指導原則』第一条より抜粋

シュタイナーの弟子たちに彼と同等な見霊能力やカリスマ性を持つものは現れず、シュタイナーが死去すると信奉者たちはシュタイナーの直観を新たに得ることはできなくなった。しかし、彼の影響は死後も続き、人智学協会と協会内にある霊的分野の研究団体「霊学のための自由大学」はその教えを広め続けた[4]。

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940713 No.7423

>>7422

人間論・霊的進化論

人間の本質に関する研究を行った。通常の人間が、人間において目という感覚器官を通して知覚することができる存在を、肉体(物質的身体 der physische Leib)と名付け、それを「人間の一肢体(部分、構成要素 Glied)」として位置づけ、それよりさらに「高次の」構成要素は超感覚的であり、通常の人間はそれを知覚することができないとする。精神科学はそれらの超感覚的「肢体」(精妙な体)を、肉体の上にさらに六ないしは八つ認め、それら全てを「全体としての人間 der ganze Mensch」とする。[要出典]地球の7つの周期に住む人間は、その周期に関連しながら物質と霊の粗雑な混合物から精妙な存在へと、肉体・エーテル体・アストラル体・自我・霊我・生命霊・霊人という7段階の進化を遂げ、現在ははっきりした自意識を獲得した自我の段階であるとされた[13]。

人生論・転生論

人間の人生を支配している法則についての研究を行った。死後の生活に関する記述や、再受肉(転生、生まれ変わり)Reinkarnation の思想を説いた。霊的進化を伴う転生思想は、神智学から受け継ぎ発展させたものである。シュタイナーの超感覚的観照・生来の霊能力による霊視に基づくとされている。

宇宙論

現在の地球、あるいは宇宙が生成した過程に関する研究を行った。人間と同様、地球もまた再受肉する存在であるとみなし、現在の地球のいわば「前世」に関する描写がなされる。地球は7つの曜日に倣って、土曜期・太陽期・月期・地球期・木星期・金星期・ヴァルカン期の7つの段階を経て進化するとされ、現在は地球期であるとされた[13]。秘教的宇宙論(英語版)は、神智学から受け継ぎ発展させたものである。シュタイナーの超感覚的観照・生来の霊能力による霊視に基づくとされている。

修行論

通常の人間には、シュタイナーが持っていると主張したような超感覚的認識・見霊能力はない。人智学が一つの学問になるためには、全ての人が彼の言う超感覚的認識を持つ必要があるが、シュタイナーはそれが誰にでも獲得できる能力であると考え、霊的な教師のための精神教育の確立を重視し、人智学の方法に従った修行、特にその「瞑想」と「集中」の行を毎日15分間行いさえすれば、自然と見霊能力が発現すると主張した[14][6]。この点によって、シュタイナーは従来の神秘主義と一線を画している[14]。

修行の道には七つの発達段階があるとされた。[要出典]

歴史観

シュタイナーの7つの人種に基づく根源人種という考えは、ブラヴァツキーによる神智学のテキスト『シークレット・ドクトリン』第2巻のものとほぼ同じである[15]。北極付近の不滅の聖地に生まれたアストラル体の第一根源人種、エーテル体の第二根源人種ハイパーボリア人、物質的身体を持った第三根源人種レムリア人、アトランティス大陸で文明を発達させた第四根源人種アトランティス人、大洪水を逃れたアトランティス王国の聖人たちの導きで誕生した第五根源人種アーリア人、アメリカ大陸で生まれ物質的身体の軛から脱してく第六根源人種パーターラ人、地球における人類進化の最終段階である第七根源人種の7段階があり[16]、現在の支配人種(英語版)は第5根源人種アーリア人であるとされた[15]。

人種論・文化論

文化論はヘーゲルの進歩主義的な歴史哲学からの影響が見られ、歴史上の主な文化は「アーリア的」とされた文化に限定されており、インド文化、エジプト・カルデア文化、ギリシャ・ラテン文化を経て、現代は5段階目のゲルマン文化[* 6]であるとされた[15]。アーリアン学説は、ブラヴァツキーより詳しく具体的に取り入れられている[15]。

各民族の集合的無意識ともいえる「民族魂」「民族精神」があり、国家を導き、文化を発展させるとしている[15]。民族魂は天が遣わした大天使や神々として現れるという[17][18]。

国家論

シュタイナーは大戦前のヨーロッパについて、国家の運命は宇宙の計画の一部としてあらかじめ定まっており、各国には世界進化のための果たすべき役割があると考えていた。中でもドイツ人が世界進化における最も高度な点に関わっていると述べるなど、ゲルマン民族の文化の優越性を説き、ドイツ人は精神面で果たすべき使命があると主張していた[17]。

人類の敵

シュタイナーは、現在の第五文化期に、人類はゲルマンの神々の導きで新たな霊性を得ると考えたが、キリストという神的存在に導かれる霊的な進化と、ルシファーやアーリマンという悪霊によって導かれる堕落の道との分岐点でもあるとしている[15]。

ルシファー、アーリマンは、神智学の「グレート・ホワイト・ブラザーフッド・オブ・マスターズ(大いなる白き同胞団)」と闘争を続ける悪霊「ロード・オブ・ダーク・フェイス(黒い顔の主)」という漠然とした概念を明確に定義づけしたもので、人類の主な敵である[19]。1914年に第一次世界大戦が起こると、シュタイナーは戦争を起こしたのはダーク・フォースだと主張した[17]。

ルシファーは傲慢の霊で、「人間の中のあらゆる熱狂的な力や、あらゆる神秘主義的な力を呼び起こす能力を備えた存在」であり、人間は努力すれば人間の限界を超え霊的能力を持てるという身の程知らずな考えに陥らせる霊である[19][20]。幻想的な力を使い、第三根源人種レムリア人が性的逸脱によって堕落するよう影響を及ぼしたという[20]。アフリマンは物質主義の霊で、「人間を唯物論という迷信へと導き、無味乾燥で散文的で俗物的な存在にする力を持つ」という[20]。現代科学・技術の最高神であり、人類に精神と五感の領域だけを信じ、霊的な面を拒むように仕向けるとされた[19]。ただし、歴史を長い目で見れば、ルシファーとアーリマンの力は文化の多様性や人間精神の自律性をもたらすという面もある[21]。アーリマンの影響が最も大きいのは自然科学の諸分野で、全てが数字に還元されるため、人々は徐々に世界は物質でできた機械のようなものだと感じるようになっていくとしている[22]。ダーウィンの進化論も、アーリマンの影響でできたものだという[22]。また、アーリマンは経済にも大きな力を発揮するとしており、その影響で科学的・経済的に繁栄し、物質的欲望が満たされた生活を享受するようになると、霊的な進化は止まり、文化は崩壊すると考えた[23]。ルシファーとアーリマンの力の間で均衡を保つため、本質的に太陽神であるキリストという霊格が必要とされるのだという[20]。シュタイナーは人々に、キリストの受肉の意味を理解し、人類を堕落させるために悪霊が張り巡らせた罠に備え、霊的進化の道を進むよう求めた[23]。

これって自分達に都合の悪いものを悪霊としているだけなのでは?

日本の人智学運動組織

日本におけるシュタイナー研究の第一人者である高橋巖は、1985年に日本人智学協会を設立した。この団体は、スイスのドルナッハにあるゲーテアヌムを本部とする「普遍アントロポゾフィー協会」(一般人智学協会)の日本における邦域協会ではなかった。1986年2月のゲーテアヌム理事会において、同協会は日本ルドルフ・シュタイナー・ハウス(1982年に上松佑二が設立)とともに、邦域協会の前段階とみなされた。1989年に日本ルドルフ・シュタイナー・ハウスは日本アントロポゾフィー協会ルドルフ・シュタイナー・ハウスに改名し、以後二つの協会が併存するようになる。1993年ヨハネ支部が設立され、1994年以降の数年間にわたる邦域協会設立準備会と1999年3月のゲーテアヌム理事会を経て、2000年5月に上松佑二を中心とするメンバーによって、日本アントロポゾフィー協会が、普遍アントロポゾフィー協会の正式な日本の邦域協会として設立された。また、現在(2013年)では普遍アントロポゾフィー協会の日本支部として、「NPO法人日本アントロポゾフィー協会」と「一般社団法人普遍アントロポゾフィー協会 - 邦域協会日本」の二つの協会、および四国アントロポゾフィークライスが存在している。

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940713 No.7426

>>7425

Q Research Japan/Nihon #22より

>ニューソート

ニューソート

https://ja.wikipedia.org/wiki/ニューソート

ニューソート(New Thought、新思考)、ニューソート運動(New Thought Movement)は、19世紀後半にアメリカ合衆国で始まったキリスト教における潮流のひとつで、一種の異端的宗教・霊性運動である。理想主義的な神学、楽観的な世界観、個人の幸福・健康・物質的な成功に焦点を当てた宗教的儀式を共有する、緩やかにつながり合う多様な宗教共同体の集まりである[1]。物質に対する心の力、精神の優位性に重点を置くもので、理論的にも実践的にも宗教的観念論の一種である[1]。現世利益の追求を戒めるキリスト教プロテスタント系カルヴァン主義への反発を背景に生まれた[2]。

ニューソートは、アメリカのメスメリスト[注 1](催眠治療家)・心理療法家フィニアス・クインビー[3]やクリスチャン・サイエンスの創始者メリー・ベーカー・エディの思想を中心としていた。超絶主義者のラルフ・ウォルド・エマーソンの哲学を支えに徐々に社会に浸透していった[4]。アメリカの対抗文化の流れを汲むニューエイジの源流のひとつであり、後のカルトや、通俗心理学、自己啓発運動や自己啓発書への影響も大きい[5][1]。

概要

ニューソート運動は、クリスチャン・サイエンスの創始者メリー・ベーカー・エディ(1821-1910)に学び、多くの人にその理論とテクニックを教えたエマ・カーティス・ホプキンス(英語版)(1849-1925)が創始者とされる[1]。エディとクリスチャン・サイエンス、メスメリスト(催眠治療家)・心理療法家のフィニアス・クインビーと彼の弟子たち、ニューイングランドのマインド・キュア運動、メンタル・ヒーリングを実践する様々な独立したグループや個人などが前身または先駆とされている[1][5]。源流として、新教のカルヴァンに火刑にされた16世紀の神学者・医者・人文主義者セルヴェトゥス(ミシェル・セルヴェ)や、17 - 18世紀の科学者・神学者・神秘家エマニュエル・スウェデンボルグを認める向きもある[4][6]。

当時、禁欲・宿命論を説くカルヴァン主義が盛り上がっており(第三次大覚醒)、ニューソートはこれに対する反発として生まれた。19世紀後半のアメリカは、工業化の進展により「金ぴか時代」と呼ばれる好景気が到来し、一方カルヴァン主義的禁欲主義は、金ぴか時代の拝金主義を激しく批判していた[7]。スウェデンボルグの思想は、カルヴァン主義的禁欲主義へのアンチテーゼとして支持を集めるようになり、これがニューソートへと拡大・発展していった[8]。また、依然として問題の多かった正統医学への拒否反応も背景にあると言われる[6]。

クインビーは、患者の心の在り様が病に影響しており、病気の本質は患者が持つ誤った信念であり、信念を正せば病気が治ると考えた[9]。人間には顕在意識と潜在意識があり、「神に選ばれなかった人類の大半が地獄に落ちる」といった正統派キリスト教が植え付けた恐怖心が人間の潜在意識に入り込み、それが凝り固まったものが腫瘍になるのであり、恐怖心から解放されれば腫瘍も消えると考えたのである[8]。彼の思想は明らかにスウェデンボルグの思想の延長線上にある[7]。ニューソート運動では、心や思考の性向が健康や経済状態として表れる(思いは現実になる)と考え、潜在意識や思考を変えることで現実を直接的に変えようと試みる

この運動は元々、マインド・キュア(精神療法)やメンタル・サイエンス(心の科学)などの名前で知られていた。マインド・キュアは、19世紀後半にニューイングランドで始まり、1880年代にニューイングランド全体に広がった。哲学者・心理学者のウィリアム・ジェームズは、マインド・キュア運動の最も特徴的な点は、より直接的なインスピレーション(直観、霊感)を重視することであり、この信仰の指導者たちは、健全な精神状態の持つ万能の力を直感的に信じ、勇気、希望、信頼の持つ圧倒的な有効性を信じ、疑惑、恐れ、心配、そしてネガティブな精神状態のすべてと関連するものを蔑視してきたと述べている[10]。ポジティブ・シンキング、自己啓発(セルフ・ヘルプ)、代替医療、信仰療法、心霊主義、ロマン主義、超絶主義、フェミニズム、ユートピア主義などが非論理的に合体した、複雑な信仰体系であり、論理的に一貫性のある教義とは言い難い[6]。クリスチャン・サイエンス、神智学、心霊主義(スピリチュアリズム)などを含む「メタフィジカル」の伝統と呼ばれる広義の運動の中で、最大のものである[1]。

ニューソートは、聖書の内容を従来とは違う立場から解釈しようとするもので、「人間の意識は宇宙と繋がっている」と考え、その根拠を聖書に求めるのが主流である[11]。その主張には、「そもそも『原罪』は存在せず、あらゆる人々がキリストの力を内包している」、「正統的宗教哲学は数百年間過ちを犯し続けてきた」といったものが含まれていた。その教えを異端視する者がいる一方、従来の禁欲的キリスト教思想に疑問を抱いていた思想家、労働者、零細農場や工場の経営者らは触発された[9]。

1916年に宣言された国際ニューソート同盟(英語版)の設立理念では、「至高の存在の無限性、人間の神性、そして建設的思考の創造力と、インスピレーション・パワー・健康・成功の源である内なる存在の声に従うことを通し、人間の無限の可能性を教えること」と記されている[5]。多くのグループは基本原則に合意していたものの、心と物質の関係については異なる考えを持っていた[5]。ニューソートのグループは、物質をコントロールする上で心が最も重要な役割を果たすと信じていたが、クリスチャン・サイエンスは、絶対的観念論の立場であり、物質の存在を完全に否定している[5]。とはいえ、ニューソートの各グループは、楽観主義、そして人間の神性化という信念において一致していた[5]。健康な心と体は、人間と神の一体性を認識することによって達成されると考えられた[5]。女性に重要な役割を与え、女性の霊性を称揚した[5]。

マーチン・A・ラーソンはニューソートの主張を以下のように要約する[12]。

人間の心情と意識と生命は宇宙と直結している。

あらゆる病の本質は自己意識に対する無知が原因である。

原罪は存在せず、万人が「キリスト」の力を内包している。

全人類に喜びと成長と発展と幸福の機会が既に与えられている。

人間は内なる「神」の一部を顕現すべく無限の発展を遂げつつある。

正統的宗教哲学は数百年間過ちを犯し続けてきた。

愛の力は神の意志の地上的表現である。

「生長の家」の創設者谷口雅春が光明思想と訳しているように、気持ちを明るく前向きに積極的に保つことで運命が開けるというポジティブ・シンキング(積極思考、引き寄せの法則)や、ディヴァイン・サイエンス教会(英語版)の牧師ジョセフ・マーフィーの成功法則(日本でも著作がベストセラーになっている)などもニューソートの一環であり、いわゆる成功哲学の面がある。

「神は(人格神ではなく)霊的な存在で、宇宙の全てを満たしており、人間もモノもその一部である」というニューソートの神学思想には、大衆化しやすい面があり、想像力を付け加えて世俗的な解釈がなされ、「宇宙に存在するすべてのものはエーテル状(目に見えない微粒子状)の原質(物を構成する根本となるもの)からなり、人間が思考をもってそのエーテルに働きかければ、それがモノに変化して引き寄せられてくる」という考えに転じ、さらに「人間がより良い状況を思い描くことによって、望み通りの状況を引き寄せることができる」という自己啓発思想が生まれた[13]。人間の人生が自分の考え次第で自由に変えられると信じるなら、成功するのも苦しい状況に陥るのも全く当人の自己責任ということになる[13]。このような自己啓発思想の「ポジティブ志向」「自己責任」の側面は、アメリカ人のメンタリティによく合致した[13]。こうしたニューソートの教義に対しては、「『自分自身が救世主になれ、他人にそれを頼むな』だ。これこそアメリカの独立精神ではないか」という辛口の批評もある[5]。

アン・スタイルズは、ニューソートの魔術的思考とバラ色の回想(英語版)(過去を美化する認知バイアスの一種)は、今も我々と共にあると述べている[14]。

ニューソートと様々なサブグループは、その歴史の長さとアメリカ文化への広い影響にもかかわらず、学術研究のテーマになることは少ない[1]。

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940713 No.7427

>>7426

運動への影響

エマ・カーティス・ホプキンスに学んだマインド・キュア運動の活動家たちは、クリスチャン・サイエンスがどのように効果を発揮するのかについて考察を深め、超絶主義者の著作、特にラルフ・ウォルド・エマーソンの著作に答えを見つけた[15]。ユニテリアンの家庭出身のエマーソンは、スウェデンボルグの思想を高く評価していた。彼の超絶主義は、人間は万物の中に神性を見い出す力を持ち、個人の内に神的存在が内在する神秘的な存在であると考え、内なる神性と一体化することの重要性を説くものである。心が健康に及ぼす影響を示したメスメルの仕事と、エマーソンの霊的・精神的な教えが、マインド・キュアにおいて合体した[16]。エマーソンの超絶主義哲学を取り入れて、メンタル・ヒーリングの霊的な根拠を示すことで、運動が深化し、19世紀のニューイングランドでは、様々な組織や個人がメンタル・ヒーリングを行い、方法を教え・学び合うマインド・キュア運動が盛り上がった[16]。

ウィリアム・ジェームズは『宗教的経験の諸相』(1902年)で、この「新しい思想(ニューソート)」には様々な宗派があり、それぞれ呼び名があるが、便宜的にこの運動を「マインド・キュア運動」と呼び、単純化して話すと前置きして解説を行った。ジェームズは、アメリカ的で典型的な「健全な心の宗教」「心を治す宗教」であるマインド・キュアがシンクレティシズムであることを指摘し、その教義の源として、キリスト教の4つの福音書、エマーソンの思想をはじめとするニューイングランドの超絶主義哲学、ジョージ・バークリーの理想主義的哲学(主観的理想主義(英語版))、「法則」「進歩」「発展」のメッセージを掲げる心霊主義、大衆の楽観的科学進化論があり、ヒンドゥー教が影響を与えていると分析している[10]。ヒンドゥー教では特にヴェーダーンタが重要だった[1]。また、19世紀後半のヘーゲル協会や、宗教の世俗化(衰退)も関連している[1]。

歴史

フランツ・アントン・メスメルが始めたメスメリズム(動物磁気療法)は、人間のトランス状態を利用するものであり、催眠療法へと発展したが、メスメリズム自体は公的な医療の世界では認められなかった。しかし、その研究を通し、メスメルの治療の成功には、医師と患者両方の精神状態が関係するという理解が生まれた[15]。この考えは「マインド・キュア」と呼ばれるようになった[15]。マインド・キュアは医師と患者の共同作業であり、「霊的な治療」であるとも考えられた[15]。マインド・キュアの原理は比較的単純であり、第一に、誘導付きの瞑想やイメージの視覚化などのテクニックによって、真理が啓示として個々人にもたらされること、第二に、実践者は自分の意志を放棄するか、「解放する(let go)」こと、第三に、実践者は潜在意識を、意識的な生活や健康にプラスの影響を与えることができる未開発のリソースとして見ることである[17]。催眠術や形而上学的な癒しなどの実験的な手法が行われた[17]。

1890年までの数年間で、マインド・キュアは、医師が積極的に関与しなくても成功すると考えられるようになった[15]。マインド・キュアの方法で自分で自分を癒すことができるなら、そのテクニックを学ぶ教室に参加すれば、病気になっても治療を受ける必要はないということになる[15]。このテクニックの指導を開発したのはクリスチャン・サイエンスの創始者メリー・ベーカー・エディであり、彼女に学び独立したエマ・カーティス・ホプキンス(英語版)が、このテクニックを何千人もの人々が利用できるようにした[15]。彼女がニューソート運動の始まりであると言われる[5]。ホプキンスは、キリスト教ユニティ派(英語版)の設立者チャールズ・フィルモア (ユニティ派)(英語版)、共同設立者で妻のマーテル・フィルモア(英語版)、宗教科学(英語版)の設立者アーネスト・ホームズ(英語版)、ディヴァイン・サイエンス教会(英語版)の設立者ノナ・L・ブルックス(英語版)と、重要な役割を果たした彼女の姉妹(ブルックス姉妹)や、影響力のある著作家たち等、当時のニューソートの大部分の組織の創始者・重要人物を指導した[15]。

メソジスト教会の牧師からスウェデンボルグの教えを奉じる新教会の信者になったウォーレン・フェルト・エヴァンス(英語版)が、スピリチュアル・ヒーリングの思想と方法を文章にした最初のアメリカの著作家であると言われ、1869年に出版された彼の著書『The mental cure(精神治療)』は、最初のニューソートの本と考えらえている[16]。おそらく彼の思想はスウェデンボルグ、メスメル、エマーソンの研究を通して形成されたもので、クインビーとの出会いを通して整理されたのだと考えられている。(彼がクインビーの生徒であったかは論争がある。)[16]エヴァンスは特に新しい教えを提示したわけではないが、著作で中心となる概念を定義し、スウェデンボルグの精神的・霊的世界と物理的世界の対応についての考えをニューソート全体に広めた[16]。彼の本は、キリスト教ユニティ派の設立者チャールズ・フィルモアが、その教えを発展させる基礎を提供した[16]。ユニティ派は超絶主義から生まれ、ニューソート運動の一部になった。

1890年代を通じて、様々な新興グループが全国的な会合を開き、1899年に全国大会が開催された[5]。1914年に国際ニューソート同盟(英語版)が結成され、1940年代には、宗教科学研究所、形而上学健康学校、先端思想教会など、18のニューソートのセクトと教会が活動していた[5]。これらの運動の中には単一の組織として成功を収めたものもあり、特に影響力があったのは、1889年に設立されたディヴァイン・サイエンス教会とユニティの学校である[5]。ユニティ派は、設立者のフィルモア夫妻の指導のもと、マーケティングと広告の近代的なテクニックを駆使して隆盛した[5]。

また、マインド・キュア運動について分析した、アメリカのプラグマティズム哲学の祖ウィリアム・ジェームズは、狭心症から不眠症まで、100-200もの治療のセッションを行っており、1894年と1898年のマサチューセッツ州議会での医師免許に関する討論で、マインド・キュアを擁護した[18][17]。ジェームズの哲学にはニューソートの影響が見られるという[8]。

超絶主義のエマーソンはインド思想に影響を受けており、汎神論・万物皆同源の立場に立つニューソートは、東洋思想全般と親和性が高かった。ニューソートの多くは説得を主な技法としたが、1893年シカゴの世界宗教会議でヒンドゥー教の導師スワミ・ヴィヴェーカナンダが人気となってから、インドの心身訓練法もアメリカに伝わり、インド人ヨガ行者ラマチャラカを名乗り呼吸法の著作を刊行したウィリアム・ウォーカー・アトキンソン(英語版)(1862 – 1932)のように、ニューソートの中には呼吸法を取り入れたものもあった[19]。アトキンソンの思想は、西洋エソテリシズム(秘教)の生命エネルギー概念をインド思想に読みこんだもので、分かりやすく実践的で当時ベストセラーとなり、欧米では現在も読まれている[19]。

ニューソートはニューイングランドで始まったが、1904年頃にロサンゼルスに輸入され、1915年頃から大部分の指導者は太平洋岸に機関を設立し、カリフォルニアが重要な拠点となった[5]。

組織・団体

ニューソート団体の多くは、互いに緩やかに結びつく単立のキリスト教会の形を取ることが多い。ユニティ派、クリスチャン・サイエンス、ディヴァイン・サイエンス教会が最も大きい勢力である[10]。日本の新宗教、生長の家もニューソートの宗教とみなされている

ニューエイジ以降では、ニューソート思想にニューエイジ[注 2]の概念を付与した形の自己啓発団体も欧米を中心に数々存在している。

日本ではア・コース・イン・ミラクルズ(ACIM、奇跡講座)の分派、ニール・ドナルド・ウォルシュの一派、分派などが乱立している。各々の信奉者が集まり勉強会と称した読書会なども盛んである。

女性

ニューソートは、組織的なヒエラルキーではなく、スピリチュアリティ(霊性)と癒しに焦点を当てていたため、女性も指導的地位に就くことができた[6]。女性観が保守化していたヴィクトリア朝時代の当時、他では女性がそのような立場に立つことはほぼ実現不可能だった[6]。

ニューソートでは、それぞれの大人の中に、神聖な内なる「少年(Man Child)」が存在するという考えが推し進められていた。女性達は、自分の欲望や野心をこの内なる「少年」から来たものと考えることで、家父長制の現状を壊すことなく、自分自身の権威を主張することができた[14]。

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940713 No.7428

>>7427

文学・児童文学への影響

アン・スタイルズは、世紀末の作家とその作品にとって不可欠な文脈としてニューソートに注目し、『小公子』『小公女』『秘密の花園』のフランシス・ホジソン・バーネット、『ねじの回転』のヘンリー・ジェイムズ(ウィリアム・ジェイムズの弟)、『赤毛のアン』のルーシー・モード・モンゴメリ、「黄色い壁紙」のシャーロット・パーキンス・ギルマンといった重要な作家・児童文学作家が、ニューソートに精通しており、作品に影響したと分析した[14]。

ニューソートとの関連をよく取り上げられる作家は、バーネットである。彼女は『秘密の花園』(1911年)を書いている時に、マインド・キュアとポジティブ・シンキングの精神に興味を持ったことが記録に残されている[6]。彼女はメリー・ベーカー・エディの友人で、エディの著作を読んでいた[14]。『小公女』では、没落した主人公サラが、プリンセスをイメージして安心感を覚える場面があるが、スタイルズは、その対処はニューソートの一般的な実践であると指摘し、「サラ・クルーは、肯定と否定、創造的視覚化、悪への無抵抗、周囲から瞑想的にひきこもる方法を用いる点で、忠実なニューソートの信奉者のようである」と評している[14]。また、『秘密の花園』のコリンは、自己イメージを良くすることで、病気を劇的に改善させる。『赤毛のアン』や『小公子』のやる気にあふれた主人公達は、周りの現実とは関係なく頑固なまでに楽観主義を貫き、状況が好転していく[6]。

スタイルズが取り上げた作家のうち、バーネット、ギルマン、モンゴメリの3人は、うつ病、不眠症、双極性障害に苦しみ、正当医学による治療の中で、見境のない薬の処方や過度な安静療法を経験した[6]。また、施設への収容や、体を害しかねないような婦人科の治療法のトラウマに苦しんだ人もいる[6]。モンゴメリはマインド・キュアを試し、人に勧めることもあった。なお、彼らはクリスチャン・サイエンスやニューソートの信奉者であると表明しておらず、モンゴメリやギルマンにはクリスチャン・サイエンスを批判した文章もある[14]。

後世への影響

狭義のニューソート自体の現在の勢力は、運動が盛り上がっていた1世紀前の予想よりも、はるかに小規模であるが、特に成功の福音を通して、広い範囲に影響を与えた[5]。その原理や神学は、1950年代以降、代替療法運動やニューエイジ運動の様々な信仰や実践のベース、支えとなっている[1]。

その現代的な継承者には、繁栄の神学(英語版)や、「ポジティブ・シンキングの力」の信念が含まれると考えられ、ニューソート運動は「ポジティブ・シンキング」という言葉を通して普及し、アメリカの価値観[20]や成功哲学や自己啓発のルーツの一つとされている[21]。通俗心理学や自己啓発運動(セルフヘルプ運動)の先駆けであり、プロテスタント主流派における女性の牧師任命や、ナポレオン・ヒルやノーマン・ヴィンセント・ピールの理想主義的な自己啓発書のベストセラー本、大衆文化、プロテスタント主流派における繁栄と成功に関する教えの展開などに影響している[1]。現代の自己啓発やビジネス書の源流であり、日本人への影響も大きい

スウェデンボルグの神秘思想をさらに推し進めたスピリチュアル系ニューソートの流れがあり、そのライターに、ロンダ・バーンのインタビュー映画『ザ・シークレット』に当初参加していたチャネラー・自己啓発書作家のエスター・ヒックス(英語版)などがいる[22]。

尾崎俊介は、1950年代のアメリカでの禅の流行は、背景にニューソートの影響があるのではないかと推測している[23]。また、マインドフルネスは仏教とニューソートのミックスであると述べている[23]。

ニューソートには、後のニューエイジに見られるモチーフが多くあり、馴染み深いものとヒンドゥー教等の異国情緒を組み合わせたニューソートと神智学という2つの霊性運動が、多くのカルトや教義の原型になっていると指摘されている[5]。著作家のキャリー・マクウィリアムズは「後の教義やカルトのほとんどは、神智学とニューソートという2つの輸入された運動の構成要素から進化した…神秘的な要素はポイント・ローマの神智学協会から、現実的な金勘定はニューソートの指導者たちからもたらされたのである。」と述べている[5]。

日本

オリソン・スウェット・マーデン(英語版)(1850 - 1924)やウィリアム・ウォーカー・アトキンソン(英語版) (1862 – 1932、別名ヨギ・ラマチャラカ)、ラルフ・ウォルド・トライン(英語版)(1866 - 1958)の翻訳書が明治後期から昭和初期に出版された[2][19]。ラマチャラカ名義の著作は、日本では大正期に著作が翻訳され、プラナ療法として霊術など民間療法に取り入れられた[19]。マーデン、アトキンソンは中村天風、トラインは谷口雅春や京セラの創業者稲盛和夫などに影響を与えた[2][19]。

ジェームズ・アレンの影響を受けた経営コンサルタント・オカルティストの船井幸雄は、アレンはデール・カーネギー、ナポレオン・ヒルなど自己啓発・成功哲学の教祖的人物のほとんど全てに影響を与え、現代日本人は多かれ少なかれ影響を受けていると述べている[24]。

尾崎俊介は、日本のスピリチュアル系ニューソートのライターとして『水からの伝言』の江本勝を上げている。アメリカの自己啓発系の世界では、江本は人間の思考がモノに影響を及ぼすというニューソートの思想を科学的に証明したとして、高く評されている[25]。

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940713 No.7429

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>>7426

>スウェデンボルグの思想は、カルヴァン主義的禁欲主義へのアンチテーゼとして支持を集めるようになり、これがニューソートへと拡大・発展

エマヌエル・スヴェーデンボリ

https://ja.wikipedia.org/wiki/エマヌエル・スヴェーデンボリ

エマヌエル・スヴェーデンボリ(Emanuel Swedenborg [ˈsvêːdɛnˌbɔrj] ( 音声ファイル), 1688年1月29日 - 1772年3月29日)は、スウェーデン王国出身の科学者・神学者・思想家。スウェーデンボルグ、スエデンボルグとも表記される。生きながら霊界を見て来たと言う霊的体験に基づく大量の著述で知られ、その多くが大英博物館に保管されている。スヴェーデンボリは貴族に叙された後の名。

生涯

父イェスペル・スヴェードバリ(Jesper Swedberg)は、ルーテル教会の牧師であり、スウェーデン語訳の聖書を最初に刊行した人物である。エマヌエルは、その次男としてストックホルムで生まれる。11歳のときウプサラ大学入学。22歳で大学卒業後イギリス、フランス、オランダへ遊学。28歳のときカール12世により王立鉱山局の監督官になる。31歳のとき貴族に叙され、スヴェーデンボリと改姓。数々の発明、研究を行ないイギリス、オランダなどへ頻繁に出かける。

1745年、イエス・キリストにかかわる霊的体験が始まり、以後神秘主義的な重要な著作物を当初匿名で、続いて本名で多量に出版し、出版で得た全報酬は寄付した[1]。ただし、スウェーデン・ルーテル派教会をはじめ、当時のキリスト教会からは異端視され、異端宣告を受ける直前にまで事態は発展するが、王室の庇護により、回避された。イエス・キリストからの啓示をその僕として書き記す霊覚者への転向はあったものの、その後国会議員にまでなった。

スヴェーデンボリは神学の書籍の発刊を始めてから、しばしばイギリスに滞在した。1771年の夏にロンドンに旅し、その地で翌1772年3月29日に没した。

神学・神秘主義思想

スヴェーデンボリの神学論は伝統的な三位一体を「三神論(三人格を持った神が一つの神)」であるとして退けているが、「三一性」という考え方で、「父を意味する創造神、子を意味するイエス・キリスト(神人)、聖霊を意味するイエス・キリストの霊の働きという三つの性質が一つの人格神のうちにある」ということを認めている。また、伝統的なプロテスタント聖書主義と同じく「天地の創造神が、時空の観念を超え、イエス・キリストという人間となって救いのために降臨された」としている。

スヴェーデンボリが生前公開しなかった『霊界日記』において、聖書中の主要な登場人物使徒パウロが地獄に堕ちていると主張したり[2]、ダビデを「ドラゴン」と呼び彼も地獄に堕ちているとしたり[3]、同様にプロテスタントの著名な創始者の一人フィリップ・メランヒトンが地獄に堕ちたと主張した。だが、それらが書かれているのは、スヴェーデンボリがこの世にいながら霊界に出入りするようになった最初の時期にあたる非公開の日記であるため、スヴェーデンボリが自身で刊行した本の内容との相違点も若干見られる。主イエスの母マリアはその日記[4]に白衣を着た天国の天使としてあらわれており、「現在、私(マリア)は彼(イエス)を神として礼拝している。」と発言している。

スヴェーデンボリが霊能力を発揮した事件は公式に二件程存在し、一つは、ストックホルム大火事件、もう一つはスウェーデン王室のユルリカ王妃に関する事件である。

スヴェーデンボリは聖書中に予言された「最後の審判」を1757年に目撃したと主張した。しかし、「世界の政治・宗教・神学上で、その年を境になんらかの変化が起こったとは言えないため安直である」と彼を批判する声もある。

スウェーデンボリによる霊界の描写は、現代人に起こる臨死体験と共通点が多いとされる。両者に共通する点は、広大なトンネルを抜ける体験や光体験、人生回顧や時空を超えた領域を訪れる体験などである[5]。

自然科学

スヴェーデンボリは当時、ヨーロッパ有数の学者として知られ、彼が精通した学問は、数学・物理学・天文学・宇宙科学・鉱物学・化学・冶金学・解剖学・生理学・地質学・自然史学・結晶学などである。結晶学についてはスヴェーデンボリが開拓者の一人である。

動力さえあれば実際に飛行可能と見られている飛行機械の設計図を歴史上はじめて書いたのはスヴェーデンボリが26歳の時であり、現在アメリカ合衆国のスミソニアン博物館に、この設計図が展示保管されている。

霊界では地球人の他に火星人や、金星人、土星人や月人が存在し、月人は月の大気が薄いため、胸部では無く腹腔部に溜めた空気によって言葉を発するなどと説き、いまだに未知なる部分も多い。

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940713 No.7430

>>7429

評価

スヴェーデンボリへの反応は当時の知識人の中にも散見され、例えば哲学者イマヌエル・カントは『視霊者の夢』中で彼について多数の批判を試みている。一方で、カントは限定的に「スヴェーデンボリの考え方はこの点において崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である」(K・ ペーリツ編『カントの形而上学講義』から)と評価も下し、後のカントは「彼の不思議な能力の非常に多くが確実であり、彼は道理をわきまえ、礼儀正しく、隠しだてのない人物であり、学者である」と率直に語った[1]という。また、哲学者ラルフ・ワルド・エマソンは、スヴェーデンボリを霊的に巨大と評価し、他にフリードリヒ・シェリングの『クラーラ』など、スヴェーデンボリの霊的体験を扱った思想書も存在する。

また、ヘレン・ケラーは「私にとってスヴェーデンボリの神学教義がない人生など考えられない。もしそれが可能であるとすれば、心臓がなくても生きていられる人間の肉体を想像する事ができよう。」と発言し、他に影響を受けた著名人としては、ゲーテ、オノレ・ド・バルザック、フョードル・ドストエフスキー、ヴィクトル・ユーゴー、エドガー・アラン・ポー、ストリントベリ、ホルヘ・ルイス・ボルヘスなど挙げられ、特にバルザックは、その母親ともに熱心なスヴェーデンボリ神学の読者であった。

スヴェーデンボリは著作『結婚愛』の中で未婚の男性の買春、すなわち必要悪としての公娼がいる現状を消極的に認める記述をしている。基本的にスヴェーデンボリは不倫などの「姦淫」を認めておらず、一夫多妻制などは、キリスト教徒の間では許されないとその著述に書いている。しかし、これらは多くの近代国家の法律として広く認められ成立していることでもあり、彼だけに特有な考え方ではない。

日本においては、仏教学者、禅学者の鈴木大拙がスヴェーデンボリから影響を受け日本語訳を行い、明治42年から大正4年まで数年間にスヴェーデンボリ『天国と地獄』[6]ほか主要な著作を出版している。没後出版された『鈴木大拙全集』(岩波書店)に、スヴェーデンボリの日本語訳は収録している。

ニューエイジ運動関係者、神道系の信者ら[注 1]の中にある程度の支持者層があり、その経典中で言及されることも多く、キリスト教関係者では、内村鑑三や賀川豊彦もスヴェーデンボリの著作物を読んでいる。

一方で、東京神学校助教授・牧師の尾形守は、『ニューエイジムーブメントの危険』の中で、キリスト教的には異端、思想的にはニューエイジムーブメントのはしりとしてスヴェーデンボリの千里眼事件を批判的に紹介し[8]、「霊だからといって、みな信じてはいけません、それが神からのものかどうか試しなさい」(Ⅰヨハネ4‐1)、「あなたがたは霊媒や口寄せに心を移してはならない。彼らを求めて、彼らに汚されてはならない。」(レビ記19・31)等、新約聖書の字句を引用して、こうした傾向全体をキリスト教的には不健全で危険な発想と評し、悪霊による影響の可能性を指摘している[9]。

また、米国の福音派キリスト教弁護団体であるCARMは、スヴェーデンボリを危険な非キリスト教的神秘主義であると評し、その特徴として、三位一体やキリスト教で言う聖霊の働き、キリストの十字架の贖罪の否定を挙げている[10]。

しかし、19世紀の早期、イギリス国教会の教区牧師ジョン・クルーズは、スヴェーデンボリの著作を直ちに受け入れ、説教の中で会衆に自ら読むように熱心に勧めており(『スヴェーデンボリの主張』フランク・S・ローズ著より)、このように、既存教派の中にも支持者は実在している。

なお、思想体系としての現代への影響を見るなら、このスヴェーデンボリとメスメルの思想を背景として、19世紀にはスピリチュアル思想が起こり、これはブラヴァツキー夫人の霊媒論や神智学と相互に影響を授受し合いながら、現代のさまざまなオカルトや新しい宗教の源泉となった[11]。

しかし、スヴェーデンボリの著作に実際に記されているのは、聖書ヤコブの手紙等にあるように、「唯一なる神に心を向け、観念の遊戯や思い込みでなく、聖霊の力を借りた隣人愛の実践、不倫などの悪を罪・害悪として避けること、誠実に人と接し、仕事や役立ちに熱心に取り組むこと」であり、世で噂されている現実から乖離した狂人・変人、オカルティスト、神秘主義者などではない、とされる。

スヴェーデンボリ主義教会

スヴェーデンボリの死後、彼の思想への共鳴者が集まり、新エルサレム教会(新教会 The New Church とも)を創設した。新エルサレム教会はイギリスやアメリカに現存し、日本においても東京の世田谷区に存在する。また、別系統の団体としてジェネラルチャーチというグループが存在し、日本では東京グループが活動している[12]。

日本キリスト教団の沖縄における前身である沖縄キリスト教会では、スウェーデンボルグ主義の影響を受けた牧師が、戦後になって教団統一の信仰告白文を作ろうとしたところ、沖縄インターボード委員会(Okinawa Interboard Committee, OKIB)派遣の宣教師から異端として撤回をせまられた。その際、教会への経済的援助の打ち切りを持ち出されたため、沖縄キリスト教会は、止むなく、この信仰告白を撤回させされるような事件も起きている[13]。

なお、スヴェーデンボリの著作を主に出版するところとして、日本ではアルカナ出版があり、2006年にそこの主筆・翻訳者が逝去したが、出版社は逝去・死去したとは書かず、霊界入りしてしまった、とホームページに表記して事実を伝えた[14]。

フリーメーソン

また、フリーメーソンリーの友愛組合の一つとして、スヴェーデンボリ教義(英語版)が存在する。これはスヴェーデンボリの教えを基に設立された、とされており、その組織は徒弟、職工仲間、新しい親方、光輝な神智論者、青の兄弟、赤の兄弟、の計6つの位階からなる[15][注 2]。

1773年、Thorn侯爵によってアヴィニョンに設立され、当初は当時のフリーメーソンリーの悪評に対する権利を主張する目的を持った政治色のある組織であったが[17]、最初の10年のうちに廃れてしまった。

1870年になるとこの儀礼はヘルメス主義組織として復活したが、1908年頃には次第に衰退をしていった[18]。1982年にこの儀礼の免状は、大英博物館の居室において英国メーソンのデズモンド・バークによって、メーソンの作家であるミケーレ・モラマルコに伝達され、彼はそれをアンティコ・リト・ノアキタというイタリア儀礼の伝統の復古したような形に再編集した。

またスウェーデンにおいても、スヴェーデンボリの思想は、セーデルマンランド男爵に大きな影響を与え、彼は現地のフリーメーソンリー(Svenska Frimurare Orden)のグランドマスターとして、独自の位階制度を作り、その儀典を執筆した。

しかし、スヴェーデンボリの主要著作には、フリーメーソンに関する記述は一切ないのが事実であり、誹謗中傷の人物評と同様、誤解されていることも多い。

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940713 No.7431

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>>7430

下記サイトに興味深い情報がまとまっています

日本スウェーデンボルグ協会

https://littlestar-swedenborg2018.ssl-lolipop.jp/index.html

日本スウェーデンボルグ協会(略称:JSA)はエマヌエル・スウェーデンボルグ(1688~1772)の神学教説・宗教・思想等に関心を持つ人々が宗教や教派を超えて、その著作を学び、互いに交流を深めること、またその教説や思想の普及のために結成された営利を目的としない団体です。

スウェーデンボルグの影響目次

https://littlestar-swedenborg2018.ssl-lolipop.jp/influencecontents.html

目次

スウェーデンボルグの影響

フロストとリンカーン

鈴木大拙とスウェーデンボルグ

鈴木大拙に及ぼしたスウェーデンボルグの影響

夏目漱石

ヘレン・ケラー

ドストエフスキー

森有礼と新井奥𨗉

ル・クレジオ

内村鑑三

スウェーデンボルグとウェスレー

フロストとリンカーンとスウェーデンボルグ

 アメリカ発行のスウェーデンボルグ派の機関誌『ザ・メッセンジャー』1999年11月号に「ロバート・フロストとエイブラハム・リンカーンがスウェーデンボージャンだったのか」という興味深い記事がありました。

 ロバート・フロスト(Robert Frost,1874~1963)は、広い読者層を持つアメリカの国民詩人です。彼はケネディ大統領の就任式で自作詩を朗読しました。彼の母はスウェーデンボージャンで、彼は子どもの頃、母からスウェーデンボルグの思想を教えられています。1923年、あるインタビューに応えてフロストは、「私の哲学ですか? なかなか言うのが難しいですね。私はスウェーデンボルグ主義者として育てられました。いまはスウェーデンボルグ主義者ではありません。でも私の中に残っているスウェーデンボルグ的なものはかなりありますね」と語っています。

 一方、エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln,1809~1865)が、20代終わりから30代にイリノイ州スプリングフィールドで法律事務所を開いていた頃、スウェーデンボルグ派の人びとと交流を持っていた事実は、私たちによく知られています。しかし一般のリンカーンの伝記は、これに気づかないか、あるいはこれを無視しています。

  以下に訳出した文章は、もともとはサンフランシスコ・スウェーデンボルグ教会のニューズレターに掲載されたものを『ザ・メッセンジャー』誌が再録したものです。

…………………………………………………………………………………………………………

フロストとリンカーンはスウェーデンボージャンか?

     ジェイムズ・ローレンス

 いいえ、実際にはそうではありません。しかし両者は[スウェーデンボルグと]強い結びつきを持っていましたし、しかも両者についての記事が最近、思いがけなく現れました。スウェーデンボージャンはいままでずっと、私たちの大統領[リンカーン]がまだ青年の頃、ある程度までスウェーデンボージャンたちと交流したことを知っています。しかし今やイリノイ州レーナ(Lerna)にある、「リンカーン丸木小屋国立遺跡(The Lincoln Cabin State Historic Site)」―この遺跡にはリンカーンの父や継母の最後に所有した農場や自宅が含まれています―で働くスタッフたちは、1840年代のエイブ(リンカーンの愛称)の宗教学習をいっそう完全に認めようとしています。リンカーンの隣人、スティーヴン・サージャントとナンシー・サージャント(Stephen and Nancy Sargent)の二人は、エイブの親友であり、彼らはその地域のスウェーデンボージャンの活動組織の中心メンバーでした。

 歴史に詳しいスタッフ、スーザン・ゴーディ(Susan Gordy)によりますと、その地域におけるリンカーン家の歴史を含む諸文書は、スウェーデンボルグの霊的著作へのエイブの―彼女の言葉を借りれば―「どん欲な avid」関心と、同様にまたサージャント家でのスウェーデンボルグ派の礼拝や討論会への定期的な出席を指摘しています。

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940713 No.7432

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>>7430

https://en.wikipedia.org/wiki/The_New_Church_(Swedenborgian)

聖書以前のテキスト

スウェーデンボルグは、中東の「古代教会」の聖典がユダヤ教に先立って存在したと信じていたが、その聖典は失われている。『エホバの戦い』(民数記 21:14–15 に言及)[107]や『預言者たち』に似た書物(民数記 21:27–30 に言及)[108]など、その一部は聖書に引用されている(聖書で言及されている非正典の書物を参照)。[109]スウェーデンボルグが古代教会に属すると信じていた別の書物は『ヤシャルの書』で、これも聖書に引用されている(ヨシュア記 10:12–13、[110]サムエル記下 1:17–18)[111] 。彼によると、この書物はタタールにまだ存在していた。[112]

ヘブライ語のミドラーシュであるセフェル・ハヤシャルは1625年にヴェネツィアで出版され、英語訳は1840年に出版された。ヘブライ語のテキストは、後にスウェーデンボルグ派の牧師となった19世紀の聖書学者ジョージ・ブッシュ(ブッシュ家の親戚)によって調査された。新教会はこのヘブライ語のテキストに関して公式の立場を取っていないが、スウェーデンボルグは創世記の最初の部分は「古代の言葉」[113]から取られ、ヤシャール書[114]に見られると述べた。

私の宗教(ケラーの本)

https://en.wikipedia.org/wiki/My_Religion_(Keller_book)

『私の宗教』は、ヘレン・ケラー(1880 - 1968) が 47 歳のときに1927 年に書いた本です。この本は、ヘレンが「真のキリスト教がこれまでに知った中で最も高貴な擁護者の一人」とみなしていたエマヌエル・スウェーデンボルグへの賛辞として書かれました。この本は、ケラーの精神的な自伝と見なされており、その中で彼女は「エマヌエル・スウェーデンボルグの教えは私の光であり、私の手の中の杖であり、彼の素晴らしいビジョンによって私は私の道を歩んでいます」と述べています。

初版は大まかにまとめられ、ダブルデイ・ペイジ・アンド・カンパニーによって急いで印刷された[要出典]。それでも、1927年によく売れ、それ以来ずっと印刷され続けている。1994年、スウェーデンボルグ派の牧師で文学学者のレイ・シルバーマンが『私の宗教』を徹底的に改訂・編集し、初版の扱いにくい8つのセクションを12の独立した章にまとめ、内容を明確にするために小見出しを付けた。さらに、初版にはなかった重要な資料が追加され、原文を解明し拡張した。その他の改訂には、いくつかの単語やフレーズの現代化、適切な場所での包括的な言葉の置き換え、スペルやタイプミスの修正、現代の基準に合わせた句読点の変更、いくつかの歴史的不正確さの修正などがあった。余分な段落区切りが追加され、主要なメッセージから注意をそらすごく少数の文章が慎重に削除された。これらの改訂は、残されたものに比べれば取るに足らないものだった。[誰によると? ]

2000年版『Light in My Darkness』

2000年にスウェーデンボルグ財団出版社[1]から『私の宗教』の版が出版されましたが、これには1956年にガイドポスト誌に『私の闇の中の光』として掲載された「…………….」と題された記事も掲載されています。

「…..」と題された追加の記事は、ケラーが76歳のときに書かれたものです。1995年にガイドポストによって再版されたこの記事は、ケラーが生涯のスウェーデンボルグ派信者であったという事実を確立する点で重要です。この記事の中で彼女はこう書いています。

17 歳のときから、私はエマヌエル・スウェーデンボルグの教えに従って生きようと努めてきました。彼が「教会」と呼んでいたのは、教会組織ではなく、自分たちよりも長く人類に奉仕するために人生を捧げる思慮深い男女の精神的な交わりのことです。彼はそれを、教義や儀式に関係なく、善意、相互理解、一人ひとりからすべての人への奉仕という健全で普遍的な宗教から生まれる文明と呼びました。

2000 年版には、ケラーの最後の著書『教師』(1955 年)からの引用も含まれています。その中で彼女は、スウェーデンボルグの教えに対する衰えることのない熱意について語っています。彼女はまず、アメリカの詩人ウォルト・ホイットマンの次の言葉を引用しています。「おお、魂よ、風の強い午後に裸で走るランナーのように、あなたを悩ますものから解放されよ。優雅に立ち上がり、風を顔に受けながら、力強く進んで行け。」

ケラーはこう付け加えている。「あの高揚した状態で、私はエマヌエル・スウェーデンボルグの教えを受け入れ、彼の聖書の解釈に浸っていた。恐れることなく、敬虔に、それでいて太陽や雲や海のように制限のない。」

タイトルが「私の宗教」から「私の闇の中の光」に変更されたことは意義深い。新しいタイトルは、ケラーの詩的な発言から取られている。「私は、命は愛を育むために与えられたものだと知っています。そして、花の色と香りの中に太陽があるように、私の中に神がいると信じています。私の闇の中の光、私の沈黙の中の声です。」

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940713 No.7433

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>>7430

>日本においては、仏教学者、禅学者の鈴木大拙がスヴェーデンボリから影響を受け日本語訳を行い、明治42年から大正4年まで数年間にスヴェーデンボリ『天国と地獄』[6]ほか主要な著作を出版

鈴木大拙

https://ja.wikipedia.org/wiki/鈴木大拙

鈴木 大拙(すずき だいせつ、本名:貞太郎〈ていたろう〉、英語: D. T. Suzuki 〈Daisetz Teitaro Suzuki〉[2][3][4]、1870年11月11日〈明治3年10月18日〉[5] - 1966年〈昭和41年〉7月12日[5])は、日本の仏教学者、文学博士である。禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に紹介した。著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。1949年に文化勲章、日本学士院会員。

名の「大拙」は居士号である。故に出家者ではない。生涯、有髪であった。同郷の西田幾多郎、藤岡作太郎とは石川県立専門学校以来の友人であり、鈴木、西田、藤岡の三人は「加賀の三太郎」と称された。また、金沢時代の旧友である安宅産業の安宅弥吉は「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」と約束し、大拙を経済的に支援した[6]。

生前、1963年にノーベル平和賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している[7]。

来歴

石川県金沢市本多町に[5]、旧金沢藩藩医の四男として生まれる。

石川県専門学校に入学後、同校の後身第四高等中学校に進学するも退学し、英語教師をしていたものの、再び学問を志して東京に出た。東京専門学校を経て、帝国大学選科に学び、在学中に鎌倉円覚寺の今北洪川、釈宗演に参禅した。この時期、釈宗演の元をしばしば訪れて禅について研究していた神智学徒のベアトリス・レイン(Beatrice Lane)と出会う(後に結婚)。ベアトリスの影響もあり後年、自身もインドのチェンナイにある神智学協会の支部にて神智学徒となる。また釈宗演より「大拙」の居士号を受ける。大拙とは「大巧は拙なるに似たり」から採ったもので、『老子道徳経』と『碧巌録』が典拠であるという[8]。

1897年に釈宗演の選を受け、米国に渡り、東洋学者ポール・ケーラス(en:Paul Carus、1852-1919)が編集長を務め、その義父、エドワード・C・ヘゲラー( en:Edward C. Hegeler)が経営する出版社オープン・コート社(en:Open Court Publishing Company)で東洋学関係の書籍の出版に当たると共に、英訳『大乗起信論』(1900年)や『大乗仏教概論』(英文)など、禅についての著作を英語で著し、禅文化ならびに仏教文化を海外に広くしらしめた。

1909年に帰国し、円覚寺の正伝庵に住み、学習院に赴任。英語を教えたが、終生交流した教え子に柳宗悦や松方三郎等がいる。1911年にベアトリスと結婚。1921年に大谷大学教授に就任して、京都に転居した[9]。同年、同大学内に東方仏教徒協会を設立し、英文雑誌『イースタン・ブディスト』(Eastern Buddhist )を創刊した[5][9][注 1]。1939年、妻のベアトリス・レイン死去[5]。

晩年は鎌倉に在住、北鎌倉の東慶寺住職井上禅定と共に、1946年に自ら創設した「松ヶ岡文庫」(東慶寺に隣接)で研究生活を行った。1949年には、ハワイ大学で開催された第2回東西哲学者会議に参加し、中華民国の胡適と禅研究法に関して討論を行う。同年に日本学士院会員となり、文化勲章を受章した[5]。1952年から1957年まで、コロンビア大学に客員教授として滞在し[5]、仏教とくに禅の思想の授業を行い、ニューヨークを拠点に米国上流社会に禅思想を広める立役者となった。秘書として晩年の大拙を支えた日系2世の岡村美穂子(ブルックリン植物園の日本庭園担当者・岡村方雄の娘)も同大の聴講生だった[10]。1957年には『ヴォーグ』『タイム』『ニューヨーカー』で大拙が紹介され、禅ブームとなった[11]。ハワイ大学、エール大学、ハーバード大学、プリンストン大学などでも講義を行なった。鈴木はカール・グスタフ・ユングとも親交があり、ユングらが主催したスイスでの「エラノス会議」に出席した。またエマヌエル・スヴェーデンボリなどヨーロッパの神秘思想の日本への紹介も行った。ハイデッガーとも個人的に交流があった。1959年に至るまで欧米各国の大学で、仏教思想や日本文化についても講義を行った

1960年に大谷大学を退任し名誉教授となる。90代に入っても研究生活を続けた。

1966年7月12日、例年のように避暑も兼ねて軽井沢に3ヶ月程度の執筆に出かけようとしていた大拙は、自宅で激しい腹痛を訴え嘔吐を繰り返し、痛みに叫びながら救急車で運ばれた[12][13]。同日未明、絞扼性イレウス(腸閉塞)のため[14]東京築地の聖路加病院で死去、没年95[注 2][注 3][注 4]。最期の言葉は、秘書の岡村美穂子が「Would you like something Sensei ?」と言ったのに対し、「No nothing. Thank you.」であったという[12]。

没後は、鈴木学術財団(松ヶ岡文庫)が設立された。

墓所は金沢市野田山墓地の鈴木家墓所と、北鎌倉東慶寺、なお同じ境内に、岩波書店初代店主岩波茂雄や、西田幾多郎・和辻哲郎・安倍能成らの墓がある。毎年命日である7月12日には、大拙忌法要が行われる。

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940713 No.7434

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>>7433

次のDIGに繋がりそうな興味深い考察をまとめてくれている方がいたので転載させていただきます

https://kokuhiken.exblog.jp/24696340/

日本の神智学人脈

〇丹波周辺に出自を持つ宗教集団の共通信条は神智学的思想。神智学が日本の伝統思想と特に対照的なのはグノーシス的超越志向とワンワールド思想。「鬼・天狗」勢力にはこの二つの思想的特徴が顕著。神智学を受容することで、日本の伝統破壊かつ自らの理論武装。それによる西洋の手先としての日本支配。

〇神智学の日本流入ルート〇浅野和三郎→大本教〇藤無染→折口信夫〇ベアトリス・レイン→鈴木大拙〇神智学協会アリス・ベイリー派→三浦関造→信楽香雲〇日本近代カルトの元祖ともいうべき大本教はもちろんのこと、神道界と仏教界のビッグネーム、折口信夫と鈴木大拙の両者が神智学の影響を受けている。

〇鞍馬寺が神智学に影響を受けたルートは神智学協会アリス・ベイリー派→三浦関造→鞍馬寺貫主信楽香雲。大江山の霊媒集団(大江山鬼の交流博物館のHP上の資料を参照した。大江山の鬼・酒呑童子とは仏教勢力に追われた渡来系の鉱山民の首領ではと推測した。)→大本教。王仁三郎「わしは仏教を滅ぼす」

〇日本神智学の祖とも言われる三浦関造が影響を受けた神智学協会アリス・ベイリー派といえばその出版社「ルシス・トラスト」が有名である。国連本部ビルの中に入っているそうだ。ルシス=ルシファー。神智学で崇拝する金星から来たとするサナート・クマラ。これを本尊にしている鞍馬寺。奇怪なり。

〇折口信夫が戦後に唱えた神道論が極めてキリスト教的だと思っていたが、藤無染という浄土真宗僧侶の影響があるという説があるのを最近知った。藤無染は神智学の影響を受けて仏教とキリスト教を習合させようとしていた(何故そんなことをする必要が)。神道・仏教とも伝統思想の改竄ルートは様々ある。

〇鈴木大拙は神智学協会に入会して米人の妻は神智学徒であった。禅を神秘主義と言い、スウェーデンボルグを紹介し、アメリカで講演旅行をした(どこかの財団の支援?)ということで、限りなく怪しいと思っていたが、完璧なインサイダーであった。神智学徒が「世界的な禅の権威」扱いとは愕然とする。

(了)

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940713 No.7435

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>>7434

>神智学

神智学

https://ja.wikipedia.org/wiki/神智学

神智学(しんちがく、英: theosophy)[† 1]とは、神秘的直観や思弁、幻視、瞑想、啓示などを通じて、神と結びついた神聖な知識の獲得や高度な認識に達しようとするものである[1]。神知学、神知論、接神論とも。神智学は、名前のとおり「智」と「認識」を重視するものであり、神あるいは超越者が叡智的性格をもち、宇宙や自然もこのような叡智からつくられ、人間の智も神の智に通ずる性格をもっており、人間は霊的認識により神を知ること、神に近づくことができるとされる[2]。グノーシス派、新プラトン主義、インドの神秘思想などにも神智学的傾向がみられる[1][† 2]が、狭義には以下の二つのものを指す。一つは、17世紀にヨーロッパで顕在化した近代の「キリスト教神智学」の潮流であり、もう一つは1875年に設立されたインドに本部のある「神智学協会」の思想である[4][5]。後者は近現代に新たに創出された体系であり[1]、両者には共通点もあるが、系譜上のつながりはない[4]。通常、神智学と言えばニューエイジ(現在のスピリチュアル)、大衆的オカルティズムの源流である神智学協会に関するものを指すことが多い[4][6][7]。本記事では、神智学協会系の思想を区別する場合は〈神智学〉[† 3]と表記する。

神智学と〈神智学〉

神智学は、聖典や啓示の解釈を通じて神や世界の秘密を探ろうとする知的・精神的営為[10]、存在と自然の神秘に関する秘教哲学の体系、あるいはその神秘についての直接的な知を得ることを目指す探求を指す。本来的な意味での神智学は特に「神の本性」を知ることに重きを置くものを指しており、これに対して、「世界や自然」の秘密を知ろうとする傾向の神智学思想は汎智学(独: Pansophie パンゾフィー)とも呼ばれる[11]。神智学は秘教の広範な領域の一部であり、個の照明と救済をもたらす隠された知識や智慧に関連すると考えられている。神智家は宇宙の神秘を、そして宇宙と人間と神との結びつきを理解しようとする。神智学が目指すのは「神と人間と世界の起源」を探ることであり、それらを吟味することによって、神智家は宇宙の目的と起源についての首尾一貫した説明を見出そうとする。広義には新プラトン主義、グノーシス派、カバラ、ヨアキム主義も神智学に含まれる[12]。宗教改革以後では、新プラトン主義の系譜をひく自然神秘主義的な思想を展開し、医療錬金術を探求したパラケルスス、神秘体験から独自の神学を唱えたヤーコプ・ベーメらの著作も神智学の系列に属する[13]。とりわけ17世紀初頭のヤーコプ・ベーメの諸著作は以後のキリスト教神智学の大きな水源となり[14]、神智学が隆盛した18世紀から19世紀初めには、エマヌエル・スヴェーデンボリ、マルティネス・ド・パスカリ(フランス語版)など多くの神智学的思想家が登場した[15]。

〈神智学〉は、19世紀にブラヴァツキー夫人ことヘレナ・P・ブラヴァツキーが唱導した心霊主義[12]、なかでも彼女とヘンリー・スティール・オルコットが創設した神智学協会(Theosophical Society、1875年創設)に端を発する[16]、古代の忘れられた「叡智」の再発見と「普遍宗教」の確立を目指す運動とその教義を指す[17]。現代において神智学と言えば、神智学協会の教義を指すことが多い[4]。ブラヴァツキーはヤーコプ・ベーメにも言及しているが、初期のブラヴァツキー〈神智学〉は古代の新プラトン主義に範を取っており、従来のキリスト教神智学にはあまり目を向けなかった[18]。黄金の夜明け団の研究家R・A・ギルバートは、ヤーコプ・ベーメに代表される神智学と、神智学協会が広めた〈神智学〉は、全く関係ないと明言している[19]。〈神智学〉の基礎となる主要著作のひとつは、1888年に出版されたブラヴァツキーの大作『シークレット・ドクトリン』[† 4]である[20]。西洋と東洋の智の融合を目指す〈神智学〉は、のちのアメリカのニューエイジ運動、大衆的オカルティズムの起源となった[21][6][7]。〈神智学〉は、当時は「世界をおおうバニヤン樹」といえるほどの広範な影響力を有し[22]、現代にも影に陽にその大きな影響は続いている[4]。神智学協会の諸団体は世界の52以上の国でなおも活動している[† 5]。

英語では一般的な意味での神智学的思想家は theosopher (神智家)といい、神智学協会の追従者を指す Theosophist (神智学徒、神智学者)とは区別される[23]。伝統主義学派(英語版)の旗手ルネ・ゲノンは、『神智主義 - ある似非宗教の歴史』(1921年)を著して神智学協会を批判し、同協会の教義を「神智主義」(仏: théosophisme テオゾフィスム)と呼んで伝統的な神智学と区別した[24]。

語源

神智学 (theosophy) という用語は、古代ギリシア語で神を意味する θεός(テオス)と叡智を意味する σοφία(ソピアー、ソフィア)の合成語 θεοσοφία, theosophia (テオソフィア、神智)に由来しており、直訳すると「神の叡智」「神に関する智慧」という意味になる。

ブラヴァツキーは、3世紀の古代ギリシアの思想家アンモニオス・サッカスとその弟子たち(オリゲネス、プロティノスなど)が使い始めたと述べている[25]。この theosophia (神智)という言葉は、古くはポルピュリオスやイアンブリコスの新プラトン主義の著作に現れ[26]、初期キリスト教の教父たちのギリシア語・ラテン語の著作においても神学の同義語として用いられている[27]。theosophoi は「神に関することを知る者たち」である[28]。神智学は神学の同義語として用いられることが多かった[29]。

「神智学」という言葉は絶え間なくさまざまな意味を付与されてきた[30]。そのため、神智学という言葉を古代に使われたような意味で用いたり、厳密に語源にもとづいた意味で用いることは、学会においては一般的ではない[30]。

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940713 No.7436

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>>7435

ブラヴァツキーと〈神智学〉運動

〈神智学〉は、ロシア出身のヘレナ・P・ブラヴァツキー(通称ブラヴァツキー夫人、1831年 – 1891年)に始まる思想・実践で、現代で神智学と言えば、こちらを指すことが多い[4]。アメリカ人のヘンリー・スティール・オルコット(通称オルコット大佐、1832年 - 1907年)とブラヴァツキーらが1875年に組織した神智学協会(神智協会)によって広められた。神智学協会は「真理にまさる宗教はない」をスローガンに掲げている[53]。

ブラヴァツキーによれば、〈神智学〉運動とは、太古より特定の秘儀参入者によって伝承されてきた宇宙と人間の秘密から、時代ごとにふさわしい形式で東西の宗教が発生してきたとされ、その諸宗教の対立を超えて、秘密の重要部分を公開することで、再び古代の根源的な「神的叡智」への回帰を目指そうとするものである[54]。その〈神智学〉は、「西洋伝統思想」が基礎にあり、西洋と東洋の智の「融合・統一」を意図するものであるとされる[21]。

自らの組織の名称に「神智学」という名称を選択することで、神智学の伝統に連なろうとしたのではないかという意見もある[55]が、初期会員のチャールズ・サザランがたまたま辞書で目にした用語が団体名に採用されたという説もある[56]。R・A・ギルバートは、神智学協会が広めた〈神智学〉は独自解釈した仏教・ヒンドゥー教であり、ヤーコプ・ベーメに代表される伝統的な神智学とは全く関係ないと明言している[19]。

ブラヴァツキー自身は、〈神智学〉は宗教ではなく、「神聖な知識」または「神聖な科学」であると述べている[57]。社会人類学者の杉本良男は、神智学協会の性格づけはなかなか難しい意味があり、いわば否定的定義として、宗教のようで宗教でない、オカルトのようでオカルトでない、心霊主義のようで心霊主義でない、哲学のようで哲学でない、それらの純粋型としてのまことの「古代の智慧」の探求だということになるのであろうと述べている[58]。この純粋型は当時すでに失われていたが、インドのヴェーダにその原型をとどめているとされた[† 11][57]。

神智学協会の〈神智学〉運動は、19世紀末を代表する文化運動のひとつであり、その衝撃は、さらに20世紀初頭のモダニズム誕生から、1960年代のカウンターカルチャー、20世紀末に始まるニューエイジと精神世界(現在のスピリチュアル)を理解していく上で、「鍵」となる存在である[59]。欧米文化の秘教主義、神秘主義、オカルト主義の趨勢が一群となったこの運動を、秘教的音楽史家ジョスリン・ゴドウィン(英語版)は「神智学的啓蒙」と表現した[59]。

当時ヨーロッパでは仏教に関心が持たれていた[60]。外国人の入国が禁じられていたチベットについては、超能力を持つラマなど神秘的な逸話が流布しており[† 12]、欧米人は深いあこがれを抱いていた[61]。ブラヴァツキーらは〈神智学〉を真の仏教、「秘伝仏教」であるとし、彼らが「大師(マスター)」「マハトマ(偉大な魂)」と呼ぶチベットの精神的成就者(アデプト・秘儀参入者)から授けられた秘密の教えであると主張した(哲学者・宗教学者・社会学者のフレデリック・ルノワール(フランス語版)は、実際には仏教よりもヒンドゥー教に近いと述べている[60])[62]。

ブラヴァツキーはアメリカで執筆した大著『ヴェールを剥がれたイシス』[† 13]ではカバラ[† 14]、新プラトン主義[† 15]、グノーシス、メスメリズムなど古今東西のさまざまな思想を引き合いに出したが[63]、活動の場をインドに移してからはヒンドゥー教や仏教の教えを多く取り入れた[64]。しかしそれらの東洋思想の理解には限界があり、理解可能で利用できる部分だけを摂取して、それから先はカバラや新プラトン主義で補うという方法が取られた[64]。西洋のインド思想・仏教の理解は誤解に満ちており、理解できない部分を「西洋思想」で補って解釈しているため、「カルマ」や「輪廻転生」などの解釈は引用元のものとは相当に異なる。もしくは、西欧の神秘主義の伝統的な思想を、西欧が植民地支配によって接触できたアジア宗教の用語によって装飾または再解釈したものであり、普遍的なものとしてグローバル化したものであるとも言われる[65]。神智学協会の研究対象は、古代密儀宗教以降の西洋秘教伝統のすべてであり[66]、その体系と内容は、インド思想など東西の多くの宗教・哲学の要素を折衷して組み立てられているため極めて複雑である[67][21]。

宗教社会学の研究者である樫尾直樹によると、〈神智学〉を要約すると、人智を終局的に規定する神の智の「認識」を、五感を越えた超感覚的な霊性を基礎として探究することを目的としている[21]。宗教学者の大田俊寛によれば、〈神智学〉とは、不滅とされる霊魂が輪廻転生を繰り返しながら、自らの霊性を進化・向上させ、ついには神的存在にまで至るという「霊性進化論(英語版)」を目的としている[68]。

ブラヴァツキーは1877年に第一の主著『ヴェールを剥がれたイシス』を発表し、1888年には第二の主著『シークレット・ドクトリン』を発表した[69]。前者は、題名から理解されるように、西洋オカルティズムの故地とされるエジプトを志向したものである[56]。後者は、センザールという古代の神聖言語で書かれた「ジャーンの書」[† 16]をブラヴァツキーが翻訳・解説したという体裁を取った本であるが、「ジャーンの書」なるテクストが実在したという証拠はない。インド渡航の成果は〈神智学〉が〈神智学〉となる思想面の転換の契機を与え、『シークレット・ドクトリン』でブラヴァツキーの教えは完全な形で示された[70]。岩本道人(吉永進一)は、この本は近代〈神智学〉文献で最も重要なものであると述べている[71]。ただし、通常の理解力では到底把握できない内容・文体であった[72]。

歴史学者のセオドア・ローザクは、『ヴェールを剥がれたイシス』と『シークレット・ドクトリン』の「そのパノラマはあまりに広く、洞察と偏屈な意見が多すぎて容易な論評を許さない」と述べている[73]。ほとんどの人が『シークレット・ドクトリン』を理解できず、わかりやすく大要をまとめた『神智学の鍵』が出版された[72]。深遠さを演出して読者を煙にまく神秘化の手法も用いられ、重厚で難解だったブラヴァツキーの思想が当時の人々にどれほど理解されたかは不明であるが、その思想に含まれる強靱な体系を構築する核となりうる諸要素は、彼女の死後に明確化・具体化されていった[74](吉村正和は、〈神智学〉において魂の構造や再生について多様な解釈が生まれるのは、ブラヴァツキーがそうした点を明確に説明していないからであると述べている[75])。

教育学者の岩間浩は、神智学協会は極めてユニバーサルな、国際的、非ドグマ的、平和主義的、精神修養的な性格を持っていたと述べている[76]。ブラヴァツキーが人種・宗教・身分を超えた神秘主義研究を訴えたこともあり、当時は影響が大きかった[12]。ヨーロッパ諸国、北米、英国の統治下にあったインドを中心に世界的に普及し、ルドルフ・シュタイナーの人智学など多くの分派や支流を生み出した。神智学協会は、秘教思想、そして仏教やヒンドゥー教の基本的な考えが西洋世界に普及するうえで、深い影響を与えた[77]。神智学協会自体の活動は1930年代には下火になったが[12]、その思想は書物などを通じて広範な影響力を今も有しており、近現代の新宗教やニューエイジにもその大きな影響が窺知される[4]。

ニューエイジの思想や実践の大半は、1875年から1925年の協会の活動にその淵源を見出すことができる[78]。例えば、20世紀初頭の〈神智学〉の本や雑誌では、ヨーガ、瞑想、占星術、チャクラ、オーラ、水晶、前世、スピリチュアル・ヒーリング、天使と妖精、象徴表現、民間伝承、古代密儀宗教、世界の宗教の聖典の秘教的な解釈などが取り上げられていた[78]。〈神智学〉は、科学の台頭で没落していたオカルト諸要素を、その秘伝の体系に取り入れて、後期ヴィクトリア朝時代の教養人たちのオカルトへの関心を呼び覚ました[79]。20世紀の多くの西洋オカルティストたちも直接間接にブラヴァツキーや〈神智学〉運動の影響を受けており、〈神智学〉を批判したルネ・ゲノン、神智学徒たちを揶揄したアレイスター・クロウリー、薔薇十字を名乗る現代の諸団体もその例外ではない[80]。

日本では、〈神智学〉と神智学協会は1889年にオルコットが来日した頃に紹介された(当時は「霊智学」と呼ばれた)が、評価は一部の仏教青年に限られていた[81]。1910年には『神智学の鍵』が『霊智学解説』のタイトルで翻訳されたが[82]、一般に広まったのは、「精神世界」(現在の「スピリチュアル」)の流行や「第三次宗教ブーム」が見られた「1970年代から80年代」以降である[83]。

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940713 No.7437

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>>7436

〈神智学〉の理論と思想

背景

ブラヴァツキーに始まる近代〈神智学〉の背景となっているのは、硬直化したキリスト教と、「霊」を排して「物質」のみに根拠を求めようとする自然科学へ反発である[84]。〈神智学〉は、自然科学が台頭した時代に、科学の検証に耐えうる新しい宗教として打ち立てられた[85]。ブラヴァツキーはしばしば超常現象を見せ、それはほとんどは奇術まがいのトリックであったが、人々の耳目をひきつけた[85]。彼女自身の不思議な魅力と超常現象への興味があいまって、〈神智学〉は注目された[86]。

理論・思想

万物を構成する「宇宙的生命」すなわち絶対的本質は、万物を流出させる根源的な原理であり、それは精神と物質、光と闇、男性と女性、能動性と受動性といった区別を越えたところにあるというのが基本教義である[87]。ブラヴァツキーは同時代に流行した心霊主義の霊媒として活動していたが、心霊主義の単純な霊魂論に異議を唱え、物的証拠とは無縁の霊魂の存在と、ユダヤ・キリスト教の主流では否定されていた死後の「再生」(輪廻転生)を確信し[12]、身体的な進化の基礎となる「霊的な進化」の理論を唱え、人間は輪廻の連鎖を通して起源へ旅する神性の輝きが具現化したものであるとみなした[77]。数十億年もの進化の果てに「神」に近い存在に近づくことができるとし、すべての「心霊的自我(霊魂)」はニルヴァーナ(涅槃)に到達し、宇宙的・神的根源に至るとした(このような涅槃の説明は、仏教ともヒンドゥー教徒とも異なっている)[88][89]。また、新しい心霊学としてインド思想の要素を取り入れ[90]、連続した生の環境を統括するものとして「カルマの法則」を提唱した[77]。その理論の基礎には、マクロコスモス(宇宙)とミクロコスモス(人間)との照応(コレスポンダンス)という西洋伝統思想がある[21]。

神智学協会はキリスト教の神のような「人格神」を立てない[91]が、フレデリック・ルノアールは、〈神智学〉は一種の有神論と一種の「個人的自我」への信仰であると述べている[92]。岩本道人は、『シークレット・ドクトリン』における真にオリジナルな教説は、聖なる数字とされてきた「七」を用いたオカルト進化論の単位とも言える「周期(ラウンド)」と、「根源人種(ルート・レース)」の神秘的人種論の二つだけであると述べている[71]。岩本は、『シークレット・ドクトリン』の特質をなすオカルト進化論は、その二つの理論を除いてサンスクリット語の装飾を落とせば、一昔前のアルフォンス・ルイ・コンスタン[† 17]以来の西洋近代オカルティズムの伝統であるカバラの上に成立しており、その独特の人種論もフランス人オカルティストたちに起源があると指摘している[93]。吉永と松田は、フランスの秘教家サン・ティーヴ(フランス語版)などとの類似が指摘されるものの、極めて独自な思想であると述べている[94]。

岩間浩は、〈神智学〉および神智学協会の特質を、次のようにまとめている[95]。

神智学は知恵の科学である。人類を一つの同胞と見、その「進化」発達を「宇宙史」的な観点から捉える(霊性進化論(英語版))。

宗教の「源は一つ」であり、各宗教は最高の自覚へと至る門であるとし、それぞれの宗教の「比較研究」をする。すべての人・生命は神性を宿すとみる立場(神性の原理)、すべての人を同胞とみる立場から、宗教・宗派、人種・民族、国、性、身分、職業、貧富などの違いによって人を差別することを禁じる。

自然及び人に秘められた真理を探求する。人とは「人生という学校」で学びつくすまで生まれ変わりを繰り返しつつ、「進化」の道を辿る(再生誕の法則)とし、生命の不滅を説く。

「進化」の過程で深い自己解放(真の自由)に到達し、生まれ変わって学ぶ人生学校を卒業した存在(超人、覚者)を認め、彼らによる人類への慈悲の保護・援助の大計画・争いのない平和な社会を創造する大計画を認め、彼らを教師として励む弟子道を、自覚的に歩もうと心がける。そして自己訓練的に高い倫理的な生き方を目指す(具体的には、菜食し、酒や薬物を慎み、理想的にはそれらを断ち、規律ある瞑想的生活を送るよう求められる[† 18]。

特に心の純粋性、愛、高貴性、正義、公平、寛大、誠実、無執着、自由といった内面性を重視する。

人の思ったり行ったりする行為はすべて宇宙に影響を及ぼし、やがてその結果を刈り取る(カルマの法則)、思いを含む全ての行為は作用があれば反作用がある(作用反作用の法則)と説く。

現代のカトリック教会は、ブラヴァツキーの著作の中心となる主張は「女性解放」であり、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の「男性的」な神への批判を含んでおり、ヒンドゥー教の母なる神々と女性的な徳の実践に回帰することを人々に求めたと解説している[96]。この精神はフェミニズム運動の先駆者であった後継者アニー・ベサントに、さらに現代のウイッカや「女性の霊性」に受け継がれ、現代の「父権的」キリスト教に対する闘争を続けていると述べている[96]。

思想の3つの柱

ブラヴァツキーは『神智学の鍵』 (The Key to Theosophy) において、折衷的神智学[† 19]の思想の柱は次の三つであるとしている[97]。

全宇宙の根底には、一つの絶対的で人智を超えた至高の神霊や無限の霊力が存在しており、見えるものも見えないものも含めた万物の根源になっている、という思想。

普遍的な魂からの放射である人間は、その至高の神霊と同一の本質を共有しているがために初めから永遠で不滅である、という思想。

「神聖な作業」を通じて神々の働きを実現すること。

協会の3つの目的

『神智学の鍵』における協会の柱は次の3つである[55]。

人種や肌の色や信仰による差別のない、「人類」の普遍的な「友愛」の核となること。

アーリヤ語およびその他の言語で書かれた「聖典」、並びに世界の諸宗教と諸科学の研究を奨励し、古代アジアの、特にバラモン教、仏教、ゾロアスター教の哲学作品の重要性を証明すること。

「自然」の隠された神秘、わけても人間に潜在する心霊的、精神的な力を、可能な限りあらゆる局面で、深く追及すること。

西洋エソテリシズムの研究者ワウター・ハーネフラーフ(英語版)は、ここでいう科学はオカルト科学、哲学は隠秘哲学、自然の法則はオカルト的ないし心霊的な自然の法則であり、比較宗教は、ヘルメス主義者の「永遠の哲学」を模範とする「原始的伝統」の解明が期待されていたと述べている[98]。

取り入れられた宗教・思想 

神智学協会の〈神智学〉は、「西洋伝統思想」に仏教など多様な宗教・思想を折衷して作られた。マハトマ(秘儀参入者)が伝承してきた教えは、様々な宗教や神秘思想とオカルトの源泉であり、真理はそれらのなかにも断片として表現されているが、〈神智学〉はその教えを純粋に復原したものと主張される[99][100]。

〈神智学〉では、古代エジプト、神秘主義、ヘルメス思想、ギリシア哲学、キリスト教、新プラトン主義、グノーシス主義、カバラ、ヴェーダ、バラモン教・ヒンドゥー教(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ、ヨーガを含む)、仏教(特に、チベット仏教を含む北伝仏教)、ゾロアスター教、魔術、錬金術、占星術、心霊主義、神話、フリーメイソン、薔薇十字団などから様々な文脈の中で引用が見られるが、それらの知識のなかから、曇りのない秘儀を抽出することで叙述されたものとされる[99]。

とは言っても、すべての宗教を同列とみなしたわけではなく、ユダヤ教は忌まわしい代物で(好意的な引用もある)、キリスト教はイエスを除けば何の値打ちもなく、イスラム教も数人の神秘家を除けば同様であるとし、その叡智が宿るのは「人類の魂のゆりかご」インドであるとした[101]。

特に仏教への偏愛が著しく、もっとも完成されたものと判断した[101]。ただし、その仏教は、大衆の間で実践され学者が研究してきた「顕教的な(外面的な)仏教」ではなく、「秘儀伝授を受けたもの」のみに伝えられてきた「秘教的仏教」であり、彼らの言う「顕教的な仏教」には重大な誤りが含まれており、無学な大衆向けのものであるため、宇宙の意味や人間の運命にかかわる究極の英知は含んでいない、という[102]。

初期の〈神智学〉ではキリスト教は厳しく排斥されたが、のちに後継者のアニー・ベサントは、ブラヴァツキーら先輩たちの教え、特にキリスト教に関するものを修正し、表向きのキリスト教の背後に由緒正しい「秘教的なキリスト教」が存在するとしてキリスト教を東洋思想と同列に並べた[103]。この戦略で、多くのキリスト教徒が〈神智学〉に引きつけられるようになった[103]。

ブラヴァツキーは、伝統的な神智学の大家ヤーコプ・ベーメに申しわけ程度に言及している[104]。イギリスの小説家エドワード・ブルワー=リットン(初代リットン男爵)は、友人のエリファス・レヴィの理論を焼き直したオカルト小説を書いているが、このブルワー=リットンからも直接影響を受けている[105]。また、〈神智学〉を提唱する以前の若い時にフランスのパリで過ごした際、霊の進化と生まれ変わりを唱えるスピリティスムを提唱した霊媒・教育者アラン・カルデックのグループに足しげく通っていた[106]。

これらと進化論などの新しい知見を折衷して、ブラヴァツキーは万物の一元性、宇宙や文明や人種の周期的な発生と衰退、カルマと普遍的な因果応報、再生(輪廻転生)、太古の文明、超能力、高次の意識、原子や鉱物や惑星の進化、生命体の進化に伴う天体間の移動などを説いている。

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940713 No.7438

>>7437

霊的進化と転生

ブラヴァツキーはダーウィンが提唱した「進化論」から進化という概念を、インドやチベットの思想から「カルマの法則」と「輪廻転生」(再生)の理論を取り入れ再解釈した[107]。

〈神智学〉では、キリスト教のように絶対者が霊魂の救済と罰を審判するのではなく、すべての行為が原因となって果報を生じる「カルマの法則」の普遍的な因果応報が人間を支配すると考えられた[87]。自らの行為による結果を自分で引き受けるというカルマの法則により、人間は自身の運命を決めていく[87]。この法則により、自らの努力により無限の精神の向上が約束されているとする(このような発想はインドの輪廻・業(カルマ)とは異なっている)[87]。これには今生の生だけでは不十分であり、人生という「学びの学校」を、幾度となく再生(輪廻転生)を繰り返した「霊的進化」の終わりに、人間の「霊的な完成(高次の自己)」[† 20]を想定し、最終的にマハトマ(偉大な魂)の境地にまで至るとされた[108][95]。自助努力によって無限の精神の向上が可能であり、最後には「神」に近い存在に近づくことができるとし、キリスト教に替わって自己が自己を救済するというシステムを構築したのである[89]。

近代〈神智学〉では、東洋の哲学・宗教の多くの教えが改変されたが、特に「輪廻転生」の理論は根本的に改変され、元来の教義からはるかに遠ざかっている[109]。〈神智学〉の転生の信仰では、永続する個人的な根源、死後も存続し次の生へ転移する「自我(霊魂)」の存在が想定されている(仏教では実体のある自我は存在せず、個人的意識・霊魂が輪廻することはない)[109]。神智学徒たちは、チベットのトゥルク(化身ラマ)という悟りに到達した人が、衆生が地上で苦しむ限り涅槃に達しないという菩薩の誓いを立て、死の瞬間に人格と意識の統一を保持し転生するという慈悲の転生から着想を得て、秘教的仏教では死後の意識の根源を認めていると賛美したが、フレデリック・ルノワールは、チベットの概念では生まれ変わる「永続的な根源」や「個人的な意識」の存在は想定されておらず、その教えを歪曲したものであると指摘している[110]。チベットの思想において、トゥルクは全くの例外的存在である[111]。

フレデリック・ルノワールは、ブラヴァツキーの進化論的な転生の教義は、西洋近代の転生の思想の系譜に連なると指摘している[112]。〈神智学〉の転生論はアラン・カルデックが創始したフランスの心霊主義運動(スピリティスム)から借用したもので、カルデックの考え自体も、社会的不平等を説明しようとしたシャルル・フーリエ、ピエール・ルルーなどの19世紀の何人かの社会主義者たちからの借用であり、その社会主義者たちの理論も、18世紀後半に生まれたニコラ・ド・コンドルセやジャック・テュルゴーなどの「進歩」の概念に拠っている[112]。おそらく最初に明記したのはドイツの思想家ゴットホルト・エフライム・レッシングによる『人間教育』(1780年)であるという[113]。

また、「人間」以外の動物にも生まれ変わるという考えを受け入れることはできなかったため、人間は人間に生まれ変わり転生を通して進歩向上するとした[111]。西洋近代の転生の信仰は東洋に由来するものではなく、「進歩」という観念を支持するヨーロッパの哲学者たちから生まれたもので、人類の「直線」的な進歩の観念によるものだが(一方、ヒンドゥー教や仏教の時間は「円環周期」的なものである)、〈神智学〉は(西洋近代の転生論の系譜に連なる)自身の転生論に真の仏教の教義があるとした[113]。人間はその進化の7つの時期に応じて、それぞれ異なる惑星に生まれるという[88]。

神智学協会は、転生についてこまごました情報を示し、人間は地上の生という「学びの学校」で達成できる「霊的成長」の限界まで来ると、次に転生するまでの間、霊魂は高次の精神界に行き、デーヴァチャン(英語版)[† 21]という「楽園」で1500年休息して(幼くして死んだ子供は別で、すぐに転生する)、地上の生で得た成果を整理し、その後カルマの法則に従い前世の功罪に応じて生まれ変わり、再び肉体を得て地上の生に戻る(再受肉)とした[88][114]。神智学徒たちは、これら「秘教的仏教」を構成する「永遠の真理」は、マハトマから口授されたものであると述べている[115]。

インドでは解脱の手段として苦行、ヨーガ、祈りなど様々な方法がとられており、〈神智学〉同様、輪廻転生と霊的進化を教義に持つスピリティスム(カルデシズモ)では、「霊的進化」の手段として慈善活動を重視するが、〈神智学〉では霊的進化の手段として、理論と霊知の探究に力点を置いている[116]。

〈神智学〉の霊的進化論(霊性進化論)は、最終段階で神に近い存在に至るとされるが、キリスト教で神が天地創造の段階で人間を神の似姿として作ったという神話の逆である[89]。また、人類は初めは肉体をもたない霊的な存在(第一根源人種)であったが、徐々に退化して物質世界に埋没したのが類人猿になったとされる[117]。吉村正和は、これは猿人からの進化を説くダーウィンの進化論の逆であると述べている[117]。

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940713 No.7439

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>>7438

マハトマ(偉大な魂)・大師(マスター)

神智学協会の主張によると、宗教、神秘主義、オカルトの奥義は、歴史の黎明以来ひそかに受け継がれてきたもので、それが支配する力の大きさや危険性から、どの時代においても一部の選ばれた少数の人間にのみ伝授され、守られてきたものであるという[118]。神智学協会の創立者たちは、自分たちがそれを託された最後のものだと主張し、自分たちの使命は全世界のそれを知らしめ、その「ヴェールを脱がせる」ことであるとした[119]。

こういった奥義を継承する「見えざる師」というコンセプトは、17 - 19世紀の西洋の秘儀伝授を特色とする団体のほとんどにみられる[120]。宗教、神秘主義、オカルトに関する知識は、自分自身の内的な認識、超感覚的知覚、神秘体験、霊覚、直接的な観察などによって得られるとされるが、宗教、神秘主義、オカルトの思想家たちは、古代のエジプトやインドの賢者たちも含めて、外部の様々な現象を分析し客観性や合理性を重視する実証主義的な現代の科学者たちよりもある意味では優れた認識や理解を得ているという[121]。

そうした、宗教、神秘主義、オカルトの教義に精通し、神秘の奥義を伝授されている人間は、「秘教の秘伝への参入者」と呼ばれるが、その中でも特に奥義を体得している者たちは、様々な超常的な力(物質化、テレパシーなど)を有していたり、肉体を通常よりもかなり長い期間にわたって維持していたり、宇宙の諸現象の理解や人類への愛の面で卓越していたりするという。ブラヴァツキーは、チベットでそれらの参入者たちに師事して教えを授かったと主張している(しかし、ブラヴァツキーがチベットを訪問したという証拠はない)[122]。当時チベットは外国人の立ち入りを厳しく禁じており、チベットに関することは検証不可能であったため、当時この話は非常にもっともに見えた[105]。

ブラヴァツキーはインドに渡って以降、自らの思想が、「大師(マスター)」「マハトマ(偉大な魂)」と呼ばれる霊的熟達者(秘儀参入者)に由来するとした。マハトマ[† 22]は大賢者としてゴータマ(釈迦)から伝わる大宇宙の秘儀に通じているとされた[75]。マハトマは複数存在し、チェラ(弟子)にその秘儀を継承していくと考えられた(マハトマ・モリヤのチェラがブラヴァツキーであるとされる)。彼らはヒマラヤに住んでいるとされ[123]、「グレート・ホワイト・ブラザーフッド(大白色同胞団)」という秘密結社を形成し、古代の叡智を受けついでいるとされた[124]。かれらの本拠地はゴビ砂漠にあるシャンバラであるともされた[125]。

秘密裏に世界を支配しているというその組織のメンバーは、アブラハム、モーセ、ソロモン、孔子、ブッダ、老子、ソクラテス、プラトン、イエス、ヤーコプ・ベーメ、フランシス・ベーコンなど、万人に知られた哲学者や宗教の開祖たちである[120]。ブラヴァツキーは大師たちと超自然的な方法で交信しているとして、大師からの手紙「マハトマ書簡」を空中から取り出すという奇跡をしばしば実演した[124]。マハトマ書簡の出現の仕方は、多くの場合、いつの間にか机の上などに置かれているというものであったが、それはアポートによるものであると解釈された。

ブラヴァツキーとアルフレッド・パーシー・シネット(英語版)は「マハトマ書簡」で、オカルトの達人の名前として、モリヤ、クートフーミ、ヒラリオン、ジュワル・クール(英語版)などの名前を挙げている。ブラヴァツキーと彼女に続く神智学徒たちは、モリヤとクートフーミから啓示を受けていると明言するようになった[120]。チャールズ・ウェブスター・レッドビータの著作『人間 - どこから、どうやって、そしてどこへ』(1913年)や『大師とその道』(1925年)は、イエスも大師のひとりに挙げている(イエス大師)[† 23]。

マハトマは〈神智学〉の根本にある思想であるが、当初から存在自体が疑問視されていた[75]。霊的存在で不可視であるなら見えないことも道理であるが、そうは考えられておらず、ブラヴァツキーは地上でしばしば目撃されると述べており、インドのヒンドゥー教改革団体で一時神智学協会と提携していた「アーリヤ・サマージ」の設立者ダヤーナンダ・サラスヴァティー(英語版)と同一視されたこともある[126]。フレデリック・ルノワールは、「見えざる師」たちを引き合いに出したことが、神智学協会の成功を保証したのは間違いないが、謎めいた実在が立証できない指導者たちの実在を基盤に協会の全機構を打ち建てたことは、協会のアキレス腱ともなったと指摘している[127]。

ブラヴァツキーの死後、オルコットとアメリカ支部長のウィリアム・クアン・ジャッジ(英語版)の間で熾烈な権力闘争が起こり、モリヤは無条件でオルコットを支持しているとし、ジャッジはオルコットの解任と自身のトップへの就任を促すクートフーミの手紙を示したことで、信奉者たちにとってマハトマの反目という深刻な事態を引き起こした[128]。

クーロン事件

1883年、米国の心霊主義者ヘンリー・キドルはA・P・シネットの『オカルト世界(英語版)』(1881年)に掲載されたクートフーミ[† 24]の手紙について、出版された自分の講演の剽窃だと指摘した[129][130]。ロンドンの神智学協会会長や多くの神智学徒が協会を離れたが、それだけでなく、英国心霊現象研究協会 (SPR)という権威ある団体の注意を引くことになった[130][131]。また神智学協会の急激な拡大とヒンドゥー教勢力への接近は、カトリック教会と心霊主義の反発を買っていた[132]。マドラス郊外のアディヤール地区にあった神智学協会本部では、ブラヴァツキーの知人エマ・クーロンが働いていたが、クーロン夫妻は「マハトマ書簡」出現トリックの助手であったとされる。夫妻は1884年に、「マハトマ書簡」がブラヴァツキーによって書かれた証拠と共に、「奇跡」の手の内を暴露した(クーロン事件)[133]。1885年に英国心霊現象研究協会のリチャード・ホジソンによって虚偽性を非難するホジソン報告(英語版)が発表されている[133][134](後にこれは心霊現象研究協会手続上の瑕疵により、心霊現象研究協会としての行動ではなかったと表明)[† 25]。心霊現象研究協会の社会的信頼は大きく、これを引き金にカトリック系、心霊主義関係、共産主義の出版物や新聞に続々とゴシップが載り、神智学協会は大きな打撃を受けた[131][136]。

第二世代以降のマハトマ

C・W・レッドビータは、「霊的進化を完成させた人間」が大師(マスター)であり、彼らが諸文明の発展を導いているとした[137]。霊的進化を確実かつ順調に行うためには、大師が定める指針に従わなければならず、大師に出会うためには宗教を学ぶこと、特に〈神智学〉が示したヨーガや瞑想の実践を通して大師に精神的波長を合わせることが推奨された[138]。

大師に出会うことができた人間は、グレート・ホワイト・ブラザーフッドの一員になるため「イニシエーション(英語版)」(加入礼、秘儀伝授)を受けるが、これは九段階で構成され、どこまで通過したかによってグレート・ホワイト・ブラザーフッドの「ハイアラーキー」(階級組織)に占める位置が区別される[139][要文献特定詳細情報]。第一から第四までは大師になるための前段階で、第五階級は大師の入り口であり、これに到達した人間は「超人」(アセーカ)と呼ばれる[140]。第六から第九までは、それぞれ「首長」(チョーハン)、「大首長」(マハー・チョーハン)、「仏陀」「世界君主」と呼ばれ、その上に世界の創造主として「ロゴス」が君臨している[141][要文献特定詳細情報]。

ブラヴァツキーはマハトマ(マスター)はチベットに住むものとしていたが、レッドビーターやベイリーの時代には「高次元」に存在するものとして「アセンデッドマスター(英語版)(昇天したマスター)」と呼ばれるよう格上げされた[142]。アセンデッドマスターは、一種の「神的存在」ともなり、大衆的な宗教運動につながることになった[142]。クリシュナムルティを「世界教師」とする救世主運動は失敗に終わったが、神智学系のメシアニズム運動はシェア・インターナショナルのベンジャミン・クレーム(英語版)など、現在に至るまで続いている[142]。

ガンジーを最初にマハトマと呼んだのは、神智学協会2代目会長のアニー・ベサントであったとも言われる[143][144]。

また、霊的進化のためには、ヨーガや瞑想の修行が有効という考えも説かれるようになっていった[138]。レッドビータは、瞑想の実践により透視力を得ると、オーラの感知、さらには「アカシック・レコード」と呼ばれる霊的な記憶の場にアクセスすることによる過去視・未来視が可能になるという[145]。

イギリス生まれのアリス・ベイリーは、移住先のアメリカで神智学協会に関わったが、協会から離反して1923年にアーケイン・スクールという団体を創設した。彼女は大師のジュワル・クール(英語版)とテレパシー通信していると主張して、多くの著作を発表した。彼女の書籍は他の〈神智学〉の書籍と共にニューエイジに大きな影響を与えた[146]。

マハトマとの交信は、ウィリアム・エグリントン(英語版)などの霊媒によって、〈神智学〉とは別にも進められたが、これはニューエイジの「チャネリング」と共通する発想である[147]。

ブラヴァツキーはチベットに住むマハトマから教えをさずかったと主張していたが[122]、当時のヨーロッパではチベットはオカルトと秘教の神秘に彩られた理想の地と思われていた[148]。フレデリック・ルノワールは、二冊の書籍が欧米に大きな影響を与えたという[149]。

一冊目は、1920年代のアメリカで出版されたベアード・T・スポールディング(英語版)の『師たちの生活』(邦題は『ヒマラヤ聖者の生活探求』・『ヒマラヤ聖者への道』)[† 26]で、インドで秘儀伝授を受けたというイエス・キリストが登場する空想めいた話の内容は、吉永によればインド思想ではなく〈神智学〉を柱とした当時のアメリカの大衆的オカルティズムの思想である[150][151][† 27]。二冊目は、1956年のロンドンで出版された自称チベット人のロブサン・ランパの『第三の眼』で、チベットのラサで幼年時代を過ごし、僧になり第三の眼を開眼したイギリスへの亡命者という体裁の回想録は、実際はイギリス人で内容は〈神智学〉を踏襲したものである[152]。

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>>7439

歴史観・世界観・人間観

歴史観

ブラヴァツキーは、すべての物は「7つの組」になっており、すべての天体も6つの天体を伴っているとし、地球にも6つの精妙な相棒が存在しているとした[71]。それは意識状態に対応した6つの物質状態に分かれ、地球と合体しており、1から4番まで密度が増すと同時に霊性が減少し、4から7番では精妙さと霊性を取り戻し、最初の状態に戻るという[71]。この天球進化に7つの段階を経て進化するモナド(ここでは一種の生命素)の概念を重ね合わせたものが、「周期(ラウンド)(英語版)」(回期、循環期とも)という宇宙暦である[71]。現在の地球は、地球連鎖の第4周期、第4天球期という最も物質的な期間であるという[93]。モナドは各周期ごとに第4天球期に「人間」の形になり、現在の人類のモナドは、前の3周期で鉱物界、植物界、動物界を巡ってきたのだという[93]。

この現人類の進化について、『シークレット・ドクトリン』の「人類創世記」で「根源人種」として展開されている[71]。ブラヴァツキーは、7つの「根源人種(英語版)」(根幹人種、根人種とも)があるはずであるとし、根源人種をさらに7つの亜人種に、亜人種をさらに7つの分種(または族種)に分けた[93]。

第一根源人種 - 地球が太陽神に知恵を持つ霊的生命体を授けてくれるよう願い、太陽神が七大天使に命じて創らせた。肉体を持たないアストラル体の存在で、出芽によって増え、全周期を通じて存在する永遠の大陸、不可視の非物質的領域である「不滅の聖地」に存在[153][93][154]。

第二根源人種 - 肉体を持たずエーテル体の存在で、分裂で増え、北極地方にあったハイパーボリア大陸[† 28]に存在し、その痕跡がグリーンランドにあるという[93][154][159]。

第三根源人種 - 猿のような姿で両性具有・卵生・四本の手と頭部の後ろに目が一つある人種。レムリア大陸に存在[159]。初めて肉体を持つようになり性が分化したことで、性の快楽におぼれて獣とも交わって半獣半人を生み、これにより「堕落」と「楽園追放」が起こったという[93]。

第四根源人種 - 現代人より体が大きく知能の高い優れた人間。レムリア大陸は7千年ほど前に崩壊し、その後大西洋に隆起したアトランティス大陸に生まれた[159]。

第五根源人種 - アトランティス王国の生き残りであるマハトマ、「聖なる教師」たちが選んで進化させ、導いて文明を築かせた、現代の文明を主導する支配人種「アーリア人」[† 29][161][93]。いずれ天変地異が相次ぎ、アメリカ大陸が陥没して滅亡する[162]。

第六根源人種 - パーターラ人。北アメリカ大陸で生まれつつあり、いずれ誕生する大陸で進化する[162]。

第七根源人種 - 完全な霊性の時代に移行し、進化が終了する[162]。

岩本は、つまり現代ではアーリア人こそ「霊的進化」の頂点に立つということである、と説明している[93]。また、この第5期においてもっとも偉大な人物は、秘儀伝授を受けたブッダであり、現代の人間を永遠の真理である「神智」に立ち戻らせるためにやってきたとし、彼は発達した心理能力、すべての前世の知識、限りない善意と叡智など第6期の人間の資質を備えているとした[88]。

大田俊寛は、〈神智学〉の人間の歴史観は、「霊的進化」と「物質的進化」という二種類の進化のラインの交錯が繰り返されるという霊性進化論(英語版)であり、霊的進化に従えば神的存在に近づき、物質進化に導かれれば、悪魔や怪物を含む動物的存在に堕ちていくと解説している[163]。霊的進化の導き手が「大師」「大霊」「天使」といった高級霊で、これに対し物質進化をもくろみ高級霊たちを邪魔する悪しき低級霊(「悪魔」「動物霊」と呼ばれたもの)が存在するとされたと述べている[164]。

また、ブラヴァツキーの「物質文明から精神文明への大転換」が起こるという予言は、ニューエイジやポストモダンの諸思想に広範な影響を与えたという[165]。

世界観・人間観

具体的には、 世界を物質界・アストラル界・メンタル界(下位天界・上位天界)・ブッディ界(または直観界)・霊的界・ モナド界・神的界の七次元の「界層(英語版)」に分類する[21]。それと同時に、世界に対応する形で身体性を体・魂・霊の三元に分類し、さらに高我(エゴ)に対して低我を肉体・エーテル体(生気体)・アストラル体(星気体)・メンタル体・コーザル体の五次元の「霊的身体(英語版)」に類型分けする[21]。

陰謀論

ブラヴァツキーの死後、「グレート・ホワイト・ブラザーフッド」に対し、悪の秘密結社「ダーク・ブラザーフッド(闇の同胞団)」(ブラックロッジ)が存在し、マハトマと神智学協会の活動を妨害するために暗躍しているという陰謀論が一部で唱えられるようになった[166]。

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_後世への大きな影響

ブラヴァツキーに始まる〈神智学〉の影響は非常に広範囲に及び、現代まで続いている。大田俊寛は、〈神智学〉という存在が功罪を含めてきわめて大きな影響力をふるっているにもかかわらず、現在ではほとんど認知されておらず、客観的な立場から書かれた日本語の研究書は、まだ一冊もないのではないだろうかと述べている[143]。

2004年出版のニコラス・グドリック=クラーク(英語版)の書籍では、その影響は次のように述べられている[167]。

神智学協会からの分派がインドにも西洋にも多く残されたこと。

のちの協会の歴史のなかで、アニー・ベサントが協会会長時代、インド国民会議派の1917年の会議の議長を務めたことで、インドの国民意識の発展に大きな貢献を残したこと。またガンディーとネルーがともにインドの宗教的・哲学的遺産を再発見するために〈神智学〉にひきつけられたこと[† 30]。

西欧では、現代のオカルトのリバイバルに単独の最も重要な要因になったこと。

西欧での心霊主義の流行を宇宙論、近代人類学、進化理論を人間の霊的発展とむすびつけて、一貫した教義を打ち立てたこと。

西欧神秘主義の古くからの源泉を、西欧が植民地支配によって接触できたアジア宗教の用語によって再解釈しグローバル化したこと。

1893年のシカゴ万国宗教会議(英語版)で最初の試みが行われた、比較宗教研究に道をつけたこと。

霊的発展の際の意識を重視することで、唯物論や機械的自然観と対決し、伝統的なヘルメス哲学の大宇宙と小宇宙の交流図式にモダンかつダイナミックな面を導入したこと。その文化的な影響は非常に広く、近代芸術、量子物理学、それに最近のニューエイジ宗教などに及んでいると言われる。

杉本良男は、神智学協会の直接の影響下に育って分派していったジッドゥ・クリシュナムルティ、ルドルフ・シュタイナー、アリス・ベイリー、その直接の影響を強く受けたガイ・バラード(英語版)(アイ・アム運動)のほか、若干距離をとっていたゲオルギイ・グルジエフとピョートル・ウスペンスキー、神智学協会創設の年に生まれてその使命をうけついだと自称したアレイスター・クロウリー、ティモシー・リアリーなどの高名な近代の神秘主義者は、いずれも直接間接にブラヴァツキーの影響下にあると述べている[170]。

〈神智学〉は「ニューエイジ」運動に影響を与えた[123]。大田俊寛によると、〈神智学〉で発展した「霊の進化」の理論は、1960年代に入るとアメリカ西海岸が中心になり、「ニューエイジ」の思想として大衆的なブームとなり、その「死生観」(霊的進化と転生)は世界中に広く普及した。ニューエイジでは、ブラヴァツキーが唱えた現在の「物質的文明から霊的文明への転換」という理論を受け継ぎ、「霊的革命論」をその根幹とし、ヨーガやドラッグで霊性を高めることが目指された。そして霊的文明への転換という考えは、現在の物質文明は遠からず破局を迎えるという一種の「終末論」を必然的に引き寄せることになった[171]。

近年では、ニューエイジ運動などへの関心から遡って、神智学協会とくに始祖としてのブラヴァツキーへの評価が高まっている[22]。岩本道人は、『シークレット・ドクトリン』は思想的影響から見て計り知れない大著であるが、そこでブラヴァツキーが用いた「不可視の超越者」の介入と想像力の無限の活用という手段こそ、20世紀のポップ・オカルティズム(大衆的オカルティズム)の氾濫の素地をなしたことも見逃されてはならない、と述べている[93]。

大田俊寛の指摘するところでは、チャネラー・心霊治療家のエドガー・ケイシー、UFO研究・UFO信仰のジョージ・アダムスキー、マヤ暦に神秘的な意味を求め、宇宙的存在(宇宙人)のビームの影響で地球に文明がもたらされたとするホゼ・アグエイアス、爬虫類人類による陰謀論を唱えたデイビッド・アイクといったアメリカやイギリスのポップ・オカルティズムの旗手にも〈神智学〉の影響が見てとれる[172]。神智学協会の〈神智学〉は下火になったが、その思想体系は大量消費社会が実現されたアメリカで「ポップ・オカルティズム」へと形を変え、ニューエイジ文化の一部となったと見ることができる[7]。

〈神智学〉は、西洋占星術の復興に大きく貢献した[173]。西洋で占星術は、科学の台頭で時代遅れの物笑いの種になっており、古代からの名声を完全に失っていた[79]。英語圏の国々で〈神智学〉が登場し、それまで馬鹿にされたり無視されていたオカルト要素をその体系に取り入れたことで、他のオカルト関連の話題とともに後期ヴィクトリア朝の教養人たちの興味を集め、オカルトへの関心を呼び覚ました[173][79]。19世紀イギリスの代表的占星術師でブラヴァツキーの腹心のひとりアラン・レオ(英語版)(W・F・アレン)やハーモニクスのジョン・アディ(英語版)など神智学協会の会員であった占星術師は多い[173][† 31]。サビアン占星術もアメリカ神智学協会から出てきた新理論である[173]。

西洋占星術復興の立役者は、神智学協会の占星術師アラン・レオとW・R・オールド[† 32]である[79]。彼らは、占星術を古臭い陳腐な予言の手段から〈神智学〉の関連要素に引き上げ、秘教的関心における有用なツールにし、〈神智学〉と占星術を融合させた[79][174]。アランは20世紀初の占星術の広告塔になり、雑誌を利用して自らの占星術を普及し、大衆化し、もうかる商売に仕立てた[79][174]。アランの教本は、近代占星術の初期の研究家ほとんどすべてが学んでおり、後世に大きな影響を与えている[79][174]。

杉本良男は、ニューエイジに関連する興味の高まりの一方、神智学協会の影響を受けたスリランカの仏教復興(オルコット、アナガーリカ・ダルマパーラ)、インドの国民会議議長(アニー・ベサント)、南インドの古典舞踊再編(ルクミニー・デーヴィ・アルンデール(英語版)[† 33])などの、南アジアのナショナリズムに関連する歴史的な意義は、少数の専門家をのぞけば現在ではほとんど省みられなくなっていると述べている[22]。

大田俊寛は〈神智学〉が果たした歴史的役割についての覚書きで、上記と重複しない内容として、次の点を挙げている[143]。

オカルト人種主義。大田は、〈神智学〉の霊的進化論はしばしば人種論とも結びいたとしている。オカルト的な人種主義は、ナチズムの人種論の先駆を為したことが指摘されていると述べている[143]。〈神智学〉の世界秩序と人類への友愛の衝動は、ナショナリズムに変貌してきた[175]。レイチェル・ストームは、一部の神智学徒は人種的憎悪をあおったとして非難されているが、〈神智学〉に彩られたアリオゾフィ(英語版)はナチスの宣伝に好都合な材料となっており、アリス・ベイリーの反ユダヤ的言説にみられるように、神智学徒の一部にも責任があると述べている[176] 。同時に神智学徒はナチスに迫害されていた[176]。

ユネスコの創設を促したこと。大田は、〈神智学〉の文化観や教育観がラビンドラナート・タゴールやマリア・モンテッソーリを通じてユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の創設を促したと言われる、と述べている[143]。

岩間浩は、ユネスコ創設の源流における「重要人物」として、新教育運動の連帯組織の創造をリードした神智学徒ベアトリス・エンソアを取り上げている[177]。また、ブラヴァツキーが『神智学の鍵』で、子どもに自分で考えさせること、相互扶助の精神、独立心、推論する力の育成、機械的暗記を最小限にして内的感覚や潜在能力を発達させること、子どもを個人として尊重すること、知的・精神的に自由で、偏見のない、利己心を脱した自由な男女を育成するなどの教育の理想を語っており、この望みはアニー・ベサントの時代に実現に移されたと述べている[178]。ベサントは教育による社会改造に深い関心を持った人物で、ベナレスに中央ヒンドゥ・カレッジ(英語版)を設立するなどインドの教育にも寄与した[179]。

幼児教育者でモンテッソーリ法という教育法を提唱したマリア・モンテッソーリは、現代の日本でも有名な人物であるが、アニー・ベサントはモンテッソーリ法を高く評価して両者は深い友情を結んだ[180]。ベサントの後継者ジョージ・アルンデール(英語版)はモンテッソーリをインドに招聘し、彼女は第二次世界大戦のインドを離れてインド各地にモンテッソーリ法を広め、『吸収する心』などの多数の著作を書き、乳幼児の観察とそれによる教育法の改善を行った[181]。岩間は、このときモンテッソーリが創出した「コズミック理論」は、ブラヴァツキーの宇宙論に影響を受けたものであろうと述べている[180]。

また、人智学を提唱したシュタイナーも独自の教育法で知られているが、岩間は総合的方法で学校運営を行ったエンソアより、むしろ神智学協会を離脱したシュタイナーの学校に〈神智学〉独特な生活の反映を見ることができると述べている[182]。同じく神智学協会を離脱したクリシュナムルティの学校でも、自己訓練を通しての自由が養育されている[182]。他にも神智学協会は数々の影響を教育界に及ぼしたという[182]。

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>>7441

フェミニズム、優生学とも関りがある。〈神智学〉は人類の宇宙的進化において女性と男性が同等に重要であると説き、女性が宗教指導者になることはキリスト教ではありえなかったが、〈神智学〉の社会では可能であったため、神智学協会には多くの女性が参加し、その大部分がフェミニストだった[183]。また優生思想は女性の権利と社会における地位の向上を主張するためにしばしば用いられており(優生学フェミニズム(英語版))、よりふさわしい、優良な人間を生み出すことを目指す優生運動と神智学協会には重なる部分があり、イギリスでは1907年に優生学教育協会(EES)が設立されたが、 女優・フェミニスト・黄金の夜明け団の指導者フローレンス・ファー(英語版)とフェミニスト・作家・神智学徒のフランシス・スウィニー(英語版)が初期メンバーだった[183]。優生運動に参加した女性神智学徒達は、男性と結び付けられることが多かった「超人」や天才に関する一般的な考えを覆し、人類の進化は「超女性」によってもたらされるだろうと語った[183]。この「超女性」の考えは、女性を次の世代を生む母親で次世代の導き手と考える女性性の概念に基づいているが、女神カーリーやイシス、アマゾネスと比較されており、「非西洋」の宗教思想を取り込んだ神智学協会の影響抜きには考えにくい[183]。彼女たちは、女神のような新しく開発されたフェミニストの偶像、国家やジェンダーの優越性に関する現代的な考え方、そして宗教を組み合わせ、宗教、国家、セクシュアリティの言説の中で女性の主体性を取り戻そうと試み、続く20世紀の変革とフェミニズムの世界的台頭のきっかけとなった[183]。

芸術においては、一時期神智学協会に属した詩人ウィリアム・バトラー・イェイツ[184]や、抽象絵画の最初期の画家たちワシリー・カンディンスキー[185]、ピエト・モンドリアン[186]、ヒルマ・アフ・クリント、作曲家のアレクサンドル・スクリャービンなどに影響を与えた[12]。

小説では、宇宙的恐怖(コズミック・ホラー)などと呼ばれるクトゥルフ神話を題材にしたアメリカの小説家H・P・ラヴクラフトにも影響を与えた[187]。魂や心霊を象徴として描き、霊界を描写したという童話『青い鳥』のベルギーの作家メーテルリンクもブラヴァツキーの信奉者であった[188]。アメリカの独自性を感じさせる初めての国民的童話である、ライマン・フランク・ボームの『オズの魔法使い』には、科学とオカルト(魔術)が一体となった〈神智学〉の思想が深く浸透している[189][† 34]。イギリスの作家D・H・ロレンスも〈神智学〉へ関心を寄せ、その作品に登場させている[190]。

ロシアでは19世紀末から20世紀初頭にかけて、オカルト小説が「主流の文学」において復権したが、この大衆的なオカルト小説には〈神智学〉の「秘教的東洋というイメージ」がより明確に見られた。革命前のロシア最大のオカルト小説作家ヴェーラ・クリジャノフスカヤ(ロシア語版)(1857年 - 1924年)は、長編『ある惑星の死』(Смерть планеты、1911年)、『立法者たち』(Законодатели、1916年)で、滅亡の迫った地球でキリスト教信仰を守りながら悪と戦うインド人マギたちの活躍、および別の惑星での新世界建設の物語を描いている。ロシア研究者の久野康彦は、この2作品は「〈神智学〉が本来持つ西欧の近代文明批判の観点を継承しながらも、オカルトと科学の結合、宇宙的な進化のビジョンなどに独自の文学的ファンタジー」を見せており、思想的には浅いながらも、奔放な想像力でキッチュな世界を具現化しており、その「オカルトと科学の結合や宇宙的な進化のビジョンは、後のソビエトの精神風土を先取りしている」と指摘している[17][191][192]。

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>>7442

〈神智学〉運動と日本

類似宗教学者(自称)の吉永進一は、日本の霊性文化における〈神智学〉の重要度はアメリカに比べると1960年代までは低く、明治期から紹介されたにもかかわらず、当初は常に忘却されていたと述べている[193]。神智学協会の活動としては、明治22年にはオルコットが来日し、文献が翻訳され神智学ロッジが作られたが、評価は一部の仏教青年に限られ、仏教復興運動が軌道に乗ると、〈神智学〉は忘れられた[81]。

編集者の松岡正剛は、鈴木大拙・今東光・川端康成らになにがしかの灯火をともしたと指摘している[12]。また、日本の神智学協会運動は、三浦関造の竜王会が継承していると主張されている[194]。一般に広まったのは、「精神世界」の流行や「第三次宗教ブーム」が見られた「1970年代から80年代」以降である[83]。

樫尾直樹は、日本では明治維新以降、欧米に始まる心霊主義や〈神智学〉の影響を強く受けながら霊学や霊術の研究・運動が行われ、それが新宗教の教義や実践、新霊性運動(精神世界やスピリチュアル)に継承されていると述べている[195]。霊学では、神道天行居の友清歓真などが例に挙げられる[196]。大正期には、大本や太霊道といった団体が影響を受け、鎌田東二は霊学や霊術の歴史における〈神智学〉受容のハイライトであると述べている[197][† 35]。また、京都の鞍馬寺を本山とし、650万年前に金星から降り立った護法魔王尊を崇める鞍馬弘教(1947年 - )も〈神智学〉の系統である[198][† 36]。

〈神智学〉はヨーガを含めた「精神世界ブーム」(現在の「スピリチュアル」)の重要な一角を占めており、グノーシス主義等を研究している宗教学者大田俊寛の指摘するところでは、幸福の科学、オウム真理教、GLA、本山博の玉光神社、桐山靖雄の阿含宗などの日本の新宗教にも、〈神智学〉の唱えた霊的進化論の隠然たる影響が見てとれる[199]。幸福の科学への影響については、沼田健哉、塚田穂高、いのうえせつこなども指摘している[200][201][202][203]。

大田によると、オウム真理教の最終目標は、社会のマジョリティを「動物化した人々」から霊的に進化した「超人類」へと入れ替えるという「人類の種の入れ替え」であり、「霊を退化させ、堕落してゆく人々を粛清するという殺戮計画」が隠れて計画・実行されたが、この「人類の種の入れ替え」の観念は、〈神智学〉、その影響を受けたニューエイジ、さらに影響を受けた阿含宗を始めとする日本の新宗教で提唱され、流布されていた[204]。また「ヨーガや仏教の修行による霊の進化」という〈神智学〉の理論が、オウム真理教の教義の原型を形成したという[171]。樫尾直樹は、オウム真理教の世界観・身体観は、用語だけでなくその構えや骨格において、〈神智学〉の強い影響があると指摘している[21]。教祖の麻原彰晃が〈神智学〉の原典を読んでそこから教義を直接構成したのか、あるいは〈神智学〉に影響を受けたGLAなどの新宗教の経典・出版物やオカルト雑誌から間接的に影響を受けたのかは、1996年時点では定かではなく、解明が必要とされている[21]。

また大田は、日本の心霊主義においても浅野和三郎が〈神智学〉を取り入れており、スピリチュアル・カウンセラーを名乗る江原啓之の言う「人生の地図」も、その骨格は〈神智学〉だと思われると述べている[143]。

日本では一昔前に「シュタイナー教育」が流行したこともあり、人文系の研究者には〈神智学〉の系譜の代表的な思想家のひとりであるルドルフ・シュタイナーの信奉者がかなり多く存在しているが、シュタイナーの思想や世界観は明確に理解されていないと、大田は指摘している。オウム真理教には多くの大学生が入信したが、これには日本の大学でニューエイジやポストモダンの思想が蔓延していたことが大きな要因になっていたという[165]。

評価・批判

ブラヴァツキーの最初の著作『ヴェールを剥がれたイシス』は、大学教授やジャーナリストからは見向きもされず、比較宗教学の祖でブラヴァツキー同様すべての宗教には一つの共通の基盤があると考える傾向のあったマックス・ミュラーからも、容赦ない批判を受けた[119]。しかし、生活にゆとりのある中産階級のオカルティズム愛好者や独学の心霊研究家たちの心を動かし、千部印刷された本は数週間で品切れになった[119]。

ブラヴァツキーの精力的で喧嘩好きな性格や、神秘を演出するためのちょっとした手品、思想を彩る作り話、演出された態度、学問的精密さと「科学的」資料が重視された時代に著作の典拠をセンセーショナルに偽るといったやり方は反発を招いた[205]。神智学協会に始まる〈神智学〉を分析、批判したルネ・ゲノンは、「〈神智学〉は東洋の正当な思想を代表するものでは全くない」と結論付けており、フレデリック・ルノワールもこれに賛同している(ただしルノワールは、ゲノンの批判の中には、仏教に関する誤った理解に基づく根拠のない批判や、公平ではない批判も含まれていたことも同時に指摘している)[206]。

ルノワールは、「仏教はそこでは、根本的に西洋的な、わけてもキリスト教的な伝統の刻印を残したままの教義を表現するための、一種の口実でしかなかった」と述べ、神智学協会が主導した企てを「自身の教義の本体や自身の神話をでっちあげるために仏教を横取りする」意図的な同化の企てであると批判している[207]。また、〈神智学〉の魅力は「流行と異国趣味の活用」「寛容でドグマなき宗教」「チベットとオカルト的力」などにあり、 転生の理論は仏教由来ではなく西洋の進歩主義の投影であり、その教義はブリコラージュであるとし、〈神智学〉の内実は西洋オカルティズムと東洋宗教の寄せ集めであると指摘した[208]。

奇妙な歴史観・進化の解釈、人類進化の先頭に立つのは「アーリア」民族で、オーストラリア・アフリカの原住民は「脳の狭い」人間の名残でアーリア人より遙かに劣るとするような人種差別的見解などが評価を下げているが、ニューエイジとその周辺を研究したセオドア・ローザクは、ブラヴァツキーの思想には歴然としたあらゆる欠陥があり、批判が山積みにされているが、彼女のオカルト諸派の教えに対する直感は鋭く、主題にふさわしいスケールの仕事をし、その才能は際立っていると評価している[209]。

彼女のぶかっこうな形而上学的思弁を評価できないにしても、その〈神智学〉は19世紀思想中で最も冒険的で興味ある体系であり、少なくとも超越的パーソナリティに関する心理学(トランスパーソナル心理学)においては創始者と見るべきであると述べている[210]。一方、大田俊寛は、〈神智学〉を一つの始まりとする、輪廻転生を通した「霊魂の進化」という思想は、往々にして純然たる誇大妄想の体系に帰着してしまい、霊的なレベルを根拠とする階級意識・差別意識、被害妄想の昂進、偽史の膨張などの問題が見られると指摘している[211]。

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940713 No.7444

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>>7441

>ユネスコの創設を促したこと

ユネスコの初代事務局長は優生思想を持っていた人物だった

ジュリアン・ハクスリー

https://ja.wikipedia.org/wiki/ジュリアン・ハクスリー

サー・ジュリアン・ソレル・ハクスリー(Sir Julian Sorell Huxley、1887年6月22日 - 1975年2月14日)は、イギリスの進化生物学者、ヒューマニスト、国際間協力の推進者。

自然選択説を強力に擁護し20世紀中盤の 総合進化説の形成を主導した。1935年から1942年までロンドン動物学会の事務局長、1946年から1948年までユネスコの初代事務局長を勤めた。世界自然保護基金の創設メンバーでもある。

ハクスリーは書籍や記事、ラジオ、テレビで科学啓蒙活動を続けたことでよく知られていた。1953年にユネスコから科学普及の功績に対してカリンガ賞を贈られた。1956年には王立協会からダーウィンメダルを受賞した。ダーウィンとウォレスが自然選択説を発表してからちょうど100年後の1958年にはロンドン・リンネ学会からダーウィン=ウォレス・メダルが贈られ、同年ナイトに叙された。1959年に人口問題に関する家族計画分野でラスカー財団から特別賞を受賞した。

生涯

ジュリアン・ハクスリーはイギリスの著名なハクスリー一族の出身で、彼の弟には作家のオルダス・ハクスリー、異母弟にはノーベル賞受賞者のアンドリュー・ハクスリーがいる。彼の父は作家、編集者のレオナルド・ハクスリーで、父方の祖父は チャールズ・ダーウィンの友人であり有力な支援者であったトマス・ヘンリー・ハクスリーである。母方の祖父は人文学者のトム・アーノルド、大叔父には詩人のマシュー・アーノルドがいる。曾祖父は、教育者のトーマス・アーノルドである。

・1938年、王立協会フェローに選出された[12]。

老年期

ハクスリーは生涯にわたって国際主義者であり、教育に関心を持っていた。国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の創設に関わり、1946年に初代事務局長に就任した。憲章によって6年と決まっていた任期はアメリカの代表団の圧力で2年に引き下げられた[14]。 理由は明らかになっていないが、彼の左翼的な傾向とヒューマニズムが要因とされている。実際には、ハクスリーの非宗教的な立場は幅広い国際的な利益と交流にとってプラスに作用した。彼の事務局長としての活動は精力的で実りが多かったと考えられている。2週間でユネスコの理念と目的に関する60ページの冊子を書き上げ、ユネスコの公文書として印刷して配布した。しかし彼の科学的ヒューマニズムの立場は内心的な反対者を多く生み出した。人口抑制のための(戦争と飢饉回避のための)産児制限というアイディアは、コミンテルン / コミンフォルムとカトリック教会から憎悪された。

ユネスコは最初の数年で、ダイナミックでそれまでにない新たな役割を持つようになった。ハクスリー以来それは巨大で、官僚的だが安定した組織となった[15][16]。 パリで過ごした年月の個人的と社会的な側面は、妻によって描写されている[17]。 ハクスリーの国際主義と環境保護への関心はビクター・スターラン、ピーター・スコット卿、マックス・ニコルソン、ガイ・マウントフォートらと共に自然保護を目的とした国際的な基金調達グループとして世界野生生物基金(現在の世界自然保護基金)の設立へと導いた。

もう一つの戦後の活動は、ソビエト連邦の政治的な科学者トロフィム・ルイセンコへの攻撃であった。ルイセンコはラマルキズムを支持し、農業に関する非科学的な宣言をしてロシアの正統的な遺伝学を破壊した。そして本物の科学者をあるべき地位から追放した。1940年に優れた植物遺伝学者ニコライ・ヴァヴィロフは逮捕され、後任としてルイセンコは遺伝学研究所の所長に就いた。ヴァヴィロフは裁判で「サボタージュ」の罪に問われ、1941年に死刑判決を受けた。執行猶予中の1943年に栄養失調でヴィヴァロフは刑務所の中で死んだ。彼の逮捕はルイセンコの策略が原因であった。ルイセンコ主義は確立された遺伝学を否定しただけでなく、ダーウィンの原理に基づく農作物の人為選択を止めた。これはソビエトの農業システムによる慢性的な飢饉に繋がったかも知れない。ハクスリーは当初は反共主義者ではなかった。しかしスターリンによるルイセンコ主義の断固とした採用は、彼の寛容な態度を終わらせた[18]。 ルイセンコは精神病院で最後の日々を送り、1955年にヴィヴァロフは裁判で名誉を回復した。

1950年代に、ハクスリーはフランスのイエズス会士で古生物学者のピエール・テイヤール・ド・シャルダンの仕事を英語圏に紹介する役割を果たした。ド・シャルダンの考えはカトリックのヒエラルキーによって不当に扱われていた。イエズス会は彼の考えの公表を禁じたが、彼の死後、姪らが彼の手記の出版の準備を行った。ハクスリーは『現象としての人間(1959)』の序文を書き、合理主義者の友人たちから厳しく批判された。二人とも進化を信じていたが、ハクスリーが無神論者であったのに対してド・シャルダンが理神論者であったことは、進化に対する二人の解釈が根本的に異なっていたことを示している。

1975年に87歳でハクスリーが死去すると、タンガニーカの国立公園理事ジョン・オーウェンはこう述べた。「ハクスリーは世界で最も偉大な人の一人だった……彼は初期のアフリカの野生生物の保護に重要な役割を果たした。(そして)彼は国際社会に広い影響を与えようと奮闘した。」

ハクスリーの国際的、ヒューマニズム的な影響に加えて、彼の研究の貢献はエソロジー、発生学、遺伝学、人類学、そして初期の細胞生物学分野のいくらかで進化をカバーした。この分野での彼の卓越性と、特に現代総合説の成立への貢献がダーウィン・メダル(1956)とダーウィン=ウォレス・メダル(1958)の受賞に繋がった。

ハクスリーはノーベル賞を受賞したコンラート・ローレンツの友人であり師だった。そして他の人々を教え、励ました。全体的に言えば、彼は有名な祖父よりもいっそうオールラウンドなナチュラリストで、自然選択説の承認と受容に大きな貢献をした。彼の視点は国際的で、いくぶん理想主義的だった。

lb

オルダス・ハクスリー

>>20311863

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940713 No.7445

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>>7444

世俗的ヒューマニズム

ハクスリーのヒューマニズムは、人類は自身の運命をその手に握っているという見解から導かれた。ハクスリーは不可知論を促進したが、倫理の基礎を供給するのもとしてヒューマニズムを選んだ。

人の進化の転換点は…[言語の]使用を獲得したときだ…人の発展は潜在的に開かれている…人は進化の新しい方法を切り開いた…伝統として体系立った経験の伝達、それは…変化の原因としての自動的な自然選択を大きく乗り越える

・ジュリアン・ハクスリーと祖父トマスは共に進化と倫理の結びつきの可能性に関してロマネスレクチャーを担当した。ハクスリーはイギリスでの合理主義と世俗的ヒューマニズム運動と密接な関わりを持っていた。1927年から死去するまで合理主義者出版連盟の名誉会員であり、1963年にイギリスヒューマニスト協会の会長となり、1965年にA.J.エイヤーが引きついだ。1962年にアメリカヒューマニスト協会からヒューマニストオブザイヤー賞を受賞した。また国際ヒューマニスト倫理同盟(International Humanist and Ethical Union)の創設に関わり、ジョン・デューイ、アルベルト・アインシュタイン、トーマス・マンらとニューヨークのファーストヒューマニスト協会の創設理事を務めた。

宗教自然主義

ハクスリーは手紙で次のように書いた。

分離した超自然的な世界はない。全ての現象は進化の自然なプロセスの一つだ。科学と宗教の間には基本的な断裂がない…宗教思考の思い切った再編は今や必要だ。神中心から進化中心へ。私はそう信じている。」これは宗教自然主義と言うこともできる。「多くの人は神仮説の放棄が全ての宗教と全ての道徳的拘束の放棄のことだと思っている。それはただ真実ではない。しかし時代遅れのイデオロギー的知識の断片を投げ捨てるならその位置を占める何かを作らねばならないと言うことだ。

優生思想と人種

ハクスリーはイギリス優生学協会(英語版)の著名な会員であり、1937-44年に副会長、1959-62年に会長を務めた。彼は優生学が人の遺伝子プールから好ましくない変異を取り除くのに重要だと考えた。彼は少なくとも第二次世界大戦の間、人種は生物学的に意味のない概念で、人間へそれを適用することは非常に矛盾していると考えた。1920年代と30年代のもっとも極端なタイプの優生主義の率直な批判者だった。それでも彼は優生運動の重鎮であった。1936年と1962年の二回、ゴルトン記念講演を行った。著作の中で何度か次のフレーズを用いた:「農作物の生殖質の管理のための知恵を疑う人はいない。それならなぜ人に同じ概念を用いないのか?」。ハクスリーは当時、社会の最下層の人々が遺伝的に劣っていると考えていた知識人の一人だった。

「 最下層の人々はあまりに早く生殖しすぎる。したがって…自然選択の最後のチェックの除去によって子供があまりに簡単につくられたり生き残ったりしないように、彼らはあまりに簡単に福祉や病院での治療にアクセスすべきではない。長期の失業は不妊の基礎でなければならない。 」

ここでは一般の労働者階級ではなくて、「もっとも退廃したわずかな人々の仮想的除去」を指していた。この見解は当時は珍しくなく、ウィリアム・アーネスト・キャッスル (William Ernest Castle)、C.B.ダヴェンポート、H.J.マラーらにも共有されていた。公衆衛生と人種政策に関して次のように書いた。

[文明化された社会は]人の生殖の管理と人口のコントロールのために、少なくとも人種的な素質の悪化を防ぐために、十分な方策を発明して実施しない限り、人類は崩壊する運命にある… 」

そして生物学的手法は社会政策を科学的なものにするための主要な道具でなければならないと述べた。Duvallの見解では「彼の意見はイギリスのリベラルな知的エリートの間で容認できる範囲内だった。彼はネイチャーと産児制限や「自発的な」不妊への熱意を共有していた」。中央集権的社会、経済計画への熱意と産業主義的な価値観への反対は二度の大戦の間の左翼主義的な思想家に共通していた。人生の終わり頃、ハクスリーはこの考えがどれほど嫌われているかを認識した。二巻組の自伝ではインデックスに優生学もゴルトンもない。そしてこのテーマは訃報と伝記からも省かれた。例外はイギリス優生学協会によって手配された会議の議事録である。

1930年代にヨーロッパでファシズムが高まったことで、民俗学者アルフレッド・ハッドン (en)、昆虫学者アレクサンダー・カール=サンダース (en)、科学史家チャールズ・シンガー (en) とともに『We Europeans』[注釈 1]を書くよう依頼された。ハクスリーは「人種」という単語が「民族集団」におきかえられるよう主張した。第二次大戦の後、人種問題に関するユネスコ宣言のために尽力した。

「 人種は、生物学的視点から、種ホモ・サピエンスを構成している人類集団の一つと定義できるかもしれない。…今、科学者は現在のところ認識されている人類のグループについて何を言うべきだろうか?人種は異なる人類学者によって異なる分類ができ、また分類されてきた。しかし現在、大部分の人類学者は現代人を主要な次のように分けることに同意する。モンゴロイド集団、ネグロイド集団、コーカソイド集団…カトリック、プロテスタント、ムスリム、ユダヤは人種ではない… 」

戦争後の時代にあって、優生的な概念が大量殺人を引き起こしたという認識の後で、ハクスリー(1957)は人類が科学とテクノロジー、そしておそらく優生学も含めて、そしてまた重要なことに、社会環境の改善を通して自身を向上させなければならないという見解を表すために「トランスヒューマニズム」の用語を提案した。

用語の提案

ハクスリーは新たな用語を作り出す才能を持っていた。これらは今日でも重要である:

Clade:クレード (1957)

Cline:クライン (1938)

Grade:グレード (1959)

Ethnic group:民族集団 (1936:「人種」に代わる語として)

Morph:モーフ (1942: 後により厳密に定義されポリモーフィズム/多型となった。)

Ritualization:儀式化 (1914: 鳥類の求愛行動などから)

Transhumanism:トランスヒューマニズム (1957)

Ummmユネスコとトランスヒューマニズムに、こんなにも関わりがあるとは….

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940713 No.7446

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>>7445

>神智学

>優生学

>トランスヒューマニズム

攻殻機動隊のような世界は、支配層が理想とする世界の青写真みたいなものなのかもしれない

攻殻機動隊

https://ja.wikipedia.org/wiki/攻殻機動隊

『攻殻機動隊』(こうかくきどうたい、英語タイトル:GHOST IN THE SHELL)は、士郎正宗による漫画作品。ジャンルとしてはSF(パラレルワールド含む)に属する。

この作品を原作とする劇場用アニメ映画が1995年に公開され、またテレビアニメ作品が2002年に公開された。士郎正宗の原作版と押井守の映画版、神山健治の『S.A.C.』、黄瀬和哉と冲方丁の『ARISE』では、時代設定や主人公草薙素子のキャラクター設定、ストーリーを始め多くの相違点があり、それぞれが原作を核とした別作品といえる。その他、小説やゲームなどの派生作品が展開されている。

あらすじ

時は21世紀、第3次核大戦とアジアが勝利した第4次非核大戦を経て、世界は「地球統一ブロック」となり、科学技術が飛躍的に高度化した日本が舞台。その中でマイクロマシン技術(作中ではマイクロマシニングと表記されている)を使用して脳の神経ネットに素子(デバイス)を直接接続する電脳化技術や、義手・義足にロボット技術を付加した発展系であるサイボーグ(義体化)技術が発展、普及した。結果、多くの人間が電脳によってインターネットに直接アクセスできる時代が到来した。生身の人間、電脳化した人間、サイボーグ、アンドロイドが混在する社会の中で、テロや暗殺、汚職などの犯罪を事前に察知してその被害を最小限に抑える内務省直属の攻性公安警察組織「公安9課」(通称「攻殻機動隊」)の活動を描いた物語。作中の年表は別項、攻殻機動隊シリーズの年表を参照。

ストーリースタイル

SFを主体とした中、ネットワークや義体化(脳と脊髄以外の器官を人工器官とマイクロマシンを用いたボディに移植した人間)した人間との係わり合い、そして人間とアンドロイドやサイボーグ、AIなどとの対峙で浮き彫りにされる、人間の人間たる所以はどこにあるのかという疑問[注 5](詳しくは後述、「技術」節の「ゴースト」を参照)などを、独自のスタイルで紡ぎ出している。

影響を与えた作品

マトリックス- ウォシャウスキー兄弟(現・姉妹)が監督したアメリカ映画。この映画の制作は元々、『ニューロマンサー』の映画化企画からスタートしているが、監督が本作からもインスパイアされたことから作中のギミックや映像手法などに色濃い影響が見られる。

NSAも出てくる

https://www.ghostintheshell-sac2045.jp/characters

ジョン・スミス

アメリカ国家安全保障局のエージェントであり、ポスト・ヒューマン対策局トップ。公安9課のアドバイザーとして派遣されるが、アメリカのある目的をもって暗躍する。

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940713 No.7447

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>>7445

文部科学省

人工知能の倫理に関する勧告

2021年11月23日 第41回ユネスコ総会採択

https://www.mext.go.jp/unesco/009/1411026_00004.htm

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940713 No.7448

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>>7444

外務省HP

ユネスコ(UNESCO)~人類共通の遺産を守るために

2009年4月6日

https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol33/index.html

ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)は、世界中の建造物や自然保護区などを世界遺産に登録し、人類共通の遺産として世界各国の保護活動を促進しています。ユネスコはどのような経緯で世界の遺産を守る体制を整備し、今後はどのような取組を進めていくのでしょうか。世界遺産が直面している課題とともに考えます。

古代エジプト遺跡水没の危機と世界遺産条約

水没の機器を免れたアブシンベル神殿1960年代、エジプトのナイル川にアスワンハイダムの建設計画が持ち上がり、アブシンベル神殿に代表される「ヌビア遺跡群」が、水没の危機に瀕していました。エジプト、スーダン両政府からの要請を受けたユネスコは、ヌビア遺跡救済キャンペーンを展開し、遺跡の移築と保護を世界中に訴えました。呼び掛けに応じた多くの国の協力により、遺跡はダム建設の影響を受けない高い場所に移されました。このキャンペーンがきっかけとなり、世界的に価値のある遺跡、建造物、自然を、一国だけでなく人類全体の遺産として保護していくための国際的枠組みの必要性が認識され、条約を作る機運が高まりました。そして、1972年、ユネスコ総会で世界遺産条約が採択され、日本をはじめ186か国が締約しています。(※本文中の締約国数や遺産件数などについては、いずれも2009年3月末現在の数字を引用しています)

….(中略)

危機遺産を脱したカンボジア・アンコール遺跡

アンコール遺跡はカンボジア和平成立直後の1992年、世界遺産に登録されると同時に危機遺産に登録されました。各国が一斉に遺跡修復に乗り出す中、より効率的な調査・研究と修復を行うため、日本はフランスと共同でアンコール遺跡救済国際会議(東京会合)を開催。国際調整委員会を設置して、援助国間の保存修復活動を調整することや、観光開発、水質汚染、地盤沈下といった諸問題を協議していくことなどを決めました。日本をはじめ約30か国からのプロジェクトチームが寺院の修復や人材育成を実施し、地雷の撤去作業も進んだことなどから、アンコール遺跡は2004年に危機遺産から脱しました。

….(中略)

形がない文化遺産の保護

寺院や城塞のように「形」のあるものだけでなく、伝統的舞踊、音楽、演劇、工芸技術、祭礼など、人々の営みの中で受け継がれているものについても、消失の危機から守り、次世代に伝えていく必要があります。日本には昔から伝統芸能や技術を「無形の文化財」とする考え方があり、文化財保護法(1950年施行)により、それらを保護する仕組みを整えてきました。いわゆる人間国宝(重要無形文化財保持者)という制度もその一環です。日本はこの経験を活かして、2003年のユネスコ総会で採択された無形文化遺産条約の策定に大きな役割を果たしました。2009年秋には、締約国からの推薦に基づき、無形文化遺産代表リストへの登録がスタートする予定です。

….(中略)

日本が進める文化遺産国際協力

文化遺産とは、有形無形を問わず、その地域に生きる人たちのアイデンティティの象徴であり、かつ後世へと大切に守り伝えていくべき人類共通の貴重な遺産でもあります。しかし、アジアなどの途上国には修復・保護が急務であるもかかわらず、十分な対策がとられていない貴重な文化遺産がまだたくさんあります。そういった文化遺産の保護をより効果的に支援するため、日本は文化遺産国際協力推進法を2006年に施行。国内の政府機関、教育研究機関、NGO、民間助成団体などによる文化遺産国際協力コンソーシアムを設立し、各国の文化遺産と保護などに関する情報共有や連携強化を図りながら、保存修復事業を実施しています。外務省では、ユネスコに文化遺産保存日本信託基金と無形文化遺産保存日本信託基金を設置し、世界各国の有形無形の文化遺産を守るための様々な事業を実施しています。

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940713 No.7449

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>>7444

ベアトリス・エンソア

https://ja.wikipedia.org/wiki/ベアトリス・エンソア

https://en.wikipedia.org/wiki/Beatrice_Ensor

ベアトリス・エンソア(Beatrice Ensor、1885年8月11日 - 1974年)は、イギリスの神智学に基づいた教育思想家、教育学者、世界新教育連盟(New Education Fellowship]、後のWorld Education Fellowship)[1] の創始者の一人で、その機関誌「New Era」の編集者であった。 1885年8月11日の生まれで、ベアトリス・ニーナ・フレデリカ・ド・ノーマンは、アルベルト・エドワード・ド・ノーマンとイレーナ・マチルダ(旧姓ウッド)の長女であった。彼女の父親は、海運業に従事し、幼い頃はその関係でマルセイユとジェノヴァで過ごした。

その影響で彼女はフランス語とイタリア語が流暢に話せた。彼女は訪問客が家に置いていった神智学の本に大きな影響を受けた。彼女は1908年神智学協会に入会し、このことは彼女の人生で大きな役割を演じた。彼女には、サー・エリック・ド・ノーマン(司令官騎士、バス勲位コンパニオン)とアルバート・ノエル・ド・ノーマン("ビル")という二人の弟があった。

イングランドでは教育を終えるための条件として彼女は、家庭科の教師としての訓練を受け、暫くの間シェフィールドカレッジで教鞭をとって、グラモーガン郡審議会から女性及び女子教育の視学官に任命された。 彼女は、チェルテンハムでモンテッソーリスクールのを視察して以来、頭ごなしに統制された受動的な教育に幻滅を抱くようになった。その後、モンテッソーリに直接会うことができ、手紙のやり取りをするようになって彼女の思想に関心をもつようになる。[2]彼女は1914年、教育における「新しい理想」グループ(New Ideals in Education group)により開催されたイースト・ラントンでの会議に参加する。この会議のテーマが、「教育におけるモンテッソーリ・メソッド」であった。彼女は菜食主義者で、生体解剖反対主義者であった。

教育における新しい時代 (New Era)

第一次大戦後、彼女は栄養不足に苦しむハンガーの幼児たちをイギリスに招いて健康を回復させる手伝いをした。彼女自身ブダペストに飛び、子どもたちの第一陣を連れてイギリスに戻った。 この仕事で彼女は、ハンガリー赤十字から功労メダルを与えられている[6]。しかし、神智学協会関係の更に長期的な仕事は、さらに生産的なものであった。「新しい時代のための教育」(Education for the New Era)には、一時共同編集者として、A・S・ニイルが参加した。この雑誌は、その後85年間も続いた。またフランス語版、ドイツ語版の共同編集者には、アドルフ・フェリエール、エリザベート・ロッテンが参加した。

The New (World) Education Fellowship

1921年、イヴァン・ハゥルチェックとともに彼女は、「子どもの創造的な自己表現」についての国際会議をカレーで開催。100人以上の参加者が合った。この会議は、神智学者にとっては次の戦争を予防したいという懸念から出発していたのだが、そこから誕生したのは世界新教育連盟(the New (later World) Education Fellowship)だった。これは教育における新しい考え方を議論する非政治的で非党派的なフォーラムとなった。それはなにか特別な方法を提唱するのではなく、すべての方法の中から本当の糸を探し続けるという趣旨のものだった。これはおよそ20ヵ国に活発な支部を持っている。ベアトリス・エンソアは、他の二つの機関誌の編集者たちと共にこの世界新教育連盟の初期の組織委員会を築き上げた。これは、二年間隔で著名な教育学者や教育者により主催される国際教育会議を開催している。 1923年の第二回会議は、スイスのモントルーで開催され、彼女はここでカール・グスタフ・ユングと出会った。彼女はその次のロンドンでの会議に講演者として彼を招聘し、そこで、H・G・ウェルズ、エミール・ジャック・ダルクローゼ、フランツ・ツィツェク、そしてアルフレッド・アドラーに引きあわせた。

1929年にはデンマークのヘルシンゲルでのクロンボー城で開催され、各国代表や講演者の中には、マリア・モンテッソーリ、ラビンドラナート・タゴール、クルト・レヴィン、アドルフ・フェリエール、オヴィド・ドクロリ、ヘレン・パーカースト、ピェール・ボヴェ、A・S・ニイル、エリザベート・ロッテン、フランツ・ツィツェク、ハロルド・ラッグ、T・P・ナン、そしてパウル・ゲヘープがいた。 その他に、この会議は、1927年にはスイスのロカルノで、1925年にはハイデルベルクで開催された。 彼女は、一時、労働党の教育問題顧問に就任したが、彼女のユートピア的な思想が、R・H・トーニーのそれと軋轢を引き起こし、早々にその職を持すことになった。

The N.E.F. とユネスコ

神智学がN.E.F.(世界新教育連盟の初期の名称)に深い影響を与えていた頃、N.E.F.もユネスコの誕生に深い影響を与えていた[7]。N.E.F.が果たしたものは、「ユネスコの産婆役」(小林澄兄)であり、 そしてその後1966年以降ユネスコのNGOで在り続けた(岩間浩)[8]。 そしてその年、N.E.F.はその名をW.E.F.と改めた

フェンシャム・ハイツ・スクール

その間に神智学教育トラストの内部でいくつかの問題が生じてきてそれが、レッチワースのコミュニティの中で緊張を引き起こしていった。これは彼女の夫がトラストの事務局長に任命されるということも関係していた。1925年イザベル・キングとベアトリス・エンソアが、フレシャムハイツ・スクールを創立した[9]これは、サリー州の共学の学校で、モンテッソーリ幼稚園を終わったところから大学入学までの一貫教育を行う学校。エディス・ダグラス・ハミルトンというウィルタバコ産業の女性経営者が資金を提供した。開校時、日本人の子弟がその中に3人含まれていた

セント・クリストファースクールの教師と生徒たちの一部が、フレシャムに移って新しいスタートを切った。しかしながら、2年後、ダグラス・ハミルトンが予期せずなくなり、学校のために安定した信託基金を残すこともなくなったため、この劇的な変化の中でベアトリス・エンソアとイザベル・キングはなすすべもない状況に追い込まれた。2人共学校を去るしかなかったが、これは決して苦渋の選択というものでもなかった。というのも、学校の運営理事会はその後何年間も留まることが出来たからである。

講演旅行と南アフリカ

ベアトリス・エンソアは、その後は、「New Era」の編集とN.E.Fるに専念し、1926年と1928年には北米に二度の講演旅行に出かけた。ボストン、ニューヨーク、デトロイトで教育における新しい運動について講演をしている。彼女は1927年と1929年にポーランドと南アフリカを訪問した教育団体の一人でもある。

彼女の夫は、南アフリカのラウターウォーターに移住し、そこでまだほとんど開拓されていない谷間に、ようやく果樹栽培に適していることが判明したばかりの大きな農場を手に入れた。彼が計画した荘園は、彼がなくなった1933年ころにようやく収穫ができるようになった。 それはベアトリス・エンソアも南アフリカに移り、荘園の面倒を見なくてはならないという意味でもあった。これは彼女の教育的な仕事にとって大きな制約が生じるということでもあった。 彼女は、1937年にオーストラリアに教育講演に招かれた一団の一人でもあり、彼女はその際、オーストラリアの西部にあるパースの西オーストラリア大学から名誉博士号を授与されている。彼女はN.E.F.の南アフリカセクションを支援し、経済的にも支え、自分の農場に当時その地域ではまだ何の規定もなかった時期に人種混合小さな学校を作った

彼女の息子が、ちょうど彼女の弟がそうだったように兵役を徴兵期間が終わった後も継続するつもりであることが明らかになり、農場を次ぐ意志のないことがはっきりした時、彼女は農場を手放して、プレッテンバーグ湾の近くのコイロブルームストランドに家を買って移り住んだ。しかし、彼女の家族がイングランドに移ってしまった時、彼女も孫達と一緒に暮らすためにイギリスに渡り、ロンドン郊外のブラックヒースに居を構えた。彼女はここで亡くなった。1974年のことである。

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940713 No.7450

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>>7449

>モンテッソーリ教育

ビル・ゲイツやイーロン・マスク、藤井聡太も受けていた「モンテッソーリ教育」とは?

Sep. 27, 2021

https://www.businessinsider.jp/post-241908

GAFA創業者のほとんどがモンテッソーリ教育を受けている事実

ビル・ゲイツ、ジェフ・ベゾス、イーロン・マスクの3人は、いずれもモンテッソーリ教育を受けたとされている。その他にもモンテッソーリ教育を受けた著名人は以下の通りだ。

経営者

ビル・ゲイツ(マイクロソフト創業者)

マーク・ザッカーバーグ(フェイスブック創業者)

ラリー・ペイジとセルゲイ・ブリン(グーグル創業者)

ジェフ・ベゾス(アマゾン創業者)

ジミー・ウェールズ(ウィキペディア共同創始者)

ピーター・ドラッカー(マネジメントの父)

政治家

バラク・オバマ元米大統領

ヒラリー・クリントン

イギリス王室のウィリアム王子

歌手

ビヨンセ

テイラー・スウィフト

GAFA創業者のうち、スティーブ・ジョブズ以外はモンテッソーリ教育を受けているのだ。ただ、唯一入っていないApple創業者のスティーブ・ジョブズが異色とも取れる。

日本人だと、史上最年少の14歳2カ月でプロ将棋棋士となり、デビュー戦以来、公式戦の連勝記録を30年ぶりに更新した藤井聡太さんも、モンテッソーリ教育を受けている。

※正確には、イーロン・マスクはモンテッソーリ教育のカリキュラムがある学校には通っていない。南アフリカに生まれ、小学生の頃は首都ヨハネスブルグの学校に通っていたため、アメリカの教育を受けていない。しかし、彼が11歳のときにコンピューターに興味を示し、小学生では理解できないはずのレッスンを親が許可して受けさせたという話からすると、モンテッソーリ教育の考え方に極めて近い教育環境であったと考えられている。

モンテッソーリ教育とは、以下のようなものだ。

「モンテッソーリ教育は、教師(大人)の価値観で一方的に教え込もうとするのではなく、子どもの興味や発達段階を正しく理解し、子どもが触ってみたい、やってみたいと思う環境を適切に用意し、その環境と子どもを「提示」などによって結びつけ、子どもの自発的活動を促します。子どもは、自分で選んだ活動に満足いくまで繰り返し取り組みながら様々な能力を獲得していきます。」

出典:日本モンテッソーリ教育綜合研究所

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940713 No.7451

>>7450

この記事の内容は一部誤りかもしれません。もしくは「誤り」ということにしておきたいか….

https: //ja.wikipedia.org/wiki/モンテッソーリ教育

モンテッソーリ教育を受けた著名人

アンネ・フランク (『アンネの日記』筆者)[65]

キャサリン・グレアム(新聞『ワシントン・ポスト』経営者、ジャーナリスト)[65]

ジェフ・ベゾス (Amazon com創業者)[65]

サーゲイ・ブリン (Google創業者)[65]

ラリー・ペイジ (Google創業者)[65]

ウィル・ライト (ゲームデザイナー、『SimCity』『The Sims』の開発者)[65]

ステフィン・カリー(NBA選手)[65]

テイラー・スウィフト(歌手、グラミー賞受賞者)[65]

ガブリエル=ガルシア・マルケス(作家、ノーベル文学賞受賞者)[65]

アンソニー・ドーア(作家、ピューリッツァー賞受賞者)[65]

ヘレン・ハント(女優)[65]

ジョージ・アレクサンダー・ルイ・オブ・ウェールズ王子(イギリス王室成員)[65]

藤井聡太 (将棋棋士)[66]

以下の人物はモンテッソーリ教育を受けた著名人として宣伝されることが多いが、実際には誤りである。

マーク・ザッカーバーグ(Facebook創業者)[65]

ビル・ゲイツ(Microsoft創業者)[65]

スティーブ・ジョブズ(Apple創業者)

ジミー・ウェールズ(Wikipedia創設者)[65]

ジョージ・クルーニー (映画俳優、監督)[65]

ウェールズ公ウィリアム王子 (イギリス王室成員)[65]

サセックス公ヘンリー王子 (イギリス王室成員)[65]

ピーター・ドラッカー (社会学者)

日本におけるモンテッソーリ教育

モンテッソーリ教育は、子どもの自主性、自立心、知的好奇心などを育み、この教育の終了する24歳時には社会に貢献する人物となることを目的とする。一方の欧米ではオルタナティブ教育として評価され、他方、日本においては潜在能力を引き出す、知的能力をあげる、小学校のお受験対策といった英才教育や早期教育として注目され、幼児教育だと誤解されることが多い。マリア・モンテッソーリが、知的・発達障害の治療教育、貧困家庭の子供たちへの教育から、発展させてきた教育法である[要出典]ことはあまり知られていない。

モンテッソーリ教育を日本に紹介した日刊紙『萬朝報』の記事は1912年1月11日に掲載された[19]。この教育を日本で最初期に広めた人物に、ロバート・W・アーウィンの長女ベラ(有院遍良)がいる[22]。ベラは1913年にイタリアでモンテッソーリ教育の国際コースを受講し、マリア・モンテッソーリから直接指導を受け、帰国後、自宅で幼児教育研究サロンを開き、1916年には私立玉成保母養成所と付属幼稚園を開校した[23][24]。

ただし日本が軍事国家への道を歩む中、モンテッソーリ教育はこの時期に広く普及することなく、本格的な普及は第二次世界大戦後、鼓常良がモンテッソーリの主著3部作を完訳したことに始まる。鼓常良は1962年に京都・桂に幼児教育研究所を設立、その付属施設「月見が丘子どもの家」が敗戦後のモンテッソーリ教育施設の第1号である[25]。

上智モンテッソーリ教員養成コースの沿革は上智大学(※)による[26]。

1912年 モンテッソーリ教育が日刊紙『萬朝報』で紹介される[19]。

1913年 ベラ・アーウィンが渡欧し、M・モンテッソーリの指導を受ける。幼児教育研究サロンを開設。

1916年 私立玉成保母養成所を開き、幼稚園を付属させる[23][24]。

1962年 幼児教育研究所を鼓常良が設立(京都市)。「月見が丘子どもの家」でモンテッソーリ教育を再開[25]。

1965年 上智大学のペトロ・ハイドリッヒ教授が「うめだ・子どもの家」を設立[19]。同学文学部教育心理学科の教授が中心となり研究会が始まる(JAMの前身)。

1968年 日本モンテッソーリ協会(JAM)が発足※、国際モンテッソーリ協会(AMI)の友好関係団体として承認される[27]。

1970年 ※「上智モンテッソーリ教員養成コース」を発足。上智大学に置く。

1971年 ※履修科目のうち、上智大学で理論科目を、うめだ「子供の家」で実践科目を出講。

1981年 ※同教員養成コースを同学・外事部へ移管(大学の組織改変)

※実践科目をうめだ「子供の家」から上智大学へ移管し、理論科目とともに出講。

1984年 ※上智モンテッソーリ教員養成コースは上智大学・学務部へ移管(大学の組織改変)

1986年 ※同コースを同学・学事部へ移管(大学の組織改変)

1992年 日本モンテッソーリ協会が日本学術会議(第17期)の承認を受けて登録[19]。

1993年 ※同コースを同学・公開学習センターへ移管(大学の組織改変)

2005年 ※履修者の募集終了を決定。平成17年度(2005年)1年次生を最終とする(大学の学校改革)

2005年 日本モンテッソーリ協会が日本学術会議の制度改革を受け、学術研究団体となる[19]。

2006年 ※教員養成コースを別法人に移管し新規履修を開始。「特定非営利活動法人東京モンテッソーリ教育研究所」付属となる。

2007年 ※上智大学の履修コースを閉講[28]。

2010年 東京国際モンテッソーリ教師トレーニングセンターの同窓会が発足35周年を迎える。

2012年 日本モンテッソーリ協会に「ルーメル・モンテッソーリ奨励基金」設立[注釈 3]。

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940713 No.7452

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>>7451

マリア・モンテッソーリ

https://ja.wikipedia.org/wiki/マリア・モンテッソーリ

マリア・モンテッソーリ(伊: Maria Montessori、1870年8月31日 - 1952年5月6日)は、イタリアの医学博士、幼児教育者、科学者、フェミニスト。モンテッソーリ教育法の開発者として知られる。

生涯

イタリア初の女性医師

マルケ州キアラヴァッレに生まれた。19世紀に、ローマ・ラ・サピエンツァ大学医学部に女性として初めて入学した。当時は女性差別の残る時代だったため、入学後、男子学生と同室での系統解剖が許されず、別室で一人死体に向かいメスを取らざるを得ないなどの差別的処遇を受けたが、それらの逆境を乗り越え、1896年、イタリア初の女性の医学博士号を取得する。

卒業後も女性が医師になることに否定的な医学界で、なかなか職が見つからず、医学とかけ離れた状況にあったローマ大学付属の精神病院にようやく職を得た。当時の精神病院の患者たちは鉄格子に囲まれた暗い部屋に監禁され、治療らしい治療が行われない劣悪な環境下にあった。医師として絶望的と言えるこの職場で、マリアは知的障害があるとされる幼児が床に落ちたパン屑でしきりに遊ぶ姿に目を留めた。それ以降、幼児の様子を注意深く観察するうちに、何ら知的な進歩はないと見放されていた彼らが感覚的な刺激を求めることを認め、指先を動かすような玩具を次々と与え、彼らの治療を試みた。その中で彼女は、感覚を刺激することによって、知的障害児であっても知能の向上が見られるという確信を得て、他の障害児たちにも同様の教育を施した。マリアが彼らに知能テストを受けさせると、彼らの知能が当時の健常児たちの知能を上回るという結果が得られ、イタリア教育界、医学界に衝撃を与えることとなった。

モンテッソーリ教育の誕生

1907年、障害児の治療教育で一通りの成果を挙げた感覚教育法を、マリアはローマの貧困家庭の子供たちに応用する機会を得る。ここにおいても知能向上で著しい結果を得、この方法をさらに追究するため、医師を辞め[1]、ローマ大学に再入学した。

再入学したローマ大学では主に哲学を学び、その後、南フランス・アヴェロンで発見された野生児の教育に着手し、彼の観察と教育を行った感覚教育の先駆者であったジャン・イタールの著書の研究を進め、知的・発達障害者教育の先駆者エドゥアール・セガン医師に学んだ。さらに、生理学、精神医学の研究にも没頭。のちにモンテッソーリ教育と呼ばれる独自の幼児教育法を確立する。

教育熱心だったマリアの両親は彼女を「ぜひ教師に」と望んでいた。しかし、彼女は両親の反対を押し切ってイタリア初の女性医師となるも、結局、世界的な教育者となり、図らずも両親の願いをかなえたことになる。

モンテッソーリ教育の発展

モンテッソーリ教育が確立されると、その方法は世界各国で支持されるようになり、世界各地に次々とモンテッソーリ教育を専門に行う「子供の家」 (Casa dei bambini) が設立された。モンテッソーリ教育が急速に普及していく中、マリアは教師の質の重要性を認識、教員養成コースと1929年には国際モンテッソーリ協会(通称 AMI:本部オランダアムステルダム)を開設、資格取得制度を整えた。現在でも、AMIの国際モンテッソーリ教員養成は厳密なことで有名であり、養成を受けて教員資格を得た教師のみによる教育システムが維持されている。日本におけるAMI認可の教員養成所は、東京国際モンテッソーリ教師トレーニングセンター、国際モンテッソーリトレーニングセンター(福岡)、あきる野モンテッソーリトレーニングコースの3ヶ所である。

イタリアのファシズムを逃れ、スペイン内戦が起こる1936年までスペインに住んだ[2]。第二次世界大戦時、戦争に反対するマリアは息子の兵役を拒んだため、ムッソリーニ首相と対立、イタリアを離れることになったが、実は、戦前、女性運動に関わっていたマリアはフェミニズムに理解を示していたムッソリーニと一時期、交流もあった。この点がノーベル平和賞の候補時に問題視されたと言われている。

モンテッソーリ教育の生徒にはアンネ・フランクやジャクリーン・ケネディ・オナシスを始め、世界中に数多くの有名人がいるが、ワシントン・ポスト誌の経営者および、ジャーナリストだったキャサリン・グラハム、 Amazon comの創立者ジェフ・ベゾス、Googleの共同創立者セルゲイ・ブリンとラリー・ペイジ、wikipedia創設者ジミー・ウェールズ、などもモンテッソーリ・スクール出身者である。ロバート・W・アーウィンの長女で玉成保育専門学校創設者のベラ(有院遍良)は、1913年にイタリアで国際コースを受講し、マリア・モンテッソーリから直接指導を受けた[3]。

インド滞在

1938年にインドの神智学協会の会長ジョージ・アルンデール(英語版) と妻ルクミニー・デーヴィー・アルンデール(英語版)がオランダのモンテッソーリ・スクールを訪問して感銘を受け、インド政府によりインドに招待された。インドの文化センターで神智学徒たちと共に研鑽を積み、マハトマ・ガンジー、ラビンドラナート・タゴールとも交流[4]。インドで多数の講演を行い精力的に執筆し、モンテッソーリ教育の基本的で重要な概念である「宇宙的秩序」理論に基づく「宇宙的教育」(コスミック教育)を体系化した。第二次世界大戦のため10年近くインドで過ごした。[5][6]

先駆的女性とその晩年

教育者としてのみならず、マリアは一人の女性としても多くの足跡を遺している。20世紀初頭における女性の社会進出の最先鋒として男性と対等な地位を獲得したほか、私生活ではシングルマザーの先駆けともなった。一人息子マリオは幼少時、養父母に預けられたが、10代で彼女に引き取られたのちは、マリアの教育事業を手伝い、モンテッソーリ協会会長として、モンテッソーリ教育の普及に専心した。

また、マリアは晩年、世界平和と子供の尊厳を訴える運動を世界各国で展開。その功績が認められ、1950年、ノーベル平和賞の候補にもあげられている。

1946年に76歳でインドからオランダのアムステルダムに戻り、その後はインドとヨーロッパで過ごした。1952年に81歳の生涯を閉じる。オランダの北海沿岸の町、ノールトヴァイク・アーン・ゼーのカトリック教会墓地に眠る。イタリア通貨がユーロに切り替わる以前に流通していたイタリア1000リラ紙幣には、マリア・モンテッソーリの肖像画(表)とその学習風景(裏)が描かれていた

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940713 No.7453

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>>7444

>王立協会

王立協会

https://ja.wikipedia.org/wiki/王立協会

王立協会(おうりつきょうかい、英語: Royal Society)は、1660年にロンドンで作られた民間の科学に関する団体[1]である「自然についての知識を改善するためのロンドン王立学会」(The Royal Society of London for Improving Natural Knowledge)のことである。他の日本語訳として王立学会(おうりつがっかい)、王認学会(おうにんがっかい)[注 1]がある。結成以来現在まで続いており、最古の学会である[6]。

概要

1645年頃、イングランド内戦の影響によりオックスフォード大学から研究の場をロンドンに移し、実験哲学に関する活動を始めた数学者ジョン・ウォリスら10名程度の討論グループが王立協会の起源となった[10]。正式名称は "The President, Council, and Fellows of the Royal Society of London for Improving Natural Knowledge"(自然知識を促進するためのロンドン王立協会である[10])。

ロイヤルという名前は1662年にチャールズ2世の勅許を得て法人格を得たためつけられたが、国王または女王はあくまで守護者(パトロン)の位置づけで、フランスの王立パリ科学アカデミーと違って国庫の補助はなく、1850年に政府の補助金を得るまで会員の会費によって運営されていた[1]。王族フェロー、名誉フェロー、外国人フェロー(日本人を含む)を含めて2016年の時点で約1600人のフェローがおり、会員は「王立協会フェロー」を名乗ることが許可される。

この会は当初から国立(王立)ではなく民間科学団体ではあるが、イギリスの事実上の学士院(アカデミー)としてイギリスにおける科学者の団体の頂点にあたる。また、科学審議会(Science Council)の一翼をになうことによって、イギリスの科学の運営および行政にも大いに影響をもっている。1782年創立の王立アイルランドアカデミー(Royal Irish Academy)[11]と密接な関係があり、1783年創立のエディンバラ王立協会(英語版)[注 2]とは関係が薄い。

17世紀以降の著名な科学者の多くは、創立メンバーまたは会員になっている。王立協会フェローにはFRS(Fellow of the Royal Society)という称号が付く。最初期の主要な会員には、ロバート・ボイル、J・イーブリン、ロバート・フック、ウィリアム・ペティ、ジョン・ウォリス、ジョン・ウィルキンズ、トーマス・ウィリス、クリストファー・レンなどがいる。万有引力の法則の発見や光学の研究で近代科学に多大な影響を与えたアイザック・ニュートンは、その業績が認められ後に会長になった

イーロンマスクも2018年に選出されていました

https://royalsociety.org/people/elon-musk-13829/

2013年にも日本人も何名か選出されています

https://royalsociety.org/news/2023/05/new-fellows-2023/

十倉 好紀 センター長が英国王立協会(The Royal Society)の外国人会員に選出

2023年5月12日

https://www.riken.jp/pr/news/2023/20230512_1/index.html

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940713 No.7454

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>>7439

>アリス・ベイリー

アリス・ベイリー

https://ja.wikipedia.org/wiki/アリス・ベイリー

アリス・ベイリー(英語:Alice Ann Bailey, 1880年6月16日 - 1949年12月15日)は神秘主義関係の著作家で、==神智学協会から派生した「アーケイン・スクール(不朽の知恵、秘教占星学)」の創立者。

生涯

イギリスのマンチェスターで、ベイリーはアリス・ラ・トロープ=ベイトマン( Alice La Trobe-Bateman)という名前で生まれた[1]。9歳で両親が結核で死亡したため、妹とともに叔母に引き取られた。少女時代は、キリスト教福音主義の下で育てられた[1]。1902年、22歳で教会の日曜学校の教師をしていた彼女は[2]、インドに渡航しイギリス軍の福祉ワーカーとして働いた[1]。その時、兵士だったウォルター・エバンスと出会い、1907年、27歳で、聖職者となったエバンスと結婚した。夫妻は新天地を求めてアメリカ合衆国へ渡航し、3人の子供ももうけた。しかし、夫婦関係はうまくいかず、結婚は破綻した[1]。

米国では神智学協会に参加、ここでブラヴァツキーの著書に接し、協会員となった。1920年、アメリカ神智学協会で働く神智学者フォスター・ベイリーと再婚[3]。その前年、大師(マハトマ)のジュワル・クール(英語版)からのメッセージを受け取るようになったという。しかし、大師からの通信を受け取ることができるという主張は協会内で反発を呼び、のちに神智学協会を離れることになった[4]。彼女の初の著書『イニシエーション』(Initiation, Human and Solar.)は、レッドビーターの『大師とその道』(1925年)より先んじて詳細な大師論を展開している[5]。1922年、夫妻はルシファー出版社(後年、ルシス・トラスト(英語版)に改名)を設立。1923年、彼女は「アーケイン・スクール」(Arcane School)という団体を創設し、大師から受けたという教えを広めた[1]。

ベイリーの運動はメシアニズムを核としながらも緩やかな連合体を形成したものであり、満月の夜に瞑想によりメシアや大師を招来させようとするこのグループは「フルムーン・メディテーション・グループ」と総称される[5]。1949年、69歳の時、ニューヨークの病院で、その生涯を閉じた。

ベイリーは神智学の周期的歴史観と占星学を融合して、近い将来に「魚座の時代」から「水瓶座の時代」への移行が起こると主張した[6]。水瓶座の時代の同義語として、現在と同じ意味でニューエイジという語を使用して、人口に膾炙するようになったのは、アリス・ベイリーからである[4]。

参考文献

大田俊寛 著『現代オカルトの根源 - 霊性進化論の光と闇』筑摩書房〈ちくま新書〉、2013年。

平井恭介 執筆「後期神智学協会とメシアニズム」『オカルト・ムーヴメント - 近代隠秘学運動史』創林社、1986年。

クリストファー・パートリッジ(英語版) 編、井上順孝 監訳、井上順孝・井上まどか・冨澤かな・宮坂清 訳『現代世界宗教事典』悠書館、2009年。

ジェームズ・R・ルイス 著、鏡リュウジ訳『占星術百科』原書房、2000年。

ニコラス・キャンピオン 著、鏡リュウジ 訳『世界史と西洋占星術』柏書房、2012年。

こんなサイトもありました

https://www.alicebailey-japan.com/

アリス・ベイリーの秘教学

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940713 No.7455

>>7454

英語版からの抜粋

https://en.wikipedia.org/wiki/Alice_Bailey

・ベイリーの著作は1919年から1949年にかけて書かれたもので、太陽系と霊性の関係、瞑想、治癒、霊的心理学、国家の運命、社会全般に対する処方箋など、広範囲にわたる新神智学の秘教的思想体系について述べている。彼女は著作の大部分が、当初は単に「チベット人」または頭文字の「DK」と呼ばれ、後にジュワル・クルと特定されたある叡智の師によってテレパシーで口述されたものであると述べている。[2]彼女の著作はマダム・ブラヴァツキーの著作と類似点があり、「永遠の叡智」と呼ばれる教えの1つである。ベイリーの著作はマダム・ブラヴァツキーの神智学とはいくつかの点で異なるが、共通点も多い。彼女はキリスト教を含む宗教的テーマについて著作を書いたが、彼女の著作はキリスト教や他の正統派宗教の多くの側面とは根本的に異なっている。彼女の統一社会のビジョンには、伝統的な宗教形態とは異なる世界的な「宗教精神」と、水瓶座の時代という概念が含まれていた。[3] [4]

ルシス・トラスト

詳細は「ルシス・トラスト」を参照

アリスとフォスター・ベイリーは 1922 年にルシス・トラストを設立しました。その活動には、アーケイン・スクール、ワールド・グッドウィル、トライアングル、季刊誌「ザ・ビーコン」、およびベイリーの多くの本を出版することを主な目的とする出版社が含まれます。アーケイン・スクールは、ベイリーの本のアイデアに基づいて、通信を通じて瞑想の指導とガイダンスを提供します。ワールド・グッドウィルは、彼らが「行動する愛」と定義する善意を通じてより良い人間関係を促進することを目的としています。その「行動」には、国連への支援が含まれていました。「トライアングル」は、毎日思考を結び、正しい人間関係について瞑想し、光と愛が人々の心と心に注がれることを視覚化し、その後にグレート・インヴォケーションを使用することに同意した 3 人のグループです。各人が毎日同じ時間に思考を結び付ける必要はなく、ほんの数分の時間しかかかりません。アリスとフォスター・ベイリーは「ルシファー出版社」を設立した(「ルシファー」と「ルシス」は同じ語源で、ルシスとはラテン語の属格で光を意味する)。[22] 最初の2、3年後、社名は「ルシス出版社」に変更された。[23] (神智学協会も初期の雑誌に「ルシファー」という名前を使用していた。)1923年、フォスター・ベイリーの助けを借りて、アリス・ベイリーはルシス・トラストの一部であるアーケイン・スクールを設立した。この学校は、彼女の著作に基づいた教育通信、瞑想指導、指導付き学習を提供している。[24]ベイリーは1949年に亡くなるまで活動を続けた。[25]

主なアイデア

7つのエネルギー光線

ベイリーの著作には、すべての顕現の背後にあり、そこに存在する基本的なエネルギーとして提示される「7つの光線」の詳細な説明が含まれています。それらは宇宙の基本的な創造力であり、すべてのものの進化の根底にある神性の放射であると考えられています。[26]光線は、人間の心理、国家の運命、天空の惑星や星に関連していると説明されています。7つの光線 の概念は神智学の著作に見ることができます。[27]キャンベルは、ベイリーは「… 7つの光線のアイデアを最初に開発した人物ですが、初期の神智学の著作にもその萌芽が見られます」と書いています。 [28]7つの光線はヒンドゥー教の宗教哲学にも登場します。[29] [30]

秘教占星術

秘教占星術はアリス・ベイリーの「永遠の知恵」の教えの一部であり、彼女はチベットの師であるジュワル・クルから教えを継承したと述べている。[31] [32]

ベイリーの教えに従う秘教占星術師たちは、通常、彼女の5巻からなる『七つの光線に関する論文』、特に占星術に焦点を当てた第3巻に基づいて研究を行っています。彼女の秘教占星術は、魂の意識の進化とその進化の障害を扱っています。[33]

秘教的治療

ベイリーのヒーリングに関する教えは、主に魂と人格、霊的なものと物質的な性質の関係に関するものである。彼女の見解では、すべての病気の根本原因は、何らかの形で妨げられたり抑制されたりした魂の生活にある。したがって、ヒーリングとは魂を解放すること、つまり魂と人格の正しい関係を確立することであり、人格は魂の表現の道具と定義される。病気の大きな原因である障害物や混雑を取り除く。ヒーリングの全プロセスは、思考、ヒーラーの精神、そして時には病気の原因を抑制する感情的な相乗効果によって方向づけられる。施術者がもはやエネルギー、流れ、中心、ナディを焦点の 1 つの領域として指示されなくなると、ヒーリングは自動的になり、抽象的なものは適切な場合は実践に関連づけられるが、ヒーリングは努力なしに方向づけられる。[34] [35]

人間の構成

以前の神智学の教えに沿って、[36]ベイリーは人間は

モナド(神の火花、真の自己)

魂(高次の精神、愛の性質、高次の意識)

3つの側面からなる性格

・低次の心(知性)

・感情またはアストラル体質

・肉体とエーテル体

低次の性質の 3 つの側面はそれぞれ「体」またはエネルギーのオーラとして説明され、真の自己または魂の部分的な表現と見なされます。魂は、人格の 3 つの側面を通じて機能する、またはそれらを使用する真の自己の反映と見なされます。[37] [38]彼女はまた、これらを「乗り物」または「鞘」と呼び、交互に「精神体」、「アストラル体」、「肉体」と呼びます。[39] 「エーテル」体は、肉体の健康に最も直接関連しており、肉体に転生している間、個人にとって重要なエネルギー源と見なされます。[40] [自費出版ソース? ] (p. 172) [41] (p. 33) 参照:微細体。精神と感情の性質はオーラと見なされます。[42]または脳の活動が二次的な効果であるエネルギー場。[43] (p. 411)

大いなる祈り

大いなる祈りは、1937 年にベイリーが授けたマントラです。このマントラは「神の心の中にある光の点から、光が人々の心に流れ出ますように…」で始まり、残りの部分は愛、キリスト(マイトレーヤ )の再来、そして人々が神の計画に従って行動するという思想を表現しています。

これはニューエイジ運動の信奉者の間ではよく知られており、特にグループでの瞑想の一部として広く使用されています。[44]たとえば、この祈りは 1970 年代からフィンドホーン財団コミュニティ で使用されています。9月 11 日の攻撃(2001 年)への対応として、この大祈りはフィンドホーンでの新しい毎日のプログラム「平和のための光の瞑想ネットワーク」の中心的要素として使用されました。[45] ローズマリー ケラーは、この大祈りを「キリストが地球に戻る」ための呼びかけであると説明し、ベイリー関連のグループが使命の一環としてこの祈りを放送するためにラジオとテレビの時間を購入し、この祈りはケラーが「光のグループ」と呼ぶグループでよく唱えられ、ベイリーの弟子たちが「地球に利益をもたらす霊的エネルギー」を引き寄せて集中させると考えていたことを達成したと書いています。[6]

アリス・ベイリーの著作には、一般的に古いものを新しいものに置き換えることを主張するテーマがあり、これは大祈願に関連して次のように述べられています。「この新しい祈願が広く配布されれば、主の祈りがキリスト教に、詩篇第23篇が精神的なユダヤ人に果たした役割と同じ役割を、新しい世界宗教に果たすことができる。」[46]

弟子としての生き方と奉仕

ベイリーの著作は、精神生活における伝統的な信仰や宗教的側面を軽視し、瞑想、人類への奉仕、「階層の計画」への協力を重視した。[47] 彼女の考えでは、奉仕は「 … 魂の本能であり…魂の発達に固有のものです。欲望が低次の性質の顕著な特徴であるのと同じように、奉仕は魂の顕著な特徴です …」[48]

国家と集団の統一と神性

ロスはベイリーの教えは「あらゆる生命体の根底にある統一性」と「あらゆる宗教、科学のあらゆる部門、あらゆる哲学の本質的な一体性」を強調するものだと述べている。[49] キャンベルは、新世界奉仕者グループは「国際理解、経済の共有、宗教的統一の促進」のために設立されたと述べている 。[28]

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940713 No.7456

>>7455

神智学との比較

神智学者の間では、アリス・ベイリーの著作に対する評価が分かれている。例えば、著名な現代神智学作家のジェフリー・ホドソンは、彼女の著書の 1 つに非常に好意的なレビューを寄せ、「アリス・ベイリーはまたしてもオカルト研究家たちに恩義を負わせた」と述べている。[ 50]オラフ・ハマーは、「彼女の最初の著書『人間と太陽へのイニシエーション』は、最初は仲間の神智学者に好意的に受け入れられた。しかし、すぐに、マスターたちから永遠の知恵を授かったという彼女の主張は反対に遭った」と書いている。[51]彼女の著作には神智学に対する批判が含まれているため、この対立は理解できる。また、彼女は、断絶の時点で、社会内の独断的な構造と見なすものに対する批判を表明し、同時に、要求されていた神智学指導者への忠誠の誓いに疑問を呈していた。 「1920年にシカゴで開催された年次大会では、ベサントと秘教部に忠誠を誓う勢力と、秘教部があまりにも強力になったと考える他の勢力との間で権力闘争が起こった。水面下では、アリスのチベット人に対する活動に関する隠れた論争があった。」[10]ベイリーと神智学の分裂のより最近の例については、スカンジナビアの神智学を参照してください。

キャンベルは、ベイリーの著書は主要な神智学のテーマをいくつかの特徴的な強調点を伴って再編集したものであり、現代の社会的および政治的発展を認識した、秘教科学とオカルト哲学の包括的なシステムを提示していると書いている。 [52]スティーブン・J・サトクリフは、ベイリーとブラヴァツキーの著作はどちらもチベットをマスターの精神的な故郷として思い起こさせ、ベイリーは多かれ少なかれブラヴァツキーと直系の血統であると主張したと指摘している。彼はベイリーを「ポスト神智学」理論家と表現し、ベイリーが「ブラヴァツキーの元個人弟子」から指導を受けたと報告し、彼女の3冊目の本(宇宙の火に関する論文)はブラヴァツキーの偽書である「ジヤンのスタンザ」を再現しているだけでなく、ブラヴァツキーに捧げられているとも述べている。[53]

神智学とベイリーの類似点は数多くあり、例えば、神智学の原理の一つである引き寄せの法則は、ブラヴァツキー[54]、アニー・ベサント[55]、ウィリアム・クアン・ジャッジ[56]らの秘教的な著作で論じられており、[ 57 ] [ 58 ] 、アリス・ベイリーの著作でも論じられており、彼女の著書の一章全体もその一つである。[59] [60] [61]この用語は、現代のニューエイジ運動によって簡略化された形で受け入れられ、 2006年の映画「ザ・シークレット」で普及した。

ジョン・クリモは、超常現象の情報源からの情報受信に関する調査の中で、「ブラヴァツキー/神智学資料や、他の情報源からの最近の現代のチャネリング資料と同様に、ベイリーの著作には、物理​​的、エーテル的、アストラル的、精神的、因果的、そしてより高次の居住レベルの存在という、同じオカルト的宇宙階層が見られる」と書いている。[62] オラフ・ハマーは、著書「知識の主張:神智学からニューエイジへの認識論の戦略」の中で、ベイリーの神智学的な類似点を強調するとともに、両者の相違点と思われる点を指摘している。「ベイリーの教えは、大部分において、シークレット・ドクトリンの神智学を再述し、拡大したものである。ベイリーは、ブラヴァツキーとリードビーターから、詳細な情報と複雑な分類体系への偏愛を受け継いだ。…彼女の著書は、新しい教義的要素だけでなく、重点の変化も導入している。」[63]

神智学の批評家の中には、ベイリーの思想とブラヴァツキーの神智学の間には大きな違いがあると主張する者もいる。例えば、ベイリーはキリスト教の神秘的な用語や概念を取り入れ、チャールズ・ウェブスター・リードビーターの考えを受け入れている。[28] [64]

ニコラス・ウィークスは、1997年に神智学雑誌「フォハット」に寄稿し、ベイリーの「 彼女の教えは、HPBとそのグルが実践し教えた神智学に基づいており、根本的に反対するものではない」という主張は誤りだと感じた。彼女の著書は、実際には「 CWリードビーターが開拓した疑似神智学に根ざしている」。ウィークスは、ベイリーがリードビーターのキリスト再臨の「空想」を受け入れ、ベイリーの「大祈願」を軽蔑したと述べた。大祈願は、キリストとその師が隠れたアシュラムを離れ、大都市に入り、水瓶座時代を導くための祈りであるとされている。これは、ブラヴァツキーの神智学とは対照的であり、「各人の中にあるキリストの原理」への依存を強調している、と彼は言う。 [64]

人種と進化についての考え

ベイリーは、人類を「進化のはしご」の異なるレベルにある人種に分けるという人種分化の概念を説明した。これらの「人種」は、国民や身体的なタイプではなく、進化の段階を表す。例えば、彼女は、アーリア人の根源 人種(または「第 5 人種」)は「出現しつつある新しい人種」であり、したがって比較的新しい進化現象であると述べた。彼女は、この新しいタイプはあらゆる土地で形成されつつあるが、主にコーカサス人が住む土地で形成され、思考や知性が優勢な文化を示していると述べた。彼女は、進化が進むにつれて物事が加速し、人類はまもなくアーリア人の意識によって主に区別されるようになると述べた。「私は、今日一般的に理解されているようなアーリア人種や、その北欧的意味合いについて話しているのではない。」[65]

ベイリーは著書『新時代の教育』で、この難解な人種概念が将来の学校で使われること、そしてこれらの学校が「根源人種」という概念を取り入れることについて予測した。これらの「人種」は、人類が肉体(レムリア人)、感情(アトランティス人)、精神(アーリア人)を発達させた、広大な先史時代にわたる進化を概念化する手段である。彼女は現在、「集団的資質と意識と理想主義的ビジョン」として表現される精神的次元を持つ「新人種」が発達しつつあると述べている。[66]彼女は、この新しい発達には何千年もかかる可能性があり、したがって彼女の新時代の信奉者の一部が望んでいるような急速な進歩ではないかもしれないと述べた。ベイリーは著書『国家の運命』で、この「新人種」が進化する過程について説明し、その後「非常に低級な人間の肉体は消滅し、人種タイプがより高い基準へと全般的に移行します」と述べている。[67] ベイリーにとって、人類の進化はこの霊的階層との関係と密接に結びついていました。彼女は、宗教、哲学、科学、教育運動、そして一般的な人間文化の影響はこの関係の結果であると信じていました。[68]

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940713 No.7457

>>7456

人種に関する彼女の考えに対する批判

ベイリーの人種に関する考えは、文化人類学者で民族誌学者のヴィクトル・シュニレルマンによって批判された。シュニレルマンは、ロシアの現代ネオペイガニズムの調査で、「多文化主義 に極めて否定的な見方をし、人種の『混合』に反対し、孤立主義と移民の禁止を支持するグループ」に特に注目した。シュニレルマンは、ベイリーの人種に関する考えのいくつかは、ジュリアス・エヴォラの著作に見られる人種差別に似ていると考え、「人種差別主義と反ユダヤ主義の傾向は、例えば、アリス・ベイリーとその信奉者のオカルトの教えに明白に表れており、彼らはキリスト教から「ユダヤの遺産」を一掃し、「ユダヤの聖書」を水瓶座の時代に入るための前提条件として拒否したいと考えている」と述べた。[69]

シュニレルマンの見解は、ベイリーだけでなくブラヴァツキー、シュタイナー、その他を批判したアイザック・ルベルスキーにも反映された。ルベルスキーの見解では、人種差別主義の考えは「神智学の家族」全体に共通していた。[70]

スウェーデンの画家、作家、急進的なアナルコ/エコフェミニストであるモニカ・ショーは、ベイリーは出版した教えを通じて「ニューエイジ運動全体に反動的で人種差別的な影響を与えた」と書いている。[71]また、ベイリー(および神智学)の「親ファシスト宗教観」と呼ばれるものにも言及した。たとえば、秘密のエリート集団「マスター」がオカルト的な手段で世界の出来事や人間の心に影響を与え、アーリア人種の進化をもたらそうとする(ただし、これは彼女の教えに対する当然の現代的な誤解である。ベイリーが使用した「アーリア人」は現代の用語と混同されやすく、「マスター」はエリートではなく、人間または「第4の王国」を超えて第5の「魂の王国」に進化したと神智学で最初に紹介された「悟りを開いた」個人であり、彼女の見解では、人類全体を導く)。[72]

ベイリーのナショナリズム、アメリカの孤立主義、ソビエトの全体主義、ファシズム、シオニズム、ナチズム、人種関係、アフリカ人、ユダヤ人、ユダヤ教とキリスト教の宗教に関する発言をめぐって論争が巻き起こっている。ヨナサン・ガーショムらは、彼女の著作には人種差別的な内容が含まれていると主張している。[73] [74] [75] [76] [77] [78] [79]

アメリカのハシディズムの著者ヨナサン・ガーショムは、ベイリーの新世界秩序構想と「正統派ユダヤ教の段階的な解体(可能であればまたもや)」という彼女の呼びかけは、 「彼女の目標はユダヤ教そのものの破壊にほかならない」ことを明らかにしたと書いている。ガーショムはまた、「このユダヤ人のステレオタイプな描写に続いて、19世紀のプロテスタントの「怒れるエホバ」神学に基づいた、聖書のヘブライ人に対する陳腐な非難が続く。ユダヤ人は怒れる復讐心に満ちた神を崇拝したことはなく、私たちユダヤ人は神を決して「エホバ」とは呼ばない」とも書いている。[74]

研究者ハンナ・ニューマンは、大祈願の中に反ユダヤ主義的な要素があると指摘した。ニューマンによると、祈願の中で言及されている「計画」とは「階層」が作成した計画を指し、ニューマンは「ユダヤ教を排除することで達成される目標である、すべてのユダヤ人の存在と影響を人間の意識から排除することに高い優先順位を置いている」と述べている。[73] [a]

組織化された宗教について

ベイリーは、宗派のアイデンティティを超越した普遍的な精神性を説き、「人間のすべての階級は兄弟の集まりである。カトリック教徒、ユダヤ教徒、非ユダヤ人、西洋人、東洋人は皆神の子である」と信じていた。彼女は、すべての宗教は同じ精神的な源から生まれ、人類は最終的にこれを認識するようになり、その結果、普遍的な世界宗教と「新しい世界秩序」が出現するだろうと述べた。[81] [82]

作家のスティーブン・サトクリフは、ベイリーの「世界善意」組織が、ベイリーの言葉を引用して「計画、人類、階層、そしてキリストに奉仕する」ために「世界奉仕者」のグループを推進していると書いている。[83]

ブロムリーとハモンドは、ベイリーが宗教の統一に焦点を当てていたにもかかわらず、ベイリーと他の「オカルティスト」は「『 東洋は霊的知識とオカルトの知恵の真の故郷である』という中心的な考えを強調した」と指摘している。[84]

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940713 No.7458

>>7457

影響

ベイリーまたはその支持者によって設立されたグループ

アリスとフォスター・ベイリーがスピリチュアルな教えを広めるために設立したアーケイン・スクールは、人々を3人ずつのグループに集めて毎日瞑想と学習を行う世界規模の「トライアングル」プログラムを組織しています。彼らは瞑想を通して神聖なエネルギーを受け取り、このエネルギーが人類に伝わることでスピリチュアルな意識が高まると信じています。[85]ジョン・マイケル・グリアの『オカルトの新百科事典』には、このスクールは「キリストの指導のもと、マスターの階層の仕事を成し遂げるために、世界奉仕者の新しいグループを育成しようとしている」と書かれています。[ 86]トゥエルブスはトライアングルの現代版であり、ルシス・トラストや他の尊敬される組織のメンバーの多くが今日メンバーになっています。

ニューエイジ運動への影響

ベイリーは著書の中で「ニューエイジ」という言葉を多用しており、一部の作家は彼女をニューエイジ運動の創始者と評している。 [4] [69] [87]ただし、「ニューエイジ」は1894年に出版されたキリスト教自由主義と社会主義の雑誌のタイトルとして使われており、ベイリーがその言葉を使う前のことである。[88] [89]

ジェームズ・R・ルイスとJ・ゴードン・メルトンは『ニューエイジの展望』の中で、「この変革的な比喩、そして『ニューエイジ』という言葉の最も重要な(ただし、唯一のものではない)源泉は神智学であり、特に神智学の視点がアリス・ベイリーの著作によって運動に伝えられた」と書いている。[90]

ジョン・シンクレア卿は著書『アリス・ベイリー遺産』の中で、アリス・ベイリーの影響力について言及し、それが20世紀の意識成長運動の根底にあると述べた。[91]

ネオペイガニズムへの影響

いくつかの著者は、ベイリーの概念のいくつかが現代の異教の表現と類似していることを指摘している。[92] [93]

1960年代から1970年代にかけて、ネオペイガニズムの著者であり儀式魔術の儀式家でもあるキャロル・ポーク・ラニヨンは、アリス・ベイリーの著作にちなんで「The Seventh Ray」という雑誌を出版しました。この雑誌の記事を集めた3巻本が、「The Seventh Ray Book I, The Blue Ray」、「The Seventh Ray Book II, the Red Ray」、および「The Seventh Ray Book III, the Green Ray」として出版されました。

これとは対照的に、ダレン・ケンプは『ニューエイジハンドブック』の中で、ネオペイガニズムとニューエイジ運動の間には決定的な違いがあるとし、両者を混同するのは間違いだと指摘している。[94]

宗教における女性への影響

作家キャサリン・ウェッシンジャーは、ベイリーは「 それが人気になる60年前から」解放された女性であり、ベイリーの本はアニー・ベサントの作品と同様の「千年王国観」を表現していると書いている。ウェッシンジャーは、ベイリーの本は「現代のニューエイジ運動の重要な源泉」であると述べた。[95]

『北米の女性と宗教百科事典』によると、ニューエイジ哲学の指導者数名がベイリーの教えをさらに発展させており、その中には、JZナイト(ラムサという名の存在と交信していると主張している)、ヘレン・シュックマン(「筆記」と呼んだテレパシーによる口述筆記のプロセスを通じて『奇跡講座』を著した)、エリザベス・クレア・プロフェット(「昇天したマスターからの口述筆記」と称するものを出版した)といった著名人が含まれている。これらの発展は、他の情報源では「スピンオフ」や分派グループと呼ばれています。」[96] (p. 65) [97] (p. 557) 神智学、ベイリー、エリザベス・クレア・プロフェットの違いは、エリザベス・クレア・プロフェットの核シェルターの建設を含む壊滅的な変化と生存主義という急進的な概念に関連して指摘することができます。[98] (p. 81) エリザベス・クレア・プロフェットの著作の妥当性は、「… 神智学の著述家によって異論が唱えられました」。[要出典]

派生グループの多くの主張と教えは、それらの相違を強調しています。たとえば、「アセンダント マスター」というフレーズと意味については、マークとエリザベス プロフェットによって採用されたが、神智学者やアリス ベイリーによって採用されなかったという点で、広範囲にわたる混乱があるようです。[99] [100] [自費出版ソース? ] (p. 111) 概念と言語は、一般の人々の心の中で混同されています。[101]

心理療法と治癒への影響

1930 年、ベイリーはイギリス系オランダ人の心霊学者、神智学者、学者のオルガ・フレーベ=カプタインの支援を得て、スイスのフレーベ=カプテインの邸宅、カーサ・ガブリエラに短命の「心霊研究学校」を設立しました。(1932 年、ベイリーとフレーベ=カプタインの個人的な対立により学校は閉鎖され、フレーベ=カプタインはエラノスグループに学校を置き換えました。)

サイコシンセシスの創始者であるロベルト・アサジオリは、スピリチュアル・リサーチ・スクールの講師であった。[102]彼は1930年代もベイリーと密接な関係を保ち、彼の著作のいくつかはベイリーの雑誌「ザ・ビーコン」に掲載され、ベイリーの組織であるルシス・トラストの理事でもあった。[103]彼は1910年からサイコシンセシスと呼ばれる心理学へのアプローチを開発し、彼の方法は後にベイリーの研究のいくつかの要素に影響を受けた。[104] [105] [106] [107] [108]しかし、作家のジョン・ファーマンとアン・ギラは、アサジオリはサイコシンセシスと宗教または形而上学の領域の間に「沈黙の壁」と呼ばれるものを保ち、それらを混同しないように主張したと書いている。[109]

ロジャー・J・ウールガーは、 1999年にケンブリッジ大学で開催された「脳を超えて」会議で発表した論文の中で、「タンズリーの著書にも、ブレナンの著書と同様に、肉体を取り囲むエーテル体、感情体、精神体、霊体と呼ばれる微細体の階層構造の説明がある。(タンズリーは、このモデルの出典を、ヒンドゥー教の教えの古典であるパタンジャリのヨガ・スートラに関するアリス・ベイリーの神智学的な解説に求めている)」と述べている。[110]

ベイリーの影響は、ヒューマン・ポテンシャル・ムーブメントなど、彼女が直接関わったことのない治療コミュニティにも見受けられます。[6]また、シャロン・フィッシュ著『THERAPEUTIC TOUCH: Healing Science or Psychic Midwife?』 でもベイリーの名が引用されています。[111]

UFOグループへの影響

アリス・ベイリーは未確認飛行物体について何も言及していない。[112] これは驚くことではない。アリス・ベイリーの本は1919年から1949年の間に書かれたからである[113]し、「UFOに特に焦点を合わせた宗教の出現は1947年以降の現象である」[114]。しかし、彼女はマスターが人間のレベルを超えて進化したと語り、惑星や星さえも生命体とみなす生きた宇宙の宇宙論を説いた。これらの考えは、ベイリーや他の神智学派とUFOを結びつける人々の心の一部を説明するかもしれない。例えば、クリストファー・パートリッジは、この結びつきを「簡単に移せる」と書いた。[115]秘教的な著作とUFOの両方に興味を持ち、それらを結びつける人々のサブセットが存在するという意味で、このつながりは確かに存在する。それは、アリス・ベイリーや神智学を引用している本の中にもUFOを引用しているものがあるという事実からもわかる。[116]

クリストファー・パートリッジは、ベイリー、ルドルフ・シュタイナー、そして神智学全般の著作が、彼が「UFO宗教」と呼ぶものに影響を与えたと書いている。 [117] 彼は「神智学にはいくつかの主要な分派があるが、厳密に言えば、UFO宗教に最も重要な影響を与えた分派はアリス・ベイリーによって発展させられたものである」と説明した。[118]パートリッジはまた、最初のUFO宗教はガイ・バラードの「I Am」活動であると示唆したゴードン・メルトンの言葉を引用した。[117](ベイリーはこれを「安っぽいコメディ」と表現した。[119])

南カリフォルニア大学のロバート・S・エルウッド教授は、1970年代にアメリカ合衆国の幅広い宗教団体や霊的団体を調査したが、その中にはダニエル・フライというコンタクティが設立したUFO信者の全国団体「Understanding, Inc.」も含まれていた。彼は「集会には特別な宗教的慣習はないが、アリス・ベイリーの著作に由来するニューエイジの祈りが祈祷文として使われている」と報告している。[120]

ウォルヴァーハンプトン大学のジョージ・D・クリサイドは、ベイリーが太陽神殿団や関連するUFO組織の思想に与えた影響について言及した。 [121]

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940713 No.7459

>>7435

なぜNEWという言葉がつくものが多いのだろう?

ニューエイジ

ニューソート

ニューワールドオーダー

世界新教育連盟(the New (later World) Education Fellowship)

etc….

今後「NEW」とつく新しい言葉が広まりだしたら、パッケージを変化させただけの神智学の思想が、拡散されているかもしれないと疑っても良いのでは?

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940713 No.7460

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>>7444

ユネスコ関連

徳川頼貞

https://ja.wikipedia.org/wiki/徳川頼貞

徳川 頼貞(とくがわ よりさだ、旧字体:德川 賴貞、1892年(明治25年)8月16日 - 1954年(昭和29年)4月17日)は、日本の音楽学者、政治家、実業家。位階は正三位。勲等は勲二等。爵位は侯爵。雅号は薈庭(わいてい)。音読みで「ライテイさん」とも呼ばれた。

概要

御三家の紀州徳川家第16代当主。母方の祖父・徳川茂承は紀州藩主。母方の祖母・徳川則子を通じて伏見宮邦家親王の曾孫に当たる。父方の祖父は田安徳川家第8代当主・徳川慶頼であり、徳川宗家第16代当主・徳川家達は伯父に当たる。

楽譜や音楽文献、古楽器類の収集家として知られ、「音楽の殿様」と称された。日本楽壇の進歩発展に尽力するなど、戦前における西洋音楽のパトロンとして頼貞の果たした役割は大きい。戦前は貴族院議員として、戦後は参議院議員として、約30年間にわたって憲政に携わり、音楽を通じて築いた人脈を利用して主に外交において活躍した。ユネスコ国会議員連盟、フィリピン協会、全日本音楽協会の各会長、パリ国立高等音楽院名誉評議員などを歴任した。また、万国議員商事会議、列国議会同盟会議、万国音楽連盟、ユネスコ国際会議などには日本代表として出席している。

妻の為子は公爵島津忠重の妹。頼貞は島津家を通じて香淳皇后の義理の叔父に当たる。

気になる箇所

戦時中は第14方面軍の最高顧問としてフィリピンに約1年間の任期で派遣され、文化面を通じての宣撫活動に従事した。1943年には村田省蔵の比島調査委員会で副委員長に就任[17]。マニラ郊外のラスピニャス教会[注釈 10](en:St. Joseph Parish Church, Las Piñas)にある世界で唯一とされる竹製パイプオルガン(en:Las Piñas Bamboo Organ)が適切に保存されていないことを憂慮し、マラカニアン宮殿の行政府長官ヴァルガスに面会してフィリピン人の手によって修理する必要性を力説。ヴァルガスは頼貞の提案に賛同し、修理費の大部分をフィリピン政府が負担することで合意した。しかし、一部は民間で負担しなければならなかったが、頼貞がマニラ大司教ロハティに協力を求めたところ、無事にロハティの協力が得られてカトリック信者からの寄付金も集まり、最終的には頼貞の俸給を全て寄付することで修理は軌道に乗っている。頼貞は修理の完成を見ることなく帰国したが、ラスピニャス教会の入り口には「This organ has been restored by Marquis Tokugawa of Japan(このオルガンは日本の徳川侯爵によって修復された)」と書き込まれているという[18]。

・1951年(昭和25年)6月18日から7月11日までパリのユネスコ本部で開催された第6回ユネスコ総会に日本政府代表団[注釈 11]の一員として参加。総会ではフィリピンの反対を受けたが、米国をはじめとしてパナマや中華民国の積極的な支援を得て日本のユネスコ加盟が承認された。帰国前にイタリアのカステル・ガンドルフォに避暑していたローマ教皇ピウス12世を訪問する機会に恵まれ、避暑先のガンドルフォ城で非公式に会談している。別れ際に教皇から希望を聞かれた頼貞はバチカン宮殿の秘苑を散策することを希望し、教皇の快諾を得て帰国日の8月30日夕方に秘苑を数時間散策している。

1954年(昭和29年)4月16日に十二指腸潰瘍のため国会会期中の請暇を申し出た矢先の翌4月17日午前6時30分、東京都杉並区天沼三丁目725番地の自宅で死去[20]。61歳没。千代田区の聖イグナチオ教会で告別式が営まれ、遺骨は葬儀が執り行われた長保寺の和歌山藩主徳川家墓所に埋葬された。葬儀委員長は下村宏が務めた。戒名は優公院殿。家督は長男の頼韶が継いだ。

外国勲章佩用允許

1927年(昭和2年)2月1日 - フランス共和国:カンボージュ勲章コマンドール[45]

1930年(昭和5年)10月9日 - フランス共和国:ドラゴンドランナン勲章グランオフイシエー[46]

1931年(昭和6年)

3月31日 - チュニジア国:ニシャンイフチカル勲章(英語版)グランクロア[47]

4月28日 - シャム王国:クーロンヌ勲章グランクロア[48]

1933年(昭和8年)11月2日 - イタリア王国:クーロンヌ勲章(英語版)グランオフイシエー[49]

1934年(昭和9年)10月26日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章コマンドール[50]

1935年(昭和10年)9月21日 - 満洲帝国:満洲帝国皇帝訪日紀念章[51]

1937年(昭和12年)6月3日 - ベルギー王国:レオポール第二世勲章グランクロア[52]

1940年(昭和15年)

5月31日 - ギリシャ王国:フェニックス勲章グランクロア[53]

12月25日 - ブラジル国:ナショナルドラクロアデュシュド勲章グランオフイシエー[54]

主な役職

議員連盟

ユネスコ国会議員連盟会長

国連国会議員連盟会長

文化事業

南葵育英会総裁

全日本音楽協会会長

聖チェチーリア音楽院名誉評議員

パリ国立高等音楽院名誉評議員

国際関係

国際文化振興会副会長

フィリピン協会会長

白耳義協会会長

日本ギリシャ協会会長

日伯中央協会会長

暹羅協会会長

日智協会会長

南洋協会評議員

日本ユネスコ国内委員会委員

企業関係

日本赤十字社常議員

松下電器産業相談役

近畿日本鉄道相談役

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940713 No.7461

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>>7444

マルサス会議とその成果

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jshet1963/26/26/26_26_1/_pdf/-char/ja

Societe de Demographie Historique International Union for the Scientific Study of Populationとは, 諸機関(UNESCO, Centre national de la Recherche scientifique, Ecole des hautes Etudes en Sciences sociales, Maison des Sciences de l'homme, Institut national d'Etudes demographiques)と共同 し, フランス共和国大統領, 首相, 各大臣他の援助を得, かつ多数の諸個人の承認を得,マルサス会議Colloque(組織委員会本部, Laboratoire de d6mographie torique, 54 boulevard Raspai1, 75006 Paris)を1980年5月27~30日 にわたりパリのユネスコ本部において開催した。

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940713 No.7462

>>7461

>マルサス

マルサス

https://www.y-history.net/appendix/wh1204-062.html

18~19世紀初頭のイギリスの古典派経済学者。『人口論』を著し、人口増加が貧困の要因となると論じ、人口抑制を説いた。

Thomas Robert Malthus 1766-1834 イギリスの古典派経済学の一人(1766~1834)。イギリス国教会の牧師であったマルサスは、産業革命(第1次)期の人口増加に直面してその動向を分析し、1798年に『人口論』を発表し、「人口は幾何級数的に増加するが、食糧は算術級数的にしか増加しない」という命題を打ち出した。

 人口増加がこのまま進めば、イギリス社会の貧困が深刻になると危機感を持ち、人口抑制の必要を説いた。マルサスは牧師らしく、人々に自己の性的欲望を抑えて結婚年齢を遅らせることを訴え、イギリスの将来に不安の影を投げかけた。このような思想は「マルサス主義」とも言われ、産児制限などが始まった。

 しかし、イギリス経済は19世紀を通じて加速度的な成長を遂げ、その工業化のおかげで、その間の3.5倍に増加した人口をみごとに支えることができた。ただし、アイルランドでは1840年代にジャガイモ飢饉が起き、イギリスによって半植民地されたこともあって工業化が遅れ、貧困が続いた。<村岡健次『世界の歴史』22 1999 中央公論社 p.348>

「マルサスの罠」

 マルサスが説いた、人口増加は食糧生産の増加を上回るため、人々は窮乏化をさけるためさまざまな方法で人口増大を抑制するようになるという説は「マルサスの罠」と言われている。人口増大と経済成長が同時にできなかったのは、自然環境が制約条件となっていたからであった。1800年以前は、あらゆる社会がほとんどの資源を土地に依存しており、その環境的要因によって世界経済は長い間本質的に変わらず、急速な成長をとげることがなかった。ところが、産業革命の過程で、1800年を境として起こったエネルギー革命によってこの制約が除去され、人口の増大と経済成長は調和的に進行することが可能となった。このような「マルサスの罠」からの解放を可能にしたエネルギー革命こそ、産業革命のもたらした最大の変化であるという産業革命の再評価が近年、支持を受けている。<長谷川貴彦『産業革命』2012 世界史リブレット 山川出版社 p.3-4、p.55~62>

3分でわかる! マルサス『人口論』

2023.8.2

https://diamond.jp/articles/-/325326

一部抜粋

人類の歴史で戦争が絶えなかった理由。それは人口と食糧の問題だった。人間に食欲と性欲があるかぎり、人口は増え続けて食糧生産は追いつかない。では、どうすればよいのか。人口増加を抑制すればよいのだが、その方法はやはり戦争しかないのか?

・マルサスの人口論

「一方の意見によれば、人間はこれからますますスピーディーにこれまで思いも及ばなかった無限の改善にむかって前進するだろう。もう一方の意見によれば、人間は幸せと不幸せの間を永遠に往復するのが世の定めであり、どんなに努力しても念願のゴールはやはり、はるかかなたのままだろう」(同書)

・特に有名なフレーズは「人口は、なんの抑制もなければ、等比級数的に増加する。生活物資は等差級数的にしか増加しない」という部分です。

・「財産はなるべく平準化することが長期的には絶対に有利である。所有者の数が多くなれば、当然、労働者の数は少なくなる。つまり、社会の大多数が財産の所有者となり、幸福になる。自分の労働以外に財産をもたない不幸な人間は少数になる」(同書)

 しかし、そんな社会をどうやってつくっていけばいいのでしょうか。

「人口の増加力と土地の生産力とのあいだには自然の不均衡があり、そして、やはり自然の大法則により両者は結果的に均衡するよう保たれる」「すべての生き物を支配するこの法則の重圧から、どうすれば人間は逃れられるか、私は知らない」(同書)

・「ご存じのとおり、牧畜の国は農耕の国ほど多くの住民を養えない」(同書)

・食糧問題は環境問題とともに世界全体の秩序と関連してくるので、より根本的な問題解決が模索されています。

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940713 No.7463

>>7462

マルサス主義

https://ja.wikipedia.org/wiki/マルサス主義

マルサス主義(まるさすしゅぎ、Malthusianism)とはトマス・ロバート・マルサスによって述べられた政治・経済に関する思想であり、産業革命期に展開された。マルサス主義の詳細については1798年の『人口論』による。その著書では、抑制されない人口増加が指数関数的になる一方で、食料供給の増加は算術的になることが予測されており、いかにしてマルサスのカタストロフィーに至るかが述べられている。マルサスはマンチェスター学派の思想のときに執筆した。

概要

それはトーリー党のパターナリズムに代表される貧困層へのチャリティーの考えは効果がなく、膨大な貧困層の増加をもたらすだけであるとの推論から導かれており、1834年の新救貧法に体現される給付の縮小というホイッグ党の経済学の考え方に発展し、反対者たちは「マルサスの法案は、貧困層が海外に移住し、低賃金で働き、粗末な種類の食物での生活を余儀なくするように考案された」[1]と述べ、貧困層の暴動や放火を招き、結局救貧院の建設をもたらすことになった。

その考えが進歩的な社交界に広まった頃には、チャールズ・ダーウィンを知人にもつ小説家ハリエット・マーティノーが支持者となり、マルサスの考えはダーウィンの理論の発端に重要な影響を及ぼした。

メリーランド大学の歴史教育センターのダン・リッチェル博士によると

大きなマルサスの恐怖は、「無差別なチャリティー」が貧困層人口の指数関数的増加や、成長する属国の軍を支えるための国庫に対する税の増加、そして国家破産のカタストロフィーさえ導かれるだろうということであった。以来、マルサス主義は一般的な人口爆発の問題と同一視されるようになったが、本来のマルサスの関心は、より具体的なものであり、依存する貧困層による人口爆発の恐怖に関するものであった!

マルサス理論の最初期の批評家の一人はカール・マルクスであり、「男子生徒レベルのものであり、デ・フォー、ジェームズ・スチュアート、タウンゼンド、フランクリン、ウォレスの浅薄な剽窃」と述べ(マルクスとマルサスによる資本の意味の違いは参考文献を参照)、他の批評家は、科学と技術の進歩を仮定すれば、際限のない指数関数的な人口増加が認められるだろうとしている。実際に化学肥料が開発されると人口爆発にも耐えうる生産量を確保することが可能となり、人口論の前提条件は克服された[2]。

https://kotobank.jp/word/マルサス主義-636156

・《Malthusianism》マルサスの唱えた人口と食糧の関係に関する学説。人口は幾何級数的に増えるが、食糧は算術級数的にしか増えないことから、この結果起こる貧困と悪徳は一種の人口抑制要因として働く自然現象であって資本主義経済の欠陥によるものではないとし、その対策として、結婚年齢の延期という道徳的抑制を推奨した。

出典 小学館デジタル大辞泉

・イギリスの古典派経済学者マルサスが主著《人口論》(初版1798)で主張した人口原理ないし人口政策のこと。マルサスの人口原理の骨子は,(1)人間の生存には食料が必要であること,(2)人間の情欲は不変であること,しかし(3)食料は算術級数的にしか増加しない(のちに〈収穫逓減の法則〉と呼ばれるに至ったもの)のに対し,人口は幾何級数的に増加すること,したがって(4)人口は絶えず食料増加の限界を超えて増加する傾向があること(なお,このようにして増加した人口は〈絶対的過剰人口〉と呼ばれ,マルクスの〈相対的過剰人口〉と区別される),(5)絶対的過剰人口はマルサスによって〈積極的抑制positive check〉と呼ばれた〈貧困と悪徳〉によって食料増加の限度内に抑圧される。このような人類の悲惨な過剰人口の宿命を論じた初版に対する学界の強い反対論に対し,マルサスは第2版(1803)において,〈道徳的あるいは予防的抑制〉の概念を導入した。道徳的抑制は結婚の延期を意味する。過剰人口は結婚の延期を通じての出生抑制により回避できる,とマルサスは考えたわけである。

新マルサス主義

このようなマルサスの人口原理を受け入れながらも,==マルサスの提示した結婚の延期という道徳的抑制は現実には実行不可能であるとし,結婚の中での産児調節の必要性と可能性を主張したのが新マルサス主義neo-Malthusianism==である。しかしマルサス自身は産児調節は考慮していなかったし,また宗教的背景から否定的態度であったことは当然である。この点において,産児調節を積極的にとりあげた社会運動家たちを,マルサスと区別して新マルサス主義者と呼ぶことは意味がある。新マルサス主義の用語がいつごろから使用されたかは明確でないが,1880年代初めころJ.M.ロバートソンが初めて使用したといわれる。この産児調節論を初めて積極的に展開したのはプレースFrancis Place(1771-1854)であるが,経済学者J.ミルおよびその子J.S.ミルによって産児調節の必要性が指摘されていることは注目すべきであろう。

執筆者:黒田 俊夫

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」

・本来はマルサスが『人口論』(1798)で説いた人口と食糧との関係に関する学説をいう。マルサスによれば、人口はいつも食糧の限度以上に増加しようとする。だがさまざまの障害があってそれは抑えられる。第一は人口の増加率と食糧の増加率との違いから生ずる食糧不足(終極的制限)、第二は流行病、戦争、極端な貧困、激しい労働のような人間の寿命を縮める諸要因(積極的制限)、および、結婚を控えるといった意識的行為(予防的制限)である。どの国でも第二の直接的制限のうちのいずれかが作用して人口増加を抑えるから、終極的制限が作用するのは飢饉(ききん)の際のみである。それでもなお、人口は食糧以上に増加しようとしており、これが下層諸階級の生活改善を妨げている。資本主義の下での労働者の貧困は、社会制度によるのではなく人口法則に基づいている。マルサスは、W・ゴドウィンらの社会改革論に反対するため、以上のような主張を展開した。以後、過剰人口の脅威を唱える思想をマルサス主義とよぶようになった。

 マルサスに対する批判は、いち早くマルクス、エンゲルスによってなされたが、以後もマルサス主義論争は絶えることがない。F・オッペンハイマーは『マルサスおよび新国民経済学の人口法則』(1900)で、マルサスに続く予言的マルサス主義者としてラベンスタインErnst Georg Ravenstein、ワーグナーAdolf Heinrich Gotthilf Wagner、リューメリンGustav von Rümelinなどをあげ、批判した。第二次大戦後は、いわゆる発展途上国の人口激増に伴う重圧がマルサス的問題の最たるものと考えられている。

[皆川勇一]

『T・R・マルサス著、高野岩三郎・大内兵衛訳『初版 人口の原理』(岩波文庫)』▽『R・L・ミーク編、大島清・時永淑訳『マルクス、エンゲルス マルサス批判』(1955・法政大学出版局)』▽『南亮三郎・館稔編『マルサスと現代』(1966・勁草書房)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

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940713 No.7464

>>7463

英語版

https://en.wikipedia.org/wiki/Malthusianism

マルサス主義とは、マルサスの成長モデルによれば、人口増加は潜在的に指数関数的であるが、食糧供給やその他の資源の成長は直線的であるため、最終的には生活水準が低下し、人口減少を引き起こすという理論である。マルサスの大惨事(マルサスの罠、人口の罠、マルサスの抑制、マルサスの危機、マルサスの亡霊、マルサスの危機とも呼ばれる)と呼ばれるこの出来事は、人口増加が農業生産を上回り、飢饉や戦争を引き起こし、貧困と過疎化をもたらす場合に発生する。このような大惨事は必然的に、人口をより低く、より容易に持続可能なレベルに「修正」させる効果を持つ(抑制されない成長や予防的な抑制の影響を受ける成長を支配する比較的ゆっくりとした時間スケールとよく理解されたプロセスと比較すると、関係する緩和要因の潜在的な深刻さと予測不可能な結果のために、かなり急速に)。[1] [2]マルサス主義は様々な政治・社会運動と結び付けられてきましたが、ほとんどの場合、人口抑制の提唱者を指しています。[3]

これらの概念は、トーマス・ロバート・マルサス牧師の1798年の著作『人口原理論』に述べられている政治・経済思想に由来する。マルサスは、技術の進歩によって食糧などの社会資源の供給量が増加し、それによって生活水準が向上する一方で、資源が豊富だと人口増加を招き、最終的には一人当たりの資源供給量が元のレベルに戻ると示唆した。経済学者の中には、 19世紀初頭の産業革命以来、人類はこの罠から抜け出したと主張する者もいる。[4] [5]極度の貧困が続いていることはマルサスの罠がまだ機能していることを示していると主張する者もいる。[6]さらに、食糧不足と過度の汚染により、発展途上国では先進国よりもこの罠の証拠が多いと主張する者もいる。[7]同様の、より現代的な概念は、人間の人口過剰である。

新マルサス主義とは、現在および将来の人類、そして他の種族のために資源と環境の完全性を確保するための人口計画を提唱するものである。 [2]英国では、「マルサス主義者」という用語は、より具体的には家族計画を支持する議論を指すこともあり、マルサス連盟などの組織もこれに該当する。[8]新マルサス主義者は、主に産児制限の使用を支持する点でマルサスの理論と異なる。敬虔なキリスト教徒であったマルサスは、「自制」(つまり禁欲)が人工的な産児制限よりも望ましいと考えていた。彼はまた、避妊具の使用が成長を抑制するのに強力すぎることを懸念しており、これは着実に増加する人口が、一般的に「社会の進歩」を継続させる上で不可欠な要素であるという18世紀の一般的な見解(マルサス自身もこれに固執していた)と矛盾している。現代の新マルサス主義者は、一般的に貧困よりも、環境の悪化や壊滅的な飢餓をマルサスよりも懸念している。

マルサス主義は、ジョージスト、マルクス主義者[9]、社会主義者[10] 、リバタリアンや自由市場論者[11]、フェミニスト[12]、カトリック信者[ 13 ] 、人権擁護者など、さまざまな学派から批判を集めており、過度に悲観的、研究不足、[13]、人間嫌いあるいは非人間的[14]と特徴づけられている。[15] [ 3] [16]多くの批評家は、マルサス主義は『人口原理』の出版以来信用を失ったと考えており、農業技術の進歩や現代の人間の出生率の低下をよく挙げている。[17]現代の支持者の中には、人口増加が最終的に資源を上回るという基本概念は依然として根本的に有効であり、意図的に人口増加を抑制する措置が講じられなければ、人類の将来に依然として積極的抑制が起こる確率が高いと考える者もいる。[18] [19] [より良い情報源が必要]さまざまな批判があるにもかかわらず、マルサスの議論は依然として、国内および国際的な環境規制を推進するための主要な議論であり続けています

歴史

マルサスの理論的議論

1798年、トーマス・マルサスは『人口論』の中で彼の仮説を提唱した。

彼は、人口は増加する傾向にあるが、国家の幸福には食糧生産の同様の増加が必要であると主張した。「国の幸福は、その国の貧困や富、その国の若さや古さ、その国の人口の少なさや多さに絶対的に左右されるのではなく、その国がどれだけ急速に増加しているか、つまり食糧の年間増加が無制限の人口の年間増加にどれだけ近づくかに左右される。」[20]

しかし、人口増加の傾向は、豊かさと不足の自然なサイクルにもつながります。

どの国でも、生存手段は住民の容易な生活とちょうど同じであると仮定します。人口増加に向けた絶え間ない努力は、生存手段が増加する前に人口を増加させます。したがって、以前は 700 万人を養っていた食糧は、現在では 750 万から 800 万人の間で分配されなければなりません。その結果、貧しい人々の生活ははるかに悪化し、その多くは深刻な困窮に陥ります。労働者の数も市場の労働の割合を上回っているため、労働価格は下がる傾向にありますが、同時に食料価格は上昇する傾向があります。したがって、労働者は以前と同じ収入を得るために、より一生懸命働かなければなりません。この困窮の時期には、結婚への意欲がなくなり、家族を養うことが困難になるため、人口は停滞します。その間、労働の安さ、労働者の多さ、そして労働者の間での産業の拡大の必要性により、耕作者は土地でより多くの労働力を使用するようになります。新しく土を掘り起こし、すでに耕作されているものをより完全に肥料を与えて改良し、最終的に生活手段が、出発した時期と同じ人口比になるまで続ける。労働者の状況は再びかなり快適になり、人口の制限はある程度緩み、幸福に関する同様の後退と進歩の動きが繰り返される。

— トーマス・マルサス、1798年。人口原理論、第2章。

''飢餓は、自然界の最後の、そして最も恐ろしい資源のようです。人口の力は、人間のための生存資源を生産する地球の力よりも非常に優れているため、早すぎる死が何らかの形で人類に訪れることは間違いありません。人類の悪徳は、人口減少の積極的な有能な大臣です。彼らは破壊の大軍の先駆者であり、しばしば彼ら自身で恐ろしい仕事を終わらせます。しかし、彼らがこの絶滅戦争に失敗すると、不健康な季節、伝染病、疫病、疫病が恐ろしい形で進み、何千、何万人もの人々を一掃します。成功がまだ不完全であれば、巨大な必然的な飢餓が背後から忍び寄り、一撃で人口を世界の食糧と同じレベルにします

— トーマス・マルサス、1798年。人口原理論。第7章、61ページ[21]''

マルサスは生前もその後も経済学者からの反対に直面した。数十年後に声高に批判したのはフリードリヒ・エンゲルスであった。[22] [23]

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940713 No.7465

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>>7464

初期の歴史

マルサスは、自分が認識していた問題を最初に概説したわけではない。このエッセイの原文は、貧困の起源に関する 18 世紀末の知的議論の一部だった。『人口原理』は、ウィリアム・ゴドウィンやコンドルセ侯爵、そして人類の完全性を信じていたマルサスの父親などの思想家に対する反論として書かれた。マルサスは、人類の再生産能力が速すぎると完全性への努力が失敗し、さまざまな問題を引き起こすと信じていた。

労働者階級の急速な再生産の傾向に対する彼の批判と、資本家による労働者の労働の搾取ではなく、それが労働者の貧困につながるという彼の信念は、彼の理論に対する広範な批判を招いた。[24]

マルサス主義者は、トーリー党の父権 主義に代表される貧者への慈善という考えは、貧者の増加につながるだけなので無益だと考えていた。これらの理論は、1834年の救貧法改正法に代表されるホイッグの経済思想に影響を与えた。この法律は反対者によって「貧者を強制的に国外へ移住させ、低賃金で働かせ、粗末な食べ物で暮らさせることを目的としたマルサスの法案」と評され、[25]暴動や放火にもかかわらず救貧院の建設を開始した。

マルサスは『人口論』の 後の版で理論を改訂し、より楽観的な調子をとったが、改訂の程度については学者の間で議論がある。[1]メリーランド大学ボルチモア郡校歴史教育センターのダン・リチェルによれば、

マルサスの最大の懸念は、「無差別な慈善」が貧困人口の急激な増加、この増加する被扶養者軍団を支えるための公費負担の増加、そして最終的には国家破産という大惨事につながるということだった。マルサス主義はその後、一般的な人口過剰の問題と同一視されるようになったが、マルサスの当初の懸念は、より具体的には被扶養貧困者による人口過剰への恐怖であった。[26]

マルサス主義の支持者の一人は小説家のハリエット・マーティノーで、彼女の交友関係にはチャールズ・ダーウィンもおり、マルサスの考えはダーウィンの進化論の発端に大きな影響を与えた。[27]ダーウィンは、人口増加によって最終的に特定の環境で生き残れる以上の生物が生まれるという考えに感銘を受け、生存と繁殖の闘争で相対的に有利な生物は、その特徴を次の世代に伝えることができるという理論を思いついた。マルサス主義の支持者もダーウィンの考えに影響を受け、両学派は優生学の分野に影響を与えるようになった。ヘンリー・フェアフィールド・オズボーン・ジュニアは、「不適格者」を排除することでマルサスの破局を回避するために、「人道的な産児制限による人道的な産児選択」を提唱した。[1]

19 世紀が進むにつれて、主に技術の進歩、農業への新領土の開拓、国際貿易の拡大などの結果として、マルサス主義は知的伝統としてあまり一般的ではなくなった。[1] 20 世紀前半、米国では「自然保護」運動が資源枯渇と自然保護に関心を寄せていたが、デロシェとホフバウアーは次のように書いている。「マルサス主義の復活が米国民のかなりの部分で定着したのは、オズボーンとヴォクトの本 [1948] が出版されてからだったと言っても過言ではないだろう」。[1]

現代の定式化

マルサスの理論の現代的な定式化は、クアムルル・アシュラフとオデッド・ガロアによって展開された。[28]彼らの理論構造は、所得の増加が再生産の成功にプラスの効果をもたらし、土地が資源生産の制限要因である限り、技術進歩は一人当たり所得に一時的な影響しか及ぼさないことを示唆している。短期的には技術進歩が一人当たり所得を増加させるが、技術進歩によって生み出された資源の豊富さは人口増加を可能にし、最終的には一人当たり所得を元の長期的なレベルに戻すであろう。

この理論の検証可能な予測は、マルサスの時代には技術的に進歩した経済は人口密度が高いことが特徴であったが、一人当たりの所得水準は技術的に後進的な社会の水準と変わらなかったというものである。

予防的人口制御と積極的人口制御

参照:人口計画

食糧供給に関して人口増加を管理するために、マルサスは予防的または積極的抑制と表現した方法を提案しました。

・マルサスによれば、予防的抑制とは、自然が人口の変化を変える方法である。主な例としては独身と貞操があるが、マルサスは避妊も幼児殺害、中絶、姦通とともに道徳的に擁護できないと非難した。 [29]言い換えれば、予防的抑制は出生率を下げることで人口を制御する。[30]

ポジティブチェックとは、人間の寿命を縮める出来事や状況のことである。主な例としては、戦争、疫病、飢饉などがある。[31]しかし、健康状態や経済状況の悪さもポジティブチェックの例とみなされる。[32]これらが早死にの率の高さにつながる場合、その結果はマルサスの大惨事と呼ばれる。隣の図は、既存の人口と食糧供給の観点から、そのような出来事が起こる抽象的な時点を示している。人口が共有供給の容量に達するかそれを超えると、ポジティブチェックが強制的に発生し、バランスが回復する。(実際には、食糧、水、その他の資源へのアクセスをめぐる複雑な地域的および個人的格差により、状況ははるかに微妙なものとなるだろう。)

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940713 No.7466

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>>7465

新マルサス理論

マルサスの理論は、多くの社会科学の場で繰り返し取り上げられるテーマである。ジョン・メイナード・ケインズは『平和の経済的帰結』の中で、マルサスの人口圧力が食糧供給に及ぼす影響でヨーロッパの政治経済が不安定になるというマルサスの描写で論争を始めている。 [33]資源枯渇と希少性の多くのモデルはマルサスの性格を帯びている。エネルギー消費の速度が新しいエネルギー源を発見して生産する能力を上回り、危機につながる。[要出典]

フランスでは、「マルサス政治」などの用語は人口抑制戦略を指します。マルサスに関連する人口制限の概念は、後の政治経済理論で生産制限の概念に変化しました。フランスの意味での「マルサス経済」とは、保護主義とカルテルの形成が容認されるだけでなく奨励される経済です。[引用が必要]

ボルシェビキ党の指導者でありソビエト連邦の主要な設計者であるウラジーミル・レーニンは、新マルサスの理論を批判した(ただし、産児制限や中絶全般については批判しなかった)。[34]

「新マルサス主義」とは、人口過多と過剰消費が資源枯渇や環境悪化を引き起こし、生態系の崩壊やその他の危険につながるのではないかという懸念である。[35]

過去1世紀の世界人口の急増は、マルサスの予測した人口パターンを例証するものであり、また複雑な前産業社会の社会人口動態を描写しているようにも見える。これらの発見は、長期的な歴史的ダイナミクスに関する新マルサスの現代数学モデルの基礎となっている。[36]

1940年代半ばから後半にかけては、全般的に「新マルサス主義」が復活し、1948年に2冊の影響力のある本(フェアフィールド・オズボーンの『略奪された地球』とウィリアム・ヴォクトの『生存への道』)が出版されてから2010年代まで続いた。[37]その間に世界の人口は劇的に増加した。環境保護運動に携わる多くの人々が、人口増加の潜在的な危険性について警鐘を鳴らし始めた。[1]ポール・R・エーリッヒは、 1968年に『人口爆発』を出版して以来、最も著名な新マルサス主義者の一人である。[38] 1968年、生態学者のギャレット・ハーディンは、マルサスの理論を大いに参考にした影響力のあるエッセイをサイエンス誌に発表した。彼のエッセイ「コモンズの悲劇」では、「有限の世界は有限の人口しか支えられない」こと、そして「繁殖の自由はすべての人に破滅をもたらす」ことを主張した。[39]ローマクラブは1972年に『成長の限界』と題する本を出版した。この報告書と組織はすぐに新マルサスの復活の中心となった。[40] 著名な生態経済学者ハーマン・デイリーは、定常経済の概念にマルサスの影響があったことを認めている。[41]他の著名なマルサス主義者には、 『飢餓1975!アメリカの決断:生き残るのは誰か?』の著者であるパドック兄弟がいる。

新マルサスの復活は、緑の革命によって食糧生産が大幅に増加し、人口増加にも対応できるようになるため、マルサスの警告は誇張されていたり時期尚早であったと主張する著述家からの批判を招いている。[ 17] [42] [43] 豊穣主義者のジュリアン・サイモンは、新マルサスの理論に反して、地球の「収容力」は本質的に無限であると書いている。[1]サイモンは、たとえば銅の物理的量が無限であるとは主張していないが、人間の目的のためには、その量はいかなる経済的意味でも制限も制限もされていないため、無限として扱うべきだと主張している。その理由は、1) 既知の埋蔵量は不確定である 2) 発見または新しい抽出技術の開発により、新しい埋蔵量が利用可能になる可能性がある 3) リサイクル 4) 既存の埋蔵量のより効率的な利用 (例: 「現在、特定のメッセージを伝達するのに必要な銅の量は、100 年前よりもはるかに少ない」[The Ultimate Resource 2、1996、脚注、p. 62]) 5) 経済的同等物の開発 (例: 通信用銅の場合の光ファイバー) などである。サイモンに応えて、アル・バートレットは、人口増加が指数関数的 (またはマルサスの表現では「幾何的」) 曲線として、天然資源と人間の創意工夫の両方を凌駕する可能性を再度強調している。[44]バートレットは特にエネルギー供給について執筆や講演を行っており、「指数関数を理解できないこと」を「人類の最大の欠点」と表現している。

ポール・エーリッヒのような著名な新マルサス主義者は、結局のところ、地球上の人口増加は依然として高すぎ、最終的には深刻な危機につながると主張している。[14] [45] 2007年から2008年にかけての世界の食糧価格危機は、世界の食糧供給の見通しに関するマルサスの議論をさらに刺激した。[46]

2004年から2011年頃にかけて、「ピークオイル」やその他の資源枯渇に関する懸念が米国で広まり、新マルサスの「ピーク主義者」の大規模な、しかし短命なサブカルチャーを生み出した。[47 ]

2009年に実施された国連食糧農業機関の調査[ 48 ]によると、今後40年間で食糧生産を70%増加させる必要があり、2050年には78億人から91億人に増加すると予測される人口を養うためには、発展途上国の食糧生産を2倍にする必要があるとされています[49]。地球温暖化の影響(洪水、干ばつ、その他の異常気象)は、地域によって異なる影響を及ぼし、食糧生産に悪影響を及ぼすと予想されています。[50] [51] FAOはまた、バイオ燃料のための農業資源の使用も、食糧の供給に下押し圧力をかける可能性があると述べています。[52]パリ気候協定の目標を達成するための一般的な「ネガティブエミッション」戦略としての炭素回収バイオエネルギー(BECCS)の最近の出現も、そのような圧力の1つです。

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940713 No.7467

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>>7466

支持する証拠

研究によれば、技術的優位性と土地生産性の高さは、西暦1年から1500年の間に人口密度に有意なプラスの効果があったが、生活水準に及ぼす効果はわずかであった。[53]さらに、学者たちは、非常に長い期間にわたって世界中のさまざまな場所で賃金に大きな傾向が見られなかったと報告している。[5] [54]たとえば、紀元前1800年から1600年のバビロニアでは、一般労働者の1日の賃金は約15ポンドの小麦を買うのに十分だった。紀元前328年頃の古典期アテネでは、対応する賃金で約24ポンドの小麦を買うことができた。西暦1800年のイングランドでは、賃金は約13ポンドの小麦だった。[5] : 50 これらの社会全体での技術発展にもかかわらず、1日の賃金はほとんど変わらなかった。1200年から1800年の間のイギリスでは、実質賃金の平均からの比較的小さな変動(2倍未満)しか起こらなかった。黒死病やその他の疫病による人口減少の後、イギリスの実質所得は1450年から1500年頃にピークに達し、その後イギリス農業革命まで減少し続けた。[55]歴史家ウォルター・シャイデルは、ヨーロッパ全土で最初に黒死病が流行した後に流行した疫病の波が平準化効果をもたらし、土地と労働の比率を変え、土地の価値を下げて労働の価値を高め、雇用者と地主の富を奪い、労働者の経済的見通しと生活水準を改善することで経済的不平等を低下させたと仮定している。彼は「労働人口の生活水準の観察された改善は、数世代にわたる数千万人の苦しみと早死に根ざしていた」と述べている。この平準化効果は「人口回復によって新たな人口圧力が生じた」ことで逆転した。[56]

ロバート・フォーゲルは、マルサスの約1世紀前から19世紀にかけての寿命と栄養に関する研究を発表した。この研究では、ヨーロッパの出生・死亡記録、軍やその他の身長・体重の記録を調べたところ、身長の著しい低下と低体重が慢性的な飢餓と栄養失調の兆候であることがわかった。また、寿命が短いことも発見し、慢性的な栄養失調によって人々が病気にかかりやすくなっていると考えた。1750年以降、英国とフランスでは寿命、身長、体重が着実に増加し始めた。フォーゲルの研究結果は、利用可能な食糧供給量の推定値と一致している。[23]

マルサス主義を支持する証拠は、今日、人口が急増している世界の貧しい国々で見ることができる。特に東アフリカ[57]では、専門家はこの地域が人口増加のマルサスの影響からまだ逃れられていないと述べている。[58] たとえば、ジャレド・ダイアモンドは著書『崩壊』 (2005年)で、ルワンダ虐殺は過度の人口圧力によって部分的に引き起こされたと主張している。彼は、ルワンダは「マルサスの最悪のシナリオが正しかったと思われる事例を示している」と主張している。ルワンダの人口圧力により、人口密度と遅れた技術進歩が相まって、食糧生産が人口に追いつかなくなったとダイアモンドは説明している。ダイアモンドは、この環境がツチ族、さらには一部のフツ族の大量虐殺を引き起こしたと主張している。[59]この場合の虐殺は、マルサスの罠の潜在的な例を提供している。

>ルワンダの人口圧力により、人口密度と遅れた技術進歩が相まって、食糧生産が人口に追いつかなくなったとダイアモンドは説明している。ダイアモンドは、この環境がツチ族、さらには一部のフツ族の大量虐殺を引き起こしたと主張

本当に?

#18916863 at 2023-05-28 19:46:37 (UTC+1)

🇿🇦Q Research South Africa #11: Diamonds, Gold, and War Edition

https://www.8kun.top/qresearch/res/18778547.html#18916863

「秘書官:仲介業者と企業がいかにしてルワンダ虐殺を武装させたか」 – Armscor 1/2

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940713 No.7468

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>>7467

このwikiページも、他国の言語では情報があるのに、日本語版はない

国家安全保障研究覚書200 - 米国の利益を増進するために特定の国の人口削減を主張する米国国家安全保障会議の研究

https://web.archive.org/web/20170210230325/https://www.nixonlibrary.gov/virtuallibrary/documents/nssm/nssm_200.pdf

国家安全保障研究覚書 200

https://en.wikipedia.org/wiki/National_Security_Study_Memorandum_200

国家安全保障研究覚書200:世界人口増加が米国の安全保障と海外利益に与える影響( NSSM200 )は、「キッシンジャー報告書」としても知られ、アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンの最初の命令を受けてヘンリー・キッシンジャーの指揮の下、アメリカ合衆国国家安全保障会議によって1974年12月10日に完成した国家安全保障指令であった。

NSSM200は改訂され、 1975年11月26日にジェラルド・フォード大統領によってNSDM 314を通じて米国の公式政策として採用されました。 [1]当初は10年以上機密扱いでしたが、1990年代初頭に研究者によって入手されました。 [要出典]この報告書から開発された覚書とその後の政策は、米国が人口制御を利用して未開発国の政治力を制限し、外国の天然資源の容易な抽出を確保し、反体制派の若者の誕生を防ぎ、増加する人口を支えようとする国々からの干渉から海外の米国企業を保護する方法と考えられていました。

背景

冷戦時代のリチャード・ニクソン大統領の政権下で、政府は共産主義の世界的拡大を防ぐため、人口抑制を実施するという政策を採択し、ウィリアム・ヘンリー・ドレイパー・ジュニア少将 の助言の下、帝国主義のイメージを避けるために世界的な人口抑制の源泉を確立するため、国連人口基金(UNFPA)の設立を支持した。[2]世界中で生まれる将来の世代が富の蓄積に危険をもたらすと信じ、富裕層と米国政府は非難を避けるため、世界的な人口抑制政策を支持した。[2]

その結果、NSSM200は主にフィランダー・クラクストンによって起草され、米国の経済的および軍事的利益を守るためには世界人口管理が必要であるという結論に達した。[1] [3]この計画は、「経済的または人種的帝国主義」の印象を与えないようにし、「先進国が自国の力を抑えたり、富裕国が利用できるように資源を確保したりする政策と見られないように」するために作成された。計画の目標は「出生率の低下であり、人々の生活の改善ではない」と書かれていたが、主催者には「貧困層の生活の質の向上と発展を重視する」ように指示されていた。後に、このようなプロジェクトは「主に他の理由」によるものであると説明された。[4] [5]

目次

この覚書の基本的な論点は、後発開発途上国(LDC) の人口増加は米国の国家安全保障上の懸念事項である、なぜならば、経済発展の潜在性が高い国々で社会不安や政情不安を招く恐れがあるからだ。この政策は、人口の多い 13 か国における急激な人口増加を抑制するために人口抑制策と避妊の促進を「最重要視」している。米国は、急激な人口増加はこれらの国々の社会政治的、経済的成長と米国の国益に反すると考えている。なぜなら、「米国経済は海外からの鉱物資源を大量に、そしてますます必要とする」からであり、これらの国々は米国に対して不安定な反対勢力を生み出す可能性があるからだ。

要約すると、NSSM200は4つの主要な観察結果を提供している:[3]

1.外国の人口増加は地政学的権力を増大させ、米国の利益に反対する可能性をもたらす

2.アメリカは天然資源を容易に入手するために発展途上国に依存している

3.出生率が高いと、既存の政府に反対する若者が増える

4.アメリカの企業は、人口増加に対応するために外国政府からの干渉を受けやすい。

この報告書は、米国の指導力が「国家指導者に影響を与える」こと、そして「国連、USIA、USAIDによるマスメディアやその他の人口教育・動機付けプログラムに重点を置くことで、人口関連の取り組みに対する世界的な支援の向上を目指すべき」と勧告している。

指定国

報告書では、米国の安全保障上の利益に関して特に問題がある国として、インド、バングラデシュ、パキスタン、インドネシア、タイ、フィリピン、トルコ、ナイジェリア、エジプト、エチオピア、メキシコ、コロンビア、ブラジルの13カ国が挙げられている。これらの国は、世界の人口増加の47パーセントを生み出すと予測されている。

また、人口抑制措置を建設的に実施していると見なされる国々に余剰食糧を優先的に配分することを米国が検討すべきかどうかという疑問も生じている。

全般的な監督

この論文では、1974 年に予測された世界人口の動向を考察します。

分析セクションと政策提言の 2 つの主要セクションに分かれています。

政策提言は 2 つのセクションに分かれています。米国の人口戦略と出生率低下の条件を整える行動です。この論文で繰り返し述べられている大きな懸念は、人口が飢餓と飢饉に与える影響に関するものです。

「人口増加は、特に最も貧しく、最も急速に成長している後発開発途上国(LDC)における食糧需要に深刻な影響を及ぼすだろう。通常の気象条件で、食糧生産が最近の傾向に沿って増加すると仮定すると、世界の農業生産量は人口よりも速く拡大する可能性があるが、それでも食糧の分配と資金調達に深刻な問題が生じ、今日の栄養不良レベルでさえ、より人口の多い大規模なLDC地域の多くで食糧不足が起こる確率が高い。今日でも、毎年1,000万から2,000万人が直接的または間接的に栄養失調で死亡している。さらに深刻なのは、時々発生する可能性のある大規模な農作物の不作の結果である。

「短期および中期的に最も深刻な結果は、世界の特定の地域、特に最貧地域で大規模な飢餓が発生する可能性があることです。世界の食糧需要は、容易に入手できる肥料と十分に水を与えられた土地がすでに広く利用されている時期に、年間 2.5% 以上増加しています (食生活と栄養の改善を適度に考慮)。したがって、食糧生産の増加は、主に収穫量の増加によって賄われなければなりません。

「人口増加率の高い国は輸入を継続的に増やす余裕はないが、今後1~2世代で食糧生産を2~4%着実に増やすのは困難な課題だ」

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940713 No.7469

>>7468

重要な洞察

・「米国経済は、海外、特に発展途上国からの鉱物を大量に、そしてますます必要とするだろう[国家物質政策委員会、国家物質政策に向けて: 基本データと問題、1972 年 4 月を参照]。この事実により、米国は供給国の政治的、経済的、社会的安定に一層の関心を寄せることになる。出生率の低下による人口圧力の緩和がそのような安定の見通しを高める可能性があるところでは、人口政策は資源供給と米国の経済的利益に関係するようになる…。ほとんどの鉱物の高品位鉱石の埋蔵量が判明していることから、すべての工業化地域が発展途上国からの輸入にますます依存することになる。鉱物供給の本当の問題は、基本的な物理的充足度ではなく、アクセス、探査と採掘の条件、生産者、消費者、ホスト国の政府間での利益の分配といった政治経済的問題にある」[第 3 章「鉱物と燃料」]。

・「政府の行動、労働争議、妨害行為、または内乱によって、必要な物資の円滑な流れが危険にさらされる。人口圧力が唯一の要因ではないことは明らかだが、人口増加が緩慢またはゼロの状況では、こうしたタイプのフラストレーションははるかに起こりにくい」[第 3 章「鉱物と燃料」]。

・「人口増加率が高い。多くの後発開発途上国で非常に高い割合を占める若者は、高齢人口よりも不安定で、極端で、疎外感や暴力に陥りやすい傾向がある。こうした若者は、政府の法的制度や、彼らの問題の原因とされる「体制」、「帝国主義者」、多国籍企業、その他の(多くの場合は外国の)影響力の不動産を攻撃するよう説得されやすい」[第 5 章「人口増加圧力が国家安全保障に与える影響」]。

・「我々の活動が、LDC に対して先進国が LDC に反対する政策をとっているように思われないように注意しなければならない。LDC で我々が支援するこの分野のあらゆるアプローチは、国内で支援できるものであることに注意しなければならない。『第三世界』のリーダーは先頭に立って、成功したプログラムの功績を得るべきである。この文脈では、LDC のリーダーに対して、そのような家族計画プログラムが機能しており、妥当な期間内に機能する可能性があることを示すことが重要である。」[第 1 章「世界の人口動向」]

・「しかし、このような繊細な関係においては、内容だけでなくスタイルにおいても強制的な印象を与えないようにすることが重要である。」

・地政学的戦略としての妊娠中絶は、報告書の中で示唆に富んだ意味合いで数十回言及されている。「中絶に頼らずに人口増加を抑えた国はない。発展途上国の状況では、予測方法は利用できないことが多いだけでなく、無知、準備不足、誤用、不使用のために失敗することが多い。これらの後者の状況のた​​め、発展途上国では妊娠中絶に頼る女性が増えている。

・人口制御と人口削減戦術。

効果

マーシャル・グリーンは1975年12月3日に人口問題調整官に任命された。 [1]数日後の1975年12月15日、米国大使はNSDM 314の政策を実施し、受入国の人口増加の懸念を評価するよう命じられた。[1] NSSM200とNSDM 314から採用された政策は、国家安全保障会議が食糧力による食糧差し控えと軍事力による人口増加防止を提唱し、次のような覚書を出した1976年にさらに発展した。「場合によっては、強い指示には不妊手術の受入国への支払いなどのインセンティブや、大家族の住宅や学校の割り当ての優先順位を低くするなどのディスインセンティブが含まれる。このような指示は、効果的なプログラムに不可欠である」。 [1] [2]その結果、諸外国に対して不妊手術のための資金、不妊手術のための住宅、不妊手術のための学校などのプロジェクトの創設が提案された。[3]

経済戦争学派(EGE)は、この覚書の結果、米国は社会的脅迫を利用して不妊手術を強制し、食料力を人口増加の抑制手段として利用することで、人口抑制政策をナイジェリアに対する経済戦争の武器として利用することになったと述べた。 [3] EGEは、ナイジェリアは潜在的な核兵器保有国に近づきつつあった状態から発展途上国へと転落し、米国はナイジェリアの資源を支配し、そこにある米国企業の利益を維持できるようになったと書いている。[3]

2002年6月のペルー共和国議会の自発的外科的避妊に関する調査小委員会によれば、NSSM200は「出生率の低下を達成するために米国政府が前世紀の最後の四半世紀に定義した世界戦略」であり、ペルーでの強制不妊手術への米国国際開発庁(USAID)の関与の原因となった。[6]

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940713 No.7470

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>>7468

#16030205 at 2022-04-07 16:39:10 (UTC+1)

🇨🇦Q Research Canada #30: "Honks Shall Haunt Their Dreams " Edition

https://8kun.top/qresearch/res/15801702.html#16030205

長年にわたるつながり

https://tapnewswire.com/2022/04/a-longstanding-connection/

キッシンジャーと人口削減

NoMoreFakeNews.com

今日は、2014 年 11 月に書いた記事の短い抜粋を再投稿します。

私がそうするのは、世界経済フォーラムの創設者であるクラウス・シュワブ氏が、グレート・リセット、新たな常態、そして世界がどのように変化するかについて延々と語り、書いているからです。

シュワブ氏が若い頃、ハーバード大学で指導を受けたのはヘンリー・キッシンジャーだった。このつながりは非常に重要だった。

2014年から—

故アレクサンダー・コックバーン氏は、1994年9月8日付ロサンゼルス・タイムズ紙の論説欄に寄稿した「第三世界における米国の真の政策:不妊手術:「エンパワーメント」の靴墨は無視せよ――目的は原住民の繁殖を防ぐことだ」の中で、キッシンジャーが委託した1974年の悪名高い国家安全保障研究覚書200号を「人口問題を扱った」ものとして論評した。

「…キッシンジャーのアナリストたちの真の懸念は、第三世界の資源への米国のアクセスの維持だった。彼らは、人口増加の『政治的影響』が第三世界の国内の不安定化を引き起こすことを懸念していた…そのような国々で飢餓や食糧暴動、社会秩序の崩壊が起こり、『必要な物資の円滑な流れが危険にさらされるだろう』と[キッシンジャーのメモは警告している。」

言い換えれば、人口が多すぎるということは、多国籍企業にとって混乱を招き、その企業こそがまさにその人々から国家を奪うということだ。

コックバーンは、キッシンジャーのメモの筆者らが「食糧援助よりも不妊手術を好んだ」と指摘している。彼はさらに、「1977年までに、AID(米国国際開発庁)の人口計画責任者ライマート・レイブンホルトは、同庁の目標は世界の女性の4分の1を不妊手術することだと言っていた」と書いている。

1973 年に世界保健機関に「生殖調節のためのワクチンに関するタスクフォース」が設立されました。Ute Sprenger は「バイオテクノロジーと開発モニター」(1995 年 12 月) の中で、このタスクフォースについて次のように述べています。

「…抗精子ワクチンや抗卵子ワクチンなどの不妊治療ワクチンの研究開発のための世界的調整機関…」

シュプレンガーは、1995 年時点でこれらのワクチンを研究している大規模なグループがいくつかあったと指摘しています。その中には次のようなグループがあります。

* WHO/HRP。HRP は、スイスに拠点を置くヒト生殖に関する特別研究・開発・研究トレーニング プログラムです。このプログラムは、「スウェーデン、英国、ノルウェー、デンマーク、ドイツ、カナダの各政府、および UNFPA と世界銀行」によって資金提供されています。

* 人口評議会。ロックフェラー財団、国立衛生研究所(米国連邦政府機関)、米国国際開発庁(CIAとの協力関係で悪名高い)から資金提供を受けている米国の団体です。

* 国立免疫学研究所。インドにあり、「主な資金提供者はインド政府、カナダ国際開発研究センター、そして[どこにでもある]ロックフェラー財団です。」

* 米国国立衛生研究所の一部である米国国立小児保健発育研究所[!]にある人口研究センター。

—2104年末抜粋—

クラウス・シュワブはヘンリー・キッシンジャーによって設立されました。

キッシンジャーはデイヴィッド・ロックフェラーの子会社だった。

デビッド・ロックフェラーは、ロックフェラー帝国の最近の王子であり、他の多くの取り組みの中でも、人口削減に関する研究を先駆的に推進し、維持してきました。

そして今もそうしています。

この血統はゆるいものではありません。緊密に結びついており、意図的なものであり、人口削減が必要であるという宣言を伴います。

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940713 No.7478

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>>7462

[翻訳]

イングランドにおける受胎調節運動

http://reposit.sun.ac.jp/dspace/bitstream/10561/743/1/v43n4p311_yanagita.pdf

…中略

ここに訳載しようとするのは、定価6ペンスの How-Martin, Edith ed., The Birth Control Movement(London: John Bale, Sons & Danielsson, Ltd.,1930), 31pp の全訳である1。この冊子を一言に約するなら、簡潔にして要を得た近代イングランドの受胎調節史と言える。しかも本冊子の記述の幾つかは現在の研究書の中でも引用され、貴重な情報源の1つになっている2。

…中略

古今東西を問わず、多くの大胆不敵な思索者たちが人口数や、個々人の資質を人間の管理下に置くという社会状態や計画を空想してきました。改革者や夢想家たちはつねに早世、疾病、飢餓、戦争、および野蛮状態によってその夢を打ち砕かれてきました。プラトン(Plato,427‐347B.C.)以降の夢想は世界をより幸福で、かつ健康な人種でひたすら充満する3)でありました。非常に緩徐ではありますが、経済状況と人間の情欲とは変更されることなくこうした方向へと進んできています。信頼に足る避妊法の発明は新たな希望や試みをもたらしました。

…中略

イギリスの起点

近代的な受胎調節運動は事実上、他のどの国々よりもイングランドにおいて間断なく進展してきましたし、それにより科学的な進歩を遂げてもきました。トマス・マルサス牧師7)(Rev. Thomas Malthus,1766‐1834)が公衆の衆目を引きつける新しい考えを実直に打ち出した人物で、1798年に『人口原理に関する1論』を公刊して、今なお時代遅れでない論争を引き起こしました。彼の意見では、無制限な家族によって次から次へともたらされる不幸の数々に対する救済策として晩婚が推奨されました8)。

全文はリンク先から…

参考

pb

>>>/qnotables/114471, >>>/qnotables/114473, >>>/qnotables/114474, >>>/qnotables/114475, >>>/qnotables/114477, >>>/qnotables/114478, >>>/qnotables/114479, >>>/qnotables/114480, >>>/qnotables/114481, >>>/qnotables/114482, >>>/qnotables/114483, >>>/qnotables/114484, >>>/qnotables/114485, >>>/qnotables/114486 プラトンは優生学と職人軽視と知性主義(馬鹿は人間ではない)と偽りの公平感を与える儀式(選挙など)の基盤?

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940713 No.7479

>>7434

>>7435

ルドルフ・シュタイナー=人智学の「智」、そしてニューエイジの起源とも言えるブラヴァッキー夫人の神智学協会の「智」も、このグノーシスの神様を表す日本語訳である

(ネット上で既に深掘りしてくれていた方の情報より)

グノーシス

https://kotobank.jp/word/グノーシス-55787

・〘名〙 (gnōsis) 知識の意。特に古代ギリシアの末期では、神秘的、直観的にとらえられた神の霊性の認識をいう。

出典 精選版 日本国語大辞典

・《知識の意》1~3世紀ごろローマ・ギリシャ・ユダヤなどで広く行われたキリスト教的主知主義の一派、グノーシス派の説く、最高完全の知識。神智

出典 小学館

・「グノーシス」は元来ギリシア語で「知識」あるいは「認識」の意。ただし宗教学、宗教史の用語としては、グノーシスによって救済を得る宗教思想(グノーシス主義)をさす。この場合の「グノーシス」は、人間がその本来的自己を現実世界においては非本来的なもの(身体、国家、宇宙、とりわけ人間の運命を支配する星辰(せいしん))によって疎外されているという反宇宙的二元論の立場から、宇宙を超える至高神と人間の本来的自己との本質的同一性の「認識」を救済とみなす宗教思想の意。グノーシスは元来、初期キリスト教教父たちにより、彼らが代表する正統教会(初期カトリシズム)から排除された異端思想の一つの呼称であった。それが近代以降、たとえキリスト教と直接的関係がなくても、前記と同種の思想的特徴を有する諸宗教思想(たとえばへルメス文書やナグ・ハマディ文書の一部、マンダ教やマニ教)にも適用されるようになる。

 グノーシスは、西暦紀元前後、ローマ帝国の圧制下にあった属州(とくにサマリア、シリア、エジプト、ペルシア)の有産知識人層を基盤として成立し、当時の民間宗教の反合理的諸要素(魔術、呪術(じゅじゅつ)など)を採用し、密儀宗教、ゾロアスター教、ユダヤ教、そしてキリスト教に寄生して、2~4世紀にローマ帝国のほぼ全域に広がり、グノーシス派またはグノーシス宗教を形成した。しかし、ローマ帝国イデオロギーに接近したキリスト教の攻撃によって、しだいに消滅していく。

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

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940713 No.7480

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>>7430

>スヴェーデンボリの死後、彼の思想への共鳴者が集まり、新エルサレム教会(新教会 The New Church とも)を創設

新エルサレム教会

https://kotobank.jp/word/新エルサレム教会-81338

通常スウェーデンボリ派教会,新教会ともいう。スウェーデンの 18世紀ルター派神学者E.スウェーデンボリの神秘神学を奉じる集団。最初新教会は別個の教会ではなく,各教会内のスウェーデンボリ信奉者のグループであったが,彼の死後,1787年ロンドンの元ウェスリー派説教師らによって別個の教会が立てられ,92年アメリカのボルティモアに最初の教会が設けられた。新教会総会,在アメリカ新エルサレム総会議,主教制をとる新エルサレム総教会の3組織がある。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

新教会

https://ja.wikipedia.org/wiki/新教会

新教会(しんきょうかい、英語: New Church)とは、キリスト教系の新宗教で、スウェーデンの科学者・神学者、エマヌエル・スヴェーデンボリ Emanuel Swedenborg (1688–1772)の著作に由来するものである。 スウェーデンボリィは、イエス・キリストから、少なくとも25年間以上の間、連続した幻を視るという体験を通して、新しい啓示を受けたと公言した。彼の著作によれば、神は伝統的なキリスト教会に代えて、「新教会」を設立することを予言する。そこでは、神を一人の人間、イエス・キリストとして礼拝の対象とした。新教会の教義では、人はそれぞれ自分自身の生き方を悔い改め、矯正し、再生すべく、積極的に関与しなければならない[1]。

この活動は、神がスウェーデンボリィに聖書の霊的意味を説明し、それはイエス・キリストの再臨であり、その再臨は真理の啓示という形でされたという信念によって基礎づけられている。信者たちは、スウェーデンボリィが霊界で最後の審判と新教会の創建を目撃したと信じている。新教会は、イエス・キリストを天地の唯一の神として信じ、その戒めに従うことが救いには不可欠であると信じる者達が設立した組織である。そのため、この信条をもっているキリスト教徒は、新教会運動の部分であるとも考えられる。新教会組織は、主の教会の普遍的な性質をも認めている。その普遍性は、自分の信じる宗教の真理から善を行う者は主によって天界に迎えられということにある。なぜなら神は善そのものであり、善を行うことは神と一つに結びつくということであるからだ。

信者たちは、新教会教義は書物から由来し、真理に関するさらなる照らしの恩恵を与え、また疑問を減少させ、個々人の過ちを認めさせ、より方向の確かで幸福な生活に向かわせてくれると信じている。この動きの別の名称は、スウェーデンボルグ主義、新エルサレム教会、主の教会、・・新教会、ジェネラルチャーチ・・がある。スウェーデンボリィは、著作を出版するとき、自分の名ではなく匿名で出版し、またその著作は、信条や教義による多彩な教会ではなく、愛と仁愛に基づく一つの教会を目指している。

歴史[編集]

スウェーデンボリィは神学著作の中で「新教会」が設立されることを述べているが、彼自身は決してなんらかの組織を設立しようとしなかった。1768年にスウェーデンで、スウェーデンボリィ著作と、この思想を推進しようとした2人の人物に対して、異端審査が開かれた。そこではスウェーデンボリィの神学著作がキリスト教の教義と矛盾しないかということが本質的に注目された。1770年の王室令で、その神学思想体系が全く検証されていないにも関わらず、スウェーデンボリィ著作は「明らかに誤っている」とされ、教えることを禁止された。スウェーデンボリィを支持している聖職者は、彼の教えを用いることをやめるよう命令され、税関職員たちは彼の著作を没収し、新たな教会会議の恩赦がない限りどの地域においても発行を禁じた。スウェーデンボリィはアムステルダムから王に手紙を書き、許しと保護を求めた。さらなるスウェーデンボリィに対する捜査は立ち往生し、事実上1778年に停止した[2]。

スウェーデンボリィの死の時点で、組織的教会を設立しようという試みがあったが、ついにその15年後の1787年5月7日に英国で新教会活動が成立する。英国はスウェーデンボリィがしばしば訪れ、亡くなった地である。1789年までに英国のあちこちで教会が生まれ、その年の4月に最初の新教会合同会議がロンドンのグレート・イーストチープ通りで開催された。新教会思想は伝道師たちによって米国にわたった。有名な伝道師の一人がジョン・チャップマン、別名ジョニー・アップルシードである。初期の伝道師は、アフリカの一部にも旅をした。

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