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日本を偉大にする

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000000 No.591 [View All]

大手企業の闇に光を照らしていく。

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822752 No.7205

>>7204

https://web.archive.org/web/20040814022645/http://www.bestlife.ne.jp/geino/my_bestlife/37ohkawara/01.html

大河原愛子さん<vol.1>

 大河原愛子さんインタビュー

 下村満子さんからの紹介で登場していただいたのは、株式会社ジェーシー ・フーズネット・会長、大河原愛子さんです。日系アメリカ人である大河原 さんは24歳で冷凍ピザの会社の経営者となり、以来、ビジネスウーマンの先 駆けとして走り続けてきた人です。今でこそ日本人にも人気の高いピザです が、約40年前はチーズの臭いが嫌われる難しい食べ物だったとか。そのピザ が普及するまでのいつくかの転換期は、同時に、日本人のライフスタイルを 変える転換期でもあったようです。

 

下村満子さんと出会いは、「リーダーシップ111」の設立時

■―下村満子さんとの出会いを教えてください。

大河原:下村さんと最初に会ったのは、10年くらい前だったと思います。異 業種で働く女性のネットワーク「リーダーシップ111」を設立しようとい うときでした。それをきっかけに、下村さんと随分仲良くなりました。お誕 生日のパーティーに呼ばれたり、ときどきお茶を飲みに行ったりと、プライ ベートなお付き合いが続いております。

■―大河原さんから見ると、下村さんはどんな人ですか?

大河原: すごく頭が良くて、ジャーナリストですから、いろんな知識があっ て、お付き合いするのが面白い方です。それでも非常に心の温かいところが ありまして、こんなことを言ったら、怒られるかもしれませんけれど、とて もかわいい女性です。

1960年代半ば。ピザもスパゲティもめずらしい食べ物だった

■―御社設立の経緯を教えてください。

大河原:当社は1964年、東京オリンピックの年に設立されました。60年代の 日本には、マクドナルドも、ケンタッキーフライドチキンもなく、外食産業 は発達しておりませんでした。それでも東京オリンピックをきっかけに、日 本人が世界中の人と接することで、ヨーロッパやアメリカの食べ物や習慣に 興味を持つであろう、日本人も国際的になるのではないかと考えておりまし た。

 1960年代の半ばごろ、日本人は25万人くらいしか外国に行ってなかったの で、日本人にとってスパゲティもピザも非常にめずらしい食べ物でしたが、 早めにスタートしました。小さな企業は早めにスタートしないと、なかなか チャンスがありません。大企業が始めてしまうと、人・モノ・金が山ほどあ りますから、圧倒されてしまいます。

ニーズのないところに、ピザのマーケットを切り拓く

■―日本人のピザへの反応は、どうでしたか?

大河原:早過ぎたんですよね。日本にはハンバーガーさえなかった時代です から、まさかピザを食べる人はいません。ピザという新しい食べ物を紹介す ることは、苦労の連続でした。一番の問題はチーズ。外国人にとっての納豆 のように、日本人にとって、チーズはむずかしい食べ物でした。それから次 に大きな問題となったのが、冷凍ピザを焼く器具が家庭になかったことで す。大きな冷凍庫もない、こうした状況の中で、市場は小さく、日本人の ニーズのないところに、マーケットを作らなければなりませんでした。

■―今は食べたいと思ったら、いつでもピザは食べられますね。

大河原:そうなんです。最初の数年間は、ピザを宣伝していくことが重要で したし、儲からなくてもいいと思っていたんです。一人でも多くの日本人 に、ピザを食べていただければいいと考えていました。当時は1ドルが360 円。輸入物は非常に高くつきました。チーズを輸入しまして、ピザ生地の上 にのせてピザを焼くんですが、当時200円前後で売りました。その頃のサラ リーマンの初任給が、1万2000円か1万5000円という時代。200円とは随分 高級な食べ物でした。でも、そこも一つチャンスだと思ったのです。

■―それはなぜですか?

大河原:簡単に売れるようになったら、すぐ大企業に参入されていたかもし れませんが、幸い私どもは、じっくりとマーケット作りができました。スー パーの中でマネキン販売をし、マネキン販売といっても、そんなにお金もあ りませんでしたから、時には私も店頭に立って、ピザを焼いて、お客様に提供するというサービスをしていました。

大河原愛子さん AIKO OHKAWARA

株式会社ジェーシー・フーズネット代表取締役会長

エイボンプロダクツ株式会社取締役

株式会社ネオテニー 取締役

UNOPS国連ビジネスアドバイザリーカウンシル

ハワイ出身の日系3世米国人。米国ノースウェスタン大学を経て、スイスの ジュネーブ大学法学部卒業。24歳でジェーシー・フーズネットの経営責任者 となる。その後三菱商事との合弁企業JCC社長を兼任する。日本のピザ・ マーケットをゼロから築いたパイオニアとして知られ、ハーバード・ビジネ ス・スクールのビジネス・ステーツ・ウーマン賞など、国内外から数々の女 性経営者賞を受賞。

 経済同友会幹事、(財)21世紀職業財団評議員、ニュービジネス協議会常 任理事、日米協会理事、日米教育委員(フルブライト・ジャパン)コミッ ション・メンバー他公職多数。また通商産業省、総務省、文部科学賞、厚生労働省などの各種審議会・委員会メンバーを務めてきた。著書に「女性が会社を作るとき」(東洋経済新報社)。

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822752 No.7206

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>>7204

冷凍ピザのパイオニア、デルソーレ 新社長に大河原泰常務内定、大河原愛子会長、和田隆介社長は退任、新経営体制へ(6月28日)

2023年1月24日

https://frozenfoodpress.com/2023/01/24/delsole-top-jinji-2022-06-28/

デルソーレは1月24日開催の取締役会において、大河原泰常務取締役戦略企画管掌(写真)の代表取締役就任内定を決議しました。大河原愛子代表取締役会長、和田隆介代表取締役社長は任期満了退任。本年6月28日開催予定の第59期定時株主総会および同総会後の取締役会で正式に決定、新社長就任予定です。

大河原 泰(おおかわら・やすし)氏は、1962年7月12日生(60歳)。神奈川県出身。

1986年3月 慶応義塾大学法学部法律学科卒業

1986年4月 三菱商事入社

1997年4月 ドイツ三菱商事会社生活産業部マネージャー

2012年4月 欧州三菱商事会社生活産業部門担当(EVP)

2017年5月 TOYO TIRE株式会社 グローバルサプライ推進室長・本部長

2019年7月 当社入社 執行役員 代表取締役社長補佐

2020年6月 取締役 代表取締役社長補佐

2021年4月 取締役 製造・開発ユニット管掌

2022年6月 常務取締役 戦略企画管掌

同社では、今回のトップ人事について、「事業環境の変化に対応する経営基盤の強化と活性化を図り、持続的な成長と企業価値の向上を加速するため、新たに経営体制を刷新する」としています。

同社は創業60年目を迎えています。

大河原愛子代表取締役会長は、同社創業期より専務、社長、会長を歴任。筆頭株主。日本初の冷凍ピザメーカーを発展させ、1993年日本証券業協会店頭登録を果たすなど、“日本のピザの母”と呼ばれる存在。ピザ協議会名誉会長(現)。2004年に食品業界女性経営者ネットワーク(WF-NET、現会員約40名)を立ち上げて代表就任(現)。文字通り食品業界で活躍する女性のリーダーです。

和田隆介代表取締役社長は、大河原会長から社長のバトンタッチを受けて24年務めています。

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822752 No.7207

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>>7204

大河原愛子氏の夫

大河原毅

https://ja.wikipedia.org/wiki/大河原毅

大河原 毅(おおかわら たけし、1943年9月5日[1] - )は、日本の実業家。日本ケンタッキー・フライド・チキン(現・日本KFCホールディングス)株式会社元特別顧問・代表取締役社長。株式会社ジェーシー・コムサ代表取締役CEO。一般社団法人日本フードサービス協会元会長。特定非営利活動法人日本食レストラン海外普及推進機構理事長。藍綬褒章受章。旭日中綬章受章

人物・来歴

神奈川県出身。栄光学園中学校・高等学校を経て、1966年、上智大学経済学部経済学科卒業。1983年、ハーバード大学経営大学院修了(AMP)。

大日本印刷勤務を経て、1970年に日本ケンタッキー・フライド・チキンの設立メンバーとして入社。直営第1号店の店長を勤める。常務取締役、副社長を経て、1984年に同社の代表取締役社長に就任。ケンタッキー・フライド・チキン・インターナショナル・インクバイス・プレジデントや極東担当支配人を歴任する。2003年、藍綬褒章受章。2007年、ジェーシー・コムサ代表取締役CEOに就任。

2011年3月27日(日)放送のソロモン流(テレビ東京系列)にて、かつて日本ケンタッキーフライドチキン代表取締役社長時代に三菱商事から出向していた遠山正道(現:株式会社スマイルズ代表取締役社長)が出演した際、インタビューに応じたことがある。2014年旭日中綬章受章[2]。

2015年6月18日、特定非営利活動法人日本食レストラン海外普及推進機構理事長[3]。2019年5月、在千葉リトアニア共和国名誉領事に就任をした。[4]

https://in-shoku.info/cross/vol5/index2.html

・上智大学経済学部卒、ハーバード大学経営大学院AMP卒、これが大河原毅の学歴である。兄は東京大学卒、まさにエリートの家系である。

もともと大河原家の栄華は、祖父が貿易商を営み、生糸で巨大な富を成したことから始まる。

ところが敗戦と同時に行われた農地改革で土地は没収され、ナイロンが登場したことで生糸が廃れ、大河原家の斜陽が始まる。戦争が、大河原家の窓から見える風景を一変させたと言ってもいいだろう。

大河原は終戦前の1943年、3人兄弟の末っ子として生まれている。この大河原が物心ついた頃にはまだ、資産が残っていたらしい。「庭の芝生は子どもの足では走りきれないほど遠くまで続き、ボートを漕いで楽しめる池まであった」そうだ。だが、この頃にはもう、大河原家には再び栄華を取り戻す余力は残っていなかった。

大河原は物静かで大人しいタイプの少年だったようである。敗戦国に、一つの学校が生まれたのは、大河原がまだ5歳になる頃だ。同じ、敗戦国のドイツ人の神父たち3人が、立ち上げたとされている「栄光学園」だ。兄も大河原もまたこの学校に通った。ちなみに調べてみると、卒業生にはそうそうたるメンバーが揃っている。東京大学名誉教授であり、著書『バカの壁』(新潮社)などでも有名な養老 孟司氏もそのうちの一人だ。当時は、全国で偏差値が一番高かったという。

中学になっても大人しくまじめな少年だった大河原だが、勉強は苦手だった。二度、中学で落第している。「二回落第しても、学校にいることができたのは私ぐらい」と大河原は笑う。栄光学園には二度落第すると、他校に転校するという不文律があったからだ。大河原は授業についていけず、この二度目の落第を言い渡される。「とにかく偏差値が一番の学校でしょ。他の学校の試験を受けてもスグにみんな通るんですよね。でも、私は落っこちちゃって。行くところがないんですよ。で、なんとか仮進級ということで高校に行かせてもらったんです」。だから、二度落第しても、大河原はこの学校にいることができたというわけだ。

https://in-shoku.info/cross/vol5/index5.html

さて、少し先を急ごう。上智大学を卒業した大河原は、大日本印刷を受けるが、失敗し、日本プラント協会という、今で言う経済産業省の外郭団体に就職する。しかし、仕事に満足できず再び大日本印刷にチャレンジする。万博要員。若い人には、ぴんとこないかも知れないが、当時の日本は経済成長の真っ最中にあり、それを象徴したのが、大阪府吹田市で開催された「日本万国博覧会」である。二度目のチャレンジで見事、採用された大河原は、この万博の要員として、ギリシャ、サウジアラビア、ブリティッシュコロンビアを任された。堪能な英語が評価されたのである。

それ以前の仕事として、初の海外も経験している。3D印刷という技術を使って、カナダ政府館のための3D写真をカナダ全土を横断して撮影するプロジェクトチームが結成され、大河原は、運転手兼通訳として参加している。マクドナルドやケンタッキーというファストフードと初めて出会ったのはこのときである。

さらに偶然が重なる。この当時、大日本印刷は、凸版印刷と熾烈な受注競争を繰り広げていた。上層部の人間が、ロイ・ウエストンなる人物と偶然出会い、万博のアメリカ館で「ケンタッキーフライドチキン」(以下、ケンタッキー)を出店すると聞いたのだ。そのことがあって、大河原が担当者としてその人物と面談することになったのである。

「ホテルニューオータニに回転レストランがあって、そこで1時間話合いましてね」。意気投合したのだろう。大河原は、ロイ・ウエストンから包装資材を受注している。しかし、ケンタッキーは、ライバルの凸版印刷が組んでいた三菱商事の領域にある会社だった。契約が決まったのちに、ロイ・ウエストンから連絡があり、大河原はわざわざ三菱商事まで事情を説明にいっている。

このときに出会ったのが、相沢徹氏(日本ケンタッキー・フライド・チキン元会長、日本にケンタッキーをはじめて紹介した人物)である。ともかくこうした受注合戦も裏にありながらも、「カーネルおじさん」は、1970年、日本に初めてお目見えするのである。

※カーネル・サンダース氏本人が日本に訪れるのは72年の10月である。

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822752 No.7208

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>>7204

アーネスト・エム・比嘉

https://ja.wikipedia.org/wiki/アーネスト・エム・比嘉

アーネスト比嘉(アーネストひが、1952年10月15日[1] - )は、アメリカ人実業家。ミドルネームにマツオ(漢字名不明)の略で「M」が入る。

アメリカ合衆国ハワイ州ホノルル市生まれ。ジュネーブの小学校、東京都三鷹市のアメリカンスクール(中学校・高等学校)を経て、ペンシルベニア大学ウォートン・スクール卒業(国際ビジネス専攻)。コロンビア大学コロンビア・ビジネス・スクール修了、MBA(経営学修士)取得(財政学、会計学)。国籍はアメリカ合衆国[2][3]。

1976年4月、株式会社ヒガ・インダストリーズ(現ドミノ・ピザジャパン)入社[1]。1979年4月同社代表取締役。1980年からドミノ・ピザのチェーン展開を開始[2]。1983年4月、同社代表取締役社長[1]。2015年4月、同社代表取締役会長兼社長[1]。

この間、2010年からジェーシー・コムサ取締役。2011年3月、ウェンディーズ・ジャパン合同会社設立、同社最高経営責任者[1]。2016年9月、ウェンディーズ・ジャパン株式会社代表取締役会長[1]。同年ファーストキッチンを買収し、同社代表取締役社長に就任[4]。同年ファーストキッチン代表取締役会長[2]。

2008年4月一般社団法人東京ニュービジネス協議会特別理事(現職)、2009年5月コロンビア・ビジネス・スクール理事(現職)、2010年6月株式会社ジェーシー・コムサ取締役(現職)、2013年6月株式会社新生銀行取締役[1]。2017年4月学校法人昭和女子大学理事(現職)。2018年8月テンプル大学ジャパンキャンパス理事[1]。

父はワイ・ヒガ・コーポレーション創始者の比嘉悦雄[5]。実業家の大河原愛子は姉

比嘉悦雄

https://ja.wikipedia.org/wiki/比嘉悦雄

比嘉 悦雄(ひが えつお、1915年11月10日 - 2000年7月31日)は、日系二世の実業家。株式会社ワイ・ヒガ・コーポレーション(現ヒガ・インダストリーズ)、株式会社ジェーシー・フーズ[1](現デルソーレ)、日本ペプシコーラ株式会社を創業した。

ハワイ州生まれの日系二世で、両親は九州、沖縄の出身[2]。1950年代にペプシコーラの日本法人を設立し、社長を務めるほか、ピザの製造・販売会社を経営[2]。

子は実業家の大河原愛子、同じく実業家のアーネスト・エム・比嘉。

(wikiの情報がとても少ない。昨年末にも編集されている)

ヒガ・インダストリーズ

https://ja.wikipedia.org/wiki/ヒガ・インダストリーズ

株式会社ヒガ・インダストリーズは、食材の輸入・販売を行う会社。

創業者は、ハワイ生まれ日系3世のアーネスト・エム・比嘉(ヒガ・アーネスト・マツオ)。

沿革

旧会社

1964年3月 -株式会社ワイ・ヒガコーポレーションとして創業。創業者は比嘉悦雄。

1985年 - アメリカのピザ宅配チェーン「ドミノ・ピザ」の日本におけるフランチャイズ権を取得し、日本における同ブランドの店舗展開を開始。

1994年 - 株式会社ワイ・ヒガコーポレーションが、株式会社ヒガ・インダストリーズに商号変更。

2002年9月 - エヌ・アイ・エフSMBCベンチャーズ株式会社(後の大和SMBCキャピタル株式会社)が、株式67%を取得。

2006年8月30日 - 株式会社ダスキンと資本業務提携。株式譲渡により、出資比率が大和SMBCキャピタル株式会社と株式会社ダスキンがそれぞれ44%になる。

2006年9月 - サンドイッチチェーン「クイズノス・サブ」(Quiznos Sub)の日本におけるフランチャイズ契約を取得し、日本における同ブランドの店舗展開を開始。

2009年 - 株式会社ヒガ・インダストリーズが、クイズノス・サブ事業から撤退。

2010年2月 - プライベート・エクイティファンドのベインキャピタルが、ダスキン(44%)、大和SMBCキャピタル(44%)、ヒガ・アーネスト・マツオ(12%)から株式を取得し、株式会社ヒガ・インダストリーズがベインキャピタルの完全子会社となる。

2010年3月10日 -株式会社ヒガ・インダストリーズが、株式会社ドミノ・ピザ ジャパンに商号変更

以降については、「ドミノ・ピザ#日本での展開」を参照。

現会社

1988年5月 - アーネスト・エム・比嘉が株式会社ヒガ・インターナショナル設立。

その後、株式会社ヒガ・インターナショナルが、株式会社ヒガ・インダストリーズに商号変更。

2011年3月 - アメリカのウェンディーズ・アーピレズ・インターナショナルと資本業務提携。日本における「ウェンディーズ」の店舗展開を開始予定[1]。

2011年4月 - 子会社(51%出資)として、合弁会社のウェンディーズ・ジャパン合同会社を設立。

画像:ウェンディーズ表参道店 2011.12.27

https://www.shibukei.com/photoflash/1617/

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822752 No.7209

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>>7208

「桜を見る会」ケータリングもお友達会社――安倍昭恵夫人の親友の夫で「ドミノ・ピザ」根付かせた日系三世

2019.12.05 16:49

https://www.j-cast.com/tv/2019/12/05374421.html?p=all

「桜を見る会」疑惑で渋面の安倍首相についての記事が多い。週刊文春は、2013年からこの会に飲食を提供している「ジェーシー・コムサ」という会社は、安倍の妻・昭恵の大学時代の先輩で親友の夫がやっていると報じている。アーネストM・比嘉というハワイ出身の日系三世で、アメリカの「ドミノ・ピザ」を日本に持ち込み、宅配ピザを根づかせた人物だという。比嘉は安倍首相とは30代からの付き合いで、ワイフから安倍と昭恵を紹介されたそうだ。

週刊文春によると、13年にはコムサの受注額は約970万円だったが、今年(2019年)は約2200万円にもなっているという。受注業者の選定は、「企画選定方式」がとられているが、13年以降は他社が受注したことはないそうである。

比嘉は、安倍首相夫妻とは年に1、2回会うだけだというが、安倍の刎頚之友・加計孝太郎も安倍の紹介で会ったことがあると話している。ここでも、安倍首相夫妻の、自分の親しい人間たちに便宜を図る"悪癖"がでているようだ。

食品業界で頑張る女性たち WF-NET15周年記念会でファーストレディが激励

2019年10月10日

https://frozenfoodpress.com/2019/10/09/wf-net-15th-fly-hige-2019/

食品業界の元気な女性リーダー、食品業界女性経営者ネットワーク(略称:WF-NET、メンバー:45名、代表:大河原愛子㈱ジェーシー・コムサ代表取締役会長)は、2004年に結成して今年15年が経過しました。

写真は、10月4日夕刻、帝国ホテルで開催したWF-NET15周年記念会のひとこま。安倍晋三内閣総理大臣、安倍昭恵夫人、大河原代表、歌手で版画家のジュディ・オングさん、小池百合子東京都知事。各界でご活躍の女性から祝辞と激励の言葉が寄せられました。

記念会のタイトルは、「Fly High」。食品業界でよりいっそう女性たちが輝き、活躍できるように!という思いを込めたタイトルです。記念会実行委員会「チームなでしこ」のチームリーダーを務めた井村屋グループの中島伸子社長(2019年4月社長昇格)発案のタイトルです。

WF-NETはこの15年間で30回を数える勉強会をはじめ、研修会、海外訪問・交流など意欲的な活動を続けてきましたが、当日は、在席メンバー、この間ゲスト講師などで来会の方々の内18名が出席、約60名の盛会でした。

冒頭、15年の活動を振り返るスライドショーを上映。大河原WF-NET代表は、食品業界の中で少数派である女性経営者がネットワークを持ち、互いにサポートし、学び合う場が必要と呼びかけて活動をしてきた経緯を語り、「ゲストの皆様には講義を頂いたり、視察・見学でも大変お世話になりました。2013年以降は海外交流も実施、昨年はリトアニア、ラトビア、ロシアに行き、本日ご出席の駐日リトアニア大使バルブオリス様のご尽力で、同国初の女性大統領にお目にかかることができました」と感謝の言葉を述べ、会場に拍手が巻き起こりました。

安倍昭恵夫人からは「男性女性バランス取って良い世の中ができると思います。もっと高くもっと強くと縦に行きがちな男性的志向に対し、女性たちは横につながり、良いものをシェアしていく力があります。これからますますWF-NETのご活躍が世の中のためになることと思います。大河原代表はじめ皆様方のご活躍に期待します」とメンバーを激励しました。

続いてのサプライズ企画では、ジュディ・オングさん(08年ゲスト)から歌のプレゼント(ケセラセラ、ALWAYS)。林芳正参議院議員(元農林水産大臣、元文部科学大臣、16年5月講師)の挨拶、乾杯発声で祝宴に入りました。

小池百合子東京都知事(環境大臣時代の05年2月講師)も宴半ばに駆けつけて祝辞を述べました。

中締めは赤松広隆衆議院議員、衆議院副議長(元農林水産大臣、10年6月にメンバーが大臣室訪問)が一丁締めの音頭を取って散会しました。

当サイト「エフエフプレス」編集長山本純子も集合写真の中にいます。普段とはちょっと違う装いでメンバーの皆様に褒められました(^^) 実は山本、WF-NET発起人8名の中の1人でした。15年前の発起人会で、食品業界の会合数百人の中で数名の孤独な存在ではなく、つながって語り合いましょう、変えていきましょうという大河原さんの言葉に一同感激したことを思い出します。

食品業界の中で、女性経営者、役員はまだまだ少数派。でも着実に存在感を増してきています。WF-NETは今後も食品業界の女性リーダーの力となって、社会に貢献できる団体として、更に意欲的な活動に邁進します。

㈱ジェーシー・コムサは、㈱デルソーレに社名変更。本社も有明へ移転致しました。

2020年07月01日

https://www.del-sole.co.jp/news/1111/

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822752 No.7210

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>>7204

JCコムサ大河原毅代表が在千葉リトアニア共和国名誉領事に就任

2019年6月1日

https://frozenfoodpress.com/2019/05/30/ookawara-takeshi-onorary-consulate-chiba/

㈱ジェーシー・コムサの代表取締役 CEO 大河原毅氏は、5月24日付で在千葉リトアニア共和国名誉領事に就任しました。同社はこれに伴い、同社千葉工場内に在千葉リトアニア共和国名誉領事館を開館しました。

(写真㊤は、名誉領事館にて左から在日本リトアニア大使館農業アタッシュのMr.Deividas Kliucinskas、大河原毅CEO、Gediminas Varvuolis(ゲディミナス・バルブオリス)リトアニア共和国特命全権大使、JCコムサ大河原愛子代表取締役会長)

当日朝には、千葉工場正面で記念のテープカットセレモニー。(写真㊤は、左から大使館Mr.Kliucinskas、JCコムサ和田隆介社長、同大河原CEO、バルブオリス大使、JCコムサ大河原会長、同千葉工場・武長栄治工場長)

引き続き会場を近隣のヒルトンホテル成田に移し、名誉領事任命式並びに記念パーティが開かれました。

写真は任命書をバルブオリス大使から受ける大河原CEO。後方は立ち合い人、薗浦健太郎内閣総理大臣補佐官・衆議院議員です。リトアニア共和国名誉領事館は、札幌、大阪、広島(福山)、岐阜に次いで千葉が5番目。「東京に近く、成田空港に近い。今日はリトアニアと日本の友好が大きく発展する素晴らしい日。外食産業界をはじめ社会に貢献するリーダー、そして何より魅力的で大切な友人として大河原毅氏を名誉領事迎えることは私の大きな喜び」と大使は語りました。

JCコムサは、リトアニア・マリヤンポレ市に本社を置く大手パンメーカー・マンティンガ社との信頼関係を築き、冷凍焼成済みパンの日本市場導入に成功しています。デルソーレブランドのガーリックバゲット、CO・OP/マンディンガ社コラボブランドのミニバゲットなど、マンディンガ社の製品になじみのある方々も多いことと思います。

名誉領事任命は、その貿易振興への貢献に加えて、大河原CEOがロータリークラブを通じ、リトアニア・カウナス市の「杉原千畝記念館」(元領事館、第二次大戦下杉原千畝氏が「命のビザ」を発行しユダヤ人約6000人の命を救った場所)の修復寄付活動に尽力し、同記念館の再生を果たしたこと、上智大学とヴィータウタス・マグヌス大学との交換留学を支援、マリヤンポレ市と北海道・八雲町の姉妹都市提携へ援助を行うことなど、日・リ友好の発展に幅広い活動をしていることが認められてのこと。

写真㊤は修復された杉原記念館内、「命のビザ」を書き続けた執務室。

大河原CEOは、リトアニアの首都ヴィリニュスから車で2時間半のマリヤンポレ市に向かった初めての訪問を振り返りながら、「美しい森、きれいな水、間違いなく良い製品と確信しました。順調にビジネスが拡大し、ふと気づくと契約を交わすことなく人柄、信頼だけで仕事が進んでいたんです。そんなリトアニアの方々との民間外交のお手伝いを一層進めていきたい」と意欲を語りました。杉浦記念館修復活動へ動いたのは、中曽根弘文日本リトアニア友好議員連盟会長のリトアニア外交の星勲章授賞式(2017年5月)に臨席したことが契機だったこと、昨年安倍首相のリトアニア訪問の際に記念館を案内したことにも触れました。

パーティでは、薗浦総理大臣補佐官が祝辞。杉原千畝の偉業がとりもつ日・リ両国の民間交流が、大河原CEOの名誉領事就任により一層進むことに期待しました。

千葉県から滝川伸輔副知事、千葉銀行の佐立成信常務執行役員が祝辞。

そして、大河原会長との親交が深い堂本暁子元千葉県知事が登壇して乾杯発声を行いました。

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>>7207

Q Research Japan/Nihon #21より

>大河原家の栄華は、祖父が貿易商を営み、生糸で巨大な富を成したことから始まる。

この会社のことだろうか?

三丸興業

https://www.mitumaru.com/history/index.html

弊社は、令和元年6月2日に創業160周年の節目を迎えました。

横浜開港と同時に「明石屋平蔵店」が開店、蒸気船の燃料である石炭販売を初めました。 その後、生糸、海産物、貿易金融、不動産貸付などいくつもの業種を経て、明治44年渡邊合名会社が、有価証券投資・不動産貸付を主たる業務として発足しました。

大正時代前半、業務は順調に推移しましたが第一次世界大戦後の反動不況と関東大震災により経営環境は一変しました。こうした中、大正12年12月、合名会社から株式会社に改組・新発足した渡邊同族㈱が弊社です。

その後、昭和金融恐慌と世界恐慌、それに続く太平洋戦争と苦難の時代が続きましたが、昭和30年代以降、横浜植木㈱とのグループ化、不動産開発、新規事業への展開などを通じて社業は徐々に復興しました。 昭和50年代以降は収益不動産を着実に増やし、バブル崩壊後の経済不況を乗りきった現在、業績は順調に推移しております。

160年を振り返ると、開国以来の激動の歴史の中で、よく企業の寿命を保ったものだと思います。先取りの気質に富む先達の不屈の精神が、幾度も訪れた逆境を跳ね返したこともさることながら、開業以来ご縁のあったたくさんの方々のご支援、ご協力の賜物と感謝申し上げます。

1716-1735年

三丸興業のルーツは、享保年間(1716-1735)に播州明石出身の渡辺治右衛門が江戸に出て、日本橋四日市(日本橋のすぐ近く、現在の野村證券本社付近)に海産物商「明石屋」を開いたのが始まりです。

「明石屋」はその後、江戸でも指折りの海産物商に成長しました。

1859年(安政6年)

そして1859年(安政6年)、横浜港が開港されると、海外貿易の可能性を読み取り、横浜に支店を進出。これが三丸興業の始まりとなります。

(既に隠居していた七代目治右衛門が開店を決断、横浜初代経営者となる。)

横浜に進出した「明石屋」は、通称「石炭屋」として、蒸気船の燃料である「石炭」を中心に、江戸の本店時代から取り扱ってきた「海産物」、そして当時の主力輸出品である「生糸」という、三つの大きな柱で、事業を拡大していきました。 この間、八代目治右衛門の弟、大河原知治が横浜店の二代目の役割を果たします。

1873年(明治6年)

そして、1873年(明治6年)。

弱冠19歳の若者が、石炭屋の暖簾を引き継ぎます。3代目社長の渡辺福三郎(八代目治右衛門の次男)です。

当時の横浜港は、海外向けの生糸貿易で活気にみち、「横浜商人」と呼ばれる豪商たちが、莫大な利益をあげていました。

そうした中、福三郎は誰も注目していなかった新たなビジネスに目をつけます。 貿易融資や不動産投資といった金融ビジネスです。

1911年(明治44年)

そこで福三郎は、石炭屋の事業内容を大きく転換。 1911年(明治44年)には不動産と投資管理を目的とする渡辺合名会社を設立します。

さらに翌年には、渡辺銀行を創設するなど、福三郎は横浜商人のニューリーダーとして、地元の経済界を引っ張っていきます。

一般財団法人シルクセンター国際貿易観光会館 シルク博物館

「横浜から世界へ -海を渡った生糸-」

https://www.silkcenter-kbkk.jp/museum/t-4【秋の特別展】-横浜・生糸ものがたりⅲ/

当館の開館60周年を記念して横浜の生糸輸出を支えた産業(養蚕、製糸・撚糸、貿易)の歴史を紹介する「横浜・生糸」ものがたりシリーズの第三弾です。締め括りとなる今回は、神奈川県の「生糸貿易」を取り上げます。

東海道の神奈川宿近く、100戸ばかりの半農半漁村であった横浜村で、横浜開港が決まると急速に都市建設が始まります。わずか半年足らずで街並みが整備され、安政6年(1859)6月2日に横浜港が開港しました。現在の山下町には外国人居留地があり、当時イギリスの総合商社ジャーディン・マセソン商会(英一番館)があった場所、現在の山下町1番地にシルク博物館はあります。

それまで国内で流通していた生糸は、開港を境に貿易品の花形となり、代表的な生産地の福島県、群馬県、埼玉県、長野県をはじめ生産力が高まっていきます。大量の生糸が横浜に持ち込まれ、売込商(日本人商人)と外国商館との間で生糸取引が盛んに行われ、横浜港からヨーロッパを中心に輸出されました。開港当初に活躍した群馬県出身の中居屋重兵衛に続き、後に二大売込商と呼ばれる亀屋(原善三郎)や野沢屋(茂木惣兵衛)のほか多くの売込商が生糸貿易を担いました。明治10年代に入ると、売込商や外国商館を通さずに直接輸出をする直輸出も加わりアメリカへの輸出が伸びていきました。

 今回の特別展では、近代日本の発展を経済的に支えた生糸貿易の歴史を一覧します。また、生糸貿易が行われた開港当初の町の姿、売込商と外国商館の取引の様子を浮世絵や文書・版本などから紹介するとともに、生糸標本の実物も展示公開します。

本展が横浜と日本の発展を支えた生糸貿易と蚕糸業に携わった人々のあゆみを振り返る機会となれば幸いです。

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>>7213

ジャーディン=マセソン商会

https://www.y-history.net/appendix/wh1303-023.html

1832年、広州で設立されたイギリスの貿易商社。アヘン貿易などで大きな利益をあげた。

 中国では怡和洋行(いわようこう)という。1832年に広州(の近くのマカオ)で、スコットランド人のW.ジャーディンとJ.マセソンが設立したイギリスの貿易商社で、茶や生糸の買い付け、アヘンの密貿易などに従事し、いわゆる三角貿易で大きな利益を得た。1834年に東インド会社の中国貿易独占権廃止によって、民間の商社として急速に活動範囲を広げ、船舶を所有して運輸業を行い、建設や銀行業にも進出した。

香港と上海で開業

 アヘン戦争の最中に、当時ほぼ無人島だった香港に本店を移転し(香港で認可された最初の外国商社となった)、さらに上海にも支店を開いて大陸に進出(上海租界で最初に土地を取得し、建物を建てた。1920年に改築された同社ビルは現在も残っている)、清朝政府に対して借款を行うまでになった。その後、中華民国となってからも鉄道の敷設権や営業権を得て、深くその経済に関わった。中華人民共和国成立後は活動を香港だけに限定していたが、中国の改革開放以降は本土との取引を再開し、現在でも活発な貿易、金融活動、ホテル経営などを展開している。

Episode 医者からアヘン商人に

(引用)ジェームズ=マセソンとウィリアム=ジャーディンの2人は、1828年に提携し、もともと広東にあった中国最初の外国商社を買い取り、「ジャーディン・マセソン商会」を作った。中国語では「怡和洋行」という。扱う商品はほとんどがアヘンであった。ジャーディンはもと東インド会社の外科医だったが、アヘン貿易があまりに儲かるのに目をつけて、貿易商に転身した経歴を持つ曰く付きの人物だ。人の命を救うはずが医師が、人の命を縮める商売に鞍替えしたのである。まったく呆れた話である。<譚璐美『阿片の中国史』2005 新潮新書 p.83>

幕末日本でも活動

 ジャーディン=マセソン商会は横浜にも支店を出し(日本で活動した外国資本の最初。その商館は山下町の現在のシルクセンターのところにあって「英一番館」と言われていた)、幕末の日本でも活動した。1863年、長州藩が井上聞多、伊藤博文らをロンドンに留学させたときはそれを支援した。坂本竜馬もジャーディン=マセソン商会から支援を受けている。長州藩など討幕派に協力する一方、幕府に対してアームストロング砲などの武器を提供し、利益を上げている。19世紀から現代に至るイギリス商人の代表的な存在であり、大英帝国の典型的な「尖兵」的商社だったといえる。

ジャーディン・マセソン

https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャーディン・マセソン

ジャーディン・マセソン・ホールディングス(英語: Jardine Matheson Holdings Limited, 中国語: 怡和控股有限公司)は、香港にヘッドオフィス(登記上の本社はバミューダ諸島・ハミルトン)を置くイギリス系企業グループの持株会社。

米誌フォーチュン誌の世界企業番付上位500社のランキング「フォーチュン・グローバル500」(2009年度版)では世界411位。創設から170年たった今日でも、アジアを基盤に世界最大級の国際コングロマリット(複合企業)として影響力を持っている。

概要

前身は東インド会社で、元は貿易商社。1832年、スコットランド出身のイギリス東インド会社元船医で貿易商人のウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンにより、中国の広州(沙面島)に設立された。中国語名は「怡和洋行」。当時、広州は広東システム体制下、ヨーロッパ商人に唯一開かれた貿易港であった。

設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出。香港上海銀行(HSBC)は、ジャーディン・マセソンなどが香港で稼いだ資金をイギリス本国に送金するために設立された銀行である。

清とイギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われたアヘン戦争に深く関わっている。アヘンの輸入を規制しようとする清朝政府とイギリスの争いが起こった際に、当時のアヘン商人の一つであるジャーディン・マセソン商会のロビー活動により、イギリス本国の国会は9票という僅差で軍の派遣を決定した。

中国における歴史

1841年に大英帝国の植民地の香港(1842年の南京条約で正式に割譲)に本社を移転。

1842年に中国語名を従来の「渣甸洋行」(渣甸はジャーディンの意)から「怡和洋行」に変更。由来は、広東十三行のひとつで、西洋にも有名だった「怡和行」から。

中国での拠点は1844年に上海の共同租界、外灘(バンド)の中山東一路27号に移し「怡和洋行大楼」(ジャーディン・マセソン商会ビル)と呼ばれた。この場所の当時の地番は1号であり、ジャーディン・マセソンが最初に外灘(バンド)にて土地を獲得した。(現在は外貿大楼と呼ばれ上海市対外貿易公司や上海市外貿局等が入っている)

1867年から天津事務所を開設し、華北でも海運業を展開する。この頃、唐廷枢(後に李鴻章の下で洋務運動を推進)が買弁責任者として金銭の管理、物資の購入、海運の開設などを行っていた。以降、事業規模が拡大し、1881年に天津支店に格上げ。1921年に社屋の「天津ジャーディン・マセソン商会ビル」をイギリス租界地の維多利亜道(現在の解放北路157号)に建設した。

1881年、後に香港の大富豪となる何東(サー・ロバート・ホー・トン)が、ジャーディン・マセソン商会に入社し、総買弁、中国総経理を歴任する。

青島、広州、汕頭、福州、長沙、昆明、アモイ、北平(北京)、鎮江、南京、蕪湖、九江、宜昌、沙市、重慶など中国各地に現地事務所を開設。上海、天津を除けば、漢口(現在の武漢市の一部)が最も大きな事務所だった。

1949年、中華人民共和国の建国後は拠点を香港に移す。中国大陸の支店網はすべて1954年に接収・閉鎖され、2000万ドルの損失を被る。第5代目当主のジョン・ケズウィックは、1963年に「英中貿易協会」(SBTC)会長に就任(~1973年)し、共産主義国となった中国との貿易再開に奔走する。1972年に英中の外交関係が完全に正常化し、1973年に周恩来首相と北京で会談。英国産業技術展も開催され、周恩来も視察に訪れる。

香港が中国に返還されるまでは、イギリス植民地資本であるジャーディン・マセソンの役員や幹部らがイギリス植民地下の香港行政局(現在の行政会議 )の非官守(官職)議員として参加し、香港政庁の政策に影響力を行使していた。

幕末・明治期の日本における歴史

かねてより沖縄や台湾、長崎の中国人商人を通じて日本の物品を密貿易していた同社は[1]、江戸幕府が1853年の日米和親条約を皮切りに、1854, 1855, 1856年と立て続けに日英、日露、日蘭和親条約を締結し、長崎港と函館港を開港すると、1859年(安政6年)に、上海支店にいたイギリス人ウィリアム・ケズィック(ウィリアム・ジャーディンの姉の子)を日本に派遣した。ケズィックは西洋の織物、材木、薬などを持ち込み、日本からは石炭、干し魚、鮫皮、海藻、米などを購入、ビジネス的には成功とは言えなかったが、日本製絹の品質の高さに将来性を抱き、1860年初頭に、横浜居留地1番地(旧山下町居留地1番館、現山下町一番地)に「ジャーディン・マセソン商会」横浜支店を設立した[1]。長崎居留地ではデント商会に先を越されたが、横浜でその仇を返した形となった。後に吉田茂の養父・吉田健三が一時期、同社横浜支店長を務めていた。

鹿島によって建設された横浜初の外国商館である社屋は、地元民から「英一番館」と呼ばれた。跡地には現在シルクセンター(国際貿易観光会館)が建っている。

長崎でも、1859年9月19日(安政6年8月23日)に幕末・明治期の重要人物であるトーマス・ブレーク・グラバーが「ジャーディン・マセソン商会」長崎代理店として「グラバー商会」を設立。グラバー商会は、江戸幕府や西南雄藩の艦船・武器購入をめぐる取引に主要な地位を占めた[2]。また薩摩藩の貿易計画や同藩士のイギリス留学の資金調達に重要な役割を果たした[2]。また1863年(文久3年)の長州五傑のイギリス留学の際には商会支店長だったS.J.ゴーワー(Samuel J. Gower. 1862-1865滞日)が出航の手配をした[3]。

その他、神戸・大阪・函館にも代理店を置いた。

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>>7214

現在の影響力

ジャーディン・マセソン・グループは、ウィリアム・ジャーディンの死後、甥であるウィリアム・ケズウィックの子孫によって運営され、その影響力は今なお健在である。現在でも国際コングロマリットとして香港を中心に中国・シンガポール・アメリカ・ヨーロッパ・オーストラリア・中東・アフリカの一部で活発に展開しており、香港では香港政庁に次ぐ就業者数を誇っている。

銅鑼湾など香港の主要な土地の多くは19世紀前半に英国植民地政府によってジャーディン・マセソンへと払い下げられたために、香港のランドマークには「渣甸橋(Jardine's Bridge)」、「勿地臣街(Matheson Street)」、「渣甸街(Jardine's Bazaar)」、「渣甸坊(Jardine's Crescent)」、「渣甸山(Jardine's Lookout)」や「怡和街(Yee Wo Street)」といった社名(中国語表記は怡和洋行)や創業者(人物名のジャーディンに対する中国語表記は渣甸)にちなむ名前が付いたものが多い。

19世紀から20世紀にかけて幾度もの内部改革を実施したが、1947年に秘密トラストによって一族経営が強力になった。長くイギリス系による経営が続いてきたが、1980年に長江実業を率いる李嘉誠が敵対的買収を仕掛け、持ち株比率が約30%に達し、筆頭株主になったこともある。その後、李嘉誠はジャーディン・マセソン社の関連会社であるホンコン・ランド[4]に売却している。

1984年、登記簿上の本社をタックス・ヘイヴンとして有名なバミューダ諸島・ハミルトンに移転。(ヘッドオフィスは香港・ジャーディン・ハウス)

1988年、持株会社制度を導入し、関連会社を含め大幅な改組を実施。ケズウィック・ファミリーがロンドンの持株会社を支配し、ロンドン証券取引所とシンガポール証券取引所で上場。現在の持株会社の会長(別称:大班)は、ケズウィック・ファミリー6代目当主のヘンリー・ケズウィック。兄弟のサイモン・ケズウィック(Kwik Save社元代表)が7代目になる予定。同社の組織構造はほぼ完全に変わったが、ウィリアム・ジャーディンの一族が秘密トラストと共同株主による複雑な株式持合いにより企業支配を続けている。

近年ではマンダリン・オリエンタルホテル等の経営で知られる。

主なジャーディン系企業

ジャーディン・パシフィック(怡和太平洋)

ジャーディン・モーターズ・グループ(怡和汽車集團)

ジャーディン・ロイド・トンプソン(怡和保險顧問集團) - ロンドン証券取引所上場 

ジャーディン・ストラテジック・ホールディングス(怡和策略控股) - ロンドン証券取引所上場、シンガポール証券取引所上場

ジャーディン・サイクル・アンド・キャリッジ(怡和合發) - シンガポール証券取引所上場

ジャーディン・シンドラー(怡和迅達) - シンドラーエレベータと折半出資の合弁会社

ジャーディン・ワンソリューション(怡和科技)

ジャーディン・レストラン・グループ(怡和飲食集團)

ピザハット(必勝客)

ケンタッキーフライドチキン(肯德基)

香港ランド(香港置地)

デイリー・ファーム(牛奶國際有限公司)本部はバミューダ。ロンドン証券取引所上場、シンガポール証券取引所上場

ウェルカム(惠康(台湾では頂好)) - スーパーマーケット

マーケットプレイス - 高級スーパーマーケット。香港・台湾・中国大陸・シンガポールで展開、名称は各地で一部異なる

マンニングス(萬寧) - ドラッグストア

セブンイレブン香港(七・十一)

セブンイレブン・シンガポール(七・十一)

セブンイレブン中国華南(広東賽壱便利店) - 広東信捷商務発展との合弁会社

イケア香港(宜家家居)

イケア台湾(宜家家居)

美心食品有限公司(マキシムズ・グループ) - 株を50%保有

スターバックス香港(星巴克咖啡)

スターバックス・マカオ(星巴克咖啡)

スターバックス中国華南(星巴克咖啡)

スターバックス中国西南(星巴克咖啡)

元気寿司

マンダリン・オリエンタルホテルグループ(文華東方國際) - マンダリン オリエンタル バンコク、マンダリン・オリエンタル香港、マンダリン・オリエンタル東京等

その他

旧ジャーディン・フレミング(怡富集團) - 現JPモルガン・チェース

旧ジャーディン・ワインズ・アンド・スピリッツ(怡豐洋酒) - 現MHD モエ・ヘネシー・ディアジオ (ジャーディン・マセソンは合弁から離脱)

人物

欧米系

ウィリアム・ジャーディン - 創業者

ジェームス・マセソン - 創業者

ケズウィック・ファミリー - オーナー家

トーマス・ブレーク・グラバー - 「マセソン商会・長崎代理人」としてグラバー商会を設立

アジア系

吉田健三 - 元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長(内閣総理大臣吉田茂の義父)

安田弘 - 元ジャーディン・マセソン・ジャパン代表取締役会長(安田不動産顧問・学校法人安田学園理事長)

唐廷枢 - 元ジャーディン・マセソン商会買弁、天津事務所責任者何甘棠

何東(ロバート・ホー・トン卿) - 元ジャーディン・マセソン商会総買弁(マカオのカジノ王スタンレー・ホーは弟の孫)

何福(中国語版) - 何東の弟、何東引退後ジャーディン・マセソン商会総買弁(マカオのカジノ王スタンレー・ホーの祖父)

何甘棠(中国語版) - 何東の弟、ジャーディン・マセソン商会買弁(ブルース・リーの母方の祖父)

建物、支店など

香港

銅鑼湾 - 英国植民地政府によってジャーディン・マセソンへと払いさげられた土地

ヌーンデイ・ガン(午砲) - 正午告げる空砲(香港・銅鑼湾)

ジャーディン・ハウス(怡和大廈) - ヘッドオフィス

中国

沙面島 - 設立当時の拠点地

旧ジャーディン・マセソン商会ビル - 旧中国本社(上海支店)

天津ジャーディン・マセソン商会ビル - 旧天津支店

日本

英一番館 - 旧横浜支店

グラバー商会 - 旧長崎代理店

歴史

アヘン戦争

壬戌丸 - 幕末期長州藩の軍艦

チェルスウィック号 - 長州五傑(長州ファイブ)が横浜を出航をする際に乗った船

薩長因縁の昭和平成史(完)/萬晩報 - ケズィック・ファミリーと日本

フリーメーソン-30/Renaissancejapan - ジャーディン・マセソン商会の歴史

CBBC celebrates 50 years/英中貿易協会 - ジョン・ケズウィックと周恩来

その他

フォーチュン・グローバル500社/Fortune - 世界437位

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>>7215

気になる箇所を転載

英語版

ジャーディン・マセソン

https://en.wikipedia.org/wiki/Jardine_Matheson

ジャーディン・マセソン・ホールディングス・リミテッド(ジャーディンズとしても知られる)は、香港に拠点を置き、バミューダに本拠を置く英国の多国籍複合企業です。ロンドン証券取引所に一次上場されており、シンガポール取引所とバミューダ証券取引所に二次上場されています。[3]その事業利益の大部分はアジアにあり、その子会社にはジャーディン・パシフィック、ジャーディン・モーターズ、香港ランド、ジャーディン・ストラテジック・ホールディングス、DFIリテール・グループ、マンダリン・オリエンタル・ホテル・グループ、ジャーディン・サイクル&キャリッジ、アストラ・インターナショナルが含まれる。[4] [5] [6]1982 年にジャーディン奨学金[7]を、2002 年にはメンタルヘルスに焦点を当てた慈善団体マインドセットを設立しました。 [8]

ジャーディンズは、中華人民共和国に遡る元来の香港商社、つまり香港の 1 つです。[9] 2019年、同社の利益の58パーセントは中国で稼いだ。[10]同社は、共同創設者ウィリアム・ジャーディンの姉、ジーン・ジョンストンの子孫である ケズウィック家によって経営されている。

ジャーディン・マセソンはフォーチュン・グローバル 500企業です。[11] 2013 年、ジャーディン・マセソンとジャーディン・ストラテジックは、時価総額で評価される世界の上場企業の上位 200 社に入っていました。[12]

歴史

詳細は「ジャーディン・マセソン&カンパニーの歴史」を参照

19世紀から第二次世界大戦:初期

香港の銅鑼湾から見たジャーディンのオリジナルの建物の 1846 年の眺め。

ジャーディン・マシソン・アンド・カンパニーの会社は、1782年にジョン・コックスとジョン・リードの間で設立されたパートナーシップである貿易事業コックス・アンド・リードのパートナーシップ変更の発展過程から1832年に誕生し、ジョン・リードはオーストリアの貿易会社トリエステの代理人であった。会社。[13]

エディンバラ大学医学部卒業生のウィリアム・ジャーディン(1784-1843)は、コックス・アンド・ビール、ビール・アンド・カンパニー、ビール・アンド・マグニアックを経て、マグニアック・アンド・カンパニーとなり、当初のパートナーはとうの昔に消滅したが、1825年に招待に応じて同社に加わった。ホリングワース・マグニアック校長の。 エジンバラ大学卒業生のジェームス・マシソンは、マグニアックが引退の準備をしている3年後に入社した。[13] [14] 1842年の南京条約に基づいて香港が割譲されると、当時ジャーディン・マシソン・アンド・カンパニーと名付けられたこの会社は島に本社を置き、イギリス統治下のインドから違法アヘンを密輸して急速に成長した。中国へ。ジャーディン・マセソンは「世界で最も成功したアヘン密輸会社」と呼ばれている。ジャーディンとマシソンは英国の国会議員となり、マシソンはまたスコットランドのルイス島全体を購入し、ルイス城を建設するために500世帯以上を土地から立ち退かせてカナダに移送した。[15]同社はアヘン、茶、綿花の密輸を長年続けてきたが、保険、海運、鉄道など他の分野にも多角化した。 19 世紀半ばまでに、同社はホンまたは外国貿易複合企業の中で最大となり、日本の横浜だけでなく中国のすべての重要都市にオフィスを構えました。その支店の一つであるグラバー商会は長崎に設立され、日本では1868年に明治維新を主導した長州藩の当時の反乱軍と契約した武器商人として知られていた。

20 世紀初頭の数十年間、ジャーディンズは上海に綿花工場、プレス包装工場、醸造所を建設し、アフリカ、アメリカ、オーストラリアに事業を拡大しました。1937 年に中国に戦争が起こったとき、当社は香港と中国本土の両方で大きな被害を受けました。

1949 年の中華人民共和国設立後、新しい共産主義政権下で外国企業の取引条件はますます困難になりました。[18]

第二次世界大戦後の再編と拡大

同社は1961 年に香港に上場しました。 [19]ランドマークであるマンダリン ホテルは、香港初の 5 つ星ホテルとして 1963 年に香港にオープンしました。

1970 年、アジア初のマーチャントバンクであるジャーディン フレミングが営業を開始し、ハワイとフィリピンの不動産会社と砂糖農園を買収しました。 1970 年代半ばの香港の建築ブームにより、ジャーディンズは島最大の建設・土木グループであるギャモン建設を買収しました。 [20]中国の改革開放を受けて 1979 年に本土での存在感が再確立され、その 1 年後、同社は 1954 年以来の国内初の外国合弁会社である北京航空ケータリングを設立した。[21] 1970 年代にジャーディンズまた、英国と米国での買収により保険利権を拡大し、ジャーディン・インシュアランス・ブローカーズの設立の基礎を築きました。[22]

1980 年までに、同社は米国だけでなく、南部アフリカ、オーストラリア、中国、英国、香港、インドネシア、日本、マレーシア、フィリピン、サウジアラビア、シンガポール、韓国、台湾、タイでも事業を展開し、従業員を雇用しました。 37,000人。[19] 1997年の香港返還に先立って1984年にバミューダに再居住した後、1990年にジャーディン・マセソン・ホールディングスと他の4つの上場グループ会社は、香港の上場に加えてロンドン証券取引所にも初株上場を手配した。この10年間のその他の重要な進展としては、ジャーディン・インシュアランス・ブローカーズとロイド・トンプソンの合併によるジャーディン・ロイド・トンプソンの設立、シンガポールの優良企業サイクル・アンド・キャリッジの16%権益の取得、およびデイリー・ファームによるインドネシア有数の株式の重要な株式の購入が含まれる。スーパーマーケットグループのヒーロー。ホテルブランドのマンダリン オリエンタルも、空室数を 2 倍にして収益を向上させる戦略に乗り出しました。

新しいミレニアムの最初の 10 年間に、ジャーディン サイクル & キャリッジはアストラ インターナショナルの株式 31% を取得し、その後 50% をわずかに超えるまで増加しました。ジャーディン・パシフィックが香港エア・カーゴ・ターミナルズ・リミテッドへの持分を25%から42%に引き上げる一方、香港ランドは複数年にわたる着実な公開市場購入プログラムを経て、初めてグループ子会社となった。

2018年、ジャーディンズはジャーディン・ロイド・トンプソンの株式41%をマーシュ・アンド・マクレナン・カンパニーズに売却した。[23]

新世代のケズウィック家のリーダーの登場により、資産の多様化は減速し、同社は既存の資産の統合により重点を置くようになりました。[24]同社は中国本土への投資を避け、代わりに東南アジアで利益を追求することを好んでいる[25]という世間の認識に反して、子会社の香港ランドは44億ドルを費やして上海の土地を購入した、とジョナサン・ギャリガン氏は述べている。CLSA は、中国本土でビジネスを行うというコミットメントを示しています。[26]さらに、2019年のブルームバーグによる非公式の計算によると、企業利益に占める本土の事業ベンチャーの割合は2億5,540万ドルで3番目に大きい。全体として、2021 年の時点で同社の年次報告書には、利益の 55% が中国から得られているのに対し、東南アジアとその他の地域ではそれぞれ 42% と 3% が得られていると述べられています。[27]

2021年に敵対的買収を防止するために設計された複雑な株式保有システムの再構築に続き、ジャーディン・マセソンはジャーディン・ストラテジックを完全子会社として統合した。[28]

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822752 No.7217

>>7216

21世紀の作戦

ジャーディンズは現在、アジア全域、そして一部の事業を通じて世界中で広範囲に事業を展開する企業グループで構成されています。同社の事業利益には、ジャーディン・パシフィック、ジャーディン・モーターズ、香港ランド、デイリー・ファーム、マンダリン・オリエンタル、ジャーディン・サイクル・アンド・キャリッジが含まれており、これらを通してアストラへの権益が保有されている。当グループは他の企業に対しても戦略的利益を持っています。

ジャーディン・パシフィック

ジャーディン・パシフィックは、主にエンジニアリングおよび建設、輸送サービス、レストランおよびITサービスにおいて、アジアにおける当グループの非上場利益の相当数を代表する持株会社である。これらには、ジャーディンエンジニアリング コーポレーション(JEC)、ジャーディン アビエーション サービス、香港航空貨物ターミナル、ジャーディン シンドラー(JEC の以前のシンドラー社としての任命から発展したシンドラー グループとの合弁事業) など、ジャーディンの長年にわたる多くの事業が含まれます。唯一の香港代表)、Gammon Construction 、およびアジアの消費者の需要を反映するより現代的な関心。その中には、香港、台湾、ベトナム、ミャンマーのピザハットレストラン、香港、マカオ、台湾のKFCフランチャイズ店も含まれます。 [29]

ディレクター

2021 年の時点で、ジャーディン・マセソン・ホールディングスの取締役は次のとおりです。

ベン・ケズウィック執行役員会長

ジョン・ウィット、マネージング・ディレクター

Y・K・パン

グラハム・ベイカー

スチュアート・ガリバー

デビッド・スー

ジュリアン・ホイ

アダム・ケズウィック

アレックス・ニュービギング

アンソニー・ナイチンゲール

ジェレミー・パー

パーシー・ウェザオール

マイケル・ウェイ・クオ・ウー

元UBSヴァールバーグ銀行家で、2010年5月から英国財務次官を務めていたサスーン卿は、2013年1月に執行役員としてジャーディン・マセソンに加わった。この任命により、ジャーディン・マセソンとジャーディン・マセソン以来、2つの偉大なアジア貿易王朝のメンバーが結集した。サスーン家は19世紀に香港と中国で貿易の開拓と拡大を競い合ったライバルだった。彼は2020年4月9日に引退した。[48]

スコットランドの指導者

1936 年まで、ケズウィックが語った職員採用の原則は、第一にスコットランド、第二にオックスブリッジのままでした。[49]「『イングランドの東海岸』[ケンブリッジへの言及] に敬意を表して、私は国境の北から来た男性が我々の日常業務に最も適していると感じています…私は、この地域を維持することに非常に熱心です。 「当事務所のスコットランド法人。しかし、私がこの大学の男に反抗したことが伝わっていないといいのですが…私はただ、彼がスコットランド出身の堅実でゆっくりとしたタイプに助けられ、苦しめられるに違いないと考えているだけです。」[50] [誰が言ったの? ]

ジャーディンズはケズウィック家によって経営されています。ケズウィック家は、ウィリアム・ジャーディンの妹ジーンの娘が、同社の初期のタイパンであるウィリアム・ケズウィックの父であるトーマス・ケズウィックと結婚したことによる直系の子孫です。ジャーディンズの経営陣はスコットランド人ですが、同社は取引において国際的です。ジャーディンズのスタッフは主にアジア人で、上級管理職はイギリス人、中国人、インドネシア人、ヨーロッパ人、オーストラリア人、アメリカ人が混在しています。

ケズウィック家は、作家のイアン・フレミングもその一員だったスコットランドのもう一つの著名な家族であるフレミング家との関係を維持しています。 1970 年から 1998 年まで、ジャーディン・マセソンは、フレミング家が管理するロンドンのマーチャント銀行であるロバート・フレミング&カンパニーと汎アジア投資銀行合弁会社ジャーディン・フレミングを運営しました。 2000 年に、ジャーディン フレミングとロバート フレミング & Co. はJP モルガン チェースに売却されました。

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822752 No.7218

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>>7214

【歴史発掘】「麻生家」と明治維新の陰で動いた英国「ケズウィック家」の知られざる物語〈前編〉

2020年12月29日

https://www.dailyshincho.jp/article/2020/12291100/?all=1

麻生太郎財務相は、吉田茂元総理を祖父に持つエスタブリッシュメントである。実を言うと、吉田・麻生家の系譜を見る際、明治維新の陰で動いたケズウィック家の存在を抜きには語れない。両一族の歩みと交友を辿ると、麻生氏周辺の今と未来が浮かび上がる。

 ジャーナリスト・徳本栄一郎(「週刊新潮」2020年11月12日号掲載)

***

「太郎と私は学生時代から親友で、その兄弟や一族も皆、よく知っている。彼は射撃が好きで、スコットランドまで狩猟をしに来た事もあったな」

「たしかに、私の曾祖父は日本の明治維新を組織した。ただ、自分は商人なので、将来のビジネスの機会に興味がある。もし日本で大きな問題が生じたら、太郎に助言を求めるだろう。副総理と財務大臣を兼ねるのは極めて強力な地位だからね」

「中国人がアヘンを燃やした時、われわれは英国政府に軍艦を送り込むよう促した。その結果、香港は割譲されたが、アヘン戦争を正当化し、過去を否定するつもりはない。あれは不幸な歴史だったし、物事の基準も今とは大分違った」

 昨年7月3日の夕方、ロンドンの英国会議事堂に近い閑静な住宅街、その一画の邸宅で、老人は懐かしそうに口を開き始めた。

 この季節のロンドンは、午後5時を過ぎても日が高い。窓から眩しい陽光が差し、カーペットの敷かれた部屋は物音一つせず、時間が止まったような錯覚を覚える。窓を背にしてソファに深く腰を降ろし、ステッキを置いて穏やかな語り口、その姿は好々爺という表現がぴたりと当てはまった。

老人の名はヘンリー・ケズウィック、82歳、190年近い歴史を誇る国際コングロマリット(複合企業)、ジャーディン・マセソンの名誉会長で英国有数の資産家だ。

 そして彼が長年の「親友」と呼び、家族ぐるみの付き合いをしてきたのが、安倍内閣に続き、菅内閣でも副総理兼財務大臣の座にある麻生太郎であった。

 政治家・麻生太郎を形容するのに、よく「政界のサラブレッド」という言葉が使われる。千賀子夫人の父は鈴木善幸元総理で、母方の祖父は吉田茂元総理、その岳父は明治の元老・牧野伸顕で、さらに遡れば「維新の三傑」大久保利通まで行き着く。また妹の信子は寛仁親王に嫁いで皇室も縁続きになっており、まさに“エスタブリッシュメント”“華麗なる一族”と言っていい。

 だが吉田・麻生家の系譜を見る時、もう一つ、決して見逃せない重要な役割を果たしてきた一族がある。

 彼らなくして吉田茂、麻生太郎という二人の総理は誕生せず、今の自民党、いや日本の政界も全く違ったものになったはずだ。

 そして明治維新以来、両家は親から子へ、子から孫へと脈々と絆を受け継ぎ、水面下のコネクションを維持した。それがジャーディン・マセソンと、その経営を代々担うケズウィック家である。

言い換えれば、これら二つの一族の歩みを追う事で、この国の歴史と政治家・麻生太郎の今と未来が浮かび上がってくる。

明治維新を組織

 日本の歴史、それも幕末以降の近代史に興味がある人なら、ジャーディン・マセソン商会の名前は聞いた事があると思う。

 同社は1832年、ウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンというスコットランド出身の貿易商により、中国の広東で設立された。当初は中国のお茶やインドのアヘンを扱ったが、清朝がアヘンの密貿易を禁じると、英国議会に政治工作して英海軍を派遣させ、1840年、アヘン戦争が勃発した。

 この結果、中国は武力で屈服させられ、香港は英国に割譲されるのだが、ジャーディン・マセソンは香港を拠点に船舶や運輸、金融などに多角化、国際複合企業に成長する。また幕末から日本に進出し、討幕派の薩摩や長州に武器を売却、“明治維新の黒幕”とも形容された。

 文字通り、世界史を変えてきた会社で、やがて同社の経営はジャーディン家と姻戚関係のケズウィック家に移り、私の目の前にいるヘンリーは、その4代目に当たる。

 そして、この一族と数世代に亘って密接な関係を維持してきたのが吉田・麻生家で、物語は今から約160年前、横浜の地から始まった

1859年、安政6年の7月のある日、横浜の沖合に停泊する帆船トロアス号のデッキで、一人の英国人青年が陸地の方を凝視していた。ようやく辿り着いた新天地だというのに、目に映るのは、一面に広がる沼地と藁葺き小屋の寒村である。何とも言えない物哀しさだが、ここが交渉の末、徳川幕府が認めた貿易の拠点なのだ。

 青年の名前はウィリアム・ケズウィック、その4年前にスコットランドから中国へ渡り、ジャーディン・マセソン商会で働いていた。

 米国の東インド艦隊のマシュー・ペリー提督率いる軍艦が来航し、開国を迫ってからすでに6年が過ぎた。巨大な黒船に狼狽した幕府は要求に応じ、日米和親条約を結ぶが、その後も欧米は日本との貿易を求め続ける。その結果、1858年に修好通商条約が結ばれ、米国や英国などが横浜を含む港で貿易を認められた。

 これを機に、一攫千金を狙う外国商人が一斉に来日するが、その先陣の一人がヘンリー老人の曾祖父でジャーディン・マセソンの若手、ウィリアム・ケズウィックだった。

 ずっと後になるが、横浜開港100年を記念して同社がまとめた日本語の冊子に、こういう記述がある。

「ケズウイツクは横浜の海岸通、旧棧橋の入口の『居留地一番』と称せられた土地に木造二階家を建て、こゝを事務所として貿易を始めた。その為当時の日本人はジヤーデイン・マセソンを『英一番館』と呼んだ」

「開港直後の我が国では、外国商人で未だ事務所を持たないものが多く、それらは、船を事務所として取引を行つていた。又、日本の商人もどんなものが外国人に好まれるか分らなかつたので、生糸、絹織物、木綿織物、麻、米、麦、蝋、金属製品、漆器、陶器等を雑然と店にならべていた。互に言葉が全く通じないので、取引も手真似、身振りでするような状態であつた」(「英一番館:日本に於ける百年 安政6年~昭和34年」)

 初めて訪れた異国で悪戦苦闘するのが目に浮かぶが、やがて横浜には煉瓦造りの商館や教会、ホテルが建てられ、かつての寒村は急速に変貌を遂げる。

 そして、ケズウィックが横浜に着いたのと同時期、もう一人、スコットランド出身の青年が日本でのビジネスを夢見て長崎に上陸した。彼の名前はトーマス・グラバー、このグラバーという名前も聞き覚えがある人は多いと思う。

長崎でジャーディン・マセソンの代理店のグラバー商会を設立、討幕を目指す薩摩や長州、土佐の坂本龍馬に武器を売り込み、明治維新の推進役になった。後にジャーディン・マセソンは、当時の記録を英ケンブリッジ大学の図書館に寄贈、研究者の閲覧を認めたが、そこには長崎でのグラバー、横浜、上海でのケズウィックの活動が詳細に記述されている。

 その意味で、冒頭の「私の曾祖父は日本の明治維新を組織した」という言葉は独特の凄みがある。だが、私がジャーディン・マセソンと明治維新の繋がりを実感したのは8年前、同社のオフィスを訪ねた時であった。

 ロンドンの金融街、ロンバード街3番地にある重厚な建物の会長室に通され、ヘンリー・ケズウィックと対面した際、彼が何気ない口調でこう呟いたのだ。

「おそらく、伊藤もここに来たのかもしれないな」

 一瞬、何の話かとキョトンとしたが、ややあって伊藤博文の事だと分かって驚愕した。

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822752 No.7219

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>>7218

長州ファイブを支援

 開国か攘夷かで国論が二分され、外国人襲撃も相次いだ1863年、長州藩の若者が横浜のジャーディン・マセソンに接触してきた。幕府の禁制を犯して英国に留学したいので、支援して欲しい。見つかれば死罪の恐れもあるが、ぜひ向こうで鉄道や造船、造幣など西洋の知識を身につけたいという。

 これが若き日の伊藤博文や井上馨、井上勝、遠藤謹助、山尾庸三、いわゆる「長州ファイブ」で、いずれも後に明治政府で初代総理大臣や外務大臣など要職に就く。彼らはジャーディン・マセソンが手配した船で英国へ渡り、ロンドンの大学で学ぶが、それを支援したのがウィリアム・ケズウィックら当時の経営幹部だった。

 徳川幕府が倒れて新政府ができれば、この男は将来、日本の総理大臣になるかもしれん。その時、わが社の投資は必ず生きる。留学支援の労を惜しむべきではない。ひょっとしたら役員会で、こんな会話があったかもしれない。

 当時、長州ファイブを世話した同社の兄弟会社の住所はロンバード街3番地、たしかにここに伊藤が来ていてもおかしくない。明治維新の黒幕か……そう考えた時、思わずハッとして会長室の内部を見回したのを覚えている。

同時に驚かされたのは、これら幕末の物語に登場する人物の若さである。

 ウィリアム・ケズウィックが横浜で事務所を開いたのは25歳、トーマス・グラバーが来日し、伊藤博文が英国に密航したのは共に21歳といった具合だ。日本の近代史の転機になった明治維新は、これら野心と冒険心に富んだ若者たちの邂逅で生まれていったのだった。

 そして維新から2年経った1870年の秋、煉瓦造りの洋館が建ち並んで変貌した横浜に、ある福井藩出身の青年が現れた。

 彼もまた時代の熱に引き寄せられた一人で、やがてジャーディン・マセソンに入社、日本の歴史で重要な役割を担う。青年の名前は吉田健三、吉田茂元総理の養父である。

 戦後の日本の針路を定めた宰相として、吉田茂の名は広く知られる。敗戦による占領期、反抗的と言える態度で連合国軍総司令部(GHQ)に立ち向かい、軽武装・経済中心主義を根付かせた。その薫陶を受けた佐藤栄作、池田勇人ら後進の政治家は「吉田学校」と呼ばれ、自民党の中核を担っていった。

詐欺で告発された健三

 その吉田の生い立ちを、孫の麻生副総理は著書『麻生太郎の原点 祖父・吉田茂の流儀』でこう記している。

「祖父、吉田茂には二人の父がいる。実父は土佐の自由党の志士だった竹内綱(たけのうちつな)。養父は越前福井藩藩士の末裔(まつえい)で、貿易商として一代で財をなした吉田健三。二人は大の親友で、一人も子どもがいなかった吉田健三に『今度生まれる赤ん坊が男の子だったら君にあげよう』と竹内綱が申し出るほどの仲だった」

 そして、その約束は実行されるのだが、健三は長崎などで英語を学び、1870年代、横浜のジャーディン・マセソンで働いていた。

「彼は海外から商品を買いつけ、日本からはさまざまな物産を輸出する、いわゆる商取引に抜群の才をあらわした。扱った商品は生糸から軍艦までというから、今でいえば商社マンということになろうか。ジャーディン・マセソン商会から独立した吉田健三は、海運代理業をはじめ数々の事業を興し、そのことごとくを成功させた」(同書)

 だが成功した実業家の健三は、1889年、40歳の若さで病死する。そして早世した養父の遺産、一説には50万円、現在の貨幣価値で約30億円もの資産を相続したのが、わずか11歳の茂で、それを完全に食い潰してしまったのだった。

「養父の遺産を継いだ祖父の生活スタイルは派手であり、かなり目立ったという。学生の身でありながら東京に家を構え、馬に乗って通学したのである」

「母は、吉田家から祖父が相続した財産がどこに行ってしまったのか本当に不思議で、『一度聞いてみようかと思ったが、とうとう聞かずじまいに終わってしまった』と言っていた。財産の行方はこれから先も謎のままということになるが、祖父が政界入りの前にきれいさっぱり使い果たしてしまっていたのは間違いない」(同書)

当の茂も茂で、晩年の著書に「2代目の私はもっぱら減らすことに精進してきた」「“吉田財閥”も従って終りを告げた次第」と書いたくらいだから、間違いない。

 彼は若い頃から財布を持たず、代わりに小切手を使ったという。また接待を非常に嫌い、好きな芸者遊びも連日、自腹を切って通っていた。まさか莫大な遺産を全部芸者ですったのでもあるまいが、その原資は、養父がジャーディン・マセソンで得た報酬だ。

 それが、後のGHQにも怯まない豪胆さを生んだとすれば、生きた金の使い方だったと言える。

 だが、これまで謎だったのは健三が同社に入社した経緯である。それがきっかけで、今に続く吉田・麻生家とケズウィック家の絆が生まれるのだが、その答えは、ロンドンの英国立公文書館が保管する文書から見つかった。

 明治維新直後、江戸から名称が変わったばかりの東京で、若い吉田健三は何と、詐欺で告発されたのだ。その彼を助けたのがジャーディン・マセソンで、この裏には、日本と英国の国際問題に発展した巨額詐欺事件が絡んでいた。

 英外務省の記録によると、事の顛末は次の通りである。

1870年11月、横浜のジャーディン・マセソン商会に川越藩から、ある商談が持ち込まれた。同藩は、今の埼玉県川越市が拠点で、江戸の北の守りとして幕府は代々、有力大名を配置した。その物産総括を名乗る、天野恕一という男が蒸気船1隻の購入を注文、年末には契約書も作られ、川越藩から支払いを待つだけとなった。これが完全な詐欺だったのだ。

 英外務省によると、天野の蒸気船購入を藩は承認しておらず、おそらく私的なビジネスに使って一儲けを狙ったという。ジャーディン・マセソンはハリー・パークス駐日英国公使に直訴し、川越藩に支払いを求めたが相手は拒否、裁判沙汰になった。そして天野の商談の通訳を務め、共犯として告発されたのが吉田健三であった。

 吉田の調書が英訳されて残っているが、彼も、よもやこれが詐欺とは夢にも思わなかったという。

「自分は、この蒸気船は蝦夷(えぞ)や大阪との間の交易に使うと聞かされ、天野が藩の名前を借りたとは知りませんでした」「不注意な通訳をしてしまい、慙愧に堪えません」

 そして吉田は、ジャーディン・マセソンに自分の扱いで当局に働きかけるよう訴え、同社も協力に同意した。元々は商談を通訳しただけで、詐欺の責任を問うのは酷と判断したようだ。

自宅謹慎30日

 結局、1872年の春に判決が出て、川越藩に責任はなく、主犯の天野は私財没収と懲役2年半、吉田には自宅謹慎30日が命じられたのだった。

 英国立公文書館が保管する判決と吉田の調書を読むと、悔しさで唇を噛む姿が目に浮かんでならない。他の幕末の若者同様、彼も時代の熱を受け、故郷の福井を飛び出した。長崎などで必死に英語を学び、飛躍した途端に、詐欺の容疑者となってしまう。

 だが屈辱と怒りで身を震わせつつ、まさか自分の子孫から、吉田茂、麻生太郎と2人の総理大臣が輩出するとは夢にも思わなかったはずだ。

 そして、この事件はジャーディン・マセソンにも貴重な教訓を残した。新政府が発足したとはいえ、国内統治は未整備で、怪しげな商談などトラブルも相次いだ。そこでは現地の情報を集め、相手の信用度を見抜く、今で言うデューデリジェンスが必要だ。

 現に仲裁に当たった駐日英国公使館も、「仮契約前、もう少し慎重に調べれば、天野の正体に気づいたはず」と批判している。それを身に染みて学んだ吉田はまさに適任で、直後から同社で働き始めたのを見ると、事件が採用のきっかけとするのが自然だろう。

天野恕一という稀代の詐欺師のおかげで、ジャーディン・マセソンと吉田健三は出会い、茂に莫大な資産を残し、今に続く吉田・麻生家とケズウィック家の絆を生んだ。

「禍福は糾(あざな)える縄の如し」と言うが、歴史は時に思いもよらぬ演出をするのである。

 こうして明治に生まれた両家のコネクションは、大正から昭和、平成へと移り、各国政府や情報機関も巻き込んだ波乱のドラマを繰り広げていく。(後篇につづく)

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822752 No.7220

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>>7219

【歴史発掘】「麻生家」と明治維新の陰で動いた英国「ケズウィック家」の知られざる物語〈後編〉

2020年12月30日

https://www.dailyshincho.jp/article/2020/12301100/?all=1

明治維新を陰で仕掛けた英国のジャーディン・マセソン商会、その経営を担うケズウィック家。彼らなくして、吉田茂と麻生太郎という二人の総理は誕生しなかったと言われる。今も脈々と続く、国際ビジネスの名家と吉田・麻生家の知られざる絆を解き明かす。

 ジャーナリスト・徳本栄一郎(「週刊新潮」2020年11月19日号掲載)

 ***

 横浜港に面した山下公園の近く、豪華客船が着岸する大桟橋の広場に、ある記念碑が建っている。古い石碑には「英一番館跡」の文字が彫られ、横の金属製プレートに英語と日本語で解説がある。

「イギリス人、ウイリアム・ケズウィックは、開港と同時に帆船で横浜に来航し、居留地一番館において貿易を始めた。この建物は、ジャーディン・マセソン商会と称したが、当時の人々が『英一番館』と呼んでいたのは、この地点である」

幕末のペリー来航から6年後の1859年、安政6年に横浜は開港し、野心溢れる外国商人が一斉に来日した。若いウィリアムもその一人で、この記念碑は、明治から続くケズウィック家と吉田・麻生家の絆を象徴した。

安倍内閣に続き、菅内閣でも副総理兼財務大臣の座にある麻生太郎、彼について「政界のサラブレッド」という言葉が使われる。夫人の父は鈴木善幸元総理で、母方の祖父は吉田茂元総理、その岳父は明治の元老・牧野伸顕で、さらに遡れば「維新の三傑」大久保利通まで行き着く。

 だが、吉田・麻生家の系譜を見る時、決して見逃せない重要な役割を果たした一族があった。それが世界史を変えたとされるジャーディン・マセソン商会、その経営を担うケズウィック家である。

 彼らなくして吉田茂、麻生太郎の二人の総理は誕生せず、今の自民党、いや日本の政界も全く違ったものになったはずだ。そして明治以来、両家は親から子へ、子から孫へと絆を受け継ぎ、水面下のコネクションを保ってきた。

その始まりが明治維新直後、同社の横浜支店で働いた吉田健三だったこと、その巨額の遺産を養子の茂が食い潰してしまったのは前篇(【歴史発掘】「麻生家」と明治維新の陰で動いた英国「ケズウィック家」の知られざる物語(前篇))で述べた。一説には現在の貨幣価値で約30億円、それを芸者遊びなどで散財するのだが、そんな家庭環境のせいか、養母からよく「この子は気位が高い」と言われていたという。晩年に吉田茂自身、回顧録でこう振り返っている。

「不思議なもので、気位の高い子だとしばしばいわれていたせいか、いつか本当に気位の高い子になってしまった」

「これが他人の目からは傲慢と見られ、我儘と思われ、ワンマンなどといわれるような性格になった所以であろう。しかし、一方には他人の威圧に屈しない、痩我慢の強い、威圧に対してはむしろ反抗的な人間になったとも考えられる」(「大磯随想」)

やがて成長した茂は、東京帝国大学を卒業後、外交官の道を歩み始めた。中国の奉天を皮切りにロンドンやローマで勤務、大正時代は第1次大戦のパリ講和会議に随行した。その後も天津や奉天の総領事、外務次官とキャリアを重ねるが、昭和に入りイタリア大使を終えた途端、閑職に追いやられてしまったという。

 その頃の茂の様子を、吉田茂の娘で麻生太郎の母、和子は、後に著書でこう証言した。

「職業上の身分は保たれるものの、命令が下るまでのあいだ待機している状態なわけですから、仕事などなにもありません。暇つぶしに書類の裏にお習字などしながら、さぞかし不愉快な日が続いたことと思いますが、それでも愚痴めいたことは口には出さず『人生は長いし、世の中は広いのだ』というような顔をしているところが立派でした」

「事務仕事などまるっきり不得意でしたし、若いときから鼻っ柱が強く、なんでもかでも頭から押えつけようとする人が嫌いでした。外交官試験に受かり、官補(かんぽ)になってまもないころ、父は麻布にあった自宅から霞が関の外務省まで毎朝馬に乗って通勤していました。ある朝、前方を歩いていく課長を追い越しぎわに父が馬上から挨拶をしたところ、課長はなにを勘違いされたのか頭を下げられたのだそうです。こんな話を自慢そうにするのですから、上役からはなにかとにらまれやすい父でした」(『父 吉田茂』)

二つの機密文書

 傍目には鼻持ちならない金持ちだが、こうした性格が、占領期の総理として連合国軍総司令部(GHQ)に立ち向かわせた。また佐藤栄作、池田勇人らの後進を見出し、「吉田学校」と呼ばれる自民党の保守本流を生む。元を辿れば、ジャーディン・マセソンで養父健三が働いたからこそ、可能だった。

 この和子を知るのが、前篇のインタビューに登場したケズウィック家4代目、ヘンリー・ケズウィックだ。そのヘンリーが、ちょっとしたエピソードを教えてくれた。

「うちの祖父は昔、駐日英国大使だったんだが、母は若い頃、麻生和子と遊んでいたそうだ。和子と英国との結び付きは極めて強かったな」

 じつはヘンリーの母方の祖父フランシス・リンドリーは、昭和初期に駐日大使を務めた外交官で、娘のメリーも来日した。和子と同年代で、大使の父を持つ者同士、気が合ったのかもしれない。そのメリーと結婚したのがヘンリーの父、ケズウィック家3代目のトニー・ケズウィックだった。

明治から大正、昭和と移って、糸が絡み合うように両家の絆が深まっていくのが分かる。

 だが、こうした華やかな表舞台と逆に、時代は次第にきな臭さを増していった。原因は、日本の中国政策である。

 1931年9月、奉天近郊で南満州鉄道の線路が爆破され、これを機に関東軍は満州を占領、いわゆる満州事変が起きた。国際連盟は、リットン調査団を派遣して関東軍の謀略としたが、日本は清朝最後の皇帝溥儀を担ぎ、満州国を建国する。だが各国は正当性を認めず、間もなくわが国は国際連盟を脱退してしまった。

 その後も盧溝橋事件から日中戦争、そして真珠湾攻撃へと発展するが、それはジャーディン・マセソンにも創業以来の危機を意味した。元々、中国で誕生した同社にとり、この地が戦場になるのは死活問題だったのだ。

 やがて戦火が広がる中、彼らはどうやって事態を乗り越えようとしたか。それを物語る二つの機密解除文書がある。

一つは、上海のトニー・ケズウィックからロンドンの幹部に宛てた書簡である。日付は1939年9月29日、ドイツ軍のポーランド侵攻で第2次大戦が起きて約1カ月後だ。文面には「中国における日本、ジャーディン・マセソンへの影響」とのタイトルがあった。

 すでに当時、中国の主要な港湾は日本軍が押さえ、かつてのように自由な貿易はできなくなっていた。このままでは、19世紀から築いてきた権益を全て失いかねない。幹部たちが焦燥を強める中、日本軍から一つの提案が持ち込まれた。ジャーディン・マセソンと日本軍、三井、三菱で共同の貿易会社を設立してはどうか、という。

 必要な船舶や港の手配、利益の送金など支援も約束された。国際的に孤立した日本は英国の、それも歴史ある会社をパートナーにイメージを改善、ジャーディン・マセソンも中国に留まり商売ができる。いわば、ウィンウィン(持ちつ持たれつ)という訳だ。

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822752 No.7221

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>>7220

二つの悪のうちで…

 だが、それは同社にとって、本国で“裏切り者”と非難される危険も意味した。実際、提案を知った英外務省は警戒感を露わにしたが、それでも、上海のトニー・ケズウィックは幹部に決断を促している。

「これは緊急事態であり、決断を遅らせても解決になりません。優柔不断は、中国での英国の利益にすでに十分な損害を与えました。われわれは中国に留まり貿易を続ける決意で、問題は、その最善の手段は何か、なのです」

 もう一つは、このトニーの弟で、同じくジャーディン・マセソン幹部のジョン・ケズウィックの文書だ。日付は太平洋戦争中の1942年10月15日、2ページの書簡に「中国・開(かい)ラン炭鉱の破壊」とタイトルがある。

 開ラン炭鉱とは河北省にある中国有数の炭田で、戦争中は日本軍の支配下に置かれた。そこへ工作員を潜入させ、または空爆で破壊すべきだという。

「この炭鉱の生産量は年間500万から600万トンに達し、日本の年間消費の約12パーセントに相当します。中でも、コークス用炭の消費の半分は開ランからで、これを攻撃すれば戦争遂行能力に重大な意味をもたらします」

また坑内の湧水を排出するには常にポンプを動かさねばならず、

「これを48時間無力化すれば、坑内は水没して1年は生産できなくなるでしょう」

 およそビジネスマンと思えない物騒な文面だが、じつは当時ジョンは、英軍の特殊作戦執行部(SOE)に所属していた。SOEは戦時中に設立された組織で、枢軸国の支配地に潜入し、諜報や破壊活動を行う。その中国担当の彼は、日本の戦略物資を叩く作戦を提案したのだった。

 これらトニーとジョン、ケズウィック家3代目の兄弟が残した文書を読むと、その行動原理が分かって面白い。

 日中戦争で会社存亡の危機に瀕した時、彼らは日本軍と組んでも商売を続ける決意をした。決して日本を支持はしないが、中国から撤退するよりはるかにましだからだ。それは、トニーの書簡のthe lesser of two evils(二つの悪のうちでましな方)という言葉で分かる。

 だが、いざ戦端が開いて敵同士になれば、全力を尽くして戦うのみだ。そのため長らく中国で活動したケズウィック家の知識を惜しみなく提供する。この現実主義と柔軟性は、かつて徳川幕府から討幕派の薩摩と長州に乗り換え、武器を提供した初代、ウィリアム・ケズウィックを彷彿とさせた。

1945年の夏、日本の無条件降伏でようやく戦争は終わり、ジャーディン・マセソンも活動を再開し始める。そして、この頃、彼らのビジネスの水先案内人と呼べる日本人が現れた。その男は吉田・麻生家と親しく、政財界にコネクションを持ち、日本での強い援軍になってくれた。

 それが吉田内閣の“ラスプーチン”と呼ばれた男、白洲次郎である。この白洲の名前を知る人も多いと思う。

 芦屋の裕福な実業家の家に生まれ、英国留学を経て戦前は近衛文麿総理のブレーン、戦後には吉田茂総理の側近を務めた。新憲法制定などでGHQと折衝し、通商産業省の創設にも関わった。

 1951年3月、ロンドンの事務所に移っていたトニー・ケズウィックに、東京支店から書簡が送られてきた。日本の国内情勢の報告だが、その中に「只見川水力発電計画」というのがある。

 近く電力業界が再編され、東北電力という会社が生まれる。その会長になる白洲は、福島の只見川で水力発電所を計画し、これに英国企業も参加させるべしという。そして吉田側近の白洲を「日本で最も影響力のある一人」とし、その政治力に期待をのぞかせていた。

このトニーの息子で、後にジャーディン・マセソン会長になるのがヘンリーだが、彼も白洲次郎と面識があったらしい。

「戦後のうちと日本との結び付きは白洲、そして麻生和子だった。これまでの私は、良きアドバイザーに恵まれたと思う。自分のために動いてくれる賢明な人々を持つのは大切だ。今でも麻生家は親しい友人で、もし日本で大きな問題が生じたら、太郎に助言を求めるだろう。副総理と財務大臣を兼ねるのは極めて強力な地位だからね。もっとも、今は日本企業と組んでインドネシアなどでビジネスをしており、問題は抱えていないが」

彩子は頭が切れる

 そして、このヘンリーの言葉は、じつはジャーディン・マセソンの歴史にとって重大な意味を持つ。19世紀以来、アジアでの成長を陰で支えてきた集団、「コンプラドール」である。

 かつて帝国主義の全盛期、欧米の商人は競って中国に進出したが、そこで彼らは厄介な問題に直面した。言葉や商慣習の違い、有力者とのパイプ不足で、それを克服できるかどうかがビジネスを左右した。そこで、助け舟を出したのが「コンプラドール」だった。

 英語に堪能で、有力者との仲介を担う中国人で、当然、その働きに応じた報酬も支払われる。それを元手に商売を始め、短期で巨額の資産を築く者も現れたという。

 こう書くとすぐ“外資の手先”と非難するのもいるだろうが、話はそう単純ではない。じつは、中国のコンプラドールも歴史的評価は分かれる。ある者は中国の植民地化の手先とし、ある者は近代化の功労者とする。おそらく、その両方共に正しく、真実は中間辺りにあるのだろう。

この意味で明治維新直後、ジャーディン・マセソンで働いた吉田健三も、そうした一人だったと言える。

 前篇で述べたように、元福井藩士の健三は入社後、新政府との折衝で活躍、巨額の報酬を手にした。それを元手に事業を起こし、養子の茂が受け継ぐ財産を築く。やがて成長した茂は自民党の「吉田学校」を生み、今の政界につながる道を開いた。

 いわば、日本の歴史を作ったコンプラドールで、健三なしに子孫の麻生副総理はむろん、安倍内閣や菅内閣もなかっただろう。

 興味深いのは、吉田茂が総理在任中、ジャーディン・マセソンとの関係を隠そうとした節もある事だ。

 1954年10月、吉田は欧米歴訪の途中で英国を訪れるが、滞在中、週末をエセックス州のトニー・ケズウィックの別荘で過ごした。それを当時の新聞は一切報じず、英外務省の記録では、ここで吉田は三井絡みのビジネスを話し合っている。総理自ら、民間の商売に介入しようとでもしたのか。そして日本の外務省による日程表では、ケズウィック邸訪問に「此の項発表せず」との注意書きがあった。

幕末に来日したウィリアムから4代目、ヘンリー・ケズウィックも現在82歳、一昨年には甥のベン・ケズウィックに会長職を譲り、第一線から退いた。その彼が昨年夏、ロンドンの自宅で会った際、何気ない口調で「太郎は、あとどのくらい続けられるだろう」と訊いてきた。

 前篇で述べたように、彼と麻生太郎は若い頃から親友で、家族ぐるみの交際をしてきた。その麻生もすでに80歳、そろそろ政界引退も囁かれ始めた。その後継者がいつ、誰になるか、噂や憶測も出ているが、ここでヘンリーが意外な人物の名を口にした。麻生の長女の彩子である。

 彩子は東京大学を卒業後、英国に留学、その後出会ったフランス人と結婚したが、彼女の後見人的存在なのがケズウィック家らしい。ソファに深く腰を降ろしたまま、ヘンリーが穏やかな笑顔で続ける。

「彩子はフランス人と結婚して、今、パリに住んでるが、英国に来たらわが家で世話をするようにしている。つい最近も週末、子供たちを連れてうちに泊まっていったよ。私が見たところ、彩子は非常に頭が切れるし、精神的にもタフだ。いつか政界入りすれば、有力な政治家になれると思う。彼女が日本の総理大臣になれるよう願っているよ」

その瞬間、静寂に包まれた部屋で、全身にゾクッとするような衝撃を覚え、身じろぎもせずに彼の表情を見つめた。

 もう10年以上も前、ロンドンでジャーディン・マセソンの人間から、真顔で「麻生は総理になれるか」と訊かれた事があった。似た言葉を彼らは、終戦直後、吉田茂について言ったかもしれない。いや、ひょっとしたら幕末、あの伊藤博文を英国に留学させた時もそうだったのでは。

 明治維新以来、日本の歴史に深く関わったジャーディン・マセソン商会とケズウィック家、まさに、それを象徴するような言葉だった。

 麻生太郎の政界引退と後継者で、すでに両家で話がついているかどうかは分からない。だが幕末の安政6年、横浜にウィリアム・ケズウィックが上陸して始まった物語は、令和に入り、次の世代へ受け継がれる。

 横浜で潮風を受けて佇む古い石碑と、そこに刻まれた「英一番館跡」の文字、それは「過去はプロローグ」と語りかけているようでもあった。

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822752 No.7222

>>7216

Q Research Japan/Nihon #21より

ジャーディン・マセソン

簡単にまとめられた年表があった

There was a brief chronology of events.

https://toyama-msb.co.jp/blog/taiwanyuji2/

2022.06.16

イギリスの影響を大いに受けた明治維新(台湾有事 其の二)

The Meiji Restoration, which was greatly influenced by the British (The Taiwan Emergency Part 2)

明治維新は当時の世界情勢の中でどのような位置づけになっていたのかという観点で俯瞰してみると時代変遷の意味がわかり易い。大きく見れば江戸時代は内需に依存した時代だったが、それが明治維新でグローバリズム、所謂「人・物・金」が行き交う時代へと移り変わっていった。しかし今のグローバリズムと当時のグローバリズムは色合いが異なる。列強国による植民地化でまさに資産の奪い合いの時代。日本は何を奪われたか。この問いを通して、改めて幕末を見直してみたい。

(…)

イギリス外務次官エドマンド・ハモンド「日本において体制の変化がおきるとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」

Edmund Hammond, British Undersecretary of State for Foreign Affairs: "If there is to be a regime change in Japan, it must appear to originate with the Japanese alone."

武器商人トーマス・グラバー「つまり、このグラバーが日本のため一番役立ったと思うことは、私がハリー・パークスと薩摩、長州の間にあった壁をブチ壊してやったということだ・これが私の一番の手柄だと思う。徳川幕府の叛逆人のなかでは、自分が最も大きな叛逆人だと思っている」。

「『徳川幕府を誰が倒したか』と問われれば『それは私だ』と答える他ない」

Arms dealer Thomas Glover: "In short, what I think Glover did most for Japan was that I broke down the wall between Harry Parks and Satsuma and Choshu. I consider myself the greatest rebel of all the rebels of the Tokugawa Shogunate."

"If you ask me 'who overthrew the Tokugawa Shogunate', I have no choice but to answer, 'It was I.'"

幕末明治維新は、誰がキーマンだったのかということが判れば、歴史の見え方も変わってくる。上の台詞を踏まえて、以下の年表では幕末明治維新を外国勢力及び外国人の動きと合わせながら見ていきたい。注意しなくてはならないのが、一様にイギリスといっても英国政府なのか、英国の領事館なのか、イギリスの民間人(商人)なのかと彼らの立場を踏み込んで考慮することで見え方が変わってくることである。現代日本でも価値観が多様化しており「我々日本人」と一括りでまとめるのはほぼ不可能で、一括りで理解しようとすると本質にたどり着けない。これと同様である。

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822752 No.7223

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ロスチャイルド家とジャーディン・マセソン商会が親戚関係にあるとは知らなかった

I didn't know the Rothschilds were related to the Jardine-Matheson Chamber of Commerce.

(…)

現在では幕末明治維新の構図が詳細に分かってきており、大政奉還を提言したのは竜馬だが、企てたのはそのバックにいたグラバーや英国政府の可能性も否定できない。グラバーを含めた西洋人は当時の日本では特異な存在として畏れられ、彼らもその立場を利用し暗躍した。竜馬が新政府綱領八策を作成したとき、明治政府のトップに慶喜を構える可能性があった。佐幕派と討幕派が全く血を流さなければ武器は売れない。また、竜馬がグラバーを飛び越えて貿易を行っていた可能性もあるようだが、グラバーの怒りは我々不動産業者ならわかるはずだ。坂本竜馬が殺されたのもグラバーを怒らせたとの見方をすると理論上も時期的にも説明がつく(苫米地【2015】)。

しかし、実態としてはグラバーや英国政府の背後にいるのがロスチャイルド家である。ロスチャイルド家とジャーディン・マセソン商会は親戚関係であることも判明している。グラバー商会がジャーディン・マセソン商会の代理店として日本で活動してきた経緯があるが、グラバーから長州ファイブや五代、竜馬に流れていたお金は元をたどるとロスチャイルド家となる。ロスチャイルド家のお金で欧米に渡り、ロスチャイルド家と出会い、彼らの都合の良いように交渉され、資産を奪われる。当時の日本人は、欧米に渡り最上級の貴族生活を案内される中で彼らに驚愕し、畏れ、そして憧れたはずだ。彼らは戦争を知っている。したたかでもある。

The reality, however, is that the Rothschilds are behind Glover and the British government.It is also known that the Rothschilds and the Jardine Matheson Trading Company are related.The Glover Trading Company has been active in Japan as an agent of the Jardine-Matheson Trading Company, and the money that flowed from the Glovers to the Choshu Five, V, and Ryoma can be traced back to the Rothschilds. With the Rothschilds' money, they traveled to Europe and the U.S., met the Rothschilds, negotiated in their favor, and were deprived of their assets. The Japanese of that time must have been astonished, awed, and admired them as they traveled to Europe and the U.S. and were shown around the highest level of aristocratic life. They know war. They are also very clever.

(…)

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822752 No.7224

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>>7222

>>7223

Q Research Japan/Nihon #21より

digありがとうございます!この年表わかりやすくて良いですね。

Ummmmロスチャイルド家とジャーディン・マセソン商会は親戚…

ロスチャイルド家と徳川家に関する情報を転載してくれている方がいたので共有します

天皇家が叩かれることが多いけど、一番の日本側の黒幕は徳川家なのかもしれない?

なぜ今「ロスチャイルド家と徳川家」なのか? 明治維新の真相とそれが導く明日の世界

https://blog.goo.ne.jp/nobody-loves-you/e/dbaa961b164c44716767f6608a1eff8a

2014年3月17日 8時0分

皆様、おはようございます。原田武夫です。

今朝8時にいつものとおり、Yahoo!ニュース(個人)において新しいニュース・コラムをアップロードしました。

なぜ今、ロスチャイルド家と徳川家のコラボなのか・・・

是非ご覧下さい!!

そして・・・いつものとおり、よろしければYahoo!ニュース画面上で「いいね!」を押して頂ければ幸いです★

ありがとうございます!!

http://bylines.news.yahoo.co.jp/haradatakeo/20140317-00033597/

https://www.facebook.com/iisia.jp/posts/10203059989083695

4月、「ロスチャイルド家と徳川家」が東京でイヴェントを実施

4月22日(火)、東京にあるコンサート・ホールで一風変わった演奏会が実施される。題して「徳川家・英国ロスチャイルド家 世紀を超えた奇跡のコンサート&対談」ということだ(主催:「世界平和コンサートへの道実行委員会)

出演するのは我が国における徳川家の宗家を継ぐ立場にある徳川家広氏と、欧州系国際金融資本として知られるロスチャイルド家の中でも英国系のファミリーの一員であるバロネス・シャルロット・ドゥ・ロスチャイルド女史である。これら2人の人物共に活発に活動していることで知られており、前者は金融資本主義の終焉を長期的なスパンで的確に語った著作等を出版されている一方、後者は全国各地で日本語の名曲を歌い、多くの聴衆を魅了してきた経緯がある(ちなみにロスチャイルド家においては家訓で女性は家督相続権を持たないことになっている)。

「1862年の文久遣欧使節」が全ての始まりだった

もっともこの様に語ると「なぜこのタイミングであのロスチャイルド家が?」と大変いぶかしく思われる読者も多いのではないかと想う。陰謀論(conspiracy theory)の好きな日本人の中でロスチャイルド家は格好のテーマとされて来たからだ。つまり世の中で何かが起きる、とりわけ「不幸な惨劇」が生じると「ユダヤ人」のせいにし、とりわけその筆頭格とされてきたロスチャイルド家のせいにするということが、これまで欧米社会では頻繁に行われてきており、それをそのままコピーして我が国で人口に膾炙させている向きが後を絶たないのである。そうした議論を耳にし、それほど事情に明るくない読者は「なぜ今、ロスチャイルドが?しかも我が国の徳川と?」となってしまうに違いなのだ。

だが、私自身はこうした企画が行われると偶然耳にした時、「なるほどな」と思った次第である。なぜならばかつて刊行した小著(「世界通貨戦争後の支配者たち」)の中で、史料の検証を通じ、次のように論じたことがあるからだ:

●一般に「幕末の志士たちによる偉業」として語られることの多い明治維新であるが、より大きなフレームワークで当時の為政者である徳川家が中心となって行った一大プロジェクトであったというのが事実である。グローバル・マクロ(国際的な資金循環)のシステム構築が米欧によって進められている現実を目の当りにした徳川幕府が決心をしてこれに適応し、我が国が生き延びていくためのプロジェクトであった

●具体的には1862年に派遣された文久遣欧使節がカギを握っている。福沢諭吉も参加したこの遣欧使節については、なぜか我が国においてその後語られることが少ない。だが、この時、使節団はロンドン・シティ(City of London)の金融街においてロスチャイルド家と面会し、世界の現実を知った経緯がある

このことは当時から現在まで我が国において刊行された史料には一切記述がない。そのため、国史学の世界では完全に無視されてきた。だがロスチャイルド家がインターネット上で閲覧に供している歴史文書館(Rothchild Archive)ではこの時、徳川幕府から使節がやって来て会見した旨明記されているのである

●そしてこの会見において日本側が悟ったのは米欧によって構築されつつあるグローバル・マクロのシステムと、それまで我が国と華僑華人ネットワークが「日本=中国=東南アジア」にまたがって構築してきた資金循環システムとの間で「金銀の交換比率」を巡り大きな差が生じてしまっているということであった。このままでは前者が後者を押しつぶすことが明らかであったため、徳川幕府はそれ以外の国内諸勢力と語らって、国内外が「納得のいく」体制転換劇を演じることにした。それが明治維新の真相である

●「明治維新後、影響力を失った」とされることの多い徳川家であるが、そうした認識は決定的に誤っている。なぜならば戦前期の我が国が最も円熟し、新しい大国としての威信を持つに至った1913年から1933年までの実に20年にもわたる時期において、貴族院の議長を務めていたのは徳川家達だったからである(ちなみに徳川家達は最終的に「返上」することになる1940年夏季東京オリンピックの組織委員長であった)。当時の貴族院は現在の参議院とは大きく異なり、実質的に政治的な決定を下す機関として機能していたことから、その影響力は極めて大きかった。そして正にこの時期にロスチャイルド家は我が国に対して盛んに投資を行い、利益を上げていたのである

ちなみにロスチャイルド家は公開されている史料を見る限り、1930年代の前半で我が国に対する投資を止め、資金回収を完了させている。その後、我が国において吹き荒れたのは戦争への嵐であり、日中開戦(1937年)、太平洋戦争への展開(1941年)、そして二つの原子爆弾が投下され、終戦を迎えるという惨劇であった(1945年)。あたかもそうなることを見越してロスチャイルド家が動いたかのように見えてしまう。

>徳川家達

>>7121

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822752 No.7225

>>7224

グローバル・マクロは約70年で盛衰を繰り返す

しかしこの本の中で私は、とりわけドイツとの比較において一つの「法則」があることに気づいたと記した。なぜならば他の諸国も含めて分析をするとロスチャイルド家がある国のマーケットに投資を行うに際し、どうやら「約70年周期」という一つの不文律があるように見受けられるからだ。つまり各国の国民経済は約70年で盛衰を繰り返しており、その中でも最も安全かつハイパフォーマンスな時期にロスチャイルド家は各国への投資を順繰りに行い、収益を重ねてきていることが分かるのである。

それでは一体なぜ「約70年」なのか?厳密な統計分析やデータ解析が出来なかったはずの19世紀や20世紀の前半においてもこうした不文律を守っていた理由を探る中で「実は73年周期で我が国でも大地震が発生しているのではないか」という説が浮上していることを私は知った。「直近ではそうなっていないではないか」という批判があるにはあるが、それくらいの規模で世の東西を問わず為政者たちが物事を考えてきているということは歴史の中に例を探すといくらでも見つけることが出来るはずだ。そしてそれをベースに国際金融資本が投資判断を行っているのだとすれば、彼らの資金移動によって決定的な影響を受けているグローバル・マクロ(国際的な資金循環)とそれが表面的には織り成していく「世界史」とは、とどのつまり”地球の呼吸のようなもの”と考えられるというわけなのである。

こうした考え方は「全く理解出来ない」と思われる向きも多々いるのではないかと想う。そして「結局は金銭的な利益を得れば良い、我が国から富を奪えるだけ奪ってしまえと考えているのが国際金融資本であるはずだ」と短絡的な議論に走ってしまいがちだ。だがよくよく考えてみると、仮にこうした”地球の呼吸のようなもの”を見て仮に「これからは日本がその順番だ」と考えられるのであれば、彼らは今度、我が国へと寄って来ることもまた事実なのである。なぜならばお金には色がついていないからなのであって、後はそうした状況を我が国に暮らす私たち日本人自身がどれくらい自覚し、そこで負うべき役割、そして追求すべき目標を意識的に定め、具体的に行動していくかなのである。それが「これからの勝ち組だ」と考えるならば投資をし、それを支えながら自らも巨利を得る。―――これが彼ら国際金融資本の思想と行動なのである。それ以上でも、それ以下でもない。バンカー(銀行家)ならば当然の判断だろう。

「縄文文化」に強い関心を抱くロスチャイルド家の真意

ロスチャイルド家が大きな関心を他ならぬ我が国に対して抱いているらしいということは、このコンサート以外からも分かる。例えば我が国の縄文文化について研究するNPO法人「国際縄文学協会」の名誉理事には、ジェイコブ・ロスチャイルド男爵の三女であり、自身も考古学者であるエミリー・ロスチャイルド・アットウッド女史が就任している。余程強い関心がなければこうした動きを見せないはずなのであって、我が国においては「高度な稲作文化」として評価される弥生文化と比べると粗野な印象をもって学校教育では教えられる縄文文化にこそ何等かの大きなカギが見出されていると考える大きな根拠なのだ。

大事なのはそうした「事実」を知って、私たち日本人がどのように考え、行動するかである。例えばロスチャイルド家を一躍有名にしたのはその番頭格であったゲルソン・フォン・ブライッヒレーダーが「金庫番」としてプロイセンの宰相・ビスマルクを支え、そのドイツ統一に向けた戦乱に投資を行い、巨利を得たからであった。だがその後、ビスマルクを失ったドイツ第2帝政は第一次世界大戦における敗北、そしてナチズムを経て、第二次世界大戦における壊滅へと至ってしまう。我が国においてもロスチャイルド家が売り抜けた後に、同様に崩壊が生じたことを思い起こすべきである。つまり私たち日本人が今考えるべきは、「これと同じこと」すなわち戦争経済へと結果的にコミットすることで果たして良いのか、それで本当に正しいのかということなのである。

本当の問題は「日本人が自覚し、動き始めるか否か」だ

これに対して、事実上「押し付けられた」と揶揄されているとはいえ、平和憲法を曲りなりにも70年近くにわたり維持してきた我が国にはもっと別のやり方があり得るのだ。つまり、温暖化を背景にインフレ拡大を基調とした経済においてバブルとバブル崩壊を繰り返し、最後の帳尻は戦争経済によって合わせ、多数の人々の命が失われるというやり方ではない、全く別のやり方があるかもしれないということである。そしてこれがもし私たち日本人の手によって実現されるのであれば、自分とその子供たちが命を落としたくはない世界中の人々がこれに付き従うことは火を見るよりも明らかなのである。そしてこの全く新しい「パックス・ジャポニカ(Pax Japonica 日本の平和)」が次の時代に向けた勝ち組だと知るや否や、誰しもがそれを知らない(=肝心の私たち日本人ですら自覚していない)タイミングでそこに事実上コミットし、投資の機会をうかがうというのが国際金融資本の発想であるはずなのだ。

したがって最も大事なのはそうした状況へと促される中で、私たち日本人がこれを果たして認識し、かつ動くことが出来るかなのである。ちょうど今から150年ほど前にロンドン・シティで衝撃の「出会い」をした東西の使者たちと同じような、世界史を動かす現場にこれから首都トーキョーがなっていくか否か。大いに注目である。

原田武夫

株式会社原田武夫国際戦略情報研究所(IISIA)代表取締役

http://bylines.news.yahoo.co.jp/haradatakeo/20140317-00033597/

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822752 No.7226

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>>7224

徳川家広

https://ja.wikipedia.org/wiki/徳川家広

徳川 家広(とくがわ いえひろ、旧字体: 德川 家廣、1965年〈昭和40年〉2月7日 - )は、日本の政治経済評論家[2]、翻訳家[1]、作家[3]。徳川宗家第19代当主[4][5]。公益財団法人徳川記念財団理事長[6]、長崎大学国際連携研究戦略本部客員教授[3]、特定非営利活動法人公共政策調査機構顧問。

来歴

1965年2月7日、東京都渋谷区に生まれる。小学1年生から3年生までをアメリカ・ニューヨークで過ごす[7]。帰国後、学習院初等科・中等科・高等科で学ぶ[8]。在学中は文芸部に所属していた。慶應義塾大学経済学部卒業後、ミシガン大学大学院で経済学修士号を取得[9]。財団法人国際開発高等教育機構(FASID)、国際連合食糧農業機関(FAO)のローマ本部、ベトナム支部(ハノイ)に勤務し、その後、コロンビア大学大学院政治学研究科を修了し、政治学修士号を取得(国際関係論)[1]。

1997年頃、FAOベトナム支部勤務時代に11歳下のベトナム人女性と知り合い、恋仲となる[7]。早々にこの女性との結婚を決意し、2001年に日本へ帰国[7]。2006年頃、婚姻した[7]。周囲の反対もあったと報道されたが、家広によれば、びっくりはされたが家族に会わせてみると「いい子だね」と祝福されたという[10]。

2010年、アメリカ映画『グリーン・ゾーン』の字幕翻訳を担当。2012年10月、政策フォーラム「日本の選択」の設立に参加し、その座長となる[11]。

2016年には広島県立美術館と新潟市美術館で開催された「徳川家康没後400年記念 天下太平 徳川名宝展」[12]をプロデュース、その最初の開催地である広島市では、同地の菓子会社・にしき堂が「徳川宗家十九代 徳川家広氏プロデュース」の「葵もみじ」を発売[13]、2017年には浜松市の菓子会社・春華堂が「徳川宗家十九代 徳川家広氏の監修」として慶長小判を象った最中を発売した[14]。

2022年10月4日、浜松市は、2023年のNHK大河ドラマ『どうする家康』放送開始に合わせて浜松城公園に建設する大河ドラマ館の名誉館長を、家広に委嘱した[15]。

同年10月25日、徳川宗家第18代当主の徳川恒孝が高齢であることなどを理由に年内で当主を退くことを決め、2023年1月1日付で家広が第19代当主として正式に家督を継ぐことが各メディアで報じられた[4]。

2023年1月1日、家督を継承し、徳川宗家第19代当主となる。同年1月29日、代替わりの儀式として、増上寺で「継宗の儀」が行われた[注 1]。

政治活動

2018年10月に知人の北海道議会議員から要請を受け、任期満了に伴う北海道知事選挙(2019年4月執行)への立候補の準備を始める。2019年1月に住民票を札幌市に移し、北海道内を回って情報収集をしていた[16]が、同年2月20日、自らの理解が浅かったとして不出馬を表明した[17][18]。

2019年5月28日、第25回参議院議員通常選挙に静岡県選挙区(改選数2)から立憲民主党公認で立候補する意向を表明した[19]。7月21日に行われた参院選では「最重点区」として党幹部の手厚い応援を受けたが、現職自民党の牧野京夫と現職国民民主党の榛葉賀津也に敗れ、落選した[20][21]。

立憲民主党本部は参院選で30万票強を獲得した徳川を重要視し、次期衆院選の静岡4区または静岡5区への立候補を打診。徳川も「出るなら5区」と考え政治活動を続けた。ところが同年11月27日、国民民主党静岡県連が静岡5区総支部長に小野範和(伊豆の国市長小野登志子の長男)を選出する[22] [23]と、徳川は「野党共闘の邪魔はしたくない」と述べ、翌11月28日に次期衆院選への立候補を見送ることを決めた[24]。

2020年5月19日、立憲民主党静岡県連に離党届を提出。党関係者によれば、徳川は自身が参院選で競合した国民民主党との合流協議が進んでいた事に対し不信感を募らせており、3月には党幹事長の福山哲郎に離党の意向を示し、慰留されていたが4月に静岡4区補欠選挙があったため結論を先延ばしにされていた[25][26]。6月24日に党県連は離党を承認した[27]。

・2019年に参院選に出馬した際の応援には、新門辰五郎の子孫や、白洲次郎の孫である白洲信哉、脳科学者の茂木健一郎らが駆けつけた[37]。

系譜

父は徳川宗家第18代当主、元日本郵船副社長で徳川記念財団初代理事長の徳川恆孝[3]。血脈上では松平容保の男系玄孫にあたり、水戸徳川家の祖頼房の長男松平頼重の男系子孫である。また徳川家達・島津忠義・鍋島直大・池田詮政・寺島宗則の玄孫、島津久光・鍋島閑叟の来孫でもある。

日本語訳書

新上海(パメラ・ヤツコ、集英社インターナショナル、2003年)

戦争で儲ける人たち ブッシュを支えるカーライル・グループ(ダン・ブリオディ、幻冬舎、2004年)

ドル暴落から、世界不況が始まる(リチャード・ダンカン、日本経済新聞社、2004年)

ワイルドグラス 中国を揺さぶる庶民の闘い(イアン・ジョンソン、日本放送出版協会、2005年)

新・世界戦争論 アメリカは、なぜ戦うのか(ジョージ・フリードマン、日本経済新聞出版社、2005年)

「豊かさ」の誕生―成長と発展の文明史(ウィリアム・バーンスタイン、日本経済新聞出版社、2006年)

マネー中毒 「もうお金に振り回されない」劇的回復法(ロン・ガレン、光文社ペーパーバックス、2006年)

ラスト・ブレス 死ぬための技術(ピーター・スターク、講談社文庫、2007年)

ヒトラー・マネー(ローレンス・マルキン、講談社、2008年)

中国 危うい超大国(スーザン・L・シャーク、日本放送出版協会、2008年)

暗殺の政治史 権力による殺人の掟(リチャード・ベルフィールド、扶桑社、2008年)

ジョブズはなぜ天才集団を作れたか(ジェフリー・L・クルークシャンク、講談社、2008年)

ソロスは警告する 超バブルの崩壊=悪夢のシナリオ(ジョージ・ソロス、講談社、2008年)

ソロスは警告する2009 恐慌へのカウントダウン(ジョージ・ソロス、講談社、2009年)

グリーン・ゾーン(ラジブ・チャンドラセカラン、集英社インターナショナル、2010年2月)

ソロスの講義録 資本主義の呪縛を超えて(ジョージ・ソロス、講談社、2010年6月)

最強国の条件(エイミー・チュア、講談社、2011年5月)

混乱の本質 叛逆するリアル 民主主義・移民・宗教・債務危機(ジョージ・ソロス、トニー・ブレア他、土曜社、2012年8月)

訣別 ゴールドマン・サックス(グレッグ・スミス、講談社、2012年10月)

日本政治の大転換 「鉄とコメの同盟」から日本型自由主義へ(フランシス・ローゼンブルース、マイケル・ティース、勁草書房、2012年12月)

大いなる探求(上)経済学を創造した天才たち(シルヴィア・ナサー、新潮社、2013年6月)

大いなる探求(下)人類は経済を制御できるか(グレッグ・スミス、新潮社、2013年6月)

ナチスの楽園―アメリカではなぜ元SS将校が大手を振って歩いているのか―(エリック・リヒトブラウ、新潮社、2015年11月)

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822752 No.7227

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>>7214

関係図を作ってくれている方がいたので画像を共有させていただきます

引用元:http://money-res.com/historia/明治維新とロスチャイルド&フリーメイソンの関

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822752 No.7248

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>>7227

Q Research Japan/Nihon #21より

アヘン貿易関連

巨万の富を稼いだ“最後の帆船”、その栄光と闇

史上最速の帆船として活躍するなか、アヘン貿易にも加担したクリッパー船

2018.09.06

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/18/090500392/?P=1

クリッパー船は、当時最速の帆船として世界の貿易に革命を起こした。中国から茶を運び、ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコへ食料品や備品を届け、船主たちは米国で最も裕福な人々の仲間入りをした。しかし、歴史家スティーブン・ウジフサ氏の新作『Barons of the Sea(海の男爵たち、未邦訳)』によれば、栄光の陰でクリッパー船はアヘン貿易にも関わっていたという。数百万という中国人をアヘン中毒にさせ、船のスピードを上げるために船員たちは過酷な労働を強いられ、時には命の危険にもさらされていた。

ワシントンD.C.を訪れていたウジフサ氏に、ナショナル ジオグラフィックが話を聞いた。

――ある歴史家が「クリッパー船には、最初から最後まで不正と暴力が付きまとっていた」と語っていますが、これはどういう意味でしょうか。米国は、何を目的にクリッパー船を製造していたのでしょうか。

 いわゆるボルチモアクリッパーとして知られる高速帆船は、メリーランド州のチェサピーク湾で1810年代から1820年代に建造され、奴隷の運搬や私掠船(しりゃくせん、訳注:国の免許を受けて、敵国の船を襲撃することが認められた民間の船)として使われました。1840年代には、中国と取引する米国の商人がクリッパー船の設計に改良を加えて大型にしたチャイナクリッパーを製造しました。それが広東省からニューヨークへ、後に香港へ茶を運びました。彼らはさらに、アヘンの密輸用にボルチモアクリッパーを改良し、中国の麻薬取締官へ賄賂を送り、中国へアヘンを持ち込みました。(参考記事:「沈没船41隻を発見、驚異の保存状態、黒海」)

――クリッパー船は、他のタイプの船とどう違っていたのですか。

 米国のクリッパー船は、正方形の帆を付けたマストを3本持ち、あらゆる装備が施され、積載量よりも速度の方が重視されました。そのため、1840~50年代の巨大クリッパー船は船首と船尾を鋭角にし、船首が反り返った形に設計されました。高価な物資を運搬する目的で建造され、中国からは茶を、ゴールドラッシュの頃にはカリフォルニアへ生地や食料品を運びました。これらの品は、非常な高値で売られていきました。クリッパー船は普通の商業船よりも重装備で、50~60人の船員を必要としたため、運航費も莫大なものになりました。(参考記事:『映画とは違う? 最後の海賊ブラック・バートの実像』)

――ウォーレン・デラノやロバート・フォーブスといった船主たちは中国のアヘン貿易で富を築きましたが、これによって数百万もの人々がアヘン中毒になり、命を落としました。船主たちはどんな人物だったのでしょう。プロテスタントの倫理観を持ちながら、麻薬取引のようなものに手を染めることについて、どう思っていたのでしょうか。そして、これが後にどのようにしてアヘン戦争へと発展していったのでしょうか。

 私の本で取り上げた船主の何人かは、上流階級にコネを多く持つボストンやニューベッドフォードの裕福な家柄の出身でした。彼らは、アヘン貿易に関しては何の罪悪感も抱いていませんでした。ロバート・ベネット・フォーブスは、強い酒を売るのと大して変わらないと考えていましたし、ウォーレン・デラノも、何ら問題のない正当で立派な商売だと書き残しています。けれども、1830年代に広東省の外国人居住区に住んでいた商人たちは、アヘンが一般の中国人に及ぼした影響について、直接見聞きすることはほとんどありませんでした。

 1838年、中国皇帝の命を受けた欽差大臣(全権大臣)が広東省へ派遣され、当時「外国の悪魔」と呼ばれていた英米の商人たちに、2万箱以上のアヘンを中国政府に引き渡すよう要求しました。商人たちが「これは私たちのアヘンだ。やれるものならやってみろ」と抵抗すると、大臣はすぐさま広東の外国人居住区を封鎖し、アヘンを川へ投棄しました。

 英国の商人たちは「軍隊を引き連れて戻ってくるからな。お前たちは、女王陛下のアヘンを没収したんだ」と言い捨てて引き揚げました。こうして戻ってきた英国軍は広東を砲撃し、町は焼き払われてしまいました。その後締結された南京条約の下、中国政府は2100万ポンドの賠償金を命じられました。これには、没収した英国のアヘンだけでなく、中国まで航海した英海軍の費用も含まれていました。条約ではさらに、中国の複数の港を西洋の貿易船に開放するよう強いられました。これによってアヘンは無制限に中国に入り込み、中国にとって「屈辱の100年」と呼ばれる時代が始まります。

――クリッパー船の建造者ドナルド・マッケイについて、本には「技術者であり職人であり、米国の英雄」と書かれていますが、どんな人物だったのでしょう。

1810年にカナダのノバスコシア州で生まれたマッケイは、1840年代にイーストボストンに造船所を開業します。ここで、カリフォルニアでの取り引きで大きく成功した大型商船を次々に作り始めます。古くからあった海洋設計のルールでは、船体(水線長)が長ければ長いほど船は速くなるといわれていたため、マッケイはこれまでのチャイナクリッパーと比較してはるかに長い船を建造しました。カリフォルニア行きの彼のクリッパー船は90メートル、リパブリック号は120メートルにもなりました。

 サンフランシスコが現代のような大都市に成長した背景には、こうした巨大クリッパー船の活躍がありました。1848~49年にかけて、金採掘者の需要が激増し、家具、椅子、テーブル、食料品、そして大量の酒類が、米東海岸から南米のホーン岬を回ってサンフランシスコへ運ばれました。おかげで、当時人口2000人ばかりの小さな漁村だったサンフランシスコは、1850年代後半には10万人を超える大都市に成長したのです。

――暴君船長と呼ばれたロバート・ウォーターマンとチャレンジャー号についてお話しください。

 ロバート・ウォーターマンは、中国からの航海で何度も記録を打ち立てていました。陸上では女性に優しい紳士でしたが、船に乗ると途端に暴君と化しました。1851年、ウォーターマンはチャレンジャー号の船長に就任します。排水トン数(重量)は2000トンで、マストの高さは60メートルをゆうに超えていました。

 雇い主のグリスウォルド兄弟が、サンフランシスコまで90日以内にたどり着けたら1万ドルのボーナスを支払うと約束したのですが、与えられた船員は役に立たない者ばかりでした。船内では危うく反乱が起こりそうになり、一部の船員は殴り殺されたり帆桁から転落し、船は109日後に遭難信号旗を掲げてサンフランシスコの港へたどり着きました。ウォーターマンは、殺人罪で裁判にかけられました。クリッパー船時代において最も暴力的な事件のひとつであり、商品を市場へいち早く届けるために多くの船員や安全対策が犠牲にされたことを、米国と世界に暴露しました。(参考記事:「近代思想は船の上で生まれた?」)

 この時代、船内の環境や労働条件には何の規制もありませんでした。クリッパー船を効率的に運航させるには50~60人の船員が必要でしたが、それだけの人員を集めるのは困難でした。そこで船長は、マンハッタンやボストンの酒場や売春宿に人をやり、バーテンや娼婦と共謀して客の飲み物に薬を入れていました。客は、激しい頭痛とともに目を覚ますと、そこは中国やサンフランシスコ行きの船の中、しかも持っていた給料の3分の1がなくなっていたということもありました(笑)

――時は流れ、クリッパー船はやがて「美しい過去の遺物」になったと書かれていますが、それらが米国と船主たちに残した遺産とは何だったのでしょう。

 クリッパー船は、鉄道の発達によって廃れていきました。最初はパナマ地峡に、そして後に米国に横断鉄道が敷かれ、船での長距離移動は採算が合わなくなったのです。また、長距離汽船が登場し、大西洋を横断するケーブルが敷設され、金融情報などの情報がほぼ瞬時に伝達されるようになりました。南北戦争では、南軍によってクリッパー船が何隻も沈没させられ、クリッパー時代の幕引きに拍車をかけました。

 活躍した時代はとても短かったものの、クリッパー船は今も米国人の心に刻まれています。海洋歴史家のサミュエル・エリオット・モリソン氏は、大量に現れては消えていったけれども、当時としては最も複雑な建造物であり、木製のパルテノン神殿のような存在だと語っています。クリッパー船は、今も人々に感銘を与え続けています。厳しい自由競争を生んだ資本主義のために建造されましたが、天使のような美しさという点では、他の何ものにも引けを取りませんでした。

 ウォーレン・デラノ2世は、クリッパー船によって富を築いた米国人の中でも最も有名な人物でしょう。彼はビジネスパートナーたちとともに、中国との貿易で得た富を、鉄道、炭鉱、銅鉱、大西洋横断ケーブル、不動産といった産業へ投資しました。1898年に他界した時、子どもひとりにつき100万ドル以上の遺産を残したそうです。当時、米国に長者番付が存在していれば、リストに名を連ねていたでしょう。彼の最も有名な子孫である孫息子のフランクリン・デラノ・ルーズベルトは、米国の第32代大統領です。ルーズベルトはよく、祖父の言葉を引用して言いました。「ビジネスでは、左の手がしていることを決して右の手に知らせてはならない」(参考記事:「真珠湾の報復、歴史を変えたドゥーリトルの日本空爆」)

 クリッパー船によって築かれた富の多くは、ミルトン・アカデミーなどの有名私立高校や、ハーバード、プリンストン、エールといった大学、その他著名な文化機関に投じられました。アヘン貿易に関わった一方で、祖国ではその富で産業の勃興に貢献し、今も一流とみなされる教育機関を支援したというのは皮肉なことです。

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822752 No.7249

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>>7248

>ウォーレン・デラノ

ウォーレン・デラノ・ジュニア

https://en.wikipedia.org/wiki/Warren_Delano_Jr.

ウォーレン・デラノ・ジュニア(Warren Delano Jr.、1809年7月13日 - 1898年1月17日)は、アメリカの商人で麻薬密輸業者であり、中国に違法アヘンを密輸して巨万の富を築いた。彼はフランクリン・デラノ・ルーズベルト米国大統領の母方の祖父でした。

生い立ち

デラノの父、ウォーレン・デラノ大尉

デラノは 1809 年 7 月 13 日にマサチューセッツ州ニューベッドフォードで生まれました。彼はウォーレン・デラノ・シニア大尉(1779年 - 1866年)とデボラ・ペリー(旧姓チャーチ)・デラノの長男であった。[1]

1827年に母親が亡くなった後、ニューイングランドの海上貿易に携わっていた父親は、アメリカ海軍のパーカー大佐の未亡人であるエリザベス・アダムズと再婚した[2]。[1]彼の兄弟の中には、フレデリック・デラノ、エドワード・デラノ、フランクリン・ヒューズ・デラノの兄弟がおり、ウィリアム・バックハウス・アスター・シニアの娘であり、特にジョン・ジェイコブ・アスター3世とウィリアム・バックハウス・アスター・ジュニアの姉妹であるローラ・アスターと結婚していた。[3] [ a]

フィリップ・デラノ( 1621年にマサチューセッツ州プリマスに到着した巡礼者)の子孫であるウォーレン・ジュニアの父方の祖父母はエフライム・デラノとエリザベス(旧姓クッシュマン)・デラノであり[6]、母方の祖父母はジョセフ・チャーチとデボラ(旧姓ペリー) チャーチ。[7]

彼は 15 歳でフェアヘブン アカデミーを卒業し、17 歳までに輸入ビジネスのトレーダーになりました。[8]

経歴

デラノは中国の広東(現在の広州)にアヘンを密輸して巨万の富を築きました。[9] [10]ヘロインに関連する依存性の高い麻薬であるアヘンは、中国では違法であった。

1800年代までに、絹、茶、磁器(「チャイナ」)、家具などの中国の高級品に対するヨーロッパの需要は膨大でしたが、ヨーロッパ製品に対する中国の需要は比較的弱かったです。

その結果、多くの欧州諸国は中国に対して巨額の貿易赤字を抱えた。ジャーディン・マセソンのスコットランド商人ウィリアム・ジャーディンのような外国貿易業者は、この貿易不均衡を削減し、切望される中国製品へのさらなるアクセスを得るために、中国に大規模なアヘン密輸を持ち込んだ。中国へのアヘン密輸の大幅な増加により、何百万人もの人々が新たに中国でアヘン中毒になり、外国勢力との中国貿易の前例のない不均衡が生じ、その結果、1840年から1843年の第一次アヘン戦争が引き起こされた。[10]

デラノ氏は 24 歳のときに初めて中国へ渡り、中国との貿易を開拓したラッセル・アンド・カンパニーで働きました。ジョン・パーキンス・クッシング氏(ラッセル・アンド・カンパニーのパートナーでもある)は、デラノ氏に先立って、ハウクアと呼ばれる中国最大のホン商人 と緊密な関係を築き始めた。二人は沖合基地、すなわち停泊した水上倉庫を設立し、ラッセル商会の船がアヘン密輸品を降ろし、合法的な貨物を積んで珠江デルタを広東まで遡上した。[11]

1843 年初頭までに、デラノは中国のアヘン貿易で大きく繁栄し、中国と取引する最大のアメリカ企業の首席パートナーにまで上り詰めました。彼は広東制度の破壊、中国政府の屈辱、そして新中国の創設を目撃していた。[12] [必要なページ]

1850 年代、デラノは弟のフランクリンと、リーハイ バレー鉄道の建設者でリーハイ大学の創設者であるエイサ パッカーとともに土地会社を率い、数千エーカーの土地を購入し、ペンシルベニア州デラノの町を設立しました。[13]

デラノは1857 年の恐慌で財産の多くを失いました。 1860 年に彼は中国に戻りましたが、この時は香港に行き、そこで財産を再建しました。南北戦争中、デラノはアメリカ陸軍省医務局にアヘンを出荷しました。[8]

デラノ家

https://en.wikipedia.org/wiki/Delano_family

米国では、デラノ家のメンバーには、フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領、ユリシーズ・S・グラントおよびカルビン・クーリッジ、宇宙飛行士のアラン・B・シェパード、作家のローラ・インガルス・ワイルダーが含まれます。その祖先は、 1620 年代初頭にマサチューセッツ州プリマスに到着したワロン系巡礼者のフィリップ・ド・ラノワ(1602 ~ 1681 年)です。彼の子孫には、ユースタキウス・デ・ラノイ(インドの歴史で重要な役割を果たした)、フレデリック・エイドリアン・デラノ、ロバート・レッドフィールド、ポール・デラノも含まれます。デラノ家の先祖には、メイフラワー号をチャーターしたピルグリム、その乗客 7 名、およびメイフラワー コンパクトの署名者 3 名が含まれます。[1]

欧州のド・ラノワ(De Lannoy)家

フィリップ・ド・ラノワは、1575年にトゥールコワンでジャン・ド・ラノワとして生まれた宗教難民の両親ヤン・ラノと、スペイン領オランダのリール(現在のフランス北部)に住んでいたマリー・マリューの子として、1602年12月7日にライデンで洗礼を受けた[2]。フィリップの祖父であるトゥールコワンのギルベール・ド・ラノワは、ローマ・カトリック教徒として生まれたが、早くからプロテスタントに入信していたようである。彼は1570年代後半に家族とともにイギリスへ渡り、1591年に宗教的反体制派の安住の地であったライデンに移り住んだ。マチュー一家も同じ頃ライデンに到着し、それ以前はリール近郊のアルマンティエールにいた。ド・ラノワという姓は、同じくリール近郊のラノワ町(定冠詞のle「ザ」とannoy「ハンノキのプランテーション」の膠着語、現代フランス語のaulnaie「ハンノキのプランテーション」に対応するPicardの変化形)に由来する可能性がある[4][5]。

デラノ家が貴族ラノワ家の末裔であることを示唆する証拠がある[6]。

・彼の子孫の多くは著名な船員、捕鯨者、造船業者になりました。一部のデラノスは後に商業的に成功を収め、マサチューセッツ州の貴族の一員となり、ボストン・バラモン(「ボストンの最初の家族」) の一人と呼ばれることもありました。

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822752 No.7250

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>>7249

>フィリップ・ド・ラノワ

フィリップ・デラノ

https://en.wikipedia.org/wiki/Philip_Delano

フィリップ・デラノ(1603 年頃 – 1681 ~ 82 年頃) はフォーチュン号の乗客であり、プリマス植民地の初期の住民でした。彼はアメリカ大陸におけるデラノ家の先祖として最もよく知られています。[3] [4] [5] [6]

人生

初期

フィリップ・ド・ラノワ、後のフィリップ・デラノは、1603年12月7日にオランダ、ライデンのプロテスタントのワロン教会であるヴロウウェ教会で洗礼を受けました。彼の両親、トゥルコアンのジャン(ジャン)・ド・ラノワとフランダースのリール(ライセル)のマリー・マユーは、当時スペイン領オランダでは[7]、1596年1月13日に同じ教会で婚約した。ワロン人は、フランドル地方の東にある、現在のベルギーにあたる古代ワロン地方[7]のフランス語を話す先住民族であった。両親は 1579 年頃にフランドルからの宗教的迫害から逃れ、家族とともにイギリスのカンタベリーを経由してライデンへ向かいました。 [7]ジャンの父親はギスベール (ギルベール) ド・ラノワで、知られている限り最古のド・ラノワの祖先でした。ド・ラノワ家とマヒュス家が住んでいた場所は 8 か所知られており、メイフラワー号の乗客よりも多く知られています。[8]

フィリップの父親は息子の誕生から 1 ~ 2 年以内に亡くなり、フィリップの母親は 1605 年 3 月 6 日にナミュール市の羊毛業者ロバート・マンヌーと結婚しました。フィリップはライデンで育ちましたが、さらなる詳細は不明です。

ニューイングランドで

1621 年 11 月、フィリップ・デラノはフォーチュン号に乗って一人でプリマス植民地に到着しました。洗礼日から判断すると、フィリップの年齢は約 18 歳でした。フィリップは別の乗客の使用人だったのかもしれません。[9] [10]フィリップは最初、叔父でメイフラワー号の乗客フランシス・クックとクックの息子と一緒に住んでいた可能性がある。フィリップの母方の叔母であるヘスター(マヒュー)はクックと結婚していた。[11] 1633年、フィリップは自由民として登録される。

1623 年の土地分割では、フィリップはフィリップ・ド・ラ・ノワとして記載されており、モーゼス・シモンソンと土地区画を共有しています。 1626年末近く、アイザック・アラートンはロンドンのプリマスの財政支援者であるアドベンチャラーズと、プリマスがロンドンの支援者から植民地の負債を買い取るという合意に達した。入植者たちはプリマスで独自のグループ「アンダーテイカーズ」を結成し、借金を肩代わりした。この協定はプリマスで27名によって署名され、その中には「フィリップ・デラノイ」として署名したデラノも含まれていた。私有財産制度が制定された後の 1627 年、デラノはプリマスでスティーブン ディーンに記録に残る初めての土地を売却しました。

1637 年、デラノはピクォート戦争に志願しました。[9] 10月2日、ジョン・オールデンとエドワード・バンパスの土地に隣接するダックスベリーの40エーカーの土地が与えられた。デラノは測量士に任命されたが、1641年に解任された[ 12 ] 。

長年にわたり、さまざまな綴りの名前がフィリップ・デラノによるものであると考えられてきました。ド・ラノワという姓は、トゥールコアンから数マイル離れたラノワの町に由来します。[7]

1623 年の土地分割では、フィリップはフィリップ・ド・ラ・ノワとして記載されています。 1626 年の購入者リストと 1633 年から 1634 年の納税者リストの両方に、彼はフィリップ・デラノイとして記載されています。フィリップの名前はニューイングランドではデラノに変更されました。彼の父親の結婚時と死亡時の名前は、オランダの教会の記録にヤン・ラノとして記録されている。

フィリップが高貴な ラノワ家の子孫であるという証拠はありません。[14] [15]

>フィリップが高貴な ラノワ家の子孫であるという証拠はありません

デラノ家のウィキページに記載されていることと違う

ラノワ家

https://en.wikipedia.org/wiki/House_of_Lannoy

ラノワ家は、ベルギーの古くて重要な貴族の名前であり、その名はフランス北部のラノワの町に由来しています。名前は、フランダースのピカールフランス語で「ハンノキ」を意味するl'Annoy (またはラテン語alnetumからのl'Annoit ) に由来しています。

歴史

知られている最古の祖先は13世紀に住んでいたギリオン・ド・ランノワである。彼の子孫の多くは金羊毛騎士団の会員でした。彼らは中世のフランドル地方で重要な役割を果たしました。ボーペール公、クレルヴォー公、スルモーナ公、ライナ=ウォルベック公の間には、さまざまな家系や家系が存在した。

一族の一つの分家は、祖先であるフィリップ・デラノを通じて影響力のあるアメリカのデラノ家になったと考えられている。ただし、この 2 つの間の関連性の可能性は証明されていません。この一族の分家はおそらく大西洋横断奴隷貿易に従事しており、その結果、南アメリカとカリブ海にその一族の系統が存在することになった。

>金羊毛騎士団

>>>/qnotables/114244

https://8kun.top/qnotables/res/58432.html#114244

日本との関わり

日本人からは明治天皇から第125代天皇だった明仁上皇までの4代の天皇のみがスペイン王国の金羊毛勲章を授与されている[44]。明治天皇は1883年(明治16年)、大正天皇は皇太子時代の1896年(明治29年)[45]、昭和天皇は1928年(昭和3年)[46]、明仁上皇は、皇太子時代の1985年(昭和60年)に授与された

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822752 No.7251

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>>7249

>中国との貿易を開拓したラッセル・アンド・カンパニー

ラッセル商会

https://ja.wikipedia.org/wiki/ラッセル商会

ラッセル商会(ラッセルしょうかい、英:Russell & Co.、中:旗昌洋行)は、19世紀に極東で著名であったアメリカ系の貿易会社である。1824年にサミュエル・ラッセルが開業してから1891年に閉店するまで中国で最大の中米貿易会社だった。主に上海に拠点を置き、横浜にも支店を置いた。主にトルコから中国への阿片の輸出と、東アジアからの生糸と茶の輸入を中心に取引を行なっていた。

来歴

1824年、アメリカ合衆国コネチカット州ミドルタウン出身の事業家サミュエル・ラッセル(英語版)により広州で設立される。

1830年、ブライアント&スタージス(Bryant & Sturgis)とパーキンス商会(Perkins & Co.)がラッセル商会(Russell & Co.)と合併。

1845年、商会の共同出資者の一人であるジョン・マレー・フォーブスが清からボストンへ帰国し、大陸横断鉄道建設に参加。

1846年、本拠地を上海外灘へ移転。

1853年、太平天国の乱により、広州・上海と茶葉の産地とを結ぶ道路が寸断され、直接武夷山から仕入れるため福州へ赴く・

1862年、カニンガム(Cunningham、1823年-1889年)が船舶会社である上海蒸気船舶会社(英:Shanghai Steam Navigation Co.、中:旗昌輪船公司)を設立させ、上海-漢口間を開通させる。

1867年、上海-天津間を開通させる。

1878年、上海で生糸工場を建設する。

1891年、ラッセル商会が中心となって中国国立銀行(National Bank of China)を香港に設立する。

1911年、中国国立銀行の営業を停止する。

ラッセル商会の著名人

サミュエル・ワズワース・ラッセル(Samuel Wadsworth Russell、1789年8月25日 – 1862年5月5日) - ラッセル商会設立者。

ミドルタウン (コネチカット州)で軍人の子として生まれ、早くに地元の商店で奉公したのち、21歳でニューヨークの海運商のスーパーカーゴ(船荷の所有者に雇われる監督人)として小麦のスペイン交易に携わり、23歳で独立して故郷で仲買貿易商を始める[1]。30歳の1819年に、プロビデンスの商人たち(アヘン貿易などで荒稼ぎしていた)とラッセル商会を設立し、1819年に中国に渡った[1]。

ウィリアム・ハンティントン・ラッセル(William Huntington Russell、1809年8月12日 – 1885年5月19日) - サミュエル・ラッセルのいとこ。イェール大学内スカル・アンド・ボーンズ創設者

ウォーレン・デラノ・ジュニア(英語版)(Warren Delano, Jr.) - フランクリン・ルーズベルトの母方の祖父。紅幇と取引があった。

「en:Delano family#Descendants」も参照

ロバート・ベネット・フォーブス(Robert Bennet Forbes)

ジョン・マレー・フォーブス(英語版)(John Murray Forbes) - ジョン・フォーブズ・ケリーの母方の一族。

アビエル・アボット・ロー(Abiel Abbot Low)

ウィリアム・ヘンリー・ロー(William Henry Low) - アビエル・アボットのおじ。

ウィリアム・ヘンリー・ロー(William Henry Low) - アビエル・アボットの兄弟。

オーガスティン・ハード(Augustine Heard)

ラッセル・スタージス(Russell Sturgis)

ジョン・クレーヴ・グリーン(John Cleve Green)

ゴットフリード・ワグネル

ゴットフリード・ワグネル

https://ja.wikipedia.org/wiki/ゴットフリード・ワグネル

ゴットフリード・ワグネル(Gottfried Wagener、1831年7月5日 - 1892年11月8日)は、ドイツ出身のお雇い外国人。ドイツ語での発音はゴトフリート・ヴァーゲナー(ドイツ語発音: [ˈgɔtfriːt ˈvaːgənɐ][2])。

事業参加のため来日し、その後政府に雇われた珍しい経緯を持つ。京都府立医学校(現・京都府立医科大学)、東京大学教師、および東京職工学校(現・東京工業大学)教授。また、陶磁器やガラスなどの製造を指導した。ヘンリー・ダイアーらと同時期に明治時代の日本で工学教育で大きな功績を残し、墓碑や記念碑が後年まで管理され残っている。

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822752 No.7252

>>7251

https://ja.wikipedia.org/wiki/ゴットフリード・ワグネル

ウィーン万国博覧会以降

万博終了後、随行者の中から納富介次郎など23名が伝習生としてヨーロッパで学ぶことになり、ワグネルはその斡旋を受け持った[1]。さらに博物館の準備調査や機器購入のために、オーストリア、ドイツ、フランス、イギリスを歴訪している。1874年12月に帰国後、博覧会および化学工業、農林、食料について調査報告書を提出するとともに東京博物館創立の建議を行った。

また、博覧会の前に佐野常民に建議した工業技術教育の場として開成学校(南校が改称)に製作学教場が設けられ、ワグネルはその教師となった[1]。さらに翌年には工部省と仕事を兼務し、1876年のフィラデルフィア万国博覧会の関連業務や勧業寮の仕事を行った[1]。フィラデルフィア万博では日本委員12名のうち唯一の外国人として働き[1]、123ページにわたる出品物解説書の大部分を作成している。

しかし、西南戦争による財政圧迫から1877年に製作学教場が廃止、勧業寮の事業も停止されて職を失う[1]。この後1年間、ドイツ領事の委託を受けて七宝の研究を行っていた。翌1878年2月3日から3年間、ハー・アーレンス・ドイツ商会の仲介で京都府(槙村正直府知事)に雇われ、京都舎密局で化学工芸の指導や医学校(現・京都府立医科大学)での理化学の講義を行った[1]。月給400円であった。

1881年、1月に着任した京都府の新知事北垣国道が官業の払い下げを進める中で舎密局なども売却され、2月に雇用契約が終了した[1]。このため同年5月1日から5年半、東京大学理学部の製造化学の教師として勤め、1884年11月からは東京職工学校(現・東京工業大学)で窯業学の教師も兼任した[1]。1886年に東京職工学校で陶器破璃工科が独立するとその主任教授に就任し[1]、亡くなるまでこれを務めた。

この傍らで1883年から新しい陶器の研究に着手し、1886年に赤坂葵町に試験工場を設けて吾妻焼と命名した[1]。さらに1887年には東京職工学校に設備を移し、名称を旭焼と改めた[1]。

1890年に農商務省の委嘱で陶産地を巡回して指導した際、山口県でリウマチが悪化した。このため9月から一年間の休暇を取り、ドイツに一時帰国する[1]。温泉などで療養した後1892年1月に帰日[1]、勅任官の待遇で復職した。この際ゼーゲルコーンを日本に初めて紹介した[1]。

死去とその後

1892年7月から栃木県塩原温泉で療養したが快復せず、10月には病床に伏せる。勲三等瑞宝章が贈られた後、11月8日に東京・駿河台の自宅で亡くなった[1]。同日、勲三等旭日章を追贈される。京都在住時から駿河台在住時にかけて女性と同居していたが結婚せず、生涯独身であり没年齢は61歳。心臓の疾病と肺炎の併発が死因となった。 11月12日に遺体は青山霊園に埋葬された[1]。旭焼のレリーフがはめられた墓碑は関東大震災や第二次世界大戦中の混乱などで損傷したが、没後90年の1982年に日本セラミックス協会によって修復され、現在にいたる。

また、京都市・岡崎公園と東京工業大学・大岡山キャンパスには記念碑がある。前者は1924年に京都市によって建立された幅4メートル近い石碑である。後者は1937年に学内の有志によって作られ、命日に当たる11月8日に除幕式が行われた。デザインは円柱が並ぶ和風とギリシア風の折衷様式で、中央には肖像プレートがはめ込まれている。経年劣化のため当初のものは交換され、1978年に伊奈製陶(現・INAX)から寄付された複製が現在まで飾られている。後者の記念碑は、中澤岩太を実行委員長とする故ワグネル博士記念事業会により東京工業大学構内にある瓢箪池の後方に建設され、1937年11月8日除幕式が行われた。記念碑は、ワグネルが窯業に寄与したことから外装にはテラコッタが用られ、中央の肖像プレートは沼田一雅による原型で商工省陶磁器試験所が製作した。現在の肖像プレートは複製で、建設当時のものは東京工業大学博物館・百年記念館に展示されている。1938年、除幕式当日に開催された記念講演の概要と記念碑建設の工事報告書を併記した追懐集が刊行された[4]。東京工業大学博物館のB1特別展示室には、ワグネルが指導的役割を担った陶磁器研究資料の紹介展示がある[5]。

人材の育成

ワグネルの教育を受けた生徒には、教育界などで活躍した者が多い。

1874年から勤務した開成学校・製作学教場では、後に仙台高等工業学校(東北大学工学部の母体)初代校長、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)校長などを歴任した中川謙二郎を教え、中川はワグネルの講義録の翻訳を行っている。

京都舎密局では理化学器械の製造も手掛けており、出入りしていた島津源蔵に技術指導を行い、後に島津は島津製作所を創業した[1]。この頃に贈った木製旋盤が島津創業記念資料館に現存する。

1881年から在職した東京大学理学部の教え子には、東京工業学校教授、三菱製紙所支配人などを歴任した植田豊橘がおり[1]、また助手を務めた中沢岩太はドイツ留学後、帝国大学教授、京都帝国大学の初代理工科大学長、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)初代校長、工手学校(現・工学院大学)校長などを歴任した。

晩年は、製作学教場の後身ともいうべき東京職工学校(後に東京工業学校、現・東京工業大学)の教授となり、後継者として窯業科を発展させ東京工業大学窯業研究所(現・フロンティア材料研究所)初代所長となった平野耕輔、京都陶磁器試験所の初代所長を務めた藤江永孝、石川県工業学校陶磁器科長時代に結晶釉の製出に成功した北村彌一郎、日本陶器(現ノリタケ)設立者の一人である飛鳥井孝太郎、松村八次郎らを教えた[1][6]。また、ワグネルは技術教育だけでなく、学科の創設や運営にも種々の建議を行い同校の発展に寄与した[7]。

窯業(陶磁器・七宝・ガラス)との関わり

ワグネルはドイツで学んだ化学の知識を基に日本の窯業に深く関わった。有田での窯業指導は上述の通りであり、伊万里焼(有田焼)の近代化に先鞭を付けた[1]。

1870年から1881年まで続いた京都舎密局では、工業化学関連品の製造技術の普及も職務に含まれており、永樂和全の協力を得て陶磁器、七宝、ガラスの製法などを指導した。陶磁器については、薪と石炭の双方を燃料とし、火熱を2段階に利用して第1段で本焼成、第2段で素焼きのできる新式の陶器焼成窯を発明し、耐火煉瓦を用いて局内に新造した。

ワグネルは1873年7月8日、顧問として石田某と共に京都に到着し、万国博覧会で紹介するのに相応しい工芸家や作品を選ぶのに協力した。1877年から1年間は七宝の研究に専念しており、その成果を譲り受けた七宝会社が1881年の第2回内国勧業博覧会で名誉賞を受賞している[8]。1878年からは京都府(槙村正直府知事)に月給400円で雇われた。1879年には五条坂に陶磁器実験工場を建設し、青磁の焼成を試みている。また、それまでの七宝の不透明釉に替わる透明釉を開発し、京都の七宝に鮮明な色彩を導入した[9]。透明釉は日本の七宝の美しさを飛躍的に高め、4年後のパリ大博覧会では濤川惣助が名誉大賞、並河靖之が金賞を受賞し国際的にも大変評価されることになる。

これらの経験を経た後1883年から新しい陶器を研究し、旭焼を開発した[1][9]。旭焼は、それまでの陶磁器が主に釉薬をかけて本焼成した後に絵付けを行い再度焼成していたのに対し、先に絵付けを行ってから釉薬をかけて焼成する釉下彩と呼ばれる手法で作られていた。これにより陶磁器の貫入や歪みを嫌うヨーロッパの嗜好に合った製品が作られると、1890年には渋沢栄一らの出資で旭焼組合が設立され、ストーブ飾タイルなどが輸出された。しかし、コストが高かったことなどからワグネル没後の1896年に組合は解散し、東京工業学校の生産も同時期に終了した[10]。なお、渋沢栄一らによって設立された「大日本東京深川区東元町旭焼製造所」は1986年3月26日に「旭焼陶磁器窯跡」として江東区の史跡となっている[11]。

略歴

1831年 ハノーファーで生まれる。

1852年 博士号取得、パリに移住。

1859年 スイスで教師になる。

1859年 母が亡くなり、ドイツに一時帰国。

1864年 義兄(弟)と建設事業を興す。

1868年 来日する。

1870年 日本初の石炭窯を築くなど有田で技術指導にあたった後、大学南校に勤務。

1873年 ウィーン万国博覧会の顧問として渡欧。

1874年 工部省の仕事も兼務する。

1876年 フィラデルフィア万国博覧会で日本委員を務める。

1878年 京都府に雇われる。

1881年 東京大学理学部の教師となる。

1884年 東京職工学校の教師となる。

1886年 東京職工学校・教授となる。

1890年 9月、ドイツに一時帰国する。

1892年 1月、日本に戻る。11月8日、東京の自宅で没。

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822752 No.7253

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>>7249

>デラノ家

ホイットフィールド家とデラノ家

https://www.matsudairatadakata.com/manjiro/

漂流したジョン万次郎を保護し米国で養子として育てたウィリアム・ホイットフィールド船長。

ホイットフィールド家の向かいに住んでいた船乗り仲間のワレン・デラノは万次郎のことを可愛がりました

このワレン・デラノは、フランクリン・D・ルーズベルトの祖父にあたります。

ルーズベルトのミドルネーム、Dこそが『デラノ』です。

F・D・ルーズベルトは万次郎の長男に手紙を書いたこともあります。

そしてペリー家

上記相関図はジョン万次郎資料館からお借りしたものですが、マシュー・ペリーの名があります。

それはペリーが日本来航にあたってデラノ船長と書簡のやり取りをしたからですが、実はデラノ家とペリー家は親類関係にあります。

ペリー家はJPモルガンのモルガン家とも親類関係にあります。

私が金融史を遡ってペリーにたどり着いたのは、まさにここからでした。

追記:「詳しく教えて下さい」とのことでしたので

・ペリーの孫娘フレデリカは、デラノ船長の娘と義理の姉妹関係

・ペリーの弟ナサニエル・ペリーの孫娘ジョセフィーンの夫は、2代目ジュニアス・スペンサー・モルガン(金融王J・P・モルガンの甥)

・ペリー提督の兄の曾孫アリスの夫ジョゼフ・グリューは、太平洋戦争前のアメリカ日本大使

・グリュー家のジェーン・グリューは、J・P・モルガンJrの妻

・ペリー家ウィリアム・ペリーは、1994年からクリントン政権の国防長官

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822752 No.7254

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>>7253

ジョン万次郎銅像

https://www.city.tosashimizu.kochi.jp/kanko/g01_jyonmandozo.html

地元中の浜地区出身の“ジョン万次郎”こと中浜万次郎の銅像が足摺岬先端にあります。150余年前、日本人として初めてアメリカに渡り、測量や航海術などを学んだ後、鎖国時代の日本に帰国し、日本の夜明けや国際交流に多大な功績を遺したジョン万次郎。 民主主義や外国での生活・考え方など、坂本龍馬の開眼も万次郎の体験によることは明らかで、ほかにも板垣退助、中江兆民、岩崎弥太郎などに多大な影響を与え、後に中浜万次郎と名乗った彼は、 1827年、現在の土佐清水市中浜に漁師の子として生まれました。

https://www.shimizu-kankou.com/spot/manjirodouzou/

約180年前、漂流がきっかけでアメリカに渡り、英語や航海術・測量術などを学んだ後、鎖国時代の日本に帰国。

そして日本の夜明けや国際交流に多大な功績を遺したジョン万次郎。

後に中濱万次郎と名乗った彼は1827年、現在の土佐清水市中浜に漁師の子として生まれました。

足摺岬に立つジョン万次郎の銅像は、昭和43年(1968年)7月11日、除幕式が行われました。

銅像の手にはコンパスと三角定規が握られています。航海や測量には欠かせないものです。

https://www.city.itoman.lg.jp/site/kankou-navi/1873.html

170年以上も昔、21世紀への道を踏み出した男がいました。日本人として初めてアメリカ大陸に上陸した人物、ジョン万次郎。

 24歳の万次郎がアメリカから帰国の際に上陸した場所は、糸満市の大度浜海岸です。2018年2月、上陸の地に万次郎の足跡を伝える記念碑を整備しました。

大度浜海岸に整備した記念碑は銅像タイプです。アメリカ帰りの万次郎はカウボーイハットをかぶり、ベストやジーンズを着用しています。右手は生誕の地・土佐清水市の方向を指差しており、左手はジョージ・ワシントン伝記とボーディッチ航海術書を携えています。六角柱の台座には、万次郎の物語を伝えるイラスト板を設置しています。銅像、台座ともに1.8メートルで、記念碑は3.6メートルの高さになります。

 万次郎は、帰国に際してハワイで捕鯨ボートを購入し、アドベンチャラー号(Adventurer)と名付けました。喜屋武岬の沖合で船からアドベンチャラー号を降ろし、大度浜海岸に上陸しました。記念碑のそばには、アドベンチャラー号に関する説明板を設置し、園路上には、アドベンチャラー号をイメージしたマーキングを施しています。

・万次郎は、近代日本の夜明けともいえる時代に、日米の懸け橋となる幾多の業績を残しました。アメリカの第30代大統領・クーリッジは、「万次郎の帰国はアメリカが最初に大使を日本に送ったに等しい」と話しました。坂本龍馬の外国に対する開眼も、万次郎の体験を伝え聞いたことによるものだといわれています。また、板垣退助、中江兆民、岩崎弥太郎などにも多大な影響を与えたといわれており、万次郎の評価は国際化時代を迎えた今、いっそう高まりつつあります。

 大度浜海岸に整備した記念碑の台座には、万次郎の物語を6枚のイラスト板と解説板で紹介しており、波乱万丈の生涯と不屈のジョン万スピリットを知ることができます。

Story1 足摺岬沖で漂流 太平洋の孤島で救助される

Story2 アメリカ本土に上陸 日本人留学生第1号誕生

Story3 日本帰国への第一歩 いざ琉球・小渡浜に上陸

Story4 摩文仁間切番所で取り調べ 荷物にはピストルも

Story5 翁長村の高安家へ いちゃりばちょーでーに触れる

Story6 封建時代の日本に民主主義を伝える そして開国へ

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822752 No.7255

>>7116

>フリーメイソン

【フリーメイソン】森ビルとイスラエルの関係【森】

2020.05.11

引用元:https://jprofile.org/2019/09/post-42.html

日本を代表するビル会社、森ビルの正体はフリーメーソン日本支部であり、イスラエルのフロント企業であり、その資金源は日本軍部とGHQから略奪した貴金属であった。

第二次大戦で、日本軍が中国、朝鮮の人々を殺害して奪った略奪資金とアヘン密売資金が、イスラエル日本支部の活動資金となった。

そして森ビルがイスラエルの代理人として建設する膨大な数のビルの内装は、「ザ・デザイン・スタジオ」と言う日本の内装業界では有名な企業が全て担う。

この企業は、フリーメーソン上海支部(上海ロッジ)の企業である。

 

第二次大戦中、イスラエル人が集結していた上海の、さらに極東の日本支部が東京タワーに隣接して作られた事になる。メーソン(石工)とは元々土木建設業者の事を意味している。

これは、「フリーメーソンの陰謀」などと言った問題ではなく、イスラエルが日本国内で取得した港区を中心とした優良不動産を、宗教法人、財団法人の所有とする事により「無税」とするためのビジネス戦略であった。

フリーメーソンはそのビジネスのための「カモフラージュ」であった。

こうしてイスラエル=森ビルは

港区全体の大地主と言われるようになる。

見えざる日本の支配者フリーメーソン

※下記書籍の改訂・追補版

日本に君臨するもの-フリーメーソン日本ロッジ幹部の証言

高崎 広

187pより

またパンフレットに写真付きで「皆様のご来場をお待ちしております」とあるメーソン独特の豪華儀式場をもつ同協会ビルの内装は、「ザ・デザイン・スタジオ」という企業が請け負った。

フレデリック・ハリス氏が社長をつとめる同社は、

建築界でも知られた有名な内装工事会社である。

独自に入手した内部文書によると、理事のG・I・パーディ氏から1975年、当時の財団法人理事会に宛てた文書でハリス氏は次のように紹介されている。

理事から公益法人への「公文書」にある問題部分を引用してみよう。

「拝啓 新築される建物のメソニック専用部分に関する設計のことを考えますに、この仕事に最も適している人は、ただ単に建築設計に職業的経験が豊富であるばかりでなく、メーソンリーの精神の本質にも精通した人であるべきだと思います。幸い、私たちの中にそのような人材がおります。現在、私たちの顧問を務めておりますフレッド・ハリス氏はシニム・ロッジのマスターである上に、日本における指折りの有能な設計家の一人です(以下略)」

……

このメーソンであるハリス氏のザ・デザイン・スタジオは最近、イギリスのインチケープ社と合併したが、ハリス氏は代表取締役を外れていない。

インチケープも中国大陸でベンツを販売したり、プジョー、ボルボなどの販売権を握り、衣料品などの販売の大手としても有名であり、ドッドウェルと系列の世界的な企業である。

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822752 No.7256

>>7255

>森ビル

森泰吉郎

https://ja.wikipedia.org/wiki/森泰吉郎

森 泰吉郎(もり たいきちろう、1904年〈明治37年〉3月1日 - 1993年〈平成5年〉1月30日)は、日本の実業家、経営史学者。森ビルおよび森トラスト・ホールディングスの創業者。学者として横浜市立大学で商学部長・教授などを務めたが、学長選挙に出馬した結果学内抗争に巻き込まれ、地方公務員法の兼業禁止違反として退職した。

経歴

東京府東京市芝区南佐久間町(現・港区西新橋)で、米屋のかたわら貸家業を営む家庭に生まれる[1]。幼少期は病弱だったため、人情深い大家だった両親に大事に育てられたという[1]。大倉高等商業学校(現東京経済大学)を経て、旧制東京商科大学(現一橋大学)に進んだ。賀川豊彦の『死線を越えて』やマクシム・ゴーリキーの『母』に感動し、一方で自分が不労所得を得る地主階級である事に懊悩したが、大学で上田貞次郎の「企業者は公共社会への貢献を使命としている」という所説に接してアイデンティティーの確立に大きな影響を受けたという[2]。また、1923年の関東大震災で実家の所有物件がほとんど倒壊した際には焼け跡の整理を手伝いながら、災害に強いコンクリート造への建て替えを進言している[3]。

1928年(昭和3年)に大学を卒業すると、関東学院高等部および大倉高等商業学校講師を経て、1932年(昭和7年)に京都高等蚕糸学校教授に就任した。第二次世界大戦が終わると、1946年(昭和21年)には新円切替にともなう預金封鎖の直前に引き出した資金をレーヨンに投資し、これが高騰して得られた売却益などで積極的に虎ノ門周辺の土地を買い進めた[3]。その後、1946年に横浜市立経済専門学校教授に転じ、1949年に改組にともない横浜市立大学教授となる。1954年(昭和29年)からは同大の商学部長となった。

横浜市大では大学に通うのは週に2-3日程度で、残りの時間は土地の整理やビル建設に取り組み[4]、1955年(昭和30年)に森不動産を、翌1956年には泰成(現・森トラスト・ホールディングス)を設立して第1森ビルが竣工した[5]。また、これに合わせて同年頃から江戸英雄と坪井東に依頼して貸しビル業についての助言を受けている[6]。

1957年(昭和32年)横浜市立大学の学長選挙に出馬するが、大学と会社経営を兼務していたことが地方公務員法の兼業禁止規定に違反しているなどと批判を受け、学長候補者推薦を辞退したうえ、結局1959年(昭和34年)に大学を辞職して不動産事業に専念し、森ビルを設立した[7][8]。

江戸が危ぶむほどのペースで積極的に事業展開を進め、1970年頃には資本金7,500万円に対して借入金が58億円まで膨らんだ時期もあったが、高度経済成長や都市集中のトレンドをうまく捉えて小規模な家業を行なっていた会社を大企業に成長させる事に成功した[6]。長期保有を前提として虎ノ門周辺に一極集中して土地を買い集め、街の魅力を高めるために積極的に地域全体のデザインに取り組んでいった[4]。また再開発事業にあたっては地権者全員の同意を得ることを重視し、典型的な例として赤坂アークヒルズは完成までに20年の月日をかけている[9]。1986年には森ビルの所有する賃貸ビルとその延床面積は73棟、約100万平方メートルに達し、不動産業界で3位の規模になった[5]。

母校一橋大学から森ビルへの入社志望者が来なかったことから、10億円の寄付を行い関連講座を設立する意向であったが、国立大学であったため文部省等との調整が難航し、横浜市立大学時代の同僚だった宮澤健一学長の尽力にもかかわらず、1億円の寄付額にとどまり、講座新設は許されず、1983年(昭和58年)に森社会工学学術奨励金が設立され、結局LANの整備などに充てられた[8]。1993年(平成5年)1月30日、心不全により死去し、生前の約定により、遺産の中から約30億円が慶應義塾大学に寄付された。バブル期直後までは資産総額が1兆円超とも言われていた森であったが、借金も約60億円に上り、課税対象となった実質的な遺産は約39億円にとどまった[10]。

人物

資産

バブル経済期にはアメリカの経済誌フォーブスの世界長者番付に名を連ね、1991年(平成3年)および翌年の世界長者番付では、資産総額が約2兆7,000億円(1991年)で世界一とされた[11]。一方、死後に公表された資産額は約117億円であり、これにはバブル崩壊による額面の目減りのほか、フォーブス誌が森ビルの資産を泰吉郎個人のものとしていたことが理由として挙げられる。

泰吉郎は森磯、泰成、森喜代、森泰の4社が持株会社として森ビルなどグループ各社の株式を保有する体制を早くから整え、4人の子供をこの4社の社長として資産が各人に均等に分けられるよう配慮していた。グループが発展すると更に森ビルも持株会社として資産保有をその子会社に移すなど体制を変化させ、これらの対応の結果として相続税が低減されたという[12]。

経営手法

学者らしく、アメリカで提唱されたオペレーションズ・リサーチの手法を早くから取り入れ、案件ごとにプロジェクトチームを結成して縦割り組織の弊害を避けた。また地域の再開発では地権者など共同開発者も組織化することで意思決定の効率化を目指した。また、ビルの維持管理へのコンピュータシステムの導入を1970年代から進め、他社に先駆けてコストダウンを実現している[13]。

思想・信仰

論語を座右の書とし、揮毫を依頼されるとそこから語句を選んでいたという。また、『郷党』の中から見出した「礼儀作法・秩序規律・役割意識」の三語を社員教育の徳目に掲げていた[14]。青年時代に霊南坂教会で洗礼を受けたクリスチャンで、そのためもあって実業家として成功した後も常に質素な暮らしを心がけていた[14]。

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822752 No.7591

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Come to think of it, what is the current status of the water privatization story?

そういえば、水道民営化の話って現状どうなっているのだろうか?

Japan's Delusional Faith in the Private Sector…Too Bad Faith in "Water Privatization" Going Against the Global Trend

民間企業を妄信する日本…世界の潮流に逆行して「水道民営化」を進めたヤバすぎる信仰

2024.05.11

https://gendai.media/articles/-/127946

パリの挑戦

「今のように物価が上がっている時は特に、民間企業なら値上げの理由をいくらでも挙げただろう。われわれは違う。水は“コモン”(共有財)であり、低所得者でも水道代を払えることが重要だからだ」

フランス・パリ水道公社(オー・ド・パリ)で事務方トップを務めるベンジャミン・ガスティンは誇らしげに語る。パリは世界中で水道事業を手がける「ヴェオリア」と、同社が買収を決めた「スエズ」の「水メジャー」2社が本社を置き、長らく水道が民営化されてきた。水道民営化の中心地とも言えるパリで異変が起きたのは、2008年のことだ。

左派市政の下、パリは2008年11月、水道を再び公営化することを決めた。水道料金は約25年間で3・6倍にも上がったのに、原価はブラックボックス化しており、妥当性が判断できないという問題意識からだった。すべての人に必要な水道という公益事業の運営ノウハウが、市当局から失われているという危機感もあった。

水メジャーの抵抗

世界的に注目される国際都市で、本拠地でもあるパリでの契約を失うことに抵抗する水メジャーと市当局の暗闘は激しかった。ガスティンは「彼らは強大な政治力を使い、市に水道の管理は無理で大失敗に終わるというキャンペーンを張った」と振り返る。2社は料金徴収に必要な顧客台帳や、どの水道管の補修をいつ終えたかといった記録すら提供を拒んだという。

他の自治体の助けも借り、公社が事業を開始したのは2010年1月。一年あまりの準備期間しかなかったが、その後の実績は目を見張るものがある。

2023年1月時点で一立方メートル当たりの水道料は1・06ユーロ(約160円)。東京都が標準的な一般家庭の例として出している約100円は上回るが、物価が上がり続ける中、再公営化当初と比べ約5パーセントもの値下げを実現した。

さらに、水源地での水質保全のため、パリから遠く離れた農村地帯での有機農業推進にも乗り出した。水源付近一帯の農家に、農薬や殺虫剤を使わないことに対する補助金を公社が支出する。

脱民営化、欧州各地で

ガスティンは「こうした取り組みには30年先、40年先まで見据えた計画が必要で、短期の利益を追う民間企業にはそのような経営は不可能だ」と力説する。

値下げも農家への補助金も、公営化によって必要がなくなった株主への配当や経営陣への高額の報酬を回すことで実現した。

市民らが経営を監視する諮問委員会を設け、議事録をインターネットで公開するなど、情報公開も徹底する。オランダのシンクタンク「トランスナショナル研究所(TNI)」の研究員ラビニア・スタインフォートは「公益事業に民主的な統治を取り戻した点で、パリは際立つ事例だ」と評価する。

パリの例を追うようにフランスでは各地で水道の脱民営化が進む。この間、新たに水道を民営化した事例は一つもない。

脱民営化の流れはフランスの水道にとどまらない。英国では国鉄民営化が列車の遅延・運休の多発や設備投資不足による事故に結び付いたとして、一部を再び実質国営化する。TNIによると、ドイツでは2002年以降、電力会社を中心にエネルギー分野だけで282件の公営化が起きた。

日本の逆行

日本ではこうした流れに逆行した動きが続く。

2018年には自治体による水道事業の民間委託を促進する改正水道法が成立した。法改正を受け、宮城県は上下水道と工業用水の20年間の運営権を一括してヴェオリアなどの企業グループに10億円で売却。2022年4月には民間企業による水道運営が始まった。

民営化の前提には、民間企業のほうがより良い経営ができるという信仰がある。だが、郵政民営化では土曜日の普通郵便の配達中止といったサービス低下に加え、かんぽ生命保険の不正販売などの問題が噴出するなど、反証となる事例も多い。

拓殖大教授の関良基(環境政策学)は「水道のように競争が存在しない場合、民間企業で経営が改善することはあり得ない。成功例だと思われている国鉄民営化も、大都市圏の利益を過疎地の路線維持に使う仕組みがなくなり、北海道や四国では悲惨な状況だ」と訴える。

Veolia Water

ヴェオリア・ウォーター

https://ja.wikipedia.org/wiki/ヴェオリア・ウォーター

ヴェオリア・ウォーター(英語: Veolia Water、仏語: ヴェオリア・オー)は、フランスの多国籍総合環境サービス会社ヴェオリア・エンバイロメント(仏語: ヴェオリア・アンビロンヌマン)の水処理事業部門会社。

概要

ヴェオリアは、フランスリヨン市で1853年に創業したジェネラルデゾー社が母体となった水道事業者。フランス共和国の第二帝政時代、ナポレオン三世の勅令によって誕生した都市部の水道システムを運営する民間企業[2]。

世界におけるヴェオリア

世界で合わせて9万5000人の従業員を抱え、66の国で水事業を展開、1億3900万人の住民に上水道・下水道サービスを提供している。他にも企業向けの工業用水処理事業や、ブラジル沖でペトロブラスとの共同で石油採掘・生産事業に参加をしている。 2009年時点での売上高は12.5億ユーロ、2013年の売上の構成比をみると72.9%はヨーロッパ地域からの売上で、そのほか7.4%をアメリカ地域から、中東・アフリカ・インド地域から8.5%、アジア・太平洋地域から11.2%となっている。

2020年現在、事業の柱は、水・廃棄物・エネルギーの3点になる。 浄水事業では、全世界で3,362カ所の浄水場を管理し、9,500万人に水道サービスを提供。また、2,737カ所の下水処理場を管理し、6,200万人に下水処理サービスを提供している。

廃棄物処理では、46万4,948の法人顧客を持ち、685カ所の廃棄物処理場を管理。4,000万人を対象にごみ収集サービスを提供し、4,700万トンの廃棄物を処理した。

そして、発電事業では、611カ所の地域冷暖房ネットワークを管理し、4,300万MWhのエネルギーを生産した。

総従業員数は約17万9,000名、売上高は260億1,000万ユーロとなっている。

2020年2月、中期経営戦略IMPACT2023を発表し、エコロジカル・トランスフォーメーションのベンチマーク企業、意訳すると、環境意識の転換を惹起させる指標になる企業となることを目標に掲げている。

日本におけるヴェオリア

ヴェオリアは、複数の事業会社で水、廃棄物処理、エネルギーの3事業を展開している。

水事業

自治体向けに、プラントの建設から維持管理、料金の徴収業務まで包括的なサービスを提供している。グループ会社の西原環境が主に上下水道施設向けソリューションを提供している。 また、ヴェオリア・ジェネッツの水処理技術部門(旧昭和環境システム)が民間企業向けソリューションを提供。

廃棄物処理事業

産業廃棄物・特別管理産業廃棄物の処理について、量の多寡に拘わらず収集・処理するサービスを提供。

エネルギー事業

低品質の木材等を燃料として活用する木質バイオマス発電所や、下水汚泥処理のプロセスから発生する消化ガスを活用したバイオガス発電所の運転維持管理業務を行っている。

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822752 No.7592

>>7591

Waterworks maintenance transferred to MLIT, review of MHLW operations - Revised Establishment Law approved.

水道整備、国交省へ移管 厚労省業務見直し―改正設置法成立

2023年05月19日

https://www.jiji.com/jc/article?k=2023051900105&g=eco

厚生労働省が所管する上水道・食品関連の業務を国土交通省や環境省に移管する改正設置法が、19日の参院本会議で与党などの賛成多数で可決、成立した。厚労省の業務内容を見直し、社会保障や雇用などの分野に集中できる体制を整えるのが狙い。2024年4月施行

厚労省が所管する水道業務のうち、老朽化対応や災害時の復旧支援などを含めた上水道整備・管理を国交省に移し、国交省が上下水道を一体的に担う体制に改める。水質基準の策定といった環境保全業務は環境省、食品衛生基準に関する業務は消費者庁にそれぞれ移管する。

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822752 No.7593

>>7591

https://www.veolia.jp/ja

ニュース

裾野市(静岡県)と災害協定を締結

01.04.2024

元社員による加入金等着服のお詫び

01.05.2024

下水サーベイランスにより従来の疫学調査で未確認だった 新型コロナウイルス変異株の検知に成功 ー 産官学連携の共同研究結果 ー

14.05.2024

サーキュラーペットがNTTデータグループと使用済みPETボトルの水平リサイクルに向けた基本合意締結

16.05.2024

https://www.veolia.jp/ja/overview/veolia-group-in-japan

持株会社

ヴェオリア・ジャパン合同会社

主なグループ会社(五十音順)

青木環境事業株式会社

ヴェオリア・ジェネッツ株式会社

株式会社エコスファクトリー

株式会社エコロジーフォース

株式会社グリーンループ

株式会社サーキュラーペット

株式会社太洋サービス

株式会社西原環境

株式会社西原環境おきなわ

株式会社ニチジョー

日本環境クリアー株式会社

日本浄水管理株式会社

株式会社V・Tエナジーマネジメント

VTユーティリティーズサービス株式会社

フジ地中情報株式会社

株式会社プラニック

株式会社フレッシュ・ウォーター三池

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822752 No.7594

>>7593

Chairman of the Board, Veolia Japan

Yumiko Noda

野田由美子

https://ja.wikipedia.org/wiki/野田由美子

野田 由美子(のだ ゆみこ、1960年1月26日[1] - )は、日本の実業家。ヴェオリア・ジャパン代表取締役会長、日本経済団体連合会審議員会副議長[2]、出光興産社外取締役、ベネッセホールディングス取締役[3]。デジタル田園都市国家構想実現会議メンバーであり、過去には横浜市副市長、内閣府の委員などを務めた。日本でPFIを普及させた人物とされる。

来歴

神奈川県横浜市港北区で育つ[4]。教育関係の出版社に勤務する厳格な父の元で育ち、麻布中学校・高等学校に進んだ3歳上の兄の影響で中学受験を志望し、東京学芸大学附属世田谷中学校に進学した[4]。東京大学への進学も兄が影響しており、反対する父(お茶の水女子大学か津田塾大学しか認めなかった)を母が説得して許しを得たという[4]。東京大学の教養学部前期課程では川本裕子や渡邊あゆみが同期であり、川本とは親交があった[4]。

1982年に東京大学文学部を卒業[5]。当時は(男女雇用機会均等法施行以前で)日本企業の女性採用がほとんど一般職だったため、総合職で働けることを理由にバンク・オブ・アメリカ東京支店に入社した[4][5]。企画した合コンで出会った日本興業銀行勤務の男性と25歳で結婚する[4]。社内で重職に就く人が経営学修士(MBA)保持者だったことに刺激を受け、バンク・オブ・アメリカを退職してハーバード・ビジネス・スクールに留学する[4][5]。前記の通り既婚であったが、企業留学でマサチューセッツ工科大学に学ぶことになった夫と揃って渡米した[4][5]。1990年にハーバード・ビジネス・スクールを修了したのち、日本長期信用銀行(長銀)に入社[4]。夫がハーバード大学の博士課程を終えてロンドン・ビジネス・スクールで教職に就くのに伴ってロンドン支店勤務となる[4]。ロンドン支店では次長(ストラクチャード・ファイナンス部門統括)を務め[6]、ここでPFIビジネスに出会った[4]。しかし、2年後に長銀が経営破綻し、英国のプライスウォーターハウスクーパース(PwC)に転職。2000年、日本に帰国。PwCの日本法人であるフィナンシャル・アドバイザリー・サービスのパートナー(パブリック・プライベート・パートナーシップ・民営化部門統括)に就任[3]。PFIスクールの主宰や講演などを通じて、日本におけるPFIの普及に携わった。その実績が評価され、2004年に日経WOMAN主催「日経ウーマン・オブ・ザ・イヤー」のリーダーシップ部門1位、総合3位を受賞した[7]。

2007年には横浜市長の中田宏に副市長として起用される[4]。官民連携の促進に向けて共創推進本部の設立に従事[8]したほか、2008年に横浜市で開催された第4回アフリカ開発会議では横浜市のアフリカ開発会議開催推進本部長に就任し、統括。同会議は、アフリカ諸国から41名の国家元首・首脳級が出席。全体で3,000名以上が参加した大規模な国際会議となった[9]。しかし、中田が辞職した後、野田も2009年9月に辞職した[10]。当時、横浜市では横浜港開港150周年の記念博覧会(開国博Y150)が低調に終わり、その責任問題が市議会で追及される矢先のことだった[10]。2020年のインタビュー記事で、野田は当時を振り返り、「集客や収益などの見通しが甘いと思ったが、すでに概要が固まってしまっており、どうにもならなかった。担当副市長として結果責任を取った」と辞任理由を述べている[4]。また、辞任するに当たって、「同じ失敗を繰り返さぬように、第三者による検証を申し入れたが受け入れられなかった」という[4]。退職時、野田は退職金全額を横浜市に寄付する形で返納した[4]。

横浜市副市長を退任した後、北京の清華大学日本研究センターのシニアフェローを経て、PwCアドバイザリーのパートナー(インフラ・PPP部門アジア太平洋地区統括)として復職[4]。2017年、フランスを本社とする総合環境サービス企業の日本法人であるヴェオリア・ジャパンの代表取締役社長となる[4]。2019年には経済同友会行政改革委員会委員長に就任、翌年の2020年には日本経済団体連合会審議員会副議長・環境安全委員会委員長にも就任し、ヴェオリア・ジャパンの代表取締役会長となる。2021年6月より出光興産社外取締役及びベネッセホールディングス社外取締役に就任[3]。その他、日本でPFIを普及させた第一人者として国の審議会委員などを歴任している。近年は、持続可能な経済社会の実現に向け、リニアエコノミーからサーキュラーエコノミーへの転換の重要性を主張している[11]。

2023年2月、経団連副会長に内定[12]。外資系初の副会長。

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822752 No.7595

>>7594

Conference on the Realization of the Digital Rural City State Concept

>デジタル田園都市国家構想実現会議

デジタル田園都市国家構想

https://ja.wikipedia.org/wiki/デジタル田園都市国家構想

デジタル田園都市国家構想(デジタルでんえんとしこっかこうそう)は、2021年に岸田文雄内閣の下で始動した構想。「デジタルによる地域活性化を進め、さらには地方から国全体へボトムアップの成長を実現する」[1]ことを目的とする。「デジタル田園都市国家構想関連施策の全体像」という資料によれば、①デジタル基盤の整備、②デジタル人材の育成・確保、③地方の課題を解決するためのデジタル実装、④誰一人取り残されないための取組という、軸が示されている。

概要

デジタル基盤の整備

5G等の早期展開

光ファイバーのユニバーサルサービス化

データセンター、海底ケーブル等の地方分散

マイナンバーカードの普及促進

自治体システムの標準化・共通化の推進

デジタル人材の育成・確保

公的分野のデジタル人材の育成・確保

オンライン講座等の実施

地方の課題を解決するためのデジタル実装

ローカル5G実装

デジタル化による消防・防災の高度化

誰一人取り残されないための取組

デジタル活用を促すための支援

会議等

デジタル田園都市国家構想実現会議

 内閣総理大臣を議長、デジタル田園都市国家構想担当大臣、デジタル大臣、内閣官房長官を副議長とする。野田由美子、竹中平蔵、村井純、平井伸治なども委員である。

総務省デジタル田園都市実現構想推進本部

 総務大臣を本部長とする。

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822752 No.7596

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>>7595

Providing Internet Service to Temporary Housing Using Local 5G

ローカル5Gを活用した 仮設住宅へのネットサービス提供について

2024/4/5

https://kyodonewsprwire.jp/release/202404049057

ローカル5Gを活用した

仮設住宅へのネットサービス提供について

金沢ケーブル株式会社(本社:石川県金沢市 代表取締役社長 温井 伸)が主体となり、株式会社グレープ・ワン(本社:東京都千代田区 代表取締役社長 庄司 洋之)、サムスン電子ジャパン株式会社(本社:東京都千代田区 代表取締役 チャン ウク)、株式会社三技協(本社:神奈川県横浜市 代表取締役社長 仙石 泰一)、阪神ケーブルエンジニアリング株式会社(本社:兵庫県西宮市 代表取締役社長 松本 圭司)と共同で、石川県志賀町富来地区において、仮設住宅向けにローカル 5G を活用したインターネット環境を整備し、サービスの提供を行います。

固定インターネットサービスの提供には、各戸へ光ファイバーケーブルを敷設したうえで、関連機材を据え付ける必要がありますが、ローカル 5G※を活用することにより、無線を利用して素早く対応することができます。

また、サービス提供を予定するエリアには、行政施設、教育施設もあり、有事の際には本サービスを活用することで、通信環境の確保が可能となります。

金沢ケーブルは 2020 年4月に志賀町からケーブルテレビサービスを引き継ぎ、地域に密着したサービス提供を続けてきました。今回の取り組みは、被災者 支援の一環として、金沢ケーブルから各社に協力を呼びかけ、実現いたしました。

従来通りの復旧方法にとらわれず、その先の復興を見据えたサービスを提供することで、今後も地域の豊かな生活づくりに協力してまいります。

サービス提供地域 : 石川県志賀町富来地区に建設される仮設住宅の一部

開始時期     : 2024年4月中

※設備の準備状況により、サービス開始が遅れる場合がございます。

※仮設住宅以外のエリアへのサービス提供は設備の利用状況を鑑みて展開いたします。

各社の役割は以下の通りです。

cap1

※ローカル5Gは、地域(ローカル)や個別のニーズに応じて、さまざまな主体が柔軟に構築可能な無線通信システムで、5G(第5世代移動通信システム)規格を使うことが特徴です。全国にエリア展開する移動体通信事業者(キャリア)からも5Gが提供されており、それらと並行する形でローカル5Gが展開されています。

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822752 No.7606

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I had never heard of a man named Shaul Eisenberg until now.

ショール・アイゼンバーグという人物の存在を今まで知りませんでした

A Jewish Refugee Becomes a Millionaire in Japan: The Life of Shor Eisenberg

ユダヤ人難民が日本で大富豪になった  ショール・アイゼンバーグの生涯

2019/11/19

https://dot.asahi.com/articles/-/102612?page=1

今回は、1940年代に19歳で難民として日本に渡ってきたショール・アイゼンバーグの話をします。アイゼンバーグは日本人の妻を迎え日本で家庭を築き、戦火を生き延びました。そして、ビジネスの才覚があった彼は1960年代までに世界で最も裕福な人物の一人になります。

 アイゼンバーグは1921年、独ミュンヘンで6人きょうだいの5番目としてユダヤ系ポーランド人の家に生まれました。しかし、38年にはナチスの迫害を避けるためドイツから逃げなければなりませんでした。彼は友人と共にフランスの国境を越えようとしたのですが、友人は途中で殺されてしまいます。アイゼンバーグは逃げ続け、難民として各地を転々としていました。40年になんとか上海にたどり着き、その後日本の支配下にあったハルビンから東京に渡っていきました。

 東京では上海から持ってきたカーペットを売って生計を立てようとしていました。ある日、路上でカーペットを売っているとき、ハーマン・フロイデルスペルガーというオーストリア生まれの男性から声をかけられます。フロイデルスペルガーはウィーンなどで美術を学んだ後にインドを経て日本に来ていました。日本では裕福な実業家の肖像画家として活動していましたが、オーストリアに戻ることはありませんでした。2・26事件で暗殺された高橋是清元首相の肖像画は彼が描き、現在は日本銀行の地下室に保管されています

 東京で出会った二人の外国人は共にドイツ語を話し、フロイデルスペルガーはアイゼンバーグを自宅に招き自分の子どものように扱いました。フロイデルスペルガー自身は20年間日本に住み、茨城県出身の日本人女性と結婚しました。両親の反対にもかかわらず彼と結婚した芯の強い女性です。彼らは東京・麻布に住み、ノブコという女の子とアリトモという男の子を育て、家では日本語だけを話しました。後に、娘のノブコはアイゼンバーグと結婚しました。

 ノブコは現在97歳となり、ロンドンで暮らしています。今年の10月、私はロンドンに行き、彼女にインタビューをしました。アイゼンバーグとの出会いについて彼女はこのように語っていました。

「高校から帰宅すると、父とお客さんが聞いたことのない言葉で話をしていました。お客さんの靴が玄関に置かれていましたが、とても古くて汚れていたので気の毒に思い、磨いてあげました。お客さんは帰る時に自分の靴が綺麗になっていることに気づきました。玄関口に立っていた私と彼はお互いを見つめ合い、顔を赤らめました」

 娘をユダヤ人難民と結婚させるというフロイデルスペルガーの決断は単純なものではありませんでした。なぜなら彼が生まれたオーストリアは40年当時、すでにドイツの一部であり、人種差別主義のナチス政権に支配されていたのです。何年にもわたる反ユダヤ主義運動により、ドイツだけでなく他の国々のユダヤ人も迫害されて殺されました。フロイデルスペルガーは東京のドイツ大使館との接触があったにも関わらず、気にすることなく娘とユダヤ人を結婚させたのです。本当に特別な人でした。

 アイゼンバーグはフロイデルスペルガーの娘であるノブコとの結婚後も東京で暮らしていましたが、次第に激しくなる米国による空爆から逃れるため軽井沢近くの長野県御代田村(当時)に移り住みました。少ない食糧で厳しい暮らしを送り、軍のために村の人たちと共に労働に駆り出されることもありました。終戦を迎え、二人は焼け野原になった東京に戻ってきました。御徒町(東京都台東区)に小さな家を借り、当時の多くの日本人がそうであったように、生活を一から立て直しました。

 正規の教育を受けていなくてもビジネスマンとして成功できるということを、アイゼンバーグは身をもって証明しています。戦後の東京で、占領軍の将校とつながりを持ったことをきっかけに米国と日本の会社の仲介業を始めました。1950年代には韓国にビジネスを広げます。韓国の工場や様々なビジネスに投資を始めたのです。韓国だけでなく徐々に東アジア諸国にビジネスの領域を拡大していき、貿易、不動産、電気通信、銀行、エネルギーなどの幅広い分野にまたがりました。韓国では成功する前のサムスンにも融資をしています。

また、アイゼンバーグは中国市場に参入した最初の外国人の一人です。1970年代には中国国内に複数の工場を所有しました。その後は欧州、南米、アフリカ、中東にも投資範囲を拡大します。イスラエルでも複数の化学工場を購入しています(私の父親はそのうちの一つである死海の工場に勤めていました)。彼はまさにグローバルビジネスマンであり、世界中に構えたオフィス間をプライベートジェット機で移動していました。自身の会社のために研究所を設立し、化学や工学から、財務やビジネス文化に至るまでの幅広い専門知識を持ち、当時の各分野の最高の人材を採用しました。この時点で、アイゼンバーグは世界でロスチャイルド家に次ぐ裕福なユダヤ人となっていました。

 アイゼンバーグはユダヤ系ウクライナ人の友人であるミハエル(ミーシャ)・コーガンと共に東京のユダヤ人コミュニティーの主要なスポンサーにもなりました。アイゼンバーグがそうであったように、コーガンはロシア革命から逃れるために中国のハルビンへ渡り、そして日本へとたどり着いた難民でした。戦後は日本で貿易会社を設立し、自動販売機やジュークボックス、パチンコ等の機械を輸入販売することで財を成します。この会社は後に、ゲーム開発で有名な「株式会社タイトー」となり、日本を代表するアミューズメント企業の一つとして大きく成長します。アイゼンバーグは、渋谷区広尾に今でも存在するユダヤ人コミュニティー建設のために資金提供し、横浜の外国人墓地(ガイジンボチ)にはユダヤ人区画を作るための土地も購入しました。

 一人のユダヤ人であるアイゼンバーグにとって、イスラエルは特別な場所です。彼は多くのイスラエル企業が中国市場に参入する道を開き、イスラエルと中国の外交関係を確立する上で重要な役割を果たしました。52年にはイスラエルの市民権を取得しましたが、まだ日本に住み続け、68年にイスラエルのテルアビブの富裕層が住む地域に家を購入した後に、毎年数カ月はそこに住むようになりました。5人の子ども(1男4女)全員に対しては、イスラエルに来て兵役を務めることを指示しています。イスラエルの彼の家には和室が作られ、数人の首相を含む多くのイスラエル人ゲストを迎えました。歴代唯一の女性首相であるゴルダ・メイア(在任期間1969年~74年)にとっては初めて触れる日本文化でした。

 アイゼンバーグは97年、中国の北京に構える自身の事務所で86年の生涯に幕を下ろしました。ユダヤ人難民として日本に渡り、その地を故郷とし、想像を超える成功を収めた彼は20世紀を生きた偉人の一人であり、その物語は苦難の中で今を生きる多くの人々にも勇気を与えるはずです。

 現在私は、日本でアイゼンバーグについての本を書いています。アイゼンバーグ本人についてや、東京のユダヤ人コミュニティーの歴史に関する情報をお持ちの方はご連絡いただけましたら幸いです。

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822752 No.7607

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>>7606

There is no Japanese version of the wiki, even though he is supposed to be a person closely associated with Japan.Is there any inconvenience for the Japanese to know?

日本と関わりが深い人物のはずなのに、日本語版のwikiがない。日本人に知られると不都合なことがあるのだろうか?

Shaul Eisenberg

https://en.wikipedia.org/wiki/Shaul_Eisenberg

ショール・ネヘミア・アイゼンベルク(ヘブライ語: שאול איסנברג ; 1921年9月22日[1] - 1997年3月27日)は、イスラエルの実業家、億万長者。[2]

ビジネスキャリア

第二次世界大戦中、彼は枢軸国と提携して工業工場で働き、終戦後はアメリカの企業と協力し、日本の鉄鋼業界向けに鉄製品を輸入すると同時に、インドにさまざまな日本製製品を輸出した。[7]

1950年代初頭、アイゼンバーグは極東の他の国々、特に韓国に事業を拡大し、現地当局と同じくそこで事業を展開していた東側の製造業者との仲介をしながら投資を行った。[8]その中には、ブリティッシュ・エレクトリック、シーメンス、MAN SE、フィアット・オートモービルズなどがあった。10年以内に、再生紙の生産ラインの開発や飛行機や電車の購入など、さまざまなプロジェクトの仲介を成し遂げた。その功績により、彼は韓国政府から賞を受けた。1960年代半ばまで、アイゼンバーグは韓国と日本から西側諸国への貿易において主要な要因および触媒であった。[9]

アイゼンバーグはイスラエル・コーポレーションを設立し、同社が30年間の減税を受けることを認める新しい法律が制定された。アイゼンバーグにちなんで名付けられたこの法律は、起業家を奨励するためのものだった。これらの恩恵を受けたアイゼンバーグは、国際的な行動をイスラエルでも真似し始め、イスラエルのサヴィオンに定住した。イスラエル・コーポレーションで、彼はジム・インテグレーテッド・シッピング・サービス、オイル・リファイナリーズなどの企業の株式を買い始めた。 [10]

同時に、彼は自身のコネを利用して極東とイスラエルの間で軍事取引を行い、 [11]イスラエルからアフリカや南米諸国への武器の輸出業者にもなった。後に彼はイスラエルと中国の間で商業取引を行った最初の人物となった

アイゼンバーグは政党への多額の寄付者であり、イスラエルの政治に影響を与えた。[12]

1979年、アイゼンバーグはテルアビブに「ベイト・アジア」を設立し、そこに株式市場投資の本部を置き、アイゼンバーグ・グループを所有した。娘の夫であるジョナサン・ゾホフスキーと、グループのマネージャーであったマイケル・アルビンが彼を支援した。1983年のイスラエル株式市場の暴落後、グループは大きな損失を被り、後に警察は会社が株主から情報を隠していたことを発見した。アルビンは後に悲劇的な状況で亡くなり、アイゼンバーグは娘とその夫との関係を断ち切った。1990年代には、極東の他の市場への関与やその他の要因により、彼のビジネス活動は鈍化し始めた。

その他

彼は南ベトナム駐在韓国大使館公使の李大鎔から逃れるための秘密特使として活動した。[13]

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822752 No.7608

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>>7607

https://8kun.top/cbts/res/152419.html#153058

#153058 at 2017-12-23 03:03:19 (UTC+1)

CBTS #177 ? O Crumb All Ye Faithful Edition

https

://groups.google.com/forum/#!topic/soc.culture.swiss/yOVcxH12gb8

「マフィア」とは、共通の目的を追求する閉鎖的なフリーメーソンのような家族の友愛会という意味である。ソロスやその仲間を批判しようとする者は、即座に「反ユダヤ的」という非難を浴びる。この批判は、ソロスの悪徳な活動に対する真の批判者を沈黙させたり、威圧したりすることが多い。ADLの全国ディレクター、エイブラハム・フォックスマンによると、B'nai B'rithのADLは、ハンガリーや中央ヨーロッパの他の地域での「反ユダヤ主義者」の非難からソロスを「保護」することを最優先事項と考えている。 ADL がイギリスの寡頭政治に奉仕してきた記録は、EIR によって十分に文書化されている (例えば、The Ugly Truth About the Anti-Defamation League [ワシントン DC、Executive Intelligence Review: 1992])。

米国とヨーロッパの知識豊富な捜査官によると、ソロスの取り巻きには、起訴された金属および商品投機家で逃亡中のマーク・リッチ (ツーク、スイス、テルアビブ在住)、イスラエルの秘密兵器および商品ディーラーのショール・ アイゼンバーグ、および「ダーティ・ラフィ」・アイタン (両者ともイスラエルのモサドの金融部門と関係がある)、そしてジェイコブ・ロード・ロスチャイルドの家族が含まれている。

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822752 No.7609

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>>7607

#7785411 at 2020-01-11 20:50:13 (UTC+1)

🇬🇧Q Research UK #10: United We Stand Edition

https://8kun.top/qresearch/res/7515739.html#7785411

イスラエルとユダヤ人が 911 を実行した、人物名簿

1. ベンジャミン・ネタニヤフ (本名: ミレイコウスキー) -

「我々はツインタワーとペンタゴンへの攻撃から利益を得ている。」核密輸組織プロジェクト・ピントで働いていた。

2. エフード・バラク (本名: ブロッグ) -

9/11 の前の 6 か月間、モサドが運営するエレクトロニック・データ・システムズと SCP パートナーズの主任コンサルタントとして米国に滞在していた。

これらの製品の中には、ツインタワーを爆破するために使用されたテルミットを混入したナノ複合爆薬がある。

3. エフード・オルメルト -

攻撃の前夜、最終準備のためにニューヨークにいた。ICTS のメナヘム・アツモンとつながりがあった。

4,5.メナヘム・アツモンとエズラ・ハレル -

ボストン空港とニューアーク空港の警備を担当したInternational Consultants on Targeted Security (ICTS)のオーナー。

6. シモン・ペレス(本名:シモン・ペルスキ) -

9/11テロで使用されたテルミットを生産するアル・ナカブのパレスチナ占領地ディモナの大量破壊兵器基地の開拓者。

7. イッセル・ハレル(本名:ハルペリン) - モサドの創設者。アブラハム・ベンダー、ピーター・ツヴィ・マルキン、イスラエルの武器商人ショール・アイゼンバーグ

とともに、港湾局のエグゼクティブ・ディレクター、スティーブン・バーガーの支援を受けて、WTCの設計図を入手する作戦を立案した。 8. モルデハイ・「モッティ」・ホッド(本名:フェイン) - イスラエル占領軍空軍少将、USSリバティー号虐殺の立役者。9 /11におけるペレスとモサドの軍事的要人。 9. マイケル・チェルトフ - 国土安全保障省の二等書記官で、それ以前は 2001 年から 2003 年まで司法省の刑事部長を務めた。愛国者法の起草者。ラビ・ゲルション・バルーク・チェルトフとモサドの女性工作員の創設者リビア・アイゼンの息子。 14. ヤロン・シュムエル、オメル・マルマリ、シヴァンとポール・クルツバーグ、オデッド・エルナー - 「5 人の踊るイスラエル人」として知られるようになったモサドのスパイ。 拘留された後、遺体とバンから爆発物が検出され、「この事件を記録するために来た」と宣言した。 15. ドミニク・オットー・スーター - 5 人の踊るイスラエル人が働いていたイスラエル諜報機関アーバン・ムービング・システムのモサドのオーナー。3 州地域のさまざまなアラブ組織の情報収集を行うモサドの作戦の監督者および責任者。 16. モリス・カーン - イスラエル人のアムドックスのオーナー/創設者。同社はアメリカ国内の電話、メール、テキストメッセージの 90% の処理データを収集しており、米国 ZOG の複数の機関も対象としている。9 /11 では少なくとも 60 人のイスラエル人スパイが拘束され、その全員が軍事情報および爆発物分野の工作員だった。また、事件の直前には 140 人以上のイスラエル人スパイが拘束された。その多くがアムドックスで働いていた。

19. アルビン・ヘラースタイン - スキャデン・アープスが担当したすべての訴訟の判事。

21. ガル・イズラエリ -

シーダー・ファンドの共同設立者。また、多数のハイテク新興企業とつながりのあるタルピオン。アムノン・ショハムと提携して、ガーディアムなどのイスラエル諜報機関に資金をつぎ込む前は、ベア・スターンズのハイテク投資銀行グループのマネージング・ディレクター。

24. ケネス・ファインバーグ -

9/11犠牲者補償基金を設立し、9/11犠牲者の家族に、1人当たり100万シェケル(ドル)強と引き換えに、政府を刑事過失で訴える権利を放棄させた。

>妻のデデは、ワシントンのユダヤ人連盟の元会長であり、メリーランド州ベセスダのモンゴメリー郡ベス・エル会衆を通じてユダヤ人の大義に資金提供している。

25. 「ラッキー」ラリー・シルバースタイン - ミスター「引き抜き」。

過去 30 年間のすべてのイスラエル首相の友人であり、ネタニヤフ首相とは毎週日曜日に電話で会話。ユナイテッド・ジューイッシュ・アピールの大物。ハガナーのテロリストでイスラエル国防軍ゴラン旅団の特殊部隊員であるフランク・ローウィとツインタワーを共同所有。仲間のルイス・アイゼンバーグとロナルド・ローダーは、史上初めて WTC を民営化し、シルバースタインがリース契約を結ぶのを助けた。

>シルバースタインは保険金支払いで 70 億ドルを回収

26. '''ラビ・ドブ・ザクハイム -

国防総省の会計監査官で、3.3 兆ドルを消して、パレスチナ人とレバノン人の虐殺に使用される新しい戦闘機の代金として、権力を奪取するシオニスト組織に送金した。 WTC に衝突した飛行機の胴体下に装備されていた FTS (フライト ターミネーション システム) を製造したシステム プランニング コーポレーション (SPC) のトップ。'''

ロナルド S. ローダー -

1981 年、ロナルド レーガンの防衛政策委員会に所属

。イスラエルのヘルツリーヤにあるモサド センター (IDC) のローダー行政・外交・戦略大学院。世界ユダヤ人会議の代表を務めた。

> これらは世界貿易センターを倒壊させ、ペンタゴンを爆破した犯罪者です。

これらは 2001 年 9 月 11 日に 2,996 人のアメリカ人を殺害した殺人者です。

Sauce: https://www.henrymakow.com/2019/06/israel-did-9-11-a-whos-who.html

>http://www.bollyn.com/home#article_16214'''

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822752 No.7610

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>>7606

>Taito Corporation, a well-known game developer.

>ゲーム開発で有名な「株式会社タイトー」

Taito

タイトー

https://ja.wikipedia.org/wiki/タイトー

株式会社タイトー(英: TAITO CORPORATION)は、アミューズメント施設の企画、運営を主な事業内容とする日本の企業。スクウェア・エニックス・ホールディングスの連結子会社。コンピュータエンターテインメント協会・日本アミューズメント産業協会正会員。

本項では、1953年に設立され2006年に法人格が消滅した初代法人、旧称が株式会社SQEXで2006年に初代法人を吸収合併した2代目法人、株式会社ES1として設立され2010年に事業を継承した3代目法人について、まとめて記載する。

概要

2020年現在の主な事業内容は下記の通り。

アーケードゲーム機器の開発、製造、販売、レンタル、メンテナンスサービス

アミューズメント施設の企画、運営およびフランチャイズ事業

モバイルゲームの企画、開発、運営とその配信

マーチャンダイジング事業(プライズゲーム向け景品などの開発・販売)

日本におけるコンピューターゲーム業界の草創期から携わり、今日まで様々なプラットフォームにおいてゲーム機用商品の開発・製造・販売を行ってきた、老舗ゲームメーカーのひとつである。

コンシューマーゲーム向けのタイトルもファミリーコンピュータの時代から多数リリースしていた。2010年にリリースされた『みんなの水族館』を最後にすべてのコンシューマーゲーム事業をスクウェア・エニックスに統合し、9年間にわたり新規タイトルのリリースはなかったが、2019年の『ダライアス コズミックコレクション』にて、9年ぶりにコンシューマーゲーム向けのタイトルをリリースした。

沿革

1950年 - ユダヤ系ウクライナ人の実業家、ミハエル・コーガンが、個人営業の輸入会社となる、太東洋行を設立する。「太東」とは「極東の猶太(ユダヤ)人会社」を指すという。

1953年 - 仕切り直して、太東貿易株式会社を創業。会社の創業年月日はこの太東貿易のものである。日本で初めてウォッカを国内醸造・販売した。東京都港区に太東貿易株式会社設立。小型自動販売機(ピーナッツベンダー)の製造、販売業務を開始。

1954年 - ジュークボックスの賃貸業務を開始。

1956年 - 純国産ジュークボックス1号機を開発。アミューズメント機器の販売、賃貸業務を開始。

1958年 - フリッパーピンボールをリースし、ヒット商品とする。

1962年 - 米シーバーグ社ジュークボックスの国内販売代理権を獲得。

1963年 - 自社ブランド製品の企画・開発・製造を目的とした子会社、パシフィック工業株式会社を設立。

1964年 - 後に「パチスロ」と呼ばれる遊技機の嚆矢となるオリンピアの風俗営業許可を取得する。その名は、同年に開催された東京オリンピックに因む。

1965年 -遠隔操作のマジックハンドで玩具を吊り上げる「クレーンゲーム」を開発

1968年 - 東京都豊島区西池袋に竣工したビル「ロサ会館」内に、日本初となるゲームセンターを開店[2][注 1]。

1970年 - 通商産業省より輸出貢献企業として表彰される。

1971年 - アミューズメント施設の強化を目的として、日本自動販売機株式会社を買収。

1972年 - 商号を現在の株式会社タイトーに変更。

1973年 - 業務用テレビゲーム『ポン』のコピーゲームとして、セガ(後のセガ・インタラクティブ)の『ポントロン』とほぼ同時に『エレポン』を発表。これが日本初のビデオゲームとなった。本社を千代田区平河町に移転。

1977年 - 『ブロックくずし』でテーブル筐体を発売、ゲームセンターだけでなく喫茶店にも販路を拡大した。

1978年 - 『スペースインベーダー』が大ヒットし、社会現象になった。

1979年 - 営業拠点の充実を図るべく、主要都市で自社ビル建設に着手。生産拠点として海老名市(神奈川県)に海老名工場を設置し、綱島工場の機能を集約。

1984年 - 創業者のコーガンが64歳で死去。

1985年 - 業務用オーディオビジュアル機器(業務用映像カラオケ機器)の取り扱いを開始。

1986年 -京セラ株式会社の資本参加により、同社の子会社となる。

1988年8月24日 - 創業35周年を機にCIを導入。

1989年 - 自社のイメージキャラクターに「ゆうゆ(岩井由紀子)」を起用。

1992年9月 - ISDN回線を使用した世界初の業務用通信カラオケ「X2000」を発売。

1993年1月 - 東証二部上場。

1995年 - 家庭用通信カラオケシステムX‐55の製造、販売を開始。

1997年3月 - アーケードゲーム『電車でGO!』を発売。大ヒットとなり、以後アーケードゲーム及びコンシューマーゲームで多数のシリーズ作品が発売される。

1999年 - 業務用アミューズメント機器生産システムとして初めて国際品質保証規格ISO9001の認証を取得。海老名工場における環境マネジメントシステム国際環境規格ISO14001の認証を取得。

2000年 - 株式会社 京セラ マルチメディア コーポレーションを吸収合併し、携帯電話向けコンテンツ事業を開始。翌2001年1月にはiモード向けに『スペースインベーダー』『パズルボブル』『アルカノイド』の3作品をリリース。

2002年 - 全事業所(9カ所)、全国直営ゲーム施設で環境マネジメントシステム国際環境規格ISO14001の認証を取得。

2003年9月 - 東証一部上場(証券コード9646)。

2004年6月 - OSにWindows XP Embedded(組み込みシステム向けのWindows XP)を採用したアーケードゲーム基板「Taito Type X」を発表。

2005年

3月 - アーケードゲーム用ネットワークシステム「NESYS」提供開始。対応第1弾タイトルは『ハリキリオンライン プロ野球』。

8月22日 - 株式会社スクウェア・エニックスが同社を株式公開買い付け(TOB)にて買収すると発表。

9月22日 - スクウェア・エニックスがTOBにより京セラ、コーガン家の持分を含めて株式の93.7%を取得。9月28日付でスクウェア・エニックスの連結子会社となる。

2006年

3月31日 - スクウェア・エニックス完全子会社の株式会社SQEXを存続会社として同社を吸収合併。株式会社SQEXが商号を株式会社タイトー(2代目法人)に変更し、スクウェア・エニックスの完全子会社となる。これに伴い東証一部上場廃止。なお、同年6月21日に稼動開始した、スクウェア・エニックスとしては初めてのアーケードゲームとなる、トレーディングカードアーケードゲーム『ドラゴンクエスト モンスターバトルロード』は、タイトーが販売を行っている。

7月1日 - スクウェア・エニックス社長の和田洋一が同社の社長に就任、兼務する。前社長の西垣保男は代表取締役会長へ。業務用カラオケ事業を分社化し、株式会社エクシングへ譲渡し撤退。

2007年7月30日 - 本社を東京都千代田区平河町二丁目5番3号より新宿文化クイントビルに移転。

2008年 - 『スペースインベーダー』30周年を記念し、インベーダーをタイトーブランドの主軸に据えた商品展開を行うと発表。全国各地に分散していたアミューズメント施設の店舗ブランドを「タイトーステーション」に統一。アーケードゲームの新ブランド「NO考ゲーム」発足。

2009年

2月 - 渋谷、海老名、国分寺の3直営店で、実地実験として料金を20%値上げ。現在は終了し通常料金である。なお国分寺店はその後2013年にエンベッドによる事前チャージのシステムの実験もあったが、同駅前の再開発により閉店・消滅している(2016年9月に再オープン[3])。

11月27日、スクウェア・エニックス・ホールディングス取締役会の決定により、タイトーの事業再編を行う事を発表。

2010年

2月1日 - スクウェア・エニックス・ホールディングス連結対象の株式会社ES1(2009年6月1日設立)に家庭用ゲーム機用商品開発・製造・販売以外のすべての事業および部門を分割・継承。同時に株式会社SPC1号(ES1の完全親会社かつスクウェア・エニックス・ホールディングスの完全子会社)をES1を存続会社として吸収合併。株式会社ES1が商号を株式会社タイトー(現在の法人)に、旧・タイトー(2代目法人)は商号を株式会社タイトーソフトへ変更[4]。

3月11日 - 株式会社スクウェア・エニックスが株式会社タイトーソフトを吸収合併。タイトーの家庭用ゲームソフトの企画・開発・販売事業がスクウェア・エニックスに集約され、タイトーブランドの家庭用ゲームソフトのサポートもスクウェア・エニックスによって行われることとなった[5]。ただし、これまで発売されてきたゲームソフトの著作権は、引き続きタイトーが保有し続け、パッケージに書かれた著作権やメーカーロゴの表記も、スクウェア・エニックスとタイトーの連名になっている。

12月9日 - アーケードゲーム用ダウンロードコンテンツサービス「NESiCAxLive」提供開始。第1弾タイトルは『BLAZBLUE -CONTINUUM SHIFT II-』(アークシステムワークス)。

2011年3月 - スクウェア・エニックス・ホールディングス傘下の株式会社スタイルウォーカーを吸収合併。

2012年10月1日 - 本社を東京都新宿区新宿六丁目27番30号の新宿イーストサイドスクエア(東新宿駅に直結)に移転[6]。

2013年5月10日 - 和田洋一の、親会社・スクウェア・エニックス・ホールディングスの社長退任に伴い、代表権なしの会長であった飯澤幸雄が代表取締役社長に就任。

2015年2月 - 「タイトーステーション」に各種の電子マネーが使える決済端末を導入すると発表[7][8][9]。同年5月に利用を始め次年度中に直営40店舗に拡大予定。

2016年12月1日 - 資本金を15億円から5000万円に減資[10]。

2018年7月 - 家庭用ゲーム事業への再参入を表明。2019年2月28日発売の『ダライアス コズミックコレクション』を再参入第1弾タイトルとしてリリースした[11]。

2019年9月14日 - マリノアシティ福岡内に、国内最大級の屋内型スポーツ・アスレチック施設「ノボルト(NOBOLT)」オープン[12]。

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822752 No.7611

>>7610

カラオケ事業

1990年よりカラオケ事業に参入し、1992年に業務用通信カラオケ「X2000」をリリース。2006年に業務用カラオケ事業を分社し、既に関連製品の共同開発や楽曲の相互提供を行っていたエクシングに譲渡し業務用カラオケ事業からは一旦撤退した。その後、2011年にアミューズメント施設向けの小型カラオケボックス「ちょいKARA」を導入した(楽曲提供や機器などはエクシングと第一興商が担当)。

家庭用は1995年の「X-55」から参入。各種情報の閲覧や内蔵されているゲームのプレイが可能といった、タイトーならではの機能も打ち出していたが、2012年にサービス終了した。またこれとは別に、DVDによるカラオケ教室(通信教育の類)やパソコンによるカラオケ動画配信も一部のサイトで僅かに行っていたが、これも2013年頃までに姿を消している。

主な提供番組

全て過去のもの。現在タイトーがスポンサーに入っている番組はない。

クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!(番組内の「ミリオンスロット」のシステムも開発。同番組を題材にしたアーケードのクイズゲームも発売。その後、これを元にしたスロットが同じ日本テレビ系列のクイズ どんなMONだい?!にも使用されていた)

オールナイトニッポン(一時期のみ提供)

クレヨンしんちゃん(番組初期に提供。同アニメを題材にしたアーケードゲームも2作制作した)

金曜ロードショー(1988年10月から1993年3月まで提供)

ミュージックステーション

ベストヒットUSA(一時期のみ提供)

韋駄天翔

ローゼンメイデン トロイメント

銀盤カレイドスコープ

陰からマモル!

侵略!?イカ娘(6話まで)

サザエさん(再放送)

はなきんデータランド

とっとこハム太郎(2000年7月〜2004年9月)

いぬかみっ!

朝日放送テレビ制作日曜朝8時30分枠のアニメ(2010年3月まで、ヒッチハイク。)

情熱大陸(2003年4月〜2010年3月、ヒッチハイク。)

ニュースステーション(木曜のみ、1999年4月〜2004年3月)

報道ステーション(木曜、2004年4月〜2006年9月)

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822752 No.7612

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>>7610

TAITO's predecessor was a trading company created by Israeli arms dealer Shaul Eisenberg… Could it be that the coins Japanese people put in to play UFO Catcher or the money they use to play the game became (or become) part of the funds for the arms trade?

TAITOの前身は、イスラエルの武器商人ショール・アイゼンバーグが作った貿易会社だったということは、もしかして日本人がUFOキャッチャーをするために入れた小銭や、ゲームに使用するお金が、武器売買の資金の一部になったりしていた(している)のだろうか…

英語版

https://en.wikipedia.org/wiki/Taito

タイトー株式会社[b]は、東京都新宿区に本社を置く、ビデオゲーム、玩具、アーケード筐体、ゲームセンターを専門とする日本の企業です。同社は1953年にマイケル・コーガンによってタイトートレーディングカンパニー[c]として設立され、ウォッカ、自動販売機、ジュークボックスを日本に輸入していました。1973年にビデオゲームの生産を開始しました。2005年にタイトーはスクウェア・エニックスに買収され、2006年に完全子会社になりました。[1]

タイトーはビデオゲームの黎明期に業界に大きな影響を与えた企業として知られており、スピードレース(1974年)、ウエスタンガン(1975年)、スペースインベーダー(1978年)、バブルボブル(1986年)、アルカノイド(1986年)など、数々のヒットアーケードゲームを制作している。カプコン、コナミ、ナムコ、セガと並んで、日本を代表するビデオゲーム会社の一つであり、海外にゲームを輸出した最初の企業でもある。[2]以来、同社のゲームのいくつかは業界にとって重要かつ革命的であると認識されており、特にスペースインベーダーは1970年代後半のビデオゲームの成長に大きく貢献し、ゲームに登場するエイリアンはビデオゲーム業界の象徴的なエンブレムと見なされている。

同社は日本全国に「タイトーゲームステーション」として知られるゲームセンターのチェーンを運営しているほか、玩具、ぬいぐるみ、UFOキャッチャーの景品の製造も手掛けている。

歴史

1944年、ウクライナ系ユダヤ人実業家マイケル・コーガンが上海にTAITOを設立した。[3]ソ連からの難民であるコーガンは、第二次世界大戦中に日本の工場で働き、その後父親のもとへ上海へ移った。[3] [4]日本語で「太東」と訳されるTAITOは、床材、天然毛のかつら、豚の毛を扱っていた。[3]

1950年代~1960年代

中国が共産党に支配されたため、コーガンは1950年に事業を清算し、戦後著しい経済衰退に苦しんでいた日本に事業を移した。[3] 2つ目の事業である衣料品販売業者のタイトー洋行は、従業員の不注意と頻繁な商品紛失により財政的に苦戦した。[4] 1953年8月24日、タイトー洋行は廃止され、タイトー商事株式会社が設立され、コーガンは弁護士で元新聞記者の中谷明夫氏と合流した。[3] [5]タイトー商事株式会社は、日本で初めてウォッカを製造したウォッカ蒸留所と、ピーナッツ自動販売機および香水自動販売機の輸入業者として始まった。[6] [7]

競争が激化したため、タイトーは1955年にウォッカ事業を放棄し、ジュークボックスの輸入に加えて、成功した自動販売機に注力するようになった。[3] [4] [7]タイトーは日本にジュークボックスを輸入するための正式なライセンスを持っていなかったため、米軍基地から壊れた機械を購入し、欠陥のあるユニットから動作する部品を使って修理した。[3]日本経済の回復により、タイトーは国内のAMIジュークボックスの公式販売代理店になることができました。この取引は当初はあまり影響がなかったものの、1960年に同社が日本のレコードとアメリカのフォークソングをミックスし始めるまでには1,500台以上の機械が販売されました。[3]シーバーグ社との提携により、タイトーは日本での独占代理店となり、国内有数のジュークボックス会社になりました。[3]

タイトーは1960年代にエレクトロメカニカルゲーム(EMゲーム)の製造を開始しました。1967年には、ピンボールフリッパーなどの電子部品を使用してサッカーをシミュレートした2人用スポーツゲーム、クラウンサッカースペシャル(1967)をリリースしました。 [8] 1968年、クラウンバスケットボールは1968年のタンパフェアで最も収益の高いアーケードゲームとして米国でデビューしました。[9]

1970年代~1980年代

タイトーは1972年8月にタイトートレーディングカンパニーからタイトーコーポレーションに社名を変更した。1973年にはシカゴのダウンタウンにアメリカ子会社であるタイトーアメリカを設立した。[3]

以下省略

>マイケル・コーガン

https://ja.wikipedia.org/wiki/ミハエル・コーガン

ミハエル・コーガン[注釈 1](ウクライナ語: Михайло Коган, 英語: Michael Kogan、1920年1月1日 - 1984年2月5日)は、ユダヤ系ウクライナ人の実業家、タイトー創業者[1]。

経歴

極東のユダヤ人

1920年1月、ウクライナのオデッサにて、建設会社の経営者の6人兄弟の末子として生まれる[1]。1932年、ロシア革命の混乱を避けるため満洲のハルビンに移住し、地元の商業高校を卒業する[1]。

1938年にハルビンで開催された「第2回極東ユダヤ人大会」では、シオニスト青年団の1人として参加し、ハルビン特務機関長・樋口季一郎、大連特務機関長・安江仙弘に出会う。

「極東のユダヤ人保護」に奮戦する安江大佐に感銘を受け、親日家となったコーガンは、翌1939年(19歳の時)に来日し、東京の「早稲田経済学院」で貿易実業を学んだ[1]。5年間の日本滞在中、ロシア文学者の米川正夫の家に下宿し、ドストエフスキーの著作の翻訳を手伝った。

来日後の事業

1944年、コーガンは上海から天津に渡って貿易実務を取得した。1946年からは貿易商となり、翌47年には結婚した[1]。1950年[注釈 2]に再び来日。「太東洋行」という個人営業の輸入会社を始め、世田谷の仮住まいで雑貨の輸入業を営んだ。「太東」とは、極「東」と猶「太」人、すなわち「極東のユダヤ人」の意であり、みずからの民族的出自を示している。1953年に一度仕切りなおして株式会社太東貿易を創業、これが後のタイトーとなる。なお太東貿易以後の企業概要についてはタイトーを参照。

1954年、シベリアに抑留され病死した安江の葬儀の開催に尽力する。4月26日、青山斎場で行なわれた安江大佐の慰霊祭は、平凡社の下中弥三郎社長を委員長として執行された。駐日イスラエル公使、在日ユダヤ人協会長、陸士21期生代表など多数が参列した。

1984年、出張中にアメリカ合衆国のロサンゼルスで心臓発作により死去[1]。64歳だった[1]。

タイトーが経営するゲームセンターで使われるメダルゲーム用の「メダル」には、コーガンの肖像が描かれているものが長く使われていた(近年は「インベーダー柄」のものが使われていることが多い)。

息子のアブラハム(愛称アバ[1])はモナコに住んでいる。娘のリタは南カリフォルニアに住んでおり、リチャード・エドランドと結婚した。彼女はタイトーが2006年にスクウェア・エニックスの完全子会社になるまで、同社の株式を8.5%所有していた[2]。なお、コーガンの妻が2013年に死去した後、海外財産分の相続税110億円を滞納していることが発覚する[3]。

英語版

Michael Kogan

https://en.wikipedia.org/wiki/Michael_Kogan

コーガンは1920年1月1日にオデッサでリーヴァとカルマン・コーガンの子として生まれた。 [1]家族はロシア革命を逃れるために満州のハルビンに移住し、そこで後に日本軍の諜報部員であり、日本占領下の満州にヨーロッパのユダヤ人難民を定住させる計画であるフグ計画の立案者の一人である安江範弘大佐と出会った。1939年に東京に移り、戦争中のほとんどの時間を早稲田大学経済学部で学んだ。1944年に天津に移り、1950年に日本に戻り、東京都世田谷区に定住した。

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822752 No.7613

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>>7612

It is currently a subsidiary of this company ↓ a company that sells Dragon Quest, Final Fantasy, and other games that Japanese people have probably heard of.

現在はこの会社の子会社です↓ドラゴンクエストとかファイナルファンタジーとか日本人ならおそらく聞いたことがあるゲームを販売している会社

SQUARE ENIX HOLDINGS CO., LTD.

スクウェア・エニックス・ホールディングス

https://ja.wikipedia.org/wiki/スクウェア・エニックス・ホールディングス

主要株主

福嶋康博 19.73%

日本マスタートラスト信託銀行(信託口) 15.62%

日本カストディ銀行(信託口) 6.02%

福嶋企画 5.64%

JP MORGAN CHASE BANK 380752 5.38%

JP MORGAN CHASE BANK 380815 4.47%

THE BANK OF NEW YORK MELLON(INTERNATIONAL) LIMITED 131800 1.86%

STATE STREET BANK WEST CLIENT - TREATY 505234 1.23%

JPモルガン証券 1.06%

福嶋美知子 1.03%

(2023年3月31日現在)

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822752 No.7614

>>7613

Origin of the company name

社名の由来

https://blog.qbist.co.jp/?p=3483

スクウェア・エニックス/SQUARE ENIX

 スクウェアとエニックスが統合してできた社名。統合前の由来は次のとおりです。

エニックス

 世界初の電子計算機の名前「ENIAC」と不死鳥を意味する「PHOENIX」を組み合わせた造語です。

スクウェア

 ゴルフの構えである「スクウェアグリップ」と「スクウェア(人々が集まってくる広場)」から採られています。

 スクウェアグリップは目標(問題)に対し、まっすぐ向かっていくという企業姿勢を表し、広場のスクウェアには、優秀なクリエイターが集まる開発現場という意味もあります。

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822752 No.7615

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>>7614

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ヨーロッパの歴史 · 2020年08月03日

Who was Emperor Franz Joseph I? The last glory of the Habsburg Empire, known as the Phoenix

皇帝フランツ・ヨーゼフ1世とは?不死鳥の名を持つハプスブルク帝国の最後の栄光

https://antique-coin-galleria.com/blogs/times/what-is-emperor-franz-josef-i

ヨーロッパの歴史は、ハプスブルク家を抜きには語れません。広大な領土を誇ったハプスブルク家は、中世以来の名門として婚姻政策によって繁栄した家系です。フランツ・ヨーゼフ1世は、70年近くオーストリアの皇帝として君臨したハプスブルク家最後の光でした。妻であったエリーザベトの伝説的な美貌とともに、ハプスブルク家の終焉を飾ったフランツ・ヨーゼフ1世とはどんな皇帝であったのでしょうか。

母の薫陶のもとに育った賢明な皇子フランツ・ヨーゼフ1世

世界史に疎い人でも、ハプスブルク家という名前は耳にしたことがあるのではないでしょうか。

フランツ・ヨーゼフ1世は、このハプルブルク家という欧州の名門に生まれたオーストリアの皇帝です。日本人ならば誰でも知っているマリー・アントワネットは、ハプルブルク家の皇女でした。彼女がフランス革命で王妃の座を追われたとき、冷淡な態度をとった甥のフランツ2世がフランツ・ヨーゼフ1世の祖父にあたります。

フランツ2世の跡を継いだフェルナンド1世は脆弱で子どもがなく、跡を継ぐのは弟のカール大公になるはずでした。ところが、それに異を唱えたのがカール大公の気丈な妻ゾフィです。ゾフィは当時の人々から、「ハプルブルク家の唯一の男子」と呼ばれるほど勝気な女性でした。彼女が盲愛し、厳格な帝王教育を授けたのが長男フランツ・ヨーゼフでした。フランツ・ヨーゼフ1世は、この母の期待だけではなく斜陽の趣があったオーストリア帝国の期待を一身に担って、1848年に18歳で皇帝に即位するのです。

しかし世界史の年表を見れば、その1848年はまさにヨーロッパは混乱の極みにありました。フランスでは二月革命が勃発、フランツ・ヨーゼフが即位したオーストリアでも三月革命が起こり、メッテルニッヒが辞職して亡命。ハンガリーでは独立運動がおこり、オーストリア軍と抗争開始。イタリアやイギリスでも、庶民の反乱が後を絶たなかったのがこの年です。

そのような中で即位した若く凛々しいフランツ・ヨーゼフ1世は、オーストリアの人々にとって希望の星でした。母ゾフィによって与えられた周到な教育によって、当時のフランツ・ヨーゼフ1世は自らの地位を強く意識する君主として育ちました。軍隊の重要性を理解し、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ハンガリー語を駆使できたといわれています。実際、フランツ・ヨーゼフ1世はウィーンの三月革命やハンガリーの反乱を無事に鎮圧し、人びとの喝さいを浴びたのです。

皇帝として自らを強く律していたフランツ・ヨーゼフ1世、その彼が唯一自身を主張したのが結婚相手でした。

皇妃エリーザベトとの出会いと結婚

勝気な母ゾフィには従順であったフランツ・ヨーゼフ1世が、たった一度母に反抗したのが自分の伴侶を選んだ時でした。婚姻政策によって領土を広げてきたハプルブルク家にとって、現役の皇帝の結婚は帝国の運命を決めるといってもよい一事であったはずでした。そこに、皇帝の私情などはさむべきもなかったのです。ところが、この結婚は恋愛結婚として成就する運命にありました。それは、どんな経緯をたどったのでしょうか。

当初はプロイセンの王女に的が絞られたもののこれは挫折し、結局フランツ・ヨーゼフ1世がお見合いをしたのは従姉妹にあたるバイエルン公国の公女ヘレーネでした。母后ゾフィお墨付きの従順なヘレーネはしかしフランツ・ヨーゼフ1世の目には入らず、お見合いについてきた15歳の美少女エリーザベトに一目ぼれをしてしまうのです。当時から「シシィ」の愛称で知られていた美しいプリンセスでした。

几帳面で融通がきかないフランツ・ヨーゼフ1世にとって、蝶々のように軽やかで気ままなエリーザベトは、相反する性格を持つ魅力的な相手に映ったのでしょう。母ゾフィがどんなに異議を唱えても、23歳のフランツ・ヨーゼフ1世の気持ちは変わりませんでした。

まさに、王子様とお姫様のおとぎ話といった感のあるこのエピソードですが、当のエリーザベトには「皇妃になる」ことを怖れて、「あの方が皇帝ではなく仕立て屋であったらよかったのに」とつぶやいたと伝えられています。

ゾフィにとって従順な息子の反抗は、エリーザベトとの嫁姑戦争を引き起こすことになります。現在では悲劇の皇妃として知られるエリーザベトですが、実際に厳格なウィーンの宮廷とは相いれない自由奔放さがあったことは否めません。また、早朝から政務に励む夫とも夫婦らしい語らいは望むべくもなく、エリーザベトが孤独感を深めていったことは容易に察せられます。

それでもフランツ・ヨーゼフ1世の愛は変わらず、エリーザベトが宮廷を放擲して旅に出るたびに、充分な金銭を送って妻を守り続けたのです。

広大な帝国の皇帝として

フランツ・ヨーゼフ1世の治世は、実に68年に及びました。オーストリア帝国と一口に言っても、当時の帝国はまさに人種のるつぼ、ドイツ人、ハンガリー人、チェック人、ポーランド人、ルーマニア人、クロアチア人、スロヴェキア人、セルビア人、イタリア人がその支配下にありました。

多民族国家の皇帝としての憂慮は、とくにハンガリーの反抗にありました。最愛の妻エリーザベトがハンガリーを熱愛していたこともあってか、ハンガリーの自治を大幅に認めオーストリア=ハンガリー帝国を成立させたのです。これは、フランツ・ヨーゼフ1世の皇帝として、個人の力量ではいかんともしがたい時代の流れであったというべきかもしれません。

オーストリア帝国の外でも、フランツ・ヨーゼフ1世の悩みは尽きませんでした。弟マクシミリアンはベルギーの王女と結婚しましたが、彼女の野心もありメキシコの皇帝になるという途方もない計画を断行。まったく傀儡であったメキシコの皇帝位から結局追われ、処刑されてしまうのです。

フランツ・ヨーゼフの家族をめぐる不幸は、しかしこれにとどまりませんでした。

次々と襲い掛かる家族の不幸

フランツ・ヨーゼフ1世は、妻エリーザベトとの間に1男3女をもうけています。長女は幼いうちに亡くなり、成人したのは3人。男子はたった1人ルドルフだけであったため、跡継ぎとして大事に育てられました。

しかし成人後のルドルフは父帝に反抗し、政治的にも孤立してしまいます。そして、1889年に貴族の令嬢と自殺してしまうのです。30才の若さでした。この事件は、「マイヤーリンクの悲劇」として知られていますが、フランツ・ヨーゼフ1世にとっては息子を失ったにとどまらず、オーストリア帝国の跡継ぎをなくすという痛恨の事件でした。

ルドルフの自殺後、皇妃エリーザベトの放浪はさらに激しくなり、もはやフランツ・ヨーゼフ1世のもとにとどまる時間はほとんどなかったようです。そのエリーザベトも、旅行先のスイスで暗殺されてしまいます。

ルドルフとエリーザベトの悲劇は、文学や映画の世界にもインスピレーションを与えたほどドラマチックなものでした。マイヤーリンクの悲劇はその後、『うたかたの恋』という小説となり映画化されましたし、エリーザベトの生涯はルキーノ・ヴィスコンティの映画やミュージカルでも見ることができます。

謹厳な夫であり父であったフランツ・ヨーゼフ1世は、文学や映画の世界では常に脇役です。しかし、これほどの不幸に見舞われたフランツ・ヨーゼフ1世は、その後も皇帝として君臨し続けるのです。

伝説となったフランツ・ヨーゼフ1世

息子のルドルフを失ったフランツ・ヨーゼフ1世が跡継ぎと定めたのが、甥のフランツ・フェルディナンドでした。フランツ・フェルディナンドは、フランツ・ヨーゼフ1世の大反対もものともせず、ボヘミアの下級貴族の娘と貴賤結婚をし対立を深めてしまいます。その彼も、1914年に妻とともにサラエボで暗殺。これは、世界大戦の勃発につながる悲劇として、現代史でもよく語られます。フランツ・フェルディナンド大公と反目していたフランツ・ヨーゼフ1世はこの事件について、「不幸にも余が支えられなかった古い秩序を、神が立て直してくださったのだ」と冷徹に語ったそうです。

こうした悲劇を乗り越えて、フランツ・ヨーゼフ1世は68年の治世をまっとうします。もはや、生きながら伝説となり「不死鳥」と称えられていた彼が亡くなったのは、1916年。86歳でした。

皇帝位はその後、甥のカールが継ぎますが、そのわずか2年後にはオーストリア帝国は崩壊。フランツ・ヨーゼフ1世は、実質的には栄光あるハプスブルク家を最後を飾る皇帝として今の人々の記憶に残っているのです。

コインの中でも最愛の妻とともに

フランツ・ヨーゼフ1世のコインには、最愛の妻エリーザベトが女神として刻まれているのをごぞんじですか。

まず、表面には皇帝らしい風貌のフランツ・ヨーゼフ1世とともに、ラテン語で彼の肩書が彫られています。その裏面には、皇妃エリーザベトをモデルにした女神が雲上に座し、皇帝のシンボルである月桂冠と、ハプスブルク家の紋章「双頭の鷲」が描かれた盾を手にしています。

実際のエリーザベトは歯並びにコンプレックスがあり、微笑を浮かべた肖像画はほとんど残っていません。しかし、「雲上の女神」として刻まれたエリーザベトの口元には、優しい微笑が漂っています。

生前は、夫婦らしい時間を過ごすことができなかったフランツ・ヨーゼフ1世とエリーザベト、コインの中では片時も離れることなく寄り添っています。動乱の時代を象徴するコインとして、また夫婦のきずなを体現したコインとしても人気を誇っています。

最後に

13世紀以来、ヨーロッパの歴史に大きな影響を与えてきたハプルブルク家。その最後の光として、抜群の存在感を放った皇帝フランツ・ヨーゼフ1世。帝国末期を象徴するかのように、動乱のヨーロッパの動静だけではなく私生活の不幸にも見舞われた皇帝でした。しかし毅然としてこの運命を受け入れ、ハプルブルク家の栄光を守ったフランツ・ヨーゼフ1世は近代史に大きな足跡を残しています。

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822752 No.7616

>>7612

The Fugu(Pufferfish) Plan, a plan to settle European Jewish refugees in Japanese-occupied Manchuria

>日本占領下の満州にヨーロッパのユダヤ人難民を定住させる計画であるフグ計画

The Fugu Plan

河豚計画

https://ja.wikipedia.org/wiki/河豚計画

河豚計画(ふぐけいかく)とは、1930年代に日本で進められた、ユダヤ難民の移住計画である。1934年に鮎川義介が提唱した計画に始まるとされ、1938年の五相会議で政府の方針として定まった。実務面では、陸軍大佐安江仙弘、海軍大佐犬塚惟重らが主導した。ヨーロッパでの迫害から逃れたユダヤ人を満洲国に招き入れ、自治区を建設する計画であったが、ユダヤ人迫害を推進するドイツのナチ党との友好を深めるにつれて形骸化し、日独伊三国軍事同盟の締結や日独ともに対外戦争を開始したことによって実現性が無くなり頓挫した。

語源

「河豚計画」の名は、1938年7月に行われた犬塚の演説に由来する。ユダヤ人の経済力や政治力を評価した犬塚は、「ユダヤ人の受け入れは日本にとって非常に有益だが、一歩間違えば破滅の引き金ともなりうる」と考えた。犬塚はこの二面性を、美味だが猛毒を持つ河豚に擬えて、「これは河豚を料理するようなものだ」と語った。

のちに、日本通として知られるアメリカ人ラビのマーヴィン・トケイヤーが同計画に関する研究書を執筆した際に、この喩えを借りて『河豚計画(The Fugu Plan)』と題したことから、「河豚計画」と通称する。ただし同書によれば、この語は当時も非公式に使われていたという。

概要

計画

河豚計画の核心はアメリカ(殊にユダヤ系アメリカ人)を説得することにあった。つまり、ヨーロッパ諸国の数千から数万のユダヤ人に対して、満洲国(あるいは上海)への移住を勧めるようアメリカを説得しようとした。その目的は、ユダヤ人の経済力の恩恵を日本が享受し、日本へも資本を投下させようとしたためである。その背景として、当時すでにユダヤ人がヨーロッパ諸国で迫害を受けるばかりか、ドイツ国内における市民権を否定され公職から追放されるなど深刻な状況下におかれていたことを挙げることができる。実際、ナチス政権下のドイツにおいては、1935年にニュルンベルク法が制定されるに至っていた。

河豚計画は、「在支有力ユダヤ人の利用により米大統領およびその側近の極東政策を帝国に有利に転換させる具体的方策について」という長い表題の付いた計画書である。その中で計画者らは豊富な選択肢を提示した。その選択肢には、ユダヤ人の移住及び投資獲得の方法に関する詳細な計画が含まれていた。1939年6月に編纂されたこの計画書は、同年7月に「ユダヤ資本導入に関する研究と分析」と改題した上で政府に提出され、承認を受けた。

当時、ユダヤ人社会は日本と比較的友好的な関係にあり、また、アメリカは、満洲国建国などで日本との外交的対立が先鋭化してきていた。そこで同計画書において提示されたのは、世界のユダヤ社会とアメリカとの双方の関心を惹く方法であった。すなわち同計画書には、

アメリカへの代表団を派遣すること

アメリカのラビを日本に招聘し、ユダヤ教と神道との類似点をラビに紹介すること、および、ユダヤ人とユダヤ教を日本人に紹介すること

などが盛り込まれていた。

同時にこの計画は、アメリカの新聞や映画業界を抱き込むことをも提案していた。計画者らは、当時これらの業界がユダヤ人に支配されていると信じていた。

しかし、実際の記述の大半は移住計画に割かれていた。例えば上海近郊の諸地域や、満洲の多くの箇所が候補として示された。同移住計画は、移民の人口が1万8千人から60万人に及ぶと見積もっていた。しかも、それぞれの想定人口規模に合わせた、学校、病院などのインフラの整備、居留地の面積に関する詳細も示されていた。計画者らの間において、これらの居留地においてユダヤ人に対し、文化・教育面での自治、完全な信教の自由を与えることが合意されていた。

日本の計画者らは、ユダヤ人に過度の自由を与えることを警戒していた一方で、ユダヤ人の好意と経済的恩恵を継続的に享受するためには、ある程度の自由が必要であろうと考えた。 計画者は、この計画を承認するよう要請した。その計画において主張されていたのは、「居留地は一見自治国のように見えるが、ユダヤ人を密かに監視下に置くために統制が必要である」ことであった。計画者は、ユダヤ人が支配権を掌握して、日本の政治経済の主流への道を進むのではないかと懸念したのである。なお、『シオン賢者の議定書(後述)』によれば、諸外国でユダヤ人が支配権の掌握を行った、とされている。

ただし、その計画における居留地への投資と移民の送致は、世界のユダヤ社会任せとされていた。

背景

1924年から、酒井勝軍などによるシオニズム支持活動があった。

元来この計画は、日本政府のうちでも少数の者、及び軍当局(彼らは満洲国に住民が定住する必要性を感じ、また同地に対する日本の産業及びインフラの構築を支援することが可能であった)の考えであった。この一派の主な顔触れは、「ユダヤ専門家」として知られる陸軍大佐安江仙弘と海軍大佐犬塚惟重の両名に加え、日産コンツェルンの総帥鮎川義介、及び関東軍のいわゆる「大陸派」(満洲進出を求めた多くの軍閥)であった。

例えば鮎川は1934年、「ドイツ系ユダヤ人五万人の満洲移住計画について」と題する論文を発表した。彼は、5万人のドイツ系ユダヤ人を満洲に受け入れ、同時にユダヤ系アメリカ資本の誘致を行うことにより、満洲の開発を促進させると共に、同地をソ連に対する防壁とする構想を立案した。関東軍の後ろ盾を得た彼は1937年、日本産業を改組して満洲重工業開発を設立。満洲への本格的進出を果たした。

満洲国にユダヤ人を呼び寄せるという彼らの構想は、ユダヤ人が多くの資金や政治権力、及びそれらを獲得する超自然的ともいうべき能力を有するという確信から来ていた。彼らは、ドイツ系ユダヤ人でアメリカ人銀行家のジェイコブ・シフの名を記憶していた。30年前、クーン・ローブ商会を率いるシフが日本政府に提示した巨額の投資があったればこそ、日本は日露戦争に勝利できたのである(戦費の約4割を、日本政府へ協力したシフが調達したといわれる)。

さらに彼らは、『シオン賢者の議定書』の記述を信じた。1897年にスイスのバーゼルで開催された、第1回シオニスト会議の秘密議事録という触れ込みで流布した同書は、「世界の政治経済の支配を目論む、国際的なユダヤ人の陰謀の存在を示す証拠」とされ、偽作の疑いがたびたび出たにも拘らず、世界中に影響を与えた。アルフレート・ローゼンベルクもその1人である。『二十世紀の神話』の著者であり、ドイツの理論的指導者として知られる彼は、1923年に同書の解説本を上梓している。

政府中枢でも、ユダヤ人の経済力や政治力、及びユダヤ人が世界中に四散したことによる国際的情報網を過大評価した者は少なくなかった。彼らは、ドイツやソビエト連邦をはじめとするヨーロッパ諸国で迫害を受けているものの、日本とは比較的友好的関係にあったユダヤ人を救出することで、日本に対する在米ユダヤ人からの確実で永続的な好意を獲得できると考えたのである。

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822752 No.7617

>>7616

ユダヤ専門家

1918年に、日本はロシア革命の鎮圧のためシベリア出兵を行い、赤軍と敵対していた白軍を援護した。10万人の兵と9億円の戦費を投入したものの、3千人の死者を出した上に目立った成果もなく、1922年に撤退を余儀なくされる。

この頃、白系ロシア人らの間では、革命はユダヤ人による陰謀であるとの疑惑が広がっていた。レーニンをはじめ、トロツキーやカーメネフ、ジノヴィエフ、スヴェルドロフら多くのユダヤ人、もしくはユダヤ系の人物が革命の主導者として名を連ねていたことが原因とみられる。白軍は『議定書』の写しを兵士に配布し、またシベリアや満洲に逃れた白系ロシア人は、行く先々で反ユダヤ主義思想を喧伝した。こうしてユダヤの情報に接した者の中に、安江と犬塚も含まれていた。

2人はシベリアで『議定書』の存在を知り、ユダヤ陰謀論の洗礼を受けた。1922年に帰還した彼らは、ユダヤ人に関する多くの報告書を書いた。安江は1924年、「包荒子」の筆名で著した『世界革命之裏面』で、『議定書』の全訳を掲載した。また1928年にイギリス委任統治領パレスチナのユダヤ人入植地を訪れ、ハイム・ヴァイツマン(ヘブライ大学創立者)、及びダヴィド・ベン=グリオン(後のイスラエル初代首相)と会談し、さらにユダヤ人入植者の勤勉さを目の当たりにするに至って、ユダヤ人の力に魅了されるようになった。

2人は外務省に対し、ユダヤ人への関心を持たせることに成功。以後、日本のあらゆる大使館及び領事館の職員は、彼らの駐在する国々のユダヤ社会の動向を外務省に伝え続けることを要求された。膨大な報告書が上げられたが、いずれも「国際的陰謀」の存在を決定的に証明しなかった。

「ユダヤ専門家」はその後、「大陸派」とある程度まで協力した。陸軍大佐板垣征四郎及び陸軍中佐石原莞爾率いる「大陸派」は、日本から開拓者や資本を満洲に誘致しようとしたが、難航した。これが、計画者の胸中に河豚計画の最初の種が蒔かれた瞬間であるとみられる。1931年、満洲事変の直前のことであった。

シモン・カスペ殺害事件

だがユダヤ専門家にとって不運なことに、1933年8月、満洲の都市ハルビンでユダヤ系ピアニストのシモン・カスペ(Simon Kaspé)の誘拐・殺害事件が発生したのである。この時の日本側の対応が、ハルビン在住のユダヤ人に不信感を抱かせた。彼はロシア系ユダヤ人で大富豪のヨゼフ・カスペ(Josef Kaspe)の息子であった。

シモンは、たまたまハルビンに帰省した際に何者かに誘拐され、同年12月、遺体で発見された。両手の生爪を剥がされ、耳を削がれた上、頭部に銃弾を撃ち込まれるという凄惨なものであった。のちに容疑者としてロシア人の警察官「マルティノフ」、反ソ活動家「シャンダリ」、反ソ思想の「キリチェンコ」、反ソ運動者「ザイエフ」、農民上がりの「コミサレンコ」と「ベズルーチコ」の六名が逮捕された[1]。ヨゼフ・カスペはゲーペーウーに活動資金を提供していると噂されており[1]、祖国愛による犯罪とされた[1]。満洲国警察庁は某方面からの注文によって全員を「情状の余地あり」と評した[1]。関東軍は、裁判で有罪の判決を下した中国人判事を逮捕した[要出典]。日本人判事による再審の結果、被告らには10年から15年の不定期刑が下されたが、翌週には特赦により[誰の?]釈放されたのである[要出典]。

1933年10月3日、反ユダヤ主義の新聞ナシ・プーチ(ロシア語版)がロシアファシスト党の機関紙として出版された。1935年に日本総領事森島守人はこのユダヤ人を中傷するこの機関紙を批難した[1]。満洲国政府の要請によって1938年2月1日に一度停止するが[2]、1941年までハルビンで出版されつづけ、その後上海に移動した。

もはや日本の軍部を信頼できなくなったハルビン在住のユダヤ人(当時既にかなりの人数が在住していた)は、事件の2年後には大半が市外に逃れた。彼らの多くは遠く上海へ逃れ、出会った者達に恐怖の体験を語った。軌道に乗ると思われた計画は、大きな壁に直面した。

反フリーメーソン

以下は、「比較的公平なる態度を以って研究しつつある一ロシア人の報告による」とされる[1]。

1928年4月5日、フリーメイソンのスンガリー(松花江)会場が設立された[1]。これは暫く存在が隠れていたが、1929年夏にロシアのファシストシンジカリスト党が、この会の存在を暴露し宣伝した[1]。ユダヤ系ロシア紙は「フリーメーソンは有害・危険なものではない」として反論した[1]。

1930年、ユーゴスラビアのベオグラード市で発行された『「メーソン」の特質と其の行動』というフリーメーソンの有害さ・危険さを強調した書籍が、輸入されてきた[1]。ユダヤ人はこれを買い占めて撲滅に至らしめたという[1]。

その後、白系ロシア人によって1931年に成立したロシアファシスト党がドイツファシストの反ユダヤ政策を真似し、反メーソンな新聞広告や公開討究会等を行うが、その他の反メーソン運動は日が経つにつれ大分下火になったという[1]。

極東ユダヤ人大会

1937年に、安江はハルビンで現地のユダヤ人指導者のアブラハム・カウフマン(Abraham Kaufman)らと会談し、「日本人は改心した」と彼らに確信させた。同年12月26日、第1回極東ユダヤ人大会がヨゼフ・カスペ所有のモデルン・ホテルで開かれた。関東軍の認可の下、3日間の予定で開催された同大会に、陸軍は「ユダヤ専門家」の安江をはじめ、当時ハルビン陸軍特務機関長を務めていた陸軍少将樋口季一郎らを派遣した。

この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるドイツの反ユダヤ政策を激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた。これを知ったドイツ外相のヨアヒム・フォン・リッベントロップは、駐日ドイツ特命全権大使を通じてすぐさま抗議したが、上司に当たる関東軍参謀長東條英機が樋口を擁護し、ドイツ側もそれ以上の強硬な態度に出なかったため、事無きを得た。

翌1938年1月、関東軍は「現下ニ於ケル対猶太ユダヤ民族施策要領」を策定し、世界各地のユダヤ民族を「八紘一宇の我が大精神に抱擁統合する」という大目標を定めた。またハルビンでは、ユダヤ人自治区を建設する構想について議論するため、第2回、第3回極東ユダヤ人大会が開催された。

・・・・(以下省略)

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822752 No.7618

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>>7616

>犬塚惟重

Koreshize Inuzuka

犬塚惟重

https://ja.wikipedia.org/wiki/犬塚惟重

犬塚 惟重(いぬづか これしげ、1890年7月11日 - 1965年2月19日)は、日本の海軍軍人、ユダヤ研究家。最終階級は海軍大佐。筆名は宇都宮 希洋(うつのみや きよう)。

陸軍の安江仙弘と共に日本軍のユダヤ人問題専門家であった。

…(中略)

フリーメイソンとの係わり

1939年(昭和14年)夏、犬塚機関が上海のフリーメイソンリーの拠点三ヶ所を強制捜査し、祭祀用具、進級問答集など大量の貴重品を押収した。押収物は「極秘軍令品」として1942年(昭和17年)春に、上海から東京に運ばれた。押収物は新明きよ子が直接運び、自宅の庭に隠していた。戦後、GHQ(そもそも連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーからして高位階級のフリーメイソンである)は押収物を回収すべくその行方を捜したが、当時、新明きよ子は犬塚と正式には入籍しておらず、犬塚の妻であることを知られていなかったので、その追及を免れることができた。犬塚の死後、未亡人となった犬塚きよ子が、それらの「上海フリーメイソン文書」を公開し、ソ連・支那のメイソンが大東社系である事、当時の中国国民党内部に支那人のメイソンが多数居た事や、彼らがフリーメイソンリーを介してアメリカ・イギリスの意向を汲む行動を取っていた事などが、明らかとなった

…(中略)

1952年(昭和27年)、会長に犬塚惟重、副会長に三浦関造(日本神智学の祖)、名誉会長に三浦の友人である下中弥三郎(啓明会の創立者)、理事に中里義美(戦前の神代史派の拠点「神日本」の主催者)、顧問に山本英輔、佐伯好郎(景教渡来説・日猶同祖論を提唱)、仲木貞一、小笠原孝次、山根キクら偽史関係者、が集う日猶懇話会が発足した。

1982年(昭和57年)、イスラエルのヤド・ヴァシェムで、犬塚の遺品が永久展示されることになった。

英語版

Koreshige Inuzuka

https://en.wikipedia.org/wiki/Koreshige_Inuzuka

….(中略)

第一次世界大戦

第一次世界大戦中、犬塚は日英同盟の下、連合国の戦争努力に対する日本の貢献の一環としてマルタ島に派遣された日本遠征軍とともに地中海に駐留していた。戦後は、シベリア出兵中にウラジオストク沖に駐留し、ボルシェビキ赤軍に対抗する白系ロシア軍を支援した。そこで犬塚は、ユダヤ人による世界的な陰謀を詳述した強力な反ユダヤ主義文書である『シオン賢者の議定書』を初めて耳にし、読んだ。この文書は、白軍の指導者 であったロシアの将軍グレゴリー・セミョーノフによって偽造され配布された。

1922年、日本に帰国後、犬塚は『議定書』を信じる同調的な士官たちのグループを集め始めた。このいわゆる「ユダヤ専門家」のグループは、その後数年間で徐々に規模を拡大し、発言も活発になっていった。このグループは、ユダヤ人の陰謀に関する自分たちの考えを詳述した多くの文書を出版したが、その中には既知のユダヤ人のリストや、安江が書いた『議定書』の日本語訳も含まれていた。フランス駐在武官を務めた後、犬塚は戦艦富士と巡洋艦球磨に勤務した。

ユダヤ人の専門家として

1930 年代に中国との戦争が近づくと、犬塚は満州支配が日本の生存に不可欠であると信じていた軍人らから成る「満州派」を支持するようになった。1934年 11 月から上海に駐在していた犬塚は、ユダヤ人を誘って満州国に定住させ、インフラ整備を手伝わせるというアイデアを思いついた。彼らは工学の知識と創造力をもたらすだけでなく、満州国に住むユダヤ人は米国やその他の西側諸国から日本への好意をもたらすだろう。犬塚は、ユダヤ人が世界市場を支配していると考えていたため、ユダヤ人の好意を得ることは極めて重要だと考えていた。

1938年の五大臣会議により、犬塚とその同僚らは上海にユダヤ人入植地を設立する正式な許可を得た。

1939年、犬塚は外務省の安江大佐、石黒四郎とともに、日本が上海近郊にユダヤ人自治区を設立し、ナチスドイツから逃れてきたユダヤ人難民に安全な居住地を提供し、彼らが望むように暮らすための政治的、経済的自治権を与えることを勧告した。その年の上司への報告書で、犬塚はユダヤ人をフグに例えた。フグは、正しく調理しないと致命的になることがある有名な有毒魚である。そのため、ユダヤ人に関する犬塚の計画はフグ計画として知られるようになった。

英語、ロシア語、フランス語に堪能な犬塚は、数え切れないほどの学校やシナゴーグを訪問し、ユダヤ人問題について話し合い、ユダヤ人コミュニティや組織に援助や支援を求めた。犬塚は、ユダヤ人と日本人の共同事業である太平洋貿易会社の設立に協力し、東アジアの宗教界や金融界のトップユダヤ人指導者の多くと会った。

その後数年間、犬塚はフグ計画のほぼすべての側面で中心的な役割を担った。安江や数人とともに、入植地の選択と設置、ユダヤ人の入植地への移送、ユダヤ人コミュニティのリーダーとの交渉による経済的・精神的支援の獲得など、あらゆることを調整し、もちろん日本政府と軍から与えられた範囲内で活動した。しかし、1942年までに計画は崩壊した。日本の同盟国であるナチスドイツは、ユダヤ人への日本の援助を容認せず、ソ連を経由してユダヤ人を輸送する日本の試みは、ドイツがロシア侵攻を開始した際に中止された。

1941年、ナチス支配下のヨーロッパからユダヤ人難民を救出した犬塚の功績が認められ、アメリカ正統派ラビ連合から銀のシガレットケースを贈られた。ケースの内側には、ユダヤ人への犬塚の貢献に感謝する碑文が刻まれていた。1943年、彼は海軍によってフィリピンに移送されたが、戦後、シガレットケースのおかげで戦争犯罪人として裁かれることを免れた。ケースは後にエルサレムのホロコースト記念館ヤド・ヴァシェムに寄贈された。

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822752 No.7619

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>>7616

>鮎川義介

Yoshisuke Aikawa

鮎川義介

https://ja.wikipedia.org/wiki/鮎川義介

鮎川 義介(あゆかわ よしすけ/あいかわ よしすけ[1][2][3][4]、 1880年(明治13年)11月6日 – 1967年(昭和42年)2月13日)は、日本の実業家、政治家。日産コンツェルン創始者[5]である。満洲重工業開発株式会社総裁、貴族院議員、帝国石油株式会社社長、石油資源開発株式会社社長[1][2][3][4]、参議院議員などを歴任した。

…(中略)

1926年(大正15年)、株式会社木津川製作所・帝国鋳物株式会社(福岡県若松市(現・北九州市若松区))を吸収合併。合併後東洋一のロール工場と言われる。

1928年(昭和3年)、義弟・久原房之助の経営する久原鉱業の社長に就任し、同社を日本産業(日産)と改称。久原鉱業は、当時は、第一次世界大戦後の恐慌と久原の政界入りで経営破綻に瀕していた。立憲政友会の田中義一(元陸軍大将)らの再建の懇請に鮎川は渋々応じた。会社を持株会社に変更し、公開持株会社として傘下に、日産自動車・日本鉱業(同年12月、日本産業株式会社に社名変更)・日立製作所・日産化学・日本油脂・日本冷蔵・日本炭鉱・日産火災・日産生命など多数の企業を収め、日産コンツェルンを形成

1929年(昭和4年) 戸畑鋳物東京製作所(深川)を新設し、自動車用マレブル鋳鉄製造開始。同年4月24日、日本産業の鉱業部門が分離独立、日本鉱業株式会社を設立。

1933年(昭和8年)、自動車工業株式会社(現在のいすゞ自動車)よりダットサンの製造権を無償で譲り受け、同年12月ダットサンの製造のために自動車製造株式会社を設立する[注釈 3]。

1934年(昭和9年)、安来製鋼所を吸収合併。

…(中略)

満洲国へ

1934年(昭和9年)、自動車製造株式会社を日産自動車株式会社と改称。同年『ドイツ系ユダヤ人五万人の満洲移住計画について』と題する論文を発表。5万人のドイツ系ユダヤ人を満洲国に受け入れ、同時にユダヤ系アメリカ資本の誘致を行うことにより、満洲の開発を促進させると共に、同地を仮想敵国であるソビエト連邦(ソ連)に対する防壁とする構想(満蒙問題、反共主義#南京事件から広田三原則まで、防共協定も参照)を、ユダヤ専門家として知られる陸軍大佐・安江仙弘[注釈 4]、海軍大佐・犬塚惟重、関東軍のいわゆる「大陸派」(満洲進出を求めた多くの軍閥)に立案した(のち河豚計画へと展開する)。これにより、関東軍の後ろ盾を得る。南満洲鉄道(満鉄)の理事だった松岡洋右[注釈 5] ものちに河豚計画に参加。

1935年(昭和10年)、戸畑鋳物を国産工業株式会社に社名変更[6](事業活動の拡大に社名が相応しくなくなったため)。同年、東京市民に憩の場を提供する目的で伊豆大島に私財を投じて公園を設立(後に東京都が買い上げて都立大島公園となる)。

1937年(昭和12年)、野口遵、森矗昶など当時の「財界新人三羽烏」の一人として[8]、満洲国の経済運営で巨大な満鉄が影響力を持つことを嫌った関東軍の求めに応じ、日本産業を満洲国に移し、満洲重工業開発株式会社(満業)として初代総裁・相談役に就任。同時に満洲国顧問・貴族院勅選議員・内閣顧問を兼務した。当時の満洲国の軍・官・財界の実力者「弐キ参スケ」の1人とされた。弐キ参スケとは東條英機(関東軍参謀長)・星野直樹(国務院総務長官)、鮎川義介、岸信介(総務庁次長)、松岡洋右(満鉄総裁)である。鮎川・岸・松岡の3人は「満洲三角同盟」とも称された。

同年、国産工業、株式会社日立製作所との対等合併。鮎川が満業立ち上げのため、 以前から関係のあった日立製作所の小平浪平に国産工業株式会社の経営を頼んだ[9]。

1939年(昭和14年)頃には白洲次郎らと世界情勢を語り合い、ドイツと英仏間の戦争は、英仏の勝利との結論を得る。関東軍との関係悪化から日産グループの満洲撤退を検討。1942年(昭和17年)頃に満業の総裁を辞任して副総裁の高碕達之助に交代。1943年(昭和18年)11月17日に藤原銀次郎が東條内閣に入閣すると、五島慶太・鈴木貞一らと内閣顧問に就任。

英語版

https://en.wikipedia.org/wiki/Yoshisuke_Aikawa

鮎川義介(あゆかわ よしすけ、1880年11月6日- 1967年2月13日)は、日本の起業家、実業家、政治家であり、第二次世界大戦当時の日本で最も強力な企業グループの一つであった日産 財閥(1931年 - 1945年)の創設者および初代社長として有名である。

経歴

相川は現在の山口県山口市に生まれた。母は明治時代の 元老 井上馨の姪であった。 1903年に東京帝国大学工学部を卒業し、東芝の前身である芝浦製作所に就職した。[1]

給料は非常に低かったが、相川はアメリカに渡るのに十分なお金を貯め、そこで可鍛鋳鉄の技術を学んだ。帰国後、井上馨や旧長州藩の国会議員らの支援を得て、1909年に北九州に戸畑鋳物工場を設立した。この会社は現在、日立金属株式会社として知られている。

1928年、鮎川は義兄の久原房之助から事業を引き継ぎ、久原鉱業(現日本鉱業)の社長に就任し、日本産業、略して日産という持株会社を設立した。久原は政界に進み、後の首相となる田中義一やその他政軍指導者とのつながりを築き、鮎川はこれを後に有利に利用した。[2]

1931年の満州事変後の株式市場ブームで、鮎川は日産の子会社132社の株式の過半数を取得し、新たな財閥である日産グループ(日産コンツェルン)を設立した。日産グループには、日産自動車、いすゞ、日本電気、新日鉱ホールディングス、日産化学、日立製作所、ニチユ、ニチレイ、日産海上保険、日産生命保険などが含まれていた。グループには、当時日本で技術的に最も進歩した企業がいくつか含まれていた。[2]

1937年、親戚の岸信介の招きで満州国に渡り、関東軍の構想する労働組合経済と満州国の中央集権的な産業開発計画に賛同。また日産本社を満州国に移し、新たな満州財閥である満州工業開発会社の中核とした。

鮎川は社長兼会長の地位において満州国におけるすべての産業活動を指導し、1930年代には陸軍の思想家であった星野直樹の経済・産業ビジョンに沿った2つの5カ年計画を実施した。しかし、鮎川は星野の当初の構想とは違い、より独占的なアプローチを好んだ。彼は、満州国の経済状態はまだ自由市場資本主義を許容するには未発達すぎると主張した。[3]鮎川はまた、満州国経済を支援するためにアメリカの鉄鋼業界から銀行融資を受けたが、これはアメリカの不承認政策によってかなりの論争を巻き起こした。

しかし、彼の経済観は日本帝国陸軍の政策と一致していたが、政治的見解はそうではなかった。鮎川は三国同盟に強く反対し、全面戦争が勃発すればイギリスとフランスの軍隊が最終的にナチスドイツに勝利すると予測していた。彼は、ユダヤ人難民を満州に定住させる計画であるフグ計画を支持した。1942年、関東軍の扇動により、鮎川は満州工業開発会社の会長を辞任し、日本に戻った。[4]

日本の降伏後、鮎川はアメリカ占領当局に逮捕され、 A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに20ヶ月間収監された。裁判が始まる前に釈放されたが、この間に日産財閥は解体された

釈放後、鮎川は日本の戦後経済復興に重要な役割を果たし、中小企業への融資を組織するために商業銀行を買収した。彼は帝国石油と石油資源開発の社長を務め、1953年に日本の国会の参議院議員に選出された。当時の首相であった岸信介の支援を得て、彼は1960年代に中小企業の主要な連合体となった圧力団体である中政連のリーダーとして経済統制法と政策を実施するという目標を達成した。

鮎川は1967年に急性胆嚢炎で亡くなった。彼の墓は東京郊外の 多磨霊園にある。

訂正

相川

鮎川

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