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主にキリスト教と日本の関わりや、古代の思想に関する情報をまとめていく。

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940713 No.7422

>>7415

人智学

https://ja.wikipedia.org/wiki/人智学

人智学(じんちがく)とは、ギリシア語で人間を意味する ἄνθρωπος (anthropos, アントローポス)と、叡智あるいは知恵を意味する σοφία (sophia, ソピアー)の合成語、すなわち逐語的には「人間の叡智」を意味する ドイツ語: Anthroposophie の日本訳語である。ドイツ語音からアントロポゾフィーと音訳される[* 1]。

19世紀末から20世紀初頭にかけてドイツ語圏を中心とするヨーロッパで活躍した哲学者・神秘思想家のルドルフ・シュタイナー(1861年-1925年)が自身の思想を指して使った言葉として有名であるが、この言葉自体は初期近代(近世)にすでに使用されている。[要出典]

人智学という言葉を使用したドイツ語圏の哲学者イマヌエル・ヘルマン・フィヒテとイグナツ・パウル・ヴィタリス・トロクスラー(ドイツ語版)は、人間には超感覚的存在としての側面があるという考え方を提示したが、同じく人智学という用語を用いたシュタイナーの思想もその流れを受け継いでいると高橋巖は指摘している[1]。

語源

人智学(アントロポゾフィー)という言葉は、ギリシア語で人間を示す ανθρωπος (anthropos アントローポス)と叡智あるいは知恵を示す σοφια(sophia ソピアー)を合成したものである。シュタイナー思想を指す言葉として広く知られるが、シュタイナーの造語ではなく、初期近代の文献にもその使用が確認されている。それ以降はイグナツ・パウル・ヴィタリス・トロクスラー(Ignaz Paul Vitalis Troxler, 1780年-1866年)や、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテの息子であり、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルの弟子(右派)であるイマヌエル・ヘルマン・フィヒテにおいてもこの言葉の使用が認められる。

シュタイナー以前の歴史

16世紀

人智学(Anthroposophie, アントロポゾフィー)という言葉は、初期近代の時点ですでに使用されていることが確認されている。ルネサンス・プラトン主義者で秘教学者として有名なドイツのハインリヒ・コルネリウス・アグリッパに端を発するとみなされている、著作者不明の魔術書『アルバテル - 古人の魔術について : 至高の叡智の研究』(Arbatel de magia veterum, summum sapientiae studium, 1575)は、神智学 (Theosophia) と人智学 (Antroposophia〔ママ〕) を「善良なる知識」に分類し、後者には「自然の事象の知識」(Scientia rerum naturalium) と「人間の事象の洞察」(Prudentia rerum humanarum) が該当するとしている[2]。

…中略

思想

シュタイナーは、第一次世界大戦後のドイツの破滅的な状況のなかで、近代の諸問題を克服する思想・実践を模索した。近代の物質主義を忌避しており[4]、人間の意識は進化すること、人間は意識の進化の基礎となる霊的な現実を直接知覚することが可能であること、また、文化活動・経済活動・政治活動を通して社会を発展させることができると信じた[4]。様々な思想や当時の科学的知見を取り入れて自らの思想を構築し、その思想を当初は「神智学」、のちに人智学と呼んだ。人間の内なる霊性の認識と訓育、さらには近代社会の諸問題を乗り越えた新たなる調和に至る社会構想を説いた[5]。神智学協会との決裂後、人智学協会を設立した。

ミドルセックス大学のピーター・ワシントンは、人智学についてこう解説している。

人間の存在とは感覚的な存在と感覚を超越した世界が統合されている存在で、この点で人間は動物や天使と違っている。感覚を超越した領域には客観的な実体があり、現象世界も同様である。人智学はその二つの間の人間の位置を研究する学問である。これは絶対に我々が持つことのできない神々の知恵ではなく、人間の慎ましい知恵であり、むしろ人間についての知恵というべきものである[6]。

シュタイナーの認識論は広義には直観を認識の基本とする直観主義と理解されており、シュタイナーの霊的な直観を認識の基本とする。衞藤吉則は、人智学は「理論的にも実践的にも究極的には<所与の絶対確実な知識>を依り所として理論づけられている」と述べている[7]。人智学は、シュタイナーの超感覚的観照(霊感)によって得られたという知識・法則が絶対の基準としてあり、これは本質的なものであるとされ、検証は全く必要とされない[7]。実践は、この知識・法則の適用あるいは現実化の技術である[7]。シュタイナーが設立した人智学協会は、彼の思想や著作を求道の指針としており、新宗教に近い性格を持つ[8]。

ドイツ哲学研究者の三島憲一の説明によると、ゲーテの自然科学論の影響下でシュタイナーが展開したのは、当時さまざまに模索されていた総合知のひとつのかたちであり、その背景には新プラトン主義、ドイツ神秘主義、ヨーロッパの古典的な自然科学があった[5]。グノーシス主義等を研究する宗教学者大田俊寛の指摘するところでは、シュタイナーは近代神智学の創始者ヘレナ・P・ブラヴァツキーの『シークレット・ドクトリン』における霊性進化論(人間は転生を繰り返して霊的に進化するという思想)[* 2]を承けて、これを独自の明晰な体系に再構築しようとした[10]:68。シュタイナーはブラヴァツキーによる、聖なる数字とされてきた7を用いたオカルト進化論の単位とも言える「周期(ラウンド)」という図式を、ブラヴァツキー以上に自身の思想に徹底的に組み入れて重視した[10]:68。地球・人種・文明・人間は進化のプロセスが7段階あるとされ、それぞれ密接に関係しあっていると考えた[10]。ただし、インド思想を重視した神智学協会にとってキリスト教は数ある宗教の一つでしかなかったが[11]、シュタイナーは西洋思想とキリスト教的霊性を重視し、特異なキリスト論[* 3]を自らの思想の中軸に据えた[4]。大田は、神智学の周期説のほかに、マクロコスモスとミクロコスモス(宇宙と人間)の照応という西洋の伝統的な秘教・自然魔術の観念や、ドイツの生物学者・哲学者エルンスト・ヘッケルの有機体進化論における「個体発生は系統発生を繰り返す」という「反復説」という生命観が折衷・融合されていると指摘している[10]:68。

人智学の思想的一面をシュタイナーは「精神科学 / 心霊科学 / 霊学」(Geisteswissenschaft[* 4])と呼んだ。[要出典](以下便宜的に「精神科学」で統一。)

シュタイナーの著作に「人智学」を冠するものはなく[* 5]、その著作において一貫して「人智学とは〜である」といった固定的な表現には否定的であった。シュタイナーの最盛期は最晩年であるとも言われるが、その時期の1924年2月17日に人智学に関する発言が(文書にて)なされた。[要出典]それが以下のものである。

人智学は認識の道であり、それは人間存在(本性)の霊的なものを、森羅万象の霊的なものへ導こうとするものである

— 『人智学指導原則』第一条より抜粋

シュタイナーの弟子たちに彼と同等な見霊能力やカリスマ性を持つものは現れず、シュタイナーが死去すると信奉者たちはシュタイナーの直観を新たに得ることはできなくなった。しかし、彼の影響は死後も続き、人智学協会と協会内にある霊的分野の研究団体「霊学のための自由大学」はその教えを広め続けた[4]。

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940713 No.7423

>>7422

人間論・霊的進化論

人間の本質に関する研究を行った。通常の人間が、人間において目という感覚器官を通して知覚することができる存在を、肉体(物質的身体 der physische Leib)と名付け、それを「人間の一肢体(部分、構成要素 Glied)」として位置づけ、それよりさらに「高次の」構成要素は超感覚的であり、通常の人間はそれを知覚することができないとする。精神科学はそれらの超感覚的「肢体」(精妙な体)を、肉体の上にさらに六ないしは八つ認め、それら全てを「全体としての人間 der ganze Mensch」とする。[要出典]地球の7つの周期に住む人間は、その周期に関連しながら物質と霊の粗雑な混合物から精妙な存在へと、肉体・エーテル体・アストラル体・自我・霊我・生命霊・霊人という7段階の進化を遂げ、現在ははっきりした自意識を獲得した自我の段階であるとされた[13]。

人生論・転生論

人間の人生を支配している法則についての研究を行った。死後の生活に関する記述や、再受肉(転生、生まれ変わり)Reinkarnation の思想を説いた。霊的進化を伴う転生思想は、神智学から受け継ぎ発展させたものである。シュタイナーの超感覚的観照・生来の霊能力による霊視に基づくとされている。

宇宙論

現在の地球、あるいは宇宙が生成した過程に関する研究を行った。人間と同様、地球もまた再受肉する存在であるとみなし、現在の地球のいわば「前世」に関する描写がなされる。地球は7つの曜日に倣って、土曜期・太陽期・月期・地球期・木星期・金星期・ヴァルカン期の7つの段階を経て進化するとされ、現在は地球期であるとされた[13]。秘教的宇宙論(英語版)は、神智学から受け継ぎ発展させたものである。シュタイナーの超感覚的観照・生来の霊能力による霊視に基づくとされている。

修行論

通常の人間には、シュタイナーが持っていると主張したような超感覚的認識・見霊能力はない。人智学が一つの学問になるためには、全ての人が彼の言う超感覚的認識を持つ必要があるが、シュタイナーはそれが誰にでも獲得できる能力であると考え、霊的な教師のための精神教育の確立を重視し、人智学の方法に従った修行、特にその「瞑想」と「集中」の行を毎日15分間行いさえすれば、自然と見霊能力が発現すると主張した[14][6]。この点によって、シュタイナーは従来の神秘主義と一線を画している[14]。

修行の道には七つの発達段階があるとされた。[要出典]

歴史観

シュタイナーの7つの人種に基づく根源人種という考えは、ブラヴァツキーによる神智学のテキスト『シークレット・ドクトリン』第2巻のものとほぼ同じである[15]。北極付近の不滅の聖地に生まれたアストラル体の第一根源人種、エーテル体の第二根源人種ハイパーボリア人、物質的身体を持った第三根源人種レムリア人、アトランティス大陸で文明を発達させた第四根源人種アトランティス人、大洪水を逃れたアトランティス王国の聖人たちの導きで誕生した第五根源人種アーリア人、アメリカ大陸で生まれ物質的身体の軛から脱してく第六根源人種パーターラ人、地球における人類進化の最終段階である第七根源人種の7段階があり[16]、現在の支配人種(英語版)は第5根源人種アーリア人であるとされた[15]。

人種論・文化論

文化論はヘーゲルの進歩主義的な歴史哲学からの影響が見られ、歴史上の主な文化は「アーリア的」とされた文化に限定されており、インド文化、エジプト・カルデア文化、ギリシャ・ラテン文化を経て、現代は5段階目のゲルマン文化[* 6]であるとされた[15]。アーリアン学説は、ブラヴァツキーより詳しく具体的に取り入れられている[15]。

各民族の集合的無意識ともいえる「民族魂」「民族精神」があり、国家を導き、文化を発展させるとしている[15]。民族魂は天が遣わした大天使や神々として現れるという[17][18]。

国家論

シュタイナーは大戦前のヨーロッパについて、国家の運命は宇宙の計画の一部としてあらかじめ定まっており、各国には世界進化のための果たすべき役割があると考えていた。中でもドイツ人が世界進化における最も高度な点に関わっていると述べるなど、ゲルマン民族の文化の優越性を説き、ドイツ人は精神面で果たすべき使命があると主張していた[17]。

人類の敵

シュタイナーは、現在の第五文化期に、人類はゲルマンの神々の導きで新たな霊性を得ると考えたが、キリストという神的存在に導かれる霊的な進化と、ルシファーやアーリマンという悪霊によって導かれる堕落の道との分岐点でもあるとしている[15]。

ルシファー、アーリマンは、神智学の「グレート・ホワイト・ブラザーフッド・オブ・マスターズ(大いなる白き同胞団)」と闘争を続ける悪霊「ロード・オブ・ダーク・フェイス(黒い顔の主)」という漠然とした概念を明確に定義づけしたもので、人類の主な敵である[19]。1914年に第一次世界大戦が起こると、シュタイナーは戦争を起こしたのはダーク・フォースだと主張した[17]。

ルシファーは傲慢の霊で、「人間の中のあらゆる熱狂的な力や、あらゆる神秘主義的な力を呼び起こす能力を備えた存在」であり、人間は努力すれば人間の限界を超え霊的能力を持てるという身の程知らずな考えに陥らせる霊である[19][20]。幻想的な力を使い、第三根源人種レムリア人が性的逸脱によって堕落するよう影響を及ぼしたという[20]。アフリマンは物質主義の霊で、「人間を唯物論という迷信へと導き、無味乾燥で散文的で俗物的な存在にする力を持つ」という[20]。現代科学・技術の最高神であり、人類に精神と五感の領域だけを信じ、霊的な面を拒むように仕向けるとされた[19]。ただし、歴史を長い目で見れば、ルシファーとアーリマンの力は文化の多様性や人間精神の自律性をもたらすという面もある[21]。アーリマンの影響が最も大きいのは自然科学の諸分野で、全てが数字に還元されるため、人々は徐々に世界は物質でできた機械のようなものだと感じるようになっていくとしている[22]。ダーウィンの進化論も、アーリマンの影響でできたものだという[22]。また、アーリマンは経済にも大きな力を発揮するとしており、その影響で科学的・経済的に繁栄し、物質的欲望が満たされた生活を享受するようになると、霊的な進化は止まり、文化は崩壊すると考えた[23]。ルシファーとアーリマンの力の間で均衡を保つため、本質的に太陽神であるキリストという霊格が必要とされるのだという[20]。シュタイナーは人々に、キリストの受肉の意味を理解し、人類を堕落させるために悪霊が張り巡らせた罠に備え、霊的進化の道を進むよう求めた[23]。

これって自分達に都合の悪いものを悪霊としているだけなのでは?

日本の人智学運動組織

日本におけるシュタイナー研究の第一人者である高橋巖は、1985年に日本人智学協会を設立した。この団体は、スイスのドルナッハにあるゲーテアヌムを本部とする「普遍アントロポゾフィー協会」(一般人智学協会)の日本における邦域協会ではなかった。1986年2月のゲーテアヌム理事会において、同協会は日本ルドルフ・シュタイナー・ハウス(1982年に上松佑二が設立)とともに、邦域協会の前段階とみなされた。1989年に日本ルドルフ・シュタイナー・ハウスは日本アントロポゾフィー協会ルドルフ・シュタイナー・ハウスに改名し、以後二つの協会が併存するようになる。1993年ヨハネ支部が設立され、1994年以降の数年間にわたる邦域協会設立準備会と1999年3月のゲーテアヌム理事会を経て、2000年5月に上松佑二を中心とするメンバーによって、日本アントロポゾフィー協会が、普遍アントロポゾフィー協会の正式な日本の邦域協会として設立された。また、現在(2013年)では普遍アントロポゾフィー協会の日本支部として、「NPO法人日本アントロポゾフィー協会」と「一般社団法人普遍アントロポゾフィー協会 - 邦域協会日本」の二つの協会、および四国アントロポゾフィークライスが存在している。

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940713 No.7426

>>7425

Q Research Japan/Nihon #22より

>ニューソート

ニューソート

https://ja.wikipedia.org/wiki/ニューソート

ニューソート(New Thought、新思考)、ニューソート運動(New Thought Movement)は、19世紀後半にアメリカ合衆国で始まったキリスト教における潮流のひとつで、一種の異端的宗教・霊性運動である。理想主義的な神学、楽観的な世界観、個人の幸福・健康・物質的な成功に焦点を当てた宗教的儀式を共有する、緩やかにつながり合う多様な宗教共同体の集まりである[1]。物質に対する心の力、精神の優位性に重点を置くもので、理論的にも実践的にも宗教的観念論の一種である[1]。現世利益の追求を戒めるキリスト教プロテスタント系カルヴァン主義への反発を背景に生まれた[2]。

ニューソートは、アメリカのメスメリスト[注 1](催眠治療家)・心理療法家フィニアス・クインビー[3]やクリスチャン・サイエンスの創始者メリー・ベーカー・エディの思想を中心としていた。超絶主義者のラルフ・ウォルド・エマーソンの哲学を支えに徐々に社会に浸透していった[4]。アメリカの対抗文化の流れを汲むニューエイジの源流のひとつであり、後のカルトや、通俗心理学、自己啓発運動や自己啓発書への影響も大きい[5][1]。

概要

ニューソート運動は、クリスチャン・サイエンスの創始者メリー・ベーカー・エディ(1821-1910)に学び、多くの人にその理論とテクニックを教えたエマ・カーティス・ホプキンス(英語版)(1849-1925)が創始者とされる[1]。エディとクリスチャン・サイエンス、メスメリスト(催眠治療家)・心理療法家のフィニアス・クインビーと彼の弟子たち、ニューイングランドのマインド・キュア運動、メンタル・ヒーリングを実践する様々な独立したグループや個人などが前身または先駆とされている[1][5]。源流として、新教のカルヴァンに火刑にされた16世紀の神学者・医者・人文主義者セルヴェトゥス(ミシェル・セルヴェ)や、17 - 18世紀の科学者・神学者・神秘家エマニュエル・スウェデンボルグを認める向きもある[4][6]。

当時、禁欲・宿命論を説くカルヴァン主義が盛り上がっており(第三次大覚醒)、ニューソートはこれに対する反発として生まれた。19世紀後半のアメリカは、工業化の進展により「金ぴか時代」と呼ばれる好景気が到来し、一方カルヴァン主義的禁欲主義は、金ぴか時代の拝金主義を激しく批判していた[7]。スウェデンボルグの思想は、カルヴァン主義的禁欲主義へのアンチテーゼとして支持を集めるようになり、これがニューソートへと拡大・発展していった[8]。また、依然として問題の多かった正統医学への拒否反応も背景にあると言われる[6]。

クインビーは、患者の心の在り様が病に影響しており、病気の本質は患者が持つ誤った信念であり、信念を正せば病気が治ると考えた[9]。人間には顕在意識と潜在意識があり、「神に選ばれなかった人類の大半が地獄に落ちる」といった正統派キリスト教が植え付けた恐怖心が人間の潜在意識に入り込み、それが凝り固まったものが腫瘍になるのであり、恐怖心から解放されれば腫瘍も消えると考えたのである[8]。彼の思想は明らかにスウェデンボルグの思想の延長線上にある[7]。ニューソート運動では、心や思考の性向が健康や経済状態として表れる(思いは現実になる)と考え、潜在意識や思考を変えることで現実を直接的に変えようと試みる

この運動は元々、マインド・キュア(精神療法)やメンタル・サイエンス(心の科学)などの名前で知られていた。マインド・キュアは、19世紀後半にニューイングランドで始まり、1880年代にニューイングランド全体に広がった。哲学者・心理学者のウィリアム・ジェームズは、マインド・キュア運動の最も特徴的な点は、より直接的なインスピレーション(直観、霊感)を重視することであり、この信仰の指導者たちは、健全な精神状態の持つ万能の力を直感的に信じ、勇気、希望、信頼の持つ圧倒的な有効性を信じ、疑惑、恐れ、心配、そしてネガティブな精神状態のすべてと関連するものを蔑視してきたと述べている[10]。ポジティブ・シンキング、自己啓発(セルフ・ヘルプ)、代替医療、信仰療法、心霊主義、ロマン主義、超絶主義、フェミニズム、ユートピア主義などが非論理的に合体した、複雑な信仰体系であり、論理的に一貫性のある教義とは言い難い[6]。クリスチャン・サイエンス、神智学、心霊主義(スピリチュアリズム)などを含む「メタフィジカル」の伝統と呼ばれる広義の運動の中で、最大のものである[1]。

ニューソートは、聖書の内容を従来とは違う立場から解釈しようとするもので、「人間の意識は宇宙と繋がっている」と考え、その根拠を聖書に求めるのが主流である[11]。その主張には、「そもそも『原罪』は存在せず、あらゆる人々がキリストの力を内包している」、「正統的宗教哲学は数百年間過ちを犯し続けてきた」といったものが含まれていた。その教えを異端視する者がいる一方、従来の禁欲的キリスト教思想に疑問を抱いていた思想家、労働者、零細農場や工場の経営者らは触発された[9]。

1916年に宣言された国際ニューソート同盟(英語版)の設立理念では、「至高の存在の無限性、人間の神性、そして建設的思考の創造力と、インスピレーション・パワー・健康・成功の源である内なる存在の声に従うことを通し、人間の無限の可能性を教えること」と記されている[5]。多くのグループは基本原則に合意していたものの、心と物質の関係については異なる考えを持っていた[5]。ニューソートのグループは、物質をコントロールする上で心が最も重要な役割を果たすと信じていたが、クリスチャン・サイエンスは、絶対的観念論の立場であり、物質の存在を完全に否定している[5]。とはいえ、ニューソートの各グループは、楽観主義、そして人間の神性化という信念において一致していた[5]。健康な心と体は、人間と神の一体性を認識することによって達成されると考えられた[5]。女性に重要な役割を与え、女性の霊性を称揚した[5]。

マーチン・A・ラーソンはニューソートの主張を以下のように要約する[12]。

人間の心情と意識と生命は宇宙と直結している。

あらゆる病の本質は自己意識に対する無知が原因である。

原罪は存在せず、万人が「キリスト」の力を内包している。

全人類に喜びと成長と発展と幸福の機会が既に与えられている。

人間は内なる「神」の一部を顕現すべく無限の発展を遂げつつある。

正統的宗教哲学は数百年間過ちを犯し続けてきた。

愛の力は神の意志の地上的表現である。

「生長の家」の創設者谷口雅春が光明思想と訳しているように、気持ちを明るく前向きに積極的に保つことで運命が開けるというポジティブ・シンキング(積極思考、引き寄せの法則)や、ディヴァイン・サイエンス教会(英語版)の牧師ジョセフ・マーフィーの成功法則(日本でも著作がベストセラーになっている)などもニューソートの一環であり、いわゆる成功哲学の面がある。

「神は(人格神ではなく)霊的な存在で、宇宙の全てを満たしており、人間もモノもその一部である」というニューソートの神学思想には、大衆化しやすい面があり、想像力を付け加えて世俗的な解釈がなされ、「宇宙に存在するすべてのものはエーテル状(目に見えない微粒子状)の原質(物を構成する根本となるもの)からなり、人間が思考をもってそのエーテルに働きかければ、それがモノに変化して引き寄せられてくる」という考えに転じ、さらに「人間がより良い状況を思い描くことによって、望み通りの状況を引き寄せることができる」という自己啓発思想が生まれた[13]。人間の人生が自分の考え次第で自由に変えられると信じるなら、成功するのも苦しい状況に陥るのも全く当人の自己責任ということになる[13]。このような自己啓発思想の「ポジティブ志向」「自己責任」の側面は、アメリカ人のメンタリティによく合致した[13]。こうしたニューソートの教義に対しては、「『自分自身が救世主になれ、他人にそれを頼むな』だ。これこそアメリカの独立精神ではないか」という辛口の批評もある[5]。

アン・スタイルズは、ニューソートの魔術的思考とバラ色の回想(英語版)(過去を美化する認知バイアスの一種)は、今も我々と共にあると述べている[14]。

ニューソートと様々なサブグループは、その歴史の長さとアメリカ文化への広い影響にもかかわらず、学術研究のテーマになることは少ない[1]。

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940713 No.7427

>>7426

運動への影響

エマ・カーティス・ホプキンスに学んだマインド・キュア運動の活動家たちは、クリスチャン・サイエンスがどのように効果を発揮するのかについて考察を深め、超絶主義者の著作、特にラルフ・ウォルド・エマーソンの著作に答えを見つけた[15]。ユニテリアンの家庭出身のエマーソンは、スウェデンボルグの思想を高く評価していた。彼の超絶主義は、人間は万物の中に神性を見い出す力を持ち、個人の内に神的存在が内在する神秘的な存在であると考え、内なる神性と一体化することの重要性を説くものである。心が健康に及ぼす影響を示したメスメルの仕事と、エマーソンの霊的・精神的な教えが、マインド・キュアにおいて合体した[16]。エマーソンの超絶主義哲学を取り入れて、メンタル・ヒーリングの霊的な根拠を示すことで、運動が深化し、19世紀のニューイングランドでは、様々な組織や個人がメンタル・ヒーリングを行い、方法を教え・学び合うマインド・キュア運動が盛り上がった[16]。

ウィリアム・ジェームズは『宗教的経験の諸相』(1902年)で、この「新しい思想(ニューソート)」には様々な宗派があり、それぞれ呼び名があるが、便宜的にこの運動を「マインド・キュア運動」と呼び、単純化して話すと前置きして解説を行った。ジェームズは、アメリカ的で典型的な「健全な心の宗教」「心を治す宗教」であるマインド・キュアがシンクレティシズムであることを指摘し、その教義の源として、キリスト教の4つの福音書、エマーソンの思想をはじめとするニューイングランドの超絶主義哲学、ジョージ・バークリーの理想主義的哲学(主観的理想主義(英語版))、「法則」「進歩」「発展」のメッセージを掲げる心霊主義、大衆の楽観的科学進化論があり、ヒンドゥー教が影響を与えていると分析している[10]。ヒンドゥー教では特にヴェーダーンタが重要だった[1]。また、19世紀後半のヘーゲル協会や、宗教の世俗化(衰退)も関連している[1]。

歴史

フランツ・アントン・メスメルが始めたメスメリズム(動物磁気療法)は、人間のトランス状態を利用するものであり、催眠療法へと発展したが、メスメリズム自体は公的な医療の世界では認められなかった。しかし、その研究を通し、メスメルの治療の成功には、医師と患者両方の精神状態が関係するという理解が生まれた[15]。この考えは「マインド・キュア」と呼ばれるようになった[15]。マインド・キュアは医師と患者の共同作業であり、「霊的な治療」であるとも考えられた[15]。マインド・キュアの原理は比較的単純であり、第一に、誘導付きの瞑想やイメージの視覚化などのテクニックによって、真理が啓示として個々人にもたらされること、第二に、実践者は自分の意志を放棄するか、「解放する(let go)」こと、第三に、実践者は潜在意識を、意識的な生活や健康にプラスの影響を与えることができる未開発のリソースとして見ることである[17]。催眠術や形而上学的な癒しなどの実験的な手法が行われた[17]。

1890年までの数年間で、マインド・キュアは、医師が積極的に関与しなくても成功すると考えられるようになった[15]。マインド・キュアの方法で自分で自分を癒すことができるなら、そのテクニックを学ぶ教室に参加すれば、病気になっても治療を受ける必要はないということになる[15]。このテクニックの指導を開発したのはクリスチャン・サイエンスの創始者メリー・ベーカー・エディであり、彼女に学び独立したエマ・カーティス・ホプキンス(英語版)が、このテクニックを何千人もの人々が利用できるようにした[15]。彼女がニューソート運動の始まりであると言われる[5]。ホプキンスは、キリスト教ユニティ派(英語版)の設立者チャールズ・フィルモア (ユニティ派)(英語版)、共同設立者で妻のマーテル・フィルモア(英語版)、宗教科学(英語版)の設立者アーネスト・ホームズ(英語版)、ディヴァイン・サイエンス教会(英語版)の設立者ノナ・L・ブルックス(英語版)と、重要な役割を果たした彼女の姉妹(ブルックス姉妹)や、影響力のある著作家たち等、当時のニューソートの大部分の組織の創始者・重要人物を指導した[15]。

メソジスト教会の牧師からスウェデンボルグの教えを奉じる新教会の信者になったウォーレン・フェルト・エヴァンス(英語版)が、スピリチュアル・ヒーリングの思想と方法を文章にした最初のアメリカの著作家であると言われ、1869年に出版された彼の著書『The mental cure(精神治療)』は、最初のニューソートの本と考えらえている[16]。おそらく彼の思想はスウェデンボルグ、メスメル、エマーソンの研究を通して形成されたもので、クインビーとの出会いを通して整理されたのだと考えられている。(彼がクインビーの生徒であったかは論争がある。)[16]エヴァンスは特に新しい教えを提示したわけではないが、著作で中心となる概念を定義し、スウェデンボルグの精神的・霊的世界と物理的世界の対応についての考えをニューソート全体に広めた[16]。彼の本は、キリスト教ユニティ派の設立者チャールズ・フィルモアが、その教えを発展させる基礎を提供した[16]。ユニティ派は超絶主義から生まれ、ニューソート運動の一部になった。

1890年代を通じて、様々な新興グループが全国的な会合を開き、1899年に全国大会が開催された[5]。1914年に国際ニューソート同盟(英語版)が結成され、1940年代には、宗教科学研究所、形而上学健康学校、先端思想教会など、18のニューソートのセクトと教会が活動していた[5]。これらの運動の中には単一の組織として成功を収めたものもあり、特に影響力があったのは、1889年に設立されたディヴァイン・サイエンス教会とユニティの学校である[5]。ユニティ派は、設立者のフィルモア夫妻の指導のもと、マーケティングと広告の近代的なテクニックを駆使して隆盛した[5]。

また、マインド・キュア運動について分析した、アメリカのプラグマティズム哲学の祖ウィリアム・ジェームズは、狭心症から不眠症まで、100-200もの治療のセッションを行っており、1894年と1898年のマサチューセッツ州議会での医師免許に関する討論で、マインド・キュアを擁護した[18][17]。ジェームズの哲学にはニューソートの影響が見られるという[8]。

超絶主義のエマーソンはインド思想に影響を受けており、汎神論・万物皆同源の立場に立つニューソートは、東洋思想全般と親和性が高かった。ニューソートの多くは説得を主な技法としたが、1893年シカゴの世界宗教会議でヒンドゥー教の導師スワミ・ヴィヴェーカナンダが人気となってから、インドの心身訓練法もアメリカに伝わり、インド人ヨガ行者ラマチャラカを名乗り呼吸法の著作を刊行したウィリアム・ウォーカー・アトキンソン(英語版)(1862 – 1932)のように、ニューソートの中には呼吸法を取り入れたものもあった[19]。アトキンソンの思想は、西洋エソテリシズム(秘教)の生命エネルギー概念をインド思想に読みこんだもので、分かりやすく実践的で当時ベストセラーとなり、欧米では現在も読まれている[19]。

ニューソートはニューイングランドで始まったが、1904年頃にロサンゼルスに輸入され、1915年頃から大部分の指導者は太平洋岸に機関を設立し、カリフォルニアが重要な拠点となった[5]。

組織・団体

ニューソート団体の多くは、互いに緩やかに結びつく単立のキリスト教会の形を取ることが多い。ユニティ派、クリスチャン・サイエンス、ディヴァイン・サイエンス教会が最も大きい勢力である[10]。日本の新宗教、生長の家もニューソートの宗教とみなされている

ニューエイジ以降では、ニューソート思想にニューエイジ[注 2]の概念を付与した形の自己啓発団体も欧米を中心に数々存在している。

日本ではア・コース・イン・ミラクルズ(ACIM、奇跡講座)の分派、ニール・ドナルド・ウォルシュの一派、分派などが乱立している。各々の信奉者が集まり勉強会と称した読書会なども盛んである。

女性

ニューソートは、組織的なヒエラルキーではなく、スピリチュアリティ(霊性)と癒しに焦点を当てていたため、女性も指導的地位に就くことができた[6]。女性観が保守化していたヴィクトリア朝時代の当時、他では女性がそのような立場に立つことはほぼ実現不可能だった[6]。

ニューソートでは、それぞれの大人の中に、神聖な内なる「少年(Man Child)」が存在するという考えが推し進められていた。女性達は、自分の欲望や野心をこの内なる「少年」から来たものと考えることで、家父長制の現状を壊すことなく、自分自身の権威を主張することができた[14]。

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940713 No.7428

>>7427

文学・児童文学への影響

アン・スタイルズは、世紀末の作家とその作品にとって不可欠な文脈としてニューソートに注目し、『小公子』『小公女』『秘密の花園』のフランシス・ホジソン・バーネット、『ねじの回転』のヘンリー・ジェイムズ(ウィリアム・ジェイムズの弟)、『赤毛のアン』のルーシー・モード・モンゴメリ、「黄色い壁紙」のシャーロット・パーキンス・ギルマンといった重要な作家・児童文学作家が、ニューソートに精通しており、作品に影響したと分析した[14]。

ニューソートとの関連をよく取り上げられる作家は、バーネットである。彼女は『秘密の花園』(1911年)を書いている時に、マインド・キュアとポジティブ・シンキングの精神に興味を持ったことが記録に残されている[6]。彼女はメリー・ベーカー・エディの友人で、エディの著作を読んでいた[14]。『小公女』では、没落した主人公サラが、プリンセスをイメージして安心感を覚える場面があるが、スタイルズは、その対処はニューソートの一般的な実践であると指摘し、「サラ・クルーは、肯定と否定、創造的視覚化、悪への無抵抗、周囲から瞑想的にひきこもる方法を用いる点で、忠実なニューソートの信奉者のようである」と評している[14]。また、『秘密の花園』のコリンは、自己イメージを良くすることで、病気を劇的に改善させる。『赤毛のアン』や『小公子』のやる気にあふれた主人公達は、周りの現実とは関係なく頑固なまでに楽観主義を貫き、状況が好転していく[6]。

スタイルズが取り上げた作家のうち、バーネット、ギルマン、モンゴメリの3人は、うつ病、不眠症、双極性障害に苦しみ、正当医学による治療の中で、見境のない薬の処方や過度な安静療法を経験した[6]。また、施設への収容や、体を害しかねないような婦人科の治療法のトラウマに苦しんだ人もいる[6]。モンゴメリはマインド・キュアを試し、人に勧めることもあった。なお、彼らはクリスチャン・サイエンスやニューソートの信奉者であると表明しておらず、モンゴメリやギルマンにはクリスチャン・サイエンスを批判した文章もある[14]。

後世への影響

狭義のニューソート自体の現在の勢力は、運動が盛り上がっていた1世紀前の予想よりも、はるかに小規模であるが、特に成功の福音を通して、広い範囲に影響を与えた[5]。その原理や神学は、1950年代以降、代替療法運動やニューエイジ運動の様々な信仰や実践のベース、支えとなっている[1]。

その現代的な継承者には、繁栄の神学(英語版)や、「ポジティブ・シンキングの力」の信念が含まれると考えられ、ニューソート運動は「ポジティブ・シンキング」という言葉を通して普及し、アメリカの価値観[20]や成功哲学や自己啓発のルーツの一つとされている[21]。通俗心理学や自己啓発運動(セルフヘルプ運動)の先駆けであり、プロテスタント主流派における女性の牧師任命や、ナポレオン・ヒルやノーマン・ヴィンセント・ピールの理想主義的な自己啓発書のベストセラー本、大衆文化、プロテスタント主流派における繁栄と成功に関する教えの展開などに影響している[1]。現代の自己啓発やビジネス書の源流であり、日本人への影響も大きい

スウェデンボルグの神秘思想をさらに推し進めたスピリチュアル系ニューソートの流れがあり、そのライターに、ロンダ・バーンのインタビュー映画『ザ・シークレット』に当初参加していたチャネラー・自己啓発書作家のエスター・ヒックス(英語版)などがいる[22]。

尾崎俊介は、1950年代のアメリカでの禅の流行は、背景にニューソートの影響があるのではないかと推測している[23]。また、マインドフルネスは仏教とニューソートのミックスであると述べている[23]。

ニューソートには、後のニューエイジに見られるモチーフが多くあり、馴染み深いものとヒンドゥー教等の異国情緒を組み合わせたニューソートと神智学という2つの霊性運動が、多くのカルトや教義の原型になっていると指摘されている[5]。著作家のキャリー・マクウィリアムズは「後の教義やカルトのほとんどは、神智学とニューソートという2つの輸入された運動の構成要素から進化した…神秘的な要素はポイント・ローマの神智学協会から、現実的な金勘定はニューソートの指導者たちからもたらされたのである。」と述べている[5]。

日本

オリソン・スウェット・マーデン(英語版)(1850 - 1924)やウィリアム・ウォーカー・アトキンソン(英語版) (1862 – 1932、別名ヨギ・ラマチャラカ)、ラルフ・ウォルド・トライン(英語版)(1866 - 1958)の翻訳書が明治後期から昭和初期に出版された[2][19]。ラマチャラカ名義の著作は、日本では大正期に著作が翻訳され、プラナ療法として霊術など民間療法に取り入れられた[19]。マーデン、アトキンソンは中村天風、トラインは谷口雅春や京セラの創業者稲盛和夫などに影響を与えた[2][19]。

ジェームズ・アレンの影響を受けた経営コンサルタント・オカルティストの船井幸雄は、アレンはデール・カーネギー、ナポレオン・ヒルなど自己啓発・成功哲学の教祖的人物のほとんど全てに影響を与え、現代日本人は多かれ少なかれ影響を受けていると述べている[24]。

尾崎俊介は、日本のスピリチュアル系ニューソートのライターとして『水からの伝言』の江本勝を上げている。アメリカの自己啓発系の世界では、江本は人間の思考がモノに影響を及ぼすというニューソートの思想を科学的に証明したとして、高く評されている[25]。

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940713 No.7429

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>>7426

>スウェデンボルグの思想は、カルヴァン主義的禁欲主義へのアンチテーゼとして支持を集めるようになり、これがニューソートへと拡大・発展

エマヌエル・スヴェーデンボリ

https://ja.wikipedia.org/wiki/エマヌエル・スヴェーデンボリ

エマヌエル・スヴェーデンボリ(Emanuel Swedenborg [ˈsvêːdɛnˌbɔrj] ( 音声ファイル), 1688年1月29日 - 1772年3月29日)は、スウェーデン王国出身の科学者・神学者・思想家。スウェーデンボルグ、スエデンボルグとも表記される。生きながら霊界を見て来たと言う霊的体験に基づく大量の著述で知られ、その多くが大英博物館に保管されている。スヴェーデンボリは貴族に叙された後の名。

生涯

父イェスペル・スヴェードバリ(Jesper Swedberg)は、ルーテル教会の牧師であり、スウェーデン語訳の聖書を最初に刊行した人物である。エマヌエルは、その次男としてストックホルムで生まれる。11歳のときウプサラ大学入学。22歳で大学卒業後イギリス、フランス、オランダへ遊学。28歳のときカール12世により王立鉱山局の監督官になる。31歳のとき貴族に叙され、スヴェーデンボリと改姓。数々の発明、研究を行ないイギリス、オランダなどへ頻繁に出かける。

1745年、イエス・キリストにかかわる霊的体験が始まり、以後神秘主義的な重要な著作物を当初匿名で、続いて本名で多量に出版し、出版で得た全報酬は寄付した[1]。ただし、スウェーデン・ルーテル派教会をはじめ、当時のキリスト教会からは異端視され、異端宣告を受ける直前にまで事態は発展するが、王室の庇護により、回避された。イエス・キリストからの啓示をその僕として書き記す霊覚者への転向はあったものの、その後国会議員にまでなった。

スヴェーデンボリは神学の書籍の発刊を始めてから、しばしばイギリスに滞在した。1771年の夏にロンドンに旅し、その地で翌1772年3月29日に没した。

神学・神秘主義思想

スヴェーデンボリの神学論は伝統的な三位一体を「三神論(三人格を持った神が一つの神)」であるとして退けているが、「三一性」という考え方で、「父を意味する創造神、子を意味するイエス・キリスト(神人)、聖霊を意味するイエス・キリストの霊の働きという三つの性質が一つの人格神のうちにある」ということを認めている。また、伝統的なプロテスタント聖書主義と同じく「天地の創造神が、時空の観念を超え、イエス・キリストという人間となって救いのために降臨された」としている。

スヴェーデンボリが生前公開しなかった『霊界日記』において、聖書中の主要な登場人物使徒パウロが地獄に堕ちていると主張したり[2]、ダビデを「ドラゴン」と呼び彼も地獄に堕ちているとしたり[3]、同様にプロテスタントの著名な創始者の一人フィリップ・メランヒトンが地獄に堕ちたと主張した。だが、それらが書かれているのは、スヴェーデンボリがこの世にいながら霊界に出入りするようになった最初の時期にあたる非公開の日記であるため、スヴェーデンボリが自身で刊行した本の内容との相違点も若干見られる。主イエスの母マリアはその日記[4]に白衣を着た天国の天使としてあらわれており、「現在、私(マリア)は彼(イエス)を神として礼拝している。」と発言している。

スヴェーデンボリが霊能力を発揮した事件は公式に二件程存在し、一つは、ストックホルム大火事件、もう一つはスウェーデン王室のユルリカ王妃に関する事件である。

スヴェーデンボリは聖書中に予言された「最後の審判」を1757年に目撃したと主張した。しかし、「世界の政治・宗教・神学上で、その年を境になんらかの変化が起こったとは言えないため安直である」と彼を批判する声もある。

スウェーデンボリによる霊界の描写は、現代人に起こる臨死体験と共通点が多いとされる。両者に共通する点は、広大なトンネルを抜ける体験や光体験、人生回顧や時空を超えた領域を訪れる体験などである[5]。

自然科学

スヴェーデンボリは当時、ヨーロッパ有数の学者として知られ、彼が精通した学問は、数学・物理学・天文学・宇宙科学・鉱物学・化学・冶金学・解剖学・生理学・地質学・自然史学・結晶学などである。結晶学についてはスヴェーデンボリが開拓者の一人である。

動力さえあれば実際に飛行可能と見られている飛行機械の設計図を歴史上はじめて書いたのはスヴェーデンボリが26歳の時であり、現在アメリカ合衆国のスミソニアン博物館に、この設計図が展示保管されている。

霊界では地球人の他に火星人や、金星人、土星人や月人が存在し、月人は月の大気が薄いため、胸部では無く腹腔部に溜めた空気によって言葉を発するなどと説き、いまだに未知なる部分も多い。

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940713 No.7430

>>7429

評価

スヴェーデンボリへの反応は当時の知識人の中にも散見され、例えば哲学者イマヌエル・カントは『視霊者の夢』中で彼について多数の批判を試みている。一方で、カントは限定的に「スヴェーデンボリの考え方はこの点において崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である」(K・ ペーリツ編『カントの形而上学講義』から)と評価も下し、後のカントは「彼の不思議な能力の非常に多くが確実であり、彼は道理をわきまえ、礼儀正しく、隠しだてのない人物であり、学者である」と率直に語った[1]という。また、哲学者ラルフ・ワルド・エマソンは、スヴェーデンボリを霊的に巨大と評価し、他にフリードリヒ・シェリングの『クラーラ』など、スヴェーデンボリの霊的体験を扱った思想書も存在する。

また、ヘレン・ケラーは「私にとってスヴェーデンボリの神学教義がない人生など考えられない。もしそれが可能であるとすれば、心臓がなくても生きていられる人間の肉体を想像する事ができよう。」と発言し、他に影響を受けた著名人としては、ゲーテ、オノレ・ド・バルザック、フョードル・ドストエフスキー、ヴィクトル・ユーゴー、エドガー・アラン・ポー、ストリントベリ、ホルヘ・ルイス・ボルヘスなど挙げられ、特にバルザックは、その母親ともに熱心なスヴェーデンボリ神学の読者であった。

スヴェーデンボリは著作『結婚愛』の中で未婚の男性の買春、すなわち必要悪としての公娼がいる現状を消極的に認める記述をしている。基本的にスヴェーデンボリは不倫などの「姦淫」を認めておらず、一夫多妻制などは、キリスト教徒の間では許されないとその著述に書いている。しかし、これらは多くの近代国家の法律として広く認められ成立していることでもあり、彼だけに特有な考え方ではない。

日本においては、仏教学者、禅学者の鈴木大拙がスヴェーデンボリから影響を受け日本語訳を行い、明治42年から大正4年まで数年間にスヴェーデンボリ『天国と地獄』[6]ほか主要な著作を出版している。没後出版された『鈴木大拙全集』(岩波書店)に、スヴェーデンボリの日本語訳は収録している。

ニューエイジ運動関係者、神道系の信者ら[注 1]の中にある程度の支持者層があり、その経典中で言及されることも多く、キリスト教関係者では、内村鑑三や賀川豊彦もスヴェーデンボリの著作物を読んでいる。

一方で、東京神学校助教授・牧師の尾形守は、『ニューエイジムーブメントの危険』の中で、キリスト教的には異端、思想的にはニューエイジムーブメントのはしりとしてスヴェーデンボリの千里眼事件を批判的に紹介し[8]、「霊だからといって、みな信じてはいけません、それが神からのものかどうか試しなさい」(Ⅰヨハネ4‐1)、「あなたがたは霊媒や口寄せに心を移してはならない。彼らを求めて、彼らに汚されてはならない。」(レビ記19・31)等、新約聖書の字句を引用して、こうした傾向全体をキリスト教的には不健全で危険な発想と評し、悪霊による影響の可能性を指摘している[9]。

また、米国の福音派キリスト教弁護団体であるCARMは、スヴェーデンボリを危険な非キリスト教的神秘主義であると評し、その特徴として、三位一体やキリスト教で言う聖霊の働き、キリストの十字架の贖罪の否定を挙げている[10]。

しかし、19世紀の早期、イギリス国教会の教区牧師ジョン・クルーズは、スヴェーデンボリの著作を直ちに受け入れ、説教の中で会衆に自ら読むように熱心に勧めており(『スヴェーデンボリの主張』フランク・S・ローズ著より)、このように、既存教派の中にも支持者は実在している。

なお、思想体系としての現代への影響を見るなら、このスヴェーデンボリとメスメルの思想を背景として、19世紀にはスピリチュアル思想が起こり、これはブラヴァツキー夫人の霊媒論や神智学と相互に影響を授受し合いながら、現代のさまざまなオカルトや新しい宗教の源泉となった[11]。

しかし、スヴェーデンボリの著作に実際に記されているのは、聖書ヤコブの手紙等にあるように、「唯一なる神に心を向け、観念の遊戯や思い込みでなく、聖霊の力を借りた隣人愛の実践、不倫などの悪を罪・害悪として避けること、誠実に人と接し、仕事や役立ちに熱心に取り組むこと」であり、世で噂されている現実から乖離した狂人・変人、オカルティスト、神秘主義者などではない、とされる。

スヴェーデンボリ主義教会

スヴェーデンボリの死後、彼の思想への共鳴者が集まり、新エルサレム教会(新教会 The New Church とも)を創設した。新エルサレム教会はイギリスやアメリカに現存し、日本においても東京の世田谷区に存在する。また、別系統の団体としてジェネラルチャーチというグループが存在し、日本では東京グループが活動している[12]。

日本キリスト教団の沖縄における前身である沖縄キリスト教会では、スウェーデンボルグ主義の影響を受けた牧師が、戦後になって教団統一の信仰告白文を作ろうとしたところ、沖縄インターボード委員会(Okinawa Interboard Committee, OKIB)派遣の宣教師から異端として撤回をせまられた。その際、教会への経済的援助の打ち切りを持ち出されたため、沖縄キリスト教会は、止むなく、この信仰告白を撤回させされるような事件も起きている[13]。

なお、スヴェーデンボリの著作を主に出版するところとして、日本ではアルカナ出版があり、2006年にそこの主筆・翻訳者が逝去したが、出版社は逝去・死去したとは書かず、霊界入りしてしまった、とホームページに表記して事実を伝えた[14]。

フリーメーソン

また、フリーメーソンリーの友愛組合の一つとして、スヴェーデンボリ教義(英語版)が存在する。これはスヴェーデンボリの教えを基に設立された、とされており、その組織は徒弟、職工仲間、新しい親方、光輝な神智論者、青の兄弟、赤の兄弟、の計6つの位階からなる[15][注 2]。

1773年、Thorn侯爵によってアヴィニョンに設立され、当初は当時のフリーメーソンリーの悪評に対する権利を主張する目的を持った政治色のある組織であったが[17]、最初の10年のうちに廃れてしまった。

1870年になるとこの儀礼はヘルメス主義組織として復活したが、1908年頃には次第に衰退をしていった[18]。1982年にこの儀礼の免状は、大英博物館の居室において英国メーソンのデズモンド・バークによって、メーソンの作家であるミケーレ・モラマルコに伝達され、彼はそれをアンティコ・リト・ノアキタというイタリア儀礼の伝統の復古したような形に再編集した。

またスウェーデンにおいても、スヴェーデンボリの思想は、セーデルマンランド男爵に大きな影響を与え、彼は現地のフリーメーソンリー(Svenska Frimurare Orden)のグランドマスターとして、独自の位階制度を作り、その儀典を執筆した。

しかし、スヴェーデンボリの主要著作には、フリーメーソンに関する記述は一切ないのが事実であり、誹謗中傷の人物評と同様、誤解されていることも多い。

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940713 No.7431

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>>7430

下記サイトに興味深い情報がまとまっています

日本スウェーデンボルグ協会

https://littlestar-swedenborg2018.ssl-lolipop.jp/index.html

日本スウェーデンボルグ協会(略称:JSA)はエマヌエル・スウェーデンボルグ(1688~1772)の神学教説・宗教・思想等に関心を持つ人々が宗教や教派を超えて、その著作を学び、互いに交流を深めること、またその教説や思想の普及のために結成された営利を目的としない団体です。

スウェーデンボルグの影響目次

https://littlestar-swedenborg2018.ssl-lolipop.jp/influencecontents.html

目次

スウェーデンボルグの影響

フロストとリンカーン

鈴木大拙とスウェーデンボルグ

鈴木大拙に及ぼしたスウェーデンボルグの影響

夏目漱石

ヘレン・ケラー

ドストエフスキー

森有礼と新井奥𨗉

ル・クレジオ

内村鑑三

スウェーデンボルグとウェスレー

フロストとリンカーンとスウェーデンボルグ

 アメリカ発行のスウェーデンボルグ派の機関誌『ザ・メッセンジャー』1999年11月号に「ロバート・フロストとエイブラハム・リンカーンがスウェーデンボージャンだったのか」という興味深い記事がありました。

 ロバート・フロスト(Robert Frost,1874~1963)は、広い読者層を持つアメリカの国民詩人です。彼はケネディ大統領の就任式で自作詩を朗読しました。彼の母はスウェーデンボージャンで、彼は子どもの頃、母からスウェーデンボルグの思想を教えられています。1923年、あるインタビューに応えてフロストは、「私の哲学ですか? なかなか言うのが難しいですね。私はスウェーデンボルグ主義者として育てられました。いまはスウェーデンボルグ主義者ではありません。でも私の中に残っているスウェーデンボルグ的なものはかなりありますね」と語っています。

 一方、エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln,1809~1865)が、20代終わりから30代にイリノイ州スプリングフィールドで法律事務所を開いていた頃、スウェーデンボルグ派の人びとと交流を持っていた事実は、私たちによく知られています。しかし一般のリンカーンの伝記は、これに気づかないか、あるいはこれを無視しています。

  以下に訳出した文章は、もともとはサンフランシスコ・スウェーデンボルグ教会のニューズレターに掲載されたものを『ザ・メッセンジャー』誌が再録したものです。

…………………………………………………………………………………………………………

フロストとリンカーンはスウェーデンボージャンか?

     ジェイムズ・ローレンス

 いいえ、実際にはそうではありません。しかし両者は[スウェーデンボルグと]強い結びつきを持っていましたし、しかも両者についての記事が最近、思いがけなく現れました。スウェーデンボージャンはいままでずっと、私たちの大統領[リンカーン]がまだ青年の頃、ある程度までスウェーデンボージャンたちと交流したことを知っています。しかし今やイリノイ州レーナ(Lerna)にある、「リンカーン丸木小屋国立遺跡(The Lincoln Cabin State Historic Site)」―この遺跡にはリンカーンの父や継母の最後に所有した農場や自宅が含まれています―で働くスタッフたちは、1840年代のエイブ(リンカーンの愛称)の宗教学習をいっそう完全に認めようとしています。リンカーンの隣人、スティーヴン・サージャントとナンシー・サージャント(Stephen and Nancy Sargent)の二人は、エイブの親友であり、彼らはその地域のスウェーデンボージャンの活動組織の中心メンバーでした。

 歴史に詳しいスタッフ、スーザン・ゴーディ(Susan Gordy)によりますと、その地域におけるリンカーン家の歴史を含む諸文書は、スウェーデンボルグの霊的著作へのエイブの―彼女の言葉を借りれば―「どん欲な avid」関心と、同様にまたサージャント家でのスウェーデンボルグ派の礼拝や討論会への定期的な出席を指摘しています。

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940713 No.7432

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>>7430

https://en.wikipedia.org/wiki/The_New_Church_(Swedenborgian)

聖書以前のテキスト

スウェーデンボルグは、中東の「古代教会」の聖典がユダヤ教に先立って存在したと信じていたが、その聖典は失われている。『エホバの戦い』(民数記 21:14–15 に言及)[107]や『預言者たち』に似た書物(民数記 21:27–30 に言及)[108]など、その一部は聖書に引用されている(聖書で言及されている非正典の書物を参照)。[109]スウェーデンボルグが古代教会に属すると信じていた別の書物は『ヤシャルの書』で、これも聖書に引用されている(ヨシュア記 10:12–13、[110]サムエル記下 1:17–18)[111] 。彼によると、この書物はタタールにまだ存在していた。[112]

ヘブライ語のミドラーシュであるセフェル・ハヤシャルは1625年にヴェネツィアで出版され、英語訳は1840年に出版された。ヘブライ語のテキストは、後にスウェーデンボルグ派の牧師となった19世紀の聖書学者ジョージ・ブッシュ(ブッシュ家の親戚)によって調査された。新教会はこのヘブライ語のテキストに関して公式の立場を取っていないが、スウェーデンボルグは創世記の最初の部分は「古代の言葉」[113]から取られ、ヤシャール書[114]に見られると述べた。

私の宗教(ケラーの本)

https://en.wikipedia.org/wiki/My_Religion_(Keller_book)

『私の宗教』は、ヘレン・ケラー(1880 - 1968) が 47 歳のときに1927 年に書いた本です。この本は、ヘレンが「真のキリスト教がこれまでに知った中で最も高貴な擁護者の一人」とみなしていたエマヌエル・スウェーデンボルグへの賛辞として書かれました。この本は、ケラーの精神的な自伝と見なされており、その中で彼女は「エマヌエル・スウェーデンボルグの教えは私の光であり、私の手の中の杖であり、彼の素晴らしいビジョンによって私は私の道を歩んでいます」と述べています。

初版は大まかにまとめられ、ダブルデイ・ペイジ・アンド・カンパニーによって急いで印刷された[要出典]。それでも、1927年によく売れ、それ以来ずっと印刷され続けている。1994年、スウェーデンボルグ派の牧師で文学学者のレイ・シルバーマンが『私の宗教』を徹底的に改訂・編集し、初版の扱いにくい8つのセクションを12の独立した章にまとめ、内容を明確にするために小見出しを付けた。さらに、初版にはなかった重要な資料が追加され、原文を解明し拡張した。その他の改訂には、いくつかの単語やフレーズの現代化、適切な場所での包括的な言葉の置き換え、スペルやタイプミスの修正、現代の基準に合わせた句読点の変更、いくつかの歴史的不正確さの修正などがあった。余分な段落区切りが追加され、主要なメッセージから注意をそらすごく少数の文章が慎重に削除された。これらの改訂は、残されたものに比べれば取るに足らないものだった。[誰によると? ]

2000年版『Light in My Darkness』

2000年にスウェーデンボルグ財団出版社[1]から『私の宗教』の版が出版されましたが、これには1956年にガイドポスト誌に『私の闇の中の光』として掲載された「…………….」と題された記事も掲載されています。

「…..」と題された追加の記事は、ケラーが76歳のときに書かれたものです。1995年にガイドポストによって再版されたこの記事は、ケラーが生涯のスウェーデンボルグ派信者であったという事実を確立する点で重要です。この記事の中で彼女はこう書いています。

17 歳のときから、私はエマヌエル・スウェーデンボルグの教えに従って生きようと努めてきました。彼が「教会」と呼んでいたのは、教会組織ではなく、自分たちよりも長く人類に奉仕するために人生を捧げる思慮深い男女の精神的な交わりのことです。彼はそれを、教義や儀式に関係なく、善意、相互理解、一人ひとりからすべての人への奉仕という健全で普遍的な宗教から生まれる文明と呼びました。

2000 年版には、ケラーの最後の著書『教師』(1955 年)からの引用も含まれています。その中で彼女は、スウェーデンボルグの教えに対する衰えることのない熱意について語っています。彼女はまず、アメリカの詩人ウォルト・ホイットマンの次の言葉を引用しています。「おお、魂よ、風の強い午後に裸で走るランナーのように、あなたを悩ますものから解放されよ。優雅に立ち上がり、風を顔に受けながら、力強く進んで行け。」

ケラーはこう付け加えている。「あの高揚した状態で、私はエマヌエル・スウェーデンボルグの教えを受け入れ、彼の聖書の解釈に浸っていた。恐れることなく、敬虔に、それでいて太陽や雲や海のように制限のない。」

タイトルが「私の宗教」から「私の闇の中の光」に変更されたことは意義深い。新しいタイトルは、ケラーの詩的な発言から取られている。「私は、命は愛を育むために与えられたものだと知っています。そして、花の色と香りの中に太陽があるように、私の中に神がいると信じています。私の闇の中の光、私の沈黙の中の声です。」

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940713 No.7433

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>>7430

>日本においては、仏教学者、禅学者の鈴木大拙がスヴェーデンボリから影響を受け日本語訳を行い、明治42年から大正4年まで数年間にスヴェーデンボリ『天国と地獄』[6]ほか主要な著作を出版

鈴木大拙

https://ja.wikipedia.org/wiki/鈴木大拙

鈴木 大拙(すずき だいせつ、本名:貞太郎〈ていたろう〉、英語: D. T. Suzuki 〈Daisetz Teitaro Suzuki〉[2][3][4]、1870年11月11日〈明治3年10月18日〉[5] - 1966年〈昭和41年〉7月12日[5])は、日本の仏教学者、文学博士である。禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に紹介した。著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。1949年に文化勲章、日本学士院会員。

名の「大拙」は居士号である。故に出家者ではない。生涯、有髪であった。同郷の西田幾多郎、藤岡作太郎とは石川県立専門学校以来の友人であり、鈴木、西田、藤岡の三人は「加賀の三太郎」と称された。また、金沢時代の旧友である安宅産業の安宅弥吉は「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」と約束し、大拙を経済的に支援した[6]。

生前、1963年にノーベル平和賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している[7]。

来歴

石川県金沢市本多町に[5]、旧金沢藩藩医の四男として生まれる。

石川県専門学校に入学後、同校の後身第四高等中学校に進学するも退学し、英語教師をしていたものの、再び学問を志して東京に出た。東京専門学校を経て、帝国大学選科に学び、在学中に鎌倉円覚寺の今北洪川、釈宗演に参禅した。この時期、釈宗演の元をしばしば訪れて禅について研究していた神智学徒のベアトリス・レイン(Beatrice Lane)と出会う(後に結婚)。ベアトリスの影響もあり後年、自身もインドのチェンナイにある神智学協会の支部にて神智学徒となる。また釈宗演より「大拙」の居士号を受ける。大拙とは「大巧は拙なるに似たり」から採ったもので、『老子道徳経』と『碧巌録』が典拠であるという[8]。

1897年に釈宗演の選を受け、米国に渡り、東洋学者ポール・ケーラス(en:Paul Carus、1852-1919)が編集長を務め、その義父、エドワード・C・ヘゲラー( en:Edward C. Hegeler)が経営する出版社オープン・コート社(en:Open Court Publishing Company)で東洋学関係の書籍の出版に当たると共に、英訳『大乗起信論』(1900年)や『大乗仏教概論』(英文)など、禅についての著作を英語で著し、禅文化ならびに仏教文化を海外に広くしらしめた。

1909年に帰国し、円覚寺の正伝庵に住み、学習院に赴任。英語を教えたが、終生交流した教え子に柳宗悦や松方三郎等がいる。1911年にベアトリスと結婚。1921年に大谷大学教授に就任して、京都に転居した[9]。同年、同大学内に東方仏教徒協会を設立し、英文雑誌『イースタン・ブディスト』(Eastern Buddhist )を創刊した[5][9][注 1]。1939年、妻のベアトリス・レイン死去[5]。

晩年は鎌倉に在住、北鎌倉の東慶寺住職井上禅定と共に、1946年に自ら創設した「松ヶ岡文庫」(東慶寺に隣接)で研究生活を行った。1949年には、ハワイ大学で開催された第2回東西哲学者会議に参加し、中華民国の胡適と禅研究法に関して討論を行う。同年に日本学士院会員となり、文化勲章を受章した[5]。1952年から1957年まで、コロンビア大学に客員教授として滞在し[5]、仏教とくに禅の思想の授業を行い、ニューヨークを拠点に米国上流社会に禅思想を広める立役者となった。秘書として晩年の大拙を支えた日系2世の岡村美穂子(ブルックリン植物園の日本庭園担当者・岡村方雄の娘)も同大の聴講生だった[10]。1957年には『ヴォーグ』『タイム』『ニューヨーカー』で大拙が紹介され、禅ブームとなった[11]。ハワイ大学、エール大学、ハーバード大学、プリンストン大学などでも講義を行なった。鈴木はカール・グスタフ・ユングとも親交があり、ユングらが主催したスイスでの「エラノス会議」に出席した。またエマヌエル・スヴェーデンボリなどヨーロッパの神秘思想の日本への紹介も行った。ハイデッガーとも個人的に交流があった。1959年に至るまで欧米各国の大学で、仏教思想や日本文化についても講義を行った

1960年に大谷大学を退任し名誉教授となる。90代に入っても研究生活を続けた。

1966年7月12日、例年のように避暑も兼ねて軽井沢に3ヶ月程度の執筆に出かけようとしていた大拙は、自宅で激しい腹痛を訴え嘔吐を繰り返し、痛みに叫びながら救急車で運ばれた[12][13]。同日未明、絞扼性イレウス(腸閉塞)のため[14]東京築地の聖路加病院で死去、没年95[注 2][注 3][注 4]。最期の言葉は、秘書の岡村美穂子が「Would you like something Sensei ?」と言ったのに対し、「No nothing. Thank you.」であったという[12]。

没後は、鈴木学術財団(松ヶ岡文庫)が設立された。

墓所は金沢市野田山墓地の鈴木家墓所と、北鎌倉東慶寺、なお同じ境内に、岩波書店初代店主岩波茂雄や、西田幾多郎・和辻哲郎・安倍能成らの墓がある。毎年命日である7月12日には、大拙忌法要が行われる。

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940713 No.7434

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>>7433

次のDIGに繋がりそうな興味深い考察をまとめてくれている方がいたので転載させていただきます

https://kokuhiken.exblog.jp/24696340/

日本の神智学人脈

〇丹波周辺に出自を持つ宗教集団の共通信条は神智学的思想。神智学が日本の伝統思想と特に対照的なのはグノーシス的超越志向とワンワールド思想。「鬼・天狗」勢力にはこの二つの思想的特徴が顕著。神智学を受容することで、日本の伝統破壊かつ自らの理論武装。それによる西洋の手先としての日本支配。

〇神智学の日本流入ルート〇浅野和三郎→大本教〇藤無染→折口信夫〇ベアトリス・レイン→鈴木大拙〇神智学協会アリス・ベイリー派→三浦関造→信楽香雲〇日本近代カルトの元祖ともいうべき大本教はもちろんのこと、神道界と仏教界のビッグネーム、折口信夫と鈴木大拙の両者が神智学の影響を受けている。

〇鞍馬寺が神智学に影響を受けたルートは神智学協会アリス・ベイリー派→三浦関造→鞍馬寺貫主信楽香雲。大江山の霊媒集団(大江山鬼の交流博物館のHP上の資料を参照した。大江山の鬼・酒呑童子とは仏教勢力に追われた渡来系の鉱山民の首領ではと推測した。)→大本教。王仁三郎「わしは仏教を滅ぼす」

〇日本神智学の祖とも言われる三浦関造が影響を受けた神智学協会アリス・ベイリー派といえばその出版社「ルシス・トラスト」が有名である。国連本部ビルの中に入っているそうだ。ルシス=ルシファー。神智学で崇拝する金星から来たとするサナート・クマラ。これを本尊にしている鞍馬寺。奇怪なり。

〇折口信夫が戦後に唱えた神道論が極めてキリスト教的だと思っていたが、藤無染という浄土真宗僧侶の影響があるという説があるのを最近知った。藤無染は神智学の影響を受けて仏教とキリスト教を習合させようとしていた(何故そんなことをする必要が)。神道・仏教とも伝統思想の改竄ルートは様々ある。

〇鈴木大拙は神智学協会に入会して米人の妻は神智学徒であった。禅を神秘主義と言い、スウェーデンボルグを紹介し、アメリカで講演旅行をした(どこかの財団の支援?)ということで、限りなく怪しいと思っていたが、完璧なインサイダーであった。神智学徒が「世界的な禅の権威」扱いとは愕然とする。

(了)

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940713 No.7435

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>>7434

>神智学

神智学

https://ja.wikipedia.org/wiki/神智学

神智学(しんちがく、英: theosophy)[† 1]とは、神秘的直観や思弁、幻視、瞑想、啓示などを通じて、神と結びついた神聖な知識の獲得や高度な認識に達しようとするものである[1]。神知学、神知論、接神論とも。神智学は、名前のとおり「智」と「認識」を重視するものであり、神あるいは超越者が叡智的性格をもち、宇宙や自然もこのような叡智からつくられ、人間の智も神の智に通ずる性格をもっており、人間は霊的認識により神を知ること、神に近づくことができるとされる[2]。グノーシス派、新プラトン主義、インドの神秘思想などにも神智学的傾向がみられる[1][† 2]が、狭義には以下の二つのものを指す。一つは、17世紀にヨーロッパで顕在化した近代の「キリスト教神智学」の潮流であり、もう一つは1875年に設立されたインドに本部のある「神智学協会」の思想である[4][5]。後者は近現代に新たに創出された体系であり[1]、両者には共通点もあるが、系譜上のつながりはない[4]。通常、神智学と言えばニューエイジ(現在のスピリチュアル)、大衆的オカルティズムの源流である神智学協会に関するものを指すことが多い[4][6][7]。本記事では、神智学協会系の思想を区別する場合は〈神智学〉[† 3]と表記する。

神智学と〈神智学〉

神智学は、聖典や啓示の解釈を通じて神や世界の秘密を探ろうとする知的・精神的営為[10]、存在と自然の神秘に関する秘教哲学の体系、あるいはその神秘についての直接的な知を得ることを目指す探求を指す。本来的な意味での神智学は特に「神の本性」を知ることに重きを置くものを指しており、これに対して、「世界や自然」の秘密を知ろうとする傾向の神智学思想は汎智学(独: Pansophie パンゾフィー)とも呼ばれる[11]。神智学は秘教の広範な領域の一部であり、個の照明と救済をもたらす隠された知識や智慧に関連すると考えられている。神智家は宇宙の神秘を、そして宇宙と人間と神との結びつきを理解しようとする。神智学が目指すのは「神と人間と世界の起源」を探ることであり、それらを吟味することによって、神智家は宇宙の目的と起源についての首尾一貫した説明を見出そうとする。広義には新プラトン主義、グノーシス派、カバラ、ヨアキム主義も神智学に含まれる[12]。宗教改革以後では、新プラトン主義の系譜をひく自然神秘主義的な思想を展開し、医療錬金術を探求したパラケルスス、神秘体験から独自の神学を唱えたヤーコプ・ベーメらの著作も神智学の系列に属する[13]。とりわけ17世紀初頭のヤーコプ・ベーメの諸著作は以後のキリスト教神智学の大きな水源となり[14]、神智学が隆盛した18世紀から19世紀初めには、エマヌエル・スヴェーデンボリ、マルティネス・ド・パスカリ(フランス語版)など多くの神智学的思想家が登場した[15]。

〈神智学〉は、19世紀にブラヴァツキー夫人ことヘレナ・P・ブラヴァツキーが唱導した心霊主義[12]、なかでも彼女とヘンリー・スティール・オルコットが創設した神智学協会(Theosophical Society、1875年創設)に端を発する[16]、古代の忘れられた「叡智」の再発見と「普遍宗教」の確立を目指す運動とその教義を指す[17]。現代において神智学と言えば、神智学協会の教義を指すことが多い[4]。ブラヴァツキーはヤーコプ・ベーメにも言及しているが、初期のブラヴァツキー〈神智学〉は古代の新プラトン主義に範を取っており、従来のキリスト教神智学にはあまり目を向けなかった[18]。黄金の夜明け団の研究家R・A・ギルバートは、ヤーコプ・ベーメに代表される神智学と、神智学協会が広めた〈神智学〉は、全く関係ないと明言している[19]。〈神智学〉の基礎となる主要著作のひとつは、1888年に出版されたブラヴァツキーの大作『シークレット・ドクトリン』[† 4]である[20]。西洋と東洋の智の融合を目指す〈神智学〉は、のちのアメリカのニューエイジ運動、大衆的オカルティズムの起源となった[21][6][7]。〈神智学〉は、当時は「世界をおおうバニヤン樹」といえるほどの広範な影響力を有し[22]、現代にも影に陽にその大きな影響は続いている[4]。神智学協会の諸団体は世界の52以上の国でなおも活動している[† 5]。

英語では一般的な意味での神智学的思想家は theosopher (神智家)といい、神智学協会の追従者を指す Theosophist (神智学徒、神智学者)とは区別される[23]。伝統主義学派(英語版)の旗手ルネ・ゲノンは、『神智主義 - ある似非宗教の歴史』(1921年)を著して神智学協会を批判し、同協会の教義を「神智主義」(仏: théosophisme テオゾフィスム)と呼んで伝統的な神智学と区別した[24]。

語源

神智学 (theosophy) という用語は、古代ギリシア語で神を意味する θεός(テオス)と叡智を意味する σοφία(ソピアー、ソフィア)の合成語 θεοσοφία, theosophia (テオソフィア、神智)に由来しており、直訳すると「神の叡智」「神に関する智慧」という意味になる。

ブラヴァツキーは、3世紀の古代ギリシアの思想家アンモニオス・サッカスとその弟子たち(オリゲネス、プロティノスなど)が使い始めたと述べている[25]。この theosophia (神智)という言葉は、古くはポルピュリオスやイアンブリコスの新プラトン主義の著作に現れ[26]、初期キリスト教の教父たちのギリシア語・ラテン語の著作においても神学の同義語として用いられている[27]。theosophoi は「神に関することを知る者たち」である[28]。神智学は神学の同義語として用いられることが多かった[29]。

「神智学」という言葉は絶え間なくさまざまな意味を付与されてきた[30]。そのため、神智学という言葉を古代に使われたような意味で用いたり、厳密に語源にもとづいた意味で用いることは、学会においては一般的ではない[30]。

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940713 No.7436

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>>7435

ブラヴァツキーと〈神智学〉運動

〈神智学〉は、ロシア出身のヘレナ・P・ブラヴァツキー(通称ブラヴァツキー夫人、1831年 – 1891年)に始まる思想・実践で、現代で神智学と言えば、こちらを指すことが多い[4]。アメリカ人のヘンリー・スティール・オルコット(通称オルコット大佐、1832年 - 1907年)とブラヴァツキーらが1875年に組織した神智学協会(神智協会)によって広められた。神智学協会は「真理にまさる宗教はない」をスローガンに掲げている[53]。

ブラヴァツキーによれば、〈神智学〉運動とは、太古より特定の秘儀参入者によって伝承されてきた宇宙と人間の秘密から、時代ごとにふさわしい形式で東西の宗教が発生してきたとされ、その諸宗教の対立を超えて、秘密の重要部分を公開することで、再び古代の根源的な「神的叡智」への回帰を目指そうとするものである[54]。その〈神智学〉は、「西洋伝統思想」が基礎にあり、西洋と東洋の智の「融合・統一」を意図するものであるとされる[21]。

自らの組織の名称に「神智学」という名称を選択することで、神智学の伝統に連なろうとしたのではないかという意見もある[55]が、初期会員のチャールズ・サザランがたまたま辞書で目にした用語が団体名に採用されたという説もある[56]。R・A・ギルバートは、神智学協会が広めた〈神智学〉は独自解釈した仏教・ヒンドゥー教であり、ヤーコプ・ベーメに代表される伝統的な神智学とは全く関係ないと明言している[19]。

ブラヴァツキー自身は、〈神智学〉は宗教ではなく、「神聖な知識」または「神聖な科学」であると述べている[57]。社会人類学者の杉本良男は、神智学協会の性格づけはなかなか難しい意味があり、いわば否定的定義として、宗教のようで宗教でない、オカルトのようでオカルトでない、心霊主義のようで心霊主義でない、哲学のようで哲学でない、それらの純粋型としてのまことの「古代の智慧」の探求だということになるのであろうと述べている[58]。この純粋型は当時すでに失われていたが、インドのヴェーダにその原型をとどめているとされた[† 11][57]。

神智学協会の〈神智学〉運動は、19世紀末を代表する文化運動のひとつであり、その衝撃は、さらに20世紀初頭のモダニズム誕生から、1960年代のカウンターカルチャー、20世紀末に始まるニューエイジと精神世界(現在のスピリチュアル)を理解していく上で、「鍵」となる存在である[59]。欧米文化の秘教主義、神秘主義、オカルト主義の趨勢が一群となったこの運動を、秘教的音楽史家ジョスリン・ゴドウィン(英語版)は「神智学的啓蒙」と表現した[59]。

当時ヨーロッパでは仏教に関心が持たれていた[60]。外国人の入国が禁じられていたチベットについては、超能力を持つラマなど神秘的な逸話が流布しており[† 12]、欧米人は深いあこがれを抱いていた[61]。ブラヴァツキーらは〈神智学〉を真の仏教、「秘伝仏教」であるとし、彼らが「大師(マスター)」「マハトマ(偉大な魂)」と呼ぶチベットの精神的成就者(アデプト・秘儀参入者)から授けられた秘密の教えであると主張した(哲学者・宗教学者・社会学者のフレデリック・ルノワール(フランス語版)は、実際には仏教よりもヒンドゥー教に近いと述べている[60])[62]。

ブラヴァツキーはアメリカで執筆した大著『ヴェールを剥がれたイシス』[† 13]ではカバラ[† 14]、新プラトン主義[† 15]、グノーシス、メスメリズムなど古今東西のさまざまな思想を引き合いに出したが[63]、活動の場をインドに移してからはヒンドゥー教や仏教の教えを多く取り入れた[64]。しかしそれらの東洋思想の理解には限界があり、理解可能で利用できる部分だけを摂取して、それから先はカバラや新プラトン主義で補うという方法が取られた[64]。西洋のインド思想・仏教の理解は誤解に満ちており、理解できない部分を「西洋思想」で補って解釈しているため、「カルマ」や「輪廻転生」などの解釈は引用元のものとは相当に異なる。もしくは、西欧の神秘主義の伝統的な思想を、西欧が植民地支配によって接触できたアジア宗教の用語によって装飾または再解釈したものであり、普遍的なものとしてグローバル化したものであるとも言われる[65]。神智学協会の研究対象は、古代密儀宗教以降の西洋秘教伝統のすべてであり[66]、その体系と内容は、インド思想など東西の多くの宗教・哲学の要素を折衷して組み立てられているため極めて複雑である[67][21]。

宗教社会学の研究者である樫尾直樹によると、〈神智学〉を要約すると、人智を終局的に規定する神の智の「認識」を、五感を越えた超感覚的な霊性を基礎として探究することを目的としている[21]。宗教学者の大田俊寛によれば、〈神智学〉とは、不滅とされる霊魂が輪廻転生を繰り返しながら、自らの霊性を進化・向上させ、ついには神的存在にまで至るという「霊性進化論(英語版)」を目的としている[68]。

ブラヴァツキーは1877年に第一の主著『ヴェールを剥がれたイシス』を発表し、1888年には第二の主著『シークレット・ドクトリン』を発表した[69]。前者は、題名から理解されるように、西洋オカルティズムの故地とされるエジプトを志向したものである[56]。後者は、センザールという古代の神聖言語で書かれた「ジャーンの書」[† 16]をブラヴァツキーが翻訳・解説したという体裁を取った本であるが、「ジャーンの書」なるテクストが実在したという証拠はない。インド渡航の成果は〈神智学〉が〈神智学〉となる思想面の転換の契機を与え、『シークレット・ドクトリン』でブラヴァツキーの教えは完全な形で示された[70]。岩本道人(吉永進一)は、この本は近代〈神智学〉文献で最も重要なものであると述べている[71]。ただし、通常の理解力では到底把握できない内容・文体であった[72]。

歴史学者のセオドア・ローザクは、『ヴェールを剥がれたイシス』と『シークレット・ドクトリン』の「そのパノラマはあまりに広く、洞察と偏屈な意見が多すぎて容易な論評を許さない」と述べている[73]。ほとんどの人が『シークレット・ドクトリン』を理解できず、わかりやすく大要をまとめた『神智学の鍵』が出版された[72]。深遠さを演出して読者を煙にまく神秘化の手法も用いられ、重厚で難解だったブラヴァツキーの思想が当時の人々にどれほど理解されたかは不明であるが、その思想に含まれる強靱な体系を構築する核となりうる諸要素は、彼女の死後に明確化・具体化されていった[74](吉村正和は、〈神智学〉において魂の構造や再生について多様な解釈が生まれるのは、ブラヴァツキーがそうした点を明確に説明していないからであると述べている[75])。

教育学者の岩間浩は、神智学協会は極めてユニバーサルな、国際的、非ドグマ的、平和主義的、精神修養的な性格を持っていたと述べている[76]。ブラヴァツキーが人種・宗教・身分を超えた神秘主義研究を訴えたこともあり、当時は影響が大きかった[12]。ヨーロッパ諸国、北米、英国の統治下にあったインドを中心に世界的に普及し、ルドルフ・シュタイナーの人智学など多くの分派や支流を生み出した。神智学協会は、秘教思想、そして仏教やヒンドゥー教の基本的な考えが西洋世界に普及するうえで、深い影響を与えた[77]。神智学協会自体の活動は1930年代には下火になったが[12]、その思想は書物などを通じて広範な影響力を今も有しており、近現代の新宗教やニューエイジにもその大きな影響が窺知される[4]。

ニューエイジの思想や実践の大半は、1875年から1925年の協会の活動にその淵源を見出すことができる[78]。例えば、20世紀初頭の〈神智学〉の本や雑誌では、ヨーガ、瞑想、占星術、チャクラ、オーラ、水晶、前世、スピリチュアル・ヒーリング、天使と妖精、象徴表現、民間伝承、古代密儀宗教、世界の宗教の聖典の秘教的な解釈などが取り上げられていた[78]。〈神智学〉は、科学の台頭で没落していたオカルト諸要素を、その秘伝の体系に取り入れて、後期ヴィクトリア朝時代の教養人たちのオカルトへの関心を呼び覚ました[79]。20世紀の多くの西洋オカルティストたちも直接間接にブラヴァツキーや〈神智学〉運動の影響を受けており、〈神智学〉を批判したルネ・ゲノン、神智学徒たちを揶揄したアレイスター・クロウリー、薔薇十字を名乗る現代の諸団体もその例外ではない[80]。

日本では、〈神智学〉と神智学協会は1889年にオルコットが来日した頃に紹介された(当時は「霊智学」と呼ばれた)が、評価は一部の仏教青年に限られていた[81]。1910年には『神智学の鍵』が『霊智学解説』のタイトルで翻訳されたが[82]、一般に広まったのは、「精神世界」(現在の「スピリチュアル」)の流行や「第三次宗教ブーム」が見られた「1970年代から80年代」以降である[83]。

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940713 No.7437

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>>7436

〈神智学〉の理論と思想

背景

ブラヴァツキーに始まる近代〈神智学〉の背景となっているのは、硬直化したキリスト教と、「霊」を排して「物質」のみに根拠を求めようとする自然科学へ反発である[84]。〈神智学〉は、自然科学が台頭した時代に、科学の検証に耐えうる新しい宗教として打ち立てられた[85]。ブラヴァツキーはしばしば超常現象を見せ、それはほとんどは奇術まがいのトリックであったが、人々の耳目をひきつけた[85]。彼女自身の不思議な魅力と超常現象への興味があいまって、〈神智学〉は注目された[86]。

理論・思想

万物を構成する「宇宙的生命」すなわち絶対的本質は、万物を流出させる根源的な原理であり、それは精神と物質、光と闇、男性と女性、能動性と受動性といった区別を越えたところにあるというのが基本教義である[87]。ブラヴァツキーは同時代に流行した心霊主義の霊媒として活動していたが、心霊主義の単純な霊魂論に異議を唱え、物的証拠とは無縁の霊魂の存在と、ユダヤ・キリスト教の主流では否定されていた死後の「再生」(輪廻転生)を確信し[12]、身体的な進化の基礎となる「霊的な進化」の理論を唱え、人間は輪廻の連鎖を通して起源へ旅する神性の輝きが具現化したものであるとみなした[77]。数十億年もの進化の果てに「神」に近い存在に近づくことができるとし、すべての「心霊的自我(霊魂)」はニルヴァーナ(涅槃)に到達し、宇宙的・神的根源に至るとした(このような涅槃の説明は、仏教ともヒンドゥー教徒とも異なっている)[88][89]。また、新しい心霊学としてインド思想の要素を取り入れ[90]、連続した生の環境を統括するものとして「カルマの法則」を提唱した[77]。その理論の基礎には、マクロコスモス(宇宙)とミクロコスモス(人間)との照応(コレスポンダンス)という西洋伝統思想がある[21]。

神智学協会はキリスト教の神のような「人格神」を立てない[91]が、フレデリック・ルノアールは、〈神智学〉は一種の有神論と一種の「個人的自我」への信仰であると述べている[92]。岩本道人は、『シークレット・ドクトリン』における真にオリジナルな教説は、聖なる数字とされてきた「七」を用いたオカルト進化論の単位とも言える「周期(ラウンド)」と、「根源人種(ルート・レース)」の神秘的人種論の二つだけであると述べている[71]。岩本は、『シークレット・ドクトリン』の特質をなすオカルト進化論は、その二つの理論を除いてサンスクリット語の装飾を落とせば、一昔前のアルフォンス・ルイ・コンスタン[† 17]以来の西洋近代オカルティズムの伝統であるカバラの上に成立しており、その独特の人種論もフランス人オカルティストたちに起源があると指摘している[93]。吉永と松田は、フランスの秘教家サン・ティーヴ(フランス語版)などとの類似が指摘されるものの、極めて独自な思想であると述べている[94]。

岩間浩は、〈神智学〉および神智学協会の特質を、次のようにまとめている[95]。

神智学は知恵の科学である。人類を一つの同胞と見、その「進化」発達を「宇宙史」的な観点から捉える(霊性進化論(英語版))。

宗教の「源は一つ」であり、各宗教は最高の自覚へと至る門であるとし、それぞれの宗教の「比較研究」をする。すべての人・生命は神性を宿すとみる立場(神性の原理)、すべての人を同胞とみる立場から、宗教・宗派、人種・民族、国、性、身分、職業、貧富などの違いによって人を差別することを禁じる。

自然及び人に秘められた真理を探求する。人とは「人生という学校」で学びつくすまで生まれ変わりを繰り返しつつ、「進化」の道を辿る(再生誕の法則)とし、生命の不滅を説く。

「進化」の過程で深い自己解放(真の自由)に到達し、生まれ変わって学ぶ人生学校を卒業した存在(超人、覚者)を認め、彼らによる人類への慈悲の保護・援助の大計画・争いのない平和な社会を創造する大計画を認め、彼らを教師として励む弟子道を、自覚的に歩もうと心がける。そして自己訓練的に高い倫理的な生き方を目指す(具体的には、菜食し、酒や薬物を慎み、理想的にはそれらを断ち、規律ある瞑想的生活を送るよう求められる[† 18]。

特に心の純粋性、愛、高貴性、正義、公平、寛大、誠実、無執着、自由といった内面性を重視する。

人の思ったり行ったりする行為はすべて宇宙に影響を及ぼし、やがてその結果を刈り取る(カルマの法則)、思いを含む全ての行為は作用があれば反作用がある(作用反作用の法則)と説く。

現代のカトリック教会は、ブラヴァツキーの著作の中心となる主張は「女性解放」であり、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の「男性的」な神への批判を含んでおり、ヒンドゥー教の母なる神々と女性的な徳の実践に回帰することを人々に求めたと解説している[96]。この精神はフェミニズム運動の先駆者であった後継者アニー・ベサントに、さらに現代のウイッカや「女性の霊性」に受け継がれ、現代の「父権的」キリスト教に対する闘争を続けていると述べている[96]。

思想の3つの柱

ブラヴァツキーは『神智学の鍵』 (The Key to Theosophy) において、折衷的神智学[† 19]の思想の柱は次の三つであるとしている[97]。

全宇宙の根底には、一つの絶対的で人智を超えた至高の神霊や無限の霊力が存在しており、見えるものも見えないものも含めた万物の根源になっている、という思想。

普遍的な魂からの放射である人間は、その至高の神霊と同一の本質を共有しているがために初めから永遠で不滅である、という思想。

「神聖な作業」を通じて神々の働きを実現すること。

協会の3つの目的

『神智学の鍵』における協会の柱は次の3つである[55]。

人種や肌の色や信仰による差別のない、「人類」の普遍的な「友愛」の核となること。

アーリヤ語およびその他の言語で書かれた「聖典」、並びに世界の諸宗教と諸科学の研究を奨励し、古代アジアの、特にバラモン教、仏教、ゾロアスター教の哲学作品の重要性を証明すること。

「自然」の隠された神秘、わけても人間に潜在する心霊的、精神的な力を、可能な限りあらゆる局面で、深く追及すること。

西洋エソテリシズムの研究者ワウター・ハーネフラーフ(英語版)は、ここでいう科学はオカルト科学、哲学は隠秘哲学、自然の法則はオカルト的ないし心霊的な自然の法則であり、比較宗教は、ヘルメス主義者の「永遠の哲学」を模範とする「原始的伝統」の解明が期待されていたと述べている[98]。

取り入れられた宗教・思想 

神智学協会の〈神智学〉は、「西洋伝統思想」に仏教など多様な宗教・思想を折衷して作られた。マハトマ(秘儀参入者)が伝承してきた教えは、様々な宗教や神秘思想とオカルトの源泉であり、真理はそれらのなかにも断片として表現されているが、〈神智学〉はその教えを純粋に復原したものと主張される[99][100]。

〈神智学〉では、古代エジプト、神秘主義、ヘルメス思想、ギリシア哲学、キリスト教、新プラトン主義、グノーシス主義、カバラ、ヴェーダ、バラモン教・ヒンドゥー教(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ、ヨーガを含む)、仏教(特に、チベット仏教を含む北伝仏教)、ゾロアスター教、魔術、錬金術、占星術、心霊主義、神話、フリーメイソン、薔薇十字団などから様々な文脈の中で引用が見られるが、それらの知識のなかから、曇りのない秘儀を抽出することで叙述されたものとされる[99]。

とは言っても、すべての宗教を同列とみなしたわけではなく、ユダヤ教は忌まわしい代物で(好意的な引用もある)、キリスト教はイエスを除けば何の値打ちもなく、イスラム教も数人の神秘家を除けば同様であるとし、その叡智が宿るのは「人類の魂のゆりかご」インドであるとした[101]。

特に仏教への偏愛が著しく、もっとも完成されたものと判断した[101]。ただし、その仏教は、大衆の間で実践され学者が研究してきた「顕教的な(外面的な)仏教」ではなく、「秘儀伝授を受けたもの」のみに伝えられてきた「秘教的仏教」であり、彼らの言う「顕教的な仏教」には重大な誤りが含まれており、無学な大衆向けのものであるため、宇宙の意味や人間の運命にかかわる究極の英知は含んでいない、という[102]。

初期の〈神智学〉ではキリスト教は厳しく排斥されたが、のちに後継者のアニー・ベサントは、ブラヴァツキーら先輩たちの教え、特にキリスト教に関するものを修正し、表向きのキリスト教の背後に由緒正しい「秘教的なキリスト教」が存在するとしてキリスト教を東洋思想と同列に並べた[103]。この戦略で、多くのキリスト教徒が〈神智学〉に引きつけられるようになった[103]。

ブラヴァツキーは、伝統的な神智学の大家ヤーコプ・ベーメに申しわけ程度に言及している[104]。イギリスの小説家エドワード・ブルワー=リットン(初代リットン男爵)は、友人のエリファス・レヴィの理論を焼き直したオカルト小説を書いているが、このブルワー=リットンからも直接影響を受けている[105]。また、〈神智学〉を提唱する以前の若い時にフランスのパリで過ごした際、霊の進化と生まれ変わりを唱えるスピリティスムを提唱した霊媒・教育者アラン・カルデックのグループに足しげく通っていた[106]。

これらと進化論などの新しい知見を折衷して、ブラヴァツキーは万物の一元性、宇宙や文明や人種の周期的な発生と衰退、カルマと普遍的な因果応報、再生(輪廻転生)、太古の文明、超能力、高次の意識、原子や鉱物や惑星の進化、生命体の進化に伴う天体間の移動などを説いている。

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940713 No.7438

>>7437

霊的進化と転生

ブラヴァツキーはダーウィンが提唱した「進化論」から進化という概念を、インドやチベットの思想から「カルマの法則」と「輪廻転生」(再生)の理論を取り入れ再解釈した[107]。

〈神智学〉では、キリスト教のように絶対者が霊魂の救済と罰を審判するのではなく、すべての行為が原因となって果報を生じる「カルマの法則」の普遍的な因果応報が人間を支配すると考えられた[87]。自らの行為による結果を自分で引き受けるというカルマの法則により、人間は自身の運命を決めていく[87]。この法則により、自らの努力により無限の精神の向上が約束されているとする(このような発想はインドの輪廻・業(カルマ)とは異なっている)[87]。これには今生の生だけでは不十分であり、人生という「学びの学校」を、幾度となく再生(輪廻転生)を繰り返した「霊的進化」の終わりに、人間の「霊的な完成(高次の自己)」[† 20]を想定し、最終的にマハトマ(偉大な魂)の境地にまで至るとされた[108][95]。自助努力によって無限の精神の向上が可能であり、最後には「神」に近い存在に近づくことができるとし、キリスト教に替わって自己が自己を救済するというシステムを構築したのである[89]。

近代〈神智学〉では、東洋の哲学・宗教の多くの教えが改変されたが、特に「輪廻転生」の理論は根本的に改変され、元来の教義からはるかに遠ざかっている[109]。〈神智学〉の転生の信仰では、永続する個人的な根源、死後も存続し次の生へ転移する「自我(霊魂)」の存在が想定されている(仏教では実体のある自我は存在せず、個人的意識・霊魂が輪廻することはない)[109]。神智学徒たちは、チベットのトゥルク(化身ラマ)という悟りに到達した人が、衆生が地上で苦しむ限り涅槃に達しないという菩薩の誓いを立て、死の瞬間に人格と意識の統一を保持し転生するという慈悲の転生から着想を得て、秘教的仏教では死後の意識の根源を認めていると賛美したが、フレデリック・ルノワールは、チベットの概念では生まれ変わる「永続的な根源」や「個人的な意識」の存在は想定されておらず、その教えを歪曲したものであると指摘している[110]。チベットの思想において、トゥルクは全くの例外的存在である[111]。

フレデリック・ルノワールは、ブラヴァツキーの進化論的な転生の教義は、西洋近代の転生の思想の系譜に連なると指摘している[112]。〈神智学〉の転生論はアラン・カルデックが創始したフランスの心霊主義運動(スピリティスム)から借用したもので、カルデックの考え自体も、社会的不平等を説明しようとしたシャルル・フーリエ、ピエール・ルルーなどの19世紀の何人かの社会主義者たちからの借用であり、その社会主義者たちの理論も、18世紀後半に生まれたニコラ・ド・コンドルセやジャック・テュルゴーなどの「進歩」の概念に拠っている[112]。おそらく最初に明記したのはドイツの思想家ゴットホルト・エフライム・レッシングによる『人間教育』(1780年)であるという[113]。

また、「人間」以外の動物にも生まれ変わるという考えを受け入れることはできなかったため、人間は人間に生まれ変わり転生を通して進歩向上するとした[111]。西洋近代の転生の信仰は東洋に由来するものではなく、「進歩」という観念を支持するヨーロッパの哲学者たちから生まれたもので、人類の「直線」的な進歩の観念によるものだが(一方、ヒンドゥー教や仏教の時間は「円環周期」的なものである)、〈神智学〉は(西洋近代の転生論の系譜に連なる)自身の転生論に真の仏教の教義があるとした[113]。人間はその進化の7つの時期に応じて、それぞれ異なる惑星に生まれるという[88]。

神智学協会は、転生についてこまごました情報を示し、人間は地上の生という「学びの学校」で達成できる「霊的成長」の限界まで来ると、次に転生するまでの間、霊魂は高次の精神界に行き、デーヴァチャン(英語版)[† 21]という「楽園」で1500年休息して(幼くして死んだ子供は別で、すぐに転生する)、地上の生で得た成果を整理し、その後カルマの法則に従い前世の功罪に応じて生まれ変わり、再び肉体を得て地上の生に戻る(再受肉)とした[88][114]。神智学徒たちは、これら「秘教的仏教」を構成する「永遠の真理」は、マハトマから口授されたものであると述べている[115]。

インドでは解脱の手段として苦行、ヨーガ、祈りなど様々な方法がとられており、〈神智学〉同様、輪廻転生と霊的進化を教義に持つスピリティスム(カルデシズモ)では、「霊的進化」の手段として慈善活動を重視するが、〈神智学〉では霊的進化の手段として、理論と霊知の探究に力点を置いている[116]。

〈神智学〉の霊的進化論(霊性進化論)は、最終段階で神に近い存在に至るとされるが、キリスト教で神が天地創造の段階で人間を神の似姿として作ったという神話の逆である[89]。また、人類は初めは肉体をもたない霊的な存在(第一根源人種)であったが、徐々に退化して物質世界に埋没したのが類人猿になったとされる[117]。吉村正和は、これは猿人からの進化を説くダーウィンの進化論の逆であると述べている[117]。

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940713 No.7439

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>>7438

マハトマ(偉大な魂)・大師(マスター)

神智学協会の主張によると、宗教、神秘主義、オカルトの奥義は、歴史の黎明以来ひそかに受け継がれてきたもので、それが支配する力の大きさや危険性から、どの時代においても一部の選ばれた少数の人間にのみ伝授され、守られてきたものであるという[118]。神智学協会の創立者たちは、自分たちがそれを託された最後のものだと主張し、自分たちの使命は全世界のそれを知らしめ、その「ヴェールを脱がせる」ことであるとした[119]。

こういった奥義を継承する「見えざる師」というコンセプトは、17 - 19世紀の西洋の秘儀伝授を特色とする団体のほとんどにみられる[120]。宗教、神秘主義、オカルトに関する知識は、自分自身の内的な認識、超感覚的知覚、神秘体験、霊覚、直接的な観察などによって得られるとされるが、宗教、神秘主義、オカルトの思想家たちは、古代のエジプトやインドの賢者たちも含めて、外部の様々な現象を分析し客観性や合理性を重視する実証主義的な現代の科学者たちよりもある意味では優れた認識や理解を得ているという[121]。

そうした、宗教、神秘主義、オカルトの教義に精通し、神秘の奥義を伝授されている人間は、「秘教の秘伝への参入者」と呼ばれるが、その中でも特に奥義を体得している者たちは、様々な超常的な力(物質化、テレパシーなど)を有していたり、肉体を通常よりもかなり長い期間にわたって維持していたり、宇宙の諸現象の理解や人類への愛の面で卓越していたりするという。ブラヴァツキーは、チベットでそれらの参入者たちに師事して教えを授かったと主張している(しかし、ブラヴァツキーがチベットを訪問したという証拠はない)[122]。当時チベットは外国人の立ち入りを厳しく禁じており、チベットに関することは検証不可能であったため、当時この話は非常にもっともに見えた[105]。

ブラヴァツキーはインドに渡って以降、自らの思想が、「大師(マスター)」「マハトマ(偉大な魂)」と呼ばれる霊的熟達者(秘儀参入者)に由来するとした。マハトマ[† 22]は大賢者としてゴータマ(釈迦)から伝わる大宇宙の秘儀に通じているとされた[75]。マハトマは複数存在し、チェラ(弟子)にその秘儀を継承していくと考えられた(マハトマ・モリヤのチェラがブラヴァツキーであるとされる)。彼らはヒマラヤに住んでいるとされ[123]、「グレート・ホワイト・ブラザーフッド(大白色同胞団)」という秘密結社を形成し、古代の叡智を受けついでいるとされた[124]。かれらの本拠地はゴビ砂漠にあるシャンバラであるともされた[125]。

秘密裏に世界を支配しているというその組織のメンバーは、アブラハム、モーセ、ソロモン、孔子、ブッダ、老子、ソクラテス、プラトン、イエス、ヤーコプ・ベーメ、フランシス・ベーコンなど、万人に知られた哲学者や宗教の開祖たちである[120]。ブラヴァツキーは大師たちと超自然的な方法で交信しているとして、大師からの手紙「マハトマ書簡」を空中から取り出すという奇跡をしばしば実演した[124]。マハトマ書簡の出現の仕方は、多くの場合、いつの間にか机の上などに置かれているというものであったが、それはアポートによるものであると解釈された。

ブラヴァツキーとアルフレッド・パーシー・シネット(英語版)は「マハトマ書簡」で、オカルトの達人の名前として、モリヤ、クートフーミ、ヒラリオン、ジュワル・クール(英語版)などの名前を挙げている。ブラヴァツキーと彼女に続く神智学徒たちは、モリヤとクートフーミから啓示を受けていると明言するようになった[120]。チャールズ・ウェブスター・レッドビータの著作『人間 - どこから、どうやって、そしてどこへ』(1913年)や『大師とその道』(1925年)は、イエスも大師のひとりに挙げている(イエス大師)[† 23]。

マハトマは〈神智学〉の根本にある思想であるが、当初から存在自体が疑問視されていた[75]。霊的存在で不可視であるなら見えないことも道理であるが、そうは考えられておらず、ブラヴァツキーは地上でしばしば目撃されると述べており、インドのヒンドゥー教改革団体で一時神智学協会と提携していた「アーリヤ・サマージ」の設立者ダヤーナンダ・サラスヴァティー(英語版)と同一視されたこともある[126]。フレデリック・ルノワールは、「見えざる師」たちを引き合いに出したことが、神智学協会の成功を保証したのは間違いないが、謎めいた実在が立証できない指導者たちの実在を基盤に協会の全機構を打ち建てたことは、協会のアキレス腱ともなったと指摘している[127]。

ブラヴァツキーの死後、オルコットとアメリカ支部長のウィリアム・クアン・ジャッジ(英語版)の間で熾烈な権力闘争が起こり、モリヤは無条件でオルコットを支持しているとし、ジャッジはオルコットの解任と自身のトップへの就任を促すクートフーミの手紙を示したことで、信奉者たちにとってマハトマの反目という深刻な事態を引き起こした[128]。

クーロン事件

1883年、米国の心霊主義者ヘンリー・キドルはA・P・シネットの『オカルト世界(英語版)』(1881年)に掲載されたクートフーミ[† 24]の手紙について、出版された自分の講演の剽窃だと指摘した[129][130]。ロンドンの神智学協会会長や多くの神智学徒が協会を離れたが、それだけでなく、英国心霊現象研究協会 (SPR)という権威ある団体の注意を引くことになった[130][131]。また神智学協会の急激な拡大とヒンドゥー教勢力への接近は、カトリック教会と心霊主義の反発を買っていた[132]。マドラス郊外のアディヤール地区にあった神智学協会本部では、ブラヴァツキーの知人エマ・クーロンが働いていたが、クーロン夫妻は「マハトマ書簡」出現トリックの助手であったとされる。夫妻は1884年に、「マハトマ書簡」がブラヴァツキーによって書かれた証拠と共に、「奇跡」の手の内を暴露した(クーロン事件)[133]。1885年に英国心霊現象研究協会のリチャード・ホジソンによって虚偽性を非難するホジソン報告(英語版)が発表されている[133][134](後にこれは心霊現象研究協会手続上の瑕疵により、心霊現象研究協会としての行動ではなかったと表明)[† 25]。心霊現象研究協会の社会的信頼は大きく、これを引き金にカトリック系、心霊主義関係、共産主義の出版物や新聞に続々とゴシップが載り、神智学協会は大きな打撃を受けた[131][136]。

第二世代以降のマハトマ

C・W・レッドビータは、「霊的進化を完成させた人間」が大師(マスター)であり、彼らが諸文明の発展を導いているとした[137]。霊的進化を確実かつ順調に行うためには、大師が定める指針に従わなければならず、大師に出会うためには宗教を学ぶこと、特に〈神智学〉が示したヨーガや瞑想の実践を通して大師に精神的波長を合わせることが推奨された[138]。

大師に出会うことができた人間は、グレート・ホワイト・ブラザーフッドの一員になるため「イニシエーション(英語版)」(加入礼、秘儀伝授)を受けるが、これは九段階で構成され、どこまで通過したかによってグレート・ホワイト・ブラザーフッドの「ハイアラーキー」(階級組織)に占める位置が区別される[139][要文献特定詳細情報]。第一から第四までは大師になるための前段階で、第五階級は大師の入り口であり、これに到達した人間は「超人」(アセーカ)と呼ばれる[140]。第六から第九までは、それぞれ「首長」(チョーハン)、「大首長」(マハー・チョーハン)、「仏陀」「世界君主」と呼ばれ、その上に世界の創造主として「ロゴス」が君臨している[141][要文献特定詳細情報]。

ブラヴァツキーはマハトマ(マスター)はチベットに住むものとしていたが、レッドビーターやベイリーの時代には「高次元」に存在するものとして「アセンデッドマスター(英語版)(昇天したマスター)」と呼ばれるよう格上げされた[142]。アセンデッドマスターは、一種の「神的存在」ともなり、大衆的な宗教運動につながることになった[142]。クリシュナムルティを「世界教師」とする救世主運動は失敗に終わったが、神智学系のメシアニズム運動はシェア・インターナショナルのベンジャミン・クレーム(英語版)など、現在に至るまで続いている[142]。

ガンジーを最初にマハトマと呼んだのは、神智学協会2代目会長のアニー・ベサントであったとも言われる[143][144]。

また、霊的進化のためには、ヨーガや瞑想の修行が有効という考えも説かれるようになっていった[138]。レッドビータは、瞑想の実践により透視力を得ると、オーラの感知、さらには「アカシック・レコード」と呼ばれる霊的な記憶の場にアクセスすることによる過去視・未来視が可能になるという[145]。

イギリス生まれのアリス・ベイリーは、移住先のアメリカで神智学協会に関わったが、協会から離反して1923年にアーケイン・スクールという団体を創設した。彼女は大師のジュワル・クール(英語版)とテレパシー通信していると主張して、多くの著作を発表した。彼女の書籍は他の〈神智学〉の書籍と共にニューエイジに大きな影響を与えた[146]。

マハトマとの交信は、ウィリアム・エグリントン(英語版)などの霊媒によって、〈神智学〉とは別にも進められたが、これはニューエイジの「チャネリング」と共通する発想である[147]。

ブラヴァツキーはチベットに住むマハトマから教えをさずかったと主張していたが[122]、当時のヨーロッパではチベットはオカルトと秘教の神秘に彩られた理想の地と思われていた[148]。フレデリック・ルノワールは、二冊の書籍が欧米に大きな影響を与えたという[149]。

一冊目は、1920年代のアメリカで出版されたベアード・T・スポールディング(英語版)の『師たちの生活』(邦題は『ヒマラヤ聖者の生活探求』・『ヒマラヤ聖者への道』)[† 26]で、インドで秘儀伝授を受けたというイエス・キリストが登場する空想めいた話の内容は、吉永によればインド思想ではなく〈神智学〉を柱とした当時のアメリカの大衆的オカルティズムの思想である[150][151][† 27]。二冊目は、1956年のロンドンで出版された自称チベット人のロブサン・ランパの『第三の眼』で、チベットのラサで幼年時代を過ごし、僧になり第三の眼を開眼したイギリスへの亡命者という体裁の回想録は、実際はイギリス人で内容は〈神智学〉を踏襲したものである[152]。

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940713 No.7440

>>7439

歴史観・世界観・人間観

歴史観

ブラヴァツキーは、すべての物は「7つの組」になっており、すべての天体も6つの天体を伴っているとし、地球にも6つの精妙な相棒が存在しているとした[71]。それは意識状態に対応した6つの物質状態に分かれ、地球と合体しており、1から4番まで密度が増すと同時に霊性が減少し、4から7番では精妙さと霊性を取り戻し、最初の状態に戻るという[71]。この天球進化に7つの段階を経て進化するモナド(ここでは一種の生命素)の概念を重ね合わせたものが、「周期(ラウンド)(英語版)」(回期、循環期とも)という宇宙暦である[71]。現在の地球は、地球連鎖の第4周期、第4天球期という最も物質的な期間であるという[93]。モナドは各周期ごとに第4天球期に「人間」の形になり、現在の人類のモナドは、前の3周期で鉱物界、植物界、動物界を巡ってきたのだという[93]。

この現人類の進化について、『シークレット・ドクトリン』の「人類創世記」で「根源人種」として展開されている[71]。ブラヴァツキーは、7つの「根源人種(英語版)」(根幹人種、根人種とも)があるはずであるとし、根源人種をさらに7つの亜人種に、亜人種をさらに7つの分種(または族種)に分けた[93]。

第一根源人種 - 地球が太陽神に知恵を持つ霊的生命体を授けてくれるよう願い、太陽神が七大天使に命じて創らせた。肉体を持たないアストラル体の存在で、出芽によって増え、全周期を通じて存在する永遠の大陸、不可視の非物質的領域である「不滅の聖地」に存在[153][93][154]。

第二根源人種 - 肉体を持たずエーテル体の存在で、分裂で増え、北極地方にあったハイパーボリア大陸[† 28]に存在し、その痕跡がグリーンランドにあるという[93][154][159]。

第三根源人種 - 猿のような姿で両性具有・卵生・四本の手と頭部の後ろに目が一つある人種。レムリア大陸に存在[159]。初めて肉体を持つようになり性が分化したことで、性の快楽におぼれて獣とも交わって半獣半人を生み、これにより「堕落」と「楽園追放」が起こったという[93]。

第四根源人種 - 現代人より体が大きく知能の高い優れた人間。レムリア大陸は7千年ほど前に崩壊し、その後大西洋に隆起したアトランティス大陸に生まれた[159]。

第五根源人種 - アトランティス王国の生き残りであるマハトマ、「聖なる教師」たちが選んで進化させ、導いて文明を築かせた、現代の文明を主導する支配人種「アーリア人」[† 29][161][93]。いずれ天変地異が相次ぎ、アメリカ大陸が陥没して滅亡する[162]。

第六根源人種 - パーターラ人。北アメリカ大陸で生まれつつあり、いずれ誕生する大陸で進化する[162]。

第七根源人種 - 完全な霊性の時代に移行し、進化が終了する[162]。

岩本は、つまり現代ではアーリア人こそ「霊的進化」の頂点に立つということである、と説明している[93]。また、この第5期においてもっとも偉大な人物は、秘儀伝授を受けたブッダであり、現代の人間を永遠の真理である「神智」に立ち戻らせるためにやってきたとし、彼は発達した心理能力、すべての前世の知識、限りない善意と叡智など第6期の人間の資質を備えているとした[88]。

大田俊寛は、〈神智学〉の人間の歴史観は、「霊的進化」と「物質的進化」という二種類の進化のラインの交錯が繰り返されるという霊性進化論(英語版)であり、霊的進化に従えば神的存在に近づき、物質進化に導かれれば、悪魔や怪物を含む動物的存在に堕ちていくと解説している[163]。霊的進化の導き手が「大師」「大霊」「天使」といった高級霊で、これに対し物質進化をもくろみ高級霊たちを邪魔する悪しき低級霊(「悪魔」「動物霊」と呼ばれたもの)が存在するとされたと述べている[164]。

また、ブラヴァツキーの「物質文明から精神文明への大転換」が起こるという予言は、ニューエイジやポストモダンの諸思想に広範な影響を与えたという[165]。

世界観・人間観

具体的には、 世界を物質界・アストラル界・メンタル界(下位天界・上位天界)・ブッディ界(または直観界)・霊的界・ モナド界・神的界の七次元の「界層(英語版)」に分類する[21]。それと同時に、世界に対応する形で身体性を体・魂・霊の三元に分類し、さらに高我(エゴ)に対して低我を肉体・エーテル体(生気体)・アストラル体(星気体)・メンタル体・コーザル体の五次元の「霊的身体(英語版)」に類型分けする[21]。

陰謀論

ブラヴァツキーの死後、「グレート・ホワイト・ブラザーフッド」に対し、悪の秘密結社「ダーク・ブラザーフッド(闇の同胞団)」(ブラックロッジ)が存在し、マハトマと神智学協会の活動を妨害するために暗躍しているという陰謀論が一部で唱えられるようになった[166]。

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940713 No.7441

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>>7440

_後世への大きな影響

ブラヴァツキーに始まる〈神智学〉の影響は非常に広範囲に及び、現代まで続いている。大田俊寛は、〈神智学〉という存在が功罪を含めてきわめて大きな影響力をふるっているにもかかわらず、現在ではほとんど認知されておらず、客観的な立場から書かれた日本語の研究書は、まだ一冊もないのではないだろうかと述べている[143]。

2004年出版のニコラス・グドリック=クラーク(英語版)の書籍では、その影響は次のように述べられている[167]。

神智学協会からの分派がインドにも西洋にも多く残されたこと。

のちの協会の歴史のなかで、アニー・ベサントが協会会長時代、インド国民会議派の1917年の会議の議長を務めたことで、インドの国民意識の発展に大きな貢献を残したこと。またガンディーとネルーがともにインドの宗教的・哲学的遺産を再発見するために〈神智学〉にひきつけられたこと[† 30]。

西欧では、現代のオカルトのリバイバルに単独の最も重要な要因になったこと。

西欧での心霊主義の流行を宇宙論、近代人類学、進化理論を人間の霊的発展とむすびつけて、一貫した教義を打ち立てたこと。

西欧神秘主義の古くからの源泉を、西欧が植民地支配によって接触できたアジア宗教の用語によって再解釈しグローバル化したこと。

1893年のシカゴ万国宗教会議(英語版)で最初の試みが行われた、比較宗教研究に道をつけたこと。

霊的発展の際の意識を重視することで、唯物論や機械的自然観と対決し、伝統的なヘルメス哲学の大宇宙と小宇宙の交流図式にモダンかつダイナミックな面を導入したこと。その文化的な影響は非常に広く、近代芸術、量子物理学、それに最近のニューエイジ宗教などに及んでいると言われる。

杉本良男は、神智学協会の直接の影響下に育って分派していったジッドゥ・クリシュナムルティ、ルドルフ・シュタイナー、アリス・ベイリー、その直接の影響を強く受けたガイ・バラード(英語版)(アイ・アム運動)のほか、若干距離をとっていたゲオルギイ・グルジエフとピョートル・ウスペンスキー、神智学協会創設の年に生まれてその使命をうけついだと自称したアレイスター・クロウリー、ティモシー・リアリーなどの高名な近代の神秘主義者は、いずれも直接間接にブラヴァツキーの影響下にあると述べている[170]。

〈神智学〉は「ニューエイジ」運動に影響を与えた[123]。大田俊寛によると、〈神智学〉で発展した「霊の進化」の理論は、1960年代に入るとアメリカ西海岸が中心になり、「ニューエイジ」の思想として大衆的なブームとなり、その「死生観」(霊的進化と転生)は世界中に広く普及した。ニューエイジでは、ブラヴァツキーが唱えた現在の「物質的文明から霊的文明への転換」という理論を受け継ぎ、「霊的革命論」をその根幹とし、ヨーガやドラッグで霊性を高めることが目指された。そして霊的文明への転換という考えは、現在の物質文明は遠からず破局を迎えるという一種の「終末論」を必然的に引き寄せることになった[171]。

近年では、ニューエイジ運動などへの関心から遡って、神智学協会とくに始祖としてのブラヴァツキーへの評価が高まっている[22]。岩本道人は、『シークレット・ドクトリン』は思想的影響から見て計り知れない大著であるが、そこでブラヴァツキーが用いた「不可視の超越者」の介入と想像力の無限の活用という手段こそ、20世紀のポップ・オカルティズム(大衆的オカルティズム)の氾濫の素地をなしたことも見逃されてはならない、と述べている[93]。

大田俊寛の指摘するところでは、チャネラー・心霊治療家のエドガー・ケイシー、UFO研究・UFO信仰のジョージ・アダムスキー、マヤ暦に神秘的な意味を求め、宇宙的存在(宇宙人)のビームの影響で地球に文明がもたらされたとするホゼ・アグエイアス、爬虫類人類による陰謀論を唱えたデイビッド・アイクといったアメリカやイギリスのポップ・オカルティズムの旗手にも〈神智学〉の影響が見てとれる[172]。神智学協会の〈神智学〉は下火になったが、その思想体系は大量消費社会が実現されたアメリカで「ポップ・オカルティズム」へと形を変え、ニューエイジ文化の一部となったと見ることができる[7]。

〈神智学〉は、西洋占星術の復興に大きく貢献した[173]。西洋で占星術は、科学の台頭で時代遅れの物笑いの種になっており、古代からの名声を完全に失っていた[79]。英語圏の国々で〈神智学〉が登場し、それまで馬鹿にされたり無視されていたオカルト要素をその体系に取り入れたことで、他のオカルト関連の話題とともに後期ヴィクトリア朝の教養人たちの興味を集め、オカルトへの関心を呼び覚ました[173][79]。19世紀イギリスの代表的占星術師でブラヴァツキーの腹心のひとりアラン・レオ(英語版)(W・F・アレン)やハーモニクスのジョン・アディ(英語版)など神智学協会の会員であった占星術師は多い[173][† 31]。サビアン占星術もアメリカ神智学協会から出てきた新理論である[173]。

西洋占星術復興の立役者は、神智学協会の占星術師アラン・レオとW・R・オールド[† 32]である[79]。彼らは、占星術を古臭い陳腐な予言の手段から〈神智学〉の関連要素に引き上げ、秘教的関心における有用なツールにし、〈神智学〉と占星術を融合させた[79][174]。アランは20世紀初の占星術の広告塔になり、雑誌を利用して自らの占星術を普及し、大衆化し、もうかる商売に仕立てた[79][174]。アランの教本は、近代占星術の初期の研究家ほとんどすべてが学んでおり、後世に大きな影響を与えている[79][174]。

杉本良男は、ニューエイジに関連する興味の高まりの一方、神智学協会の影響を受けたスリランカの仏教復興(オルコット、アナガーリカ・ダルマパーラ)、インドの国民会議議長(アニー・ベサント)、南インドの古典舞踊再編(ルクミニー・デーヴィ・アルンデール(英語版)[† 33])などの、南アジアのナショナリズムに関連する歴史的な意義は、少数の専門家をのぞけば現在ではほとんど省みられなくなっていると述べている[22]。

大田俊寛は〈神智学〉が果たした歴史的役割についての覚書きで、上記と重複しない内容として、次の点を挙げている[143]。

オカルト人種主義。大田は、〈神智学〉の霊的進化論はしばしば人種論とも結びいたとしている。オカルト的な人種主義は、ナチズムの人種論の先駆を為したことが指摘されていると述べている[143]。〈神智学〉の世界秩序と人類への友愛の衝動は、ナショナリズムに変貌してきた[175]。レイチェル・ストームは、一部の神智学徒は人種的憎悪をあおったとして非難されているが、〈神智学〉に彩られたアリオゾフィ(英語版)はナチスの宣伝に好都合な材料となっており、アリス・ベイリーの反ユダヤ的言説にみられるように、神智学徒の一部にも責任があると述べている[176] 。同時に神智学徒はナチスに迫害されていた[176]。

ユネスコの創設を促したこと。大田は、〈神智学〉の文化観や教育観がラビンドラナート・タゴールやマリア・モンテッソーリを通じてユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の創設を促したと言われる、と述べている[143]。

岩間浩は、ユネスコ創設の源流における「重要人物」として、新教育運動の連帯組織の創造をリードした神智学徒ベアトリス・エンソアを取り上げている[177]。また、ブラヴァツキーが『神智学の鍵』で、子どもに自分で考えさせること、相互扶助の精神、独立心、推論する力の育成、機械的暗記を最小限にして内的感覚や潜在能力を発達させること、子どもを個人として尊重すること、知的・精神的に自由で、偏見のない、利己心を脱した自由な男女を育成するなどの教育の理想を語っており、この望みはアニー・ベサントの時代に実現に移されたと述べている[178]。ベサントは教育による社会改造に深い関心を持った人物で、ベナレスに中央ヒンドゥ・カレッジ(英語版)を設立するなどインドの教育にも寄与した[179]。

幼児教育者でモンテッソーリ法という教育法を提唱したマリア・モンテッソーリは、現代の日本でも有名な人物であるが、アニー・ベサントはモンテッソーリ法を高く評価して両者は深い友情を結んだ[180]。ベサントの後継者ジョージ・アルンデール(英語版)はモンテッソーリをインドに招聘し、彼女は第二次世界大戦のインドを離れてインド各地にモンテッソーリ法を広め、『吸収する心』などの多数の著作を書き、乳幼児の観察とそれによる教育法の改善を行った[181]。岩間は、このときモンテッソーリが創出した「コズミック理論」は、ブラヴァツキーの宇宙論に影響を受けたものであろうと述べている[180]。

また、人智学を提唱したシュタイナーも独自の教育法で知られているが、岩間は総合的方法で学校運営を行ったエンソアより、むしろ神智学協会を離脱したシュタイナーの学校に〈神智学〉独特な生活の反映を見ることができると述べている[182]。同じく神智学協会を離脱したクリシュナムルティの学校でも、自己訓練を通しての自由が養育されている[182]。他にも神智学協会は数々の影響を教育界に及ぼしたという[182]。

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940713 No.7442

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>>7441

フェミニズム、優生学とも関りがある。〈神智学〉は人類の宇宙的進化において女性と男性が同等に重要であると説き、女性が宗教指導者になることはキリスト教ではありえなかったが、〈神智学〉の社会では可能であったため、神智学協会には多くの女性が参加し、その大部分がフェミニストだった[183]。また優生思想は女性の権利と社会における地位の向上を主張するためにしばしば用いられており(優生学フェミニズム(英語版))、よりふさわしい、優良な人間を生み出すことを目指す優生運動と神智学協会には重なる部分があり、イギリスでは1907年に優生学教育協会(EES)が設立されたが、 女優・フェミニスト・黄金の夜明け団の指導者フローレンス・ファー(英語版)とフェミニスト・作家・神智学徒のフランシス・スウィニー(英語版)が初期メンバーだった[183]。優生運動に参加した女性神智学徒達は、男性と結び付けられることが多かった「超人」や天才に関する一般的な考えを覆し、人類の進化は「超女性」によってもたらされるだろうと語った[183]。この「超女性」の考えは、女性を次の世代を生む母親で次世代の導き手と考える女性性の概念に基づいているが、女神カーリーやイシス、アマゾネスと比較されており、「非西洋」の宗教思想を取り込んだ神智学協会の影響抜きには考えにくい[183]。彼女たちは、女神のような新しく開発されたフェミニストの偶像、国家やジェンダーの優越性に関する現代的な考え方、そして宗教を組み合わせ、宗教、国家、セクシュアリティの言説の中で女性の主体性を取り戻そうと試み、続く20世紀の変革とフェミニズムの世界的台頭のきっかけとなった[183]。

芸術においては、一時期神智学協会に属した詩人ウィリアム・バトラー・イェイツ[184]や、抽象絵画の最初期の画家たちワシリー・カンディンスキー[185]、ピエト・モンドリアン[186]、ヒルマ・アフ・クリント、作曲家のアレクサンドル・スクリャービンなどに影響を与えた[12]。

小説では、宇宙的恐怖(コズミック・ホラー)などと呼ばれるクトゥルフ神話を題材にしたアメリカの小説家H・P・ラヴクラフトにも影響を与えた[187]。魂や心霊を象徴として描き、霊界を描写したという童話『青い鳥』のベルギーの作家メーテルリンクもブラヴァツキーの信奉者であった[188]。アメリカの独自性を感じさせる初めての国民的童話である、ライマン・フランク・ボームの『オズの魔法使い』には、科学とオカルト(魔術)が一体となった〈神智学〉の思想が深く浸透している[189][† 34]。イギリスの作家D・H・ロレンスも〈神智学〉へ関心を寄せ、その作品に登場させている[190]。

ロシアでは19世紀末から20世紀初頭にかけて、オカルト小説が「主流の文学」において復権したが、この大衆的なオカルト小説には〈神智学〉の「秘教的東洋というイメージ」がより明確に見られた。革命前のロシア最大のオカルト小説作家ヴェーラ・クリジャノフスカヤ(ロシア語版)(1857年 - 1924年)は、長編『ある惑星の死』(Смерть планеты、1911年)、『立法者たち』(Законодатели、1916年)で、滅亡の迫った地球でキリスト教信仰を守りながら悪と戦うインド人マギたちの活躍、および別の惑星での新世界建設の物語を描いている。ロシア研究者の久野康彦は、この2作品は「〈神智学〉が本来持つ西欧の近代文明批判の観点を継承しながらも、オカルトと科学の結合、宇宙的な進化のビジョンなどに独自の文学的ファンタジー」を見せており、思想的には浅いながらも、奔放な想像力でキッチュな世界を具現化しており、その「オカルトと科学の結合や宇宙的な進化のビジョンは、後のソビエトの精神風土を先取りしている」と指摘している[17][191][192]。

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940713 No.7443

>>7442

〈神智学〉運動と日本

類似宗教学者(自称)の吉永進一は、日本の霊性文化における〈神智学〉の重要度はアメリカに比べると1960年代までは低く、明治期から紹介されたにもかかわらず、当初は常に忘却されていたと述べている[193]。神智学協会の活動としては、明治22年にはオルコットが来日し、文献が翻訳され神智学ロッジが作られたが、評価は一部の仏教青年に限られ、仏教復興運動が軌道に乗ると、〈神智学〉は忘れられた[81]。

編集者の松岡正剛は、鈴木大拙・今東光・川端康成らになにがしかの灯火をともしたと指摘している[12]。また、日本の神智学協会運動は、三浦関造の竜王会が継承していると主張されている[194]。一般に広まったのは、「精神世界」の流行や「第三次宗教ブーム」が見られた「1970年代から80年代」以降である[83]。

樫尾直樹は、日本では明治維新以降、欧米に始まる心霊主義や〈神智学〉の影響を強く受けながら霊学や霊術の研究・運動が行われ、それが新宗教の教義や実践、新霊性運動(精神世界やスピリチュアル)に継承されていると述べている[195]。霊学では、神道天行居の友清歓真などが例に挙げられる[196]。大正期には、大本や太霊道といった団体が影響を受け、鎌田東二は霊学や霊術の歴史における〈神智学〉受容のハイライトであると述べている[197][† 35]。また、京都の鞍馬寺を本山とし、650万年前に金星から降り立った護法魔王尊を崇める鞍馬弘教(1947年 - )も〈神智学〉の系統である[198][† 36]。

〈神智学〉はヨーガを含めた「精神世界ブーム」(現在の「スピリチュアル」)の重要な一角を占めており、グノーシス主義等を研究している宗教学者大田俊寛の指摘するところでは、幸福の科学、オウム真理教、GLA、本山博の玉光神社、桐山靖雄の阿含宗などの日本の新宗教にも、〈神智学〉の唱えた霊的進化論の隠然たる影響が見てとれる[199]。幸福の科学への影響については、沼田健哉、塚田穂高、いのうえせつこなども指摘している[200][201][202][203]。

大田によると、オウム真理教の最終目標は、社会のマジョリティを「動物化した人々」から霊的に進化した「超人類」へと入れ替えるという「人類の種の入れ替え」であり、「霊を退化させ、堕落してゆく人々を粛清するという殺戮計画」が隠れて計画・実行されたが、この「人類の種の入れ替え」の観念は、〈神智学〉、その影響を受けたニューエイジ、さらに影響を受けた阿含宗を始めとする日本の新宗教で提唱され、流布されていた[204]。また「ヨーガや仏教の修行による霊の進化」という〈神智学〉の理論が、オウム真理教の教義の原型を形成したという[171]。樫尾直樹は、オウム真理教の世界観・身体観は、用語だけでなくその構えや骨格において、〈神智学〉の強い影響があると指摘している[21]。教祖の麻原彰晃が〈神智学〉の原典を読んでそこから教義を直接構成したのか、あるいは〈神智学〉に影響を受けたGLAなどの新宗教の経典・出版物やオカルト雑誌から間接的に影響を受けたのかは、1996年時点では定かではなく、解明が必要とされている[21]。

また大田は、日本の心霊主義においても浅野和三郎が〈神智学〉を取り入れており、スピリチュアル・カウンセラーを名乗る江原啓之の言う「人生の地図」も、その骨格は〈神智学〉だと思われると述べている[143]。

日本では一昔前に「シュタイナー教育」が流行したこともあり、人文系の研究者には〈神智学〉の系譜の代表的な思想家のひとりであるルドルフ・シュタイナーの信奉者がかなり多く存在しているが、シュタイナーの思想や世界観は明確に理解されていないと、大田は指摘している。オウム真理教には多くの大学生が入信したが、これには日本の大学でニューエイジやポストモダンの思想が蔓延していたことが大きな要因になっていたという[165]。

評価・批判

ブラヴァツキーの最初の著作『ヴェールを剥がれたイシス』は、大学教授やジャーナリストからは見向きもされず、比較宗教学の祖でブラヴァツキー同様すべての宗教には一つの共通の基盤があると考える傾向のあったマックス・ミュラーからも、容赦ない批判を受けた[119]。しかし、生活にゆとりのある中産階級のオカルティズム愛好者や独学の心霊研究家たちの心を動かし、千部印刷された本は数週間で品切れになった[119]。

ブラヴァツキーの精力的で喧嘩好きな性格や、神秘を演出するためのちょっとした手品、思想を彩る作り話、演出された態度、学問的精密さと「科学的」資料が重視された時代に著作の典拠をセンセーショナルに偽るといったやり方は反発を招いた[205]。神智学協会に始まる〈神智学〉を分析、批判したルネ・ゲノンは、「〈神智学〉は東洋の正当な思想を代表するものでは全くない」と結論付けており、フレデリック・ルノワールもこれに賛同している(ただしルノワールは、ゲノンの批判の中には、仏教に関する誤った理解に基づく根拠のない批判や、公平ではない批判も含まれていたことも同時に指摘している)[206]。

ルノワールは、「仏教はそこでは、根本的に西洋的な、わけてもキリスト教的な伝統の刻印を残したままの教義を表現するための、一種の口実でしかなかった」と述べ、神智学協会が主導した企てを「自身の教義の本体や自身の神話をでっちあげるために仏教を横取りする」意図的な同化の企てであると批判している[207]。また、〈神智学〉の魅力は「流行と異国趣味の活用」「寛容でドグマなき宗教」「チベットとオカルト的力」などにあり、 転生の理論は仏教由来ではなく西洋の進歩主義の投影であり、その教義はブリコラージュであるとし、〈神智学〉の内実は西洋オカルティズムと東洋宗教の寄せ集めであると指摘した[208]。

奇妙な歴史観・進化の解釈、人類進化の先頭に立つのは「アーリア」民族で、オーストラリア・アフリカの原住民は「脳の狭い」人間の名残でアーリア人より遙かに劣るとするような人種差別的見解などが評価を下げているが、ニューエイジとその周辺を研究したセオドア・ローザクは、ブラヴァツキーの思想には歴然としたあらゆる欠陥があり、批判が山積みにされているが、彼女のオカルト諸派の教えに対する直感は鋭く、主題にふさわしいスケールの仕事をし、その才能は際立っていると評価している[209]。

彼女のぶかっこうな形而上学的思弁を評価できないにしても、その〈神智学〉は19世紀思想中で最も冒険的で興味ある体系であり、少なくとも超越的パーソナリティに関する心理学(トランスパーソナル心理学)においては創始者と見るべきであると述べている[210]。一方、大田俊寛は、〈神智学〉を一つの始まりとする、輪廻転生を通した「霊魂の進化」という思想は、往々にして純然たる誇大妄想の体系に帰着してしまい、霊的なレベルを根拠とする階級意識・差別意識、被害妄想の昂進、偽史の膨張などの問題が見られると指摘している[211]。

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940713 No.7444

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>>7441

>ユネスコの創設を促したこと

ユネスコの初代事務局長は優生思想を持っていた人物だった

ジュリアン・ハクスリー

https://ja.wikipedia.org/wiki/ジュリアン・ハクスリー

サー・ジュリアン・ソレル・ハクスリー(Sir Julian Sorell Huxley、1887年6月22日 - 1975年2月14日)は、イギリスの進化生物学者、ヒューマニスト、国際間協力の推進者。

自然選択説を強力に擁護し20世紀中盤の 総合進化説の形成を主導した。1935年から1942年までロンドン動物学会の事務局長、1946年から1948年までユネスコの初代事務局長を勤めた。世界自然保護基金の創設メンバーでもある。

ハクスリーは書籍や記事、ラジオ、テレビで科学啓蒙活動を続けたことでよく知られていた。1953年にユネスコから科学普及の功績に対してカリンガ賞を贈られた。1956年には王立協会からダーウィンメダルを受賞した。ダーウィンとウォレスが自然選択説を発表してからちょうど100年後の1958年にはロンドン・リンネ学会からダーウィン=ウォレス・メダルが贈られ、同年ナイトに叙された。1959年に人口問題に関する家族計画分野でラスカー財団から特別賞を受賞した。

生涯

ジュリアン・ハクスリーはイギリスの著名なハクスリー一族の出身で、彼の弟には作家のオルダス・ハクスリー、異母弟にはノーベル賞受賞者のアンドリュー・ハクスリーがいる。彼の父は作家、編集者のレオナルド・ハクスリーで、父方の祖父は チャールズ・ダーウィンの友人であり有力な支援者であったトマス・ヘンリー・ハクスリーである。母方の祖父は人文学者のトム・アーノルド、大叔父には詩人のマシュー・アーノルドがいる。曾祖父は、教育者のトーマス・アーノルドである。

・1938年、王立協会フェローに選出された[12]。

老年期

ハクスリーは生涯にわたって国際主義者であり、教育に関心を持っていた。国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の創設に関わり、1946年に初代事務局長に就任した。憲章によって6年と決まっていた任期はアメリカの代表団の圧力で2年に引き下げられた[14]。 理由は明らかになっていないが、彼の左翼的な傾向とヒューマニズムが要因とされている。実際には、ハクスリーの非宗教的な立場は幅広い国際的な利益と交流にとってプラスに作用した。彼の事務局長としての活動は精力的で実りが多かったと考えられている。2週間でユネスコの理念と目的に関する60ページの冊子を書き上げ、ユネスコの公文書として印刷して配布した。しかし彼の科学的ヒューマニズムの立場は内心的な反対者を多く生み出した。人口抑制のための(戦争と飢饉回避のための)産児制限というアイディアは、コミンテルン / コミンフォルムとカトリック教会から憎悪された。

ユネスコは最初の数年で、ダイナミックでそれまでにない新たな役割を持つようになった。ハクスリー以来それは巨大で、官僚的だが安定した組織となった[15][16]。 パリで過ごした年月の個人的と社会的な側面は、妻によって描写されている[17]。 ハクスリーの国際主義と環境保護への関心はビクター・スターラン、ピーター・スコット卿、マックス・ニコルソン、ガイ・マウントフォートらと共に自然保護を目的とした国際的な基金調達グループとして世界野生生物基金(現在の世界自然保護基金)の設立へと導いた。

もう一つの戦後の活動は、ソビエト連邦の政治的な科学者トロフィム・ルイセンコへの攻撃であった。ルイセンコはラマルキズムを支持し、農業に関する非科学的な宣言をしてロシアの正統的な遺伝学を破壊した。そして本物の科学者をあるべき地位から追放した。1940年に優れた植物遺伝学者ニコライ・ヴァヴィロフは逮捕され、後任としてルイセンコは遺伝学研究所の所長に就いた。ヴァヴィロフは裁判で「サボタージュ」の罪に問われ、1941年に死刑判決を受けた。執行猶予中の1943年に栄養失調でヴィヴァロフは刑務所の中で死んだ。彼の逮捕はルイセンコの策略が原因であった。ルイセンコ主義は確立された遺伝学を否定しただけでなく、ダーウィンの原理に基づく農作物の人為選択を止めた。これはソビエトの農業システムによる慢性的な飢饉に繋がったかも知れない。ハクスリーは当初は反共主義者ではなかった。しかしスターリンによるルイセンコ主義の断固とした採用は、彼の寛容な態度を終わらせた[18]。 ルイセンコは精神病院で最後の日々を送り、1955年にヴィヴァロフは裁判で名誉を回復した。

1950年代に、ハクスリーはフランスのイエズス会士で古生物学者のピエール・テイヤール・ド・シャルダンの仕事を英語圏に紹介する役割を果たした。ド・シャルダンの考えはカトリックのヒエラルキーによって不当に扱われていた。イエズス会は彼の考えの公表を禁じたが、彼の死後、姪らが彼の手記の出版の準備を行った。ハクスリーは『現象としての人間(1959)』の序文を書き、合理主義者の友人たちから厳しく批判された。二人とも進化を信じていたが、ハクスリーが無神論者であったのに対してド・シャルダンが理神論者であったことは、進化に対する二人の解釈が根本的に異なっていたことを示している。

1975年に87歳でハクスリーが死去すると、タンガニーカの国立公園理事ジョン・オーウェンはこう述べた。「ハクスリーは世界で最も偉大な人の一人だった……彼は初期のアフリカの野生生物の保護に重要な役割を果たした。(そして)彼は国際社会に広い影響を与えようと奮闘した。」

ハクスリーの国際的、ヒューマニズム的な影響に加えて、彼の研究の貢献はエソロジー、発生学、遺伝学、人類学、そして初期の細胞生物学分野のいくらかで進化をカバーした。この分野での彼の卓越性と、特に現代総合説の成立への貢献がダーウィン・メダル(1956)とダーウィン=ウォレス・メダル(1958)の受賞に繋がった。

ハクスリーはノーベル賞を受賞したコンラート・ローレンツの友人であり師だった。そして他の人々を教え、励ました。全体的に言えば、彼は有名な祖父よりもいっそうオールラウンドなナチュラリストで、自然選択説の承認と受容に大きな貢献をした。彼の視点は国際的で、いくぶん理想主義的だった。

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オルダス・ハクスリー

>>20311863

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940713 No.7445

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>>7444

世俗的ヒューマニズム

ハクスリーのヒューマニズムは、人類は自身の運命をその手に握っているという見解から導かれた。ハクスリーは不可知論を促進したが、倫理の基礎を供給するのもとしてヒューマニズムを選んだ。

人の進化の転換点は…[言語の]使用を獲得したときだ…人の発展は潜在的に開かれている…人は進化の新しい方法を切り開いた…伝統として体系立った経験の伝達、それは…変化の原因としての自動的な自然選択を大きく乗り越える

・ジュリアン・ハクスリーと祖父トマスは共に進化と倫理の結びつきの可能性に関してロマネスレクチャーを担当した。ハクスリーはイギリスでの合理主義と世俗的ヒューマニズム運動と密接な関わりを持っていた。1927年から死去するまで合理主義者出版連盟の名誉会員であり、1963年にイギリスヒューマニスト協会の会長となり、1965年にA.J.エイヤーが引きついだ。1962年にアメリカヒューマニスト協会からヒューマニストオブザイヤー賞を受賞した。また国際ヒューマニスト倫理同盟(International Humanist and Ethical Union)の創設に関わり、ジョン・デューイ、アルベルト・アインシュタイン、トーマス・マンらとニューヨークのファーストヒューマニスト協会の創設理事を務めた。

宗教自然主義

ハクスリーは手紙で次のように書いた。

分離した超自然的な世界はない。全ての現象は進化の自然なプロセスの一つだ。科学と宗教の間には基本的な断裂がない…宗教思考の思い切った再編は今や必要だ。神中心から進化中心へ。私はそう信じている。」これは宗教自然主義と言うこともできる。「多くの人は神仮説の放棄が全ての宗教と全ての道徳的拘束の放棄のことだと思っている。それはただ真実ではない。しかし時代遅れのイデオロギー的知識の断片を投げ捨てるならその位置を占める何かを作らねばならないと言うことだ。

優生思想と人種

ハクスリーはイギリス優生学協会(英語版)の著名な会員であり、1937-44年に副会長、1959-62年に会長を務めた。彼は優生学が人の遺伝子プールから好ましくない変異を取り除くのに重要だと考えた。彼は少なくとも第二次世界大戦の間、人種は生物学的に意味のない概念で、人間へそれを適用することは非常に矛盾していると考えた。1920年代と30年代のもっとも極端なタイプの優生主義の率直な批判者だった。それでも彼は優生運動の重鎮であった。1936年と1962年の二回、ゴルトン記念講演を行った。著作の中で何度か次のフレーズを用いた:「農作物の生殖質の管理のための知恵を疑う人はいない。それならなぜ人に同じ概念を用いないのか?」。ハクスリーは当時、社会の最下層の人々が遺伝的に劣っていると考えていた知識人の一人だった。

「 最下層の人々はあまりに早く生殖しすぎる。したがって…自然選択の最後のチェックの除去によって子供があまりに簡単につくられたり生き残ったりしないように、彼らはあまりに簡単に福祉や病院での治療にアクセスすべきではない。長期の失業は不妊の基礎でなければならない。 」

ここでは一般の労働者階級ではなくて、「もっとも退廃したわずかな人々の仮想的除去」を指していた。この見解は当時は珍しくなく、ウィリアム・アーネスト・キャッスル (William Ernest Castle)、C.B.ダヴェンポート、H.J.マラーらにも共有されていた。公衆衛生と人種政策に関して次のように書いた。

[文明化された社会は]人の生殖の管理と人口のコントロールのために、少なくとも人種的な素質の悪化を防ぐために、十分な方策を発明して実施しない限り、人類は崩壊する運命にある… 」

そして生物学的手法は社会政策を科学的なものにするための主要な道具でなければならないと述べた。Duvallの見解では「彼の意見はイギリスのリベラルな知的エリートの間で容認できる範囲内だった。彼はネイチャーと産児制限や「自発的な」不妊への熱意を共有していた」。中央集権的社会、経済計画への熱意と産業主義的な価値観への反対は二度の大戦の間の左翼主義的な思想家に共通していた。人生の終わり頃、ハクスリーはこの考えがどれほど嫌われているかを認識した。二巻組の自伝ではインデックスに優生学もゴルトンもない。そしてこのテーマは訃報と伝記からも省かれた。例外はイギリス優生学協会によって手配された会議の議事録である。

1930年代にヨーロッパでファシズムが高まったことで、民俗学者アルフレッド・ハッドン (en)、昆虫学者アレクサンダー・カール=サンダース (en)、科学史家チャールズ・シンガー (en) とともに『We Europeans』[注釈 1]を書くよう依頼された。ハクスリーは「人種」という単語が「民族集団」におきかえられるよう主張した。第二次大戦の後、人種問題に関するユネスコ宣言のために尽力した。

「 人種は、生物学的視点から、種ホモ・サピエンスを構成している人類集団の一つと定義できるかもしれない。…今、科学者は現在のところ認識されている人類のグループについて何を言うべきだろうか?人種は異なる人類学者によって異なる分類ができ、また分類されてきた。しかし現在、大部分の人類学者は現代人を主要な次のように分けることに同意する。モンゴロイド集団、ネグロイド集団、コーカソイド集団…カトリック、プロテスタント、ムスリム、ユダヤは人種ではない… 」

戦争後の時代にあって、優生的な概念が大量殺人を引き起こしたという認識の後で、ハクスリー(1957)は人類が科学とテクノロジー、そしておそらく優生学も含めて、そしてまた重要なことに、社会環境の改善を通して自身を向上させなければならないという見解を表すために「トランスヒューマニズム」の用語を提案した。

用語の提案

ハクスリーは新たな用語を作り出す才能を持っていた。これらは今日でも重要である:

Clade:クレード (1957)

Cline:クライン (1938)

Grade:グレード (1959)

Ethnic group:民族集団 (1936:「人種」に代わる語として)

Morph:モーフ (1942: 後により厳密に定義されポリモーフィズム/多型となった。)

Ritualization:儀式化 (1914: 鳥類の求愛行動などから)

Transhumanism:トランスヒューマニズム (1957)

Ummmユネスコとトランスヒューマニズムに、こんなにも関わりがあるとは….

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940713 No.7446

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>>7445

>神智学

>優生学

>トランスヒューマニズム

攻殻機動隊のような世界は、支配層が理想とする世界の青写真みたいなものなのかもしれない

攻殻機動隊

https://ja.wikipedia.org/wiki/攻殻機動隊

『攻殻機動隊』(こうかくきどうたい、英語タイトル:GHOST IN THE SHELL)は、士郎正宗による漫画作品。ジャンルとしてはSF(パラレルワールド含む)に属する。

この作品を原作とする劇場用アニメ映画が1995年に公開され、またテレビアニメ作品が2002年に公開された。士郎正宗の原作版と押井守の映画版、神山健治の『S.A.C.』、黄瀬和哉と冲方丁の『ARISE』では、時代設定や主人公草薙素子のキャラクター設定、ストーリーを始め多くの相違点があり、それぞれが原作を核とした別作品といえる。その他、小説やゲームなどの派生作品が展開されている。

あらすじ

時は21世紀、第3次核大戦とアジアが勝利した第4次非核大戦を経て、世界は「地球統一ブロック」となり、科学技術が飛躍的に高度化した日本が舞台。その中でマイクロマシン技術(作中ではマイクロマシニングと表記されている)を使用して脳の神経ネットに素子(デバイス)を直接接続する電脳化技術や、義手・義足にロボット技術を付加した発展系であるサイボーグ(義体化)技術が発展、普及した。結果、多くの人間が電脳によってインターネットに直接アクセスできる時代が到来した。生身の人間、電脳化した人間、サイボーグ、アンドロイドが混在する社会の中で、テロや暗殺、汚職などの犯罪を事前に察知してその被害を最小限に抑える内務省直属の攻性公安警察組織「公安9課」(通称「攻殻機動隊」)の活動を描いた物語。作中の年表は別項、攻殻機動隊シリーズの年表を参照。

ストーリースタイル

SFを主体とした中、ネットワークや義体化(脳と脊髄以外の器官を人工器官とマイクロマシンを用いたボディに移植した人間)した人間との係わり合い、そして人間とアンドロイドやサイボーグ、AIなどとの対峙で浮き彫りにされる、人間の人間たる所以はどこにあるのかという疑問[注 5](詳しくは後述、「技術」節の「ゴースト」を参照)などを、独自のスタイルで紡ぎ出している。

影響を与えた作品

マトリックス- ウォシャウスキー兄弟(現・姉妹)が監督したアメリカ映画。この映画の制作は元々、『ニューロマンサー』の映画化企画からスタートしているが、監督が本作からもインスパイアされたことから作中のギミックや映像手法などに色濃い影響が見られる。

NSAも出てくる

https://www.ghostintheshell-sac2045.jp/characters

ジョン・スミス

アメリカ国家安全保障局のエージェントであり、ポスト・ヒューマン対策局トップ。公安9課のアドバイザーとして派遣されるが、アメリカのある目的をもって暗躍する。

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940713 No.7447

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>>7445

文部科学省

人工知能の倫理に関する勧告

2021年11月23日 第41回ユネスコ総会採択

https://www.mext.go.jp/unesco/009/1411026_00004.htm

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940713 No.7448

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>>7444

外務省HP

ユネスコ(UNESCO)~人類共通の遺産を守るために

2009年4月6日

https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol33/index.html

ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)は、世界中の建造物や自然保護区などを世界遺産に登録し、人類共通の遺産として世界各国の保護活動を促進しています。ユネスコはどのような経緯で世界の遺産を守る体制を整備し、今後はどのような取組を進めていくのでしょうか。世界遺産が直面している課題とともに考えます。

古代エジプト遺跡水没の危機と世界遺産条約

水没の機器を免れたアブシンベル神殿1960年代、エジプトのナイル川にアスワンハイダムの建設計画が持ち上がり、アブシンベル神殿に代表される「ヌビア遺跡群」が、水没の危機に瀕していました。エジプト、スーダン両政府からの要請を受けたユネスコは、ヌビア遺跡救済キャンペーンを展開し、遺跡の移築と保護を世界中に訴えました。呼び掛けに応じた多くの国の協力により、遺跡はダム建設の影響を受けない高い場所に移されました。このキャンペーンがきっかけとなり、世界的に価値のある遺跡、建造物、自然を、一国だけでなく人類全体の遺産として保護していくための国際的枠組みの必要性が認識され、条約を作る機運が高まりました。そして、1972年、ユネスコ総会で世界遺産条約が採択され、日本をはじめ186か国が締約しています。(※本文中の締約国数や遺産件数などについては、いずれも2009年3月末現在の数字を引用しています)

….(中略)

危機遺産を脱したカンボジア・アンコール遺跡

アンコール遺跡はカンボジア和平成立直後の1992年、世界遺産に登録されると同時に危機遺産に登録されました。各国が一斉に遺跡修復に乗り出す中、より効率的な調査・研究と修復を行うため、日本はフランスと共同でアンコール遺跡救済国際会議(東京会合)を開催。国際調整委員会を設置して、援助国間の保存修復活動を調整することや、観光開発、水質汚染、地盤沈下といった諸問題を協議していくことなどを決めました。日本をはじめ約30か国からのプロジェクトチームが寺院の修復や人材育成を実施し、地雷の撤去作業も進んだことなどから、アンコール遺跡は2004年に危機遺産から脱しました。

….(中略)

形がない文化遺産の保護

寺院や城塞のように「形」のあるものだけでなく、伝統的舞踊、音楽、演劇、工芸技術、祭礼など、人々の営みの中で受け継がれているものについても、消失の危機から守り、次世代に伝えていく必要があります。日本には昔から伝統芸能や技術を「無形の文化財」とする考え方があり、文化財保護法(1950年施行)により、それらを保護する仕組みを整えてきました。いわゆる人間国宝(重要無形文化財保持者)という制度もその一環です。日本はこの経験を活かして、2003年のユネスコ総会で採択された無形文化遺産条約の策定に大きな役割を果たしました。2009年秋には、締約国からの推薦に基づき、無形文化遺産代表リストへの登録がスタートする予定です。

….(中略)

日本が進める文化遺産国際協力

文化遺産とは、有形無形を問わず、その地域に生きる人たちのアイデンティティの象徴であり、かつ後世へと大切に守り伝えていくべき人類共通の貴重な遺産でもあります。しかし、アジアなどの途上国には修復・保護が急務であるもかかわらず、十分な対策がとられていない貴重な文化遺産がまだたくさんあります。そういった文化遺産の保護をより効果的に支援するため、日本は文化遺産国際協力推進法を2006年に施行。国内の政府機関、教育研究機関、NGO、民間助成団体などによる文化遺産国際協力コンソーシアムを設立し、各国の文化遺産と保護などに関する情報共有や連携強化を図りながら、保存修復事業を実施しています。外務省では、ユネスコに文化遺産保存日本信託基金と無形文化遺産保存日本信託基金を設置し、世界各国の有形無形の文化遺産を守るための様々な事業を実施しています。

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940713 No.7449

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>>7444

ベアトリス・エンソア

https://ja.wikipedia.org/wiki/ベアトリス・エンソア

https://en.wikipedia.org/wiki/Beatrice_Ensor

ベアトリス・エンソア(Beatrice Ensor、1885年8月11日 - 1974年)は、イギリスの神智学に基づいた教育思想家、教育学者、世界新教育連盟(New Education Fellowship]、後のWorld Education Fellowship)[1] の創始者の一人で、その機関誌「New Era」の編集者であった。 1885年8月11日の生まれで、ベアトリス・ニーナ・フレデリカ・ド・ノーマンは、アルベルト・エドワード・ド・ノーマンとイレーナ・マチルダ(旧姓ウッド)の長女であった。彼女の父親は、海運業に従事し、幼い頃はその関係でマルセイユとジェノヴァで過ごした。

その影響で彼女はフランス語とイタリア語が流暢に話せた。彼女は訪問客が家に置いていった神智学の本に大きな影響を受けた。彼女は1908年神智学協会に入会し、このことは彼女の人生で大きな役割を演じた。彼女には、サー・エリック・ド・ノーマン(司令官騎士、バス勲位コンパニオン)とアルバート・ノエル・ド・ノーマン("ビル")という二人の弟があった。

イングランドでは教育を終えるための条件として彼女は、家庭科の教師としての訓練を受け、暫くの間シェフィールドカレッジで教鞭をとって、グラモーガン郡審議会から女性及び女子教育の視学官に任命された。 彼女は、チェルテンハムでモンテッソーリスクールのを視察して以来、頭ごなしに統制された受動的な教育に幻滅を抱くようになった。その後、モンテッソーリに直接会うことができ、手紙のやり取りをするようになって彼女の思想に関心をもつようになる。[2]彼女は1914年、教育における「新しい理想」グループ(New Ideals in Education group)により開催されたイースト・ラントンでの会議に参加する。この会議のテーマが、「教育におけるモンテッソーリ・メソッド」であった。彼女は菜食主義者で、生体解剖反対主義者であった。

教育における新しい時代 (New Era)

第一次大戦後、彼女は栄養不足に苦しむハンガーの幼児たちをイギリスに招いて健康を回復させる手伝いをした。彼女自身ブダペストに飛び、子どもたちの第一陣を連れてイギリスに戻った。 この仕事で彼女は、ハンガリー赤十字から功労メダルを与えられている[6]。しかし、神智学協会関係の更に長期的な仕事は、さらに生産的なものであった。「新しい時代のための教育」(Education for the New Era)には、一時共同編集者として、A・S・ニイルが参加した。この雑誌は、その後85年間も続いた。またフランス語版、ドイツ語版の共同編集者には、アドルフ・フェリエール、エリザベート・ロッテンが参加した。

The New (World) Education Fellowship

1921年、イヴァン・ハゥルチェックとともに彼女は、「子どもの創造的な自己表現」についての国際会議をカレーで開催。100人以上の参加者が合った。この会議は、神智学者にとっては次の戦争を予防したいという懸念から出発していたのだが、そこから誕生したのは世界新教育連盟(the New (later World) Education Fellowship)だった。これは教育における新しい考え方を議論する非政治的で非党派的なフォーラムとなった。それはなにか特別な方法を提唱するのではなく、すべての方法の中から本当の糸を探し続けるという趣旨のものだった。これはおよそ20ヵ国に活発な支部を持っている。ベアトリス・エンソアは、他の二つの機関誌の編集者たちと共にこの世界新教育連盟の初期の組織委員会を築き上げた。これは、二年間隔で著名な教育学者や教育者により主催される国際教育会議を開催している。 1923年の第二回会議は、スイスのモントルーで開催され、彼女はここでカール・グスタフ・ユングと出会った。彼女はその次のロンドンでの会議に講演者として彼を招聘し、そこで、H・G・ウェルズ、エミール・ジャック・ダルクローゼ、フランツ・ツィツェク、そしてアルフレッド・アドラーに引きあわせた。

1929年にはデンマークのヘルシンゲルでのクロンボー城で開催され、各国代表や講演者の中には、マリア・モンテッソーリ、ラビンドラナート・タゴール、クルト・レヴィン、アドルフ・フェリエール、オヴィド・ドクロリ、ヘレン・パーカースト、ピェール・ボヴェ、A・S・ニイル、エリザベート・ロッテン、フランツ・ツィツェク、ハロルド・ラッグ、T・P・ナン、そしてパウル・ゲヘープがいた。 その他に、この会議は、1927年にはスイスのロカルノで、1925年にはハイデルベルクで開催された。 彼女は、一時、労働党の教育問題顧問に就任したが、彼女のユートピア的な思想が、R・H・トーニーのそれと軋轢を引き起こし、早々にその職を持すことになった。

The N.E.F. とユネスコ

神智学がN.E.F.(世界新教育連盟の初期の名称)に深い影響を与えていた頃、N.E.F.もユネスコの誕生に深い影響を与えていた[7]。N.E.F.が果たしたものは、「ユネスコの産婆役」(小林澄兄)であり、 そしてその後1966年以降ユネスコのNGOで在り続けた(岩間浩)[8]。 そしてその年、N.E.F.はその名をW.E.F.と改めた

フェンシャム・ハイツ・スクール

その間に神智学教育トラストの内部でいくつかの問題が生じてきてそれが、レッチワースのコミュニティの中で緊張を引き起こしていった。これは彼女の夫がトラストの事務局長に任命されるということも関係していた。1925年イザベル・キングとベアトリス・エンソアが、フレシャムハイツ・スクールを創立した[9]これは、サリー州の共学の学校で、モンテッソーリ幼稚園を終わったところから大学入学までの一貫教育を行う学校。エディス・ダグラス・ハミルトンというウィルタバコ産業の女性経営者が資金を提供した。開校時、日本人の子弟がその中に3人含まれていた

セント・クリストファースクールの教師と生徒たちの一部が、フレシャムに移って新しいスタートを切った。しかしながら、2年後、ダグラス・ハミルトンが予期せずなくなり、学校のために安定した信託基金を残すこともなくなったため、この劇的な変化の中でベアトリス・エンソアとイザベル・キングはなすすべもない状況に追い込まれた。2人共学校を去るしかなかったが、これは決して苦渋の選択というものでもなかった。というのも、学校の運営理事会はその後何年間も留まることが出来たからである。

講演旅行と南アフリカ

ベアトリス・エンソアは、その後は、「New Era」の編集とN.E.Fるに専念し、1926年と1928年には北米に二度の講演旅行に出かけた。ボストン、ニューヨーク、デトロイトで教育における新しい運動について講演をしている。彼女は1927年と1929年にポーランドと南アフリカを訪問した教育団体の一人でもある。

彼女の夫は、南アフリカのラウターウォーターに移住し、そこでまだほとんど開拓されていない谷間に、ようやく果樹栽培に適していることが判明したばかりの大きな農場を手に入れた。彼が計画した荘園は、彼がなくなった1933年ころにようやく収穫ができるようになった。 それはベアトリス・エンソアも南アフリカに移り、荘園の面倒を見なくてはならないという意味でもあった。これは彼女の教育的な仕事にとって大きな制約が生じるということでもあった。 彼女は、1937年にオーストラリアに教育講演に招かれた一団の一人でもあり、彼女はその際、オーストラリアの西部にあるパースの西オーストラリア大学から名誉博士号を授与されている。彼女はN.E.F.の南アフリカセクションを支援し、経済的にも支え、自分の農場に当時その地域ではまだ何の規定もなかった時期に人種混合小さな学校を作った

彼女の息子が、ちょうど彼女の弟がそうだったように兵役を徴兵期間が終わった後も継続するつもりであることが明らかになり、農場を次ぐ意志のないことがはっきりした時、彼女は農場を手放して、プレッテンバーグ湾の近くのコイロブルームストランドに家を買って移り住んだ。しかし、彼女の家族がイングランドに移ってしまった時、彼女も孫達と一緒に暮らすためにイギリスに渡り、ロンドン郊外のブラックヒースに居を構えた。彼女はここで亡くなった。1974年のことである。

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940713 No.7450

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>>7449

>モンテッソーリ教育

ビル・ゲイツやイーロン・マスク、藤井聡太も受けていた「モンテッソーリ教育」とは?

Sep. 27, 2021

https://www.businessinsider.jp/post-241908

GAFA創業者のほとんどがモンテッソーリ教育を受けている事実

ビル・ゲイツ、ジェフ・ベゾス、イーロン・マスクの3人は、いずれもモンテッソーリ教育を受けたとされている。その他にもモンテッソーリ教育を受けた著名人は以下の通りだ。

経営者

ビル・ゲイツ(マイクロソフト創業者)

マーク・ザッカーバーグ(フェイスブック創業者)

ラリー・ペイジとセルゲイ・ブリン(グーグル創業者)

ジェフ・ベゾス(アマゾン創業者)

ジミー・ウェールズ(ウィキペディア共同創始者)

ピーター・ドラッカー(マネジメントの父)

政治家

バラク・オバマ元米大統領

ヒラリー・クリントン

イギリス王室のウィリアム王子

歌手

ビヨンセ

テイラー・スウィフト

GAFA創業者のうち、スティーブ・ジョブズ以外はモンテッソーリ教育を受けているのだ。ただ、唯一入っていないApple創業者のスティーブ・ジョブズが異色とも取れる。

日本人だと、史上最年少の14歳2カ月でプロ将棋棋士となり、デビュー戦以来、公式戦の連勝記録を30年ぶりに更新した藤井聡太さんも、モンテッソーリ教育を受けている。

※正確には、イーロン・マスクはモンテッソーリ教育のカリキュラムがある学校には通っていない。南アフリカに生まれ、小学生の頃は首都ヨハネスブルグの学校に通っていたため、アメリカの教育を受けていない。しかし、彼が11歳のときにコンピューターに興味を示し、小学生では理解できないはずのレッスンを親が許可して受けさせたという話からすると、モンテッソーリ教育の考え方に極めて近い教育環境であったと考えられている。

モンテッソーリ教育とは、以下のようなものだ。

「モンテッソーリ教育は、教師(大人)の価値観で一方的に教え込もうとするのではなく、子どもの興味や発達段階を正しく理解し、子どもが触ってみたい、やってみたいと思う環境を適切に用意し、その環境と子どもを「提示」などによって結びつけ、子どもの自発的活動を促します。子どもは、自分で選んだ活動に満足いくまで繰り返し取り組みながら様々な能力を獲得していきます。」

出典:日本モンテッソーリ教育綜合研究所

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940713 No.7451

>>7450

この記事の内容は一部誤りかもしれません。もしくは「誤り」ということにしておきたいか….

https: //ja.wikipedia.org/wiki/モンテッソーリ教育

モンテッソーリ教育を受けた著名人

アンネ・フランク (『アンネの日記』筆者)[65]

キャサリン・グレアム(新聞『ワシントン・ポスト』経営者、ジャーナリスト)[65]

ジェフ・ベゾス (Amazon com創業者)[65]

サーゲイ・ブリン (Google創業者)[65]

ラリー・ペイジ (Google創業者)[65]

ウィル・ライト (ゲームデザイナー、『SimCity』『The Sims』の開発者)[65]

ステフィン・カリー(NBA選手)[65]

テイラー・スウィフト(歌手、グラミー賞受賞者)[65]

ガブリエル=ガルシア・マルケス(作家、ノーベル文学賞受賞者)[65]

アンソニー・ドーア(作家、ピューリッツァー賞受賞者)[65]

ヘレン・ハント(女優)[65]

ジョージ・アレクサンダー・ルイ・オブ・ウェールズ王子(イギリス王室成員)[65]

藤井聡太 (将棋棋士)[66]

以下の人物はモンテッソーリ教育を受けた著名人として宣伝されることが多いが、実際には誤りである。

マーク・ザッカーバーグ(Facebook創業者)[65]

ビル・ゲイツ(Microsoft創業者)[65]

スティーブ・ジョブズ(Apple創業者)

ジミー・ウェールズ(Wikipedia創設者)[65]

ジョージ・クルーニー (映画俳優、監督)[65]

ウェールズ公ウィリアム王子 (イギリス王室成員)[65]

サセックス公ヘンリー王子 (イギリス王室成員)[65]

ピーター・ドラッカー (社会学者)

日本におけるモンテッソーリ教育

モンテッソーリ教育は、子どもの自主性、自立心、知的好奇心などを育み、この教育の終了する24歳時には社会に貢献する人物となることを目的とする。一方の欧米ではオルタナティブ教育として評価され、他方、日本においては潜在能力を引き出す、知的能力をあげる、小学校のお受験対策といった英才教育や早期教育として注目され、幼児教育だと誤解されることが多い。マリア・モンテッソーリが、知的・発達障害の治療教育、貧困家庭の子供たちへの教育から、発展させてきた教育法である[要出典]ことはあまり知られていない。

モンテッソーリ教育を日本に紹介した日刊紙『萬朝報』の記事は1912年1月11日に掲載された[19]。この教育を日本で最初期に広めた人物に、ロバート・W・アーウィンの長女ベラ(有院遍良)がいる[22]。ベラは1913年にイタリアでモンテッソーリ教育の国際コースを受講し、マリア・モンテッソーリから直接指導を受け、帰国後、自宅で幼児教育研究サロンを開き、1916年には私立玉成保母養成所と付属幼稚園を開校した[23][24]。

ただし日本が軍事国家への道を歩む中、モンテッソーリ教育はこの時期に広く普及することなく、本格的な普及は第二次世界大戦後、鼓常良がモンテッソーリの主著3部作を完訳したことに始まる。鼓常良は1962年に京都・桂に幼児教育研究所を設立、その付属施設「月見が丘子どもの家」が敗戦後のモンテッソーリ教育施設の第1号である[25]。

上智モンテッソーリ教員養成コースの沿革は上智大学(※)による[26]。

1912年 モンテッソーリ教育が日刊紙『萬朝報』で紹介される[19]。

1913年 ベラ・アーウィンが渡欧し、M・モンテッソーリの指導を受ける。幼児教育研究サロンを開設。

1916年 私立玉成保母養成所を開き、幼稚園を付属させる[23][24]。

1962年 幼児教育研究所を鼓常良が設立(京都市)。「月見が丘子どもの家」でモンテッソーリ教育を再開[25]。

1965年 上智大学のペトロ・ハイドリッヒ教授が「うめだ・子どもの家」を設立[19]。同学文学部教育心理学科の教授が中心となり研究会が始まる(JAMの前身)。

1968年 日本モンテッソーリ協会(JAM)が発足※、国際モンテッソーリ協会(AMI)の友好関係団体として承認される[27]。

1970年 ※「上智モンテッソーリ教員養成コース」を発足。上智大学に置く。

1971年 ※履修科目のうち、上智大学で理論科目を、うめだ「子供の家」で実践科目を出講。

1981年 ※同教員養成コースを同学・外事部へ移管(大学の組織改変)

※実践科目をうめだ「子供の家」から上智大学へ移管し、理論科目とともに出講。

1984年 ※上智モンテッソーリ教員養成コースは上智大学・学務部へ移管(大学の組織改変)

1986年 ※同コースを同学・学事部へ移管(大学の組織改変)

1992年 日本モンテッソーリ協会が日本学術会議(第17期)の承認を受けて登録[19]。

1993年 ※同コースを同学・公開学習センターへ移管(大学の組織改変)

2005年 ※履修者の募集終了を決定。平成17年度(2005年)1年次生を最終とする(大学の学校改革)

2005年 日本モンテッソーリ協会が日本学術会議の制度改革を受け、学術研究団体となる[19]。

2006年 ※教員養成コースを別法人に移管し新規履修を開始。「特定非営利活動法人東京モンテッソーリ教育研究所」付属となる。

2007年 ※上智大学の履修コースを閉講[28]。

2010年 東京国際モンテッソーリ教師トレーニングセンターの同窓会が発足35周年を迎える。

2012年 日本モンテッソーリ協会に「ルーメル・モンテッソーリ奨励基金」設立[注釈 3]。

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940713 No.7452

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>>7451

マリア・モンテッソーリ

https://ja.wikipedia.org/wiki/マリア・モンテッソーリ

マリア・モンテッソーリ(伊: Maria Montessori、1870年8月31日 - 1952年5月6日)は、イタリアの医学博士、幼児教育者、科学者、フェミニスト。モンテッソーリ教育法の開発者として知られる。

生涯

イタリア初の女性医師

マルケ州キアラヴァッレに生まれた。19世紀に、ローマ・ラ・サピエンツァ大学医学部に女性として初めて入学した。当時は女性差別の残る時代だったため、入学後、男子学生と同室での系統解剖が許されず、別室で一人死体に向かいメスを取らざるを得ないなどの差別的処遇を受けたが、それらの逆境を乗り越え、1896年、イタリア初の女性の医学博士号を取得する。

卒業後も女性が医師になることに否定的な医学界で、なかなか職が見つからず、医学とかけ離れた状況にあったローマ大学付属の精神病院にようやく職を得た。当時の精神病院の患者たちは鉄格子に囲まれた暗い部屋に監禁され、治療らしい治療が行われない劣悪な環境下にあった。医師として絶望的と言えるこの職場で、マリアは知的障害があるとされる幼児が床に落ちたパン屑でしきりに遊ぶ姿に目を留めた。それ以降、幼児の様子を注意深く観察するうちに、何ら知的な進歩はないと見放されていた彼らが感覚的な刺激を求めることを認め、指先を動かすような玩具を次々と与え、彼らの治療を試みた。その中で彼女は、感覚を刺激することによって、知的障害児であっても知能の向上が見られるという確信を得て、他の障害児たちにも同様の教育を施した。マリアが彼らに知能テストを受けさせると、彼らの知能が当時の健常児たちの知能を上回るという結果が得られ、イタリア教育界、医学界に衝撃を与えることとなった。

モンテッソーリ教育の誕生

1907年、障害児の治療教育で一通りの成果を挙げた感覚教育法を、マリアはローマの貧困家庭の子供たちに応用する機会を得る。ここにおいても知能向上で著しい結果を得、この方法をさらに追究するため、医師を辞め[1]、ローマ大学に再入学した。

再入学したローマ大学では主に哲学を学び、その後、南フランス・アヴェロンで発見された野生児の教育に着手し、彼の観察と教育を行った感覚教育の先駆者であったジャン・イタールの著書の研究を進め、知的・発達障害者教育の先駆者エドゥアール・セガン医師に学んだ。さらに、生理学、精神医学の研究にも没頭。のちにモンテッソーリ教育と呼ばれる独自の幼児教育法を確立する。

教育熱心だったマリアの両親は彼女を「ぜひ教師に」と望んでいた。しかし、彼女は両親の反対を押し切ってイタリア初の女性医師となるも、結局、世界的な教育者となり、図らずも両親の願いをかなえたことになる。

モンテッソーリ教育の発展

モンテッソーリ教育が確立されると、その方法は世界各国で支持されるようになり、世界各地に次々とモンテッソーリ教育を専門に行う「子供の家」 (Casa dei bambini) が設立された。モンテッソーリ教育が急速に普及していく中、マリアは教師の質の重要性を認識、教員養成コースと1929年には国際モンテッソーリ協会(通称 AMI:本部オランダアムステルダム)を開設、資格取得制度を整えた。現在でも、AMIの国際モンテッソーリ教員養成は厳密なことで有名であり、養成を受けて教員資格を得た教師のみによる教育システムが維持されている。日本におけるAMI認可の教員養成所は、東京国際モンテッソーリ教師トレーニングセンター、国際モンテッソーリトレーニングセンター(福岡)、あきる野モンテッソーリトレーニングコースの3ヶ所である。

イタリアのファシズムを逃れ、スペイン内戦が起こる1936年までスペインに住んだ[2]。第二次世界大戦時、戦争に反対するマリアは息子の兵役を拒んだため、ムッソリーニ首相と対立、イタリアを離れることになったが、実は、戦前、女性運動に関わっていたマリアはフェミニズムに理解を示していたムッソリーニと一時期、交流もあった。この点がノーベル平和賞の候補時に問題視されたと言われている。

モンテッソーリ教育の生徒にはアンネ・フランクやジャクリーン・ケネディ・オナシスを始め、世界中に数多くの有名人がいるが、ワシントン・ポスト誌の経営者および、ジャーナリストだったキャサリン・グラハム、 Amazon comの創立者ジェフ・ベゾス、Googleの共同創立者セルゲイ・ブリンとラリー・ペイジ、wikipedia創設者ジミー・ウェールズ、などもモンテッソーリ・スクール出身者である。ロバート・W・アーウィンの長女で玉成保育専門学校創設者のベラ(有院遍良)は、1913年にイタリアで国際コースを受講し、マリア・モンテッソーリから直接指導を受けた[3]。

インド滞在

1938年にインドの神智学協会の会長ジョージ・アルンデール(英語版) と妻ルクミニー・デーヴィー・アルンデール(英語版)がオランダのモンテッソーリ・スクールを訪問して感銘を受け、インド政府によりインドに招待された。インドの文化センターで神智学徒たちと共に研鑽を積み、マハトマ・ガンジー、ラビンドラナート・タゴールとも交流[4]。インドで多数の講演を行い精力的に執筆し、モンテッソーリ教育の基本的で重要な概念である「宇宙的秩序」理論に基づく「宇宙的教育」(コスミック教育)を体系化した。第二次世界大戦のため10年近くインドで過ごした。[5][6]

先駆的女性とその晩年

教育者としてのみならず、マリアは一人の女性としても多くの足跡を遺している。20世紀初頭における女性の社会進出の最先鋒として男性と対等な地位を獲得したほか、私生活ではシングルマザーの先駆けともなった。一人息子マリオは幼少時、養父母に預けられたが、10代で彼女に引き取られたのちは、マリアの教育事業を手伝い、モンテッソーリ協会会長として、モンテッソーリ教育の普及に専心した。

また、マリアは晩年、世界平和と子供の尊厳を訴える運動を世界各国で展開。その功績が認められ、1950年、ノーベル平和賞の候補にもあげられている。

1946年に76歳でインドからオランダのアムステルダムに戻り、その後はインドとヨーロッパで過ごした。1952年に81歳の生涯を閉じる。オランダの北海沿岸の町、ノールトヴァイク・アーン・ゼーのカトリック教会墓地に眠る。イタリア通貨がユーロに切り替わる以前に流通していたイタリア1000リラ紙幣には、マリア・モンテッソーリの肖像画(表)とその学習風景(裏)が描かれていた

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940713 No.7453

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>>7444

>王立協会

王立協会

https://ja.wikipedia.org/wiki/王立協会

王立協会(おうりつきょうかい、英語: Royal Society)は、1660年にロンドンで作られた民間の科学に関する団体[1]である「自然についての知識を改善するためのロンドン王立学会」(The Royal Society of London for Improving Natural Knowledge)のことである。他の日本語訳として王立学会(おうりつがっかい)、王認学会(おうにんがっかい)[注 1]がある。結成以来現在まで続いており、最古の学会である[6]。

概要

1645年頃、イングランド内戦の影響によりオックスフォード大学から研究の場をロンドンに移し、実験哲学に関する活動を始めた数学者ジョン・ウォリスら10名程度の討論グループが王立協会の起源となった[10]。正式名称は "The President, Council, and Fellows of the Royal Society of London for Improving Natural Knowledge"(自然知識を促進するためのロンドン王立協会である[10])。

ロイヤルという名前は1662年にチャールズ2世の勅許を得て法人格を得たためつけられたが、国王または女王はあくまで守護者(パトロン)の位置づけで、フランスの王立パリ科学アカデミーと違って国庫の補助はなく、1850年に政府の補助金を得るまで会員の会費によって運営されていた[1]。王族フェロー、名誉フェロー、外国人フェロー(日本人を含む)を含めて2016年の時点で約1600人のフェローがおり、会員は「王立協会フェロー」を名乗ることが許可される。

この会は当初から国立(王立)ではなく民間科学団体ではあるが、イギリスの事実上の学士院(アカデミー)としてイギリスにおける科学者の団体の頂点にあたる。また、科学審議会(Science Council)の一翼をになうことによって、イギリスの科学の運営および行政にも大いに影響をもっている。1782年創立の王立アイルランドアカデミー(Royal Irish Academy)[11]と密接な関係があり、1783年創立のエディンバラ王立協会(英語版)[注 2]とは関係が薄い。

17世紀以降の著名な科学者の多くは、創立メンバーまたは会員になっている。王立協会フェローにはFRS(Fellow of the Royal Society)という称号が付く。最初期の主要な会員には、ロバート・ボイル、J・イーブリン、ロバート・フック、ウィリアム・ペティ、ジョン・ウォリス、ジョン・ウィルキンズ、トーマス・ウィリス、クリストファー・レンなどがいる。万有引力の法則の発見や光学の研究で近代科学に多大な影響を与えたアイザック・ニュートンは、その業績が認められ後に会長になった

イーロンマスクも2018年に選出されていました

https://royalsociety.org/people/elon-musk-13829/

2013年にも日本人も何名か選出されています

https://royalsociety.org/news/2023/05/new-fellows-2023/

十倉 好紀 センター長が英国王立協会(The Royal Society)の外国人会員に選出

2023年5月12日

https://www.riken.jp/pr/news/2023/20230512_1/index.html

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940713 No.7454

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>>7439

>アリス・ベイリー

アリス・ベイリー

https://ja.wikipedia.org/wiki/アリス・ベイリー

アリス・ベイリー(英語:Alice Ann Bailey, 1880年6月16日 - 1949年12月15日)は神秘主義関係の著作家で、==神智学協会から派生した「アーケイン・スクール(不朽の知恵、秘教占星学)」の創立者。

生涯

イギリスのマンチェスターで、ベイリーはアリス・ラ・トロープ=ベイトマン( Alice La Trobe-Bateman)という名前で生まれた[1]。9歳で両親が結核で死亡したため、妹とともに叔母に引き取られた。少女時代は、キリスト教福音主義の下で育てられた[1]。1902年、22歳で教会の日曜学校の教師をしていた彼女は[2]、インドに渡航しイギリス軍の福祉ワーカーとして働いた[1]。その時、兵士だったウォルター・エバンスと出会い、1907年、27歳で、聖職者となったエバンスと結婚した。夫妻は新天地を求めてアメリカ合衆国へ渡航し、3人の子供ももうけた。しかし、夫婦関係はうまくいかず、結婚は破綻した[1]。

米国では神智学協会に参加、ここでブラヴァツキーの著書に接し、協会員となった。1920年、アメリカ神智学協会で働く神智学者フォスター・ベイリーと再婚[3]。その前年、大師(マハトマ)のジュワル・クール(英語版)からのメッセージを受け取るようになったという。しかし、大師からの通信を受け取ることができるという主張は協会内で反発を呼び、のちに神智学協会を離れることになった[4]。彼女の初の著書『イニシエーション』(Initiation, Human and Solar.)は、レッドビーターの『大師とその道』(1925年)より先んじて詳細な大師論を展開している[5]。1922年、夫妻はルシファー出版社(後年、ルシス・トラスト(英語版)に改名)を設立。1923年、彼女は「アーケイン・スクール」(Arcane School)という団体を創設し、大師から受けたという教えを広めた[1]。

ベイリーの運動はメシアニズムを核としながらも緩やかな連合体を形成したものであり、満月の夜に瞑想によりメシアや大師を招来させようとするこのグループは「フルムーン・メディテーション・グループ」と総称される[5]。1949年、69歳の時、ニューヨークの病院で、その生涯を閉じた。

ベイリーは神智学の周期的歴史観と占星学を融合して、近い将来に「魚座の時代」から「水瓶座の時代」への移行が起こると主張した[6]。水瓶座の時代の同義語として、現在と同じ意味でニューエイジという語を使用して、人口に膾炙するようになったのは、アリス・ベイリーからである[4]。

参考文献

大田俊寛 著『現代オカルトの根源 - 霊性進化論の光と闇』筑摩書房〈ちくま新書〉、2013年。

平井恭介 執筆「後期神智学協会とメシアニズム」『オカルト・ムーヴメント - 近代隠秘学運動史』創林社、1986年。

クリストファー・パートリッジ(英語版) 編、井上順孝 監訳、井上順孝・井上まどか・冨澤かな・宮坂清 訳『現代世界宗教事典』悠書館、2009年。

ジェームズ・R・ルイス 著、鏡リュウジ訳『占星術百科』原書房、2000年。

ニコラス・キャンピオン 著、鏡リュウジ 訳『世界史と西洋占星術』柏書房、2012年。

こんなサイトもありました

https://www.alicebailey-japan.com/

アリス・ベイリーの秘教学

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940713 No.7455

>>7454

英語版からの抜粋

https://en.wikipedia.org/wiki/Alice_Bailey

・ベイリーの著作は1919年から1949年にかけて書かれたもので、太陽系と霊性の関係、瞑想、治癒、霊的心理学、国家の運命、社会全般に対する処方箋など、広範囲にわたる新神智学の秘教的思想体系について述べている。彼女は著作の大部分が、当初は単に「チベット人」または頭文字の「DK」と呼ばれ、後にジュワル・クルと特定されたある叡智の師によってテレパシーで口述されたものであると述べている。[2]彼女の著作はマダム・ブラヴァツキーの著作と類似点があり、「永遠の叡智」と呼ばれる教えの1つである。ベイリーの著作はマダム・ブラヴァツキーの神智学とはいくつかの点で異なるが、共通点も多い。彼女はキリスト教を含む宗教的テーマについて著作を書いたが、彼女の著作はキリスト教や他の正統派宗教の多くの側面とは根本的に異なっている。彼女の統一社会のビジョンには、伝統的な宗教形態とは異なる世界的な「宗教精神」と、水瓶座の時代という概念が含まれていた。[3] [4]

ルシス・トラスト

詳細は「ルシス・トラスト」を参照

アリスとフォスター・ベイリーは 1922 年にルシス・トラストを設立しました。その活動には、アーケイン・スクール、ワールド・グッドウィル、トライアングル、季刊誌「ザ・ビーコン」、およびベイリーの多くの本を出版することを主な目的とする出版社が含まれます。アーケイン・スクールは、ベイリーの本のアイデアに基づいて、通信を通じて瞑想の指導とガイダンスを提供します。ワールド・グッドウィルは、彼らが「行動する愛」と定義する善意を通じてより良い人間関係を促進することを目的としています。その「行動」には、国連への支援が含まれていました。「トライアングル」は、毎日思考を結び、正しい人間関係について瞑想し、光と愛が人々の心と心に注がれることを視覚化し、その後にグレート・インヴォケーションを使用することに同意した 3 人のグループです。各人が毎日同じ時間に思考を結び付ける必要はなく、ほんの数分の時間しかかかりません。アリスとフォスター・ベイリーは「ルシファー出版社」を設立した(「ルシファー」と「ルシス」は同じ語源で、ルシスとはラテン語の属格で光を意味する)。[22] 最初の2、3年後、社名は「ルシス出版社」に変更された。[23] (神智学協会も初期の雑誌に「ルシファー」という名前を使用していた。)1923年、フォスター・ベイリーの助けを借りて、アリス・ベイリーはルシス・トラストの一部であるアーケイン・スクールを設立した。この学校は、彼女の著作に基づいた教育通信、瞑想指導、指導付き学習を提供している。[24]ベイリーは1949年に亡くなるまで活動を続けた。[25]

主なアイデア

7つのエネルギー光線

ベイリーの著作には、すべての顕現の背後にあり、そこに存在する基本的なエネルギーとして提示される「7つの光線」の詳細な説明が含まれています。それらは宇宙の基本的な創造力であり、すべてのものの進化の根底にある神性の放射であると考えられています。[26]光線は、人間の心理、国家の運命、天空の惑星や星に関連していると説明されています。7つの光線 の概念は神智学の著作に見ることができます。[27]キャンベルは、ベイリーは「… 7つの光線のアイデアを最初に開発した人物ですが、初期の神智学の著作にもその萌芽が見られます」と書いています。 [28]7つの光線はヒンドゥー教の宗教哲学にも登場します。[29] [30]

秘教占星術

秘教占星術はアリス・ベイリーの「永遠の知恵」の教えの一部であり、彼女はチベットの師であるジュワル・クルから教えを継承したと述べている。[31] [32]

ベイリーの教えに従う秘教占星術師たちは、通常、彼女の5巻からなる『七つの光線に関する論文』、特に占星術に焦点を当てた第3巻に基づいて研究を行っています。彼女の秘教占星術は、魂の意識の進化とその進化の障害を扱っています。[33]

秘教的治療

ベイリーのヒーリングに関する教えは、主に魂と人格、霊的なものと物質的な性質の関係に関するものである。彼女の見解では、すべての病気の根本原因は、何らかの形で妨げられたり抑制されたりした魂の生活にある。したがって、ヒーリングとは魂を解放すること、つまり魂と人格の正しい関係を確立することであり、人格は魂の表現の道具と定義される。病気の大きな原因である障害物や混雑を取り除く。ヒーリングの全プロセスは、思考、ヒーラーの精神、そして時には病気の原因を抑制する感情的な相乗効果によって方向づけられる。施術者がもはやエネルギー、流れ、中心、ナディを焦点の 1 つの領域として指示されなくなると、ヒーリングは自動的になり、抽象的なものは適切な場合は実践に関連づけられるが、ヒーリングは努力なしに方向づけられる。[34] [35]

人間の構成

以前の神智学の教えに沿って、[36]ベイリーは人間は

モナド(神の火花、真の自己)

魂(高次の精神、愛の性質、高次の意識)

3つの側面からなる性格

・低次の心(知性)

・感情またはアストラル体質

・肉体とエーテル体

低次の性質の 3 つの側面はそれぞれ「体」またはエネルギーのオーラとして説明され、真の自己または魂の部分的な表現と見なされます。魂は、人格の 3 つの側面を通じて機能する、またはそれらを使用する真の自己の反映と見なされます。[37] [38]彼女はまた、これらを「乗り物」または「鞘」と呼び、交互に「精神体」、「アストラル体」、「肉体」と呼びます。[39] 「エーテル」体は、肉体の健康に最も直接関連しており、肉体に転生している間、個人にとって重要なエネルギー源と見なされます。[40] [自費出版ソース? ] (p. 172) [41] (p. 33) 参照:微細体。精神と感情の性質はオーラと見なされます。[42]または脳の活動が二次的な効果であるエネルギー場。[43] (p. 411)

大いなる祈り

大いなる祈りは、1937 年にベイリーが授けたマントラです。このマントラは「神の心の中にある光の点から、光が人々の心に流れ出ますように…」で始まり、残りの部分は愛、キリスト(マイトレーヤ )の再来、そして人々が神の計画に従って行動するという思想を表現しています。

これはニューエイジ運動の信奉者の間ではよく知られており、特にグループでの瞑想の一部として広く使用されています。[44]たとえば、この祈りは 1970 年代からフィンドホーン財団コミュニティ で使用されています。9月 11 日の攻撃(2001 年)への対応として、この大祈りはフィンドホーンでの新しい毎日のプログラム「平和のための光の瞑想ネットワーク」の中心的要素として使用されました。[45] ローズマリー ケラーは、この大祈りを「キリストが地球に戻る」ための呼びかけであると説明し、ベイリー関連のグループが使命の一環としてこの祈りを放送するためにラジオとテレビの時間を購入し、この祈りはケラーが「光のグループ」と呼ぶグループでよく唱えられ、ベイリーの弟子たちが「地球に利益をもたらす霊的エネルギー」を引き寄せて集中させると考えていたことを達成したと書いています。[6]

アリス・ベイリーの著作には、一般的に古いものを新しいものに置き換えることを主張するテーマがあり、これは大祈願に関連して次のように述べられています。「この新しい祈願が広く配布されれば、主の祈りがキリスト教に、詩篇第23篇が精神的なユダヤ人に果たした役割と同じ役割を、新しい世界宗教に果たすことができる。」[46]

弟子としての生き方と奉仕

ベイリーの著作は、精神生活における伝統的な信仰や宗教的側面を軽視し、瞑想、人類への奉仕、「階層の計画」への協力を重視した。[47] 彼女の考えでは、奉仕は「 … 魂の本能であり…魂の発達に固有のものです。欲望が低次の性質の顕著な特徴であるのと同じように、奉仕は魂の顕著な特徴です …」[48]

国家と集団の統一と神性

ロスはベイリーの教えは「あらゆる生命体の根底にある統一性」と「あらゆる宗教、科学のあらゆる部門、あらゆる哲学の本質的な一体性」を強調するものだと述べている。[49] キャンベルは、新世界奉仕者グループは「国際理解、経済の共有、宗教的統一の促進」のために設立されたと述べている 。[28]

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940713 No.7456

>>7455

神智学との比較

神智学者の間では、アリス・ベイリーの著作に対する評価が分かれている。例えば、著名な現代神智学作家のジェフリー・ホドソンは、彼女の著書の 1 つに非常に好意的なレビューを寄せ、「アリス・ベイリーはまたしてもオカルト研究家たちに恩義を負わせた」と述べている。[ 50]オラフ・ハマーは、「彼女の最初の著書『人間と太陽へのイニシエーション』は、最初は仲間の神智学者に好意的に受け入れられた。しかし、すぐに、マスターたちから永遠の知恵を授かったという彼女の主張は反対に遭った」と書いている。[51]彼女の著作には神智学に対する批判が含まれているため、この対立は理解できる。また、彼女は、断絶の時点で、社会内の独断的な構造と見なすものに対する批判を表明し、同時に、要求されていた神智学指導者への忠誠の誓いに疑問を呈していた。 「1920年にシカゴで開催された年次大会では、ベサントと秘教部に忠誠を誓う勢力と、秘教部があまりにも強力になったと考える他の勢力との間で権力闘争が起こった。水面下では、アリスのチベット人に対する活動に関する隠れた論争があった。」[10]ベイリーと神智学の分裂のより最近の例については、スカンジナビアの神智学を参照してください。

キャンベルは、ベイリーの著書は主要な神智学のテーマをいくつかの特徴的な強調点を伴って再編集したものであり、現代の社会的および政治的発展を認識した、秘教科学とオカルト哲学の包括的なシステムを提示していると書いている。 [52]スティーブン・J・サトクリフは、ベイリーとブラヴァツキーの著作はどちらもチベットをマスターの精神的な故郷として思い起こさせ、ベイリーは多かれ少なかれブラヴァツキーと直系の血統であると主張したと指摘している。彼はベイリーを「ポスト神智学」理論家と表現し、ベイリーが「ブラヴァツキーの元個人弟子」から指導を受けたと報告し、彼女の3冊目の本(宇宙の火に関する論文)はブラヴァツキーの偽書である「ジヤンのスタンザ」を再現しているだけでなく、ブラヴァツキーに捧げられているとも述べている。[53]

神智学とベイリーの類似点は数多くあり、例えば、神智学の原理の一つである引き寄せの法則は、ブラヴァツキー[54]、アニー・ベサント[55]、ウィリアム・クアン・ジャッジ[56]らの秘教的な著作で論じられており、[ 57 ] [ 58 ] 、アリス・ベイリーの著作でも論じられており、彼女の著書の一章全体もその一つである。[59] [60] [61]この用語は、現代のニューエイジ運動によって簡略化された形で受け入れられ、 2006年の映画「ザ・シークレット」で普及した。

ジョン・クリモは、超常現象の情報源からの情報受信に関する調査の中で、「ブラヴァツキー/神智学資料や、他の情報源からの最近の現代のチャネリング資料と同様に、ベイリーの著作には、物理​​的、エーテル的、アストラル的、精神的、因果的、そしてより高次の居住レベルの存在という、同じオカルト的宇宙階層が見られる」と書いている。[62] オラフ・ハマーは、著書「知識の主張:神智学からニューエイジへの認識論の戦略」の中で、ベイリーの神智学的な類似点を強調するとともに、両者の相違点と思われる点を指摘している。「ベイリーの教えは、大部分において、シークレット・ドクトリンの神智学を再述し、拡大したものである。ベイリーは、ブラヴァツキーとリードビーターから、詳細な情報と複雑な分類体系への偏愛を受け継いだ。…彼女の著書は、新しい教義的要素だけでなく、重点の変化も導入している。」[63]

神智学の批評家の中には、ベイリーの思想とブラヴァツキーの神智学の間には大きな違いがあると主張する者もいる。例えば、ベイリーはキリスト教の神秘的な用語や概念を取り入れ、チャールズ・ウェブスター・リードビーターの考えを受け入れている。[28] [64]

ニコラス・ウィークスは、1997年に神智学雑誌「フォハット」に寄稿し、ベイリーの「 彼女の教えは、HPBとそのグルが実践し教えた神智学に基づいており、根本的に反対するものではない」という主張は誤りだと感じた。彼女の著書は、実際には「 CWリードビーターが開拓した疑似神智学に根ざしている」。ウィークスは、ベイリーがリードビーターのキリスト再臨の「空想」を受け入れ、ベイリーの「大祈願」を軽蔑したと述べた。大祈願は、キリストとその師が隠れたアシュラムを離れ、大都市に入り、水瓶座時代を導くための祈りであるとされている。これは、ブラヴァツキーの神智学とは対照的であり、「各人の中にあるキリストの原理」への依存を強調している、と彼は言う。 [64]

人種と進化についての考え

ベイリーは、人類を「進化のはしご」の異なるレベルにある人種に分けるという人種分化の概念を説明した。これらの「人種」は、国民や身体的なタイプではなく、進化の段階を表す。例えば、彼女は、アーリア人の根源 人種(または「第 5 人種」)は「出現しつつある新しい人種」であり、したがって比較的新しい進化現象であると述べた。彼女は、この新しいタイプはあらゆる土地で形成されつつあるが、主にコーカサス人が住む土地で形成され、思考や知性が優勢な文化を示していると述べた。彼女は、進化が進むにつれて物事が加速し、人類はまもなくアーリア人の意識によって主に区別されるようになると述べた。「私は、今日一般的に理解されているようなアーリア人種や、その北欧的意味合いについて話しているのではない。」[65]

ベイリーは著書『新時代の教育』で、この難解な人種概念が将来の学校で使われること、そしてこれらの学校が「根源人種」という概念を取り入れることについて予測した。これらの「人種」は、人類が肉体(レムリア人)、感情(アトランティス人)、精神(アーリア人)を発達させた、広大な先史時代にわたる進化を概念化する手段である。彼女は現在、「集団的資質と意識と理想主義的ビジョン」として表現される精神的次元を持つ「新人種」が発達しつつあると述べている。[66]彼女は、この新しい発達には何千年もかかる可能性があり、したがって彼女の新時代の信奉者の一部が望んでいるような急速な進歩ではないかもしれないと述べた。ベイリーは著書『国家の運命』で、この「新人種」が進化する過程について説明し、その後「非常に低級な人間の肉体は消滅し、人種タイプがより高い基準へと全般的に移行します」と述べている。[67] ベイリーにとって、人類の進化はこの霊的階層との関係と密接に結びついていました。彼女は、宗教、哲学、科学、教育運動、そして一般的な人間文化の影響はこの関係の結果であると信じていました。[68]

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940713 No.7457

>>7456

人種に関する彼女の考えに対する批判

ベイリーの人種に関する考えは、文化人類学者で民族誌学者のヴィクトル・シュニレルマンによって批判された。シュニレルマンは、ロシアの現代ネオペイガニズムの調査で、「多文化主義 に極めて否定的な見方をし、人種の『混合』に反対し、孤立主義と移民の禁止を支持するグループ」に特に注目した。シュニレルマンは、ベイリーの人種に関する考えのいくつかは、ジュリアス・エヴォラの著作に見られる人種差別に似ていると考え、「人種差別主義と反ユダヤ主義の傾向は、例えば、アリス・ベイリーとその信奉者のオカルトの教えに明白に表れており、彼らはキリスト教から「ユダヤの遺産」を一掃し、「ユダヤの聖書」を水瓶座の時代に入るための前提条件として拒否したいと考えている」と述べた。[69]

シュニレルマンの見解は、ベイリーだけでなくブラヴァツキー、シュタイナー、その他を批判したアイザック・ルベルスキーにも反映された。ルベルスキーの見解では、人種差別主義の考えは「神智学の家族」全体に共通していた。[70]

スウェーデンの画家、作家、急進的なアナルコ/エコフェミニストであるモニカ・ショーは、ベイリーは出版した教えを通じて「ニューエイジ運動全体に反動的で人種差別的な影響を与えた」と書いている。[71]また、ベイリー(および神智学)の「親ファシスト宗教観」と呼ばれるものにも言及した。たとえば、秘密のエリート集団「マスター」がオカルト的な手段で世界の出来事や人間の心に影響を与え、アーリア人種の進化をもたらそうとする(ただし、これは彼女の教えに対する当然の現代的な誤解である。ベイリーが使用した「アーリア人」は現代の用語と混同されやすく、「マスター」はエリートではなく、人間または「第4の王国」を超えて第5の「魂の王国」に進化したと神智学で最初に紹介された「悟りを開いた」個人であり、彼女の見解では、人類全体を導く)。[72]

ベイリーのナショナリズム、アメリカの孤立主義、ソビエトの全体主義、ファシズム、シオニズム、ナチズム、人種関係、アフリカ人、ユダヤ人、ユダヤ教とキリスト教の宗教に関する発言をめぐって論争が巻き起こっている。ヨナサン・ガーショムらは、彼女の著作には人種差別的な内容が含まれていると主張している。[73] [74] [75] [76] [77] [78] [79]

アメリカのハシディズムの著者ヨナサン・ガーショムは、ベイリーの新世界秩序構想と「正統派ユダヤ教の段階的な解体(可能であればまたもや)」という彼女の呼びかけは、 「彼女の目標はユダヤ教そのものの破壊にほかならない」ことを明らかにしたと書いている。ガーショムはまた、「このユダヤ人のステレオタイプな描写に続いて、19世紀のプロテスタントの「怒れるエホバ」神学に基づいた、聖書のヘブライ人に対する陳腐な非難が続く。ユダヤ人は怒れる復讐心に満ちた神を崇拝したことはなく、私たちユダヤ人は神を決して「エホバ」とは呼ばない」とも書いている。[74]

研究者ハンナ・ニューマンは、大祈願の中に反ユダヤ主義的な要素があると指摘した。ニューマンによると、祈願の中で言及されている「計画」とは「階層」が作成した計画を指し、ニューマンは「ユダヤ教を排除することで達成される目標である、すべてのユダヤ人の存在と影響を人間の意識から排除することに高い優先順位を置いている」と述べている。[73] [a]

組織化された宗教について

ベイリーは、宗派のアイデンティティを超越した普遍的な精神性を説き、「人間のすべての階級は兄弟の集まりである。カトリック教徒、ユダヤ教徒、非ユダヤ人、西洋人、東洋人は皆神の子である」と信じていた。彼女は、すべての宗教は同じ精神的な源から生まれ、人類は最終的にこれを認識するようになり、その結果、普遍的な世界宗教と「新しい世界秩序」が出現するだろうと述べた。[81] [82]

作家のスティーブン・サトクリフは、ベイリーの「世界善意」組織が、ベイリーの言葉を引用して「計画、人類、階層、そしてキリストに奉仕する」ために「世界奉仕者」のグループを推進していると書いている。[83]

ブロムリーとハモンドは、ベイリーが宗教の統一に焦点を当てていたにもかかわらず、ベイリーと他の「オカルティスト」は「『 東洋は霊的知識とオカルトの知恵の真の故郷である』という中心的な考えを強調した」と指摘している。[84]

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940713 No.7458

>>7457

影響

ベイリーまたはその支持者によって設立されたグループ

アリスとフォスター・ベイリーがスピリチュアルな教えを広めるために設立したアーケイン・スクールは、人々を3人ずつのグループに集めて毎日瞑想と学習を行う世界規模の「トライアングル」プログラムを組織しています。彼らは瞑想を通して神聖なエネルギーを受け取り、このエネルギーが人類に伝わることでスピリチュアルな意識が高まると信じています。[85]ジョン・マイケル・グリアの『オカルトの新百科事典』には、このスクールは「キリストの指導のもと、マスターの階層の仕事を成し遂げるために、世界奉仕者の新しいグループを育成しようとしている」と書かれています。[ 86]トゥエルブスはトライアングルの現代版であり、ルシス・トラストや他の尊敬される組織のメンバーの多くが今日メンバーになっています。

ニューエイジ運動への影響

ベイリーは著書の中で「ニューエイジ」という言葉を多用しており、一部の作家は彼女をニューエイジ運動の創始者と評している。 [4] [69] [87]ただし、「ニューエイジ」は1894年に出版されたキリスト教自由主義と社会主義の雑誌のタイトルとして使われており、ベイリーがその言葉を使う前のことである。[88] [89]

ジェームズ・R・ルイスとJ・ゴードン・メルトンは『ニューエイジの展望』の中で、「この変革的な比喩、そして『ニューエイジ』という言葉の最も重要な(ただし、唯一のものではない)源泉は神智学であり、特に神智学の視点がアリス・ベイリーの著作によって運動に伝えられた」と書いている。[90]

ジョン・シンクレア卿は著書『アリス・ベイリー遺産』の中で、アリス・ベイリーの影響力について言及し、それが20世紀の意識成長運動の根底にあると述べた。[91]

ネオペイガニズムへの影響

いくつかの著者は、ベイリーの概念のいくつかが現代の異教の表現と類似していることを指摘している。[92] [93]

1960年代から1970年代にかけて、ネオペイガニズムの著者であり儀式魔術の儀式家でもあるキャロル・ポーク・ラニヨンは、アリス・ベイリーの著作にちなんで「The Seventh Ray」という雑誌を出版しました。この雑誌の記事を集めた3巻本が、「The Seventh Ray Book I, The Blue Ray」、「The Seventh Ray Book II, the Red Ray」、および「The Seventh Ray Book III, the Green Ray」として出版されました。

これとは対照的に、ダレン・ケンプは『ニューエイジハンドブック』の中で、ネオペイガニズムとニューエイジ運動の間には決定的な違いがあるとし、両者を混同するのは間違いだと指摘している。[94]

宗教における女性への影響

作家キャサリン・ウェッシンジャーは、ベイリーは「 それが人気になる60年前から」解放された女性であり、ベイリーの本はアニー・ベサントの作品と同様の「千年王国観」を表現していると書いている。ウェッシンジャーは、ベイリーの本は「現代のニューエイジ運動の重要な源泉」であると述べた。[95]

『北米の女性と宗教百科事典』によると、ニューエイジ哲学の指導者数名がベイリーの教えをさらに発展させており、その中には、JZナイト(ラムサという名の存在と交信していると主張している)、ヘレン・シュックマン(「筆記」と呼んだテレパシーによる口述筆記のプロセスを通じて『奇跡講座』を著した)、エリザベス・クレア・プロフェット(「昇天したマスターからの口述筆記」と称するものを出版した)といった著名人が含まれている。これらの発展は、他の情報源では「スピンオフ」や分派グループと呼ばれています。」[96] (p. 65) [97] (p. 557) 神智学、ベイリー、エリザベス・クレア・プロフェットの違いは、エリザベス・クレア・プロフェットの核シェルターの建設を含む壊滅的な変化と生存主義という急進的な概念に関連して指摘することができます。[98] (p. 81) エリザベス・クレア・プロフェットの著作の妥当性は、「… 神智学の著述家によって異論が唱えられました」。[要出典]

派生グループの多くの主張と教えは、それらの相違を強調しています。たとえば、「アセンダント マスター」というフレーズと意味については、マークとエリザベス プロフェットによって採用されたが、神智学者やアリス ベイリーによって採用されなかったという点で、広範囲にわたる混乱があるようです。[99] [100] [自費出版ソース? ] (p. 111) 概念と言語は、一般の人々の心の中で混同されています。[101]

心理療法と治癒への影響

1930 年、ベイリーはイギリス系オランダ人の心霊学者、神智学者、学者のオルガ・フレーベ=カプタインの支援を得て、スイスのフレーベ=カプテインの邸宅、カーサ・ガブリエラに短命の「心霊研究学校」を設立しました。(1932 年、ベイリーとフレーベ=カプタインの個人的な対立により学校は閉鎖され、フレーベ=カプタインはエラノスグループに学校を置き換えました。)

サイコシンセシスの創始者であるロベルト・アサジオリは、スピリチュアル・リサーチ・スクールの講師であった。[102]彼は1930年代もベイリーと密接な関係を保ち、彼の著作のいくつかはベイリーの雑誌「ザ・ビーコン」に掲載され、ベイリーの組織であるルシス・トラストの理事でもあった。[103]彼は1910年からサイコシンセシスと呼ばれる心理学へのアプローチを開発し、彼の方法は後にベイリーの研究のいくつかの要素に影響を受けた。[104] [105] [106] [107] [108]しかし、作家のジョン・ファーマンとアン・ギラは、アサジオリはサイコシンセシスと宗教または形而上学の領域の間に「沈黙の壁」と呼ばれるものを保ち、それらを混同しないように主張したと書いている。[109]

ロジャー・J・ウールガーは、 1999年にケンブリッジ大学で開催された「脳を超えて」会議で発表した論文の中で、「タンズリーの著書にも、ブレナンの著書と同様に、肉体を取り囲むエーテル体、感情体、精神体、霊体と呼ばれる微細体の階層構造の説明がある。(タンズリーは、このモデルの出典を、ヒンドゥー教の教えの古典であるパタンジャリのヨガ・スートラに関するアリス・ベイリーの神智学的な解説に求めている)」と述べている。[110]

ベイリーの影響は、ヒューマン・ポテンシャル・ムーブメントなど、彼女が直接関わったことのない治療コミュニティにも見受けられます。[6]また、シャロン・フィッシュ著『THERAPEUTIC TOUCH: Healing Science or Psychic Midwife?』 でもベイリーの名が引用されています。[111]

UFOグループへの影響

アリス・ベイリーは未確認飛行物体について何も言及していない。[112] これは驚くことではない。アリス・ベイリーの本は1919年から1949年の間に書かれたからである[113]し、「UFOに特に焦点を合わせた宗教の出現は1947年以降の現象である」[114]。しかし、彼女はマスターが人間のレベルを超えて進化したと語り、惑星や星さえも生命体とみなす生きた宇宙の宇宙論を説いた。これらの考えは、ベイリーや他の神智学派とUFOを結びつける人々の心の一部を説明するかもしれない。例えば、クリストファー・パートリッジは、この結びつきを「簡単に移せる」と書いた。[115]秘教的な著作とUFOの両方に興味を持ち、それらを結びつける人々のサブセットが存在するという意味で、このつながりは確かに存在する。それは、アリス・ベイリーや神智学を引用している本の中にもUFOを引用しているものがあるという事実からもわかる。[116]

クリストファー・パートリッジは、ベイリー、ルドルフ・シュタイナー、そして神智学全般の著作が、彼が「UFO宗教」と呼ぶものに影響を与えたと書いている。 [117] 彼は「神智学にはいくつかの主要な分派があるが、厳密に言えば、UFO宗教に最も重要な影響を与えた分派はアリス・ベイリーによって発展させられたものである」と説明した。[118]パートリッジはまた、最初のUFO宗教はガイ・バラードの「I Am」活動であると示唆したゴードン・メルトンの言葉を引用した。[117](ベイリーはこれを「安っぽいコメディ」と表現した。[119])

南カリフォルニア大学のロバート・S・エルウッド教授は、1970年代にアメリカ合衆国の幅広い宗教団体や霊的団体を調査したが、その中にはダニエル・フライというコンタクティが設立したUFO信者の全国団体「Understanding, Inc.」も含まれていた。彼は「集会には特別な宗教的慣習はないが、アリス・ベイリーの著作に由来するニューエイジの祈りが祈祷文として使われている」と報告している。[120]

ウォルヴァーハンプトン大学のジョージ・D・クリサイドは、ベイリーが太陽神殿団や関連するUFO組織の思想に与えた影響について言及した。 [121]

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940713 No.7459

>>7435

なぜNEWという言葉がつくものが多いのだろう?

ニューエイジ

ニューソート

ニューワールドオーダー

世界新教育連盟(the New (later World) Education Fellowship)

etc….

今後「NEW」とつく新しい言葉が広まりだしたら、パッケージを変化させただけの神智学の思想が、拡散されているかもしれないと疑っても良いのでは?

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940713 No.7460

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>>7444

ユネスコ関連

徳川頼貞

https://ja.wikipedia.org/wiki/徳川頼貞

徳川 頼貞(とくがわ よりさだ、旧字体:德川 賴貞、1892年(明治25年)8月16日 - 1954年(昭和29年)4月17日)は、日本の音楽学者、政治家、実業家。位階は正三位。勲等は勲二等。爵位は侯爵。雅号は薈庭(わいてい)。音読みで「ライテイさん」とも呼ばれた。

概要

御三家の紀州徳川家第16代当主。母方の祖父・徳川茂承は紀州藩主。母方の祖母・徳川則子を通じて伏見宮邦家親王の曾孫に当たる。父方の祖父は田安徳川家第8代当主・徳川慶頼であり、徳川宗家第16代当主・徳川家達は伯父に当たる。

楽譜や音楽文献、古楽器類の収集家として知られ、「音楽の殿様」と称された。日本楽壇の進歩発展に尽力するなど、戦前における西洋音楽のパトロンとして頼貞の果たした役割は大きい。戦前は貴族院議員として、戦後は参議院議員として、約30年間にわたって憲政に携わり、音楽を通じて築いた人脈を利用して主に外交において活躍した。ユネスコ国会議員連盟、フィリピン協会、全日本音楽協会の各会長、パリ国立高等音楽院名誉評議員などを歴任した。また、万国議員商事会議、列国議会同盟会議、万国音楽連盟、ユネスコ国際会議などには日本代表として出席している。

妻の為子は公爵島津忠重の妹。頼貞は島津家を通じて香淳皇后の義理の叔父に当たる。

気になる箇所

戦時中は第14方面軍の最高顧問としてフィリピンに約1年間の任期で派遣され、文化面を通じての宣撫活動に従事した。1943年には村田省蔵の比島調査委員会で副委員長に就任[17]。マニラ郊外のラスピニャス教会[注釈 10](en:St. Joseph Parish Church, Las Piñas)にある世界で唯一とされる竹製パイプオルガン(en:Las Piñas Bamboo Organ)が適切に保存されていないことを憂慮し、マラカニアン宮殿の行政府長官ヴァルガスに面会してフィリピン人の手によって修理する必要性を力説。ヴァルガスは頼貞の提案に賛同し、修理費の大部分をフィリピン政府が負担することで合意した。しかし、一部は民間で負担しなければならなかったが、頼貞がマニラ大司教ロハティに協力を求めたところ、無事にロハティの協力が得られてカトリック信者からの寄付金も集まり、最終的には頼貞の俸給を全て寄付することで修理は軌道に乗っている。頼貞は修理の完成を見ることなく帰国したが、ラスピニャス教会の入り口には「This organ has been restored by Marquis Tokugawa of Japan(このオルガンは日本の徳川侯爵によって修復された)」と書き込まれているという[18]。

・1951年(昭和25年)6月18日から7月11日までパリのユネスコ本部で開催された第6回ユネスコ総会に日本政府代表団[注釈 11]の一員として参加。総会ではフィリピンの反対を受けたが、米国をはじめとしてパナマや中華民国の積極的な支援を得て日本のユネスコ加盟が承認された。帰国前にイタリアのカステル・ガンドルフォに避暑していたローマ教皇ピウス12世を訪問する機会に恵まれ、避暑先のガンドルフォ城で非公式に会談している。別れ際に教皇から希望を聞かれた頼貞はバチカン宮殿の秘苑を散策することを希望し、教皇の快諾を得て帰国日の8月30日夕方に秘苑を数時間散策している。

1954年(昭和29年)4月16日に十二指腸潰瘍のため国会会期中の請暇を申し出た矢先の翌4月17日午前6時30分、東京都杉並区天沼三丁目725番地の自宅で死去[20]。61歳没。千代田区の聖イグナチオ教会で告別式が営まれ、遺骨は葬儀が執り行われた長保寺の和歌山藩主徳川家墓所に埋葬された。葬儀委員長は下村宏が務めた。戒名は優公院殿。家督は長男の頼韶が継いだ。

外国勲章佩用允許

1927年(昭和2年)2月1日 - フランス共和国:カンボージュ勲章コマンドール[45]

1930年(昭和5年)10月9日 - フランス共和国:ドラゴンドランナン勲章グランオフイシエー[46]

1931年(昭和6年)

3月31日 - チュニジア国:ニシャンイフチカル勲章(英語版)グランクロア[47]

4月28日 - シャム王国:クーロンヌ勲章グランクロア[48]

1933年(昭和8年)11月2日 - イタリア王国:クーロンヌ勲章(英語版)グランオフイシエー[49]

1934年(昭和9年)10月26日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章コマンドール[50]

1935年(昭和10年)9月21日 - 満洲帝国:満洲帝国皇帝訪日紀念章[51]

1937年(昭和12年)6月3日 - ベルギー王国:レオポール第二世勲章グランクロア[52]

1940年(昭和15年)

5月31日 - ギリシャ王国:フェニックス勲章グランクロア[53]

12月25日 - ブラジル国:ナショナルドラクロアデュシュド勲章グランオフイシエー[54]

主な役職

議員連盟

ユネスコ国会議員連盟会長

国連国会議員連盟会長

文化事業

南葵育英会総裁

全日本音楽協会会長

聖チェチーリア音楽院名誉評議員

パリ国立高等音楽院名誉評議員

国際関係

国際文化振興会副会長

フィリピン協会会長

白耳義協会会長

日本ギリシャ協会会長

日伯中央協会会長

暹羅協会会長

日智協会会長

南洋協会評議員

日本ユネスコ国内委員会委員

企業関係

日本赤十字社常議員

松下電器産業相談役

近畿日本鉄道相談役

海外との繋がりも強い人物なのに、wikiのページが日本語ページしかない。先月もwikiページが編集されている

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940713 No.7461

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>>7444

マルサス会議とその成果

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jshet1963/26/26/26_26_1/_pdf/-char/ja

Societe de Demographie Historique International Union for the Scientific Study of Populationとは, 諸機関(UNESCO, Centre national de la Recherche scientifique, Ecole des hautes Etudes en Sciences sociales, Maison des Sciences de l'homme, Institut national d'Etudes demographiques)と共同 し, フランス共和国大統領, 首相, 各大臣他の援助を得, かつ多数の諸個人の承認を得,マルサス会議Colloque(組織委員会本部, Laboratoire de d6mographie torique, 54 boulevard Raspai1, 75006 Paris)を1980年5月27~30日 にわたりパリのユネスコ本部において開催した。

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940713 No.7462

>>7461

>マルサス

マルサス

https://www.y-history.net/appendix/wh1204-062.html

18~19世紀初頭のイギリスの古典派経済学者。『人口論』を著し、人口増加が貧困の要因となると論じ、人口抑制を説いた。

Thomas Robert Malthus 1766-1834 イギリスの古典派経済学の一人(1766~1834)。イギリス国教会の牧師であったマルサスは、産業革命(第1次)期の人口増加に直面してその動向を分析し、1798年に『人口論』を発表し、「人口は幾何級数的に増加するが、食糧は算術級数的にしか増加しない」という命題を打ち出した。

 人口増加がこのまま進めば、イギリス社会の貧困が深刻になると危機感を持ち、人口抑制の必要を説いた。マルサスは牧師らしく、人々に自己の性的欲望を抑えて結婚年齢を遅らせることを訴え、イギリスの将来に不安の影を投げかけた。このような思想は「マルサス主義」とも言われ、産児制限などが始まった。

 しかし、イギリス経済は19世紀を通じて加速度的な成長を遂げ、その工業化のおかげで、その間の3.5倍に増加した人口をみごとに支えることができた。ただし、アイルランドでは1840年代にジャガイモ飢饉が起き、イギリスによって半植民地されたこともあって工業化が遅れ、貧困が続いた。<村岡健次『世界の歴史』22 1999 中央公論社 p.348>

「マルサスの罠」

 マルサスが説いた、人口増加は食糧生産の増加を上回るため、人々は窮乏化をさけるためさまざまな方法で人口増大を抑制するようになるという説は「マルサスの罠」と言われている。人口増大と経済成長が同時にできなかったのは、自然環境が制約条件となっていたからであった。1800年以前は、あらゆる社会がほとんどの資源を土地に依存しており、その環境的要因によって世界経済は長い間本質的に変わらず、急速な成長をとげることがなかった。ところが、産業革命の過程で、1800年を境として起こったエネルギー革命によってこの制約が除去され、人口の増大と経済成長は調和的に進行することが可能となった。このような「マルサスの罠」からの解放を可能にしたエネルギー革命こそ、産業革命のもたらした最大の変化であるという産業革命の再評価が近年、支持を受けている。<長谷川貴彦『産業革命』2012 世界史リブレット 山川出版社 p.3-4、p.55~62>

3分でわかる! マルサス『人口論』

2023.8.2

https://diamond.jp/articles/-/325326

一部抜粋

人類の歴史で戦争が絶えなかった理由。それは人口と食糧の問題だった。人間に食欲と性欲があるかぎり、人口は増え続けて食糧生産は追いつかない。では、どうすればよいのか。人口増加を抑制すればよいのだが、その方法はやはり戦争しかないのか?

・マルサスの人口論

「一方の意見によれば、人間はこれからますますスピーディーにこれまで思いも及ばなかった無限の改善にむかって前進するだろう。もう一方の意見によれば、人間は幸せと不幸せの間を永遠に往復するのが世の定めであり、どんなに努力しても念願のゴールはやはり、はるかかなたのままだろう」(同書)

・特に有名なフレーズは「人口は、なんの抑制もなければ、等比級数的に増加する。生活物資は等差級数的にしか増加しない」という部分です。

・「財産はなるべく平準化することが長期的には絶対に有利である。所有者の数が多くなれば、当然、労働者の数は少なくなる。つまり、社会の大多数が財産の所有者となり、幸福になる。自分の労働以外に財産をもたない不幸な人間は少数になる」(同書)

 しかし、そんな社会をどうやってつくっていけばいいのでしょうか。

「人口の増加力と土地の生産力とのあいだには自然の不均衡があり、そして、やはり自然の大法則により両者は結果的に均衡するよう保たれる」「すべての生き物を支配するこの法則の重圧から、どうすれば人間は逃れられるか、私は知らない」(同書)

・「ご存じのとおり、牧畜の国は農耕の国ほど多くの住民を養えない」(同書)

・食糧問題は環境問題とともに世界全体の秩序と関連してくるので、より根本的な問題解決が模索されています。

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940713 No.7463

>>7462

マルサス主義

https://ja.wikipedia.org/wiki/マルサス主義

マルサス主義(まるさすしゅぎ、Malthusianism)とはトマス・ロバート・マルサスによって述べられた政治・経済に関する思想であり、産業革命期に展開された。マルサス主義の詳細については1798年の『人口論』による。その著書では、抑制されない人口増加が指数関数的になる一方で、食料供給の増加は算術的になることが予測されており、いかにしてマルサスのカタストロフィーに至るかが述べられている。マルサスはマンチェスター学派の思想のときに執筆した。

概要

それはトーリー党のパターナリズムに代表される貧困層へのチャリティーの考えは効果がなく、膨大な貧困層の増加をもたらすだけであるとの推論から導かれており、1834年の新救貧法に体現される給付の縮小というホイッグ党の経済学の考え方に発展し、反対者たちは「マルサスの法案は、貧困層が海外に移住し、低賃金で働き、粗末な種類の食物での生活を余儀なくするように考案された」[1]と述べ、貧困層の暴動や放火を招き、結局救貧院の建設をもたらすことになった。

その考えが進歩的な社交界に広まった頃には、チャールズ・ダーウィンを知人にもつ小説家ハリエット・マーティノーが支持者となり、マルサスの考えはダーウィンの理論の発端に重要な影響を及ぼした。

メリーランド大学の歴史教育センターのダン・リッチェル博士によると

大きなマルサスの恐怖は、「無差別なチャリティー」が貧困層人口の指数関数的増加や、成長する属国の軍を支えるための国庫に対する税の増加、そして国家破産のカタストロフィーさえ導かれるだろうということであった。以来、マルサス主義は一般的な人口爆発の問題と同一視されるようになったが、本来のマルサスの関心は、より具体的なものであり、依存する貧困層による人口爆発の恐怖に関するものであった!

マルサス理論の最初期の批評家の一人はカール・マルクスであり、「男子生徒レベルのものであり、デ・フォー、ジェームズ・スチュアート、タウンゼンド、フランクリン、ウォレスの浅薄な剽窃」と述べ(マルクスとマルサスによる資本の意味の違いは参考文献を参照)、他の批評家は、科学と技術の進歩を仮定すれば、際限のない指数関数的な人口増加が認められるだろうとしている。実際に化学肥料が開発されると人口爆発にも耐えうる生産量を確保することが可能となり、人口論の前提条件は克服された[2]。

https://kotobank.jp/word/マルサス主義-636156

・《Malthusianism》マルサスの唱えた人口と食糧の関係に関する学説。人口は幾何級数的に増えるが、食糧は算術級数的にしか増えないことから、この結果起こる貧困と悪徳は一種の人口抑制要因として働く自然現象であって資本主義経済の欠陥によるものではないとし、その対策として、結婚年齢の延期という道徳的抑制を推奨した。

出典 小学館デジタル大辞泉

・イギリスの古典派経済学者マルサスが主著《人口論》(初版1798)で主張した人口原理ないし人口政策のこと。マルサスの人口原理の骨子は,(1)人間の生存には食料が必要であること,(2)人間の情欲は不変であること,しかし(3)食料は算術級数的にしか増加しない(のちに〈収穫逓減の法則〉と呼ばれるに至ったもの)のに対し,人口は幾何級数的に増加すること,したがって(4)人口は絶えず食料増加の限界を超えて増加する傾向があること(なお,このようにして増加した人口は〈絶対的過剰人口〉と呼ばれ,マルクスの〈相対的過剰人口〉と区別される),(5)絶対的過剰人口はマルサスによって〈積極的抑制positive check〉と呼ばれた〈貧困と悪徳〉によって食料増加の限度内に抑圧される。このような人類の悲惨な過剰人口の宿命を論じた初版に対する学界の強い反対論に対し,マルサスは第2版(1803)において,〈道徳的あるいは予防的抑制〉の概念を導入した。道徳的抑制は結婚の延期を意味する。過剰人口は結婚の延期を通じての出生抑制により回避できる,とマルサスは考えたわけである。

新マルサス主義

このようなマルサスの人口原理を受け入れながらも,==マルサスの提示した結婚の延期という道徳的抑制は現実には実行不可能であるとし,結婚の中での産児調節の必要性と可能性を主張したのが新マルサス主義neo-Malthusianism==である。しかしマルサス自身は産児調節は考慮していなかったし,また宗教的背景から否定的態度であったことは当然である。この点において,産児調節を積極的にとりあげた社会運動家たちを,マルサスと区別して新マルサス主義者と呼ぶことは意味がある。新マルサス主義の用語がいつごろから使用されたかは明確でないが,1880年代初めころJ.M.ロバートソンが初めて使用したといわれる。この産児調節論を初めて積極的に展開したのはプレースFrancis Place(1771-1854)であるが,経済学者J.ミルおよびその子J.S.ミルによって産児調節の必要性が指摘されていることは注目すべきであろう。

執筆者:黒田 俊夫

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」

・本来はマルサスが『人口論』(1798)で説いた人口と食糧との関係に関する学説をいう。マルサスによれば、人口はいつも食糧の限度以上に増加しようとする。だがさまざまの障害があってそれは抑えられる。第一は人口の増加率と食糧の増加率との違いから生ずる食糧不足(終極的制限)、第二は流行病、戦争、極端な貧困、激しい労働のような人間の寿命を縮める諸要因(積極的制限)、および、結婚を控えるといった意識的行為(予防的制限)である。どの国でも第二の直接的制限のうちのいずれかが作用して人口増加を抑えるから、終極的制限が作用するのは飢饉(ききん)の際のみである。それでもなお、人口は食糧以上に増加しようとしており、これが下層諸階級の生活改善を妨げている。資本主義の下での労働者の貧困は、社会制度によるのではなく人口法則に基づいている。マルサスは、W・ゴドウィンらの社会改革論に反対するため、以上のような主張を展開した。以後、過剰人口の脅威を唱える思想をマルサス主義とよぶようになった。

 マルサスに対する批判は、いち早くマルクス、エンゲルスによってなされたが、以後もマルサス主義論争は絶えることがない。F・オッペンハイマーは『マルサスおよび新国民経済学の人口法則』(1900)で、マルサスに続く予言的マルサス主義者としてラベンスタインErnst Georg Ravenstein、ワーグナーAdolf Heinrich Gotthilf Wagner、リューメリンGustav von Rümelinなどをあげ、批判した。第二次大戦後は、いわゆる発展途上国の人口激増に伴う重圧がマルサス的問題の最たるものと考えられている。

[皆川勇一]

『T・R・マルサス著、高野岩三郎・大内兵衛訳『初版 人口の原理』(岩波文庫)』▽『R・L・ミーク編、大島清・時永淑訳『マルクス、エンゲルス マルサス批判』(1955・法政大学出版局)』▽『南亮三郎・館稔編『マルサスと現代』(1966・勁草書房)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

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940713 No.7464

>>7463

英語版

https://en.wikipedia.org/wiki/Malthusianism

マルサス主義とは、マルサスの成長モデルによれば、人口増加は潜在的に指数関数的であるが、食糧供給やその他の資源の成長は直線的であるため、最終的には生活水準が低下し、人口減少を引き起こすという理論である。マルサスの大惨事(マルサスの罠、人口の罠、マルサスの抑制、マルサスの危機、マルサスの亡霊、マルサスの危機とも呼ばれる)と呼ばれるこの出来事は、人口増加が農業生産を上回り、飢饉や戦争を引き起こし、貧困と過疎化をもたらす場合に発生する。このような大惨事は必然的に、人口をより低く、より容易に持続可能なレベルに「修正」させる効果を持つ(抑制されない成長や予防的な抑制の影響を受ける成長を支配する比較的ゆっくりとした時間スケールとよく理解されたプロセスと比較すると、関係する緩和要因の潜在的な深刻さと予測不可能な結果のために、かなり急速に)。[1] [2]マルサス主義は様々な政治・社会運動と結び付けられてきましたが、ほとんどの場合、人口抑制の提唱者を指しています。[3]

これらの概念は、トーマス・ロバート・マルサス牧師の1798年の著作『人口原理論』に述べられている政治・経済思想に由来する。マルサスは、技術の進歩によって食糧などの社会資源の供給量が増加し、それによって生活水準が向上する一方で、資源が豊富だと人口増加を招き、最終的には一人当たりの資源供給量が元のレベルに戻ると示唆した。経済学者の中には、 19世紀初頭の産業革命以来、人類はこの罠から抜け出したと主張する者もいる。[4] [5]極度の貧困が続いていることはマルサスの罠がまだ機能していることを示していると主張する者もいる。[6]さらに、食糧不足と過度の汚染により、発展途上国では先進国よりもこの罠の証拠が多いと主張する者もいる。[7]同様の、より現代的な概念は、人間の人口過剰である。

新マルサス主義とは、現在および将来の人類、そして他の種族のために資源と環境の完全性を確保するための人口計画を提唱するものである。 [2]英国では、「マルサス主義者」という用語は、より具体的には家族計画を支持する議論を指すこともあり、マルサス連盟などの組織もこれに該当する。[8]新マルサス主義者は、主に産児制限の使用を支持する点でマルサスの理論と異なる。敬虔なキリスト教徒であったマルサスは、「自制」(つまり禁欲)が人工的な産児制限よりも望ましいと考えていた。彼はまた、避妊具の使用が成長を抑制するのに強力すぎることを懸念しており、これは着実に増加する人口が、一般的に「社会の進歩」を継続させる上で不可欠な要素であるという18世紀の一般的な見解(マルサス自身もこれに固執していた)と矛盾している。現代の新マルサス主義者は、一般的に貧困よりも、環境の悪化や壊滅的な飢餓をマルサスよりも懸念している。

マルサス主義は、ジョージスト、マルクス主義者[9]、社会主義者[10] 、リバタリアンや自由市場論者[11]、フェミニスト[12]、カトリック信者[ 13 ] 、人権擁護者など、さまざまな学派から批判を集めており、過度に悲観的、研究不足、[13]、人間嫌いあるいは非人間的[14]と特徴づけられている。[15] [ 3] [16]多くの批評家は、マルサス主義は『人口原理』の出版以来信用を失ったと考えており、農業技術の進歩や現代の人間の出生率の低下をよく挙げている。[17]現代の支持者の中には、人口増加が最終的に資源を上回るという基本概念は依然として根本的に有効であり、意図的に人口増加を抑制する措置が講じられなければ、人類の将来に依然として積極的抑制が起こる確率が高いと考える者もいる。[18] [19] [より良い情報源が必要]さまざまな批判があるにもかかわらず、マルサスの議論は依然として、国内および国際的な環境規制を推進するための主要な議論であり続けています

歴史

マルサスの理論的議論

1798年、トーマス・マルサスは『人口論』の中で彼の仮説を提唱した。

彼は、人口は増加する傾向にあるが、国家の幸福には食糧生産の同様の増加が必要であると主張した。「国の幸福は、その国の貧困や富、その国の若さや古さ、その国の人口の少なさや多さに絶対的に左右されるのではなく、その国がどれだけ急速に増加しているか、つまり食糧の年間増加が無制限の人口の年間増加にどれだけ近づくかに左右される。」[20]

しかし、人口増加の傾向は、豊かさと不足の自然なサイクルにもつながります。

どの国でも、生存手段は住民の容易な生活とちょうど同じであると仮定します。人口増加に向けた絶え間ない努力は、生存手段が増加する前に人口を増加させます。したがって、以前は 700 万人を養っていた食糧は、現在では 750 万から 800 万人の間で分配されなければなりません。その結果、貧しい人々の生活ははるかに悪化し、その多くは深刻な困窮に陥ります。労働者の数も市場の労働の割合を上回っているため、労働価格は下がる傾向にありますが、同時に食料価格は上昇する傾向があります。したがって、労働者は以前と同じ収入を得るために、より一生懸命働かなければなりません。この困窮の時期には、結婚への意欲がなくなり、家族を養うことが困難になるため、人口は停滞します。その間、労働の安さ、労働者の多さ、そして労働者の間での産業の拡大の必要性により、耕作者は土地でより多くの労働力を使用するようになります。新しく土を掘り起こし、すでに耕作されているものをより完全に肥料を与えて改良し、最終的に生活手段が、出発した時期と同じ人口比になるまで続ける。労働者の状況は再びかなり快適になり、人口の制限はある程度緩み、幸福に関する同様の後退と進歩の動きが繰り返される。

— トーマス・マルサス、1798年。人口原理論、第2章。

''飢餓は、自然界の最後の、そして最も恐ろしい資源のようです。人口の力は、人間のための生存資源を生産する地球の力よりも非常に優れているため、早すぎる死が何らかの形で人類に訪れることは間違いありません。人類の悪徳は、人口減少の積極的な有能な大臣です。彼らは破壊の大軍の先駆者であり、しばしば彼ら自身で恐ろしい仕事を終わらせます。しかし、彼らがこの絶滅戦争に失敗すると、不健康な季節、伝染病、疫病、疫病が恐ろしい形で進み、何千、何万人もの人々を一掃します。成功がまだ不完全であれば、巨大な必然的な飢餓が背後から忍び寄り、一撃で人口を世界の食糧と同じレベルにします

— トーマス・マルサス、1798年。人口原理論。第7章、61ページ[21]''

マルサスは生前もその後も経済学者からの反対に直面した。数十年後に声高に批判したのはフリードリヒ・エンゲルスであった。[22] [23]

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940713 No.7465

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>>7464

初期の歴史

マルサスは、自分が認識していた問題を最初に概説したわけではない。このエッセイの原文は、貧困の起源に関する 18 世紀末の知的議論の一部だった。『人口原理』は、ウィリアム・ゴドウィンやコンドルセ侯爵、そして人類の完全性を信じていたマルサスの父親などの思想家に対する反論として書かれた。マルサスは、人類の再生産能力が速すぎると完全性への努力が失敗し、さまざまな問題を引き起こすと信じていた。

労働者階級の急速な再生産の傾向に対する彼の批判と、資本家による労働者の労働の搾取ではなく、それが労働者の貧困につながるという彼の信念は、彼の理論に対する広範な批判を招いた。[24]

マルサス主義者は、トーリー党の父権 主義に代表される貧者への慈善という考えは、貧者の増加につながるだけなので無益だと考えていた。これらの理論は、1834年の救貧法改正法に代表されるホイッグの経済思想に影響を与えた。この法律は反対者によって「貧者を強制的に国外へ移住させ、低賃金で働かせ、粗末な食べ物で暮らさせることを目的としたマルサスの法案」と評され、[25]暴動や放火にもかかわらず救貧院の建設を開始した。

マルサスは『人口論』の 後の版で理論を改訂し、より楽観的な調子をとったが、改訂の程度については学者の間で議論がある。[1]メリーランド大学ボルチモア郡校歴史教育センターのダン・リチェルによれば、

マルサスの最大の懸念は、「無差別な慈善」が貧困人口の急激な増加、この増加する被扶養者軍団を支えるための公費負担の増加、そして最終的には国家破産という大惨事につながるということだった。マルサス主義はその後、一般的な人口過剰の問題と同一視されるようになったが、マルサスの当初の懸念は、より具体的には被扶養貧困者による人口過剰への恐怖であった。[26]

マルサス主義の支持者の一人は小説家のハリエット・マーティノーで、彼女の交友関係にはチャールズ・ダーウィンもおり、マルサスの考えはダーウィンの進化論の発端に大きな影響を与えた。[27]ダーウィンは、人口増加によって最終的に特定の環境で生き残れる以上の生物が生まれるという考えに感銘を受け、生存と繁殖の闘争で相対的に有利な生物は、その特徴を次の世代に伝えることができるという理論を思いついた。マルサス主義の支持者もダーウィンの考えに影響を受け、両学派は優生学の分野に影響を与えるようになった。ヘンリー・フェアフィールド・オズボーン・ジュニアは、「不適格者」を排除することでマルサスの破局を回避するために、「人道的な産児制限による人道的な産児選択」を提唱した。[1]

19 世紀が進むにつれて、主に技術の進歩、農業への新領土の開拓、国際貿易の拡大などの結果として、マルサス主義は知的伝統としてあまり一般的ではなくなった。[1] 20 世紀前半、米国では「自然保護」運動が資源枯渇と自然保護に関心を寄せていたが、デロシェとホフバウアーは次のように書いている。「マルサス主義の復活が米国民のかなりの部分で定着したのは、オズボーンとヴォクトの本 [1948] が出版されてからだったと言っても過言ではないだろう」。[1]

現代の定式化

マルサスの理論の現代的な定式化は、クアムルル・アシュラフとオデッド・ガロアによって展開された。[28]彼らの理論構造は、所得の増加が再生産の成功にプラスの効果をもたらし、土地が資源生産の制限要因である限り、技術進歩は一人当たり所得に一時的な影響しか及ぼさないことを示唆している。短期的には技術進歩が一人当たり所得を増加させるが、技術進歩によって生み出された資源の豊富さは人口増加を可能にし、最終的には一人当たり所得を元の長期的なレベルに戻すであろう。

この理論の検証可能な予測は、マルサスの時代には技術的に進歩した経済は人口密度が高いことが特徴であったが、一人当たりの所得水準は技術的に後進的な社会の水準と変わらなかったというものである。

予防的人口制御と積極的人口制御

参照:人口計画

食糧供給に関して人口増加を管理するために、マルサスは予防的または積極的抑制と表現した方法を提案しました。

・マルサスによれば、予防的抑制とは、自然が人口の変化を変える方法である。主な例としては独身と貞操があるが、マルサスは避妊も幼児殺害、中絶、姦通とともに道徳的に擁護できないと非難した。 [29]言い換えれば、予防的抑制は出生率を下げることで人口を制御する。[30]

ポジティブチェックとは、人間の寿命を縮める出来事や状況のことである。主な例としては、戦争、疫病、飢饉などがある。[31]しかし、健康状態や経済状況の悪さもポジティブチェックの例とみなされる。[32]これらが早死にの率の高さにつながる場合、その結果はマルサスの大惨事と呼ばれる。隣の図は、既存の人口と食糧供給の観点から、そのような出来事が起こる抽象的な時点を示している。人口が共有供給の容量に達するかそれを超えると、ポジティブチェックが強制的に発生し、バランスが回復する。(実際には、食糧、水、その他の資源へのアクセスをめぐる複雑な地域的および個人的格差により、状況ははるかに微妙なものとなるだろう。)

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940713 No.7466

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>>7465

新マルサス理論

マルサスの理論は、多くの社会科学の場で繰り返し取り上げられるテーマである。ジョン・メイナード・ケインズは『平和の経済的帰結』の中で、マルサスの人口圧力が食糧供給に及ぼす影響でヨーロッパの政治経済が不安定になるというマルサスの描写で論争を始めている。 [33]資源枯渇と希少性の多くのモデルはマルサスの性格を帯びている。エネルギー消費の速度が新しいエネルギー源を発見して生産する能力を上回り、危機につながる。[要出典]

フランスでは、「マルサス政治」などの用語は人口抑制戦略を指します。マルサスに関連する人口制限の概念は、後の政治経済理論で生産制限の概念に変化しました。フランスの意味での「マルサス経済」とは、保護主義とカルテルの形成が容認されるだけでなく奨励される経済です。[引用が必要]

ボルシェビキ党の指導者でありソビエト連邦の主要な設計者であるウラジーミル・レーニンは、新マルサスの理論を批判した(ただし、産児制限や中絶全般については批判しなかった)。[34]

「新マルサス主義」とは、人口過多と過剰消費が資源枯渇や環境悪化を引き起こし、生態系の崩壊やその他の危険につながるのではないかという懸念である。[35]

過去1世紀の世界人口の急増は、マルサスの予測した人口パターンを例証するものであり、また複雑な前産業社会の社会人口動態を描写しているようにも見える。これらの発見は、長期的な歴史的ダイナミクスに関する新マルサスの現代数学モデルの基礎となっている。[36]

1940年代半ばから後半にかけては、全般的に「新マルサス主義」が復活し、1948年に2冊の影響力のある本(フェアフィールド・オズボーンの『略奪された地球』とウィリアム・ヴォクトの『生存への道』)が出版されてから2010年代まで続いた。[37]その間に世界の人口は劇的に増加した。環境保護運動に携わる多くの人々が、人口増加の潜在的な危険性について警鐘を鳴らし始めた。[1]ポール・R・エーリッヒは、 1968年に『人口爆発』を出版して以来、最も著名な新マルサス主義者の一人である。[38] 1968年、生態学者のギャレット・ハーディンは、マルサスの理論を大いに参考にした影響力のあるエッセイをサイエンス誌に発表した。彼のエッセイ「コモンズの悲劇」では、「有限の世界は有限の人口しか支えられない」こと、そして「繁殖の自由はすべての人に破滅をもたらす」ことを主張した。[39]ローマクラブは1972年に『成長の限界』と題する本を出版した。この報告書と組織はすぐに新マルサスの復活の中心となった。[40] 著名な生態経済学者ハーマン・デイリーは、定常経済の概念にマルサスの影響があったことを認めている。[41]他の著名なマルサス主義者には、 『飢餓1975!アメリカの決断:生き残るのは誰か?』の著者であるパドック兄弟がいる。

新マルサスの復活は、緑の革命によって食糧生産が大幅に増加し、人口増加にも対応できるようになるため、マルサスの警告は誇張されていたり時期尚早であったと主張する著述家からの批判を招いている。[ 17] [42] [43] 豊穣主義者のジュリアン・サイモンは、新マルサスの理論に反して、地球の「収容力」は本質的に無限であると書いている。[1]サイモンは、たとえば銅の物理的量が無限であるとは主張していないが、人間の目的のためには、その量はいかなる経済的意味でも制限も制限もされていないため、無限として扱うべきだと主張している。その理由は、1) 既知の埋蔵量は不確定である 2) 発見または新しい抽出技術の開発により、新しい埋蔵量が利用可能になる可能性がある 3) リサイクル 4) 既存の埋蔵量のより効率的な利用 (例: 「現在、特定のメッセージを伝達するのに必要な銅の量は、100 年前よりもはるかに少ない」[The Ultimate Resource 2、1996、脚注、p. 62]) 5) 経済的同等物の開発 (例: 通信用銅の場合の光ファイバー) などである。サイモンに応えて、アル・バートレットは、人口増加が指数関数的 (またはマルサスの表現では「幾何的」) 曲線として、天然資源と人間の創意工夫の両方を凌駕する可能性を再度強調している。[44]バートレットは特にエネルギー供給について執筆や講演を行っており、「指数関数を理解できないこと」を「人類の最大の欠点」と表現している。

ポール・エーリッヒのような著名な新マルサス主義者は、結局のところ、地球上の人口増加は依然として高すぎ、最終的には深刻な危機につながると主張している。[14] [45] 2007年から2008年にかけての世界の食糧価格危機は、世界の食糧供給の見通しに関するマルサスの議論をさらに刺激した。[46]

2004年から2011年頃にかけて、「ピークオイル」やその他の資源枯渇に関する懸念が米国で広まり、新マルサスの「ピーク主義者」の大規模な、しかし短命なサブカルチャーを生み出した。[47 ]

2009年に実施された国連食糧農業機関の調査[ 48 ]によると、今後40年間で食糧生産を70%増加させる必要があり、2050年には78億人から91億人に増加すると予測される人口を養うためには、発展途上国の食糧生産を2倍にする必要があるとされています[49]。地球温暖化の影響(洪水、干ばつ、その他の異常気象)は、地域によって異なる影響を及ぼし、食糧生産に悪影響を及ぼすと予想されています。[50] [51] FAOはまた、バイオ燃料のための農業資源の使用も、食糧の供給に下押し圧力をかける可能性があると述べています。[52]パリ気候協定の目標を達成するための一般的な「ネガティブエミッション」戦略としての炭素回収バイオエネルギー(BECCS)の最近の出現も、そのような圧力の1つです。

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940713 No.7467

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>>7466

支持する証拠

研究によれば、技術的優位性と土地生産性の高さは、西暦1年から1500年の間に人口密度に有意なプラスの効果があったが、生活水準に及ぼす効果はわずかであった。[53]さらに、学者たちは、非常に長い期間にわたって世界中のさまざまな場所で賃金に大きな傾向が見られなかったと報告している。[5] [54]たとえば、紀元前1800年から1600年のバビロニアでは、一般労働者の1日の賃金は約15ポンドの小麦を買うのに十分だった。紀元前328年頃の古典期アテネでは、対応する賃金で約24ポンドの小麦を買うことができた。西暦1800年のイングランドでは、賃金は約13ポンドの小麦だった。[5] : 50 これらの社会全体での技術発展にもかかわらず、1日の賃金はほとんど変わらなかった。1200年から1800年の間のイギリスでは、実質賃金の平均からの比較的小さな変動(2倍未満)しか起こらなかった。黒死病やその他の疫病による人口減少の後、イギリスの実質所得は1450年から1500年頃にピークに達し、その後イギリス農業革命まで減少し続けた。[55]歴史家ウォルター・シャイデルは、ヨーロッパ全土で最初に黒死病が流行した後に流行した疫病の波が平準化効果をもたらし、土地と労働の比率を変え、土地の価値を下げて労働の価値を高め、雇用者と地主の富を奪い、労働者の経済的見通しと生活水準を改善することで経済的不平等を低下させたと仮定している。彼は「労働人口の生活水準の観察された改善は、数世代にわたる数千万人の苦しみと早死に根ざしていた」と述べている。この平準化効果は「人口回復によって新たな人口圧力が生じた」ことで逆転した。[56]

ロバート・フォーゲルは、マルサスの約1世紀前から19世紀にかけての寿命と栄養に関する研究を発表した。この研究では、ヨーロッパの出生・死亡記録、軍やその他の身長・体重の記録を調べたところ、身長の著しい低下と低体重が慢性的な飢餓と栄養失調の兆候であることがわかった。また、寿命が短いことも発見し、慢性的な栄養失調によって人々が病気にかかりやすくなっていると考えた。1750年以降、英国とフランスでは寿命、身長、体重が着実に増加し始めた。フォーゲルの研究結果は、利用可能な食糧供給量の推定値と一致している。[23]

マルサス主義を支持する証拠は、今日、人口が急増している世界の貧しい国々で見ることができる。特に東アフリカ[57]では、専門家はこの地域が人口増加のマルサスの影響からまだ逃れられていないと述べている。[58] たとえば、ジャレド・ダイアモンドは著書『崩壊』 (2005年)で、ルワンダ虐殺は過度の人口圧力によって部分的に引き起こされたと主張している。彼は、ルワンダは「マルサスの最悪のシナリオが正しかったと思われる事例を示している」と主張している。ルワンダの人口圧力により、人口密度と遅れた技術進歩が相まって、食糧生産が人口に追いつかなくなったとダイアモンドは説明している。ダイアモンドは、この環境がツチ族、さらには一部のフツ族の大量虐殺を引き起こしたと主張している。[59]この場合の虐殺は、マルサスの罠の潜在的な例を提供している。

>ルワンダの人口圧力により、人口密度と遅れた技術進歩が相まって、食糧生産が人口に追いつかなくなったとダイアモンドは説明している。ダイアモンドは、この環境がツチ族、さらには一部のフツ族の大量虐殺を引き起こしたと主張

本当に?

#18916863 at 2023-05-28 19:46:37 (UTC+1)

🇿🇦Q Research South Africa #11: Diamonds, Gold, and War Edition

https://www.8kun.top/qresearch/res/18778547.html#18916863

「秘書官:仲介業者と企業がいかにしてルワンダ虐殺を武装させたか」 – Armscor 1/2

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940713 No.7468

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>>7467

このwikiページも、他国の言語では情報があるのに、日本語版はない

国家安全保障研究覚書200 - 米国の利益を増進するために特定の国の人口削減を主張する米国国家安全保障会議の研究

https://web.archive.org/web/20170210230325/https://www.nixonlibrary.gov/virtuallibrary/documents/nssm/nssm_200.pdf

国家安全保障研究覚書 200

https://en.wikipedia.org/wiki/National_Security_Study_Memorandum_200

国家安全保障研究覚書200:世界人口増加が米国の安全保障と海外利益に与える影響( NSSM200 )は、「キッシンジャー報告書」としても知られ、アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンの最初の命令を受けてヘンリー・キッシンジャーの指揮の下、アメリカ合衆国国家安全保障会議によって1974年12月10日に完成した国家安全保障指令であった。

NSSM200は改訂され、 1975年11月26日にジェラルド・フォード大統領によってNSDM 314を通じて米国の公式政策として採用されました。 [1]当初は10年以上機密扱いでしたが、1990年代初頭に研究者によって入手されました。 [要出典]この報告書から開発された覚書とその後の政策は、米国が人口制御を利用して未開発国の政治力を制限し、外国の天然資源の容易な抽出を確保し、反体制派の若者の誕生を防ぎ、増加する人口を支えようとする国々からの干渉から海外の米国企業を保護する方法と考えられていました。

背景

冷戦時代のリチャード・ニクソン大統領の政権下で、政府は共産主義の世界的拡大を防ぐため、人口抑制を実施するという政策を採択し、ウィリアム・ヘンリー・ドレイパー・ジュニア少将 の助言の下、帝国主義のイメージを避けるために世界的な人口抑制の源泉を確立するため、国連人口基金(UNFPA)の設立を支持した。[2]世界中で生まれる将来の世代が富の蓄積に危険をもたらすと信じ、富裕層と米国政府は非難を避けるため、世界的な人口抑制政策を支持した。[2]

その結果、NSSM200は主にフィランダー・クラクストンによって起草され、米国の経済的および軍事的利益を守るためには世界人口管理が必要であるという結論に達した。[1] [3]この計画は、「経済的または人種的帝国主義」の印象を与えないようにし、「先進国が自国の力を抑えたり、富裕国が利用できるように資源を確保したりする政策と見られないように」するために作成された。計画の目標は「出生率の低下であり、人々の生活の改善ではない」と書かれていたが、主催者には「貧困層の生活の質の向上と発展を重視する」ように指示されていた。後に、このようなプロジェクトは「主に他の理由」によるものであると説明された。[4] [5]

目次

この覚書の基本的な論点は、後発開発途上国(LDC) の人口増加は米国の国家安全保障上の懸念事項である、なぜならば、経済発展の潜在性が高い国々で社会不安や政情不安を招く恐れがあるからだ。この政策は、人口の多い 13 か国における急激な人口増加を抑制するために人口抑制策と避妊の促進を「最重要視」している。米国は、急激な人口増加はこれらの国々の社会政治的、経済的成長と米国の国益に反すると考えている。なぜなら、「米国経済は海外からの鉱物資源を大量に、そしてますます必要とする」からであり、これらの国々は米国に対して不安定な反対勢力を生み出す可能性があるからだ。

要約すると、NSSM200は4つの主要な観察結果を提供している:[3]

1.外国の人口増加は地政学的権力を増大させ、米国の利益に反対する可能性をもたらす

2.アメリカは天然資源を容易に入手するために発展途上国に依存している

3.出生率が高いと、既存の政府に反対する若者が増える

4.アメリカの企業は、人口増加に対応するために外国政府からの干渉を受けやすい。

この報告書は、米国の指導力が「国家指導者に影響を与える」こと、そして「国連、USIA、USAIDによるマスメディアやその他の人口教育・動機付けプログラムに重点を置くことで、人口関連の取り組みに対する世界的な支援の向上を目指すべき」と勧告している。

指定国

報告書では、米国の安全保障上の利益に関して特に問題がある国として、インド、バングラデシュ、パキスタン、インドネシア、タイ、フィリピン、トルコ、ナイジェリア、エジプト、エチオピア、メキシコ、コロンビア、ブラジルの13カ国が挙げられている。これらの国は、世界の人口増加の47パーセントを生み出すと予測されている。

また、人口抑制措置を建設的に実施していると見なされる国々に余剰食糧を優先的に配分することを米国が検討すべきかどうかという疑問も生じている。

全般的な監督

この論文では、1974 年に予測された世界人口の動向を考察します。

分析セクションと政策提言の 2 つの主要セクションに分かれています。

政策提言は 2 つのセクションに分かれています。米国の人口戦略と出生率低下の条件を整える行動です。この論文で繰り返し述べられている大きな懸念は、人口が飢餓と飢饉に与える影響に関するものです。

「人口増加は、特に最も貧しく、最も急速に成長している後発開発途上国(LDC)における食糧需要に深刻な影響を及ぼすだろう。通常の気象条件で、食糧生産が最近の傾向に沿って増加すると仮定すると、世界の農業生産量は人口よりも速く拡大する可能性があるが、それでも食糧の分配と資金調達に深刻な問題が生じ、今日の栄養不良レベルでさえ、より人口の多い大規模なLDC地域の多くで食糧不足が起こる確率が高い。今日でも、毎年1,000万から2,000万人が直接的または間接的に栄養失調で死亡している。さらに深刻なのは、時々発生する可能性のある大規模な農作物の不作の結果である。

「短期および中期的に最も深刻な結果は、世界の特定の地域、特に最貧地域で大規模な飢餓が発生する可能性があることです。世界の食糧需要は、容易に入手できる肥料と十分に水を与えられた土地がすでに広く利用されている時期に、年間 2.5% 以上増加しています (食生活と栄養の改善を適度に考慮)。したがって、食糧生産の増加は、主に収穫量の増加によって賄われなければなりません。

「人口増加率の高い国は輸入を継続的に増やす余裕はないが、今後1~2世代で食糧生産を2~4%着実に増やすのは困難な課題だ」

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940713 No.7469

>>7468

重要な洞察

・「米国経済は、海外、特に発展途上国からの鉱物を大量に、そしてますます必要とするだろう[国家物質政策委員会、国家物質政策に向けて: 基本データと問題、1972 年 4 月を参照]。この事実により、米国は供給国の政治的、経済的、社会的安定に一層の関心を寄せることになる。出生率の低下による人口圧力の緩和がそのような安定の見通しを高める可能性があるところでは、人口政策は資源供給と米国の経済的利益に関係するようになる…。ほとんどの鉱物の高品位鉱石の埋蔵量が判明していることから、すべての工業化地域が発展途上国からの輸入にますます依存することになる。鉱物供給の本当の問題は、基本的な物理的充足度ではなく、アクセス、探査と採掘の条件、生産者、消費者、ホスト国の政府間での利益の分配といった政治経済的問題にある」[第 3 章「鉱物と燃料」]。

・「政府の行動、労働争議、妨害行為、または内乱によって、必要な物資の円滑な流れが危険にさらされる。人口圧力が唯一の要因ではないことは明らかだが、人口増加が緩慢またはゼロの状況では、こうしたタイプのフラストレーションははるかに起こりにくい」[第 3 章「鉱物と燃料」]。

・「人口増加率が高い。多くの後発開発途上国で非常に高い割合を占める若者は、高齢人口よりも不安定で、極端で、疎外感や暴力に陥りやすい傾向がある。こうした若者は、政府の法的制度や、彼らの問題の原因とされる「体制」、「帝国主義者」、多国籍企業、その他の(多くの場合は外国の)影響力の不動産を攻撃するよう説得されやすい」[第 5 章「人口増加圧力が国家安全保障に与える影響」]。

・「我々の活動が、LDC に対して先進国が LDC に反対する政策をとっているように思われないように注意しなければならない。LDC で我々が支援するこの分野のあらゆるアプローチは、国内で支援できるものであることに注意しなければならない。『第三世界』のリーダーは先頭に立って、成功したプログラムの功績を得るべきである。この文脈では、LDC のリーダーに対して、そのような家族計画プログラムが機能しており、妥当な期間内に機能する可能性があることを示すことが重要である。」[第 1 章「世界の人口動向」]

・「しかし、このような繊細な関係においては、内容だけでなくスタイルにおいても強制的な印象を与えないようにすることが重要である。」

・地政学的戦略としての妊娠中絶は、報告書の中で示唆に富んだ意味合いで数十回言及されている。「中絶に頼らずに人口増加を抑えた国はない。発展途上国の状況では、予測方法は利用できないことが多いだけでなく、無知、準備不足、誤用、不使用のために失敗することが多い。これらの後者の状況のた​​め、発展途上国では妊娠中絶に頼る女性が増えている。

・人口制御と人口削減戦術。

効果

マーシャル・グリーンは1975年12月3日に人口問題調整官に任命された。 [1]数日後の1975年12月15日、米国大使はNSDM 314の政策を実施し、受入国の人口増加の懸念を評価するよう命じられた。[1] NSSM200とNSDM 314から採用された政策は、国家安全保障会議が食糧力による食糧差し控えと軍事力による人口増加防止を提唱し、次のような覚書を出した1976年にさらに発展した。「場合によっては、強い指示には不妊手術の受入国への支払いなどのインセンティブや、大家族の住宅や学校の割り当ての優先順位を低くするなどのディスインセンティブが含まれる。このような指示は、効果的なプログラムに不可欠である」。 [1] [2]その結果、諸外国に対して不妊手術のための資金、不妊手術のための住宅、不妊手術のための学校などのプロジェクトの創設が提案された。[3]

経済戦争学派(EGE)は、この覚書の結果、米国は社会的脅迫を利用して不妊手術を強制し、食料力を人口増加の抑制手段として利用することで、人口抑制政策をナイジェリアに対する経済戦争の武器として利用することになったと述べた。 [3] EGEは、ナイジェリアは潜在的な核兵器保有国に近づきつつあった状態から発展途上国へと転落し、米国はナイジェリアの資源を支配し、そこにある米国企業の利益を維持できるようになったと書いている。[3]

2002年6月のペルー共和国議会の自発的外科的避妊に関する調査小委員会によれば、NSSM200は「出生率の低下を達成するために米国政府が前世紀の最後の四半世紀に定義した世界戦略」であり、ペルーでの強制不妊手術への米国国際開発庁(USAID)の関与の原因となった。[6]

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940713 No.7470

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>>7468

#16030205 at 2022-04-07 16:39:10 (UTC+1)

🇨🇦Q Research Canada #30: "Honks Shall Haunt Their Dreams " Edition

https://8kun.top/qresearch/res/15801702.html#16030205

長年にわたるつながり

https://tapnewswire.com/2022/04/a-longstanding-connection/

キッシンジャーと人口削減

NoMoreFakeNews.com

今日は、2014 年 11 月に書いた記事の短い抜粋を再投稿します。

私がそうするのは、世界経済フォーラムの創設者であるクラウス・シュワブ氏が、グレート・リセット、新たな常態、そして世界がどのように変化するかについて延々と語り、書いているからです。

シュワブ氏が若い頃、ハーバード大学で指導を受けたのはヘンリー・キッシンジャーだった。このつながりは非常に重要だった。

2014年から—

故アレクサンダー・コックバーン氏は、1994年9月8日付ロサンゼルス・タイムズ紙の論説欄に寄稿した「第三世界における米国の真の政策:不妊手術:「エンパワーメント」の靴墨は無視せよ――目的は原住民の繁殖を防ぐことだ」の中で、キッシンジャーが委託した1974年の悪名高い国家安全保障研究覚書200号を「人口問題を扱った」ものとして論評した。

「…キッシンジャーのアナリストたちの真の懸念は、第三世界の資源への米国のアクセスの維持だった。彼らは、人口増加の『政治的影響』が第三世界の国内の不安定化を引き起こすことを懸念していた…そのような国々で飢餓や食糧暴動、社会秩序の崩壊が起こり、『必要な物資の円滑な流れが危険にさらされるだろう』と[キッシンジャーのメモは警告している。」

言い換えれば、人口が多すぎるということは、多国籍企業にとって混乱を招き、その企業こそがまさにその人々から国家を奪うということだ。

コックバーンは、キッシンジャーのメモの筆者らが「食糧援助よりも不妊手術を好んだ」と指摘している。彼はさらに、「1977年までに、AID(米国国際開発庁)の人口計画責任者ライマート・レイブンホルトは、同庁の目標は世界の女性の4分の1を不妊手術することだと言っていた」と書いている。

1973 年に世界保健機関に「生殖調節のためのワクチンに関するタスクフォース」が設立されました。Ute Sprenger は「バイオテクノロジーと開発モニター」(1995 年 12 月) の中で、このタスクフォースについて次のように述べています。

「…抗精子ワクチンや抗卵子ワクチンなどの不妊治療ワクチンの研究開発のための世界的調整機関…」

シュプレンガーは、1995 年時点でこれらのワクチンを研究している大規模なグループがいくつかあったと指摘しています。その中には次のようなグループがあります。

* WHO/HRP。HRP は、スイスに拠点を置くヒト生殖に関する特別研究・開発・研究トレーニング プログラムです。このプログラムは、「スウェーデン、英国、ノルウェー、デンマーク、ドイツ、カナダの各政府、および UNFPA と世界銀行」によって資金提供されています。

* 人口評議会。ロックフェラー財団、国立衛生研究所(米国連邦政府機関)、米国国際開発庁(CIAとの協力関係で悪名高い)から資金提供を受けている米国の団体です。

* 国立免疫学研究所。インドにあり、「主な資金提供者はインド政府、カナダ国際開発研究センター、そして[どこにでもある]ロックフェラー財団です。」

* 米国国立衛生研究所の一部である米国国立小児保健発育研究所[!]にある人口研究センター。

—2104年末抜粋—

クラウス・シュワブはヘンリー・キッシンジャーによって設立されました。

キッシンジャーはデイヴィッド・ロックフェラーの子会社だった。

デビッド・ロックフェラーは、ロックフェラー帝国の最近の王子であり、他の多くの取り組みの中でも、人口削減に関する研究を先駆的に推進し、維持してきました。

そして今もそうしています。

この血統はゆるいものではありません。緊密に結びついており、意図的なものであり、人口削減が必要であるという宣言を伴います。

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940713 No.7478

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>>7462

[翻訳]

イングランドにおける受胎調節運動

http://reposit.sun.ac.jp/dspace/bitstream/10561/743/1/v43n4p311_yanagita.pdf

…中略

ここに訳載しようとするのは、定価6ペンスの How-Martin, Edith ed., The Birth Control Movement(London: John Bale, Sons & Danielsson, Ltd.,1930), 31pp の全訳である1。この冊子を一言に約するなら、簡潔にして要を得た近代イングランドの受胎調節史と言える。しかも本冊子の記述の幾つかは現在の研究書の中でも引用され、貴重な情報源の1つになっている2。

…中略

古今東西を問わず、多くの大胆不敵な思索者たちが人口数や、個々人の資質を人間の管理下に置くという社会状態や計画を空想してきました。改革者や夢想家たちはつねに早世、疾病、飢餓、戦争、および野蛮状態によってその夢を打ち砕かれてきました。プラトン(Plato,427‐347B.C.)以降の夢想は世界をより幸福で、かつ健康な人種でひたすら充満する3)でありました。非常に緩徐ではありますが、経済状況と人間の情欲とは変更されることなくこうした方向へと進んできています。信頼に足る避妊法の発明は新たな希望や試みをもたらしました。

…中略

イギリスの起点

近代的な受胎調節運動は事実上、他のどの国々よりもイングランドにおいて間断なく進展してきましたし、それにより科学的な進歩を遂げてもきました。トマス・マルサス牧師7)(Rev. Thomas Malthus,1766‐1834)が公衆の衆目を引きつける新しい考えを実直に打ち出した人物で、1798年に『人口原理に関する1論』を公刊して、今なお時代遅れでない論争を引き起こしました。彼の意見では、無制限な家族によって次から次へともたらされる不幸の数々に対する救済策として晩婚が推奨されました8)。

全文はリンク先から…

参考

pb

>>>/qnotables/114471, >>>/qnotables/114473, >>>/qnotables/114474, >>>/qnotables/114475, >>>/qnotables/114477, >>>/qnotables/114478, >>>/qnotables/114479, >>>/qnotables/114480, >>>/qnotables/114481, >>>/qnotables/114482, >>>/qnotables/114483, >>>/qnotables/114484, >>>/qnotables/114485, >>>/qnotables/114486 プラトンは優生学と職人軽視と知性主義(馬鹿は人間ではない)と偽りの公平感を与える儀式(選挙など)の基盤?

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940713 No.7479

>>7434

>>7435

ルドルフ・シュタイナー=人智学の「智」、そしてニューエイジの起源とも言えるブラヴァッキー夫人の神智学協会の「智」も、このグノーシスの神様を表す日本語訳である

(ネット上で既に深掘りしてくれていた方の情報より)

グノーシス

https://kotobank.jp/word/グノーシス-55787

・〘名〙 (gnōsis) 知識の意。特に古代ギリシアの末期では、神秘的、直観的にとらえられた神の霊性の認識をいう。

出典 精選版 日本国語大辞典

・《知識の意》1~3世紀ごろローマ・ギリシャ・ユダヤなどで広く行われたキリスト教的主知主義の一派、グノーシス派の説く、最高完全の知識。神智

出典 小学館

・「グノーシス」は元来ギリシア語で「知識」あるいは「認識」の意。ただし宗教学、宗教史の用語としては、グノーシスによって救済を得る宗教思想(グノーシス主義)をさす。この場合の「グノーシス」は、人間がその本来的自己を現実世界においては非本来的なもの(身体、国家、宇宙、とりわけ人間の運命を支配する星辰(せいしん))によって疎外されているという反宇宙的二元論の立場から、宇宙を超える至高神と人間の本来的自己との本質的同一性の「認識」を救済とみなす宗教思想の意。グノーシスは元来、初期キリスト教教父たちにより、彼らが代表する正統教会(初期カトリシズム)から排除された異端思想の一つの呼称であった。それが近代以降、たとえキリスト教と直接的関係がなくても、前記と同種の思想的特徴を有する諸宗教思想(たとえばへルメス文書やナグ・ハマディ文書の一部、マンダ教やマニ教)にも適用されるようになる。

 グノーシスは、西暦紀元前後、ローマ帝国の圧制下にあった属州(とくにサマリア、シリア、エジプト、ペルシア)の有産知識人層を基盤として成立し、当時の民間宗教の反合理的諸要素(魔術、呪術(じゅじゅつ)など)を採用し、密儀宗教、ゾロアスター教、ユダヤ教、そしてキリスト教に寄生して、2~4世紀にローマ帝国のほぼ全域に広がり、グノーシス派またはグノーシス宗教を形成した。しかし、ローマ帝国イデオロギーに接近したキリスト教の攻撃によって、しだいに消滅していく。

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

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940713 No.7480

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>>7430

>スヴェーデンボリの死後、彼の思想への共鳴者が集まり、新エルサレム教会(新教会 The New Church とも)を創設

新エルサレム教会

https://kotobank.jp/word/新エルサレム教会-81338

通常スウェーデンボリ派教会,新教会ともいう。スウェーデンの 18世紀ルター派神学者E.スウェーデンボリの神秘神学を奉じる集団。最初新教会は別個の教会ではなく,各教会内のスウェーデンボリ信奉者のグループであったが,彼の死後,1787年ロンドンの元ウェスリー派説教師らによって別個の教会が立てられ,92年アメリカのボルティモアに最初の教会が設けられた。新教会総会,在アメリカ新エルサレム総会議,主教制をとる新エルサレム総教会の3組織がある。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

新教会

https://ja.wikipedia.org/wiki/新教会

新教会(しんきょうかい、英語: New Church)とは、キリスト教系の新宗教で、スウェーデンの科学者・神学者、エマヌエル・スヴェーデンボリ Emanuel Swedenborg (1688–1772)の著作に由来するものである。 スウェーデンボリィは、イエス・キリストから、少なくとも25年間以上の間、連続した幻を視るという体験を通して、新しい啓示を受けたと公言した。彼の著作によれば、神は伝統的なキリスト教会に代えて、「新教会」を設立することを予言する。そこでは、神を一人の人間、イエス・キリストとして礼拝の対象とした。新教会の教義では、人はそれぞれ自分自身の生き方を悔い改め、矯正し、再生すべく、積極的に関与しなければならない[1]。

この活動は、神がスウェーデンボリィに聖書の霊的意味を説明し、それはイエス・キリストの再臨であり、その再臨は真理の啓示という形でされたという信念によって基礎づけられている。信者たちは、スウェーデンボリィが霊界で最後の審判と新教会の創建を目撃したと信じている。新教会は、イエス・キリストを天地の唯一の神として信じ、その戒めに従うことが救いには不可欠であると信じる者達が設立した組織である。そのため、この信条をもっているキリスト教徒は、新教会運動の部分であるとも考えられる。新教会組織は、主の教会の普遍的な性質をも認めている。その普遍性は、自分の信じる宗教の真理から善を行う者は主によって天界に迎えられということにある。なぜなら神は善そのものであり、善を行うことは神と一つに結びつくということであるからだ。

信者たちは、新教会教義は書物から由来し、真理に関するさらなる照らしの恩恵を与え、また疑問を減少させ、個々人の過ちを認めさせ、より方向の確かで幸福な生活に向かわせてくれると信じている。この動きの別の名称は、スウェーデンボルグ主義、新エルサレム教会、主の教会、・・新教会、ジェネラルチャーチ・・がある。スウェーデンボリィは、著作を出版するとき、自分の名ではなく匿名で出版し、またその著作は、信条や教義による多彩な教会ではなく、愛と仁愛に基づく一つの教会を目指している。

歴史[編集]

スウェーデンボリィは神学著作の中で「新教会」が設立されることを述べているが、彼自身は決してなんらかの組織を設立しようとしなかった。1768年にスウェーデンで、スウェーデンボリィ著作と、この思想を推進しようとした2人の人物に対して、異端審査が開かれた。そこではスウェーデンボリィの神学著作がキリスト教の教義と矛盾しないかということが本質的に注目された。1770年の王室令で、その神学思想体系が全く検証されていないにも関わらず、スウェーデンボリィ著作は「明らかに誤っている」とされ、教えることを禁止された。スウェーデンボリィを支持している聖職者は、彼の教えを用いることをやめるよう命令され、税関職員たちは彼の著作を没収し、新たな教会会議の恩赦がない限りどの地域においても発行を禁じた。スウェーデンボリィはアムステルダムから王に手紙を書き、許しと保護を求めた。さらなるスウェーデンボリィに対する捜査は立ち往生し、事実上1778年に停止した[2]。

スウェーデンボリィの死の時点で、組織的教会を設立しようという試みがあったが、ついにその15年後の1787年5月7日に英国で新教会活動が成立する。英国はスウェーデンボリィがしばしば訪れ、亡くなった地である。1789年までに英国のあちこちで教会が生まれ、その年の4月に最初の新教会合同会議がロンドンのグレート・イーストチープ通りで開催された。新教会思想は伝道師たちによって米国にわたった。有名な伝道師の一人がジョン・チャップマン、別名ジョニー・アップルシードである。初期の伝道師は、アフリカの一部にも旅をした。

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