Q Research Japan/Nihon #20より
ジョン・ディーとは何者ですか?
(ジョン・ディーという人物の存在を、私は今まで知りませんでした)
(漫画'ワンピース'は、この人物の存在が元のネタらしい…ワンピースは一部しか読んだことがないから詳細はわからないのですが。下記の個人の方がブログに考察を載せてくれています)
子子子子子(ねここねこ) @kitsuchitsuchi 10月10日
魔術師ジョン・ディー:宮廷学者。エリザベスⅠ世のブレーン。航海技術の発展や新航路の開拓に関わった。キリスト教海賊団=大英帝国による植民地拡大の黒幕。神聖ローマ帝国の王侯貴族とも交流。ワンピースのD?安岡正篤(紅卍字会)の大先輩。偽天皇はガーター勲章に縛られ、海賊女王に逆らえない。
転載元:http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-68.html
(こちらのブログ主さんがまとめてくれている情報を参考にさせて頂きながら調べてみます)
MonkeyD. Luffy
https://en.wikipedia.org/wiki/Monkey_D._Luffy
ONE PIECE
https://www.netflix.com/jp/title/80217863
ジョン・ディー
https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョン・ディー
ジョン・ディー(John Dee、1527年7月13日 - 1608年または1609年)は、イングランド王国・ロンドン生まれの錬金術師、占星術師、数学者。ヴォイニッチ手稿歴代所有者の1人という説がある。
略年譜
1527年、イギリス王室で働く下級官僚を父として誕生。
1542年、ケンブリッジ大学に入学。
1548年、修士号を取得。ルーヴァン大学に2年間留学。ゲンマ・フリシウス、ゲラルドゥス・メルカトルらと交流する。その後パリ大学で講師を務める。
1551年、イギリスに帰国。エドワード6世の宮廷学者、宮廷占星術師となる。
1552年、ペンブルック伯爵家に仕え、ノーサンバーランド公の子供たちの家庭教師も務めた。
1553年、メアリ1世の即位に伴い、魔術師の嫌疑で投獄されるがその年の内に釈放。
1564年、著書「象形文字の単子」を出版。
1570年、モートレイクに居を構える。
1574年、結婚。しかし翌年には妻が死去。
1576年、ジェイン・フロモンドと再婚。
1580年ごろより、水晶玉観照による心霊研究と大天使ウリエルとの交感を実施。エリザベス1世に寵愛された。水晶玉の中に現れるのは天使であるとされ、それらが用いる奇妙な言語をディーは「エノク語」(Enochian Language)と呼んだ。これは後代の研究により、単なるでたらめではなく、それなりに理にかなった構造(ただし、それは英語によく似ているとも言われる)の言語であることが判明した。
1583年から1589年にかけて、エドワード・ケリー(Edward Kelley、1555年 - 1595年頃)と組んでポーランドとボヘミアを遍歴、各国の王宮などで様々な貴族たちに交霊実験と魔術を披露して評判となった。
1595年、ケリーは皇帝ルドルフ2世から魔術師の嫌疑をかけられて投獄され、脱獄に失敗して死亡。ディーはイギリスに帰国することとなる。
エリザベス1世は彼をリッチモンドで自ら出迎え、マンチェスターにあるキリスト教大学の校長に任命した。
1603年、ジェームズ1世が即位。彼は大の魔術嫌いであったため、ディーは引退を余儀なくされる。
1608年、モートレイクで貧困のうちに死去。
エノク魔術
20世紀以降の西洋オカルティズムにおいて「エノクの魔術」(Enochian magic)と呼ばれている体系は、天使たちがジョン・ディーに伝えた理論が19世紀末に再発見されたものとされている[1]。ディーのエノク文書のマグレガー・マサースによる魔術的解釈/翻案は、黄金の夜明け団の内陣回覧文書という形で団内で閲覧され[1]、その後、アレイスター・クロウリー編「春秋分点」誌やイズレエル・レガーディー編『黄金の夜明け』において公開された。
(英語版)
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Dee
ジョン・ディー(John Dee, 1527年7月13日 - 1608年または1609年)は、イギリスの数学者、天文学者、占星術師、教師、オカルティスト、錬金術師[4]。エリザベス1世の宮廷天文学者であり、その顧問であった。古美術愛好家としても知られ、当時イングランド最大級の図書館を所有していた。政治顧問としては、新大陸にイギリスの植民地を設立して「大英帝国」を形成することを提唱し、この言葉は彼の造語とされている[5]。
ディーは最終的にエリザベスの奉仕を辞め、オカルトと超常現象のより深い領域でさらなる知識を求めて探求を始めました。彼はペテン師であった可能性のある数人の人物と連携し、ヨーロッパ中を旅し、イギリス人のためにスパイしたとして告発された。王冠。イギリスに帰国すると、自宅と図書館が破壊されているのを発見した。彼は最終的に女王の仕えに戻りましたが、ジェームズ 1 世が女王の後継者となると断られました。彼はロンドンで貧困の中で亡くなったが、墓所は不明である。
・1564年、ディーはヘルメス教の著作『モナス・ヒエログリフ』(『ヒエログリフのモナド』)を著した。この著作は、すべての創造物の神秘的な統一を表現することを意図し、彼自身がデザインしたグリフをカバリスト的に徹底的に解釈したものである。この作品を神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世に献呈し、庇護を得ようとしたディーは、彼がハンガリー皇帝に即位した際にこの作品を贈ろうとした。この作品は、ディーの同時代の多くの人々から高く評価されたが、当時の口承による秘伝がないため、今日解釈することはできない[25]。
・1577年、ディーは、海洋帝国の構想を打ち出し、新世界(New World)におけるイギリスの領有権を主張する著作『General and Rare Memorials pertayning to the Perfect Arte of Navigation』を出版した。ディーはハンフリー・ギルバートと知り合い、サー・フィリップ・シドニーとその周辺とも親しかった[23]。
・1580年代初頭までに、ディーは自然の秘密を学ぶことにおける自分の進歩や、宮廷界での影響力や知名度の低下に不満を抱いていた。暦の改正案に関する彼のアイデアの失敗[28]、植民地の設立、北アメリカでの探検航海の結果が思わしくなかったことで、政治的庇護の望みはほぼ絶たれた。その後、彼は知識を得る手段として超自然的なものに精力的に傾倒し始める。彼は「スクライヤー」やクリスタル・ゲイザーを使って精霊とコンタクトを取ろうとし、それが自分と天使の仲介役を果たすと考えた[29]。
ディーは数人のスクライヤーとの最初の試みは満足のいくものではなかったが、1582年にエドワード・ケリー(当時はエドワード・タルボットと名乗っていた)に会い、その能力に大きな感銘を受けた[30]。
ディーはケリーを自分の奉仕に引き入れ、彼の超自然的な追求に全エネルギーを捧げ始めた [30] 。これらの「霊的会議」または「行動」は、常に浄化、祈り、断食の期間の後に、熱心なキリスト教の敬虔さをもって行われました[30]。ディーは、それらが人類にもたらす恩恵を確信していました。ケリーの性格を評価するのはさらに難しい。ケリーが皮肉を込めて行動したと結論付ける人もいるが、妄想や自己欺瞞を排除することはできない[31]。ケリーの「作品」は、そのボリューム、複雑さ、鮮やかさにおいて注目に値します。ディーは日記に、天使たちがこの方法でケリーを通じて何冊かの本を特別な天使言語またはエノク語で口述筆記したと記録している[32][33]。
・ディーは6年間の海外生活を終えてモートレイクに戻ると、自宅が荒らされ、図書館が破壊され、大切にしていた本や道具の多くが盗まれているのを発見した[20][34]。さらに、オカルト的な実践に対する批判が高まり、イングランドが彼の魔術的実践や自然哲学を受け入れにくくなっていることに気づいた。彼はエリザベスに支援を求め、エリザベスは彼がケリーを説得し、錬金術によってイングランドの経済的負担を軽減することを望んだ[b]。エリザベスは1595年、ついにディーをマンチェスターのクライスト・カレッジの所長に任命した[36]。
この旧司祭学院は1578年に勅許によってプロテスタントの機関として再興された[31]。 しかし、彼を軽蔑したり騙したりするその仲間たちに対して、彼はあまり統制をとることができなかった[17]。 在任初期に、彼は7人の子供の悪魔憑きについて相談を受けたが、関係者に彼のまだ広範な蔵書を閲覧することを許したものの、この事件にはほとんど関心を示さなかった[17]。
思想
ディーは熱心なキリスト教徒であったが、その宗教性はルネサンス期に広まっていたヘルメス主義やプラトン=ピタゴラス派の教義の影響を受けていた[45]。 [10]彼はヘルメス主義から、人間には数学を通して行使することができる神聖な力の可能性があるという信念を引き出した[27]。彼の目標は、ローマ・カトリック教会とプロテスタント教会の裂け目を癒し、古代人の純粋な神学を取り戻すことを通して、統一された世界宗教をもたらす手助けをすることだった[10]。
植民地設立の提唱
1570年以降、ディーはイングランドの政治的・経済的強化と新大陸への植民地設立の政策を提唱した[4]。彼の手稿『Brytannicae reipublicae synopsis』(1570年)は、エリザベス朝王国の状況を概説し[46]、貿易、倫理、国力に関するものであった[4]。
彼の1576年のGeneral and Rare Memorials pertayning to the Perfect Arte of Navigationは、イギリスが海外に植民地を設立することを提唱するために計画された未完のシリーズの最初の巻であった[47]。ディーは象徴的な扉絵の中で、海軍を強化することによって国を守るようにエリザベス1世に懇願する海岸に跪くブリタニアの姿を描いた[48]。ディーは、ジェフリーがアーサー王の征服にアイルランドを含めたことを利用して、アーサーが海外に「大英帝国」を築いたと主張した。[49] 彼は、新しい植民地の設立はイギリスに経済的に利益をもたらし、その植民地は強力な海軍によって保護されると主張した[50][51]。ディーは大英帝国という用語を作ったとされている[52]が、8年前の1568年に出版された彼の『Commentarioli Britannicae descriptionis Fragmentum』で最初に使用したのはハンフリー・リウィードであるとも考えられている[53]。
(もしかして、このディーの思想が根本となって今の腐敗した世界になっているのか?Ummmm)
(Qはそのことも示してくれていたのだろうか? [D])